Coolier - 新生・東方創想話

睡蓮

2008/11/17 04:04:45
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その花言葉は純粋な心。






地獄の公的組織『是非曲直庁』には数多くの閻魔、死神、鬼が属し統制を取っている。
トップには十人の閻魔王。その下には裁判官と鬼人長が居る。
裁判官の下には数人の死神が付き、鬼神長には数人の鬼が付く。
こういった異常な構造故に派閥争いもあるような、非常に俗的な縦社会である。

閻魔はそもそも地蔵であった。
各地の地蔵が閻魔として自分が居た地の者を裁いた事が、現在のこの組織の構造に関与している。
しかし、人が増加するにつれて閻魔の数も劇的に増え、自らの地を担当するだけでは偏りが生じるようになった。
それにより、有能な者は大変な仕事量の場所の担当を、無能な者は比較的楽な場所の担当を命じられる。
つまり、いかに大変な地を担当するかが閻魔にとっての誇りなのであった。
だが、非常に特異な地となると話は別である。

例えば自分が担当する地は、そもそも新たな管轄として作られた事自体が異例だったのだ。
その地はある国の山奥に作られた大きな結界の中、一つの都市にも満たない小さな場所だった。
故に結界が張られた当初、その周囲の地域で管轄の一部として処理されていた。
しかし、事情は次第に変わり始めた。その地に忘れられた物や者が集まり始めたのだ。
者だけを挙げるなら、豊かな自然の化身や様々な妖怪、幽霊や鬼など。
そして、集まってきたそれらが独自の生態系を創造し始めたのだった。
そうしてこの地を周囲と同一の管轄として無視する事が出来なくなっていった。
閻魔王の協議により、その地は『ザナドゥ』という新たな管轄として認められるようになった。

鬼や妖怪を相手にするとなると、必然的に有能な者が担当しなければならない。
地獄を舐められては困るし、窘められないような能力の人材であることが必須だからだ。
しかし、どの派閥も有能な人材は手放したくない。至極当然だ。
白羽の矢が立ったのが、辺鄙な地で退屈ながらも充実した閻魔をしていた、派閥争いや、出来レースの閻魔の管轄地決めとは無縁だった私。
閻魔王達は自分の保身の為に、不出来な閻魔をその地に送る事に決めたのだった。

本来ならば最危険地区担当の筈の『ヤマザナドゥ』はこうして、嘲りの意味を持つようになった。
勿論そのような経緯が有った以上、私を見る閻魔の目は軽蔑を含んでいた。危険な地に出向くにも関わらず、である。
また、元々少ない女性の閻魔でも有った為、男性中心の『是非曲直庁』ではあまり良く思われて居なかった。
しかし、こういった形で晒される事になると、憤りを通り越して悲しみさえ出てくる。
その一方で私を生贄に捧げようとした閻魔王達は、漸く地獄の保身を始めた。
それはせめて閻魔らしく振舞えだとか、閻魔として恥じない裁きを行えだとかちっぽけな物であったけれども。
そういえば、この時私に餞別として浄玻璃の鏡を新調してくれた。
鏡は閻魔としての能力を示す物でもあるのだが、私に手渡されたのは手鏡程の小さな物だった。

かつての部下の死神達は私を離れていった。
自らを泥舟と表現するのはあまり気が進まないが、そのような船からは逃げるに限る。
少なくとも上司の不幸に付き合う程の物好きは居なかった、ということだろう。
薄情だとは思うが、自らが死神の立場ならそうしていたかもしれないと思うと彼らを責める事は出来なかった。

管轄が変わる、とは言うがその場所に実際に出向く人事異動は滅多にない。
むしろ事務所や裁判所は変わらず、裁かれる者だけが変わるといった事の方が多いくらいだ。
しかし『ザナドゥ』の住人は特別であり、此方の面でも異例の措置が行われた。
『是非曲直庁』の本社とは隔離された裁判所、事務所。
それに伴った私や他にも抜擢された死神の移動が命令された。
『ザナドゥ』の住民が漏れる事を防ぐ為の措置である、とは言うが臭いものには蓋をの精神なのではないだろうか。



真新しい裁判所兼事務所兼住居へ辿り着く。
此処がこれからの新居ともなるのだと思うと、色々と感慨深いものがある。
兎に角、住居部分に荷物を置いて事務所で雑務を済ませる事にする。

「お早う御座います。」
事務所に入ると既に居た、一人の眼鏡をかけた死神が椅子から立ち上がり、声をかけてきた。
細身で長身。恭しく頭を垂れる彼が手にしている書類を見ると色々な数字が書かれていた。
恐らく、寿命の管理を行う死神だろう。軽く会釈をして自らの席に着く。

本来ならば二交代制の為閻魔の席は二つあり、二人の内優位な者が右の席に座る。
これは閻魔間の慣習であり、互いの立場を明確にさせるための儀礼でもあった。
しかし此処では一癖、二癖もある者が集まるとはいえ、絶え間なく裁判をする必要が無い程の人数しか住んでいない。
故に閻魔は一人であり、死神も様々な面で経費削減をされているようだった。
先程川岸を通った時、使い古された船しか並んでいなかったという事から考えてまず間違いないだろう。

既に私の机に山積みとなっていた、彼が確認したであろう書類に手を伸ばす。
そこにはかつて見た事がないような文字が躍っていた。天狗、河童、鬼、仙人、天人。
勿論人間も、というより人間に混ざってそれらの文字が有るのだが、存在感が桁違いだった。
これらを相手にして閻魔をしなければならないと思うと頭が痛くなる。
しかし任せられた以上閻魔が遂行出来なければ、上からも此処の住民からもどのような目に会わされるか分からない。
自らの行く末を案じていると、次々と事務所に死神が入って来た。

死神は閻魔達ほど男性に偏っている事もないのだが、上の影響か男尊女卑傾向が有ったりする。
本来なら以前の部下が共に作業をするはずなのだが、かつての部下が離れたため、新しくやってきた死神と共に仕事をせざるを得ない状況にあった。
やってきた死神の内、自ら志願した死神はすべからく自己顕示欲や自信に満ち溢れた人材であった。
危険な場所、つまり仕事が非常に辛い場所で自らの身分を高めようと思った者だ、仕方無いと言えば仕方無い。
また、以前此処を管轄していた死神から出向を命ぜられた者は、すべからく無能であった。
後者に関しては自分も似たような境遇なので何とも言えなかったが、両者共に居る此処では今までとは決定的に違う点を感じていた。
それは、私を邪魔者として扱う事。
今までの職場は平和な場所でも有った為、それほど小競り合いも無く作業を出来ていた。
ところが現在は、自己顕示欲を持つ自信家には無能な上司として疎まれ、無能な死神にはやり場の無い感情を向けられる閻魔となっている。
そういった扱いになるのは至極当然だった。
また、それは挨拶にも現れていた。形式的な挨拶を行う者は何処か高圧的で、挨拶をしない者は仕事を一向にせず怠けていた。
仕事をするよう勧めると舌打ちをしたり、私を非難する(例えば『ヤマザナドゥが五月蝿いんだよ』だとか)というような有様だった。
不貞腐れるのは納得できるが、せめて仕事ぐらいはしてもらいたい。



そんな死神の中でも一線を画する者が居た。
彼女はその私達が就任した日にも遅刻してきた事を覚えている。何より第一印象が凄かった。

「遅れました、すみません!」という大声と共に、彼女はドアを蹴飛ばすように事務所へ入ってきた。
私は怠ける死神に叱り付けていたのだが、怒りが一瞬で吹き飛んだ。彼女の破天荒さは続く。
勢い良く開いたドアが壁に勢い良く当たって跳ね返り、彼女の体へとクリーンヒットしたのだ。
丁度照れるように頬を掻いていた彼女に扉ががつんと当たり、あまりの衝撃に彼女は吹き飛ばされるようにうつ伏せに倒れた。
手を広げ床に倒れた赤髪の彼女の姿に事務所を包んだ沈黙が合わさり、さながら事件現場に居合わせたようにも思えた。
それだけでも十分なのだが、その後に痛む腰を抑えながら立ち上がって、私に近寄り必死に遅刻の弁解を始めたのだ。
これらが非常に重苦しかった事務所の空気を大きく変えたことはまず間違いないだろう。
あまりに真剣な彼女の様子に、私が叱り付けていた死神はおろか私でさえ笑いをかみ殺すのに必死だったのだから。

彼女は小町と言う船頭だった。
船頭は本来外勤の肉体労働であるため、本来事務所に来る理由は無い。
しかし、この日は就任初日であり、日程や運ぶ幽霊の数などを決めなければならなかった。
彼女はそれ失念して船を出そうとしていたという。その事に気付いたのは船を出し、三途の川も中腹に差し掛かったときだったらしい。
そうして今の時間になってしまった、ということだった。

彼女にそこまでして貰っておいて何だったのだが、実はそれほど緊急の仕事があるわけではなかった。
勿論引継ぎの間にある程度は溜まっていたのだが、当面の仕事は引継ぎ資料の確認と先程の死神がしていた寿命の改訂。
あるいは少しだけある裁判待ちの死者達の対処くらいだ。流石にこの少量では流れ作業の裁判も始められない。
そういえば、最近新しく冥界の白玉楼に子が生まれた(半死の人間にこの表現が的確かどうかは分からないが)そうだ。
其方に挨拶がてら顔を出すのも悪くないかもしれない。でも、と考える。
折角時間があるなら『ザナドゥ』の人々に正しい生き方を教えた方が良いかもしれない。
これは閻魔王の教育の賜物かもしれないと自嘲する。しかし、先の死神のように呆けている方が問題だろう。
世間話のほうが多かった気もするが、説教は此処に来る以前にもしていた事だ。違和感は無い。
同時に暇となったこの赤髪の船頭と共に、三途の川を渡ってザナドゥへ向かう事にした。
まるで休暇のような私の一方、事務所の死神達は仕事を続ける事になるが、元々嫌われているんだ。気にかけることは無い。

その旨を船頭に伝え、2人で軽く会釈をして事務所を抜け出す。
扉を閉めるとき船頭が着て説教を免れた死神が、退屈そうに欠伸をしているのが見えた。
帰ったら少し注意してやろうと思う。



必要な荷物を準備して手漕ぎの古びた船に乗り、一路ザナドゥへと向かう。
この名は忌々しくも有るので、あまり使用したくない。此処からは人々が用いる『幻想郷』という名を使おうと思う。
本来は飛んで幻想郷に向かう事も出来るのだが、色々と話がしたかった。
また、準備と先程述べてはいるが、殆ど荷物は持たなかった事を書き記しておく。悔悟の棒も持たず、手に取ったのは手帳と筆記具と財布くらいだった。
三途の川には深い霧がたちこめ、尖った苔むした岩が多く立っている。故に突然目の前に岩が立ったように思える場面が少なからずある。
その為、船はとても低速で漕がなければならない。漕ぎ手はゆっくりとした単純作業になるため、船上でなら両者共に話が出来る。
元来地蔵という身であったのに、此処まで会話が好きになったのは自分でも驚きだ。そう考えれば、他の閻魔でも饒舌なのは珍しい。
ともあれ、知識を得る手段としても便利な会話は合理的でもある筈だと思う。
彼女は、言葉は悪いが少し前に述べた自ら出向してきた人物には当て嵌まらない。きっと資料を見るしか出来ない私よりも、今から向かう場所については多くの事を知っているだろう。
結果としてこの三途の川クルーズは、私が幻想郷の知識を広げる場ともなった。

ぎいこ、という船を漕ぐ音だけが響いていた。
霧のせいで互いの姿を見受ける事ができない。私は畏まった様に座っていたのだが、川の中頃で軽快に漕ぐ鼻歌交じりの船頭に話しかけた。
「どういう所?」
影の彼女は突然の質問に少し驚いたように、体を強張らせた。船を漕ぐ手を止め此方を振り返り(といっても影しか見えなかったが)返答した。
「ええっと…綺麗な所ですよ。彼岸も花が咲き乱れていますけれども、あちらの綺麗さには劣るね。」
少し声が裏返っていた。異様な慌てぶりは、前の閻魔に頻繁に怒られていたからかもしれない。となると今日の事務所での件も、その影響かと思える。
しかし、情報としては不完全だ。閻魔としては綺麗さよりも施設や場所、人外の者を知りたい。
少し痺れてきた足を組み替えて、胸元から手帳を出して尋ねる。スカートの中が見えそうな気もするが、霧の中の上女同士ということもあるので気にしない。
「それ以外には?」
今度は、川の流れに逆らうように再び漕ぎ始めていた手を止めなかった。顔を霧の中へ向けながら答える。
「…そうだね、妖獣を始めとして、様々な妖怪が住んでるよ。他にも幽霊とか。
 例えば三途の川を渡り切り、小さな道を過ぎると大きな山の裏側に出るんだけど、其処には鬼とか天狗とか河童とかが住んでいるね。
 そこに沿って南に進むと湖がある、そこには妖精が多く住んでいるな。さらに南に進むと大きな人里がある。」
緊張が解けたのか、フランクな話し方になった彼女から聞けた話を地図と共にごく簡単に書き留めていく。
得られた情報は思っていたほど多いものではなかったが、十分な成果が得られた。黒く染まってきた手帳を眺める。
大きな人里を中心として、北に大きな山と湖。西には原生林が広がり、南には小さな山と季節によって変わる無数の花畑がある。それぞれに別の妖怪や人が住み着いているらしい。
考えると本当に可笑しな場所であった。妖怪は人を襲う為、大きな人里などの住み分けが成立する筈が無いからだ。
それに関しても彼女が答えてくれた。里は妖怪の賢者に守られている、と。
それ自体も可笑しな話ではあるが、独特の生態系を組み立てているという場所だ。これ以上は私自らが見た方が良いのだろう。

ぱたん、と手帳を閉じ、またもや痺れてきた足の組み方を変える。
胡坐をかくわけにもいかないので、とりあえず小さな船の中で出来るだけ伸ばす事にした。
一旦痺れてしまうとどんな足の組み方をしても、一旦引いた痺れが再び襲ってくる。この組み方も時間の問題だろう。
「へぇ、閻魔でもそんなリラックスするもんなんだね。」
今度は彼女から、嫌味かどうかすら分からない言葉が飛んできた。
「意外ですか?」
目のやり場が無くて川を眺めていた私が少しむっとして尋ねる。
むしろ個人的にはこういった格好の方が以前と同じなので違和感が無かったつもりだ。
「意外というより、さっきから中が見えているよ。」
霧で見えないものだと思っていたので今度は逆に此方がたじろぐ。急いで足を閉じて、彼女の方を向きなおす
確かにこんな霧の中で低速とはいえ岩に当たらず漕いでいるのだから、ある程度は見えているのだろうとは思えるが…。まぁ、彼女は女性なので大丈夫だろう。
「はは、気付いてなかったんだね。船頭を長くやってるあたいを舐めちゃいけないよ。」
本当にその通りだ。二重の意味で気を抜けない新しい職場の気苦労が増えそうで頭が痛くなる。

殆ど岩の影と霧しか見えない、何処までも変わらない景色の三途の川。その景色が変わったのはその会話が終わってすぐだった。
先程中腹と言っていたがどうやら正しくは無かったようだ。しかし、何時までも変わらない景色の三途の川では仕方が無い…と言い訳をしておこう。
実際は船頭の漕ぐスピードが相当速かったためなのだろうと思う。
ゆっくりと湖岸に船を着け、2人は船から飛び降りる。船は此方に置いていく事に決めた。
三途の川を渡る事くらいしか出来ない古い死神の船だ。技術が無いと使えない上、使えば死ぬような物を欲しがる者は居ないだろう。
船頭は白い彼岸花が咲き乱れる岸に、小さな杭を挿して船の先の綱をかける。これにより、船にかけられた術により結界が発動する。
船は薄い赤色をした結界に囲まれ、杭を挿した者以外を受け付けなくなった。
この船にかけられた術には死神の船の盗難防止などの意味合いがあるのだが、それほど強い結界ではないので注意が必要だ。
まぁ前述の理由から現実的には、精々虫除けにしか使われなかったりするのだが、それでも張らないよりはマシだろう。
此方の方でもこの赤髪の船頭の手際の良さには舌を巻いた。どうして落ちこぼれなのか不思議なくらいだった。



幻想郷は収穫の季節を迎えていた。暖かい恵みと引換に日々寒くなっていくこの季節に、閻魔の衣装は少し肌寒かった。
山は装い、満ちた月の明かりが道を照らしている。道沿いには小さな草が生え、中からは蛙や様々な虫の声が聞こえる。
彼岸でも様々な花が咲き乱れているのだが、此方には趣があると言うべきだろうか、華やかさとは違う奥床しい美しさがあった。
彼女の話によると夏には太陽の畑と呼ばれる向日葵畑も現れるらしい。其方はまた違う美しさを持っている事が簡単に想像できた。
軽く震えながら船頭に道案内を頼み、小さな道を進んでいく。夜だったのは少し誤算だったが、道のりは長い。
ゆっくりと進んでいているうちに太陽が昇るだろう。飛んでも良いのだが、この地を体感する為にも歩いた方が良さそうだ。

「今晩は、良い月夜ね。ヤマザナドゥさん。」
虫の声が止み、不意に背後から声がかかる。小町だろうかと思ったが、声そのものが違う上に挨拶する理由が無い。第一私に先行して歩いている。
嫌な予感を感じて振り返ると、そこには傘を差した金髪の少女が立っていた。
何時の間に後ろに立っていたのだろうか。奇抜な衣装と帽子をまとい、傘を差した少女に高圧的な態度で尋ねる。
「どちら様でしょうか。」
相手の身分が分からない以上、こういった質問になるのは当然である。増してやこのような怪しさ全開の相手であれば。
「月の感想くらい返しても宜しいんじゃなくて?」
少女は微笑みながら返す。八重歯を見せ、したたかに微笑む姿には一種の狂気の様な物を感じてならない。凍える背筋がさらに冷える。
此処で船頭が耳打ちする。この少女が妖怪の長で、賢者である、と。船頭は身構えていた。
巫山戯た場所だとは思っていたが、その地を生み出した者も巫山戯ている事がこれで分かった。
妖怪は傘片手に扇子を広げる。どうやら、此方の回答を待っているようだ。一癖二癖ある妖怪とは言うが、癖どころではない相手なんだと実感する。
「楽しそう。」
さぞ意味深そうに答える。こういった相手は(言い方に語弊があるかもしれないが)相手にしない事が一番だった。
「私が、かしら。」
扇子を振りながら、妖怪が心底楽しそうに尋ね返す。口元が見えないのでなんとも言えないが、少なくとも不快に思っている様ではなかった。
「餅をつく兎が。と答えておきましょう。」
踵を返す。敵意は無さそうだが、このまま話を続けられるのも厄介そうだ。折角の時間を無駄にもしたくないし、無視して歩き始める。
船頭は少し戸惑っていたが、直ぐに此方に着いて来た。初めて会った癖に出来れば二度と会いたくないタイプの妖怪だった。
歩行と同時に此処に居る妖怪がこの妖怪と似たような性格の者ばかりと想像し、震える体をさらに震えさせる。
「あらあら、つれないんだから。」
今度は眼前に妖怪が現れた。先程と同じように扇子を口元に添えている、尤も黒い隙間から体を逆さまに出していたが。
「そうそう、私は八雲紫。しがないスキマ妖怪よ。妖怪の賢者としてあなたの旅の安全を約束するわ。」
ぱちんと勢い良く扇子を閉じ、帽子を拾って妖怪は忽然と姿を消す。同時に大きな溜め息が出た。
彼女の扇子の音と共に再び虫が鳴き出した。全てを包むような優しい音色に聞こえた気がした。
二度会ってしまったが、もう会いたくない、と私は思う。



船頭と共に南へ進んでいく。
船頭の話通り、小さな幻想郷には不釣合いの大きな山が聳え立っていた。しかし、これは山と言っていいのだろうか、非常に歪な形をしている。
麓は木に覆われているのだが、上のほうはゴツゴツとした無骨な岩が見て取れ、それこそまるで大きな岩を組んだだけのようにも見えた。
とはいえ、山を作ったとは流石に思えない。メリットも無いだろうし、余興にはあまりにもスケールが大きすぎる。
誰かの権力を誇る為の大きな墓、というのも考えられたが、ゆうに1万尺もありそうな岩の山が墓とも思えない。
若しかしたら噴火でも起こったのだろうか。いや、噴火が起こったなら麓の樹林が有り得ない。
あれでもない、これでもないと思考しながら歪な山を眺める。何にでも深く考え込んでしまうのは職業病なのだろうか。
一方船頭の方は此方を幾度も確認しながら少しずつ先へ進んでいく。これ以上待たせるなら置いていくという意思の表れだろう。
それに気付いて、慌てて小走りになる。
幻想郷にはこの大きな山のほかにも歪でありながらも美しいと思える場所が多い。
例えば山の南にある湖が良い例だ。滾々と流れ着く山からの水に満たされ、遥か下の湖底が見える程澄んでいる。しかし、水は殆ど川の形で流れ出ていない。
あの量の水が此処でせき止められ、流れ出ないとは考えられない。また、せき止められているなら水が汚れない筈がない。それでも、湖は堂々とそこにあった。
他にもこの時は訪れられなかったのだが、虫と暗闇と茸の世界である原生林や、人里の南に点在する太陽の畑を代表とした四季の花畑などがある。
特殊な生態系と言ってまとめるのは横暴にも思えるが、それ以外に形容する言葉が思い浮かばない。

既に日が昇り始めている。秋の太陽は自らも目覚めの時間が来るのを嫌がる。
様々な所で私が足止めされ(と言うと、正当化された気になる)予想以上に時間がかかってしまった。兎に角、目的地に辿り着くことが出来たなら問題無い。
しかし、夜明けと足止めされた到着が一緒の頃になっていたのは、思っていたよりも幻想郷は狭かった、とも言えるのではないだろうか。
この程度の広さであれば、私が前に担当していた地域の十分の一にも満たない。尤も危険度とは別の話ではあるが。

一歩人里に踏み込むと、街は既に活気に溢れていた。
軒先から朝食の煙と香りが漏れ、店先には呼び込みの人が立ち、様々な店が暖簾を並べている。
左を見れば宿と書かれた店先の、睡蓮が浮かんだ瓶に金魚が飼われていた。その向かいで早朝にも関わらず堂々、酒と書かれた旗を揚げているのは、有る意味平和で良い場所にも思えたが。
他にも茶屋などもあり、そこでは旅装をした人々が店先に出された長椅子で休んでいる。
隣の船頭は疲れた様子で欠伸をしている。此方が上司な上、船も漕いで貰っていたのでぞんざいに扱う訳にはいかないだろう。
「少しお茶でも飲みましょうか。」
そう言って率先して椅子に座り、団子を二皿頼んだ。船頭は少し赤面していたが、直ぐに溜め息を吐いて私の隣に腰掛けた。
待っている間、不意に昨晩(今朝の方が正しいかもしれないが)会った妖怪の事を思い出した。紫と言っただろうか。
あの時は気にも止めなかったが、どうやら此方の事を良く知っているようだった。特殊な瞬間移動と言い、何かしら特別な能力を持っていると考えても構わないだろう。
スキマ妖怪と名乗っていた事からして、あの移動手段が彼女の特殊な能力なのだろうか。いや、あの黒い隙間だけで彼女が賢者と呼ばれるとも思えない。
少なくとも強い力を持っているのは間違いないのだろうが、それだけでは納得できない。

上の空になっていた私の手元に五つの串が盛られた一枚の皿が乗せられた。慌てて皿を落としてしまいそうになりながら、乗せた人を見上げる。隣からは嬉しそうな咀嚼音が聞こえてきていた。
私の目には背を少し曲げた年配の女性がにこやかに立って、此方を見ている様子が映った。
「お嬢ちゃん達は変わった服を着ておるが、妖怪さんかえ?」
そう言いつつも恐れている様子は無い。賢者の庇護の下此処で暮らしているそうだから、まず襲う事はないと信じているのだろう。
「だとしたら、はよ出た方がええ。里はこわーい人間もおるでのう。」
むしろ此方の心配をしてくれているようだ、大げさな仕草で忠告してくれた。閻魔らしからぬ威厳の無い容姿故とも言えるだろうが、誤解は早く解いてしまいたい。
「いえ、私達は…。」
「旅の芸人ですよ。」
けたけたと笑いながら船頭が私の言葉を続けた。何時の間に頼んでいたのだろうか、串を持つ反対の手にお猪口が握られていた。
頬が紅潮しているのを見ると、もう出来上がってしまっているようだ。足を揺らし一つの串を口に運び、続けて言う。
「うん、美味しい。お礼に何か芸を見せたいですね。」
「小町。」
窘める様に名前を呼ぶが、彼女の耳には届いたのだろうか。
「…そんならここいらでは狐に気を付けなされ。なんなら誰かに護衛を頼むとええ。」
どうやら真に受けてしまったようだ。そう言い残して老婦人は盆を持って店に入っていった。一抹の不安を残しながら団子を口に運ぶ。

欲というものは尽きない物だ。あれが手に入るとこれが欲しくなり、これが手に入ると次はあれが欲しくなる。
同じ様に団子が口に入ると酒が欲しくなり、酒が口に入るとさらに団子が欲しくなる。
偶然なのだろうか。宿屋と酒屋と茶屋が直ぐ傍に有るという事は。酒も団子も手に入り、眠くなっても宿屋が有るという安心感がある。
…いや、こうやって冷静に分析している場合ではない。私の隣ではその欲を出した人間(尤も死神だが)が、その安心感に浸りすぎている。
まさかあのまま団子を何十皿も平らげるとは思わなかった。金銭面では問題無いのだが…閻魔とその連れが人里でする事だろうか。
勿論幾度も止めようとした。しかし、彼女は聞く耳を持ちあわせていなかったようだ、余計に速度が上がり団子が減っていった。
材料が底を突くまでそれが続いた。残ったのは巨大な皿と串の山と、髪の色と同じ顔をした一人の死神だけ。
いつしか人だかりが出来ていた。

「いやぁ、御馳走になって済まないです。」
全く調子がいい。あれなら大食いの芸人と言っても違和感は無かっただろうとは思うが。
結局支払いは此方にさせられた。というかそもそも小町は財布を持っていなかった。一つ間違えば無銭飲食だったんじゃないか。
それでいて、さらに彼女はあんなに大酒をかっくらった筈なのに飄々としている。大胆と言うか何と言うか。
そういえば、茶屋の老女主人はあまりに良い食べっぷりを気に入ったのか、入れ物と共に様々な物を持たせてくれた。
魔除けのお守り(持ち主の霊力に応じて妖怪が寄りにくくなるらしい)と転移のお札(籠めた霊力に応じて物を輸送する事ができるらしい)。
他には手帳とほぼ同じ事が書かれている地図や、一皿にはならない残った材料で作った小さな団子をいくつか。
しかし、彼女のせいで当初の予定だった説法が出来なくなった事は述べておく。あれだけ目立つ事をされては説法も出来る訳がない。
蝋燭の火を消せそうなくらい、大きな溜め息が出た。

彼女のある意味部下である筈の死神らしからぬ振る舞いは、ここで既に発揮されていたのだった。
後に私はそれに感謝する事になる。



当初の目的が達成できなかった時、人は代償行動と呼ばれる行動を起こす事がある。
自分の好きな事をしたり、欲求をそのままに感情に表したり、不満から物にあたったり。この事もその代償行動と言えるのかもしれない。
説法が出来なくなった私は、幻想郷での時間を手持ち無沙汰に過ごすしかなかった。
かといって本当に宿へ泊まったり、あるいはまた何処かで団子を頼んで茶を啜るという事も何か違和感が有る。
閻魔らしい閻魔としての自覚が、私をそうさせていたのだと思うが、今思えば確かに不思議な事だ。
使命感は有ったが、それは強制的なものでもなければ自発的なものでもない。
ただ、そうしなければいけない気がする『運命の糸』のように導かれていたのだ。
話が少しずれてしまった。代償行動の話だっただろうか。兎も角、私はその使命感による物を何かで紛らわせようとしていた。

今の私であればどう行動を起こしていたのだろうか。状況的にも妥当な理由で小町に当たっていただろうか。
あるいは場所を変えて説法をしていただろうか。若しくは泣いたり怒ったりしていただろうか。
この時の代償行動はいずれでもなかった。というより、自発的なものではなかった。この出来事の張本人である小町の誘いに乗っていたのだ。
「…お礼と言ってはアレだけど、あたいにとっての特別な場所を見に行かないか?」
酒を飲んだためだろうか、まだ少し紅潮している頬を掻いて照れ臭そうにしている。傲慢に振舞った事を一応気にかけていたのだろうか。
その誘いは何故か自らの時間潰しに画期的なような気がした。二つ返事で了承をし、私達は一路西へ向かった。

人里の西には原生林である通称『魔法の森』が広がっている。
魔法茸や苔やシダ植物。日の入る事が無いほど茂った木々が特徴である。また、魔法使いが多く住み、森にある家にはまず魔法使いが居るという。
以上は全部小町から聞いた話だが、まさにその解説どおりの場所だった。
日の入らない森には湿気が満ちており、所々で生臭さを感じる。臭いを感じた場所の近くでは、奇妙な形をした茸が生えていたり、小動物の死体があったりした。
死体には小さな茸が群がり、栄養を自らのものとしていた。そして空気中には蒲公英の綿のような胞子が輝きながら舞っている。
所々に廃墟にしか見えない家や不気味な赤色や青色で飾られた家。あるいは木の上に建てられた家やそのまま木に扉が付いている家などが在った。
そのような場所だからだろう、人には一人も会えなかった。質の悪い大気が満ちる場所で少し咳き込みながら尋ねる。
「どのような場所なのですか?」

そういえばこの時も、というかこの旅の中で彼女は何時も私を先導していた。
それはどのような意図が有ったのだろう。このときは道案内の意味合いが強かったのだろうが、他の場所はどうだったのだろうか。
飼い犬と飼い主のように優位性を見せ付ける為だろうか。いや、彼女に優位性を見せ付ける必要が無いだろう。
若しかして保護者のつもりだったのだろうか。容姿から確かにそう見えない事もないかもしれないが、あの人里での振舞いが理解できない。
だとしたら、案内人たる船頭の職業病なのだろうか。これは否定も肯定も出来ないが、根拠が無いなら真実とも言い辛い。
他人の心理は推測する事が出来ても、真実は知る事ができない。何時か暇があったら尋ねてみようか。
話を戻そう。先を軽快に進んでいた船頭は足取りを止めず答えた。
「嗚呼、今の季節しか見れない赤い絨毯が広がっているんだよ。」

軽快で思い浮かんだが、若しかしたら先導されてるように感じたのは歩幅の差によるものだったのかもしれない。
兎も角、船頭はそれ以上の事を言わなかった。自信を持って答えた所を見ると相当凄い場所なのだろう。
尤も今では、彼女が自信満々なのは何時も通りと言えるのかもしれないが。
会話は思ったほど長くは続かない。
二人とも上司と部下の関係である為話題は絞られて当然である上に、共通の話題である仕事が堅い内容であるためそぐわない。
軽い質問形式の会話が少しあって、沈黙。会話があって、沈黙。合理的な会話ではあるが、間が持たないというのは考え物だ。
まだまだ会話不足なのだと痛感した事を覚えている。尤もそれは現在でも解決された訳ではないのが問題なのだが。
そして、この間の悪さに森の環境が拍車をかけた。こう陰気では気分まで滅入って来る。
気分的には殆ど森の中で会話が無かったように感じた。その為か風景は良く覚えているのだが、やり取りは先程のものしか覚えてない。



一刻は歩いただろうか。
唐突に暗く陰気だった森が割れ、歩いていた獣道に赤い光が差し込んできた。
その時は夕暮れかと思った事を覚えている。しかし、里に居た時間を鑑みても夕方であるはずは無かった。
その光に誘われた様に、小走りになる。

荘厳で鮮やかなその景色に息を呑む。
その地で夕日のように赤く輝いていたのは、数千本はあろうかという彼岸花。
一本の曲がりくねった道を避けるように整列し、赤い芝生のように花がその地を埋め尽くしていた。
花の中に他の花が混じる事も、赤くない彼岸花が混じる事も無く、一面に赤い光を映していた。
太陽の赤い輝きにも、金魚の優雅な美しさにも劣る事は決してないだろう。
その地では堂々と数千もの小さな太陽が輝いて、煌びやかに数千もの大きな金魚が風にたなびいていた。
彼女が気に入ったという事が良く分かる。
奥ゆかしさを持った美しさだった昨夜の景色とは違った赤く鋭い光景は華やかで、まるで彼女のように思えた。
若しかしたら彼女自身の髪の色が花の色と同じだった事もあるのかもしれない。

「どうです、綺麗でしょ?」
不意に後ろから声がかけられた。驚きに体を震わせて、後ろを振り返る。
「あれ、気に入らなかったのかな。」
頬を掻きながら、船頭が尋ねた。小走りになったせいでいつの間にか追い越していたらしい。
其れほどまでにこの景色には惹かれるモノが有ったのだろう。落ち着いて、返答をする。
「いいえ、とても気に入りました。素晴らしいですね、此処は。」
思った事をそのまま口に出した。情景を言い表す事はできなかったが、気持ちは伝わったはずだ。
「そう言ってくれると教えた身としても鼻が高くなるね。」
嬉しそうに笑顔で船頭が答えた。人里で見せた笑みとは少し違い、心の底から嬉しそうにしているように見えた。

美しさに気を取られながら、船頭と会話をする。
周囲の景色のせいか、話が弾んだ気がする。実際には其れほど多かったわけではないのだが、環境の力の大きさには驚かされる。
また、気を取られていたせいか、会話の内容は他愛の無い物よりもその地の説明の方が多かったと記憶している。
それによると、この地は『再思の道』と呼ばれる場所で、道の先には『無縁塚』と呼ばれる身寄りの無い人間の墓となっている地があるそうだ。
またどうやって此処を知ったのかと尋ねると、原因は不明だが稀にその無縁塚に三途の川が繋がる事がある為と答えてくれた。
こうやって書き起こしてみると本当に会話が少なかった事を感じる。彼岸花は毒があるというが、記憶や気分も毒によって変わるものなのだろうか。
これは疑問にまでに収めておく事にする。恐らく全ての毒について知ろうとしたならこの手記では全てを書き尽くせないだろう。
さて、その会話は突然途切れる事になる。



にわかに、彼岸花の畑を薄い霧が包んでいく。優しく、妖しく、強く。次第にその霧は私を包み込む。



瞼を上げると、私の目の前には昨夜渡った三途の川と、先程の花畑とは違う色の彼岸花が映った。
どうやら、川のほとりに居るようだ。船の姿が見えないので、昨夜の場所とは違う場所のようだ。
…船頭の姿が見えない。あの霧が何かの転移魔法だったのだろうか。そういえば此処も霧に包まれている。
「おや、これはこれは珍しい…妖怪のお嬢さんか。」
しわがれた声で、目の前に現れた老爺は尋ねた。顔まで隠れたローブを着ており、表情を窺い知る事ができない。
「ともあれ此処に着たんじゃ、何か心残りが有るんじゃろう?」
地に突いていた杖を向けて尋ねかけてきた。どうにもこうにも話の筋が見えない。
「どういう事ですか?」
率直に情報を相手に求めた。老爺は少し驚くように息を吸い、顎の部分を擦りながら声として吐き出した。
「転移魔法の副作用かのう。此処は三途の川のほとりの『輪廻屋』じゃ。魔法以外で来れないように結界を張っておる。」
少し状況を飲み込めた気がする。輪廻屋というのが分かりかねるが、兎に角この老爺は明らかに怪しい。もう少し話を聞いてみよう。
要領を得ないふりをしていると、老爺は咳き込んでから一度切った話を続けた。
「此処では人生をやり直すことが出来る。御主が何か心残りが有るならば、私の魔法が役立つことじゃろう。」

有り得ない。結界は兎も角、魔法使いがそのような力を使えるはずが無い。
第一、そのような力が使えたとしても態々こんな回りくどい方法を使ったり、他人に魔法をかけたりするだろうか。
この老爺は明らかに怪しい。魔法についてやこの輪廻屋とやらについて、少なくとも一つは嘘を吐いている。
この輪廻屋というシステム自体は不遇の一生を辿り易い魔法使いに目をつけたのだろうか。何かとても嫌な予感がした。
「さて、御主は輪廻屋をお使いなされるのか?」
語調を強めて、老爺が尋ねてきた。両手には青白い光が輝き、魔法使いらしい様相を呈している。
「そう言って魂を喰らうんですね。」
信用出来ない話をする老爺に、ハッタリをかけてみた。そもそも自分にはやり直したい過去なんか無いから欲しくなぞない。
「ほう、何故そう思うか?」
手の光を収め、老爺が問いかけてきた。フードに隠れている目から鋭い眼光を感じる。
恐らく、ハッタリが当たったのだろう。予想が的中した事にいい気になり、調子に乗って適当に答える。
「私は閻魔ですから、貴方がそのような能力を持たない事ぐらい分かるのです。」



軽率だった。

鋭く此方へ飛び掛った老爺が首を左手で掴んだ。押し付けられた左手に圧迫され、息が出来ない。
咳が口から漏れそうになったまま、地面に叩きつけられる。
「ほう、少し可笑しいと思ったら是非曲直庁の者か。」
老爺だった者が若々しい女の声で納得がいったように言う。やられた、老爺に見せかけていただけだったようだ。
「何処の閻魔で、誰の差し金だ?」
徐々に爪を立てて、此方を尋問する。声が出せるように掌を折り、爪だけを首にあてがう。
馬乗りにされ、逃げる事も叶わない。苦痛から漏れる声を止める為必死に口を噤んでいると、奴は更に語勢を強めた。
「お前も死にたくないだろう、早く言え!」
手口や尋問のやり方から見て、相当の知能を持つ人外だ。ふと老婆が言っていた狐という言葉を思い出す。
あの時は化かされる程度ならと気にも留めなかったが、其れは間違いだったようだ。深く反省する。

首から徐々に血が溢れてくる。爪が肉に食い込むメリメリという音が聞こえ、刻一刻と血管へ近付くそれに心臓が高鳴る。
冷静に考えると、もし答えたとしても生かす筈が無い。そもそも自分は此処に入りたくて入ったわけでもない。
言い換えると、名前を言っても言わなくても私には関係が無かった事だろう。
今思うと、この時憎い十王の名前を挙げておけば色々良かったかも知れない。しかし、そのような事は出来なかった。
頭には『名誉の死』という単語しかなかったからだ。
本当に名誉であるとするならば、此処で死ぬ事が悪い事でもなかっただろう。とはいえ、現実はそう優しい物ではない筈だ。
例え普通に亡くなっても、私は軽蔑の対象である『ヤマザナドゥ』として、手厚く埋葬される事もないのだろう。
そもそもこのような場所でこのような状況である為、書類上で行方不明だとか死亡とされるだけかもしれない。
そうだとすると、魂もこの化け物に食われるという事になるだろう。肉も残らないかもしれない。

不思議な物だ、先程は何一つ感じなかった一生の内の後悔が頭に浮かんできた。
それは『ヤマザナドゥ』という名前を背負って、死ぬ事。
心のどこかにはまだ、出世欲が残っていたのかもしれない。また、自分には元の場所に戻れる能力が有るという自信が有ったのかもしれない。
そして、心にはまだまだ生きる事が出来るという思いが有ったのかもしれない。
唐突に心に浮かんできた閻魔としての一生で最後の欲に涙が零れた。固く結んだ口からは嗚咽も漏れることも無い。
「お前はどうしても答えないつもりみたいだな。残念だ。」
零れる涙を見た奴は爪を更に立ててそう言ってきた。自分の血は首からどんどん溢れ出し、土に零れている。
涙を堪え、鼻をすするようにして切れ切れに言葉をひねり出す。
「一つだけ…聞き届けて…くれませんか。」
フードの中で少し口元が吊り上がるのが見えた。意地悪な笑い方、とはこう言う事を言うのだろう。
「嗚呼、何でも言ってくれ。」
少し爪の力を緩めて、言葉を出しやすくする。言葉を聞き届け、私を殺す時に嘲笑するつもりなのだろう。
このときの私はどうかしてたのかもしれない。私を殺そうとしている奴に最後の言葉を残す、というのは狂気の沙汰だ。
でも、口に出す事で救われる気がした。その一心で口を開く。涙を零しながら笑いがこみ上げていた。
どうせ、此処にはこいつしか居ない。少しくらい恥ずかしい事を言っても誰も気に止めないだろう。
「生きたい。」
その言葉を聞いた奴は、高らかに笑い声をあげて、私の心臓を抉り出すように爪を立てて振り下ろした。
その凶刃は私を貫き、私は此処で一生を終える



はずだったのに、彼岸花は唐突に現れた。

目の前でローブを着た女狐が吹っ飛ばされ、彼岸花が巻き込まれる。
不意打ちで飛び蹴りを食らわせたのは、他でもない船頭。此方へ手を差し出し、尋ねた。
「大丈夫かい?」
手を持ち、立たせてもらう。しかし、首から血を滴らせている上司に対して大丈夫は無いだろう。
叩きつけられた拍子に転げ落ちた帽子と手帳と茶屋の主人に貰った荷物入れを拾い上げ、飛ばされた女狐の事を睨みつける。
形勢逆転となったのだろうか。傷ついているとはいえ、二対一である事には変わりない。
問題は、敵がどれほど強いかだ。小町が吹き飛ばせたのだから、圧倒的な差が有るわけではないだろう。
しかし、私が攻められていた時は何一つ出来なかった。そう考えると自分に出来ることは補佐か見守る事かくらいに限られてくる。
「ふん、死神か。」
忌々しそうに女狐は腰を上げる。派手に吹っ飛んだ割りにはそこまでダメージを受けていないようだ。首を鳴らして近寄ってくる。
「ああ、そうだよ。」
船頭は腰を低くして構える。傷ついた私は成り行きを見守り、適所で有効に力を貸す事に決めた。

女狐は船頭へと瞬時に近寄り、首を狙って左手を突き出す。
船頭は目にも留まらないような早さのそれを、女狐の右側に回って避けて、女狐に右手を打ち込む。
少しの怯みも見せず、女狐は船頭へ左足を打ち付ける。船頭は両手で受け止めるが、軽く飛ばされる。
女狐は飛ばした船頭へ近寄り、爪で引っ掻こうとする。船頭は手を地に付けて回るようにして足払いをかける。
バランスを崩した狐に対して肘鉄を打ち込む。今度は女狐が飛ばされる。
今は押しては居るが、相手は爪を持って居るのに比べ、此方は本当に素手だ。分が悪い事は言うまでもないだろう。
本来死神には鎌が支給され、其れが死神を表す物になり、武器にもなる。しかし嵩張るとして、今は持ち合わせていない。
そう決めた事を激しく呪った。とはいえ、呪った所で何かが解決するわけではない。
そういえば、女狐との会話の中で転移魔法という言葉があった。しかし、船頭は兎も角自分は習得していない。
もし仮に船頭が知っていたとしても、現在の状況では使う事も叶わない。

そう考えている内にも船頭は追い詰められていく。
飛ばされた女狐は起き上がると同時に船頭のもとへ駆け付け、振り回して引き裂こうとする。その爪に少し巻き込まれながらも、船頭は避け続けている。
先程までのように直線的な攻撃であれば兎も角、長い爪を縦横無尽に振り回されては上手くカウンターも狙えない。
船頭の服には爪の跡が痛々しく残り、少しずつ血が漏れているのが見えた。
早く如何にかしなければならない。鎌さえあればなんとかなるかもしれないが…という思いが頭を巡る。

そうして、一つだけ心当たりが頭に浮かんだ。唐突に小さな荷物入れを開ける。
お守りを投げ出し、包まれた団子を包みごと投げ出し。地図を投げ出し、一番下に入っていたそれを取り出す。
それとは、念じた物をその場に輸送するという、『転移のお札』
使い捨てな上自らの元に呼び寄せる事しか出来ない為、使い勝手が悪いらしいが今はそんな事は関係がない。
お札の一枚を取り、首の血を付けて念じる。札は青白く輝いて、空に浮き上がった。
そして、札は形を変え――鎌となった。

鬼に金棒と言うがそれはどれ程の物なのだろうか。死神に鎌を与える事より大きいのならば、私は評価したい。
其れほどまでに、船頭が鎌を持った後の事は…こうして書くことが憚られる程の残虐性を持つ状況だった。
勿論鎌は見た目通り斬れるような代物ではない。しかし、強い霊力を籠めれば話は別である。
霊力供給源となりやすい血液は、女狐の爪によって満ち溢れていた。また、一度斬れば相手の霊力をそのまま使える。
皮肉にも危機的状況が死神の鎌を圧倒的な能力を持つ物へと昇華させる役目を担ったのだ。
得物が巨大になると癖が強くなる為に、使い手の能力にも左右される事がある。船頭の場合その使い手の能力も申し分がなかった。
鎌があれば、とは思ったが、まさかこれ程の差が生まれるとは思わなかった。

そして、船頭の鎌に切り刻まれたローブは狼に掻かれたようにボロボロになり、狐自身も体の処々から血を流していた。
対して船頭はあれ以降爪による斬撃を一切受けず、圧倒的と言うにはあまりに圧倒的であった。



「決着が付いちゃったのね。」
三度目だ。
前と同じ様に扇子を開き傘を差しているが、今度はちゃんと上半身を上へ向けている。

「…此処の者が迷惑をかけたわね。」
約束していながら危険に晒してしまった為か、眉をひそめ苦虫を噛み潰したような表情をしている。
紫が扇子を女狐に翳すと、女狐は見る見るうちに十尺ほどは有りそうな、何本も尻尾を持った狐に姿を変えた。
「魔力の高い者を食べて、こんなに尻尾を増やして…興味が湧いたわ。」
私は首を擦りながらその様子を見届ける。傷は船頭共々紫に直してもらったが、まだ違和感が有るような気がする。
それを知ってか知らずか、紫は首根っこを掴んでボロボロになっていた狐をひょいと持ち上げた。
「ユカリ…ワタシヲハナセ!」
血だらけになっていながら、息を荒げて狐は叫ぶ。今までに聞いた二つの声のどれでもない獣らしい声を出していた。
「虚と実の境界を破ったわ。もう完全に人化する事は出来ないし、素直になってやり直しなさい。」
そうして、一人と一匹は一匹の同意を得ることなく、隙間の中に消えていった。

そして、化け狐によって作られた結界は崩壊し始めた。硝子が割れるように四方の景色に皹が入り、音無く崩れ落ちる。
そして、此処の本来のあるべき姿が現れた。驚くべき事に其処の川の少し上流には赤い結界に囲まれた古びた船があった。
近いにも程があるが、疲弊しきった二人には幸運以外の何物でもなかった。

こうして、私達の旅は幕を閉じた、のだが、実際はもう少しだけ続きがある。



全てが終わりを告げ、心が漸く落ち着いたようだ。
はぁと呆れたわけでも、眠たいわけでもない今日一番のため息をついた。
結界の中では時間の過ぎ方が違うのだろうか、日は既に傾いていた。白い彼岸花が赤く照らされている。
そういえば、船頭は何処に行ったのだろうか。
紫が来て、傷を治して貰ってから姿を見ていない。

辺りを見回すと、木に寄りかかって寝息を立てていた。あれだけの働きをしたのだ、眠くなって当然だろう。
優しい呼吸の音は、更に私を安心させ、開放的にさせたようだった。



「…少しくらい、甘えても良いですよね。」
そう自分で言い訳をして、瞼を閉じた強く咲き誇る彼岸花にそっともたれかかる。
そして、私の『睡蓮』を彼女の耳に囁いた。
「…有難う御座います。」
この声は果たして彼岸花に届いたのだろうか。
そして、二人は二人揃って寝息を立て始めた。






今なら胸を張って『ヤマザナドゥ』と名乗れる気がする。











 
 





拙い文章ですがここまで読んでいただき有難う御座いました。
色々と原作設定を無視しました。予め謝罪させていただきます。

その他誤字脱字等色々有ると思いますが何卒ご容赦下さい。というかご指摘くださると幸いです。

前作、『独白』について
数多くのコメント有難う御座いました。
シリアスぶっ壊しのあとがきが賛否両論で驚きました。そんなに真面目に読んでくれる方が居たんだ…
最後まであのぶっ壊しは書こうか書くまいか悩んだんですが、あの世界観(映画祭)で何個か短い話を作りたかったんです。
何時か…遠い先に書こうかな。

裏話ついでに。『独白』には伏線を無視して割愛したシーンがあります。伏線は『魔道書』『木造のステージ』『手に転移魔法の触媒』『契約と強さ』の4つ。
なんとなく分かったかもしれないですが、小悪魔とおぜうさま達が勝負するシーンが有ったんです。
魔道書読む⇒ロイフレ発動⇒燃えるステージから脱出⇒契約って流れでした。
草案を捨てちゃったので妄想で保管してくださると幸いです。上手に表現出来なかったのもあるんですけど…。
紙細工
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コメント



0.330簡易評価
3.10名前が無い程度の能力削除
えっ……これなに?幾つかの固有名詞を使ってること以外はまったく東方に見えないんですけど。
4.80名前が無い程度の能力削除
黎明期の幻想郷か…
8.無評価三文字削除
面白いとは思います。文章も綺麗でしたし。
しかし、いささか東方分が薄いかなぁと。
弱い映姫様に違和感が拭えませんでした。
まあ、ここは東方創想話ということで点数の方はご容赦を。
でも、この雰囲気は好きです。
9.無評価名前が無い程度の能力削除
原作設定を無視したと言えてしまう二次創作を二次創作と呼んでいいんでしょうか。
原作設定のほしいところだけを流用したオリジナルの短編小説なのでは、と思います。

文章はすごいよかったです。久しぶりにじっくり読みました。
次は今回のようなものではなく、東方の誰々が好きだから書いたっていうものが読みたいです。
13.無評価紙細工削除
私が無視したつもりだった原作設定は以下の物です。
『四季映姫の能力(主に体力)』
『小野塚小町の能力(緋想天EDの四季様に言われたことから想像出来る能力)』
『小野塚小町の管轄(求聞史記の『外も担当する』)(徹底した管轄の概念の為、無視)』
『2人居る筈の『ヤマザナドゥ』(求聞史記の二交代より)』
『幻想郷の地理(南向きの~という太陽の畑とその反対にあるという山、東が神社なので西は魔法の森だろという安易な想像)』
『時期の矛盾(※就任時期と結界の関係、半人半霊の寿命や商業の発達具合)』
『八雲藍と八雲紫の関連(創作)』
『是非曲直庁の上下関係と派閥(創作)』

※此処での『結界』とは『妖怪拡張計画』で八雲紫が張った物を指しています。(神社の描写を取り除いたのはその為です)
対して四季映姫達の就任時期は博麗大結界が出来た後なので、正式には矛盾が出てしまいます。
大結界の方に時代設定をしてしまうと八雲藍の出現の遅さや旅人向けの施設の存在に矛盾が生じてしまいます。

あまりに多すぎるので一文にまとめてしまったのですが、多くの方が私自らが『この作品は東方の二次創作と呼べるのだろうか?』と言っている様に受け止められたようで、横暴な考え方をしていた私の意思が軽率だったように感じています。
此処で再度謝罪を行います。申し訳ありませんでした。

また東方らしさ、という指摘がありますが、それは神主様による恐らく粋で簡潔で難解な会話をイメージした物よりも弱い四季映姫による心理描写に文章が傾き、また戦闘シーンでのシューティングゲームらしさというものが感じられない為だと思います。
前半は此方の意図的なものなので、改善すべき点として受け止めます。しかし、後半の戦闘描写に関してはスペルカードルール自体が※吸血鬼異変以降の物なので、原作設定を準拠し此処では取り除いた方が良いと判断した為です。ご理解戴けると幸いです。これ以外の点(例えば多彩な出演人物の魅力が描ききれてない、等)が東方らしさを欠いていたのなら、謹んで受け止めます。このコメントの後にも沢山書き込んでいただくと幸いです。

※レミリア・スカーレットが幻想郷に来た時の一連の騒動。人間の少女である霊夢が存在している頃の出来事なので時代的に矛盾する為原作準拠を採用。

この作品は前作の『独白』でコメントされた多くの方が期待なされたシリアスを貫徹してみようという意思で書かせていただきました。自分自身出来るだけ原作設定を準拠した上での自由な過去話を心がけて書いているのですが、東方らしさが消失していたと言われると確かに少し『やりすぎた感』は否めないように思えました。

今度はもう少し登場人物を増やしてみたいと思っています。自身の能力では様々なキャラクターの個性を文章で描ききれるのか心配ですが、それで自分が惹かれた素晴らしい東方の世界観が出せるなら果敢に挑戦していくつもりです。

最後に。睡蓮の咲く時期も少し外れてますが、此方の方は後に繋がる『六十年周期の異変』へのフリのつもりだったので採用しました。此方の方は完全に意図的な物だったのでご容赦して下さると幸いです。
14.70名前が無い程度の能力削除
ある意味面白い領域に踏み込んでる作品だとは思いますね。
ただ、今回は『貴方の東方世界』の説明に、かなり多くの文面を使ってますんで
話のテンポ事態がかなり悪くなったのが、ちょっとキツいかなぁ。と

いつか、この話がもっと面白い話に繋がることを期待してこの得点
逆に言うと、このままフェードアウトは怒るぜっ!ってことで。