Coolier - 新生・東方創想話

異聞吸血鬼異変 ④ ~ 欧州編 1 ~

2008/11/22 07:31:22
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おことわり
・ 現実の伝承やら何やらからかなりネタを拝借しています。
・ ここから二章ばかりはたいへん東方から遠ざかって外の世界の西洋の話になります。ではでは……
























――――16世紀初頭


雨に煙るワラキアの草原は、夥しい数の骸で埋め尽くされていた。
大地は雨に潤おされるまでもなく血に満ちている。つい数刻前まで、この場所は血飛沫と白刃の舞う戦いの場だったのだ。
槍、剣、鉄砲、戟。
数多の戦いの道具たちが、血に錆びながら投げ出されている。それに混じって散見するのは、軍楽用の楽器や帝国の印が縫われた旗である。
夕の空は黒雲に覆われ澱んでいるから、辺りの風光は仄暗く、古びた絵画のような頽廃的な色彩を帯びている。
その赤い大地と暗い天との間で、少女はうつむき、立ち尽くしていた。

「雨は――」

傍らに立った従者が案ずるようにたずねた。

「平気よ。ねえ、美鈴」

その赤い髪をした従者に少女は問う。

「これが、私の役割なのよね?」

薄く紫を帯びた水色の髪も、純白だったドレスも、そしてそのドレスに負けないくらいに白かった肌も、今は赤く穢れてしまっている。
夢の跡に立つ紅の、小さな、小さな少女――

「私は……私は王女になるわ。あの子の……ため……に」

そこまで言うと、少女は気力が果てて、崩れるように倒れ込んだ。
それを従者が受け止める。

「お嬢様……」

従者の腕の中の少女は、注ぐ雨の中でもはっきりと分かるほど、さめざめと泣いていた。

「……怖かった……怖かったよ」

震えながら少女は泣いている。
無理もないだろうと従者は思う。
彼女はまだ十にも満たないのだ。

「痛かったよ……」

数ヶ月前に両親が命を落とすまで、彼女は悪意や敵意といったものから一切無縁の身だった。
しかしそれ故に何も知らず、何をも待たず、今日この戦の場に立たされてしまったのだ。
そして斬られ、刺され、貫かれ、幾度となく殺され――そうして迎えたのが、今である。
ずたずたのドレスを染める血の半分は、彼女自身の血だ。
露出した細い腕の、その柔肌にも、幾多の惨たらしい傷が刻まれている。

「申し訳ございませんでした」

美鈴と呼ばれた従者もまた、涙していた。
この幼い少女を『戦力』として今日この場に立たせたのは他ならぬこの従者自身だったからである。

「いいの、分かってるから」
「お嬢様……」
「私はもう、分っている……から……」

幼い嗚咽が、雨音に混ざる。

「今だけは、泣かせてちょうだい」

その日屍の山に祝福され、雨と血と涙とにまみれて――少女は王女になった。















―― 第四章 ~ 幼き王女の為のセプテット ~ ――















――――199X年5月 スイス、ベルナーオーバーラント地方


眺めの良い窓側の席に座ることができたから、レミリア・スカーレットは上機嫌だった。
彼女を乗せたオーバーラント鉄道の車両は、ゴトゴト音を立てて揺れながら牧歌的なスイスの高原の中を走って行く。
車窓から見えるのは、見渡す限りの緑の牧草地とその間にまばらに立ち並ぶ木組みの人家である。そこかしこに花が咲き、小さく馬だの羊だのも見える。結構わらわらといる。どれもミニチュアじみていて可愛らしい。
いかにもアルプスっぽい――そういういい加減な感想をレミリアは抱く。

視線を少しずらして列車の正面方向へと目をやると、アイガーやメンヒ、ユングフラウといったいわゆるオーバーラント三山がそびえている。
欧州三大北壁の一つとして知られるアイガーをはじめとして山壁はその大部分が急峻だ。雪はたくさん積もってはいるが、他方で岩壁の露出も多い。
もともとの空気が澄んでいる上に、今日は天気も良いので視界は良好である。霧やもや等もなく、険しくも美しい山々の威容がはっきりと見える。
吸血鬼たる身としては日光が若干気障りではあったが、極東目指して飛んで行った妹の『端末』と同じく、日よけ用のフードの付いたパーカーを羽織ってやり過ごしている。

「こういうのも悪くないわ」

決して観光目的で訪れているわけではないのだが、少しばかりは気分も弾むというものである。ただし――

「パチェったらさあ、いつまで本読んでるの?」

同行する友人だけはいつもと変わらず黙々と活字を追っているのだった。それがレミリアには面白くない。

「パチェってば~」
「……乗り換えの駅が近いわね」

車外を一瞥してぼそり無愛想に呟くと、いわゆる魔女であるところの友人はまたすぐに本へと目を落としてしまった。

「せっかく現地に来たのよ。ちょっとは風景を楽しむとかないの?」
「あらかじめこの地に関する情報は知識として有している。あと私がやることといえば、せいぜいその情報と実際の情景に齟齬がないかどうかを確認するだけ。観光とはそういうものよ。そしてそれはもう済んだわ」

小声の早口でパチュリー・ノーレッジは答える。
偏屈である。可愛くないとレミリアは思う。

「もう、そういうことじゃないの」
「じゃあどういうこと?」

本から目を離さず聞き返してくる友人は、平素の国籍不明な装束ではなく至って普通の女の子らしい格好をしている。
グレーの、腿の辺りまで伸びたチュニック――長袖のシンプルなもので、裾に付されたミスト色のフリルが唯一のアクセントになっている。軽い身体を支える脚を覆うのはぴったりとフィットした黒のレギンスで、靴は上半身を包むチュニックより幾分か柔らかいアッシュグレーのブーツである。ふだん髪をまとめているリボンは今は身に付けていないから、豊かな髪は無造作になっている。
文明の利器など似合わない古風な魔女だと思っていたのに、何だか随分とイメージが違う。
そのレミリアの方はといえば、パーカーに半ズボンとハイソックスというユニセックスな恰好をしているから、向かい合うとどうにも対照的になるのだった。

「こう、あれよ。わあ綺麗とか、わあ感動したとか、そういうのはないわけ?」
「わあ綺麗わあ感動した」

丸読みである。

「もう! 没収よ、没収!」
「あ」

膝に乗せられていた本を取り上げる。なんだか自分が本に負けているようで少し悔しかったのだ。

「ふん、どうだ!」
「か、かえして~」

途端に友人は慌てだす。お気に入りのおもちゃを取り上げられた子どものような仕草がいじらしい。だから返さない。

「ほら、近くばっかり見てないで遠くも見るの……ってパチェ?」

だがそのパチュリーの様子がおかしい。顔が青く、息も荒くなっている。
そして何だかぶるぶると身を震わせている。

「ぱ、パチェ、大丈夫!?」






目的地であるユングフラウの頂――標高4158メートル――の付近までは専用の登山鉄道を用いて登ることになる。ここから先は勾配が飛躍的に上昇するのだ。
レミリアは空を飛べるからそんなものに乗る必要はないのだが、パチュリーは昔と違ってもう飛ぶことができない。それに割けるだけの魔力の余裕がないからである。
その鉄道――ユングフラウ鉄道への乗り換えを行うのがクライネ・シャイデック駅である。

レミリアとパチュリーはそこに設けられたカフェテラスで一服している。
この駅は高山地帯の中腹にぽつんと設けられた代物で、景観の保全のため線路を中心に幾棟かのモールや宿泊施設、カフェ等が集まるのみである。
その一帯を外れれば、周囲には絨緞のような緑と冴えた青空が広がるばかりである(それでもオーバーラント一帯の駅としてはかなり大きな方ではあるのだが)。森と草原をまとった小高い山々が、彼方まで幾重にも連なっている。
そして背後には先ほど車内から見えていた岩壁が、スケールを増して屹立しているのだった。
もう少しで森林限界を迎えようかという高度である。だからある一定のラインを境にして、緑豊かな高原の風景と、雪の白と岩の灰色からなるモノクロームの情景とが接し合っている。

「なんで本を取り上げられて酔うかなあ? ふつう逆でしょ?」

コーヒーを呷りながらレミリアはぼやいた。
結局パチュリーはものの見事に乗り物酔いを患ったようだ。防寒用のコートとマフラーを身に着けてはいるが、息苦しいのか着崩している。
他方レミリアは寒さには強いので、車内にいたときと格好に変化はない。ただ体力のないパチュリーに代わって荷物の入ったリュックを持ってはいる。ボディガードと荷物持ちが今回のレミリアの同行理由である。

「……うっさい、ばか」

ふくれっ面のにべもない調子で突っぱねられた。理屈屋なパチュリーには珍しい。

「だから、悪かったってば~」

なだめるようにレミリアは謝る。
出不精で世間知らずなところも多いパチュリーではあるが、ここ数年は絶えず欧州の各所を巡って旅をしていた。精霊だの妖精だのを助けて回っているのだ。
無論旅といってもそこは魔法使いのこと、やれ火の山だの、やれ王様の泉だのと怪しげな、およそ観光というものからは程遠いような場所にばかり行くから、今回のように普通の観光地へと赴くのは珍しいことのようである。
昔のように飛ぶことはできなくなってしまったパチュリーだから、列車や車といった魔法使いには似合わない感じのする道具も一連の旅行の中では多く用いたらしい(レミリアからしてみると、修道僧がスクーターに乗っているのを目撃したかのような所在の知れない違和感があるが)。
そうした旅への同行は普段は従者の美鈴が行っていたのだが、今回に関しては美鈴には美鈴でやってもらうべきことがあったので、レミリアがついて行くことになったのだった。

「ところでその本――」

レミリアが本を指さした途端、パチュリーはそれをいそいそと遠ざけてしまった。

「いや、とらないってば」
「……ほんと?」

疑われている。その仕草がやっぱりいじらしいから――

――奪っちゃおうかな?

良からぬ考えが一瞬思い浮かぶが、止めておく。

「本当だってば。何の本?」
「……『黄金の驢馬』。古代ローマ帝国の弁論作家アプレイウスの著作」

またつまらなそうなものを、とレミリアは思う。口にはしない。すれば絶対に怒る。

「その時代のローマのものとしては完全な形で現存する唯一のもの。これはもちろん写本だけれど。内容はうっかりロバになってしまった者が、イシス――月の祝福で元の姿に返るというお話」
「それ、面白いの?」

別の路線の車両が乗り入れ、客がいそいそと乗り降りする。
勾配の関係で乗り入れる車両はみなかなりの低速である。だから線路と乗り場の間にはフェンス等の隔たりはなく、また段差もない。路面電車のような様相をしている。

「物語としてではなく、古い時代の密儀宗教であるイシス=オシリス密儀への参入過程を描いた資料として面白いの。斎戒沐浴、断食や禁欲といった苦行――そうしたイニシエーションの儀式を通じて、参入者は眼に見える世界だけが唯一絶対の世界であるという日常の論理を打破し、隠された力を知る」
「隠された力?」
「……世界の背後にあってそれを動かすもの。森羅万象、有相無相を推移させる根源の力。つまり、貴女が『本当ならば』自在に見て操ることができた――」
「運命か」
「そう。参入者は儀礼を通じていったん擬似的な『死』を迎え、胎児的な原初の状態へと回帰する。そうして再生と精神の変容とを迎え、新たな世界を、運命を知る」
「死ぬの?」
「死ぬわ」

この場合はあくまで擬似的にということだけれど、とパチュリーは付け加えた。

「通過儀礼とは概ねそういう構造をとるものよ。それが儀礼的なものに過ぎないのか否かを問わず、ね。レミィも少しフランを見習って本でも読むと良い。なかなか楽しいわよ?」

そこでいったん話を区切ると、パチュリーは頼んでいたチーズケーキに手をつけた。口が小さいのに大きめに切って口に運んでしまったようで、何やらむぐむぐしている。
そしてレミリアは、可愛らしいが同時に皮肉屋でもある妹の顔を思い浮かべる。
妹のフランドールのことは、正直に言うならばよく分からない。
何を言っているのか分からないというのもあるが、何より思考回路が余人のそれと大きく異なっている――ようにレミリアには感じられるのだ。
その妹はレミリアに比べてよく本を読む。外に出ることができないからそれぐらいしかやることがないと言えばそれまでなのだが、当の本人にはあまり不満などはないようである。以前そうしたことについてたずねてみたら――

――『カフェに行く作業は思想家に任せておけばいいね』

そう言って妹はそれはそれは楽しそうにキバを見せて笑っていたのだが、レミリアにしてみれば思想家がなぜカフェに行かねばならないのかがさっぱり分からない。その二つの言葉にレミリアは繋がりを見いだせない。
だから分からないと言ったら――

――『ドゥマゴよ、お姉さま。私には美鈴のコーヒーがあるから必要ないのです』

さらにわけの分からない答えが返ってきてレミリアは閉口したものだった。相手の理解の有無などお構いなしによく喋る娘なのだ。しかもこちらが理解できないことを承知の上で話している節があるから、性質が悪い。
結局パチュリーやその司書ならばフランとも会話が成り立つのだが、レミリアや美鈴にはその内容の大半は理解できない。ただ別にそれで仲が行き違うなどということもなく、分からないなら分からないなりにコミュニケーションは成立する。家族というのはそういうものなのだろう。

「ちなみにイシス、オシリスというのはエジプト神話の神様ね。モーツァルトの『魔笛』に登場するあれ。まあ、あの曲で色々漏らしたせいで彼は『石工』に暗殺されてしまったのだけど……」

その名前を聞いた途端レミリアは渋い面構えになってしまう。

「その手の古代密儀にまつわる資料は教父アウグスティヌスが派手に批判したせいか、多くが失われていてね、つまりあの頃から教会と連中の対立の萌芽は――」
「パチェ」
「ん?」
「あいつらの話はしたくない。どっちもだ」
「……ごめんなさい」

パチュリーはとたんにしゅんとしてしまった。
レミリアと背丈が大して変わらないから、うつむかれてしまうとどうにも小さく感じる。

「あ、べ、別に責めてるんじゃないの」

それでレミリアは慌ててしまう。この友人は偏屈なわりに肝心な部分で素直だから困るのだ。
それに自分が言葉を発するタイミングも悪かったとレミリアは思う。興の乗ってきたところで狙いすまして釘を刺すような状況になってしまったではないか。

「その、一緒に旅行なんて久しぶりだったから……ええと」
「旅行? レミィにとってこれは旅行だったの?」

意外そうな声でパチュリーは聞き返してきた。
これはそんな浮かれたものなどではなく、きちんとした目的をもった旅である――そういうようなことを言われるのかとレミリアは思ったのだが、口ぶりから察するにそうではないようだった。

「レミィ……楽しんでるの?」
「え? うん、それは楽しいわよ。パチェとどこか行くのなんて久しぶりじゃない。出不精だし」
「そう、楽しんでいるの……」
「パチェ?」
「良かった」

無愛想で偏屈な同居人は可愛らしく笑った。
ふだんは表情に乏しいパチュリーだが、その感情自体は豊かだ。だからこそ時おり見せる笑顔がやけに印象的になる。どことなく猫のような少女である。

「なにが良かったなの?」
「最近レミィしかめっ面ばっかりだったでしょ?」
「そうだったかなあ」
「ええ」

言われてみればそうだったかもしれない。
ここ最近は何かと気がかりなことが多かった。その最たるものは目の前の友人の体調だの魔力の状態だのといったことだったりするのだが。

「ところでなんでエジプトの神なんぞに興味を持ったのさ?」
「別にエジプトが特別ということではないわ。私はキリストだって特に嫌ってはいないしね」
「魔女なのに?」
「嫌いなのはその教えを完全に見誤っている教会よ。あの図書館も昔は焼き討ちとかされたみたいだし、結構壁に焼け跡とかも残っちゃってる。宗教が組織化するとろくなことにならないのは歴史の常ね……まあエジプトに関してはあの子の関係もあるんだけど」
「あの子?」

今日は疑問符を発してばかりいるような気がする。

「うちの司書よ。彼女エジプトの出だから」
「へえ、そりゃ知らなんだ」

レミリアは図書館に住む彼女の使い魔を思い浮かべる。
美鈴とはまた違った毛色の赤い髪を持つ少女。名前は無いのだそうで、みなで小悪魔小悪魔と呼ぶ。当初は違和感もあったが今ではすっかり慣れてしまっていた。

「そろそろ列車が来るわね、今度は酔わないようにしないと」

線路に目をやりながらパチュリーは深呼吸をしている。

「でもちょっとは風景も楽しみなさい」
「まあレミィがそう言うなら努力はする」
「そうそう、努力するの」

何となく笑いあって立ち上がると、二人は乗り場へと向かった。













――――フランス、パリ某所


中華風の意匠の散りばめられた室内で、黒服の男と女が机を挟んで話し込んでいた。
二人とも上等そうなソファーに腰をうずめている。
室内を照らす明かりは特段暗くはないのだが、この場にいる面々がことごとく喪服のような色合いの服を着ているせいなのだろう、どことなく陰りのようなものがある。

「それにしても昼間からお出でになられるとは珍しい」

男の方は恭しくそう言った。
中国系の初老の男であり額が少し薄くなっている。
その左右には同じような黒服の二人組が控えている。三者とも明らかに堅気ではない雰囲気である。

「ごめんねえ、迷惑だったかしら?」

女がたずねる。男の方とは対照的に女の方は若い。
身を包む黒色の、ややもすると男性的な感じのするスーツが大人びた雰囲気を付与してはいるが、実のところ二十歳に達しているのかどうかも怪しい顔立ちをしている。女というよりは少女と表現する方が適切なようだ。

「とんでもない。いつ何時だろうと紅女士の来訪を拒む故などありましょうか」
「そんなにかしこまらないでいいってば。あと女士はやめてってば、堅苦しい」
「失礼しました、小姐」
「それだとなんだか遊女みたい」

くすくすと笑いながら彼女は黒のスラックスに包まれた脚を組みかえる。余裕のある柔らかな笑みである。
しかしそれはこの場にはとても不釣り合いな代物だ。余人ならば委縮するであろうこの状況においてそうした笑みを浮かべている辺り、彼女も大概まっとうな世界に生きる者ではない。
その髪は少し朱の入った炎のような赤色で、黒服との対比が鮮やかである。
彼女は名を紅美鈴という。
美鈴は供された茶に手を伸ばした。

「東方美人ですね。美味しい……台湾にコネクションを?」
「ええ。香港返還以来、少々やりにくくなりましてね。ルートは確保しておかないと」
「四海幇あたり?」
「天道盟の方ですな。四海は内部がごたついている」

それはどちらも台湾を中心に活動する団体の名前である。

「貴方のところはどうなの? じきにマカオも戻るし」
「14K辺りは返還の煽りをもろに受けましてね、火の車ですよ……まあトライアドの構成組織は今はどこもかしくも似たりよったりなんですが。うちも最近じゃ統制が乱れていましてね、末端の連中が組織の資金を――」
「ちょろまかされましたか……」

美鈴は悩ましげに額を押さえた。

「ええ。おかげで十人ばかり処分するハメになった」
「無調法ね。露見しないだろうと下に思わせた時点で負けよ? 馬鹿は馬鹿なりに制御する術はある」

口ぶりは柔らかだが、発される言葉の内容は冷徹である。

「お恥ずかしい限りで」
「老婆心だけど……処分するならそいつ等と同じ階級の奴にやらせるといいわ。組織というのは縦横双方の連繋からなる。上が下を押さえつけるだけじゃなくて、同じラインの連中が左右互いを自発的に見張るよう仕向ける方がいい」
「肝に銘じておきます」

男はその禿頭を掻き、こうべを垂れた。
そしてそれとなくたたずまいを正しつつたずねる。

「ところで本日はどういったご用向きで?」
「船の手配をお願いしたいのよ。行き先は日本」
「ふむ……インド経由でよろしいですか?」
「それでいい。念のため三人分。私はカーゴでいいけど、残りの二人は――」
「『一等客室』を三人分ですね」
「すまないわね」
「貴女には恩義がありますから」

男は感慨深そうにため息をつき、部下に何かの指示を出し、自分は茶を呷った。
指示を出された部下は退室し、控えの部下は男の椀と美鈴の椀の双方に新しい茶を継ぎ足した。わざわざ茶葉を変えたようである。

「紅女士」
「ん?」
「お会いするのはこれで最後になりますか」
「鋭いわね。多分そうなる」
「戻られる意思はございませんか? やはり貴女に及ぶ者は――」

美鈴は手をかざすと、首を横に振った。

「悪いけどお仕えすべき方々がいるの。まあ少し名残惜しい気はするけどね……あと不躾だけれど、今の会長には貴方から伝えておいてくださいな。紅美鈴が貴方たちの前に姿を現すことはもうないだろうと」
「分かりました……小父貴は残念がるでしょうが」
「ま、私みたいなのは遅かれ早かれ『こちら』からは姿を消すわよ。それが今だったというだけのこと」

そう言うと紅美鈴は、やはり場に似つかわしくない可憐な笑みを浮かべるのだった。













「人間の――妖怪?」

先ほどにも増してよく揺れる登山鉄道の車内で、レミリアは目を丸くしながら言った。
車両はアイガーの内部に掘られたトンネルを進んでいる。時おり視界が開けることはあったが、この鉄道は大半においてトンネルの内である。

「何それ?」

パチュリーの魔力は往時のそれの一割にも満たないし、レミリアにしてもさすがに昔ほどの力は出せはしない。
しかし従者の紅美鈴に関してはその衰え具合は非常に緩やかである。空こそ飛べなくなったが、昔と今でさほど力に隔たりがあるようには見えないのだ。多くの妖怪たちが衰微していく一方であるにも関わらずである。
それは一体なぜなのかとパチュリーにたずね、そうして返ってきたのが今の言葉である。

「鳥の妖怪とか、蛍の妖怪とかいうでしょ? あれの人間版がいたっておかしくはないわ。仮説だけどね……トンネルは耳がおかしくなるから嫌い」

そのパチュリーのぼやきはトンネルの振動音にかき消された。

「もと人間てこと?」
「さあ? もしかしたら最初から人もどきの何かであったのかもしれないわよ。ただまあそう仮定した場合、今が人間の天下である以上はそれをベースにしている彼女が衰えないのも決しておかしくはないと思う」

――人間の妖怪、か

実のところレミリアとしては思い当たる節は多かった。
気を自在にする――それが美鈴の能力である。
そういうといかにも優しげで気配り上手で、同時に頼りのない能力であるかのような印象を受けるが――事実そうした使い方もあり、また屋敷にいるときは専らそういう使い方しか美鈴はしないのだが――実態はそんな生易しいものではない。
美鈴は対『人』のスペシャリストなのだろうとレミリアは思う。
人の体も、人の心も、それらは全て気の流れにより状態が決されているのだという。それを見て操る――医学の観点でいうならばそれは人体を癒す術であり、武術の観点でいうならばそれは人体を破壊する力である。
そして同時に気とは気持ちの『気』でもある。
だから人心などといったものは、紅美鈴の手にかかればいともたやすく掌握されてしまう。彼女の前では人間などは駒同然なのである。

「あいつは人を操るのが上手いからな……」

窓の外を過ぎ去っていく暗く無骨なトンネルの壁を眺めつつレミリアは呟く。
レミリアは過去に何度か美鈴のその手管を見たことがある。
吸血鬼を追い出そうと迫ってきた村人たち――
信仰に基づき、悪魔を駆逐せんといきり立っていた教区長――
その他人妖を問わず、館に害をなすべく近づいてきた者ども――
そうした連中が、館を離れる頃にはすっかりレミリアたちの信奉者になっている――そうした状況は過去に幾度もあった。

駆け引き、交渉、策謀、術数。
言葉巧みに騙し、唆し、欺いて誑かす。
自尊心を刺激する。コンプレックスを煽る。
相手の望むこと望まぬことを即座に掌握して利用する。
相手に弱みがあれば、悟られぬようじわじわと、しかし確実に距離を詰めて、ためらうことなくつけ込む。
アジテーション、マインドコントロール、人格の改編と上書き――

そうした類のことに関して美鈴は抜群の手練を発揮する。
『気』を自在にするとはそういうことなのだ。悪魔的といえばこの上なく悪魔的である。
美鈴がかつて中国系の黒社会を統括できていたのはそのためだ。
そんなことを彼女が行った理由は、表舞台に出ることなく資金を調達し、かつ血液の入手ルートを確保するためであって、つまりはレミリアたちのためということなのだが――そうしたある意味で『不純』な動機により組織を立ち上げておきながら、それを頑強な一枚岩に仕立て上げた辺りが巧みである。
美鈴が一線を退いてからは組織の方はごたついているのだそうだが、ただ美鈴は自分のそうした側面を見られるのは嫌であるらしく、館ではあまりその話はしない。少なくとも館にいるとき、彼女は相変わらずののんびりしたメイドでしかない。

列車がホームに差し掛かる。暗闇ばかりが続いていた車外の光景に、急に人工の光が混ざった。
降車する客たちはすでに立ち上がっている。

「もっとも彼女は自分のためだけにあの術を使うつもりはさらさらないようだけれど……武侠という奴かしら?」

がたんと車体が揺れ、列車は停止した。

「ここはアイガーヴァント駅ね」

そう呟くとパチュリーは立ち上がった。

「ん? パチェ、どうしたの?」
「楽しむんでしょ? ほら、行きましょう。ここは完全に観光目的の駅なのよ」

少し照れたふうな笑みを浮かべて、パチュリーはレミリアに手を差し伸べた。






「ヴァントは壁という意味よ」

地質の露出した、半ば洞窟のような駅の構内を歩きながらパチュリーが言った。赤と黄色を基調にした鮮やかな色の車体が背後に遠ざかっていく。
二人は観光客に交じって歩いて行く。よもや魔女と吸血鬼がこのような場所にいるとは誰も思わないだろう。はたから見ればただの仲の良い二人連れにすぎない。
ホームから分岐する通路を進むと、前方に観光客向けの展望窓がいくつも設けられていた。

「おお、随分高いとこまで来たわね」

そこから見える風景にレミリアは感嘆の声を上げる。
森に草原、点在する家々。それら風景を構成する要素が、先ほどに増して小さく見える。この駅の標高は3000メートルほどだそうだ。
視点を手前にそらすと、垂直を通り越して反り返った岩壁にこの窓が設けられているのが分かる。幾多の登山家の命を奪った、アイガーの北壁である。
てっきり窓は嵌め殺しかと思ったのだが、寄ってみてみると内側に向かって開くつくりになっているようだ。クライマー用の緊急避難先として機能しているのかもしれない。

「レミィはまだ飛べるからあんまり面白くないかしら?」
「そんなことはない。何事もプロセスというのは大事よ。ここまで一緒にとことこ時間をかけて登ってきたという事実が大事なの」

そう言うとレミリアは後ろからパチュリーに抱きついた。

「わ!」

パチュリーが驚いた声を上げる。

「ふふん」
「ちょっと、どうしたのよ?」
「ん? 別に意味はないわ。何となく」

本当に特に意味はない。
戯れたかったから、何となくくっつきたかったから――それだけだ。

「パチェ、女の子の匂いがする」
「? それはレミィもそうでしょ? ていうか離して」
「やだ」
「……まあいいけどね」

しばらくそのままで窓の外を、遠くを見ていた。
ヨーロッパには長く暮らした。
紅魔館は魔法による移転を幾度となく繰り返してきたから、ヨーロッパを離れることも少しはあったのだが、それでもレミリアにとって欧州は特別な地だ。
何か良い思い出があるということではない。むしろ悪い記憶ばかりである。教会に追われ、ギルドに追われ、石工に追われ、闘争と遁走ばかりを繰り返していた。
だから愛着も執着もあったものではないのだが――それでも故郷は故郷なのだろう。
この旅が終わればもうこの地に赴くことはなくなるのかもしれない。これで最後なのかもしれない。
この旅で見る情景は、しっかり目に焼き付けておこうとレミリアは思った。






アイガーヴァントを後にし、一つ駅を通過すると終点であり目的地でもあるユングフラウヨッホの駅である。鉄道の駅としてはヨーロッパでもっとも高い場所にあるのだという。
これまで同様駅は山の地下に設けられていて、観光客は通路を進んだ先にあるエレベーターを利用して屋外展望台へと昇る仕組みになっている。
観光客らに混ざって二人もその通路を行く。アイガーヴァントの駅とは異なり地層は露出していない。人工の壁が敷かれている。
駅内にはホテルも併設されているから、日の出を拝みたい客はここで一夜を明かすようである。
日の出といえば――

「金星はなぜいつも太陽に勝てないのかしら? 強い力を持っているはずなのに」

レミリアはいつもそれが不満だった。
宵の明星――即ち金星は夜を連れてくる存在、闇を司る存在である。
それは本来とても強い力を持っているはずなのに、結局は太陽に負ける。明けない夜はないのだ。吸血鬼の時間たる夜は、必ず日の出とともに終わりを告げる。

「ああ、夜の種族の時代はいつ訪れるのか」

大げさに嘆いてみせる。

「真昼間から出歩いているくせに何を言っているやら」
「だってさ、癪じゃない。そう、なんか癪なのよ」
「でも太陽だっていずれ必ず沈むでしょ? それにね、宵の明星は同時に明けの明星でもある。ラテン語では金星はルシフェルというけれど、これは光をもたらす者という意味よ。つまり金星は光と闇の双方に関わっているということね」
「それぐらいは知ってるわよ。ルシフェルは堕天したんでしょう?」

かつての天使長ルシフェルと神の敵対者サタンとは同一の存在であるという。

「そう、光をもたらす者――十二の翼を持ち最も神に近いとされた熾天使の長は、しかし天より堕ち、裏切りの罪を背負い、氷の地獄――コキュートスへと囚われてしまいました。そうそう、コキュートスと言えば面白い話があるわ」

楽しそうな声でパチュリーは語る。なんだか無邪気だ。キリストを嫌ってはいないと言いつつも、嬉々として悪魔について語る辺りが魔女である。見境がない。
ただそれは知識というものに対して真摯だからこそなのかもしれないが。

「ていうか、レミィ。『神曲』は分かる?」
「名前だけ。ダンテだったかしら」
「そう。その地獄篇でダンテは地獄に足を踏み入れることになるんだけど、その前に彼は森の中で獅子、豹、狼の三頭の獣に襲われるの。まあこれを案内役のウェルギリウスが助けて地獄巡りが始まって、最終的にコキュートスでルシフェルにまみえることになるんだけど、それはどうでもいい。問題はこの三頭の性質」
「性質?」
「この三頭はいずれも獰猛であると同時に神聖視される存在なの。そしてその綴りはいずれも『L』で始まる」

パチュリーは空中にLion、Leopard、Lupusと綴っていった。

「ルシフェルはLuciferか。登場を暗示しているということ?」
「そう、神聖でありながら退治されなければならないものとしてね。それが『L』を冠する者の定めなのよ」
「なんだかこじつけっぽいわよ、それ」
「まあそうかもね。でも畏れ多いことだけれど、もし私がルシフェルならそんな面倒な文字は捨ててしまうわ。いちいち退治されていてはやってらんないもの」
「『L』を『R』にリバースさせるとか?」

レミリアは冗談と思い付きでそう言ったのだが、パチュリーは真顔でそれに答える。

「有効かもしれないわね、それは。『L』と『R』は反対のものだし。ほら、今さがしてるシルフィードはその名故に山に囚われているでしょう? 今は――メンヒにいるわね。そういうふうに名前というのは非常に大きい意味を持つの。何かを封じる際に別の名前を与えたり、あるいはその名前そのものを封じてしまったりっていうのは良くあることよ」

そんな話をしているうちに二人は展望台へと昇るエレベーターにたどり着いた。
パチュリーは歩くのが遅いので、同じ列車に乗っていた他の客はすでにいなくなってしまっていた。






百メートルばかりの高さのエレベーターを昇ると、屋外展望台である。
尖った岩場の上に設けられていて、足場は若干宙にせり出ている。周囲は雪原だ。

「ちょっと寒いけど、いい景色ね」

マフラーを巻いたパチュリーが言う。柔らかそうな髪が風になびいている。

「まあ、確かに良い景色ではあるけどね……」

連なる山々の黒とそれを覆う雪の白。そして抜けるような空の青。
辺りはどこまでも雪原であり、その雪の合間から各々の頂が顔をのぞかせる形となっている。ここは山頂というよりは、山地の一角なのだ。だから下界はそれほど見通せず、故に高度そのものを視覚的に実感することはない。
ただ、代わりに視界の果ての果てまで山が連なっているかのような錯覚があって、雄大さを実感するには事欠かない。

目前にはどことなくしとやかな感じのするメンヒの頂がそびえている。展望台からの距離はかなり近い。
その向こうには男性的な尖ったフォルムのアイガーが、そしてメンヒの反対側には女性的なユングフラウが、それぞれ一様に白雪をまとってたたずんでいる。
メンヒはちょうどアイガーとユングフラウの間に割って入るような形になっていて、そのメンヒとユングフラウの間にさらに割り込むような形でこの展望台は設置されている。
メンヒの横には全長24kmと欧州最大の規模を誇るアレッチ氷河が流れている。
晴天で絶好の観光日和である。だから――

「太陽が……照り返しが……」

吸血鬼にはたいそう厳しい条件である。太陽光のみならず、雪から反射した光までもが照射されている。
別に日の光を浴びたからといって消滅するなどということはないが、苦手であることに変わりはない。鳥肌が立つし、そわそわしてしまうし、それに何だかしまってある羽根の付け根が落ち着かない。

――早く帰りたい

パチュリーには悪いが、この八方から光を浴びるという状況はよろしくない。

「今日の宿はどこだったっけ?」
「グリンデンワルド」

それはアイガー北壁の麓にある村で、この辺り一帯の観光拠点ともいうべき立地なのだそうだ。
万が一今日シルフィードがつかまらなかった場合に備えて、何泊分か余計に予約を入れてあるらしい。
とりあえずリュックを置く。そして気分を落ち着かせようと息を吸い込んだとき――

「にゃあ!?」

羽の付け根辺りをちょんと突かれてレミリアは頓狂な声をあげてしまった。
背筋がぞくぞくとする。振り向くとパチュリーが本で口を隠しながら笑っていた。

「ちょっと、何するのよ!」
「さっき驚かされたお返し。吸血鬼は背中が弱い、と。メモメモ」
「そんなの――」

――もう知ってるでしょ?

服越しに羽の場所が分かる程度には、互いの身体のことは知っている。
たまにレミリアはパチュリーのことを『吸う』からだ。

「ユングフラウは乙女。ヨッホは肩という意味よ、レミィ」

血を与え、貰う。相手の一部をもらう。
そういう奇妙な関係の内に二人はあった。
レミリアは、山々の光景に見入っているパチュリーの左肩に目をやる。パチュリーのそこにいつも牙を立てるのだ。
血液とは相手の存在そのものと言っても過言ではない。だからそれを取り込むという行為は、コミュニケーションとしてはかなり密度の高い部類に属する。そういう意味ではレミリアとパチュリーの関係は友人というには少し深い、何とも言い表しにくい間柄なのだ。

――血か……

魔女の血。
それはとても甘い。味が、ではない。存在そのものがどうしようもなく甘美なのだ。人間の血の比ではない。ひとたび呷れば、圧倒的な陶酔感や恍惚感に押し流され、その行為に耽溺することになる。

――こんな場所で考えることじゃない。

おまけにそれはまるで阿片のような危うい中毒性をも持ち合わせていて、またすぐに欲しくなる。欲しくて欲しくて堪らなくなってしまう。
耐えられないほどに、切なく――なってしまう。
血。
命の象徴たる赤い水。吸血鬼の本能を喚起させる、魔性の液体。
そしてパチュリーそのもの。
そうしたイメージが少しだけ――ほんのわずかにレミリアの血をたぎらせる。吸血種としての衝動が、隠微ではあるけれど、しかし確実にレミリアの内部を駆け巡る。

――ああ、もう。考えるな。

頭をぶんぶんと振ってその疼きを追い出す。こんな陽光に満ち溢れる場所で考えることではない。
それに種としての衝動とは別に、レミリアの内には罪悪感のようなものがあった。

初めてパチュリーの血を服したのが一体いつのことだったか、レミリアは良く覚えてはいない。
美鈴による血液の供給が困難になっていた時期だったから、大戦中のことだったのではないかと思うのだが、その味を覚えた直後は――それこそ中毒のように夜な夜な噛んだ。
美味しかった。
そう思うこと自体が親友に対する一種の冒涜だったと、今ならば思う。ただ当時は分からなかった。そんな少し考えれば分かるようなことが、しかしちっとも分からなくなってしまうくらいにパチュリーの血は魅惑的だったのだ。それまでに飲んだすべての血の価値を、はるか後方に置き去りにしてしまう程その血は甘く、熱く、心も身体もすべてそれに焦がれて、レミリアはその甘い露の虜になってしまった。
だからせがんで甘えて、時には組み敷いて――貪った。
吸血鬼の唾液には治癒と鎮痛の効果がある。噛まれた相手に傷は残らないし、痛みもない。むしろ一種の快感すらある。
だから構わない、好きなだけ喰らってやれと、そう思ったのだ。どうせ自分も相手も良い気分になれるのだからためらうことなどないと、手前勝手な理屈をこねて友人に手を付けた。

――私の馬鹿

パチュリーは大切な友人であり、またフランの恩人でもある。そして今は一緒に暮らす家族だ。
それをあろうことか喰い物あつかいをして、毎夜のようにかぶり付いていたのだ。
月の映える白い肌に、細くて華奢な少女の肩に――
赤を刻んで、赤を垂らして――
赤く濡らして――

――本当にバカだ

だから罪悪感があるし、最近ではほとんどパチュリーの血は吸わない。
パチュリー自身は別にそのことを気にしているふうではなかったが、当のレミリアは駄目だった。
自信がないのだ。親友をモノのように扱ってはいないか、きちんと大切にできているのかどうか、それが自分では判断できない。だから――今は滅多に吸わない。

「メンヒは修道女という意味よ」

悶々とするレミリアの横でパチュリーが説明をする。

「男性的なアイガーと、乙女ユングフラウの合間に立って、両者が過ちを犯さぬよう見張っているということで――」

そのとき説明の声に咳の音が混じった。そしてパチュリーは口元を押さえてうずくまった。

「パチェ!?」
「う……来ちゃっ……た……か……」

そして激しく咳きこんだ。喘息の発作である。寒さがたたったのだろうか?
苦しそうに咳込みながら友人は携帯型の呼吸器を取り出すと、それを口へとやった。
どことなく金属的な音とともに吸入薬が幾度となく噴霧された。

「……ひゅう……ひゅう」

だがそもそも発作中である。なかなかその薬自体を吸引できないのだろう。うずくまった友人の口からは奇妙な空気音が漏れている。気道の狭窄により空気が逆流しているのだ。
苦しい――のだろう。
レミリアはそういう健康面での悩みとは無縁だから、それがどれほどのものなのかは知らない。ただことによっては発作が原因で死に至ることもあるのだそうで、ならばやはりかなり辛いものがあるのだろうとは思う。

「パチェ……大丈夫?」

レミリアはこういうとき途方に暮れてしまう。発作が治まるまでは出来ることなどないし、また苦しむ友人をまじまじ眺めているのも忍びない。だから少し視線をそらしつつ適当な声を掛けることしかできないのだ。
そしてしばらく呼吸器を手にしていたパチュリーだったが、ようやく発作が引いたらしくそのままゆっくりと立ち上がった。
目もとには少し涙が浮かんでいる。

「……レミィ」
「ん?」
「当たりみたい。シルフィードは近くにいる」
「良かったじゃない」

これで外れだったらパチュリーが可哀そうだとレミリアは思う。

「そうね。無事に済ませられそうだし、レミィが良ければ明日は別のところに行こう。宿が余ったし」

パチュリーにしては珍しい提案である。
てっきり宿にこもってここぞとばかりに本を読みふけるものだとばかり思っていたのだが。

「なんだ、なんだ? ここに至ってアウトドア派に転向するの?」
「別にそういうんじゃないけど……やだ?」
「うんにゃ、どうせ最後だし。行きたいところがあるのなら行っておきましょう」

そう、どうせ最後なのだ。この際色々まわっておくのも悪くはない。
一日くらいなら楽しんでしまってもいいだろう。
そしてパチュリーはいつの間にか手にしていた魔導書の表紙をはぐった。

「そろそろ始めるわ。レミィは休んでていいよ」

風もなく手もただ添えているだけなのに、魔導書のページが勢いよくめくれていく。

「希う」

魔法の詠唱が始まる。言葉とともに光が生まれる。パチュリー自身の体が淡く輝いているのだ。周りの人間には見えてはいないのだろうが。
ぱらぱらと断続的な音を立て、広げられた魔導書のページはめくれていく。

「……薄い空気の中に溶ける者」

不可視の、時代と地域により様々に呼ばれる霊的な力、それが一点に集まってくる。
パチュリーの目線はメンヒの頂の方へと向けられている。

「空気に他ならぬお前」

詠唱は周りの人間たちには聞こえていないだろう。念話のようなものである。

「蜂と並んで蜜を吸い 寝床にするのは桜草」

紡がれる言葉が、詠唱というよりは詩の吟詠に近い要素を帯びる。

「梟の歌が子守唄 蝙蝠に乗って空を飛び」

そこまでパチュリーが詠じたところで変化が生じた。
渦巻くような風が吹いた。それでパチュリーの長い髪がさらわれる。
そして白い水流のような何かが展望台とメンヒの間の空間に集まっていく。もし風というものに色彩があったならこういう感じだろうと思わせる代物である。やはり周囲の人間には見えていないようだが。

「楽しく夏のあとを追い 楽しく遊んで暮らすのさ――」
「――枝から垂れた花々の下で」

パチュリーの呪文を、歌うような声が引き継いだ。
そして風のような何かは集まって形と色をまとい――少女になった。
萌黄色の髪と、蜻蛉のような透き通った羽。全体に楚々とした雰囲気である。

「しかしこの場所には夏も花もないのです」

寂しげな、どことなく諦めの混ざったふうな声で少女は告げる。口調は柔らかいが、その表情は儚いものがある。
錬金術師パラケルススが自著『妖精の書』において命名した、四精霊が一端。
風――即ち空気の精霊、シルフィードである。ただ精霊と称されはするが、その性質は妖精のそれとほとんど変わるところはないのだという。
背景が雪原であるにも関わらず血色を感じさせない白い肌は、ほとんど何もまとってはおらず、巌の連なる高地の風景の中にさらされている。辛うじてその周囲を漂う薄い白布のようなものが、衣類の代わりになっているようだ。

「『見える』方とお会いするのは久しぶりです。貴女が賢者様ですか? ノームのお爺さまからお話は伺っております」

ノームというのは少し前にパチュリーが美鈴と協力して解放した精霊の名である。

「そんな大層なものではないけれど……まあそれなら説明は最小限でいいわね。これから貴女をさる場所へと転送する」

幻想郷。
それは極東の島国にあるという、未だ神秘や幻想の生きる異界の地である。
ひとたびそこに施された結界に認識されれば、距離などお構いなしにその地まで飛んで行けるのだという。あいにく紅魔館の一家はこちら側では(特定の筋には)有名なので、その結界とやらはいつまでたってもレミリアたちを認識してくれないでいるのだが。

「貴女たちの言葉で言うなら『Tír na n-Óg』といったところかしら?」
「向こう側ですか。でも今の私は山を下ることすら――」
「それはちゃんと何とかする。それよりその前にいくつかたずねておきたいことがあるの」
「何でしょう?」

きょとんとした表情で少女はたずねる。
意外にあどけない。なるほど妖精的だとレミリアは思う。無垢だ。

「オーベロンとティターニア。この二つの名に聞き覚えは?」

固有名詞らしき聞きなれない言葉をパチュリーは口にした。

「妖精王とその奥方様ですね。残念ながら……」
「すでに隠れた?」
「はい。統括者は輪廻の内にありて有限たるが妖精の定め」
「そうなの……『因子』を継承した者がいると聞いたけれど?」
「えっと、彼女は……」

――ん?

何か違和感をレミリアは覚えた。

「……御息女様はすでにあちらへと渡られています」

少し間を置いて少女は答える。
何だろうか、慌てて言い直したといったふうな口ぶりである。その前に一瞬だけ口から出た言葉は、先ほど妖精王とやらに言及していたときと幾分か調子が違っていたような気がする。何かとても親しい間柄の誰かについて語ろうとしたかのような、砕けた感じが混ざっていたように思えたのだ。

「分かったわ。なら、貴女が最後。これより儀式を開始する」

そう言うとパチュリーはふたたび詠唱を始めた。













――――南仏、アルル


思いのほか船の手配には時間がかかってしまい、美鈴がTGVの高速鉄道に乗って街に行き着いた頃にはすでに日は落ちていた。アルルは面積ならばフランス国内最大を誇る市である。
市内には円形闘技場をはじめとして、いくつかローマ時代の遺跡がある。
それ以外の建物もほとんどが古い石造りとなっていて、それらの屋根の大半はレンガ色をしている。あまり高い建物はなく、面積こそ広いが全体に古くこじんまりとした雰囲気のする街である。石畳の敷かれた細い路地が入り組んでいる。
むやみに動き回るのも得策ではないので、大人しく適当なホテルに入り込んだ。

――疲れたな……

荷物はその辺に散らかして服もろくに着替えずに、美鈴はベッドの上に倒れこんだ。
額を押さえる。今日は気を張り巡らせてばかりいたのだ。
船の一件を『石工』の連中に悟られることだけは絶対に避けねばならなかった。そのために館を出発して以来細心の注意を払ってきた。能力を最大限に活かし、気配を読み、監視や尾行がないか常に警戒していた。わざわざTGVなどを使って交渉場所から遠く離れたアルルを中継地に選んだのもそのためである。

――何事もなければいいのだけど

今回の船の手配は不測の事態に備えてのことだ。
紅魔館をかの地へと転送する際にはパチュリーが魔力を振るうこととなるのだが、しかしその魔力にはもうほとんど余裕がなかった。
レミリアやフランドールの魔力を流用することはできないのかと美鈴は考えたのだが、パチュリーの言うことには彼女らの魔力はある一方向に――それも相当特殊な方向に特化されすぎていて、転送というありふれた用途への流用は逆に困難なのだそうだ。
また小悪魔の契約を解除してその魔力を用いるという案も出たのだが、悪魔の契約というのは結ぶことよりも破棄することの方が魔力を浪費するとのことで、こちらもやはり無理だった。

だから万が一魔力が足りなくなった場合に備えて第二の移動手段を講じておく必要があり、そこで白羽の矢が立ったのが――これはまったくの偶然だったのだが――フランドールが何年かに渡って文通を行っていた東風谷早苗なる人物だった。
第七十八代守矢神社神長官――斯界においてはかなり有名な、将来を嘱望されている人物であるらしい。つまり『本物』ということなのだろう。
その辺りの選定も兼ねて――

――『記念に一度くらいは会っておきたいからねえ、アレを飛ばすよ。どうせやることもないし』

そう言ってフランドールの『端末』は極東へと飛んだ。
美鈴はそこへと至るまでの足の確保、レミリアとパチュリーはこれまで通り精霊の解放、そして小悪魔は館に残ってその管理とフランドール本体の世話――これが現在の紅魔館の面々の動きである。
予備の手段はほかにもいくつか用意してはあるし、このまま何事もなければ紅魔館の面々は全員そろって『あちら』側へと渡ることになるだろうから、今回の行為はすべて徒労に終わる可能性もある。もちろんそちらの方が望ましい。

――シャワーでも浴びよう……

堅苦しいスーツを脱ぎ捨て、バスルームに移る。
このスーツは鎧だ。美鈴が紅魔館のメイドから、黒社会の重鎮へと変貌するためのアイテム。お人好しな少女から、人を数字としてしか見ない冷たい策士へと変わるための聖具。
そうでもして己の中に区切りを設けなければやっていられない。
本当は美鈴だって四六時中館にいてレミリアたちの近くに控えていたいし、それに実のところ利用する気で立ち上げた組織の面々だって思い入れがないわけではない。同郷の者としてできる限りの便宜ははかってやりたいと思っていた。
シャワーを少し熱めにして、身体を流す。
バスルームには鏡がある。そこに濡れた裸身が映っている。

――穢い

切にそう思う。そしてこの汚れは、決して洗い流すことは出来ない。
紅美鈴は背信者だ。
美鈴はレミリアやフランドールのことをお嬢様と呼んではいるが、本当はそうするだけの資格など自分には無いと思っている。

自分を信頼してくれた幼い吸血鬼――その信頼に、最悪の形をもって答えた女。
それこそが紅美鈴が自己に対して抱いている評価である。だから美鈴は紅魔館の面々がたまらなく好きではあるけれど、己がそこにいることは間違っていると感じてしまうのだ。
紅魔館の面々は、癖こそ強いが決して曲がってはいない。
だが、自分だけは醜く歪曲している。
いま美鈴があの館に留まっているのは、単に後を引き継げる者がいないからというだけのことだ。もっと完璧で、瀟洒とも言うべき者がいたのなら、美鈴はすぐにでも館を去る気でいた。
それはレミリアへの忠義故のことだ。
あの日、ワラキアの戦場にレミリアを立たせてしまったことを美鈴は今でも後悔している。
やむをえない事情は確かにあった。生まれたばかりのフランドールを守らねばならないという宿命題があったのだ。
だがそれを成すために美鈴がとった手段は――

――私は……最低なことをした

幼いレミリアを『戦力』として扱う。
否それだけでも従者失格だったというのに、それのみならず、『術』を仕掛けた。
あの日、東方から聞こえる帝国の軍楽の音色にレミリアは怯えていた。部屋の片隅で小さくうずくまり、頭を押さえて震えていた。
当たり前だ。
子どもだったのだから。
そこに美鈴は言葉を浴びせた。妹を守れ、責任を果たせ、誇りを貫けと、幾多の言葉を半ば洗脳するかのように投げ付け、幼い少女の背中に重い――重すぎる荷物を背負わせた。
それも叱咤したのではない。優しく、しかし真綿で絞め殺すかのように確実にその選択肢を奪い、戦うようにけしかけた。陰湿なやり口である。
悪魔は甘言を弄する。だがそれは必ず見ず知らずの者に向けて発される。
美鈴は違った。妹のように思っていた幼子を唆し、陥れたのだ。親しかったのに、否親しかったからこそ、どういう言葉を投げかければどういった反応を示すか手に取るように分かった。それを計算して、厭になるくらい冷静にレミリアを諭したのだ。
だから紅美鈴は最悪だ。
美鈴の企みに嵌まったレミリアは半狂乱で戦場を駆け抜け、そうして荷物ばかりを背負い込んだ笑わない子どもが出来上がった。

――お嬢様……

レミリアの両親に仕えていた部下たちは、両者の死後にその大半が離散していた。レミリアとフランドールを置き去りにしてである。幼いレミリアには、それを引き留めておくだけのカリスマは備わっていなかった。
それもまた当然である。子どもにそんなものは要らないに決まっている。そんなものが備わっていたら歪だ。その歪さをレミリアは引き受けることになったのであり、それを促したのは美鈴である。
そして欧州を侵略したがっていた東の帝国からしてみれば、その境にあって一騎当千の力を誇ったスカーレット夫妻は目の上の瘤だったのだろう。だから訃報を受けて帝国は一気呵成に攻め入って来た。

仲間だと思っていた者たちがみな立ち去り、閑散とした館に遠くから軍楽の調べが聞こえてくる。
あの時の絶望は忘れない。
ごくわずかに残った部下たちと、頭を抱えて震える少女。そして地下室の赤子。
結局美鈴はレミリアの才能に賭けた。
己の命などはどうでも良かった。しかし館を攻略されることは、それがそのままフランドールの死に繋がりかねない――そういう状況だったのだ。
そしてその状況は、今でも変わってはいない。

レミリアの母は吸血鬼であると同時に高名な魔法使いでもあって、父親が力の者とするならば、母親は知識の者とも言うべき存在だった。
その帝国の軍勢すら余裕綽々で退ける二人がそろって命を落としたのが、フランドールの誕生の日である。
フランドールの破壊の権能は、生まれるや否や暴走したのだ。
産声とともに無差別の破壊劇が始まり、館は半壊し、多くの部下が爆ぜ、そして美鈴自身もあの時は死にかけた。

――美鈴よ

レミリアの父は身体をずたずたに破壊されながらそのフランドールを地下室に運んで、死んだ。
レミリアの母は産後で弱った身体を酷使しながらその地下室にフランドールの能力を制御する結界を張って、息絶えた。

――娘たちを……お願いね



「私っ……私は!」



壁を叩く。湯が散る。
何が忠誠だ! 何が忠義だ!
そんなことちっとも守れていないじゃないか!
頼まれたはずの娘を戦場に立たせた――大莫迦者だ。

「誰か……誰か私を……」

叱責が欲しい。痛みが欲しい。罰が欲しい。
お前は汚い、お前は見下げ果てた奴だと、痛罵してほしい。
でも、誰もそれをしない。
レミリアも、フランドールも、美鈴がどれだけ最低なことをしたのか知っているはずなのに――笑いながら戯れてくる。
それが耐えられない。
大好きだからこそ、受け入れられてしまうことが辛かった。






髪を乾かすと、黒のたすき掛けにするタイプのバッグの中からお気に入りの衣装を取り出した。
ベルベット生地の、ワンピースタイプのロングドレス。濃紺色で統一された長袖の仕様であり露出は少ない。
そしてそれに合わせるホワイトブリムとエプロン――いわゆるヴィクトリアンスタイルのメイド装束である。美鈴はオールワークスのメイドなので、そのドレスは動きやすいよう腰回りの膨らみを抑えてある。
そんな大きなものがなぜ皺になることもなく、決して大きいとは言えないバッグに入りきっているのかといえば、バッグ内の空間が少しばかり拡張されているからに他ならない。主の友人が好意でこしらえてくれた代物だ。他には武器の類が収納されている。
美鈴にとってスーツは鎧だ。そしてそれを脱いで裸になってしまえばそこには嫌いな自分がいる。だから美鈴はこの衣裳の時が一番良い。今は仕えるべき主の下を離れてはいるが、それでもこれが美鈴にとって一番落ち着くスタイルなのである。
それを着てそのままベッドの上に座り込む。
靴は脱がず、また身体は横たえないで側面の壁に寄り掛かると、ゆっくり目を閉じた。
油断は出来ない。いつ何があっても対応できるよう完全に寝入ることは避けねばならないから、こうして浅い睡眠を取る。体力は人間の比ではないのでこれで何ら問題はない。

――フランドール様は

地下室を出た瞬間にフランドールは死の危険にさらされる。
あの権能は何も周囲のものだけが危難にさらされるわけではないのだ。フランドール自身も破壊されかねないのである。
その神如き破壊の力を押さえつけるべく、地下室の結界に流用されたのが――

――運命への干渉

レミリアの本来の能力である。
運命を操るというのは、つまるところは未来の事象を否定するということだ。
ある結果が発生する、あるいは発生しないという事象を拒む――そのシンプルな力こそが、運命への干渉の根幹をなしている。
それをもって『フランドールの能力が暴走する』という事象をひたすらに否定し続けるのが、地下室に施された結界の働きである。
だからレミリアはその力を満足に振るうことはできない。たまに物事の流れに変動を加えるだけであり、またそれは当人の意志に基づいてなされているわけでもない。能力それ自体がレミリアから切り離されてしまっているのだ。
一見するとそれは実に回りくどいやり方に見える。
しかしそうでもしなければ抑えられないほどに、フランドールの能力は強力なのだ。その一件で命を落としかけた美鈴は身に沁みて知っている。
そしてそれ故に、幻想郷へと渡る場合もスカーレット姉妹と館とは必ず一揃えでなくてはならない。この二つは決して引き離してはならないのである。

その結界に覆われた小さな地下室からフランドールを解放したのが、百年ほど前にレミリアが連れて来た魔法使いの少女だった。
パチュリー・ノーレッジ。
七耀の魔女。十代で伝説の賢者の石の錬成に成功し、さらにたった一人でレミリアを退けた希代の魔法使い。
あの二人がどういった経緯で親しくなったのかは知らないが、パチュリーは数年かけて地下の結界の構成式を解析し、その効果範囲を拡張した。すなわちフランドールの行動範囲を広げたのだ。
さらに空間拡張の魔法を地下に施し、そこに所有していた巨大な図書館を移設した。美鈴のバッグの仕掛けもこれと同じ代物である。
フランドールの話ではパチュリーのとった空間拡張の方式は『x、y、z』の三座標に力を加えるオーソドックスなもので、もしも『t』座標――時間に干渉することができたのなら、さらに空間を広げることも不可能ではなかったとのことである。

――時間か

そこで美鈴はある人物の顔を思い浮かべる。
コードネーム『エニグマ』――そう呼ばれる少女が居る。

――まさかね

忌々しい銀髪が脳裏をよぎる。
『あれ』が一体何なのか美鈴は知らない。
気から察するに人間なのだろうが――それは体を構成する要素が人間のそれであるというだけのことにすぎない。『あれ』は人間が人間たるために必要な多くの条件を少しも満たしてはいないのだ。
『あれ』は年を取らず、また傷つくこともない。
時間の静止した、まったく人形じみた奇妙な少女なのである。
初めて『あれ』と対峙したのは1888年――夜霧立ち込めるロンドンでのことだった。

――とっとと休もう。

もう少しで自分たちはこちら側を去る。
気の塞ぐようなことや、忌々しいことばかりを考えてしまうのはきっとそのせいだ――強引にそう結論付けると、美鈴は思考を中断させまどろみ始めるのだった。






* * *






アルルの中央広場には『Café de la Gare』という名の小さなカフェがある。
『アルルの跳ね橋』と並んでゴッホの題材となったことで知られる店内は、夜を迎えて明かりが少し落ち着きだしていた。
時刻は夜の8時を回っている。だから酒や夕食をとる者もいれば、本を片手に長居を決め込んでいるふうな客もいる。
席はシンプルな木製の机。店の中央にはビリヤードの台が設けられているが、突いている者は今はいない。床は月日の流れを感じさせる木張りで、壁は暗めのオレンジ色をしている。

その店の片隅で、時代がかった黒の、切り込みのないフロックコートを着こんだ男と――銀色の髪をした小さな少女とが向かい合って座っていた。
男はミルクティーを、少女はホットココアを飲んでいる。

「何か食べるかね?」

茶を含みつつ、男が少女に問う。
年は三十を少し超えたところだろうか。少しパーマの入った色素の薄い金髪をしていて、コートからのぞく手や顔の肌は青白い。
全体に生気ともいうべきものがあまり感じられない男である。
またその顔立ちも紳士もののマヌカンのような代物であるから、余計にそうした感じに拍車がかかっている。
コートはボタンがきっちりと止められていて、その丈は膝まで伸びている。典型的な礼装にして、どことなく喪服めいた装いである。
なぜこの男がこのような仰々しい格好をしているのかといえば、それは彼が見かけとは裏腹に普通の人間よりもはるかに長く生きているからに他ならない。時代という感覚が希薄なのである。
男は『伯爵』と呼ばれている。『石工』と通称される組織の上級位階者の一人である。
無論伯爵というのは通称であって、彼は爵位云々以前にそもそも公的には存在すらしていない。戸籍も名前も仮初のものでしかない。

「……いらない」

伯爵の問いに対し、少女は首をわずかに左右に振り答えた。
外見は10を少し回ったところだろうか。上下の衣装は薄い青紫を基調としている。半袖と襟だけは白く、控えめなフリルがあしらわれている。
ふわりと膨らんだ半袖からのぞく細い腕は、いとも簡単に折れてしまいそうである。
ただ、それはあくまで外見の話だ。この少女の腕はどのような力を加えようとも、絶対に折れることはない。それは腕に限ったことではない。肌は傷も付かず、指の一本すら損壊することはかなわないのだ。
下半身を覆うのはひざ下まで伸びる青紫のスカートである。
胸元には赤いブローチのあしらわれた黒いリボン。腰の後ろには、羽根を思わせる少し大きめの白いリボンが括り付けられている。
彼女の本名は目の前に座る伯爵も、そして彼女自身も知りはしない。

明らかに周囲の雰囲気とは隔絶している二人だったが、しかしそのどちらもがまるで絵画のような虚構性を伴っているから誰も二人には注視しない。インテリアの類と同じような扱いなのだ。
伯爵が、紳士的ではあるが同時に多少神経質さを感じさせる声で語る。

「紅美鈴がなぜアルルなどにいたかは知りませんが……発見したのが貴女だったのは僥倖でしたよ」

紅美鈴に対して尾行や監視というものはおおよそ意味をなさない。すぐに感付かれてしまうのだ。
だが伯爵の目の前にいる少女だけは別である。
この少女には、通常人間が発するであろう気配の類が全くと言っていい程ないのだ。それは彼女が人形とほとんど変わらない性質を持ち合わせているからである。
その彼女が偶然にも――そう、全くの偶然だったのだ――要確保対象の一人である紅美鈴をこのアルルにて発見した。
これが何かの物語であったなら偶然発見したなどという展開はお笑い草である。ご都合主義にすぎる。そのような偶然は物語の中においては許されない。
だがこれは現実だ。物語の中ならば到底あり得ないであろう偶然も、しかし現実においては平気でまかり通ってしまうものなのである。そうした全くの偶然の産物により変節がもたらされるということが、現実にはままあるのである。

そして付け加えるならば、伯爵はそれを偶然とは思っていない。
天だとか運命だとか、言葉はどれでもいいのだが、そういう何か大きな流れのようなものが目の前の少女を救おうとしているのだ――そう伯爵は考えているのである。
賢者の石――その錬成を可能とする希代の魔女パチュリー・ノーレッジ。伯爵はその彼女を何としてでも確保し、かの『神殿』の地へと連れて行かなければならない。
パチュリー・ノーレッジの確保に失敗した場合、伯爵の目の前に座る少女は研究対象として接収される。そのことはすでに組織の意思決定機関において確定していた。

伯爵と少女は赤の他人どうしである。血の繋がりなどはない。
単に伯爵がこの少女の引き取り手であったというだけのことであり、またこの少女は組織が有する一兵器にすぎない。形式的には、伯爵は兵器のメンテナンスを組織から任されているというだけのことなのだ。
それでも伯爵はこの少女が実験対象となってモノのように――否、モノそのものとして扱われてしまうことがたまらなく厭だった。

「あと三十分ほどで人員が配置されます」

鎖のあしらわれた懐中時計を伯爵が取り出す。

「まあどこまで役に立つかは怪しいところですがね」
「……狩り?」

か細い声で最低限の言葉だけを少女は発する。この少女はそういうふうにしか喋ることが出来ない。

「ええ。彼女を捕獲して――パチュリー・ノーレッジへと辿り着く。幸いにしてレミリア・スカーレットはいないようですしね」

この少女は肉体の時間も、そして精神の時間も停止している。だから彼女は単なる自我なき生体兵器に過ぎない――組織はそう認識している。
しかしそれは違うのだ。伯爵は彼女と長く共に暮らしてきたから分かる。
確かに反応に乏しく、人形のような有様ではある。だがまったく全てが失われているというわけではない。
僅かではあるが心がある。
かすかな感情の機微が、彼女にはしっかりとある。
断じて人形などではない。

「このまま尾行する……」
「それはたぶん駄目ですね。今は『発見』の段階ですから未だ紅美鈴にこちらの動向を悟られてはいませんが、意志や目的を持って尾行を開始したならたとえ貴女であっても即座に看破されてしまいます。アレの勘の鋭さは尋常ではないのだから」

窺うようにして少女は伯爵に提案をし、そして伯爵は大真面目にそれに答える。彼女とまともに向き合い話をするような人間は組織においては彼のみである。
人形に話しかける男――だから彼はしばしば奇人扱いを受ける。

「我々は何としてでも七耀の魔女を捕獲しなければなりません。連中が幻想郷に逃れてしまったら、手が出せなくなる」

幻想郷――そう呼ばれる場所に関して組織はある程度の情報を把握してはいる。
無論一般の人間はそのような場所など知りはしない。そして組織はその地に手を出すことを良しとはしていない。リスクが大きすぎるのだ。
敵対者――
始まりの少女――
白澤――
そして正体不明の怪異――八雲。
進んだ文明を手にした人間からしてみれば厄介極まりない存在が、あちら側には山ほどいる。あの場所を暴き立てることはパンドラの箱を開けるようなものだ。
そして今の時代における魔法の力の衰亡ぶりは火を見るより明らかであり、紅魔館の一味があちら側へと越境する可能性は十分に考えられる。
だからパチュリー・ノーレッジが向こう側へと渡る前に捕獲しなければならない。
向こう側に逃げ込まれたなら、そのとき伯爵の目の前でココアの飲んでいる少女はモルモットへとなり下がるのだ。

「人払いは完了したようですね」

いつの間にか店内からは人影が消えていた。
それは店の外の広場の方も同様で、まだ夜の九時にもならないというのに一帯の通りから人影は消え失せているのだった
そしてフランス陸軍のものと思しき制服をまとった男がカフェに走り込んでくる。

「伯爵様、第11胸甲騎兵連隊およびGIGN部隊、配備完了致しました」
「内務省への連絡は?」
「国土監視局へ報告済みです」
「そうですか、ご苦労様です」

そして紅茶の最後の一杯を飲み終え伯爵は立ち上がる。

「では参りましょうか。スナーク狩りだ」

そして彼は店から出ようとしたのだが――

「ん……」

少女がわずかに声を発し、伯爵のコートの裾をくいくいと引っ張った。
おや、と思い伯爵がそちらの方を見ると、彼女の飲んでいたココアはまだ半分ばかり残っているのだった。
そういえばこの子は猫舌だったなと伯爵は思い出す。
伯爵の生気に乏しい顔にわずかばかりの笑みが浮かぶ。

「もう少しゆっくりしていきましょう」

そう言って伯爵は再び腰を下ろした。
そして少女はそれに対してこくりと小さくうなずくのだった。






* * *






――バスタブでも本を読むかね……

立ち込めた泡に身体を埋めつつレミリアはあきれ返っている。
ここはグリンデンワルドのホテルのバスである。つつがなくシルフィードの解放を終えた二人は(レミリアはただの荷物持ちだったが)、そのままオーバーラント鉄道を乗り継いでこのホテルまでやって来たのだった。
レミリアもパチュリーも基本的には世間知らずである。宿の予約がどうの旅程がどうのといったややこしいことはよく分からないし、今日のように鉄道を利用する機会も滅多になかった。だからこの手の手続きはもっぱら美鈴任せである。
美鈴は紅魔館においてはほとんど唯一、俗世間というものから切れずに暮らしていると言っていい。いわば外部との折衝役とでもいうべき立ち位置である。
外部で何かトラブルが発生した場合、主にその対処に当たるのは美鈴とレミリアである。そしてパチュリーやその使い魔の小悪魔は、主に館に施された様々な術式(遁甲や対フランドール用の結界、空間拡張等)の維持管理が担当だ。昔はもっと他にも人員がいたのだが、二度に渡る大戦やその他諸々の戦いを通じて段々とその人数は減っていき、今では広い屋敷にたったの5人住まいである。使っていない部屋も多々あり、館主であるレミリア自身もいささか自分たちの館はスペースを持て余していると思う側面もある。

――それにしても、美鈴の奴……高かったんじゃないのか?

予約を入れたホテルは、この近辺においても有数の代物であるらしく、設備が行き届いている。
しかしそういったホテルを選んでくれた美鈴の気遣いはありがたいのだが、その美鈴はおそらく今はフランスの安宿に泊まっているのだろう。それが少し忍びない。自分たちの宿もそこそこのもので構わなかったというのに。

「本、傷まないの?」

バスタブの向かい側に寄りかかりながら活字を追っている友人にたずねる。本は手を離れて宙を浮いている。
髪の毛は泡が付かないようにするためか後ろで器用にまとめられていて、白く華奢な肩が泡からのぞいている。

「防水加工済みだから」
「なんだそりゃ」

レミリアは体質上あまり風呂というものに入る必要性はなかったりする。それでも戯れでパチュリーに付いて入っていったら、思いっきりシャワーを浴びせられてしまった。レミリアは雨同様、シャワーも苦手なのだ。別に浴びたら死ぬということではないのだが、例によって羽根の付け根がぞわぞわとして落ち着かなくなる。
だからてっきり一緒に入られるのが嫌なのかと思ったらそうではないようで、単なる悪戯だったらしい。この友人は偏屈な割に外見相応に子どもっぽい部分が結構ある。
それにしても――

――退屈

パチュリーが大の本好きであることは知っているし、そこは友人としてその趣味嗜好も尊重すべきなのだろうが――

――うー

少しむくれる。
どうもレミリアは自分がいる前でパチュリーが読書に耽りこんでしまうことを不満に思っている節があった。読書というのはレミリアがいてもいなくても出来る行為である。だから自分の目の前で本に埋没されてしまうと、間接的にレミリア自身がいてもいなくても変わらない存在であると宣告されているような気がしてしまうのだ(要するにかまってほしいのである)。

「ねえねえ、パチェ」
「今いいところなの」

無愛想にそう答えるパチュリーは、ちっともレミリアの方を見向きもしない。読みふけっている。

「パチェってば~」

泡に沈んだ足を小突いてみるも反応がない。

――む~

レミリアにも分かっている。
パチュリーはレミリアが近くにいるからこそ安心して本に没頭できる――のだそうだ。以前当人から告げられたことである。
ならこうして目の前で読書に耽っているということ自体が、パチュリーのレミリアに寄せる信頼の証とでもいうべきことなのだろう。
ただそうは言ってもやはり不満は不満であり、レミリアがどうにもこうにも退屈してしまっているというのも事実である。
そこでレミリアは一計を案じる。
すうっと深呼吸をすると、目を閉じて泡のなかに潜った。そしてそのまま泡の中をからだ一つ分くらい進んで浮上する。

「ぷはぁっ……こんばんは、パチェ」

髪の毛を泡だらけにしつつパチュリーの目の前に現れる。
浮遊する本とパチュリーの間に割り込む。これなら読書も出来まいという算段である。
別にレミリアは本を読むこと自体が悪いとは思っていない。ただ、今は止めてほしかった。旅先での退屈ほど空しいものはない。

「……レミィ、近い」
「今日は日差しが辛かったの。よよよ」
「ちょっとくっつくな。重い」
「やだ?」
「むー……レミィを消極的に排除する方法は――」
「ないわ。大人しく相手をなさい」
「はいはい、分かったわよ……」
「うむ、よろしい」

そのままレミリアはパチュリーの両の臑を挟み込むような形でバスタブの底に膝をつき、腰を下ろした。
泡が減ってきたので、それとなくバスバブルとお湯を注ぎ足す。

「それでさ、そのダイアン某とかいうのとはどういう関係だったの?」

シルフィードの行動経路の割り出しを行ったのがその人物なのだそうだ。パチュリーは彼女に連なる筋の者からその研究資料を譲り受けたらしい。

「そうねえ……と、その前にレミィ」

パチュリーは、先ほどの潜行でレミリアの髪の毛についた泡を払った。

「傷むよ? ちゃんと後でリンスをすること」

諭すような調子である。
パチュリーは一見するとそういったことに無頓着そうな印象があるが、その実かなりうるさいのだ。

「で、そいつとはどういう関係だったのさ」
「なんだかやけにこだわるわね……そうだなあ、私が一時期ではあるけどアルファ・オメガに所属していたのは知ってるでしょ?」

――『アルファ・オメガというのは黄金の夜明け団の創始者の一人であるマグレガー・メイザースが後年に立ち上げた近代西洋魔術の秘密結社よ、お姉さま』

とフランドールは説明していたが、やはり何を言っているのかてんで理解できなかった。
それで聞き返してみたら薔薇十字がどうのアブラメリン魔術がどうのと、例によって例のごとくさっぱりな答えが返ってきて、案の定レミリアは閉口することとなったのだった。毎度のパターンである。何だかよく分からないがそういう名前の団体があったらしい。

「まあ、おかげでわたしゃ派手に焼かれちゃったのよねえ」
「そ、それはまだ私がどこにも属していなかったころの話よ。もっと昔の話」
「そうだっけ? まあなんにせよ、パチェ……熱かったよ?」
「うぅ……」

ちょっと意地悪なことを言ってみる。出会った頃はお互い敵どうしだったのだ。

「ロイヤルフレアだったかしら?」

レミリアが個体に完全な敗北を喫したのは後にも先にもあれが最後だった。
ただ敵対とはいっても確執のようなものがあったわけではない。パチュリーは単に自身が編み出した属性融合理論の実践対象としてレミリアを襲ったのであり、そのレミリアは一つの事件の渦中においてその相手をしただけである。
1888年、大英帝国首都ロンドン――
二人が初めて出会って、初めて戦って、最終的に互いの背中を預けあった事件。当時のパチュリーは――

「あの頃のパチェは手が付けられなかったよ、まったく」
「昔の話をするのはずるいと思う」

パチュリーは気まずそうに目をそらした。

「街中で太陽生み出す阿呆がいるとは思わなかったわよ。人払いの術式が敷いてあったから良かったようなもののさあ」
「……きゅう」

その事件を期に意気投合した二人は――と言いつつその実凸凹だったのだが――、親交を深め、何年かを経て最終的に今の形へと落ち着いたのだった。

「テムズ川蒸発しちゃったし」
「と、ともかく! 彼女は昔の同僚よ。色々と合わなくて、私も彼女もすぐに脱退してしまったけどね」
「グリモワールの翻訳をやらされたんでしょ? 『ゴエティア』だったっけ?」

その『ゴエティア』とやらがどういったものなのかはレミリアは知らないのだが。

「ええ、私が小悪魔の奴を呼び出すことになったのもそれがきっかけね。グリモワールは記された内容を理解するだけでなく、しっかりと実践しないことには翻訳なんてできないの。まあ、おかげで副産物的にあの図書館が手に入ったわ。あれは本当にすばらしい」

嬉しそうである。さすがは本の虫だとレミリアは思う。
現在は紅魔館の地下に移設されているあの図書館は、もともとは小悪魔が所持管理していた代物なのだそうだ。

「というか、レミィ」
「ん?」
「なんで私と彼女の間柄にそんなにこだわるの?」
「へ? いや、それは……」
「どうして?」

きょとんとした表情でパチュリーは訊いてくる。そして今度はレミリアが目をそらす番だった。

――パチェの鈍感……

レミリアがそのことをやたらと気にしていたのは、何ということはない、子どもっぽい独占欲があったからだ。自分の知らない誰かとパチュリーとの間に一体どんな時間が流れていたのか、それが気が気でならなかったのだ。特にその人物はレミリアと親しくなって以降の知り合いだったというのに、レミリアはそのことをちっとも知らなかったというのが大きい。
ただ話しぶりを察するに特段に親しい間柄でもなかったようで、内心レミリアはほっとしていた。もちろんそれを口に出すのは気恥ずかしいし、パチュリーにしたってそんなことを言われても煩わしいだけだろうとも思うので――

「そ、それよりさ。明日どうしようかしらね」

はぐらかした。

「ロートホルンの方にでも行こうかな、と思ったけど――」
「けど?」
「やっぱりやめましょう。大人しくこのまま帰る」
「そっか……まあ仕方がないよね。ちょっと残念だけど」
「ごめん。でも、美鈴もフランも動いてくれているし。それにもともとこれは私のわがままが招いたことだから」
「だからそれは気にしないでいい」
「けど私が妖精だのなんだのにかまけていなければもっと早く――」

パチュリーが急に思いつめた表情を見せたので、レミリアは焦る。あまりそういう表情は見たくない。まだ平素の無愛想で眠たげな顔の方がいい。
内心ではパチュリーは一連の旅に関して気を病んでいたのかもしれない。
もともと魔力をこうもすり減らしてまでこちら側に留まっていたのは、彼女が精霊だの妖精だのに手を差し伸べていたからである。
当人はそれを研究材料としての必要性云々と言い張っていたが――

「パチェはこのままあいつらを見殺しにするのはいやだったんだろ?」
「……うん」
「ならこれでいいじゃない」

肝心な部分でお人好しで世話焼きだ。
フランドールの結界の一件も、別にレミリアがそれを頼んだわけではなく、同居を始めてからパチュリーが自発的に行ったことだった。
そのパチュリーはしばらく下を向いていたが、やがて顔を上げると笑った。

「レミィ、ありがとう」

――こちらこそ

「うんうん、パチェもありがとう」
「ほよ? なんで?」

それはフランドールのことや――

――後はまあ、私と友達でいてくれたこととか?

気恥ずかしいから口には出さない。

「色々とよ、色々。でもねパチェ、今日の日差しはほんとにきつかったのよ?」

そう言うとレミリアは少しパチュリーの方にすり寄った。そしてじゃれつくようにしてその体重を預けてしまう。
二人の華奢な身体が触れ合う。

「だから、さ」

パチュリーの左耳に口を寄せ、レミリアは囁く。

「レミィ、吸うの?」

パチュリーの問いが、レミリアの横から聞こえてくる。

「ん、吸わない。ちょっと噛むだけ。甘噛み」
「……別に私は構わないけど? 夕ご飯ちゃんと食べたし、たぶん貧血にはならないよ」

それとなく左肩の泡を流しつつ、パチュリーが言った。ただやはり妙な抵抗感がレミリアにはある。

「いいのよ、噛むだけで」
「変なの。それじゃあ意味がないんじゃないの?」
「いいんだってば」
「そう? まあレミィがそう言うならそれでいいけど……」
「そうそう。ふふ、それじゃちょっとばかり失礼~」

そう言うとレミリアは濡れたパチュリーの左肩にゆっくりと唇をつけた。一瞬ぴくっとパチュリーが反応をする。
柔らかな肌の感触をレミリアは唇に感じる。

「あ……」

そしてそのままレミリアは自分の牙をその柔らかい肌に立てた。
どことなく切なそうな声をパチュリーがあげる。くすぐったいのだろう。構わずレミリアは刺さらない程度に牙を食い込ませ、そのままパチュリーに身をゆだねた。

――あったかい……

相手の肌の温もりと、バスの熱。それがちょっとした恍惚感と安心感のようなものを運んでくる。
それでレミリアはゆっくりと目を閉じてしまう。そうすると、まるで泡のなかで互いの身体が溶け合っているかのような一体感が湧きあがってくる。それはもちろん錯覚なのだろうが、その錯覚こそが心地よい。
そしてパチュリーの細い腕が、敏感な羽の付け根を覆い隠すようにしてレミリアの背中に置かれる。そのままパチュリーも目を閉じた。
結局、二人抱き合うような形になる。

――パチェ……

軽いまどろみと産湯に浸かるような安堵感。それらがない交ぜになって押し寄せる。
暖かい。ゆるりとした感覚がとても心地良い。



――でも



安らぎを求めてしまうのは、拭い去れない不安があるからに他ならない。
この旅ではそれをひたすらごまかして、見ないふりをしていたが、それでも少しずつそれはレミリアの内にて明確な像を結びつつあった。
問題点は余りに多いのだ。自分たちを付狙う連中のこと、フランドールの破壊の権能のこと、そしてこれから赴くであろう新天地のこと等、枚挙にいとまがない。

そして不安を抱え込んでいるのはレミリアのみならずパチュリーも同様である。
実のところ最近のパチュリーがめっきり弱気になってしまっているということは、レミリアも重々承知していた。気丈に振る舞ってはいるが、現状パチュリーはかなり弱っている。
そうした問題をほんの少しの間でも忘れさせてくれるから、こうやって互いに抱き合うのだろう。
だからだろうか、いったんこうして触れ合ってしまうと途端に離れたくなくなってしまう。ほんのわずかな空気だって互いの間には割り込ませたくないと思ってしまうのだ。

――離れたくないな……

レミリアはパチュリーの背中に回した手に少しだけ力を込めた。













はだ触りの良いベルベットの生地に身を包んで、美鈴は室内灯の淡い光の中で座り込んでいた。
目を閉じて心を落ち着ける。
このまま何事もなく自分が無事に紅魔館へとたどり着けば、逃げおおせたも同然である。しかし油断というものはそういう状況においてこそやってくる。だから気を抜くことはできないし、寝入ることなどはもっての他だ。
それに向こう側に逃げて、それでめでたしなどということは全くない。幻想郷とやらには強力な妖魔の類もわんさといるはずであり、その中において見くびられぬためにも、一定の交戦が必要となることは十分に考えられる。
それにパチュリーはかなり弱ってしまっているし、あちらにたどり着いたところですぐさま往時の力を取り戻せるとは限らない。また館を一定以上破壊されればフランドールが暴走する可能性は高い。
つまり示威行為が必要となることもまた十分考えられる。
無論のこと、今はともかくこちら側からの離脱を第一に行動する時ではあるのだが。

美鈴はパチュリーには大いに感謝している。
ひとつは当然フランドールのこと、そしてもう一つはレミリアのことだ。
レミリアにとってパチュリーは、恐らく生れて初めて出会う対等な相手だったのだろうと思う。現在ではだいぶ弱ってしまってはいるが、少なくとも二人が出会った当初はそうだった。
守るべき妹でもなく、その上に立つべき部下でもない、背中を預けて頼りにしてよい友人。
彼女と出会い、共に暮らすようになってからレミリアは目に見えて明るくなった。
以前のレミリアはあんなふうに楽しそうに笑ったりわがままを言ったりすることはほとんどなかった。むしろいつも暗く思いつめたような表情ばかりをしていた。
重圧――があったのだろう。
それを背負わせたのは美鈴だ。

――いけないわね

思考が堂々巡りをしている。今は内に籠もっているべき時間ではない。内省などは後からいくらでも出来る。
だいたい静かすぎるのがいけないのだ。
自省をしろと言わんばかりの静けさに辺りが包まれていて――

――待て

妙だ。人の気配が少なすぎる。
まだ人間が寝静まるような時間ではない。
美鈴はベッドから降りると、室内灯を消し、そっと窓の方へと身を寄せた。窓は木製の格子を組んだものが二枚設けられている。
そこから表通りをのぞき込む。
街路には人っ子一人いない。車も停車しているものは何台かあるが、走っているものは一台もない。走行音も聞こえてこない。

――見付かったか……

息を整える。靴も衣装もそろっているし、このまま交戦可能である。
問題なのはいつどこで発見されたのかということなのだが、それを考えている余裕は今はない。
美鈴は部屋の入り口に近寄ると、神経を集中させた。

――10……20……

ホテルの廊下を複数の人間たちが、気配を殺しながら近付いてきている。明確な敵意と害意が扉越しに伝わってくる。
そして美鈴は手にしていたバッグから武器を取り出す。
黒く冷たい鉄筒。誇り高い吸血鬼に仕える者としては少々使用のはばかられる兵器だ。
BAR――ブローニング自動小銃M1918A2、後期型。
口径7.62mm、重量約9kg、銃身は約60cm。分隊支援火器の祖ともいうべきモデルだが、銃身を地面に固定するためのバイポッド(二脚)は外してある。つまりはそれだけ重量がある無骨な代物なのであり、だから楚々とした服装にはまったく似つかわしくない。
そもそも美鈴としてもあまりこうしたものは使いたくないのだが、雑兵を払うには便利である。弾薬は三合会経由だ。
クランクハンドルのような形をした安全装置を解除する。

ここは建物の五階であり、この近辺にこれより高い建物は存在しない。そういう意図でこの宿を選んだ。だから少なくとも窓の外からの制圧射撃、支援射撃がなされることは考えにくい。あるとすればライフルによる長距離からの狙撃だ。美鈴は弾丸程度で殺せるほどやわな身体はしていないのだが、受けないに越したことはない。窓から見て死角となる位置に陣取る。バッグは移動の妨げにならないようにきつく締め上げ、口が左の腰元に来るように固定する。必要なものを即座に取り出せるようにしておくためである。
そしてしばらく息を整え敵の接近に備える。だが――

――来ない?

敵の足取りが三階辺りで止まっている。一向に上ってくる気配がない。
そして、遠くからヘリコプターのプロペラ音が聞こえてきた。

――まさか……

陽動?
嫌な予感を美鈴が覚えたそのとき、何かの発射音が聞こえた。

「む……」

――能力を逆手に取られたようね。

ヒュルヒュルという空気を裂く音が聞こえる。美鈴でなければ聞き取ることはできなかっただろう。
そして美鈴は縮地術と呼ばれる高速移動を用いて窓に駆け寄ると、そのまま体当たりでそれを破ってアルルの町の夜空に躍り出た。
背後の部屋に何かが着弾し、爆発する。
空中にはためくドレスの裾が少し焦げ、それを追いかけるかのように建物の破片と炎が舞う。
そのまま美鈴は通りの向かいの三階建ての建物の屋根の上に着地した。普通の人間ならば到底届かない距離である。着地の拍子に屋根のレンガが少しはがれる。
撃ち込まれたのはおそらくロケットランチャーの類だろう。そしてローター音とともにヘリコプターが一機飛来する。
SA 341 武装ヘリ――ガゼル。フランス陸軍機。
その側面に備え付けられた20mm機関砲が姦しく火を吹いた。こちらがただでは死なないと知っているせいか、容赦がない。
美鈴は銃を片手に屋根の上を走る。それを追いかけるようにして弾丸が着弾し、火花とともにレンガが砕けていく。
そのまま屋根の端まで行くと、昔のように空を飛ぶことができないことを憂いつつ、美鈴は屋根から飛び降りて三階下の路地に着地した。ヘリはその頭上を通過して行く。

右手側――砲弾を撃ち込まれたホテルのあった通りの方に敵の気配を感じ、美鈴はBARによる牽制を行う。闇に溶けるような黒服の連中が幾人かその弾丸に倒れる。
さらに美鈴はバッグの中に固定しておいた手榴弾を取り出すと、口でピンを外し敵に向けて放った。
自身はそれを尻目に入り組んだ石畳の路地を駆ける。
背後で破裂音、そして続いて発砲音が響く。
曲がり角を折れる拍子に、敵の銃弾を受けた壁の漆喰が弾け飛び、それが口に入ったが気にせず吐き出して走る。

やがていくつか角を曲がると、路地は行き止まりを迎えた。
左右の壁を交互に蹴って、屋根の上へと逆戻りする。その最中に銃のない左の手先で気を練っておく。
美鈴の予測が正しければ、能力は温存しておく必要がある。雑兵相手にいちいちその力を行使していては持たない。
だが、さすがにヘリは面倒だ。
屋根に上った美鈴の前方で、ヘリが旋回しこちらに向き直ろうとする。

――華光玉

練った気をヘリに向かって放つ。
青白い光弾が屋根のレンガを削ぎながら飛び、機体の横腹にめり込む。そのままヘリは空中で爆発し、燃えた残骸がアルルの街に降り注いだ。
美鈴はそれには目もくれず、再び走り出した。屋根から屋根へと飛び移りながらアルルの夜を駆け抜ける。
敵の部隊も何人かは屋根に登り追跡を仕掛けてくる。残りの面々は地上を進んでいるようであり、またあらかじめ人員が配備されていたのだろう、次から次へと湧いてきて狙撃がなされる。ただ美鈴の移動速度は当然人外のそれだから、弾は当たらない。命中したとしても、美鈴にとってはその程度の傷はどうということも無い。

敵としても仲間が射線軸に乗るような状況は当然避けるべきであり、だから少なくとも屋根に上ってくる人員は美鈴から見て背後から左方向に偏っている。
ただ人の足で美鈴に追随することは不可能なので、いずれ前方にて待ち伏せがなされているのだろう。

――彩雨

それを見越し、走りながら美鈴は夜空に向かって手の平を晒す。
そこから七色の光弾が無数に飛び出し、上空へと舞い上がる。そしてそれらは一定の高さまで到達すると、そのままアルルの町へと雨のように降り注いだ。
美鈴を中心とする半径百メートルばかりの一帯にて、さながら絨毯爆撃のように無数の爆発が連なる。
攻撃を目的とする弾幕ではない。敵の統制を崩せればそれでよい。ならば派手なら派手なほど効果的だ。案の定それにより恐慌状態になった敵たちの足並みは完全に乱れた。

パニックに陥った敵を尻目に美鈴は俊敏に屋根から屋根へと飛び移って行く。
そしてやがて広い道路が現れて、屋根伝いの逃避行はいったん終わりを告げる。
美鈴はその道路へと飛び降りると、乗り捨てられていたバイクの鍵を壊し、エンジンに適当な細工を施した。
そして器用にドレスを折り曲げて跨ると、そのままアクセルを押し込み発進した。

ベルベットのドレスと赤い髪を風になびかせ、美鈴は南仏の夜を疾駆する。
駆るバイクはシンプルな黒のヨーロピアンタイプ――やや前傾姿勢で乗車するタイプであり、操作性に優れた代物だ。

――ミスマッチだわ。

よりにもよってメイド服にバイクである。滑稽なことこの上ない。とりあえず館の面々には絶対に見られたくないと美鈴は思う。
もちろん自分が銃を撃つところも、人を騙すところも、やはり見られたくはない。

後方の角を曲がって何台かの追手の車が現れる。軍用のジープだ。おそらくガラスは防弾仕様だろう。
サイドミラーに銃を構える追手の姿を確認した美鈴は、そのまま角を一つ折れた。それと同時に断続的な銃声がジープから轟き、石造りのアルルの建物たちに無数の穴が穿たれた。
折れたバイクは、猛スピードで二車線の狭い上り坂を登っていく。美鈴の両側を、石造りの古めかしい建物たちが通り過ぎていく。

速度が出ていたため、坂を登りきったところで車体が浮いた。バランスをとって着地する。
ジープたちも少し浮き上がっている。
そして美鈴は身体をひねり、タイヤに向けてBARの弾丸を撃ち込む。ジープのタイヤを撃ち抜けるかどうかは賭けだったが、幸いその賭けは吉と出たようで、パンクの音とともに先頭の車両が横にスリップした。
そして後続の車両のうちの一台がそれをかわし切れずにフロントに乗り上げるように衝突し、回転しながら宙に舞う。その二台をかすめながらなおも敵の車は美鈴を追う。
照準を乱すべく美鈴は蛇行しながら古いアルルの街を駆ける。街路の石が美鈴の軌道を追いかけるかのように砕けていく。
BARの弾丸はもうない。運転しながらのリロードは面倒である。
美鈴はバッグの中から手榴弾を取り出し、口でピンを外した。そして少しだけ間を置いてから路上に落とす。
跳ねながら転がる手榴弾は、ちょうど敵の車両が上を通りかかるタイミングで爆発した。

――あらら?

猫だまし程度に思って転がした代物だったが予想外に大きい効果を上げたようである。
手榴弾はそれ単体で車両を破壊できるような威力はない。しかしタイヤは別である。そしてそれをやられた車はガラクタ同然だ。
タイヤを一輪破壊され制御を失った車は、先ほど同様に横滑りし、乗り捨てられていた一般車に突っ込んでひしゃげた。
敵の車両はあと4台。
そこで一団の前方に十字路が現れる。
その十字路を閉鎖する形で巨大なトレーラーが停車している。バイクの進路を塞ぐ気だ。
はてどうしたものかと美鈴は周囲を見る。

――乗り捨てるか?

どうやらその必要はないと美鈴は判じる。
さあ使えと言わんばかりの、実にありがたい代物が美鈴の目にとまったのだ。
トレーラーの少し前に、何かの事故を起こしたと思われる乗用車が一台止まっている。そしてその隣にはその事故車を運ぶ目的で配備されたらしき、空のキャリアカーがあった。今まさに事故車を積もうとしていた時に人払いの影響を受けたのだろう。車を載せる荷台はすでに斜めに傾いている。そして荷台と地面とをつなぐ道板はきっちり下ろされている。
つまりおあつらえ向きのジャンプ台がトレーラーの前に配置されているようなものである。
美鈴はアクセルを限界まで押し込み、そのキャリアカーに向かってバイクを走らせる。
体重は出来る限り前方に乗せる。後方に体重が残ると飛距離が出ないからだ。

そしてキャリアカーに乗り上げる直前、アクセルの具合を調整し――美鈴を乗せたバイクはアルルの街の宙を飛んだ。
前輪を少し反らせながら、トレーラーの上を飛び越え、そのまま後輪より着地する。着地の衝撃で車体が少しバウンドし、一瞬バランスを崩しかけたが、軽く制動を加えて持ち直し、そのまま疾走した。






しばらくしてT字路に至り、アルルのメインストリートへと道は合流した。
通りの前方に、アルルの名所でもあるローマ時代の円形闘技場が小さく見える。夜間なこともあってか青白い電燈に照らされ、また周囲の建物との間隔も開けているから、そこだけどことなく隔世の感が漂っているようにも思える。
その古き時代の決闘場に向かってバイクは駆けて行く。

――追手が来ない?

先ほどまで美鈴を追いかけていたはずの車がいつまでたっても現れない。
さては何かの罠だろうかと思い、美鈴はいったんバイクを停車させ、後方を振り返った。
石造りの古い建物たちと、人払いのなされた無人のメインストリート。そしてそれを照らす街灯の明かり。
静まり返った夜の風景が広がっている。

だが次の瞬間、その夜景の彼方に眩い光の壁が屹立した。

「へ?」

あまりに突然風景が変化したため、思わず美鈴は間の抜けた声を発してしまった。
アルルの街を見下ろすかのような赤い光の壁が、バイクの後方に出現したのだ。そしてそれは――

「近付いて――来てるよねえ」

壁自体が、まるで街をスキャンするかのようにこちらに向かって進んできている。だから壁の高さが徐々にせり上がっているかのように見える。実際は美鈴とその壁の距離が縮まっているということなのだが。
そして美鈴は自分がかなり危険な状況にあるのだと悟り、バイクを急発進させた。
アクセルをこれでもかというぐらいに押し込んで加速する。

――ちょっと不味い。

壁が百メートルばかり後方から迫ってきている。
あの壁に追いつかれたら終いだ。あの壁を構築しているのは光などという生易しいものではなかった。
火炎。
否、もはや爆炎と言ってよいレベルの劫火である。
まるで万遍なく仕掛けた爆弾を順々に点火していくかのように炎が突き進んでくるのだ。それが無人のアルルの街を呑み込み、そしてまた美鈴をも呑み込まんと迫って来ている。
その高さはざっと五十メートルはあるだろうか。それ以上かもしれない。追手が来ない理由は判明したが今更そんなことはどうでも良かった。というよりあの追手連中とてこの炎の壁から逃れられたとは思えないのだが。

バックミラーに巨大な炎が映り込む。
その合間には、呑み込まれた建物たちが見える。不思議なことに燃えも崩れもしていない。
それらが何らの影響を受けていないところを見るに、標的の識別がなされた術式の類なのだろう。なら先ほどの追手の連中は無事ということだろうか? もちろん美鈴にしてみればそれはちっとも有り難くはない。
無駄と分かりつつもアクセルをさらに押し込んでしまう。

――あいつか……

これだけの炎を生み出せる存在は、美鈴の知る範囲では三人しかいない。
一人は故人であるレミリアの母。もう一人は往時のパチュリー。
そして残る一人、東方の地において蓬莱の薬と呼ばれる不老不死の秘薬を服したという男。
その薬を飲んだ輩はみな異常なパイロキネシス――発火能力を身に付けるのだという。

円形闘技場が近付く。そこで道路は終わりである。つまりは逃げ場の終わりだ。
闘技場前の広場に達したところで、美鈴はバイクのステップを蹴りとばすようにして跳ね、後方宙返りの要領で縦に身体を一回転させ着地した。
背後からは壁が迫る。乗り手を失ったバイクは横転し、そのまま横滑りして闘技場の壁に突っ込んだ。
銃を左手に持ち替え、銃床を腹に当てる。そして自身は右の体側を壁の方へと向ける。
右の掌を迫り来る壁に向けてかざす。

「太極」

囁くような声で言う。それに周囲の空間が呼応する。

「両儀」

大気中を脈々と流動する様々な気、それが一筋の流れに統合され美鈴のもとへと収束し、混じり合う。
炎に負けぬ明るさで煌々と輝く、巨大な七色の光の玉が美鈴の目の前に生まれる。
壁は目前に迫ってきている。

「四象」

七色の玉は、すでに美鈴の身長の数倍ほどの直径に膨れ上がり、なおもその輝きを増していく。

「乾兌離震巽坎艮坤……八卦」

そう呟いたと同時に、美鈴は炎の中に呑み込まれた。
灼熱地獄がごとき火の海原。
暗い夜の街から一転して、眩く明滅する潮流の中に晒され、目が眩む。だが完成し浮遊する玉はそれ以上に明々と輝き、そしてその炎を退けている。だから美鈴の周囲にだけは火は及ばない。

――華厳明星

巨大な気の塊を、美鈴は解き放った。
虹色の玉が、猛る炎の川を二つに割りアルルのメインストリートを突き進む。衝撃でアスファルトはめくれあがり、通り一帯の建物の窓ガラス全てが砕け散る。さらに建物群をも破壊しながら光球は驀進し、アルルの街は巨大な竜巻が一直線に通過したかのような有様となった。
その光弾により完全に二つに分断された火勢は、そのまま美鈴の両側を突き抜け後方へと過ぎ去っていく。
そして後には街路が破壊されたことと人が一人もいないことを除けば、普段通りであるアルルの夜が広がるばかりになる。気の集約していた場所にはクレーターのような穴が開いている。

突然パンパンという拍手の音が広場に響き渡った。

「いやあ、お見事お見事」

わざとらしい称賛が美鈴に浴びせられる。
いつの間にか広場に二つの人影が立っていた。
人形のような二人組である。
一人はステッキを携え、闇に溶け込むような黒のフロックコートをまとった男。
一人は青紫の服を着た、人間らしい気配のまるで感じられない小さな少女。
どちらも夜の中にいることが相応しいと思わせる暗い雰囲気を発している。
二人組と美鈴は古代の闘技場の前にて向かい合った。

「なかなか面白い趣向だったでしょう、Ms.紅」

慇懃な調子で男が言った。

「やっぱりあんたか、伯爵。あんな見かけ倒しの炎、退けたところで自慢にもならないわ」

そう男に向け言い放つ美鈴は、珍しく敵愾心を隠そうとしていない。

「その割には必死で走っていたようでしたが?」

それに対して伯爵と呼ばれた男は作り物じみた笑みを浮かべた。
作り笑い、ということではない。そもそもこの男自体が作り物じみているので必然的に笑顔もまたそうした雰囲気を帯びるのである。

「遊びに付き合ってあげた、と言ってほしいわね」
「それはそれは、ありがとうございます。しかしね、どうも知り合いのようにはいかない。モコウなら先ほどの炎すべてに熱を行き渡らせることも可能だったのでしょうが、私では効果対象を限定する形でしかあの規模の炎は呼び起こせない……きっと彼女の炎はあの薬とはまた異なる力が作用しているのだろうな」

いきなり現れたかと思えば、最初の方をのぞいてほぼ独り言のようである。何をしに来たのかと少し美鈴は苛立ちを覚える。

「ああ、失敬。モコウというのは現状確認されている範囲では最も優秀なファイアスターターでしてね、日本人なのですが、まあ私は少なからず縁があるのです。たしかもとは西行寺の退魔衆にいたのだったかな? 千年前の『あの』西行妖にまつわる一連の事件の生き残りですよ。貴女も名前ぐらいならご存知でしょう?」
「西行……あの極東の死桜?」
「ええ。まあ生き残りというか、彼女も私と同じで死なない身なのですがね」

この世ならざる美しさをもって人を死へと誘うという妖怪桜。
千年ばかりの昔、東の果ての地にて、その完全なる開花を阻止すべく戦った者たちがいたのだそうだ。
美鈴はその一件に関してはまた聞きでしか知らないうえ、そもそも公的な記録も残っていないので詳細は不明だが――

「一説には疎密の鬼に三冬の少女、はてはあの八雲や始原の乙女までもが出張りながら、なおそれの開花は阻止できなかったのだそうです。もはや妖怪というよりも災厄や天災に近しい存在だったようですね。結局不死身の娘は富士見の娘を失ってしまったという美しくも残酷なお話でして――」
「悪いけどあんたのお喋りに付き合っている暇はないの」

相手のペースにはまってはいけない。
美鈴はBARの弾丸をリロードした。夜の広場に弾倉の収納音が響き渡る。

「早く本題に入りなさいな」

銃を二人組の方へと向ける。そんなもので御せる相手ではないということは美鈴も承知しているから、これは一種のボディランゲージである。
少女が一瞬反応したが、伯爵がそれを制する。そして彼は悪びれたふうもなく笑った。

「ところでお久し振りと言うべきですか、Ms.紅。お会いしたかったですよ」

今更のように挨拶をする伯爵。どうもずれている。もっともそれはこちらのペースを乱すべく計算済みのものなのかもしれないが。

「私は会いたくなかったわ」
「むう、愛想のない給仕屋ですね。貴女もそうは思いませんか?」

ふざけているのか本心なのかいまいち判然としない調子で、伯爵は隣に控えた少女に話しかける。

「……舌を火傷した」

少女は少女でまったく脈絡のないことを喋った。二人そろってどこかずれている。

――でも

実力は本物だ。
かの組織においても、個体戦力としては間違いなく最上位の二人組である。だからこの二人を退けない限りはこの場所を脱出することは困難ということだろう。
特に――『エニグマ』と呼ばれるこの少女は、人間としては美鈴が出会った中で間違いなく最強だ。
伯爵が慇懃に礼をする。

「今宵は『忠告』に参りました、Ms.紅。折角の世界遺産なのですから、中に入りましょう」

そのまま伯爵は闘技場の中へと歩いて行く。少女が後を追う。
美鈴もそれに従った。
どうせこの二人を倒さなければアルルを出ることはかなわない。そして何より、船の件を察知されていないか探りを入れる必要があった。美鈴が一見すると無駄にも思える伯爵の語りをそれとなく相手しているのはそのためである。

――長い夜になりそうね……

美鈴は気を引き締めると、冷たい石でできた古代の決闘場へと足を踏み入れた。






たしかこの闘技場の収容人数は二万人ばかりだっただろうか。
銃を肩に立てかけて石製の客席に座り、美鈴はそんなどうでもいいことを考える。
60を超えるアーチ構造が連なる夜の闘技場は、最低限の夜間照明と月とにより青白く照らし出されていて、ここだけ時代が逆行してしまったかのような奇妙な雰囲気を湛えていた。一歩外に踏み出せば古のローマの都が広がっているのではないかという気すらしてくる。
もちろんローマ時代に夜間照明などというものは存在していないのだから、これは美鈴の勝手な感想だ。

「我々が賢者の石を欲しているのはご存知ですね?」

隣に座った伯爵が言う。
落ち着いた感じのテナーボイスであり、滑舌も良いのだが、しかし同時にその声はどことなく不協和音じみたものを孕んでいる。それはおそらくこの男の存在の歪さが発露しているからなのだろう。
蓬莱人。
無限の命を持つ、人の形をした何か。

「単刀直入に言います。七耀の魔女を引き渡していただきたい」
「貴方は84位だったかしら? 『大監察管理官』殿。いい身分だってのに使い走り?」

それとなく挑発を加える。石工には94の位階が設けられていて、数字が上がれば階級も上がる仕組みとなっている。

「上級メンバーは戦いが不得手なものが多いのですよ。それにまあ、アレを飲んでしまった私はここが限界ラインでしょう」

あの仙薬とこの男の組織での位置付けにどういった繋がりがあるのかは美鈴には分からなかった。

「まあ私の出世難などはどうでも良いのですよ。それよりもMs.ノーレッジの件です。悪い話ではないと思いますよ? 彼女を引き渡してくれましたら、今後我々は一切あなた方には関わらないと約束いたします。なんなら教会の馬鹿どもにも圧力を掛けてやってもいい。それに『神殿』に赴けば彼女もじきに魔力を回復するでしょう」

石工と呼ばれる組織は、その起源をかのソロモン王の神殿を築き上げた石工職人集団に持つ――と言われている。
その跡地に再建された建物には、いまだ神秘の力が衰えることなくみなぎっているのだそうだ。

「あんたらの目的はつまるところが長生きでしょう? その神殿とやらに行けば魔法が使えるんだから、捨食捨虫でも何でもすればいいじゃない」
「それはあの神殿から出た時点で効果が薄れ出す。どうせなるならより良い不老長寿を――」
「つまりあなたたちにパチュリー様を引き渡したところであの方はその神殿をろくに出られやしないということでしょう? 体のいい捕虜扱いか? あまり舐めるなよ」

美鈴は凄んでみせる。ただこれは何かの計算があったということではなく、真に憤りを感じてのことだった。

「あらら、墓穴を掘ってしまった。困りましたねえ?」

特に動じた様子もなく伯爵は隣の少女に話しかける。その少女はやはり人形のように無反応に近い。
何だかひどく奇妙だ。彼女が『エニグマ』などと称される理由である。その彼女の位階は確か17位だったはずだ。

「伯爵、ではこういうのはどうかしら? 蓬莱人の肝をお偉方に分け与えるの」

美鈴はものを掴む仕草をした。

「なんでしたらこの場で摘出してあげても良くってよ?」
「……それで済むならとっくにそうしている」

少し伯爵の声のトーンが下がる。その口調には苦み走ったものが混じっていた。
そして複雑な表情を浮かべて伯爵は少女の方を一瞥した。

――ふん、そういうことね。

どうもこの伯爵という男はこの少女に何か思い入れがあるようである。全体的な行動のベクトルもこの少女をもとにして決されている節があるようだ。
そして美鈴とて冗談で今の一言を発したわけではない。
なぜ石工の連中は蓬莱人などという恰好の素材を無視して賢者の石にこだわるのか、そこが美鈴は解せないでいた。

「我々はね、『あいつら』の呪縛から自由になりたいのですよ」

伯爵はステッキで上空の月を指しながら言った。

「あいつら?」
「歴史を標す者どもですよ。我々は連中によらない、我々自身の確たる歴史が欲しい。そのためには連中がばらまいた蓬莱の薬などに頼ることはできないのです」
「ああ、だから貴方は出世難なのね。だがそいつ等には頼らないがパチュリー様には頼るっていうの? 虫が良すぎるわね」

伯爵が何を指してそうしたことを言ったのかは分からなかったが、もとより美鈴は彼らの理念などに興味はない。その興味のない理念のために主人を連れて行かれるなどもっての外である。

「何とでも言いなさい。それだけあの少女は貴重ということですよ。貴女には分からないかもしれないが、賢者の石の錬成は偉業と言って差し支えぬこと、彼女こそメルクリウスとジェフティの叡智を受け継ぎし第四のヘルメスなのですよ。それにね、Ms.紅――」

伯爵は若干興奮している様子だったが、そこまで言い終えると元の落ち着いた調子へと戻った。その興奮につけ込んで探りを入れようと試みていた美鈴は内心で舌打ちをする。
だが探りを入れていると悟られては元も子もない。とりあえずは語らせておけと美鈴は思う。

「我々が求めているのはあくまで不老『長寿』なのです。不老『不死』ではない。その二つは厳然として異なるものだ。Ms.紅は日本のコミックスは読むかね?」
「は?」

唐突に伯爵は珍妙な問いを投げかけて来た。その意図がつかめない。なぜこの状況で日本のコミックスの話なのか。

「『ジョジョの奇妙な冒険』くらいしか知らないわね。それだって生憎読んだことはないのだけど」

主に小悪魔とフランドールの趣味により、あの図書館にはサブカルチャーめいた書籍も多少は流れつくようになっている。
彼女らはその作品を面白いからと言って再三勧めてくれるのだが、いかんせんすでに何十巻と物語が続いているからなかなか読む気が起こらないのである。

「そうですか。私は趣味でよく読むのですが――手塚治虫はご存知ないですか? 『鉄腕アトム』や『火の鳥』の」
「ああ、『火の鳥』なら知って――ん?」

そこで美鈴はとあることに思い当たる。

「ちょっと待ちなさい、ひょっとして『未来編』がどうのこうのとかぬかすつもりじゃないでしょうね?」
「おお、知っているなら説明が楽でいい。Mr.手塚の想像力は素晴らしいものがあります。つまり、我々はナメクジもどきを育てるのは真っ平ごめんということですよ。もっとも私はそうなりそうですが」
「呆れた。歴史を取り戻すだの何だの偉そうなこと言っといて、それなの? 要するに一人で生きるのがイヤだってことでしょう? 今の人類が死に絶えた後も永劫存在し続けるのが怖いと――そう言いたいんでしょう? バカバカしい。怯えるくらいなら大人しく有限でいなさいな」

吐き捨てるように美鈴は言った。

「まあ否定はしませんよ。ともあれそういうことですので、もう一度言いますよ、七耀の魔女を――」
「……そろそろタイムオーバーだわ」

そう呟くと突然美鈴はBARの弾丸を伯爵に撃ち込んだ。姿勢を乱さず、相手の方を見ることもなく、水平に銃を伸ばして撃つ。動作に容赦がない。
フロックコートに無数の穴をこしらえ、伯爵は倒れた。

その倒れた伯爵の後方から、少女が何かを投じる。美鈴はそれを撃ち落とす。
投じられたそれは、十字架のような形をした五本の銀のナイフ。そして弾丸を受け弾かれたナイフは、しかし奇妙なことに再び空中でその切っ先を美鈴の方へと向け、飛来する。
美鈴はそのナイフとは『逆の方向に』拳打を放った。
その拳は忽然とその場に現れた少女の腹に命中し、その小さな身体を弾き飛ばした。そして同時に美鈴の背後にも気が放出され、飛来していたナイフは叩き落とされる。発勁時における脱力を意図的に不完全な形で終わらせ、通常全て前方より出でるはず勁を、背面へも放出させたのである。
そして吹き飛ばされた少女は客席を破壊しながら岩に埋もれた。
一方美鈴は上空に跳び上がり、闘技場の中心へと着地した。バッグとBARは装備から外す。
この二人相手に『手加減』は通用しない。悠長に武器を使っている余裕などはない。

船の件については探りを入れることはできなかった。仕方がないから後で確認をすることになるだろう。
さすがにこれ以上時間を浪費すれば新たな包囲網が形成される危険がある。
そして先ほど美鈴に吹き飛ばされたはずの少女が、しかしまったくの無傷で闘技場に降り立った。

「……狩る」

感情の籠らない声で、欠落に満たされた少女は静かに宣言する。
第四座標への干渉権限。
位階第17位『Knight of the East and West』。
銀色の髪、逆手に握られた十字架のようなナイフ、夜の闇をそのまま映し込む空ろな瞳――構成する全ての要素が人形じみた、美しくも奇妙な少女である。
その暗い瞳の先にいるのは、ベルベットの生地に身を包んだ赤い髪の、オールワークスのメイド。

月が照らす古の決闘場にて、天鵞絨少女とエニグマティクドールは対峙した。













濡れた艶やかな髪とその合間からのぞく項とが妙に綺麗だから、レミリアは少し嫉妬心をくゆらせている。
ホテルのベッドに膝立ちになったレミリアは、ドライヤーで相方の髪の毛を乾かしていた。昔はそういったことはすべて魔法で行っていたのだが、今はそうもいかない。魔法使いには不似合いな感じのする文明の利器にも世話にならなくてはならなかった。
すでに二人とも白いワンピース型のキャミソールに着替えている。お揃いの夜具である。もともとレミリアは裸で眠ることが多いのだが、パチュリーは喘息ゆえに寒さには少し気を払わなければならないのだ。そして二人いてその片方だけが素っ裸というのも気恥ずかしいものがあるので、結局レミリアも同じものを着込んでいるのだった。
室内灯は弱めてある。もともとレミリアは明るいのは好きではない。

「こんなもんかしら? どう?」

乾き具合をパチュリーにたずねる。

「ん、いい感じ」
「じゃあ櫛を入れようか」

持参したつげの櫛でパチュリーの髪を梳かしていく。この櫛は美鈴が持ってきたもので、日本製なのだそうだ。シンプルな外見で装飾性はそれほどでもないが、代わりに機能美ともいうべきものがある。

――きれいな髪よねえ

櫛が良いのか、それとも髪が良いのか、実にするするとよく通る。嫉む。
だからということでもないが、例によってレミリアは意味も他愛もない行動に出た。

「んしょ」
「ちょっと、なにやってんの」
「匂いをかいでるの」

レミリアは鼻をパチュリーの髪の毛にあてている。

「もう、やたらとヒトのこと嗅ぐな」
「別にいいでしょ? 良い匂いなんだし」
「それはお風呂あがりだからだよ」
「別にお風呂上がりじゃなくても良い匂いはするだろ?」
「ともかく嗅がないで。なんか恥ずかしい」

そう言うとパチュリーはレミリアから遠ざかってしまった。

「逃がさないわよ」
「やっ、来るなっ。あっち行け」

逃げる。追いかける。
ベッドの上で、しばらくはそんな意味のないことを繰り返した。
そういう意味のない時間の積み重ねにこそ意味があるのではないかと、漠然とではあるがレミリアは考えている。
他愛もない時間を共有し、益体もない会話で盛り上がる。そういうことが実は大切なことであるのだということを昔のレミリアは知らなかった。そんな余裕はなかったのだ。そういうことに気が付くには、敵が多すぎた。
そして実のところその状況は今でもさほど変わってはいない。
だから今回の旅行は楽しかったのだけれど――それは結局は不安の裏返し、反動としての楽しさだったのだろうと思う。
山積みのような問題からほんのわずかな間で構わないから、目をそらしたかった。不安で不安で仕方がなかった。それを忘れたいからわざとらしいくらいに楽しむ素振りをしたのだ。
欺瞞だったとは思わない。パチュリーとの旅行が楽しかったというのは事実だ。
だがそれ以上に重々しい気持ちが常に心の片隅にはあった。
それは暗渠へと滴っていく水流のように、目には見えないけれど確実にレミリアの内でかさを増して――たぶんたった今、溢れた。

――ああ、ダメだ……

堰を切ったように心の中が不安だらけになる。それがレミリアを蝕んでいく。
先ほどまで無邪気に戯れていたというのに、もう駄目だった。
見えない鉛を流し込まれたかのように、あっという間にレミリアの心は重たくなってしまっていた。その重みが気持ちを沈ませる。その感情の正負の落差が余計にレミリアを苛む。

「レミィ、どうしたの?」
「……なんでもない」

大丈夫だ、どうにかなるはずだ――レミリアはそう己に言い聞かせる。
もう少しで向こう側である。そこにおいてはこちら側とはまた違った種類の戦いの中に身を置くことになるのだろうが、それでもとりあえず現状の危急は回避できるはずだ。
その後どうするかは向こうに着いてから考えるよりない。何かの判断を下し得るだけの情報をレミリアたちは有していない。向こう側に関して判明していることといえば、せいぜい結界に覆われているだとか、地理的には日本のどこかにあるのだとか、その程度のものでしかない。

――どういう場所なのかしら……

やはり不安になる。
向こう側に逃れてすぐさま安泰が手に入るとは思えないし、おそらくはまた長々と戦いに明け暮れる日々になるのだろう。名のある悪魔や妖魔や、ことによっては神の類まで相手にしなければならなくなるのかもしれない。
レミリアは生まれてこの方ほとんど自分より強力な敵に出会ったことはない。パチュリーなどは例外だ。基本的に数で圧倒されることはあっても、個体としての戦闘力で引けを取ったことはなかった。
だが、それは偶然にも今まで出くわさなかっただけであると考えた方がいいのだろう。向こう側にはレミリアを凌駕しうる存在が掃いて捨てるほどいるということも十分に考えられる。
しかしそれでも――現状それ以外に選択肢がないのだから仕方がない。
いま紅魔館は崖に立たされているようなものだ。そしてその崖は遠からず崩落することが定められている。
だから反対側の崖へと飛ぶのだ。その崖もまた安全には程遠いものなのかもしれないし、着地した途端ガラガラと崩れ去ってしまうのかもしれない。だが崩れゆく場に留まり続けるよりはずっと良い。

「ところでね、レミィ」

パチュリーの呼び声でレミリアの思案は終了する。
そのパチュリーはレミリアにそっと近寄った。キャミソールからのぞく鎖骨がやけに細い。

「分かってるわよ。一緒に寝るんでしょ?」
「……うん」

いつ頃からだったか、パチュリーはレミリアと寝所を共にする習慣がついていた。

――『怖いの……』

一緒に眠るようになったころ、一度だけパチュリーはレミリアにそう言ったのだった。
それは気丈で偏屈な魔女が初めて見せた脆さだった。
無理もない。魔法がろくに扱えない以上、パチュリーは人間の少女と同レベルか、下手をすればそれ以下の力しかないのだ。そしてその存在を脅かそうとする敵は多い。
レミリアと同じように、やはりその心中の不安は大きなものがあるのだろうと思う。

「おやすみ」

レミリアがパチュリーに軽くキスをする。眠るときの挨拶である。

「おやすみ」

そして二人は肩を寄せて同じベッドに入った。二人とも小柄だからシングルのベッドでも無理なく身体は収まる。
空のベッドが一つ余った。
シーツの中で互いの手を握る。
感情は制御することが難しい。別のことを考えて不安を紛らわそうとしても、あるいは何も考えまいと頭を空にしようと試みても、無駄だった。不安は肥大化する一方であり、寄る辺は互いの存在のみである。
だからこうして身を寄せあって一緒にいることは、レミリアにとっても必要なことなのだった。互いの温もりをもって、互いの不安を和らげるのだ。そうでもしなければ、潰されてしまう。

「嵐みたいね……」

パチュリーが呟く。いつの間にか辺りの天候は荒みきっていた。













時間の停止とは、物質の可変性の否定と捉えてしまってもそれほどの齟齬は生じないのだそうだ。
だから時間が止まった物体は、そのものの元の硬度を問わず、ダイヤにも等しい硬さを見せるのであり、そうであるからいかなる手段を持ってしてもこの少女を傷つけることはできないのである。肉体の時間が停止しているのだ。
ただそれはこの少女が傷つかない理由ではあるのだが、同時にこの少女が時間停止中に相手を殺傷することが出来ない理由にもなっている。
そしてこの少女が外部からの刺激に対して反応に乏しいのもその時間停止の影響を受けているからである。肉体の時間が止まれば、精神の時間もまたその進行を鈍化させるのだ。

その姿は昔のレミリアを美鈴に思い出させる。
レミリア・スカーレットは笑わない子だった。
仮にほほ笑むことがあったとしてもそれは笑う必要性があったから笑うといった、とても消極的なものだった。
下々の者を落ち着かせるための笑い。妹をなだめるための笑い。余裕を表すための笑い。
そして、相手を恐怖させるための嗤い。
楽しいからだとか、嬉しいからだとか、そういう理由でレミリアは笑わなかった。
まるであらかじめ台本に『ここで笑う』と書き込まれていたかのような、無駄のない機械的な笑顔しか彼女は有していなかったのだ。
そうさせたのは美鈴だ。美鈴は重すぎる役割をレミリアに背負わせ、そのレミリアはそこに過剰なまでに適応した。
己を殺し、我を捨てて、子どもらしいわがままも文句も何も言わず、ただひたすら王女という名の役目を背負い続けた。
無数の剣で貫かれても――
鉄砲で体中に穴を穿たれても――
斧で羽根を叩き落とされても――何も言わない、戦いに明け暮れる子ども。
弱音の吐き方すら知らない、子どもになり損ねた子ども――レミリアとはそういう存在である。
だから美鈴は思うのだ。本当は己は母親の代わりとして彼女に接するべきだったのだと。子どものように甘えさせて、わがままを言わせてやるべきだったのだと。

――でも

それは出来なかった。敵が多すぎた。困難も数多あった。
結局美鈴は銃を持ち、男の服に身を包んで、レミリアとともに戦い続けたのだった。
そのレミリアが辛うじて普通の笑顔を見せるようになるには、パチュリーとの出会いを待たなければならなかった。
それでもなおやはりレミリアは、時おり空っぽのような表情を見せる。
最近はその傾向が特に強かったから美鈴もパチュリーも心配していたのだ。

――『良い宿をとってもらえるかしら? 最近のレミィはちょっと思い詰めてるみたいだから』

今回の旅の前に美鈴はパチュリーにはそう頼まれ、一も二もなくその提案を承諾したのである。ただし美鈴としてはそれはレミリアのためのみのことではなく、パチュリーのためのことでもあった。
とてもではないが人の心配が出来るほどパチュリー自身に余裕があるようには見えなかったのだ。
プライドの高い彼女だからそういった部分はあまり表には出さないでいるが、やはり魔力が枯渇寸前であるという現実はかなりの重荷になっているのだろう。パチュリーがその件でかなりまいっているということは――口にこそ出さないが――館の住人たちもそれとなく気が付いてはいた。

「The Ambitious Jack」

美鈴の思考を止めるかのように、少女がナイフを投じる。両の手より4本ずつ、合計8本の銀の刃が美鈴に迫る。
一体その細腕のどこにそれほどの腕力があるのか――弾丸のような速さである。
そして美鈴がそれらを懐にしまっておいた小刀により弾こうとした瞬間、それまでまっすぐだったナイフの軌道が急に乱れた。ナイフどうしが反射し合って軌道を変化させているのだ。
さらに少女の姿が消え、美鈴の後方にも突然ナイフが数本配置される。
美鈴は八極拳の動作で『靠』――背面へと気を発し、そこへ迫るナイフを落とす。前方から迫るナイフは小刀で弾く。何本か弾きそこない被弾する破目になったが、もとより妖怪の身だからその程度はどうということもない。
一方消えた少女は弧を描くかのように美鈴の上方を舞、地面に向けて12のナイフを投じた。
それは美鈴を射るべく放たれたものではない。
美鈴の周囲に大きなヘキサグラムを描く形でナイフが突き刺さる。

――まずい

ナイフどうしが赤く輝くラインで結ばれる。美鈴の周囲の温度が急上昇する。
とっさにヘキサグラムの外へと向けて縮地で移動し、飛び退く。
遅れて後方で巨大な火柱が立ち上り、メイド服の裾がまたしても焦げた。美鈴のお気に入りの服だというのに。

「話の途中で発砲するのはお止しなさい」

服の汚れを払いながら伯爵が客席から降り立った。今のは伯爵の術式の威力を増幅させる図形をナイフにより描いたということなのだろう。

「交渉決裂ですか、Ms.紅」
「残念ながら。だいたいいきなり宿に奇襲をかけておいてどの口が言うかしら?」
「いやいや、貴女ならばあの程度は挨拶代わりにしかならないかと思いましてね」

無論美鈴には端から交渉の意思などないが、それを明かしてしまっては何かに探りを入れるべく行動していたことが看破されかねない。
伯爵はリザレクションとやらを行ったのだろう。傷は回復しているようである。そして彼はステッキに仕込まれたサーベルを露わにした。月光がそれに反射する。

「さて、交渉は決裂と……ならば貴女自身に交渉材料になって頂くとしましょう」

そして少女が消え、伯爵が駆ける。

――左か

美鈴はそこに向かって気弾を放つ。その気弾は、時間停止による瞬間移動を経てそこに出現した少女をとらえ、吹き飛ばす。
気を読み、長きに渡り戦の場に身を置いた美鈴からしてみれば、相手が次に何を仕掛けてくるのかは大体気配で読むことができる。だから美鈴にとってこの少女の能力が攻撃に使われる限りにおいては、それほどの脅威にはならない。ただの高速移動でしかない。
むしろ厄介なのはそれを防御的に使われた場合である。言わば間合いの調整が自由自在なのであり、また相手の攻撃の軌道も時間を停止さればいとも簡単に読むことができる。
だからこの少女を攻撃しようと思った場合は、時間停止の合間を狙って攻撃を叩き込まなければならない。
どのような達人の剣筋であれ、斬撃と斬撃の間にはわずかばかりの隙があるのと同じく、時間停止の能力にも間隙はあるのだ。その辺りは普通の戦いと何ら変わりはない。

そして美鈴は少女の出現に合わせて斬り込んできた伯爵の刃を受け流す。
そのまま伯爵に一撃を加えようとしたのだが、背中に一本ナイフを受けたので、美鈴はいったん退いた。
そのナイフを引き抜き、伯爵へと投じる。伯爵はそれを斬り払う。
一瞬遅れて美鈴の眼前に無数のナイフが設置される。とっさに小刀を生成し、美鈴はそれを弾く。弾きそこなったナイフが二本、肩と腹に刺さる。しかし妖怪の身体は頑健であり、またその再生能力も高い。美鈴は特に動じない。
その美鈴に対して伯爵の振るう鞭のような炎が迫った。規模は先ほどの炎より遥かに小さい。だがその熱さは尋常ではない。
ほんの少しかすめただけで美鈴の右の手の平は黒く炭化し、メイド服の袖は燃え、そして直接火に触れたわけでもない右腕全体も、赤く爛れた。

「……ふん」

その腕を二度三度振るうと、それはすぐに元の状態に戻る。
袖が焼け落ち、片側の腕だけが露出するというバランスの悪い状態になってしまった。
刺さった二本のナイフを引き抜く。
間を置かず再び二人組は迫る。それに応戦をしつつ美鈴はパチュリーの言葉を思い出していた。

――『あれの時間がなぜ停止しているのかは分からないわ。たぶん何らかの形で能力が暴走しているんだと思うけど。ただ貴女の気は敵の魔力にダメージを与えることができる』

つまり、相手が止まるまで叩けばいい。
美鈴の、気を浸透させる戦い方ならそれが出来る――のだそうだ。その折に理屈も説明してはもらったのだが、例によって何を言っているのかいまいち分からなかった。それにやるべきことがはっきりしているなら、細かな理屈などはどうでもいいというものだろう。
そして叩くべきは少女だけではない。
伯爵のリザレクションもまた、一定の回数をなすとしばらくは行えなくなるのだ。こちらも理屈は良く分からないし、やはりどうでもいい。
要するにどちらも動かなくなるまで殴り続ければよいのだ。なすべきことは至ってシンプルである。

ただ問題は――いよいよこの少女が本気を出しつつあるという点だ。
空ろだった双眸は、血を流し込んだように赤く染まっていた。それでもそれはやはり人形じみているのだが。
そして少女は脱力するかのように奇妙な仕草で首を垂れる。

「伯爵……」

か細い声で少女は言った。
小さな両手に握られたナイフが怪しく煌めく。

「何でしょう?」
「邪魔」
「おや、意外に早いですね。私の活躍はまだまだだというのに」
「たぶんそんなことは誰も望んでないわ、伯爵。場違いな登場人物は早く去りなさい」
「貴女は黙ってなさい。ですがまあ、『こうなった』以上は私は足手まといでしかないのも事実……とりあえずごきげんよう、Ms.紅」

ユネスコの皆さんに叱られそうですなどと呟きながら、伯爵は闘技場からいそいそと出て行った。
後には美鈴と少女が残るばかりとなる。

――さて……どうしようか

伯爵の言う通り、こうなった彼女はかなり厄介だ。
その一挙一投足を見逃さぬよう美鈴は神経を集中させる。

そして少女は操り人形のような奇妙な動作で横一文字にナイフを振るった。
美鈴はとっさに頭を下げる。
その頭上の空気が一瞬だけ揺らいだ。そして刹那、そのナイフの軌道に沿って、闘技場の観客席に巨大な亀裂が走る。
少女は闘技場の中央付近にいるのだから、当然ナイフの一撃が届く距離ではない。それ以前にそもそもナイフで石は斬れないし、またこれほど大きな傷跡を残すこともあり得ない。

「……Sculpture」

生気の無い声で少女はそう宣言すると、次々にナイフを振るった。
闘技場に無数の傷が刻まれていく。美鈴のメイド服の裾にいくつもの切れ込みが生まれる。
美鈴はその見えない刃を勘と気と、相手の腕の動作を判じることで辛うじて避けていく。
少女は美鈴やこの闘技場そのものを斬っているわけではない。
それらが存在している空間を切り裂いているのだ。
どのような物体であれ、それが質量を持って存在している以上は必ず一定の座標空間を占有することとなる。その空間を切り裂くということは、身の蓋もない例えでいうなら紙の入った封筒の真ん中にはさみを入れるようなものだ。中の紙はもろともに切り裂かれる。
だから物を斬るというよりは、風景を切り刻んでいるかのような有様である。風景画にカッターを入れたら、きっと目の前の切断劇がいくらか再現できるに違いない。

先ほど追手の部隊が引き揚げたのもこれのせいだ。伯爵の言う通り、この刃の前では一般の兵隊などはただの足手まといにしかならない。先ほどの部隊連中よりこの少女単体の方が戦力として遥かに上なのである。
見えない刃が嵐のように美鈴を、そして周囲のあらゆるものを切り裂かんと振るわれる。
ローマの時代より残る堅牢な岩の建築が、しかし折れそうなほど細い少女の手により切り裂かれていく。
美鈴はそれを紙一重でかわしていく。
極められた武術は舞術との境界を曖昧にする。傍から見れば美鈴のその姿は切り裂かれていく情景の中で華麗に踊り続ける少女のそれである。

砕け散る岩。照らす冴え冴えとした月。
銀の少女は無尽の刃を振るい、赤の少女はくるりくるりと舞う。

そうして全てを切り裂く凶刃から身をかわしつつ、美鈴は小刀を一本投じる。
それが降り注ぐ剣線の合間を縫って、少女の手に命中する。牽制だ。それで仕留めようとは美鈴も思っていない。
ナイフを振るう手が一瞬乱れる。そして美鈴は大きく息を吸うと腰を深く落とし、片脚を宙へと上げた。

――黄震脚

その脚が闘技場の地面へと打ち下ろされる。
ドーム全体が震動し、敷き詰められた土が高々と夜空に巻き上げられ、円形の客席には巨大なひびが幾筋も走る。特に下段の客席はほとんど見る影もなく粉砕され、細かな砂礫に帰した。
そして銀髪の少女もまた宙へと巻き上げられる。

――降華蹴

美鈴はそれを追って跳び上がり、空中でその体を蹴り下ろす。
少女はそのまま地面にめり込むように叩きつけられる。
だがすぐさま起き上がり、再び銀のナイフを構える。普通の人間であれば間違いなく重傷だったのだろうが、やはり傷一つない。服が破けているだけである。
美鈴は気を充実させ、回避に備える。

――あと何回叩けばいいのかしら?

内心でかなり辟易としつつ、美鈴は再び回避に専念することを余儀なくされるのだった。













今回の旅におけるレミリアの役割はパチュリーの護衛だ。
そうしたこともあって、レミリアは眠りに就いていなかった。美鈴のように敵の気配を敏感に察知するようなことは出来ないが、それでも素早く対応できるという点では眠るわけにはいかない。
轟々という嵐の音を聞きながら、常夜灯に照らされた白い天井を見つめる。
レミリアは己のことを責めていた。
浴室でまどろみかけたことや、それ以前にこの一連の旅行で心を弾ませていたこと自体をである。
己がパチュリーを守らなければならなかったというのに、酷い体たらくだったと思う。ついつい浮かれはしゃぎ、戯れ――まるで子どものようだった。

――愚かだわ……

安らぎだの楽しみだといった感情をレミリアは抱いてはいけなかったはずなのだ。
守る。戦う。それこそがレミリアのまっとうすべき役割であり、そこにおいてそのような感覚を鈍磨させ得る要因は、妨げ以外の何ものにもならない。余計だ。そういう感情は殺すべきなのだ。
ここ数日のパチュリーとの旅行は楽しかったけれど、だから楽しいのはこれで最後だ。
もう笑わないでおこう。
もう楽しむのは止めにしよう。
その方がいい。
安楽も安穏も、安心も安寧も、レミリア・スカーレットには必要ない。戦の場に立つべき者は、そうしたものを希求してはならないのである。

――私は……

そのとき隣りから咳の音が聞こえた。

「パチェ? 発作が来たの?」

友人はまたしても激しく咳をしていた。それもかなり重めの発作なのか、濁音じみた音がその咳に混じっている。
それが風の唸りや叩きつける雨音と相まってレミリアの内なる不安は増幅されるが、それを無理やり追い出す。
縮こまって咳き入るその姿はどうにも小さかった。そのまま壊れてしまいそうな脆弱さをレミリアは感じる。だから戸惑っている場合ではない。

「洗面所に行きましょう」

そのレミリアの言葉にパチュリーは力なく頷く。
咳に濁音が混じるということは痰が絡まっている可能性があるということだ。
ふつうの呼吸状態であれば痰などはどうということもないのだろうが、発作が来た以上は呼気も吸気もままならないのであり、だから痰も途端に厄介な代物になり果てるのである。
レミリアは苦しむパチュリーをゆっくりと引き起こすと、洗面所へと連れて行く。そしてパチュリーを洗面器に向かわせ、レミリアはその背中をさする。痰が出終り、発作が治まるまでそうするのだ。
パチュリーは目に涙を浮かべている。気管や横隔膜に負担がかかり痛むのだろう。それに咳をすれば涙線もまた刺激されるのだ。今にも血を吐きだしそうな勢いで咳き込む友人の姿は見ているのが辛くなるぐらい痛々しい。無論のこと一番辛いのは当のパチュリーである。

そしてしばらくその作業と呼吸器による対処を行い、それでようやく発作は収まった。
寒さは喘息に禁物だ。とりあえずバスローブと、日中羽織っていたコートを着せる。レミリアもパーカーに着替える。理由は特にない。強いて言うなら、何とはなしに同じような格好をしていた方がパチュリーも落ち着くのではないかという根拠に乏しい思いがあったからだった。ストレスもまた喘息の発祥の要因たり得るのである。

「レミィ……私……」

ただそうしてベッドへと戻ってもパチュリーは泣きやまなかった。涙のきっかけは発作だったが、その原因は今や別のものへと変化しているようだった。
嗚咽の混じったか細い声をパチュリーは漏らす。嵐の音に消えてしまいそうな声だ。
きっと彼女もレミリア同様に、心の内で何かが堰を切ってしまったのだ。そして一度そうなってしまえばそれはもう止まらない。
濁流のように心を削りに削って、挙句そこを溢れだして身体までもを冒す。だから涙が止まらなくなってしまう。
何か、普段は当たり前のように支えていられるはずの心中の諸々の要素が、信じられないほどの重圧へと変じる――そういう瞬間というものはある。そしてそのきっかけは案外些細なものだったりするのだ。その些細な何かをきっかけにして、己が情けなく情けなくてどうしようもない暗澹たる心持ちになってしまう。
パチュリーは一体何に呑み込まれたのだろうか。

「パチェ」
「私は……荷物よね」
「そんなことはないわ」

仮にパチュリーが彼女の言う通りの荷物か何かだったのだとして、それを背負うのはレミリアの役割だ。それは当然のことである。疑うべくもなく、また選択の余地もない。
レミリア・スカーレットとは『そういう』ものなのだ。
そしてパチュリーはすがるようにレミリアに抱き付いた。
まるで非力な腕が、必死にレミリアにしがみ付いている。
大切な友人は、やっぱり小さかった。
現状の紅魔館においてもっとも弱っている――否、もっとも弱いのは紛れもない彼女なのだ。

天理を知る七耀の魔女。
トリスメギストスの体現。
ただの一人でレミリアを焼き尽くした太陽。
そして背を預けて戦った頼れる友だち。

でも今はもう、ただの幼弱な少女だ。人間以上に脆く儚い女の子に過ぎない。
だから――

「大丈夫。大丈夫だから」

そう言ってレミリアはパチュリーに身を寄せる。
それはレミリア自身に言い聞かせる言葉でもあった。レミリアもまた不安に蝕まれているのだ。
こうして捕まえておかないとどこかへと消え去ってしまいそうな危うさがパチュリーにはある。そしてそうやってパチュリーにくっ付いていないと不安に押し潰されてしまいそうなレミリアがいた。

「レミィ」
「なあに?」
「やっぱり……吸って」

そう言うとパチュリーもレミリアにすり寄り、そして夜具の肩紐をずらした。
華奢な肩が露わになる。本当に――壊れそうなくらいに細い。

「お願い」
「いや、無理しないでいいってば。パックの血液も持ってきたし――」
「そうじゃない。そういうんじゃないの」

細い首を小さく左右に振って、パチュリーはレミリアの言を否定した。

「ただ――吸ってほしいの」
「パチェ?」

涙で潤んだ瞳がレミリアを見詰めた。

「私はもうレミィの荷物にしかならないから……だったらせめて飲み物ぐらいにはなりたいのよ」
「あんたは飲み物なんかじゃ――」
「うんうん、それでいいの。物扱いでいいの。だから血、吸ってちょうだい」
「パチェ……」
「私を……所有してよ」

またパチュリーは涙を流し始めた。
おそらく魔法使いとしての矜持のようなものが、パチュリーの中で崩れつつあるのだ。それが情緒を乱している。
すでにパチュリーは魔法による防衛を一切行えない身なのである。それもまた不安の増幅させる一因なのだろう。魔法を失ったパチュリーは人間以上に、弱い。

「しっかりして。大丈夫だってば、私はパチェの近くにいるから」

レミリアにとっても彼女は必要なのだ。見放すなどということはあり得ない。
いや、たとえ必要なくとも見放さない。要るとか要らないとか、そういう物差しでは家族というものは計れない。そのことはパチュリーも分かってはいるはずだ。
とはいえ理屈と感情は別物であり、そして理屈をもって易々拭い去れるほど不安という感情はやさしくない。粘着して、こびり付くように内側に巣食うのが不安という厄介な代物なのだ。
パチュリーが男の子だったなら、ひょっとするとここまで感情に振り回されてしまうことはなかったのかもしれない。
でもパチュリーは女の子だ。徹頭徹尾論理的であるふうを装ってはいるが、やはりどうしようもなく少女なのだ。だから情動が理屈を呑み込んでしまうことがある。そしてそうなってしまえば、脆い。

「ごめん、レミィ。ほんとは最後の旅行だから楽しくしよう、暗くならないようにしようって思ってたんだけど……」
「構わないわ。そういう時ってあるもの」
「うん……取り乱してごめんなさい」

泣き笑いといった表情で――というよりやはりそれはただの泣き顔だったのだけれど――パチュリーは肩紐を元に戻した。

「きっと大丈夫よね。あと少しで向こう側に行けるんだし」

明らかに無理につくったと分かる笑顔でパチュリーは言った。

――でも

そこに行ったところで何がどうなる? どうせ敵だらけではないのか?
安らぎなどありはしないのではないか? 今以上の苦境に突き落とされてしまうのではないか?

不安に冒され自分自身が泣き出しそうになるのをレミリアは必死に耐える。
現実は無慈悲だ。
現実は物語とは違う。そこには秩序も結構性もありはしない。
どれほど大切なものだろうと、それをどれほど守りたいと願っても、時に現実はそれを許してはくれない。
これが物語だったのなら、秩序と約束事に満ちた世界であったなら、きっとレミリアもパチュリーも他の面々も皆無事にあちら側へとたどり着けるはずなのだ。でもこれは現実だ。どうあがいても、不幸なアクシデントという代物が顔をのぞかせることがある。これまでの努力や積み重ねを嘲るように、無慈悲に無秩序に、何の前触れもなく大切なものを失ってしまうことがある。そこに容赦はない。事実は小説よりもずっと冷酷だ。空寒いほどにシンプルで『何でもない』のだ。幸福を願う心も、不幸を厭う念も、そんなものは少しも加味されず、ただ脈々と時間と事象が一方的に過ぎ去っていくだけである。
例えば誰かが大切な何かを失ったのだとしても、きっと世界は待ってくれない。むしろ呆れるほどに普段通りに動いて行く。誰かが死んだ。だからどうした。何かが壊れた。だからどうした。努力をしてきた。だからどうした。ずっとずっと頑張ってきた。だからどうした。それで何か結果に変動が生じるといったような優しい約束事を、現実はちっとも内包してはいないのである。

どうあがいても死ぬときは死ぬ。失うときは失う。
そして死んだらそこまでだ。なくなってしまったものは戻っては来ないのだ。自然を制御する術を持たなかった大昔の人間たちは、今の人間たち以上にそのことをよく理解していたのだろうと思う。
だから宗教を編み出した。
世界を物語的な秩序で包んで、そこに安寧を見出した。
死んでしまったらそこまで、負けてしまえばおしまい――そういう世界観が厭だったから、怖かったから、あらゆる方策を用いて死後の物語を紡いだ。
連綿と生命と存在が継続していく世界観が欲しかったのだ。
でもそれはない。結局は、そういうふうにはならないに違いない。
現実は無慈悲だ。






そしてその現実は大切な友人を、レミリアから奪っていく。






嵐の荒ぶホテルの外――そこに無数の女たちが整列していた。
修道女のような装いをしている者たちであり、皆一様に葬列が如き黒に身を染め、個々の差異をその記号としての制服に封じている。
表情は無い。熱くもなく、冷めてもいない。強いて言うならその瞳は狂信の目である。
そして聖者の血を受けた槍が地に突き立てられる。
そこに前触れはない。起承転結などという都合の良いものは存在しない。
不幸はいつも突然に訪れる。
朽ちて使い物にはならなそうな槍の切先から血のような液体が数滴、地面を浸す雨水に滴る。
そしてその数滴の液体は、叩きつける豪雨の中でもその濃度を薄めることなく周囲へと流れ、拡散する。辺りに溜まった雨が淡く赤色に染まり、次の瞬間グリンデンワルド一帯は柔らかな光に満たされた。
それは人間が見れば優しいと感じるようなものだったのかもしれない。
だが夜の種族にとってその光はどこまでも忌避すべき輝きである。
それがスイス高地の静かな夜を、淡く照らし出したのだった。






それから数十分ばかりの後――
気を失ったパチュリー・ノーレッジを抱えたレミリア・スカーレットは、血塗れのまま泣き叫び、嵐の中へと消えた。






* * *






「逃げられてしまいましたか……」

迎えのリムジンの中に運び込まれ復活をした伯爵は、即座に苦渋に満ちた表情をした。
礼服は見る影もなくずたずたになっている。紅美鈴にやられたのだ。
あの刃の嵐すら紅美鈴は退け、アルルの包囲網はとうの昔に突破されていた。伯爵はその逃げる彼女と戦い、負けた。
一矢報いはしたが、そんなことはどうでもいい。
これでまた状況は振り出しに戻ってしまったのだ。

「すまない……私は止めることができなかった」

伯爵は向かいに座りアイスココアを黙々と飲む少女に低頭した。その彼女の服も伯爵同様に無残に破れているのだが、やはり身体に傷は無い。
紅美鈴を取り逃がしたことにより、この少女が接収される可能性は一段と増した。
いっそのことこの少女を連れて逃げてしまおうかとも思うが、それは到底無理というものだ。
逃げて逃げおおせるような甘い組織ではないということは、そこに所属する伯爵自身が一番よく理解している。

「伯爵様」

運転席と客席を分かつシャッターが開き、助手席の女性が顔をのぞかせる。

「どうしました?」
「たった今報告が入りました。教会がレミリア・スカーレット及びパチュリー・ノーレッジの両名と接触したとのことです」
「何だと?」

――まさか

最悪の可能性が伯爵の頭をよぎる。

「場所はスイス、ベルナーオーバーラント地方……魔女狩りです」

血の気の少ない伯爵の顔が、より一層に蒼白になる。そして――

「あの愚か者共が!」

伯爵は激昂した。
彼が部下の前でそうした態度を見せることは非常に稀なことであり、報告をした女性はおののいた。
だが少女は表情一つ変えないでいる。

「……失礼、それでパチュリー・ノーレッジは無事なのですか?」

すぐさま伯爵は落ち着きを取り戻した。
ただそれはあくまで傍から見てそう見えるというだけのことであり、彼の内心では怒りだの焦りだのといったものは変わらず渦巻いている。
これがもしもパチュリー・ノーレッジの凶報であったなら――終いだ。七耀の魔女の終わりは、この少女の終わりでもあるのだ。

「両名が宿泊していたホテルの一室は血塗れだったそうですが、これは審問官たちの血だそうです。どうやら襲撃自体は退けたようですが――」
「ですが、なんです?」
「聖痕がパチュリー・ノーレッジに――」

――スティグマだと?

それは教会の人間たちからしてみれば聖なる代物だが、夜の種族たちからしてみれば呪いにも等しい。
あのレミリア・スカーレットをいかにして抑え込んだのか、またどうやって両名の動向を察知したのかは知れないが、この際それはどうでも良いことである。

「焼かれたか……効果は?」
「内部からの魔力蝕害かと思われます」

ならそれは死の宣告だ。
魔法使いとはその存在を魔法の力に憑拠している者を言う。だからその魔力が蝕まれるということは、少しずつ死に近付いていくことを意味する。いわば遅効性の毒のようなものである。七耀の魔女は今ゆっくりと殺されている最中ということなのだろう。
そして――

「くっくっく……」

伯爵は静かに笑みを浮かべた。
それを見た部下の女性は一瞬顔をしかめる。元が人形じみているからだろう、そうした笑みを浮かべた際の伯爵の面相はこの上なく冷酷なものを感じさせる。凶相の類である。

「教会もたまには役に立つことをしてくれる」

魔力の侵蝕に抗うための覿面な手段を石工は有している。紅美鈴にも告げた、かの神殿である。
つまり――交渉材料が増えたのだ。さらにことによっては一行のあちら側への越境に支障が生じるかもしれない。

「は、伯爵様……」

恐る恐るといった様子で女性がたずねる。

「どうしたのです? 怖いものでも見たような顔をしていますよ?」

そう答える伯爵の顔をすでに普段の穏やかなものに戻っている。部下は少しほっとしたような表情を見せて報告を続ける。

「どうも現地から気になる情報が入っていまして……未確認ではあるのですが、教会の包囲網を崩した第三者が存在するとのことです」
「第三者? 我々でもなく、スカーレットの一味でもなく?」
「はい。黒服を着込んだ女だったそうですが、どうもですね……いや、これは……」

部下は言いにくそうにしている。何か報告するのがはばかられるような内容でも含まれているのだろうか。
そう思って伯爵が部下を問いただすと――

「いえ、報告に信憑性が乏しく、お耳に入れるべきなのかどうか判断に迷いまして」
「構いませんよ。与太話ならその与太を楽しみますから」
「……実はその女には金色の尾が生えていたという証言が入っておりまして」
「金色の尾?」

何だそれは?

「それも九本、生えていたと」
「まさか――『白面』ですか?」

混乱する。与太どころの騒ぎではなかった。
もしその第三者とやらが伯爵の想像した通りの輩なのだとすればことである。
白面――ユーラシア大陸を股にかけ怪異をなした傾城傾国の妖魔。
そして、ただの一人で八万の軍勢を退けた極東史上最悪の妖獣である。
なぜそんなものが欧州にいるのか。そしてなぜ教会の行動を妨害するのか――否、教会の邪魔などはいくらでもやってくれて構わない。だが、それがスカーレット一派に手を貸したが故の行動だったのだとすれば、これは厄介である。その場合は伯爵たちにとってもそれが敵たり得るということになるからだ。
大体あれは殺生石なる石に封印されていたはずだというのに。
誰かが封印を解いたのだろうか? 仮にそうだとしてもなぜこのようなことをするのかは分かりかねる。

――まさか……

向こう側もあの一家を引き込みたがっているということか?
もしそうなのだとしたらそれは彼我の間でのパチュリー・ノーレッジの奪い合いへと発展する可能性がある。
あの場所の管理者である『八雲』は外部への干渉については非常に慎重だ。それにまつわる情報は決して多くはないのだが、これまでのいくつかのケースからそのことは容易に見て取れる。今回もおそらくはいきなりパチュリー・ノーレッジを略取するような真似はしないはずである。
無論白面の裏に八雲がいるのかどうかは現時点では判断できないのだが、伯爵はその可能性は高いと踏んでいる。

八雲がこちら側に積極的な干渉を行うことはほとんどない。それが必要な場合は高確率で別の者を動かす。自身はよほどのことがない限りは動かない。
そしてそれは当然のことだろうと伯爵は思う。
報告されている八雲の能力を鑑みるに、それはあまりに強力すぎる代物であるとしか思えないのだ。本来分立されていてしかるべきありとあらゆる権限が、しかしその一手に集約されてしまっているのだ。そして大方において権力の集中はろくな結果を招かない。
いたずらに力を振るってよい立ち位置であるとは到底思えないのである。非常に強力であるが故に危険なのだ。使い方を誤れば、それがそのままあの場所の崩壊へと通じるような力である。少なくとも当の本人はそれを自覚しているのだろう。

なら何かの目標を達成するために八雲はどう動くのか?
伯爵はそれを考える。
例えば仮に幻想郷とやらが何者かの所業により危難に晒されたとする。一刻も早くその状況を打破しなければならないような状況だ。
しかしたとえそうであっても八雲は最後の最後、ぎりぎりのところまで自身が動こうとはしないのではないだろうか?
誰か別の者を謀るなり何なりして差し向けるか、あるいは最悪自分が動かなければならなくなったのだとしても『誰かに負けて仕方なく動いた』という建前めいたプロセスをたどるのではないか? 自身が動くための理由を構築するために、自身を打ち負かすことができると踏んだ何者かのもとを訪れるのではないか?
そういう勿体ぶった約束事やら手続きやらは時代の潮流の中で薄れ忘れ去られつつあるが、しかしあの場所は古き場所だ。
そして同時に、結界をもって非常に明確な形で外部と内部の間に線引きのなされた世界でもある。排外的というのとは少し異なるが、外部の存在を内部へと越境させることにつき慎重になるのはむしろ当然の帰結であると言える。我々の世界においてすら、今なお国から国へと移動するならば多くの手続きと事前の学習をなさなければままならないのだから、あの古き閉ざされた世界ならばなおのことである。

――要するに

恐ろしく回りくどいのだ。
そしてその回りくどさを欠いてしまえば、彼女は管理人からただの独裁者へとなり下がるのであり、故にそこには一種の矜持のようなものがあるのだろう。
だから八雲が『神隠し』をパチュリー・ノーレッジに仕掛ける可能性はもちろんゼロではないのだが、現時点での可能性はまだ低いとの判断を伯爵は下す。
こちら側の言葉をもって語るなら、亡命の受け入れは慎重になすべきであるといったところだろうか。亡命者を積極的に受け入れることが、ある種の政治的軋轢に繋がることは往々にしてある。そしてそれは単に相手国との関係においてのみならず、自国内での論争にも発展し得るのだ。
だが逆に勝手に逃げ込まれたのなら、知らぬ存ぜぬを押し通せる。そのための経路作りこそが今回の白面の一件だったのではないだろうかと伯爵は思うのだ。狡猾なことである。

「それにしても……まったく、面倒なことになりそうですねえ」

物憂げな表情で伯爵はアイスココアを飲む猫舌の少女を見やる。
小さな両手でコップを挟み込むようにして飲んでいる。それが何ともいじらしい。
伯爵はその彼女を助けたいと思ってはいるが、そのための障害は依然として多い。それらをすべて排するための手段を講じなければならないとういことなのだろう。
ことによっては件の白面を始めとする、八雲の送り込む幻想勢力との交戦も十分に考えられる。

「あー、そこの貴女」

部下を呼ぶ。

「グランドロッジに連絡を入れなさい。ことによってはアポロ計画で使う予定だったものを投入することになるかもしれない、と」

そう部下に伝えると伯爵は少し弛緩して、リムジンの席にもたれかかった。そして少女の方を見る。
その少女はアイスココアを飲み終わったようだったが、まだ何やら物欲しげにしている。

「お代わりですか?」

伯爵がそうたずねると、少女はこくりとうなずいた。それを受けた伯爵は薄っすらと微笑む。
そしてかつてサン・ジェルマンと呼ばれていた男は再びアイスココアをコップに注ぐのだった。



(⑤へ続く)
突っ込みどころが多すぎるわ。どうもお久しぶりです。四章目なので高確率で始めましての方はいないはず。副題は削りました。場所取るし。バトルもついでに端折りました。ネタ切れるし。
まあたまにはこんな美鈴姉さんもありでしょう(ねえよ)。
悪ノリの塊ともいうべき章ですが、キリスト教を貶める目的で書かれたものではありません。そこだけは割と本気で。

変な用語は、大方は実在のものらしいです(マイナーだけど)。胸甲騎兵連隊とかアルファオメガとか、たいへん中二魂をくすぐられる名称なのでついつい使ってしまった。反省はしている。エニグマは天鵞絨少女とあわせてちょっとした稀翁玉へのオマージュ。
それと『神殿』がどうのこうのとぬかしていますが、これは単に「どうせ魔法使えないんだからパチェをゲットしても仕方ないじゃんか」という陥穽回避のための方便であって、全然どうでもいい設定です。ヒラム・アビフとかは出ません。たぶん。
本当はお嬢様がタンクローリーをぶん投げたり、美鈴がミスカトニック大学附属図書館に潜入したり、パチェがヴァチ○ンにさらわれたりとダメ展開満載だったのですが、どう考えても書いている奴だけが楽しいシステムなので止めました。

オーベロンとティターニアはシェイクスピアの『夏の夜の夢』から、大ちゃん呼び出し時の詩はおなじくシェイクスピアの『テンペスト』から拝借しています。あと前章のみすちーの歌はハイネの詩から同じく拝借。図書館とウィキペさんは良いものです。特殊部隊とか銃器とかは書き始めてから調べたのでぶっちゃけ何も分かりません。BARはブラクラで見かけたからという軽い理由で採用しました。

最後に……『ゴエティア』『エジプト』というワードでお気付きになった方もいらっしゃるかと思いますが、書いた奴は小悪魔の正体を例の72体ばかりいる悪魔群の中から持って来ています。それは次章でそれとなく。
ただそれを友人に見せたところ、作品集22・23の『小悪魔 綺譚』『こあくま きたん』(どちらも葉爪氏の作品です)と凄絶にネタがかぶってしまっていることが判明致しまして――しかしこの設定を無しにすると今後の話の進行に支障をきたすのも事実であり、誠に申し訳ございませんがネタの重複は承知した上で、あえてその設定を削ることは致しません。ご了承ください。ほんとにごめんなさい。

追記:⑤は作品集64にさりげなく。昔話タグで呼ばれて飛び出て、よろしければどうぞ。
ごんじり
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コメント



0.3230簡易評価
3.100謳魚削除
>「軽く制動を加えて持ち直すして~」→「持ち直して」ではないかと。
こんな美鈴も有りでオッケイです。
本当に色々入ってて八割位分からないのですがそれ以上に『楽しい、読みたい』気持ちが優先されているので無問題。
次回も必ず読みに来ます。
6.100名前が無い程度の能力削除
美鈴が主人公属性過ぎるw
途中から●ディフェイスを読んでいる気分になった
実に面白いので続きも期待
14.100名前が無い程度の能力削除
期待期待
16.70名前が無い程度の能力削除
①から読みました。ほとんどのキャラが素敵に絡んできてワクワクです。ナイス東方。
最後の方、封印を説いて→解いて
ですね。通例どおりの意味ならですが。
19.100名前が無い程度の能力削除
待ってました。
続きも待っています。
25.100名前が無い程度の能力削除
美鈴かっこいいよ美鈴!
続きを待っています。
28.100名前が無い程度の能力削除
まさか、チルノがそんな……!
ところで時間停止中にスカルプチュアしたらどうなるんでしょうね?
停止が解かれると同時に切り刻まれる? 同時にやるには力が足りない?
ああしかし、自分が知ってる別分野の単語見かけると私の中二魂もくすぐられます。
続編お待ちしております。
31.90名前が無い程度の能力削除
今作も非常に読み応えのある作品でした
小悪魔、エジプトと読んで後書きを見た瞬間にニヤニヤしだした自分が気持ち悪くなりましたよw
批評としては、時間軸が作品ごとに行ったり来たりしているので読みにくいかな、と思いました
32.100名前が無い程度の能力削除
待ってました
36.100名前が無い程度の能力削除
正直独りよがりが過ぎる場面が目立ちます。
あなたの世界観を展開するのは結構ですが、それが物語の進行を阻害してしまうのであれば、その箇所は物語にとって毒でしかありません。
物語にとって必要な箇所と、必要でない箇所をもう少し見極めるべきだと思います。
要するに冗長が過ぎるという話です。
39.100名前が無い程度の能力削除
たのしみにしてました
凄く面白かったです。
私的な意見ですけど、伯爵とエグニマの人間描写がもう少しほしかったです。
つづき、楽しみにしてます!
42.100名前が無い程度の能力削除
ソーロモーン!!想像通り好きで読まないと読んでられない展開になってまいりました!!
処理される伏線の数と追加される伏線の数のバランスが良過ぎてたまりません。
これからの展開と構成を想像するだけで脳からヤバげな液体がドバドバ出てきます。
50.無評価ごんじり削除
お読み頂きありがとうございます。正直やりすぎたかなあと反省しています。人はそれを手遅れと呼ぶ。

>>3の方、>>16の方
しばらくパソコンに触れられない状態だったので修正に時間がかかってしまいました。ごめんなさい。

>>36の方
ご批評ありがとうございます。そしてごめんなさい。頑張って軽量化に励みます。
ちなみに特にどの辺りが毒だと感じられたか指摘いただけると書いた奴が喜んだり落ち込んだりします。

>>39の方
オリキャラなんで、文量を割くのに抵抗感がありまして……
52.100名前が無い程度の能力削除
いやはや、もう滅茶苦茶面白かった。
続きもとても楽しみにしています。
53.90名前が無い程度の能力削除
大江戸線のトンネルに潜り、あずさに乗る早苗さんといい、ユングフラウに乗りホテルに泊まるレミパチェといい、アルルで某エージェントも真っ青の逃走劇をする美鈴といい、
貴方はどうして幻想の方々をここまで現実世界に生き生きと書き出す事が出来るのか。
まさに「世界を創る程度の能力」。 完結まで突っ走ってください。
ここからどうやって幻想郷に持って行き、吸血鬼条約まで持っていくのか、非常に期待しています。

小悪魔は、まあ仕方が無いでしょう。例の72悪魔は余りに有名ですし、外見や性質が色々と一致する部分も多いので。

ちなみに、銃器に関してはこんなサイトがあります。
銃器としての特徴だけでなく、どの作品に登場したかも分かる、便利なサイトです。参考までに。
ttp://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/?MEDIAGUN%20DATABASE
54.無評価ごんじり削除
>>53の方
サイトの情報ありがとうございます。今後は話のメインが幻想郷になると思いますので火器類がまた幅を利かせるかどうかは未定なのですが、その際には参考にさせていただきます。
55.100名前が無い程度の能力削除
なぜ、何故なのだ!!
何故誰もパチェとレミィのイチャイチャを褒め称えないのだ!!

…それはともかく、東方SSの続き物ではこのシリーズが一番好きです。
これからも幻想の境界を揺さぶるような、ドキドキの物語を期待してます。
56.100死にかけの外道削除
今の世の中、調べれば大抵のことが分かるとは言え作者様の知識量に感服。
趣味に神話研究とか書く私としましては、貴方様と色々お話しがしたく。
早い話がごんじりー!俺だー!結婚してくれー!(ぉ

この大風呂敷をどの様にまとめ上げるか、楽しみにしておりますw
57.100名前が無い程度の能力削除
こう言う作品ではいつもの事だけど、教会は本当に嫌われてるなw
66.100名前が無い程度の能力削除
ああ、面白い!
74.100名前が無い程度の能力削除
美鈴が格好いいですね。
それにしても、こういう大きな話はやっぱり大好物です。
77.100名前が無い程度の能力削除
美鈴のアクション大活躍編とレミパチュのラブラブ旅行編、
どっちもたいへん堪能しました。
それにしてもキャラ立ちすげえ。アクションすげえ。この熱さがすげえ。
のめりこみます。
78.100名前が無い程度の能力削除
今一番楽しみなシリーズです。
天鵞絨少女とエニグマティクドールといえばvivitは赤髪メイドでここの美鈴っぽいしミューズも咲夜に似てるよなぁ。