おぜうさま! おぜうさま! おぜうさま!
おぜうさまぁああああああああああああああああああああああん!!!
あぁああああ…ああ…あっあっー! あぁああああああ!!!
おぜうさまおぜうさまおぜうさまぅううぁわぁああああ!!!
あぁクンカクンカ! クンカクンカ!
スーハースーハー! スーハースーハー!
いい匂いだわぁ…くんくん
んはぁっ! レミリア・スカーレットたまのアメジストの髪をクンカクンカしたいの!
クンカクンカ! あぁあ!!
間違えた! グレイズしたいの!
チキチキ! チキチキ! ガリガリチキチキ! ガリガリチキチキ…
きゅんきゅんぴちゅーん!!
しゃがみガードのおぜうさまかわいかったよぅ!!
あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!! ふぁぁあああんんっ!!
喰らいボム決まって良かったねおぜうさま!
あぁあああああ!かわいい!おぜうさま!かわいい!あっああぁああ!
某事件ではいっしょに戦えて嬉し…いやぁああああああ!!!
にゃああああああああん!! ぎゃああああああああ!!
ぐあああああああああああ!!!
おぜうさまはにんげんじゃない!!!!
あ…妹様も中国もよく考えたら…
お ぜ う さ ま は 人間 じ ゃ な い?
にゃあああああああああああああん!! うぁああああああああああ!!
そんなぁああああああ!!
いやぁぁぁあああああああああ!!
はぁああああああん!!
こーまかーぁああああん!!
この! ちきしょー! やめてやる!!
人間なんかやめ…て…え!? 見…てる? 隠し撮りしたおぜうさまが私を見てる?
れみりあ☆うーのおぜうさまが私を見てるぞ! おぜうさまが私を見てるぞ! カリスマックスなおぜうさまが私を見てるぞ!!
絵本のれみりゃちゃんが私に話しかけてるぞ!!!
よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!
いやっほぉおおおおおおお!!! 私にはおぜうさまがいる!!
やったよパチュリー!! ひとりでできるもん!!!
あ、新月のれみりゃちゃああああああああああああああん!! いやぁあああああああああああああああ!!!!
あっあんああっああんあおぜうさまぁあ!! れ、レミリア!! れみ☆りあ☆うーぁああああああ!!! スカーレットぉぉぉ!!
ううっうぅうう!! 私の想いよおぜうさまへ届け!!
紅魔館のおぜうさまへ届け!
その様子は言ってみれば、人間どころか妖怪さえも三千里ほど引かせてしまうほどだった。
十六夜咲夜、その人のマントラのような呪文である。
彼女は日に三回、ご主人であるレミリアへの忠誠心が高まりすぎたときに、この言葉を唱えることにしている。
まあそんなことを知る人はおそらくいない。
今いるところは自室。そして時間をほんの少しばかり乱し弄っている。先ほどの悪魔を召喚しそうなマントラは超高速度に聞こえてしまうため、なにを言っているか聞き取ることは誰にもできない。
ふと我に返った咲夜は時間をいつもの調子に戻した。
そこで、タイミングのよいことにドアをノックする音が聞こえた。
「咲夜いるー?」
レミリアの声だった。
「はい、ここにおります」
すぐに咲夜はドアを開けた。
さきほどのぶっこわれた調子は見る影もなく、完全で瀟洒なメイドのいつもの硬い表情がそこにはある。
冷然な、といってもよいだろう。
ただしレミリアの前では、すこしだけ優しくなっている。
周りからは、いつもの鋼鉄のような表情が確かな主従関係の前で春の雪解けのように氷解するという美談として語り草となっているのであるが、実際のところは春の雪どころかストーブの前に置かれたアイスクリームのようにデレデレと溶け出しそうな表情を強靭的な精神力でどうにか取り繕っている状態である。
レミリアは幾分ほっとしたような吐息をはいた。
「よかった。部屋のなかにいないのかと思ってたところよ」
「すいません。お嬢様。少しばかり瞑想をしておりました」
(ああ、ちょっと拗ねたような表情のお嬢様。か、かわいい。抱きしめたい。抱きしめたい。抱きしめたい。抱っこしてさしあげたい。むしろ抱っこる。超抱っこる!)
などと思っているが、当然のことながら全精力を傾けて顔の表情筋に揺らぎがないようにしている。
「あのね。咲夜。この本をパチェのところに返しておいてもらえるかしら」
レミリアの腕の中には辞書のように分厚い本が十冊ほど重なっていた。どちらかといえば驚異的な身体能力を誇る吸血鬼が自分で持っていったほうが話が早いところだろうが、当然そのような力仕事もメイドの仕事のうちなので、咲夜はいやな顔ひとつせず引き受けた。
「では、早速行ってまいります」
「そのあと紅茶をいただけるかしら」
「時間どおりにおうかがいいたします」
きっかり五分後には図書館に到着。陽のひかりも届かない地下の大図書館である。
咲夜はパチュリーの姿を探した。あるいは名称無しの中ボスもとい小悪魔でもよかった。管理者であるそのいずれかに手渡せば、所定の場所に本を納めることができるだろうという考えである。なにしろ、この図書館は咲夜の空間操作によってやたらめったら拡張されており、もしいたずらに本を納めると、どこになにがあるかわからなくなる可能性があるからだ。
「どこにいらっしゃるのかしら?」
「ここよ」
上方から声がした。
ふわりふわりと浮かぶ姿がそこにはある。
「パチュリー様。レミリアお嬢様から本を預かってまいりました」
「ご苦労様。あの、悪いのだけど調べものをしててすこし忙しいの。所定の場所に返しておいていただけるかしら」
「どこに戻せばよろしいのですか」
「ああ、レミィが借りてったやつなら確か、『い』の6、32Aよ。棚に番号振ってあるから」
「わかりました」
それにしてもひとつひとつの本の場所を覚えているのだろうか。
だとすれば、とてつもない記憶力である。
ちょっと人間である自分では勝てる気がしない。
周りからは完全といわれている咲夜であるが、それは所詮は挙動ぐらいなもので、実のところ基本スペックでは人間は非力な部類である。
たとえば、力。
単純なる身体能力。
運動神経やら筋力やら、要するには最も物理的な有形力を行使する程度の能力。
理由などなく所与のものとして、人間と妖怪とのあいだでは、絶望的なほどの開きがある。
今も、まさにそのことを痛感していた。
そろそろ本を持つ手がぷるぷると小刻みに震えていたのだ。
これが中国こと美鈴あたりならあっけらかんとした表情のまま、お手玉でもできてしまうだろう。
しかし、十六夜咲夜は時と空間を操る程度の能力以外はあくまで人間としての能力しか持たない。うら若き乙女の細腕では、さすがに辞書大の本が十冊はきつすぎた。
正直、前も見えない。
レミリアから直接の依頼を受けた仕事であったから、他のメイドに委任することは咲夜の信条としてできなかったのだが、二の腕の筋肉は限界突破しそうな勢いである。
もちろん一度どこかに置いて、分けてもっていけば済む話ではあるのだが、人間としてのプライドがそれを許さない。
『十冊の本ももてないの? バカなの? 死ぬの?』
なんて陰口を叩かれたら死にたい気分であるし、人間だってやるときはやるということを自らの行動で示したいのである。
「とはいえ……、現実原則の前では敗北しそう」
すらりと伸びた真っ白な手足は、力仕事には向いていない。
どちらかといえば、咲夜自身、自分のことは近接戦闘タイプというよりは遠隔操作タイプだと思っている。
「いの6……、ここね」
青息吐息の状態で探りあて、ようやく咲夜は一息つく。しかし、困難は続くもの。
本が置かれていた所定の場所はどうやら最上段らしい。棚の最上段は天井近くまで届いている。
その天井が日本の住宅とは異なり、目のくらむような高さがあった。
悲愴感の漂う表情になる咲夜。
さすがに咲夜の跳躍力でもそこまでジャンプするのは無理である。
「しょうがない。脚立でも探そう」
小さく独語し、その場に本を置いた。ほんのちょっぴり敗北感を覚えて、咲夜は唇をかみしめる。
脚立を探してきた。主観時間はかかったが、客観時間はかかっていない。レミリアの紅茶の時間が近づいてきていた。時間を止めることができるといっても能力を使うのもある程度疲労が溜まるところであるし、空間とのバランスも考えると多用はできない。できるだけ早く行動しなければと思い、咲夜はすぐさま脚立に足をかける。
十冊全部は無理だが、数冊ずつならなんとかなりそうだった。
本を小脇に抱えて、脚立を登る。高いところは苦手ではないから、それはよいのだが、脚立の段を上るごとに腕に違和感があった。
さきほどの疲労でちょっとだけ筋肉がオーバーフロウ気味。人間の疲労はそんなにたやすく回復するものではない。
無理を承知で咲夜はずんずんと登っていく。すぐに息があがった。ひたいと手のひらが少し汗ばんだ。
人間の身体は脆弱の一言に集約される。こんなにも弱く、こんなにも壊れやすく、こんなにも脆い。
咲夜はそっと考える。
実に微笑ましいではないか。人間だけに許された弱さだ。
五メートル。六メートル。
もう少し、もう少しと念じるようにして上へ上へと進んでいく。
どこか浮遊の感覚が身体を包んだ。
そして最後の一段。
咲夜は小さく息をして、呼吸を止めた。
そこで。
スカッ。
と。
擬音にすればそんな感じだったかもしれない。
咲夜の細い指先が空を切った。あ、と思考する瞬間もなかった。つまり時を止めることも叶わず、彼女は一瞬のうちに、重力に導かれて床に叩きつけられた。
その間はコンマ一秒に満たない。
幸いなことにと言ってはなんだが、咲夜はすぐに気絶してしまったため、痛みらしい痛みを感じる暇もなかった。
彼女が発見されたのはそれから七分後のことである。
十六夜咲夜の来歴については不明な点も多いのであるが、人間らしい生き方を十全にすごしてきたとはいいがたい。
時間を操る能力は人間の中にあっては異端であるし、なんの力をもたない人間にとっては脅威以外のなにものでもない。
化け物と呼ばれたこともあっただろう。
対して完全で瀟洒という華美溢れる形容は、咲夜にとっては処世術であり、身を守る術だったともいえる。
つまり、装飾。
切れ味の鋭い刀身を隠すための鞘のようなものである。
「そろそろ起きそうよ」
パチュリーは傍らにいるレミリアに声をかけた。部屋の中にいるのはパチュリーとレミリアだけだった。先ほどまで看護をしていたのはパチュリーであり、レミリアはその様子をぼーっと眺めていただけで実質的には何もしていない。
レミリアの顔はいつもあまり血色が良いほうではないのだが、今はまるで死体のように青白かった。
その顔がゆるやかに上を向いた。パチュリーの声に機械的に反応したといった感じで、生気のかけらも無い。
そして、また咲夜に向けられる。
終始、無言のままだ。
「……ん」
咲夜は一瞬、身をよじるような動作をしたあと体中を弛緩させ、長い息を吐いた。
それから目を開けた。
レミリアがそっと咲夜のうえに手を置いた。
「やっぱり、に、人間はだめね。こんなに簡単に壊れちゃ仕事にならないわ」
しっかりと声が震えていた。
「さっきまで十秒ごとに、咲夜の安否を尋ねてきてたわ」とパチュリー。
「パチェ!」
「ぶっちゃけ涙目だった」
「元から紅いのよ」
「咲夜死んじゃやだーとか絶叫してたくせに」
「うーっ!」
「ともかく意識が戻って安心したわ」パチュリーは咲夜に聞く。「大丈夫?」
「えーっと……。その、なんというか」
咲夜は言葉がふわりふわりと風船のように浮かんでは、空中で破裂していくような感覚を味わっていた。
うまく思考がまとまらず、自分がどこにいるのかもわからず、そして自分が何をしているのか、自分が誰であるのかということさえわからない。
ただ一つ明らかなのは、目の前にいる猛烈にかわいらしい幼女が、なぜか超がつくほど泣きはらしたような真っ赤な瞳で、自分の身体に身をあずけていることだけである。
「え、なに、これ。よくわからないけどとてもシアワセな気分がする……」
「は?」
「あ、いえ。そうではなく。どうやら記憶がないようなんですが、わたし」
「は?」と今度はパチュリーとともにレミリアもすっとんきょうな声をあげた。
十六夜咲夜は基本的には冗談を言うような性格ではなく、たまに言う冗談にしても時と場合を考えて物をいう。だからこそ完全なのであり、だからこそ瀟洒という形容がふさわしいとされるのである。
パチュリーは「ちょっとタンマ」と普段は言わないようなフランクな言葉を咲夜に対して投げかけ、レミリアを部屋のすみっこに引っ張っていく。
「なにか妙なことになっているわね」
「あなたの治療が変に作用したという可能性は……」
「レミィがベッドにダイブして、ほっぺたすりすりしてたのが悪かったんじゃ……」
「ちがっ。あれは違うの。ただ単に主人が従者を気遣っただけよ」
「いずれにしろ、記憶喪失なのはまちがいなさそうね。どうする?」
「どうするっていっても。元には戻らないの?」
「人間のことはちょっとわからないことが多いのよね」
「どうして?」
「周りが人外だらけで、人間は逆に希少価値があるっていうかね。ともかく人ってどんな生き物なのかよくわからないのよ。だから今は静観しとくのがベストだと思う」
「ちょっと無責任すぎるんじゃない」
「理論はいいんだけど、臨床はあまり得意じゃないの。それに貧血でスペルが唱えきれないし」
「永遠亭で輝夜と仲良くニートしてなさい」
「つるぺたのくせに」
「引きこもりがなにかいってるわね」
「はいはい、カリスマカリスマ」
「わたしは無慈悲な夜の女王……わたしは無慈悲な夜の女王……」
レミリアがしゃがみガードで現実逃避しだしたので、パチュリーはすぐにごめんなさいした。
十分後。
「こほん」レミリアが仰々しく咳払いをする。「咲夜、わたしが誰だかわかる?」
「宇宙で一番かわいい生命体ですか?」
「なにか変。あなた、なにか変よ。記憶喪失なのに落ち着きすぎだし」
「すいません。状況がよくわからないんです。自分自身、心の中では戸惑うばかりですが、なんとか情報を得ようと思っております」
「簡単に説明するわね」レミリアが冷たい視線で咲夜を見下ろす。「あなたはわたしの従僕。まあ要するに召使い的な存在なわけよ。それであなたはメイド長。このスカーレット家における従者のトップでもあるわ」
「なるほど。よく見ると、わたしはメイド服を着ているみたいですね」
咲夜は包帯がぐるぐる巻きされた頭を抑えながら、ゆっくりとうなずく。
自分の記憶を探ろうと必死なのである。
「脱がせ脱がせとレミリアがうるさかった」と、これはパチュリー。
「ちょっと窮屈そうじゃない」
「むやみに動かすと危険よ」
レミリアはなにか反論したかったが、うまい言葉が思いつかずだまりこんだ。
カリスマを保つために彼女も必死である。
「ところで、お嬢様?」
「なに、咲夜」
「いえ、お名前を忘れてしまったみたいなんです。お嬢様の」
「そ……、そう。しかたないわね。まったく人間は。今度はちゃんと覚えておくのよ。わたしの名前はレミリア・スカーレット」
「認識しました。主」
「ずいぶん変わった返答ね……」
そこで再び、レミリアとパチュリーが小声で会話を開始。
「パチェ。どうも少し変よ。記憶喪失になったら性格まで変わるもんなの?」
「一概には言えないけれど、たとえば信頼関係というのは時の流れのなかで醸成されていくものだから、いまの咲夜は信頼度がゼロにまで下がった状態なんじゃないかしら。つまり外の世界ふうにいえば、誰ともフラグがたっていない状態。あるいは処女雪のようなまっさらで綺麗な状態ともいえそうね」
「むぅ……。わたしの名前すら覚えてないってことは、わたしの好みとか完璧な主従関係とかも全部なくなっちゃったわけね」
レミリアはうつむいた。
「あなたが寂しがるなんて珍しい」
「べつに死んだわけじゃないから寂しがってなんかいないわ。ただ、少し困るだけよ」
「強がり」
「うるさいっ」
「でも困るという言葉は本当ね。もしかすると咲夜はわたしたちを恐れるかもしれない。普通の人間らしく、ごく一般的な感情として」
一般的な人間は、普遍的な感情として妖怪に対して恐怖を抱く。
咲夜が――レミリアを恐れる。
ぞっとしたのはレミリアのほうだ。
そんなことは考えもしなかった。
咲夜との主従関係がほんのすこしの時間で瓦解する可能性を思い描き、手の先から血の気が引いてくるのを感じた。
「そんなことあるわけない」レミリアは強く言う。「絶対に」
「幼い感情論でどうにかなるほど現実は甘くないわよ」
喘息が気になるのか、肺臓あたりをなめすようにさすりながらパチュリーが答える。
レミリアは沈黙をもって答えたが、不意にもっと重要なことに気づいた。
「ねえ。もしかして咲夜って自分が時間を操れることも忘れているのかしらね」
「そうね。その可能性は高いわね。でも、あまりこちらから情報を与えすぎるのもよくないかもしれない。先ほども言ったとおり、咲夜は自分の置かれている状況をちっとも理解していないようだし、もしかするとそういう異形の力を行使できると知れば、戸惑いを覚えるかもしれない」
とりあえず黙っておこうというのが合意になった。
しかし、羽は隠せない。
レミリア・スカーレットは吸血鬼であり、幻想郷の吸血鬼にはなぜか羽がついているのである。それはいわば前提であり、覆せない事実である。
「お嬢様の背中についているのはなんなのですか」と咲夜が聞いてきた。
間が悪い。
あるいは魔が悪い。
レミリアが口をパクパクしながら、手を鳥のようにはばたかせる。にわとりだってもう少し優雅に羽ばたくだろうとひそかにパチュリーは思った。
「は、羽がついてて悪い?」
何秒かの葛藤のあと、出てきた言葉はいっそすがすがしいほどの開き直りである。咲夜はほとんど表情に変化がなく、短く「いえ」と答えただけだった。ここらのやりとりはいつもと変わらない当意即妙の受け答えである。
「ともかく。メイド長の仕事はしばらく休んでいていいわ。わからないことがあったら美鈴にでも聞きなさい」
「はい。お嬢様。でも、美鈴さんって誰ですか」
「いまから呼ぶから」
レミリアは頭を抱えながら、部屋の外に出た。
ドアを閉めるとよくわからない疲れがでたのか、ふぅ、と大きなため息をついた。
美鈴は考えていた。
咲夜に対する内心における評価は第一には厳しい上司というものであったが、そういった上下関係を除けば、自分はどんなふうに思っているのだろうか。
あるいは、どんなふうに思っていたか。
出会った最初期を思い出せばすむ話ではあるのだが、もう忘れてしまった。
「まあいいかぁ……。それにしてもお嬢様があたふたしているご様子はかわいかったなぁ」
そこで、ハッと気づき、美鈴は反射的にうずくまった。
数秒後、周りをきょろきょろと見渡す。
誰もいない。
探していたのは咲夜の姿だ。
いつもならレミリアのことをなにかしら評価するような言葉をいったら、数秒後には額にナイフが刺さっているところだ。
不遜だとかなんとか、冷たく言い放たれて。
しかし、先ほどレミリアから聞いた話だと、どうやら咲夜は記憶喪失になっているらしい。
だから時を止める能力も忘れているのだとか。
そのことも含めて、咲夜からなにか聞かれるまではこちらから過度に情報を与えることはきつく禁じられた。
美鈴はちゃらんぽらんなように見えて、気を扱う程度の能力を有している。短く言えば、気を使う程度の能力があった。
つまり、人の気持ちをおもんばかることができるいい子ちゃんなのである。
その能力が買われたのかはわからないが、咲夜の世話をするように頼まれた。もしかすると咲夜が紅魔館にやってきた当初も、そんなことをしたかもしれない。
(ああ、思い出した)
美鈴は優しく笑った。
「咲夜さんはかわいかったんだ」
特に人の身でありながら必死なところ。
人の強さを極限まで体現しようとしている姿が綺麗で殊勝で美しかった。
脆弱な人間という器のなかに黄金の輝きを持つ意思が隠されている。
そんな矛盾にかわいいという感情が生じるのだろう。
(実際にかわいいし、おもに性的な意味で)
ともかく美鈴にとっては咲夜は好ましい人物であることに間違いはない。
看病をするというのも、不謹慎ながら嬉しい感情が湧いた。
咲夜の部屋の前まで来た美鈴は、咲夜を不安にさせないように元気な声を出した。
「咲夜さん入りますよー」
「はい。どうぞ」
咲夜はベッドでおとなしく寝ていた。今は着替えたのか珍しいことに寝巻き姿である。なんだか妙に色っぽい。普段見ない姿のせいだろうか。
美鈴は自分の中の『気』があわただしく沸騰しかけているのを感じ、抑えにかかった。
「りらーっくす。りらーっくす」
「あの。美鈴さんですよね」
「そーです」
笑顔で美鈴は答える。内心では少しショックだった。自分の名前を忘れられていたこともそうだが、もっときつかったのは名前にさんづけされたことだ。
でも、咲夜のほうがもっと不安だろうと思った。
「咲夜さん。記憶喪失になってしまわれたそうですね」
「はい。生活をしていくぶんには困らないみたいですけれど、どうも人間関係が全部ふっとんでしまったみたいなんです」
咲夜の声は沈んでいた。
それに、彼女の不安そうな表情は美鈴であっても数える程度しか見たことがない。
レミリアに見せたら飛んでくるだろう。文字通り。
なにはともあれ守らなければと強く思う。
美鈴の門番的な気質は紅魔館に住む者を守護することに向けられているので、咲夜ももちろん被保護者にあたる。
「大丈夫ですよ。紅魔館は家族みたいなものですからね。咲夜さんが治るまでわたしが全力でサポートします」
腕をまくりあげて、ガッツポーズをとる美鈴。
「それなんですが」咲夜が小さく声をだした。「わたし、どんなふうに仕事をすればよいかも忘れてしまって」
「それも少しずつわたしのほうから教えていきますから大丈夫ですよ」
咲夜は美鈴との会話ですこしでも情報を得ようと必死だった。
自分の位置関係がつかめず、ふわふわと浮いているような不安定さが怖かったからだ。
身体感覚や十六夜咲夜という名前はすぐに定着した感覚がわいたのであるが、人が自分の自我と社会的な立ち位置を把握するにはそれだけでは足りない。自我とは自分を客観的に見るための主軸であり、これが確立している人間は自分のことを違った角度から眺めることができる。たとえば自分のことを自分で笑ったり、けなしたり、いいところを見つけたりもすることができるのであるが、今の咲夜は自我がないも同然だった。
わたしはなにをしている?
わたしはなにを望んでいる?
(以前も、そんなことがあったような……)
自分の認識だけが投擲されたナイフのように先行し、それ以外にはなにも考えられない。
いわば、殺人ドール。
そんな冷たい凶器ではなかったか。
いつのまにか烈しい顔つきになっていたのか、美鈴が不安そうに見ていた。
違う――と咲夜は内心で首を振る。
たった五分の間に、美鈴は何度「大丈夫」と唱えただろう。
こんなに想われているわたしが、冷たいはずがない。
「すいません。ちょっと疲れてしまって」
「あ。あっ! ごめんなさい。気が利かなくって。今はまだ仕事のことは考えなくていいですからね。ゆっくり安静にしていてください」
美鈴は気を利かせてくれたのか、すぐに退出した。
あくる朝。咲夜は早くに目が覚めた。
窓がない部屋で時計も今はもってないから時間がよくわからない。
体内時計で推測するに、まだ陽が登っていない程度の時間だろう。どうやら身体に夜の感覚がしみこんでいるらしい。
すこし体調がよくなったので、廊下にでも出てみようかという気になった。
屋敷のなかでは窓が少なく、逼迫感を多少おぼえる。しかしながら住み慣れた感覚も同時に覚えて、どうやらここに住んでいたのはまちがいないらしいと思えるようになった。
咲夜は長い廊下をゆっくりと確かめるように歩く。
廊下の端に窓があった。そこから外を覗くと、燃えるような朝焼けが山の色合いを変えていくのが見えた。
「朝、か」
無意識に咲夜はカーテンを閉めた。
なぜそうしたのかは自分でもわからないのだが、窓から光がこぼれなくなると妙に安心した。
「あ、咲夜ー?」
後ろからとつぜん声をかけられた。レミリアとはすこし違うがよく似ている声だった。甘いクランベリーのお菓子のような声。
「はい。なんでしょう」
振り向いた先には、金髪で紅い瞳の、それとやたらとカラフルな羽を持つ少女がいた。
どうやら異形には慣れているのか、咲夜は驚くほど自分が冷静なことを感じていた。
理性的に考えれば、目の前の少女の姿が、一般的にいって化け物と呼ばれていることを知っている。
知っているのだが、愛らしい姿についつい目を奪われてしまう感じがした。
「どうしたの咲夜。わたしの顔をじっと見て」
「いえ……。すいません」
「まあいいけど。ところでお姉様がどこにいるか知らない? 今日はリアルお人形さんごっこをして遊ぶ約束をしているの」
「いえ。ぞんじませんが」
いいながら思い出す。美鈴が言っていた。
レミリアには妹がいて、その名前は確かフランドール。
美鈴の話では気難しい性格をしているとのことだったので、咲夜はすこし緊張した。
そのせいで視線を合わせることができなかった。
フランドールは不思議そうに咲夜の顔を覗きこむ。
「ねえ?」
「はい?」
不意に――。
フランドールの姿が掻き消えた。
次の瞬間、その気配は背後に現れる。
なぜか脇から汗がにじみでた。
レミリアとは比較にならないほどのまがまがしいオーラのようなものを感じる。
だが、聞こえてくる声の調子はあいかわらず幼い。
「あれぇ。なんか変だよ咲夜」
「なにがですか?」
振り向きながら、できるだけ冷静を装う。
その背後で咲夜の灰色の脳みそは必死に計算をしている。この少女はもしかすると『危険』なんじゃないのか?
人間の本然に近いところで、恐怖に似た感覚が肌の上に生じている。
「いつもとすこし違う感じがするね」
「そうでしょうか」
「うん。血の匂いが少し違う感じ。人間の血はね、感情やそのときどきの気持ち次第でぜんぜん違うんだよ。匂いも味も違うの。ちなみにわたしが好きな味は人間が恐怖したときの味かな。それとも絶望したときの味かも。混然としていないピュアーな味がたまらないんだよ。うふふ」
「わたしの血はおいしくないですよ」
「そうかな」
少女は妖艶な表情になり、咲夜の細いからだを小さな手で拘束した。
非情の爪先が柔肌に食いこみ、咲夜は苦悶の表情を浮かべる。
まったく動かせない。肉体的なレベルで、物理的なレベルで、動かそうとしてもまるで空間にはりつけられたように動かすことができなかった。
にわかに感情がさざめき、咲夜は悲鳴をあげそうになる。
暴虐の感情を刺激されたのか、フランドールは楽しそうに笑った。そして咲夜の首筋をぺろりと一舐めする。
「この味は! 嘘をついている味だぜ……」
フランドールは最近できた友達のような口調で調子よく謡い、最終段階の吸血行為に移ろうとしていた。
陽のひかりが満ちる世界は今からおこなわれるであろう淫猥な行為とは対照的に、澄み切っていてどこまでも無音である。咲夜はなかば観念し、奪い去られるものがなんなのかもわからないまま、哀しいという感情だけはいや増して、ぼんやりと壁の染みを眺めた。
どうせ堕ちるなら――と、レミリアの顔が脳裏に浮かんだ。
その意味すらわからない。
「フラン!」と声が聞こえた。
幻聴ではなかった。
「あ、お姉様。いたんだ」
ふわりと空中で後退し、フランは無邪気に言った。
レミリアは息を切らせて、廊下の向こう側から走ってくる。咲夜は乱れたメイド服を手早く直し、レミリアに声をかけた。
「お早いですね。お嬢様」
「お早いじゃないわよ……。あなたがフランに襲われているのが『視』えたから飛び起きたのよ」
意味はよくわからなかった。
しかし、わかったこともある。
どうやら自分はお嬢様萌えなんじゃないのか。
徴候はあった。
冷静に考えれば、起き抜けにレミリアのフワっとした軽いからだを受け止めたときから、快楽中枢を直接に刺激されたかのような幸せ感を味わっていたのである。
そういった認識で、レミリアの姿をみると、どうにもたまらない気分になってくる。
やばい。かわいい。抱きしめたい。抱っこしたい。
愛し愛されちゅっちゅしたいとか、いろいろ危ない妄想をしてしまうから人間というものは不思議なものである。
「ともかく……。ちょっと来なさい咲夜」
「はい」
表面上はあくまで冷静かつ沈着に咲夜は答えた。
「えー。お姉様。わたしとの約束はー?」
「フラン。あなた、わたしが来るまで部屋でおとなしく待っているという約束を破ったでしょう。先にあなたが約束を破ったのだからわたしの約束も無効よ」
「ずるーい。お姉様のノーライフ、ノーカリスマ!」
「ぐ……。ともかく部屋に戻ってなさい。咲夜との用事がすんだら、行ってあげる」
「ほんと!? なら、ゆるーす」
フランはふわふわと羽をはばたかせながら、自分の部屋に戻っていった。
それにしてもどういう原理で飛んでいるのだろう。咲夜は横目で見ながら疑問に思う。
「単刀直入に言うわ」
レミリアはそう切り出した。咲夜がなにごとかと思い、身構えていると、レミリアはじっと何かを考えているように瞳を閉じていた。
永遠にも感じられる時間、そうしていたような気がした。
やがて言った。
「あなた、紅魔館をやめなさい」
「いやです」
即答した。
人間のレベルでいえば、もはや反射といってもいいくらいの速さだった。
時を止めたわけではないのは、レミリアの運命操作能力をもってすればわかる。
人は時間に寄生して生きており、妖怪もその例外に漏れないのだから、時間はおよそすべての意識体の運命を支配する。
したがって運命を操る程度の能力と時間を操る程度の能力は、その能力範囲がかぶさってくるところもあるのである。
論理式にひきなおせば、時間は運命に包摂される関係にあるともいえる。
だから、レミリアは言った。
「あなたが、そう言うのはわかっていたわ」
「なぜなのか教えてください。理由がわからないのにやめたくありません」
お嬢様にずっと萌えていたいのだという切実すぎる動機から、咲夜は必死になって追いすがる。
「いいこと咲夜。わたしにあるのはとてもシンプルな思考よ。この紅魔館に無能はいらないの」
「わたしが無能だとおっしゃるんですか」
「妹ごときにいいように扱われているようじゃ、無能もいいところね」
絶対零度のまなざし。
レミリアの意思は揺らぐことのない氷のかたまりのようだった。
咲夜は刃物のように鋭利な視線を射続ける。
「じゃあ、わたしが無能ではないということを証明すればいいんですね」
レミリアは少し驚いた表情になる。
「あなたどうして、そこまでしてここにいたいの?」
「わたしがわたしであるためです。ここを失ったら、わたしはただの人間になってしまいます。お嬢様がたが人間ではないのはさすがに認識しましたが、それでもわたしがわたしであるためにはここで働くわたしでなければならないのです」
「いいわ。あなたの運命を占ってみるのも悪くない」
レミリアは空間を短く飛翔して、天窓あたりまで登った。自然、咲夜はレミリアの姿を見上げる形になる。
天啓のようにレミリアは言葉を投げかける。
「ひとつ難題を解いてもらえる?」
「なんなりとお申しつけください」
「簡単なことよ。ほんの戯れ。永遠に停止した時間を生きるわたしにとっては、幼児が蟻の列を観察するぐらいに些細なこと」
「……」
「わたしが出す問題に答えることができたなら、ここにいて、わたしに仕えることを許す。できなければ……、やめてもらう」
「わかりました」
「ひとつの密室が形つくられていたのよ」
レミリアは呪いにも似たようなおどろおどろしい声を出そうと努力しているようだった。
甘い声を必死になって低くて重い声にしようとしてはいるものの、さほど効を奏せず、結果として少女が怪談話をするノリになってしまっているのはご愛嬌。
そんなレミリアの様子にも、もちろん咲夜はちゃっかり萌えていた。
【少女密室】
一人の少女が死んでいたというシチュエーションから始めましょうか。
想像しにくいならわたしの姿を思い浮かべてもいいわ。
それぐらいは紅い月よりも寛容なわたしが許す。許してあげる。
もちろんわたしは吸血鬼だから普通なら死んだりしないところではあるのだけれど、
この場合のわたしは人間の少女程度のちからしかなかったと仮定してもらってもかまわないわ。
当然のことながら被害者は人間の少女ということになるわね。
え、お嬢様は宇宙で一番かわいい少女? そんなことはどうでもいいのよ。
次に場所の特定。
周りは石の壁に覆われていて、牢ごくのようなところ。
これについてはフランが前にいた地下室を思い浮かべてもらえばいいわ。
ん。知らない? じゃああとで見てきてもいいわね。今は誰もいないはず。
ともかく――。
そこは薄暗く、じめっとしていて、出入り口はひとつ、おもおもしいドアだけ。人間にはそのドアを破壊することは不可能だし一部をきりとったりあとではめこんだりすることもできないものだったわ。そのドアには内側からかけられる鍵がついているの。引き戸錠って知っているかしら。そうそう、取っ手を回すと、ドアの側面についた出っ張りが壁の中に入り込んで、ドアを固定するタイプの鍵ね。
かんぬきみたいに無骨じゃなくて、とってもお洒落なの。
シンプルはいい。シンプルはとてもいいものだ。
前述のとおり、その地下室の中で少女は死んでいた。
石の壁、石の床にはおびただしいほどの血が付着していたわ。
もちろん少女のからだにも。
周り一面が血、血、血。
紅い血がタールのように一面を覆っていて、紅い色がさらに濃くなってまるで視界を黒色に塗りつぶそうとするみたいだった。人間とは偽善と虚偽と虚飾に専心する生命であるけれど死んだあとには嘘もつかないし、とてもシンプルな物体へと還元される。これほど綺麗で完全な状態があるかしら。
つまり、少女は明らかにひとつの明確な殺意によって殺されていたの。
わかる?
誰かが――少女以外の誰かが少女を殺した。それは前提事実として受け取ってもらってかまわない。
問題はここからよ。
この部屋。先ほども言ったとおり出入り口はドアが一つだけしかないのだけれど、少女の死体が発見されたときにはそのドアには鍵がかかっていたのよ。外側から開けるための唯一の鍵は少女のそばに落ちていて、発見者たちはドアを壊して中に入るしかなかったわ。中には当然のことながら少女の死体しかない。
犯人の姿はどこにもない。
つまり、いわゆる密室殺人だったわけ。
密室殺人ってわかる?
そう。密室で殺される場合のことを密室殺人というのね。ただこの場合さらに問題となるのは、では密室とはなにかということ。ヒントとして教えてあげましょう。
密室とは非等方的な空間のことを指すの。
ん。
非東方?
ちがうちがう。漢字がぜんぜん違う。
そうそう。非等方。要するに、ある一定の空間を『内』と名づけ、それ以外の部分を『外』と名づけてどちらか一方から他方へ通行しにくい空間のことを密室となづけているわけよ。もちろん通行しにくい程度がある程度強くなければ密室とはいわない。たとえばふすま一枚で隔てられた空間を密室とは言わないことは考えるまでもないことね。
しかしこの密室と定義される非等方の『程度』はあくまで人間を基準に考えてもらってかまわない。
人間の力を基準にして考えた場合、一方から他方の空間へ侵入することがきわめて困難な空間。
それが密室。そこでおこなわれるのが密室殺人ということになる。
そう。
だからね。
この殺人事件の犯人は人間を想定してもらってもかまわない。
だから、わたしのようにたとえば霧状になって部屋の中に侵入したとか、スキマからこっそりとか、そういったことは考えなくていい。
あくまで人の業なの。
咲夜。
この殺人がどのようにおこなわれたのか。
密室はどのようにして完成したのか。
少女の運命をあなたに辿ってもらうわ。
「期限はいつまでですか」
「一週間後ということにしときましょう。無能を置いておく時間はその程度で十分だわ」
「わかりました。必ずお答えします」
「あなたがどうしてもわからないというのなら、パチェとか美鈴に尋ねてみてもいいわ。好きにしなさい。ただしフランや他のメイドに聞くのは禁止」
「いいんですか?」
「かまわないのよ」
その二人ならとレミリアは小さく付けくわえた。
パチュリーはなんだかんだ言っても衒学趣味があるので、答えそのものを教えることはまずないだろうし、美鈴にいたってはまともな答えすらでてこないだろう。
それに、そもそもそういう未来がレミリアには視えたのだ。
「では、パチュリー様と美鈴さんに聞いてまいります」
「自分で考えることも忘れずにね」
レミリアは優雅に手を振った。
咲夜はまず美鈴の姿を探した。なにかを尋ねるには彼女は気安い性格だったし、短い時間話しただけだったが、どこかしら通いあうところがあったからだ。
途中でふよふよと浮かびながら窓を拭いている妖精メイドの姿を見つけ、美鈴がどこにいるのか聞いた。
怪訝そうな顔をされた。
いつもの美鈴の仕事場である門のところにいるらしい。当たり前のことをなぜ当たり前に聞かれるのか疑問に思ったのだろう。
「気をつけなくちゃいけないわね」
周りでちらほらと見かけるメイドは、「お体の調子はどうですか」とか、「体調が優れないと聞きました」とか声をかけてくる。記憶喪失という事実は巧妙に伏せられていた。言論統制というやつかもしれない。実際にそのことを他に漏らしたらどうなるのか咲夜はわからなかったが、フランドールに襲われそうになったことを思えば容易に想像できた。
すこし怖い。
けれどレミリアのかわいい姿を眼球の裏側に焼きつけるためには、すこしぐらいの恐怖などどうってことはなかった。
美鈴は門のところでうつらうつらと居眠りをしていた。
「美鈴さん」
と優しく身体をゆする。
「ふ……ふえ。あ、ごめんなさい! ごめんなさい。寝てません。寝てません。目をつぶっていただけですから、刺さないで。刺さないで」
「……」
わたしの認識のされかたって一体。
すこしむなしくなる咲夜だったが、今は自分のアイデンティティがかかっているので、とりあえず美鈴が落ち着くのを待った。
それからレミリアがだした難題をそらんじた。美鈴はあきらかに怒っていた。
「いくらなんでも咲夜さんをやめさせるなんてひどすぎます。お嬢様に抗議してきます」
「待って」
「え!?」
「お嬢様との約束なのよ。難題をひとつ解いたら紅魔館に置いてもらえる。できなければわたしは去る。そういう契約なの」
「貴族の種族である吸血鬼にとっての契約の重さは、わたしだって妖怪のはしくれですから知ってますけど。そもそも前提問題として咲夜さんを無能呼ばわりするのが間違いです」
「無能といわれてもしょうがない」
「人間だからですか?」
「そうよ」
「人間だからこそできることもありますよ。たとえば、人里に買い物にいけますし」
「そうね。でも、お嬢様はその程度のことしかできないとお考えなのかもしれないわ」
「咲夜さんの能力を見誤っています」
「記憶が欠落しているから、わからないのだけど、もしかするとわたしはもう少しなにかができたような気がする」
「思い出してきたんですか」
「いいえ。でもそんな気がするの」
いつのまにか美鈴との会話もスムーズにこなしはじめているし、もしかすると無意識の部分では回復しはじめているのかもしれない。
難題については、美鈴とあーでもないこーでもないといろいろ考えはしたものの、結局のところ答えは得られなかった。
次に、咲夜はパチュリーのいる大図書館に向かった。
途中で小悪魔と名乗る小柄な少女が道案内をしてくれた。もしかするとコア・熊という名前なのかもしれない。
どうやら彼女は咲夜が倒れているのを見つけた第一発見者だったらしく、咲夜が記憶喪失であることも知っているらしかった。気を使わなくていいので、そのへんは楽である。
「でも死ななくてよかったですねー。もし致死的なダメージだったら。咲夜さんは吸血鬼のお仲間にされてたんじゃないですかねー。ひひひ」
少女らしからぬイヤらしい笑いだ。
外貌はかわいいのひとことに尽きるが、レミリアよりも悪魔らしい表情である。
「わたしみたいな別世界から召喚された悪魔からしてみればですねー。人間ってのは……、ああここでいう人間という言葉は妖怪も含めた広い意味での人間なんですけどねー。人間ってなにを考えているのかよくわからないんですよー。複雑っていうか。シンプルシンプルいいながら実のところ精緻な機械仕掛けのように感じることもありますねー。わたしの敬愛してやまない、拝顔するたびに喜悦に震えるような気分が満腔に満ちるのを感じながらおつかえしているパチュリー様にしたって、いったいなにを思いなにを考えているのか時々わからないのことがあるのですよ」
「たとえば?」
聞いてみることにした。単なるきまぐれだ。
「たとえばですね。パチュリー様はよく黙想なさいます。あんず色をした魔法陣のうえにどっかと座り、虚空をにらみつけるように半目を開けて、その一言一言が世界を破壊するに足るちからを備えています。そういった神に等しい言語を唱えておきながら、次の瞬間にはぽわんとした表情で、今晩はカレイの煮付けが食べたいとか言うんですよ。かわいいでしょー?」
「……」
惚け話を聞かされたのだろうか。
彼女のことはよく知らないので、適当に聞き流すことにした。
パチュリーは不機嫌そうな表情をしていた。
「小悪魔。あなたまた適当なことを吹聴したでしょう」
「適当という言葉を適切という意味で捉えるならば、その通りですよ。パチュリー様」
小悪魔は一礼しその場を去った。パチュリーは「大弾出すぐらいしか能がないくせに」と小声でつぶやく。
すると回廊の向こう側から「クナイ弾もだせますからー」と元気な声が響いてきた。
かなり特殊な主従関係が確かにここにはあった。
「それでいったいなんの用?」
咲夜はレミリアから出された問題をそのままパチュリーに伝え、意見を求めた。
「ふうん。レミリアにしては考えたというところね。でもわたしから言えることは特にないわ。他人が口を出していい問題でもないでしょうし」
「せめてなにか手がかりだけでもいただけたらと」
「いいけど……」パチュリーは面倒くさそうに、咲夜のほうを向いた。「じゃあ、類推の論理でヒントをあげるわ」
「お願いします」
「ここ――つまり幻想郷というのはひとつの結界に守られた一種の密室を形成しているといえるのだけど、この場合、どちらがどちらにとって『内』であるのかは、その人の主観的な認識によるともいえる。場所というのは絶対的統一性をもつから、その場所から分断された個がたちのぼってくるわけだけど、個がまた全体を再定義しなおすこともある。これは相対するものであり、相互矛盾するものでもあるといえる」
咲夜の表情には揺らぎがない。
そうなるとパチュリーももう少し説明しようかという気分になってくる。
基本的に知識人は自らの知識を披露したいものだ。
「ここでまちがえてはならないのは、あなたの意識が変われば世界が変わるとかそういうことを言っているわけではないの。それはにせものの世界。それは認識の誤謬。例えばこれまた外の世界にあるひとつの言葉なのだけど、セカイ系とか呼ばれている作品群があるわね。セカイ系っていうのは要は世界の危機と内心の状況が短絡するような作品のことをいうのだけど、そういった概念と密室とは似て非なるものだといえるわ。セカイ系はいわば地球の自転しか着目していない概念といえる。自分が地球の気分になって考えなさい。自分が自転していると確かに見える風景は変わって来るわ。でも自分の後方には暗闇の空間が広がっていることを知らない。知ろうとしていない。浅いともいえるわね。いや別にセカイ系が悪いといっているわけではないの。それは技術的な手法であって、概念を捨象することでシンプルな構造を残そうとしているってことだから。ただ密室は、地球が自転していることは知りつつも、公転していることも知っている。そんな概念なのよ。わかるかしら、地球から宇宙空間へと焦点を合わせるときに、自転が加わればもちろんその焦点の見え方も変わって来るのだけど、公転によってもまた視点が変わってくることはあるということよ」
「難しいですね」
「知ることはなんにせよ難しい。知るという行為には終わりはないから、無限に広がる大海のひとつの波に乗るようなもの。自覚するとは本来そういう意味なのよ。わたしのヒントを総括すれば、自覚しなさいという言葉に収斂されるわね」
「自覚ですか」
「そう、さきほどの類推の論理でいえば、自転と公転の営為を繰り返す二重世界を知るということ。そんな感じ」
話は終わったとばかり、パチュリーは再び本のほうに向き直った。
咲夜は深く頭を垂れて、その場を去った。
「小悪魔は見た! ちゃちゃ、ちゃーらーんっ」
「バカなこと言ってないで、こっち来なさい」
パチュリーは物陰に隠れていた小悪魔を呼んだ。
はーいとかわいらしく答えて小悪魔が近づいてくる。
「パチュリー様、ずいぶん咲夜さんにはお優しいんですね。あれだけ言葉をつくされる様子、しばらくぶりに見ました。妬けますなー。じゅーーーーーーっ」
焼肉が焼ける擬音を出す小悪魔。
パチュリーは目を細めた。
「別にたいした目的などないわ。わたしは頼まれたから答えただけ」
「あなたの意思にもとづいてですけどね」
「なにがいいたいの」
「べつになにも。ただ単に人間の複雑怪奇さは言葉によって形作られているのだと再認識しただけですよー。そしてパチュリー様の言葉はまるで淫蕩のたゆたいのように惜しげもなく媚態をあらわにしていて、わたくし、もう辛抱たまらんという気分になりました。ありきたりな言い方になってしまいますが、性欲をもてあますっ!」
「うざい」
「うわーシンプルー。さっきの間の抜けた詐欺師みたいな長ったらしいセリフとは対照的に、たった三文字でぶったぎられちゃった」
「ころすわよ」
「ころされたら死んじゃうー」
楽しそうな主従の会話だった。
「あ。そういえば咲夜さんの能力によってこの図書館とかお屋敷とか偽装工事されちゃってるわけですけど、咲夜さんが元に戻らないままだったりあるいは去っていく場合でも大丈夫なんでしょうかねー。わたしそれがちょっと心配なんですよ。また台帳を書き直すだけの日々が始まるのかと思いますと」
「無意識には発動しているってことなんでしょう。もちろんなんらかの拍子に能力の供給が止まって、いきなりこの図書館が元のサイズに縮小し、むきゅーとなる可能性も否定できないではない」
「やばいじゃないですかー」
「でもまあ大丈夫でしょう。レミリアにはすべてが視えているのでしょうね」
時は『疾き』という言葉が語源であるとする見解もあるように、その奔流を止める術を人間はもたない。
もちろん、咲夜という例外的な存在は除く。
そんなこんなで一週間という短い期間はあっという間に過ぎ去った。
その間、咲夜は他のメイドとは短い会話しか話さなかったが特に不審がられることもなかった。もともと無口な性格だったので、普段どおりの彼女に見えたのである。
レミリアは自室でそわそわと動き回っていた。
こうもりの羽も落ち着きなく、ぱたぱたと上下している。
豪奢な椅子に座り、また立ち上がり、腕を組み、うろうろし、「アッー!」と意味もなく叫び、また椅子に座りなおす。
今日が期限なのに、咲夜が来ない。
まさか忘れたということはないだろうし、そのまま誤魔化すということもないだろうとは思うのだが、レミリアが心配なのは運命がぼやけてよくわからなくなってしまったことだ。
確かに一週間前にはよく視えていた。
咲夜があっさりと答えを提出し、ぐうの根もでないでレミリアが敗北するという未来。
プライドの高いレミリアにとって、敗北するというのは我慢ならないものではあったが、そのときばかりはほっとしていたように思う。
未来が現在に近づくにつれて運命は鮮明に視えるはずである。
なのに、よくわからない。
「だーッ。なんで来ないのよ。わたしが負けてあげようと思ってるのに」
イライラがつのるばかりである。
そういえば朝から何も食べてない。
空腹でイライラしている面もあるのだろう。咲夜が記憶喪失になってからは他のメイドがいれる紅茶をしぶしぶ飲んでいたのだが、咲夜ほど完璧にレミリアの嗜好を理解している者はいなかった。率直に言ってまずい。まずすぎる。
同じ材料――主に血――でできているはずなのに、どうして入れる者が違うだけでこんなに味が違うのか。
もともと少食なせいもあって、このごろのレミリアはほとんどなにも食べていない状態に等しかった。
吸血鬼にとって血は単なる嗜好品ではなく、生命活動を維持するために必要なエネルギー源でもある。
その血を満足に吸えないとなれば、イライラしてもしかたがない。
ついにレミリアはそばにあった椅子を蹴飛ばした。椅子は数メートルほど吹っ飛び、壁にバウンドして止まった。
はぁはぁと肩で大きく息をする。
そのあと罪悪感がにわかに湧いて、椅子を元に戻し、壁をなでなでするレミリア。
へこんだ壁は元に戻らない。これではフランのことをしかれない。やるせない気分になって、椅子に座る。
そこでいきなりドアをノックする音が聞こえた。
「咲夜!?」
れみりあ☆うーになりそうな気持ちを抑えつけて、扉を開けた。
しかし、予想した人物とは違い、そこにいたのは美鈴だった。
「お嬢様。大変です。咲夜さんが……」
「落ち着きなさい」
「咲夜さんが買い物に行ったきり帰ってきません」
「そのままの意味で、買い物じゃないの?」
「いえ、よく考えたら咲夜さんは人里の存在自体はわたしが教えたから知っているはずですが人里がどこにあるのかまでは、まだ知らないはずなんですよ。だからもしかしたら出て行ったんじゃないかって……思って……」
「このバカ中国!」
だいたい今の咲夜は無力なのだから、人里までたどり着けるかどうかもわからない。そこらで妖怪に出会ったらその時点で食べられておしまいである。
「すいません、おじょうさまー」
うううと泣き崩れる美鈴に、レミリアは現実逃避したくなる。
できることなら部屋の隅っこでしゃがみガードをしておきたいぐらいだ。かわいさには定評がある。
「メイドたち全員に通達。咲夜を探しなさい。美鈴、あなたは人里に行って探してきなさい」
「わかりました」
レミリアの厳命によって、紅魔館はにわかにさわがしくなった。
それと同時に、レミリアはもはや事を公にするしかなくなったことも悟った。仮にこのあと咲夜を探し出せても、記憶喪失になったという事実を否応なしに公表せざるをえないだろう。黙っていたとしても、結局は同じことだ。
そうするとどうなるか。考えるまでもない。
美鈴のように咲夜を慕っている者も中にはいるが、人間を蔑視している者も中にはいるはずで、そういう者たちに影ながら嫌がらせを受ける可能性もある。あるいはいままで咲夜に対する恐怖で抑えつけられていた憤懣が爆発し、一斉に咲夜を襲うことも考えられる。
殺される可能性も。
人間は捕食される者に属する。それは弱肉強食の掟そのものであって変えることはできない歴史の必然。
取り返しのつかないところは時間も生命も変わりはない。
「最悪、ね……」
ともかく疲れた。
おなかもすいた。気持ち悪いぐらいにおなかがすいた。
おなかすいた。おなかがすいた。
おなかすいた。
はらぺこでござる。
血ぃ吸うたろかー。
蚊だって生きてるのよ。
ぷうーん。
とりとめのない思考が脳裏をかけぬける。
メイドたちも美鈴もいなくなった紅い屋敷は、静謐の空間にみたされていた。
レミリアは自分の屋敷だというのに、魔境の地に迷いこんだ気分になった。まあ実際、それは半分ぐらい当たっている。
「おなかすいたよー咲夜」
そして、ぽつりとレミリアが呟く。言葉に出すと虚空のなかに吸収されたようでレミリアは泣きそうな気分になった。
答える者はいない。
当然だ。ここには誰もいない。いないはずなのに。
「お待たせしました。お嬢様」
虚空から声が生じた。その声は背後から聞こえた。レミリアは振りむかなかった。いつもそうしているからだ。
「遅いのよ。あなたは」
「もうしわけございません。一週間もお紅茶の時間が遅れてしまいました」
「今日はB型の血がいいわ」
「そのようにしております」
「ダージリンと混ぜて」
「そのように」
「紅い色が映える白いカップで飲みたいわ」
「お嬢様の嗜好はすべて熟知しております」
なにかが決壊した。
レミリアは立ち上がり、そのまま小鳥が飛翔するような勢いで咲夜の胸にとびこんだ。
「あのー。パチュリー様いらっしゃいますか?」
「あ、これはこれは真っ赤なお方。こんなところに来るとは珍しい。えーっと、失礼ながら名前がでてきません。若年性の健呆症でしょうかね。ヒヒ。ああ思い出した。そうそう、くれないみすずさんでしたっけ」
「違います……」
小悪魔からの冗談に美鈴は疲れた声をだす。
図書館にくるたびにこの調子だから来たくなくなるのだ。
「パチュリー様なら、いつものとおりです。みのむしのように愛らしく引きこもっておられますよ。ご案内しますねー」
パチュリーは実際、変わるところはなく書斎で本を読んでいた。
「どうしたの、みすず」
「どうしてパチュリー様まで」
美鈴は口をとがらせて言った。ちょっと涙目だった。
「よくある冗談よ。どうせ小悪魔からそんなことを言われたんじゃないかと思ってね」
「正解ですけど」
「それでなにかご用?」
「えっとですね。わたし、気持ち悪いことが嫌なんですよ」
「気持ち悪いことが好きな人なんてマゾぐらいしかいないんじゃなくて」
「そうですね。で、わたしはマゾじゃないので知りたいんです」
「知りたい、ね。わかるわよその気持ち。わかりすぎて困るぐらい。要するにレミィが出した問題の答えが知りたいってことでしょう」
「そうなんですよ。咲夜さんはいま記憶も能力もしっかり戻っていますけど、お嬢様の問題にどういう答えをだしたのかぜんぜん教えてくれないんです」
「無粋なことをするものね」
パチュリーはうっすらと笑う。好奇心は猫をも殺すという言葉を美鈴は知らないのだろうか。
けれど、結局のところパチュリーは教えることにした。
問題を教えられた以上、形式的な答えを聞くぐらいは許されるだろう。
「簡単すぎてあくびがでると思うから、そんなかしこまって聞く必要ないわよ。そこらにある椅子に座ってかまわないわ」
「はい」
「まあこういう出題形式の問題の場合、おのずと現実とは異なるはずで具体的に生ずる諸問題は捨象していいと考えられるわ。そこでまず問題を吟味する必要が生ずる。レミィはなんといったか覚えているかしら、地下室。周りは石壁と石床でできていて出入り口はひとつしかない。出入り口がひとつというところは重要で、そういう言葉がつむがれた以上、出入り口はやはりひとつなの。もしもこれが現実的な問題だったら、石壁をどうやってかはずしてみたり、壁をマスタースパークでぶちぬいたりすることも可能かもしれないし、そういう方法を考えてみることもいちおうは必要だといえるわ。けれど、概念的な操作において、前提は所与のものとして受け取ってかまわないのだから、ここでは端的に出入り口はそのドアに限られているということになるし、そう考えるのが『出題者の意図』に沿うの。ここまではわかる?」
「ええ……と。わかります。要するに犯人は扉から出て行くしかないってことですよね」
「間違ってはいない。そのとおり」
「でも鍵は少女の死体のそばに落ちていたんですよね。唯一のって断っていることから考えても、鍵の複製とかがあったわけじゃないと思うんですけど」
「そうね。出題者の意図に沿えばそのように考えるのが合理的だと思うわ」
「だとすると、これは不可能犯罪なんじゃないですか。犯人も被害者も人間なんですから石壁をぶちぬくことはできないし、扉をすりぬけることもできないでしょうし。あ――、わかりました。わかりましたよ。扉っていっても実は隙間が開いていて、少女よりもさらに小さな子どもだったら抜けることができる穴が空いていたんじゃないですかね」
パチュリーは沈黙したままじっと聞いていた。
「おもしろいことを考えるのね」
「あ、いえいえ」
照れ隠しに微笑む美鈴。
「でも、そういう場合はその旨を特に明記するはずだし、今回の場合は人間はそのドアを通れないと考えたほうが自然よ」
「確かにそうですね」
美鈴は意気消沈し、身を小さくしている。
「でも」とパチュリーは声をだす。「そういう視点の変え方が今回は必要だったといえるわね」
「どういうことですか」
「場所の特定がすんだあとに考えるべきなのは、被害者と加害者の属性よ。今回は端的に人間。まあ特に限定はされていないから人間一般の問題として考えればそれで済むという話なのでしょうね。人間はどの程度のことができてどの程度のことができないのかわたしたちはよくわかっていない。おそらく人間自身にもよくわかっていないことが多々あるような気がするわね。そういった次第でレミィの問題はなかなかよくできていると思ったわ。前提となる知識はあるし、すこし考えてみればわかる問題なのに……、きわめて簡明なことには逆にたどりつけない。そういう思考の盲点は人間だけに限らず魔女にも妖怪にも吸血鬼にだって存在するのね」
「はぁ、そうですね」
「わからない? 被害者は人間であり、人間は食べないと死ぬの」
「え、と」
思考が追いつかず美鈴は固まる。しばらく考える。そして怪訝そうに眉をひそめた。
「確かに死ぬとは思うんですけど、その場合、血はどう説明するんですか。床も壁も血だらけだったんですよ。要するに出血したんです。飢えて死んでも血はでません」
まさか飢えすぎて気が狂い、喉をかきむしって出血大サービスというオチか。
美鈴は思いめぐらす。
想像したら気持ち悪くなってしまった。
「あのね。それはミスディレクションなのよ。単純すぎてちょっとあくどいぐらいの稚拙なやつね。レミィは少女の血であるとか言ってないでしょ。単にそこに血が在ったといっているだけ。だからこの血は単なる装飾であって、装飾以外のなにものでもないの」
パチュリーは続けて言う。
もう、いちいち言葉を尽くすのも面倒臭くなってきた。
「具体的な方法を言うと、こんな感じかしらね。まず、犯人は被害者の少女を地下室に置く。別に気絶させるなり、麻袋につめてくるなり方法は問わない。方法は問われてないから捨象してもいい。そうすると、今現在、犯人と少女は同じ地下室にいることになるわね。犯人はそこで持っている鍵を少女のそばに置く。次に犯人は普通に地下室から出る」
「鍵はどうやってかけるんですか」
「鍵はかけない。かけなくても密室を創ることはできる。すなわち、壁を塗りこめる。ブロックのようなものをつみあげて塞ぐ。エトセトラエトセトラ。方法はなんでもお好みでどうぞ。要するに単にドアの外側からドア以外のなにかで塞いだ。ただそれだけのことよ。あとは黙っていれば、いずれ死ぬ。人間なんて脆弱だから一週間程度もあればだいたい死ぬんじゃないかしらね」
美鈴には刺激が強すぎる話だったようで、気持ち悪そうな顔で帰っていた。
まさに好奇心は害悪以外のなにものでもない。
とすると、わたしは毒を毎日あおっていることになるのか。
パチュリーはそんな思考をする自分に驚き、そして笑いたい気分になった。
「楽しいご講義でしたね。パチュリー様が無様に言葉を尽くす様は本当に見ていて気持ちのよいものでしたよ。あは。かわゆーい」
小悪魔がやってきた。蝿のようなやつだとパチュリーは思ったが、そんな言葉を吐けば彼女を楽しませてしまうに違いない。
レミリアよりもずっと悪魔的な心的構造をもっているのだ。
「うるさいから黙っててもらえるかしら。いますぐ世の中から消滅したくなければ」
「いえ、ねぇ……。わたしは中国さんがかわいそうだなと思ったんですよ。あんなに簡単に騙されて形骸化した答えを与えられて喜んでいる様をみちゃうとですねぇ。まるで犬じゃないですか。そら取ってこーいとボールを投げられて、わんわんと楽しそうに無邪気になんの疑問も抱かず、なんの疑念も生ぜず、ただパチュリー様の言葉を受け入れる様がね、本当可愛らしくて、愛らしくてたまらない。こ、興奮する!」
「それで?」
パチュリーは本を読んだ姿勢を崩さす、そのまま冷たく言い放った。
小悪魔は楽しそうに続ける。
「いやはや。ヒントはたくさんでていたんですよね。パチュリー様もわざわざいっぱいヒントを出していましたね。端的にいって、この問題の盲点はですね。答え自体ではないですよ。答えは確かにパチュリー様がおっしゃったとおり、放置殺人ということでいいでしょうけどね。そんなことよりももっと重大な問題が隠されています。木を隠すなら森のなか、問題を隠すなら問題の中というわけです」
「言いたいことがあるなら短く言いなさい」
「では率直に言わせてもらいますけどね。レミリア様はいったいどうして全体、そういう問題を出したのでしょうね。つまり問題がなぜ出されたか。出題自体がひとつの謎なのですよ」
「戯れでしょう。単なる」
「そうですね。戯れというのはひとつの大きな概念ですから、今回の出題意図もまさしく戯れのなかに含まれるでしょうね。けれどわたくしが考えますに、もうすこし限定することが可能でしょう。まず妖怪や魔女や吸血鬼や妖精が跋扈するこの世界において、なぜわざわざ人間という種族を被害者であり加害者であるとしたのか。その点からして違和感が生ぜざるを得ず、問題自体をいびつにゆがめているともいえます。もちろん咲夜さんはその時点では記憶喪失でしたから、ほとんどわからなかったでしょうけど、この世界に暮らしている者にとっては人間本位の話を人外の者がするという時点で、十分に異質なことであることは気づかれるでしょうね。加えて、面白いことに今回はなぜか放置殺人という形式がとられています。人間が人間を殺すという行為は別に珍しくもないですが、殺意の形態としては圧倒的に計画性もない感情の爆発ということが多いですね。つまり、能動的に殺すということのほうが圧倒的です。それなのに今回は放置といういわばなりゆきまかせの行為がとられたのか。実のところこちらのほうが濃密な殺意がみてとれます。完全に計画的であり機械的であり、殺すことにだけ向けられた運命操作がみてとれますからね。身体的であり物理的である単なる感情の発露に比べて事案に特殊性があるということになります。そうであるとするならば、放置殺人であるということをレミリア様が選択したことにもなんらかの意図があるはずです。なんなのでしょうねー」
小悪魔はニヤニヤと笑う。パチュリーは沈黙を保ったままだ。
「もうひとつ。先ほどパチュリー様もおっしゃいましたが、なぜレミリア様はミスディレクションをわざわざ出題の中にいれたのでしょうね。難しくするため? まあ確かに娯楽には適度な難易度が設定されるべきです。イージーモードが許されるのは小学生までですからねー。あはは。そういえば咲夜さんの技には『ミスディレクション』という名前のものもありました。偶然の一致ってやつでしょうか」
「あなた、顔が怖いわよ。自重しなさい」
「ああ、すいません。こういうふうに人間の心が覗いてみえることに無情の喜びを感じてしまうのですよ。なぜならそれは弱さですからね。弱さとはかわいさでありますから、ほほえましく感じてしまうのです。それはわたしの本性なので変えようがありません」
「なかばあきらめてるわ……。まあ自己責任ということでね」
パチュリーは盛大なため息をついて、それから小悪魔のほうに向き直った。
こんなにねちねちといわれるぐらいならさっさと終わらせたほうがマシだ。
「お。お。パチュリー様みずからが解説してくださるのですか」
「こんなの一言で済むじゃない。レミィは咲夜に自分自身のことを思い出してほしかったのよ。放置殺人なんて要するには時間を凶器にしたものだし、咲夜が仮に自分の能力を思い出せば簡単に思いつくことができるわ。たとえば、もし彼女が誰かを放置殺人という方法で殺そうとする場合(まあそんなことをするよりもナイフを突き刺したほうが速いでしょうけど)、彼女は密室の中の時間を早めればいいの。そうすると部屋の外では五分しか経っていないのに、中では一週間以上経過してて死んでいるなんてことも応用できるわね。ミスディレクションについては言うまでもなくあなたが言ったとおり、咲夜のナイフ技のひとつ。以上よ」
「すばらしい主従関係ですね」
「そうね。まったくそのとおりだと思うわ……」
なにがすばらしいのかといえば、そんなことをわざわざ口に出して言うまえに、二人して紅茶の時間を楽しめるということだ。
まさにレミリアと咲夜の主従関係は
――言葉にできない。
としかいいようがなかった。
小悪魔がなぜか楽しい楽しいといいながら去っていったあとも、パチュリーは本を読み続けた。
ただ黙々と本の世界に没頭した。
久しぶりに喋って疲れた。本はまだ半分ぐらいのページを残していた。経済学についての所見が書かれてあってなかなか面白い。その次の章には法律学、その隣には社会学。普遍主義と共同体主義の対立。そして、友愛についての断章。
普段なら途中で読むのをやめることはないパチュリーであるが、疲れの見える表情を浮かべると持っていた本を勢いよく閉じた。
バタンと大きな音がして、またひとつの密室が形成される。
……最初自重しろ!!
しっかり作りこまれているのに冒頭のテンションで損しそうな気がするな、これ。
物語も内容としては面白かったですが、別にコレなら咲夜さんが変態である描写は必要なかったのでは…?
しかしこういう子悪魔は面白かった。ヒヒ。
あと意外に咲夜さんの暴走が少なくて、冒頭のテンションが置き去りになってるようにも見えました。でもこの妙な笑い所のある雰囲気は美味しかったです。ごちでした。
それと、問題の答えですが、少女を殺してから鍵を傍に置き、外に出てから扉を閉めてコンクリで固定するほうが確実で早く済みませんか?それに出題したお嬢様のセリフでは「鍵がかかっていた」と明言しています。扉を破壊した側の人(人間では破壊できない扉なので妖怪?)からの視点だとしても、パチュリー様の言う通りにブロックを積み上げて扉を塞いでいたら気付くでしょう。
あと地の文章とセリフの間に若干の行間などを空けたほうが
読みやすいかと思います。
あと私的なことではありますが、ぶっちゃけ題名が長すぎる。(苦笑)
文章の省けるとこは省いて、読み手に読みやすいように書いてくれれば良いと思います。
読んでいると、途中の長い一人語りを見ているとネタ?と感じるくらいに長く感じます。
謎解きに関しても、血に対しての答えが出ていない気がする。
犯人は血を乾燥させずにどうやって少女の周りに血をかけたのだろうか?
密室なのに、犯人はどうやって中の人に血をかけたのだろうか?
色々疑問が残りますし、この話の展開は途中で無理やり詰め込んだ感じがあります。
話の展開は咲夜が記憶喪失に至った経緯を上手に省いて、レミリアが出した問題の考察部分につなげればすっきりすると思います。
言いたい事をがたくさんあるのが見えて、一つの作品を通して何を言おうとしているのかハッキリとしていなかったですが、読んでいて楽しいひとときを得られました。
でも作者さまが紅魔館を愛しているのは、作品を通して伝わって来ました。
あとおぜぅさまへのいじょうともいえるあい
しかし面白かったです。最初のぶっ飛び感から一転した、味わい深い文体と魅力的なセリフ。特に小悪魔が、個人的好みにジャストフィットでした。
謎解きはミステリーとしては物足りないかもしれませんが、雰囲気作りという点で素敵です。
ちなみに私の推理は
(引き戸錠の取っ手を、レバー状で90度押し下げて鍵をかけるものと仮定する)
鍵の開いた室内で少女を殺す→死体を直立の姿勢にする→死後硬直が最高の状態になるまで待つ→直立のままカチンコチンになった少女の死体を、扉の脇に立たせる→部屋から鍵を開けたまま扉をほとんど閉め、わずかな隙間から手を突っ込んで少女の衣服の裾かどこかを引き戸錠の取っ手に絡めておく→静かに扉を閉める→数時間後、死後硬直が解けた少女の死体は崩れ落ち、取っ手は引っ張られて鍵が閉まる
というものでした。錠のタイプが違ったらもう破綻する上に、死体の位置を目にすればバレバレのトリックですが。
皆様の感想はひとつひとつ血となり肉となり煩悩となり、レミリアになっております。
いやはっきりいって、あとがきでの真相は自分でもそりゃねーよと思います。44番さんまじごめんなさい。次はもうちょいうまくやりたい。
どの程度がギリギリのラインなのかわからんのですよ。想定読者の『気づき』をグレイズしきれておらず、ぴちゅってる。
これは本気で難しいところで、アクロイド殺人事件のような、当たり前のことがごく当たり前のように書かれてある凄みが表現したいところなんですけどね、なかなか難しいところです。
冒頭は自重したかった。
ご指摘のとおり、冒頭だけは小ネタで先に思いついたもので、導入に使えるかなーと思ったんですが、このはっちゃけ具合というのも結構加減が難しいところですね。齟齬を解消しきれなかったのは、筆力不足に起因しそう。
45番さんの推理がかっこいい……。
あとなぜかネタが浮かんで、小悪魔書いてます。
でも、よく考えると『おれがかんがえたさいきょうのこあくま』になっていないかものすごく不安なのであったり。
みんなそんなふうに不安に思いながら書いているのだろうなぁと思ったり。
そんな毎日です。
息災を。
ただ、なんとなくですが流れが「戯言シリーズ」に似てたような気がします。
だからといって別に何かあるわけではないのですがw;
コア・熊自重wwwww
ライトノベル的な感覚といいますか。
本作品も小説もどきとして何を目指しているかといいますと、ライトノベル的な感覚でして、この軽さだけは失うわけにはいかないと考えております。
したがって、戯言シリーズの感覚はまるきゅーに大きな示唆を与えてくれます。
前回見かけた時は思わず飛ばしてしまった・・・w
犯人に対して条件がない訳だし
ちなみに自殺でもいいじゃないかという点に関しては、とくに考えていません。
どちらでもいいと思います。
いずれにしろ、犯人の因果支配領域内であれば、自殺へ追いこまれることもまた『殺された』とはいいますね。
ただ今回問題となるのは少女の死体状況を細かく描写していないことです。
描写していない以上、いずれでもよいといえます。
鍵で自殺しようが、地下室でそのまま飢え死にしようが、結局レミリアは死ぬことを受け入れたということであり、それは咲夜に対するラブコールにほかなりません。まあ鍵で死ぬ場合は血がミスディレクションではなくなり論理が弱くなりますが、要は咲夜がいわば唯一の読者であることを限定した作品なのでそういった細かい点についてはすべて捨象可能です。レミリアの提出した問題に答えるのはあくまで咲夜であってそのほかの誰でもないのです。
ここらへんの微妙さは書きにくいところですね。
あまりにも脆い感じがする。ニュアンスを伝えるだけの能力がなく、筆力不足を感じます。
ともあれ、まるきゅーの頭ではぼんやりとしかイメージできていないところもあるので間違いの可能性はいつでも残されています。
ご指摘感謝。
>「宇宙で一番かわいい生命体ですか?」
なんか吹いたww
なんていうか自分みたいな低俗な読者からすると一番バランス取れてるように見えて楽しい
変わっているような。
ZUN問答も書けそうですねw
作中の問題とこの作品はどんな話か
よく考えることでとても楽しめる素晴らしい作品をありがとうございます。