暦は夏至を少し過ぎた。
紅魔館の窓からは、湖をぐるりと取り囲む森が一日ごとに葉を茂らせていく様が見えた。 庭の欅は大きくて濃い陰影を庭に作った。ある日、見慣れない渡り鳥がやってきて鳴いていたかと思うと、それから雨は降らなくなった。
夏が来るとレミリアの肌は日陰でもぴりぴりと痛んだ。天井に鮮やかに映る湖の水明かりを、窓から覗くぴかぴかした桜の葉を、テラスの白い石床を、レミリアは憎々しげに睨む。だが、二階のカーテンは閉め切らないように言いつけた。木陰で昼寝をしている美鈴や、庭で小さな虹をこしらえている噴水を、なぜかいつもじっと見ずにはいられなかった。
そんな景色を眺めている他は、咲夜から黙って借りたカードを使って妹と遊んだ。妹はよく不満を言うが、私だってどれほどの違いがあるというのだろう、と彼女は思う。夏は私たちのために檻を作る。そんな詩句めいた言葉がレミリアの頭をよぎった。
レミリアはふと妹の金髪を陽の下で見てみたいという欲求を感じた。
――フラン、外に出てみたくはない?
妹は姉を見る。何かの悪意をそこに感じたようだった。
――嫌だよ、吸血鬼じゃん。
こうしてみると、妹の方がまともで、自分の方がひどく間違っているよう気がした。カードはほとんど妹が勝った。もともとそういう運命になっている。
妹の示した手札は、同じ図柄で数字が並んでいた。自分の手札は一つのペアもなかった。
――お姉様、なんかバラバラなんじゃない?
そういって妹はつまらなそうに頭を掻きながら階段を降りていった。
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夏の太陽は紅魔館を真上から灼く。もともとこの国に向いた造りではない。カードを終えたレミリアは、べたべたとまとわりつく肌着を足元へ雑に放って寝台に横になった。すぐに蚊がやってきて、レミリアの肌の一ヶ所が赤く腫れ上がった。
「笑い話にもなりやしない」
しばらくうつぶせのまま枕に顔の半分を埋めていた。気がつくと傍らに咲夜がいて、片手の団扇で風を送りながら、もう片手で刺された箇所に軟膏を塗っていた。寝台脇のテーブルには氷の入ったコップと水差しが丁寧な配置で置いてあった。
「夏の吸血鬼は何に例えるべき?」
レミリアがそう聞くと。咲夜ははたと団扇の手を止めた。止めないよう言うと、少し勢いを強めてまた扇ぎだした。
「冬の蚊でしょうか」
言うわねとレミリアは力なく笑った。脇を冷えた汗がつうっと垂れていった。痛くなってきた首を反対側に向けると、門番が門の近くの木のそばに腰を下ろしているのが見える。美鈴は不思議な光の網の中にいた。木漏れ日の作る模様に冬の脆さは欠片もなかった。何か秘めやかな音を出すように、その模様はちらちらと揺れながら輝いた。
いま美鈴がああして聴いている風の音は、冬の風の音とは違うのだろうか。そんなことを考えた。
レミリアは気だるそうに身を起こし、コップの中の氷水を一口飲んだ。コップにはびっしり滴が浮かんでいて、持ち上げるとぽたぽた落ちた。レミリアの腿の上にも何滴か落ちた。咲夜は汗と一緒にその滴も拭き取った。
「思いっきり水を被って、その後思いっきり太陽を浴びてみたい」
言ってから、自分はそんなことを思っていたのかと驚いた。
「お嬢様は吸血鬼ですから、そんな洗濯物みたいな扱いをされては死んでしまいます」
にこりともせず咲夜が答える。目はぴったりとレミリアを見ていた。レミリアは「分かっているよ」と視線にうんざりしたように手を振った。「言ってみただけだ」
咲夜はほぅっと息をついて、レミリアの背中を手ぬぐいで拭いた。
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日暮れになるとひぐらしが鳴いた。その後で剃刀のような夕立があった。雨が止むと、辺りは夕焼けとも言えない黄色に染まった。夜にはひとりで散歩に出かけた。
人里の近くはむやみに飛んではいけない決まりになっている。レミリアは屋敷から山をひとつ越え、つまらない河原の木の根元にぺたんと腰を下ろした。草むらは夜露と雨でじっとり濡れていた。虫と蛙の鳴き声だけが聞こえ、空に月はなかった。風は水田の泥の臭いがする。絵に描いたようなこの国の夏の晩だった。
レミリアが耳を澄ますと、里の方向からかすかに不思議な音が聞えてきた。金だらいの底を叩くようなきんきんした音と、太鼓の単調なリズムが絡み合った音楽だ。よく耳を澄ませると笛の音色もあるようだったが、里が遠すぎて老いた鳥の溜め息のようにしか聞えなかった。
レミリアは目を閉じてそれを聞いていた。野良犬が一匹、レミリアの近くを通って遠くへ去っていった。涼しさを含んだ風が思い出したように吹き付ける。音曲はレミリアを想像の中で孤独にさせた。冷たく光る金属の壁が自分を取り囲んでいるようだった。
「咲夜」
「はい」
半分は独り言のつもりで、もう半分は確信めいたものがあって、レミリアは従者の名前を呼んだ。やはり咲夜は近くにいた。普段は散歩を邪魔されているようで疎ましかったが、今夜は特別にしてやっても良い、とレミリアは思った。
「膝」
「夜露で濡れますよ」
「構わないから」
「はい」
スカートの前を整えて座った咲夜の膝に、レミリアは久しぶりに頭を載せた。
「さっきからかんかん音が聞えるんだ。何だろう」
「半鐘ですか?火事ですかね?」
「もっと、それより少しは音楽っぽいの」
合点がいったように咲夜はああ、と言った。
「お祭りのお囃子の練習でしょうね」
「お祭り?」
「ええ。人里では夏にお祭りをやるんです」
人里ではどのみち彼女は見ることができそうもない。夏の楽しみというのは、全部自分の頭上を通り過ぎ去っていくみたいに彼女には思えた。面白くない、とレミリアは思った。面白くない。ちっとも面白くない。
自分は夏から爪弾きにされている。そういう風に感情が固まってきた。
「明日はパーティにしましょうか」
レミリアの気分を察したのか、咲夜がそんなことを言った。
「嫌だよ」
素晴らしい駄々だ、と自分で思いながらレミリアはにべもなく撥ねつけた。咲夜の手がそっとレミリアの頬に置かれた。レミリアはそれを無視するように目をつむったまま言った。
「変化がないもの」
「変化と言えば」
咲夜が言い聞かせるようにそう言った。
「パチュリー様が、ようやくお嬢様の依頼を済ませたらしいです」
「ようやく?私もすっかり忘れていた」
仰向けになって顔を覗き込んでくるレミリアに、「ようやくです」と咲夜は笑う。
「少しは元気になりましたか?」
どうだろうね、とレミリアは曖昧に言う。果たしてそれは正しいのやら。咲夜は困った様子でレミリアの頬を柔らかく撫でる。
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レミリアは館に戻るとすぐ図書室の扉を開けた。
友人は、珍しく本も読まずにレポートらしき紙の束を子細に眺めていた。何度か目を左右に動かしたあと、はい、とパチュリーはそれをレミリアに手渡す。
「たぶん計算は合ってると思う」
レミリアはそれを読んで眉をしかめる。
「要点は?」
パチュリーはちょっと心外そうに、実現可能よ、と言った。
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それから彼女たちは大時計の前へ出た。テラスからは湖と山が一望できた。新月前の鎌のように細い月がようやく山から昇りかけている。
「レミィ、本気でやるの?」
もちろん理論やら何やらの計算をしたのは自分だから、それが実行されて、成功すれば嬉しくもある。その反面、彼女はそれがもたらす騒ぎを恐れた。友人が討伐される。下手をすれば自分もだ。
「パチェ、私が幻想郷を支配するにはどうしても陽の光が邪魔なのよ」
普段なら友人の冗談に笑うパチュリーも、この冗談ばかりは笑い飛ばせなかった。コルクを開けるのにコルク抜きがいるように、これからすることにはそんな嘘が必要だった。彼女の本心はそのままさらけ出せるものではなかった。
レミリアはテラスの真ん中に立ち、片手を空に突き出すようにして上げた。そのまま彼女はしばらく目を閉じて呼吸を整えていた。背中の羽根がばさりと開き、腕を紅い魔力が電気のように駆け上る。レミリアが咆哮をあげ、大気がびりびりと震える。掌から血に似た真っ赤な何かが中天目掛けて吹き出していった。
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大がかりな行使のせいで、レミリアは激しく肩を上下させている。
「手に入らないものは壊してこそよ。そう思わない?パチェ」
今にも血を吐きそうな苦しげな息をつき、レミリアはそう言った。パチュリーはそれには答えなかった。
「私の分の夏をあなたにあげられたらいいのに」
パチュリーはレミリアの内心を見透かしたように静かに言った。パチュリーは水を浴びることも、太陽を目一杯浴びたあと木陰で涼むこともできる。ただ彼女がそれを望まないだけだった。
レミリアは振り返らず、ありがとうと一言だけ言った。
それからパチュリーは久しぶりに見た夜空で月でも見ようと思った。けれど、紅い霧に阻まれた月は今にも消え入りそうな暗い赤に染まっていたので、彼女もすぐに図書室へ戻った。
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何日か経って霧が幻想郷中に行き渡ったころ、レミリアは紅い霧の中を庭に降りてみた。いい調子だ、とレミリアは思った。夏の面影なんてどこにもない。赤銅色の太陽はほとんど熱を送ってこないし、周りの草木も、青々としているのか、枯茶色なのか手に取ってみなければ分からない有様だ。
完璧だった。レミリアはどこからが日向でどこからが木陰かよくわからない木の下に座った。風は変に冷たくレミリアの頬を撫でていった。庭の噴水は紅い霧をかき回すようにして水をまき散らしている。それはただ機能を果たしているというだけで、もう手に掴めそうな虹を作ることもなかった。
レミリアは高らかに笑う。夏を奪われたやつはさぞ残念がるだろう、と一人一人指を突きつけて笑って回りたい気分だった。気がつくと、レミリアは膝を抱えて座っていた。膝に額をくっつけるようにして、背中を小さく丸めていた。
足音がする。
ふと顔を上げると目の前に咲夜が、真面目な顔と姿勢で立っている。
咲夜はごそごそと何かを取り出すと、レミリアの目の前でぽんっ、とそれを開いた。開いたそれをレミリアに向けて差しかけた。
「デザインに意見がありましたら道具屋で替えてもらいますが」
色は白で、レースの縁取りが二重に付いていた。
あんたねぇ、とレミリアは笑いを噛み殺しながらしかめっ面を作った。「そんな日傘で足りるわけないでしょうが」
「だと思いまして」
咲夜はポケットを漁り、小さな白い容器を掌に載せて示した。
「日焼け止めです」
レミリアは頭を抱えた。この従者がどこまで本気なのか皆目見当が付かなかった。
「紫外線にはUVAとUVBの二種類がございまして、ここのSPFとPAという表示が」
「うるさい黙れ」
咲夜はせっかく覚えてきた説明を遮られて残念そうな顔をする。
「そう言う問題ではない。あなたは吸血鬼をちょっと弱い皮膚程度に考えてるんじゃないいでしょうね」
「あとは根性で何とかなります。ものは試しですから。当たって砕けろ?」
「大変な従者を持った…」
それからも続く咲夜のズレた根性論を聞き流しながら、この騒ぎが終わったなら、そうして出掛けてみるのも悪くはないかも知れないとレミリアは思った。そして、彼女は自分が懲らしめられたあとのことを考えているのに気づく。変なの、と思った。
やがて、湖の上で小競り合いが始まるのが聞えてくる。
伸脚をしていた門番が妖精を引き連れ空に昇る。図書室ではパチュリーが珍しく張り切った様子で指示を飛ばしている。傍らを歩く咲夜の足音は、ナイフ十数本分だけ重い。
みんな訳知り顔なのがちょっとばかり腹立つ。
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暦は夏至を少し過ぎた。
肌は少しピリピリするが、屋敷の中よりほんの少し強いくらいの痛みなので、問題はなさそうだった。意外と日焼け止めも馬鹿にならない、と彼女は感心する。
彼女は日傘を少し傾け、歩いてきた夏の小径を振り返った。それから強く陽が照り返す正面の石段を眩しそうに見つめ、鳥居の紅を見て顔を綻ばせる。
土産の西瓜を片手にぶら下げながら、彼女の足取りは軽い。
いつもながらまのちひろさんの描く、何ということのないこの話の流れが大好きです
情景の描写や台詞回しが上手くて、キャラクターの言動も違和感無く受け入れられました。
吸血鬼なのにバラバラなお嬢様と、瀟洒だけどズレてる咲夜さんの掛け合いが面白かったです。
読めてよかった、ありがとうございます。
文体から漂うゆったりとした雰囲気が素敵です。
静かな音楽を聴いているようでよかったです。
最後の一行でのレミリアの描写がとても好きです。