今日のような偶然が最近は実に多い気がするな、と膨大な品物を整理しながらそう思った。
オレンジ色の薄明かりの中で紙をめくる音とカリカリと何かを書く音の二つが耳に心地よい。
肩を軽く回すとこきり、と実にいい音がした。
今日一日を思い返す。
記憶が正しければ人里に買い出しに行った事が既にこの奇妙な一日を予言していたのだと見て間違いないだろう。
保存のきく食料と、
今日の夕食のための食材を買い(つまり、今日はちょっと豪華な夕食にするつもりなのだ)、
まだまだお子様な常連客のために菓子を揃え、
そして夜の楽しみにと酒を買ったまでは良かった。
久しぶりだねえ、香霖堂さん。
そんな好意的な挨拶を受け、やはりたまには人里に来てみるものだなと思った。
だがそんな甘い考えは寺子屋の前を通った時に霧散した。
ちょうど今日の授業(授業、で良いのだろうか。よくわからない)が終了した頃だったのだろう、
数人の男女が勢いよく飛び出してきたのだ。
これもまた、よくある光景だ。
学ぶ意志のある子供が居るというのは好ましいものである。
昔はあの子達もこんな風に無邪気で可愛かった。
そんな風に思い出に浸っているまではいつも通りだったのだ。
しかしそこからは違った。
なんと少年達に石つぶてを投げつけられたのだ。
当然僕は回避することなど出来ず、
卵は割れ、酒瓶は砕け、服はぐっしょりと濡れてしまった。
後に子供達に聞いて分かったことだが、
ちょうど最近は幻想郷で『英雄』として語られている人物に関する授業を受けていたらしく、
今日は僕の名前が霊夢や魔理沙の名と並んで挙げられたそうなのである。
授業に九代目御阿礼の子、稗田阿求の著した幻想郷縁起を用いたとのことで、
その本の『英雄』に関する項目に僕の名前があったのでこのような誤解が生じたのだろう。
更に運が悪いことに先日は霊夢の事が取り上げられており、
では霊夢はどれほど強いのだろうかと少年達が軽く石を投げた所、
彼女は首だけを動かしてその石を回避し、投げられた事にすら気がつかず去っていったのだという。
そうなれば男である僕は一体どれほど強いのかと少年達が疑問に思うのも当然の話で、
力一杯石を投げた結果が――、今回の災厄につながったというわけである。
結局酒と卵で異臭を放つ服を着て帰る僕に何か詫びをしたいということで、
寺子屋の先生が何故か香霖堂に上がり込むことになってしまった。
そして、時系列は現在へと戻る。
先生――つまり上白沢慧音は申し訳なさそうに頭を下げた。
「本当に済まない。私の授業が至らなかったばかりに……
挙げ句の果てに服まで台無しにしてしまって、もう何と言っていいやら」
慧音があまりにも真剣なので、資料を捲る手を止め、なに、と軽く手を振って意に介していない事を示す。
「気にすることはないよ。
この服はああいう不注意者達のせいで何度も何度も汚されてきたからね。
しかし、香霖堂に着くや否や問答無用で脱がされるとは思わなかったが」
苦笑してそう揶揄すると慧音はそれは本当に済まなかった、と顔を赤くして謝った。
「あの時は気が動転していて……とにかく汚れた服をなんとかしないと、というただそれだけで頭が一杯だったんだ。
済まない。許してくれ」
「気が動転したあまり少年少女問わずはり倒すという鬼気迫る風景を見せられては
許す以外の選択肢は僕には無いような気がするんだが」
「何から何まで本当に恥ずかしいところを見せてしまったみたいだな」
口調だけはしっかりしているものの可哀想なくらいに顔を火照らせて、慧音は足をぱたぱたとさせた。
「か、勘違いしないで欲しいのだがいつもあんな風にして回っているわけじゃないぞ?」
「たまにでもああいうものは自重するべきだと僕は思うね」
「――面目ない……っと、香霖堂。それは脇に置いてくれ」
羽ペンをくるくるさせながら慧音は指示を出した。
彼女は僕に対して何か別の謝罪を考えていたらしいのだが、
この店の品物が何の秩序もなく転がっているのを見て、
それを完璧に整理することで誠意を見せることにしたらしい。
当然僕は商品の整理に何の意義も見いだせないので
「別にこんな事の手伝いをしてもらわなくとも、片づく物は片づくし、
意外と何とかなるものなんだがね」
いいや、だめだ。と慧音は首を振る。
「香霖堂。店の整理がついているかどうかは意外と売り上げに大きな影響を与えるんだぞ?」
霧雨店で修行していたのでそんな事は君以上に知っているのだが。
しかしそれを言い出す事が出来ず、何故か慧音の言いなりになってしまっている自分が情けない。
どうにも霊夢や魔理沙を相手にするのとは勝手が違う。
いつものようにイニシアチブを取って適当に難しい事を言って煙に巻くということができないのだ。
何せ慧音は賢い。まったく、どうしたものかね。僕は売れる筈のない自転車の前輪を立てかけながら溜息を吐いた。
「そろそろ僕も疲れてきたんだが……休憩にしても良い頃じゃないだろうか?
君もそんな風に商品名を書くだけの作業は詰まらないだろう」
いいや、と慧音は首を振る。
「こういう面白くない作業を地味に積み重ねてこそ最後に派手な結果が出るものなんだ。今の努力が未来の自分を作るんだぞ」
要するに魔理沙理論である。
僕は努力せずともある程度の結果が得られる人間なので慧音の話はあまり役に立たない。
ただ、心配して言ってくれているのは痛いほど伝わってくるのでなんとなく迷惑だと言いづらいのである。
なのでひたすら愚痴をこぼすしかない。そして、慧音の失言を拾って反撃に出るのだ。
これしか楽になる手段は無い。そう思って会話を続けること数分、ようやく反撃の糸口を掴んだ。
「慧音」
「なんだ香霖堂。そこの区画の片づけが終わったらそろそろ休憩しても良いからもう少し頑張ってくれ」
いや、その事なんだが、と笑みを浮かべたいのを抑えつつ彼女の言葉を誘発すべく口を開く。
「この店にはしょっちゅう態度のなっていない客がやってくるからね。
頑張って片づけても一日二日でこの努力は水泡に帰す事になるんだよ。
それでも片づけねばならないのかい?」
そうだな、と慧音は一度だけ頷いてから答えた。
「そういう悪い客には一度きつく言っておかないとだめだ。
そうしないと思いもよらないところで他人にまで迷惑がかかってしまう事もあるんだぞ?」
思わぬ収穫である。僕はこの言葉を待っていたのだ。
鬼の首を取ったように昂揚しながらくるりと慧音に向き直る。
「ふむ、迷惑とはつまり……今日君のところの子たちが僕にしたように、かい?」
「……うぐっ」
つらつらとよどみなく言葉を続けていた慧音がついにその正論攻撃を中止した。
全てにおいて正しく反論の余地がない閻魔の説教に比べればこの程度はものの数ではないのである。
慧音はあちこちに目をやりながらあー、だの、うー、だの意味不明の言葉にならない音を発している。
「いや、うん。それはだな。まあ、私が悪いんだが……。ええと。
だがそれでもあなたはやはりここの整理をするべきなんだ。それはというものの……。つまりだな……」
一応言葉になりそうでならないものも発しているが、見ていて可愛らしいだけのものである。
ついに言うべき事を見失ったのか、眉をハの字にして慧音は僕を見上げてきた。
「……少し、こういうのは卑怯だと思うぞ」
「悪いね。僕は楽が出来ればそれでいいんだよ」
ぽん、と慧音の頭を帽子越しに叩いて仕事の終わりを暗に告げる。
もう日は暮れかかっている。
今日もまた誰一人店に入る事無く営業は終了したようだった。
見ると慧音は完全に小さくなってしまっている。
「なんだか……これではただ迷惑ばかりかけっぱなしにしているみたいじゃないか」
根がとても優しくてまじめな子なのだろう。
心の底から僕に迷惑をかけてしまった事を悔やみ、
そして何か償いが出来ればと思って必死になり、
結果がこれではへこんでしまっても無理はあるまい。
確かにこの子の行動は迷惑そのものであり正直無駄以外のなにものでもない。
しかし、それだけの理由でこの子を無下に扱うのもまた大人げない話である。
フォローくらいはしておいた方が良いかも知れない。
「まあ、こんなのはいつものことだ。
そんなに気に病む事はないさ。迷惑だったのは確かだが」
「す、済まない」
かえって恐縮したように慧音はまた頭を下げた。
僕の物言いが悪いのだろうか。
上手く傷ついた心のケアをしているつもりなのだが。
香霖堂に来たせいで暗い気持ちになられては店主としても面白くない。
こうなれば僕に残された手段はただ一つである。
上機嫌で帰ってもらえるよう、僕は最終手段を講じた。
「君も疲れているだろう? 帰る前に何かつまんでいくといい。
食べ物だけなら有り余っていてね」
さて、この発言が吉と出るか。それとも凶と出るか……。
僕は吉と出ることを祈り、彼女を奥の間へと招いた。
「待て待て香霖堂。しいたけを入れるのはまだ早いんじゃないか?」
「む。そうかい?」
わずか三十分。そう、わずか三十分で慧音は本当に楽しそうな表情になってくれていた。
今回も僕の選択は完璧だったらしい。
卵が割れてしまったこともあり、急遽今晩は鍋にしてみたのだ。
色々と指導するのが好きな慧音の事、きっと鍋奉行なのだろうと思っていたが案の定である。
鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。
「ふふ。この部屋は凄く暖かいな。外の世界の技術には感嘆を隠せないよ」
「全くだね。ちなみに君が言うその機械の名はストーブという」
「なるほどなあ」
うんうんと感心したように慧音は頷き、そして酒をまたちびちびと煽る。
だがすぐに首を傾げると、何を思ったかこちらに近寄ってきた。
ここに来る少女の多くと違い慧音には清潔な艶があるので少々どきりとさせられるがこの程度で僕の表情は変わらない。
一々気にしていては香霖堂の店主など務まるはずもないのだ。
さて、慧音はじっと僕を見ていたのだがやがて大きく頷き、
「やはり服が少し乱れているぞ。しゃんとしろ、しゃんと」
いきなり手を伸ばすと、ぱんぱんと服装をただし、そして満足そうにふにゃ、と笑顔を浮かべた。
落ち着かない様子だが、楽しんでくれているのは間違いないらしい。
もう待ちきれないといった様子で鍋をつつく様子は見ていて微笑ましい。
「香霖堂、香霖堂。そろそろ取って食べてみてもいいかも知れないぞ?
ほら、ポン酢を取ってやろう!」
慧音は頼んでもいないのに僕の椀を手に取ると、そこに醤油を注ぎ、
それから何気ない表情でカボスを絞ったが、すぐに首を傾げて僕を見やった。
彼女の疑問が何であるかは理解できたので笑って答えた。
「知り合いがどこからか探してきてくれてね。
収穫期は秋頃だろうに。全く、どこから持ってきたのやら」
当然持ってきた妖怪の名は八雲紫である。
慧音は、そうかそうかと頷いて、お玉で豆腐を掬うと椀によそってくれた。
「カボスは香りがいいから私も好きだ。
持ってきてくれた誰かさんにも感謝をしないとな」
「全くだね」
そう言って豆腐を口に運ぶのだが、慧音はすでに次に何をよそってやろうかと考えているらしい。
世話好きここに極まれり、である。
自分はほとんど何も口にせず、僕が具を口に運ぶのを見ては
「美味いか?」
だの、
「熱くないか?」
だの、
「水もちゃんと飲むんだぞ」
だのとご満悦な様子で指示を出してくる。
水も何も、鍋を突きながらではあっという間に一升瓶は空いてしまうと思うのだが。
ともあれ。
「君も食べたらどうだ? なかなか美味いよ」
うむ、と慧音は深く頷いた。
「私は香霖堂が満足してから残り物でも頂くことにするよ」
「それじゃあ僕がいたたまれないだろう。
わいわいがやがやと騒ぐのが楽しいというのに、
まったく何で魔理沙は今日に限って香霖堂に入ってこなかったんだか」
店の外をうろうろしていたのは分かっているのだが何故か魔理沙は入ってこない。
周りをうろつくだけである。
僕の身に何かがあった時のために隠れて警護でもしているつもりなのだろう。
妖怪に喰われる心配は無いと何度も言って聞かせたはずなのだがあれでなかなかどうして心配性な子なのである。
そういう所はまだ可愛いんだけどな。
きっとあと一年もすればそういう残り滓みたいな可愛げも無くなって、香霖堂にも寄りつかなくなるに違いない。
淋しいことだ。
ならば淋しい余生のために交友範囲を広げるのもまあ悪くない。
だとすればこの出会いも大切にすべきかもしれない。
ちまちまとエノキをつつく慧音を見ながらそんな事を思った。
鍋料理を囲むとなれば時間はあっという間に過ぎゆく。
宵の暮れから始まったこの夕餉は結局深夜過ぎまで続き、
最後に雑炊でしめて手を合わせる頃にはもう日が昇り始めていた。
その間僕と慧音は歴史がどうだの、
外の世界の最近の本は堕落しているだの、
これからの幻想郷はどうあるべきかだの、
そんなどうでも良い事を(慧音は至って真剣だった)語り合っていた。
あらかた話しつくし瞼が重くなってきたところで、
慧音は眠そうに目を擦りながらぽつりと口を開いた。
「なあ、霖之す……っと、香霖堂」
その口元には小さく笑みが浮かんでいる。
随分と打ち解けてくれたようで、力の抜けた柔らかな表情だった。
酒で頬が染まっているために余計にそう見えたのかも知れない。
「質問を良いだろうか。これからの参考にしたいんだ」
「無論だよ」
そう言うと、慧音はでは、と佇まいをただして僕に言う。
「こう言うと怒られてしまうかも知れないが、
あなたはそもそも商売というものにあまり真摯に取り組んではいない」
「それはどうかな」
茶化すように言うが、慧音はくすりと笑っただけで言葉を続けた。
「それを見てふと思ったのだが、あなたは香霖堂で働くことに何か誇れるものを持っているのだろうかと思ってな」
面白い質問だね、とまずはクッションをおいた。
少し考える時間が欲しい難問だ。
なので時間稼ぎのために肩を竦めて、逆に問う。
「君はどうなんだい?」
慧音は一度だけ頷いてからその質問によどみなく答えた。
「私にはある。寺子屋での教育は意義のある事だと思っている。
それを行う自分に誇りを持っている。
まあ……今日、いや、昨日のような失敗をしてしまった後でこのような事を述べても説得力は無いだろうが」
照れたように頬を掻いて慧音はそう言葉を閉じた。
建前では無いと素直にそう感じた。
これがこの子の本心なのだろうと。
だからと言って僕がわざわざ自分の本当に思っている事をさらけだす必要など全くないが、
しかしながら隠す理由もまた思いつかない。
この子を騙すのは一苦労だろうし、一度騙せば二度と信頼されない気もする。
折角掴んだ新しい購買層だ。ここで手放すには惜しい。
なので少しだけ抽象的に考えを述べてみる。
「答えは、香霖堂のあの散らかりようにあるんだよ」
「む……」
観念的な話は意外と苦手なようで、慧音は難しい顔をして押し黙ってしまった。
こうなる事はあらかじめ予想できていた事なので、僕は次のヒントを与える。
「君は蜀の人材不足は何故生じたと思う?」
歴史が得意との慧音の言葉に基づいた質問である。
彼女はふむ、と深く息を吐いた。
「それは諸説あると思うが……」
そうだね、と肯定する。
「諸説あるから少し穿った考えも出来る。
例えば孔明があまりにも潔白すぎて、人が近づきにくい雰囲気が出来上がっていたから、とかね」
「それは本当に穿ちすぎた考えだな」
慧音は苦笑する。
だが、言いたいことは分かるだろう? と僕は席を立った。慧音もそれに続く。
「清すぎる水に魚は住まない。
水と油。天と地。外の世界とこちらの世界。
境界を明確にして、厳格なルールを定めてしまえばそれは確かに理路整然として美しくもあるさ。
それにある場所では必要な事でもある。数学然り。歴史の考証然りだね」
だが、と続ける。
「果たして香霖堂はそれで良いのだろうか? 境界を作るというのは『分ける』、ということに他ならない。
分けてしまえば物は少なくとも二分される。稜線が空と地を分けるようにね」
そして、と続ける。
「境界が出来てしまえば、二つのモノは綺麗に分断され、混じり合ってくれなくなる。
誰も扱う事の出来ない外の道具を扱う店として、それで良いのだろうか?
何かを肯定し、何かを否定する店で良いのだろうか。
ここまで言えば分かるだろう」
慧音は頷く。
「人と妖怪だな」
然り、と頷く。
「まさに我が意を得たり、だ。さすがは寺子屋で先生をやっているだけのことはある。
その通りだよ。
妖怪と人、まさにそれが問題なんだ。
店内を灯りで照らし、闇を駆逐すれば妖怪に敬遠される。
あえて暗くし、光を取り入れねば人に倦厭される。
かといって人里の酒場のように一晩中店を開けておくような荒技も出来ない。
だからこそ――」
僕は奥の間の戸を開いた。
玄関口の両脇にある二つの窓からぼんやりと朝一番の日の光が差し入っていた。
店内は暗くもなく、かといって明るくもなく、曖昧な調和を保っている。
どの商品もぼんやりと、雑多に、平等に転がっている。
「僕は境界を作る事をとことん避け、人も妖怪も、誰もが気軽に利用できるような店を作り上げた。
店主は人妖で、やる気があるのか無いのか分からない。
商品もごろごろ転がっていてどれが良い物でどれががらくたなのかも分からない。
そもそも商売をしたいのかどうかも妖しい。
だったらまあ……暇つぶしがてらちょっと寄っていくか、と。
そんな感じで常連が少しずつ増えていった」
つまり、と結論づける。
「香霖堂を語ることがあるならば、僕はここの『包容性』をこそ誇る。
誰が来ようが、何時来ようが、ここは絶対に拒まない。
店主が拒もうが、香霖堂の雰囲気がそれを許さない。
そんな香霖堂の空気を、僕は誇るね」
ふうむ、と慧音は唸った。一拍おいて、そして彼女は残念そうに呟いた。
「嘘、ではないな」
その言葉に思わず頬が緩んだ。
「思うところがあるようだね」
そうだな、と慧音は呆れたように言う。
「香霖堂、今の話はあまりあなたらしくなかった。
自分の事を他人に話す際、あなたはひたすらに自慢だけをするような人ではない。
まあ……謙遜だけをする人でもないが」
「謙遜も自尊もしないよ。僕はただ客観的な自己評価を下すだけだ」
「……どうだか。それにはちょっと賛成しかねるぞ?」
慧音はくすりと笑った。
「とにかく、今の話ぶりではあまりに香霖堂を褒めすぎだ。
それが実にあなたらしくなくて私は違和を感じたんだよ。
多分、さっきの言葉はここが死ぬ程好きな誰かの台詞だろう」
「その通り」
ちなみに魔理沙の言葉である。
境界いらない境界いらないと連呼するあたりが実にあの子らしい。
「だがまあ……実際そういう入りやすい雰囲気作りに腐心したのは確かだよ」
「だがあなたはそれを誇ってはいないだろう?」
「この程度は出来て当然だからな」
当然とは思わないが、と言ってくれる慧音だが、それには反論しておく。
「出来て当然さ。何せ香霖堂のこの雰囲気はオリジナルじゃないからな」
きょとんとする慧音に、人差し指を立てて解答を示す。
「博麗神社」
今度こそ納得がいった、という風に慧音が頷いた。
「それでは、誇るものも誇れないわけだ」
ならば、と慧音は少しだけ淋しそうに笑った。
「あなたはやはり……この店に何の誇りも持ってはいないんだな」
あるいは、と僕は言葉を濁した。
慧音はそうか、と頷き、そして顔を上げた時には晴れ晴れとした笑顔に戻っていた。
「一日、世話になったな。迷惑をかけっぱなしで帰るのは非常に申し訳ないのだが……」
気にしないでくれ、と片手を振る。
「こういう事には慣れているんだ。
君はストーブの前に陣取ったり商品を無断で盗んだり破壊したりしなかったからまだマシさ」
そんな事をする奴が居るのか、と苦笑する慧音に、最近は増える一方だよ、と苦くぼやいた。
慧音はそうか、それは大変だな、と言って、そしてくるりと背を向けた。
これから彼女は人里に帰るのだろう。
そして誇りと共に子供達に歴史を教えるのだろう。
それはなかなか感心な事である。
「誇りと言えばだね」
気がつくと、何故か言葉が口をついて出ていた。
慧音は驚いたように振り返ったようだが、その時には僕はもう彼女に背を向けていたため、表情までは分からない。
自分が何を言おうとしているのか自分でも分からないまま、僕は続きを語った。
「さっき僕が述べたような事をさ、帰り際に色んな客が言ってくれるんだ。
香霖堂はなんだか落ち着く、居ると楽しい、また来たくなる、というような事を、嬉しそうな顔でね。
そして本当に、またやって来てくれるんだよ。しかも人妖問わず、だ。
それが本当に嬉しい。
そういう時には例え売れない店であっても、香霖堂を開いていて良かったと思えるかな。
本当にちっぽけな事だが……そういう事でいいのならば、僕は胸を張って誇っているよ」
随分と恥ずかしい事を口走ってしまった。
つまらない事を言ってしまったようだね、照れ隠しに肩をすくめておく。
しかし僕がこれだけ恥ずかしい思いをしたというのに、慧音の答えは無かった。
ただ彼女は店を出る際に、
「また来るよ」
と、そう言い残して去っていった。
それだけで十分だった。
十分すぎる、ねぎらいだった。
僕はゆっくりとカウンターへ行き、そして椅子に腰掛ける。
本を取り出し、ページを開き、そして軽く目尻を押さえる。
これでもう店が開いたも同然なのだが……最後に一つだけ、確かめたいことがある。
「魔理沙」
少し大きな声でそう言うと、すぐに玄関の戸が開き、黒い帽子にこんもりと雪を積もらせた少女が体を震わせながら飛び込んできた。
「酷いぜ! 私が外に居るのに気づいていながら無視するんだもんなあ全く!
少しはこっちの身になって慧音なんか追い出してくれよ!」
暴徒と客のどっちを大切にするかは言うまでもないだろう、と少しいじめてやると案の定魔理沙はぶつくさと文句を言い出した。
これを一々聞いているときりがないので、本題に入る。
「それで、魔理沙」
「なんだよ馬鹿」
ご機嫌斜めな少女に思わず溜息を一つ吐いてから、とても気がかりな事を確かめておく。
「香霖堂から出た彼女は……笑顔だっただろうか?」
「答えが分かっている事を一々聞くなよ」
魔理沙はやれやれと溜息を吐き、もったいぶるように帽子を脱ぎ、それをカウンターの上に無造作に置いてから、小さく息を吐いた。
「笑顔だったに、決まってるじゃないか」
まあ、そうだろうね。
僕はにこりともせずにそう返事をすると、ぱたんと本を閉じた。
詰まらない。慧音の言った通りだ。最近の本は堕落している。
魔理沙はしばらく文句を言っていたのだが、やがて行儀悪くカウンターに腰掛けると、そのままこっくりこっくりと船を漕ぎ始めた。
とんだ看板娘もいたものだ。
まったく、やれやれである。
ともあれこれで何の気負いも無く仕事が出来るな、と僕は安堵した。
そして、今最も優先すべき仕事は――
「寝ること。兎に角、睡眠だ」
魔理沙の三角帽子をぺしゃんこに潰して、それを枕代わりに僕はカウンターに伏した。
客が来ようが泥棒が来ようが知ったことではない。
誰が来ようとも拒みはしない。ならば寝ていても同じ事だ。
何か買いたい物好きだけが僕を起こせば良いだけのことである。
だが、出来れば起こして欲しくないものだ。
僕は魔理沙をちらりと見やった。
だらしなく弛緩した笑顔を浮かべて無防備に寝ているこの少女の様子には、呆れて溜息も出ない。
全く、二人揃って商人としては大失格だな。
だがまあ楽しければそれでも良いだろう。
今の楽しみは寝ることだ。
どんなに強く陽が照ろうとも、香霖堂は薄暗い。
幸せな夢を見るにはもってこいだ。
魔理沙のような緩んだ表情をしていなければいいのだが……。
そんなどうでもいい心配をしながら、僕は段々と濃い倦怠感に包まれる心地よさに身を任せた。
慧音と真面目に議論できる数少ない大人なんだろうなぁ…なんて思ったりなんだり。
世話焼き女房な慧音も素敵でしたw
慧音が一箇所「霖之助」って呼んでる所がありますけど、酒に酔ってるからなのかな?
その後に呼び方が「香霖堂」に戻ってたのでちょっと気になりました。
意図的なものならすいません。
「確か」が重複していますと誤字の報告
さて魔理沙…何考えてた?w
いつもながら和みますね~
読者が色々と考察して内容に引き込まれる。
とても読みやすかったです。
十分に貴方の慧音は自分でしゃべってくれてたと思います。
香霖堂が香霖堂であるがままに、みんならしくて私はいつも楽しく拝見させてもらってます。
ってめっちゃんこ偉そうですね・・・
次回も待ってますww
私が書くと、なかなか心理描写を地の文が書けないんだなあ・・・。
一つ、勉強になりました。
ただ、内容と題名があんまり合致してないような気がしました。
「やさしいお姉さん」のような慧音が多い中、アリだと思わせる慧音でした。
霖之助の香霖堂に対する希望が掘り下げてあって、とても面白かったです。
慧音も、しっかり自分で喋っているように感じました。
>>37さん
>>内容と題名
鍋 ⇒ いろんなものが一つの器に入っていく ⇒ 人妖問わず入ってくる香霖堂
という連想表現なのでは?
次はだれが来るのかなぁ
でもやっぱりフランが(ry
あと、フランの作品、1万越えおめでとうございます!
寺子屋の生徒「今日紹介されていた古道具屋、明らかに慧音先生が好意的だった……妬ましい妬ましい……」
「確定的に明らか」だなんて言葉の使い方は無いよなあ、
などと先日某黄金の鉄の塊を嘲笑した罰が当たったのでしょう。
なかなかにクリティカルな間違い方をしてしまいました。
これからは謙虚な作者として精進していきたいと思います。
それでは。
それにしても貴方が書く霖之助は秀逸だなあ。パルスィすぎてGJですよ。
同じキャラも書き手によってこうも違うのか、と痛感させられた次第です。
さって、過去作巡回するかな、っと。
慧音はなんとなく、槍のような性格じゃないかと思います。
まじめで真っすぐで、自他が認めるような正道を歩む人だけど、その切っ先は決して大きくはなく、また正面以外の方向から力をかけられると弱い。
しかし、その小さな刃は絶対に砕けない。なんかそんな感じ。
しゃべらされているようには見えませんでしたよw
>淋しいことだ。
>ならば淋しい余生のために交友範囲を広げるのもまあ悪くない。
この部分で少々切なくなりました。
与吉さんの書く霖之助、暖かすぎず冷たすぎない感じがとても好きです。
霖之助がジジ臭いだけかw
邪魔しちゃ悪いんで差し入れだけ。
確かにまた来たい、と思ってもらえれば道具屋冥利に尽きますね
あと慧音、可愛い!
違和感なんて全く感じないです。生き生きしてましたよ。
かわいいからOKOK
「常連」は増えたけれど「客」は増えましたか…?(小声)
昨今は幼馴染な慧霖が主流でしたが、
個人的にはこういうスッキリした慧霖も好きです(語彙貧)
いい作品をありがとうございました。