※ 違和感注意
―――また一人、私はこうやって見ているのか。
霧がかった川辺に立ち往生しながらも、紅い髪をツインテールに編んだ、紺の着物を着込んだ死神は、目の前の幽霊をじっと見つめていた。
死神に見つめられている幽霊は気にせず、川辺にしゃがみ込み、地面に転がるいくつもの小さな石ころを唯黙々と積んでいた。
薄く透明なその霊は、弱々しくも形を保っている。
何を想って死んだのか。
何を残して亡くなったのか。
何が耐えられなくて、死んだ今でも馬鹿げた行為を繰り返しているのか。
「……ああ、馬鹿げてるよ。ホントに」
死神は愚痴をこぼすように口にするが、止めようとはしなかった。
死神の仕事は、霊を“こっち側〟から“あちら側〟へ運ぶ船頭だった。
仕事の内容はあくまで送る事だけ。
送る前にする愚行を止めるという事は、仕事に入っていない。
何よりも―――止めた所で意味がない。
所詮、目の前にいる霊は死神にとって他人なのだ。
どこぞの誰かが死んだからといって、それを可哀想と思う心はあっても、踏み込む程の勇気は持ち合わせていない。
そう、死神には、勇気がなかった。
他者の想いを踏みにじっても手を差し伸べる勇気が。
それが、結果的に悲しい事になるとわかっているのに。
その想いが、結局は遺憾を残し、その霊の悲しみや憎悪が増すだけだとわかっているのに。
決して、手を差し伸べる事は出来なかった。
それはずっと変わらない。不可侵の行い。
せめて、ならば自分はその行く末を見取ってやろうじゃないかと決断した苦渋の判断。
死神―――小野塚小町は、そうやって何人もの悲しみを、憎悪を見てきた。
―――けれど。
「……今日は寝ていないと思ったら、貴方は何をしているのですか」
そんな、必死に蓋をするように決めた決断を嘲笑うかのように。
「……四季様」
「全く、寝ても起きていても仕事をしないでは、いつ貴方は仕事をするのですか」
この世の全てを、白か黒かで決める審判者が小町の後ろにいた。
―――何で、今来るんだ
小町にとって、自分の上司である四季映姫が今ここに来る事は、一番嫌な事だった。
今、自分がどんな顔をしているか。
それを理解していたが為に。
だから、説教をしようとし始めた口が堅く閉じるのも。
怒ったような表情から、怪訝な表情に変わるのも予想出来ていた。
そして、次に出る言葉もだ。
「小町、貴方―――」
「あ、あははは! すいません! すぐに仕事に戻りますから!」
誤魔化すように必死に笑って、肩に背負っていた大きな鎌をぶんっと振るって見せて、小町は足早にそこから動こうとした。
「待ちなさい、小町」
映姫の横を通り過ぎ、川辺に着けている船までほんの十歩と言った所で、案の定呼び止められる。
―――ああ、誤魔化せないか。やっぱり
心の中でそう思いながらも、映姫に背を向けたまま一度目を閉ざし、軽く息を吐いた。
「……なんですか?」
「………小町は、この仕事が嫌い?」
振り返り、映姫に顔を向けた小町であったが、映姫は小町に背を向けたままであった。
「どうして、そう思うんですかね? あたいは―――」
「いつも、こうやって見ていたの?」
映姫が向ける視線の先には、先ほどまで小町が見ていた子供の霊が未だ、飽きずに石を積んでいた。
「行いを止める事は、仕事の内容に入ってませんからね。あたいは、あくまで運ぶ事が仕事ですから」
「……そう」
屁理屈のような正論を映姫に軽く小町は言うが、映姫の表情は見えず一体どう思っているのかわからなかった。
先ほどの自分を見るように、映姫も子供の霊を見ていたが。
「………」
霊に歩み寄った。それが正しいと、まるで小町に見せるように。
「汝、その行いが善行と思えますか?」
響く声は、優しかった。
子供の霊と同じようにしゃがみ、映姫は霊に問う。
「その行いが亡き家族に、亡き友人に届くと思いますか?」
霊にとっては、不意を突かれた問いであった事だろう。
一心不乱に石を積み上げていたのに、横からそれが届くのか? と聞かれたのだ。
小町は、その様子を黙って見ていた。
「――――」
子供の霊は、ぼそぼそと何かを喋っていた。
小町の位置からは、それは聞き取れない。けれど、何となく言っている事は予想出来た。
「……ならば、立ち上がりなさい。霊となり、遺憾を残す事を友人が、家族が願う事は決してないのだから」
映姫は、その言葉に応えるように子供の霊に手を差し伸べた。
それは、子供の霊にとってどう映った事か。
差し伸べられた手を、子供の霊はじっと見つめるように見ていたが。
「―――」
何かを口にして、もう一度映姫に聞いた。
「大丈夫。貴方ならきっと、来世で家族に会えましょう」
表情は見えない。
けれど、きっと微笑んでいると。
小町は思った。それ程までにその言葉には“優しさ〟しかなかった。
映姫の言葉に後押しされたのか、子供の霊はゆっくりとであったが、差し伸ばされた手を握り返し、地面から立ち上がる。
「小町、ここからは貴方の仕事です」
立ち上がったのを見た映姫は、再び声に威厳を戻し、小町に向けて顔を向ける。
そこには冷徹な、絶対者の顔しかない。
「私と一緒にこの子を送りなさい」
一瞬返事すら返せない程、それは劇的な変わり方であった。
しかし、小町にとって。
「……は、はい!」
見せられた勇気は計り知れなく、閻魔としての四季映姫の優しさに、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
それが、きっかけ。
小野塚小町が、四季映姫を上司や閻魔以上に見る事になった唯一無二の気持ち。
しかし、小町は知らない。
それが、自分だけが描いた気持ちではない事を。
※
幻想郷の四季は、異変でも起こらない限りはちゃんとした時期に季節特徴の顔を見せる。
春には桜が散りばめられ、夏には輝かしい太陽が覗かせ、秋には紅葉が山を染め、冬には寒々しい程の雪が広がる。
「……全く、こうも熱いと霊でさえ干上がりそうだね」
そんな季節の変わりを味わえる幻想郷の人里の中、小町は愚痴るようにして茶屋のテーブルに突っ伏していた。
季節は太陽が輝く夏。いつぞやの霊と映姫を一緒に彼岸に運んでから既に数百年経つ。
あれからというもの、小町はくすぶった気持ちを胸に抱えながらも、変わろうとはしなかった。
他人が行う事に口出しはするが自分から動く事はない。
マイペースを気取り、他者が何を思おうと動く気はなかった。
「………はぁ」
人里の茶屋でサボっているものの、いつもの明るい死神の印象はそこにはない。
原因は、とある夏の異変の締め括りにデジャヴを見せられたから。
サボりのついでに、人の気質によって天候に変化が現れていた異変を追いに追って、天上の連中にまで喧嘩を売って意気高揚とした直後にあった事だけに、気持ちは久方ぶりに大きく沈んでいた。
テーブルに顔を突っ伏し、グルグルと人指し指を回す程だ。
―――私は、結局変わってないのかねぇ?
自分に投げかける疑問に苦笑してしまう。
数刻前に起きた出来事で進歩なしと下してこうやってサボっているのに、何を今更と笑ってしまった。
あの時と全く同じ現象、子供の霊が石を積み、亡き他の者を想って嘆く愚行。
それは悲しい行為だと、わかっているのに。
数百年前に見せた勇気を、知っている筈なのに。
小町は歩み寄れなかった。
そしてすがってしまったのだ。
またあの人が来てくれると。
じっと見ていれば、いつぞやの時のように颯爽とそれはいけない事だと私の説教をかねて来てくれると。
けれど、数刻待っても、映姫は来なかった。
「……あぁ、もう。ホントに熱いね!」
苛立ち混ざりに突っ伏してた顔を起こし、そのまま座っていた席から立ち上がって荒々しく茶屋から出て行く。
勘定はテーブルに置いてある。最早常連の一人となっているせいか、出て行く私にまたのお越しをと投げ返すちょっと若そうな女性の店員がいるぐらいだ。
流石に鎌を持ち歩くわけにはいかなかったが。今映姫に見つかるようなものなら、抗えもせずに地に沈み、引きずられながらくどくどと説教される事だろう。
カン、カンと赤い下駄を鳴らしながら歩く小町は、人里の人間達に紛れながら、人波に沿うように目的もなく歩き始めていた。
人里は、熱い夏に負けてなるものかと吼えているかの如く、活発に賑やかな空間を作り出している。
冬になれば今賑やかになっている通りなど、人が一人か二人歩いていればいいぐらいの寂しい場所になる。
それを知っている為か、小町は熱いと思いながらも、茶屋で叩きつけるように出した苛立ちを表の通りでは微塵も見せない。
だからだろう。
「おや、死神の」
人波に流れていた小町に、無遠慮に声を掛ける者がいた。
「ん?」
振り返って見れば、五歩程先に寺のような蒼い帽子を被り、それに合わせるように蒼色の服で整えた女性が見えた。
「ああ、あんたか」
小町は顔見知りに会うように、薄く陽気に笑って人の波から出てその女性に歩み寄った。
「またサボりか? 小町殿」
女性―――上白沢慧音はじと目でこちらを睨むようにしながら歩み寄る小町を見る。
買い物帰りだろうか。手に袋を持ち、いつも周りにいる子供が今日は一人もいない。
「あはは。まぁ、そんな所だよ。ワーハクタク」
「……はぁ、全く。映姫殿に見つかれば大変な事になるぞ?」
慧音は小町のサボり癖を悪いとは言わなかった。
それも大きなインパクトがあったからなのだが。以前人里の往来で慧音と談笑をしてる最中に、問答無用で映姫の弾幕が降って来た事件があった。
傍から見ればそれは悪鬼の如く映った事だろう。
それからというもの、慧音はサボりをどうのこうの言う前に、映姫殿にこんな所を見つかったら大変な事になるぞ? と言葉を変えている。
「見つかったらその時はその時さ。そんな事より、買い物の帰りかい?」
「ん? ああ、夜中に妹紅と酒でも飲もうかという話をしていてな。つまみを買って帰る途中だったのだが、人波に目立つ貴方を見つけてしまってつい声をかけてしまった」
苦笑するようにしてそう話す慧音は、人の波とは別に、家と家の間にある路地の方へと歩いていく。
「目立つのか? あたい」
横に並ぶようにして小町は慧音の横を歩き始める。
元々どこどこに行くという目的がなかった為か、このまま慧音に付いて行って時間を潰すのもいいだろうと思った。
「ああ、目立つよ。紅いツインテールの髪なんて早々いないし、女性なのに背丈が高いしな。小町殿は」
カランカランと下駄を鳴らしながら歩く小町に、慧音はそう指摘した。
「……あたいとしては、ワーハクタク。アンタの方が目立つと思うんだがね」
「? どうしてだ?」
「どうしてだって、アンタは里の顔だろう。大抵の奴が顔を知っているし、何よりアンタは―――」
その先を言おうとして、小町はハタと、口を閉ざす。
「? アンタは、何だ?」
「………いや、言うのは野暮だ。よしておこう」
ニコっとそう言って笑う小町。
「……? 言いかけて言わないのは気になるのだが……」
「特に気にする事でもないさ」
そう、特に気にする事でもない。
小町が言いかけたのは、慧音の容姿である。
誰が見ても美人だと言うであろう。人里に住まう男性からは高嶺の花と思われている程にだ。
手を伸ばせない理由は慧音の知人に関係するのだが。
いつの間にか自警団の真似事をし始め、孤高に居続ける白子の赤眼が傍にいれば、誰も安易にプロポーズ等しない事だろう。
本人は自覚してないみたいだが、自覚した所で面白くは無い。
故に小町は口を閉ざした。
「……むぅ」
慧音は納得してないような表情をしたが、一度言わないと言ったら、決して小町の口から聞く事はない。
それからと言うもの、談笑しながら歩いていたら、直ぐに慧音の家、寺子屋へと着いた。
「む、もう着いてしまったか」
「そうみたいだね」
時間はそんなに経ってはいない。夕刻になるにはまだまだ先だ。
熱い陽射しは容赦なく降り注ぎ、歩いている最中でも頬に汗が流れ出る程だった。
「……どうだろう。小町殿が良いのであれば、上がって話をしたいのだが。今年の異変の話は聞いてはいるが、人里に影響がなかったせいか、何も聞かされてなくてな」
談笑していた内容が今年密かに起こっていた異変だったせいだろう。丁度話が良い所に入る所で着いてしまったせいか、慧音はまだ聞きたそうであった。
「別に構わないが、いいのかい? 夜にはアイツが来るんだろう?」
先ほどの話で夜中に妹紅が来るのがわかっている小町は、そう言ってとりあえず遠慮する言葉を提示するが。
「なに、そこまで話し込む事でもない。私としては、事件の結末だけわかればいいさ」
慧音が引かないのは予想していた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて少しお邪魔させてもらおうかね」
時間を潰せる場所が出来たと内心ほくそ笑みながら、小町は寺子屋の敷居を跨いだ。
※
「……そうか、博麗神社が潰れたと聞いてはいたが、そんな事が起きていたのか」
寺子屋の縁側にて、数刻程の談笑を交わし、予め冷やして用意しておいた麦茶と団子で労った小町の口から事件の大まかな内容を聞いて慧音は納得したかのように、満足そうな顔をしていた。
「天上の奴と相対した時は肝が冷えたけどね。“迎え〟の仕事をしている死神連中でも歯が立たない奴とぶつかる事なんて初めてだったから」
思い出すようにして話す小町であったが、あからさまに手を抜かれて逃げられたせいか、実際の所そこまで肝が冷えたわけでもなかった。
まともに戦えばどちらかが命を落としていたかもしれないが、あっちも道楽でこっちも道楽だった故か、引き分けと丁度いい締めくくりとなったのである。
……直後に仕事場に戻ってみれば心が沈む出来事があったのだが、そこまでここで思い出して落ち込む程、小町は馬鹿ではない。
「ふむ……ありがとう小町殿、おかげで皆の心配もこれで拭えそうだ」
慧音はそう言って小町に一礼した。
最近の異常気象を人里の人間達は不安に思っていたのかもしれない。博麗神社のような大地震がなかったにせよ、あの天上の者は、幻想郷全土から気質の異変を招いていたのだ。
それがようやく終わりが見えたと言うのならば、成る程、確かに不安は消えそうだ。
「そんな礼を言われる程の事じゃないさ。結局、異変を解決したのはいつも通り博麗の巫女で、私は遊び気分で他の連中にちょっかいをかけただけだしね」
とばっちりを一番に受けたのも今回は博麗の巫女であったが。
「……時に、小町殿」
「ん? なんだい?」
出された麦茶を飲みながら、小町は、真剣な表情に変わった慧音の表情の変化についていけなかった。
「何処か、落ち込んでいたみたいだが、それと事件は関係ないのか?」
だから、そんな事を聞かれるのはあまりにも不意打ちだった。
「ぶほっ!? ごほっ! ごほっ!」
含んでいた麦茶をむせるようにして吐き出し、放物線を描くように縁側から茶色い液体が小町の口から地面へと流れ落ちていった。
「だ、大丈夫か?」
むせる小町の背中を手でさすろうと、慧音は腕を伸ばすが、むせながらも拒むようにして小町は首を横に振った。
「ゴホッ……だ、大丈夫だから。……それより、何で私が落ち込んでるって思ったのさ?」
涙目になっている顔を腕で乱暴に拭い、小町は慧音の顔を見つめる。
「いや、確証はなかったのだが……その驚きようだと当たっていたみたいだな」
「………」
カマをかけられたのだと分かり、参ったなと、頭を掻きながらも小町は苦笑した。
「何か、映姫殿とあったのか?」
「……いんや、四季様とはいつも通り。サボっては怒られてるよ」
何で落ち込んでいるかまではわからないだろう。小町はいつものように笑ってみせるが。
「……なぁ、ワーハクタク。話のついでに、一つ聞いていいかい?」
「? 何だ?」
真剣な表情をしたまま、慧音は小町を見つめていた。
「……どうすれば、あたいは変われるかね?」
相談する気はなかったが、そう切り出してしまえばもう止められない。
夕暮れに変わろうとする幻想郷の下で、小町はポツポツと、慧音に語り始めた。
デジャヴのように起こった、子供の霊の話を。
※
「全く、何処に行ったのでしょうか。小町は」
呟くように言う映姫の顔は、怒っている表情をしてはいなかった。
小町からの送霊が来ない事に不審を抱いてはいたが、三途の河の方に行っても姿は見えなく、代わりにいた子供の霊を見て息が詰まる思いをした。
それは、まるであの日を思い出すようであった。
「………はぁ」
地面へと顔を向け、息を吐くものの、日が徐々に落ち始めている夕暮れの中、映姫の方に顔を向ける者等いない。
川辺にいないなら人里であろうと飛んできたものの、暗い夜へと変わろうとしている人里は、徐々に人の気配が通りから消えつつある。
「小町……」
名前を呼んでも、小町の姿は何処にも見当たりはしない。
川辺で見た子供の霊に、小町はまたも、手を差し伸べなかったのは理解出来た。
数百年前、それを助けるように自分が手を差し伸べたというのに。
小町が何故あんなに仕事をサボるのか、疑問に思ったのはあの出来事があってからだ。
それまでは自分のペースで仕事をしたいという言葉を真に受け、その都度叱っていたが、私の下に小町を派遣させた他の閻魔へと事情を聞いて見たら胸が苦しくなった。
小町は、本来なら上級の死神として仕事をしていてもおかしくない能力を持ち合わせている。
死神の仕事には様々な物があるが、少なくとも、“迎え〟の仕事は簡単にこなせるはずなのだ。
なのに“送り〟の仕事に派遣された理由は、前の閻魔の思惑もあったのだろう。
臆病さを、克服してほしいという願いを込めて送りの仕事に就かせたという思惑が。
「……」
小町は傍目から見れば、明るい陽気な死神として皆に見られている事だろう。
サボりやすいと言われているが、ノルマとして最低限決められた霊を運ぶ人数も問題なく運んでいる。
しかし、その霊を運ぶ者はどれも、地獄行きの者が多い。
この世に天国等はないが、輪廻の輪へと再び魂が入るには生前の生き方に起因する。
簡単に言えば、善行を積んでいるか、悪行を積んでいるかの違いだ。
善行を積めば地獄に行かずに済む。
映姫が口やかましく、未だ生きている者達に善行を積めと説教をしている理由はそこからきているのだが。
だが、霊になった状態でも、してはならぬ事があるのだ。
遺憾を残す行い。生前の願いや祈りは崇高な、神聖なる者として見えたとしても、死んでしまった後にそれをする事は、完全なタブーであった。
誰かを想い祈る事は、自分自身の心を慰める行いでしかない為に。
それを小町も理解している筈なのに、彼女はそれを黙認し続けている。
小町は、優しすぎるのだ。
それはしてはいけない。間違っているとわかっているのに。
その願いが、祈りが死んだ後では届かないと知っているのに、踏み込めない。
尊き想いを踏みにじれないと。
そんな臆病な死神をほおっておけなくて、今も自分の手で小町との関係を繋ぎとめている。
一通り、街中を探してみたが小町の姿は何処にも見当たらなかった。
「……本当に、何処に行ったのよ」
苛立ちが混じる。
仕事をサボった事を叱るのもそうだが、それ以上に、映姫は言わねばならない事があった。
けれど肝心の本人がいない事には話しようがなく、足が棒になるぐらい歩いた疲労に止まってしまう。
―――戻るべきか?
もしかしたら戻っている可能性もある。
どちらにしても、夕暮れから夜へと変わろうとしているこんな人里の中では探しようがないだろう。
せめて、日が昇ってから探し直すべきだ。
そう思い、止めた足を返し、戻ろうと振り返るが。
「……む」
路地裏へと入っていく者を見て、目を細めた。
銀の髪に赤眼の白子。
藤原妹紅。輪廻の輪を外れた大罪人。
このまま戻ろうと思ったが、見てしまったからには一言注意をしておかねばなるまいと、足を妹紅が消えた路地裏の方へと運んでいく。
輪から外れた者をどうしようと管轄外であったが、善行を積み続ける事は出来る。
以前、というか幾度となく注意をしてはいるが、前に注意をした時は、未だ月の姫君との衝突を繰り返していた。
彼女が何故月の姫と殺し合いをしているかは鏡によってわかってはいたが、それでも言わねば気がすまなかった。
早足で追いかけ、路地裏の方へと回り、歩いている割には足が速いと思いながらも妹紅を追いかけた。
やがて、とある一軒家に姿を消したのを見て足を止める。
「……ここは」
妹紅が入っていった家を見てそこが寺子屋である事に気づいた。
※
「……ふむ」
夕暮れから既に日は傾き、月が出始めていたが、小町から話を聞き終えた慧音は押し黙っていたままであった。
「さて、それじゃあアイツが来る前に私はお暇するかね」
話して少しは気が楽になったのか、小町は軽く伸びをして立ち上がる。
「話を聞いてくれてありがとう。ワーハクタク」
「……小町殿、貴方は……」
慧音は、揺らいだ瞳のまま小町を見るも、何かを言いかけ。
「……いや、何でもない」
口を閉ざした。小町もその姿に苦笑したが、何も言わなかった。
言われた所で、変えられるものでもない。
慧音はそれを聞いて理解したのであろう。結局は、自分自身の問題なのだ。
慧音も立ち上がり、小町を見送ろうと玄関の方へと歩いていく。
「慧音ーーー」
と、玄関の方から声がして、小町はありゃと、後ろを歩く慧音の方に振り返る。
「どうやら、本当に長く居過ぎたみたいだね」
「……そうみたいだな」
そのまま玄関に歩いて行き、小町は妹紅の姿を確認し。
「……え?」
「ん? 何で死神がいるんだ?」
「妹紅、それを言ったらお前………何で映姫殿といるんだ?」
妹紅の横に、静かに立っている映姫の姿を見て後ずさった。
「さっきここに入るところを見られてね……慧音と一緒に酒を飲む話をしてたんだけど」
「……し、四季様」
「こんな所にいたんですね。小町」
映姫の顔を見るも、ニコリと笑っていて逆に見るんじゃなかったと後悔する。
すぐに逃げられないものかと退路を確認するも、いつ弾幕が巻き起こってもおかしくないこの状況では逃げれるかどうかも怪しいものであった。
「全く、人里を何度も巡る事になりましたよ」
一歩、そう言って踏み込んできた映姫に反応するように、脱皮の如く横へ跳躍するようにして走る。
普通の人間ならば、姿が消えたように見えただろう。
だが、相手は人間じゃない。
「待ちなさい」
ガシっと着物の襟首を捕まれる感触と同時に、足を払われるようにして蹴られる。
「キャンッ!?」
ドタンッと木造りの廊下に腰をしたたかに打ちつけ、痛みに声を上げるも。
「私を見て逃げるということは、自分がした事を理解していますね?」
凄みのある声と重圧に、首筋から嫌な汗が吹き出た。
上を見れば、未だにニコリと笑う映姫の顔があり、それが余計に怖い。
「い、いやぁ。ちょっと涼もうとして……」
下手な言い訳を言おうとしても遅い。
いや、言った所でどうにもならないのだが。
「……とりあえず、お仕置きが先ですね」
襟首を掴んだまま、映姫はもう片方の手で持ち歩いている棒を懐から出して手に持ち、高々と振り上げる。
「あ、あの、し、四季様……?」
「有罪」
静かに、そう耳に聞こえた瞬間。
ゴンッと鈍い音と共に、小町の額に棒が振り下ろされていた。
「~~~~!!」
声にもならない声を上げるが、全力で額を打たれてまだ意識が残ったのが不思議でならない。
おかげで痛みに打ち震え、悶えたくても襟首を掴まれているせいでまともに動けない状態を味わってしまった。
「説教を今すぐしたい所ですが、ここでは半獣と不死に迷惑がかかります。来なさい」
小さな体躯の何処にそんな力があるのか。
そのまま小町の襟首を引きずる形で玄関先から映姫は出ようとする。
「……お待ちください、映姫殿」
そのまま妹紅の横を通り過ぎ、玄関の引き戸に手をかけた映姫であったが。
「……なんでしょうか? 上白沢の者よ」
見かねた慧音が、口を挟むべく声をかけた。
「……映姫殿は、どうして小町殿がここにいるか、わかって連れ戻しに来たのか?」
慧音は、険しい顔つきのまま映姫に聞いた。
何故サボったのかの事情を、慧音は先ほど小町から聞いてしまっている。
それ故に、理不尽に思ったのだろう。
「……おい、慧音」
妹紅はそんな険しい顔つきをする慧音を止めようと声をかけるも、引き下がらないと目で語るかのように妹紅の方へと目を向けた。
「小町殿は、安易な気持ちでサボっていたわけじゃない。それを理解せずに連れ戻されたとなれば、あまりにも―――」
「……それ以上は言わないでおくれ。ワーハクタク」
必死に弁護する言葉を、しかし小町自身が止めた。
頭を棒で打ち付けられた痛みで頭がクラクラとしていたが、自分で立ち上がれるぐらいは出来る。
映姫の顔を見ずに、小町は襟首を掴まれたまま立ち上がった。
「私がサボっていたのが悪いんだから。四季様は私を連れ戻す仕事をしているだけさ」
「……小町殿」
そそくさと玄関に置いておいた自分の赤下駄を履き、カンカンっと地面に打ち付けるように音を立てて、無理やり笑って見せる。
「邪魔して悪かったね。また」
「……行きますよ」
小町がおとなしく付いてくるとわかった為か、挨拶を済ませる小町の襟首から映姫は手を離す。
表情が見えない為か、どう思っているかはわからなかったが、今は見るのも怖い。
不安げな顔をしたままの慧音や、何が起きているのか理解が出来ず、一人で首を傾げる妹紅を残し、小町と映姫は寺子屋を後にした。
※
人里を通り抜け、山道に入っても沈黙は続いた。
上を見上げれば星が煌き、月は辺りを照らすように青白く輝いている。
こんな下で酒を飲めばいい肴になるだろうにと思いながらも、小町は前を無言で歩く映姫にダラダラと嫌な汗を掻いていた。
風通りも涼しい事から、熱くて汗を掻いているわけではない。
身体が覚えているのだ。サボった後にどうなるかを。
「……はぁ」
軽く、映姫には気づかれないように小さな溜息をした。
だが、聞こえていたのか。
「………小町」
人気のない山道でピタリと足は止まり、その溜息が引き金だったかのように映姫は小町を見ずに呼んだ。
「は、はい? 何ですか?」
咄嗟に口を手で隠すように閉ざし、映姫の後姿を見るも、表情が見えない状態ではどう言葉を出せばいいかもわからない。
「……正直に答えなさい。貴方は、上白沢に相談をしに行く為に、今日、サボったのですか?」
「い、いえ。あれは成り行きというか、茶屋で寛いで出て来た所で偶然会ったと言うか……」
淡々と出てきた言葉にギクリとするも、直接あの出来事を言われないで、少しホッとした。
「………そうですか。では、やっぱり小町はあれを見てサボったのですね」
―――ホッとした瞬間、その事を言うのはどうかと思う。
「………」
沈黙は肯定だ。そうとわかりながらも言葉が出てこない。
「……やっぱり、そうなんですね」
映姫が哀れむようにして出した声に、胸が苦しくなる。
映姫の姿を見ていられなくて地面に視線を変えるものの、抉られたようにじんわりと、心が軋むのを感じた。
立ち止まってからどのくらい経っただろうか。
風が鳴くようにして吹く山道の中、無言のまま立ち止まり、次の言葉を二人は待ち。
「………四季様、私は、あの時から何も変わっていません」
耐えられず、小町の方から話を切り出した。
「私は、駄目なんです。他の連中の一心な想いに踏みこめませんでした。それが、間違っているとわかっていても」
下を向いたまま吐露してしまった言葉に、小町は心を苦しくしながらも話す。
「数百年前に、四季様に一度助けて貰っているのに。私は四季様みたいな勇気は持てませんでした」
話す自分が情けなく、変わりたいと願う心があったとしても、霊の元に立つと動かなくなる足に悲しくなる。
「……小町」
「あたいは、四季様みたいに勇敢な存在じゃない。臆病な、駄目な死神なんです」
歯を食いしばって吐いた台詞に、虫唾が走る。
そこまでわかっているのに、四季様に助けを求めるようにして話す自分が、本当に情けなくて。
「小町、それは違います」
振り返ったのか。踵を返す音がして、地面を見下ろす小町の前まで、映姫はゆっくりと歩み寄った。
「私は、勇敢ではありません。あの行いを黙認出来る程、優しくなかったから止めたまでです」
何処か苦しそうな声に、まるで、自分が喋っているみたいに聞こえて。
「……私は、見ている事しか出来なかったから、今だけでも救える者は救いたいのです」
「………え?」
吐き捨てるように映姫の口から出された言葉に、思わず顔を上げてしまった。
小町が顔を上げた先には、哀れみと、苦しそうな顔をしながら立っている映姫の姿があった。
「……私が、地蔵から閻魔になった事は、小町は知っていますよね?」
「は、はい。それは、聞いた事はありますが……」
小町は映姫の元に派遣される前に、同期の死神達や上に君臨する閻魔から噂話として聞いた覚えがあった。
四季映姫は、人手不足によりスカウトされた閻魔であると。
映姫は星空の方へと顔を向け、静かに話し始めた。
「私は、多くの生前の者達に祈られる地蔵でした。心の拠り所として、皆が私を通して神に祈り、願ったのです」
「……」
「けれど、私は見ている事しか出来なかった。どれだけ祈られても、私は祈った者達に何も出来ない、唯の“地蔵〟だった」
静かに話す映姫は、何を思って小町に話しているのか。
「そんな時です。スカウトの話が来たのは」
※
―――閻魔?
「そう、“審判者〟に欠員が出てしまってね。それに“迎え〟の連中も何人か返り討ちにあってしまって人手不足なんだ」
その話が来たのは、夏も残暑に入ろうかと言った、涼しい時であった。
「おまけにとある神様が“楽園〟を作りたいと言いはじめてしまってね。急ぎ一人、その楽園の死者を管理する都合が良い閻魔が必要なのだよ」
夏だというのに、黒い外套を羽織り、閻魔を名乗る女性の口から出た言葉に、地蔵であった私は心の中で首を傾げたままであった。
話自体は理解出来た。閻魔を名乗る誰かが不慮の事故によって死に、統括する筈の上位の死神も都合が悪い時に死んでしまい、人手が不足していると。
おまけに催促するようにして限定的に閻魔が欲しいと言っている輩がいると。
だが、それで自分が選ばれる理由がわからなかった。
「理由がわからない? それは、本気で言っているのかな?」
閻魔は、喋れない私の心を代弁するように首を傾げる。
何らかの方法で心が読めるのか、人の通りが多い山へと入る山道で、人っ子一人見当たらない事から、本当に閻魔である事は確かであった。
人間にこのような能力を使える者等いない。
妖怪ならばいるかもしれないが、こんな酔狂な事をする妖怪もいない事だろう。
「君はずっと見てきたはずよ。祈る者達の姿を。そして願った筈だ。助けたいと」
その言葉は、どれだけ自分の心を鷲掴みにしたか。
「私はその言葉を叶えられる。神格がある物に宿る魂である君なら、閻魔と名乗る肉体を備えられるでしょう」
大袈裟に腕を振り上げ、高らかにそう答えた閻魔は、私を見て手を差し伸べた。
「君が首を横に振るとは思えない。だから、私自らスカウトをしに来た。君がなりたいと願えば、その時から君は閻魔と名乗れる」
魅力的な言葉を提示され、思わず願おうとするも、傍と気づいた。
―――閻魔という事は、死人しか救えないのでは?
死後の者達を裁くという閻魔ならば、生前の者はどうするのか。
「それも考慮の内さ。閻魔という職に就いて欲しいと私はお願いをしているが、仕事さえしてくれれば私からは何の文句もない」
ニヤリと笑って見せるその閻魔は、再び大袈裟に両手を上げた。
「物事には二つの行いがある。善行か、悪行かだ。悪行を生前からしてきた霊は三途の河も渡れず、輪廻転生の輪から外れ、永遠に河の中へと沈み苦しむ事になるだろう。それを生前の内から指摘し、注意を行うのは、してはいけない事ではない。面倒ではあるけれどね」
両手を振り上げて語る閻魔は、私に再び、手を差し伸べた。
「忙しくなるが、動けないよりは君の心は苦しまずに済むと私は思う。だからどうかな? 閻魔になる気はないかい?」
私の不安をかき消すようにして告げられた言葉は、最早、遮る物はなかった。
祈られている者から、審判を下す者へと変わる。
私は強く願った。
閻魔となる事を。
「……契約は成立ね」
閻魔は笑ったまま手鏡のような物を取り出し、私に向けた。
太陽が反射をするように、鏡は私に光を浴びせ。
その輝きに呼応するように、私は石であった地蔵から、肉体を得た。
「君に名を上げないといけないわね。これからは……そうね。四季映姫・ヤマザナドゥと名乗りなさい」
肉体を得た私に、羽織っていた黒い外套を被せて笑う閻魔は名前を私に与えてくれた。
後から聞いた話だが、この名前には由来がある。
四季映姫は、今まで四つの季節を巡り、その目で映してきたから。
姫だけ最後までどうしてつけたのかを教えてくれはしなかったが。
ヤマザナドゥは、“楽園〟を意味していた。
※
「……私は、閻魔となって多くの者を救い、その分、多くの者を自ら地獄に落としてきました」
懐かしむように話をし終え、映姫は苦笑しながらも小町の顔を見た。
小町は、それを黙って聞いていた。
「私はね、小町。貴方が臆病だとは思わない。動ける身体を持ちながら死神として生きる貴方が、どれだけ他者を想って見届けてきたのか。私は優しさがそこにあると思う」
映姫は、小町がした行為を、優しさと言った。
「……私は、優しくなんか」
「貴方は優しいです。白か黒かを決める私が言うのですからきっとそうです」
ニコリとそう言って笑う映姫に、小町はそれ以上の言葉を言えなかった。
「けれど小町」
映姫は小町に進み出るように、月の光の中、ニコリと笑った顔は何処かに消え、厳しい顔つきで“閻魔〟として告げた。
「その優しさが、今は貴方を苦しめる事になっている。それを私は、見てみぬフリをするわけにはいきません」
「……はい」
「私は、閻魔として貴方に命令します」
小町は息を呑み、顔を近づけて話す映姫の言葉をしっかりと聞いた。
「……私の為に、あの子供を救ってあげてください」
「……………え?」
厳しい顔つきのまま告げた言葉は、衝撃的であった。
「ですから私の為に、小町。今一度その優しさを捨ててください。私のせいにしていい。私を恨んでもいい。無理やり霊を送るのだと、思ってもいいから」
それは閻魔の命令にしては、あまりにも、あまりにも命令らしからない、願いであった。
「……本当ならば、これはあの時に言う言葉でした」
映姫は悔いるように、一度目を閉じる。
「私は嫌われたくなくて、言い出せなかった」
「四季、様……?」
「けれど、貴方が苦しむぐらいなら、私は……嫌われてもいいから―――」
それ以上の言葉を、映姫に出させたくなくて。
「……小、町?」
小町は映姫を抱きしめた。
「……ごめんなさい、四季、様」
抱きしめながら、小町は流れる涙を抑えられなかった。
優しすぎる映姫に、こんなに自分の事を想ってくれる人を苦しませようとしている自分が情けなく。
「私は、四季様の事が好きです」
それ以上に、これ以上、映姫が苦しむような顔を見たくなかった。
「好きな人を、嫌いになんてなれません」
「……小町」
「だからあたいは……四季様の為に、霊を救います」
星空の下、誓うようにして小町は涙を流しながら、そう宣言した。
誰が聞いているというわけでもない。
自分自身に誓うようにして。
「………私も、小町の事が大好きです」
抱きしめられた小町の身体に、映姫も抱き返すように腕を回す。
月が輝き、星が煌く中。
人気のない山道で、数百年想い続けてきた気持ちが、成就する。
※
「人種なんて関係なく、誰もが一つは、何かを背負って生きている」
月明かりの下、縁側で酒を飲み交わす慧音は、先ほどの小町と映姫の騒動を横で一緒に飲む妹紅に教えてやった。
「サボり魔と言われている小町殿も、それがあったって事さ」
「……それを聞いても、結局変わろうと思えるかは自分次第じゃないか」
慧音の言葉に反論するように、妹紅は口を挟むが、慧音は首を横に振った。
「一人じゃ、解決できない事もある。きっかけというものが必要なのさ。妹紅、お前みたいにな」
お酒によってほろ酔い気分のまま慧音は顔を赤くして妹紅にそう話、再び手に持っていた杯を煽る。
「……私も、変わったのかな?」
「変わったさ。私のおかげかはわからないが、昔の妹紅に比べれば、生きた目をしているよ」
「………まるで昔は死んでたみたいな物言いだね」
少しむっとして頬を膨らませる妹紅に、慧音はクスクスと笑ってしまう。
「すまない、少し酔っているみたいだ」
「……あんまり飲み過ぎないようにね? 慧音は飲める方じゃないんだから」
「心配してくれるのか?」
徳利を手に取り、妹紅の空いている杯へと傾けて慧音は酒を注いでやる。
「酔い潰れたら、私一人で月を肴にして飲めって言うのかい?」
妹紅は呆れたようにそう言って、注がれた酒を飲んだ。
「む、確かにそうだな」
「でしょ? だからそう簡単に酔い潰れないでよ?」
そうやってニコリと笑って酒を飲む妹紅を見て、慧音は微笑んだままだった。
―――変わったさ、妹紅。復讐しか考えられなかった昔のお前に比べれば
心の中でそう思いながら、慧音は杯を再び煽る。
―――小町殿も、きっと変われる。傍らにあの方がいるのだから
引きずるようにして小町を連れて行った映姫を見てつい口を挟んでしまったが、今思えば、日が傾くまで小町を映姫は探し続けていたのだ。
サボったからと言って、普通そこまで探すものだろうか?
「……映姫殿には、謝らねばな」
それがいつになるかは小町次第であるが、彼女が人里に姿を現す時は、大抵小町を連れ戻す時である。
早い内に再び会えるかもしれないし、三途の河を渡った時に会うのかもしれない。
月を見上げ、せめて小町が変われる事を願い、慧音は目を一度閉じて祈った。
※
翌日の此岸にて。
子供の霊は、飽きもせずに石を積んでいた。
他者を祈り、他者を想い、他者へと届くと願う石積みを。
しかし、今日は少しばかり違った。
「それは、届くのかい?」
声をかけるもの等いなかった筈なのに。
声をした方を振り返ってみれば、紅い髪をツインテールに編み、着物を着込んだ、女性が立っていた。
手には大きな鎌を持ち、霧が立ち込める川辺の中、それは鈍い銀の光を宿していた。
「お前さんのやっている事は、届くのかい?」
繰り返し、その女性は聞いてきた。
その想いは届くのかと。
しかし、聞かれてもわからない。
「……答えられないなら私が答えてあげるさ。その想いはね、届かないんだよ」
その女性は何処か悲しそうに、だけど、何かを決意したかのように、瞳には強い意志が宿っていた。
「祈りは生前にやるものさ。死後の行いは、自分の心を癒すだけの一人よがりになっちまうからね」
しゃがみ込んで、目線を合わせる女性の顔は綺麗だった。
「だから、私からのお願いって事になるのかね? その行いを止めて欲しいんだが」
行いを止めて欲しい。
そう言われても、やめられる筈がない。自分には、もう、祈るぐらいしか出来ないから。
「いんや。祈る以外の事も出来るさ」
口に出ていたのか、自分が思った事をその女性は首を横に振って否定した。
他に、出来る事があるのだろうか?
「あるさ。このまま三途の川底に沈むハメになるより、よっぽどやる事が」
その女性はそう言うと、ニコリと笑って立ち上がる。
「あたいは死神だが、アンタを楽園に連れてってあげるよ」
自分の事を死神と名乗った女性はそう言って、手を差し伸べた。
「……楽………園?」
「そう、楽園だよ」
差し伸ばされた手を握り返すべきかいくばくか迷った。
死神は自分を楽園へと連れて行ってくれるという。
やがて、迷いの末に。
子供の霊は、死神の手を握り返した。
「それじゃあ、行こうかね」
微笑んだままの死神の手は暖かく。
言葉一つ一つに、霊を思いやる“優しさ〟が宿っていたとさ。
―――また一人、私はこうやって見ているのか。
霧がかった川辺に立ち往生しながらも、紅い髪をツインテールに編んだ、紺の着物を着込んだ死神は、目の前の幽霊をじっと見つめていた。
死神に見つめられている幽霊は気にせず、川辺にしゃがみ込み、地面に転がるいくつもの小さな石ころを唯黙々と積んでいた。
薄く透明なその霊は、弱々しくも形を保っている。
何を想って死んだのか。
何を残して亡くなったのか。
何が耐えられなくて、死んだ今でも馬鹿げた行為を繰り返しているのか。
「……ああ、馬鹿げてるよ。ホントに」
死神は愚痴をこぼすように口にするが、止めようとはしなかった。
死神の仕事は、霊を“こっち側〟から“あちら側〟へ運ぶ船頭だった。
仕事の内容はあくまで送る事だけ。
送る前にする愚行を止めるという事は、仕事に入っていない。
何よりも―――止めた所で意味がない。
所詮、目の前にいる霊は死神にとって他人なのだ。
どこぞの誰かが死んだからといって、それを可哀想と思う心はあっても、踏み込む程の勇気は持ち合わせていない。
そう、死神には、勇気がなかった。
他者の想いを踏みにじっても手を差し伸べる勇気が。
それが、結果的に悲しい事になるとわかっているのに。
その想いが、結局は遺憾を残し、その霊の悲しみや憎悪が増すだけだとわかっているのに。
決して、手を差し伸べる事は出来なかった。
それはずっと変わらない。不可侵の行い。
せめて、ならば自分はその行く末を見取ってやろうじゃないかと決断した苦渋の判断。
死神―――小野塚小町は、そうやって何人もの悲しみを、憎悪を見てきた。
―――けれど。
「……今日は寝ていないと思ったら、貴方は何をしているのですか」
そんな、必死に蓋をするように決めた決断を嘲笑うかのように。
「……四季様」
「全く、寝ても起きていても仕事をしないでは、いつ貴方は仕事をするのですか」
この世の全てを、白か黒かで決める審判者が小町の後ろにいた。
―――何で、今来るんだ
小町にとって、自分の上司である四季映姫が今ここに来る事は、一番嫌な事だった。
今、自分がどんな顔をしているか。
それを理解していたが為に。
だから、説教をしようとし始めた口が堅く閉じるのも。
怒ったような表情から、怪訝な表情に変わるのも予想出来ていた。
そして、次に出る言葉もだ。
「小町、貴方―――」
「あ、あははは! すいません! すぐに仕事に戻りますから!」
誤魔化すように必死に笑って、肩に背負っていた大きな鎌をぶんっと振るって見せて、小町は足早にそこから動こうとした。
「待ちなさい、小町」
映姫の横を通り過ぎ、川辺に着けている船までほんの十歩と言った所で、案の定呼び止められる。
―――ああ、誤魔化せないか。やっぱり
心の中でそう思いながらも、映姫に背を向けたまま一度目を閉ざし、軽く息を吐いた。
「……なんですか?」
「………小町は、この仕事が嫌い?」
振り返り、映姫に顔を向けた小町であったが、映姫は小町に背を向けたままであった。
「どうして、そう思うんですかね? あたいは―――」
「いつも、こうやって見ていたの?」
映姫が向ける視線の先には、先ほどまで小町が見ていた子供の霊が未だ、飽きずに石を積んでいた。
「行いを止める事は、仕事の内容に入ってませんからね。あたいは、あくまで運ぶ事が仕事ですから」
「……そう」
屁理屈のような正論を映姫に軽く小町は言うが、映姫の表情は見えず一体どう思っているのかわからなかった。
先ほどの自分を見るように、映姫も子供の霊を見ていたが。
「………」
霊に歩み寄った。それが正しいと、まるで小町に見せるように。
「汝、その行いが善行と思えますか?」
響く声は、優しかった。
子供の霊と同じようにしゃがみ、映姫は霊に問う。
「その行いが亡き家族に、亡き友人に届くと思いますか?」
霊にとっては、不意を突かれた問いであった事だろう。
一心不乱に石を積み上げていたのに、横からそれが届くのか? と聞かれたのだ。
小町は、その様子を黙って見ていた。
「――――」
子供の霊は、ぼそぼそと何かを喋っていた。
小町の位置からは、それは聞き取れない。けれど、何となく言っている事は予想出来た。
「……ならば、立ち上がりなさい。霊となり、遺憾を残す事を友人が、家族が願う事は決してないのだから」
映姫は、その言葉に応えるように子供の霊に手を差し伸べた。
それは、子供の霊にとってどう映った事か。
差し伸べられた手を、子供の霊はじっと見つめるように見ていたが。
「―――」
何かを口にして、もう一度映姫に聞いた。
「大丈夫。貴方ならきっと、来世で家族に会えましょう」
表情は見えない。
けれど、きっと微笑んでいると。
小町は思った。それ程までにその言葉には“優しさ〟しかなかった。
映姫の言葉に後押しされたのか、子供の霊はゆっくりとであったが、差し伸ばされた手を握り返し、地面から立ち上がる。
「小町、ここからは貴方の仕事です」
立ち上がったのを見た映姫は、再び声に威厳を戻し、小町に向けて顔を向ける。
そこには冷徹な、絶対者の顔しかない。
「私と一緒にこの子を送りなさい」
一瞬返事すら返せない程、それは劇的な変わり方であった。
しかし、小町にとって。
「……は、はい!」
見せられた勇気は計り知れなく、閻魔としての四季映姫の優しさに、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
それが、きっかけ。
小野塚小町が、四季映姫を上司や閻魔以上に見る事になった唯一無二の気持ち。
しかし、小町は知らない。
それが、自分だけが描いた気持ちではない事を。
※
幻想郷の四季は、異変でも起こらない限りはちゃんとした時期に季節特徴の顔を見せる。
春には桜が散りばめられ、夏には輝かしい太陽が覗かせ、秋には紅葉が山を染め、冬には寒々しい程の雪が広がる。
「……全く、こうも熱いと霊でさえ干上がりそうだね」
そんな季節の変わりを味わえる幻想郷の人里の中、小町は愚痴るようにして茶屋のテーブルに突っ伏していた。
季節は太陽が輝く夏。いつぞやの霊と映姫を一緒に彼岸に運んでから既に数百年経つ。
あれからというもの、小町はくすぶった気持ちを胸に抱えながらも、変わろうとはしなかった。
他人が行う事に口出しはするが自分から動く事はない。
マイペースを気取り、他者が何を思おうと動く気はなかった。
「………はぁ」
人里の茶屋でサボっているものの、いつもの明るい死神の印象はそこにはない。
原因は、とある夏の異変の締め括りにデジャヴを見せられたから。
サボりのついでに、人の気質によって天候に変化が現れていた異変を追いに追って、天上の連中にまで喧嘩を売って意気高揚とした直後にあった事だけに、気持ちは久方ぶりに大きく沈んでいた。
テーブルに顔を突っ伏し、グルグルと人指し指を回す程だ。
―――私は、結局変わってないのかねぇ?
自分に投げかける疑問に苦笑してしまう。
数刻前に起きた出来事で進歩なしと下してこうやってサボっているのに、何を今更と笑ってしまった。
あの時と全く同じ現象、子供の霊が石を積み、亡き他の者を想って嘆く愚行。
それは悲しい行為だと、わかっているのに。
数百年前に見せた勇気を、知っている筈なのに。
小町は歩み寄れなかった。
そしてすがってしまったのだ。
またあの人が来てくれると。
じっと見ていれば、いつぞやの時のように颯爽とそれはいけない事だと私の説教をかねて来てくれると。
けれど、数刻待っても、映姫は来なかった。
「……あぁ、もう。ホントに熱いね!」
苛立ち混ざりに突っ伏してた顔を起こし、そのまま座っていた席から立ち上がって荒々しく茶屋から出て行く。
勘定はテーブルに置いてある。最早常連の一人となっているせいか、出て行く私にまたのお越しをと投げ返すちょっと若そうな女性の店員がいるぐらいだ。
流石に鎌を持ち歩くわけにはいかなかったが。今映姫に見つかるようなものなら、抗えもせずに地に沈み、引きずられながらくどくどと説教される事だろう。
カン、カンと赤い下駄を鳴らしながら歩く小町は、人里の人間達に紛れながら、人波に沿うように目的もなく歩き始めていた。
人里は、熱い夏に負けてなるものかと吼えているかの如く、活発に賑やかな空間を作り出している。
冬になれば今賑やかになっている通りなど、人が一人か二人歩いていればいいぐらいの寂しい場所になる。
それを知っている為か、小町は熱いと思いながらも、茶屋で叩きつけるように出した苛立ちを表の通りでは微塵も見せない。
だからだろう。
「おや、死神の」
人波に流れていた小町に、無遠慮に声を掛ける者がいた。
「ん?」
振り返って見れば、五歩程先に寺のような蒼い帽子を被り、それに合わせるように蒼色の服で整えた女性が見えた。
「ああ、あんたか」
小町は顔見知りに会うように、薄く陽気に笑って人の波から出てその女性に歩み寄った。
「またサボりか? 小町殿」
女性―――上白沢慧音はじと目でこちらを睨むようにしながら歩み寄る小町を見る。
買い物帰りだろうか。手に袋を持ち、いつも周りにいる子供が今日は一人もいない。
「あはは。まぁ、そんな所だよ。ワーハクタク」
「……はぁ、全く。映姫殿に見つかれば大変な事になるぞ?」
慧音は小町のサボり癖を悪いとは言わなかった。
それも大きなインパクトがあったからなのだが。以前人里の往来で慧音と談笑をしてる最中に、問答無用で映姫の弾幕が降って来た事件があった。
傍から見ればそれは悪鬼の如く映った事だろう。
それからというもの、慧音はサボりをどうのこうの言う前に、映姫殿にこんな所を見つかったら大変な事になるぞ? と言葉を変えている。
「見つかったらその時はその時さ。そんな事より、買い物の帰りかい?」
「ん? ああ、夜中に妹紅と酒でも飲もうかという話をしていてな。つまみを買って帰る途中だったのだが、人波に目立つ貴方を見つけてしまってつい声をかけてしまった」
苦笑するようにしてそう話す慧音は、人の波とは別に、家と家の間にある路地の方へと歩いていく。
「目立つのか? あたい」
横に並ぶようにして小町は慧音の横を歩き始める。
元々どこどこに行くという目的がなかった為か、このまま慧音に付いて行って時間を潰すのもいいだろうと思った。
「ああ、目立つよ。紅いツインテールの髪なんて早々いないし、女性なのに背丈が高いしな。小町殿は」
カランカランと下駄を鳴らしながら歩く小町に、慧音はそう指摘した。
「……あたいとしては、ワーハクタク。アンタの方が目立つと思うんだがね」
「? どうしてだ?」
「どうしてだって、アンタは里の顔だろう。大抵の奴が顔を知っているし、何よりアンタは―――」
その先を言おうとして、小町はハタと、口を閉ざす。
「? アンタは、何だ?」
「………いや、言うのは野暮だ。よしておこう」
ニコっとそう言って笑う小町。
「……? 言いかけて言わないのは気になるのだが……」
「特に気にする事でもないさ」
そう、特に気にする事でもない。
小町が言いかけたのは、慧音の容姿である。
誰が見ても美人だと言うであろう。人里に住まう男性からは高嶺の花と思われている程にだ。
手を伸ばせない理由は慧音の知人に関係するのだが。
いつの間にか自警団の真似事をし始め、孤高に居続ける白子の赤眼が傍にいれば、誰も安易にプロポーズ等しない事だろう。
本人は自覚してないみたいだが、自覚した所で面白くは無い。
故に小町は口を閉ざした。
「……むぅ」
慧音は納得してないような表情をしたが、一度言わないと言ったら、決して小町の口から聞く事はない。
それからと言うもの、談笑しながら歩いていたら、直ぐに慧音の家、寺子屋へと着いた。
「む、もう着いてしまったか」
「そうみたいだね」
時間はそんなに経ってはいない。夕刻になるにはまだまだ先だ。
熱い陽射しは容赦なく降り注ぎ、歩いている最中でも頬に汗が流れ出る程だった。
「……どうだろう。小町殿が良いのであれば、上がって話をしたいのだが。今年の異変の話は聞いてはいるが、人里に影響がなかったせいか、何も聞かされてなくてな」
談笑していた内容が今年密かに起こっていた異変だったせいだろう。丁度話が良い所に入る所で着いてしまったせいか、慧音はまだ聞きたそうであった。
「別に構わないが、いいのかい? 夜にはアイツが来るんだろう?」
先ほどの話で夜中に妹紅が来るのがわかっている小町は、そう言ってとりあえず遠慮する言葉を提示するが。
「なに、そこまで話し込む事でもない。私としては、事件の結末だけわかればいいさ」
慧音が引かないのは予想していた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて少しお邪魔させてもらおうかね」
時間を潰せる場所が出来たと内心ほくそ笑みながら、小町は寺子屋の敷居を跨いだ。
※
「……そうか、博麗神社が潰れたと聞いてはいたが、そんな事が起きていたのか」
寺子屋の縁側にて、数刻程の談笑を交わし、予め冷やして用意しておいた麦茶と団子で労った小町の口から事件の大まかな内容を聞いて慧音は納得したかのように、満足そうな顔をしていた。
「天上の奴と相対した時は肝が冷えたけどね。“迎え〟の仕事をしている死神連中でも歯が立たない奴とぶつかる事なんて初めてだったから」
思い出すようにして話す小町であったが、あからさまに手を抜かれて逃げられたせいか、実際の所そこまで肝が冷えたわけでもなかった。
まともに戦えばどちらかが命を落としていたかもしれないが、あっちも道楽でこっちも道楽だった故か、引き分けと丁度いい締めくくりとなったのである。
……直後に仕事場に戻ってみれば心が沈む出来事があったのだが、そこまでここで思い出して落ち込む程、小町は馬鹿ではない。
「ふむ……ありがとう小町殿、おかげで皆の心配もこれで拭えそうだ」
慧音はそう言って小町に一礼した。
最近の異常気象を人里の人間達は不安に思っていたのかもしれない。博麗神社のような大地震がなかったにせよ、あの天上の者は、幻想郷全土から気質の異変を招いていたのだ。
それがようやく終わりが見えたと言うのならば、成る程、確かに不安は消えそうだ。
「そんな礼を言われる程の事じゃないさ。結局、異変を解決したのはいつも通り博麗の巫女で、私は遊び気分で他の連中にちょっかいをかけただけだしね」
とばっちりを一番に受けたのも今回は博麗の巫女であったが。
「……時に、小町殿」
「ん? なんだい?」
出された麦茶を飲みながら、小町は、真剣な表情に変わった慧音の表情の変化についていけなかった。
「何処か、落ち込んでいたみたいだが、それと事件は関係ないのか?」
だから、そんな事を聞かれるのはあまりにも不意打ちだった。
「ぶほっ!? ごほっ! ごほっ!」
含んでいた麦茶をむせるようにして吐き出し、放物線を描くように縁側から茶色い液体が小町の口から地面へと流れ落ちていった。
「だ、大丈夫か?」
むせる小町の背中を手でさすろうと、慧音は腕を伸ばすが、むせながらも拒むようにして小町は首を横に振った。
「ゴホッ……だ、大丈夫だから。……それより、何で私が落ち込んでるって思ったのさ?」
涙目になっている顔を腕で乱暴に拭い、小町は慧音の顔を見つめる。
「いや、確証はなかったのだが……その驚きようだと当たっていたみたいだな」
「………」
カマをかけられたのだと分かり、参ったなと、頭を掻きながらも小町は苦笑した。
「何か、映姫殿とあったのか?」
「……いんや、四季様とはいつも通り。サボっては怒られてるよ」
何で落ち込んでいるかまではわからないだろう。小町はいつものように笑ってみせるが。
「……なぁ、ワーハクタク。話のついでに、一つ聞いていいかい?」
「? 何だ?」
真剣な表情をしたまま、慧音は小町を見つめていた。
「……どうすれば、あたいは変われるかね?」
相談する気はなかったが、そう切り出してしまえばもう止められない。
夕暮れに変わろうとする幻想郷の下で、小町はポツポツと、慧音に語り始めた。
デジャヴのように起こった、子供の霊の話を。
※
「全く、何処に行ったのでしょうか。小町は」
呟くように言う映姫の顔は、怒っている表情をしてはいなかった。
小町からの送霊が来ない事に不審を抱いてはいたが、三途の河の方に行っても姿は見えなく、代わりにいた子供の霊を見て息が詰まる思いをした。
それは、まるであの日を思い出すようであった。
「………はぁ」
地面へと顔を向け、息を吐くものの、日が徐々に落ち始めている夕暮れの中、映姫の方に顔を向ける者等いない。
川辺にいないなら人里であろうと飛んできたものの、暗い夜へと変わろうとしている人里は、徐々に人の気配が通りから消えつつある。
「小町……」
名前を呼んでも、小町の姿は何処にも見当たりはしない。
川辺で見た子供の霊に、小町はまたも、手を差し伸べなかったのは理解出来た。
数百年前、それを助けるように自分が手を差し伸べたというのに。
小町が何故あんなに仕事をサボるのか、疑問に思ったのはあの出来事があってからだ。
それまでは自分のペースで仕事をしたいという言葉を真に受け、その都度叱っていたが、私の下に小町を派遣させた他の閻魔へと事情を聞いて見たら胸が苦しくなった。
小町は、本来なら上級の死神として仕事をしていてもおかしくない能力を持ち合わせている。
死神の仕事には様々な物があるが、少なくとも、“迎え〟の仕事は簡単にこなせるはずなのだ。
なのに“送り〟の仕事に派遣された理由は、前の閻魔の思惑もあったのだろう。
臆病さを、克服してほしいという願いを込めて送りの仕事に就かせたという思惑が。
「……」
小町は傍目から見れば、明るい陽気な死神として皆に見られている事だろう。
サボりやすいと言われているが、ノルマとして最低限決められた霊を運ぶ人数も問題なく運んでいる。
しかし、その霊を運ぶ者はどれも、地獄行きの者が多い。
この世に天国等はないが、輪廻の輪へと再び魂が入るには生前の生き方に起因する。
簡単に言えば、善行を積んでいるか、悪行を積んでいるかの違いだ。
善行を積めば地獄に行かずに済む。
映姫が口やかましく、未だ生きている者達に善行を積めと説教をしている理由はそこからきているのだが。
だが、霊になった状態でも、してはならぬ事があるのだ。
遺憾を残す行い。生前の願いや祈りは崇高な、神聖なる者として見えたとしても、死んでしまった後にそれをする事は、完全なタブーであった。
誰かを想い祈る事は、自分自身の心を慰める行いでしかない為に。
それを小町も理解している筈なのに、彼女はそれを黙認し続けている。
小町は、優しすぎるのだ。
それはしてはいけない。間違っているとわかっているのに。
その願いが、祈りが死んだ後では届かないと知っているのに、踏み込めない。
尊き想いを踏みにじれないと。
そんな臆病な死神をほおっておけなくて、今も自分の手で小町との関係を繋ぎとめている。
一通り、街中を探してみたが小町の姿は何処にも見当たらなかった。
「……本当に、何処に行ったのよ」
苛立ちが混じる。
仕事をサボった事を叱るのもそうだが、それ以上に、映姫は言わねばならない事があった。
けれど肝心の本人がいない事には話しようがなく、足が棒になるぐらい歩いた疲労に止まってしまう。
―――戻るべきか?
もしかしたら戻っている可能性もある。
どちらにしても、夕暮れから夜へと変わろうとしているこんな人里の中では探しようがないだろう。
せめて、日が昇ってから探し直すべきだ。
そう思い、止めた足を返し、戻ろうと振り返るが。
「……む」
路地裏へと入っていく者を見て、目を細めた。
銀の髪に赤眼の白子。
藤原妹紅。輪廻の輪を外れた大罪人。
このまま戻ろうと思ったが、見てしまったからには一言注意をしておかねばなるまいと、足を妹紅が消えた路地裏の方へと運んでいく。
輪から外れた者をどうしようと管轄外であったが、善行を積み続ける事は出来る。
以前、というか幾度となく注意をしてはいるが、前に注意をした時は、未だ月の姫君との衝突を繰り返していた。
彼女が何故月の姫と殺し合いをしているかは鏡によってわかってはいたが、それでも言わねば気がすまなかった。
早足で追いかけ、路地裏の方へと回り、歩いている割には足が速いと思いながらも妹紅を追いかけた。
やがて、とある一軒家に姿を消したのを見て足を止める。
「……ここは」
妹紅が入っていった家を見てそこが寺子屋である事に気づいた。
※
「……ふむ」
夕暮れから既に日は傾き、月が出始めていたが、小町から話を聞き終えた慧音は押し黙っていたままであった。
「さて、それじゃあアイツが来る前に私はお暇するかね」
話して少しは気が楽になったのか、小町は軽く伸びをして立ち上がる。
「話を聞いてくれてありがとう。ワーハクタク」
「……小町殿、貴方は……」
慧音は、揺らいだ瞳のまま小町を見るも、何かを言いかけ。
「……いや、何でもない」
口を閉ざした。小町もその姿に苦笑したが、何も言わなかった。
言われた所で、変えられるものでもない。
慧音はそれを聞いて理解したのであろう。結局は、自分自身の問題なのだ。
慧音も立ち上がり、小町を見送ろうと玄関の方へと歩いていく。
「慧音ーーー」
と、玄関の方から声がして、小町はありゃと、後ろを歩く慧音の方に振り返る。
「どうやら、本当に長く居過ぎたみたいだね」
「……そうみたいだな」
そのまま玄関に歩いて行き、小町は妹紅の姿を確認し。
「……え?」
「ん? 何で死神がいるんだ?」
「妹紅、それを言ったらお前………何で映姫殿といるんだ?」
妹紅の横に、静かに立っている映姫の姿を見て後ずさった。
「さっきここに入るところを見られてね……慧音と一緒に酒を飲む話をしてたんだけど」
「……し、四季様」
「こんな所にいたんですね。小町」
映姫の顔を見るも、ニコリと笑っていて逆に見るんじゃなかったと後悔する。
すぐに逃げられないものかと退路を確認するも、いつ弾幕が巻き起こってもおかしくないこの状況では逃げれるかどうかも怪しいものであった。
「全く、人里を何度も巡る事になりましたよ」
一歩、そう言って踏み込んできた映姫に反応するように、脱皮の如く横へ跳躍するようにして走る。
普通の人間ならば、姿が消えたように見えただろう。
だが、相手は人間じゃない。
「待ちなさい」
ガシっと着物の襟首を捕まれる感触と同時に、足を払われるようにして蹴られる。
「キャンッ!?」
ドタンッと木造りの廊下に腰をしたたかに打ちつけ、痛みに声を上げるも。
「私を見て逃げるということは、自分がした事を理解していますね?」
凄みのある声と重圧に、首筋から嫌な汗が吹き出た。
上を見れば、未だにニコリと笑う映姫の顔があり、それが余計に怖い。
「い、いやぁ。ちょっと涼もうとして……」
下手な言い訳を言おうとしても遅い。
いや、言った所でどうにもならないのだが。
「……とりあえず、お仕置きが先ですね」
襟首を掴んだまま、映姫はもう片方の手で持ち歩いている棒を懐から出して手に持ち、高々と振り上げる。
「あ、あの、し、四季様……?」
「有罪」
静かに、そう耳に聞こえた瞬間。
ゴンッと鈍い音と共に、小町の額に棒が振り下ろされていた。
「~~~~!!」
声にもならない声を上げるが、全力で額を打たれてまだ意識が残ったのが不思議でならない。
おかげで痛みに打ち震え、悶えたくても襟首を掴まれているせいでまともに動けない状態を味わってしまった。
「説教を今すぐしたい所ですが、ここでは半獣と不死に迷惑がかかります。来なさい」
小さな体躯の何処にそんな力があるのか。
そのまま小町の襟首を引きずる形で玄関先から映姫は出ようとする。
「……お待ちください、映姫殿」
そのまま妹紅の横を通り過ぎ、玄関の引き戸に手をかけた映姫であったが。
「……なんでしょうか? 上白沢の者よ」
見かねた慧音が、口を挟むべく声をかけた。
「……映姫殿は、どうして小町殿がここにいるか、わかって連れ戻しに来たのか?」
慧音は、険しい顔つきのまま映姫に聞いた。
何故サボったのかの事情を、慧音は先ほど小町から聞いてしまっている。
それ故に、理不尽に思ったのだろう。
「……おい、慧音」
妹紅はそんな険しい顔つきをする慧音を止めようと声をかけるも、引き下がらないと目で語るかのように妹紅の方へと目を向けた。
「小町殿は、安易な気持ちでサボっていたわけじゃない。それを理解せずに連れ戻されたとなれば、あまりにも―――」
「……それ以上は言わないでおくれ。ワーハクタク」
必死に弁護する言葉を、しかし小町自身が止めた。
頭を棒で打ち付けられた痛みで頭がクラクラとしていたが、自分で立ち上がれるぐらいは出来る。
映姫の顔を見ずに、小町は襟首を掴まれたまま立ち上がった。
「私がサボっていたのが悪いんだから。四季様は私を連れ戻す仕事をしているだけさ」
「……小町殿」
そそくさと玄関に置いておいた自分の赤下駄を履き、カンカンっと地面に打ち付けるように音を立てて、無理やり笑って見せる。
「邪魔して悪かったね。また」
「……行きますよ」
小町がおとなしく付いてくるとわかった為か、挨拶を済ませる小町の襟首から映姫は手を離す。
表情が見えない為か、どう思っているかはわからなかったが、今は見るのも怖い。
不安げな顔をしたままの慧音や、何が起きているのか理解が出来ず、一人で首を傾げる妹紅を残し、小町と映姫は寺子屋を後にした。
※
人里を通り抜け、山道に入っても沈黙は続いた。
上を見上げれば星が煌き、月は辺りを照らすように青白く輝いている。
こんな下で酒を飲めばいい肴になるだろうにと思いながらも、小町は前を無言で歩く映姫にダラダラと嫌な汗を掻いていた。
風通りも涼しい事から、熱くて汗を掻いているわけではない。
身体が覚えているのだ。サボった後にどうなるかを。
「……はぁ」
軽く、映姫には気づかれないように小さな溜息をした。
だが、聞こえていたのか。
「………小町」
人気のない山道でピタリと足は止まり、その溜息が引き金だったかのように映姫は小町を見ずに呼んだ。
「は、はい? 何ですか?」
咄嗟に口を手で隠すように閉ざし、映姫の後姿を見るも、表情が見えない状態ではどう言葉を出せばいいかもわからない。
「……正直に答えなさい。貴方は、上白沢に相談をしに行く為に、今日、サボったのですか?」
「い、いえ。あれは成り行きというか、茶屋で寛いで出て来た所で偶然会ったと言うか……」
淡々と出てきた言葉にギクリとするも、直接あの出来事を言われないで、少しホッとした。
「………そうですか。では、やっぱり小町はあれを見てサボったのですね」
―――ホッとした瞬間、その事を言うのはどうかと思う。
「………」
沈黙は肯定だ。そうとわかりながらも言葉が出てこない。
「……やっぱり、そうなんですね」
映姫が哀れむようにして出した声に、胸が苦しくなる。
映姫の姿を見ていられなくて地面に視線を変えるものの、抉られたようにじんわりと、心が軋むのを感じた。
立ち止まってからどのくらい経っただろうか。
風が鳴くようにして吹く山道の中、無言のまま立ち止まり、次の言葉を二人は待ち。
「………四季様、私は、あの時から何も変わっていません」
耐えられず、小町の方から話を切り出した。
「私は、駄目なんです。他の連中の一心な想いに踏みこめませんでした。それが、間違っているとわかっていても」
下を向いたまま吐露してしまった言葉に、小町は心を苦しくしながらも話す。
「数百年前に、四季様に一度助けて貰っているのに。私は四季様みたいな勇気は持てませんでした」
話す自分が情けなく、変わりたいと願う心があったとしても、霊の元に立つと動かなくなる足に悲しくなる。
「……小町」
「あたいは、四季様みたいに勇敢な存在じゃない。臆病な、駄目な死神なんです」
歯を食いしばって吐いた台詞に、虫唾が走る。
そこまでわかっているのに、四季様に助けを求めるようにして話す自分が、本当に情けなくて。
「小町、それは違います」
振り返ったのか。踵を返す音がして、地面を見下ろす小町の前まで、映姫はゆっくりと歩み寄った。
「私は、勇敢ではありません。あの行いを黙認出来る程、優しくなかったから止めたまでです」
何処か苦しそうな声に、まるで、自分が喋っているみたいに聞こえて。
「……私は、見ている事しか出来なかったから、今だけでも救える者は救いたいのです」
「………え?」
吐き捨てるように映姫の口から出された言葉に、思わず顔を上げてしまった。
小町が顔を上げた先には、哀れみと、苦しそうな顔をしながら立っている映姫の姿があった。
「……私が、地蔵から閻魔になった事は、小町は知っていますよね?」
「は、はい。それは、聞いた事はありますが……」
小町は映姫の元に派遣される前に、同期の死神達や上に君臨する閻魔から噂話として聞いた覚えがあった。
四季映姫は、人手不足によりスカウトされた閻魔であると。
映姫は星空の方へと顔を向け、静かに話し始めた。
「私は、多くの生前の者達に祈られる地蔵でした。心の拠り所として、皆が私を通して神に祈り、願ったのです」
「……」
「けれど、私は見ている事しか出来なかった。どれだけ祈られても、私は祈った者達に何も出来ない、唯の“地蔵〟だった」
静かに話す映姫は、何を思って小町に話しているのか。
「そんな時です。スカウトの話が来たのは」
※
―――閻魔?
「そう、“審判者〟に欠員が出てしまってね。それに“迎え〟の連中も何人か返り討ちにあってしまって人手不足なんだ」
その話が来たのは、夏も残暑に入ろうかと言った、涼しい時であった。
「おまけにとある神様が“楽園〟を作りたいと言いはじめてしまってね。急ぎ一人、その楽園の死者を管理する都合が良い閻魔が必要なのだよ」
夏だというのに、黒い外套を羽織り、閻魔を名乗る女性の口から出た言葉に、地蔵であった私は心の中で首を傾げたままであった。
話自体は理解出来た。閻魔を名乗る誰かが不慮の事故によって死に、統括する筈の上位の死神も都合が悪い時に死んでしまい、人手が不足していると。
おまけに催促するようにして限定的に閻魔が欲しいと言っている輩がいると。
だが、それで自分が選ばれる理由がわからなかった。
「理由がわからない? それは、本気で言っているのかな?」
閻魔は、喋れない私の心を代弁するように首を傾げる。
何らかの方法で心が読めるのか、人の通りが多い山へと入る山道で、人っ子一人見当たらない事から、本当に閻魔である事は確かであった。
人間にこのような能力を使える者等いない。
妖怪ならばいるかもしれないが、こんな酔狂な事をする妖怪もいない事だろう。
「君はずっと見てきたはずよ。祈る者達の姿を。そして願った筈だ。助けたいと」
その言葉は、どれだけ自分の心を鷲掴みにしたか。
「私はその言葉を叶えられる。神格がある物に宿る魂である君なら、閻魔と名乗る肉体を備えられるでしょう」
大袈裟に腕を振り上げ、高らかにそう答えた閻魔は、私を見て手を差し伸べた。
「君が首を横に振るとは思えない。だから、私自らスカウトをしに来た。君がなりたいと願えば、その時から君は閻魔と名乗れる」
魅力的な言葉を提示され、思わず願おうとするも、傍と気づいた。
―――閻魔という事は、死人しか救えないのでは?
死後の者達を裁くという閻魔ならば、生前の者はどうするのか。
「それも考慮の内さ。閻魔という職に就いて欲しいと私はお願いをしているが、仕事さえしてくれれば私からは何の文句もない」
ニヤリと笑って見せるその閻魔は、再び大袈裟に両手を上げた。
「物事には二つの行いがある。善行か、悪行かだ。悪行を生前からしてきた霊は三途の河も渡れず、輪廻転生の輪から外れ、永遠に河の中へと沈み苦しむ事になるだろう。それを生前の内から指摘し、注意を行うのは、してはいけない事ではない。面倒ではあるけれどね」
両手を振り上げて語る閻魔は、私に再び、手を差し伸べた。
「忙しくなるが、動けないよりは君の心は苦しまずに済むと私は思う。だからどうかな? 閻魔になる気はないかい?」
私の不安をかき消すようにして告げられた言葉は、最早、遮る物はなかった。
祈られている者から、審判を下す者へと変わる。
私は強く願った。
閻魔となる事を。
「……契約は成立ね」
閻魔は笑ったまま手鏡のような物を取り出し、私に向けた。
太陽が反射をするように、鏡は私に光を浴びせ。
その輝きに呼応するように、私は石であった地蔵から、肉体を得た。
「君に名を上げないといけないわね。これからは……そうね。四季映姫・ヤマザナドゥと名乗りなさい」
肉体を得た私に、羽織っていた黒い外套を被せて笑う閻魔は名前を私に与えてくれた。
後から聞いた話だが、この名前には由来がある。
四季映姫は、今まで四つの季節を巡り、その目で映してきたから。
姫だけ最後までどうしてつけたのかを教えてくれはしなかったが。
ヤマザナドゥは、“楽園〟を意味していた。
※
「……私は、閻魔となって多くの者を救い、その分、多くの者を自ら地獄に落としてきました」
懐かしむように話をし終え、映姫は苦笑しながらも小町の顔を見た。
小町は、それを黙って聞いていた。
「私はね、小町。貴方が臆病だとは思わない。動ける身体を持ちながら死神として生きる貴方が、どれだけ他者を想って見届けてきたのか。私は優しさがそこにあると思う」
映姫は、小町がした行為を、優しさと言った。
「……私は、優しくなんか」
「貴方は優しいです。白か黒かを決める私が言うのですからきっとそうです」
ニコリとそう言って笑う映姫に、小町はそれ以上の言葉を言えなかった。
「けれど小町」
映姫は小町に進み出るように、月の光の中、ニコリと笑った顔は何処かに消え、厳しい顔つきで“閻魔〟として告げた。
「その優しさが、今は貴方を苦しめる事になっている。それを私は、見てみぬフリをするわけにはいきません」
「……はい」
「私は、閻魔として貴方に命令します」
小町は息を呑み、顔を近づけて話す映姫の言葉をしっかりと聞いた。
「……私の為に、あの子供を救ってあげてください」
「……………え?」
厳しい顔つきのまま告げた言葉は、衝撃的であった。
「ですから私の為に、小町。今一度その優しさを捨ててください。私のせいにしていい。私を恨んでもいい。無理やり霊を送るのだと、思ってもいいから」
それは閻魔の命令にしては、あまりにも、あまりにも命令らしからない、願いであった。
「……本当ならば、これはあの時に言う言葉でした」
映姫は悔いるように、一度目を閉じる。
「私は嫌われたくなくて、言い出せなかった」
「四季、様……?」
「けれど、貴方が苦しむぐらいなら、私は……嫌われてもいいから―――」
それ以上の言葉を、映姫に出させたくなくて。
「……小、町?」
小町は映姫を抱きしめた。
「……ごめんなさい、四季、様」
抱きしめながら、小町は流れる涙を抑えられなかった。
優しすぎる映姫に、こんなに自分の事を想ってくれる人を苦しませようとしている自分が情けなく。
「私は、四季様の事が好きです」
それ以上に、これ以上、映姫が苦しむような顔を見たくなかった。
「好きな人を、嫌いになんてなれません」
「……小町」
「だからあたいは……四季様の為に、霊を救います」
星空の下、誓うようにして小町は涙を流しながら、そう宣言した。
誰が聞いているというわけでもない。
自分自身に誓うようにして。
「………私も、小町の事が大好きです」
抱きしめられた小町の身体に、映姫も抱き返すように腕を回す。
月が輝き、星が煌く中。
人気のない山道で、数百年想い続けてきた気持ちが、成就する。
※
「人種なんて関係なく、誰もが一つは、何かを背負って生きている」
月明かりの下、縁側で酒を飲み交わす慧音は、先ほどの小町と映姫の騒動を横で一緒に飲む妹紅に教えてやった。
「サボり魔と言われている小町殿も、それがあったって事さ」
「……それを聞いても、結局変わろうと思えるかは自分次第じゃないか」
慧音の言葉に反論するように、妹紅は口を挟むが、慧音は首を横に振った。
「一人じゃ、解決できない事もある。きっかけというものが必要なのさ。妹紅、お前みたいにな」
お酒によってほろ酔い気分のまま慧音は顔を赤くして妹紅にそう話、再び手に持っていた杯を煽る。
「……私も、変わったのかな?」
「変わったさ。私のおかげかはわからないが、昔の妹紅に比べれば、生きた目をしているよ」
「………まるで昔は死んでたみたいな物言いだね」
少しむっとして頬を膨らませる妹紅に、慧音はクスクスと笑ってしまう。
「すまない、少し酔っているみたいだ」
「……あんまり飲み過ぎないようにね? 慧音は飲める方じゃないんだから」
「心配してくれるのか?」
徳利を手に取り、妹紅の空いている杯へと傾けて慧音は酒を注いでやる。
「酔い潰れたら、私一人で月を肴にして飲めって言うのかい?」
妹紅は呆れたようにそう言って、注がれた酒を飲んだ。
「む、確かにそうだな」
「でしょ? だからそう簡単に酔い潰れないでよ?」
そうやってニコリと笑って酒を飲む妹紅を見て、慧音は微笑んだままだった。
―――変わったさ、妹紅。復讐しか考えられなかった昔のお前に比べれば
心の中でそう思いながら、慧音は杯を再び煽る。
―――小町殿も、きっと変われる。傍らにあの方がいるのだから
引きずるようにして小町を連れて行った映姫を見てつい口を挟んでしまったが、今思えば、日が傾くまで小町を映姫は探し続けていたのだ。
サボったからと言って、普通そこまで探すものだろうか?
「……映姫殿には、謝らねばな」
それがいつになるかは小町次第であるが、彼女が人里に姿を現す時は、大抵小町を連れ戻す時である。
早い内に再び会えるかもしれないし、三途の河を渡った時に会うのかもしれない。
月を見上げ、せめて小町が変われる事を願い、慧音は目を一度閉じて祈った。
※
翌日の此岸にて。
子供の霊は、飽きもせずに石を積んでいた。
他者を祈り、他者を想い、他者へと届くと願う石積みを。
しかし、今日は少しばかり違った。
「それは、届くのかい?」
声をかけるもの等いなかった筈なのに。
声をした方を振り返ってみれば、紅い髪をツインテールに編み、着物を着込んだ、女性が立っていた。
手には大きな鎌を持ち、霧が立ち込める川辺の中、それは鈍い銀の光を宿していた。
「お前さんのやっている事は、届くのかい?」
繰り返し、その女性は聞いてきた。
その想いは届くのかと。
しかし、聞かれてもわからない。
「……答えられないなら私が答えてあげるさ。その想いはね、届かないんだよ」
その女性は何処か悲しそうに、だけど、何かを決意したかのように、瞳には強い意志が宿っていた。
「祈りは生前にやるものさ。死後の行いは、自分の心を癒すだけの一人よがりになっちまうからね」
しゃがみ込んで、目線を合わせる女性の顔は綺麗だった。
「だから、私からのお願いって事になるのかね? その行いを止めて欲しいんだが」
行いを止めて欲しい。
そう言われても、やめられる筈がない。自分には、もう、祈るぐらいしか出来ないから。
「いんや。祈る以外の事も出来るさ」
口に出ていたのか、自分が思った事をその女性は首を横に振って否定した。
他に、出来る事があるのだろうか?
「あるさ。このまま三途の川底に沈むハメになるより、よっぽどやる事が」
その女性はそう言うと、ニコリと笑って立ち上がる。
「あたいは死神だが、アンタを楽園に連れてってあげるよ」
自分の事を死神と名乗った女性はそう言って、手を差し伸べた。
「……楽………園?」
「そう、楽園だよ」
差し伸ばされた手を握り返すべきかいくばくか迷った。
死神は自分を楽園へと連れて行ってくれるという。
やがて、迷いの末に。
子供の霊は、死神の手を握り返した。
「それじゃあ、行こうかね」
微笑んだままの死神の手は暖かく。
言葉一つ一つに、霊を思いやる“優しさ〟が宿っていたとさ。
慧音に相談したことや、映姫様の話を辿って
変わっていった様がとても良かったです。
これからも小町はその優しさを持って仕事をしていけたら良いですよね。
とてもいいはなしでした。
四季映姫様・・・。あなたは少しカリスマ過ぎる。
ところで↑の方もおっしゃっていますが。ヤマザナドゥはヤマ=夜摩(≒閻魔)、ザナドゥ=桃源郷(≒幻想郷)であり、合わせて幻想郷の閻魔という役職を表してます。
気になる点だけ、返させて頂きます。
>>ヤマザナドゥはヤマ=夜摩(≒閻魔)、ザナドゥ=桃源郷(≒幻想郷)であり、合わせて幻想郷の閻魔という役職を表してます。
夜摩と桃源郷をかけていたのは初めて知りました。こちらの知識が間違っていたようで失礼しました。