お天道さまが爛々と照らしている昼下がり。
最近寒くはなってきたけれど、まだ冬というには早過ぎる頃。
といっても、朝や夜の冷え込みは厳しく、吐く息も白い。
早起きしての境内の掃除も、そろそろ辛くなってきた。
しかし、この季節の掃除が一番大変だった。
数日放っておくだけで、境内は朱色の天然ベッドに覆い隠されてしまう。
それを喜ぶ不届き者も博麗神社にはよく訪れる。
でも、落ち葉を撒き散らしてはしゃぐぐらいなら手伝って欲しい。
――秋。
一年の中でもっとも過ごしやすい、穏やかな季節。
もうそこまで来ている冬を思えば憂鬱になるけれど、しっかりと備えをしていれば何も怖くはない。
それに先のことを考えて憂鬱になるよりも、今はしっかりと秋を楽しみたい。
先日里に出向いたときは、子供たちが落ち葉を集め、それを保護者らしき女性が火を起こして芋を焼いていた。
いい匂いに惹かれてしまったせいで、買う予定のなかった芋を買う羽目になった。
でも、美味しかった。
神社に溜まった落ち葉の活用法も、せいぜい芋を焼くくらい。
落ち葉を無駄にしないためにも、薩摩芋は買い溜めした。
「ふわぁーあ。眠い」
縁側でお茶を一口啜る。
誰も訪れないようなら、上がってきた気温と共に昼寝をすることに決めていた。
くしゃみをしながら寝る夜や、鼻が冷たくて起きる朝よりも、昼寝のほうがよっぽど健全。
そんなことがまかり通る、のんびりとした季節だった。
「ごきげんよう」
ベロンと宙が裂け、中から見慣れた顔が出てくる。
「帰れ」
「ひどっ!」
昼寝をすると決めたところにやってくるほうがよっぽど悪い。
傷つくわーと、心にもないことを言いながら、体を隙間から出す紫。
どこかで監視しているんじゃないかと思うぐらいに間が悪かった。
「隣、いいかしら?」
「いいけど」
別に紫のことは嫌いじゃない。
かといって、特別馴れ馴れしくしたいとも思わないし、それを紫も望んでいないと思っていた。
「お茶、いただいてもいいかしら? ちょっと喉が渇いちゃって」
そういって紫は、喉に手を当ててわざと涸れた声を出した。悪趣味だ。
「出涸らしでいい? というかあんたは、それで十分」
「やっぱり霊夢は、私に冷たいわー」
泣き真似をされても呆れるだけなのだが、紫は呆れる様をむしろ楽しんでいる節があった。
これ以上構っても、逆に喜ばせるだけ。私はそう判断し、茶を沸かしに行くことにした。
私は、一日に数え切れないほどお茶を飲む。
縁側に座ってお茶を飲み、ぼんやりと考え事をする以上の幸せが、この世にあるとは到底思えないからだった。
それに匹敵する幸せといえば、例えば芯から冷え切ったときに浸かる風呂や、皆で囲む暖かい鍋……。
ああ、本格的に冬が来たら、魔理沙やアリス、他にもいろんな輩を呼んできて鍋をつつこう。
紫も誘えば、きっと喜んでやってくるはずだ。
そうこうしているうちに、やかんが鳴き声をあげはじめた。
急須では、茶葉がお湯が来るのを待っている。
早く入れてあげないと。
紫に出すお茶は、客人用の高いお茶。
どうせ出したところで皮肉で返されるのだが、客をもてなさないのも道理に反する。
どうせ紫は、式の淹れるお茶のほうが美味いだのとのたまいつつも、目を細めて美味しそうにお茶を飲むに違いない。
そんな皮肉屋なところは、嫌いじゃない。
「さて、と」
紫の分と、自分の分とで二杯分。
湯飲みに注いだ茶を、盆に載せて歩いていくと、紫は木々の色づいた姿にため息を漏らしていた。
「綺麗よね、この季節の山々は」
「そうね、本当に美しいわ。まるで私みたい」
「お茶ぶっかけてもいい?」
「ダメよ、私は喉が渇いているっていったでしょう? れーいーむーがーいーじーわーるーよー」
「うっさい、黙れ」
「しゅーん」
全く反省の色が見えない紫にため息を吐いて、湯のみを差し出す。
ふーふーと息を吐いて、湯飲みに口をつける。
紫は猫舌なのだ。
そして、一口飲んでから、ほぅと大きなため息を吐いた。
こうやって、誰かとのんびり過ごすのも悪くはない、紫の横顔を眺めつつ私もお茶を一口飲む。
「あ、そうそう霊夢。私そろそろ死ぬからー」
含んだ茶を、思いっきりに吹き出した。
「え、あ? ちょ?」
「だから、死んじゃうの」
ケラケラと笑う紫。
油断していれば、聞き流してしまうぐらいに何気なく言ったくせに、内容は冗談としては重すぎる。
「で、どうして死ぬの? 老衰とか?」
「ひどくないっ!? 遠まわしに年増って言ってるんでしょ!!」
紫は頬を膨らませて、ぷいっと顔を背けてしまった。
もちろん本当に怒っているわけではないことぐらい、わかっている。
紫が本当に怒っているならば、まるで深淵から覗かれているかのような不気味さと、
背筋が凍るような圧迫感に襲われるのだ。
けれど、怒っていないからといって、それがつまり嘘となるわけでもなく。
何気ない仕草の中に隠されたサインに、私は気づいてしまった。
紫の金色の瞳が、哀愁の色を帯びている。
ただそれだけのことだけど、私の知っている紫はそんな表情を見せたことがなかった。
とにかく胡散臭くて、横暴で、わがままで、それでいて、誰よりも優しくて……。
(もしかして、紫は本当に?)
いくら長命の妖怪といえども、いずれは滅びてしまう。
ただ、短命の人間――私に生きている間に、それがくるとは思っていなかった。
私がこの世を去ってからも紫は生き続けて、いつか私のことを忘れてしまう。
そんな、想像もつかない未来になってから、ようやく紫は死んでしまうのだと、そう思っていたのに。
すっと手が伸びてきて、抱き寄せられてしまった。
「だから霊夢。デートしましょう? ね、お願い」
「うー」
悪戯めいた瞳で、紫が囁いてくる。
その瞳で見つめられるのが怖くて、顔を伏せる。
どうして死んでしまうの? いつ、いなくなってしまうの?
そんな言葉たちが、喉に引っかかって出てこない。出てきて欲しくもない。
体がガタガタ震えてきた。怯えているのが、伝わってしまう。
不安でどうしようもなくなって、もう一度紫の顔を見た。
紫は、柔らかく微笑んでいて、背中をぽんぽんと叩いてきた。
母親みたいだとぼんやり思い、急に恥ずかしくなって体を離す。
「うん、わかった、今日だけ付き合ってあげる」
「ずっとあのままでも良かったのに、残念」
「うるさいっ!」
紫は傍らに置いてあった日傘を持って歩きだし、数歩歩いたところで振り返った。
「ねぇ、どこに行きたい? 里? 竹林? それとも、とっておきの場所がいい?」
「別に、そんなのあんたに任せるわよ」
「じゃあ、全部っ!」
紫が手を振ると、手の軌道に沿って亀裂ができた。
「行きましょう、今日という時間はあまりにも短いわ!」
紫がいつも通りなら、私もいつも通り振舞おう。
そう、決めた。
◆
隙間を抜けると、そこは里からほど近い街道だった。
やっぱりこの隙間は便利だ、少し気味が悪いけれど。
神社と里には、一日仕事を覚悟してしまう程度の距離があって、よほどの用事がなければ行くことを躊躇してしまう。
「便利だなぁー」
半身を乗り出して感想を漏らしていると、尻を撫でられた。
「セクハラはいいから」
「じゃあさっさと出てよー、後がつかえてるのー」
妖怪尻触りが嬉しそうにでてきやがったので、お返しに尻をつねってやった。
ぷるぷる。
「それで紫、どこいくの?」
「あん、お尻はだぁめ。とりあえず美味しいものでも食べない? どうせ霊夢のことだし、おやつ兼夕食とかいってお芋を焼いてそう」
「何そのイメージ」
でも、本当にそうだから、それ以上は何も言い返せない。
昨日は誰も神社に来なかったので、集めた落ち葉でお芋を焼いた。
寒いから布団に潜り、お芋を頬張っているうちに眠気がきてしまった。
気づけば、朝までグッスリ眠っていた。
そういえば以前、魔理沙に天高く霊夢肥ゆると揶揄されたが、たしかに最近腰まわりが……。
「霊夢ー? どうしたの?」
急に顔を覗きこまれて、一歩後ずさってしまった。
今は自分の体重について考えている場合じゃない。
「さ、いきましょっか」
紫に手を引かれて里のほうへと歩いていくと、向こうから知った顔が歩いてきた。
見間違うわけもない、魔理沙だった。
こんなときに会うのも嫌だなと顔を背けていると、紫が余計なことに声をかけやがりました。
「お久しぶり魔理沙、元気そうね」
「あ、ああ。えっと、お前たちは、デートか?」
「そ、霊夢は今日一日私のものなの」
そういって紫が、私に抱きついてきた。
「……抱きつかないでよ」
「あ、ああそうかい」
横を通り過ぎるとき、お前も大変だな、と魔理沙が耳打ちしてきた。
たぶんそのとき、私は変な顔をしていたと思う。
魔理沙は私の様子に首をかしげつつも、急ぎ足で里の外へと立ち去っていった。
一体、どうやって弁解しようか。
「ちょっと霊夢。ぼーっとしてないでよ」
少し意識が逸れただけで拗ねてしまった。
まるで子供みたいだと呆れつつも、紫には時間がないのだろうということを同時に感じ取ってしまった。
もう、どれだけ残っているかもわからない貴重な時間を、一秒も無駄にしたくはないのだろう。
ぐっと口元を締めてから、紫の手を握りしめる。
「恥ずかしいけど、繋いだままでいいよ」
「んっ、霊夢可愛い」
「うっさい、黙れ」
これ以外もあれこれ喋った気がするけれど、あまりよく覚えていない。
というのも、紫がいない冬の鍋のことだとか、式たちの身の振り方はどうするのだろうだとか。
あれこれ余計なことばかりが頭に浮かんできた。
けれど、紫の表情はいつも通りと何も変わらない。
きっと、できる限りの手は打ってきているのだろう。
結界の管理も、今でも補修程度は藍がこなしている。
本格的におかしくなろうとも、そこは博麗の巫女がカバーすればいい。
そう思っているうちにふと、一つの仮説が浮かんだ。
(もしかしたら、役割を終えてしまったから?)
もちろん仮説を直接問い質す気はなかった。
もう、どうしようもないのなら、紫のしたいようにさせてあげたい。
最期の時間を自分と過ごしたいというのなら、それに協力してあげるのが友人としての務めだ。
「何食べる? お団子とか? 夜は連れて行きたいところがあるから、軽めにしましょう」
そういって紫はめくばせをしてきた。
正直胸がいっぱいで何も入る気はしなかったけれど、紫があれこれと薦めてくるから、ついに根負けしてしまった。
いつのまにか腕の中にはお餅やお団子、よくわからない雑貨まであれこれと溜まっていった。
どうも紫は、物を買い与えることが楽しくてたまらないらしい。
「ねぇねぇ霊夢、このかんざしなんてあなたに似合うんじゃない? リボンじゃなくてかんざしにしなさいよ」
「嫌、弾幕ゴッコのときにはリボンでまとめておいたほうが楽なの」
「むぅ、でも買っちゃうから。霊夢が御洒落したいなーって思ったときに、何もなかったら不便だもの」
「はぁ」
この調子である。雑貨屋で買った、刺繍入りのバッグの中身は生活用品ですでに満杯。
そんな紫はいま、切子細工に夢中になっている。
「綺麗。見て霊夢、ちょうちょが柄になってるの」
「ふぅん」
「買っちゃおうかしら。それで、博麗神社に置くの。ねぇ、いいでしょ?」
「いいんじゃないの?」
「じゃあ、買うわー」
紫の残滓という言い方もおかしいが、思い出になるものを残しておきたかった。
口や態度にはもちろん出さなかったけれど、紫がいなくなったら、寂しい。
ポッカリと胸に、人生が終わるそのときまで埋まらない穴が空いてしまう。
泣いてどうにかできるのだったら、10リットルだって涙を流してやる。
でも、そんなに都合のいい奇跡なんて転がってるわけもない。
(それにしても、一体どれだけ買うつもりなのよ……)
どこから資金が出ているのか、店の中を全て買い占めるぐらいの勢いで物をあれもこれもと買っていく。
店主はほくほく顔だが、明日から店は開店休業状態だろう。
本当に必要にしている人が不便を被りそうだと思ったが、紫はそんなことを気にする様子もない。
しまいには、持ち歩くのが無理と判断したのか、割れ物でないものはポイポイ隙間へ放り込みはじめた。
なんでもかんでも置かれてしまうと居住スペースもなくなってしまうが、どうせ魔理沙あたりが持って行くだろう。
時間が経てば、大抵の困りごとは解決する。
時間が経ってしまって、大事なものを失うことも良くある話だけど。
(レミリアだったら咲夜だとか、守矢の神様たちだったら早苗とか)
そう考えるのは傲慢すぎるかもしれないとも思う。
妖怪の価値観というのは人間のそれとはかけ離れているわけで、人間の感覚が通じるとは限らない。
といっても私自身、「霊夢って変わってるよな」と笑われたりもするので、一般的な感覚かは怪しいところ。
紫がいなくなっても、魔理沙や咲夜は普段と変わらないのかもしれない。
もしかすると、私も。
「いっぱい買っちゃった」
照れた子供みたいな笑顔を向けてくる紫。
買いすぎだって諌めようかとも思ったけれど、この笑顔に怒る気にはなれなかった。
けれど、
「霊夢これ似合うわぁ」
「……」
着せ替え人形のようにされて、あれもこれもとおよそ着る機会のないであろう衣服が積まれていく。
普段から身なりは気にしていないため、なんだか落ち着かない気分だ。
げんなりしていたところに、今度は化粧を施される。
「霊夢は可愛いから、変にいじるよりも少しだけのほうがいいわ」
「うーん」
鏡を見せられると、そこには見慣れない女が立っていた。
大体いつも眠そうにしているか、飲み会明けで屍になっているかのどちらか。
鏡で見る自分は大体そんなもので、このように着飾った自分には、違和感を覚えた。
「デートなんだから、気合入れてもらわないと一緒に歩く私が嫌よ」
紫は目を細めて、口元を扇で隠す。
ちょっとだけムッとして、応戦してしまう。
「別に、嫌とはいってないじゃない」
「でも、なんだか渋い顔をしてるんだもの。紫悲しい、およよ」
「むぅ」
紫の嘘泣きは無視して、ためしにくるりと回ってみる。
鏡の中では、ヒラヒラのドレスを着た、仏頂面の女の子が回転していた。
やっぱり、違和感がある。
「ねぇ、巫女服でいいんじゃない」
「ダメ。女の子女の子してる霊夢が見たいの」
絶対面白がってる。
まさか自分が、紫みたいな、動き辛い格好をすることになるとは思わなかった。
スカートの端をつまんであげてみると、鏡では硬い表情の女の子がスカートを上げている。
作り笑いをしてみると、知らないお嬢様がこんにちは。
その姿にふと、初めて会ったときの紫を思い出した。
八雲藍のそれとよく似た導師服に身を包み、穏やかに日傘を構える姿。
余裕と、気を抜けばそのまま飲み込まれかねないプレッシャー。
決して底を見せぬ紫に対し、最終的には勝利を手にしたけれど、出し切った自分に対してまだまだ紫は余裕の表情だった。
後にも先にも、気持ちの悪い汗が常に滴る戦いは他にないと断言できる。
レミリアと、紅の月の下で戦ったときは、まるでワルツを踊っているように穏やかだった。
弾幕は苛烈で、相対する吸血鬼は狂気にも似た狂喜を謡っている。
心はいつか異変を忘れ、ギリギリの緊張感を楽しむ。
音は消え、心臓の鼓動だけがやけに大きかった。
冥界の姫に挑んだときは、美しい弾幕の調べに酔いしれた。
雨のように不規則で、隙間なく降り注ぐ蝶の群れを掻い潜ったときは、体の芯から熱くなった。
二匹の蝶が舞い遊ぶように、絡み合う様は甘く、恐怖は欠片も存在しなかった。
月がおかしな表情を見せた夜。
あんなにも恐ろしかった紫に背中を預けたとき、なぜか泣き出しそうになった。
月の姫とその従者、たしかに強敵ではあったけれど、微塵も負ける気はしなかった。
まるで百年来のパートナーのようにピッタリと、独りで戦うときの何十倍も心地よかった。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「別に、なんでもない」
感極まって泣きそうになったことを懸命に隠して、紫に強がってみせる。
知り合ってまだ数年、そもそも妖怪に対して思い詰めるなど、私もどうかしてしまったのかもしれない。
私の取り繕いを紫はそのまま受け取り、微笑んだ。
「それ、似合ってるわよ」
必死で表情を作らないようにしたのだけど、仮面は被りきれなかったらしい。
「あ、霊夢が笑った」
「これ、買うから!」
けらけら笑う紫を無視して、店の外へと飛び出した。
頬が、燃えるように熱い。
ほどなくして会計を済ませた紫が、少し離れたところで独り言を話し始める。
「霊夢はどこに行ったのかしら。そこのお嬢さま、巫女服を着た黒髪の女の子を知りませんか?
あなたみたいにおしとやかではなくて、かといって活発でもない変わった子なんだけれども」
「そんな子知らないわ、あなたに愛想を尽かせて神社に帰ったんじゃないの?
少なくともその子は、からかわれるのが好きではないと思うから」
「そんな、私の目も曇ったかしら。あなたはおしとやかだと思ったのにとんだ皮肉屋だわ。
まるでいなくなった女の子を見ているみたい。もうこの際貴女で構わないわ。ねぇ、ご飯を食べにいかない?」
「皮肉屋を食事に誘うだなんて、貴女も変わってるのね」
「ええ、じゃなかったらデートに誘うわけないじゃないの」
寸劇を終えると、いつのまにか、空がオレンジ色に染まっていた。
買い物に付き合わされているうちに、日も落ち始めたようだ。
「あら急がなくっちゃ、真っ暗で何も見えなくなっちゃうわ?
そうなったら、女の子は出歩けなくなるものね」
そういって紫は、腕を絡ませてきた。
「女同士でこういう風に歩くのって……」
「いいじゃない。仲が良いんだなーって思われるだけよ」
里に入ったときから、男性の視線が痛いほど突き刺さってきた。
一人で来るときはそういう視線は感じないから、きっと、隣に居る紫が原因なのだろう。
紫は綺麗だ、人を狂わせる美貌を持っていると思う。
とくに羨ましいとは思わなかったけれど、女がそれを占有しているとなると、奇異の視線が自然と集まってしまう。
「ねぇ霊夢、今夜は連れて行きたいところがあるの。
だから、夜雀の屋台で八目鰻を包んでもらいましょう?
そうしたら、とっておきの場所に連れて行ってあげるから」
「はいはい。下手な小芝居はやめてよ、大体あんたが歩けなかったら。
夜中は人っ子一人出歩けない凄まじい場所になるわ」
「しゅーん、紫はか弱い女の子なのに」
「うるさい、黙れ」
ポカっと頭をはたくと、紫はいよいよ涙目になってしまった。
ひどいひどいと泣き喚きつつも、しなだれかかってくるあたり、段々手に負えなくなってきた。
引き剥がそうとしても離れようとしないので、仕方なく引きずって歩く。
(ホント、なんでこんな奴が怖いなんて思ったんだろ)
嘘泣きをやめた紫は、隙間から取り出した大福もちを頬張っている。
視線に気づいて、食べかけの大福を差し出してくるあたり、反省の色がまったく見えない。
仕方ないのでもう一度鉄槌を頭に落とすと、今度はわざとらしくシクシクと言い出した。
きっと紫の脳内は、誰かを困らせることが九割九部占めていると思う。
式を引き連れ、天人を叱り付けたときの態度を普段から取っていれば、慕う者も多いと思う。
でも、友人からして不真面目を妖怪や幽霊にした連中だから、ため息が出る。
ギャップが魅力といってしまえばそれまでだけど……。
(ずっと、こんな調子だったのかな?)
そういえば、知り合う前のことは全く知らなかった。
知り合う以前はもしかすると、威厳と恐怖を前面に押し出した妖怪だったのかもしれない。
それは定かではなかったけれど、そんな紫を想像してみろと言われても難しい。
近い空気を紫は持っているけれど、紫には恐ろしいよりもまず、妖しいという表現が一番にくる。
人をいつのまにか、気づかないところまで引き込んでいる。
もしかすると、私もその魔性にあてられたのかもしれない。
(まさか、なんでそんなことを思っているんだろ)
頭を振って、紫のことを見る。
紫はお餅を頬張って、思い切りに引っ張っていた。
「むぐむぐ、お餅おいしいわぁー。ほら霊夢、びろーんって」
「はいはい」
こんなに子供っぽい魔性の女がいたら、それは冗談にもならないと、さきほどまでの考えを一蹴する。
紫に別の顔があったとしても、博麗霊夢から見た紫は、今隣でお餅を伸ばして遊んでいる紫なのだ。
式に叱られ凹みだし、鍋を囲めばコタツですぐに寝てしまう。
宴会を開けば、隅のほうで皆を眺めて微笑んでいる。
のんびり屋でお人良しで、常に誰かをからかっていなくちゃ気が済まない厄介な親友。
日は段々と傾いて、いよいよ妖怪の山へと沈もうとしている。
元より紅い並木たちが、残り火を浴びて一層輝きを増した。
「夜雀は、そろそろ屋台を出すころかしら」
紫が呟いた。
早く行っても仕方ないので、わざとゆっくり歩いていたのだろう。
相変わらず腕は絡ませられていたけれど、今更それに対して、何も言う気にはならない。
「でももうちょっとだけ、夜が深くなってからがいいの。
もう少しだけ、もう少しだけ一緒に歩きましょう?
せっかくの紅葉の季節なんですもの。楽しまなきゃ損よ?」
朱色に溶けていきそうな山々。それを遠くから見ているだけでは、勿体無い気がしてきた。
「じゃぁ、飛ぶ?」
「隙間じゃ勿体無いわよね」
自然と、私は紫の手を引いていた。
自分でも驚いたけれど、紫はもっと驚いていたと思う。
だって、目を見開いて、手と顔を何度か見直していたから。
紫はすぐにニッコリ笑って、引かれるままについてきた。
「もっと高く、上がろう」
里が小さく、遠くなっていく。
鳥が山のほうへと飛んでいくのと一緒に、私たちも緩やかな風に乗った。
燃ゆる落陽。
眼下には、燃え尽きる寸前の輝きを受け、燃え立つ木々たち。
強い風が吹けば、柔らかな紅炎が揺らめき、雲一つない空はそれに染め上げているかのような錯覚さえ覚える。
山に近づくにつれ、優しい紅色が、より一層色濃く揺らめきはじめる。
天狗たちが戯れで、葉を舞い上げているのだ。
隣には、金色の長い髪を垂らし、ため息を漏らしている妖怪がいた。
彼女も、この風景を、目に焼き付けているんだ。
私も、きっと一生忘れやしない。
この、すばらしき日を。
◆
「まいどありー」
夜雀の見送りを受けて、すっかり暗くなった道をいく。
飛んでいけば紫の言う、とっておきの場所にはすぐにつけるだろうけど、それもまた無粋。
紫のしたいようにさせると一度決めたからには、最後まで貫き通すのが博麗霊夢として意地だ。
それが、私の紫に対する義理立てだった。
歩き始めてから、会話は全くない。
けれど不思議と、お互いの間に流れる空気は優しく、柔らかかった。
言葉がなくたって、私たちは通じ合える。
空には、ぽつぽつと星が顔を覗かせはじめた。
こんな時間に、二人歩いているのを見て笑っているのかもしれない。
いつもよりも星の瞬きが、心なしか強かった。
「これから少し、登るわ」
紫の先導で、緩やかな傾斜を登りはじめる。
虫達が、好き放題にリンリン鳴いていた。
木々の間にはもう、漆黒のカーテンが下りていて、一体何が潜んでいるかもわからない。
いまさらそんなことに怯えるほど弱くもない。
むしろ、この道を通り過ぎなければいけないことに、歓喜さえおぼえた。
私は冒険者。
私はもしかすると、霖之助さんのところで読んだドン・キホーテなのかもしれない。
想像だけが膨らんで、ただの山道に楽しみを見出している。
紫は黙々と登っているけれど、疲れた素振りは見せていない。
(さすが妖怪)
一日中歩き回っていると、さすがに少し、疲れてくる。
けれど、余裕を見せて振舞っていないと、きっと紫は楽しくない。
空元気を振り絞って、無理やりに軽い足取りで後ろをついていく。
「ついたわ」
道の途中、どこを曲がったはわからない、茂みを分け入ったその奥。
数本の木が切られ、腰掛けられるよう手の加えられた憩いの場。
「ここはね、藍と橙を連れてたまに遊びにくるの、こっちに来なさい」
言われるがままに、紫の隣に立つと、遠くには里の灯がぼんやりと見えた。
「ここから里を、この幻想郷を眺めるの。薄ぼんやりとしか見えないから余計に儚く見えるけど。
こんなに綺麗な光が、天蓋から降り注ぐの。贅沢だと思わない? すべての営みが一望できるなんて。
……幻想郷は、今にも割れてしまいそうな小瓶みたい。ちょっとした拍子に、全部壊れてしまいそう。
でも私は、この幻想郷が好き、大好き。私のできる範囲で、尽くしていきたいわ」
「……」
何も言うことができなかった。
紫のこの独白は、幻想郷への深い愛情は、何人が知っているのだろうか。
「ご飯に、しましょっか」
夜雀に包んでもらった八目鰻の串と、おむすび。
まだ暖かいそれに齧り付くと、甘辛いタレとクセの強い味が口いっぱいに広がった。
食べているうちに、ツンと鼻の辺りにこみ上げてくるものがあった。
(まだ泣いちゃいけない、まだ)
必死で堪えて、詰まりそうな喉におむすびを押し込んだ。
紫はそんな私が可笑しかったらしくて、クスクス笑いながら隙間に手を入れていた。
「そんなに急いで食べたら、喉に詰まるわよ」
そういって隙間から取り出される、湯気の立つ湯のみ。
紫の手からそれをひったくって、口の中のおむすびを流し込む。
「ぷはぁ」
「もう、子供じゃないんだからしっかりしてよ」
背中を摩られると、大分落ち着いてきた。
「あは、見て霊夢。弾幕ゴッコをしてるみたい。
きっと、永遠亭のお姫さまと、竹林に住んでる不死人よ」
紫が、竹林のほうを指差した。
目を凝らすと、紅い炎のようなものがぼんやりと踊っている。
それに向かって、色とりどりの流星群が、何度も何度も向かって行く。
弾幕ゴッコを串を片手に眺めていると、急に横から冷たい風が吹いてきた。
いや、これは風じゃない。
「霊夢、踊りましょうよ」
油断すれば、心臓を直接鷲掴みにされる。
触れれば切り裂かれてしまいそうな鋭さが、紫から立ち込めていた。
しかし不思議と、自分の体は昂ぶっている。
まるで、紫が切り出してくるのを待っていたかのように。
今、私と紫の距離は、ほんの数歩で詰められるだけしか開いていない。
まずは距離を取るか、先手必勝と見て勝負に出るか。
いまは巫女服ではないが、針や符はきちんと持ってきている。
もとより、紫と弾幕ゴッコになる予感があったから。
「こないの?」
挑発的に、紫は口元を扇で隠した。
誘っている――紫の身体能力は、妖怪としては凡庸。
だからこそ、身体能力に秀でる藍を手足のように使い、自分は一撃必殺を叩き込む用意をする魔法使いのような戦い方を好む。
しかし今日は藍の姿は見えない、もちろん隙間を使えばすぐに呼び出せるだろうけど。
「藍がいないのに、いい自信じゃない」
「あの子がいなくたって、あなたに負ける道理はないわ?」
紫は今日、藍を呼び出さない。
不思議と、確信めいたものがあった。
となると、紫の戦法は後の先となる。
「はっ!」
封魔針を一本、牽制として投げつける。紫の胸元目掛けて飛んで行く針は、当たるほんの手前で速度を失った。
挑発に乗って懐に飛び込めば、既に張られている結界に捕まり、それで決着だ。
「さすがに、引っかからないわよねぇ」
紫がぼやく前に丘から身を投げ出す。
移動を自由落下に任せながら、頭を戦いのそれへと切り替えていく。
十分に速度がついたところで機動を無理やりに変える、ほんの数瞬前までいた場所に、突き刺さっていく飛行虫。
そこから取るべき選択肢は一つ、大量の符のばら撒きから始まる、逃げの一手。
「お待ちになって♪ 可愛いお姫さま♪」
夜を従える魔王が、間抜けな歌を歌いながら符を撒いてきた。
見せにしかならないそれを侮れば、そこを鋭い槍が刺し貫く。
乾いた唇をペロリと舐め、後ろから迫るそれらをすんでのところでかわしていく。
余計な機動を取れば取るだけ、不利になっていくのだ。
暗い道の中を、勘を頼りに抜けていく。
目を瞑っていても、木々に激突する気は全くなかった。
前方にピリピリしたものがあれば逸れる、たったそれだけで木々は私を避けて立つ。
時折気持ちの悪いものがすぅと隣を過ぎるが、それは紫の放った黒死蝶。
時折牽制で針を飛ばすが、もとより当たるとは思っていない。
喉が渇く。
このまま森の中で相対するのは、すなわち紫の術中に嵌ることだった。
紫の弾幕は四方八方どこからでも飛んでくる、木々は決して盾にはならず、蜘蛛の巣に絡み取られた蝶のように嬲られるだろう。
とある宴席で、魔理沙が紫に挑んだことがあった。
はじめは持ち前の速さで紫を霍乱し、勝利を確信しマスタースパークを放つ魔理沙。
しかし魔力の放射は、あっけなく結界の前に霧散した。
呆然とした魔理沙は、まだ続けるかと言う紫の前で、両手を上げた。
この戦い以降、若い妖怪たちは、紫の評価を改めざるをえなかった。
隙間という、便利な技を使う大妖怪。
しかし戦いの技術の大半は式に頼りきり、本当は見掛け倒しだという声も小さくはなかったのだ。
弾幕ごっこに関しては、魔理沙は決して弱いほうではない。
むしろ、強力無比な一撃と、的を絞らせない飛行技術を持った若々しい狩人。
それが、力の差を見せ付けられたうえで、羽を毟られた。
魔理沙は負けてからも気丈に振舞っていたが、それから数週間、家から出ようとはしなかった。
森が途切れる前に高度を上げ、符を構えて紫を待つ。
吐く息は白い。夜が段々と深まり、気温が下がってきていた。
紫はあくまでのんびりと、散歩のついでのように同じ高さまで上がってきた。
「あら、ごきげんよう霊夢。こんなところで会うとは気が合うわね」
「そうね、あんたと仕合ってなきゃそのまま空中散歩に洒落込みたいところよ!」
紫は言葉に応えず、日傘をこちらに向けてきた。
夜を切り裂く銀光を横っ飛びに回転し、その反動を利用しての針の投擲。
数本をまとめてのばら撒きは、日傘で叩き落された。
やはり、簡単には当たってくれないようだ。
「本気で来なさい、さもないと、私よりも先に霊夢が死ぬことになるわ」
口調は穏やかでも、底冷えする声だった。
お望みならば、出し惜しみせずに、飛ばしていこう。
懐から、とっておきのスペルカードを取り出す。
「覚悟しときなさい!」
『散霊:夢想封印 寂』
スペルカードを宣言と同時に、夜闇を包み込もうと言わんばかりに広がっていく符と陰陽玉。
その全てが、紫へと牙を向けるが、紫は退屈そうに手を上げ、結界を展開した。――四重結界だ。
(どうしようか。次の一手を考えないと)
もちろん、これで倒せるとは思ってない。
そもそも結界術で紫に遅れをとっている自分が勝つには、うまく不意打ちを決めるぐらいでし適わない。
「こんなぬるい弾幕で私の結界を貫くつもり? 認識が甘いのではなくって?」
口元を歪ませつつ、紫は迫る符のすべてを結界で叩き落としていた。
力を失った符が、ひらひらと森に降り注いでいく。
私は、紫が身をかわす素振りすら見せないことに、怒りを通り越して歓喜すら覚えた。
全身の血が一度凍りついてから、溶かされ流されていくような感覚。
こうして、頼りにならないスペルカードが夜空に散った。
「まさかこれで終わりなんてことは、ないでしょうね?」
紫はそう言うと、懐から一枚のスペルカードを取り出した。
「全力でこないのなら、潰すわ」
『深弾幕結界 -夢幻泡影-』
紫の体を中心に、蜘蛛の巣状に弾幕が生成されていく。
そのすべてが紫を中心にして凝縮され、また弾ける弾幕結界。
紫の持てる最高の奥義の一つで、その範囲と密度は、夢想封印のそれと一線を画していた。
洪水のように襲いくるであろう符たちは、号令を待って静かに待機していた。
待っている。
私がそれを、全力で迎え撃つことを。
「出て! 私の結界!」
懐から、詰めに至る一手を切る。
『夢境:二重大結界』
世界と私を隔絶する障壁。
しかしそれは、弾幕結界の奔流の前にはあまりに脆い盾だった。
紫は拍子抜けといった表情をした後すぐに、憤怒の表情を見せた。
全力で迎え撃つのならば、夢想天生を切るのが定石。
当然紫も、それを予想していたはずだった。
「本気でやりなさいって、言ったでしょう!」
しかし私は、紫の憤怒に勝利を確信した。
弾幕結界の符たちは、結界に阻まれ叩き落とされていく。
しかし、圧倒的な物量を前にすれば、いずれ結界は破られてしまう。
数十秒もしないうちに、結界が綻びはじめ、あとは座して死を待つだ。
「残念だわ。まさか霊夢がこんなに間抜けだなんて」
紫は気の毒そうに、それでも弾幕の手を緩めようとはしない。
このまま、押し潰す気のようだった。
「ええ、私もとっても残念よ! まさか、こんな簡単に嵌ってくれるだなんて」
懐から、紫を仕留めるべくスペルカードを取り出す。
『神技:八方龍殺陣』
「私の勝ち!」
森に打ち付けた楔から、夜空を金色に染めるべく柱が上がる。
紫の表情が一瞬驚愕に歪み、またすぐに、穏やかなものへと変わった。
◆
森の中、牽制の封魔針に混ぜて楔を打ち付けていく。
紫を倒すためには、正面からの撃ち合いを避け、不意打ちで強烈な一撃を与える他にない。
ならば取るべき行動は、大掛かりな結界陣。
森をぐるりと周るように紫の追跡を避け、上空へと誘き出す。
そしてあとは、陣の中へと燃料の符を投げ入れていけば、必殺の陣が完成する。
夢想封印や、弾幕結界で落ちていった符たちは、陣を生成するための贄だった。
こうして、天を突く勢いで立ち昇った金色の柱は、またすぐに、夜の闇へと吸い込まれていった。
「他人の符を材料にするなんてずるいわぁ」
ボロボロになった紫が、頬を膨らませてそっぽを向いている。
決着がついてからずっとそんな調子で、こっちのほうをまともに向いてくれやしない。
「でも、勝ったし」
「ぷぅ」
優しい言葉の一つもかけらればいいのに、どうしたって皮肉になってしまう。
そんな自分にやきもきしながら頭をかいた。
どうすれば、紫は機嫌をなおしてくれるだろう。
「紫疲れた! 膝枕希望!」
「帰れ」
ダメだ、少しでも気を抜いたら度を越えた要求をしてくる。
例えジト目で見られても、要求に応じるわけにはいかない。
「霊夢、何かを両立するのって大変なことなのよ。その取捨選択が」
「難しいこと言って要求を通そうったって無駄なの。
どうせ上手いこといって無茶なことばっかり言ってくるじゃないの」
「膝枕は無茶じゃないの! 紫疲れた疲れた!」
「はいはい」
「え?」
応じる姿勢を見せると、逆に紫はキョトンとした。
その顔がおかしくって、笑いがこみ上げてくる。
「だから、膝枕するってば」
「え、あ、うん……」
コテン、と紫の頭が膝に乗る。
じいと顔を見入ると、恥ずかしいのか手で顔を隠してしまった。
「恥ずかしいなら、最初から頼まなきゃいいのに」
「だって霊夢を困らせようと思って」
紫の弱点が知れてしまった。困らせようと無茶を言ってきたときにそれに応じてしまえばいいのだ。
そうすると途端に紫はしどろもどろになってしまって、こうしてしおらしい態度を見せる。
もしかすると幽々子が紫と親しいのも、そういった扱いが上手いからなのかもしれない。
いつのまにか無意識に、頭を撫でていた。
紫はもう何も言わなくなって、顔は手で隠したままだった。
「ねぇ、手で顔を覆ってたら夜空が見えないよ?」
「夜空を見る前に、霊夢が覗き込んでくるもん。恥ずかしくって手が外せないもん」
「指の間から確認してみたらいいじゃない……。まさか、それもできないとは言わないでしょ?」
すると紫は、そーっと指を開いた。
若干呆れた表情でツンとそっぽを向いてやると、ようやく手で顔を覆うのはやめた。
「わぁ……。ねぇ、見て? 寝転がると、空がもっと近くに感じるわ。
飛んでいるときよりも、ずっと近い」
「そう? じゃあ私も寝転がろうかしら。もちろん、紫の膝枕で」
「え、ええ?」
「冗談。体起こしてよ、寝転がれないじゃない」
紫がどいてから、自分も草原の上に思いっきり体を投げ出してみる。
空はさっきみたときよりもよっぽど近くで、まるで手で触れる程度しか離れていないみたいだった。
「とーどけー」
右手を天に向かって伸ばしてみるけれど、もちろん掴めるものは空っぽ。
がっかりしていたところで、空いた左手がそっと握られる。
「こっちには、届くわよ」
「バカじゃないの」
その手を、私はしっかりと握り返してしまった。
◆
紫が時間だといって、帰ってしまった。
別れるときは、不思議と寂しくなかった。
もしかすると、これが今生の別れなのかもしれないというのに。
私は普段の調子で紫を見送って、こうしてまた地面に身を投げ出している。
空は相変わらず星が輝いていて、間抜けに欠けた三日月が、おかしいぐらいに輝いていた。
いつも以上に反射して見えるのはどうしてだろう、目が曇ってしまったのか。
そう思ってゴシゴシと目を擦ってみると、
「あれ、私、泣いてたんだ」
一体いつから、涙が溢れていたんだろう。
紫と居るときは、いつも通りに振舞うって決めていたのに。
もう行ってしまったから、涙が溢れてきたのか、それとも一緒にいるときから、私は泣いていたのか。
紫のことだ、もし私が泣いていたとしても、きっと何も言わなかったろう。
きっと紫は、心の裏まで見透かしていてなお、付き合ってくれていたのだ。
そう思うと、なんだか笑えてきた。
「あっはっはっはっは」
わざと、大声で笑った。
虫の鳴く音以外聞こえない草原は、声がやけによく通る。
笑っているうちに、自分が今泣いていることを自覚してきた。
声が震えて、上手く笑えなくなってくる。
鼻がぐずぐずとみっともない音を立て始め、目の前が霞んで見えなくなる。
そうなるともう、止まらない。
「うぐ、うぇえ……」
もう紫と会えない。
たったそれだけの、シンプルな事実だけが手元に残った。
こんなにちっぽけなものしか、手元に残らないだなんて。
一緒に過ごした、何気ない思い出が次々と蘇ってくる。
この思い出も、時間が経てば色褪せてしまうのだ。
せめて、覚えているうちに、実感できるうちに泣いてしまおう。
そう、決めた。
◆
お天道さまが雲に隠れてしまった昼下がり。
寒さがいよいよ厳しくなってきて、秋というには辛くなってきた。
朝や夜の冷え込みは厳しく、ちらほら白い雪も舞い始める。
冬がもっと深まれば、数日放っておくだけで、境内は雪に埋まってしまって身動きが取れなくなる。
早起きしての境内の掃除も、そうなれば雪かきへと変わる。
しかし、雪が積もることを喜ぶ不届き者も、博麗神社にはよく訪れていた。
でも、主が困っているのだから文句を言わずに手伝って欲しいものだ。
――冬。
一年の中でもっとも過酷な季節。
一人で過ごすにはいささか辛いけれど、しっかりと備えていれば、何も怖くはない。
「今日の夜はー、おっなべー」
具材はそれぞれが持ち寄ることになっている。
しかし、燃料が若干乏しいと思い、里へと買出しに出向くつもりだった。
今日はそれ以外に用事もないし、気づいたときに雑務を済ませるに限る。
「よし」
準備は済ませた。寒い中を飛ぶために、防寒着の用意もしっかりとしてある。
今から行けば、夜までにはしっかり帰ってこれるはずだ。
「行ってきます」
誰が答えるわけでもないけれど、私は拝殿へ呼びかけ、地面を蹴った。
ほのかに雪化粧のほどこされた道中は、また秋とは違った趣があってよいのだけど、陽の乱反射が眩しい。
里が、遠くに見えてきた。
飛んだまま里に入るのもなんだと思い、丁寧に雪かきされた街道へと足をつける。
「うーん、腰が痛い!」
伸びをして腰をまわすと、八雲藍が雪の中を歩いているのを見つけた。
普段からしている、測量の仕事だろう。
藍とは、紫と別れる以前に会ったきり。
それに、紫の縁者と会うことがひどく懐かしくって、思わず声をかけた。
「こんにちは」
「ん、ああ博麗じゃないか。紫さまが久しぶりに会いたがってたぞ」
「え? は? ええ?」
「だから、紫さまがお前さんに会いたいってさ」
一瞬、藍が何を言っているのか理解できなかった。
藍は首を傾げていたけれど、私のほうが首を傾げたい。
「な、何言ってるのよ、紫は死んだんじゃ」
「お前さんこそ何を言ってるんだ。紫さまはピンピンしてるぞ。布団から出てこないけどな」
「……騙された、騙されたああああああああ!!」
「んんん? なんだか話が掴めないが、よかったら話してくれないか」
かいつまんで、紫が突然神社にやってきて、死ぬと宣言されたこと。
一日を一緒に過ごし、弾幕ごっこまでしたことを事細やかに藍に伝えた。
途中白熱して語調が荒くなったところは窘められたが、紫が生きているとは騙されたも同然。
涙を返してくれるものなら返して欲しい、というかこれは立派な詐欺だ。
「うーん……。なるほど、よくわかった。
我が主の非礼を許して欲しい、だが、それには深い事情があるんだ」
「事情?」
「ああ、それこそ紫さまの命に関わることだ。まず、紫さまのことなんだが、大変長命な妖怪の上に、頭脳も明晰。
だが、それが紫さまの弱点の一つ……。いや、仇というべきかここは。そう、仇になっているんだ」
「頭が良いことがマイナスに働くなんていうことがあるなんて、初めて聞いたけど……」
「ああ……。紫さまは求聞持の能力とまでは言わないが、見聞きしたことのほぼ全てを記憶するんだ。
稗田の家系がなぜ短命か知っているか?」
「……」
「パンクするんだよ。もちろんそれだけじゃないが、昔からそういった能力を持ったものは短命なんだ」
「でも、だからって」
「まぁ博麗の、私の話を最後まで聞いて欲しい。紫さまはそれを避けるため、数十年に一度あることをするんだ」
「あることって?」
「記憶、というか想いを最適化する、とでも言えばいいのか。例えるなら歴史の編纂に近いな。今まであったことをまとめて、切り離す。
それをすると、紫さまは紫さまであって、紫さまではなくなる……。というのもおかしいか。
以前までの記憶は単なる情報と化して、実感を伴わなくなるんだ。それを紫さまは、死ぬと表現したんだろう」
「つまり、えっと?」
「紫さまが最後に好き放題わがままをしたのは、最後の思い出作りだったんだろうな。
紫さまは元気にやってるよ。ただ、落ち着くまでには一冬はかかるかもしれない。今はまだ、人前に姿を現せないみたいだ」
そういって藍は、深々と頭を下げた。
「紫さまが紛らわしいことをして、本当に迷惑をかけた。でも紫さまの気持ちもわかって欲しい。
それだけ、貴女のことが好きだということなんだ」
「ま、別にいいか。あ、あと紫に伝えておいてくれない?」
「構わないが、なんだ?」
「今夜、うちで鍋をするから絶対来ること! わかった?」
「あ、ああ……。伝えておくよ」
藍は、面食らった表情で応えた。
耳をピタっと伏せていたあたり、叱責されることも覚悟していたんだろう。
それが本当に面白くって、思わずその場で笑い転げたくなった。
笑い出したい衝動を必死で抑えて、私は駆け出す。
「じゃ、また!」
「あ、ああ……」
あの一日を過ごした紫は、もういない。
記憶と実感が切り離されているのなら、感情を、感動を共有することは二度とできない。
でも、それでもよかった。
八雲紫は、生きているのだから。
これから戸惑うことはあるかもしれない、けれど、失くしてしまったものはまた拾っていけばいいのだ。
紫はきっと、自分が間違いを犯さないようにとおどおどして過ごすに違いない。
(想像しただけで、笑えてくるなぁ)
きっと紫は困った表情をして、どうにか話を合わせようとしてくるけれど、わざと違ったことを言うのも面白い。
そうやって、戸惑う部分も笑い飛ばしてやれば、紫だってすぐにいつもの調子に戻ってくれる。
「よーし、あそこまで走るかー!」
里の中央に立っている、一際大きな木。
それを目印に、抑えきれなくなった気持ちをぶつけることにした。
あとがきの内容だけで満点
電気羊さんってだけで(ry
ゆかりんかわいいなぁ
情報として入っただけでは自分自身とは思えないだろうしねー。
経験が結びつかない過去の情報。生まれ変わったと言っても過言ではない。
霊夢という人間独特の感情がよくわかる。こういう主観も良いものですな。
非常に良いSSだったと言います。特にみすちーが出たところとか。
死ぬか嘘か、どっちかだろうなと思っていたらこの〆。
お見事。
見解もなるほどといった感じでおもしろい。
すばらしいゆかれいむでした。満足。
感動がただの情報と化すか…
そういやどこかにフランによって過去と未来を破壊された話があったの思い出す。
なんだったっけ?
内容にも感動した
後、人間の脳の容量は完全記憶能力でも120年分の記憶が可能だって小萌先生が言ってた。
素直に感心&感動させて頂きました
>フランによって過去と未来を…
「魔理沙 フラン 過去 未来 破壊」辺りで検索すると出るのがそれでしょうか。(横レス失礼
さっきまで人が着ていた上着を借りた時みたいな。
寒いから、より暖かさを感じる、みたいな。
シリアスとほのぼのが両立されてるからこそ、こう感じたのだと思います。
霊夢の察しが良さか、気丈の強さのせいか感情移入が追いつかない所も有りましたが良いSSでした。ありがとうございました。
後書きも含めてw
本当に内容も感動いたしました
最後がハッピー?エンドでよかったです
なかなかにおもしろい見解でした。
あとアンサイクロペディアみたいな後書きもwwwwww
>17
詳細kwsk
素敵な話をありがとう
いい話でした!!
ゆかれいむは永遠です
いや、本編はいい話でしたよ。
空気読めないレスを付けてみたり(夢想封印)ピチューン
オチは絶対生きてるって思ってましたが、楽しめました。
誤字発見
>奇異の視線が自然を集まってしまう。
自然と
ほのぼのしているようで根底にシリアスを置き、また上手く調和を保っている構成が素晴らしい。
いいSSでした。ありがとうございます。
この二人はこれくらいの関係がモアベターなんでしょうね。
素晴らしい
>パンクするんだよ。もちろんそれだけじゃないが、昔からそういった能力を持ったものは短命なんだ
これについては、意見の分かれるところもあるみたいですね。人間の脳は、例え忘れる事が出来なくても、百数十年分くらいは記憶できるらしいです。
それに、記憶のシステムは複雑で、脳が情報でパンクすることはありえない、という研究もあります。
稗田の家系は転生してるけど、編纂に必要な記憶はある程度残るとかあった気が。
仮に30年生きて、10年分くらいを引き継ぐとすると、早くて10代目かそこらで容量オーバーに?
つまり後々のことを考えると当主が短命であればあるほど、稗田の家系は長く続くってことで。
ゆかりんも無茶苦茶長寿な妖怪だし、人と関わりを持ちやすいことを考えれば結構いっぱいいっぱいになっててもおかしくないしなぁとか妄想。
作品の感想?
この点で察してくだしあ
一体何人いるんだぜ?
まったく、うるっとさせられるなんて・・・。
戦闘シーンがよかったです!!
俺も俺も。でもいい話でした。
ゆかれいむが仲良く女の子やっててとても良かったです
自分からはグイグイ行くくせにいざ予想だにしない押され方をすると動揺する紫がかわいかった