蓮子の吐息しか聞こえない。
月の光だけが頼りの廃屋に、ふたりは座っていた。蓮子の膝に手を這わせる。すると、すぐにその上から手がかぶさった。がっちりと押さえつけられて、逃げられない。
メリーは体がこわばるのを感じる。金縛りにあったようだ。決して不快ではない。蓮子の手からも、彼女の緊張が伝わってくる。メリーはほんの少しだけ身じろぎした。何センチか分、蓮子の方に近づいた。メリーの袖と蓮子の袖が、衣擦れの音を立てる。蓮子の皮、肉、骨を感じる。
「メリー」
蓮子が何か言おうとした。メリーは身を乗り出して蓮子の唇に触れた。すぐに背中から腕を回されて、強く抱きしめられるのを感じる。
「ん……むっ、ちゅぱっ」
ふたりとも口腔内が渇いていたので、唾液はねとねとしていた。
メリーは何も考えられなかった。ずっと蓮子の体を感じていたかった。
メリーの体を痛いほどしめつけていた蓮子の力が弱まり、蓮子の舌がメリーから離れていく。メリーの目が、再び蓮子の目を捉えられるほどには、ふたりは互いから離れた。月光は弱く、相手の顔を明確には映し出さない。蓮子は、普段の怜悧な彼女からは信じられないくらいぼんやりした目つきをしているようだった。唇から唾液が糸を引き、自分の唇へつながっている。
自分も似たような顔をしているのだろうと、メリーは思う。
一瞬後には、蓮子の表情は、常時の半ばまでは冷静さを取り戻す。
「あ、ごめん、メリー、その、なんていうか、ついその……あ、あっ、別に始めっからそんなつもりで誘ったわけじゃなくて。それに、私、元々女の子が好きとかじゃなくて、なんていうか、こういうこと、初めてで……いや初めてじゃないんだけど……ああああああ、何言ってんだろ、わた……」
あたふたする蓮子の唇を、自分の唇で塞ぐ。勢いあまって、蓮子の前歯が自分の上唇に当たる。かすかな痛みがある。切ったかな、と思うが、どうでもよかった。
こうなる予感が、どこかでしていたといえば、していた。
入学式の翌日、学科ごとのガイダンスが各教室で行なわれた。メリーは教壇の真正面の席に座った。あまり目がよくないし、近い方が話がよく聞こえると思ったからだ。ただ、他の学生の声がどうも遠い。振り向くと、さながら教壇とメリーを鶴翼の陣で囲むがごとき席配置を、彼らは取っていた。
目の前には初老の瀟洒な教授が、知的な微笑みをメリーに向けている。メリーはなんだか嬉しくなった。ふと、隣からさらさらとペンを走らせる音がする。横を見ると、ノートの脇に黒帽子を置いた女学生が、ノートに何かを書きつけている。メリーは、ついこの間まで受験勉強をしていたので、ある程度公式は頭に入っていた。数ヶ月で忘れる自信はあったが、ともかくもこの四月の時点ではまだかなりの量を記憶していた。だから、隣の黒髪の女学生が書きつけている式が、とんでもない式であることだけは理解できた。そして、その式がこれから始まるガイダンスには一切関係ないことも、常識からして理解できた。
「何を書いているの?」
「扉を開ける式。目の前の瀟洒な教授の顔見たら、急に思い立ってね」
それが、ふたりが交わした初めての会話だった。
五ヶ月後の初秋、ふたりは、幽霊が出ると評判の心霊スポットで、互いの唇を貪り合っている。
「むぅ……ん、ちゅる、ぷはっ」
ふたりは唇を離す。
「ヒリヒリする」
蓮子が言った。
「ちょっと休憩。唇がふやけるわ」
向き合っている体勢から、肩を寄せ合う体勢に戻る。メリーの見たところ、蓮子はずいぶん冷静さを取り戻しているようだった。メリーはまだ、唇をぬめる唾液から、一向に考えを離すことができないでいた。ただ、自分の唇の粘膜もだいぶ摩擦されていたようで、改めて唇を離してみると、痛み出すのがわかった。
一息ついて、蓮子の肩に頭を寄せ、目の前の窓を見る。窓からは、ツタが生い茂った、荒れ果てた庭が見える。
「どう、増えてる?」
はじめメリーは、蓮子が何を言っているのかわからなかった。すぐに、それが境界の裂け目ことだとわかる。
この廃屋についた時にはそれほどでもなかった裂け目の数が、十分としないうちに二倍、三倍と増えていったのだ。自分たちの来訪に裂け目が反応しているのではないかと、ふたりは考えた。そうして、ただ呆然と裂け目が増えるのを眺めていた。そのうち、ふたりは隣に座ったお互いの体の温もりを意識し出して、今に至る。
「え、あ……うん、そ、そうね。増えてるわ。それはもう、際限なく。百ぐらいかしら」
メリーは適当に応えた。多分、百どころではない。数えてみる気にはなれない。メリーの頭には蓮子の唇の感触しか残っていなかった。蓮子が裂け目の話を口にしたのは、今さっきの出来事をなかったことにしようと思ってのことかもしれない、と不安に感じた。メリーは、なかったことになど絶対にしたくなかった。蓮子とキスができて、嬉しかった。
小一時間ほどして、秘封倶楽部の心霊スポット探索はお開きとなった。メリーは上の空だった。蓮子もいつもに比べれば寡黙な方だった。
蓮子がさっきのことを意識しているのは明らかだった。だが、メリーはそれを掘り返すことが怖くてできなかった。あれは、ぞっとするほど甘美な体験だった。誰にも渡したくない、誰にも理解されたくない種類のものだった。それは、体験を共有したはずの蓮子に対してさえ、そうであるのかもしれない、とメリーは思った。
深夜の木立の向こうに、大学の屋上と時計台のシルエットが浮かぶ。ふたりは別々のアパートに住んでいるが、いずれも大学近辺だ。
「それじゃ、私はここで」
「あ……」
蓮子が軽く手をあげて、道を曲がろうとする。メリーは追いすがるように、手を前に伸ばした。
(ちょっと休憩、ってさっき言ったよね。続きは?)
そう言いたかった。だが、自分でその声を脳内で再現すると、聞くに堪えない科白のように思えてきた。
「ん?」
蓮子は、一瞬立ち止まった。さらにあと数秒待たせれば、事態がまた動いてしまう。メリーはそれを待ち望んでいるのだが、今から動く方向がきちんとそこへ行きつくかどうか、確信が持てない。
「うん、じゃあね。また明日、二限で」
「遅刻しちゃ駄目よ」
蓮子はそう言い残して、去っていった。メリーは、夜に消えていく背中を見ながら、しばらく、人差し指をしゃぶっていた。
春が終わった頃には、蓮子のことしか頭になかった。一種の風邪みたいなもので、すぐに治まると思っていた。慣れない異国、慣れないひとり暮らし、慣れない大学生活で緊張しているところに、今までに会ったことのない、刺激的で頭のいい少女と出会った。彼女と会話していると、次から次に色んなことが思い浮かんできた。
メリーは話題が豊富ね。
そう言って、よく彼女に感心されたが、それは彼女に触発されたものであると、メリーはわかっていた。自分ひとりでは、この半分のことも思いつかない。
当初メリーは蓮子の頭の良さに、信仰に近い敬意を抱いていた。
付き合いが続けば、蓮子にもそれなりの欠点があることはわかってくる。
我慢が利かないし、周囲への配慮が足りない。日頃は天性の明るさでそれらの弱点をごまかしてはいるが、時々ボロが出て、そういう時はメリーも苛立つ。
長所も短所もひと通り踏まえると、今度はメリーに新たな欲求が生じた。
もっと蓮子のことを知りたい。
そうすると、授業中や、食事中、大学周辺の車一台がやっと通れる程度の狭く入り組んだ道を並んで散歩している時、夜中に結界の裂け目を探して徘徊する時などに、蓮子の言動の端々から、新たな彼女の一面が窺いしれると、それだけでメリーはその日一日幸せになった。
だから、蓮子に触れてみたいと思うようになった時も、それほど驚きはしなかった。
驚きだしたのは、はじめはただの思いつきのようだったその気持ちが、日ごとに膨らみ、とどまるところを知らなくなってからだった。
特にこの一週間は、蓮子の裸ばかり想像していた。
この五ヶ月で、偶然触れた蓮子の肩や背中、腕、偶然見えた体の各部位から、できる限り想像を膨らました。巷にはポルノが溢れている。コンビニでもレンタル屋でも、女の裸を詳細に見ようと思えば、方法はいくらでもあった。だがそれではない、とメリーは確信していた。それらの資料から詳細に構成したとしても、蓮子にはならない。
今夜の出来事で、蓮子の骨格の把握はさらに進んだ。メリーは今夜の唇と手のひらの記憶を、細胞のひとつひとつに刻みつけるように、何度も脳内で再現した。
そうしていると、心地よい睡魔が襲ってきた。
二限目は十時から始まる。時計を見ると午前二時だ。たっぷり六時間は寝られる。
危ない、と声をあげそうになる。
夢の中なので声が出ない。
走り去っていく電車の中に荷物を置き忘れたような、そんな取り返しのつかない、でも心の中ではどうにかなるだろうと思っている、そんな気分だ。
目覚めて時計を見ると、深夜の四時半だ。さっぱり寝た気がしない。体はどっと疲れている。
蓮子の声を思い出そうとしても、思い出せない。その内容もだ。たとえば今夜、心霊スポットの廃屋に行くまでに蓮子と何を話しただろうか。何か真面目な議論を、飽くことなく交わしていたのだろうか。それとも、他愛のない食べ物や小説や服の話だったろうか。
思い出せない。
思い出すのは、あの数秒か数十秒間かの、蓮子の肉体の記憶だけ。
メリーは愕然とする。まるで肉体の記憶以外どうでもいいとメリーの脳が判断したかのように、何も思い出せない。
これもまた夢だろう、と彼女は結論づけた。
早く醒めてくれ。
醒めると、あれほど切羽詰まった感覚はもう、なくなった。昨日どころか、一週間前に蓮子と何を話したかも、だいたい覚えている。何日の何時何分まで覚えているわけではもちろんないが、辞書をぱらぱらと眺めるようにして、過去に蓮子と交わした会話を想起することはできた。朝、早くに起きて、授業にもまだ間が合って、しかしレポートや読書に向かう気力を充填するまでには至っていない時など、よくそうやって一ページ、また一ページとページをめくっては、ひとりで楽しむ。
時計を見ると、九時五十分だった。メリーはため息をついた。もう間に合わない。
アパートを出ると、すぐ横から声をかけられた。
「十一時二十八分五秒。遅刻も遅刻ね。途中で起きたけどどうせ間に合わないから開き直ってゆっくり準備した、ってところかしら」
門柱に背を持たれかけさせて、蓮子が空を見上げている。
「あら蓮子。あなたも遅刻?」
「違う。私はちゃんと授業に出たわよ」
「でも始まってまだ九十分経っていないわ。……というか、昼なのに時間わかるの?」
「あてずっぽう。さっき学食の時計見てきた。多分今そのぐらいよ」
「授業は?」
「途中でつまらなくなったから、先生には悪いけれどこっそり抜け出してきたわ」
「あーあ、駄目ね、不良学生は」
「……そこで私はつっこまないから」
ふたりは他愛もない会話を交わしながら、歩いていく。
メリーは、さっきから蓮子の唇が気になって仕方がなかった。会話は会話として楽しんでいるつもりだが、目がどうしてもそこから動かない。そこに、不意に蓮子の視線が入り込む。蓮子が少し屈んで、メリーと目線を合わせたのだ。
「どうしたの、メリー」
「あ……その」
「メリー、あのね」
そこで蓮子は言いよどんだ。
「メリー、言いにくいんだけど、ひょっとして」
メリーは蓮子の手首を引き、思い切り引っ張った。そのまま背後の塀に凭れかかる。蓮子はたたらを踏み、塀に手をついて倒れるのを防ぐ。蓮子は肘を伸ばして体を起こそうとするが、メリーが手首を強く引っ張ったため、また塀にもたれかかるような体勢になる。
「蓮子、私ね、馬鹿になったみたい」
蓮子の黒目が左右に素早く動く。人目を確認している。
「蓮子は馬鹿は嫌いだよね」
メリーは蓮子の手首から手を離し、二の腕をつかむ。
「そうでもないわ。ひとに迷惑をかけて、しかもそれを自覚してない奴は、馬鹿でも馬鹿でなくても嫌いよ」
「私、迷惑かけているかもしれない。それでもいいと思っている」
「そう、自分勝手ね」
蓮子の目は、その突き放すような口調とは裏腹に、優しくメリーを見ていた。
メリーは鼻の奥がつんとするのを感じた。
二の腕を離し、蓮子の首の後ろに手をかける。そのまま力任せに引き寄せる。蓮子は抵抗しなかった。
そのまま学食で朝昼兼用の食事を取り、同じ授業を取っている三限と四限に出た。メリーは続けて五限がある教室に行き、空きの蓮子は図書館に行った。
三、四限は、隣に蓮子がいることでむしろ集中して授業を受けることができた。だが、いないと、かえって様々な考えがメリーの頭をよぎっていく。
本当は、蓮子は自分を気持ち悪いと思っているのかもしれない。昨夜のことを後悔しているのかもしれない。さっきの昼のことだってそうだ。
蓮子が仕掛けた面白半分の遊びを、自分が本気で取ってしまったのかもしれない。それで、今までの友情が壊れるのを恐れて、今日の昼の行為を受け入れたのかもしれない。とすると、自分は、今までの関係を盾にとって自分のわがままを押し通す、最悪な女になってしまう。そんな最悪な女を、蓮子に会わせるわけにはいかない。だが最悪な女かどうか確かめるためには、まず蓮子に会わないといけない。
もし蓮子が受け入れてくれるのなら、それですべてが解決するのだから。
授業が終わり、図書館に行く。どこにいるか、聞いていなかった。物理学のところにはいなかった。棚を適当に眺めていると、ひも理論がどうのこうのという本があったので手に取る。蓮子がそんな話をしていたのを思い起こして、めくってみる。何が書いてあるのかは理解できなかったが、活字の風景の中に、ところどころ、蓮子が口にしていた言葉が散見され、そういったところから蓮子の匂いが立ち上ってくるのを感じた。
蓮子は絵画のところにいた。分厚い画集を机に広げて、頬杖をついている。
「何だ、レポート書いているのかと思った」
「書いたわよ、ひとつは。だからこうしてゆっくりしているの。といっても八割がた既にできていたものを仕上げただけなんだけどね。本命はまださっぱり。ようやく端緒が見つかったところ」
「ふうん。それは? 何の絵」
「別に、普通の。山とか、川とか」
なんとなく、蓮子が見るような画集だから奇妙な絵ばかりが描かれていると思っていたメリーは、拍子抜けした。確かに、普通の山とか川とかが描かれてあった。
「写真みたいねえ……って言ったら書いた人に失礼かな」
「まあ、写真よりは綺麗だと思う、私は。あとは好き好きでしょう」
「あ、これ富士山。私、一度見てみたいのよね」
「じゃあ、今度里帰りの時にでも見ようか。列車から見えるわよ。パノラマだけど」
「それじゃ写真で見るのと変わりないじゃない」
「わかってないわねえ。大事なのは気分よ、気分」
「その気分が台無しって言っているのよ。なまじゃないなら」
「うん、まあ、それはいいか、また今度で」
蓮子は画集を閉じて、棚に戻した。
「で、話したいことは? メリー」
行きは昼前で明るかったが、今、同じ道は夕日に照らされていた。
違う道のように見える。
ランニング中の一団が、向こうからやってきた。この近くの高校の運動部だ。道が狭いので、蓮子とメリーは塀の方に寄った。威勢よく声を張り上げながら、運動部の集団が過ぎ去っていく。ふたりは彼らをやり過ごして、また歩き出した。
「ねえ、私からしゃべった方がいい?」
蓮子が言う。メリーは肩をびくりと震わせた。
「あんたが言いにくいなら」
「ご、ごめんっ、そんな気を使わせるつもりじゃ……」
「使ってないよ。今更あんたに使う気なんて持ってないよ」
「そう」
メリーは蓮子の心を捉えかねていた。緊張が、メリーの頭から柔軟さを奪っていた。いつもなら蓮子の声色や仕草から、彼女の感情をある程度窺うことができたが、今日は暗幕で押し包んだように、蓮子が見えてこない。
(ひょっとしたら今までのだって、私の思い込みだったのかも……)
「ちょっとちょっと、メリーさん。ぼーっとしてないでさ」
蓮子がぺちぺちとメリーの頬を叩く。
「蓮子、私、気持ち悪い?」
メリーは思い切って尋ねた。蓮子の手の動きが止まる。
「いいや、そんなこと全然思わない」
蓮子が、あまりに真剣な表情で答えたため、メリーは動転した。
「うそ」
「うそじゃないよ」
「だって蓮子、男が好きでしょ」
「……物凄い言い方だね、それ。いや、まあ、私も普通に健康的な女の子だから」
「私は不健康なの」
「ちょっと……」
「蓮子にいっぱい触りたいの」
真正面から言った。相手の目を見ていった。蓮子は、少し頬を紅潮させていたが、それ以上の反応はなかった。
「最近、そんなことしか頭になくて。もっと、他に考えることが、あると思うんだけど」
蓮子は黙っている。
メリーは落胆した。どういう態度を蓮子に取ってほしかったか、自分でもわからなかったが、とにかく落胆した。そのため息は、蓮子を苛立たせたようだった。
「じゃ、触ればいい」
蓮子はぐいとメリーの肩を引き寄せる。
「そうじゃない。私、私」
「ああもう。いいから。落ち着きなさい」
メリーの腕をつかんで、蓮子は大股で歩いていく。
コンビニに入った。おにぎり、パン、スナック菓子、ジュースと、片っぱしから籠に放り込んでいく。
「蓮子、何を……」
「うーん、まあこれぐらいでいいか。石鹸はうちにあるし」
ハブラシを物色しながら何事が呟いている蓮子を、メリーは不思議そうな目で見た。
コンビニで買ったものは、二袋分になった。それぞれひと袋分ずつ持っていく。
「ねえ、今、ひょっとして蓮子のアパートに向かっている?」
何度か訪ねているので、すぐにわかる。
「そうよ」
蓮子は短く答えたきり、口を閉じた。
右側に畑、左側にパスタ屋のある、緩やかな上り坂を越えると、右手の方に蓮子のアパートが見えてくる。道を挟んで左手の方には墓場がある。蓮子の部屋は、ちょうど墓場の真向かいだ。ベランダから見える風景は墓と空だけだ。
「よくあんなところに住めるわねえ」
メリーは、蓮子のアパートを見ると毎回言う科白を、今回も言った。いつもなら、ここで蓮子が一言二言やり返すところだ。
「そうね」
蓮子の反応はそれだけだった。怒っている口調ではなく、固く、ぎこちない感じだった。
メリーが部屋に入ると、蓮子は後ろ手に鍵を閉めた。
「あー重かった」
メリーは袋を床に下ろす。
「ねえ蓮子、こんなにいっぱい買いこんで、どうするの? まさかいつもこうやって食いつないでいるわけじゃないでしょうね。食費が半端なくかかるわよ、これだと」
「そんなわけないでしょ。非常食用に買っただけよ」
「何か非常時があるの」
「そう。今から引きこもるの」
「誰が? 蓮子が?」
「ふたりで、よ」
「え……」
突っ立ったままのメリーに、蓮子は近づく。肩に手を置く。
「触りたいんでしょう。私に」
「え、え?」
メリーは蓮子の意図が読み切れていない。それでも、顔が紅潮していくのがわかる。
「蓮子、その、何を言っているのかが、私には」
「とりあえず、もう六時近いし、何か食べようか。昼前だったもんね、学食」
カップラーメンを取り出す。
「メリーは?」
「あ……私も、カップラーメン。あと、その冷凍の焼きおにぎり」
「はいよ。レンジに入れるから皿持ってくるね。あと、お湯も沸かさないと。うちポットないから」
「こっちのグミも食べていい?」
「いいよ」
そう言って蓮子は立ち上がり、食器棚から皿を取り出し、冷凍おにぎりを乗せて、レンジに入れる。レンジの低い電気音が部屋に流れる。それからやかんに水を入れ、ガスの火をつける。メリーはそうやって動き回る蓮子の背中をぼんやりと眺めていた。蓮子の言った意味を反芻する。というより、意味はもうわかっているから、あとは自分がどうするか、というところだった。
体が疼いている。
しかし、頭が体を縛りつけていた。何かがおかしい、と。これでいいのか、と。
メリーは室内では常に音楽をつけるが、蓮子はほとんどつけない。今も、レンジの音とやかんのたぎる音、あとは壁越しにかすかに伝わってくる、隣の部屋で水を流す音ぐらいしかしない。
チン、と高い音がして、レンジが止まる。香ばしい匂いを放つおにぎりを、箸で分けながら口に運ぶ。そうこうしているうちにお湯がたぎってきた。
おにぎりを片づけた頃に、カップ麺がちょうどいい柔らかさになる。音楽のない部屋を、ふたりの麺をすする音と、麺を嚥下した後に吐く息の音が支配する。
「あ、お茶の葉切らしてた。しまったな。白湯でいい?」
残ったやかんのお湯を湯呑についでメリーに差し出す。脂っこいジャンクフードを続けて食べたので、ただのお湯でも十分うまかった。白湯を飲んで一息つくと、沈黙が降りた。
その沈黙は、長かった。
メリーは、ふたりの間に流れる沈黙に身を委ねるのが好きだった。だが、この日ほどメリーが沈黙を恐れた時はなかった。目の前に最上の獲物が転がっている気がしたが、それが触れた途端砂上の楼閣のように崩れ去りそうで、怖くて手が出せない。手を出さないなら出さないで、それはそのまま消えてしまいそうだった。
「蓮子、お風呂借りていい?」
「いいよ」
逃げるようにバスルームに入る。ひとりになりたかった。しかし、蓮子のいるこの部屋から一歩も外へ出たくなかった。メリーはシャワーではなく、湯船に直接お湯を入れた。湯船にはまったくお湯が入っていなかったので、水溜りのような状態だ。蛇口を全開にしたが、それでもすぐに溜まるわけではない。構わずメリーは服を脱ぎ、入った。足の裏とお尻だけが暖かい。蛇口から迸るお湯が水面を叩く音が、狭いバスルームに響く。それに自分自身の鼓動が重なる。冷静に考えをまとめようとするが、何もまとまらない。だいたい、何が起こっているかが把握できていないのも当たり前で、まだ何も起こっていないのだ。
横開きの擦り硝子のドアが開き、蓮子が現れた。
帽子は取っていたが、服は着ていた。
そのまま湯船に入り、メリーと向かい合う。次第に溜まりつつあるお湯は、蓮子のスカートを濡らし、水面に広げた。メリーは歓喜で頭がどうにかなってしまいそうだった。蓮子のブラウスに指を伸ばし、上からボタンを外していく。三つ外した。
自分が何も着ていないのに蓮子が着ているというのが、たまらなかった。
メリーは力の限り自制心を呼び起こした。蓮子の表情を見た。かすかに震えている。メリーだって震えているが、それとは少し違うような気が、メリーにはした。
「蓮子、無理していない?」
「そりゃあ、こういうこと、したことないから」
「私、あなたに無理させたくてこういうことしたいんじゃない」
「メリーなら、いいよ」
「だから、それって……さっきから聞いていたら!」
メリーは腕を引いた。指先からブラウスの感触がなくなり、それだけで耐えがたい思いがする。それでも、必死で欲望を抑え込む。
「蓮子は……私なんかと違って、女の子に興味なんてないんでしょう。触りたいなんて思わないでしょう」
「特に今まで、意識したことはなかったわ」
「私だってそうよ!」
蛇口から出るお湯が水面を叩く音が、前より小さく、低くなる。だんだん水面があがってきている。
「でも今は違うの。私は女の子の、あなたの裸が見たいわ。見るだけじゃなくて、もっと色々なことがしたい。蓮子、あなたに……」
「メリー、そんなに深刻になるようなことじゃないって」
ぱしゃ、と水面から手を出して、メリーの肩に手を触れる。メリーは体を震わせる。精神が不安定になっているせいか、素肌の肩に触れられたのは初めてだからか、蓮子に触られただけで、そこが電気を通されたみたいに痺れた。
「私は、こんなことで、メリー、あなたとの関係を終わらせたくない」
メリーは息を呑んだ。それから、息を吐いた。吐いた時、鼻で笑ったような声が自分の口から出てしまったが、気にもならなかった。
「そうか、そうよね。本音はそうよね。私の理解不可能な趣味に、我慢して堪えようとしてくれたのよね。私を傷つけたくなかったから。あなたが我慢して私の身勝手な思いを受け入れれば、それで万事が済むと思ってるのよね」
「メリーそれは違う。ああもう、何て言えばいいの」
「言わなくていい」
メリーは湯船からあがった。体も拭かず慌ただしく服を着こんで、そのまま靴を履いて、部屋を飛び出した。蓮子は追ってこなかった。
翌日、そのまた翌日、大学で蓮子と顔を合わせたが、何も言えなかった。蓮子が何か言おうと近づいてくると、小さく首を振って、そのまま足早に去っていくということも、何度かあった。
さらにその翌日の朝だった。図書館は大学の一限と同じく、八時から開く。開くと同時に、メリーは中へ入っていった。今日がレポートの締め切りだ。昨夜はレポートの下準備を行ない、早めに寝た。何を主眼として書くか、そして何を資料として書くか、決めた。心身ともに万全の状態に持っていき、今日の半日でレポートを片づけにかかるつもりだった。
紙の匂いが澱のように沈殿した、図書館の隅、法学関係の棚と棚の間に、宇佐見蓮子が立っていた。
蓮子はメリーのレポートの予定は把握している。ここで待っていることも、不思議ではない。メリーは怖くなった。レポートのために取っておいた自分の集中力が、霧散することなく、そっくりそのまま蓮子へ向かっていくのを、まざまざと感じたからだ。蓮子は、最小限の足音だけを立てて、即座にメリーとの間合いを詰める。メリーは身をよじって下がろうとする。背中に棚が当たる。蓮子の膝が、メリーの足の間に割り込む。逆らおうとしたが、少し強く膝を押しこまれると、もう立っていられなかった。蓮子の両腕が背中に回る。そのまま舌を入れられる。
「忘れたのかな」
蓮子が言うのを、メリーは陶然とした心地で聞く。
「あの時、先に動いたのは私だった気がするんだけど」
蓮子の言うあの時とは、初めてキスをした時のことかと、メリーは思う。思考が鈍い。
あの夜のことは、メリーは自分ひとりだけの経験にしてしまっていたので、相手の蓮子がその時どうだったかというのは、まるで考えの外だった。そういえば、あの時蓮子はメリーの手を握って離さなかった。
今も、メリーを離そうとしない。
「あの時は、なんていうか、場の雰囲気に流されただけだったの。それは認めるわ。ごめん。あなたが物凄く乗り気で、ちょっとびっくりしたのも本当。確かに、ほんと言うと、女の子に興味はないよ。あなたとキスしてみて、逆にはっきりわかった。でも、あなたには興味ある。メリーとは色んなことをしてみたい。メリーを、とか、メリーに、とか、メリーと、とか、色々言い方はあるけど。私はね、絶対あなたを離さない。あなたが喜ぶんだったらなんだってする。それを、まるで私が辛いこと我慢してあんたに奉仕している、みたいにあんたが思ってたから、癪だった。傷ついた、ちょっとだけだけど」
メリーがその場にへたり込みそうになるので、蓮子は肩を貸して、外に出る。朝早くから自習に訪れてきている他の学生が、何事かとふたりを見る。
「さっきのは……見られてないかしら」
熱に浮かされたような口調で、メリーが訊く。
「多分、大丈夫。というか、もし誰か見てても、見ないふりすると思うよ」
「そうかしら」
「ねえメリー、そんなになるぐらい、私に触ったら、なんか凄いことが起きてるの?」
「そうよ。わからないの? 変ねえ」
「私はノンケなの」
「おかしいわ。こうして、蓮子に肩を貸されているだけで、狂ってしまいそうよ」
「そんな大げさな」
「わからないのかしらねえ」
「教育してよ」
「そうね」
「うち、来る?」
「そうね」
「冷蔵庫に、この前買った奴まだ全部取ってあるから」
ドアを開けると、外の光と風を同時に浴び、身が竦んだ。
「眩し……」
それに風が冷たい。素肌の上に蓮子のワンピースを一枚着ただけだから、かなり寒い。アパートの階段を降りる。緩やかな坂を下り、丁字路にわかれるちょうど正面に建っているコンビニに入る。同じ学科の知人と顔を合わせた。
「あ、ハーンさんだ」
「え、なになに。ほんとだ。わ、何その格好。ちょっと色っぽい」
ゼリーやプリンを物色していた、別の友人もやってくる。
「どうも。久しぶり」
メリーは手をあげて笑った。
「どうもじゃないわよ、どうしたの、もう二週間近く大学に来てないでしょ。レポートだって出してないでしょ、追試のところに名前あったわよ」
「ああ、やっぱり。困ったわね」
メリーはそう言ってため息をついたが、傍から見ると全然困っているように見えなかったようだ。
「どうしてそう楽観できるかなあ。そういえば宇佐見も見ないよね」
「そうそう。あの子も頭いいけど、何考えているかわかんないよね。ハーンさんは何か知らない?」
知人の問いに、メリーは正直に答えた。
「部屋で寝ているわ」
「ま、おおかたそんなところかな。私もそう思う。実はね、私たちでちょっと噂してたんだよ、ほら、ハーンさん、宇佐見と仲いいじゃん。それで、二週間、ふたりしてどこかデートで旅行にでも行ってるんじゃないかって」
「ははは、気を悪くしないでねー。でも、宇佐見ってああ見えて結構顔整っているよね。知的な女って感じで」
それから二言三言会話を交わして、メリーは彼女らと別れた。サイダーのペットボトルと、ナタデココのゼリーをふたつ入れた袋を提げて、帰路に就く。
墓場の向かいにある、アパートの部屋のドアを開けると、蓮子が毛布にくるまって本を読んでいた。
「寒かった? 外、風が冷たそう」
「何読んでるの」
メリーは毛布に入り込む。ふたりが入れるような形に調節するため、しばらく毛布がごそごそと大きな虫のように蠢いた。
「短編集」
「今読んでいるのはどんな話」
「中国の皇帝に使者が呼ばれるの。それで、任務のために外に出るんだけど、なかなか外に出られずにそのまま野垂れ死にする話」
「何それ」
「謁見の間がすごく広いんだって。そこ抜けても、今度は宮殿が抜け出せない。宮殿抜けても、今度は迷路のように入り組んだ街から抜け出ない。とうとう首都から一歩も出られなかった」
「へー、なんだか異世界ね」
「メリーなら、首都と外との境界を見ることができたかな。この作者、フラン……」
メリーは蓮子の腕に指を這わせ、手首をつかみ、本を閉じさせる。
メリーの体が蓮子の肌の上を虫のように這いまわるのを、蓮子は感じる。正直、気持ちいいというよりは、くすぐったい。体の奥から何か湧き上がってきて、そのまま沈んでしまうような、もどかしい感じはするものの、言ってみればそれくらいだった。激しく陶酔しているメリーの様子が羨ましい。ただ、この倦怠感に限りなく近い安心感は、病みつきになるな、と蓮子は思う。そのうち自分の感覚もメリーのそれに似てくるのだろう。それが恐ろしくもあり、楽しみでもある。
そこに至ってしまえば、多分もう、二度と抜け出そうとは思わないだろうから。
月の光だけが頼りの廃屋に、ふたりは座っていた。蓮子の膝に手を這わせる。すると、すぐにその上から手がかぶさった。がっちりと押さえつけられて、逃げられない。
メリーは体がこわばるのを感じる。金縛りにあったようだ。決して不快ではない。蓮子の手からも、彼女の緊張が伝わってくる。メリーはほんの少しだけ身じろぎした。何センチか分、蓮子の方に近づいた。メリーの袖と蓮子の袖が、衣擦れの音を立てる。蓮子の皮、肉、骨を感じる。
「メリー」
蓮子が何か言おうとした。メリーは身を乗り出して蓮子の唇に触れた。すぐに背中から腕を回されて、強く抱きしめられるのを感じる。
「ん……むっ、ちゅぱっ」
ふたりとも口腔内が渇いていたので、唾液はねとねとしていた。
メリーは何も考えられなかった。ずっと蓮子の体を感じていたかった。
メリーの体を痛いほどしめつけていた蓮子の力が弱まり、蓮子の舌がメリーから離れていく。メリーの目が、再び蓮子の目を捉えられるほどには、ふたりは互いから離れた。月光は弱く、相手の顔を明確には映し出さない。蓮子は、普段の怜悧な彼女からは信じられないくらいぼんやりした目つきをしているようだった。唇から唾液が糸を引き、自分の唇へつながっている。
自分も似たような顔をしているのだろうと、メリーは思う。
一瞬後には、蓮子の表情は、常時の半ばまでは冷静さを取り戻す。
「あ、ごめん、メリー、その、なんていうか、ついその……あ、あっ、別に始めっからそんなつもりで誘ったわけじゃなくて。それに、私、元々女の子が好きとかじゃなくて、なんていうか、こういうこと、初めてで……いや初めてじゃないんだけど……ああああああ、何言ってんだろ、わた……」
あたふたする蓮子の唇を、自分の唇で塞ぐ。勢いあまって、蓮子の前歯が自分の上唇に当たる。かすかな痛みがある。切ったかな、と思うが、どうでもよかった。
こうなる予感が、どこかでしていたといえば、していた。
入学式の翌日、学科ごとのガイダンスが各教室で行なわれた。メリーは教壇の真正面の席に座った。あまり目がよくないし、近い方が話がよく聞こえると思ったからだ。ただ、他の学生の声がどうも遠い。振り向くと、さながら教壇とメリーを鶴翼の陣で囲むがごとき席配置を、彼らは取っていた。
目の前には初老の瀟洒な教授が、知的な微笑みをメリーに向けている。メリーはなんだか嬉しくなった。ふと、隣からさらさらとペンを走らせる音がする。横を見ると、ノートの脇に黒帽子を置いた女学生が、ノートに何かを書きつけている。メリーは、ついこの間まで受験勉強をしていたので、ある程度公式は頭に入っていた。数ヶ月で忘れる自信はあったが、ともかくもこの四月の時点ではまだかなりの量を記憶していた。だから、隣の黒髪の女学生が書きつけている式が、とんでもない式であることだけは理解できた。そして、その式がこれから始まるガイダンスには一切関係ないことも、常識からして理解できた。
「何を書いているの?」
「扉を開ける式。目の前の瀟洒な教授の顔見たら、急に思い立ってね」
それが、ふたりが交わした初めての会話だった。
五ヶ月後の初秋、ふたりは、幽霊が出ると評判の心霊スポットで、互いの唇を貪り合っている。
「むぅ……ん、ちゅる、ぷはっ」
ふたりは唇を離す。
「ヒリヒリする」
蓮子が言った。
「ちょっと休憩。唇がふやけるわ」
向き合っている体勢から、肩を寄せ合う体勢に戻る。メリーの見たところ、蓮子はずいぶん冷静さを取り戻しているようだった。メリーはまだ、唇をぬめる唾液から、一向に考えを離すことができないでいた。ただ、自分の唇の粘膜もだいぶ摩擦されていたようで、改めて唇を離してみると、痛み出すのがわかった。
一息ついて、蓮子の肩に頭を寄せ、目の前の窓を見る。窓からは、ツタが生い茂った、荒れ果てた庭が見える。
「どう、増えてる?」
はじめメリーは、蓮子が何を言っているのかわからなかった。すぐに、それが境界の裂け目ことだとわかる。
この廃屋についた時にはそれほどでもなかった裂け目の数が、十分としないうちに二倍、三倍と増えていったのだ。自分たちの来訪に裂け目が反応しているのではないかと、ふたりは考えた。そうして、ただ呆然と裂け目が増えるのを眺めていた。そのうち、ふたりは隣に座ったお互いの体の温もりを意識し出して、今に至る。
「え、あ……うん、そ、そうね。増えてるわ。それはもう、際限なく。百ぐらいかしら」
メリーは適当に応えた。多分、百どころではない。数えてみる気にはなれない。メリーの頭には蓮子の唇の感触しか残っていなかった。蓮子が裂け目の話を口にしたのは、今さっきの出来事をなかったことにしようと思ってのことかもしれない、と不安に感じた。メリーは、なかったことになど絶対にしたくなかった。蓮子とキスができて、嬉しかった。
小一時間ほどして、秘封倶楽部の心霊スポット探索はお開きとなった。メリーは上の空だった。蓮子もいつもに比べれば寡黙な方だった。
蓮子がさっきのことを意識しているのは明らかだった。だが、メリーはそれを掘り返すことが怖くてできなかった。あれは、ぞっとするほど甘美な体験だった。誰にも渡したくない、誰にも理解されたくない種類のものだった。それは、体験を共有したはずの蓮子に対してさえ、そうであるのかもしれない、とメリーは思った。
深夜の木立の向こうに、大学の屋上と時計台のシルエットが浮かぶ。ふたりは別々のアパートに住んでいるが、いずれも大学近辺だ。
「それじゃ、私はここで」
「あ……」
蓮子が軽く手をあげて、道を曲がろうとする。メリーは追いすがるように、手を前に伸ばした。
(ちょっと休憩、ってさっき言ったよね。続きは?)
そう言いたかった。だが、自分でその声を脳内で再現すると、聞くに堪えない科白のように思えてきた。
「ん?」
蓮子は、一瞬立ち止まった。さらにあと数秒待たせれば、事態がまた動いてしまう。メリーはそれを待ち望んでいるのだが、今から動く方向がきちんとそこへ行きつくかどうか、確信が持てない。
「うん、じゃあね。また明日、二限で」
「遅刻しちゃ駄目よ」
蓮子はそう言い残して、去っていった。メリーは、夜に消えていく背中を見ながら、しばらく、人差し指をしゃぶっていた。
春が終わった頃には、蓮子のことしか頭になかった。一種の風邪みたいなもので、すぐに治まると思っていた。慣れない異国、慣れないひとり暮らし、慣れない大学生活で緊張しているところに、今までに会ったことのない、刺激的で頭のいい少女と出会った。彼女と会話していると、次から次に色んなことが思い浮かんできた。
メリーは話題が豊富ね。
そう言って、よく彼女に感心されたが、それは彼女に触発されたものであると、メリーはわかっていた。自分ひとりでは、この半分のことも思いつかない。
当初メリーは蓮子の頭の良さに、信仰に近い敬意を抱いていた。
付き合いが続けば、蓮子にもそれなりの欠点があることはわかってくる。
我慢が利かないし、周囲への配慮が足りない。日頃は天性の明るさでそれらの弱点をごまかしてはいるが、時々ボロが出て、そういう時はメリーも苛立つ。
長所も短所もひと通り踏まえると、今度はメリーに新たな欲求が生じた。
もっと蓮子のことを知りたい。
そうすると、授業中や、食事中、大学周辺の車一台がやっと通れる程度の狭く入り組んだ道を並んで散歩している時、夜中に結界の裂け目を探して徘徊する時などに、蓮子の言動の端々から、新たな彼女の一面が窺いしれると、それだけでメリーはその日一日幸せになった。
だから、蓮子に触れてみたいと思うようになった時も、それほど驚きはしなかった。
驚きだしたのは、はじめはただの思いつきのようだったその気持ちが、日ごとに膨らみ、とどまるところを知らなくなってからだった。
特にこの一週間は、蓮子の裸ばかり想像していた。
この五ヶ月で、偶然触れた蓮子の肩や背中、腕、偶然見えた体の各部位から、できる限り想像を膨らました。巷にはポルノが溢れている。コンビニでもレンタル屋でも、女の裸を詳細に見ようと思えば、方法はいくらでもあった。だがそれではない、とメリーは確信していた。それらの資料から詳細に構成したとしても、蓮子にはならない。
今夜の出来事で、蓮子の骨格の把握はさらに進んだ。メリーは今夜の唇と手のひらの記憶を、細胞のひとつひとつに刻みつけるように、何度も脳内で再現した。
そうしていると、心地よい睡魔が襲ってきた。
二限目は十時から始まる。時計を見ると午前二時だ。たっぷり六時間は寝られる。
危ない、と声をあげそうになる。
夢の中なので声が出ない。
走り去っていく電車の中に荷物を置き忘れたような、そんな取り返しのつかない、でも心の中ではどうにかなるだろうと思っている、そんな気分だ。
目覚めて時計を見ると、深夜の四時半だ。さっぱり寝た気がしない。体はどっと疲れている。
蓮子の声を思い出そうとしても、思い出せない。その内容もだ。たとえば今夜、心霊スポットの廃屋に行くまでに蓮子と何を話しただろうか。何か真面目な議論を、飽くことなく交わしていたのだろうか。それとも、他愛のない食べ物や小説や服の話だったろうか。
思い出せない。
思い出すのは、あの数秒か数十秒間かの、蓮子の肉体の記憶だけ。
メリーは愕然とする。まるで肉体の記憶以外どうでもいいとメリーの脳が判断したかのように、何も思い出せない。
これもまた夢だろう、と彼女は結論づけた。
早く醒めてくれ。
醒めると、あれほど切羽詰まった感覚はもう、なくなった。昨日どころか、一週間前に蓮子と何を話したかも、だいたい覚えている。何日の何時何分まで覚えているわけではもちろんないが、辞書をぱらぱらと眺めるようにして、過去に蓮子と交わした会話を想起することはできた。朝、早くに起きて、授業にもまだ間が合って、しかしレポートや読書に向かう気力を充填するまでには至っていない時など、よくそうやって一ページ、また一ページとページをめくっては、ひとりで楽しむ。
時計を見ると、九時五十分だった。メリーはため息をついた。もう間に合わない。
アパートを出ると、すぐ横から声をかけられた。
「十一時二十八分五秒。遅刻も遅刻ね。途中で起きたけどどうせ間に合わないから開き直ってゆっくり準備した、ってところかしら」
門柱に背を持たれかけさせて、蓮子が空を見上げている。
「あら蓮子。あなたも遅刻?」
「違う。私はちゃんと授業に出たわよ」
「でも始まってまだ九十分経っていないわ。……というか、昼なのに時間わかるの?」
「あてずっぽう。さっき学食の時計見てきた。多分今そのぐらいよ」
「授業は?」
「途中でつまらなくなったから、先生には悪いけれどこっそり抜け出してきたわ」
「あーあ、駄目ね、不良学生は」
「……そこで私はつっこまないから」
ふたりは他愛もない会話を交わしながら、歩いていく。
メリーは、さっきから蓮子の唇が気になって仕方がなかった。会話は会話として楽しんでいるつもりだが、目がどうしてもそこから動かない。そこに、不意に蓮子の視線が入り込む。蓮子が少し屈んで、メリーと目線を合わせたのだ。
「どうしたの、メリー」
「あ……その」
「メリー、あのね」
そこで蓮子は言いよどんだ。
「メリー、言いにくいんだけど、ひょっとして」
メリーは蓮子の手首を引き、思い切り引っ張った。そのまま背後の塀に凭れかかる。蓮子はたたらを踏み、塀に手をついて倒れるのを防ぐ。蓮子は肘を伸ばして体を起こそうとするが、メリーが手首を強く引っ張ったため、また塀にもたれかかるような体勢になる。
「蓮子、私ね、馬鹿になったみたい」
蓮子の黒目が左右に素早く動く。人目を確認している。
「蓮子は馬鹿は嫌いだよね」
メリーは蓮子の手首から手を離し、二の腕をつかむ。
「そうでもないわ。ひとに迷惑をかけて、しかもそれを自覚してない奴は、馬鹿でも馬鹿でなくても嫌いよ」
「私、迷惑かけているかもしれない。それでもいいと思っている」
「そう、自分勝手ね」
蓮子の目は、その突き放すような口調とは裏腹に、優しくメリーを見ていた。
メリーは鼻の奥がつんとするのを感じた。
二の腕を離し、蓮子の首の後ろに手をかける。そのまま力任せに引き寄せる。蓮子は抵抗しなかった。
そのまま学食で朝昼兼用の食事を取り、同じ授業を取っている三限と四限に出た。メリーは続けて五限がある教室に行き、空きの蓮子は図書館に行った。
三、四限は、隣に蓮子がいることでむしろ集中して授業を受けることができた。だが、いないと、かえって様々な考えがメリーの頭をよぎっていく。
本当は、蓮子は自分を気持ち悪いと思っているのかもしれない。昨夜のことを後悔しているのかもしれない。さっきの昼のことだってそうだ。
蓮子が仕掛けた面白半分の遊びを、自分が本気で取ってしまったのかもしれない。それで、今までの友情が壊れるのを恐れて、今日の昼の行為を受け入れたのかもしれない。とすると、自分は、今までの関係を盾にとって自分のわがままを押し通す、最悪な女になってしまう。そんな最悪な女を、蓮子に会わせるわけにはいかない。だが最悪な女かどうか確かめるためには、まず蓮子に会わないといけない。
もし蓮子が受け入れてくれるのなら、それですべてが解決するのだから。
授業が終わり、図書館に行く。どこにいるか、聞いていなかった。物理学のところにはいなかった。棚を適当に眺めていると、ひも理論がどうのこうのという本があったので手に取る。蓮子がそんな話をしていたのを思い起こして、めくってみる。何が書いてあるのかは理解できなかったが、活字の風景の中に、ところどころ、蓮子が口にしていた言葉が散見され、そういったところから蓮子の匂いが立ち上ってくるのを感じた。
蓮子は絵画のところにいた。分厚い画集を机に広げて、頬杖をついている。
「何だ、レポート書いているのかと思った」
「書いたわよ、ひとつは。だからこうしてゆっくりしているの。といっても八割がた既にできていたものを仕上げただけなんだけどね。本命はまださっぱり。ようやく端緒が見つかったところ」
「ふうん。それは? 何の絵」
「別に、普通の。山とか、川とか」
なんとなく、蓮子が見るような画集だから奇妙な絵ばかりが描かれていると思っていたメリーは、拍子抜けした。確かに、普通の山とか川とかが描かれてあった。
「写真みたいねえ……って言ったら書いた人に失礼かな」
「まあ、写真よりは綺麗だと思う、私は。あとは好き好きでしょう」
「あ、これ富士山。私、一度見てみたいのよね」
「じゃあ、今度里帰りの時にでも見ようか。列車から見えるわよ。パノラマだけど」
「それじゃ写真で見るのと変わりないじゃない」
「わかってないわねえ。大事なのは気分よ、気分」
「その気分が台無しって言っているのよ。なまじゃないなら」
「うん、まあ、それはいいか、また今度で」
蓮子は画集を閉じて、棚に戻した。
「で、話したいことは? メリー」
行きは昼前で明るかったが、今、同じ道は夕日に照らされていた。
違う道のように見える。
ランニング中の一団が、向こうからやってきた。この近くの高校の運動部だ。道が狭いので、蓮子とメリーは塀の方に寄った。威勢よく声を張り上げながら、運動部の集団が過ぎ去っていく。ふたりは彼らをやり過ごして、また歩き出した。
「ねえ、私からしゃべった方がいい?」
蓮子が言う。メリーは肩をびくりと震わせた。
「あんたが言いにくいなら」
「ご、ごめんっ、そんな気を使わせるつもりじゃ……」
「使ってないよ。今更あんたに使う気なんて持ってないよ」
「そう」
メリーは蓮子の心を捉えかねていた。緊張が、メリーの頭から柔軟さを奪っていた。いつもなら蓮子の声色や仕草から、彼女の感情をある程度窺うことができたが、今日は暗幕で押し包んだように、蓮子が見えてこない。
(ひょっとしたら今までのだって、私の思い込みだったのかも……)
「ちょっとちょっと、メリーさん。ぼーっとしてないでさ」
蓮子がぺちぺちとメリーの頬を叩く。
「蓮子、私、気持ち悪い?」
メリーは思い切って尋ねた。蓮子の手の動きが止まる。
「いいや、そんなこと全然思わない」
蓮子が、あまりに真剣な表情で答えたため、メリーは動転した。
「うそ」
「うそじゃないよ」
「だって蓮子、男が好きでしょ」
「……物凄い言い方だね、それ。いや、まあ、私も普通に健康的な女の子だから」
「私は不健康なの」
「ちょっと……」
「蓮子にいっぱい触りたいの」
真正面から言った。相手の目を見ていった。蓮子は、少し頬を紅潮させていたが、それ以上の反応はなかった。
「最近、そんなことしか頭になくて。もっと、他に考えることが、あると思うんだけど」
蓮子は黙っている。
メリーは落胆した。どういう態度を蓮子に取ってほしかったか、自分でもわからなかったが、とにかく落胆した。そのため息は、蓮子を苛立たせたようだった。
「じゃ、触ればいい」
蓮子はぐいとメリーの肩を引き寄せる。
「そうじゃない。私、私」
「ああもう。いいから。落ち着きなさい」
メリーの腕をつかんで、蓮子は大股で歩いていく。
コンビニに入った。おにぎり、パン、スナック菓子、ジュースと、片っぱしから籠に放り込んでいく。
「蓮子、何を……」
「うーん、まあこれぐらいでいいか。石鹸はうちにあるし」
ハブラシを物色しながら何事が呟いている蓮子を、メリーは不思議そうな目で見た。
コンビニで買ったものは、二袋分になった。それぞれひと袋分ずつ持っていく。
「ねえ、今、ひょっとして蓮子のアパートに向かっている?」
何度か訪ねているので、すぐにわかる。
「そうよ」
蓮子は短く答えたきり、口を閉じた。
右側に畑、左側にパスタ屋のある、緩やかな上り坂を越えると、右手の方に蓮子のアパートが見えてくる。道を挟んで左手の方には墓場がある。蓮子の部屋は、ちょうど墓場の真向かいだ。ベランダから見える風景は墓と空だけだ。
「よくあんなところに住めるわねえ」
メリーは、蓮子のアパートを見ると毎回言う科白を、今回も言った。いつもなら、ここで蓮子が一言二言やり返すところだ。
「そうね」
蓮子の反応はそれだけだった。怒っている口調ではなく、固く、ぎこちない感じだった。
メリーが部屋に入ると、蓮子は後ろ手に鍵を閉めた。
「あー重かった」
メリーは袋を床に下ろす。
「ねえ蓮子、こんなにいっぱい買いこんで、どうするの? まさかいつもこうやって食いつないでいるわけじゃないでしょうね。食費が半端なくかかるわよ、これだと」
「そんなわけないでしょ。非常食用に買っただけよ」
「何か非常時があるの」
「そう。今から引きこもるの」
「誰が? 蓮子が?」
「ふたりで、よ」
「え……」
突っ立ったままのメリーに、蓮子は近づく。肩に手を置く。
「触りたいんでしょう。私に」
「え、え?」
メリーは蓮子の意図が読み切れていない。それでも、顔が紅潮していくのがわかる。
「蓮子、その、何を言っているのかが、私には」
「とりあえず、もう六時近いし、何か食べようか。昼前だったもんね、学食」
カップラーメンを取り出す。
「メリーは?」
「あ……私も、カップラーメン。あと、その冷凍の焼きおにぎり」
「はいよ。レンジに入れるから皿持ってくるね。あと、お湯も沸かさないと。うちポットないから」
「こっちのグミも食べていい?」
「いいよ」
そう言って蓮子は立ち上がり、食器棚から皿を取り出し、冷凍おにぎりを乗せて、レンジに入れる。レンジの低い電気音が部屋に流れる。それからやかんに水を入れ、ガスの火をつける。メリーはそうやって動き回る蓮子の背中をぼんやりと眺めていた。蓮子の言った意味を反芻する。というより、意味はもうわかっているから、あとは自分がどうするか、というところだった。
体が疼いている。
しかし、頭が体を縛りつけていた。何かがおかしい、と。これでいいのか、と。
メリーは室内では常に音楽をつけるが、蓮子はほとんどつけない。今も、レンジの音とやかんのたぎる音、あとは壁越しにかすかに伝わってくる、隣の部屋で水を流す音ぐらいしかしない。
チン、と高い音がして、レンジが止まる。香ばしい匂いを放つおにぎりを、箸で分けながら口に運ぶ。そうこうしているうちにお湯がたぎってきた。
おにぎりを片づけた頃に、カップ麺がちょうどいい柔らかさになる。音楽のない部屋を、ふたりの麺をすする音と、麺を嚥下した後に吐く息の音が支配する。
「あ、お茶の葉切らしてた。しまったな。白湯でいい?」
残ったやかんのお湯を湯呑についでメリーに差し出す。脂っこいジャンクフードを続けて食べたので、ただのお湯でも十分うまかった。白湯を飲んで一息つくと、沈黙が降りた。
その沈黙は、長かった。
メリーは、ふたりの間に流れる沈黙に身を委ねるのが好きだった。だが、この日ほどメリーが沈黙を恐れた時はなかった。目の前に最上の獲物が転がっている気がしたが、それが触れた途端砂上の楼閣のように崩れ去りそうで、怖くて手が出せない。手を出さないなら出さないで、それはそのまま消えてしまいそうだった。
「蓮子、お風呂借りていい?」
「いいよ」
逃げるようにバスルームに入る。ひとりになりたかった。しかし、蓮子のいるこの部屋から一歩も外へ出たくなかった。メリーはシャワーではなく、湯船に直接お湯を入れた。湯船にはまったくお湯が入っていなかったので、水溜りのような状態だ。蛇口を全開にしたが、それでもすぐに溜まるわけではない。構わずメリーは服を脱ぎ、入った。足の裏とお尻だけが暖かい。蛇口から迸るお湯が水面を叩く音が、狭いバスルームに響く。それに自分自身の鼓動が重なる。冷静に考えをまとめようとするが、何もまとまらない。だいたい、何が起こっているかが把握できていないのも当たり前で、まだ何も起こっていないのだ。
横開きの擦り硝子のドアが開き、蓮子が現れた。
帽子は取っていたが、服は着ていた。
そのまま湯船に入り、メリーと向かい合う。次第に溜まりつつあるお湯は、蓮子のスカートを濡らし、水面に広げた。メリーは歓喜で頭がどうにかなってしまいそうだった。蓮子のブラウスに指を伸ばし、上からボタンを外していく。三つ外した。
自分が何も着ていないのに蓮子が着ているというのが、たまらなかった。
メリーは力の限り自制心を呼び起こした。蓮子の表情を見た。かすかに震えている。メリーだって震えているが、それとは少し違うような気が、メリーにはした。
「蓮子、無理していない?」
「そりゃあ、こういうこと、したことないから」
「私、あなたに無理させたくてこういうことしたいんじゃない」
「メリーなら、いいよ」
「だから、それって……さっきから聞いていたら!」
メリーは腕を引いた。指先からブラウスの感触がなくなり、それだけで耐えがたい思いがする。それでも、必死で欲望を抑え込む。
「蓮子は……私なんかと違って、女の子に興味なんてないんでしょう。触りたいなんて思わないでしょう」
「特に今まで、意識したことはなかったわ」
「私だってそうよ!」
蛇口から出るお湯が水面を叩く音が、前より小さく、低くなる。だんだん水面があがってきている。
「でも今は違うの。私は女の子の、あなたの裸が見たいわ。見るだけじゃなくて、もっと色々なことがしたい。蓮子、あなたに……」
「メリー、そんなに深刻になるようなことじゃないって」
ぱしゃ、と水面から手を出して、メリーの肩に手を触れる。メリーは体を震わせる。精神が不安定になっているせいか、素肌の肩に触れられたのは初めてだからか、蓮子に触られただけで、そこが電気を通されたみたいに痺れた。
「私は、こんなことで、メリー、あなたとの関係を終わらせたくない」
メリーは息を呑んだ。それから、息を吐いた。吐いた時、鼻で笑ったような声が自分の口から出てしまったが、気にもならなかった。
「そうか、そうよね。本音はそうよね。私の理解不可能な趣味に、我慢して堪えようとしてくれたのよね。私を傷つけたくなかったから。あなたが我慢して私の身勝手な思いを受け入れれば、それで万事が済むと思ってるのよね」
「メリーそれは違う。ああもう、何て言えばいいの」
「言わなくていい」
メリーは湯船からあがった。体も拭かず慌ただしく服を着こんで、そのまま靴を履いて、部屋を飛び出した。蓮子は追ってこなかった。
翌日、そのまた翌日、大学で蓮子と顔を合わせたが、何も言えなかった。蓮子が何か言おうと近づいてくると、小さく首を振って、そのまま足早に去っていくということも、何度かあった。
さらにその翌日の朝だった。図書館は大学の一限と同じく、八時から開く。開くと同時に、メリーは中へ入っていった。今日がレポートの締め切りだ。昨夜はレポートの下準備を行ない、早めに寝た。何を主眼として書くか、そして何を資料として書くか、決めた。心身ともに万全の状態に持っていき、今日の半日でレポートを片づけにかかるつもりだった。
紙の匂いが澱のように沈殿した、図書館の隅、法学関係の棚と棚の間に、宇佐見蓮子が立っていた。
蓮子はメリーのレポートの予定は把握している。ここで待っていることも、不思議ではない。メリーは怖くなった。レポートのために取っておいた自分の集中力が、霧散することなく、そっくりそのまま蓮子へ向かっていくのを、まざまざと感じたからだ。蓮子は、最小限の足音だけを立てて、即座にメリーとの間合いを詰める。メリーは身をよじって下がろうとする。背中に棚が当たる。蓮子の膝が、メリーの足の間に割り込む。逆らおうとしたが、少し強く膝を押しこまれると、もう立っていられなかった。蓮子の両腕が背中に回る。そのまま舌を入れられる。
「忘れたのかな」
蓮子が言うのを、メリーは陶然とした心地で聞く。
「あの時、先に動いたのは私だった気がするんだけど」
蓮子の言うあの時とは、初めてキスをした時のことかと、メリーは思う。思考が鈍い。
あの夜のことは、メリーは自分ひとりだけの経験にしてしまっていたので、相手の蓮子がその時どうだったかというのは、まるで考えの外だった。そういえば、あの時蓮子はメリーの手を握って離さなかった。
今も、メリーを離そうとしない。
「あの時は、なんていうか、場の雰囲気に流されただけだったの。それは認めるわ。ごめん。あなたが物凄く乗り気で、ちょっとびっくりしたのも本当。確かに、ほんと言うと、女の子に興味はないよ。あなたとキスしてみて、逆にはっきりわかった。でも、あなたには興味ある。メリーとは色んなことをしてみたい。メリーを、とか、メリーに、とか、メリーと、とか、色々言い方はあるけど。私はね、絶対あなたを離さない。あなたが喜ぶんだったらなんだってする。それを、まるで私が辛いこと我慢してあんたに奉仕している、みたいにあんたが思ってたから、癪だった。傷ついた、ちょっとだけだけど」
メリーがその場にへたり込みそうになるので、蓮子は肩を貸して、外に出る。朝早くから自習に訪れてきている他の学生が、何事かとふたりを見る。
「さっきのは……見られてないかしら」
熱に浮かされたような口調で、メリーが訊く。
「多分、大丈夫。というか、もし誰か見てても、見ないふりすると思うよ」
「そうかしら」
「ねえメリー、そんなになるぐらい、私に触ったら、なんか凄いことが起きてるの?」
「そうよ。わからないの? 変ねえ」
「私はノンケなの」
「おかしいわ。こうして、蓮子に肩を貸されているだけで、狂ってしまいそうよ」
「そんな大げさな」
「わからないのかしらねえ」
「教育してよ」
「そうね」
「うち、来る?」
「そうね」
「冷蔵庫に、この前買った奴まだ全部取ってあるから」
ドアを開けると、外の光と風を同時に浴び、身が竦んだ。
「眩し……」
それに風が冷たい。素肌の上に蓮子のワンピースを一枚着ただけだから、かなり寒い。アパートの階段を降りる。緩やかな坂を下り、丁字路にわかれるちょうど正面に建っているコンビニに入る。同じ学科の知人と顔を合わせた。
「あ、ハーンさんだ」
「え、なになに。ほんとだ。わ、何その格好。ちょっと色っぽい」
ゼリーやプリンを物色していた、別の友人もやってくる。
「どうも。久しぶり」
メリーは手をあげて笑った。
「どうもじゃないわよ、どうしたの、もう二週間近く大学に来てないでしょ。レポートだって出してないでしょ、追試のところに名前あったわよ」
「ああ、やっぱり。困ったわね」
メリーはそう言ってため息をついたが、傍から見ると全然困っているように見えなかったようだ。
「どうしてそう楽観できるかなあ。そういえば宇佐見も見ないよね」
「そうそう。あの子も頭いいけど、何考えているかわかんないよね。ハーンさんは何か知らない?」
知人の問いに、メリーは正直に答えた。
「部屋で寝ているわ」
「ま、おおかたそんなところかな。私もそう思う。実はね、私たちでちょっと噂してたんだよ、ほら、ハーンさん、宇佐見と仲いいじゃん。それで、二週間、ふたりしてどこかデートで旅行にでも行ってるんじゃないかって」
「ははは、気を悪くしないでねー。でも、宇佐見ってああ見えて結構顔整っているよね。知的な女って感じで」
それから二言三言会話を交わして、メリーは彼女らと別れた。サイダーのペットボトルと、ナタデココのゼリーをふたつ入れた袋を提げて、帰路に就く。
墓場の向かいにある、アパートの部屋のドアを開けると、蓮子が毛布にくるまって本を読んでいた。
「寒かった? 外、風が冷たそう」
「何読んでるの」
メリーは毛布に入り込む。ふたりが入れるような形に調節するため、しばらく毛布がごそごそと大きな虫のように蠢いた。
「短編集」
「今読んでいるのはどんな話」
「中国の皇帝に使者が呼ばれるの。それで、任務のために外に出るんだけど、なかなか外に出られずにそのまま野垂れ死にする話」
「何それ」
「謁見の間がすごく広いんだって。そこ抜けても、今度は宮殿が抜け出せない。宮殿抜けても、今度は迷路のように入り組んだ街から抜け出ない。とうとう首都から一歩も出られなかった」
「へー、なんだか異世界ね」
「メリーなら、首都と外との境界を見ることができたかな。この作者、フラン……」
メリーは蓮子の腕に指を這わせ、手首をつかみ、本を閉じさせる。
メリーの体が蓮子の肌の上を虫のように這いまわるのを、蓮子は感じる。正直、気持ちいいというよりは、くすぐったい。体の奥から何か湧き上がってきて、そのまま沈んでしまうような、もどかしい感じはするものの、言ってみればそれくらいだった。激しく陶酔しているメリーの様子が羨ましい。ただ、この倦怠感に限りなく近い安心感は、病みつきになるな、と蓮子は思う。そのうち自分の感覚もメリーのそれに似てくるのだろう。それが恐ろしくもあり、楽しみでもある。
そこに至ってしまえば、多分もう、二度と抜け出そうとは思わないだろうから。
ネチョるかネチョらないかのギリギリの間合いでこそ、百合の花は鮮やかに咲くのだと思います。
ここクーリエの管理人さんの考え方として創想話にこの手の話を投稿するのはアウトかなと思います
詳しくは管理人さんのブログの今年1月5日の記事に記載されてます
最近の投稿作品では際どいものがたくさんあって
明らかに管理人さん的にアウトのものもありますが
この作品はタイトルからアレなので一応指摘させて頂きました
もう少し直接描写を濃くして夜伽に上げられたらどうでしょうか
しかしこれは……あまりにギリギリすぎる。うっかりするとネチョに踏み込みかねないグレーゾーンです。白か黒はっきりするなら、たぶん黒じゃないかというくらい。
せめてもう少し、キスシーンの描写を穏やかにするとか、直接的な表現を使わないとか、そうした方がいいんじゃないかと。
私としてはかなりの高得点をつけたい作品でしたが、このままでは創想話的にマズイかもしれないので、とりあえず点数は保留させていただきます
まぁ個人的にはギリギリセーフの範囲かとは思いますが……
う、う~ん・・・・評価したいところですけど
ちょっとこれはどうなんでしょ。
蓮子×メリーの話は大変楽しく読ませていただきました。
とりあえず、半々として点を。
ここの雰囲気には馴染めてないように思いました
もっとさわやかな蓮メリ見てえー
だがここだと◯◯◯◯なコメントできないのが残念だ。
たとえばおっk(以下猥雑な文字のオンパレードでアウト
むろんそんな目で評価しないで、
表現の善し悪しだけで評価すれば良いのだけど、
いかんせん反応してしま(最後の良心が発動しました。ありがとうございました。
というか、これくらいって一般向けでよくある範囲のような
それはそれとして素晴らしすぎて悶えた
個人的な欲望をいえば、この二人にはもっとちゅっちゅして欲しい!
引き返せなくなるまでの蓮子の心情を事細かに読んでみたい!と思わせる話でした
あと最後の二週間ぶりとか、服装とか、友人との会話とか妄想を色々刺激してツボでした
本当にありがとう
後、改行のタイミングや場面の移り変わりが分かり辛く、また描写が予備動作も無く挟まったりしている為、
情景を思い起こすのがやや難しい気もします。
けれど、なんというか、とても雰囲気が(そこまでよ!)でした。
特に、メリーと蓮子が(そこまでよ!)して(そこまでよ!)する場面などでは(そ・こ・ま・で・よ・!)でした。
描写をもう少し(?)ボヤかせば大丈夫だと思います。
ムハムハしながら読みました
このぐらいの表現ならセーフと思うのですか…
みなさまの、「いや、ちょ、おま」と「ハァハァ」という声
どちらもありがたくお受けいたします。
〉2さん
この作品を、好きと言っていただいてありがとうございます。
ブログの記事読みました。
あなたのアドバイスが、当を得ていると思います。
なのでアドバイスの通りにしてみました。
よろしければそちらもどうぞ。
〉19さん
ご指摘どうもです。
勢いのまま、描写をめんどくさがってすっ飛ばして書くのは私の悪癖です。
丁寧な描写と勢いは、必ず同居しうるものだと考えてますので、課題ですね。
ご指摘のお礼は次回作で(ぉ
それにしても気になるところばかりが伏字になっておりますなw
〉みなさん
秘封ちゅっちゅ愛好家がたくさんいらっしゃって嬉しい限りです。
直接描写は諸刃の剣なんですよねー
秘封とは関係ないですが、境内裏ロマンチックのあのエロさは
直接描写をしなかったところにあると思うんですよ。
「ゆかりんその手に握ってる手袋は何? 何したの?」みたいな。
直接描写は無論私も好きですが、エロいのも好きです。
直接描写=エロと直結はしないと思うので、今後ともエロいの書いていく所存です。
あ、でも次回作は
「風神葬祭 ~神奈子と幽々子」
なので、別に誰もちゅっちゅしません。
やっぱりアナタの書く秘封倶楽部がダイスキです!エロス!!次回作はオンバシラでナニするつもりなのさ!!
いやもうとにかく蓮メリ万歳
一生付いて行きます
この、こう、最後らへんのだめだめな二人が、もっとだめになれ!的な感動が!
…何を言ってるか自分でもわかりません!けどときめいて死にそうです!
ぉ、さりげない(!?)前作品への誘導、ありがとうございます。
自分の作品を継続して読んでくれている人がいるというのは
他に類のない悦びですね。
これからは、本格的なちゅっちゅは夜伽の方に上げますので、そちらもよろしくです~
〉13、28、29さん
ああ、そこまで感謝されるとこちらこそ頭が下がります(汗
〉25さん
いやそこなんですけどね、そもそも誰が言い始めたかメリーの方がおp(ry
ええ、まあ、場所を変えましょうか。
それと冒頭の蓮子の科白でキスは初めてではない的なことを言っていたのがひっじょ~~うに気になりました。
蓮子とキスしたことあるやつでてこい
ふふふ。
作品集60「エピクロス少女病」
にそのときの詳細が書かれていますぜ。
最高。
エロ万歳。
退廃的な雰囲気がたまらん。
少々残念なのは以前あった描写が整理・削除されてることですね
でも野田さんの書く蓮メリは自分にとって未だに印象深いなので
これからも暇を見つけて書いていただけると個人的に嬉しいです
嬉しいです。
投稿した当初、場所を変えて投稿することを勧められまして
その際こちらの原稿を少しいじりました。
削られた箇所は幻想入り……したわけでなく、別の場所で生きていますw
蓮メリ、私も(無論)好きですねえ。
幻想郷を巻き込んだ一大イベント、とかでなく
日常の彼女らを書いてなおかつ非日常感を出してみたいものです。
私はエロさよりもついつい恐怖感を覚えてしまった。何というか恋愛の盲目感というか危うさというか。
何にしてもこの生々しい感じはたまらない。
素晴らしい。