Prologue
「じゃ、お留守番よろしくね」
紅白の少女は、ふわりと浮かび上がる。こちらに向けて掌をひらりと一振りしてから、先に(逃げるようにして)飛び去った白黒の魔法使いの後を追って飛び去っていく。
その姿は、水の中を優雅に泳ぐ金魚にも似て、美しいと思う。先に飛び立ったモノトーンとは大違いだとも思う。
紅白黒が向かったのは、そこだけ雨の降りしきる紅色の館。
雨に濡れても尚紅い館も、やはり美しい。晴れの日に館が見せる姿とはまた違い、どこか物憂げな表情がしばし彼女の心を捉えた。普段の凛とした姿とはまた違う美しさ。
――雨の持つ魔力は、不思議だ。
そんな呟きを彼女の友人が聞きつけたなら、書物に書いてあるそれよりは分かりやすく、しかし結果として眠くなることには変わりない、難解な解説を語ってくれるのだろう。
…そういうことが言いたいわけじゃないんだけどね。
思考の中の友人に静かに反論して苦笑いを浮かべる。想像ではあるものの、それが正確な反応だという自信はあった。
彼女の友人――パチュリー・ノレッジは情緒を理解しないわけではない。ないが、魔術については中毒者たる彼女に対しては言葉を選ぶ必要がある。
彼女対策として言い直すなら、こうだろうか。
――雨は、不思議だ、何処か魅せられる。
雨は己が身を切り裂く刃。
少なくとも、自分にとっては忌むべき存在であった。それでも、雨が作り出す風景は、決して嫌いではなかった。その景色の中に自分が立つことを、密かに渇望しているのかも知れない。
そんな益体もない思考とともに、彼女が主である紅い屋敷を眺める。
彼女の『視力』を以ってすれば、屋敷の中で何が起こっているのか見ることもできるが、そうするつもりはなかった。大体起こっていることの想像はついている。
彼女――レミリア・スカーレットは、雨に濡れる紅色の館をぼんやりと眺めていた。
よくよく考えると、今までこんな光景――雨の中に佇む紅魔館の姿など見たことがなかった。
それだけでも、異変を起こしたことは間違いではなかったと思える。
同じ頃。
一人の少女が、里の端から中心地に向かって走る。
あとは、時が過ぎるのを待つばかり。
なのに、どこか焦りが募る。
正体不明の不安に突き動かされるように、少女の足は速度を増す。
商店街に差し掛かると、見知った顔の人々が今日も商売に精を出している。
恐らく、今まで一番お世話になっているであろう、青梅ばあちゃんの顔を見た瞬間に、焦燥が爆弾のように弾けた。
考えるよりも早く、言葉が口をついた。
「結界が…!」
夏の日の気まぐれ
~ 人と妖の境界線 ~
ふと、石段を上って来る足跡が耳に入った。
まどろみの中にあったレミリアは、驚きに一人目を丸くする。どうやら、この神社に用があるらしい。おそらく人間なのだろう。普通、妖怪はこのような場所には来ない。
自らの行いを高々と棚に上げると、縁側から日傘とともに少し伸びて、鳥居の方向を覗き見る。鳥居の下に少女が立っていた。霊夢より、少し上くらいに見える。少女は鳥居の下から先に進もうかどうしようか、迷っているようだった。
「さて…」
どうしようか。
少女の前まで出ていく義理はなかったが、この神社に白黒以外の人間が来るのは――レミリアが知る限り――初めてのことなので、好奇心もあった。何せ、ここは妖怪退治を生業にする巫女の住む神社なのだ。わざわざ人間が顔を出すのだから、剣呑な事態なのだろう。
彼女自体にも、興味がある。
わくわく。
一度決めてしまえば行動は迅速だった。文字通りの意味で。
一瞬後には、音もなく少女の目の前に立っていた。
「なにか御用?」
「あぇ…?」
あまりに唐突なレミリアの登場に、少女は言葉を返すことができず意味不明なうめき声を絞りだす。とはいえ、何の前兆もなく目の前に人が現れて、化け物だと逃げ出さなかっただけ剛毅かもしれない。
勿論、レミリアは「人」ではないが、人と見せるために羽を隠している。ここで、羽を見せて少女に逃げられては、意味がないからだ。
それでこのような登場の仕方をしては、やはり意味はないのだが。
それに気づかない当のレミリアは、すっと目を細めると、そんなことも気にせず尚も問いかける。
「博麗の巫女になにか御用?」
少女は、つばを飲み込むと、ようやく口を開いた。
「あなたが、博麗の巫女?」
意外と口調はしっかりとしている。やはり剛毅な少女なのかもしれない。レミリアはスカートの裾をひょいとつまんで首と傘を傾げて逆に問いかけた。
「そう見える?」
「いえ、全然」
やはり結構はっきりモノを言う。
「失礼ね」
「え…? じゃあ、貴方が博麗の巫女?」
「いいえ、違うわ」
間髪入れず切り返す。
「…」
少女は、一見年下に見えるレミリアをまじまじと見つめ、次に他に人がいないか周囲を見回した。
が、そんな気配はなく、肩を落とす。
「まずは自己紹介ね。人の流儀ってそういうものなのでしょう?」
レミリアのマイペースさと言葉に、落胆の上に怪訝な表情を上塗りした少女は少しすると、そこに諦めを上塗りして自己紹介を始めた。まずは自己紹介、と言いながらレミリアが一向に名乗ろうとしなかったからだ。
「私の名前は千恵、里の人間よ」
彼女曰く、里で楽しい――人間の感覚で言えば厄介な――事態になっているようだった。
ここ幻想郷は、閉じられた世界だ。
その中で、人間と妖怪が共存しているのだが、妖怪は外の世界を追われて幻想郷に逃げ込んでいるという事情があり、結構な数がこの世界に雪崩込んだ。そのため人間との比率につり合いが取れていない。自然な食物連鎖を構築するには人の数が絶対的に不足しているのだ。
というのが、概ねの妖怪側の見方。
人からすれば、とんでもない見方だ。
見解の相違はさておき、種々の理由で一部の上級妖怪は、人の狩りや大量虐殺を禁じられている。その契約は、人間同士で行うものよりずっと強固で絶対的なものなので、破られることはまずない。そして、その契約の対価として、各々に必要なモノはあるルートから供給される構造となっていた。
ここでは、便宜上妖怪といっているが、人に非ざるものすべての総称として捉えて頂きたい。
「う~ん、この文章どこに置こう。まぁ保留して括弧書きにでも」
中級の妖怪は、絶対的な力はないが適応能力に優れ、また上級妖怪がそのような立場に置かれた理由を理解している者がほとんどのため、人間を襲うことは少なく、上級妖怪の下につくか、彼らのコミュニティを作り上げ生活するなど、大抵安定した地位にいる。
「そういった意味では、上級妖怪もコミュニティを形成しているんですよね。う~ん、細かいところはとりあえず後にまわしましょう」
特殊なケースを除くと、人間の脅威となり得るのは、下級に属する妖怪である。
彼らは、『人間を襲うべからず』の意味をあまり理解せず、本能に従い人間を狩る。ただし、他の妖怪と比較して力が弱く、比較的対処が容易である。
とはいえ、普通の人間と比較すると比べ物にならないほどの力を有しているから、正面切って戦うべきではない。
「まぁ、当たり前の話なんですけどね。私の文章で、勘違いして妖怪の餌、というのも後味悪いですし」
今日では、人里にはこの下級妖怪を寄せ付けないよう結界が施されているため、里を出ない限り妖怪の手にかかって命を落とすことは殆どない。
「そのはずだったんだけど、今日ちょっとした問題が起こっちゃって、結界が破られちゃったんだ」
そのはずが、結界が破られてしまったため、妖怪による被害が懸念される。
「っと。…なんですって! 結界が破られた!? …あぁ、余計な文章まで書いてしまった。とりあえず消しておかないと…」
千恵とレミリアは、唐突に茂みの中から現れ、大声を上げたかと思うと手元の手帳に何かを書き始めた少女にあっけにとられて、その場に立ちどまってしまった。
「わたしが知らないだけで、世の中は面白い人間ばかりなのね」
「その中に、私は含まれてないわよね? その結果次第で同意はしかねるわ」
「もちろん、あなたも含め。当然じゃない?」
レミリアと千恵がそんな会話をしているうちに、書き物が終わったようで、着物姿の少女がこちらに向き直った。
そう、着物なのである。茂みから現れるには、甚だふさわしくない格好である。
「お見苦しいところをお見せ致しました。私は稗田家の現当主、阿求と申します」
典雅にお辞儀までしてみせる。ますます茂みから現れたことが不自然に思えた。
しかし、その事実ではなく、名前に愕然としたのは千恵だった。
「あ、阿求様? 稗田家、現当主の!?」
「今、そう名乗ったばかりだわ。この人は有名なの?」
レミリアの口調はのんびり、内容は鋭いつっこみにも取り合わず、千恵は興奮気味にまくしたてる。
「それはもう。幻想縁起の執筆者にして、求聞持の能力の継承者。頭脳明晰、容姿端麗…」
身ぶり手ぶりも交えての大熱弁である。レミリアは温度差の大きいもう一方に視線を送る。
「…あの、その辺にして頂けませんか」
阿求の方を見ると、よほど気恥ずかしいのか顔を真っ赤にして俯いている。
「とにかくすごいお方、との噂よ!」
「む、最後に落としてきましたね」
比較的置き去りのレミリアだが、こちらはこちらで、それまでのやりとりなどなかった風で、阿求に問いかけた。
「さっきからずっと気になっていたのだけれど、どうして茂みの中から現れたの?」
「あはは、お恥ずかしい限りなのですが…」
苦笑いとともに、自分の悪癖なのだと、阿求は言った。
文章を考え始めると、それに没頭するあまり周囲が見えなくなる癖があるのだそうだ。普段は自室で執筆しているので、特に困った悪癖という感じでもない。
「問題といえば、食事の支度が出来た、と耳元で怒鳴られても気づかないくらいでしょうか」
「周囲は大迷惑ね」
日常は特に問題ないのだが――問題ないのかしら、とレミリアは首を傾げているが――、今日は少し違っていた。阿求曰く、
「空があまりに青かったもので」
散歩をしている間に、ふとひらめくものがあり、そのままノンストップで書き続け、ついでにノンストップでまっすぐ歩き続けていたようだ。と、ため息まじりにぼやいているが、当人は特に問題とも感じていないように思える。
それにしても、茂みをかき分けることもせず突っ切ってきた割に、衣服を見ても傷やほつれもあまり見受けられない。何にもぶつからずに進み続けているところを見ると、なかなかに器用な質のようだ。少なくとも、レミリアはそれで納得した。
「あ、それで私の方も思い出しました。先ほど結界が破られたというような話を言っていませんでしたか?」
「あ、そうそう。結界を構成している護符が何枚か剥がされまして。それで、博麗の巫女に助けを求めに向かったのですが」
千恵はそこまで言うと、レミリアを一瞥する。
「神社の周囲では、人が突然現れることが流行っているのかな?」
何かを思い出したらしい千恵が、奇妙な呟きを漏らす。発言内容が尋常ではなかったので、阿求が思わず聞き直すと、レミリアが付いてきたときのことを話してくれた。
千恵が名を名乗ると、レミリアも名前だけを名乗り、さっそくとばかりに何が起こったのかを聞き始めた。
「それが、里の…って、私、異変があったなんて言った?」
「それ以外に、里の人間がここに来る理由があって?」
レミリアはしれっと言ってのける。
実際、里での神社に対する扱いはそんなものだったが、恐らく神社に縁のある人間――と、千恵は思っている――の言うことではなかった。
「え、うん、まぁ」
「それで?」
「あ、里に張り巡らされている結界の一部が、破られて弱くなってしまったの。それで、一部の妖怪の侵入を許してしまったから、その退治と結界の修復をお願いしに」
レミリアは、聞いているのかいないのか、千恵をじっと見つめる。
「あなたは?」
「え?」
唐突にそれだけ言われても、千恵も返事に困る。
「あなたは、どうにかするつもりはないの?」
レミリアの口調は冗談めかしてはいるが、冗談という感じでもなかった。その発言に、千恵は一瞬言葉に詰まり、即座に続ける。
「いや、無理に決まっているでしょう? 私は何の力もない人間なのよ」
「そう」
それだけを呟くと同時、レミリアは実に嬉しそうに笑みを浮かべる。
「咲夜!」
「はい」
レミリアが虚空に向かって声を上げたかと思うと、その虚空から突如としてメイド姿の少女――というかメイド――が現れた。扇情か動きやすさ重視のためなのか、やたらとスカートの丈が短いが、それってメイドっぽくない。などとどうでもいいことを考えた次の瞬間、人間が虚空から現れたという事実が千恵の中に浸透した。
「ななななな?」
時間差を置いて、心臓が飛び上がる。レミリアの登場も急だったが、その比ではない。完全に虚空から人が生えてきたとしか表現出来ない唐突さだった。
そんな反応には慣れているのか、もともと気にしないのか、レミリアも咲夜と呼ばれた少女も平然としている。
「お留守番、頼むわね」
「え? あ、はい♪」
その一瞬で、疑問符がどこに飛んで行ったのか、千恵にはその行方を想像することすらできなかった。咲夜は頬をほんのり赤らめて、弾むような声で頷いている。
レミリアの横顔を見て、疑問は何となく解消された。レミリアは弾けんばかりの笑顔を浮かべている。
「さて、それじゃ行きましょう」
「はい?」
千恵は、話の流れについていけなかった。一体、目の前の少女は何を言っているのだろう。その前に、自分は何をしに来たのだったか…。
「あ! えっ?」
自分がここに来た理由を思い出した千恵は、レミリアの言わんとしていることを理解した、が意外な展開になってきた。
「巫女は今、他出してるから。留守番のわたしがその代理」
「成る程、そんな経緯が」
千恵の視線につられるように阿求もレミリアに視線を移す。しばし、レミリアをまじまじと見つめ、あっと声を漏らす。
「それにしても、その…あなたが、巫女の代理を?」
「あら、わたしじゃ不満かしら」
すっと目を細め、薄い胸に手をあてる。殊更、挑発的な態度をとってはいるが、レミリアの目はにやりとした笑みを形づくっている。彼女の容姿が彼女を知らぬ人に与える印象を、よく知っているのだろう。そして、その印象を裏切る瞬間の喜悦も。
しかし、阿求の態度は、そういったことから来てはいなかった。
「いえ、実力的には申し分ございません。ただ、種族が種族なので、意外な気がしたのです」
レミリアは本日二度目の淡い驚きに目をまん丸に見開くことになる。
「レミリアさん。レミリア・スカーレットさん、ですよね。つい先日の紅霧の異変が記憶に新しい」
あまり整備もされていない、獣道も同然の道を三人は歩いていく。周囲は代わり映えのない鬱蒼とした森が続く。木漏れ日というのも切なくなるような、貧弱な日光の下でも日傘を片手にしたレミリアは、傍らの阿求に向き直る。
「驚いたわ。人間の知り合いはあまり多くはないのだけれど、知り合いだったかしら?」
結界が完全に破られたわけではないにせよ、さっさと里に向かった方が懸命だという阿求の判断で、一同は歩きながら話すことにしたのだ。
「私も、貴方をこの目で見るのは初めてなのですが」
阿求はそういって自分の目を指さす。
「先の縁起の中にも記述がありましたし、若干ながら記憶も残っております」
ことのついで、といった風で阿求も自分の立場や能力について簡単に説明をした。
レミリアは口元が上がっているような、下がっているような、全体としては笑みとなっている奇妙な表情を浮かべた。
「なかなかに退屈な能力だわ。そんな力を持っていたら絶望で天寿を全うできなくなりそうね」
「お蔭様で、私たちは総じて短命ですよ。絶望が原因かは別として」
自分の能力を否定されて尚、阿求の答えは楽しげだった。
「残念ながら、他の人たちはそう思ってはくれないようで。素晴らしい、うらやましいと言われることが殆どですね。確かに便利は便利なのですが」
「あなたも、こちら側で生きるべき存在なのね」
「ええ、幸か不幸かは別にして」
阿求は自分の能力がそこにおかれているかのように、手のひらを見つめる。
「この力があるから『稗田阿求』なのです。もし、求聞持の力を失ったら、稗田阿求という名の別人が出来上がるのでしょうね」
「…ねぇ、二人とも。日本語で会話してほしいんだけど?」
「いえ、立派に日本語ですよ?」
二人の会話を聞きながらも奇怪なものを見る目の千恵は、釈然としない表情で会話に割り込むが、阿求は平然と返した。
ちなみに、阿求が落ち着かないという理由で、千恵には敬語を使わないよう、お願いしていた。彼女も彼女で、自分よりも年下相手に敬語で話すことは違和感があったらしく、すぐに応じてくれていた。
「その割には、さっぱり話が分からないんだけど…」
レミリア=吸血鬼という事実は、この場では混乱の元になるため直接的なことは言わないように会話を成立させているが、レミリア=人間として聞いていると、辻褄が合わない事だらけだろう。そもそも先の幻想郷縁起に記述があるはずがない。いい加減気がつかれても仕方ないような気もするが、幸いにして千恵が気づく様子はなかった。
「それにしても、霧のこと、情報が早いのね。私が関係していることは解決に乗り出した当人くらいしか知らないと思うのだけれど。あいつが自分から誰かに言いそうもないし」
「その当人から話を聞き出しました。たまたま里で見かけたのですよ」
そのとき霊夢は異変がすべての場所で終息しているか、確認して回っている最中とのことだった。特に隠すことでもないと思っている様子で、湖のほとりの洋館に住む吸血鬼が異変を起こしたということを話してくれた。
「直に、里にも知れ渡るでしょう。紅魔館の存在すら知らない人も多いので、これから少々賑わうかも知れませんね」
レミリアは、そのことには特に興味もなかった。有象無象がレミリアのところにまでたどり着けるとは到底思えない。
「門番が大急がしね」
たどり着く人間が居るならば、それはそれでレミリアを楽しませることだった。
「私も今度遊びに行く」
「その前に、妖怪に食われないといいわね。里と違って、結界はないわ」
千恵を見やり、意味ありげににやりと微笑む。実際、里から湖まではそれなりに見通しの良い道のため、昼間であれば妖怪に襲われることはあまりない。
ふと、自分の言ったことから疑問が湧き出した。
「このあたりに、妖怪はいないのかしら。ずいぶんと襲いやすそうな道だけど?」
妖怪がいないこと自体は、気配で分かる。今まで通ってきた道の周辺だけ、ぽっかり穴が空いたように妖怪の気配がない。人間が神社に行く行為自体はそう珍しいことではなく、――博麗神社に限っては、そうでもないかもしれないが――妖怪にとって襲いやすい立地にもかかわらず、気配がないこと自体が不自然だった。
「ああ。それはここが彼女たちの通り道だからですよ」
「彼女たち? めでたいのと不吉なの、かしら?」
阿求は、その表現がツボにはまったのか、笑いながら首肯する。
「出会ったら最後、退治されると分かっていてここにいる妖怪もいない、ということなのだと思いますよ」
確かに、あの巫女であれば、出会ったらとりあえず退治、などという大雑把なことをやりそうな気がする。
「あいつは、神社への道を整備しようとか言う事は思いつかないのかしらね」
よくこんなところを通ってきたわね、と千恵を見やると苦笑いしている。表情はレミリアの意見を肯定していた。これでは、人は寄り付かない、と。
「そういえば巫女で思い出しました。この前里に来たとき、ついでに里の結界の様子も確認すると言っていましたね」
この幻想郷を覆っている、博麗大結界を構築したのが霊夢の祖先である。彼女自身も博麗大結界を守る要石の一人であり、結界は彼女の専門分野だった。その彼女が最近様子を見ている以上、結界自体の不具合とは到底思えなかった。
「あいつは普段サボってばかりいるけど、やるべきことは嫌味なまでに完ぺきにこなすもの」
「ずいぶんと、彼女を買っているのですね」
阿求が微笑みつつ指摘する。レミリアからすれば、人間など無知で短命な生物だろう。吸血鬼という種族から見れば、人間など家畜に過ぎないかもしれない。そんな中で、博麗霊夢がレミリアの目に留まったということは、とても素晴らしいことに思えたのだ。
しかし、当のレミリアはその指摘に虚をつかれた。そのとき初めて、自分が博麗霊夢を気に入っていることを自覚した。たかが人間の少女を、だ。
理由など分かりきっていた。
「あぁ、里が見えてきましたね」
鬱蒼とした森を抜けると、急激に視界が開ける。
空は、ひたすらに青く深く澄み渡る。右手にはそびえる入道雲の威容。
日傘を通して尚、肌を灼こうと牙を剥く光に、思わず眉間に皺が寄る。
典型的な、夏の姿。
この季節は、彼女にとって鬼門といってよかった。
だから霧を出しておけばよかったのに、と思う。しかし、実際に霧を出すだけ出しておいて、その間彼女は特に外に出ようともしなかったわけだが。
里は、四方を山で囲まれた窪地にあった。この丘から里の全体を見渡すことができる。周囲にまばらに植えられた木が、里と野の境界を控えめに主張するだけで、塀で取り囲むでもなく、開放的な場所に見える。
あくまで表面上は。
レミリアの目には、執拗なまでに里の周囲を取り囲む結界の網がはっきりと見て取れた。
丁度、この丘と反対側の結界が確かに薄くなっていることも一目で分かる。
ただ、まだ妖怪は結界の内側にいる様子はなかった。薄くなった結界の周囲に妖気を感じるのみである。
「ふん、情けないな」
確信がないため結界に触れることをためらっているのか、実際に破ることができないのか。どちらにしてもそれだけ小物の妖怪なのだろう。
しかし、結界が破られるのも、おそらく時間の問題だ。弱くなった結界と妖怪の力、単純に比較すると、群がる妖怪の中にも結界を抜けることが可能なものがそれなりに混ざっている。結界が薄くなったことに気づいて集まってきたにしては、多すぎる気もするが。
「まだ被害はないようですね」
レミリアはその表情で阿求に問う。何故、阿求にも分かったのだろう、と。
阿求曰く、万が一妖怪に侵入を許したときは、狼煙を上げることになっているのだそうだ。巫女に情報を伝達するための手段らしい。解決に来るのは巫女とは限らないらしいが。
「魔理沙さんのような、力のあるほかの人間だったり、場合によっては妖怪の賢者だったりしたようですね」
「あー、それで思い出したよ。確かに、狼煙を上げていたわね」
思い出して思わず、目尻がきりきりと釣り上がっていくのを自覚した。今の面倒極まりない誓約を交わすことになったときのことだ。
結果論だけを言えば、あの誓約は交わしてしかるべきものだった。しかし、力でねじ伏せられた結果というあたりが納得のいく話ではなかった。
いつかリベンジしなくては。
そう考えると、まだまだやるべきことは多いのかもしれない。
退屈だなんて、誰が思っていたのだろう。――もちろん自分だが。
そうこうしているうちに、村の入り口に到着した。
阿求、千恵に続いて、レミリアは何の気もなく、ひょいと結界を通り過ぎる。
――バチッ
「あっ」
阿求は、静電気が弾けるような――実際には、それの何倍も大きな――音に慌てて振り返る。レミリアも妖怪であることを今まで失念していた。
しかし、レミリアは結界にはじかれるでも、捕われるでもなく、あっさりと通り抜けている。
「あら? 何ともないのですね」
「これが正解ね。この結界を構成した奴は、よく分かっているわ」
阿求自身が言っていたように、人間にとって一番身近な危険は下級に属する妖怪たちなのだ。
結界は、それらの妖怪のみを対象として構成されていた。では、それ以上の妖怪に対しては? まず、上級の妖怪を結界で抑え込むこと自体が、途方もない力を必要とする。ここ幻想郷では、そういった妖怪は既に誓約によって縛られていることが多く、里に入れることに対して、特に神経質になる必要もなかった。
却って不完全な結界で刺激を与える方が、怒りを買うことになりやすく危険である。どのみち、人間の構成力では大方の場合破られてしまうのだ。破られたら最後、結界は破損、または消失し里を守ることもできない。
ただ闇雲に押さえつけるだけなら、結界を構成するものとしては、三流以下である。
「…と、いったところでしょうか?」
いつの間にか、万年筆を片手に回しながら、阿求。
「…よく分かっておいでで」
呆れんばかりの早業に、実際にレミリアは呆れた声を出す。それから、阿求と千恵を横目に見つつ、レミリアは二人に聞こえないような声で一人呟く。
「まぁ、今回のは想定外なのだろうけど」
それはそれとして、一応阿求たちに言っておくべきことがあった。
「ところで、急がなくていいの? さっきの音は、確かに結界が反応した音だと思うけど?」
「「え?」」
「対象が私でなかっただけ。もっと警戒しないといけないのがいるのでしょう?」
レミリアとしては、半ばどうでもいいことではあるのだが、ここに来た建前を考慮して一応言ってみたまでだったのだが。二人はものすごい剣幕で食って掛かってきた。
「なんで、もっと早く言わないの!」
「文章書いている場合じゃないじゃないですか!」
「奇遇ね、私もそう思っていたところだわ」
二人とも、表情が憤然から憮然へと移り変わる様が、なかなかに面白かった。このあたりの感覚が、やはり悪魔である。
あまりからかうとまた怒られそうなので、話を先に進めることにした。
「ここからちょうど反対側だわ」
とりあえず、そこに向かうことにした一行だが、実のところ三人が三人とも、妖怪に鉢合わせたときの対処に困っていた。
人間二人はともかく、レミリアはまず妖怪が襲ってくることはないだろう。もしそうなると、レミリアが妖怪を攻撃する理由は何もない。巫女の代理という建前で付いてきてはいるのだが、人間の危険は人間自身で解決するべきだった。特に今回のような、さほど大きくもない事件については尚更だと思う。
余計な手出しをすることは、あまり気乗りする話ではなかった。
千恵はさておいて、阿求もそのあたりをあまり楽観的には見ていない。種族も立場も違い、実力も雲泥の差とはいえ、妖怪同士である。不干渉が基本的なスタンスだろうということは、予想がついている。
では、どうするか。
体を動かすことに関してはまったく自信のない阿求としては、何とかしてレミリアをその気にさせるくらいしか手が思いつかないのも確かだった。
いや、それだけとも限らなかった。失念していた人物が一人いる。
「そういえば、里の守護者はどこに行ったのです?」
「守護者? そんなのまでいるの」
「ええ、純粋な人間というわけではないのですが」
レミリアにそう答えながら、千恵に何か知らないかと目線で回答を要求する。
彼女は何かを知っているようで、一つ頷く。
「慧音様なら、子供を助けに里の外にいってしまっている。最初に結界を破った奴が、攫って行ったんだ」
「嗚呼、そうですか…。」
事態は簡単に好転するわけでもなさそうだった。
「どうしたものかしらね」
「まったくです。もし妖怪が既に進入した後だったりしたら、私ではどうしようも…」
「いや、もう『もし』では無いから」
「前、前!」
それでも、遠くに望む、と表現できるような距離であれば救いもあろうが、残念ながら、戦いに臨む、と表すような至近距離にまで近づいていた。姿は漆黒の狼、しかし、瞳には理性の光。無力な『獲物』を発見した喜びにはっきりとした笑みを浮かべている。
妖怪はとっくに結界を突き破って内部に進入していて、人間を探して徘徊している最中といった風だった。建物の影にいたため気づかず、運悪く鉢合わせ。と呑気に状況を想像してはみたが、そんな状況に陥った人間からすれば、『運悪く』などという言葉で片付くものではなかった。
まさに今の阿求がその状態だった。
妖怪――というより妖獣は、即座に他の誰でもなく、阿求に向かって踊りかかった。鋭い爪の一閃が、逃げる間も許さず阿求を切り裂く。
そんな残像が見えるほど凄まじい一撃は、残像と同じ現実を生み出さなかった。
爪が鋭く光る前肢をつかむのは、華奢な手。しかし、妖獣はそれ以上の身動きを完全に封じられていた。
阿求は、驚きのあまり放心状態だったが、レミリアが傘の柄で軽く押すと、数歩下がってその場にへたり込む。
「襲う相手が悪かったな」
阿求を押した日傘を軽く上に放ると、空いた手を一閃する。その手がかすんで消えたようにしか見えなかった。
しかし、その残酷な一撃の結果として妖獣の体が爆発するように分断。刹那の間だけ、血霧によって繋ぎ止められていた上半身と下半身も永遠の別れに、紅く静かな慟哭を撒き散らした。
何事もかったかのように、ふわりと落下してきた傘をつかむと、頽れた妖獣の下半身の上に、手に持つ形になっていた上半身を放り出す。
レミリアは阿求のほうを振り返ると、手を貸して立ち上がらせた。大量の返り血を浴びたはずのレミリアの服には、それらしい赤も見当たらない。
「いきなりだったので、びっくりしました」
流石に蒼い顔をしていたが、口調自体はだいぶしっかりしている。
「永く生きていれば、多少なりとも度胸もつくというものですよ」
そう独り言のように呟きながら、あっさりと立ち上がり服の裾についた汚れを払っている阿求は、やはり豪胆というべきだろう。
“普通の”人間と関わることが皆無のレミリアには、普通の反応がどういうものか今一つ分からないが、何となく好ましく思う。この程度で騒がれても、迷惑な話だという方が本音に近いかもしれない。
さて、もう一人の人間である千恵の方はというと、こちらも特に取り乱した様子もなかった。一瞬の事態に目を丸くするのみだった。
レミリアが周囲の状況を覗うと、前方の家屋の影に妖怪の気配。こちらに気づいたようで、向かってくることが分かった。
「さて、いちいち阿求の身を守るだけというのも面倒だわ。どうせ敵とみなされただろうし、いっそのこと殲滅してやろうかしら」
「私たちとしては、そうしていただけると助かります」
「では」
そういうと、レミリアは傘をちょこんと傾げ、右手を高々と掲げる。瞬時に深紅の、彼女の身長の倍はあろうかという、長大な槍が出来上がる。淀みない動作で、それを投擲するモーションに入った。
標的は…建物の影に見え隠れする妖怪・妖獣の群れ!
「神槍 スピア・ザ・グン…」
「やめい!」
――スパーン!
少しの痛みと、凄まじい音に驚いて、グングニルは幸いにも霧散した。
「え、な、何、今の?」
レミリアが、きょろきょろと辺りを見回すと、スリッパを片手に持つ阿求の姿。
どうやら、それで引っ叩かれた音のようだ。
「まったく、家にいる人ごと吹き飛ばすつもりですか!」
「そんなことより、そんなものをどこから」
阿求は答える代わりに、袂にスリッパを仕舞込むと、レミリアの前に仁王立ちになる。目が完全に据わっていて、その迫力たるや息を飲むほどだった。
「いいですか、目的は村に被害を出さないことであって、妖怪を殲滅することは最優先事項ではないのです。あんなものを放ったら、まさに本末転倒じゃないですか!」
表情と声音の迫力に圧倒され、流石のレミリアも反論することもままならず黙って頷くしかできなかった。
「は、はい」
恐るべし、阿求。
「そんなことでは、助けていただく意味がないのです。まったく、あなたは人間というものを…」
「そんな場合でもない!」
レミリアが狙っていた妖怪の群れが、阿求たちの目と鼻の先まで近づいていた。これだけ大騒ぎしていて、なおかつ阿求は妖怪に背を向けるように立ち、レミリアの視界を塞いでいたのだから、概ね自業自得と言えた。
レミリアは阿求の腕をつかみ、引っ張り、舞踏でターンでもするように位置を入れ替えると、左足を軸に右足を振り抜いた。
蝙蝠のような羽が生えた人型の妖怪――デーモンの頬に命中し首から上が異常なまでに捻れる。首が真後ろを通り過ぎて再び正面に向いていた。
その背後、角やら棘やらが無数に生えた大型の熊のような妖獣が迫り、レミリアめがけて巨大な腕を振るう。レミリアとの間にあった、首を捻られたデーモンの上半身が爆ぜる。
レミリアはステップを踏むように、腕の一撃を躱すと、鋭く踏み込み右の貫手を繰り出した。
その一撃は、確実に妖獣の心臓を貫き、一瞬にして絶命させた。
「日傘が邪魔ね」
そういうレミリアの表情は獰猛な歓喜に輝いていた。
他の妖怪は、近距離戦の間合いには入っていない。レミリアの力に警戒して、遠距離からの攻撃を仕掛けるほうに、切り替えたようだ。
「人間に危害を加えなければいいんだな?」
言うか言わないかのうちに、前方に差し出したレミリアの掌に燐光が灯り、魔方陣が展開。そこから何かが爆発的に増殖する。それは真紅に輝く鎖に繋がれたやはり深紅の四角錐。全体として見ると、アンカーのような真紅の物体が数本、瞬時に生成された。
阿求がその全容を把握するかしないかのうちに、それらはまるで生きているかのように中空を疾駆、鎖の尾を引いて周辺に存在した妖怪に襲いかかる。否、虐殺した。
あるものは頭を砕かれ、あるものは鎖に打ち据えられ、他にも、絞められるもの、貫かれているものもいる。
一瞬にして、十近い妖怪たちのその生命に終止符が打たれた。その役目を終えたアンカーの群れは何事もなかったかのように消え去る。
「これが、吸血鬼の力…」
あまりにも、圧倒的だった。
同時に、この化け物と対等以上に渡りあえる人間――博麗霊夢がまさにそうだ――を同じ生物だとは思いたくなかった。素手で妖怪の肉体を引き裂く力に加え、圧倒的な魔力。ほとんどの人間は、命を狙われたら、為す術もなく惨殺されるだろう。
先人が取り交わした妖怪との約定、そして決闘ルールがなければ人間など家畜に過ぎない。拒否権など無意味な力の差だ。
阿求の戦慄をよそに、レミリアは不吉な歓喜の表情のまま阿求を振り返る。
「ちょっとやり過ぎたかしら? でも、たまには力を出さないと、身体が鈍ってしまうものね」
阿求は、一つ頭を振ると思考を切り替えた。
その力がどうであれ、今は自分を救ってくれる存在であり、敵対するわけでもない。
「はい、とも、いいえ、とも言いがたい状況ではありますが…助かりました」
「いいえ、それは違うわね」
レミリアは、にやりと悪魔の笑みを返す。先ほどの歓喜の笑みよりも数段上の質の悪さを感じた阿求の背筋に怖気というか、いやな予感が走り抜ける。
「過去形で話すのは、まだ早いわ。結界内には妖怪が残っているもの」
「はい?」
「相手の力が弱すぎるわ。弱いものいじめは好きではないの。それに、わたしに敵対もしない者まで殺すのは気が咎めるもの」
そんなこと言われても、と途方に暮れたくなる発言である。
「むしろ大サービスだわ。周辺の妖怪は殆どやってしまったから、もう半数切っているわ。まぁ、これ以上入って来ないとして、だけど」
なんにせよ、当面命の心配はしなくて済みそうではある。しかし、
「後は、あなたたちで何とかなさい」
この発言には、阿求も面食らって絶句した。
できるわけがない。できるなら、とっくに何とかしている。
「いくらなんでも…力があるなら別として、私には力がないのですよ!?」
阿求の必死の訴えに、レミリアの笑みはますます深くなる。
まるで、聞きたかった一言を聞くことができた、というような。
そして、おそらく『ような』ではないのだろう。
地雷を踏んだ感触を足元に感じた人間は、おそらくこんな感じがするんだろうな、と阿求は場違いな感慨を持った。
「ひゃあぁぁああぁぁぁ」
「あら、いい感じじゃない?」
跳躍一つで屋根の上に登っているレミリアは、高速で飛翔する物体に向かって声を掛ける。
その物体は、普段であればそうそう出さないような、 素っ頓狂な声を上げながら高速で右往左往していた。
「とりあえず、止まったら?」
その一言で、高速移動物体が急停止する。先ほどの速度から考えると、慣性を無視しているような急停止である。それでも、物体は無事存在し続けていた。
うずくまる元高速飛行物体――阿求はぜいぜいと息をつく。
「とりあえず、制御はできてるから、いいんじゃないかしら」
「感度が高すぎるんですよ、これ」
阿求は自分の周囲を不規則に漂う魔法陣に視線をやる。
それは、「力があればいいのね」という悪魔の発言とともに生成された、使い魔、兼、式神という、ややこしい概念のもの。媒体に憑依するところは式神で、実際に力を出すのは使い魔の部分らしい。
式神の場合、すべての情報を、式神を通してみることになるが、この『使い魔』の場合は、阿求が意識して『使い魔』を使うと使い魔を通るらしい。
レミリアいわく、眼鏡と双眼鏡の違いとのこと。
憑依したモノの意思を反映してほぼ万能に動作するらしいのだが、振り回されっぱなしというのが現状だった。
「だって、右に動こうと思っただけであれなんですよ?」
先ほどの高速移動のことを指していた。試しに、高速移動をしてみようと、「右に動け」と思えば、右方向にとんでもない加速で引きずられ、慌てて元に戻ろうとすると、これまたとんでもない加速で引き戻される、といった具合だった。
確かに、思考を反映はしているものの、感覚的な調整までは勝手にやってくれないようだった。
「求聞持の能力を使うときの感覚で、意識を通してみればいいんじゃないかしら」
「簡単に言いますが…」
と文句を言いつつも、言われた通りに意識を切り替える。
求聞持の力――記憶する側は自動で働いているようなもので自分の意思が働かないところにある。しかし情報を引き出す方はというと、そうではない。無意識で、通常の記憶とは区別なく取り扱っているし、しばしば勝手に呼び出してきてくれたりもするが、確かに通常の思考や記憶を辿るときとは感覚が違っている。
その感覚で、阿求は意識に潜り込んだ。瞳は目の前の風景を捉えるとともに、違う世界を捉える。視認ではない認識。目で捉えているわけではないが、見える世界。
そこに、求聞持の記憶が揺らめいている。
いつもであれば、そこから望む記憶を検索するのだが、今の目的は違っていた。
周囲を見回す感覚で探ると、レミリアの言う通り、確かにそこにあった。阿求の意識がそれに触れる。それはするりと解けて、阿求を包む。
(鳴呼、成る程)
無意識に呟きが漏れる。
阿求の意識がふわりと浮き上がった。
それは正しいが正確な表現ではない。
阿求の意識が浮き上がると同時に、阿求自身も浮き上がっていた。
「ほら」
レミリアの歓喜が声となって漏れた。
「わかりました、何となく」
意識の内に潜っていた時間は刹那。阿求はそのうちに『使い魔』を認識していた。
思考だけを読ませては、『使い魔』は勝手な解釈をするだけなのだ。その思考を紡いだ意識ごと読み取らせることで、初めて『使い魔』は阿求の考えを認識する。
阿求はその力を確認するように、意識の一部を『使い魔』に注ぐ。『使い魔』を通して周辺の情報が恐ろしい密度を持って押し寄せて来る。
(それらは…違う!)
比較的おとなしい求聞持の力とは違い、レミリアの『使い魔』は乱暴だった。
一気に処理しきれない情報を、容赦なく阿求に向けて流し込もうとする。それをされてしまえば、もはや情報の渦から抜け出せないと、本能に近いところで危険信号が点る。
阿求の意識は、膨大な量の情報の殆どを精神力で以ってはね退け、欲する情報のみを抽出していく。
それでも、通常感覚しえない量と密度、精度を持った情報の渦に頭痛を覚える。
得たかったのは――得られたのは、結界の様子。
上空から見て、正多角形を描くはずの護符の配置が、一部の頂点がかけてゆがんだ形となっている。本来あるべき呪符が、二枚ほどないようだ。
護符は、隣接する護符と力の網を張ることで結界の力を強化している。横方向に関しては、最も近い護符と最短距離、すなわち二点を結ぶ直線で相互に網を張るため、結界そのものが消失することはない。実際、護符が三枚あれば――それが直線上に配置されていなければ――、範囲は変化しても結界自体は維持される。
ただし、護符の力は隣接する護符との距離が長いほど結界の力が弱まる。ちょうど、引き延ばされるゴムが細くなることに似ていた。それが故に、この二つの護符が欠けた箇所は護符同士の距離が長くなり、結界の力が弱くなる。
(細かいことを言えば、護符から放射される力の網は太さを持たず、無数の糸が結界から放射状に広がっている。この糸自体は距離によって力が弱まることはないが、この糸は隣の護符に到達したもののみが結界の力として作用するため、距離が倍になれば力――隣に到達できる糸――は四分の一、三倍になれば九分の一と、急速に力は減少する)
また、結界は護符を直線で結んだ形状に発生することから、護符が欠けたことによって結界が網を張る経路が変化する。護符が機能しなくなった場所の周囲は結界の外に締め出されることになる。
幸いにして、締め出され空間にはなにもないようだった。
次いで、外の様子を確認しようとするが、『使い魔』自体が下級妖怪と判定されているようで、力が結界に散乱されてしまい、正確に結界の外を探ることはできなかった。
ただ、結界の薄くなっている場所の手前で、ぼんやりとではあるが複数の妖気が確認できた。妖怪の力は定かではないが、いつ侵入されるか分からない以上、事態は好転しているとは言えなかった。
『使い魔』に問いかけ、結界の修復が可能かを確認するが、『使い魔』にはその力はないようだ。それもそのはずで、結界に散乱される力が結界を構成できるはずはない。力の性質が違いすぎる。
案として、結界と干渉しない位置に、『使い魔』の力を使って別の結界を構成することも考えられたが、それだと結界同士の隙間が大きすぎて、あまり意味はなさなそうだった。
里全体を囲むような結界も構成するだけの力は無い。
「ふぅ」
息継ぎをするように、『使い魔』から意識を引き剥がす。
『使い魔』との接続を長く続けるのは、つらいものがある。人として決して触れることのない情報量は、呼吸器さえ圧迫するように感じられた。
全て意識のうちのことなのに、息苦しさを感じること自体が奇妙なことだったが、考え事をしていて呼吸が止まるようなこともないわけではない。
自分がまだ正気を保っていることを確かめると、再び情報の渦に飛び込む。
決しておぼれることのないように。
まずは被害を最小限に抑える努力から始めるべきのようだ。
そうなると、重要なのは里に入った妖怪の現在地の把握。
そう思った瞬間に、思考内で三次元の仮想空間が展開し構築される。視界に入る建物などは単純な直方体として表現されていた。この位置から感じる妖気を情報として、各妖怪の所在が光点として三次元空間に配置された。阿求の思考は、それを俯瞰する。
数は五体。三体はほぼ固まった位置にいて、他の二体は散らばった位置にいる。今はまだ、それほど活発に動いていない様子だった。
妖怪でない、人の配置も捉えることが出来そうだったが、その情報量が莫大過ぎて諦めた。それでなくても、通常人間が認識できないような量の情報が脳内に展開しているのだ。先ほどから、ひどい眩暈のような何かに襲われているが、耐えていた。
『使い魔』には、視界に入らない非生物は認識できないようだった。
ようするに、視界の外にある建物の形状等は分からない。
妖怪を捕獲して、動きを封じることが出来れば一番いい。
そのために、とるべき行動は何か。
阿求は自身の能力を顧みる。
阿求は浮遊し、瞑目したまま動かない。
しかし、意識が『使い魔』に集中するのを、レミリアは感じていた。まるで、嵐の前の静けさだった。
チリッ――。
レミリアの思考に、ノイズが静電気のように疾る。
阿求の集中力はさらなる高まりを見せ、ノイズも増え続ける。
不意に、弾けた。
阿求から力が迸り、五つに分かたれ飛翔する。
同時にレミリアの思考に別の思考が断続的なパルスのように弾けた。
「ぐっ」
流石のレミリアも、思考中枢を灼かれているも同然の状態に苦鳴を上げる。
不意に、数十もの金属を打ち鳴らすような音が、響く。阿求から放たれた力が飛び去った方向からだ。
「終わりました」
いつの間にか、地面に膝をついている阿求。
同時に、レミリアも苦痛から解放される。レミリアは頭を一振りして苦痛の残響を追い払うと、荒い息をつく阿求を見つめた。思わず、口の中で呟きが漏れる。
「わたし、とんでもないことをしてしまったのかしら」
「いえ、助かりました」
誰にも聞こえないはずの声に、阿求は答えをよこす。レミリアの口からため息が漏れる。
「そろそろ、人の頭に直接アクセスするのをやめて欲しいわ。わたしが壊されてしまう」
「?」
阿求は怪訝な顔になる。
強度こそ弱くなって入るが、未だにレミリアの思考には断続的なノイズが感じられていた。
「しかも無自覚なのね、恐ろしいことだわ」
レミリアは、今度は完ぺきに声には出さずに、指向性あるの思考としてのみ言葉を紡ぐ。阿求はますます怪訝な顔になる。やはり、使い魔を通して思考を読み取っているようだった。レミリアは阿求の疑問の表情を無視するように言葉を重ねる。
「一旦、『使い魔』から意識を離した方がいいわ。あまり力に慣れすぎると、なくなったときに苦労するわよ」
その言葉で、阿求は自分が『使い魔』に意識を向けすぎていることを自覚した。息を一つつくと、阿求は『使い魔』から意識を引き離す。
情報にあふれた世界から離脱し、認識も人のものに戻る。まるで夢から醒めたときのような、軽い違和感と安堵感が全身に染み渡る。
レミリアも同時に、ノイズが消えたことに安堵していた。
「貴方はいつもあんな世界を見ているのですか?」
阿求の声には、僅かな憧憬。
「その気になれば。でも、疲れるからわたしは嫌だわ」
確かに、と阿求は思う。下手をすると自分の意識が破壊されかねない情報の渦を御するのは、想像を絶する疲労を伴う。
「さて、それじゃ貴方が何をしたのか、見に行きましょうか」
「え、もうですか?」
そう言いつつも、眩暈を堪えて立ち上げる。まだ少し頭がふらつくが、自身が成した事が思い通りに行ったかどうかは、早くに確認するべきだと思い直す。
「分かりました。行きましょう」
「呆れた」
その現場を見た、レミリアの第一声だった。表情にも、心底の呆れ。
「あの一瞬でこれを、全部一遍に?」
「多分。ほかも外していなければ、いいのですけど」
レミリアの目の前には、檻。
鳥かご型の檻――の形に収束した魔力だった。
中には当然のように、妖怪が鎮座していた。あまりに突然のことに驚愕のまま凍りついて、目を瞬かせている。
この周囲に三体の妖怪がいたが、ご丁寧にそれぞれに檻を構築していた。
「これを遠隔地から、しかも死角にいて、移動しているかもしれない妖怪めがけて? ありえないわね、本当に」
レミリアは頻りにありえないと呟きつつ、周囲を見回す。それも無理のない話だった。今レミリアたちが妖怪と檻を見つめているここは、狭く暗い路地裏なのだ。
捕らえられた妖怪が、少し先の表通りに一体。目の前に一体。ここに来る前に、同じような路地の入り口付近に一体いることを確認していた。
今いる場所など、左右を塀に囲まれている上、人がぎりぎりすれ違えるような狭い路地だ。よほど上空高く上がらない限り、遠方からは死角となるような位置だ。そこにいる妖怪を、狙いたがわず捕えて見せるなどという離れ業は、レミリアが考えても簡単なことではない。
レミリアであれば、考えている時間があるなら、この場所に赴き直接止めを刺すことを選ぶだろうから、あまり比較にはならなそうだが。
それをなした本人は、至って暢気だった。「これって、いつ頃まで保つんでしょうね」などと言いつつ、自分が作り出した檻をしげしげと眺める。それを成したのは阿求でも、その力は彼女とは別のところにあるのだから、疑問は尤もなのだがひどく的外れな感じもする。
「どうしたら、こんなことができるのかしら」
「ああ、それはですね…」
阿求が言葉を続けようとした目の前で、結界内の妖怪が地面に溶けるように消えた。
「え?」
一瞬、何が起こったのかよく分からなかったが、まるで別の頭脳が働くように、阿求は素早く思考を繰り広げる。
消えた妖怪の外観を高速検索。能力を照合。合致する情報を取得。対策案を検討。
思考は刹那。
阿求の中に、迷いはなかった。
俄に阿求の足元、しかも背後から気配。影が蠢く
影は一瞬にして、二次元から三次元へと成長し、粘土細工のように輪郭が整形されていく。
阿求の表情には、悲しみ、哀れみ、非情さ、殺意。
影が妖怪の姿を形づくった瞬間、それを追うように現れたのは、真紅の長槍。
妖怪の足元から伸びて胴体の真ん中を貫き、穂先が背中から突き出しても尚、伸びる。完全に足が地面から離れたところで、ようやく止まった。
阿求の足元には、魔法陣。串刺しとなった妖怪が捕らえられた檻を中心に、半径十数メートル程度の魔法陣が展開し、それが阿求の足元にまで伸びていた。
早贄となり、もう動かない妖怪を見つめ、阿求は表情から殺意のみを拭い去る。
「最初の一撃で、敢えて閉じ込めるのみにしたその意図に思い至らなかった。それがあなたの不運でしたね」
今は亡骸となった妖怪は、影渡り。その名の通り、影と影を渡り歩くことができる妖怪だが、強い個体でも影を渡れる距離は十メートル程度で、普通はそれよりも短い距離しか移動できない。
それを記憶の高速検索から把握した阿求は、長槍を具現化するための魔法陣を妖怪が逃げられる範囲をカバーするだけの大きさにで、事前展開していたのだった。
妖怪のことを知ることで、自身に降りかかる危険を回避する。まさに、御阿礼が求聞持を残すことにした理由、その体現だった。
無用な殺生は、ないに越したことはない。それ故に阿求は、妖怪を捕縛するに留めていた。しかし、それをいいことにこちらに危害を加えるような相手に遠慮するほど、阿求は甘くなかった。
「それで、一体どうやって…」
「そこか!」
何事もなかったかのように、レミリアは会話を再開させようとしたのだが、またしても何者かに邪魔をされた。
声は頭上から降ってきた。ついで、声の主も降ってくる。
取り逃がした妖怪だろうか。
阿求は反射的に、路地から大通りに出た。狭い路地は立ち位置次第で簡単に追い詰められてしまう。気配は一体のみ。阿求は振り返りざまに右手を掲げる。掌の先に魔法陣が浮かび上がり、真紅のクナイが散弾のように放射。路地裏の人影に向かって飛ぶ。
人影の手の先で何かが閃く。直撃コースのクナイはすべて打ち落とされた。さらに影が大通りに躍り出る。高く跳躍しながら上段の構え――手には剣。
接近戦!
阿求自身は力がないため、自分で受け止めても押し切られる。とっさに先程と同様に地面から槍を生やして防御・迎撃をしようとして、お互いに相手が誰なのか気がつく。
「!? 慧音様!?」
「あ! 稗田の!」
気づいたはいいが、阿求の術式は既に発動し、足元に円と正三角形で構成された魔法陣が展開しているし、慧音と呼ばれた者は既に刃を振り下し、膂力に重力加速度を上乗せした重い一撃を既に放っている。両者とも動作を停止することは出来ない。
阿求に向かって振り下される斬撃を、阿求の足元――正三角形の頂点から生えた二本の槍が交差して受け止める。槍は軋るが重い一撃に耐えた。それだけに留まらず、残りの頂点――慧音の背後から更なる槍が伸びる。
その気配を察して、慧音は背後を見もせずに左手を背後に向ける。その手元が光を放つと、そこには輝きを放たんばかりに澄んだ鏡面。具現化した鏡は、槍を、まるで光か何かのように反射させる。
「ずいぶんと斬新な挨拶だな」
「それはお互い様というものですよ、慧音様」
具現化させた剣を虚空に返し、困惑の表情を浮かべる慧音に、阿求は苦笑で返しておいた。身体が弱いことでも有名な稗田阿求が、妖術を操って守護者を迎撃するなど、説明するにしても、一言、二言では済まない。
「色々と問いたいところだが、一番重要なところからだ。結界を破ったのはお前か?」
慧音の視線は、日傘を片手に屋根に坐る――少なくとも見た目は――少女に向けられた。レミリアは目を細めると、口を開く。
「それではダメね」
「何?」
「詰問するのなら、推理したトリックや動機を交えながらでないと。出来れば証拠の品もほしいところね」
足をブラブラとさせながら、レミリアは言い切った。
「そんな物言いでは退屈だわ」
「…何者だお前」
否定するでも肯定するでもなく、ただ退屈だとだけ言われても、リアクションに困る。助けを求めるように阿求に向き直ると、彼女は くすくす と笑っている。
「レミリアさんも意地が悪いですね。結界を破ったのは彼女ではありません。それにしても慧音様、すごい顔していますよ」
いつも気勢のよい慧音だけに、困惑し混乱しきった顔は珍しく、どこか笑いを誘う。
「こちら、レミリア・スカーレットさん。吸血鬼で紅霧の異変の首謀者です」
阿呆のようにあんぐりと口を開ける慧音。
レミリアは屋根からふわりと降りると、優雅に一礼して見せた。ついで、言葉を紡ぐ。
「人里にも、案外奇妙なのが揃っているのね」
慧音は、レミリアの一言をあまり聞いていなかった。それ以前に阿求の紹介に目を見開いて絶句している。
「こちらは、里の守護者である上白沢慧音様」
レミリアの目が、ますます細められる。
「里と子供一人を天秤にかけて、子供一人に傾く守護者ね」
「そうでした。そのお子さんは無事だったのでしょうか」
しばらく身じろぎ一つできないでいた慧音だったが、レミリアの辛辣な言葉と、阿求の問いに引きずられるようにして我に返る。
「…ああ、攫われた子の話だな。大丈夫だった。置き去りにされているところを発見しただけだから、相手の妖怪の姿は確認できなかったんだが。子供は無事だ」
言いながらも、胡乱気な視線をレミリアに向ける。強大な種族であり、さらに最近異変を起こし、物言いも人を食っていれば、慧音の態度がそうなる事も無理はなかった。
「それで、おまえは一体何をしに来たのだ」
棘のある慧音の言葉に、レミリアは処置なしといったふうに首を振ると、さらなる思考停止爆弾を落としにかかった。
「何というわけではないのだけれど。里が大変なことになっているというから、巫女に代わりに」
「は? お前が!?」
決して嘘ではないが、いい加減慧音も間に受けすぎだった。そのためレミリアにからかわれ続けるのだということを、本人は気付いていないようだった。
「あぁ、それは本当のことのようです、一応。結果的に里を守っているようなことをしています」
「そういうこと。それにしても、あなたがそんな物言いをするの? さすが、正確な表現を求め続ける稗田の者というところかしら」
実際には、どの行為をとっても里のためではないので、阿求の表現は正しすぎる。ただし、阿求自身は幾度となく助けられている。その身でそんな発言ができるのだから、やはり心臓に毛が生えているかもしれない。
「いろいろ確認したいこともあるのですが、とりあえず結界の方はどうなっています」
ここで落ち着いて立ち話をしていて良いものか、気になるところであった。とりあえず、里に侵入した妖怪は捕縛したものの、いつまた妖怪の侵入を受けるか分からないのでは、気も休まらない。
慧音は里を守る守護者だ、結界についてもどうにか出来るだろうと、思っていたのだが。期待とは裏腹に慧音が顔を曇らせる。
「どうもこうも、破られたままだ」
「はい?」
「あれは、私の手には負えない代物なんだ」
阿求は重いため息をつくしかなかった。
「慧音様の手に負えないということは、やはり巫女待ちですか」
「申し訳ないが、そういうことになるな」
慧音は本当に申し訳なさそうに、目を伏せる。力を充填することはできるんだがな、と付け加えた。
結界を支える護符は、うちに力を蓄えた状態で初めて機能する。結界を構築すると、充填した力が少しずつ減っていくため、定期的に力の充填を必要とする。
その力の充填を行える慧音にも、結界の張り直しともなれば勝手は違うようだ。
「巫女以外にもう一人、結界の張り直しができるものに心当たりはあるのだが…神出鬼没すぎて望みは薄い」
慧音は肩を竦める。
阿求には、その心当たりが誰なのか、何となく分かった。確かに、彼女は住む場所ですら定かではなかったはずだ。
「まぁ一応、薄くなった結界の周囲にいた妖怪は追い散らしたし、その周囲に護符による結界を展開はしている。通常の結界の強固さと柔軟さからいうと、気休め程度だろうが、当面は安全だろうさ」
とりあえず、事態は確実に収束へと向かっているようだ。
ここから大通りを少し歩くと、茶屋がある。とりあえず、安心した阿求はそこに向かうことを提案した。
屋内にいても良いのだが、非常事態になったときに気づきにくいため、慧音も屋外がいいとの意見だったのだ。
立ち話もどうかと思ったし、運がよければお茶も出してもらえるので、そこの店先の椅子を借りるべく歩を進めながら話も進める。
まずは阿求から、ことの顛末を伝えた。
終始、冷静に話を聞いていた慧音だったが、やはり阿求は驚くべきことをやってのけていたらしい。
「その五体同時に捕縛って言うのは、何なんだ?」
「いえ、ですから別々の場所にいる妖怪をですね…」
阿求が重ねようとした説明をさえぎるように、慧音はかぶりを振る。
「そういう意味ではない。どうしたらそんなことが可能なのかと言うことだ」
レミリアも酷く驚いていたことを阿求は思い出していた。
「え~と、そんな大したことはしてないですよ?」
といいつつ、何をしたのかを思い起こす。
「とりあえず、妖怪の所在を把握したんですよ。結界を破る力を考慮して妖気の強さから。とりあえず、三次元空間上の座標で概略の所在が把握できます。波長は概ね個体別なので、互いに近接していても、個体数はそう間違えませんし」
「あら、あれじゃないかしら?」
さらに記憶を手繰り寄せた。
「後は、自分のいた場所から、妖怪の所在地までの道のりを、記憶を頼りに三次元の地図として起こします。その地図と、想定した妖怪の座標と照らし合わせて、ありえない位置にいないかと――例えば塀や木にめりこんでいないかですね――、妖気の減衰する要素がないかを確認しました。減衰があると、妖気の発生源の方向は間違えないにしても、距離に誤差が出てしまいます。位置同定するには問題になりますから」
「ねぇ、あれではないの?」
曖昧な記憶を頼りでは、この時点で矛盾のない地図を構築できないだろう。求聞持の力があるからこその離れ業であることは間違いない。
「後は、その地図を元に死角から当たるように経路を決めて、檻を放ちました」
「死角?」
「上空にいるなら下から。そうでなければ頭上から。です」
阿求は記憶を手繰る思考を停止して、二人の顔方を向いた。
慧音には、更なる呆れの色が上塗りされている。
「合理的だな、色々と」
一方のレミリアは、後方――進んでいる方向と逆を向いていた。
「あら、どうしました?」
「だから、目指していたのは、あそこじゃないの?」
問われて、慌てて周囲を見渡すと、確かに行き過ぎている。
「さっきから声を掛けていたのに」
「あ、申し訳ありません。話に夢中で」
慧音はさらに、そんな阿求たちのやりとりにも気づかず、先へと進んでいた。
夏空は気まぐれだった。何処からか雲が流れ、太陽を覆い隠している。とはいえ、雲はそれほど厚くも無く、レミリアは未だに日傘を手放せないでいたが。
日本茶を傍らに置きながら団子を頬張りながら、レミリア。
「偉大なるは求聞持の力、ね。とはいえ、それも材料に過ぎなくて、その情報から結果を導いたのはあなたの頭脳。本当に人間かしら」
その横で湯飲みを掬うようにして持ちながら、慧音も頷いている。
「あれは人の所行を超えていた」
「お二方とも、酷いです」
お茶屋の店先に腰かけての会話である。
三人が訪れると、気を利かせた店主が、お茶とお団子を差し入れてくれた。面子に慧音が居たことが大きいだろう。がんばってください、と声援を残して奥に下がって行った。
「いや、本当に凄まじかったのだ」
慧音の発言には、まるで見てきたかのように実感がふんだんに盛り込まれていた。というより、慧音は里に戻ったときに、偶然、妖怪をとらえる瞬間を目撃していたのだ。
「妖怪が家の扉を破ろうとしていたところに出くわしてな」
妖怪も馬鹿ばかりではない。人が外を歩いていなければ家にいる、くらいの発想は当然できる。扉を破るにしてもそれなりの労力を要するため、外を人が出歩いていれば、当然そちらを狙う。
慧音が出くわしたのは、そんな妖怪が家に侵入しようと試みている場面だった。
これはいけないと思い、妖怪を止めようと足を向けた瞬間、光が爆ぜた。
「最初は落雷でもあったのかと思ったんだが」
次に妖怪を見たときには、既に妖気の檻に閉じ込められていた後だった。
こんな力の持ち主が、里にいるのは一大事、と妖気の残響を追って、阿求の元にたどり着いた、ということらしい。
「それで、私が襲われることになるんですね」
阿求はため息を一つつく。妖怪ならいざ知らず、里の守護者に命を狙われるとは、流石に思いもしなかった。
阿求が命を狙われる羽目になったのも、それでも無事でいるのも、『使い魔』を十分以上に使いこなしているからに他ならなかった。実際、魔力の放出以外にも、先に阿求が話した記憶から三次元の地図を展開したことにしても、『使い魔』の演算能力を使用した結果だった。
それを自分の一部のように使いこなすということも、非凡な能力だった。と言うのも。
「使用中に『使い魔』を作り変えてるしね」
「は?」
「だって、非効率だったんですよ。細部をいい加減に構築しましたね」
「だって、面倒だもの」
「…おいおい、阿求は術式なんて知っているのか」
『使い魔』は魔術で生成されたわけで、当然術式から成っている。
慧音自身にしたところで、さほど多くを知るわけではない。ただの――かどうかは異論もあろうが――人間に過ぎない阿求が知っているはずもないと、慧音は思っていた。
が、
「知っていますよ。力がないから使えないだけで」
「そ、そうか」
いとも簡単に、阿求は答える。
「術式なんて、ある程度は定石の上に成り立っているのです。そこをつかんでしまえば、そう難しい話ではありません」
慧音は呆れて、何も言う気になれなかった。稗田の人間の知識量は慧音の想像をはるかに超えているようだった。下手をすると、遥かに永く生きている慧音よりも多くの知識を手に入れているかもしれない。それを想像すると、戦慄が走る。
「だからといって、『使い魔』経由で私まで制御するのはどうかと思うの」
「あ、あの魔力抽出の部分、レミリアさんに接続されていたんですか」
道理で書き換わらないはずだと、阿求は気恥ずかしそうに頬を掻いている。
しかし、仕出かしたことは、そんな仕草で済むようなことではなかった。
「…魔力の出力がぎりぎりだったので、ちょ~っと魔力源を拡張しようとしただけなんですよ?」
種族柄、凶悪なまでに頑健なレミリアだから、フローバックした意識に思考中枢を灼かれても何事もないように生きているが、ほかの生物が同じように脳をやられたら、必殺の一撃になるだろう。
可愛く言い訳してみても、ダメなものはダメなのだった。
「なかなか刺激的な体験だったわ」
「あははは…」
にっこりと微笑むレミリアの口元に、鋭い牙を見た気がした。
「私たちの方は、そんなわけです」
空気を変えるべく、阿求は慧音に話すよう促した。
「ああ、私か。私は、そもそも、間違って結界の外に出てしまった、子供を攫った妖怪を追いかけていたのだが…」
「え、なんですって? 間違って外に出た?」
話しはじめから腰を折られて、慧音は怪訝な顔をしつつも阿求の疑問に答える。
「ああ。本人はよく覚えていないといっていた。どうも友達と遊んでいて気づかずに外に出たらしい。一緒に遊んでいた子供が血相変えて私のところに来て…どうかしたのか」
レミリアと阿求が、互いに顔を見合わせているのを見て、慧音が言葉を切る。
「結界が破れたのが最初ではないのですか?」
「いや、私が里を出たときは、何も異常はなかった。でなければ、流石においそれとは外に出ないさ」
レミリアと阿求は再び顔を見合わせる。
阿求の頭にあった展開と、少し話が違ってきている。そのあたりの成り行きは確か、千恵に聞いた話だったはずだが。ただの勘違いだろうか。
と、そこで阿求は、千恵の姿がないことに初めて気がついた。
「あ、そういえば千恵さんはどこにいるのでしょうね。もしかして、置いて来てしまいました? まぁ、状況から言って、妖怪に襲われたということはないでしょうけど」
「少なくとも、襲われているところも、死体も見ていないわ」
「里の中にいる以上は、もはや心配する必要はないだろう。千恵…何処かで聞いたことがある名のような気がするが」
慧音は、なにやら記憶を辿っている。阿求の方は頭を切り替えた。
「話を戻しますが。つまり、結界が破れた理由が分かっていないということですか」
千恵のいい間違いか、記憶違いかは分からないが、ともかく子供を攫った犯人と結界を破壊した主は別の人物らしい。
しかし、そうすると一体誰が結界を?
慧音が主犯の妖怪を既に退治していて、結界を修復すれば事態は収束、などと思っていたが、どうも少し甘かったようだ。
慧音もとりあえず記憶を辿る作業を中断し、現実に戻る。
「残念ながらその通りだ。最初に阿求を襲ったのも、結界を破った主かと思ったからだ」
「だからって、いきなり襲うのはどうかと思うけどね」
暴君であるところのレミリアに、そんなことを言われ慧音も思わず言葉に詰まる。
「…仕方ないだろう。不意でもつかない限り勝てそうもないと踏んでいたんだから」
その発言は、阿求にとっては意外極まりない話だった。随分な過大評価だと思ったが、慧音の表情は随分と堅い。
投げかけるつもりの言葉を思わず心に仕舞込んだ。その代わりに、傍らの吸血鬼から言葉が飛ぶ。
「ところで結界は、人の手に触れられるのかしら」
「ああ…可能だ。が、通常は無理だ」
慧音の回答に、阿求が眉根を寄せる。レミリアは小首を傾げて続きを促す。
「結界の呪符自体は人に対して何も影響を与えない。だから触れること自体は何も問題はない。ただ、悪戯でもされたら堪らないからな、呪符自体は別の結界で保護と隠蔽をしている。だから、里の人間には場所すら分からないはずだ」
慧音は、さらに続ける。
「当然、力のあるものには分かるが、そう多くはないし。そういう人間は、重要性を理解している。大体、人間が触れられるとはいえ、護符自体はそこに込められた力の作用で、そこから動かせないようになっている。多少力を持った人間が触れたところで、結界が破られることなどありえない」
「大体のことには、例外が存在するのだけれどね」
そう、レミリアが呟いた瞬間。
――。
「?」
「!?」
「今、何か違和感がありませんでした?」
阿求がきょろきょろと辺りを見回す。よくは分からなかったが、何かが変化するのを感じた。『使い魔』を使って調査するにしても、『何かの変化』などと曖昧な入力をしようものなら、局所的な気圧の変化や温度分布の時間変動などまで拾ってきてしまう。うまく要因の絞込みをしないと多すぎる情報に振り回されるだけなのだ。『使い魔』は便利な道具ではあるものの、万能ではなかった。
「まずい、結界が破られた!」
言うが早い、慧音は阿求とレミリアの手を掴むと、一目散に飛び出した。
「え、ちょっ!」
「あら、わたしまで?」
「ついでだから、付き合ってもらう」
慧音は目の前の事態で頭がいっぱいのようで気がついていないが、手を引いたまま飛ばれると、片手でぶら下がっているのと変わらない状況になり、肩が痛くなってきた。阿求はどうにか自分で――当然『使い魔』は使って――体を安定させた。
レミリアは既に自力で飛んでいる。
「あなた、そんな猪突猛進で守護者なんてデリケートな仕事が務まるの?」
「ここ百年近く、問題なく務めていると思うが」
「ここ百年くらい平和だものね」
そうこう話しているうちに、慧音が高度を落とす。どうやら、目的の場所――おそらく、破られた護符のあった場所に到着したようだ。
阿求は慌てて膝を曲げ、正座に近い格好になる。そうして着物の裾を抑えるようにしないと、着物がまくれ上がって大変なことになると悟ったからだった。ほかの二人の衣服は不思議なことに、そうなりそうもなかった。針金でも入っているのだろうか。
これ以上ないほど切実で、どうでもいい思考をしつつも無事着地をして、とりあえず周囲を見回す。遥か前方には森、今通り過ぎてきた後方には民家があるが、それも百メートルくらいは離れた場所である。左手は、背の低い草むらがあり、木がまばらに生えていた。右手には、大きな口。
口?
阿求の頭なら、一口くらいで丸呑み出来そうなほどの大きさ。短剣のような鋭い牙が無数に生えている。上顎がまるでヤスリのような硬質の棘に包まれていることまで、はっきりと確認してしまった。
「……!」
着地直前までは、影も形もなかったはずの場所に突如現れた『何か』に、驚いている余裕もなかった。声も出す余裕もなかったが、反射的に阿求は右手で払うように動かす。体が動いたことだけでも、奇跡に近かった。
咄嗟の無意味とも思われる行動に対する結果は、無情。
阿求の手から力が放たれ、一瞬にして収束。手の延長線上に伸びる紅く鋭い刃と化した。水か何かを切るように、刃はほとんど抵抗もなく妖怪の体に食い込む。阿求に向かって突き出された上顎と下顎は蒼い悲哀の滴をまき散らし、泣き別れた。
「うぇえぇ」
肉を切り裂き骨を断つ感触に肌が泡立つ。とっさの行動とはいえ、自身の選択に後悔しても後の祭りだった。が、それどころではない。口は運動慣性もそのままに、阿求に襲いかかろうとしていた。
阿求は刃が受ける僅かな抵抗を軸にして、回転するようにして口の側面に回りこむように動く。目の前を、阿求が断った断面から青い血の尾を引きながら阿求の脇を掠め、そのままその場に崩れる。大きな口には胴体や目すらもなく、本当に口だけだった。回避まではよかったが、バランスを崩してその場に座り込む。
返り血が頬を点々と彩る。幸い正面から大量に被る事もなかったが、手に残る感触とその臭気と相まって気分が悪い。
阿求は、『使い魔』を使うという思考を一切していない。手を払う動作も単なる反射的な行動だったのだが、その動作に合わせて『使い魔』が勝手に妖怪を滅ぼした。実際はどうだか分からないが、『使い魔』には阿求を自動的に守るような機能が織り込まれているのかもしれない。
レミリアに聞いても、素直に答えてくれるとは思えないし、本当にそうか、試してみる気にもなれなかったが。
「大丈夫か?」
「流石に…きついですね」
慧音が、気を使って声を掛ける。
阿求の声も震えが隠せない。懐から手ぬぐいを引き出して、顔を拭う。血の色を確かめて顔をしかめると、懐に戻そうか一瞬だけ迷い、結局手ぬぐいを放り投げると空中で燃やした。そんなことが自然に出来るほど、いつの間にか阿求は『使い魔』に慣れていた。
「それでも、死んだ方がましとも思えませんけど」
今し方屠った妖怪が来た方向に気配。そちらに視線をやると、そこには人影。
「…え?」
その人影を認めた阿求は小さく呟きを漏らす。
「千恵さん?」
その言葉に、慧音も目を見開く。
「千恵…そうか、お前か!」
紙切れを持った人影――千恵も驚愕の表情を浮かべてこちらを見ていた。ただ、その驚きは阿求のものとは異なるようだった。
「あの至近距離から襲われても対応できるなんて、化け物ね」
そんな呟きが、いやにはっきりと聞こえた。
その言葉は、阿求の心を小さく穿つ。穴から覗き見えるのは、過去の光景。
「何を言って…?」
「壊れてしまえばいいのよ。みんな」
笑顔でそれだけを言い残して、千恵は紙切れを手放す。それらは地面に落ちる前に千々に千切れる。そのまま地面に落ちるかと思いきや、紙切れは落下途中で留まり、千切れ続けた。
否、破片は増え続けている。あっという間に元の紙の十倍に近い紙片の量となるや、ゆらりと阿求らに向かい来る。
視界を埋め尽くすほどの紙片――それがひらりと阿求の頬をかすめると、紙片が朱に染まる――頬を薄く切り裂かれていた。
一見脆弱な風景――そこに込められた殺意。
速度はさほど速くはないが圧倒的な物量に、剃刀を思わせる鋭さが宿り、恐怖の圧力に体を縛られる気すらした。その向こうで千恵はどこかに去ろうと背を向けているのが見えた。
「逃がさないよ」
阿求の後方から、声。
そちらを向く前に、声の主が殺意の空間へと真正面から突っ込む。
何もないかのように紙と紙の間をすり抜けて、物凄い勢いで前へ前へと進み続ける。たまにリボンや服の裾がかすめるが、体には一切触れさせることなく、紙で埋め尽くされた空間を抜け切った。
「ぬるいぬるい」
千恵は、一歩先に信じがたい跳躍を見せてその場を去ろうとするが、レミリアはさらに凄まじい加速で千恵に追いつき追い抜くと、振り向きざまに鋭い爪の一撃を見舞う。
千恵は、その超速の一撃を右手の一閃で弾き飛ばし、逆の手から刃のように硬質化した呪符を突き出す。レミリアは首を振って躱すも、その頬に紅く一筋。レミリアが刹那、目と口で真円を描くが、即座に肉食獣の笑みを浮かべる。
一方の千恵は、右手に握る呪符が許容以上の衝撃で紙くずに変わっていることを認めると、舌打ちせんばかりの表情で、呪符を振り捨てる。
歓喜を全身で表現するかのごとく、レミリアが猛攻を見せた。一撃で防御用の結界符を使いものにならなくするレミリアの膂力は、やはり常識外れだ。そうそう真正面から受けてもいられない。千恵は、新たな結界符を取り出すと、レミリアの爪や爪先の攻撃を逸らすようにして、符への負担を減らす。それとともに、発光呪符を弾幕のようにばらまき、レミリアの視界を遮る。その機に側面に回ろうとするが、レミリアは逆にその動きを読みきっていた。
結果的に、逆に真正面に回りこまれ、一撃を正直に受け止める羽目になった。反射的に呪符に宿る結界を最大出力で展開すると、さらに腕を交差させて衝撃を受け止めるが、体を支えきれずに吹き飛ばされた。レミリアが狙った通り、剃刀のごとき紙が舞う空間に突っ込む。千恵自身が切り裂かれてはたまらないと思ったのだろう。千恵が突っ込む前に紙片は力を失って地面に落ちた。
「Spell Break」
レミリアは、にやりと微笑む。
その間、阿求も精いっぱいの集中力を以って、弾幕を回避していた。
当然のようにレミリア達の攻防を見ている余裕などなく、紙片に込められた力が失われ地面に落ちるのを確認すると、その極度の緊張感から解放され、ほっと息をつく。慧音の方は、まだ余裕がありそうだったが、阿求はもう限界である。
「あの方たちは、普段からこんな疲れることをしているんですかね」
「まぁ、慣れなんだろうな」
傍目から見ていると、綺麗、という印象しか残らないほど優雅な決闘方法ではある。しかし、その最中にいるものにとっては、そうそう気楽にはしていられそうもなかった。
驚くべきことに、妖怪の胴を引き裂く一撃を、千恵はそれでも受けきったようで、素早く身を起こした。
阿求はそれを認めると、素早く術式を展開し、檻を発生させる。馬鹿の一つ覚えのようだが、既に構築済みの術式でないと高速展開できなかったし、なにより事態がよく分からないため逃がすことも危害を加えることもできない。
殆ど事態は把握できていなくても、判断は的確。
しかし、千恵の動きが予測より少しだけ早く、構成した檻で完全には捕らえきれなかった。右腕と右足が、格子の隙間に挟まるような形で、一応は拘束した形になっている。
阿求は、その状態で檻のサイズを少し小さくする。隙間を狭くすることで、拘束を僅かに強くした。
「それで、事態が本当によく分からないのですが。何故私が襲われないといけないのでしょう」
「……何故も何も、結界を破ったこと知られちゃったし」
「え? あなたが?」
「え? 『あなたが?』って…」
阿求は言葉を失っていたが、それは千恵も同じことだった。慧音も、一連のやりとりに淡い驚きの表情を浮かべて、声を出せずにいた。何とも不自然な沈黙が辺りを支配する。
「とりあえず、わたし以外にはばれていなかったわよ。結界を破ったことは」
そこに口を挟んだのは、いつの間にか阿求の隣に戻ってきていたレミリアだった。吸血鬼の聞き捨てならない台詞に、阿求は思わず体ごと振り返る。
「ということは、レミリアさんは知っていたんですか!?」
「予想はしていたわ」
さらにあっさりと返ってくる返事に、阿求はずずいとレミリアに迫る。
「いつから?」
「割と最初から。疑うだけなら、あなたと会う前、初めて千恵を見た辺りからかしら」
「そんな!」
阿求から悲鳴にも似た言葉が飛び出した。
ありえない、そう思いはしたが驚愕のあまりそれ以上続けることができなかった。
「まぁまぁ、落ち着きなさいな」
驚きのあまり呼吸もままならない阿求を宥める。
「わたしの種明かしは別に後でもいいわ。今は犯人が自供したのだもの、次は動機の告白よね?」
レミリアは、千恵の方に向き直る。「よね?」などと同意を求められても、どう返していいものやら、さぞ困るだろう。普通、はいそうですね、などと言って話す人間はいない。
千恵も、数学の難問でも突き付けられたように、眉間に皺を寄せる。
しかし、阿求は漫才のようなやりとりのおかげで、とりあえず落ち着きを取り戻していた。疑問を後回しにされたこと自体は面白くないので、不機嫌ではあったが。
ただ、落ち着けなかった者もいた。
「この悪魔のノリはともかく、私もその理由が知りたいものだな」
里を守る守護者様だった。そばにいる阿求が逃げ出したくなるほど、怖い。
「慧音様、殺気立ちすぎです。というか、ほんと、怖いからやめて」
と、阿求が袖を引くが、慧音はそちらを見ることもしなかった。
「何故だ!」
ものすごい剣幕のまま、慧音はなおも千恵に詰め寄る。
しかし、千恵は慧音の方など見てはいなかった。千恵の視線の先には好奇心に満ちた瞳。今日、博麗神社でメイドに見せていた、あの表情だった。本気で動機の告白を期待しているらしい。
千恵は、しばらく押し黙っていたが、仕方ない、と言うように溜息を一ついて言う。
「異変を起こすのに絶好の機会だったんだもの」
「異変を、起こす?」
何故?
「まさか、子供が慧音様をおびき出す囮になるとは思わないし」
慧音が追いかけた子供のことだろうか。
「まさか、攫ったのがお前なのか!?」
一瞬迷ったような間を置いたが、千恵の回答は、首肯。
「結果的には、違いはないわ」
何故?
「目的はなんだ?」
「人攫い引き継ぎについて? さっき言った通り、慧音様を里から引き離せそうだったから」
「そっちじゃない。里の結界を破壊したことの方だ」
千恵は、慧音の真剣な表情を見て、不意に表情を変える。
レミリアが時折浮かべるような、悪魔的な笑みを千恵も浮かべると、こう告げた。
「ないの、そんなもの」
「な?」
「ないことはないけれど、そんなことはどうでもいいの。それを起こすことこそが肝要なんだから」
理解不能。
表情こそ人を食ったような笑みだが、千恵には冗談を言っている気配など欠片もない。真面目とも言える言葉だった。
しかし、慧音の、阿求の耳には異国の言葉のようでもあった。何を言っているのか、まるで理解できなかった。分かることは、認識の差異がどこかにあるということだけだった。
「一体何を言って…」
「それ以上の問答に、益はないわ」
そういって、慧音の発言を遮ったのは、レミリアだった。
「あなたや阿求には、それ以上の理解は出来ないわ。人と、そうでないものの断絶というやつね」
「いえ、あなたはそうだとして、千恵さんは……まさか」
そこまで言って、阿求は自分の思い違いを理解した。否、理解はしていない、出来ない。しかし、そこが齟齬の始まりであるとしか思えない。
「…千恵さんは、人間ではないと?」
「大当たり、ではないけれど、ハズレではないわ」
レミリアは、悪魔的な笑みを浮かべる。
「彼女は、もはや人ではない」
覚悟していたとはいえ、実際に言葉として聞く衝撃たるや。思わず悲鳴に似た声が漏れる。
「そんな!」
「かといって、妖怪になったわけでもない。そこの守護者がいい例ね」
視線は、千恵に向き直り戸惑いを顔中に浮かべている守護者、慧音を指していた。
「獣化の能力を――好き好んでかは別にして――得たことで身体的にはとても人間とは言えないけれど、精神の方はこれでもかというほど人間くさいものね。千恵と丁度真逆のあり方だわ」
「な…!」
慧音は驚愕の表情を浮かべて固まる。自分が獣人であると言う話はした覚えがなかったからだ。しかし、阿求はレミリアの力を知っていたため、驚くことはなかった。運命を視ることが出来るなら、把握することも難しくないだろう。
分からないのは、千恵についてだ。
「よく分からないのですが、千恵さんは、妖怪になったつもりでいる、ということですか?」
「なによ、その言い方!」
阿求は今一つ合点が行かないといった表情で、レミリアに尋ねているが表現があまりに馬鹿にしているように聞こえたのだろう。千恵に鋭いツッコミをもらっていた。
「ストレートで的確ね」
レミリアはそのやりとりが愉快でたまらない、といった感じで上機嫌だった。
「でも、妖怪という存在自体が、思い込みの産物と紙一重なのだもの。強い思い込みによって自身の中に魔を見出したって不思議はないわ」
「では、私も妖怪になれます?」
「あなたの意思力なら、或いは、ね。でも、妖怪として生きていくには、決定的に力不足だわ」
阿求は取り敢えず、千恵の思考を読み解くために細かい点には目を瞑って納得することにした。しかし、引き合いに出された慧音の方が理解に苦しむという風に顔をしかめている。
「自身がそういうあり方の癖に、我侭よねぇ」
慧音も、レミリアにだけは言われたくなかったに違いない。
まず、里を危険に陥れたのがよりによって里の人間だという事実そのものが、慧音にとっては一大事だろう。これからどうするべきかを思案すると頭の痛い問題だろう。
しかし、慧音は何か別のことに思いを巡らせているようにも思えた。
そう、例えば、だが。
「この千恵という子について、何か知っていることがあるんじゃない? 例えば、心身にダメージを負ったような類の」
レミリアが、そんなことを慧音に問いかけた。同じ考えに至っていた阿求も、思わず頷く。
「…昔事件があった。とても知っている、などということは出来ないが。私がこの目で見たのは、事態が終局した後だけだったからな」
千恵は、両親と共に里の外れ、近づくことが禁じられている結界のほど近くに住んでいた。外の世界よりは緩やかに、しかし確実に人が力を失っている幻想郷の中でも強い力を残している一族で、その力を重宝されていたという過去に囚われている一面があった。
「昔はその力のおかげで、里が救われていたこともあった。まさに神仏に等しい扱いだったことさえある。ただ、今はもう平和な時代だからな。力があってもなくてもそれほど差はないんだ」
偉大なる賢者の業績がために割を食っている、珍しい一族と言えた。
「だが、千恵の両親は――それ以前の代がそうだったように、力があることを誇りに思うと同時に鼻にかけることが多かったようだな」
千恵の両親は、周囲とうまくやっていけるほうではなかった。もともと、そういったことが苦手だったのかもしれないが、能力に対する自負が周囲との不仲に拍車をかけていることは傍目から見て間違いなかった。
実際、危険だから近づかないように言われている結界の傍に居を構えたことも、人間がうまくいかなかったことと、自分たちの力に対する自負が理由だったのだろう。
「力のある自分たちなら大丈夫だと思ったんだろうな。だから、悲劇は起こった」
慧音は、詳しい経緯はわからないが、と前置きし、再び口を開く。
「千恵の一家が妖怪に襲われた。場所は、千恵の家のすぐ近くの、結界の外側だった。妖怪が結界を超えた形跡はなかったから、家族そろって結界の外に出るようなまねをしたのか。でなくば、結界の外に誘き出されたかだ。
結果として、母親が妖怪の餌食になり、父親が妖怪と刺し違える形で死んでいた。生きていたのは、千恵だけだった」
それは、雨の日のことだった。
慧音は、人が近寄らない結界の際を、いつものように見回っていた。里を守る結界は強力だが、それを維持するためには多少なりとも管理を必要があった。最たるものは力の充填で、それは別に毎日見て回るほど、頻繁に必要な作業ではないが、欠かすと面倒なことになるので、慧音の日課にしていた。
そんな折のこと、不意にざわめきが起こった。
何が、ということは難しい。自身の心という気もすれば、大気というのがピッタリ来るような気もした。しかし、何にせよ良い感じはしなかったので、神経を研ぎ済ませて、違和感の元を探る。
ひときわ大きな鳴動を感じて、慧音がその場所に駆けつけたときには全てが終わっていた。
人の手足、頭と、もう何か判別不能な肉片、赤と紫の血溜りが斑に地面を彩り、妖怪と人が頽れる惨劇の只中に、ただ佇む少女。表情は唯唯無。そこに存在すること以外の何も出来ないというように。雨が顔を濡らすが涙を流すことすら出来ないようで。
「放ってはおけなかった」
一人残された千恵の面倒を看るため慧音は千恵を連れて帰った。千恵は歩くことすら出来ず、持ち帰ったと言った方が正確な表現になりそうだった。次の日までは流石に一言も口を利かなかったが、その翌日になると、それまでが嘘か冗談のように元気を取り戻していたので、慧音はひどく驚いたことを覚えている。
「とても信じられなかった。たった二日程度で、何事もなかったかのような顔をしているなんてな」
念のため、数日間様子を見たが、本当に何も問題ないように思えた。千恵もすぐに家に帰りたいと言い出したこともあり、千恵は家に戻った。恐らく慧音の家には一週間居なかったのではないだろうか。
どうして、そうなったのかを慧音は理解していた。
「正面から聞く事は出来なかったが、千恵は事件のことをほとんど記憶していなかったようだった。あまりに衝撃が強すぎて、記憶に残らなかったのだと思っていた」
慧音は悩んだが、結局事件のことは話さないことにした。
「それが、良いことだとは思わなかったし、どうするべきか迷った。だが、無理矢理記憶を戻したところで、良い結果にはならないと思って、黙っていた」
慧音はそこまで言うと、かぶりを振った。
「あれから五年以上経つんだ。何故今更」
「それは、私に聞くべきことではないわ。本人に聞くことでもないと思うけどね」
そこで千恵が、唐突に話し始める。
「私がやったのよ」
昨日の夕飯の話でもするように。表情には幽かな歪み。
「私が、自分から母親を殺して、妖怪に差し出したのよ。自分の母親を、この手で」
自身の手のひらを、ただただ見つめる千恵。寂しげに微笑みながら、続けた。
「そんなことが出来る人間なんてこの世に居ないわ。そうでしょう? わたしという人間はこの世に居ない。居るわたしは妖怪という存在だわ」
その答えは、慧音の疑問には答えていない、誰の疑問にも答えていない。
しかし、話が少し見通せた者もいた。阿求である。
ある妖怪について思い至っていた。
眼光で以って人を催眠状態にして、操る妖怪の存在。
妖力による力ではないため、結界で弾かれることも、減殺されることもない力。ただし、有効な距離はそう長くはない。妖怪が結界の内側に入ってこられない以上、結界の際まで行かなければ問題になることはない。
実際問題として、結界によって能力自体が阻害されない妖怪は珍しくない。それ故に、里では結界に近づくことを禁じているのだ。
催眠状態にする際に、千恵を妖怪だと思い込ませたのかもしれない。
そして、千恵自身に力があったからこそ、千恵が母親を殺める事になったのだろう。
「千恵さん。この異変を起こす前に、力を使った覚えはあります?」
千恵は、阿求の唐突な質問に眉根を寄せるが、特に答えることに躊躇するような質問でもなかったためか、しばし考えた後、答えはすんなりと返ってくる。
「たぶん、ずっと使っていなかったわ。今日妖怪を討ったけれど」
やはり、と阿求は思った。
なんとなく、千恵は記憶とともに自分の力を封印していたのではないかと思ったのだ。千恵にとっては、それさえなければ自ら親を殺める事もなかったであろう、忌むべき物だ。慧音が言ったように、今の時代あっても持て余すだけの、無用の長物なのだ。
阿求はなんとなく事態の推移を予測していた。
「先ほど、結果的に人攫いをしたと言ったのは、そういうことなんですね」
阿求は言葉を連ねる。
「最初に攫った妖怪を、あなたが倒した。攫われた少女を救おうとして」
阿求は推測を頭の中で組み立て、筋書きを考えた。
恐らく、引き金はその出来事なのだろう。
少女が妖怪に攫われたところを偶然見かけてしまった。
――家から出て、朝の市へ向かおうとしていた。ふと、横手を見ると、少女を抱えた妖怪が走り去っていくところで、それは、結界の向こう側の出来事だった。
咄嗟に後を追いかける。
――自分には力がない、そう思いつつも人を呼ぼうと考えるより先に、身体は結界を抜けて妖怪を追いかけていた。実際に妖怪に追いつけるのか、追いついたらどうするかは全く考えていない。
少女を救うために封印した力を無意識に振るった。
――どれだけの距離を追っていたか、いつの間にか自分より遥かに身体能力に優れる妖怪に追いついていた。その気配に気がついた妖怪の驚愕した表情が、視界に入る。
――炸裂。
振るってしまった。
――自分の中から力が迸り、頭の中に過去の記憶が溢れて溢れて妖怪の首が落ち血が溢れて記憶が埋め尽くされて混ざり合って滲んで溢れて零れて滲んで滲んで。
自分に力があることを再認識すると同時に、記憶が戻った。
――血に染まった手を見つめる。あの日と同じに。あの雨の日と。その前に妖怪を見た気がした。でも実際にアレをしたのは誰だ私だ誰だ私だ誰。
――乖離。
――変心。
――私は妖怪で姿を偽って人里にいたんだわそうにちがいない。
――だって、そうじゃなければ……。
「そのときに、記憶が戻った。いえ、戻ったというのは正確な表現ではないかも知れませんね。でも、過去を思い出した」
「え、あ。ああれ、わ私、そうなの? だって、え?」
目の前の千恵は、少女を救おうとした、という事実と自分の現在の思考のギャップに混乱しているようだった。無力な人間として考えても、力のある妖怪として考えても、連続した思考の中で処理するには、双方の行動は矛盾がある。
阿求は自身の推測が、当たっているとは思っていなかった。別に証拠があるわけでもない。すべては、阿求の作り話といっていい。
しかし、どんな目にあったにせよ、千恵の苦悩は阿求の想像が届く範囲の外だった。頭が記憶し切れないほどの衝撃など、阿求は今まで受けたことがない。
求聞持の力は、阿求の精神まで気にかけて動いてくれるだろうか。
考えると、怖いことになりそうな思考を中断し、阿求はさらに問いを重ねた。
「きっかけはともかく、慧音様が追いかけてきている気配を感じた千恵さんは、人攫いを引き継いで継続したというわけですか」
「まぁ、正確には見つかりにくいところに隠した程度なんだけれど」
離散的な記憶という苦悩から、一時的に抜け出せる問いに飛びついた千恵は、あっさりと答えた。
「それにしても、まさかだったわ。私のときには何もしてくれなかったのにね」
そう言いつつ、意味ありげに慧音を見る。その表情は既に妖怪の千恵のものだった。
慧音の肩が、びくりと跳ね上がる。
阿求が思うに、それは不可抗力だっただろう。詳しい経緯こそ分からないが、事が起こってから決するまでの時間はそう長くなかったはずだし、いくらなんでも常時里の端から端まで見張っているわけでもないのだ。突発的な事件に一瞬で対応できるはずもない。
しかし、それを仕方のないことだと割り切れていない慧音はだけが、痛みを感じていた。千恵もその気配を嗅ぎとって、そんなことを言っているように思える。
それはともかく、と阿求の思考は、千恵の行動を追いかける。
とは言っても、あとは慧音が戻る前に結界を破壊して妖怪を中に呼び込んでしまえば異変は成立、というわけだ。
「そうなると…どうして博麗神社に行ったのでしょう?」
こればかりは、阿求にも想像も出来なかった。
その言葉を受けて、眉根を寄せたのは千恵。
「それが私にも覚えがないの。気がついたら石段を登り終えていたわ」
おや、と思った瞬間に目の前に、レミリアがいたということらしい。
それこそ、本人も自覚していない部分では推測も出来ない。阿求としては、人としての意識が残っていたが故、といった所を希望したいものだった。
阿求は、どっと疲れが出て、ため息をつく。
まともに会話こそ出来ているが、千恵の内面が尋常でないことは、目の当たりにして十分すぎるほどに理解できた。俄かに信じられないという気持ちがあるのも確かだったが、現実は目の前の檻にとらわれて、確かにそこにある。
ふと、思い出す。
「そういえば、レミリアさんもその手の能力を持っている気がしましたが」
今ひとつ掴みどころのない能力ではあるが、運命を操るという力は、まさにこんな風に作用するのではないか、と思いたくなる。
「能力自体は否定しないし、結果的にそうなることはないとは言わないけれど、人の心を思うまま操れるほど、具体的な効果を狙って生むことは出来ないわ」
レミリアは、千恵が結界を破壊した犯人であることを推測していたという。それならば、そもそもの原因を作ったのがレミリアでは、と邪推してみたが、当然のようにそうではなさそうだった。阿求は、自分でもその可能性を信じていなかったし、レミリアにはそこまでする理由もないだろう。
そう思ってから、楽しそうだからという理由で、そういうことをしかねない相手であることを思い出したが、キリがないので取り敢えず思い出さなかったことにする。
邪念を振り払うと、阿求は再び千恵を見つめる。彼女は疲れたのか俯いていた。阿求が『使い魔』を通して千恵を視ても、妖怪と感じられるところはない。ただし、普通の人間とは異なるところを認めることは出来た。
「千恵さん、確かに強い力は持っているのですね」
「妖気ではないのよね。法力の類かしら」
本来ならいないはずの、結界を破ることが出来る存在という点については、得心がいった。
巫女や魔法使いまでとは行かないが、そこらの有象無象の妖怪であれば十分以上に対処できそうな力だ。
彼女ならば、結界の要となる護符を見つけることが出来るだろうし、妖気を持たぬが故、結界に弾かれることも無い。力が強いから、護符を破ることも可能かもしれない。
「レミリアさんは、だから千恵さんが怪しいと思っていたんですね」
「そういうこと。そう思って行方を常に把握していたから、三つ目の結界が破壊された場所に千恵が居ることも分かったの」
レミリアは自慢気に胸を張る。
「さて、どう解決するのかしら、この事件」
「犯人は分かりましたが、千恵さんをどうするかですよね」
二人は、守護者を見つめる。実際問題として、少女の身の振り方に関して、どうにかできる人物は慧音くらいのものだろう。しかし、
「もう済んだ事について、よく考えていられるわね。どうしようもないじゃない」
『私のときには何もしてくれなかった』が効いたらしく、暗く沈んだ表情で俯いている慧音を、レミリアは不思議そうに眺めるが、阿求はそれに対して、是非を言うことが出来なかった。
阿求とて、過去の出来事に対する後悔はある。しかし、阿求の場合は、過去の出来事は尋常でないくらい鮮明に残るため、あまり深く後悔することは出来るだけないようにしているし、割り切りを出来るだけするようにしていた。
そうでなくては、『稗田阿求』を生きていくことは難しい。
そういう意味で、実はレミリアの意見に賛成なのだが、人間としては、あまり内省がないのも考え物である。
自身の特殊と、人としてのあり方に、割と真剣に懊悩していた阿求は、ふと気づいた。
歌が、聞こえる。
否。
千恵の中にある力が、静かに歌うように韻律を刻むように鳴動していた。
阿求は、慌てて千恵の方を見やる。目を閉じ、何事かをつぶやいていた。鳴動は急速に大きさを増している。
阿求が事態を把握しきる前に、力が弾けた。
――ギィンッ。
鋼を折るように硬質の音が響き、千恵を拘束していた折が破片となり、消失した。
それを見たレミリアは、千恵を再度拘束する気がないのか、簡易結界ごと人間を吹き飛ばすような、強烈な一撃を見舞う。激しい衝撃が千恵の身体を吹き飛ばす。
そう見えた。
しかし現実には、レミリアの一撃は千恵に触れる寸前で止められていた。
「慧音様!?」
「何を!」
レミリアに組み付くようにして一撃を止めた慧音は、かぶりを振る。瞳には迷い。
「私には、人間を見捨てることは…出来ない!」
「まだ、そんなことをっ!」
慧音はほとんど力を入れてはいなかった。正確には、入らなかったのかもしれない。
レミリアが凄まじい膂力で慧音を振りほどき――否、弾き飛ばし、その場を退こうとする千恵を追いかけると、再度一撃を千恵に放つ。が、レミリアの怒りが却って威力を鈍らせ、千恵が一歩後方に居たため踏み込みが十分に効かず、さらに威力を弱めた。千恵はその一撃を結界で以って受け止めると同時に、その威力を利用して、後方に大きく飛び退る。
「じゃーね」
「させるわけないわ」
千恵は会心の笑みを浮かべたまま手を振り、そのまま撤退する。それを追い牙を剥いたレミリアが駆ける。
阿求も、二人を追いかけようとするが、動く気配を見せない慧音を認め、声をかける。
「慧音様!」
「! ああ、すまない。行こう」
「それにしても、あの檻を破られるとは思いもしませんでした」
「呪符使いは、そのあたりが厄介だ」
千恵が先ほどから幾度となく利用している呪符は、呪文を記した紙で、それ自体が魔術発動の媒体となる。
直接呪文を唱えて発動するのとは違い、呪符に呪文を記す必要があるため、準備に手間はかかるが起動の呪自体は簡単なため発動自体は早い。また、魔力を蓄積することが出来る種類のものは、時間をかけて魔力を蓄積すれば自身の持つ力以上の力を瞬発的に出すことが出来る。
特に罠や待ち伏という作戦で有効だが、呪符に記述した以外の呪文は発動できないため、制限は大きく、総合的な扱いも難しい。
「会話で時間稼ぎされたんですね」
千恵は、思っていた以上に周到だったようだ。恐らく、慧音に後悔の念を抱かせるようなことを言ったのも、彼女の狙いとするところだったのだろう。
千恵とレミリアを追っていたが、二人の追いかけっこはそう長くは続かなかった。
やはり吸血鬼の運動能力は、力があるとはいえ人間が競えるようなレベルではない。
数百メートルも行かないうちに千恵に追いつく。そこは、周囲に何もない随分と開けた場所だった。逃げる者には不利な空間だった。
レミリアは一足飛びで千恵の目の前に立つと、一片の容赦も無い一撃を放つ。
先に妖怪を屠り、千恵を吹き飛ばした一撃など比較にならないほどの苛烈な打撃が千恵を打ち据える。
バチィ――。
千恵に触れる寸前で一撃が弾かれる、レミリアの力と拮抗しそれ以上腕は前に進めなかった。
「…こいつ、結界の力を喰ったな!」
里を守る護符の力は、先ほどから千恵が使っていた結界の比ではなかった。
そこに感じるのは、あの巫女の力――しかし、それは稚拙な模倣。
レミリアの形相が、少女のものから怪物のものへと変貌していく。
「な、め、る、なぁ!」
膂力が結界の力を上回り、結界が消し飛ぶ。しかし、威力が減殺された一撃は千恵まで届かず、レミリアはさらに一歩千恵に向かって踏み出した。その一歩が刹那の時を要する。
その間に、溜められた力が放たれた。
鋭く唸る風が刃となり、レミリアに迫る。かに見えたが、急激にレミリアを逸れ、その手に持つ日傘を直撃。
「なっ!」
日傘は無残にも引き裂かれ、レミリアの意識が僅かに逸れる。幸いに厚い雲が出ているため、実害はほぼゼロ。しかし、意識を乱された分、一撃の威力が殺がれ千恵に届くまでさらに刹那の間。
遥か以前からそこに配置され、発動のときを待ちかねるように鳴動していた呪符に、発動の呪が放つには十分な時間。
「ぐっ」
間髪を入れず本命の術式が発動――千恵の右肩が弾け飛ぶ。
――。
確かに発動したはずの術式、その効果が現れる気配はなかった。訝しげな表情を浮かべるのは吸血鬼。
「…! しまっ」
気づいた。手元に日傘がなくともこの身が灼かれていない。
太陽の光がまったく射さないからだ。
それは、空に厚い雲があるから。
里を覆い尽くして余りある、雨雲が。
呪は、そこにたった一押しするのみ。
ポツリ、とレミリアの腕に雨粒が落ち、皮膚が溶解する。痛みが弾ける。
――っ、逃げ…。
一瞬にして、落ちる雨粒がその数を一挙に増殖させた。
土砂降りとなった雨が、吸血鬼の上に人間の上に獣人の上に人中の魔の上に、
容赦なく降り注ぐ。
「ぁっ」
雨を全身に浴びたレミリアが、その場に頽れた。
同時に、阿求が操っていた『使い魔』が解ける感覚に、阿求ははっと顔を上げる。跡形も無く消え去る感覚があった。
千恵も雨に打ち付けられ凄まじい激痛が走っているであろう右肩を押さえつつも立ち上がる。
「残念でした。油断し、たわね」
レミリアを一瞥し、荒い息をつきつつも、千恵が呟く。ついで数歩、慧音のほうに歩み寄った。
「守護者様、ありがとうございます。悪魔の手から救ってくださって」
最大級の皮肉に慧音も顔を歪めるが、実際に自分の行動を省みると何も反論は出来なかった。悔しげに歯噛みしても、慧音は手を出すことが出来ずにいた。
守護者と理由は異にするが、力のうえでただの人間となった阿求にも、最早手を出す術は無い。
「…なに、が、残念だったって?」
千恵の胸の真ん中から、赤黒い枯れ枝のようなものが唐突に生えていた。同時に聞こえるは枯れて掠れた声。
「っかぁっ…」
苦悶に歪む千恵の血に濡れた枝が引き抜かれる。千恵が頽れる。
「油断し、てているのは、どどちら、だ」
レミリアは、断末魔の痙攣を起こす千恵を睥睨すると、静かに膝を付いた。腕や足が溶け出して、一部は骨と思しき白も覗いている。そのような状態でよく動けたものだ。
「、がい……ぃちに、だっ……」
もはや、言葉にはならない囁きが千恵の口から漏れる。何か言葉を残したのか、それを問うべき相手はそのとき既に呼吸を止めていた。
「自称守護者」
レミリアの不自然なほど静かな呼びかけに、慧音はビクリと痙攣すると、レミリアのほうを見る。
「お前は、一体何を守りたいんだ?」
そこには、怒りの成分は含まれていなかった。ただ、純粋な疑問符だけがそこにあった。
それだけ言うと、レミリアは再び地面に倒れこむ。周囲には、赤黒い染みが滲んでいる。
傍まで駆け寄っていた阿求が、慌てて駆け寄り身体を支える。慧音は、彫像のようにまったく動けずにいた。
「多くを言うつもりはありませんが」
自らの羽織でレミリアを包みながら、阿求は慧音を見る。
「里の守護者として、あなたはレミリアさんの問いに答える必要があると思います」
阿求は、表情を和らげる。
「でも。あなたには、皆感謝している。それは確かなことなのです」
阿求は、お茶屋のことを思い出す。あの主人の表情は、感謝に満ちていた。それが目の前の危機に関するものではないことが、阿求にも伝わってきたことが、印象的だった。
早くレミリアを運ばなければならない。その気持ちに急かされつつも、もうひとつ、慧音に伝えるべきことを思い出した。それを伝え忘れたら元も子もない。
「私が生成した妖怪を閉じ込める檻は、術式が解かれることがあったときに、中の妖怪を仕留めるようにはしていました。ただ、うまく機能していない可能性が高いので、確認をお願いします」
阿求とて無駄な殺生は御免だったが、それでも天秤にかけるべきものがある。下手な情に流されて里を危険にさらすことは避けるべきなのだ。
阿求が、檻の仕組みをそう造った理由――覚悟が慧音に伝わったようで、慧音はハッと顔を上げる。不意に慧音から苦笑いの表情がにじみ出た。自身の不甲斐なさを嗤うように。
これ以上阿求に出来ることはなかった。
「分かった。そもそも、捕らえた妖怪の存在を忘れていた、私の落ち度だしな」
実際はどうするべきだったかの判断は難しい。結果として、先に結界の元へ向かうということが正しい判断だった可能性はある。ただ、慧音はあの瞬間に、里の中に残る妖怪の存在を完全に失念していた。それは、確かに落ち度なのだろう。
阿求は、それだけを聞くと、一つ頷いて里の方へと向かった。
慧音は、最後に千恵が破った結界を補うように結界をかぶせると、妖怪の気配を追って走り去る。
慧音が今まで里を守ってきたことは事実だし、その優しさが――それが甘さにつながるとしても――里の人に安らぎと安心を与えていることは確かなことだった。今回は、彼女のそうした性格がことごとく裏目に出ていただけなのだろう。
しかし、それで済ませることは許されない。守るということはそういうことだった。何か事が起こってしまったら取り返しがつかないのだ。取り返しがついたとしても、誰かが許したとしても、彼女は自分を許さない。
阿求が持った他者を傷つける覚悟を、慧音が持たないわけには行かないだろう。
その場を去る前に、阿求は再び人と妖怪の間で揺れた少女を見据える。その口元がどこか安らかなのは、阿求の心が見せる欺瞞だろうか。
「まさか、死んだりしませんよね」
土砂降りの中、レミリアを背負った阿求は道を急ぐ。幸いここは、稗田の屋敷に近い位置だった。出来る限り木の下を通り、雨を凌ぎながら道を急ぐ。
千恵の亡骸と、レミリアを同時にどうにも出来ない阿求は、当然生きている方を選択した。心配しなくても、妖怪の生き残りをどうにかした後で慧音が丁重に葬ってくれるだろう。
「軽くて助かります」
不安をかき消すように、一人呟く。
レミリアの身体は、実際軽かった。これが溶け崩れた所為だと怖いので、極力考えないようにしながら。そうではないことを祈るばかりだ。
雨は、容赦なく降り続ける。
「千恵さんも、もっと力があれば魔力で雨を振らせられたでしょうに」
それなら術者の意識が途絶すれば雨も止んだのに、と益体もない思考で不安を紛らわす。
もちろん、自身に力がないことを見越したからこそ、比較的効果時間の長い今の方法を選んでいるのだろう。
術を発動する場所に誘導するまでしたのだから、それくらいは考えているだろう。
「意外と狡猾な方でしたね」
千恵は、生きては行けなかったのだろうか。
殺すことはなかった、などと言うつもりはない。千恵はレミリアに手を出したのだ。レミリアの油断と慧音の感情に流された行動があったとしても、実際にここまで追い詰めている。
むしろ、彼女は積極的に油断と情を誘って、この状況を作り出している。
強力な妖怪に命を掛けた勝負を仕掛けた代償は決して軽くはない。この結果は明らかに自業自得だった。
しかし、と阿求は思う。
彼女は、本当にレミリアをどうにかできると思ったのだろうか。
千恵には力があった。それならば、レミリアがどれだけ強大な妖怪なのか、十分に分かっていたはずだ。雨を降らせることを考えたのなら、種族についても推測がついていたのだろう。
それでも尚、立ち向う道を選択した理由はなんだったのだろうか。
自身の保身のためと思っての事か、強すぎる妖怪への嫌悪のためだったのか、それとも他の何かだったのだろうか。例えば、盛大な自殺?
もはや、問いを向けるべき人は居ない。答えがどこかに落ちているわけでもない。
「まったく。恨みますよ、千恵さん」
今日一日のことが、あまりに鮮明に思い出された。
「私は、そんなに簡単に忘れられる身体ではないんですから」
雨が阿求の頬を濡らしていく。
「ああ、もう」
その合間を縫って、温かい滴が流れ落ちた。
「『使い魔』は、便利でしたね。あれだけ便利だと、なくなったことに未練を感じます…」
阿求は、自身の胸のうちを紛らわすために、それ自体は、何処までも本音の、しかし思考とは別のことを呟く。
雨は止みそうになかった。
Epilogue
雨は己が身を切り裂く刃。
少なくとも、自分にとっては忌むべき存在であった。それでも、雨が作り出す風景は、決して嫌いではなかった。その景色の中に自分が立つことを、密かに渇望しているのかも知れない。
決して叶わないことだからこそ。そう思っていた。
しかし。
まさか、こんなに早く実際に立つことになるとは。
「…夢にも思わないとは、まさにこのことね」
レミリアが目を覚まして最初に目に入ったのは、見慣れない木目の天井。とりあえず、身体を起こして周囲を見回す。
質素ながら、しっかりした造りに見える和室だった。目の前に見える縁側の向こうには、降り注ぐ雨が庭の植木を敷石を砂利を叩く風景。耳鳴りのような雨音と情景にしばし心を預けた。
記憶は十分すぎるほどしっかりしている。散々な目に合わせてくれた千恵に、報復が出来なかったのは、残念だった。
レミリアの言う報復とは、おちょくって遊ぶことだった。ただ殺すより、そのほうが何倍も楽しい上、相手にも迷惑をかけられるので手段としては好きだった。
そうは言っても、その時にはそんなことを考える余裕もなかったわけだが。
命の危険にさらしてくれたお返しとしては、やはり命の危険が相応しい。
「あ、目覚められましたか」
「あれ位で死ねるほどの可愛げは、私にはないわね」
背後からの声に、とりあえず返事をしてから振り返る。
実際、あの場で放置されたとしても、息絶えるより先に雨が上がる方が早かっただろう。もちろん放置された時間だけ消耗するので、回収してくれた声の主には感謝している。
「れ、れみりゃさん」
「ん?」
阿求のイントネーションに違和感があったレミリアは、思わず聞き返す。
「あ、噛んだだけです。気にしないでください」
阿求の主張は、自然な感じではあったが、頑なさがあった。
「姿に驚いたんですよ」
レミリアは、いつの間にか年齢が五歳程度後退したような容姿になっていた。レミリアは自身の姿をぐるりと見ると、得心がいった言う風に、ああ、と頷く。
「溶け崩れたおかげで、身体を構成する材料が足りなくなったのね。すべての身体機能を一旦正常に戻すために、再配置が起こって身体機能と外観が退行したんだわ」
阿求には、なんとも図りがたい発言であったが、自身の身体を蝙蝠の群れとして変形させることが出来る種族のことだ。そういうこともありえるのだろう。
しかし、口調まで若干舌足らずな感じになっているのは、仕様だろうか。
「まぁ、お元気なようで何よりです」
「滅多な事では、お元気以外の状態にはなり得ないもの」
と、さらに薄くなった胸を張る。仕草まで幼いものになっているのは、やはり仕様に違いない。
「結局、事件は解決したものの、締まらない話だったわね」
レミリアの発言は、身も蓋もない。
「犯人はお前だって、出来なかったわ」
「何の話です、一体?」
「図書館の本よ」
しかも、その内容はと言えば、どうもフィクション作品のようだ。主犯とはいえ一人犠牲者が出ていても、レミリアにとっては、最初から最後まで即興劇と大差ない感覚で事態を見ていたのだろう。
やはり、五百年を生きる吸血鬼と、人間との感覚の差は埋めがたいものがあるのかもしれない。
雨は、降り続ける。
しばし、その音だけが部屋を渡っていく。
その静寂を破ったのは、阿求のほうだった。
「レミリアさん。私には、ひとつだけ分からないことがあります」
阿求の声は、少しだけ硬かった。
「レミリアさんは、求聞持の力の何をご存知なのでしょう?」
問いの意味を図りかねて、レミリアは首を傾げる。
「私が『使い魔』を受け取ったときに、レミリアさんは求聞持の力と同じようにすればいいといいました。意識を通すということについて」
ああ、とレミリアが納得の表情を浮かべるが、阿求は最後まで言い通す。
「何故、あのような助言が出来たのか不思議で仕方がないのです。まるで、レミリアさんは求聞持の力について、知っているかのようでした」
「求聞持については、わたしは何も知らなかったわ。ただ、その始祖の時代を、知識として知っているというだけ。実際に生きてもいないわ。ただ、その時代を知るがゆえに推測できることもあるということよ」
レミリアは、何でもないことのように語る。阿求もその感覚は理解できた。慧音に術式について語ったときのように、知っている人間からすれば、取るに足らないと感じてしまうことはいくらいでもある。
ほんの少し迷い、阿求は話をすることにした。
「先代は、その前の代はこの力をどう思ったのでしょう。自身のものにも関わらず制御が出来ないこの力を」
以前、この力が嫌になって、どうにか制御できないものかと調べたのだと、阿求は苦笑混じりに話した。だから、術式についても知識があるのだと。
「尋常ではない記憶力について、気味悪がられるのは仕方のないことなんですが。化け物呼ばわりされるのは、さすがに徹えたんです」
そのときのやりとりまで、完璧に思い出せることに、ややうんざりした様子の阿求はそれ以上詳しく語ることをしなかった。
阿求の表情が、まるでスイッチを切り替えるように切り替る。話も切り替わり求聞持の力を調べたときのことに戻った。
今日何度か見せている、この完璧な思考の切り替え、この妙技ともいえる才能は求聞持の力と人の心が共存するための必要事項なのかもしれない。
「すごい皮肉なんですよ。何かを調べ上げ、纏め上げるのに求聞持ほど有能な力はありません」
阿求は、求聞持の力の凄まじさを、そのとき初めて実感していた。しかし、その力を以ってしても、求聞持のことは何も分からなかった。むしろ、謎が深まる結果にしかならなかった。
「この力は、異質に過ぎます。もはや身体がそう言う造りになっているとしか説明がつかない。でも、能力は人間という種の限界を超えているとしか思えない」
「それで、求聞持について何か知ることが出来たら、あなたはその力をどうするのかしら?」
「どうもしません。今となっては、この力なしでは稗田阿求ではないというほどに、自身の一部となっています」
だからと言って、単純な好奇心から知りたいと思うわけではない、と阿求は微笑む。
「千恵さんは、自身が妖怪であると言い切りました。他人の意見ではない、自分の意思として。ならば、私も自分が何者であるのか、それを知らなくてはならない。そう思うのです」
言外に、阿求は自身が人間でないことを、その可能性があることを示している。それは恐怖に違いなかったが、それでも目を逸らさない彼女は、やはり強いのだろう。
それを見て、レミリアは口元を笑みの形にする。
「あなた、紅茶は好きかしら」
「え? はい、好きですが」
唐突に、レミリアは話を変えて来た。
「それなら、二人分淹れて来て頂戴。続きは紅茶でも飲みながらにしましょう。咲夜には神社の留守番を言い付けてしまったから呼んでも声が届かないわ」
「分かりました。…あの、普通の紅茶でいいんですよね?」
「ここで、紅魔館式を期待はしていないわ」
レミリアは、笑って台所に向かう阿求を送り出す。
大体にして、人間の屋敷に、紅魔館式紅茶の材料が食材として確保されている道理もない。採取することは出来るかもしれないが。
阿求が部屋から出ると、レミリアは、再び雨の庭に目を向ける。意識は庭を越えて紅い屋敷を思っていた。ちょっとズレていて厄介で愛おしい妹と、無知で短命で愛おしい人間が遊んでいるであろう館を。
ここから光学的に見ることは出来ないが、その様子を把握することはいくらでも出来る。しかし、そんな無粋なことをするより、思いを馳せる方をレミリアは選んだ。
疾うの昔に忘れてしまった生き方だったが。人間の生き方には、意外と学ぶべき事が多いようだ。
紅魔館での騒ぎが収まれば、巫女が神社に帰り、咲夜がここに迎えに来るだろう。
里に降る雨も、未だ止みそうになかった。
それならば、人里のこの屋敷で紅茶を飲み、庭の風情を楽しみながら、この奇妙で面白い少女とおしゃべりに興じるのも悪くはない。
後日にでも、今日のお礼に、メイド特製・人間用紅茶を振舞うのもいいだろう。
それは、なかなかに楽しいひと時になりそうだった。
異変を起こしたことは、間違いどころか、大正解だったと思える。
~本当におまけ~
生憎の晴れの日、パラソルの下には――少なくとも見た目は――二人の少女。テーブルには、メイド特製・紅魔館式紅茶と人間用紅茶がひとつずつ。
そんなある日の会話。
「あなたの言うとおり、最近予期しない客が多いのよ」
「ああ、やはり。皆さん暇なのですね。私も人のことを言えた義理でもありませんが」
「あ、ほら。また来たわ」
「あの方ですか。美鈴さんも大変ですね」
「門番はそれが仕事だもの。それはさて置くとして、咲夜まで巻き込まれるのが頂けないわ。どうにかならないものかしらね」
「う~ん…あ、そうだ」
「名案かしら?」
「せっかく素敵なお庭があるのです、里の人間も呼んでパーティでも開いたらどうでしょう」
「パーティ? わたしは好きよ。でも何故?」
「皆、今回の話を聞いて、紅魔館に好奇心を抱いているのです。ならば、その人々をこちらから呼び寄せればいいのですよ。一度足を運べば、取り敢えず好奇心は満たされます」
「なるほど。うん、面白そうね! どうせなら、盛大に行きたいわ。里の人間へ声を掛ける役は、お願いしてもいいのかしら」
「その程度のことであれば、喜んで。おいしい紅茶へのささやかなお礼です」
「咲夜~! 今晩パーティを開くわ。準備お願いね」
「かしこまりました」
「え…本当に、今夜やるんですか?」
「善は急げ、よね」
「う~ん、確かにそうは言いますが」
「今晩が楽しみね」
「…忙しくなりそうですね」
「じゃ、お留守番よろしくね」
紅白の少女は、ふわりと浮かび上がる。こちらに向けて掌をひらりと一振りしてから、先に(逃げるようにして)飛び去った白黒の魔法使いの後を追って飛び去っていく。
その姿は、水の中を優雅に泳ぐ金魚にも似て、美しいと思う。先に飛び立ったモノトーンとは大違いだとも思う。
紅白黒が向かったのは、そこだけ雨の降りしきる紅色の館。
雨に濡れても尚紅い館も、やはり美しい。晴れの日に館が見せる姿とはまた違い、どこか物憂げな表情がしばし彼女の心を捉えた。普段の凛とした姿とはまた違う美しさ。
――雨の持つ魔力は、不思議だ。
そんな呟きを彼女の友人が聞きつけたなら、書物に書いてあるそれよりは分かりやすく、しかし結果として眠くなることには変わりない、難解な解説を語ってくれるのだろう。
…そういうことが言いたいわけじゃないんだけどね。
思考の中の友人に静かに反論して苦笑いを浮かべる。想像ではあるものの、それが正確な反応だという自信はあった。
彼女の友人――パチュリー・ノレッジは情緒を理解しないわけではない。ないが、魔術については中毒者たる彼女に対しては言葉を選ぶ必要がある。
彼女対策として言い直すなら、こうだろうか。
――雨は、不思議だ、何処か魅せられる。
雨は己が身を切り裂く刃。
少なくとも、自分にとっては忌むべき存在であった。それでも、雨が作り出す風景は、決して嫌いではなかった。その景色の中に自分が立つことを、密かに渇望しているのかも知れない。
そんな益体もない思考とともに、彼女が主である紅い屋敷を眺める。
彼女の『視力』を以ってすれば、屋敷の中で何が起こっているのか見ることもできるが、そうするつもりはなかった。大体起こっていることの想像はついている。
彼女――レミリア・スカーレットは、雨に濡れる紅色の館をぼんやりと眺めていた。
よくよく考えると、今までこんな光景――雨の中に佇む紅魔館の姿など見たことがなかった。
それだけでも、異変を起こしたことは間違いではなかったと思える。
同じ頃。
一人の少女が、里の端から中心地に向かって走る。
あとは、時が過ぎるのを待つばかり。
なのに、どこか焦りが募る。
正体不明の不安に突き動かされるように、少女の足は速度を増す。
商店街に差し掛かると、見知った顔の人々が今日も商売に精を出している。
恐らく、今まで一番お世話になっているであろう、青梅ばあちゃんの顔を見た瞬間に、焦燥が爆弾のように弾けた。
考えるよりも早く、言葉が口をついた。
「結界が…!」
夏の日の気まぐれ
~ 人と妖の境界線 ~
ふと、石段を上って来る足跡が耳に入った。
まどろみの中にあったレミリアは、驚きに一人目を丸くする。どうやら、この神社に用があるらしい。おそらく人間なのだろう。普通、妖怪はこのような場所には来ない。
自らの行いを高々と棚に上げると、縁側から日傘とともに少し伸びて、鳥居の方向を覗き見る。鳥居の下に少女が立っていた。霊夢より、少し上くらいに見える。少女は鳥居の下から先に進もうかどうしようか、迷っているようだった。
「さて…」
どうしようか。
少女の前まで出ていく義理はなかったが、この神社に白黒以外の人間が来るのは――レミリアが知る限り――初めてのことなので、好奇心もあった。何せ、ここは妖怪退治を生業にする巫女の住む神社なのだ。わざわざ人間が顔を出すのだから、剣呑な事態なのだろう。
彼女自体にも、興味がある。
わくわく。
一度決めてしまえば行動は迅速だった。文字通りの意味で。
一瞬後には、音もなく少女の目の前に立っていた。
「なにか御用?」
「あぇ…?」
あまりに唐突なレミリアの登場に、少女は言葉を返すことができず意味不明なうめき声を絞りだす。とはいえ、何の前兆もなく目の前に人が現れて、化け物だと逃げ出さなかっただけ剛毅かもしれない。
勿論、レミリアは「人」ではないが、人と見せるために羽を隠している。ここで、羽を見せて少女に逃げられては、意味がないからだ。
それでこのような登場の仕方をしては、やはり意味はないのだが。
それに気づかない当のレミリアは、すっと目を細めると、そんなことも気にせず尚も問いかける。
「博麗の巫女になにか御用?」
少女は、つばを飲み込むと、ようやく口を開いた。
「あなたが、博麗の巫女?」
意外と口調はしっかりとしている。やはり剛毅な少女なのかもしれない。レミリアはスカートの裾をひょいとつまんで首と傘を傾げて逆に問いかけた。
「そう見える?」
「いえ、全然」
やはり結構はっきりモノを言う。
「失礼ね」
「え…? じゃあ、貴方が博麗の巫女?」
「いいえ、違うわ」
間髪入れず切り返す。
「…」
少女は、一見年下に見えるレミリアをまじまじと見つめ、次に他に人がいないか周囲を見回した。
が、そんな気配はなく、肩を落とす。
「まずは自己紹介ね。人の流儀ってそういうものなのでしょう?」
レミリアのマイペースさと言葉に、落胆の上に怪訝な表情を上塗りした少女は少しすると、そこに諦めを上塗りして自己紹介を始めた。まずは自己紹介、と言いながらレミリアが一向に名乗ろうとしなかったからだ。
「私の名前は千恵、里の人間よ」
彼女曰く、里で楽しい――人間の感覚で言えば厄介な――事態になっているようだった。
ここ幻想郷は、閉じられた世界だ。
その中で、人間と妖怪が共存しているのだが、妖怪は外の世界を追われて幻想郷に逃げ込んでいるという事情があり、結構な数がこの世界に雪崩込んだ。そのため人間との比率につり合いが取れていない。自然な食物連鎖を構築するには人の数が絶対的に不足しているのだ。
というのが、概ねの妖怪側の見方。
人からすれば、とんでもない見方だ。
見解の相違はさておき、種々の理由で一部の上級妖怪は、人の狩りや大量虐殺を禁じられている。その契約は、人間同士で行うものよりずっと強固で絶対的なものなので、破られることはまずない。そして、その契約の対価として、各々に必要なモノはあるルートから供給される構造となっていた。
ここでは、便宜上妖怪といっているが、人に非ざるものすべての総称として捉えて頂きたい。
「う~ん、この文章どこに置こう。まぁ保留して括弧書きにでも」
中級の妖怪は、絶対的な力はないが適応能力に優れ、また上級妖怪がそのような立場に置かれた理由を理解している者がほとんどのため、人間を襲うことは少なく、上級妖怪の下につくか、彼らのコミュニティを作り上げ生活するなど、大抵安定した地位にいる。
「そういった意味では、上級妖怪もコミュニティを形成しているんですよね。う~ん、細かいところはとりあえず後にまわしましょう」
特殊なケースを除くと、人間の脅威となり得るのは、下級に属する妖怪である。
彼らは、『人間を襲うべからず』の意味をあまり理解せず、本能に従い人間を狩る。ただし、他の妖怪と比較して力が弱く、比較的対処が容易である。
とはいえ、普通の人間と比較すると比べ物にならないほどの力を有しているから、正面切って戦うべきではない。
「まぁ、当たり前の話なんですけどね。私の文章で、勘違いして妖怪の餌、というのも後味悪いですし」
今日では、人里にはこの下級妖怪を寄せ付けないよう結界が施されているため、里を出ない限り妖怪の手にかかって命を落とすことは殆どない。
「そのはずだったんだけど、今日ちょっとした問題が起こっちゃって、結界が破られちゃったんだ」
そのはずが、結界が破られてしまったため、妖怪による被害が懸念される。
「っと。…なんですって! 結界が破られた!? …あぁ、余計な文章まで書いてしまった。とりあえず消しておかないと…」
千恵とレミリアは、唐突に茂みの中から現れ、大声を上げたかと思うと手元の手帳に何かを書き始めた少女にあっけにとられて、その場に立ちどまってしまった。
「わたしが知らないだけで、世の中は面白い人間ばかりなのね」
「その中に、私は含まれてないわよね? その結果次第で同意はしかねるわ」
「もちろん、あなたも含め。当然じゃない?」
レミリアと千恵がそんな会話をしているうちに、書き物が終わったようで、着物姿の少女がこちらに向き直った。
そう、着物なのである。茂みから現れるには、甚だふさわしくない格好である。
「お見苦しいところをお見せ致しました。私は稗田家の現当主、阿求と申します」
典雅にお辞儀までしてみせる。ますます茂みから現れたことが不自然に思えた。
しかし、その事実ではなく、名前に愕然としたのは千恵だった。
「あ、阿求様? 稗田家、現当主の!?」
「今、そう名乗ったばかりだわ。この人は有名なの?」
レミリアの口調はのんびり、内容は鋭いつっこみにも取り合わず、千恵は興奮気味にまくしたてる。
「それはもう。幻想縁起の執筆者にして、求聞持の能力の継承者。頭脳明晰、容姿端麗…」
身ぶり手ぶりも交えての大熱弁である。レミリアは温度差の大きいもう一方に視線を送る。
「…あの、その辺にして頂けませんか」
阿求の方を見ると、よほど気恥ずかしいのか顔を真っ赤にして俯いている。
「とにかくすごいお方、との噂よ!」
「む、最後に落としてきましたね」
比較的置き去りのレミリアだが、こちらはこちらで、それまでのやりとりなどなかった風で、阿求に問いかけた。
「さっきからずっと気になっていたのだけれど、どうして茂みの中から現れたの?」
「あはは、お恥ずかしい限りなのですが…」
苦笑いとともに、自分の悪癖なのだと、阿求は言った。
文章を考え始めると、それに没頭するあまり周囲が見えなくなる癖があるのだそうだ。普段は自室で執筆しているので、特に困った悪癖という感じでもない。
「問題といえば、食事の支度が出来た、と耳元で怒鳴られても気づかないくらいでしょうか」
「周囲は大迷惑ね」
日常は特に問題ないのだが――問題ないのかしら、とレミリアは首を傾げているが――、今日は少し違っていた。阿求曰く、
「空があまりに青かったもので」
散歩をしている間に、ふとひらめくものがあり、そのままノンストップで書き続け、ついでにノンストップでまっすぐ歩き続けていたようだ。と、ため息まじりにぼやいているが、当人は特に問題とも感じていないように思える。
それにしても、茂みをかき分けることもせず突っ切ってきた割に、衣服を見ても傷やほつれもあまり見受けられない。何にもぶつからずに進み続けているところを見ると、なかなかに器用な質のようだ。少なくとも、レミリアはそれで納得した。
「あ、それで私の方も思い出しました。先ほど結界が破られたというような話を言っていませんでしたか?」
「あ、そうそう。結界を構成している護符が何枚か剥がされまして。それで、博麗の巫女に助けを求めに向かったのですが」
千恵はそこまで言うと、レミリアを一瞥する。
「神社の周囲では、人が突然現れることが流行っているのかな?」
何かを思い出したらしい千恵が、奇妙な呟きを漏らす。発言内容が尋常ではなかったので、阿求が思わず聞き直すと、レミリアが付いてきたときのことを話してくれた。
千恵が名を名乗ると、レミリアも名前だけを名乗り、さっそくとばかりに何が起こったのかを聞き始めた。
「それが、里の…って、私、異変があったなんて言った?」
「それ以外に、里の人間がここに来る理由があって?」
レミリアはしれっと言ってのける。
実際、里での神社に対する扱いはそんなものだったが、恐らく神社に縁のある人間――と、千恵は思っている――の言うことではなかった。
「え、うん、まぁ」
「それで?」
「あ、里に張り巡らされている結界の一部が、破られて弱くなってしまったの。それで、一部の妖怪の侵入を許してしまったから、その退治と結界の修復をお願いしに」
レミリアは、聞いているのかいないのか、千恵をじっと見つめる。
「あなたは?」
「え?」
唐突にそれだけ言われても、千恵も返事に困る。
「あなたは、どうにかするつもりはないの?」
レミリアの口調は冗談めかしてはいるが、冗談という感じでもなかった。その発言に、千恵は一瞬言葉に詰まり、即座に続ける。
「いや、無理に決まっているでしょう? 私は何の力もない人間なのよ」
「そう」
それだけを呟くと同時、レミリアは実に嬉しそうに笑みを浮かべる。
「咲夜!」
「はい」
レミリアが虚空に向かって声を上げたかと思うと、その虚空から突如としてメイド姿の少女――というかメイド――が現れた。扇情か動きやすさ重視のためなのか、やたらとスカートの丈が短いが、それってメイドっぽくない。などとどうでもいいことを考えた次の瞬間、人間が虚空から現れたという事実が千恵の中に浸透した。
「ななななな?」
時間差を置いて、心臓が飛び上がる。レミリアの登場も急だったが、その比ではない。完全に虚空から人が生えてきたとしか表現出来ない唐突さだった。
そんな反応には慣れているのか、もともと気にしないのか、レミリアも咲夜と呼ばれた少女も平然としている。
「お留守番、頼むわね」
「え? あ、はい♪」
その一瞬で、疑問符がどこに飛んで行ったのか、千恵にはその行方を想像することすらできなかった。咲夜は頬をほんのり赤らめて、弾むような声で頷いている。
レミリアの横顔を見て、疑問は何となく解消された。レミリアは弾けんばかりの笑顔を浮かべている。
「さて、それじゃ行きましょう」
「はい?」
千恵は、話の流れについていけなかった。一体、目の前の少女は何を言っているのだろう。その前に、自分は何をしに来たのだったか…。
「あ! えっ?」
自分がここに来た理由を思い出した千恵は、レミリアの言わんとしていることを理解した、が意外な展開になってきた。
「巫女は今、他出してるから。留守番のわたしがその代理」
「成る程、そんな経緯が」
千恵の視線につられるように阿求もレミリアに視線を移す。しばし、レミリアをまじまじと見つめ、あっと声を漏らす。
「それにしても、その…あなたが、巫女の代理を?」
「あら、わたしじゃ不満かしら」
すっと目を細め、薄い胸に手をあてる。殊更、挑発的な態度をとってはいるが、レミリアの目はにやりとした笑みを形づくっている。彼女の容姿が彼女を知らぬ人に与える印象を、よく知っているのだろう。そして、その印象を裏切る瞬間の喜悦も。
しかし、阿求の態度は、そういったことから来てはいなかった。
「いえ、実力的には申し分ございません。ただ、種族が種族なので、意外な気がしたのです」
レミリアは本日二度目の淡い驚きに目をまん丸に見開くことになる。
「レミリアさん。レミリア・スカーレットさん、ですよね。つい先日の紅霧の異変が記憶に新しい」
あまり整備もされていない、獣道も同然の道を三人は歩いていく。周囲は代わり映えのない鬱蒼とした森が続く。木漏れ日というのも切なくなるような、貧弱な日光の下でも日傘を片手にしたレミリアは、傍らの阿求に向き直る。
「驚いたわ。人間の知り合いはあまり多くはないのだけれど、知り合いだったかしら?」
結界が完全に破られたわけではないにせよ、さっさと里に向かった方が懸命だという阿求の判断で、一同は歩きながら話すことにしたのだ。
「私も、貴方をこの目で見るのは初めてなのですが」
阿求はそういって自分の目を指さす。
「先の縁起の中にも記述がありましたし、若干ながら記憶も残っております」
ことのついで、といった風で阿求も自分の立場や能力について簡単に説明をした。
レミリアは口元が上がっているような、下がっているような、全体としては笑みとなっている奇妙な表情を浮かべた。
「なかなかに退屈な能力だわ。そんな力を持っていたら絶望で天寿を全うできなくなりそうね」
「お蔭様で、私たちは総じて短命ですよ。絶望が原因かは別として」
自分の能力を否定されて尚、阿求の答えは楽しげだった。
「残念ながら、他の人たちはそう思ってはくれないようで。素晴らしい、うらやましいと言われることが殆どですね。確かに便利は便利なのですが」
「あなたも、こちら側で生きるべき存在なのね」
「ええ、幸か不幸かは別にして」
阿求は自分の能力がそこにおかれているかのように、手のひらを見つめる。
「この力があるから『稗田阿求』なのです。もし、求聞持の力を失ったら、稗田阿求という名の別人が出来上がるのでしょうね」
「…ねぇ、二人とも。日本語で会話してほしいんだけど?」
「いえ、立派に日本語ですよ?」
二人の会話を聞きながらも奇怪なものを見る目の千恵は、釈然としない表情で会話に割り込むが、阿求は平然と返した。
ちなみに、阿求が落ち着かないという理由で、千恵には敬語を使わないよう、お願いしていた。彼女も彼女で、自分よりも年下相手に敬語で話すことは違和感があったらしく、すぐに応じてくれていた。
「その割には、さっぱり話が分からないんだけど…」
レミリア=吸血鬼という事実は、この場では混乱の元になるため直接的なことは言わないように会話を成立させているが、レミリア=人間として聞いていると、辻褄が合わない事だらけだろう。そもそも先の幻想郷縁起に記述があるはずがない。いい加減気がつかれても仕方ないような気もするが、幸いにして千恵が気づく様子はなかった。
「それにしても、霧のこと、情報が早いのね。私が関係していることは解決に乗り出した当人くらいしか知らないと思うのだけれど。あいつが自分から誰かに言いそうもないし」
「その当人から話を聞き出しました。たまたま里で見かけたのですよ」
そのとき霊夢は異変がすべての場所で終息しているか、確認して回っている最中とのことだった。特に隠すことでもないと思っている様子で、湖のほとりの洋館に住む吸血鬼が異変を起こしたということを話してくれた。
「直に、里にも知れ渡るでしょう。紅魔館の存在すら知らない人も多いので、これから少々賑わうかも知れませんね」
レミリアは、そのことには特に興味もなかった。有象無象がレミリアのところにまでたどり着けるとは到底思えない。
「門番が大急がしね」
たどり着く人間が居るならば、それはそれでレミリアを楽しませることだった。
「私も今度遊びに行く」
「その前に、妖怪に食われないといいわね。里と違って、結界はないわ」
千恵を見やり、意味ありげににやりと微笑む。実際、里から湖まではそれなりに見通しの良い道のため、昼間であれば妖怪に襲われることはあまりない。
ふと、自分の言ったことから疑問が湧き出した。
「このあたりに、妖怪はいないのかしら。ずいぶんと襲いやすそうな道だけど?」
妖怪がいないこと自体は、気配で分かる。今まで通ってきた道の周辺だけ、ぽっかり穴が空いたように妖怪の気配がない。人間が神社に行く行為自体はそう珍しいことではなく、――博麗神社に限っては、そうでもないかもしれないが――妖怪にとって襲いやすい立地にもかかわらず、気配がないこと自体が不自然だった。
「ああ。それはここが彼女たちの通り道だからですよ」
「彼女たち? めでたいのと不吉なの、かしら?」
阿求は、その表現がツボにはまったのか、笑いながら首肯する。
「出会ったら最後、退治されると分かっていてここにいる妖怪もいない、ということなのだと思いますよ」
確かに、あの巫女であれば、出会ったらとりあえず退治、などという大雑把なことをやりそうな気がする。
「あいつは、神社への道を整備しようとか言う事は思いつかないのかしらね」
よくこんなところを通ってきたわね、と千恵を見やると苦笑いしている。表情はレミリアの意見を肯定していた。これでは、人は寄り付かない、と。
「そういえば巫女で思い出しました。この前里に来たとき、ついでに里の結界の様子も確認すると言っていましたね」
この幻想郷を覆っている、博麗大結界を構築したのが霊夢の祖先である。彼女自身も博麗大結界を守る要石の一人であり、結界は彼女の専門分野だった。その彼女が最近様子を見ている以上、結界自体の不具合とは到底思えなかった。
「あいつは普段サボってばかりいるけど、やるべきことは嫌味なまでに完ぺきにこなすもの」
「ずいぶんと、彼女を買っているのですね」
阿求が微笑みつつ指摘する。レミリアからすれば、人間など無知で短命な生物だろう。吸血鬼という種族から見れば、人間など家畜に過ぎないかもしれない。そんな中で、博麗霊夢がレミリアの目に留まったということは、とても素晴らしいことに思えたのだ。
しかし、当のレミリアはその指摘に虚をつかれた。そのとき初めて、自分が博麗霊夢を気に入っていることを自覚した。たかが人間の少女を、だ。
理由など分かりきっていた。
「あぁ、里が見えてきましたね」
鬱蒼とした森を抜けると、急激に視界が開ける。
空は、ひたすらに青く深く澄み渡る。右手にはそびえる入道雲の威容。
日傘を通して尚、肌を灼こうと牙を剥く光に、思わず眉間に皺が寄る。
典型的な、夏の姿。
この季節は、彼女にとって鬼門といってよかった。
だから霧を出しておけばよかったのに、と思う。しかし、実際に霧を出すだけ出しておいて、その間彼女は特に外に出ようともしなかったわけだが。
里は、四方を山で囲まれた窪地にあった。この丘から里の全体を見渡すことができる。周囲にまばらに植えられた木が、里と野の境界を控えめに主張するだけで、塀で取り囲むでもなく、開放的な場所に見える。
あくまで表面上は。
レミリアの目には、執拗なまでに里の周囲を取り囲む結界の網がはっきりと見て取れた。
丁度、この丘と反対側の結界が確かに薄くなっていることも一目で分かる。
ただ、まだ妖怪は結界の内側にいる様子はなかった。薄くなった結界の周囲に妖気を感じるのみである。
「ふん、情けないな」
確信がないため結界に触れることをためらっているのか、実際に破ることができないのか。どちらにしてもそれだけ小物の妖怪なのだろう。
しかし、結界が破られるのも、おそらく時間の問題だ。弱くなった結界と妖怪の力、単純に比較すると、群がる妖怪の中にも結界を抜けることが可能なものがそれなりに混ざっている。結界が薄くなったことに気づいて集まってきたにしては、多すぎる気もするが。
「まだ被害はないようですね」
レミリアはその表情で阿求に問う。何故、阿求にも分かったのだろう、と。
阿求曰く、万が一妖怪に侵入を許したときは、狼煙を上げることになっているのだそうだ。巫女に情報を伝達するための手段らしい。解決に来るのは巫女とは限らないらしいが。
「魔理沙さんのような、力のあるほかの人間だったり、場合によっては妖怪の賢者だったりしたようですね」
「あー、それで思い出したよ。確かに、狼煙を上げていたわね」
思い出して思わず、目尻がきりきりと釣り上がっていくのを自覚した。今の面倒極まりない誓約を交わすことになったときのことだ。
結果論だけを言えば、あの誓約は交わしてしかるべきものだった。しかし、力でねじ伏せられた結果というあたりが納得のいく話ではなかった。
いつかリベンジしなくては。
そう考えると、まだまだやるべきことは多いのかもしれない。
退屈だなんて、誰が思っていたのだろう。――もちろん自分だが。
そうこうしているうちに、村の入り口に到着した。
阿求、千恵に続いて、レミリアは何の気もなく、ひょいと結界を通り過ぎる。
――バチッ
「あっ」
阿求は、静電気が弾けるような――実際には、それの何倍も大きな――音に慌てて振り返る。レミリアも妖怪であることを今まで失念していた。
しかし、レミリアは結界にはじかれるでも、捕われるでもなく、あっさりと通り抜けている。
「あら? 何ともないのですね」
「これが正解ね。この結界を構成した奴は、よく分かっているわ」
阿求自身が言っていたように、人間にとって一番身近な危険は下級に属する妖怪たちなのだ。
結界は、それらの妖怪のみを対象として構成されていた。では、それ以上の妖怪に対しては? まず、上級の妖怪を結界で抑え込むこと自体が、途方もない力を必要とする。ここ幻想郷では、そういった妖怪は既に誓約によって縛られていることが多く、里に入れることに対して、特に神経質になる必要もなかった。
却って不完全な結界で刺激を与える方が、怒りを買うことになりやすく危険である。どのみち、人間の構成力では大方の場合破られてしまうのだ。破られたら最後、結界は破損、または消失し里を守ることもできない。
ただ闇雲に押さえつけるだけなら、結界を構成するものとしては、三流以下である。
「…と、いったところでしょうか?」
いつの間にか、万年筆を片手に回しながら、阿求。
「…よく分かっておいでで」
呆れんばかりの早業に、実際にレミリアは呆れた声を出す。それから、阿求と千恵を横目に見つつ、レミリアは二人に聞こえないような声で一人呟く。
「まぁ、今回のは想定外なのだろうけど」
それはそれとして、一応阿求たちに言っておくべきことがあった。
「ところで、急がなくていいの? さっきの音は、確かに結界が反応した音だと思うけど?」
「「え?」」
「対象が私でなかっただけ。もっと警戒しないといけないのがいるのでしょう?」
レミリアとしては、半ばどうでもいいことではあるのだが、ここに来た建前を考慮して一応言ってみたまでだったのだが。二人はものすごい剣幕で食って掛かってきた。
「なんで、もっと早く言わないの!」
「文章書いている場合じゃないじゃないですか!」
「奇遇ね、私もそう思っていたところだわ」
二人とも、表情が憤然から憮然へと移り変わる様が、なかなかに面白かった。このあたりの感覚が、やはり悪魔である。
あまりからかうとまた怒られそうなので、話を先に進めることにした。
「ここからちょうど反対側だわ」
とりあえず、そこに向かうことにした一行だが、実のところ三人が三人とも、妖怪に鉢合わせたときの対処に困っていた。
人間二人はともかく、レミリアはまず妖怪が襲ってくることはないだろう。もしそうなると、レミリアが妖怪を攻撃する理由は何もない。巫女の代理という建前で付いてきてはいるのだが、人間の危険は人間自身で解決するべきだった。特に今回のような、さほど大きくもない事件については尚更だと思う。
余計な手出しをすることは、あまり気乗りする話ではなかった。
千恵はさておいて、阿求もそのあたりをあまり楽観的には見ていない。種族も立場も違い、実力も雲泥の差とはいえ、妖怪同士である。不干渉が基本的なスタンスだろうということは、予想がついている。
では、どうするか。
体を動かすことに関してはまったく自信のない阿求としては、何とかしてレミリアをその気にさせるくらいしか手が思いつかないのも確かだった。
いや、それだけとも限らなかった。失念していた人物が一人いる。
「そういえば、里の守護者はどこに行ったのです?」
「守護者? そんなのまでいるの」
「ええ、純粋な人間というわけではないのですが」
レミリアにそう答えながら、千恵に何か知らないかと目線で回答を要求する。
彼女は何かを知っているようで、一つ頷く。
「慧音様なら、子供を助けに里の外にいってしまっている。最初に結界を破った奴が、攫って行ったんだ」
「嗚呼、そうですか…。」
事態は簡単に好転するわけでもなさそうだった。
「どうしたものかしらね」
「まったくです。もし妖怪が既に進入した後だったりしたら、私ではどうしようも…」
「いや、もう『もし』では無いから」
「前、前!」
それでも、遠くに望む、と表現できるような距離であれば救いもあろうが、残念ながら、戦いに臨む、と表すような至近距離にまで近づいていた。姿は漆黒の狼、しかし、瞳には理性の光。無力な『獲物』を発見した喜びにはっきりとした笑みを浮かべている。
妖怪はとっくに結界を突き破って内部に進入していて、人間を探して徘徊している最中といった風だった。建物の影にいたため気づかず、運悪く鉢合わせ。と呑気に状況を想像してはみたが、そんな状況に陥った人間からすれば、『運悪く』などという言葉で片付くものではなかった。
まさに今の阿求がその状態だった。
妖怪――というより妖獣は、即座に他の誰でもなく、阿求に向かって踊りかかった。鋭い爪の一閃が、逃げる間も許さず阿求を切り裂く。
そんな残像が見えるほど凄まじい一撃は、残像と同じ現実を生み出さなかった。
爪が鋭く光る前肢をつかむのは、華奢な手。しかし、妖獣はそれ以上の身動きを完全に封じられていた。
阿求は、驚きのあまり放心状態だったが、レミリアが傘の柄で軽く押すと、数歩下がってその場にへたり込む。
「襲う相手が悪かったな」
阿求を押した日傘を軽く上に放ると、空いた手を一閃する。その手がかすんで消えたようにしか見えなかった。
しかし、その残酷な一撃の結果として妖獣の体が爆発するように分断。刹那の間だけ、血霧によって繋ぎ止められていた上半身と下半身も永遠の別れに、紅く静かな慟哭を撒き散らした。
何事もかったかのように、ふわりと落下してきた傘をつかむと、頽れた妖獣の下半身の上に、手に持つ形になっていた上半身を放り出す。
レミリアは阿求のほうを振り返ると、手を貸して立ち上がらせた。大量の返り血を浴びたはずのレミリアの服には、それらしい赤も見当たらない。
「いきなりだったので、びっくりしました」
流石に蒼い顔をしていたが、口調自体はだいぶしっかりしている。
「永く生きていれば、多少なりとも度胸もつくというものですよ」
そう独り言のように呟きながら、あっさりと立ち上がり服の裾についた汚れを払っている阿求は、やはり豪胆というべきだろう。
“普通の”人間と関わることが皆無のレミリアには、普通の反応がどういうものか今一つ分からないが、何となく好ましく思う。この程度で騒がれても、迷惑な話だという方が本音に近いかもしれない。
さて、もう一人の人間である千恵の方はというと、こちらも特に取り乱した様子もなかった。一瞬の事態に目を丸くするのみだった。
レミリアが周囲の状況を覗うと、前方の家屋の影に妖怪の気配。こちらに気づいたようで、向かってくることが分かった。
「さて、いちいち阿求の身を守るだけというのも面倒だわ。どうせ敵とみなされただろうし、いっそのこと殲滅してやろうかしら」
「私たちとしては、そうしていただけると助かります」
「では」
そういうと、レミリアは傘をちょこんと傾げ、右手を高々と掲げる。瞬時に深紅の、彼女の身長の倍はあろうかという、長大な槍が出来上がる。淀みない動作で、それを投擲するモーションに入った。
標的は…建物の影に見え隠れする妖怪・妖獣の群れ!
「神槍 スピア・ザ・グン…」
「やめい!」
――スパーン!
少しの痛みと、凄まじい音に驚いて、グングニルは幸いにも霧散した。
「え、な、何、今の?」
レミリアが、きょろきょろと辺りを見回すと、スリッパを片手に持つ阿求の姿。
どうやら、それで引っ叩かれた音のようだ。
「まったく、家にいる人ごと吹き飛ばすつもりですか!」
「そんなことより、そんなものをどこから」
阿求は答える代わりに、袂にスリッパを仕舞込むと、レミリアの前に仁王立ちになる。目が完全に据わっていて、その迫力たるや息を飲むほどだった。
「いいですか、目的は村に被害を出さないことであって、妖怪を殲滅することは最優先事項ではないのです。あんなものを放ったら、まさに本末転倒じゃないですか!」
表情と声音の迫力に圧倒され、流石のレミリアも反論することもままならず黙って頷くしかできなかった。
「は、はい」
恐るべし、阿求。
「そんなことでは、助けていただく意味がないのです。まったく、あなたは人間というものを…」
「そんな場合でもない!」
レミリアが狙っていた妖怪の群れが、阿求たちの目と鼻の先まで近づいていた。これだけ大騒ぎしていて、なおかつ阿求は妖怪に背を向けるように立ち、レミリアの視界を塞いでいたのだから、概ね自業自得と言えた。
レミリアは阿求の腕をつかみ、引っ張り、舞踏でターンでもするように位置を入れ替えると、左足を軸に右足を振り抜いた。
蝙蝠のような羽が生えた人型の妖怪――デーモンの頬に命中し首から上が異常なまでに捻れる。首が真後ろを通り過ぎて再び正面に向いていた。
その背後、角やら棘やらが無数に生えた大型の熊のような妖獣が迫り、レミリアめがけて巨大な腕を振るう。レミリアとの間にあった、首を捻られたデーモンの上半身が爆ぜる。
レミリアはステップを踏むように、腕の一撃を躱すと、鋭く踏み込み右の貫手を繰り出した。
その一撃は、確実に妖獣の心臓を貫き、一瞬にして絶命させた。
「日傘が邪魔ね」
そういうレミリアの表情は獰猛な歓喜に輝いていた。
他の妖怪は、近距離戦の間合いには入っていない。レミリアの力に警戒して、遠距離からの攻撃を仕掛けるほうに、切り替えたようだ。
「人間に危害を加えなければいいんだな?」
言うか言わないかのうちに、前方に差し出したレミリアの掌に燐光が灯り、魔方陣が展開。そこから何かが爆発的に増殖する。それは真紅に輝く鎖に繋がれたやはり深紅の四角錐。全体として見ると、アンカーのような真紅の物体が数本、瞬時に生成された。
阿求がその全容を把握するかしないかのうちに、それらはまるで生きているかのように中空を疾駆、鎖の尾を引いて周辺に存在した妖怪に襲いかかる。否、虐殺した。
あるものは頭を砕かれ、あるものは鎖に打ち据えられ、他にも、絞められるもの、貫かれているものもいる。
一瞬にして、十近い妖怪たちのその生命に終止符が打たれた。その役目を終えたアンカーの群れは何事もなかったかのように消え去る。
「これが、吸血鬼の力…」
あまりにも、圧倒的だった。
同時に、この化け物と対等以上に渡りあえる人間――博麗霊夢がまさにそうだ――を同じ生物だとは思いたくなかった。素手で妖怪の肉体を引き裂く力に加え、圧倒的な魔力。ほとんどの人間は、命を狙われたら、為す術もなく惨殺されるだろう。
先人が取り交わした妖怪との約定、そして決闘ルールがなければ人間など家畜に過ぎない。拒否権など無意味な力の差だ。
阿求の戦慄をよそに、レミリアは不吉な歓喜の表情のまま阿求を振り返る。
「ちょっとやり過ぎたかしら? でも、たまには力を出さないと、身体が鈍ってしまうものね」
阿求は、一つ頭を振ると思考を切り替えた。
その力がどうであれ、今は自分を救ってくれる存在であり、敵対するわけでもない。
「はい、とも、いいえ、とも言いがたい状況ではありますが…助かりました」
「いいえ、それは違うわね」
レミリアは、にやりと悪魔の笑みを返す。先ほどの歓喜の笑みよりも数段上の質の悪さを感じた阿求の背筋に怖気というか、いやな予感が走り抜ける。
「過去形で話すのは、まだ早いわ。結界内には妖怪が残っているもの」
「はい?」
「相手の力が弱すぎるわ。弱いものいじめは好きではないの。それに、わたしに敵対もしない者まで殺すのは気が咎めるもの」
そんなこと言われても、と途方に暮れたくなる発言である。
「むしろ大サービスだわ。周辺の妖怪は殆どやってしまったから、もう半数切っているわ。まぁ、これ以上入って来ないとして、だけど」
なんにせよ、当面命の心配はしなくて済みそうではある。しかし、
「後は、あなたたちで何とかなさい」
この発言には、阿求も面食らって絶句した。
できるわけがない。できるなら、とっくに何とかしている。
「いくらなんでも…力があるなら別として、私には力がないのですよ!?」
阿求の必死の訴えに、レミリアの笑みはますます深くなる。
まるで、聞きたかった一言を聞くことができた、というような。
そして、おそらく『ような』ではないのだろう。
地雷を踏んだ感触を足元に感じた人間は、おそらくこんな感じがするんだろうな、と阿求は場違いな感慨を持った。
「ひゃあぁぁああぁぁぁ」
「あら、いい感じじゃない?」
跳躍一つで屋根の上に登っているレミリアは、高速で飛翔する物体に向かって声を掛ける。
その物体は、普段であればそうそう出さないような、 素っ頓狂な声を上げながら高速で右往左往していた。
「とりあえず、止まったら?」
その一言で、高速移動物体が急停止する。先ほどの速度から考えると、慣性を無視しているような急停止である。それでも、物体は無事存在し続けていた。
うずくまる元高速飛行物体――阿求はぜいぜいと息をつく。
「とりあえず、制御はできてるから、いいんじゃないかしら」
「感度が高すぎるんですよ、これ」
阿求は自分の周囲を不規則に漂う魔法陣に視線をやる。
それは、「力があればいいのね」という悪魔の発言とともに生成された、使い魔、兼、式神という、ややこしい概念のもの。媒体に憑依するところは式神で、実際に力を出すのは使い魔の部分らしい。
式神の場合、すべての情報を、式神を通してみることになるが、この『使い魔』の場合は、阿求が意識して『使い魔』を使うと使い魔を通るらしい。
レミリアいわく、眼鏡と双眼鏡の違いとのこと。
憑依したモノの意思を反映してほぼ万能に動作するらしいのだが、振り回されっぱなしというのが現状だった。
「だって、右に動こうと思っただけであれなんですよ?」
先ほどの高速移動のことを指していた。試しに、高速移動をしてみようと、「右に動け」と思えば、右方向にとんでもない加速で引きずられ、慌てて元に戻ろうとすると、これまたとんでもない加速で引き戻される、といった具合だった。
確かに、思考を反映はしているものの、感覚的な調整までは勝手にやってくれないようだった。
「求聞持の能力を使うときの感覚で、意識を通してみればいいんじゃないかしら」
「簡単に言いますが…」
と文句を言いつつも、言われた通りに意識を切り替える。
求聞持の力――記憶する側は自動で働いているようなもので自分の意思が働かないところにある。しかし情報を引き出す方はというと、そうではない。無意識で、通常の記憶とは区別なく取り扱っているし、しばしば勝手に呼び出してきてくれたりもするが、確かに通常の思考や記憶を辿るときとは感覚が違っている。
その感覚で、阿求は意識に潜り込んだ。瞳は目の前の風景を捉えるとともに、違う世界を捉える。視認ではない認識。目で捉えているわけではないが、見える世界。
そこに、求聞持の記憶が揺らめいている。
いつもであれば、そこから望む記憶を検索するのだが、今の目的は違っていた。
周囲を見回す感覚で探ると、レミリアの言う通り、確かにそこにあった。阿求の意識がそれに触れる。それはするりと解けて、阿求を包む。
(鳴呼、成る程)
無意識に呟きが漏れる。
阿求の意識がふわりと浮き上がった。
それは正しいが正確な表現ではない。
阿求の意識が浮き上がると同時に、阿求自身も浮き上がっていた。
「ほら」
レミリアの歓喜が声となって漏れた。
「わかりました、何となく」
意識の内に潜っていた時間は刹那。阿求はそのうちに『使い魔』を認識していた。
思考だけを読ませては、『使い魔』は勝手な解釈をするだけなのだ。その思考を紡いだ意識ごと読み取らせることで、初めて『使い魔』は阿求の考えを認識する。
阿求はその力を確認するように、意識の一部を『使い魔』に注ぐ。『使い魔』を通して周辺の情報が恐ろしい密度を持って押し寄せて来る。
(それらは…違う!)
比較的おとなしい求聞持の力とは違い、レミリアの『使い魔』は乱暴だった。
一気に処理しきれない情報を、容赦なく阿求に向けて流し込もうとする。それをされてしまえば、もはや情報の渦から抜け出せないと、本能に近いところで危険信号が点る。
阿求の意識は、膨大な量の情報の殆どを精神力で以ってはね退け、欲する情報のみを抽出していく。
それでも、通常感覚しえない量と密度、精度を持った情報の渦に頭痛を覚える。
得たかったのは――得られたのは、結界の様子。
上空から見て、正多角形を描くはずの護符の配置が、一部の頂点がかけてゆがんだ形となっている。本来あるべき呪符が、二枚ほどないようだ。
護符は、隣接する護符と力の網を張ることで結界の力を強化している。横方向に関しては、最も近い護符と最短距離、すなわち二点を結ぶ直線で相互に網を張るため、結界そのものが消失することはない。実際、護符が三枚あれば――それが直線上に配置されていなければ――、範囲は変化しても結界自体は維持される。
ただし、護符の力は隣接する護符との距離が長いほど結界の力が弱まる。ちょうど、引き延ばされるゴムが細くなることに似ていた。それが故に、この二つの護符が欠けた箇所は護符同士の距離が長くなり、結界の力が弱くなる。
(細かいことを言えば、護符から放射される力の網は太さを持たず、無数の糸が結界から放射状に広がっている。この糸自体は距離によって力が弱まることはないが、この糸は隣の護符に到達したもののみが結界の力として作用するため、距離が倍になれば力――隣に到達できる糸――は四分の一、三倍になれば九分の一と、急速に力は減少する)
また、結界は護符を直線で結んだ形状に発生することから、護符が欠けたことによって結界が網を張る経路が変化する。護符が機能しなくなった場所の周囲は結界の外に締め出されることになる。
幸いにして、締め出され空間にはなにもないようだった。
次いで、外の様子を確認しようとするが、『使い魔』自体が下級妖怪と判定されているようで、力が結界に散乱されてしまい、正確に結界の外を探ることはできなかった。
ただ、結界の薄くなっている場所の手前で、ぼんやりとではあるが複数の妖気が確認できた。妖怪の力は定かではないが、いつ侵入されるか分からない以上、事態は好転しているとは言えなかった。
『使い魔』に問いかけ、結界の修復が可能かを確認するが、『使い魔』にはその力はないようだ。それもそのはずで、結界に散乱される力が結界を構成できるはずはない。力の性質が違いすぎる。
案として、結界と干渉しない位置に、『使い魔』の力を使って別の結界を構成することも考えられたが、それだと結界同士の隙間が大きすぎて、あまり意味はなさなそうだった。
里全体を囲むような結界も構成するだけの力は無い。
「ふぅ」
息継ぎをするように、『使い魔』から意識を引き剥がす。
『使い魔』との接続を長く続けるのは、つらいものがある。人として決して触れることのない情報量は、呼吸器さえ圧迫するように感じられた。
全て意識のうちのことなのに、息苦しさを感じること自体が奇妙なことだったが、考え事をしていて呼吸が止まるようなこともないわけではない。
自分がまだ正気を保っていることを確かめると、再び情報の渦に飛び込む。
決しておぼれることのないように。
まずは被害を最小限に抑える努力から始めるべきのようだ。
そうなると、重要なのは里に入った妖怪の現在地の把握。
そう思った瞬間に、思考内で三次元の仮想空間が展開し構築される。視界に入る建物などは単純な直方体として表現されていた。この位置から感じる妖気を情報として、各妖怪の所在が光点として三次元空間に配置された。阿求の思考は、それを俯瞰する。
数は五体。三体はほぼ固まった位置にいて、他の二体は散らばった位置にいる。今はまだ、それほど活発に動いていない様子だった。
妖怪でない、人の配置も捉えることが出来そうだったが、その情報量が莫大過ぎて諦めた。それでなくても、通常人間が認識できないような量の情報が脳内に展開しているのだ。先ほどから、ひどい眩暈のような何かに襲われているが、耐えていた。
『使い魔』には、視界に入らない非生物は認識できないようだった。
ようするに、視界の外にある建物の形状等は分からない。
妖怪を捕獲して、動きを封じることが出来れば一番いい。
そのために、とるべき行動は何か。
阿求は自身の能力を顧みる。
阿求は浮遊し、瞑目したまま動かない。
しかし、意識が『使い魔』に集中するのを、レミリアは感じていた。まるで、嵐の前の静けさだった。
チリッ――。
レミリアの思考に、ノイズが静電気のように疾る。
阿求の集中力はさらなる高まりを見せ、ノイズも増え続ける。
不意に、弾けた。
阿求から力が迸り、五つに分かたれ飛翔する。
同時にレミリアの思考に別の思考が断続的なパルスのように弾けた。
「ぐっ」
流石のレミリアも、思考中枢を灼かれているも同然の状態に苦鳴を上げる。
不意に、数十もの金属を打ち鳴らすような音が、響く。阿求から放たれた力が飛び去った方向からだ。
「終わりました」
いつの間にか、地面に膝をついている阿求。
同時に、レミリアも苦痛から解放される。レミリアは頭を一振りして苦痛の残響を追い払うと、荒い息をつく阿求を見つめた。思わず、口の中で呟きが漏れる。
「わたし、とんでもないことをしてしまったのかしら」
「いえ、助かりました」
誰にも聞こえないはずの声に、阿求は答えをよこす。レミリアの口からため息が漏れる。
「そろそろ、人の頭に直接アクセスするのをやめて欲しいわ。わたしが壊されてしまう」
「?」
阿求は怪訝な顔になる。
強度こそ弱くなって入るが、未だにレミリアの思考には断続的なノイズが感じられていた。
「しかも無自覚なのね、恐ろしいことだわ」
レミリアは、今度は完ぺきに声には出さずに、指向性あるの思考としてのみ言葉を紡ぐ。阿求はますます怪訝な顔になる。やはり、使い魔を通して思考を読み取っているようだった。レミリアは阿求の疑問の表情を無視するように言葉を重ねる。
「一旦、『使い魔』から意識を離した方がいいわ。あまり力に慣れすぎると、なくなったときに苦労するわよ」
その言葉で、阿求は自分が『使い魔』に意識を向けすぎていることを自覚した。息を一つつくと、阿求は『使い魔』から意識を引き離す。
情報にあふれた世界から離脱し、認識も人のものに戻る。まるで夢から醒めたときのような、軽い違和感と安堵感が全身に染み渡る。
レミリアも同時に、ノイズが消えたことに安堵していた。
「貴方はいつもあんな世界を見ているのですか?」
阿求の声には、僅かな憧憬。
「その気になれば。でも、疲れるからわたしは嫌だわ」
確かに、と阿求は思う。下手をすると自分の意識が破壊されかねない情報の渦を御するのは、想像を絶する疲労を伴う。
「さて、それじゃ貴方が何をしたのか、見に行きましょうか」
「え、もうですか?」
そう言いつつも、眩暈を堪えて立ち上げる。まだ少し頭がふらつくが、自身が成した事が思い通りに行ったかどうかは、早くに確認するべきだと思い直す。
「分かりました。行きましょう」
「呆れた」
その現場を見た、レミリアの第一声だった。表情にも、心底の呆れ。
「あの一瞬でこれを、全部一遍に?」
「多分。ほかも外していなければ、いいのですけど」
レミリアの目の前には、檻。
鳥かご型の檻――の形に収束した魔力だった。
中には当然のように、妖怪が鎮座していた。あまりに突然のことに驚愕のまま凍りついて、目を瞬かせている。
この周囲に三体の妖怪がいたが、ご丁寧にそれぞれに檻を構築していた。
「これを遠隔地から、しかも死角にいて、移動しているかもしれない妖怪めがけて? ありえないわね、本当に」
レミリアは頻りにありえないと呟きつつ、周囲を見回す。それも無理のない話だった。今レミリアたちが妖怪と檻を見つめているここは、狭く暗い路地裏なのだ。
捕らえられた妖怪が、少し先の表通りに一体。目の前に一体。ここに来る前に、同じような路地の入り口付近に一体いることを確認していた。
今いる場所など、左右を塀に囲まれている上、人がぎりぎりすれ違えるような狭い路地だ。よほど上空高く上がらない限り、遠方からは死角となるような位置だ。そこにいる妖怪を、狙いたがわず捕えて見せるなどという離れ業は、レミリアが考えても簡単なことではない。
レミリアであれば、考えている時間があるなら、この場所に赴き直接止めを刺すことを選ぶだろうから、あまり比較にはならなそうだが。
それをなした本人は、至って暢気だった。「これって、いつ頃まで保つんでしょうね」などと言いつつ、自分が作り出した檻をしげしげと眺める。それを成したのは阿求でも、その力は彼女とは別のところにあるのだから、疑問は尤もなのだがひどく的外れな感じもする。
「どうしたら、こんなことができるのかしら」
「ああ、それはですね…」
阿求が言葉を続けようとした目の前で、結界内の妖怪が地面に溶けるように消えた。
「え?」
一瞬、何が起こったのかよく分からなかったが、まるで別の頭脳が働くように、阿求は素早く思考を繰り広げる。
消えた妖怪の外観を高速検索。能力を照合。合致する情報を取得。対策案を検討。
思考は刹那。
阿求の中に、迷いはなかった。
俄に阿求の足元、しかも背後から気配。影が蠢く
影は一瞬にして、二次元から三次元へと成長し、粘土細工のように輪郭が整形されていく。
阿求の表情には、悲しみ、哀れみ、非情さ、殺意。
影が妖怪の姿を形づくった瞬間、それを追うように現れたのは、真紅の長槍。
妖怪の足元から伸びて胴体の真ん中を貫き、穂先が背中から突き出しても尚、伸びる。完全に足が地面から離れたところで、ようやく止まった。
阿求の足元には、魔法陣。串刺しとなった妖怪が捕らえられた檻を中心に、半径十数メートル程度の魔法陣が展開し、それが阿求の足元にまで伸びていた。
早贄となり、もう動かない妖怪を見つめ、阿求は表情から殺意のみを拭い去る。
「最初の一撃で、敢えて閉じ込めるのみにしたその意図に思い至らなかった。それがあなたの不運でしたね」
今は亡骸となった妖怪は、影渡り。その名の通り、影と影を渡り歩くことができる妖怪だが、強い個体でも影を渡れる距離は十メートル程度で、普通はそれよりも短い距離しか移動できない。
それを記憶の高速検索から把握した阿求は、長槍を具現化するための魔法陣を妖怪が逃げられる範囲をカバーするだけの大きさにで、事前展開していたのだった。
妖怪のことを知ることで、自身に降りかかる危険を回避する。まさに、御阿礼が求聞持を残すことにした理由、その体現だった。
無用な殺生は、ないに越したことはない。それ故に阿求は、妖怪を捕縛するに留めていた。しかし、それをいいことにこちらに危害を加えるような相手に遠慮するほど、阿求は甘くなかった。
「それで、一体どうやって…」
「そこか!」
何事もなかったかのように、レミリアは会話を再開させようとしたのだが、またしても何者かに邪魔をされた。
声は頭上から降ってきた。ついで、声の主も降ってくる。
取り逃がした妖怪だろうか。
阿求は反射的に、路地から大通りに出た。狭い路地は立ち位置次第で簡単に追い詰められてしまう。気配は一体のみ。阿求は振り返りざまに右手を掲げる。掌の先に魔法陣が浮かび上がり、真紅のクナイが散弾のように放射。路地裏の人影に向かって飛ぶ。
人影の手の先で何かが閃く。直撃コースのクナイはすべて打ち落とされた。さらに影が大通りに躍り出る。高く跳躍しながら上段の構え――手には剣。
接近戦!
阿求自身は力がないため、自分で受け止めても押し切られる。とっさに先程と同様に地面から槍を生やして防御・迎撃をしようとして、お互いに相手が誰なのか気がつく。
「!? 慧音様!?」
「あ! 稗田の!」
気づいたはいいが、阿求の術式は既に発動し、足元に円と正三角形で構成された魔法陣が展開しているし、慧音と呼ばれた者は既に刃を振り下し、膂力に重力加速度を上乗せした重い一撃を既に放っている。両者とも動作を停止することは出来ない。
阿求に向かって振り下される斬撃を、阿求の足元――正三角形の頂点から生えた二本の槍が交差して受け止める。槍は軋るが重い一撃に耐えた。それだけに留まらず、残りの頂点――慧音の背後から更なる槍が伸びる。
その気配を察して、慧音は背後を見もせずに左手を背後に向ける。その手元が光を放つと、そこには輝きを放たんばかりに澄んだ鏡面。具現化した鏡は、槍を、まるで光か何かのように反射させる。
「ずいぶんと斬新な挨拶だな」
「それはお互い様というものですよ、慧音様」
具現化させた剣を虚空に返し、困惑の表情を浮かべる慧音に、阿求は苦笑で返しておいた。身体が弱いことでも有名な稗田阿求が、妖術を操って守護者を迎撃するなど、説明するにしても、一言、二言では済まない。
「色々と問いたいところだが、一番重要なところからだ。結界を破ったのはお前か?」
慧音の視線は、日傘を片手に屋根に坐る――少なくとも見た目は――少女に向けられた。レミリアは目を細めると、口を開く。
「それではダメね」
「何?」
「詰問するのなら、推理したトリックや動機を交えながらでないと。出来れば証拠の品もほしいところね」
足をブラブラとさせながら、レミリアは言い切った。
「そんな物言いでは退屈だわ」
「…何者だお前」
否定するでも肯定するでもなく、ただ退屈だとだけ言われても、リアクションに困る。助けを求めるように阿求に向き直ると、彼女は くすくす と笑っている。
「レミリアさんも意地が悪いですね。結界を破ったのは彼女ではありません。それにしても慧音様、すごい顔していますよ」
いつも気勢のよい慧音だけに、困惑し混乱しきった顔は珍しく、どこか笑いを誘う。
「こちら、レミリア・スカーレットさん。吸血鬼で紅霧の異変の首謀者です」
阿呆のようにあんぐりと口を開ける慧音。
レミリアは屋根からふわりと降りると、優雅に一礼して見せた。ついで、言葉を紡ぐ。
「人里にも、案外奇妙なのが揃っているのね」
慧音は、レミリアの一言をあまり聞いていなかった。それ以前に阿求の紹介に目を見開いて絶句している。
「こちらは、里の守護者である上白沢慧音様」
レミリアの目が、ますます細められる。
「里と子供一人を天秤にかけて、子供一人に傾く守護者ね」
「そうでした。そのお子さんは無事だったのでしょうか」
しばらく身じろぎ一つできないでいた慧音だったが、レミリアの辛辣な言葉と、阿求の問いに引きずられるようにして我に返る。
「…ああ、攫われた子の話だな。大丈夫だった。置き去りにされているところを発見しただけだから、相手の妖怪の姿は確認できなかったんだが。子供は無事だ」
言いながらも、胡乱気な視線をレミリアに向ける。強大な種族であり、さらに最近異変を起こし、物言いも人を食っていれば、慧音の態度がそうなる事も無理はなかった。
「それで、おまえは一体何をしに来たのだ」
棘のある慧音の言葉に、レミリアは処置なしといったふうに首を振ると、さらなる思考停止爆弾を落としにかかった。
「何というわけではないのだけれど。里が大変なことになっているというから、巫女に代わりに」
「は? お前が!?」
決して嘘ではないが、いい加減慧音も間に受けすぎだった。そのためレミリアにからかわれ続けるのだということを、本人は気付いていないようだった。
「あぁ、それは本当のことのようです、一応。結果的に里を守っているようなことをしています」
「そういうこと。それにしても、あなたがそんな物言いをするの? さすが、正確な表現を求め続ける稗田の者というところかしら」
実際には、どの行為をとっても里のためではないので、阿求の表現は正しすぎる。ただし、阿求自身は幾度となく助けられている。その身でそんな発言ができるのだから、やはり心臓に毛が生えているかもしれない。
「いろいろ確認したいこともあるのですが、とりあえず結界の方はどうなっています」
ここで落ち着いて立ち話をしていて良いものか、気になるところであった。とりあえず、里に侵入した妖怪は捕縛したものの、いつまた妖怪の侵入を受けるか分からないのでは、気も休まらない。
慧音は里を守る守護者だ、結界についてもどうにか出来るだろうと、思っていたのだが。期待とは裏腹に慧音が顔を曇らせる。
「どうもこうも、破られたままだ」
「はい?」
「あれは、私の手には負えない代物なんだ」
阿求は重いため息をつくしかなかった。
「慧音様の手に負えないということは、やはり巫女待ちですか」
「申し訳ないが、そういうことになるな」
慧音は本当に申し訳なさそうに、目を伏せる。力を充填することはできるんだがな、と付け加えた。
結界を支える護符は、うちに力を蓄えた状態で初めて機能する。結界を構築すると、充填した力が少しずつ減っていくため、定期的に力の充填を必要とする。
その力の充填を行える慧音にも、結界の張り直しともなれば勝手は違うようだ。
「巫女以外にもう一人、結界の張り直しができるものに心当たりはあるのだが…神出鬼没すぎて望みは薄い」
慧音は肩を竦める。
阿求には、その心当たりが誰なのか、何となく分かった。確かに、彼女は住む場所ですら定かではなかったはずだ。
「まぁ一応、薄くなった結界の周囲にいた妖怪は追い散らしたし、その周囲に護符による結界を展開はしている。通常の結界の強固さと柔軟さからいうと、気休め程度だろうが、当面は安全だろうさ」
とりあえず、事態は確実に収束へと向かっているようだ。
ここから大通りを少し歩くと、茶屋がある。とりあえず、安心した阿求はそこに向かうことを提案した。
屋内にいても良いのだが、非常事態になったときに気づきにくいため、慧音も屋外がいいとの意見だったのだ。
立ち話もどうかと思ったし、運がよければお茶も出してもらえるので、そこの店先の椅子を借りるべく歩を進めながら話も進める。
まずは阿求から、ことの顛末を伝えた。
終始、冷静に話を聞いていた慧音だったが、やはり阿求は驚くべきことをやってのけていたらしい。
「その五体同時に捕縛って言うのは、何なんだ?」
「いえ、ですから別々の場所にいる妖怪をですね…」
阿求が重ねようとした説明をさえぎるように、慧音はかぶりを振る。
「そういう意味ではない。どうしたらそんなことが可能なのかと言うことだ」
レミリアも酷く驚いていたことを阿求は思い出していた。
「え~と、そんな大したことはしてないですよ?」
といいつつ、何をしたのかを思い起こす。
「とりあえず、妖怪の所在を把握したんですよ。結界を破る力を考慮して妖気の強さから。とりあえず、三次元空間上の座標で概略の所在が把握できます。波長は概ね個体別なので、互いに近接していても、個体数はそう間違えませんし」
「あら、あれじゃないかしら?」
さらに記憶を手繰り寄せた。
「後は、自分のいた場所から、妖怪の所在地までの道のりを、記憶を頼りに三次元の地図として起こします。その地図と、想定した妖怪の座標と照らし合わせて、ありえない位置にいないかと――例えば塀や木にめりこんでいないかですね――、妖気の減衰する要素がないかを確認しました。減衰があると、妖気の発生源の方向は間違えないにしても、距離に誤差が出てしまいます。位置同定するには問題になりますから」
「ねぇ、あれではないの?」
曖昧な記憶を頼りでは、この時点で矛盾のない地図を構築できないだろう。求聞持の力があるからこその離れ業であることは間違いない。
「後は、その地図を元に死角から当たるように経路を決めて、檻を放ちました」
「死角?」
「上空にいるなら下から。そうでなければ頭上から。です」
阿求は記憶を手繰る思考を停止して、二人の顔方を向いた。
慧音には、更なる呆れの色が上塗りされている。
「合理的だな、色々と」
一方のレミリアは、後方――進んでいる方向と逆を向いていた。
「あら、どうしました?」
「だから、目指していたのは、あそこじゃないの?」
問われて、慌てて周囲を見渡すと、確かに行き過ぎている。
「さっきから声を掛けていたのに」
「あ、申し訳ありません。話に夢中で」
慧音はさらに、そんな阿求たちのやりとりにも気づかず、先へと進んでいた。
夏空は気まぐれだった。何処からか雲が流れ、太陽を覆い隠している。とはいえ、雲はそれほど厚くも無く、レミリアは未だに日傘を手放せないでいたが。
日本茶を傍らに置きながら団子を頬張りながら、レミリア。
「偉大なるは求聞持の力、ね。とはいえ、それも材料に過ぎなくて、その情報から結果を導いたのはあなたの頭脳。本当に人間かしら」
その横で湯飲みを掬うようにして持ちながら、慧音も頷いている。
「あれは人の所行を超えていた」
「お二方とも、酷いです」
お茶屋の店先に腰かけての会話である。
三人が訪れると、気を利かせた店主が、お茶とお団子を差し入れてくれた。面子に慧音が居たことが大きいだろう。がんばってください、と声援を残して奥に下がって行った。
「いや、本当に凄まじかったのだ」
慧音の発言には、まるで見てきたかのように実感がふんだんに盛り込まれていた。というより、慧音は里に戻ったときに、偶然、妖怪をとらえる瞬間を目撃していたのだ。
「妖怪が家の扉を破ろうとしていたところに出くわしてな」
妖怪も馬鹿ばかりではない。人が外を歩いていなければ家にいる、くらいの発想は当然できる。扉を破るにしてもそれなりの労力を要するため、外を人が出歩いていれば、当然そちらを狙う。
慧音が出くわしたのは、そんな妖怪が家に侵入しようと試みている場面だった。
これはいけないと思い、妖怪を止めようと足を向けた瞬間、光が爆ぜた。
「最初は落雷でもあったのかと思ったんだが」
次に妖怪を見たときには、既に妖気の檻に閉じ込められていた後だった。
こんな力の持ち主が、里にいるのは一大事、と妖気の残響を追って、阿求の元にたどり着いた、ということらしい。
「それで、私が襲われることになるんですね」
阿求はため息を一つつく。妖怪ならいざ知らず、里の守護者に命を狙われるとは、流石に思いもしなかった。
阿求が命を狙われる羽目になったのも、それでも無事でいるのも、『使い魔』を十分以上に使いこなしているからに他ならなかった。実際、魔力の放出以外にも、先に阿求が話した記憶から三次元の地図を展開したことにしても、『使い魔』の演算能力を使用した結果だった。
それを自分の一部のように使いこなすということも、非凡な能力だった。と言うのも。
「使用中に『使い魔』を作り変えてるしね」
「は?」
「だって、非効率だったんですよ。細部をいい加減に構築しましたね」
「だって、面倒だもの」
「…おいおい、阿求は術式なんて知っているのか」
『使い魔』は魔術で生成されたわけで、当然術式から成っている。
慧音自身にしたところで、さほど多くを知るわけではない。ただの――かどうかは異論もあろうが――人間に過ぎない阿求が知っているはずもないと、慧音は思っていた。
が、
「知っていますよ。力がないから使えないだけで」
「そ、そうか」
いとも簡単に、阿求は答える。
「術式なんて、ある程度は定石の上に成り立っているのです。そこをつかんでしまえば、そう難しい話ではありません」
慧音は呆れて、何も言う気になれなかった。稗田の人間の知識量は慧音の想像をはるかに超えているようだった。下手をすると、遥かに永く生きている慧音よりも多くの知識を手に入れているかもしれない。それを想像すると、戦慄が走る。
「だからといって、『使い魔』経由で私まで制御するのはどうかと思うの」
「あ、あの魔力抽出の部分、レミリアさんに接続されていたんですか」
道理で書き換わらないはずだと、阿求は気恥ずかしそうに頬を掻いている。
しかし、仕出かしたことは、そんな仕草で済むようなことではなかった。
「…魔力の出力がぎりぎりだったので、ちょ~っと魔力源を拡張しようとしただけなんですよ?」
種族柄、凶悪なまでに頑健なレミリアだから、フローバックした意識に思考中枢を灼かれても何事もないように生きているが、ほかの生物が同じように脳をやられたら、必殺の一撃になるだろう。
可愛く言い訳してみても、ダメなものはダメなのだった。
「なかなか刺激的な体験だったわ」
「あははは…」
にっこりと微笑むレミリアの口元に、鋭い牙を見た気がした。
「私たちの方は、そんなわけです」
空気を変えるべく、阿求は慧音に話すよう促した。
「ああ、私か。私は、そもそも、間違って結界の外に出てしまった、子供を攫った妖怪を追いかけていたのだが…」
「え、なんですって? 間違って外に出た?」
話しはじめから腰を折られて、慧音は怪訝な顔をしつつも阿求の疑問に答える。
「ああ。本人はよく覚えていないといっていた。どうも友達と遊んでいて気づかずに外に出たらしい。一緒に遊んでいた子供が血相変えて私のところに来て…どうかしたのか」
レミリアと阿求が、互いに顔を見合わせているのを見て、慧音が言葉を切る。
「結界が破れたのが最初ではないのですか?」
「いや、私が里を出たときは、何も異常はなかった。でなければ、流石においそれとは外に出ないさ」
レミリアと阿求は再び顔を見合わせる。
阿求の頭にあった展開と、少し話が違ってきている。そのあたりの成り行きは確か、千恵に聞いた話だったはずだが。ただの勘違いだろうか。
と、そこで阿求は、千恵の姿がないことに初めて気がついた。
「あ、そういえば千恵さんはどこにいるのでしょうね。もしかして、置いて来てしまいました? まぁ、状況から言って、妖怪に襲われたということはないでしょうけど」
「少なくとも、襲われているところも、死体も見ていないわ」
「里の中にいる以上は、もはや心配する必要はないだろう。千恵…何処かで聞いたことがある名のような気がするが」
慧音は、なにやら記憶を辿っている。阿求の方は頭を切り替えた。
「話を戻しますが。つまり、結界が破れた理由が分かっていないということですか」
千恵のいい間違いか、記憶違いかは分からないが、ともかく子供を攫った犯人と結界を破壊した主は別の人物らしい。
しかし、そうすると一体誰が結界を?
慧音が主犯の妖怪を既に退治していて、結界を修復すれば事態は収束、などと思っていたが、どうも少し甘かったようだ。
慧音もとりあえず記憶を辿る作業を中断し、現実に戻る。
「残念ながらその通りだ。最初に阿求を襲ったのも、結界を破った主かと思ったからだ」
「だからって、いきなり襲うのはどうかと思うけどね」
暴君であるところのレミリアに、そんなことを言われ慧音も思わず言葉に詰まる。
「…仕方ないだろう。不意でもつかない限り勝てそうもないと踏んでいたんだから」
その発言は、阿求にとっては意外極まりない話だった。随分な過大評価だと思ったが、慧音の表情は随分と堅い。
投げかけるつもりの言葉を思わず心に仕舞込んだ。その代わりに、傍らの吸血鬼から言葉が飛ぶ。
「ところで結界は、人の手に触れられるのかしら」
「ああ…可能だ。が、通常は無理だ」
慧音の回答に、阿求が眉根を寄せる。レミリアは小首を傾げて続きを促す。
「結界の呪符自体は人に対して何も影響を与えない。だから触れること自体は何も問題はない。ただ、悪戯でもされたら堪らないからな、呪符自体は別の結界で保護と隠蔽をしている。だから、里の人間には場所すら分からないはずだ」
慧音は、さらに続ける。
「当然、力のあるものには分かるが、そう多くはないし。そういう人間は、重要性を理解している。大体、人間が触れられるとはいえ、護符自体はそこに込められた力の作用で、そこから動かせないようになっている。多少力を持った人間が触れたところで、結界が破られることなどありえない」
「大体のことには、例外が存在するのだけれどね」
そう、レミリアが呟いた瞬間。
――。
「?」
「!?」
「今、何か違和感がありませんでした?」
阿求がきょろきょろと辺りを見回す。よくは分からなかったが、何かが変化するのを感じた。『使い魔』を使って調査するにしても、『何かの変化』などと曖昧な入力をしようものなら、局所的な気圧の変化や温度分布の時間変動などまで拾ってきてしまう。うまく要因の絞込みをしないと多すぎる情報に振り回されるだけなのだ。『使い魔』は便利な道具ではあるものの、万能ではなかった。
「まずい、結界が破られた!」
言うが早い、慧音は阿求とレミリアの手を掴むと、一目散に飛び出した。
「え、ちょっ!」
「あら、わたしまで?」
「ついでだから、付き合ってもらう」
慧音は目の前の事態で頭がいっぱいのようで気がついていないが、手を引いたまま飛ばれると、片手でぶら下がっているのと変わらない状況になり、肩が痛くなってきた。阿求はどうにか自分で――当然『使い魔』は使って――体を安定させた。
レミリアは既に自力で飛んでいる。
「あなた、そんな猪突猛進で守護者なんてデリケートな仕事が務まるの?」
「ここ百年近く、問題なく務めていると思うが」
「ここ百年くらい平和だものね」
そうこう話しているうちに、慧音が高度を落とす。どうやら、目的の場所――おそらく、破られた護符のあった場所に到着したようだ。
阿求は慌てて膝を曲げ、正座に近い格好になる。そうして着物の裾を抑えるようにしないと、着物がまくれ上がって大変なことになると悟ったからだった。ほかの二人の衣服は不思議なことに、そうなりそうもなかった。針金でも入っているのだろうか。
これ以上ないほど切実で、どうでもいい思考をしつつも無事着地をして、とりあえず周囲を見回す。遥か前方には森、今通り過ぎてきた後方には民家があるが、それも百メートルくらいは離れた場所である。左手は、背の低い草むらがあり、木がまばらに生えていた。右手には、大きな口。
口?
阿求の頭なら、一口くらいで丸呑み出来そうなほどの大きさ。短剣のような鋭い牙が無数に生えている。上顎がまるでヤスリのような硬質の棘に包まれていることまで、はっきりと確認してしまった。
「……!」
着地直前までは、影も形もなかったはずの場所に突如現れた『何か』に、驚いている余裕もなかった。声も出す余裕もなかったが、反射的に阿求は右手で払うように動かす。体が動いたことだけでも、奇跡に近かった。
咄嗟の無意味とも思われる行動に対する結果は、無情。
阿求の手から力が放たれ、一瞬にして収束。手の延長線上に伸びる紅く鋭い刃と化した。水か何かを切るように、刃はほとんど抵抗もなく妖怪の体に食い込む。阿求に向かって突き出された上顎と下顎は蒼い悲哀の滴をまき散らし、泣き別れた。
「うぇえぇ」
肉を切り裂き骨を断つ感触に肌が泡立つ。とっさの行動とはいえ、自身の選択に後悔しても後の祭りだった。が、それどころではない。口は運動慣性もそのままに、阿求に襲いかかろうとしていた。
阿求は刃が受ける僅かな抵抗を軸にして、回転するようにして口の側面に回りこむように動く。目の前を、阿求が断った断面から青い血の尾を引きながら阿求の脇を掠め、そのままその場に崩れる。大きな口には胴体や目すらもなく、本当に口だけだった。回避まではよかったが、バランスを崩してその場に座り込む。
返り血が頬を点々と彩る。幸い正面から大量に被る事もなかったが、手に残る感触とその臭気と相まって気分が悪い。
阿求は、『使い魔』を使うという思考を一切していない。手を払う動作も単なる反射的な行動だったのだが、その動作に合わせて『使い魔』が勝手に妖怪を滅ぼした。実際はどうだか分からないが、『使い魔』には阿求を自動的に守るような機能が織り込まれているのかもしれない。
レミリアに聞いても、素直に答えてくれるとは思えないし、本当にそうか、試してみる気にもなれなかったが。
「大丈夫か?」
「流石に…きついですね」
慧音が、気を使って声を掛ける。
阿求の声も震えが隠せない。懐から手ぬぐいを引き出して、顔を拭う。血の色を確かめて顔をしかめると、懐に戻そうか一瞬だけ迷い、結局手ぬぐいを放り投げると空中で燃やした。そんなことが自然に出来るほど、いつの間にか阿求は『使い魔』に慣れていた。
「それでも、死んだ方がましとも思えませんけど」
今し方屠った妖怪が来た方向に気配。そちらに視線をやると、そこには人影。
「…え?」
その人影を認めた阿求は小さく呟きを漏らす。
「千恵さん?」
その言葉に、慧音も目を見開く。
「千恵…そうか、お前か!」
紙切れを持った人影――千恵も驚愕の表情を浮かべてこちらを見ていた。ただ、その驚きは阿求のものとは異なるようだった。
「あの至近距離から襲われても対応できるなんて、化け物ね」
そんな呟きが、いやにはっきりと聞こえた。
その言葉は、阿求の心を小さく穿つ。穴から覗き見えるのは、過去の光景。
「何を言って…?」
「壊れてしまえばいいのよ。みんな」
笑顔でそれだけを言い残して、千恵は紙切れを手放す。それらは地面に落ちる前に千々に千切れる。そのまま地面に落ちるかと思いきや、紙切れは落下途中で留まり、千切れ続けた。
否、破片は増え続けている。あっという間に元の紙の十倍に近い紙片の量となるや、ゆらりと阿求らに向かい来る。
視界を埋め尽くすほどの紙片――それがひらりと阿求の頬をかすめると、紙片が朱に染まる――頬を薄く切り裂かれていた。
一見脆弱な風景――そこに込められた殺意。
速度はさほど速くはないが圧倒的な物量に、剃刀を思わせる鋭さが宿り、恐怖の圧力に体を縛られる気すらした。その向こうで千恵はどこかに去ろうと背を向けているのが見えた。
「逃がさないよ」
阿求の後方から、声。
そちらを向く前に、声の主が殺意の空間へと真正面から突っ込む。
何もないかのように紙と紙の間をすり抜けて、物凄い勢いで前へ前へと進み続ける。たまにリボンや服の裾がかすめるが、体には一切触れさせることなく、紙で埋め尽くされた空間を抜け切った。
「ぬるいぬるい」
千恵は、一歩先に信じがたい跳躍を見せてその場を去ろうとするが、レミリアはさらに凄まじい加速で千恵に追いつき追い抜くと、振り向きざまに鋭い爪の一撃を見舞う。
千恵は、その超速の一撃を右手の一閃で弾き飛ばし、逆の手から刃のように硬質化した呪符を突き出す。レミリアは首を振って躱すも、その頬に紅く一筋。レミリアが刹那、目と口で真円を描くが、即座に肉食獣の笑みを浮かべる。
一方の千恵は、右手に握る呪符が許容以上の衝撃で紙くずに変わっていることを認めると、舌打ちせんばかりの表情で、呪符を振り捨てる。
歓喜を全身で表現するかのごとく、レミリアが猛攻を見せた。一撃で防御用の結界符を使いものにならなくするレミリアの膂力は、やはり常識外れだ。そうそう真正面から受けてもいられない。千恵は、新たな結界符を取り出すと、レミリアの爪や爪先の攻撃を逸らすようにして、符への負担を減らす。それとともに、発光呪符を弾幕のようにばらまき、レミリアの視界を遮る。その機に側面に回ろうとするが、レミリアは逆にその動きを読みきっていた。
結果的に、逆に真正面に回りこまれ、一撃を正直に受け止める羽目になった。反射的に呪符に宿る結界を最大出力で展開すると、さらに腕を交差させて衝撃を受け止めるが、体を支えきれずに吹き飛ばされた。レミリアが狙った通り、剃刀のごとき紙が舞う空間に突っ込む。千恵自身が切り裂かれてはたまらないと思ったのだろう。千恵が突っ込む前に紙片は力を失って地面に落ちた。
「Spell Break」
レミリアは、にやりと微笑む。
その間、阿求も精いっぱいの集中力を以って、弾幕を回避していた。
当然のようにレミリア達の攻防を見ている余裕などなく、紙片に込められた力が失われ地面に落ちるのを確認すると、その極度の緊張感から解放され、ほっと息をつく。慧音の方は、まだ余裕がありそうだったが、阿求はもう限界である。
「あの方たちは、普段からこんな疲れることをしているんですかね」
「まぁ、慣れなんだろうな」
傍目から見ていると、綺麗、という印象しか残らないほど優雅な決闘方法ではある。しかし、その最中にいるものにとっては、そうそう気楽にはしていられそうもなかった。
驚くべきことに、妖怪の胴を引き裂く一撃を、千恵はそれでも受けきったようで、素早く身を起こした。
阿求はそれを認めると、素早く術式を展開し、檻を発生させる。馬鹿の一つ覚えのようだが、既に構築済みの術式でないと高速展開できなかったし、なにより事態がよく分からないため逃がすことも危害を加えることもできない。
殆ど事態は把握できていなくても、判断は的確。
しかし、千恵の動きが予測より少しだけ早く、構成した檻で完全には捕らえきれなかった。右腕と右足が、格子の隙間に挟まるような形で、一応は拘束した形になっている。
阿求は、その状態で檻のサイズを少し小さくする。隙間を狭くすることで、拘束を僅かに強くした。
「それで、事態が本当によく分からないのですが。何故私が襲われないといけないのでしょう」
「……何故も何も、結界を破ったこと知られちゃったし」
「え? あなたが?」
「え? 『あなたが?』って…」
阿求は言葉を失っていたが、それは千恵も同じことだった。慧音も、一連のやりとりに淡い驚きの表情を浮かべて、声を出せずにいた。何とも不自然な沈黙が辺りを支配する。
「とりあえず、わたし以外にはばれていなかったわよ。結界を破ったことは」
そこに口を挟んだのは、いつの間にか阿求の隣に戻ってきていたレミリアだった。吸血鬼の聞き捨てならない台詞に、阿求は思わず体ごと振り返る。
「ということは、レミリアさんは知っていたんですか!?」
「予想はしていたわ」
さらにあっさりと返ってくる返事に、阿求はずずいとレミリアに迫る。
「いつから?」
「割と最初から。疑うだけなら、あなたと会う前、初めて千恵を見た辺りからかしら」
「そんな!」
阿求から悲鳴にも似た言葉が飛び出した。
ありえない、そう思いはしたが驚愕のあまりそれ以上続けることができなかった。
「まぁまぁ、落ち着きなさいな」
驚きのあまり呼吸もままならない阿求を宥める。
「わたしの種明かしは別に後でもいいわ。今は犯人が自供したのだもの、次は動機の告白よね?」
レミリアは、千恵の方に向き直る。「よね?」などと同意を求められても、どう返していいものやら、さぞ困るだろう。普通、はいそうですね、などと言って話す人間はいない。
千恵も、数学の難問でも突き付けられたように、眉間に皺を寄せる。
しかし、阿求は漫才のようなやりとりのおかげで、とりあえず落ち着きを取り戻していた。疑問を後回しにされたこと自体は面白くないので、不機嫌ではあったが。
ただ、落ち着けなかった者もいた。
「この悪魔のノリはともかく、私もその理由が知りたいものだな」
里を守る守護者様だった。そばにいる阿求が逃げ出したくなるほど、怖い。
「慧音様、殺気立ちすぎです。というか、ほんと、怖いからやめて」
と、阿求が袖を引くが、慧音はそちらを見ることもしなかった。
「何故だ!」
ものすごい剣幕のまま、慧音はなおも千恵に詰め寄る。
しかし、千恵は慧音の方など見てはいなかった。千恵の視線の先には好奇心に満ちた瞳。今日、博麗神社でメイドに見せていた、あの表情だった。本気で動機の告白を期待しているらしい。
千恵は、しばらく押し黙っていたが、仕方ない、と言うように溜息を一ついて言う。
「異変を起こすのに絶好の機会だったんだもの」
「異変を、起こす?」
何故?
「まさか、子供が慧音様をおびき出す囮になるとは思わないし」
慧音が追いかけた子供のことだろうか。
「まさか、攫ったのがお前なのか!?」
一瞬迷ったような間を置いたが、千恵の回答は、首肯。
「結果的には、違いはないわ」
何故?
「目的はなんだ?」
「人攫い引き継ぎについて? さっき言った通り、慧音様を里から引き離せそうだったから」
「そっちじゃない。里の結界を破壊したことの方だ」
千恵は、慧音の真剣な表情を見て、不意に表情を変える。
レミリアが時折浮かべるような、悪魔的な笑みを千恵も浮かべると、こう告げた。
「ないの、そんなもの」
「な?」
「ないことはないけれど、そんなことはどうでもいいの。それを起こすことこそが肝要なんだから」
理解不能。
表情こそ人を食ったような笑みだが、千恵には冗談を言っている気配など欠片もない。真面目とも言える言葉だった。
しかし、慧音の、阿求の耳には異国の言葉のようでもあった。何を言っているのか、まるで理解できなかった。分かることは、認識の差異がどこかにあるということだけだった。
「一体何を言って…」
「それ以上の問答に、益はないわ」
そういって、慧音の発言を遮ったのは、レミリアだった。
「あなたや阿求には、それ以上の理解は出来ないわ。人と、そうでないものの断絶というやつね」
「いえ、あなたはそうだとして、千恵さんは……まさか」
そこまで言って、阿求は自分の思い違いを理解した。否、理解はしていない、出来ない。しかし、そこが齟齬の始まりであるとしか思えない。
「…千恵さんは、人間ではないと?」
「大当たり、ではないけれど、ハズレではないわ」
レミリアは、悪魔的な笑みを浮かべる。
「彼女は、もはや人ではない」
覚悟していたとはいえ、実際に言葉として聞く衝撃たるや。思わず悲鳴に似た声が漏れる。
「そんな!」
「かといって、妖怪になったわけでもない。そこの守護者がいい例ね」
視線は、千恵に向き直り戸惑いを顔中に浮かべている守護者、慧音を指していた。
「獣化の能力を――好き好んでかは別にして――得たことで身体的にはとても人間とは言えないけれど、精神の方はこれでもかというほど人間くさいものね。千恵と丁度真逆のあり方だわ」
「な…!」
慧音は驚愕の表情を浮かべて固まる。自分が獣人であると言う話はした覚えがなかったからだ。しかし、阿求はレミリアの力を知っていたため、驚くことはなかった。運命を視ることが出来るなら、把握することも難しくないだろう。
分からないのは、千恵についてだ。
「よく分からないのですが、千恵さんは、妖怪になったつもりでいる、ということですか?」
「なによ、その言い方!」
阿求は今一つ合点が行かないといった表情で、レミリアに尋ねているが表現があまりに馬鹿にしているように聞こえたのだろう。千恵に鋭いツッコミをもらっていた。
「ストレートで的確ね」
レミリアはそのやりとりが愉快でたまらない、といった感じで上機嫌だった。
「でも、妖怪という存在自体が、思い込みの産物と紙一重なのだもの。強い思い込みによって自身の中に魔を見出したって不思議はないわ」
「では、私も妖怪になれます?」
「あなたの意思力なら、或いは、ね。でも、妖怪として生きていくには、決定的に力不足だわ」
阿求は取り敢えず、千恵の思考を読み解くために細かい点には目を瞑って納得することにした。しかし、引き合いに出された慧音の方が理解に苦しむという風に顔をしかめている。
「自身がそういうあり方の癖に、我侭よねぇ」
慧音も、レミリアにだけは言われたくなかったに違いない。
まず、里を危険に陥れたのがよりによって里の人間だという事実そのものが、慧音にとっては一大事だろう。これからどうするべきかを思案すると頭の痛い問題だろう。
しかし、慧音は何か別のことに思いを巡らせているようにも思えた。
そう、例えば、だが。
「この千恵という子について、何か知っていることがあるんじゃない? 例えば、心身にダメージを負ったような類の」
レミリアが、そんなことを慧音に問いかけた。同じ考えに至っていた阿求も、思わず頷く。
「…昔事件があった。とても知っている、などということは出来ないが。私がこの目で見たのは、事態が終局した後だけだったからな」
千恵は、両親と共に里の外れ、近づくことが禁じられている結界のほど近くに住んでいた。外の世界よりは緩やかに、しかし確実に人が力を失っている幻想郷の中でも強い力を残している一族で、その力を重宝されていたという過去に囚われている一面があった。
「昔はその力のおかげで、里が救われていたこともあった。まさに神仏に等しい扱いだったことさえある。ただ、今はもう平和な時代だからな。力があってもなくてもそれほど差はないんだ」
偉大なる賢者の業績がために割を食っている、珍しい一族と言えた。
「だが、千恵の両親は――それ以前の代がそうだったように、力があることを誇りに思うと同時に鼻にかけることが多かったようだな」
千恵の両親は、周囲とうまくやっていけるほうではなかった。もともと、そういったことが苦手だったのかもしれないが、能力に対する自負が周囲との不仲に拍車をかけていることは傍目から見て間違いなかった。
実際、危険だから近づかないように言われている結界の傍に居を構えたことも、人間がうまくいかなかったことと、自分たちの力に対する自負が理由だったのだろう。
「力のある自分たちなら大丈夫だと思ったんだろうな。だから、悲劇は起こった」
慧音は、詳しい経緯はわからないが、と前置きし、再び口を開く。
「千恵の一家が妖怪に襲われた。場所は、千恵の家のすぐ近くの、結界の外側だった。妖怪が結界を超えた形跡はなかったから、家族そろって結界の外に出るようなまねをしたのか。でなくば、結界の外に誘き出されたかだ。
結果として、母親が妖怪の餌食になり、父親が妖怪と刺し違える形で死んでいた。生きていたのは、千恵だけだった」
それは、雨の日のことだった。
慧音は、人が近寄らない結界の際を、いつものように見回っていた。里を守る結界は強力だが、それを維持するためには多少なりとも管理を必要があった。最たるものは力の充填で、それは別に毎日見て回るほど、頻繁に必要な作業ではないが、欠かすと面倒なことになるので、慧音の日課にしていた。
そんな折のこと、不意にざわめきが起こった。
何が、ということは難しい。自身の心という気もすれば、大気というのがピッタリ来るような気もした。しかし、何にせよ良い感じはしなかったので、神経を研ぎ済ませて、違和感の元を探る。
ひときわ大きな鳴動を感じて、慧音がその場所に駆けつけたときには全てが終わっていた。
人の手足、頭と、もう何か判別不能な肉片、赤と紫の血溜りが斑に地面を彩り、妖怪と人が頽れる惨劇の只中に、ただ佇む少女。表情は唯唯無。そこに存在すること以外の何も出来ないというように。雨が顔を濡らすが涙を流すことすら出来ないようで。
「放ってはおけなかった」
一人残された千恵の面倒を看るため慧音は千恵を連れて帰った。千恵は歩くことすら出来ず、持ち帰ったと言った方が正確な表現になりそうだった。次の日までは流石に一言も口を利かなかったが、その翌日になると、それまでが嘘か冗談のように元気を取り戻していたので、慧音はひどく驚いたことを覚えている。
「とても信じられなかった。たった二日程度で、何事もなかったかのような顔をしているなんてな」
念のため、数日間様子を見たが、本当に何も問題ないように思えた。千恵もすぐに家に帰りたいと言い出したこともあり、千恵は家に戻った。恐らく慧音の家には一週間居なかったのではないだろうか。
どうして、そうなったのかを慧音は理解していた。
「正面から聞く事は出来なかったが、千恵は事件のことをほとんど記憶していなかったようだった。あまりに衝撃が強すぎて、記憶に残らなかったのだと思っていた」
慧音は悩んだが、結局事件のことは話さないことにした。
「それが、良いことだとは思わなかったし、どうするべきか迷った。だが、無理矢理記憶を戻したところで、良い結果にはならないと思って、黙っていた」
慧音はそこまで言うと、かぶりを振った。
「あれから五年以上経つんだ。何故今更」
「それは、私に聞くべきことではないわ。本人に聞くことでもないと思うけどね」
そこで千恵が、唐突に話し始める。
「私がやったのよ」
昨日の夕飯の話でもするように。表情には幽かな歪み。
「私が、自分から母親を殺して、妖怪に差し出したのよ。自分の母親を、この手で」
自身の手のひらを、ただただ見つめる千恵。寂しげに微笑みながら、続けた。
「そんなことが出来る人間なんてこの世に居ないわ。そうでしょう? わたしという人間はこの世に居ない。居るわたしは妖怪という存在だわ」
その答えは、慧音の疑問には答えていない、誰の疑問にも答えていない。
しかし、話が少し見通せた者もいた。阿求である。
ある妖怪について思い至っていた。
眼光で以って人を催眠状態にして、操る妖怪の存在。
妖力による力ではないため、結界で弾かれることも、減殺されることもない力。ただし、有効な距離はそう長くはない。妖怪が結界の内側に入ってこられない以上、結界の際まで行かなければ問題になることはない。
実際問題として、結界によって能力自体が阻害されない妖怪は珍しくない。それ故に、里では結界に近づくことを禁じているのだ。
催眠状態にする際に、千恵を妖怪だと思い込ませたのかもしれない。
そして、千恵自身に力があったからこそ、千恵が母親を殺める事になったのだろう。
「千恵さん。この異変を起こす前に、力を使った覚えはあります?」
千恵は、阿求の唐突な質問に眉根を寄せるが、特に答えることに躊躇するような質問でもなかったためか、しばし考えた後、答えはすんなりと返ってくる。
「たぶん、ずっと使っていなかったわ。今日妖怪を討ったけれど」
やはり、と阿求は思った。
なんとなく、千恵は記憶とともに自分の力を封印していたのではないかと思ったのだ。千恵にとっては、それさえなければ自ら親を殺める事もなかったであろう、忌むべき物だ。慧音が言ったように、今の時代あっても持て余すだけの、無用の長物なのだ。
阿求はなんとなく事態の推移を予測していた。
「先ほど、結果的に人攫いをしたと言ったのは、そういうことなんですね」
阿求は言葉を連ねる。
「最初に攫った妖怪を、あなたが倒した。攫われた少女を救おうとして」
阿求は推測を頭の中で組み立て、筋書きを考えた。
恐らく、引き金はその出来事なのだろう。
少女が妖怪に攫われたところを偶然見かけてしまった。
――家から出て、朝の市へ向かおうとしていた。ふと、横手を見ると、少女を抱えた妖怪が走り去っていくところで、それは、結界の向こう側の出来事だった。
咄嗟に後を追いかける。
――自分には力がない、そう思いつつも人を呼ぼうと考えるより先に、身体は結界を抜けて妖怪を追いかけていた。実際に妖怪に追いつけるのか、追いついたらどうするかは全く考えていない。
少女を救うために封印した力を無意識に振るった。
――どれだけの距離を追っていたか、いつの間にか自分より遥かに身体能力に優れる妖怪に追いついていた。その気配に気がついた妖怪の驚愕した表情が、視界に入る。
――炸裂。
振るってしまった。
――自分の中から力が迸り、頭の中に過去の記憶が溢れて溢れて妖怪の首が落ち血が溢れて記憶が埋め尽くされて混ざり合って滲んで溢れて零れて滲んで滲んで。
自分に力があることを再認識すると同時に、記憶が戻った。
――血に染まった手を見つめる。あの日と同じに。あの雨の日と。その前に妖怪を見た気がした。でも実際にアレをしたのは誰だ私だ誰だ私だ誰。
――乖離。
――変心。
――私は妖怪で姿を偽って人里にいたんだわそうにちがいない。
――だって、そうじゃなければ……。
「そのときに、記憶が戻った。いえ、戻ったというのは正確な表現ではないかも知れませんね。でも、過去を思い出した」
「え、あ。ああれ、わ私、そうなの? だって、え?」
目の前の千恵は、少女を救おうとした、という事実と自分の現在の思考のギャップに混乱しているようだった。無力な人間として考えても、力のある妖怪として考えても、連続した思考の中で処理するには、双方の行動は矛盾がある。
阿求は自身の推測が、当たっているとは思っていなかった。別に証拠があるわけでもない。すべては、阿求の作り話といっていい。
しかし、どんな目にあったにせよ、千恵の苦悩は阿求の想像が届く範囲の外だった。頭が記憶し切れないほどの衝撃など、阿求は今まで受けたことがない。
求聞持の力は、阿求の精神まで気にかけて動いてくれるだろうか。
考えると、怖いことになりそうな思考を中断し、阿求はさらに問いを重ねた。
「きっかけはともかく、慧音様が追いかけてきている気配を感じた千恵さんは、人攫いを引き継いで継続したというわけですか」
「まぁ、正確には見つかりにくいところに隠した程度なんだけれど」
離散的な記憶という苦悩から、一時的に抜け出せる問いに飛びついた千恵は、あっさりと答えた。
「それにしても、まさかだったわ。私のときには何もしてくれなかったのにね」
そう言いつつ、意味ありげに慧音を見る。その表情は既に妖怪の千恵のものだった。
慧音の肩が、びくりと跳ね上がる。
阿求が思うに、それは不可抗力だっただろう。詳しい経緯こそ分からないが、事が起こってから決するまでの時間はそう長くなかったはずだし、いくらなんでも常時里の端から端まで見張っているわけでもないのだ。突発的な事件に一瞬で対応できるはずもない。
しかし、それを仕方のないことだと割り切れていない慧音はだけが、痛みを感じていた。千恵もその気配を嗅ぎとって、そんなことを言っているように思える。
それはともかく、と阿求の思考は、千恵の行動を追いかける。
とは言っても、あとは慧音が戻る前に結界を破壊して妖怪を中に呼び込んでしまえば異変は成立、というわけだ。
「そうなると…どうして博麗神社に行ったのでしょう?」
こればかりは、阿求にも想像も出来なかった。
その言葉を受けて、眉根を寄せたのは千恵。
「それが私にも覚えがないの。気がついたら石段を登り終えていたわ」
おや、と思った瞬間に目の前に、レミリアがいたということらしい。
それこそ、本人も自覚していない部分では推測も出来ない。阿求としては、人としての意識が残っていたが故、といった所を希望したいものだった。
阿求は、どっと疲れが出て、ため息をつく。
まともに会話こそ出来ているが、千恵の内面が尋常でないことは、目の当たりにして十分すぎるほどに理解できた。俄かに信じられないという気持ちがあるのも確かだったが、現実は目の前の檻にとらわれて、確かにそこにある。
ふと、思い出す。
「そういえば、レミリアさんもその手の能力を持っている気がしましたが」
今ひとつ掴みどころのない能力ではあるが、運命を操るという力は、まさにこんな風に作用するのではないか、と思いたくなる。
「能力自体は否定しないし、結果的にそうなることはないとは言わないけれど、人の心を思うまま操れるほど、具体的な効果を狙って生むことは出来ないわ」
レミリアは、千恵が結界を破壊した犯人であることを推測していたという。それならば、そもそもの原因を作ったのがレミリアでは、と邪推してみたが、当然のようにそうではなさそうだった。阿求は、自分でもその可能性を信じていなかったし、レミリアにはそこまでする理由もないだろう。
そう思ってから、楽しそうだからという理由で、そういうことをしかねない相手であることを思い出したが、キリがないので取り敢えず思い出さなかったことにする。
邪念を振り払うと、阿求は再び千恵を見つめる。彼女は疲れたのか俯いていた。阿求が『使い魔』を通して千恵を視ても、妖怪と感じられるところはない。ただし、普通の人間とは異なるところを認めることは出来た。
「千恵さん、確かに強い力は持っているのですね」
「妖気ではないのよね。法力の類かしら」
本来ならいないはずの、結界を破ることが出来る存在という点については、得心がいった。
巫女や魔法使いまでとは行かないが、そこらの有象無象の妖怪であれば十分以上に対処できそうな力だ。
彼女ならば、結界の要となる護符を見つけることが出来るだろうし、妖気を持たぬが故、結界に弾かれることも無い。力が強いから、護符を破ることも可能かもしれない。
「レミリアさんは、だから千恵さんが怪しいと思っていたんですね」
「そういうこと。そう思って行方を常に把握していたから、三つ目の結界が破壊された場所に千恵が居ることも分かったの」
レミリアは自慢気に胸を張る。
「さて、どう解決するのかしら、この事件」
「犯人は分かりましたが、千恵さんをどうするかですよね」
二人は、守護者を見つめる。実際問題として、少女の身の振り方に関して、どうにかできる人物は慧音くらいのものだろう。しかし、
「もう済んだ事について、よく考えていられるわね。どうしようもないじゃない」
『私のときには何もしてくれなかった』が効いたらしく、暗く沈んだ表情で俯いている慧音を、レミリアは不思議そうに眺めるが、阿求はそれに対して、是非を言うことが出来なかった。
阿求とて、過去の出来事に対する後悔はある。しかし、阿求の場合は、過去の出来事は尋常でないくらい鮮明に残るため、あまり深く後悔することは出来るだけないようにしているし、割り切りを出来るだけするようにしていた。
そうでなくては、『稗田阿求』を生きていくことは難しい。
そういう意味で、実はレミリアの意見に賛成なのだが、人間としては、あまり内省がないのも考え物である。
自身の特殊と、人としてのあり方に、割と真剣に懊悩していた阿求は、ふと気づいた。
歌が、聞こえる。
否。
千恵の中にある力が、静かに歌うように韻律を刻むように鳴動していた。
阿求は、慌てて千恵の方を見やる。目を閉じ、何事かをつぶやいていた。鳴動は急速に大きさを増している。
阿求が事態を把握しきる前に、力が弾けた。
――ギィンッ。
鋼を折るように硬質の音が響き、千恵を拘束していた折が破片となり、消失した。
それを見たレミリアは、千恵を再度拘束する気がないのか、簡易結界ごと人間を吹き飛ばすような、強烈な一撃を見舞う。激しい衝撃が千恵の身体を吹き飛ばす。
そう見えた。
しかし現実には、レミリアの一撃は千恵に触れる寸前で止められていた。
「慧音様!?」
「何を!」
レミリアに組み付くようにして一撃を止めた慧音は、かぶりを振る。瞳には迷い。
「私には、人間を見捨てることは…出来ない!」
「まだ、そんなことをっ!」
慧音はほとんど力を入れてはいなかった。正確には、入らなかったのかもしれない。
レミリアが凄まじい膂力で慧音を振りほどき――否、弾き飛ばし、その場を退こうとする千恵を追いかけると、再度一撃を千恵に放つ。が、レミリアの怒りが却って威力を鈍らせ、千恵が一歩後方に居たため踏み込みが十分に効かず、さらに威力を弱めた。千恵はその一撃を結界で以って受け止めると同時に、その威力を利用して、後方に大きく飛び退る。
「じゃーね」
「させるわけないわ」
千恵は会心の笑みを浮かべたまま手を振り、そのまま撤退する。それを追い牙を剥いたレミリアが駆ける。
阿求も、二人を追いかけようとするが、動く気配を見せない慧音を認め、声をかける。
「慧音様!」
「! ああ、すまない。行こう」
「それにしても、あの檻を破られるとは思いもしませんでした」
「呪符使いは、そのあたりが厄介だ」
千恵が先ほどから幾度となく利用している呪符は、呪文を記した紙で、それ自体が魔術発動の媒体となる。
直接呪文を唱えて発動するのとは違い、呪符に呪文を記す必要があるため、準備に手間はかかるが起動の呪自体は簡単なため発動自体は早い。また、魔力を蓄積することが出来る種類のものは、時間をかけて魔力を蓄積すれば自身の持つ力以上の力を瞬発的に出すことが出来る。
特に罠や待ち伏という作戦で有効だが、呪符に記述した以外の呪文は発動できないため、制限は大きく、総合的な扱いも難しい。
「会話で時間稼ぎされたんですね」
千恵は、思っていた以上に周到だったようだ。恐らく、慧音に後悔の念を抱かせるようなことを言ったのも、彼女の狙いとするところだったのだろう。
千恵とレミリアを追っていたが、二人の追いかけっこはそう長くは続かなかった。
やはり吸血鬼の運動能力は、力があるとはいえ人間が競えるようなレベルではない。
数百メートルも行かないうちに千恵に追いつく。そこは、周囲に何もない随分と開けた場所だった。逃げる者には不利な空間だった。
レミリアは一足飛びで千恵の目の前に立つと、一片の容赦も無い一撃を放つ。
先に妖怪を屠り、千恵を吹き飛ばした一撃など比較にならないほどの苛烈な打撃が千恵を打ち据える。
バチィ――。
千恵に触れる寸前で一撃が弾かれる、レミリアの力と拮抗しそれ以上腕は前に進めなかった。
「…こいつ、結界の力を喰ったな!」
里を守る護符の力は、先ほどから千恵が使っていた結界の比ではなかった。
そこに感じるのは、あの巫女の力――しかし、それは稚拙な模倣。
レミリアの形相が、少女のものから怪物のものへと変貌していく。
「な、め、る、なぁ!」
膂力が結界の力を上回り、結界が消し飛ぶ。しかし、威力が減殺された一撃は千恵まで届かず、レミリアはさらに一歩千恵に向かって踏み出した。その一歩が刹那の時を要する。
その間に、溜められた力が放たれた。
鋭く唸る風が刃となり、レミリアに迫る。かに見えたが、急激にレミリアを逸れ、その手に持つ日傘を直撃。
「なっ!」
日傘は無残にも引き裂かれ、レミリアの意識が僅かに逸れる。幸いに厚い雲が出ているため、実害はほぼゼロ。しかし、意識を乱された分、一撃の威力が殺がれ千恵に届くまでさらに刹那の間。
遥か以前からそこに配置され、発動のときを待ちかねるように鳴動していた呪符に、発動の呪が放つには十分な時間。
「ぐっ」
間髪を入れず本命の術式が発動――千恵の右肩が弾け飛ぶ。
――。
確かに発動したはずの術式、その効果が現れる気配はなかった。訝しげな表情を浮かべるのは吸血鬼。
「…! しまっ」
気づいた。手元に日傘がなくともこの身が灼かれていない。
太陽の光がまったく射さないからだ。
それは、空に厚い雲があるから。
里を覆い尽くして余りある、雨雲が。
呪は、そこにたった一押しするのみ。
ポツリ、とレミリアの腕に雨粒が落ち、皮膚が溶解する。痛みが弾ける。
――っ、逃げ…。
一瞬にして、落ちる雨粒がその数を一挙に増殖させた。
土砂降りとなった雨が、吸血鬼の上に人間の上に獣人の上に人中の魔の上に、
容赦なく降り注ぐ。
「ぁっ」
雨を全身に浴びたレミリアが、その場に頽れた。
同時に、阿求が操っていた『使い魔』が解ける感覚に、阿求ははっと顔を上げる。跡形も無く消え去る感覚があった。
千恵も雨に打ち付けられ凄まじい激痛が走っているであろう右肩を押さえつつも立ち上がる。
「残念でした。油断し、たわね」
レミリアを一瞥し、荒い息をつきつつも、千恵が呟く。ついで数歩、慧音のほうに歩み寄った。
「守護者様、ありがとうございます。悪魔の手から救ってくださって」
最大級の皮肉に慧音も顔を歪めるが、実際に自分の行動を省みると何も反論は出来なかった。悔しげに歯噛みしても、慧音は手を出すことが出来ずにいた。
守護者と理由は異にするが、力のうえでただの人間となった阿求にも、最早手を出す術は無い。
「…なに、が、残念だったって?」
千恵の胸の真ん中から、赤黒い枯れ枝のようなものが唐突に生えていた。同時に聞こえるは枯れて掠れた声。
「っかぁっ…」
苦悶に歪む千恵の血に濡れた枝が引き抜かれる。千恵が頽れる。
「油断し、てているのは、どどちら、だ」
レミリアは、断末魔の痙攣を起こす千恵を睥睨すると、静かに膝を付いた。腕や足が溶け出して、一部は骨と思しき白も覗いている。そのような状態でよく動けたものだ。
「、がい……ぃちに、だっ……」
もはや、言葉にはならない囁きが千恵の口から漏れる。何か言葉を残したのか、それを問うべき相手はそのとき既に呼吸を止めていた。
「自称守護者」
レミリアの不自然なほど静かな呼びかけに、慧音はビクリと痙攣すると、レミリアのほうを見る。
「お前は、一体何を守りたいんだ?」
そこには、怒りの成分は含まれていなかった。ただ、純粋な疑問符だけがそこにあった。
それだけ言うと、レミリアは再び地面に倒れこむ。周囲には、赤黒い染みが滲んでいる。
傍まで駆け寄っていた阿求が、慌てて駆け寄り身体を支える。慧音は、彫像のようにまったく動けずにいた。
「多くを言うつもりはありませんが」
自らの羽織でレミリアを包みながら、阿求は慧音を見る。
「里の守護者として、あなたはレミリアさんの問いに答える必要があると思います」
阿求は、表情を和らげる。
「でも。あなたには、皆感謝している。それは確かなことなのです」
阿求は、お茶屋のことを思い出す。あの主人の表情は、感謝に満ちていた。それが目の前の危機に関するものではないことが、阿求にも伝わってきたことが、印象的だった。
早くレミリアを運ばなければならない。その気持ちに急かされつつも、もうひとつ、慧音に伝えるべきことを思い出した。それを伝え忘れたら元も子もない。
「私が生成した妖怪を閉じ込める檻は、術式が解かれることがあったときに、中の妖怪を仕留めるようにはしていました。ただ、うまく機能していない可能性が高いので、確認をお願いします」
阿求とて無駄な殺生は御免だったが、それでも天秤にかけるべきものがある。下手な情に流されて里を危険にさらすことは避けるべきなのだ。
阿求が、檻の仕組みをそう造った理由――覚悟が慧音に伝わったようで、慧音はハッと顔を上げる。不意に慧音から苦笑いの表情がにじみ出た。自身の不甲斐なさを嗤うように。
これ以上阿求に出来ることはなかった。
「分かった。そもそも、捕らえた妖怪の存在を忘れていた、私の落ち度だしな」
実際はどうするべきだったかの判断は難しい。結果として、先に結界の元へ向かうということが正しい判断だった可能性はある。ただ、慧音はあの瞬間に、里の中に残る妖怪の存在を完全に失念していた。それは、確かに落ち度なのだろう。
阿求は、それだけを聞くと、一つ頷いて里の方へと向かった。
慧音は、最後に千恵が破った結界を補うように結界をかぶせると、妖怪の気配を追って走り去る。
慧音が今まで里を守ってきたことは事実だし、その優しさが――それが甘さにつながるとしても――里の人に安らぎと安心を与えていることは確かなことだった。今回は、彼女のそうした性格がことごとく裏目に出ていただけなのだろう。
しかし、それで済ませることは許されない。守るということはそういうことだった。何か事が起こってしまったら取り返しがつかないのだ。取り返しがついたとしても、誰かが許したとしても、彼女は自分を許さない。
阿求が持った他者を傷つける覚悟を、慧音が持たないわけには行かないだろう。
その場を去る前に、阿求は再び人と妖怪の間で揺れた少女を見据える。その口元がどこか安らかなのは、阿求の心が見せる欺瞞だろうか。
「まさか、死んだりしませんよね」
土砂降りの中、レミリアを背負った阿求は道を急ぐ。幸いここは、稗田の屋敷に近い位置だった。出来る限り木の下を通り、雨を凌ぎながら道を急ぐ。
千恵の亡骸と、レミリアを同時にどうにも出来ない阿求は、当然生きている方を選択した。心配しなくても、妖怪の生き残りをどうにかした後で慧音が丁重に葬ってくれるだろう。
「軽くて助かります」
不安をかき消すように、一人呟く。
レミリアの身体は、実際軽かった。これが溶け崩れた所為だと怖いので、極力考えないようにしながら。そうではないことを祈るばかりだ。
雨は、容赦なく降り続ける。
「千恵さんも、もっと力があれば魔力で雨を振らせられたでしょうに」
それなら術者の意識が途絶すれば雨も止んだのに、と益体もない思考で不安を紛らわす。
もちろん、自身に力がないことを見越したからこそ、比較的効果時間の長い今の方法を選んでいるのだろう。
術を発動する場所に誘導するまでしたのだから、それくらいは考えているだろう。
「意外と狡猾な方でしたね」
千恵は、生きては行けなかったのだろうか。
殺すことはなかった、などと言うつもりはない。千恵はレミリアに手を出したのだ。レミリアの油断と慧音の感情に流された行動があったとしても、実際にここまで追い詰めている。
むしろ、彼女は積極的に油断と情を誘って、この状況を作り出している。
強力な妖怪に命を掛けた勝負を仕掛けた代償は決して軽くはない。この結果は明らかに自業自得だった。
しかし、と阿求は思う。
彼女は、本当にレミリアをどうにかできると思ったのだろうか。
千恵には力があった。それならば、レミリアがどれだけ強大な妖怪なのか、十分に分かっていたはずだ。雨を降らせることを考えたのなら、種族についても推測がついていたのだろう。
それでも尚、立ち向う道を選択した理由はなんだったのだろうか。
自身の保身のためと思っての事か、強すぎる妖怪への嫌悪のためだったのか、それとも他の何かだったのだろうか。例えば、盛大な自殺?
もはや、問いを向けるべき人は居ない。答えがどこかに落ちているわけでもない。
「まったく。恨みますよ、千恵さん」
今日一日のことが、あまりに鮮明に思い出された。
「私は、そんなに簡単に忘れられる身体ではないんですから」
雨が阿求の頬を濡らしていく。
「ああ、もう」
その合間を縫って、温かい滴が流れ落ちた。
「『使い魔』は、便利でしたね。あれだけ便利だと、なくなったことに未練を感じます…」
阿求は、自身の胸のうちを紛らわすために、それ自体は、何処までも本音の、しかし思考とは別のことを呟く。
雨は止みそうになかった。
Epilogue
雨は己が身を切り裂く刃。
少なくとも、自分にとっては忌むべき存在であった。それでも、雨が作り出す風景は、決して嫌いではなかった。その景色の中に自分が立つことを、密かに渇望しているのかも知れない。
決して叶わないことだからこそ。そう思っていた。
しかし。
まさか、こんなに早く実際に立つことになるとは。
「…夢にも思わないとは、まさにこのことね」
レミリアが目を覚まして最初に目に入ったのは、見慣れない木目の天井。とりあえず、身体を起こして周囲を見回す。
質素ながら、しっかりした造りに見える和室だった。目の前に見える縁側の向こうには、降り注ぐ雨が庭の植木を敷石を砂利を叩く風景。耳鳴りのような雨音と情景にしばし心を預けた。
記憶は十分すぎるほどしっかりしている。散々な目に合わせてくれた千恵に、報復が出来なかったのは、残念だった。
レミリアの言う報復とは、おちょくって遊ぶことだった。ただ殺すより、そのほうが何倍も楽しい上、相手にも迷惑をかけられるので手段としては好きだった。
そうは言っても、その時にはそんなことを考える余裕もなかったわけだが。
命の危険にさらしてくれたお返しとしては、やはり命の危険が相応しい。
「あ、目覚められましたか」
「あれ位で死ねるほどの可愛げは、私にはないわね」
背後からの声に、とりあえず返事をしてから振り返る。
実際、あの場で放置されたとしても、息絶えるより先に雨が上がる方が早かっただろう。もちろん放置された時間だけ消耗するので、回収してくれた声の主には感謝している。
「れ、れみりゃさん」
「ん?」
阿求のイントネーションに違和感があったレミリアは、思わず聞き返す。
「あ、噛んだだけです。気にしないでください」
阿求の主張は、自然な感じではあったが、頑なさがあった。
「姿に驚いたんですよ」
レミリアは、いつの間にか年齢が五歳程度後退したような容姿になっていた。レミリアは自身の姿をぐるりと見ると、得心がいった言う風に、ああ、と頷く。
「溶け崩れたおかげで、身体を構成する材料が足りなくなったのね。すべての身体機能を一旦正常に戻すために、再配置が起こって身体機能と外観が退行したんだわ」
阿求には、なんとも図りがたい発言であったが、自身の身体を蝙蝠の群れとして変形させることが出来る種族のことだ。そういうこともありえるのだろう。
しかし、口調まで若干舌足らずな感じになっているのは、仕様だろうか。
「まぁ、お元気なようで何よりです」
「滅多な事では、お元気以外の状態にはなり得ないもの」
と、さらに薄くなった胸を張る。仕草まで幼いものになっているのは、やはり仕様に違いない。
「結局、事件は解決したものの、締まらない話だったわね」
レミリアの発言は、身も蓋もない。
「犯人はお前だって、出来なかったわ」
「何の話です、一体?」
「図書館の本よ」
しかも、その内容はと言えば、どうもフィクション作品のようだ。主犯とはいえ一人犠牲者が出ていても、レミリアにとっては、最初から最後まで即興劇と大差ない感覚で事態を見ていたのだろう。
やはり、五百年を生きる吸血鬼と、人間との感覚の差は埋めがたいものがあるのかもしれない。
雨は、降り続ける。
しばし、その音だけが部屋を渡っていく。
その静寂を破ったのは、阿求のほうだった。
「レミリアさん。私には、ひとつだけ分からないことがあります」
阿求の声は、少しだけ硬かった。
「レミリアさんは、求聞持の力の何をご存知なのでしょう?」
問いの意味を図りかねて、レミリアは首を傾げる。
「私が『使い魔』を受け取ったときに、レミリアさんは求聞持の力と同じようにすればいいといいました。意識を通すということについて」
ああ、とレミリアが納得の表情を浮かべるが、阿求は最後まで言い通す。
「何故、あのような助言が出来たのか不思議で仕方がないのです。まるで、レミリアさんは求聞持の力について、知っているかのようでした」
「求聞持については、わたしは何も知らなかったわ。ただ、その始祖の時代を、知識として知っているというだけ。実際に生きてもいないわ。ただ、その時代を知るがゆえに推測できることもあるということよ」
レミリアは、何でもないことのように語る。阿求もその感覚は理解できた。慧音に術式について語ったときのように、知っている人間からすれば、取るに足らないと感じてしまうことはいくらいでもある。
ほんの少し迷い、阿求は話をすることにした。
「先代は、その前の代はこの力をどう思ったのでしょう。自身のものにも関わらず制御が出来ないこの力を」
以前、この力が嫌になって、どうにか制御できないものかと調べたのだと、阿求は苦笑混じりに話した。だから、術式についても知識があるのだと。
「尋常ではない記憶力について、気味悪がられるのは仕方のないことなんですが。化け物呼ばわりされるのは、さすがに徹えたんです」
そのときのやりとりまで、完璧に思い出せることに、ややうんざりした様子の阿求はそれ以上詳しく語ることをしなかった。
阿求の表情が、まるでスイッチを切り替えるように切り替る。話も切り替わり求聞持の力を調べたときのことに戻った。
今日何度か見せている、この完璧な思考の切り替え、この妙技ともいえる才能は求聞持の力と人の心が共存するための必要事項なのかもしれない。
「すごい皮肉なんですよ。何かを調べ上げ、纏め上げるのに求聞持ほど有能な力はありません」
阿求は、求聞持の力の凄まじさを、そのとき初めて実感していた。しかし、その力を以ってしても、求聞持のことは何も分からなかった。むしろ、謎が深まる結果にしかならなかった。
「この力は、異質に過ぎます。もはや身体がそう言う造りになっているとしか説明がつかない。でも、能力は人間という種の限界を超えているとしか思えない」
「それで、求聞持について何か知ることが出来たら、あなたはその力をどうするのかしら?」
「どうもしません。今となっては、この力なしでは稗田阿求ではないというほどに、自身の一部となっています」
だからと言って、単純な好奇心から知りたいと思うわけではない、と阿求は微笑む。
「千恵さんは、自身が妖怪であると言い切りました。他人の意見ではない、自分の意思として。ならば、私も自分が何者であるのか、それを知らなくてはならない。そう思うのです」
言外に、阿求は自身が人間でないことを、その可能性があることを示している。それは恐怖に違いなかったが、それでも目を逸らさない彼女は、やはり強いのだろう。
それを見て、レミリアは口元を笑みの形にする。
「あなた、紅茶は好きかしら」
「え? はい、好きですが」
唐突に、レミリアは話を変えて来た。
「それなら、二人分淹れて来て頂戴。続きは紅茶でも飲みながらにしましょう。咲夜には神社の留守番を言い付けてしまったから呼んでも声が届かないわ」
「分かりました。…あの、普通の紅茶でいいんですよね?」
「ここで、紅魔館式を期待はしていないわ」
レミリアは、笑って台所に向かう阿求を送り出す。
大体にして、人間の屋敷に、紅魔館式紅茶の材料が食材として確保されている道理もない。採取することは出来るかもしれないが。
阿求が部屋から出ると、レミリアは、再び雨の庭に目を向ける。意識は庭を越えて紅い屋敷を思っていた。ちょっとズレていて厄介で愛おしい妹と、無知で短命で愛おしい人間が遊んでいるであろう館を。
ここから光学的に見ることは出来ないが、その様子を把握することはいくらでも出来る。しかし、そんな無粋なことをするより、思いを馳せる方をレミリアは選んだ。
疾うの昔に忘れてしまった生き方だったが。人間の生き方には、意外と学ぶべき事が多いようだ。
紅魔館での騒ぎが収まれば、巫女が神社に帰り、咲夜がここに迎えに来るだろう。
里に降る雨も、未だ止みそうになかった。
それならば、人里のこの屋敷で紅茶を飲み、庭の風情を楽しみながら、この奇妙で面白い少女とおしゃべりに興じるのも悪くはない。
後日にでも、今日のお礼に、メイド特製・人間用紅茶を振舞うのもいいだろう。
それは、なかなかに楽しいひと時になりそうだった。
異変を起こしたことは、間違いどころか、大正解だったと思える。
~本当におまけ~
生憎の晴れの日、パラソルの下には――少なくとも見た目は――二人の少女。テーブルには、メイド特製・紅魔館式紅茶と人間用紅茶がひとつずつ。
そんなある日の会話。
「あなたの言うとおり、最近予期しない客が多いのよ」
「ああ、やはり。皆さん暇なのですね。私も人のことを言えた義理でもありませんが」
「あ、ほら。また来たわ」
「あの方ですか。美鈴さんも大変ですね」
「門番はそれが仕事だもの。それはさて置くとして、咲夜まで巻き込まれるのが頂けないわ。どうにかならないものかしらね」
「う~ん…あ、そうだ」
「名案かしら?」
「せっかく素敵なお庭があるのです、里の人間も呼んでパーティでも開いたらどうでしょう」
「パーティ? わたしは好きよ。でも何故?」
「皆、今回の話を聞いて、紅魔館に好奇心を抱いているのです。ならば、その人々をこちらから呼び寄せればいいのですよ。一度足を運べば、取り敢えず好奇心は満たされます」
「なるほど。うん、面白そうね! どうせなら、盛大に行きたいわ。里の人間へ声を掛ける役は、お願いしてもいいのかしら」
「その程度のことであれば、喜んで。おいしい紅茶へのささやかなお礼です」
「咲夜~! 今晩パーティを開くわ。準備お願いね」
「かしこまりました」
「え…本当に、今夜やるんですか?」
「善は急げ、よね」
「う~ん、確かにそうは言いますが」
「今晩が楽しみね」
「…忙しくなりそうですね」
良かったんですが、何と言うか、必要ない描写が多すぎたかなと。もう少し削れたような気がします。
オリキャラの正体も出てきた時から分かってしまったし、色々と惜しい作品だったと思います。
次回作も期待。