三章
突如として轟いた爆音に、守矢神社の風祝(かぜはふり)である東風谷早苗は文字通り飛び起きた。冗談抜きで数センチほど体が浮き上がり、布団の上を転がってしまったのである。
それから数秒ほど、早苗は何が起こったのかわからず呆然としていた。暗い部屋の中は今が真夜中であることを示している。はっと我に返り、早苗は寝間着のまま自室を飛び出した。ここの神社に祀られる、二柱の神様の無事を確かめるため。
「――早苗!」
部屋の襖を開けた直後、暗い廊下の向こうから早苗は名を呼ばれた。慌ててそちらへ視線を向けると、金色の髪を持った少女が駆け寄ってくる。
「諏訪子様!」
その少女、洩矢諏訪子の体を早苗はしっかりと受けとめた。その身長は早苗の肩ほどまでしかない少女であるが、彼女こそが先ほど説明した神様の一柱である。
「早苗、大丈夫だった」
「はい、大丈夫です。それより今の凄い音は」
「――二人とも無事かい!?」
そこへもう一つの声が混じった。今度は諏訪子の来た方とは反対の廊下から残り一柱の神様、八坂神奈子が稀に見る焦りをその顔に浮かべて駆けてきた。
「神奈子様、ご無事で」
「ああ、こっちは全然だ。諏訪子のほうも大丈夫みたいだね」
「まぁなんとか。……ってか今の轟音、何? 花火にしちゃ季節と天気がずれすぎだよね」
そう、今の音は確かに花火の打ち上げ音にも似ていた。しかし諏訪子の言う通り、今の季節は紅葉の見頃であるし、それに今夜は豪雨と風が吹き荒れている。花火を上げる状況にしては似つかわしくないにもほどがあった。そして何より音の大きさが桁違いすぎる。
「いや、私にもわからん。大砲の砲撃音ってことは間違いないだろうが……」
軍神であるが故にその風切り音が大砲のそれであることは即座に聞き分けた神奈子であるが、「大砲」という兵器の中であれほどの爆音を叩き出す様な代物は二千年以上の生の中でさえ聞いたことがない。
「た、大砲? 今のがですか?」
早苗がぶるりと身を振るわせて神奈子に問い返した。わりと最近まで彼女は幻想郷の外の世界で暮らしており、戦争というものは教科書でしか知らない。だからこそ、今のような轟音が戦争で使われる大砲だということに心底から恐怖を覚えた。
「ああ、そうだろう。何でいきなりそんなものが――」
――そこで唐突に神奈子の言葉は遮られた。それまで聞こえていた自然的な風とは明らかに違う、すさまじい豪風が神社を揺さぶったからである。
絹を裂くような悲鳴を上げて早苗がしゃがみこみ、それを庇う様にして諏訪子、その上から神奈子が覆いかぶさる。その揺れが続いたのは十秒を超えるか超えないか程度であったろうが、早苗にはそれが永遠の時間にも思えた。
長いそれがようやく終わりを告げ、その揺れは立ち上がれるほどには治まった。まず神奈子が立ち上がり、次いで諏訪子が未だ恐怖からの震えが止まらない早苗を支えて立ち上がらせる。
「……な、何ですか、今度のは」
それだけやっと口から搾り出して、諏訪子に支えられながら早苗が再び神奈子に問うた。だが今のは彼女にもそれとなく予想がついた。――とてつもなく速く、そして大きい何かが通り過ぎた瞬間に吹く風であると。
「……早苗、腰が抜けているところに悪い。天狗のお偉方に連絡を入れてくれるかい」
じっと天井、その更に上の何かを睨みつけていた神奈子は、早苗の問いには答えずにそう命じた。役割を与えられて早苗は落ち着きを取り戻し、そしてほんの少しだけ――いや確かに腰を抜かしてはいたのだけれど――カチン、とした。だがそのかすかな怒りのおかげで早苗は己の足でしっかりと立ち上がる。
「はい。分かりました」
力強くそう早苗が答えると、神奈子は満足げに笑う。ひょっとしたら今の怒らせるようなのもわざとだったのかも、と早苗はその笑顔を見て思った。
「よし、任せたよ。諏訪子、あんたは私と来な!」
「は、はいよ!」
そうして神奈子と諏訪子は玄関に向かって走っていく。早苗も自分の命じられた役割を果たすため、行動を開始した。
◇◆◇◆◇
妖怪の山の東区域。紅葉に彩られた木々が生い茂るこの辺りは、同時に多くの花も咲き乱れる区域でもある。春先にはいっぱいに咲き誇る最高の菫たちを見ることが出来るが、秋には秋で良い花たち――例えば自然薯(じねんじょ)のような――がその美しさを競うように咲き乱れている。もっとも、今夜のような闇夜と大嵐ではそれを探しに来るような輩など居るはずもないが。
しかしその常識をぶち破ってやってきた「あれ」が、この岩一枚を挟んだ向こうにいる。
秋静葉と秋穣子、さらに鍵山雛の三柱の神が息を殺して岩陰に隠れていた。大岩の後ろに身を寄せ合うようにしてその身を隠す彼女たちは、打ち付ける雨の冷たさとは違った震えを無理やり押さえつけている。あれに気付かれぬように。
雛と静葉がほんの少しだけ顔を動かしそっと岩の向こうを覗いた。――爛々と輝く二つの真紅の光が闇の中を蠢いている。それだけではない。その傍でギラリと金属的な光が反射していた。その反射するものは、ナイフのように研ぎ澄まされた牙である。そしてそれらを持つ長い首と、何か筒のようなものを二つ背負う巨体からは油と鉄の匂いを漂わせていた。
鉄で出来た竜。それがそこにいる何かに雛と静葉が抱いた印象であった。
「(な……んなの、あれ)」
「(……さ、さあ……)」
静葉の当然の疑問に雛はそう返すしかなかった。
真夜中に突如として響き渡った爆音に叩き起こされ、互いの安否を確かめ合っているその時にあの竜がここに降り立ってきたのである。咄嗟にこの大岩の影に飛び込んだから良かったものの、見つかっていたらどうなっていたことかと想像するだけで恐ろしい。
竜はさきほどからあまり大きくは動いていなかった。彼女達が隠れる岩に半身を見せるようにしてうずくまり、じっと地面に視線を下ろしている。そうして少し立ち止まった後、また何歩か移動して同じように地面を見ることを繰り返していた。……何かを探している姿にも見える。
「(……お、お姉ちゃん、大丈夫だよね)」
ぎゅっと静葉の手を握る穣子。……静葉からすればこの質問にはそう簡単に答えられるものではない。静葉は神といえど、持ちうる能力は紅葉を司る程度。とてもじゃないが戦闘向きのそれではなかった。同じくこの穣子の能力も豊穣を司る程度であり、戦おうなら無謀にもほどがある。唯一ここに居る中で戦闘に足る(と言えるくらいの)能力を持つのは厄神である雛のみだ。とはいえ勝てるかどうかは全くの別問題であるが。
「(……大丈夫。こうやって隠れてれば絶対見つからない)」
だがわざわざ実の妹を不安に陥れるような愚挙を静葉がするはずもない。こつん、と額をあててやった。闇の中、少しだけ穣子の表情が和らいだのを静葉は見る。
「(……! 静葉)」
そこへ雛の声がかかった。何、とそちらへ視線を向ければ竜を見るように指差している雛。それに合わせて竜を見てみれば、先ほどまでよりも深くうずくまった竜の姿があった。何かを掘り返しているようである。
「(……あいつ、探し物を見つけたみたいね)」
「(え、じゃあ)」
「(たぶんそろそろ動くんじゃないかしら。そのままどこかに行って貰えると嬉しいんだけどね)」
もう少し堪えればあいつはどこかへ飛んでいくだろうという雛の推論は静葉と穣子の心に僅かな安堵を齎した。――それと同時に、油断も。
雛の推測は的中し、うずくまっていた竜がぐっと空を仰ぎ見て翼を広げた。間違いない、飛び立つそれだ。助かった、と雛達が思った――その瞬間、だった。
竜が飛び立つための羽ばたきは予想外の振動を響かせ、大地が揺さぶられる。それはあの轟音が引き起こした鳴動に比べれば遥かに小さいものであったが――穣子の足をぐらつかせる程度の効果は十分にあった。
「わっ」
バランスを崩した穣子がたたらを踏み、何とか転ばないように数歩じゃりじゃりと小石を踏みしめる。そしてそれ以上に決定的だったのは――岩の陰から体がはみ出してしまったことだった。
「…………あ」
その声は誰の者だったか、雛か静葉か穣子か。ひょっとしたら全員が言ったのかもしれないし、誰かの聞いた幻聴であったのかもしれない。しかしそれは些細な問題である。
重大なのは、竜がこちらに気付いた、ということだ。
ギロリと紅く紅く染まった瞳が穣子の視線と重なる。その瞬間、奇妙なことにその瞳に怨念の炎が燃え盛ったように穣子には見えた。生き物でないことを証明するような冷徹な眼であるにもかかわらずである。向けられているものは確かな憎しみであり、年月に年月を重ねた煉獄の焔。もちろん穣子にはこの竜との因縁などないし、恨まれる道理など皆無である。まるでそれは「神」という存在自体に対しての憎悪――。
「おいっ、このやろーっ!!」
数秒ほどの静寂を引き裂いたのは、静葉の大音声(だいおんじょう)。ぎょっと穣子と雛(に加えて竜)がその静葉へ視線をやり、総計六つの瞳が静葉に向けられた。静葉は人差し指を竜に突きつけて、さらに言葉を重ねる。
「わ、私の穣子になんかしてみろっ、山中の紅葉を操って、た、祟ってやるぞーっ!!」
震えを武者震いへと変換して声を張り上げる静葉。荒い息を吐き半分涙を目に滲ませて叫ぶその姿は見方によってはひどく滑稽だろう。だが今この場において、穣子は姉のその姿がどんな神よりも神々しく見えた。
時として何か強い意志をこめた行動は状況に激烈な変化を齎すことがある。人が行う程度でそれは齎されるのだから、まして神がやれば効果は絶大である。
竜は視線を静葉に固定したままずらさない。ほんの少しだけ赤みが薄まった瞳で、じっと静葉を見つめている。静葉も負けじと視線を外さず、激情を露にした双眸をもって睨み続けた。
「――ぎゃう」
数秒ほど続いた睨み合いに終わりを告げたのは、竜の一声であった。――ばかみたい。その意味がこめられていたのであろう一声を静葉に浴びせかける。
そうして竜は静葉たちに踵を返すと、再度翼を大きく広げて、今度こそ豪雨と闇夜の中へと飛び去っていった。
「――へ、え、あ?」
ぺたん、と静葉がしりもちをつく。お姉ちゃん、静葉、とそれぞれ穣子と雛がそこへ駆け寄る。静葉は完全に腰が抜けてしまっており、二人に支えて貰ってやっとこさ立ち上がった。
「なんて無茶するの。あいつが怒って攻撃してきたら私たち全員死んでたわよ」
雛が強い口調で言葉をたたきつける。本気でそれを心配したのだろう、目がそう語っていた。
「いやごめん、なんか体が勝手に……」
「私に謝ってどうするのよ。大体ね、」
「お姉ちゃん、格好良かったよ」
雛の言葉を遮るようにして穣子がそう言う。それを聞いて雛はあきれたようなため息、静葉は照れたように頬を掻いた。
「――でも、あまり喜んでられないわね」
雛が表情を鋭くし、竜が飛び去った方角を睨む。竜と対面していた間はどこかへ飛び去ってくれれば良いと考えていた雛だったが、それでは何の解決にもなっていない。
しかもあちらの方角は――避難壕、だ。
◇◆◇◆◇
早苗を通じて大天狗たちへと伝えられた異変は、迅速に里へも伝わっていた。
カンカンカンカンカン――妖怪の山に半鐘が鳴り、それは夜を割るようにして響き渡っている。それに半ば押されるように急ぎ足で進む影が三つ。文、先生、にとりを背負った椛の三人である。
「にとり、がんばって」
椛が背中のにとりへと励ましの声をかける。にとりには雨合羽を被せ自身は番傘をさし、にとりが極力濡れないようにはしていたが、返事をする気力もないようでにとりは荒い呼吸をするばかりだ。この状態では飛ぶわけにも行かず、こうして三人は地面を駆けて先を進んでいた。
彼女達が向かう先は山中の避難壕。妖怪の山は半分要塞でもあるため、こういった有事の際の避難所は確保されていた。
――にしても。なんだったんですかね、あの轟音は。
ちらりと嵐の夜の彼方を見据えながら文が思う。その目にはのらりくらりとした彼女にしては珍しく強い怒りが点っていた。豪雨の降る真夜中で、しかもこちらには病人がいるというのに。はた迷惑とかそういうレベルではない。
「文様っ」
椛の怒鳴るような声音に文が我に返ると、既に先生と椛は離れたところで立ち止まっていた。慌ててその後を文は追いかける。
そんな調子で山中を駆けていくと、次第に別方向からも他の妖怪達の姿がちらほらと見られるようになってきた。もう避難壕はかなり近い。
「河城さん、あと少しですからね。避難所に着いたらすぐに横にさせてあげますから」
椛と並んで走る先生がにとりの背を軽くさすりながら優しく言った。
そうしてようやくその避難壕が見えてくる。そこは切り立った岩壁をくりぬくようにして出来た洞窟であり、こうこうと明かりが入り口に灯されていた。ほう、と椛が文の横で息をつく。見ると、少しバテたのだろう。椛がぐいと汗と雨の混じった額の水を拭っていた。にとりを担いで飛ぶでもなく走ったのだ、体を鍛えている椛でも多少疲れる。
――しかし、この時点ではまだ安心すべきではなかった。いくら目の前に避難壕が見えているといっても、まだ入っていないのだから。
――どこからか、咆哮。
「―――――――え?」
文と椛が同時に呟いて、その咆哮が聞こえてきた方向の空へと視線を上げる。それにつられるようにして先生、さらには他の妖怪達もそちらへと目をやった。もちろん空は暗闇と豪雨で何も見えない。しかし、文と椛には見えていた。烏天狗としての驚異的視力を持つ文と、千里を見通す程度の能力を持つ椛にだけは。
何か紅い二つの光が、闇と豪雨を引き裂くような速度でこちらに向かってきているのを――。
金属的な轟音と、大地を揺さぶる激震。
「それ」が再びの咆哮と大地を抉りながら着陸する際に引き起こされた地震は、そこにいた者たち全てのバランスを大いに狂わせた。ぎゃあ、うわっ、ひぃ、と十人十色の悲鳴を上げて妖怪達が転げる。文たち三人はそれでもなんとか転ばないように互いを支えあう。
そうしてようやく揺れと轟音が収まったとき、「それ」は文たちの目の前にいた。もうもうとした土煙を纏わせて、そこにいた。
炯炯とした紅い瞳に、見事に牙が並ぶ口。鉄の巨体と巨大な翼と、その背に背負うは二門の大筒。
――鉄、いや、機械の竜。そう文の眼にはそれが映りこんだ。
そこまで経って、誰かが甲高い悲鳴を上げた。その悲鳴が撃鉄となり、避難所前は一気にパニックに陥り、周囲で転がっていた妖怪達も我先にと立ち上がってその洞窟へと駆け込み始めた。
一方竜はといえばそんな状況など気にもかけていないようで、コォォオオと白い蒸気を口から吹き出しながらゆっくりとその首を回す。何かを探すように。そしてその視線が椛へと向けられた。……いや椛ではない。むしろその視線は椛の背の――にとりに、だ。
――こいつ、にとりさんを狙ってる。文はその結論にたどり着くのにそう時間はかからなかった。
「――ぎゃうぎゃう、ぎゃう」
その時明らかに何か場に不似合いな声が聞こえたが、それは恐らく幻聴だろうと文は判断する。そして竜はこちらへと歩を進めてきた。大地を抉っていた爪を持つ足が動くたび、軽い地震が引き起こされる。
「……ゆっくり、ゆっくり下がって」
文はスペルカードを手にかけたままの体勢で静かに椛と先生に言う。本当なら即座に『天狗のマクロバースト』あたりでも叩き込みたいところであったが、竜との距離は六尺もない。あまりにも距離が近すぎる。じりじりと後ずさりをしながら何とか距離をとろうとするが、それを追うように竜も歩み寄ってくるため、間合いはほぼ変わらないままだ。
「――斉射!」
そのときだった。竜の巨体に隠されて視界から外れていた避難壕の入り口から声が上がる。直後、弾幕が竜の向こうから雨霰と放たれた。
「うわぁっ!」
「椛ちゃん!」
椛が悲鳴を上げ、にとりともども転びそうになるが先生が庇うようにして椛を支える。巨体の合間からのぞくようにして文が壕の入り口を見やると、数人の天狗たちがスペルカードをかざして弾幕を放っていた。恐らくこちらが見えていないのだろう。この闇夜と豪雨、それにちょうど竜の影になっているのだから。文が弾幕の攻撃を止めるように声を張り上げ――
「――ぎゃう!」
ようとしたが、竜の一声に重なってそれは遮られる。え、と竜を見てみれば翼を大きく広げて文、椛、先生を護るかのように囲っていた。鉄の翼は凄まじく堅いようで、あれだけの弾幕を意にも介していない。しかしこの行動は、竜にとっては被弾面積を広げるだけで何のメリットも無い筈だ。どうして、何のために。
竜の瞳が文を射抜いていた。先ほどまでそれは紅く染まっていたのに、今は暖かい橙色になっている。だいじょうぶ、だいじょうぶ――その目にその言葉が込められていた。
――この竜、一体……? 文が真意をつかめず、思考を若干混乱させていた刹那。
「神具『洩矢の鉄の輪』ぁ!!」
どごん、と鈍い音がした。上空から飛来した鉄塊が竜を直撃したのである。金属同士が擦れあうような奇声を上げて、竜が真横に吹っ飛ばされた。直後、文たちは弾幕に曝されたが、向こうも気付いてくれたようですぐにそれは収まる。
そこで真っ先に動いたのは椛だった。直ぐ様走り出して避難壕へと駆け込んでいく。
「射命丸さんっ」
先生が文の肩を叩き、避難壕へと急かした。入口の方でも天狗達が何事か叫んでいる。先生、それに遅れて文が続き、壕の入口に駆け込んだ。
避難壕の入口で文が振り返り、あの鉄塊が飛来してきた方向の上空を仰ぎ見る。壕の明かりに照らされ、闇の中にその姿が浮かんでいた。
「……よぉ、随分とまぁ好き勝手してるようさね」
「あんまり暴れると、機械でも祟るよー?」
守矢の二柱、八坂神奈子と洩矢諏訪子。先ほどの鉄塊は諏訪子の方が放ったものだろう、その手にはスペルカードが握られていた。
――憎悪と怒りの咆哮。
弾き飛ばされた竜がその身を起こした瞬間に放たれたその轟音には、地獄の鬼たちも震えるような激怒と並の怨霊を遥かに凌駕するだろう憎しみが感じとれた。瞳は橙から真紅に染まり、その眼でもって神奈子と諏訪子を睨みつけた。
咆哮と同時にその背の大筒が吼える。火を吹いた二門のそれから砲弾という猛獣が彼女たちへと襲いかかった。
ごっそり火薬が詰められているだろうそれの弾速はかなり速い。しかしそれを二者は半身を捻るだけであっさりとかわしてみせた。いくら威力と速度があろうと、自機狙い単発弾など大した驚異にはなりえない。
「外れ」
侮蔑と嘲笑を綺麗に重ね合わせて彼女たちは言った。それが挑発の意味を成したのかどうかは分からないが、竜が神奈子と諏訪子を完全に敵と認識した切っ掛けとなったのは間違いないだろう。
竜がその翼を広げ、大地を蹴りこむ。爪の形に地面がめり込む程強く踏みしめたかと思うと――その巨体からは信じ難い速度で飛翔し、二者へと肉薄した。
「さあ着いてきな!」
「こっちだこっち!」
神奈子と諏訪子がそれぞれ声を上げて、竜に負けず劣らずの速度をもって彼方へと飛び去る。竜と二柱が避難壕の明かりが届かない距離にまで飛び去るのに掛かった時間は、ほとんど瞬きにも満たなかった。
「……………………い、いった?」
数瞬続いた沈黙を解いたのは椛の呟きだった。その言葉が切っ掛けとなって、半ば呆然としていた避難者たちがよろよろと立ち上がり、奥へと歩き出していく。
「――椛ちゃん、射命丸さん、私たちも。早くにとりさんを横にしてあげないと……」
「あ、は、はい」
先生の言葉に文も我に返り、壕の奥へと歩み出そうと――。
「…………――んっ……?」
椛の背から身じろぎと共に声を上げ――にとりが微かに目を開いた。
◇◆◇◆◇
ギシギシと軋みを上げるような頭痛の中で、にとりは目を開いた。ひょっとしたら機械にとって錆付いた歯車があるというのはこういう痛みを指すのかもしれないと思う。
水で濡れた窓から外を眺めたときにも似たぼんやりとした視界が、少しずつ鮮明さを取り戻していく。同時に他の感覚も目覚めてきたようで、今自分が誰かに背負われているらしいということが分かってきた。
そうしてようやくはっきりしてきた視界の中で――にとりは最初に、椛の顔を見た。
「――にとり!」
少しかすれたような声で椛が叫ぶ。自分を背負っているのは椛のようで、何で椛がそんなことをしているのかとにとりは不思議に思った。辺りを見渡してみれば、洞窟の入り口か何かにでもいるのか周りは岩の壁。そして向こうでは豪雨の降る夜が広がっていた。
「にとりさん! 良かった、目を覚ましたんですね」
にとりの視界へもう一人、椛のお姉さんのような存在の射命丸文が心の底から安堵をしたように息を吐く。さらにその横で胸をなでおろすのは、あまり馴染みのない女性――そういえば天狗の里で医師か何かをやっている人で、確か先生――もそこにいた。
なんだか状況がよく飲み込めない。軋む頭を何とか働かせて、確か家に着いてから唐突に意識が途切れたことまでを思い出すが、どうやったらその状況からこういう状況にまで移行するのだろうか。医師がいるということは恐らく倒れたところを誰か(たぶん背負われているところからして椛)に担ぎ込まれたのだろうということまでは分かるが……それでも何で洞窟に? そこが全く繋がらなかった。
「えっと……ねえ、何か、あったの……?」
にとりがなんとかそれだけ搾り出す。その疑問に椛が答えた。
「……鉄の化け物が来たのよ。すごく大きくて、翼で飛ぶし、なんかこう竜みたいな――」
鉄、化け物、大きい、翼、竜。それらの単語を聞いた途端、にとりの思考が滑らかに回転を始め、ほとんど一瞬で「その名前」を導き出した。
まさか。あの地底湖からどうやって。いやそれよりあんな状態の翼で飛べるわけが――堂々巡りを始めた思考を止めたのは、どこか遠くから聞こえてきた金属の咆哮だった。うわっと椛が身をすくませたため、にとりがその背からずり落ちる。ふらふらとする足で何とか地面を踏みしめて――確信した。
「……――リュウノスケ、だ……」
……は? 文、椛、先生が口をそろえて疑問の言葉を口にした瞬間――にとりはそれまでのふらつきが嘘のようにしっかりとした調子で洞窟の入り口へと駆け出し、そのまま嵐の夜の中へと飛び込んでいった。
「――えっ、ちょっ、なっ」
「――いけない!」
椛の言葉にならない驚愕の声と、先生の制止のそれを尻目に――その横を疾風を連想させる速さで文が駆け抜けた。
「椛っ、貴女はそこにいなさい! 先生も!」
振り返りもせずに声を張り上げると、文がさらに速度を上げる。幻想郷最速と謳われる神速を持って駆ける文が強く地面を蹴ったかと思うと、その姿が豪雨と闇の中に溶け込んでいった。
◇◆◇◆◇
乱射乱射乱射乱射乱射乱射乱射乱射。いくら言葉を連ねても足りないほどの弾が暴れ狂っていた。しかも乱雑に撃っているように見えてその実恐ろしく正確。逃げ道をふさぐ弾、狙い打つ弾、本当にランダムに撃って弾道を読ませないようにする弾。完全な統率の取れたそれはさすが機械というべきか。
その背にある大砲は二門どころではなく、とっくに二桁を超えていた。加えて翼や胴体からも小型の銃口が覗いており、まるで兵器庫そのものが竜となって襲い掛かってきているようにも感じられる(いったいどこに隠していたのかと甚だ疑問であるが)。
神さえも消滅させかねない苛烈を極めた火力。弾幕、という弾幕ではない。文字通り「幕」として張られた弾だ。その幕に遮断され、神奈子と諏訪子は全く竜に近づけないでいた。
とはいえ防御一辺倒というほど押されているわけでもない。暴れ回る弾の間を潜り抜けながら、スペルカードを総計で既に二十枚以上は撃ち込んでいた。特に神奈子は金属を腐食させる藤の蔓をそれに絡めている。どれほど竜に火力があるにしても、それは相当な痛手になりうる、はずなのだが――。
「(こいつ、堅すぎ!)」
一向に効いていない、というのが現実であった。いや機械である以上痛覚が存在していないだろうから表情に出ていないだけなのかもしれないが、それを差し引いても鉄の巨体と翼に損傷があるようには見受けられない。竜が完全に攻撃に専念してほぼ一切の回避行動を取らないのはあの撃たれ強さのためであろう。
なんなんだこいつは、まるで神殺しそのもの。なぜそんなものがこの山にいるのか。しかしそんな疑問を考える暇すらこの竜は与えてくれない。
「このっ! 土着神『七つの石と七つの木』!!」
諏訪子が宣言と同時にスペルカードを発動させた。七色の大粒弾の弾幕と七本の縦長のレーザーが竜の弾幕間を縫うようにして数発が左肩へ直撃するが――途端に烈火に燃え上がったその真紅の瞳が諏訪子を貫き、三門の大砲がそちらへ向けられた刹那。
閃光。
三つのそれから吐き出された極太の光線がその先にあった小さな影を飲み込んだ。
「諏訪子!?」
この竜、レーザーまで――神奈子がそれに一瞬だけ気を取られる。致命的にして決定的な隙であった。それを竜が逃すはずもない。すぐさまそちらへと残りの砲口が向けられて、撒き散らされていた弾幕全てが神奈子に集中し、神を食らわんと襲い掛かる。とてもその場で回避しきれる量ではない。それは「幕」ではなくもはや「壁」と化していた。
「――くっ!」
神奈子は急上昇し、その竜と弾壁から距離をとる。そのまま飛翔速度を上げていき――雨雲の中へと飛び込んだ。
豪雨を作り出している雲の中は雷が荒れ狂っている。耳を劈くような雷鳴が轟き渡り、それを掻い潜りながら上空へと抜けた。
雲の上では月と星がその光を持って夜を照らしていた。先ほどまで弾幕だけが唯一の光であった闇の中にいたため、その光でも十分に明るく感じられる。
「お、お〜い神奈子ぉ〜」
そこへ若干間抜けさを感じさせる声が神奈子の耳へと届いた。見れば服をボロボロにしてふらふらと不安定にこちらへ飛んでくる諏訪子の姿がある。どうやらあの一撃で雲の上まですっ飛ばされていたようだった。
「諏訪子、あんた無事か」
「な、なんとかね」
神奈子が諏訪子に問いかけると、しっかりとした返事をしてその表情を引き締めた。
しかし状況が変わったわけでもない。今は何とか雲の上に出てあの竜を振り切っているものの、ここを見つけるのに恐らく一分とかかるまい。なんとかしてそれまでに状況を立て直さなくてはならない。
だがあの強固すぎる竜の外甲に闇雲にスペルカードを撃ちこんでもダメージなど期待できそうもない。それにそもそも神奈子の持つスペルカードは既に残り一枚だ。そしてそれは諏訪子も同じだろう。先ほどのスペルでもはや後がなくなっている。
どこか一点。一点でいい。あの「鉄」でない部分さえあれば――――
――――――――そこで神奈子は、はたと気付いた。
あの竜は確かに「ほぼ」一切の回避行動を取っていなかった。それはそうだ、あれだけ堅ければ攻撃など意にも介すまい。……しかしそれはあくまで「ほぼ」だった。数万発と放たれて数千発と竜に直撃した神奈子と諏訪子の弾幕の中、恐らく二桁に届くか否かという程度の回数であったが――「避けた」ものが確かにあった。
そして極めつけは――。
「諏訪子ッ!」
神奈子が勢いよく振り返り言葉を叩きつける。
「さっきのスペルカードで当たった場所は――『左肩』!?」
「――え、あ――そうか!」
その言葉に諏訪子は雷撃に打たれたようにして表情を変えた。
そう、あの竜は異常なまでに堅いが故に、いくら攻撃を受けようとも激昂こそはしていたがあの完全統制された弾幕を延々と撃ち続けていた。それが神奈子と諏訪子にとって一番対処に困る攻撃であるからだ。そうしてこちらの攻撃の芽を完全につぶした後、あの極太の閃光を撃ちまくれば反撃の手がないこちらは間違いなく撃墜されていたに違いない。
だがしかし、あの一発を食らった直後だけは、諏訪子への怒りに全てをかなぐり捨てていた。切り札をわざわざこちらに見せてきたのだ。
これらの情報が導き出す結論は一つ。仮に弱点ではなかったとしても――あの竜の左肩には、何かある。
「諏訪子、まだスペルカード残ってるかい」
「もっちろん。神奈子は?」
「おあつらえ向きに、切り札さね」
「奇遇だね、私もだ」
ピッ、と装飾を施された一枚のカードを神奈子と諏訪子はその手に持つ。切り札とは最後に見せるもの。下手に先に見せてしまえば、それは切り札の意味をなさなくなる。確実に決めるために、切り札とはあるのだ。
その時、金属の咆哮が分厚い雨雲の真下から聞こえてきた。竜がこちらの座標を捕らえたようである。
「――それじゃあ行くかぁッ!!」
「――おぉッ!!」
二柱が鬨の声を上げて、雲へと飛び込む。落下のスピードを加えて一気に加速し、上昇時に半分以下の時間で雲を抜けきった。
そして視界に現れ出でたる鉄の竜。全ての砲口を神奈子と諏訪子へと向け、ここで決めるつもりなのだろう、これまでのそれとは比べ物にならない最高の火力を解き放ってきた。
「神符――!!」
「祟符――!!」
二柱の神も、己の持つ最高威力のそれをかざし――
「――――『神が歩かれた御神渡り』!!!」
「――――『ミシャグジさま』!!!」
大爆発。
◇◆◇◆◇
雨雲と夜を消し飛ばすかのような大爆発が、幻想郷を真昼のごとく照らし出した。闇に慣れきっていたにとりの瞳は、それを直視してしまったがために、その役割を放棄した。
「うあっ……!!」
完全に目がイカれてしまい、数秒ほど瞼を押さえてもだえる。ようやくその痛みが引いていき、涙の滲む視界をごしごしと擦る。なんとか目を開けると、空には月が輝き、雨が上がっていた。信じられないが、あの大爆発は雨雲すら吹き飛ばしたらしい。
――そして、爆音の聞こえてきた方向から金属を擦り合わせるような沈痛な悲鳴。夜の空に、何か巨大なものが月光に照らされていた。それは重力に引かれて緩やかに地面へと落ちていく。
まさか、あれは。
「――リュウノスケ!!?」
にとりは再び夜の空を翔け出した。
ガンガンと殴られるような頭痛と、ガチガチ震えだしたくなる風の冷たさを無理やりにねじ伏せて飛び続ける。自分でも驚くほどの速度が出ていたが、そんなことを不思議に思う暇はなかった。一秒でも速く――リュウノスケの元へと向かうために。
そうしてたどり着いたそこは、焦土と化していた。上空から眺めると、木々がなぎ倒され、大地はくぼみ、あきらかに大爆発だけの被害ではない。どうみても何か凄まじい戦闘があったことは明白である。
そうしてにとりはその焦土へと降り立ち、あの巨大な何かが落ちた辺りを見渡して――そこにかすかな橙の光を見つける。そして、小さな小さな、あの、声。
「リュウノスケぇっ!!」
その声と光を頼りにそちらへにとりは駆け寄った。
伏せるようにして倒れていたリュウノスケは、左の翼を叩き折られていた。にとり自身が修理したその特殊合金の関節は完全に砕け散っている。折られた翼も傍に転がっていて、歯車やボルトやらがそこらじゅうに飛び散っていた。
どうして、一体なんで。にとりが混乱している中、その傍にほとんど落ちるようにして二つの影が降り立つ。
「……へ、お前さん、谷ガッパの……」
「……あれ、え、にとりが何で……」
その影は、守矢神社に祀られる神、洩矢諏訪子と八坂神奈子の二柱であった。その姿はボロボロもいいところで、立っているのがやっとのようにも見えた。にとりの出現には向こうも戸惑っているようで、もごもごと言葉にならない何かを呟いていた。
「――ちょっと、どういうことさ!! なんでリュウノスケがこんなにボロボロになってるの!! 説明してっ!!」
「な、まさかこれお前さんが作っ――」
「そんなこと聞いてない!!」
「いや、だからこいつ暴れてて――」
「リュウノスケがそんなことするわけないでしょおっ!!」
神を相手どっても全く怯まず、にとりは容赦なく激情をたたきつける。ぐいぐいと押し迫り今にも掴みかかりそうだ。――と、そこへさらに影が降り立つ。ようやく追いついてきた文であった。
「ああ、にとりさん! なんでそんなに速いんですか、こんな遠くまで来てどうするんです! ほら早く戻って寝てないと――」
「うるっさい!!!」
にとりの凄まじい剣幕に押されて、ぐっと言葉に詰まる文。神奈子と諏訪子、それに文は自分達より遥かに弱い種族であるはずの「河童」のにとりに圧倒されていた。
「……………………ぎゃ…………う…………」
その激情の渦を収めたのは、小さな小さな、竜の声。弱弱しく放たれたその声でにとりは急速に怒りが冷めていくのを感じた。そうだ、こんなことしてる場合じゃない。
「リュウノスケ、大丈夫。すぐに直してあげるからね」
にとりはリュウノスケを頬をなで、安心させるように笑った。そして修理に取り掛かろうと――そこでリュックが無いことに気付いた。今この手にあるのはポケットに入っていたプラスドライバーだけである。仕方ない、今すぐ取りに戻ろうと背を向けて――
がしゃん。背後からそんな音がした。
え? と、にとりはたった今背を向けたリュウノスケに視線を戻した。リュウノスケはどこか安心をしたような沈黙を守っている。しかし違和感がにとりの体を覆い、訝しみつつもそれを見続けて――気付いた。
右肩の鉄板が、大きく剥がれ落ちていた。
直後、右の翼がもげ落ち、甲高い金属音を立てた。続いて背中、腹部の部品がバラバラと零れ落ち始める。そこでようやく、にとりはリュウノスケの体を赤い「錆」が蝕んでいることに気付いた。それはゆっくりと、しかし確実にリュウノスケの体を蝕んでいく。
「リュ――リュウノスケ!!」
にとりが必死でリュウノスケの名前を呼ぶが、錆びの侵蝕は一向に止まらない。むしろ速さを増したようにも見える。文も神奈子も諏訪子も、眼前の光景に絶句していた。
――鉄の竜は『とてつもなく』長い時間(それこそ永遠にも匹敵しうるほどの、である)一切の手入れもされずに放置をされていた。とはいえもちろん生物ではないから死ぬことは無かったし、彼を作った製作者は徹底的なまでにその鉄の体を丈夫に作っていたから、放置されたくらいのことは竜にとってそれほど脅威ではなかった。
しかし、その超長期間の放置はほんの少し、ほんの少しずつだが鉄の酸化現象――「錆」を引き起こしていた。少なくともそのゆっくりとした進行が左の翼を落とすほどにまで至るくらいは。
そうしてしばらく時間が経った頃、ある河童の少女がその竜の元にやってきた。その少女が施した修理は間違いなく最善であった。……だがそれゆえに、錆付いて止まっていた竜の時間が少しずつ動き出し始めたのである。
そして最後のきっかけとしてあの二柱の神との戦い。数千発の弾の直撃と豪雨は一気に鉄を疲労させ、止めはあの大爆発。それによりとうとう、半ば停止していた時間が一気に時を刻みだした。
たまりに溜まった時間の反動として、「錆」は今を逃すまいと、竜の体を蝕んでいく――。
「リュウノスケっ、リュウノスケっ!!」
にとりの声も聞こえていないのか、リュウノスケはぐったりと力なく体を地に横たえている。がしゃあん、とついに首の部位が錆び落ち始めた。にとりの顔がいよいよ青を通り越して白くなる。
「……ぎゃ……」
ふと、リュウノスケの瞳にかすかなオレンジの光が灯った。
「――リュウノスケっ!! 大丈夫、大丈夫だからっ!」
にとりが呼びかけると、リュウノスケは小さく首を横に振った。そしてその口からパサリと、何かが落ちた。
「……え……」
思わずにとりがしゃがみこんで、それを拾う。――にとりの髪の色によく似た、青い小さな花だった。名前も無いような、花畑にあっても誰も気付かないような、小さな花だった。
花、青、直りきっていない翼で飛び出した理由。
「――――――――え――――――――あ、う、うあ――――――――」
大馬鹿、とでも罵るのが正解なのだろうか。ありがとう、とでも感謝するのが正解なのだろうか。それとももっと別の何かが、あるのだろうか。ぐるぐるぐると言葉が巡り、あふれた感情が混沌を作り出す。
だからにとりは気付かなかった。もう既に、リュウノスケの顔にまで錆びの侵蝕が進んでいることに。カラカラカラ、とそのナイフのような牙が、錆び落ちる。
「――――――――」
それに気付いてもにとりは何も言うことが出来なかった。ただ、そのリュウノスケの瞳をじっと見ることしか、できなかった。
「……………………ぎゃう」
それでもリュウノスケは、満足そうに――いや、これはきっと、にとりの思い込みなのだろう。機械に感情などが、有るわけないのだから。
そうして、リュウノスケと名づけられたその鉄の塊は、錆びに塗れて、ぐしゃりと、その形を失った。
からん、からから、からん。
鉄の塊から部品がこぼれだす。それらも錆に侵されて、ボロボロと崩れていく。それらのうちの一つが、にとりの足元に転がった。
――歯車、だった。
にとりはすぐさまそれを拾い、ぎゅうっと両手で握り締めた。堅い金属の冷たさがその手に感じられた。しかしそれすらも、にとりの手の中で、赤錆に蝕まれる。それでもにとりは、それを離さなかった。
――最初は嗚咽。次に泣き声。最後は慟哭。
最終的にそれは声とも言えぬ何かになって、妖怪の山に、響いていた。
◇◆◇◆◇
終章
それから先のことを、にとりは良く覚えていない。
泣いて、泣いて、泣いて――ただ気付いたら、全く知らない天井が最初に視界に飛び込んできた。ゆっくり身を起こして辺りを見渡すと、朝の日差しが光る窓際に、あの青い花が花瓶にいけられている。そしてポケットには、錆び付いた歯車が入っていた。
最初に飛び込んできたのは椛だった。部屋の襖が開いた音に視線をやれば、そこには椛が立っていた。一瞬だけ目を見開いたかと思うと、次の瞬間には涙で顔をくしゃくしゃにして椛はにとりを抱きしめた。
次に、先生がやってきた。見たことが無いほど冷たい表情で、まず頬を一発張られた。ヒリヒリとする痛みににとりが呆然としていると、椛と同じように抱きしめた。
そうして今度は、にとりが初めて会う人(妖怪なのかもしれないが便宜上「人」としておく)だった。永琳と名乗ったその人は先生と同じように医者であり、にとりがいるここは永遠亭という妖怪の山から大分離れた竹林にある病院だということを説明してくれた。
今日の日付を尋ねられたので、にとりは自分が気を失った夜の翌日の日付を答えると、その日付とは一日ずれた答えが永琳から返ってきた。どうやら丸一日以上倒れていたようだった。
「ただでさえ気を失うほどの高熱で倒れてたのに、それから目を覚ましてすぐに雨の中に飛び出して、しかも射命丸さんが追いつけないくらい速く飛んだりしたっていうらしいから、そうなるのが当然よ」
永琳は呆れたようにため息をついた。にとりが、すみません、と頭を下げるとますますその呆れ顔は深くなる。
「私に謝るよりこちらの方々にお礼を言うほうが先じゃないのかしら? にとりさん」
……全くその通りだった。
それから三十分ほどして、まずは文がやってきた。大きな音をたてて開かれた襖の向こうに荒い息を吐きながら現れた文は、やっぱりまず、にとりを抱きしめた。聞く限り文がにとりをここに運んできてくれたらしい。感謝の意を述べる前に、思わずにとりはまた謝ってしまった。
「謝ることなんてないですよ」
文はにとりの手をにぎって優しく微笑みながら言った。
それから文は、この二日のうちに何があったかを語ってくれた。リュウノスケが飛び出してきたという大穴(信じがたいことだが、あの地底湖から藻だらけの沼までの約七百メートル間を貫いていたらしい)と、守矢神社の神様たちとの戦いで焼け野原と化した場所の復興が進められていること。秋を司る神の姉妹と、災厄を身に溜める厄神のおかげでこれは順調な調子で進められているそうだ。
……ただ、リュウノスケの亡骸についてはどうしようもなかったそうだ。にとりをここに運んでから文がもう一度そこへと戻ってみたときには、ほとんど砂のようになって、完全に崩れ落ちていたらしかった。
そうしてしばらく話すと、文は急に真剣な表情になった。
「にとりさん。本当はこんなことを言える権利などありませんが、私はあの竜の誇りを守りたいと思っています。にとりさんが気を失っているときに、彼は私と先生、椛を護ってくれたんです。それに……あの、花のことは」
文は言葉に詰まったようだったが、すぐににとりの顔を強い視線で射抜いた。
「にとりさん。他の天狗は、あの竜のことをただの化け物として記事に書こうとしています。いえ、もう発行されてしまっているものまである。……本当ならばそれを止められれば一番なのでしょうが……情けないことですが、私には出来ません」
「――ですが、私が見た真実を記事にすることは出来ます。にとりさん、どうか私に、あの竜のことを新聞にさせていただけないでしょうか」
そう言い切った文の瞳は、普段の飄々とした様子からは想像も出来ないほどの強い意思に満たされていた。にとりはそれに天狗という種族の強さを垣間見た気がした。そうしてにとりは、静かに首を縦に振った。
ぱあ、と文の表情が明るくなり、ありがとうございますとにとりの手をぎゅっと握ってくれた。少しだけ痛かったが、それが嫌なものだとはにとりは思わなかった。
文はにとりに十個ほどの質問をした。簡単ながら、深く。それでいて、心を抉り過ぎないような配慮がされた優しさを感じ取れるインタビューだった。
「ご協力感謝します、にとりさん! 夕刊で号外を出しますから!」
そういって今度は慌しく文は、病室を駆け出していった。
それから一時間ほどして、畏れ多くも守矢の神である八坂神奈子と洩矢諏訪子、加えて神社の風祝の東風谷早苗の三人(うち人間は一人なのだが)がやってきた。
「――すまなかった、河城にとり」
「――申し訳、無い……」
……なんといったらよいのだろうか。にとりは目の前の状況――神の二柱が頭を下げている、しかも土下座――にひどく困惑していた。ありえない。なんだろう、これは。
「……謝罪で済むようなことではないことは存じています、にとりさん。あの竜を殺め――いえ、破壊してしまった責任は、全て私達の誤認にあります。許していただけるようなことでないことも、存じております。ですが、恥を承知で、どうか私達に、謝罪を申し上げさせてください――」
一つ一つ言葉を区切るように、同じように額を床に押し付けていた早苗は言った。にとりはくらくらと眩暈を感じた。
違うんだ、そうじゃない、だって、リュウノスケは、私が――。そう飛び出しかける口を何とか押さえつけて、とりあえず顔を上げてくれるように言った。たぶん河童でこんなことをしたのは歴史上でわたしだけだろうと、にとりは思う。
そうして顔を上げた三人ににとりは――何も、言えなかった。慈悲の言葉も罵詈雑言も、何も口から出ようとしてくれない。さっきまでにとりの口はあれだけ言葉を発していたがったくせに、今はうんともすんとも言わなかった。それでもなんとか、言葉をひねり出す。
――もう、大丈夫だから。
何がだ。やっとにとりが搾り出した言葉は、自分でもそう思ってしまうくらいに、そんな意味不明のものだった。
そうして彼女達は、重々しい足取りで、病室を出て行った。
午後になって、霊夢と魔理沙がやってきた。霊夢は異変のことについてもう少し詳しく知るために(山に着いたのはにとりが気を失ってかららしい)。魔理沙はお見舞いで来てくれたようで、バスケットにいっぱいのりんごをつめてやってきた。
「それにしても、機械の竜ねえ……」
ひとしきりにとりの話を聞いた後、しゃくしゃくと魔理沙の切ったりんごを食みながら、霊夢がポツリと呟いた。
「妖術も魔法も使われていなかったんでしょう? 非常識にもほどがあるわ」
「あー? 非常識が生きる幻想郷でその台詞はご法度じゃないのか、霊夢? ……ていうか何でにとりのお見舞いの品なのにそんなむしゃむしゃ食べてるんだよ」
「もうすぐ冬でしょ? 出来る限り食いだめしておかなきゃ」
冬眠前の熊じゃあるまいし……と、にとりも剥いたりんごを一つ取り、口に放り込む。すごく甘くておいしい。相当な高級品なのかもしれない。
「ああ、アリスが美味いって言ってたやつだからな。そりゃおいしいだろうぜ」
にとりがそれを聞くと、魔理沙は悪びれもせずにそう答えた。
「あんた本だけじゃなくてこれまで盗んだわけ?」
「失礼な。きちんと弾幕ごっこで手に入れたものだぜ。こっちの条件は借りた本全冊を返すことだ。結構死闘だったぜ」
「その本だって元々盗んだものでしょう……」
「人聞きが悪いな、死ぬまで借りてるだけだぜ」
なお性質が悪いと思う。にとりは面識の無いそのアリスという人に同情と感謝の意を表しながら、最後の一切れをほおばった。
夕方、文の「文々。(ぶんぶんまる)新聞」が届いた。
自分とのインタビューの意見を上手くまとめた弁論の見事さ以上ににとりが驚いたことは、写真が使われておらず、それにあたっていたのは緻密な絵であることだった。その絵に描かれた鉄の竜――リュウノスケの姿はこれまた驚愕するほどにそっくりだった。
他の新聞の写真はあの日の闇夜と豪雨の所為でまともな写真は録に無かったし、あったとしても遠くから小さくリュウノスケらしき影が写っている程度の者が精々だ。しかしこれは並みの写真よりずっと精密で迫力のある一枚だった。これほど正確に絵にするにはリュウノスケによほど近寄って観察しなければ描けないだろう。それは、ただ写真を撮ることより遥かに難しいに違いない。これはきっと、一度は誰もが手に取るだろうと、にとりは思う。
ふと、差し込む夕日ににとりは気付いた。この永遠亭は深い竹林に遮られてあまり日の光が届かないが、それでも夕日がかすかに病室に差し込んでくる。にとりは小さく見えるそのオレンジの光を見つめて――オ、レン、ジ?
「――リュウノスッ……!」
皮一枚で、なんとか堪えた。
――何を見ているんだ、わたしは。にとりは軽く頭を抑えた。ただ夕日が橙色なだけで、そんなことを思うなんて。
「あらあら、無理はよろしくありませんわよ?」
唐突に背後から、聞きなれない声がした。部屋の襖が開く音は、聞いていない。だから、この部屋には間違いなく、にとり一人であるはずなのに。
ゆっくり振り返ると、空間上に奇妙な「スキマ」があった。無数の目が覗くそこから、ずるりと、長くウェーブのかかった金髪を持った女が現れる。言葉にもならない驚愕の中、その女は名乗った。
「始めまして、河城にとりさん。私、ここ幻想郷を管理させていただいている妖怪、八雲紫という者ですわ。以後お見知りおきを」
優雅に一礼するその女、八雲紫の姿を見て、にとりはやはり言葉を失った。八雲、という名前くらいはここ幻想郷で知らないものは居ない。何で今日は神といい八雲といい、とんでもないのばかりに会うのか。
「いえいえ、そうお硬くならないでくださいな。私がここに来たのは単なるお節介。用があるのは確かですが、それほど重いものでないですわ」
……はい? にとりの中から紫に対する畏怖が消えていき、とたんに怪訝さが鎌首をもたげた。簡単に言えば、この妖怪を胡散臭く感じたのである。
「……あら、かといってそこまでご緩くなられるのも困り者ですわね」
むう、と紫はしかめっ面に表情が変わる。にとりよりずっと年上だろうに、正直に言えばあまり似合ってはいなかった。そうして紫は自分が出てきたあの空間のスキマに手を突っ込んで――ひょい、と何かを取り出した。
それは、赤錆びた歯車。思わずにとりはポケットに手を突っ込むと、入っていたはずのリュウノスケの歯車がなくなっている。
「ふむふむ、これが今回の異変を起こした機械に使われていた部品ですか。にしても随分と――」
その瞬間、にとりは紫に飛びかかっていた。突然だったために紫はバランスを崩して、そのまま仰向けに倒れこむ。畳に肉のぶつかる音がして、にとりは紫に馬乗りになった。
「……返せ。返さないと、殺す」
にとりはそう言うと、紫の首に手をかける。もし否と言うなら本気でそれを行うつもりだった。
「……失礼、少々無礼が過ぎましたわ」
謝罪をしてはいるものの、紫はにとりの殺気をさらさらと受け流していた。そして言われた通りに歯車をにとりに差出す――そこでにとりは気付いた。
歯車の錆が綺麗に落ちていた。差し込む夕日に反射して、ぎらりと強く光っている。にとりが最初に拾ったそれであるのように。
「……す、すみません。どいてくださる? ちょ、ちょっと腰が……」
はっとにとりが我に返ると、紫が苦しげに顔を歪ませて呻いていた。慌ててにとりが謝罪と共に離れる。あいたたた、と紫は腰をさすりながらゆっくり起き上がった。……見かけ以上に結構年をとっているらしい。
お礼を言うべきかどうなのかにとりが戸惑っていると、紫は静かに笑って言った。
「言ったでしょう? ただのお節介、と」
その笑みを浮かべながら紫は再び空間のスキマを開いて、その中へと潜りこんでいく。そうしてすっぽりその中へ収まると、隙間の向こうでにとりを振り返った。
「……それと、もうひとつ、お節介を言っておきましょうか。――日が沈むまで、もうあまり時間が無いですよ?」
にとりは弾かれたように窓の外を見る。ただでさえ暗い竹林が、余計暗くなっていた。竹自体に日が遮られていることを差し引いても、もう日はほとんど沈みかかっているのだろう。
そしてにとりは、病室を飛び出した。
その姿を紫は、再び笑みを浮かべて、見送っていった。
病室を飛び出したにとりは、長い長い廊下を駆け抜けて、永遠亭の外へと出た。そしてそのまま強く地を蹴って空中に飛び上がると、ぐんぐんぐんぐん、にとりは高度を上げていく。
――にとりはリュウノスケのことを何も知らない。結局なぜあそこにリュウノスケがいたのか分からなかったし、誰が作ったのかということも全く知らない。しかもリュウノスケの修理をしていたのは一週間と少し程度である。こう考えてみれば、いかにその関係が薄いものなのか分かる。
だが、しかし、それでも――――――――――――にとりは。
そうしてにとりは自分の飛べる最高高度にまで飛び上がった。そうして見上げてみれば、既に空の東から半分以上は夜になっており、いくつかの星が瞬いている。西の空に目をやれば、かすかにオレンジの光――夕日が、まだ、そこにある。
――リュウノスケの瞳が、まだ、そこにある。
「リュウノスケェェェええええ――――ッ!!」
だから、にとりは叫ぶのだ。あのときに言えなかった言葉を。
「ありがとうっ……ありがとぉぉぉぉぉぉぉ――――っ!!!」
ボロボロ涙を零しながら、嗚咽をはきながら、叫ぶのだ。
「私はリュウノスケのことっ……!! 絶対に忘れないからぁぁぁ――――っ!!」
夕闇に染まる幻想郷に、にとりの声がこだまする。
その時に、どこか遠くで、それに答えるように――金属の咆哮が聞こえたような気が、にとりはした。
<了>
突如として轟いた爆音に、守矢神社の風祝(かぜはふり)である東風谷早苗は文字通り飛び起きた。冗談抜きで数センチほど体が浮き上がり、布団の上を転がってしまったのである。
それから数秒ほど、早苗は何が起こったのかわからず呆然としていた。暗い部屋の中は今が真夜中であることを示している。はっと我に返り、早苗は寝間着のまま自室を飛び出した。ここの神社に祀られる、二柱の神様の無事を確かめるため。
「――早苗!」
部屋の襖を開けた直後、暗い廊下の向こうから早苗は名を呼ばれた。慌ててそちらへ視線を向けると、金色の髪を持った少女が駆け寄ってくる。
「諏訪子様!」
その少女、洩矢諏訪子の体を早苗はしっかりと受けとめた。その身長は早苗の肩ほどまでしかない少女であるが、彼女こそが先ほど説明した神様の一柱である。
「早苗、大丈夫だった」
「はい、大丈夫です。それより今の凄い音は」
「――二人とも無事かい!?」
そこへもう一つの声が混じった。今度は諏訪子の来た方とは反対の廊下から残り一柱の神様、八坂神奈子が稀に見る焦りをその顔に浮かべて駆けてきた。
「神奈子様、ご無事で」
「ああ、こっちは全然だ。諏訪子のほうも大丈夫みたいだね」
「まぁなんとか。……ってか今の轟音、何? 花火にしちゃ季節と天気がずれすぎだよね」
そう、今の音は確かに花火の打ち上げ音にも似ていた。しかし諏訪子の言う通り、今の季節は紅葉の見頃であるし、それに今夜は豪雨と風が吹き荒れている。花火を上げる状況にしては似つかわしくないにもほどがあった。そして何より音の大きさが桁違いすぎる。
「いや、私にもわからん。大砲の砲撃音ってことは間違いないだろうが……」
軍神であるが故にその風切り音が大砲のそれであることは即座に聞き分けた神奈子であるが、「大砲」という兵器の中であれほどの爆音を叩き出す様な代物は二千年以上の生の中でさえ聞いたことがない。
「た、大砲? 今のがですか?」
早苗がぶるりと身を振るわせて神奈子に問い返した。わりと最近まで彼女は幻想郷の外の世界で暮らしており、戦争というものは教科書でしか知らない。だからこそ、今のような轟音が戦争で使われる大砲だということに心底から恐怖を覚えた。
「ああ、そうだろう。何でいきなりそんなものが――」
――そこで唐突に神奈子の言葉は遮られた。それまで聞こえていた自然的な風とは明らかに違う、すさまじい豪風が神社を揺さぶったからである。
絹を裂くような悲鳴を上げて早苗がしゃがみこみ、それを庇う様にして諏訪子、その上から神奈子が覆いかぶさる。その揺れが続いたのは十秒を超えるか超えないか程度であったろうが、早苗にはそれが永遠の時間にも思えた。
長いそれがようやく終わりを告げ、その揺れは立ち上がれるほどには治まった。まず神奈子が立ち上がり、次いで諏訪子が未だ恐怖からの震えが止まらない早苗を支えて立ち上がらせる。
「……な、何ですか、今度のは」
それだけやっと口から搾り出して、諏訪子に支えられながら早苗が再び神奈子に問うた。だが今のは彼女にもそれとなく予想がついた。――とてつもなく速く、そして大きい何かが通り過ぎた瞬間に吹く風であると。
「……早苗、腰が抜けているところに悪い。天狗のお偉方に連絡を入れてくれるかい」
じっと天井、その更に上の何かを睨みつけていた神奈子は、早苗の問いには答えずにそう命じた。役割を与えられて早苗は落ち着きを取り戻し、そしてほんの少しだけ――いや確かに腰を抜かしてはいたのだけれど――カチン、とした。だがそのかすかな怒りのおかげで早苗は己の足でしっかりと立ち上がる。
「はい。分かりました」
力強くそう早苗が答えると、神奈子は満足げに笑う。ひょっとしたら今の怒らせるようなのもわざとだったのかも、と早苗はその笑顔を見て思った。
「よし、任せたよ。諏訪子、あんたは私と来な!」
「は、はいよ!」
そうして神奈子と諏訪子は玄関に向かって走っていく。早苗も自分の命じられた役割を果たすため、行動を開始した。
◇◆◇◆◇
妖怪の山の東区域。紅葉に彩られた木々が生い茂るこの辺りは、同時に多くの花も咲き乱れる区域でもある。春先にはいっぱいに咲き誇る最高の菫たちを見ることが出来るが、秋には秋で良い花たち――例えば自然薯(じねんじょ)のような――がその美しさを競うように咲き乱れている。もっとも、今夜のような闇夜と大嵐ではそれを探しに来るような輩など居るはずもないが。
しかしその常識をぶち破ってやってきた「あれ」が、この岩一枚を挟んだ向こうにいる。
秋静葉と秋穣子、さらに鍵山雛の三柱の神が息を殺して岩陰に隠れていた。大岩の後ろに身を寄せ合うようにしてその身を隠す彼女たちは、打ち付ける雨の冷たさとは違った震えを無理やり押さえつけている。あれに気付かれぬように。
雛と静葉がほんの少しだけ顔を動かしそっと岩の向こうを覗いた。――爛々と輝く二つの真紅の光が闇の中を蠢いている。それだけではない。その傍でギラリと金属的な光が反射していた。その反射するものは、ナイフのように研ぎ澄まされた牙である。そしてそれらを持つ長い首と、何か筒のようなものを二つ背負う巨体からは油と鉄の匂いを漂わせていた。
鉄で出来た竜。それがそこにいる何かに雛と静葉が抱いた印象であった。
「(な……んなの、あれ)」
「(……さ、さあ……)」
静葉の当然の疑問に雛はそう返すしかなかった。
真夜中に突如として響き渡った爆音に叩き起こされ、互いの安否を確かめ合っているその時にあの竜がここに降り立ってきたのである。咄嗟にこの大岩の影に飛び込んだから良かったものの、見つかっていたらどうなっていたことかと想像するだけで恐ろしい。
竜はさきほどからあまり大きくは動いていなかった。彼女達が隠れる岩に半身を見せるようにしてうずくまり、じっと地面に視線を下ろしている。そうして少し立ち止まった後、また何歩か移動して同じように地面を見ることを繰り返していた。……何かを探している姿にも見える。
「(……お、お姉ちゃん、大丈夫だよね)」
ぎゅっと静葉の手を握る穣子。……静葉からすればこの質問にはそう簡単に答えられるものではない。静葉は神といえど、持ちうる能力は紅葉を司る程度。とてもじゃないが戦闘向きのそれではなかった。同じくこの穣子の能力も豊穣を司る程度であり、戦おうなら無謀にもほどがある。唯一ここに居る中で戦闘に足る(と言えるくらいの)能力を持つのは厄神である雛のみだ。とはいえ勝てるかどうかは全くの別問題であるが。
「(……大丈夫。こうやって隠れてれば絶対見つからない)」
だがわざわざ実の妹を不安に陥れるような愚挙を静葉がするはずもない。こつん、と額をあててやった。闇の中、少しだけ穣子の表情が和らいだのを静葉は見る。
「(……! 静葉)」
そこへ雛の声がかかった。何、とそちらへ視線を向ければ竜を見るように指差している雛。それに合わせて竜を見てみれば、先ほどまでよりも深くうずくまった竜の姿があった。何かを掘り返しているようである。
「(……あいつ、探し物を見つけたみたいね)」
「(え、じゃあ)」
「(たぶんそろそろ動くんじゃないかしら。そのままどこかに行って貰えると嬉しいんだけどね)」
もう少し堪えればあいつはどこかへ飛んでいくだろうという雛の推論は静葉と穣子の心に僅かな安堵を齎した。――それと同時に、油断も。
雛の推測は的中し、うずくまっていた竜がぐっと空を仰ぎ見て翼を広げた。間違いない、飛び立つそれだ。助かった、と雛達が思った――その瞬間、だった。
竜が飛び立つための羽ばたきは予想外の振動を響かせ、大地が揺さぶられる。それはあの轟音が引き起こした鳴動に比べれば遥かに小さいものであったが――穣子の足をぐらつかせる程度の効果は十分にあった。
「わっ」
バランスを崩した穣子がたたらを踏み、何とか転ばないように数歩じゃりじゃりと小石を踏みしめる。そしてそれ以上に決定的だったのは――岩の陰から体がはみ出してしまったことだった。
「…………あ」
その声は誰の者だったか、雛か静葉か穣子か。ひょっとしたら全員が言ったのかもしれないし、誰かの聞いた幻聴であったのかもしれない。しかしそれは些細な問題である。
重大なのは、竜がこちらに気付いた、ということだ。
ギロリと紅く紅く染まった瞳が穣子の視線と重なる。その瞬間、奇妙なことにその瞳に怨念の炎が燃え盛ったように穣子には見えた。生き物でないことを証明するような冷徹な眼であるにもかかわらずである。向けられているものは確かな憎しみであり、年月に年月を重ねた煉獄の焔。もちろん穣子にはこの竜との因縁などないし、恨まれる道理など皆無である。まるでそれは「神」という存在自体に対しての憎悪――。
「おいっ、このやろーっ!!」
数秒ほどの静寂を引き裂いたのは、静葉の大音声(だいおんじょう)。ぎょっと穣子と雛(に加えて竜)がその静葉へ視線をやり、総計六つの瞳が静葉に向けられた。静葉は人差し指を竜に突きつけて、さらに言葉を重ねる。
「わ、私の穣子になんかしてみろっ、山中の紅葉を操って、た、祟ってやるぞーっ!!」
震えを武者震いへと変換して声を張り上げる静葉。荒い息を吐き半分涙を目に滲ませて叫ぶその姿は見方によってはひどく滑稽だろう。だが今この場において、穣子は姉のその姿がどんな神よりも神々しく見えた。
時として何か強い意志をこめた行動は状況に激烈な変化を齎すことがある。人が行う程度でそれは齎されるのだから、まして神がやれば効果は絶大である。
竜は視線を静葉に固定したままずらさない。ほんの少しだけ赤みが薄まった瞳で、じっと静葉を見つめている。静葉も負けじと視線を外さず、激情を露にした双眸をもって睨み続けた。
「――ぎゃう」
数秒ほど続いた睨み合いに終わりを告げたのは、竜の一声であった。――ばかみたい。その意味がこめられていたのであろう一声を静葉に浴びせかける。
そうして竜は静葉たちに踵を返すと、再度翼を大きく広げて、今度こそ豪雨と闇夜の中へと飛び去っていった。
「――へ、え、あ?」
ぺたん、と静葉がしりもちをつく。お姉ちゃん、静葉、とそれぞれ穣子と雛がそこへ駆け寄る。静葉は完全に腰が抜けてしまっており、二人に支えて貰ってやっとこさ立ち上がった。
「なんて無茶するの。あいつが怒って攻撃してきたら私たち全員死んでたわよ」
雛が強い口調で言葉をたたきつける。本気でそれを心配したのだろう、目がそう語っていた。
「いやごめん、なんか体が勝手に……」
「私に謝ってどうするのよ。大体ね、」
「お姉ちゃん、格好良かったよ」
雛の言葉を遮るようにして穣子がそう言う。それを聞いて雛はあきれたようなため息、静葉は照れたように頬を掻いた。
「――でも、あまり喜んでられないわね」
雛が表情を鋭くし、竜が飛び去った方角を睨む。竜と対面していた間はどこかへ飛び去ってくれれば良いと考えていた雛だったが、それでは何の解決にもなっていない。
しかもあちらの方角は――避難壕、だ。
◇◆◇◆◇
早苗を通じて大天狗たちへと伝えられた異変は、迅速に里へも伝わっていた。
カンカンカンカンカン――妖怪の山に半鐘が鳴り、それは夜を割るようにして響き渡っている。それに半ば押されるように急ぎ足で進む影が三つ。文、先生、にとりを背負った椛の三人である。
「にとり、がんばって」
椛が背中のにとりへと励ましの声をかける。にとりには雨合羽を被せ自身は番傘をさし、にとりが極力濡れないようにはしていたが、返事をする気力もないようでにとりは荒い呼吸をするばかりだ。この状態では飛ぶわけにも行かず、こうして三人は地面を駆けて先を進んでいた。
彼女達が向かう先は山中の避難壕。妖怪の山は半分要塞でもあるため、こういった有事の際の避難所は確保されていた。
――にしても。なんだったんですかね、あの轟音は。
ちらりと嵐の夜の彼方を見据えながら文が思う。その目にはのらりくらりとした彼女にしては珍しく強い怒りが点っていた。豪雨の降る真夜中で、しかもこちらには病人がいるというのに。はた迷惑とかそういうレベルではない。
「文様っ」
椛の怒鳴るような声音に文が我に返ると、既に先生と椛は離れたところで立ち止まっていた。慌ててその後を文は追いかける。
そんな調子で山中を駆けていくと、次第に別方向からも他の妖怪達の姿がちらほらと見られるようになってきた。もう避難壕はかなり近い。
「河城さん、あと少しですからね。避難所に着いたらすぐに横にさせてあげますから」
椛と並んで走る先生がにとりの背を軽くさすりながら優しく言った。
そうしてようやくその避難壕が見えてくる。そこは切り立った岩壁をくりぬくようにして出来た洞窟であり、こうこうと明かりが入り口に灯されていた。ほう、と椛が文の横で息をつく。見ると、少しバテたのだろう。椛がぐいと汗と雨の混じった額の水を拭っていた。にとりを担いで飛ぶでもなく走ったのだ、体を鍛えている椛でも多少疲れる。
――しかし、この時点ではまだ安心すべきではなかった。いくら目の前に避難壕が見えているといっても、まだ入っていないのだから。
――どこからか、咆哮。
「―――――――え?」
文と椛が同時に呟いて、その咆哮が聞こえてきた方向の空へと視線を上げる。それにつられるようにして先生、さらには他の妖怪達もそちらへと目をやった。もちろん空は暗闇と豪雨で何も見えない。しかし、文と椛には見えていた。烏天狗としての驚異的視力を持つ文と、千里を見通す程度の能力を持つ椛にだけは。
何か紅い二つの光が、闇と豪雨を引き裂くような速度でこちらに向かってきているのを――。
金属的な轟音と、大地を揺さぶる激震。
「それ」が再びの咆哮と大地を抉りながら着陸する際に引き起こされた地震は、そこにいた者たち全てのバランスを大いに狂わせた。ぎゃあ、うわっ、ひぃ、と十人十色の悲鳴を上げて妖怪達が転げる。文たち三人はそれでもなんとか転ばないように互いを支えあう。
そうしてようやく揺れと轟音が収まったとき、「それ」は文たちの目の前にいた。もうもうとした土煙を纏わせて、そこにいた。
炯炯とした紅い瞳に、見事に牙が並ぶ口。鉄の巨体と巨大な翼と、その背に背負うは二門の大筒。
――鉄、いや、機械の竜。そう文の眼にはそれが映りこんだ。
そこまで経って、誰かが甲高い悲鳴を上げた。その悲鳴が撃鉄となり、避難所前は一気にパニックに陥り、周囲で転がっていた妖怪達も我先にと立ち上がってその洞窟へと駆け込み始めた。
一方竜はといえばそんな状況など気にもかけていないようで、コォォオオと白い蒸気を口から吹き出しながらゆっくりとその首を回す。何かを探すように。そしてその視線が椛へと向けられた。……いや椛ではない。むしろその視線は椛の背の――にとりに、だ。
――こいつ、にとりさんを狙ってる。文はその結論にたどり着くのにそう時間はかからなかった。
「――ぎゃうぎゃう、ぎゃう」
その時明らかに何か場に不似合いな声が聞こえたが、それは恐らく幻聴だろうと文は判断する。そして竜はこちらへと歩を進めてきた。大地を抉っていた爪を持つ足が動くたび、軽い地震が引き起こされる。
「……ゆっくり、ゆっくり下がって」
文はスペルカードを手にかけたままの体勢で静かに椛と先生に言う。本当なら即座に『天狗のマクロバースト』あたりでも叩き込みたいところであったが、竜との距離は六尺もない。あまりにも距離が近すぎる。じりじりと後ずさりをしながら何とか距離をとろうとするが、それを追うように竜も歩み寄ってくるため、間合いはほぼ変わらないままだ。
「――斉射!」
そのときだった。竜の巨体に隠されて視界から外れていた避難壕の入り口から声が上がる。直後、弾幕が竜の向こうから雨霰と放たれた。
「うわぁっ!」
「椛ちゃん!」
椛が悲鳴を上げ、にとりともども転びそうになるが先生が庇うようにして椛を支える。巨体の合間からのぞくようにして文が壕の入り口を見やると、数人の天狗たちがスペルカードをかざして弾幕を放っていた。恐らくこちらが見えていないのだろう。この闇夜と豪雨、それにちょうど竜の影になっているのだから。文が弾幕の攻撃を止めるように声を張り上げ――
「――ぎゃう!」
ようとしたが、竜の一声に重なってそれは遮られる。え、と竜を見てみれば翼を大きく広げて文、椛、先生を護るかのように囲っていた。鉄の翼は凄まじく堅いようで、あれだけの弾幕を意にも介していない。しかしこの行動は、竜にとっては被弾面積を広げるだけで何のメリットも無い筈だ。どうして、何のために。
竜の瞳が文を射抜いていた。先ほどまでそれは紅く染まっていたのに、今は暖かい橙色になっている。だいじょうぶ、だいじょうぶ――その目にその言葉が込められていた。
――この竜、一体……? 文が真意をつかめず、思考を若干混乱させていた刹那。
「神具『洩矢の鉄の輪』ぁ!!」
どごん、と鈍い音がした。上空から飛来した鉄塊が竜を直撃したのである。金属同士が擦れあうような奇声を上げて、竜が真横に吹っ飛ばされた。直後、文たちは弾幕に曝されたが、向こうも気付いてくれたようですぐにそれは収まる。
そこで真っ先に動いたのは椛だった。直ぐ様走り出して避難壕へと駆け込んでいく。
「射命丸さんっ」
先生が文の肩を叩き、避難壕へと急かした。入口の方でも天狗達が何事か叫んでいる。先生、それに遅れて文が続き、壕の入口に駆け込んだ。
避難壕の入口で文が振り返り、あの鉄塊が飛来してきた方向の上空を仰ぎ見る。壕の明かりに照らされ、闇の中にその姿が浮かんでいた。
「……よぉ、随分とまぁ好き勝手してるようさね」
「あんまり暴れると、機械でも祟るよー?」
守矢の二柱、八坂神奈子と洩矢諏訪子。先ほどの鉄塊は諏訪子の方が放ったものだろう、その手にはスペルカードが握られていた。
――憎悪と怒りの咆哮。
弾き飛ばされた竜がその身を起こした瞬間に放たれたその轟音には、地獄の鬼たちも震えるような激怒と並の怨霊を遥かに凌駕するだろう憎しみが感じとれた。瞳は橙から真紅に染まり、その眼でもって神奈子と諏訪子を睨みつけた。
咆哮と同時にその背の大筒が吼える。火を吹いた二門のそれから砲弾という猛獣が彼女たちへと襲いかかった。
ごっそり火薬が詰められているだろうそれの弾速はかなり速い。しかしそれを二者は半身を捻るだけであっさりとかわしてみせた。いくら威力と速度があろうと、自機狙い単発弾など大した驚異にはなりえない。
「外れ」
侮蔑と嘲笑を綺麗に重ね合わせて彼女たちは言った。それが挑発の意味を成したのかどうかは分からないが、竜が神奈子と諏訪子を完全に敵と認識した切っ掛けとなったのは間違いないだろう。
竜がその翼を広げ、大地を蹴りこむ。爪の形に地面がめり込む程強く踏みしめたかと思うと――その巨体からは信じ難い速度で飛翔し、二者へと肉薄した。
「さあ着いてきな!」
「こっちだこっち!」
神奈子と諏訪子がそれぞれ声を上げて、竜に負けず劣らずの速度をもって彼方へと飛び去る。竜と二柱が避難壕の明かりが届かない距離にまで飛び去るのに掛かった時間は、ほとんど瞬きにも満たなかった。
「……………………い、いった?」
数瞬続いた沈黙を解いたのは椛の呟きだった。その言葉が切っ掛けとなって、半ば呆然としていた避難者たちがよろよろと立ち上がり、奥へと歩き出していく。
「――椛ちゃん、射命丸さん、私たちも。早くにとりさんを横にしてあげないと……」
「あ、は、はい」
先生の言葉に文も我に返り、壕の奥へと歩み出そうと――。
「…………――んっ……?」
椛の背から身じろぎと共に声を上げ――にとりが微かに目を開いた。
◇◆◇◆◇
ギシギシと軋みを上げるような頭痛の中で、にとりは目を開いた。ひょっとしたら機械にとって錆付いた歯車があるというのはこういう痛みを指すのかもしれないと思う。
水で濡れた窓から外を眺めたときにも似たぼんやりとした視界が、少しずつ鮮明さを取り戻していく。同時に他の感覚も目覚めてきたようで、今自分が誰かに背負われているらしいということが分かってきた。
そうしてようやくはっきりしてきた視界の中で――にとりは最初に、椛の顔を見た。
「――にとり!」
少しかすれたような声で椛が叫ぶ。自分を背負っているのは椛のようで、何で椛がそんなことをしているのかとにとりは不思議に思った。辺りを見渡してみれば、洞窟の入り口か何かにでもいるのか周りは岩の壁。そして向こうでは豪雨の降る夜が広がっていた。
「にとりさん! 良かった、目を覚ましたんですね」
にとりの視界へもう一人、椛のお姉さんのような存在の射命丸文が心の底から安堵をしたように息を吐く。さらにその横で胸をなでおろすのは、あまり馴染みのない女性――そういえば天狗の里で医師か何かをやっている人で、確か先生――もそこにいた。
なんだか状況がよく飲み込めない。軋む頭を何とか働かせて、確か家に着いてから唐突に意識が途切れたことまでを思い出すが、どうやったらその状況からこういう状況にまで移行するのだろうか。医師がいるということは恐らく倒れたところを誰か(たぶん背負われているところからして椛)に担ぎ込まれたのだろうということまでは分かるが……それでも何で洞窟に? そこが全く繋がらなかった。
「えっと……ねえ、何か、あったの……?」
にとりがなんとかそれだけ搾り出す。その疑問に椛が答えた。
「……鉄の化け物が来たのよ。すごく大きくて、翼で飛ぶし、なんかこう竜みたいな――」
鉄、化け物、大きい、翼、竜。それらの単語を聞いた途端、にとりの思考が滑らかに回転を始め、ほとんど一瞬で「その名前」を導き出した。
まさか。あの地底湖からどうやって。いやそれよりあんな状態の翼で飛べるわけが――堂々巡りを始めた思考を止めたのは、どこか遠くから聞こえてきた金属の咆哮だった。うわっと椛が身をすくませたため、にとりがその背からずり落ちる。ふらふらとする足で何とか地面を踏みしめて――確信した。
「……――リュウノスケ、だ……」
……は? 文、椛、先生が口をそろえて疑問の言葉を口にした瞬間――にとりはそれまでのふらつきが嘘のようにしっかりとした調子で洞窟の入り口へと駆け出し、そのまま嵐の夜の中へと飛び込んでいった。
「――えっ、ちょっ、なっ」
「――いけない!」
椛の言葉にならない驚愕の声と、先生の制止のそれを尻目に――その横を疾風を連想させる速さで文が駆け抜けた。
「椛っ、貴女はそこにいなさい! 先生も!」
振り返りもせずに声を張り上げると、文がさらに速度を上げる。幻想郷最速と謳われる神速を持って駆ける文が強く地面を蹴ったかと思うと、その姿が豪雨と闇の中に溶け込んでいった。
◇◆◇◆◇
乱射乱射乱射乱射乱射乱射乱射乱射。いくら言葉を連ねても足りないほどの弾が暴れ狂っていた。しかも乱雑に撃っているように見えてその実恐ろしく正確。逃げ道をふさぐ弾、狙い打つ弾、本当にランダムに撃って弾道を読ませないようにする弾。完全な統率の取れたそれはさすが機械というべきか。
その背にある大砲は二門どころではなく、とっくに二桁を超えていた。加えて翼や胴体からも小型の銃口が覗いており、まるで兵器庫そのものが竜となって襲い掛かってきているようにも感じられる(いったいどこに隠していたのかと甚だ疑問であるが)。
神さえも消滅させかねない苛烈を極めた火力。弾幕、という弾幕ではない。文字通り「幕」として張られた弾だ。その幕に遮断され、神奈子と諏訪子は全く竜に近づけないでいた。
とはいえ防御一辺倒というほど押されているわけでもない。暴れ回る弾の間を潜り抜けながら、スペルカードを総計で既に二十枚以上は撃ち込んでいた。特に神奈子は金属を腐食させる藤の蔓をそれに絡めている。どれほど竜に火力があるにしても、それは相当な痛手になりうる、はずなのだが――。
「(こいつ、堅すぎ!)」
一向に効いていない、というのが現実であった。いや機械である以上痛覚が存在していないだろうから表情に出ていないだけなのかもしれないが、それを差し引いても鉄の巨体と翼に損傷があるようには見受けられない。竜が完全に攻撃に専念してほぼ一切の回避行動を取らないのはあの撃たれ強さのためであろう。
なんなんだこいつは、まるで神殺しそのもの。なぜそんなものがこの山にいるのか。しかしそんな疑問を考える暇すらこの竜は与えてくれない。
「このっ! 土着神『七つの石と七つの木』!!」
諏訪子が宣言と同時にスペルカードを発動させた。七色の大粒弾の弾幕と七本の縦長のレーザーが竜の弾幕間を縫うようにして数発が左肩へ直撃するが――途端に烈火に燃え上がったその真紅の瞳が諏訪子を貫き、三門の大砲がそちらへ向けられた刹那。
閃光。
三つのそれから吐き出された極太の光線がその先にあった小さな影を飲み込んだ。
「諏訪子!?」
この竜、レーザーまで――神奈子がそれに一瞬だけ気を取られる。致命的にして決定的な隙であった。それを竜が逃すはずもない。すぐさまそちらへと残りの砲口が向けられて、撒き散らされていた弾幕全てが神奈子に集中し、神を食らわんと襲い掛かる。とてもその場で回避しきれる量ではない。それは「幕」ではなくもはや「壁」と化していた。
「――くっ!」
神奈子は急上昇し、その竜と弾壁から距離をとる。そのまま飛翔速度を上げていき――雨雲の中へと飛び込んだ。
豪雨を作り出している雲の中は雷が荒れ狂っている。耳を劈くような雷鳴が轟き渡り、それを掻い潜りながら上空へと抜けた。
雲の上では月と星がその光を持って夜を照らしていた。先ほどまで弾幕だけが唯一の光であった闇の中にいたため、その光でも十分に明るく感じられる。
「お、お〜い神奈子ぉ〜」
そこへ若干間抜けさを感じさせる声が神奈子の耳へと届いた。見れば服をボロボロにしてふらふらと不安定にこちらへ飛んでくる諏訪子の姿がある。どうやらあの一撃で雲の上まですっ飛ばされていたようだった。
「諏訪子、あんた無事か」
「な、なんとかね」
神奈子が諏訪子に問いかけると、しっかりとした返事をしてその表情を引き締めた。
しかし状況が変わったわけでもない。今は何とか雲の上に出てあの竜を振り切っているものの、ここを見つけるのに恐らく一分とかかるまい。なんとかしてそれまでに状況を立て直さなくてはならない。
だがあの強固すぎる竜の外甲に闇雲にスペルカードを撃ちこんでもダメージなど期待できそうもない。それにそもそも神奈子の持つスペルカードは既に残り一枚だ。そしてそれは諏訪子も同じだろう。先ほどのスペルでもはや後がなくなっている。
どこか一点。一点でいい。あの「鉄」でない部分さえあれば――――
――――――――そこで神奈子は、はたと気付いた。
あの竜は確かに「ほぼ」一切の回避行動を取っていなかった。それはそうだ、あれだけ堅ければ攻撃など意にも介すまい。……しかしそれはあくまで「ほぼ」だった。数万発と放たれて数千発と竜に直撃した神奈子と諏訪子の弾幕の中、恐らく二桁に届くか否かという程度の回数であったが――「避けた」ものが確かにあった。
そして極めつけは――。
「諏訪子ッ!」
神奈子が勢いよく振り返り言葉を叩きつける。
「さっきのスペルカードで当たった場所は――『左肩』!?」
「――え、あ――そうか!」
その言葉に諏訪子は雷撃に打たれたようにして表情を変えた。
そう、あの竜は異常なまでに堅いが故に、いくら攻撃を受けようとも激昂こそはしていたがあの完全統制された弾幕を延々と撃ち続けていた。それが神奈子と諏訪子にとって一番対処に困る攻撃であるからだ。そうしてこちらの攻撃の芽を完全につぶした後、あの極太の閃光を撃ちまくれば反撃の手がないこちらは間違いなく撃墜されていたに違いない。
だがしかし、あの一発を食らった直後だけは、諏訪子への怒りに全てをかなぐり捨てていた。切り札をわざわざこちらに見せてきたのだ。
これらの情報が導き出す結論は一つ。仮に弱点ではなかったとしても――あの竜の左肩には、何かある。
「諏訪子、まだスペルカード残ってるかい」
「もっちろん。神奈子は?」
「おあつらえ向きに、切り札さね」
「奇遇だね、私もだ」
ピッ、と装飾を施された一枚のカードを神奈子と諏訪子はその手に持つ。切り札とは最後に見せるもの。下手に先に見せてしまえば、それは切り札の意味をなさなくなる。確実に決めるために、切り札とはあるのだ。
その時、金属の咆哮が分厚い雨雲の真下から聞こえてきた。竜がこちらの座標を捕らえたようである。
「――それじゃあ行くかぁッ!!」
「――おぉッ!!」
二柱が鬨の声を上げて、雲へと飛び込む。落下のスピードを加えて一気に加速し、上昇時に半分以下の時間で雲を抜けきった。
そして視界に現れ出でたる鉄の竜。全ての砲口を神奈子と諏訪子へと向け、ここで決めるつもりなのだろう、これまでのそれとは比べ物にならない最高の火力を解き放ってきた。
「神符――!!」
「祟符――!!」
二柱の神も、己の持つ最高威力のそれをかざし――
「――――『神が歩かれた御神渡り』!!!」
「――――『ミシャグジさま』!!!」
大爆発。
◇◆◇◆◇
雨雲と夜を消し飛ばすかのような大爆発が、幻想郷を真昼のごとく照らし出した。闇に慣れきっていたにとりの瞳は、それを直視してしまったがために、その役割を放棄した。
「うあっ……!!」
完全に目がイカれてしまい、数秒ほど瞼を押さえてもだえる。ようやくその痛みが引いていき、涙の滲む視界をごしごしと擦る。なんとか目を開けると、空には月が輝き、雨が上がっていた。信じられないが、あの大爆発は雨雲すら吹き飛ばしたらしい。
――そして、爆音の聞こえてきた方向から金属を擦り合わせるような沈痛な悲鳴。夜の空に、何か巨大なものが月光に照らされていた。それは重力に引かれて緩やかに地面へと落ちていく。
まさか、あれは。
「――リュウノスケ!!?」
にとりは再び夜の空を翔け出した。
ガンガンと殴られるような頭痛と、ガチガチ震えだしたくなる風の冷たさを無理やりにねじ伏せて飛び続ける。自分でも驚くほどの速度が出ていたが、そんなことを不思議に思う暇はなかった。一秒でも速く――リュウノスケの元へと向かうために。
そうしてたどり着いたそこは、焦土と化していた。上空から眺めると、木々がなぎ倒され、大地はくぼみ、あきらかに大爆発だけの被害ではない。どうみても何か凄まじい戦闘があったことは明白である。
そうしてにとりはその焦土へと降り立ち、あの巨大な何かが落ちた辺りを見渡して――そこにかすかな橙の光を見つける。そして、小さな小さな、あの、声。
「リュウノスケぇっ!!」
その声と光を頼りにそちらへにとりは駆け寄った。
伏せるようにして倒れていたリュウノスケは、左の翼を叩き折られていた。にとり自身が修理したその特殊合金の関節は完全に砕け散っている。折られた翼も傍に転がっていて、歯車やボルトやらがそこらじゅうに飛び散っていた。
どうして、一体なんで。にとりが混乱している中、その傍にほとんど落ちるようにして二つの影が降り立つ。
「……へ、お前さん、谷ガッパの……」
「……あれ、え、にとりが何で……」
その影は、守矢神社に祀られる神、洩矢諏訪子と八坂神奈子の二柱であった。その姿はボロボロもいいところで、立っているのがやっとのようにも見えた。にとりの出現には向こうも戸惑っているようで、もごもごと言葉にならない何かを呟いていた。
「――ちょっと、どういうことさ!! なんでリュウノスケがこんなにボロボロになってるの!! 説明してっ!!」
「な、まさかこれお前さんが作っ――」
「そんなこと聞いてない!!」
「いや、だからこいつ暴れてて――」
「リュウノスケがそんなことするわけないでしょおっ!!」
神を相手どっても全く怯まず、にとりは容赦なく激情をたたきつける。ぐいぐいと押し迫り今にも掴みかかりそうだ。――と、そこへさらに影が降り立つ。ようやく追いついてきた文であった。
「ああ、にとりさん! なんでそんなに速いんですか、こんな遠くまで来てどうするんです! ほら早く戻って寝てないと――」
「うるっさい!!!」
にとりの凄まじい剣幕に押されて、ぐっと言葉に詰まる文。神奈子と諏訪子、それに文は自分達より遥かに弱い種族であるはずの「河童」のにとりに圧倒されていた。
「……………………ぎゃ…………う…………」
その激情の渦を収めたのは、小さな小さな、竜の声。弱弱しく放たれたその声でにとりは急速に怒りが冷めていくのを感じた。そうだ、こんなことしてる場合じゃない。
「リュウノスケ、大丈夫。すぐに直してあげるからね」
にとりはリュウノスケを頬をなで、安心させるように笑った。そして修理に取り掛かろうと――そこでリュックが無いことに気付いた。今この手にあるのはポケットに入っていたプラスドライバーだけである。仕方ない、今すぐ取りに戻ろうと背を向けて――
がしゃん。背後からそんな音がした。
え? と、にとりはたった今背を向けたリュウノスケに視線を戻した。リュウノスケはどこか安心をしたような沈黙を守っている。しかし違和感がにとりの体を覆い、訝しみつつもそれを見続けて――気付いた。
右肩の鉄板が、大きく剥がれ落ちていた。
直後、右の翼がもげ落ち、甲高い金属音を立てた。続いて背中、腹部の部品がバラバラと零れ落ち始める。そこでようやく、にとりはリュウノスケの体を赤い「錆」が蝕んでいることに気付いた。それはゆっくりと、しかし確実にリュウノスケの体を蝕んでいく。
「リュ――リュウノスケ!!」
にとりが必死でリュウノスケの名前を呼ぶが、錆びの侵蝕は一向に止まらない。むしろ速さを増したようにも見える。文も神奈子も諏訪子も、眼前の光景に絶句していた。
――鉄の竜は『とてつもなく』長い時間(それこそ永遠にも匹敵しうるほどの、である)一切の手入れもされずに放置をされていた。とはいえもちろん生物ではないから死ぬことは無かったし、彼を作った製作者は徹底的なまでにその鉄の体を丈夫に作っていたから、放置されたくらいのことは竜にとってそれほど脅威ではなかった。
しかし、その超長期間の放置はほんの少し、ほんの少しずつだが鉄の酸化現象――「錆」を引き起こしていた。少なくともそのゆっくりとした進行が左の翼を落とすほどにまで至るくらいは。
そうしてしばらく時間が経った頃、ある河童の少女がその竜の元にやってきた。その少女が施した修理は間違いなく最善であった。……だがそれゆえに、錆付いて止まっていた竜の時間が少しずつ動き出し始めたのである。
そして最後のきっかけとしてあの二柱の神との戦い。数千発の弾の直撃と豪雨は一気に鉄を疲労させ、止めはあの大爆発。それによりとうとう、半ば停止していた時間が一気に時を刻みだした。
たまりに溜まった時間の反動として、「錆」は今を逃すまいと、竜の体を蝕んでいく――。
「リュウノスケっ、リュウノスケっ!!」
にとりの声も聞こえていないのか、リュウノスケはぐったりと力なく体を地に横たえている。がしゃあん、とついに首の部位が錆び落ち始めた。にとりの顔がいよいよ青を通り越して白くなる。
「……ぎゃ……」
ふと、リュウノスケの瞳にかすかなオレンジの光が灯った。
「――リュウノスケっ!! 大丈夫、大丈夫だからっ!」
にとりが呼びかけると、リュウノスケは小さく首を横に振った。そしてその口からパサリと、何かが落ちた。
「……え……」
思わずにとりがしゃがみこんで、それを拾う。――にとりの髪の色によく似た、青い小さな花だった。名前も無いような、花畑にあっても誰も気付かないような、小さな花だった。
花、青、直りきっていない翼で飛び出した理由。
「――――――――え――――――――あ、う、うあ――――――――」
大馬鹿、とでも罵るのが正解なのだろうか。ありがとう、とでも感謝するのが正解なのだろうか。それとももっと別の何かが、あるのだろうか。ぐるぐるぐると言葉が巡り、あふれた感情が混沌を作り出す。
だからにとりは気付かなかった。もう既に、リュウノスケの顔にまで錆びの侵蝕が進んでいることに。カラカラカラ、とそのナイフのような牙が、錆び落ちる。
「――――――――」
それに気付いてもにとりは何も言うことが出来なかった。ただ、そのリュウノスケの瞳をじっと見ることしか、できなかった。
「……………………ぎゃう」
それでもリュウノスケは、満足そうに――いや、これはきっと、にとりの思い込みなのだろう。機械に感情などが、有るわけないのだから。
そうして、リュウノスケと名づけられたその鉄の塊は、錆びに塗れて、ぐしゃりと、その形を失った。
からん、からから、からん。
鉄の塊から部品がこぼれだす。それらも錆に侵されて、ボロボロと崩れていく。それらのうちの一つが、にとりの足元に転がった。
――歯車、だった。
にとりはすぐさまそれを拾い、ぎゅうっと両手で握り締めた。堅い金属の冷たさがその手に感じられた。しかしそれすらも、にとりの手の中で、赤錆に蝕まれる。それでもにとりは、それを離さなかった。
――最初は嗚咽。次に泣き声。最後は慟哭。
最終的にそれは声とも言えぬ何かになって、妖怪の山に、響いていた。
◇◆◇◆◇
終章
それから先のことを、にとりは良く覚えていない。
泣いて、泣いて、泣いて――ただ気付いたら、全く知らない天井が最初に視界に飛び込んできた。ゆっくり身を起こして辺りを見渡すと、朝の日差しが光る窓際に、あの青い花が花瓶にいけられている。そしてポケットには、錆び付いた歯車が入っていた。
最初に飛び込んできたのは椛だった。部屋の襖が開いた音に視線をやれば、そこには椛が立っていた。一瞬だけ目を見開いたかと思うと、次の瞬間には涙で顔をくしゃくしゃにして椛はにとりを抱きしめた。
次に、先生がやってきた。見たことが無いほど冷たい表情で、まず頬を一発張られた。ヒリヒリとする痛みににとりが呆然としていると、椛と同じように抱きしめた。
そうして今度は、にとりが初めて会う人(妖怪なのかもしれないが便宜上「人」としておく)だった。永琳と名乗ったその人は先生と同じように医者であり、にとりがいるここは永遠亭という妖怪の山から大分離れた竹林にある病院だということを説明してくれた。
今日の日付を尋ねられたので、にとりは自分が気を失った夜の翌日の日付を答えると、その日付とは一日ずれた答えが永琳から返ってきた。どうやら丸一日以上倒れていたようだった。
「ただでさえ気を失うほどの高熱で倒れてたのに、それから目を覚ましてすぐに雨の中に飛び出して、しかも射命丸さんが追いつけないくらい速く飛んだりしたっていうらしいから、そうなるのが当然よ」
永琳は呆れたようにため息をついた。にとりが、すみません、と頭を下げるとますますその呆れ顔は深くなる。
「私に謝るよりこちらの方々にお礼を言うほうが先じゃないのかしら? にとりさん」
……全くその通りだった。
それから三十分ほどして、まずは文がやってきた。大きな音をたてて開かれた襖の向こうに荒い息を吐きながら現れた文は、やっぱりまず、にとりを抱きしめた。聞く限り文がにとりをここに運んできてくれたらしい。感謝の意を述べる前に、思わずにとりはまた謝ってしまった。
「謝ることなんてないですよ」
文はにとりの手をにぎって優しく微笑みながら言った。
それから文は、この二日のうちに何があったかを語ってくれた。リュウノスケが飛び出してきたという大穴(信じがたいことだが、あの地底湖から藻だらけの沼までの約七百メートル間を貫いていたらしい)と、守矢神社の神様たちとの戦いで焼け野原と化した場所の復興が進められていること。秋を司る神の姉妹と、災厄を身に溜める厄神のおかげでこれは順調な調子で進められているそうだ。
……ただ、リュウノスケの亡骸についてはどうしようもなかったそうだ。にとりをここに運んでから文がもう一度そこへと戻ってみたときには、ほとんど砂のようになって、完全に崩れ落ちていたらしかった。
そうしてしばらく話すと、文は急に真剣な表情になった。
「にとりさん。本当はこんなことを言える権利などありませんが、私はあの竜の誇りを守りたいと思っています。にとりさんが気を失っているときに、彼は私と先生、椛を護ってくれたんです。それに……あの、花のことは」
文は言葉に詰まったようだったが、すぐににとりの顔を強い視線で射抜いた。
「にとりさん。他の天狗は、あの竜のことをただの化け物として記事に書こうとしています。いえ、もう発行されてしまっているものまである。……本当ならばそれを止められれば一番なのでしょうが……情けないことですが、私には出来ません」
「――ですが、私が見た真実を記事にすることは出来ます。にとりさん、どうか私に、あの竜のことを新聞にさせていただけないでしょうか」
そう言い切った文の瞳は、普段の飄々とした様子からは想像も出来ないほどの強い意思に満たされていた。にとりはそれに天狗という種族の強さを垣間見た気がした。そうしてにとりは、静かに首を縦に振った。
ぱあ、と文の表情が明るくなり、ありがとうございますとにとりの手をぎゅっと握ってくれた。少しだけ痛かったが、それが嫌なものだとはにとりは思わなかった。
文はにとりに十個ほどの質問をした。簡単ながら、深く。それでいて、心を抉り過ぎないような配慮がされた優しさを感じ取れるインタビューだった。
「ご協力感謝します、にとりさん! 夕刊で号外を出しますから!」
そういって今度は慌しく文は、病室を駆け出していった。
それから一時間ほどして、畏れ多くも守矢の神である八坂神奈子と洩矢諏訪子、加えて神社の風祝の東風谷早苗の三人(うち人間は一人なのだが)がやってきた。
「――すまなかった、河城にとり」
「――申し訳、無い……」
……なんといったらよいのだろうか。にとりは目の前の状況――神の二柱が頭を下げている、しかも土下座――にひどく困惑していた。ありえない。なんだろう、これは。
「……謝罪で済むようなことではないことは存じています、にとりさん。あの竜を殺め――いえ、破壊してしまった責任は、全て私達の誤認にあります。許していただけるようなことでないことも、存じております。ですが、恥を承知で、どうか私達に、謝罪を申し上げさせてください――」
一つ一つ言葉を区切るように、同じように額を床に押し付けていた早苗は言った。にとりはくらくらと眩暈を感じた。
違うんだ、そうじゃない、だって、リュウノスケは、私が――。そう飛び出しかける口を何とか押さえつけて、とりあえず顔を上げてくれるように言った。たぶん河童でこんなことをしたのは歴史上でわたしだけだろうと、にとりは思う。
そうして顔を上げた三人ににとりは――何も、言えなかった。慈悲の言葉も罵詈雑言も、何も口から出ようとしてくれない。さっきまでにとりの口はあれだけ言葉を発していたがったくせに、今はうんともすんとも言わなかった。それでもなんとか、言葉をひねり出す。
――もう、大丈夫だから。
何がだ。やっとにとりが搾り出した言葉は、自分でもそう思ってしまうくらいに、そんな意味不明のものだった。
そうして彼女達は、重々しい足取りで、病室を出て行った。
午後になって、霊夢と魔理沙がやってきた。霊夢は異変のことについてもう少し詳しく知るために(山に着いたのはにとりが気を失ってかららしい)。魔理沙はお見舞いで来てくれたようで、バスケットにいっぱいのりんごをつめてやってきた。
「それにしても、機械の竜ねえ……」
ひとしきりにとりの話を聞いた後、しゃくしゃくと魔理沙の切ったりんごを食みながら、霊夢がポツリと呟いた。
「妖術も魔法も使われていなかったんでしょう? 非常識にもほどがあるわ」
「あー? 非常識が生きる幻想郷でその台詞はご法度じゃないのか、霊夢? ……ていうか何でにとりのお見舞いの品なのにそんなむしゃむしゃ食べてるんだよ」
「もうすぐ冬でしょ? 出来る限り食いだめしておかなきゃ」
冬眠前の熊じゃあるまいし……と、にとりも剥いたりんごを一つ取り、口に放り込む。すごく甘くておいしい。相当な高級品なのかもしれない。
「ああ、アリスが美味いって言ってたやつだからな。そりゃおいしいだろうぜ」
にとりがそれを聞くと、魔理沙は悪びれもせずにそう答えた。
「あんた本だけじゃなくてこれまで盗んだわけ?」
「失礼な。きちんと弾幕ごっこで手に入れたものだぜ。こっちの条件は借りた本全冊を返すことだ。結構死闘だったぜ」
「その本だって元々盗んだものでしょう……」
「人聞きが悪いな、死ぬまで借りてるだけだぜ」
なお性質が悪いと思う。にとりは面識の無いそのアリスという人に同情と感謝の意を表しながら、最後の一切れをほおばった。
夕方、文の「文々。(ぶんぶんまる)新聞」が届いた。
自分とのインタビューの意見を上手くまとめた弁論の見事さ以上ににとりが驚いたことは、写真が使われておらず、それにあたっていたのは緻密な絵であることだった。その絵に描かれた鉄の竜――リュウノスケの姿はこれまた驚愕するほどにそっくりだった。
他の新聞の写真はあの日の闇夜と豪雨の所為でまともな写真は録に無かったし、あったとしても遠くから小さくリュウノスケらしき影が写っている程度の者が精々だ。しかしこれは並みの写真よりずっと精密で迫力のある一枚だった。これほど正確に絵にするにはリュウノスケによほど近寄って観察しなければ描けないだろう。それは、ただ写真を撮ることより遥かに難しいに違いない。これはきっと、一度は誰もが手に取るだろうと、にとりは思う。
ふと、差し込む夕日ににとりは気付いた。この永遠亭は深い竹林に遮られてあまり日の光が届かないが、それでも夕日がかすかに病室に差し込んでくる。にとりは小さく見えるそのオレンジの光を見つめて――オ、レン、ジ?
「――リュウノスッ……!」
皮一枚で、なんとか堪えた。
――何を見ているんだ、わたしは。にとりは軽く頭を抑えた。ただ夕日が橙色なだけで、そんなことを思うなんて。
「あらあら、無理はよろしくありませんわよ?」
唐突に背後から、聞きなれない声がした。部屋の襖が開く音は、聞いていない。だから、この部屋には間違いなく、にとり一人であるはずなのに。
ゆっくり振り返ると、空間上に奇妙な「スキマ」があった。無数の目が覗くそこから、ずるりと、長くウェーブのかかった金髪を持った女が現れる。言葉にもならない驚愕の中、その女は名乗った。
「始めまして、河城にとりさん。私、ここ幻想郷を管理させていただいている妖怪、八雲紫という者ですわ。以後お見知りおきを」
優雅に一礼するその女、八雲紫の姿を見て、にとりはやはり言葉を失った。八雲、という名前くらいはここ幻想郷で知らないものは居ない。何で今日は神といい八雲といい、とんでもないのばかりに会うのか。
「いえいえ、そうお硬くならないでくださいな。私がここに来たのは単なるお節介。用があるのは確かですが、それほど重いものでないですわ」
……はい? にとりの中から紫に対する畏怖が消えていき、とたんに怪訝さが鎌首をもたげた。簡単に言えば、この妖怪を胡散臭く感じたのである。
「……あら、かといってそこまでご緩くなられるのも困り者ですわね」
むう、と紫はしかめっ面に表情が変わる。にとりよりずっと年上だろうに、正直に言えばあまり似合ってはいなかった。そうして紫は自分が出てきたあの空間のスキマに手を突っ込んで――ひょい、と何かを取り出した。
それは、赤錆びた歯車。思わずにとりはポケットに手を突っ込むと、入っていたはずのリュウノスケの歯車がなくなっている。
「ふむふむ、これが今回の異変を起こした機械に使われていた部品ですか。にしても随分と――」
その瞬間、にとりは紫に飛びかかっていた。突然だったために紫はバランスを崩して、そのまま仰向けに倒れこむ。畳に肉のぶつかる音がして、にとりは紫に馬乗りになった。
「……返せ。返さないと、殺す」
にとりはそう言うと、紫の首に手をかける。もし否と言うなら本気でそれを行うつもりだった。
「……失礼、少々無礼が過ぎましたわ」
謝罪をしてはいるものの、紫はにとりの殺気をさらさらと受け流していた。そして言われた通りに歯車をにとりに差出す――そこでにとりは気付いた。
歯車の錆が綺麗に落ちていた。差し込む夕日に反射して、ぎらりと強く光っている。にとりが最初に拾ったそれであるのように。
「……す、すみません。どいてくださる? ちょ、ちょっと腰が……」
はっとにとりが我に返ると、紫が苦しげに顔を歪ませて呻いていた。慌ててにとりが謝罪と共に離れる。あいたたた、と紫は腰をさすりながらゆっくり起き上がった。……見かけ以上に結構年をとっているらしい。
お礼を言うべきかどうなのかにとりが戸惑っていると、紫は静かに笑って言った。
「言ったでしょう? ただのお節介、と」
その笑みを浮かべながら紫は再び空間のスキマを開いて、その中へと潜りこんでいく。そうしてすっぽりその中へ収まると、隙間の向こうでにとりを振り返った。
「……それと、もうひとつ、お節介を言っておきましょうか。――日が沈むまで、もうあまり時間が無いですよ?」
にとりは弾かれたように窓の外を見る。ただでさえ暗い竹林が、余計暗くなっていた。竹自体に日が遮られていることを差し引いても、もう日はほとんど沈みかかっているのだろう。
そしてにとりは、病室を飛び出した。
その姿を紫は、再び笑みを浮かべて、見送っていった。
病室を飛び出したにとりは、長い長い廊下を駆け抜けて、永遠亭の外へと出た。そしてそのまま強く地を蹴って空中に飛び上がると、ぐんぐんぐんぐん、にとりは高度を上げていく。
――にとりはリュウノスケのことを何も知らない。結局なぜあそこにリュウノスケがいたのか分からなかったし、誰が作ったのかということも全く知らない。しかもリュウノスケの修理をしていたのは一週間と少し程度である。こう考えてみれば、いかにその関係が薄いものなのか分かる。
だが、しかし、それでも――――――――――――にとりは。
そうしてにとりは自分の飛べる最高高度にまで飛び上がった。そうして見上げてみれば、既に空の東から半分以上は夜になっており、いくつかの星が瞬いている。西の空に目をやれば、かすかにオレンジの光――夕日が、まだ、そこにある。
――リュウノスケの瞳が、まだ、そこにある。
「リュウノスケェェェええええ――――ッ!!」
だから、にとりは叫ぶのだ。あのときに言えなかった言葉を。
「ありがとうっ……ありがとぉぉぉぉぉぉぉ――――っ!!!」
ボロボロ涙を零しながら、嗚咽をはきながら、叫ぶのだ。
「私はリュウノスケのことっ……!! 絶対に忘れないからぁぁぁ――――っ!!」
夕闇に染まる幻想郷に、にとりの声がこだまする。
その時に、どこか遠くで、それに答えるように――金属の咆哮が聞こえたような気が、にとりはした。
<了>
にとりのリュウノスケに対する思いだけでなく他のキャラクター達の気持ちも心に染み込んできました。
これは文句なく100点を付けさせて頂きます。
良い作品を読ませて頂き本当にありがとうございました!
見事だわ、モニターがよく見えない
見事。
とても惹き付けられるお話でした。
リュウノスケはきっと、にとりと過ごし短い日がとても大切な思いになったんでしょうねぇ。
にとりとの関係などがとても素晴らしかったです。
素敵なお話でした。
失礼。
見事です、涙腺が緩んで気づいたらキーボードに水滴が落ちてました。
長い時間をかけて書いた作品のようで、初めてとは思えない出来でしたね。
次回作があるなら期待して待ってます。
満点以外有り得ない
この点数以外付けれません
異形の友人ってやっぱりいいものですね。
リュウノスケにまつわる機械と神様の確執?について、今の神様たちがどう考えているのか。そういった描写があればと思いました。
神奈子らが救われない感じがしてしまって・・・
でも、リュウノスケとにとりの信頼にはグッときました。いい作品をありがとう!
スペルカードとはスペルカードルールにおいて「こういう技を出す」と言う宣誓のためのものであり
それ自体に力が込められていたり、それがないと技が出せない、といった類のものではありません。
重箱の隅をつつくようで見苦しい指摘かとも思いましたが
物語上無視できないウェイトで描かれていたのでどうも気になってしまいました…
ああいや、お話自体は非常に秀逸だと思います。感動させていただきました。
良い二次創作。
回収されていない伏線は多分にあろうが、それが逆に物語の味を深めていると思います。
リュウノスケは幸せだった、一生懸命だった、そして結果はどうあれ救われた。
登場人物の誰も彼もが活き活きとしていて最高でしたっ! 静葉おねえちゃんもかっこいいよ!
続篇は書かれるんでしょうか?
いや、書いてくださいな。是非とも。
ってーか101以上無いの?
とりあえず感動した。その一言に尽きます。
特に個々のキャラクターの立ち振る舞いに感心しました。
感動をありがとうございました。
うん…どんな感想でも陳腐にしかならなそうだゎぁ…。
凄い以外の言葉が思いつかない……
別れの場面がほんともう切なすぎて…、まさに感動を有難うございました
そう言えば、彼の兄弟子、内田百間という人のファンに、平岡公威という、
蟹の嫌いな男がいたが、あいつは死後も電話をしたという。
…変なやつ。
「現在」をすごく鮮やかに感じました。