注)この二次創作は、筆者の妄想を垂れ流しにした作品です。
一部原作と異なる部分もあるかと思われますが、ご容赦ください。
『幻想郷にメガネっ娘がやってきたぞ!(前編)』の続きとなっています。
4/ 紫
一条の月光だけが遠慮がちに照らし出す暗澹たる一室の中で、二人の少女が無言で向かい合っていた。
その一方の少女が、突然目の前に現れた魅惑的な少女を、食い入るように見つめ続ける。
薄暗い夜闇の中でもなお映える、ウェーブを帯びた黄金色の髪は海波を髣髴とさせる。
口元には柔和な、母性さえ感じさせる微笑を浮かべているというのに、その青紫色の瞳には、相手を慮る意思は欠片も見られない。
目の前の対象を淡々と観察する、身が震えんばかりの冷たい光しか宿っていなかった。
「念のために聞いてあげるわ。貴方は誰?」
「……森近霖之助。君もたまに顔を出す、…この店の店主」
「それはそれは、面妖な話ですわね。私が知っている店主は、無愛想で物臭な男のはずなのだけれど」
「……こんな姿、好きでいるわけじゃない」
「本当に? あんなに楽しそうに、鏡の前で百面相をしていたのに」
境界を操る妖怪の賢者。幻想郷の母とも呼べる大妖怪。
八雲紫はそう言って、その白い指先を口元に当てながらクスクスと笑った。
彼女の雰囲気に呑まれて、あっさりと白状した霖之助の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
「ど、どこから見ていたんだ?」
「……えーと。私が初めてスキマから覗いた時、貴方はその姿で居間に倒れていたわ。
すぐに目が覚めたかと思うと、袖をまくったり、声をあげたり、髪を触ったり。
鏡の前で息を荒げている姿は、見ていて怖気が走ったもの。挙句の果てには自分の胸を触って鼻血―――」
「うわああああぁっ! 言うなっ! それ以上!」
全部見られていた!、と霖之助は頭を抱え、ブンブンと長髪を振り乱す。
終いの方になると、とうとう耐え切れなくなったのか、大声を上げて紫の言を遮った。
自分で聞いておいて、と紫はつまらなそうに呟く。
ゴロゴロと床を転がって、身悶えている霖之助にかまわず、スキマ妖怪は再び口を開いた。
「……らしくないわね。肉体だけじゃなく、精神まで退行したようにも思えるわ。今の貴方を見ていると」
「ほっといてくれボクの事なんか。……それよりもどうしてこんな所に来たんだ?
もう冬も始まろうかというこの時期に、店を開けている時間帯でもない香霖堂にわざわざ」
そこまで言って霖之助は、紫が今この場にいるのは偶然ではない、と察し言葉に詰まった。
いくらなんでもタイミングが良すぎる、と。
紫はこの季節、布団の中かスキマで冬篭りすることが多い。いわば冬眠のようなものだ。
完全な冬にはまだいくらか早いが、それでも積極的に活動したりはしないはずである。
にも関わらず、彼女はわざわざこの場まで足を運んだ。
ちょうど、霖之助が少女に変わる頃合いを見計らったかのように現れ、彼の痴態を一部始終覗いていた。
思い出して、霖之助の顔がまたもや羞恥に染まるが、それにかまわず紫に尋ねた。
「何故、どうやってボクの変化に気付いた?
いくら君でも、幻想郷で起こる全ての出来事を、リアルタイムで把握出来るはずがない。
……まさか、ずっとボクを監視していたのか?」
「……あのねえ。そんなことするほど、私ってヒマに見えるのかしら?」
有事の時以外は一日中家でゴロ寝して、式の九尾の手を焼かせている彼女が、そんなことを言ってもまるで説得力がない。
だが暇はあっても、さえない一店主をずっと監視するような理由など、確かに紫にはないだろう。
だったらどうして気付ける? と眉を寄せて、疑問符を浮かべる霖之助。
そんな彼に、紫は頬に手を当てて何かを考えるかのような素振りを見せた。
「貴方は確か半妖だったわよね。何も感じない?
この幻想郷を覆いつつある、不穏な気配に、……蕩けそうなほど甘い砂糖菓子のような香りに」
「……なんだって。まさか異変?」
「大きく息を吸って御覧なさい」
言われた通り霖之助は、スーハー、スーハー、と深呼吸を繰り返す。
紫の言う、甘い匂いなんて何も感じない。
ただいつもより、空気が少しベタついているかもしれない。
そんな曖昧な違和感を、辛うじて感じ取れる程度だった。
「甘い匂いなんて全くしないんだが…」
「半妖の鼻ではまだ知覚できないレベル…か。
となると、霊夢もまだ気付いてないわね。勘のいいあの子の事だから油断は出来ないけど」
ブツブツと独り言を呟く紫に不安を覚えた霖之助は、一歩彼女に詰め寄った。
「一人で納得していないで、ボクにもわかりやすく説明してくれないか。
幻想郷にまた異変が起こったのか? もしかしてボクがそれに絡んでいるのか? 教えてくれ!」
「……その前に、貴方が私に説明するのが先よ。
一体何があって、そんな可愛らしい姿に変わり果てたのかしら。まだ答えを聞いてないわ」
距離が一歩分近くなったからか、薄闇の中さっきよりも互いの顔がよく見える。
霖之助の頭にちょこん、と生えている猫耳を見て、紫は愉快そうにそんな皮肉を言った。
猫耳少女は、ムッと思いながらも、これまでの経緯を包み隠さず話すことした。
行商の話から、薬師との邂逅、薬の効果、自身の葛藤まで、ほとんど全て説明する。
すでに、自分の助平な姿までしっかりと見られているのだ。もう何を話そうと失うものなど何も無い。
ところが、最初こそ悪戯っぽい笑顔で耳を傾けていた紫だったが、話が進むにつれUの字だった口の形をヘの字へと変えた。
話が終わる頃には、紫は見るからに呆れた、という表情で目の前の少女を睨めつけた。
「あの薬師が原因だろう事は聞かなくてもわかるけど、完全にしてやられたのね。…情けない。
そも貴方の能力は何だったかしら? その青い薬とやらの正体が読めないほどに盲としていたの?」
と、紫がどこか試しているかのような口調で問いかける。
道具の名前と用途が判る程度の能力、を有している筈の少女は消え入りそうな声で答えた。
「…名前は元からなかった。製作者である薬師が、名前をつけていなかったからだ。
名前がわかっても、名付け親になれるわけじゃない。ボクはそこまで万能ではないんだよ。
用途だってそうだ。ボクはおおまかな使い道がわかるのであって、薬の細かい効果までわかるわけじゃない。
人体に変成を促す用途。ボクにわかったのは、せいぜいこれくらいだ。
……猫の耳と尻尾が生えるなんて、ピンポイントにわかるハズがないだろう!」
携帯電話を例に挙げれば、通話できることはわかっても、その他の機能の詳細までは見抜けない。
そういう事なのだろう。
喋っているうちに、さっきまでの憤りを思い出したのか、最後は荒々しい口調で吐き捨てた。
そんな霖之助を見て、紫はやっぱりらしくないわねぇ、と呟く。
「まあいいわ。過ぎたことを言っても仕方ないし、貴方もいちいち悔やむのはお止めなさい。
それよりも、貴方はこれからどうしたいのかしら。薬師のところにでも乗り込む?」
「そっ、それだ! 今すぐにボクを彼女の所に連れて行ってくれないか! スキマで飛べば一瞬だろう!?」
「……行ってどうするのよ。素直に元に戻してくれる相手ではない事は、もう貴方にも十分理解出来ているでしょうに。
それとも……、力ずくで従わせるつもりなのかしら? 霊夢たちのようにスペルカードで」
「ぐっ…!」
身勝手なことを言いながら縋り付く霖之助を、紫の容赦ない言葉が一蹴する。
そんなことはわかっている。
何の算段もなく、ただ闇雲に行ったところで、永琳が素直に本物の特効薬を渡してくれるとはとても思えない。
例え土下座して頼み込んでも、泣き叫んで駄々を捏ねても、彼女の心は一ミリも動じないだろう。
では、霊夢や魔理沙のように、弾幕でお話するか。
それこそ無謀でしかない話だ。億に一つも勝ち目はない。そもそも自分に弾幕を出せるかどうかさえもわからない。
だが、だがそれでも一刻も早く男の姿に戻りたい、と願う霖之助の焦りが、彼女を愚行に走らせた。
霖之助は突然、紫を前に跪き、額を地に擦り付けた。
これには流石の紫も面食らい、困惑の様相を露にする。霖之助の口が開いた。
「……お願いします。ボクに力を貸してください。
異変の内容はわかりませんが、ボクの今の姿も関係ないわけではないのでしょう?
ボクと一緒に薬師を説得してください。お願いします! この通りです…」
「……」
恥も外聞も捨てて頼み込む霖之助の姿に、紫は侮蔑にも似た険しい視線を送った。
「……女々しい男ね。肉体や精神だけでなく、性根まで女になってしまったのかしら?
この際はっきり言っておくけど、貴方に協力するなんて、お・こ・と・わ・り・よ。
自分で蒔いた種くらい、自分で何とかなさい。―――お嬢ちゃん」
「……ぐっ、…く」
紫の辛辣な返答に、霖之助は手を震わせ、歯を食いしばる。
悔しい。許せない。それは紫に対してではない、無力でちっぽけな自分自身に対してだ。
涙がこぼれそうになる。だが、それだけは許すものか、と自身の小ぶりな唇を噛んで必死に耐えた。
口の中に鉄の味が広がる。これが霖之助に残された最後の一線。
泣き出した瞬間、霖之助の男としてのプライドが、跡形もなく消え去ってしまいそうな気がした。
そんな霖之助に、紫は一瞬悲しそうに目を伏せる。だが、それはあくまで一瞬。
改めて視線を、今も背中を震わせる霖之助に向けて、紫は無機質な声で続きを紡いだ。
「察しの通り。今、幻想郷に異変が起こっているわ。原因は貴方が少女になったから。
本来なら、私はそれを食い止めなければいけない立場よ。貴方を男に戻すのも吝かではない。
……でも、それはしない。してあげない。
これは貴方自身が解決しなければいけない問題。私たちが首を突っ込むべきではないわ」
「君はっ、幻想郷を、愛しているんじゃなかったのかっ」
「ええ、愛しているわ。この世界に住む生きとし生けるもの全て、みんな私の可愛い、愛すべき我が子たち。
勿論、貴方もね。だからこそ甘やかす事は決してしない。自分の力で立ち上がってもらう」
「全よりも個を優先するのか? 異変によって起こる犠牲は無視するというのか? それが母なる君のやり方かっ!?」
「……黙りなさい。それも、場合によりけりでしょう。少し迷惑はするでしょうけど、犠牲が出るような類の異変ではないのだから」
「……?」
一体、どのような異変なのだろうか。
まるで、以前にも一度あったかのような、紫の確信めいた口調に、霖之助は疑問を浮かべる。
その疑問が顔に出ていたのだろうか。紫が、朝になればわかるわ、と一言付け加えた。
「さあ、これでもう話はおしまい、ね。私はこれから博麗神社に行って、霊夢に事情を説明しなければいけない。
放っておけば、異変を解決しようと勝手に飛び回ってしまうでしょうからね」
「そ、そこまで念入りに異変を放置するつもりなのか? 君は一体何を考えている?」
「さて、何を考えているのかしらね。
……でも、私ももうすぐ長い眠りにつくわ。流石に冬の間ずっとこの異変を放置するわけにはいかない。
だから期限を設けます。明日から三日以内に薬師をやり込めなさい。自分で方法を考え、自分の力で彼女を出し抜きなさい。
三日経っても貴方が少女のままなら、私や霊夢が永遠亭に出るわ。
それで異変は解決するでしょうけど、その時は貴方が男に戻るのは身体だけだと思いなさい」
「な…、そんな…」
あの薬師を出し抜く? 自分が?
三日どころか、十年考えたって無理に決まっている。
相手は月の頭脳とまで呼ばれた天才。もうどれ程長く存命しているかもしれない、生ける英知だ。
それを自分如き凡人が、ただでさえ散々弄ばれ、自信を喪失しかけている霖之助が?
出来るわけがない。三日間大人しく待って、自責に喘げと言われているようなものだった。
「踊らされっぱなしで、悔しくないの? 自分の責任で異変まで起こしておいて、最後まで他人に尻拭いさせるつもり?
貴方は男でしょう。……しっかりなさい。私は貴方を信じているのだから」
フワッと霖之助の頭が、何か柔らかくて暖かいものに包まれた。
それは紫の両腕だった。霖之助の小さな頭を撫でながら、その身体をすっぽりと胸に抱く。
それまで突き放してばかりだった冷たい態度から一転、紫は少女に母の慈愛を見せてくれた。
最初は呆然と、されるがままだった霖之助の瞳から、ポトリポトリと大粒の涙が止め処無く流れ出る。
人は、辛く当たられる時に泣くことは少ない。優しくされた時に泣いてしまうものだ。
しかし、霖之助は決して涙腺が緩い方ではなかった。
実際、最後に涙を流したのはもう覚えてもいないくらい遠い昔のことだ。
やはり、少女になったことで、肉体的にも精神的にも変化が顕れているのかもしれない。
決して泣かないと誓ったのに、とゴシゴシ目元を拭う霖之助に、紫はトドメの言葉を少女の耳元で囁いた。
「いいのよ泣いても。本当に悲しい時、辛い時に涙することは罪ではない。
男の子なら意地もあるでしょうけど、今だけは我慢せず、自分を少女だと思いなさい」
「うっ、ぐっ、うううううぅぅ~~!」
それで堰を切った。暗い部屋に、少女の小さな嗚咽が響き渡る。
彼女は本当にずるい、と霖之助は思った。
何故、こんな、最後の最後に、不意打ちみたいに優しくするのだ。
彼にはすでに父も母もいない。誰かに抱きしめられるなど、子供の頃以来であった。
数十年ぶりに包まれる、暖かなぬくもりに、優しく髪を撫でる柔らかな感触に、霖之助は子供のように涙した。
―――今夜は私の屋敷に来ないか?
紫の口からそんな提案が出たのは、霖之助にとっては意外なことであった。
「今は一人でいるのが辛いでしょう。客間は余ってるから、今夜くらいはゆっくりと休んで、英気を養うといいわ。
……藍に、今の貴方を見せてみたいしね」
少女は、泣き腫らした赤い瞳をパチクリとさせる。
最後の台詞に何か不穏な響きがあったが、霖之助に断るつもりはなかった。
もうすっかり頭が上がらない。今まで抱いていた苦手意識も大分解消してしまったようだ。
スキマに誘われ、幻想郷の艮の端に辿り着いた。
永遠亭に少し似た、日本家屋を再現したかのような古びた屋敷を、霖之助は所在なさそうに見回す。
すると、長い廊下からパタパタと導師服を着た長身の少女が、二人に向かって走ってきた。
その尾に生えている九つの狐尾。紫の式であり、おさんどんでもある八雲藍だ。
「お、お帰りなさい紫様。異変の原因はわかりましたか。 …って、その娘は?」
藍もすでに、異変の存在は把握していたようだった。
匂いがどうとか言っていたし、妖獣である彼女もすでに知覚しているのだろう。
そんな藍は、霖之助の顔を見るなり訝しそうに眉を顰め、主人に聞こうと顔を上げた。
藍も香霖堂のお客として、数えるほどだが訪れたことがあるので面識はある。
だが、事情を知らない藍は、一目見ただけでは少女が香霖堂の主人の成れの果てであると理解出来なかったようだ。
…わかったらいっそスゴイが。
「ふふ、すっごく可愛いでしょう。誰だと思う?」
「……勿体ぶらずに教えて下さいよ。見ない顔ですが、幻想郷の新しい住人ですか?」
猫耳少女は、文字通り借りてきた猫のように大人しく、そんな主従のやり取りを聞いていた。
いたずらっぽい紫の笑顔に、藍はわかりません、とすぐに降参のポーズを取る。
諦めが早いのではなく、無為なやり取りをさっさと切り上げたいのだろう。
「んもう、ノリの悪い子ね。……それじゃ霖、藍にご挨拶してあげて」
「……リン?」
「霖は霖じゃない。ほらほら、早くー♪」
これ以上ないくらい楽しそうに、紫は霖之助…もとい霖の背を押し、藍の眼前に立たせた。
交錯する視線。藍は名前を聞いてもわからない、というように黙って少女の紹介を待っていた。
「えーと、久しぶりだね。今はこんな姿だけど、香霖堂の店主の森近霖之助です」
「……」
「覚えてくれていないのかな? 君も何度か訪ねたことがあるんだが」
「……?」
ここで藍は可愛らしく小首を傾げる。
その顔はよくわからない、という困り顔だ。
どうやらあまりの事実に、脳の処理機能が完全に追いついていないようだった。
そんな哀れな式を、主である紫はこらえきれないかのように、口元に手を当てて震えていた。
「……あの」
「…香、…霖、…堂?」
「―――そう! ほら、顔に覚えがなくても、この服には見覚えがないかい?」
「…………」
そう言って霖は、ブカブカの服を摘み上げてみせる。
呆けた顔の藍は、香霖堂、こうりんどう、と咀嚼するようにその名を何度か呟いて―――
「―――えええええええええええええぇぇぇぇっ!?」
空気が震えるほどの大音量をあげながら、仰天した。
「あ、あはははは! らん、今の貴方の顔を鏡で見て御覧なさい! すごい顔よ…ぷくくくく」
「ちょ、え? あの店主が? あれ? え? な、何でそんな姿に…」
「話せば長くなるんだ、長く……」
ついに耐久値が臨界突破したのか、紫が腹を抱えて爆笑した。
そんな失礼な主の笑い声など、まるで聞こえないかのように、藍は激しく狼狽する。
霖は、おろおろと取り乱す式に、疲れた声で事の経緯を再び説明した。
「つまり薬師の誘惑に乗せられて、そんな姿になってしまった、と」
「……面目ない」
一通り説明を受けて、最後に藍が残したのは、呆れ返ったかのような一言だった。
霖は、小柄な身体をさらに縮こませて、藍の視線を受ける。
そして、藍は急に真面目な顔に戻ったかと思うと、やはりあの時と同じ異変か、と小さく呟いた。
ようやく笑いがおさまった紫も、それじゃ行くわ、と再びスキマを展開する。
「……どこに行かれるのですか? 紫様」
「霊夢のところ。少なくとも三日間は、彼女に異変を放置しててもらいたいのよ」
「ハァ!? そ、そりゃあの異変だとすれば、無害といえば無害ですが…。
霊夢がそんなの納得すると思いますか? それより何よりこの時間じゃもう寝てるでしょう」
就寝中の霊夢を無理に起こす。
そんな勇気のある者、幻想郷には紫含めて数えるほどしかいないであろう。
未だにその異変とやらの内容がわからない霖は、戸惑い顔で紫と藍の顔を交互に見比べている。
「第一、なぜ紫様がこの者の為に、そこまで手を尽くされる必要があるのですか?
話を聞く限り、今回の件はどう考えても彼の自業自得でしょう」
「……」
そういって、ジロリと霖を睨む藍。
返す言葉のない霖は、いたたまれない気持ちで俯いた。
「あんまりいじめないの。大丈夫、霊夢は必ず説得してみせるわ」
「そんなの心配してませんよ。ただ、あまりにも紫様らしくないような気がします。
住人や幻想郷にさほど影響はないとはいえ、異変をほっとくのもらしくないですし、霊夢以外の他人の為に、ここまで精力的に動くのが何よりいつもの紫様じゃない! ……いったい、何をお考えなのですか?」
「……ねえ、藍? 霖の顔を見てみて?」
「は、こんな時に何を」
そう言いつつも、主人の言葉は絶対なのか、無意識に霖の顔を覗き込む藍。
沢山の少女が住んでいる幻想郷にも関わらず、なお見る者を振り向かせてしまいそうな幼さと美しさと兼ね備えた極上の美貌。
その顔も泣き腫らしたのか、今は瞳を兎のように真っ赤にさせてしまっていて、惜しくもその美しさを若干損なわせていた。
……だからこそ! 柔らかそうな頬にまだ残っている涙の跡が、不安そうに藍を見つめるその小動物的な上目遣いが、殊更扇情的な魅惑を醸し出していた。
さらに少女の頭にある、我が愛しの式に似たネコ耳が手伝ってか、藍は知らずゴクリと生唾を飲み込んだ。
一言で言うと、中身はアレだが、外見は藍の大好物、ストライクゾーン―――!
「こんな愛くるしい少女が、泣きながら私に縋り付いてきたの。ボクを助けて、って。
私なら人肌脱がないと、……そう考えてしまうわ。貴方ならどうするかしら藍?」
「……むぅ」
大体合ってるが、微妙に間違ってないか、と霖は思った。あと一肌の字が違う。
藍の反応はとても苦しそうだ。
だが、赤く紅潮しているその頬が、答えをもう教えているようなものだった。
「それに今宵を限りにこの可憐な美少女と永遠の別れ。それはあまりにも寂しい結末ではなくて?」
「し、しかし、ですが……その」
紫が追い討ちの言葉を掛ける。藍はしどろもどろに弱々しい反抗の声をあげるばかり。
それで、勝敗は決した。
「それじゃ行ってくるわ。藍、彼女の世話と、異変の説明お願いね」
そう言って、紫は半身をスキマの中に潜り込ませる。
もう藍に制止の声をかけることは出来なかった。
「……ふふ。ランとリン。貴方たち、とてもお似合いよ」
最後に、そんな意味深な響きを残して、紫はスキマの中へと消えていった。
残された二人は、呆然と顔を見合わせるばかり。
「と、とりあえず、いつまでそんなサイズの合わない服を着ているつもりだ。
来い。私のお古だが、服を貸してやる。……ああ、その前に風呂に入れ。少し汗臭いぞ」
そう言って優れた嗅覚で、霖の身体をスンスンと嗅ぐ藍。
霖が慌てた様子で礼を言うと、紫様の命だからな、と呟いてそっぽを向いた。
思えば、この身体になってから冷や汗をかきすぎていた。
しかし風呂は、と霖は未だに戸惑いを捨てきれずにいる。
とは言ってもこれから三日間、一度も風呂に入らないわけにもいかない。諦めるしかなかった。
「ボクは、これからどうすればいいんだろうか」
夜空を見上げながらの霖の問いに、宝石箱のように煌びやかな光を宿す星々も、淡い光で優しく照らしてくれる月も、答えてはくれなかった。
博麗神社の母屋の一角にある、六畳一間の寝室。
そんな慎ましい一室の中心を陣取り、楽園の素敵な巫女である博麗霊夢は、静かな寝息を立てて眠りについていた。
完全に眠っている。熟睡中。きっと夢さえ見ていない。ノンレム睡眠の真っ只中。
そこに、起きる気配は微塵として存在し得ない。
寝室の空間にスキマを開いた紫は、微笑みを浮かべながら、そんな彼女の穏やかな寝顔を眺めつつ、しかしながらこのままでは話が進まない、と強行手段を取ることにした。
「霊夢~。おーきーてー」
「んに゛ゃ!?」
その無防備な腹の上に、フライングボディプレス。
少々やりすぎな気がしないでもないが、こうでもしないと今の霊夢は起きないだろう。
瞬間―――。
ドンッ、という重い衝撃と共に、寝室にあった障子という障子が爆風で全て吹っ飛んだ。
ふとんもふっとんだー! って感じである。寒いのは冬のせいだ。
ケホケホと咽ぶ紫の前に、無数の弾幕が飛んできた。勿論、ひょいっと避ける。
煙の向こうに、仁王立ちした巫女のシルエットがあった。
その顔は鬼のような形相をしていて、手には霊符『夢想封印』のスペルカードが握られている。
首から下に纏った水玉模様のパジャマが、そんな鬼神の貌と激しくアンバランスだった。
「我が眠りを妨げる者は何人たりとも……」
「きゃーきゃー待って霊夢! せっかくの初セリフがそれじゃ、主人公として締まらないわっ」
「問答無用!」
そう叫ぶや否や、恐ろしい数の光弾が紫を包囲する。
これは流石にシャレにならない、と幻想郷最強クラスの妖怪は冷や汗を流して喚いた。
「異変よ異変! この幻想郷に異変が起こったのよ!」
「……異変?」
その言葉に、ピタッと霊夢の動きが止まる。
そこで今更気付いたかのように、霊夢は紫の方に目を向けて、寝起きの不機嫌さを隠さず言った。
「……何だ紫じゃない」
「ふう~、怖かった。寿命が縮んだわ…」
ギャーギャー、と文句を垂れる霊夢を前にし紫は、もう滅多なことで霊夢を無理に起こすのはやめよう、と心に誓うのであった。
「お、上がったか」
「……」
霖が居間に戻ると、コタツに浸かっていた藍が、導師服を身に纏った風呂上りの少女の方に首だけ動かした。
霖の顔は真っ赤になっていた。それは恐らく、風呂上りだけが原因ではないのだろう。
しかし、当初に感じた劣情はすでに霖にはない。そこにあるのは照れくささから来る複雑な感情のみ。
いつ戻れるかわからない現状では、あの時とは違い、美しい裸体を楽しむ余裕などなかったのだろう。
「何だ、そんなに湯が熱かったのか? 顔が茹蛸のようだぞ?」
「……君にはわからないよ」
深いため息を一つ吐くと、霖は藍の向かい側に腰を下ろし、首を傾げる妖狐を正面から見据えると、真剣な面持ちで口を開いた。
「……それじゃ聞かせてくれ。何故ボクが女になると異変が起こるのか。
一体どのような異変なのか。まずボクは、それを知らなくてはいけない気がする」
「う、む…。紫様からも言われてるしな。だが、どういう異変かは今聞かずとも朝になればすぐわかる。
それはともかく、霖は『絶対少女領域』なるものを知っているか?」
「……絶対少女、領域?」
早速出たワケのわからない単語に、霖は困惑する。
紫も言っていたが、朝になればどんな異変かわかる、とはどういうことなのだろうか。
藍の説明は続いた。
「これは…、完全に紫様からの受け売りなので、私にも詳しい説明は出来ないのだが…。
何でもその世界観の中に、男性きゃらくたーなる人物がいなくなると起こる現象らしい」
「……何だいそれは?」
「だから説明出来ないと言ってるだろう! 私に聞くな!
…コホン。紫様が五百年ほど前に幻想郷に展開した『幻と実体の境界』。それの副産物といっていい。
日本以外に生息する妖怪を呼び込む為に、紫様自らが考案なされた結界。
紅魔館のスカーレット姉妹などの出現を例に出せば、わかりやすいだろう?」
「何となくわかるような、わからないような……」
「―――結界を張ったのはいいのだけれど、とんだ欠陥があったみたいでね」
「欠陥?」
神社の縁側に、霊夢と紫は肩を並べて腰を下ろしていた。
遠い昔に思いを馳せる紫に、霊夢がお茶を口につけながら聞き返す。すでに巫女服は着用済みだ。
当然、紫の茶はない。
「幻、の部分に強く傾きすぎていたのよ。
まあ、そのおかげで強い妖怪や吸血鬼が幻想郷に移るようになって、人間とのバランスは上手く保たれたのだけれど…。
私の結界が概念を曖昧なものにし、博麗大結界がそれらを全て内包し、閉じ込める檻となった。
ここまでは、幻想郷に住む人間なら、周知の事実よね」
「……わからないわよ。もっと簡単に説明してちょうだい」
寝起きの頭ではちんぷんかんだ、と霊夢は口を挟む。
寝起きでなくても理解しきれるかどうか怪しいが。
そんな霊夢に、紫は小さく苦笑すると今までの説明を総括した。
「つまり、幻想(ファンタジア)の部分が発達しすぎて、幻想郷が余計な機能を持つに至ったわけ。
その一つが『絶対少女領域』。現在、唯一の男キャラであった香霖堂の店主が少女になってしまった。
この幻想郷に住む設定持ちのキャラクターが、全て少女で占められた時、幻想郷に小さな異変が起こる。
住人の特性に合わせた、少女の為の少女の世界に、幻想郷が成り代わってしまうのよ」
「……ワッケわかんない」
男の登場人物が多い世界観は、基本的に荒いタッチで描かれ猛々しい。
では、少女しか現生しない少女チックな世界とは、幻想郷に如何なる変貌を遂げさせるのか。
紫の説明に釈然としない霊夢にはそんな世界など、想像すら成し得なかった。
設定持ちとか、キャラクターとかよくわからない単語も多いが、そこはあまり突っ込まない方がいい、と霊夢の自慢の勘が告げている。
「勘、と言えば、わたしの勘が働いていないわ。異変を前にして察知出来ない、なんて事は今までなかったハズなのに」
「危険がないからでしょう。それにこれは、幻想郷の住人が人為的に起こした異変ではないわ。
……まあそれでも、誰かさんの意図が働いていたのは、疑いようもない事実だけど」
「それにしても、あの霖之助さんが異変のストッパーになっていたとはね。正直、いてもいなくてもいい人だと思っていたけど」
「ふふ。少女化した彼は、それはそれは可愛らしかったわよ。貴方も一度ご覧なさい。藍なんか仰天していたんだから」
ひどいことをのたまう霊夢に、紫は意地の悪そうな微笑を浮かべた。
そんな彼女に、霊夢はふと思った疑問を口にした。
「でも、霖之助さんが幻想郷に住んでたのって、まさか五百年前からじゃないわよね?
彼が来るまで、幻想郷はずっとそんな甘ったるい世界だったの?」
「そんなことはないわ。それまでは妖忌がいたからね」
「あれは設定とやらがあるんだ」
しかし、その彼も今は幻想郷の外にいるという事なのだろう。
男キャラが全くいなくなってしまった幻想郷に、まずは砂糖菓子のような甘い空気が流れてくるらしい。
霊夢にはまだ、そんな匂いは感じなかったが、朝になる頃には人間でもわかるほど目に見えて変化する、と紫は説明した。
霊夢が起きる時間まで待てなかったのは、そんな理由からである。
なんだかなー、と霊夢は頬に両手を当て、疲れたように息を吐いた。
「めちゃくちゃだ」
説明を聞いた霖は頭を抱えていた。荒唐無稽にも程がある。
「だが、それも幻想郷だ。私も実際起こるまで信じられなかったのだからな。……今から三百年ほども前のことだろうか。
白玉楼の当時の庭師であった魂魄妖忌殿が、何かの用事で数日間、幻想郷の外に出た事があった。
当時は博麗の結界もなく、割と自由に外を行き来できたんだ。
……それから幻想郷は変わった。紫様もその時まで結界の不備に気付いていなかったらしく驚愕していた。
原因はすぐにわかったので、急いで修正を試みた。
だが、境界のバランスを弄っても、外の世界から男を幾人か引っ張ってきても一向に直らなかった。
これはもはや神主とかいう絶対神の呪いだな。
『何故、もっと男キャラを用意しなかった!』と紫様も激怒なさっていたが、あの方でさえ神主という存在の前では無力だった」
「……」
「それで霊夢に提案があるのだけれど。異変が起こっても、しばらくは静観していて欲しいの。三日間だけでいいわ」
「……正気で言ってるの? いくら危険がないとはいえ、博麗の巫女として異変をほっとけるわけがないじゃない」
紫の提案に、霊夢はしかめ面になって抗議した。
それも当然だ。幻想郷の調停者である彼女から、普段とはまるで逆の事を言われてるのだから。
霊夢の不信感丸出しの視線を受け止めて、紫はなおも微笑んで続けた。
「これは霖自身の戦いであるべきなのよ。第三者が口を挟んでいい問題ではない。
……あ、リンって言うのは、彼が少女でいる間だけの、私がつけた仮称ね。
あれだけの美少女に、いつまでも霖之助と呼ぶなんて私には耐えられないわ」
「聞いてねーわよ」
やたら楽しげな紫の口調に、霊夢が半眼になって、すかさずツッコミを入れた。
「期限は設けた。あとは彼がどのような行動を取るのかわからないけれど…。
あの子だって男の子なの。ちっぽけなものかもしれないけれど、意地があれば誇りもある。
それを奪われた形のまま、部外者の私たちが解決してしまえば、あの子は二度と立ち上がる事など出来ないでしょう。
……お願い霊夢わかって。彼の気持ちを汲んで、今は伏して待ってあげて頂戴」
「……紫」
紫の必死な懇願に、霊夢は小さな声で彼女の名前を口にする。
だが次の瞬間、霊夢は気の抜けた顔で、一言紡いだ。
「アンタ、面白がってるでしょ?」
「………………………てへ♪ やっぱりわかっちゃう?」
「これで、私からの話は御終いだ。これからどうするか、何を成すかはお前が決めろ。
……くれぐれも、紫様を失望させるような真似だけはしないでくれよ」
「しかし、……相手があの薬師では」
話を終えた藍が、スッと立ち上がる。
霖はなお俯いたまま、搾り出すかのように、そんな弱音を吐いた。
だが、それも致し方なしだろう、と藍は思う。
力も知能も、霖とはまるで違う次元のレベルの相手なのだ。
例え藍であっても、霖と同じ立場になればこのような顔をするだろう。
か弱き少女を励ますため、藍は少女に近づき、ポンとその細い肩に優しく手を乗せた。
「元気を出せ、とは言わないが、もっとしっかりしろ。お前がそんなでは打開できる状況も打開できないのではないか」
「……そうだ、ね。ありがとう、少し楽になったよ」
とは言うものの、自分のせいで異変が起こったという事実に軽い眩暈を覚えたのか。
霖の身体がふらりとよろめいた。
藍は咄嗟に支えようとするが、自身の足に躓いたのか、慣性の法則に従って霖の身体へと倒れこむ。
「―――あ」
それは、どちらが漏らした声だろうか。
藍の身体が、霖の身体に覆い被さる形で、二人はもつれあいながら横になった。
お互いの顔の距離が、一気にゼロに近くなる。
ドキドキ、と脈打つ互いの心臓の鼓動が、重なり合うかのように部屋に鳴り響く。
実際は聞こえるはずもない微かな音だが、二人には伝わっていた。…お互いの緊張が。
藍も霖も、顔がこれ以上ないくらいに赤くなっている。
早くどかないと、そう思っていても、まるでゼンマイが切れてしまったかのように身体が動かない。
「リ、リン」
「ラン…ボ、ボクは」
『……ふふ。ランとリン。貴方たち、とてもお似合いよ』
紫様があんな余計なことを言うからだっ、と藍は内心歯噛みした。
目の前の美少女を意識してしまって仕方ない。目を背けることは出来ない。
ダメだダメだ、と自制しようと思えば思うほど、身体にかかる金縛りは強くなる一方だった。
風呂上りの霖から漂う石鹸の匂いが、藍の頬に断続的にかかる熱い吐息が、真っ直ぐと藍を見つめる大きな瞳が。
藍の理性をガリガリとこそぎ落とす。狂わせる―――。
―――私は、この少女の色香に当てられてしまったのか? 馬鹿な。何故?
会ってまだ間もないというのに、どうしてここまで惹かれる? 囚われてしまう?
この女の美しさは魔性だ。藍はそう思った。
藍は必死になって、愛しき我が式の愛くるしい笑顔を思い出す。
―――橙、橙! 私を助けてくれ! この少女が織り成す蜘蛛の巣に絡まれた私を、どうか救ってくれっ!
その時だった。藍の切なる願いが届いたのか。
自分の目の前に、求めて止まない二尾の幼女が立っているように見えた。
―――嗚呼。橙! 助けに来てくれたんだね。
……ん?どうしたんだ、そんな驚いたような顔をして。
何でそんな泣きそうな顔をしているんだい? お前がそんな顔をすると、私まで悲しくなる。
頼むから笑っておくれ。私はお前の笑顔を見ているだけで幸せなんだ。
「ら、藍、さま…?」
そこで藍は気がついた。気付くのが遅すぎた。
猫は夜行性だということに。
甘い香りが漂うというこの異変は、初体験なはずの橙。
藍と同じく妖獣である彼女が、今夜の内に異変に気付くのは明白だ。
未知の異変に気付いた橙はまず何をする?
……決まっている。我が主に会いに、マヨヒガから飛んでくる―――!
「ちちちちぇ、橙! ち、違う! これにはワケが!」
バッ、と即座に身を起こし、目の前で涙を浮かべる自分の式に、慌てて弁解する藍。
さっきまでまるで動けなかったのが嘘のようだった。
霖も、今頃第三者の存在に気付いたのか、驚愕の表情でその場から離れ、橙の姿をまじまじと見やる。
橙も藍ではなく、霖の方を凝視していた。
藍と同じ導師服を身に纏う少女。
その頭と尾に、自分と似たようなものを生やしている少女。
真っ赤な顔をして、自分に怯えたような眼差しを向ける、とても美しい少女。
それで、今までロクに意識したことがなかった、橙の嫉妬が爆発した。
「ら、藍さまは…、あ、新しい式に鞍替え、な、なされたの、…ですね。
よ、よかったですね…、わ、わたしより綺麗だし、も、もうわたしなんか…いらないのですね」
「ち、違うっ! これは何かの間違いだっ! 私がお前を捨てるはずがないだろう!」
「な、なな何が間違いだっていうんですか。あんな格好で…あんな…」
「橙! 聞いてくれ! 私にはお前しかいないんだ! お前がいなくなったら私は死ぬるっ!
生きていく糧を失うことになる! ゆ、許してくれ。私が悪かった。こ、この通りだからぁ」
そう言って、自分の式に対して、ガバッと土下座する藍。
セリフの最後の方になると、藍まで涙目になって、声を震わせていた。
橙の成長を見守る。その為に自分は生まれてきた、とさえ思っている親馬鹿である。
橙に嫌われることは、自身の死に等しかった。
まさに必死である。
「ら、藍さまの…藍しゃまの…」
「ちぇ、橙?」
向かい合った主従の間に一呼吸分の間が流れる。それは大爆発一歩手前のチャージタイム。
「らんしゃまのうわきもの~~~~~~!!」
「ちぇ、ちぇええええええええぇぇぇぇぇん!!」
言い捨てて音速で外へと逃げ去る橙と、それを光速で追いかける藍。
風のように消えた二人が、その後どうなったかなど、霖にわかるはずもない。
藍の魂の叫びが、ドップラー効果でじょじょに低音になって、消えた。
霖は、一体何が起こったんだ? と立ち尽くしたまま、唖然とすることしか出来なかった。
5/ アリス
―――そして、夜が明けた。
紅魔館のメイド長である十六夜咲夜が、館の窓から外を眺めた瞬間。
彼女はその理知的な顔を崩し、驚きの様相を隠す事なく、息を忘れたかのように幻想郷の今の有様を見つめていた。
金平糖のような何やら甘ったるい匂いが、咲夜の整った鼻につく。
「こ、これが『絶対少女領域』? まさか本当に」
昨晩の事だ。彼女の主であるレミリア・スカーレットが、微かに香る甘い匂いに突然顔をしかめた。
咲夜がどうかしたのか、と訊ねたところ、レミリアはこの香りに覚えがある、と言う。
香りといってもそんなものは何も感じない、と咲夜は戸惑い顔で、主人にそう申し開いた。
レミリアはチッ、と一つ舌打ちすると、苦虫を噛み潰したかのような顔で次のように語った。
『……聞きなさい咲夜。これから幻想郷に、実にくだらない異変が起こるわ。
当時の私はこの異変に関わらなかったけど、あの不快感は今でもよく覚えている。
スキマ妖怪が絶対少女領域、とかいう幻想郷のバグのひとつだとか言ってたな』
バグ…? と咲夜は戸惑いの色を更に濃くして、再び主人に尋ねた。
異変ならば、私たちも解決に赴くべきではないか、と。
レミリアはしばし考えるような素振りをしたか思うと、完全で瀟洒な従者に答えは否、と返した。
『……それは何故でしょうか?』
『運命が視えたわ。ほっとけば、近いうちに何か面白いことが起こる、とね』
的中率ほぼ100%の予言にも似たレミリアの、どこか楽しそうな言葉。
主人にそう言われれば、咲夜としても勝手な行動を取るわけにはいかず、口を噤んだ。
レミリアはもう床についている。
異変が起こっても、紅魔館の内は何も変わらず、いつもと同じ忙しい一日が始まる。
変わり果てた幻想郷の空を見上げた咲夜は、何か嫌な予感がする、と言い知れぬ不安を感じていた。
「ゆ、幽々子様! ゆゆこさまーっ! 空が! 冥界の空が! 甘い空気が!」
「……落ち着きなさい妖夢」
白玉楼の主人、西行寺幽々子は、慌てた体で自身の寝室の襖をぴしゃーっ! と開け放った白玉楼の庭師、魂魄妖夢の狼狽を静かな声で諌めた。
だが、妖夢の取り乱しっぷりも、仕方ないことなのかもしれない。
冥界にまで及ぶこれほど大規模な異変は、彼女にとって一大事以外の何者でもないだろう。
真相を知っている幽々子は、今もハラハラと主と外を交互に見る、この可愛い従者の様子に知らず頬を緩めた。
「大丈夫よ。紫がきっと、何とかしてくれるわ」
「ひ、人任せでよいのですか!? こんな大きな異変、いつかのように私たちも解決に向けて動くべきでは……」
「……妖夢が生まれる前にもね、一度起こっている異変なのよ。
ああ、あの時は大変だったわ。なかなか帰ってこない妖忌にイライラと待っている紫がとても印象的だった」
「な、なぜそこでお師匠様の名が…?」
主人の意味不明な言葉に、困惑した面持ちで食って掛かる妖夢。
このままでは埒があかない、と幽々子は笑顔を崩さぬまま、突然パンッと両手を叩いた。
部屋に響き渡る乾いた音に、妖夢はビクッと肩をすくませる。
「―――さ。これでお話は終わりにしましょう。また後でちゃんと説明してあげる。
私はね、この異変が割と嫌いではないの。美味しそうな甘い匂いはとても食欲が進むわ。
……そんなこと言ってたらお腹が空いてきちゃった。妖夢、今日の朝食は何かしら~?」
「ゆ、幽々子さま…」
いつものα波垂れ流しの、幽々子のおっとりとした笑顔に、妖夢は脱力しながら主の名前を呟いた。
永遠亭の中庭に立った八意永琳が、どこか興奮したかのような面持ちで、眼前に広がる空を見上げていた。
「……成功だわ」
「せ、成功って何ですか? これは異変なんですか? な、何がどういう…」
嬉しそうに語る永琳の隣に立つ彼女の弟子、鈴仙・優曇華院・イナバの顔色はもう真っ青だ。
混乱も極まった様子で、師に救いを求めるかのように、震えた声で訊ねる。
「彼が薬を飲んでくれたのよ」
「か、彼って香霖堂の店主がですか? 何で女の子になっただけで幻想郷がこんなになるんですか!?」
「昨日の朝にも言ったでしょ。彼に薬を渡したのは道楽の為だけではない、と。
でも、こんなにも顕著に変化するなんて…。ああ、やはり彼は最高の被験者だったわ」
どうしてこの人は、いつもいつも核心部分しか語らず、自分の質問には何一つ答えてくれないのか。
鈴仙は拗ねたような、恨みがましい視線を永琳に送った。せめてもの反抗である。
そんな弟子の態度に永琳は苦笑すると、いつもの腕を組むポーズを取り、そして口を開いた。
「……私も、全てをわかっていたわけじゃないのよ。
ここをこうすれば、こうなるんじゃないか。…その程度の憶測の域を出ない予想だったのだから。
実際、このような変化だとは、思ってもみなかったわ。
永遠亭はつい最近まで、私の仕掛けによって時を、歴史を止めていた。そのせいで見そびれていた異変の一つがこれ」
「や、やっぱり異変なのですね!? わたしたちはどうすればよいのでしょうか!?」
「何もしなくていい。彼…、いえ彼女は必ずここに来るでしょうからねぇ」
そう言ってニヤリ、と不敵に笑う永琳に、鈴仙はうすら寒いものを感じざるを得なかった。
一体これからどうなってしまうのか、鈴仙には全く予想も出来なかった。
「―――な、何だこれは」
霖が翌朝目を覚ました時、何やら甘い要素が空気に混ざっているのを感じた。
これが正体か、と思いながら客間の襖を開け、縁側から屋敷の外を見た瞬間。
霖の頭の中は真っ白になった。完全に固まった身体で、そんなことを呟くしか出来ない。
幻想郷の空が、色濃い桃色に染まっていたのだ。
流れる雲は、綿菓子のようにはっきりと輪郭を帯びている。
その隣には、無数のクッキーやらチョコレートやらが星の如く、空に浮かんでいた。
大きく息を吸い込めば、まるで砂糖が舌にへばりついたかのような、人によっては不快感を覚えるであろう錯覚を抱かせる。
「これはひどい」
一ヶ月もいれば糖尿病になりそうな、絶対少女領域のサマを肌で感じた霖の抱いた感想はそれだった。
今頃、天狗あたりは大喜びで空を駆け回っているだろうな、と他人事のようにため息を吐いて、霖は屋敷の居間を目指して歩く。
現状を悲観しても仕方ない。どうせ期限付きの異変だ。
自分はそれまでに出来る事を考えよう、と今までの霖にしては若干楽観的な考えを抱いた。
こうして落ち着いて前を向けるようになったのも、紫のおかげなのだろう。
彼女には感謝しても足りなかった。
「おはよう藍」
「お、おはよう」
居間に辿り着くと、そこに座っている妖弧に霖は何でもないように挨拶をする。
昨夜のことは気にしてないよ、という意思表示のつもりだったのだが、藍の様子は数時間前とは明らかに違っていた。
……様子も違えば、よく見ると状況も違っていた。
藍の袖をしっかりと握り締めた、隣に座る化け猫の式が尻尾を立てて、霖を威嚇していたのだ。
何故、そんな敵意に満ちた目を向けられなければいけない、と不思議に思った霖なのだが、そこで自身の頭に生えている猫耳の存在を思い出して、納得に至った。
自分と似た存在が、一つ屋根の下にいるという状況が、彼女は気に入らないのだろう。
本当はそれだけではないのだが、女心に疎い霖之助には永遠にわからない。
「…り、霖。非常に申し訳ないのだが、朝食を食べたら速やかにここから出て行ってくれ。あまり橙を…刺激しないでやってくれ。
―――あ! それ以上私に近づくな! 何をするかわからんぞっ!」
藍は藍で、ダラダラと脂汗を流し、そんな冷たい言葉を投げかける。
明らかに様子がおかしいし、一体どうしたんだ? と霖が彼女に一歩近づくと、藍はバッと身構えて、橙の小さな身体を抱きしめながら、ワケのわからないことを喚いた。
嫌われた…わけではないらしい。それならもっと険しい表情で警戒するだろう。
むしろ藍は顔を赤くし、困まり果てた顔で霖を見る。どこか怯えているようにさえ見えた。
橙はぷくー、と頬を膨らませつつも、藍の抱擁になすがまま身を預けている。
どうやら和解はしたらしい。だがあの後、何が起こったのか容易に想像出来そうだ。
「……それはかまわないんだが、君の主人のスキマがなければボクは帰れないよ?」
「わ、わかっている。紫様はまだ寝ているが、命を賭けてもお前を家に送らせる! さ、さあ食事にしよう! 早く食べ終わろう!」
そんな大げさな、と呆れる霖に気づかず、藍は焦った様子で食事の用意を始めた。
その横に橙が、口を尖らせながらもぴったりと藍に離れずくっついている
可愛い子だなあ、と橙の様子を見て、霖は微笑ましく思った。
霖之助は、霖となって我が家へと帰ってきた。
実を言うと、紫が勢いでつけたこの仮名を、霖はけっこう気に入っていた。
自分らしさを失わず、尚且つ凛とした印象を聞くものに抱かせる、可愛らしい名前だ。
だが、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。
―――その紫といえば、と。
霖はついさっきまで行われてた乱闘を思い出して、困ったように頭を掻いた。
『ちょなによなによいきなりっ! 藍! 私に何か恨みでもあるのっ!?』
『あらいでかっ! 紫様のつまらん一言のせいで橙が! もう私は頭が上がらない!』
ぎゃーぎゃー! と霖と橙の目の前で女同士のプロレスが行われていた。
くんずほぐれつ絡み合って、髪を引っ張り合い、頬を伸ばして、お互いを罵りあう。
紫を起こすだけのはずなのに、何故このような有様に。藍の私怨は計り知れなかった。
責任転嫁にも見えるが、紫の不用意な一言が藍の行為を後押ししていたのは間違いない。
藍もこの憤りを霖にぶつけるわけにもいかず、鬱憤が溜まっていたのかもしれなかった。
たっぷり十分はそうして乱闘している二人を眺め、この時ばかりは霖と橙も顔を見合わせて首を傾げていた。
「……さて。これからどうしようか、な」
店の奥で胡坐をかき、霖は今後の方針を呆と考えていた。
勿論、永琳をギャフンと言わせる打開策。それを考えなければならない。
店は、男に戻るまで当然休業だ。扉という扉に施錠して、今香霖堂は完全な密室状態となっている。
魔理沙が来るかもしれないが、彼女は昨晩の霖之助の質問に大分参っていたようにも見えた。
絶対とはいえないが、当分顔を出さない可能性が高いだろう。
落ち着いて考える時間は十分にあった。
―――ドンドン
と、思っていたら店の扉を叩く音が、霖の耳に入った。
ノックする時点で魔理沙ではない。
どうしようか、と霖之助は焦った。
こういう事態は考えていないわけではなかったが、とりあえず店さえ閉めれば、自分に特別用がある人間など現れないだろう、と少しお気楽に考えていたのだ。
魔理沙や慧音は例外かもしれないが、二人とはつい最近会ったはずだし、この三日の間に訪ねてくる可能性は低いはずだった。
―――まさか、慧音か?
だが、ありえない話ではない。
薬を受け取った霖之助を気にして、わざわざ会いに来てくれる可能性も、無きにしも非ずなのだ。
……しかし、まだ会えない。霖には慧音と顔を合わせる勇気がなかった。
だからと言って、居留守を決め込むわけにもいかない。不審に思われるだけだ。
霖は慎重に、足音を立てないよう店の入り口まで近づいた。
一体誰が来た? と店の棚の物陰からそっと様子を窺う。
と、訪問者は霖の気配に気付いたのか。怒ったような口調で扉越しに声をかけた。
「霖之助さん、わたしよ。紫から事情は聞いているから開けて」
「霊夢…か」
見るからにホッとした顔で、霖は戸の鍵を外し、霊夢と顔を見合わせる。
不機嫌そうだった霊夢が、霖の姿を認めるなり驚愕に目を見開いて絶句した。
藍の時と違って、ある程度の理解と覚悟をもって臨んだはずなのに、霊夢の反応は藍と全く同じだった。
「…………ぇ? マジ? あんたホントに霖之助さん?」
「や、気持ちはわかるが、ボクだよ…」
硬直する霊夢を店内へと誘い、霖は急いで戸を閉めて鍵をかけた。誰に見られているかわかったものではない。
それにしても、他人への無関心さに定評のある霊夢が、他人を見てここまで驚く。
……その意味を、霖は漠然と感じ取っていた。
「それにしてもよく来てくれたね。ここに来たということは、とりあえず異変を静観してくれるつもりなのかい?」
「……」
居間に移り、二人は向かい合い茶と茶請けを囲む。
霖の問いに、博麗の巫女は無言で目を伏せた。
まだ納得しきれてないのは勿論だが、それよりも目の前の少女が霖之助の口調で話しかける、というこの状況に、違和感を感じているようだった。
霊夢は、意を決したように目線を戻すと、諦めたようにどこか清々しい声で言った。
「……納得したわけじゃないわよ。今幻想郷はヘンテコな世界になってるし、どこを飛んでも流れる甘い空気は好きじゃない。
ここに来る前に魔理沙が朝一番神社に飛び込んできたわ。
『おい異変だ! わたしたちの出番だぜ!』って。……テキトーに誤魔化したけど」
「霊夢。……彼女には」
「言ってたら魔理沙はすぐさまここに来てるわよ。霖之助さんのことは何も喋ってない。わたしだってそれくらいの空気は読めるわ」
そう言って、霊夢はズズッと自分専用の湯呑みに注がれている茶をすする。
ありがたかった。彼女もボクの味方であってくれている、と霖は心のうちで感謝した。
異変解決の使命を背負っている博麗の巫女といえど、彼女も基本的に情の深い人間だ。
霖の事情や感情を察し、見て見ないフリをしてくれていた。
「まあ、ここまでやったんだから、ちゃんと自分でこの異変を解決してよね。
結局、わたしたちの手を借りました、なんて結果になったらわたしは許さないわよ。……でも、そんな心配はいらないか」
「どうしてそう思うんだ?」
もうすでに結果を見ているかのように、霊夢は妙に確信めいた予感を口にする。
不思議に思った霖が訊ねた。
「……わたしの勘よ。紫風に言うのなら、今回のお話の主人公はきっとわたしじゃない。
霖之助さんが最初から最後まで事件の中心人物として、幻想郷を引っ掻き回す。…そんな気がするの」
「おいおい、ボクはそんな大物なんかじゃないよ」
「知ってるわ。……でも、誰にだってそんな晴れ舞台ってやつがあるんじゃないかな」
頑張ってね、と最後に言って、霊夢は初めて微笑んだ。
それは、いくら綺麗でも偽りの少女である霖よりもずっと…。
ずっと素敵なまぶしい笑顔だった。
霊夢が訪れた日から、さらに一日が経った。
つまり紫と交わした約束の二日目。期限まであと二日。
相変わらず、香霖堂の居間に居座りながら、霖は必死に様々な策を練っていた。
だが、……ダメだ。
いくら考えを張り巡らせても、永琳は常にその一歩先をいっている気がしてならない。
同時にまんまと騙されてこんな姿になった恐怖が甦る。
昨日は、知恵熱が出そうなほど悩んで、考えて、そして消沈を繰り返していた一日だった。
「……このままじゃダメだな。とても期限に間になんて合わない」
今の霖の姿は、藍が纏う導師服ではない。
昨日のうちに、自分の一張羅の寸法を、今の自分のサイズに合わせ着こなしていた。
ついでにメガネも合わせている。普段身につけているものがないと気持ち悪いからだ。
狭い居間で、散々悩みきった後、―――霖は思い切って外に出ることにした。
こんな所で詰めてたら、纏まるものも纏まらない。とにかく気分を晴らしたかった。
なあに、外に出て誰かに会ったところで、今の少女が森近霖之助だと誰が気付ける?
同じ服を着ていたところで、メガネをかけていたところで、同じ人間だと連想出来るはずがない。
何せ、あの霊夢でさえわからなかったのだから。
そうと決まれば里にでも行こう。……勿論、慧音のいそうな所からは出来るだけ離れた場所に。
ピンク色の空の下でも、里の人たちの生活は何も変わらない。
初日は流石に驚いていたようだが、二日目ともなると皆いつもと同じように暮らしていた。
すさまじい順応性だ。幻想郷で暮らす上での必須スキルなのかもしれない。
そんな往来を歩きながら、霖はこの異変が本当に害がないことに心から安堵していた。
むしろ喜ぶ者は喜ぶのか、空に浮かんでいる無限大のお菓子を、夢中で追いかけている子供達もいる。
その姿に微笑を浮かべていると、ふと何かが目に留まった。
里の人たちが集まっている一団がある。
けっこうな数で、皆興味深そうにガヤガヤとその中心を眺めていた。
何だろうと思い、霖もその輪の中に加わってみることにした。
『あま~い香りと沢山のお菓子に埋め尽くされた幻想郷。
ねえ上海? どうして世界はこんなになってしまったのかしら?』
『馬鹿ね蓬莱。それはきっと甘いものが食べられない人に、神様がくれたお慈悲なのよ』
それは人形劇だった。
煌びやかな装飾がなされている小さな舞台で、見覚えのある人形が向かい合って喋っていた。
その裏で金髪の少女が、糸もないその細い指先を微かに動かし、人形たちに喋らせたり、走らせたり、転ばせたりしている。
人形たちの一挙一動に、子供たちははしゃぎ、大人たちは感心し、老人は微笑を湛えていた。
霖には、人形を操っているその少女に見覚えがあった。
―――アリス・マーガトロイド。
魔法の森に住む人形使い。
人形の完全自律を自身の命題と定め、日々研鑽に勤しむ、孤高の探究者。
香霖堂にも回数こそ少ないが、人形の素材や魔道具を買いに来てくれることがあった。
アリスは汗を流しながらも、歓声が湧くたび、口元を緩めて人形たちを一生懸命操っていた。
種族の違いなど関係なく、里の人間と共存しようとするその前向きな姿勢は、魔理沙や大図書館にはないものだ。
魔理沙といえばもしかして彼女もいるのか、と霖はキョロキョロと辺りを見回すが、どうやらアリス一人のようだった。
……その時、一際大きな歓声があがった。
劇が終わったのだ。
ワーワー、と観客たちが賞賛の声を送る中、上海人形と蓬莱人形は互いの手を繋いで、丁寧にお辞儀をしていた。
里の人たちの歓声を聞いている霖に、―――突如電撃のような閃きが走った。
「―――こッ、これだっ!!」
永琳に一泡ふかせられるかもしれない方法。これしかない!
霖の声が思いの外大きかったからか、アリスが霖の存在に気付く。
衝撃のあまりつい声を出してしまったのだが、霖はそれにかまわず、アリスの元へと走り寄った。
「ありがとう! 素晴らしい劇だったよ! 君のおかげだ! ありがとうありがとう!」
「……は、はぁ。それはどうも」
アリスの両手を握ってぶんぶんと上下する霖に、アリスは戸惑いつつも言葉を返す。
「これで何とかなる! 勝てないかもしれないけど勝負になる!
アリスお願いだ! ボクに協力してくれ! 君の力が必要なんだ!」
「……え、ええと。ところで貴方だれ?」
里の外れにある風車台の前に、霖とアリスは腰を下ろしていた。
その行きがけに、これまで起こった出来事は、全てアリスに説明した。
最初は、目をぱちくりとして固まっていたアリスだったが、悲痛な表情で語る霖の姿に、何か感じ入るものがあったのだろうか。
話だけでも聞いてくれる気になったようだ。場所を移しましょう、と一言いった。
「……それにしても、まさかあの店主さんが、こんなにも可愛らしくなってしまうなんてね。
別にそのままでもいいんじゃないかしら? お客さんもきっと増えるわよ」
「……冗談じゃない。お断りだ。ボクはそこまで酔狂じゃないよ」
「魔理沙には話した? ……あの子、随分と貴方のこと慕っているみたいだけど」
「合わせる顔があると思うかい? 出来れば彼女には、男に戻るまで気付かないでいてもらいたい」
「こんな異変まで起こしておいて、随分とムシのいい話だこと」
そう言って、アリスはお菓子の国でもなってしまったかのような、幻想郷の空を見上げる。
この異変に初めて気付いた時、彼女は興奮した。
今までの異変とは毛色の違う、まるで童話の世界にでも迷い込んでしまったかのような錯覚に、アリスの乙女心は弾みに弾んだ。
その勢いで、魔理沙に会いに行こうと彼女の家まで赴いたが、生憎彼女は留守だった。
どうせそこら中飛び回っているんだろうな、と納得し、アリスは一人で異変の調査に乗り出した。
だが、そこでわかったのは、この異変はいわば自然発生したものだと言う事。
紅魔館、白玉楼、永遠亭など思いつく場所は回って訪ねてみたのだが、何か特別なことをしているような気配はない。
それどころか、彼女たちはこの異変に関わるつもりはない、と言う。
最後に博麗神社にも赴いてみた。しかし、霊夢の答えも知らない、どうでもいい、の一点張り。
博麗の巫女までもが静観するこの異変。
アリスには、この異変がそう悪いものではないようにさえ思えた。
実際、特に迷惑しているような住人はいないし、原因もさっぱりわからない。
いつまでこの状態が続くかは知れないが、しばらくならこの状況も悪くないか、と思う事にした。
まさか、男キャラがいなくなった事による異変だったとは、夢にも思わなかったが。
「だけど、祭りの時でもないのに人形劇を披露するなんて珍しいね。何か心境の変化でもあったのかい?」
「……別にそんなものないわよ。ただ幻想郷の変化をわたしなりにモチーフしたかっただけ。
興味深いことを他人に伝えようと思うのに、理由なんか必要ないわ」
話題を変えたいのか、気になっていた疑問をぶつける霖に、アリスはそっぽを向いて気だるげに答える。
霖の目論見は外れ、アリスは再び魔理沙の名前を口にした。
「そういえば、一昨日の昼だったかしら。魔理沙が家を訪ねてきたのよね。
香霖堂の窓を直したいから、復元のコツを教えてくれ、って。
何があったのかは教えてくれなかったけど、彼女……気落ちしていたわよ?」
「そう、か…。やっぱり気にしていたんだな」
アリスの言葉に、霖はうつむく。
自分と同じくらい、いやそれ以上かもしれない。
あの日の朝起こったやり取りに、魔理沙は傷ついていたのだ。
普段なら、少しくらいの無茶をしても魔理沙を迎え入れてくれる霖之助が、拒絶した。
帰って欲しい、という意思を隠そうともしなかった。
親元を飛び出した魔理沙は、霖之助を第二の父として捉えている節がある。
そこに恋愛感情など全くないことは確かだが、家族愛としてなら幻想郷にいる誰よりも深い。
魔理沙にとって霖之助は、ある意味親友である霊夢と同じくらい大切な人なのである。
だからこそ、霖は今の自分の姿を魔理沙に見せるわけにはいかなかった。
「そ、それで、わたしに協力して欲しいことって何?
まさか自分と一緒に、薬師のところへ乗り込めっていうの?」
「……違うよ。君にはあることをしてもらいたいんだ」
落ち込む霖に気まずさを感じたのか、慌ててアリスは本題に入る。
霖は、いつになく真剣な表情に戻して、口を開いた。
「し、信じていたのに」
霖は、アリスに協力の要請をした後、里の寺小屋へと訪れていた。自分の意思でだ。
教室で教鞭を振るっているであろう慧音に会う為に。
休憩時間を狙って、霖は慧音の休んでいる宿直室に顔を出した。
霖の顔を見て、慧音は一瞬ハテナマークを浮かべたが、少女の服装やメガネですぐに察した。
膝をつき、ガックリと項垂れて、そんなセリフを呟いた。
霖は今までのこと、この異変の原因などを手短に慧音に話すと、膝に当たるほどの勢いで頭を下げた。
「……すまない。君との約束を破ったことは謝る。だが聞いてくれ。ボクにはやらなくてはいけないことがあるんだ。
男の威信を賭けてあの薬師と対立する。……ムシのいい話だが君にも協力してほしい」
「あ、あれと対立だ、と? お前は何を考えているんだ。
言っちゃ悪いが、お前では相手にもならない。……それに協力ってなんだ?」
次々と驚愕の事実を聞かされて、慧音は若干混乱気味にそんなことを聞いた。
昨日から起こった異変が何か気にならないわけではなかったが、教え子たちがあんまりにも喜ぶので、自分から積極的に解決しようとは思わなかった。
だがまさか、霖之助が女になったから起こったとは…。頭を抱える思いだった。
腹立ちもあるといえばあるのだが、いつもの霖之助ではありえないその必死な懇願に押され、慧音はつい続きを促してしまう。
「君には里の男達を集めてもらいたい! 明日の夜に、里の広場に!」
「な、何だそれは? 明日って…ちょっと話が急すぎやしないか?」
「時間がないんだ。これは里の守護者である君にしか出来ない!」
霖のあまりの迫力に、慧音はタジタジになりながらも異論を返した。
だが、霖は譲らない。譲れない。今が―――その時。
結局、慧音は言いたいこともロクに言えないまま、首を縦に振るしかなかった。
……そして霖は、再び永遠亭の前に立つ。
その隣にはアリスが並び、不敵な笑みを目の前の屋敷へと向けていた。
珍妙なタッグはお互いの顔を見合わせ、頷き合った後、屋敷の門を叩く。
―――ファンタジーではなく、ファンシーと成り果てた幻想郷の空の下。
―――霖と永琳。二人の少女の戦いが、今まさに幕開けようとしていた。
6/ 霖
霖とアリスは、永遠亭の客間に通されていた。
玄関から顔を出した名もない兎に、『香霖堂の店主が来たと伝えてくれ』と言った。
すぐに戻ってきた兎の少女は、何やら慇懃な態度で二人の珍客を中に通した。
客人を丁重に持て成してくれ、とのことだ。どうやら歓待されているようである。
以前にも通された広い和室に座り、霖は何度も深呼吸を繰り返した。
「そんなに緊張しないで。大丈夫、薬師にはわたしから話すから」
「それは、…ダメだ。勝負の詳細の説明は君に任せるしかないが、挑戦状はボクが叩きつけるべきなんだ」
「……ふん。凛々しい顔しちゃってまぁ。でも、あまり心配する必要はないみたいね」
隣に座るアリスが、微笑を浮かべて目線を前に戻す。
もうすぐこの部屋に、永琳がやってくる。再び顔を見合わせる。
その事実が、煮え湯を飲まされた過去の映像をフラッシュバックさせる。
それを無理矢理振り払うと、霖はまたひとつ深呼吸した。
―――落ち着け、冷静になれ。ボクたちは対等だ。対等な立場でこれから勝負を申し込むんだ。
尻込みするな! ……紫、霊夢、そしてアリス。皆のおかげでボクはここにいられるのだから。
自身の弱さを、優しく受け止めてくれた人がいる。
使命感を抑え込み、なお励ましてくれた人がいる。
無茶なお願いに、快く手を貸してくれた人がいる。
今の彼女は霖之助であって、霖之助ではない。
沢山の思いや葛藤をその胸に秘め、そして確固たる意思を持つ、一人の少女―――霖だ。
永琳には負けない。彼女だけには…負けたくない!
どれほど、そうしていただろうか。
十分以上待ってたような気がするし、あるいは二~三分のことだったかもしれない。
気負い気味になって、時間の経過がわからない霖の耳に、襖の開く音がした。
「……あら、あらあらまあまあ! 貴方が香霖堂の店主?」
「う、うそ」
「へえー、可愛いじゃない。……これで賭けは私の勝ちね」
「……チッ」
そこに入ってきたのは、八意永琳だけではなかった。
永琳の弟子である、鈴仙・優曇華院・イナバ。
永遠亭の家主である、蓬莱山輝夜。
そして、兎たちを束ねる因幡てゐの姿が、そこにあった。
ちなみに輝夜の言っている賭けとは、女体化した彼が美人か否か。
比較対象は鈴仙である。
永遠亭のメンツが大集合といった、突然の人口密度の割増に、客人二人は度肝を抜かれる。
恐らく、霖の顔を拝見したかったからだろう。聞き耳だけでは物足りない。
特に店主の顔を知っている鈴仙は、口をあんぐりとさせて立ち尽くしていた。
「ふふ。外野たちは気にしないであげて頂戴ね。貴方を見たいとうるさくて…」
「……別にかまわないが」
実際、霖の前に座るのは永琳ただ一人だ。他の三人は部屋の隅に控えていた。
本来なら客人に対して、座して迎えるべきであろう立場の輝夜も、従者たちと一緒に引っ込んでいる。
私のお客さんではないから。…そういうことなのだろう。
あと、返す霖の口に、以前あった丁寧語は消えていた。もはや丁寧に対応するべき相手ではない。
永琳の目が、霖の横に座るアリスの方に向けられ、少し意外そうな顔をした。
何でアリスが霖と一緒にいるのか、流石に理由が思いつかないようだ。
「それで、どういった御用向きなのかしら? ……まさか、そこの人形使いと一緒に、私を倒す作戦でも立ててきたの?」
「……」
見下すような永琳の声に、霖は拳を強く握り、黙り込む。
力に訴えようとするなら無駄だ、と言外に伝えている。―――それが輝夜たちだ。
いくらアリスでも、一人でこのメンツを相手に勝てるはずがない。
男に戻す気はさらさらないようだった。
「愚問だな。君がそう簡単に折れるはずがないことはわかっている。
彼女は協力者だ。だが、それは戦力として買ったわけじゃない」
「……随分と強気、ね。では何? 貴方は私に何が言いたいのかしら?」
そこで、霖は最後の深呼吸をする。
甘い空気を思い切り吸い込んで、ゆっくり吐くと、霖は意を決したかのように口を開いた。
「明日の夜、里の広場で『第一回幻想郷美少女コンテスト』を開催する。
八意永琳。君も参加者としてエントリーするんだ。……ボクと勝負をする為に。ボクが勝ったら、男に戻れる薬を渡してもらう」
「…………は?」
ぽかん、と。永琳は口を半開きにして、愕然とした表情で、真剣な霖の顔を見る。
霖はこの時初めて稀代の薬師の、素の顔を見たような気がした。
霖之助が永琳に勝つ。
それは、はっきり言ってどんな勝負であろうと、不可能なことである。勝ち目などまるでない。
一介の半人半妖である彼と、月の頭脳とまで呼ばれる天才。
身体も頭も、その出来が分子レベルから違う。ライオンとミミズの戦いである。
だが、今のこの姿なら。
霖之助では無理でも、霖にならたった一つだけ勝機があった。
自分自身を悩殺し、
藍を陥落しかけ、
霊夢を仰天させた―――この美貌だけは、永琳にも負けていない!
およそ、霖之助がとりそうな手段ではなかったが、霖にはこれしか思いつかなかった。
霖の考えた勝負とはこうだ。
まず、手先の器用なアリスに舞台のセッティングをしてもらう。
大きな舞台を作らなくてはいけない。
あの尊大な薬師に、決定的な挫折と強い敗北感を味わってもらうために。
幻想郷全土を巻き込むような、派手で華々しいステージを仕立てあげなければならなかった。
それは、明日までという期限付きの霖一人ではとても無理な話である。
だからアリスに協力を願い出た。
人形を操る事で人手を増やせ、尚且つ物作りにかけては右に出る者はいない彼女の力を借りる必要があったのだ。
アリスは最初、驚いた顔で霖の説明を受けていたのだが、話が終わる頃にはニヤリと口元を吊り上げて、いじめっ子特有の邪悪な笑みを浮かべていた。
『……条件が二つあるわ』
『ボクに出来ることなら何でも』
『まず一つ目。
それは舞台の演出も、勝負の内容も、全てわたしに任せること。
……要は、店主さんはあの薬師と顔で勝負出来ればいいんでしょう。
だったらわたしに任せて頂戴! とびっきりの舞台を用意させてもらうわ!』
『そして二つ目。
わたしは貴方に、女の子としての極意。作法からポーズ、セリフまで全て伝授させるわ。
もちろん、貴方を勝たせるためにね。これから本番までの短い間、わたしを師と仰ぎなさい。わたしの言うことは絶対よ!
……ふふ。こんな素晴らしい無垢な素材をわたし色に染められるなんて、わたしって何てついているのかしら!』
狂喜しながらくるくると踊るアリスに霖は不安を覚えたが、それで協力してくれるのなら是非もない。
これは己の意地であった。
あの永琳に勝てるのなら、自分を女にしたことを後悔させられるのならば、何でもするつもりだった。
『大丈夫! わたしの言う通りにやったら、絶対に勝てるんだからっ』
そして、次に慧音に会い、その舞台の観客を用意してもらう。
やはり女性の純粋な魅力勝負なら、審査員は男以外にありえない。
これは慧音にしか頼めなかった。
裏切った上に、なお困らせるような真似をする。
……本当に、心苦しかった。
男に戻った後、何度だって彼女に謝ろう。許してくれないかもしれないが改めて謝罪しよう。
―――だが今は勝負に集中する。
霖はキッ、と永琳の顔を睨み付けた。
永琳はまだ我に返れない。霖の言葉があまりにも意外すぎたからだろう。
何百通りもの、およそ霖之助が取りそうな行動をシミュレートしていたのだが、こんな展開は永琳にさえ読み取れなかった。
それも当然だろう。霖之助なら絶対に取らない選択。だが霖なら取る。
自身の最大の長所を生かした苦肉の策。永琳の眉がピクッと引き攣った。
「……ふ~ん、貴方そんなに自分の顔に自信があるの? 見ていて滑稽なほどのナルシストね。
頭にウジでも湧いたのかしら? そんな子供騙しとも呼べない挑発に、私が乗るとでも思ってるの?」
ゴミでも見るかのような嫌悪感に顔を歪めながら、永琳はそんな蔑みの言を吐き捨てる。
普段よりも饒舌な永琳に、霖は気にした風もなくニヤリと笑ってみせた。
「男に負けるのが、そんなに怖いのか?」
「……な、なんで、すって」
月の頭脳に血が上る。
ワナワナと身体を震わせる永琳に、いつもの冷静さは微塵も感じられない。
鈴仙はおろおろして、永琳と霖の顔を見比べる。
対照的に、輝夜とてゐはニヤニヤと二人の会話を見守っていた。
そこに畳み掛けるかのように、今まで黙していたアリスが大会の概要を説明した。
「……この大会の参加者は、貴方たち二人だけじゃない。
参加する意志のあるものなら、誰だってエントリーを受け付けるわ。
今、私の人形たちが幻想郷の各所に回って宣伝している。…もう逃げられないわよ」
永遠亭の門前で見せた不敵な笑みを、アリスは再び浮かべた。
だが、永琳は抵抗する。
何故、私がそんなものに参加しなければならないのか、こんな屈辱を受けねばならないのか。
自分は躍らせる立場であるべき人間だ。
こんな低俗な発想しか浮かべられない連中の言葉に踊らされるなど、断じてあってはならない―――!
「……もう結構よ。貴方たちの下らない話を聞いてると、吐き気を催しそう。
客人がお帰りになるわ。うどんげ、玄関まで送って差し上げなさい」
「はっ、はい!」
永琳の言葉に、鈴仙が見るからに安堵した表情で、霖たちの横に立つ。
ホラ立ちなさい、とぐいぐい腕を引っ張る鈴仙にかまわず、霖は最後のセリフを紡いだ。
「逃げたければ逃げるといいよ。ボクには逃げるものを追う趣味はないからね。
男には戻れないが、本懐は果たしたようなものだ。ボクは君に一矢報いればいいのだから。
言われなくても、ボクたちはこれで失礼するよ。―――オバサン」
「…………」
「参加者として来るのが嫌なら、観客としていらっしゃいな。
人形使いの名にかけて、大きく派手に、そして楽しい大会に仕立ててみせるわ。
時間は明日の酉の刻。場所は里の中央広場よ」
「い、いいからもう帰って! これ以上師匠を怒らせないでっ!」
必死な鈴仙に背を押され、霖とアリスは退室する。
屋敷を追い出され、玄関の前に立つ二人に、冷たい冬の風が流れた。
永琳がまだいるだろう客間の方向をじっと見つめながら、霖がボソッと呟く。
「さて、これからが大変だ。舞台の準備とご指導、よろしく頼むよ」
「それはともかく貴方、挑発が上手いわね。あの薬師を相手にして、ああまで虚仮に出来る人なんてそうはいないわ」
「……これで少しは溜飲が下がったよ。それに、少々怒らせてでも彼女には参加してもらう必要がある」
「少々で済めばいいけどね。大会に血の雨が降らないことを祈るわ」
アリスの呆れたような言葉に、霖は苦笑いをした後、頬を強く引き締めた。
「―――ウドンゲェェ!」
「ひゃい!」
二人を追い出した後、憂鬱な表情で客間に戻ってきた鈴仙は、入って早々師匠の怒声に身を竦ませることになった。
ここまで怒りを露にする永琳を、鈴仙はついぞ見たことがない。
ああ、何てことしてくれたんだあの二人。これはとんでもないことが起こる―――。
「天狗のところまで使いに行って! 今すぐよっ! 人形たちに宣伝させるとか言ってたけど、そんなんじゃ生温いわ!
そのコンテストとやらを幻想郷中に! 大々的に広めるよう天狗に話を通して頂戴!」
「あ、あわわ…」
「まあまあ落ち着きなさいよ永琳。イナバが怯えているじゃない」
「姫は黙ってて!」
永琳のあまりの剣幕に、震えて動けない鈴仙を見かねてか、輝夜が仲裁に入る。
だが、その制止の声も今の彼女には届かないようだ。
おぉこわ…、と一歩身を引く輝夜にかまわず永琳は、狂ったように笑い出した。
「逃げるですって…、お、オバサンですって…! あ、あははははははは! 上等じゃない! 目に物見せてくれるわ!
絶対に優勝してやる! あの小娘に、生まれてきた事を後悔するほど恥をかかせてやる!」
机の上に片足を乗せ、両手を広げて哄笑する永琳に、鈴仙はこの世の終わりを見た気がした。
永琳と千年以上もの長い時を共にしてきた、さしもの輝夜も彼女のあまりの豹変ぶりに思わず冷や汗を浮かべる。
だが、てゐだけは違った。
彼女はいつの間にやら持っていた紙とペンを手に、活き活きと顔を輝かせていた。
「トトカルチョよ! まずは出馬する相手を調べなくっちゃ!」
……まるで、それが自身の使命であるかのように。
紅魔館に一通の文書が届いた。
人形が抱えてきた、そのカラフルな文書の内容は、第一回美少女コンテストの詳細と、
参加者募集中! とでかでかと書かれた一文であった。
それに目を通したレミリアは、ニヤリと笑うと、傍に控えている咲夜に向けて命を発した。
「やっぱり面白いことになったわね。―――咲夜、コンテストに出なさい。これは命令よ」
「……なっ!」
愉快そうに笑う主人に、咲夜は絶句して目を見開く。
冗談ではない、といった体で弱々しく抗議すると、レミリアはその紅色の瞳を細めて、威圧感たっぷりに言い放った。
「……聞こえなかったのか? 私は出ろ、と言ったのだけど」
「しっしかし、私は――――出ます……。お嬢様のご命令とあらば」
観念した咲夜はがっくりと項垂れる。レミリアはその様を満足そうに眺めていた。
嫌な予感は当たった、と咲夜は心のうちでポツリと漏らした。
「あたいこれにでるっ! あたいのさいきょうをみんなにつたえるぜっこうのチャンスだわっ!」
「チ、チルノ…?」
湖の畔に落ちてきたチラシを目にした途端、青いジャンパースカートを身に纏った幼女が、バッと両手を天に掲げ、意気揚々とした眩しい笑顔で隣に立つ少女に向かって叫んだ。
氷の妖精チルノと、冬にだけその姿を現す妖怪レティ・ホワイトロックである。
突然のチルノの決然とした様子に驚いたレティは、自身もちらりとそのチラシを覗き、そして青白い顔をさらに青くして言った。
「だ、ダメよダメよ! あんたみたいなのが出たって恥をかくだけだわっ」
「そんなのわかんないじゃない! レティはあたいがきれーじゃないっていうのっ!?」
「綺麗以前の問題でしょ! あんた、外見も頭もまんま子供じゃない!」
頭は関係ないと思うが、確かにチルノの見た目は○学生である。
そんな彼女が出ても、喜ぶのは一部のアブないお兄さんだけだ。
だが、チルノは折れない。これと信じたら溶けてなくなるまで突き進む、純真無垢な⑨なのだ。
「ぜ~ったいゆうしょうしてみせるわっ! レティもいっしょにでようよ!」
「無理無理無理無理! 悪い事は言わないからやめなさい! 何か私まで恥ずかしくなりそう!」
大きな湖に、二人の喧騒が響き渡る。
……四人目のエントリーが決まった瞬間であった。
―――射命丸文は歓喜していた。
突如幻想郷を襲った、妙ちくりんな異変だけでもネタに尽きないというのに、それどころか幻想郷の歴史に残りそうな、愉快という文字を体現したイベントが催されると言うのである。
伝えに来た鈴仙が涙目だったことなど、文は一秒で忘れていた。
己はこの時の為に生きてきたとばかりに、文は神速で原稿を作り、印刷機が刷りきれるまで発行し、そして幻想郷最速の名に恥じぬ速度で夕刊配布をしていた。
「みっなさ~ん! 毎度おなじみ文々。新聞で~す♪
明日の夜に幻想郷一大イベント! 『第一回幻想郷美少女コンテスト』が開催されますよー!
詳細は文々。新聞! 文々。新聞に! 文々。新聞を今後ともご贔屓に~!」
ヒャッホー! と掛け声をあげなから、文は幻想郷中を疾駆する。
その遥か後ろでフラフラと飛んでいた犬走椛が、すでに聞こえない距離まで離れているにも関わらず、文に向かって大声で叫んだ。
「あ、文さまー! 待ってください! もっと落ち着いてください! 何でわたしがこんな目にー!」
配布を手伝え、と有無を言わさず外へと連れ出され、そして、両手一杯に新聞を抱えさせられているこの状況。
……当然、そんな椛の悲痛な叫びなど、文には届いていなかった。
「び、美女コンテスト? 霖之助さんったら、何考えて…」
「あん? 何か言ったか霊夢?」
「……なんでもない」
博麗神社の縁側で、チラシを読んでいた霊夢が、慄然とした表情でそんな呟きを漏らした。
隣に座っていた魔理沙が、訝しげに眉を顰める。
聞こえてなくてよかったと内心安堵し、霊夢はチラシをくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
それを鮮やかにキャッチした魔理沙は、チラシを広げ直し、その内容に目を通す。
『主催者:アリス・マーガトロイド』と書かれた項目を見て、魔理沙が腹を抱えて爆笑した。
「ぶはははははは! アリスのやつ一体何考えてんだ?
こんなアホな大会に出るような奇特モン、幻想郷には一人もいないぜ」
「……」
知らないとは何と幸せなことだ、と霊夢はそんな魔理沙を冷めた目で見やる。
それにしても、まさかこんな手段に講じるとは思ってもみなかった。
アリスをどうやって引き込んだのかは知らないが、タイミングといい、明日開催という急すぎる日程といい、霖之助が一枚噛んでいることは明白である。
でも、確かに今の霖之助があの薬師に勝つには、それしかないような気もする。
霖の美貌を一度見ている霊夢だからこそ納得出来た。
「―――明日が楽しみね~」
突然、二人の間からスキマを通して、紫がにょきっと顔を出した。
二人は一瞬驚いた素振りを見せるもすぐに持ち直す。紫の神出鬼没など、もはや慣れっこである。
「あんたは出ないの紫? こういうの好きでしょ」
「うーん、出たいのは山々なんだけどね。出たら私が必然の如く勝っちゃうし、ここは霖の顔を立てて自重するわ。
……藍を誘ってみたら全力で断られちゃった。『霖が出るなら私に勝ち目はありません』って」
「おい、リンって誰だ? 聞いた事ない名前だぞ」
ため息交じりに返す霊夢に、紫はおどけた口調で自信満々なセリフを口にした。
魔理沙は聞いた事のない名前に顔をしかめて、二人に尋ねる。
「……だいたいお前ら変だぞ。
異変はほっとくし、何かこうなることを知ってたような口ぶりだし、……わたしに何か隠し事があるんじゃないか?」
霊夢のため息や、紫の含み笑いに何かを感じたのだろうか。
魔理沙は、自分だけ蚊帳の外にいるような、そんなモヤモヤとした孤独感に苛まれた。
幻想の結界タッグは、そんな彼女を揃って見つめると、顔を見合わせて苦笑した。
霖はアリスの家で、彼女からレッスンを賜っていた。
内容は勿論、少女講座。
その立ち振る舞いから喋り方まで、アリスは自身の知っている全てを彼女に授けるつもりだった。
舞台の製作は今、操れる限界までの数の人形を使役して任せている。
勿論、それだけでは足りないので、里の人間にも数人、事情を話して手伝ってもらっていた。
「……いい? 貴方に要求することはただ一つ。馬鹿女になること」
「ば、ばかおんな?」
アリスのとんでもない発言に、霖は目を点にしてオウム返しに聞き返す。
「そうよ。あの薬師に勝つには、同じベクトルで挑んでもダメなの!
徹底的に彼女と対極の道を歩みなさい! つまらないプライドなんて一切合財捨てなさい!
観客に媚びて媚びて媚び尽して、萌え殺しなさい! そうすれば勝利は貴方のものよ!」
「……具体的にどんなことをすればいいんだい?」
「その口調をまずやめなさい! さっきのセリフを変換するならば、
『具体的にどんなことをすればいいんですかぁ~? キャハッ』―――こうよっ!」
「……」
興奮してまくしたてたり、身体をクネクネして甘い声を出したり、今のアリスのテンションはどうかしていた。
だが、顔だけで勝てるほど、世の中甘くはないのだ。
本当に勝ちたいならば、女に成りきることも覚悟しなければならない。
霖は、ダラダラと脂汗を流しながらも、必死に笑顔を作りさっきの掛け声を真似てみた。
「きゃ、きゃは」
「……何よそれ! やる気あるの!? ああもうっ! これは一晩かけてでも矯正する必要があるわね!
特訓よ! 調教よ! わたしが貴方を誰よりも女の子らしい女の子に変身させてあげる!」
たっぷり更けた夜の森に建つ、一軒屋の窓から生活の光が漏れている。
その窓から『ワンツー! ワンツー!』とダンスの特訓でもしているかのような掛け声も漏れ聞こえていた。
霖之助から霖への、真の意味での脱皮が今始まろうとしていた。
―――そして、約束の期限最終日。コンテスト当日。三日目の朝が訪れる。
「い、嫌ですっ! 美少女コンテストなんてわたし出れません!」
守矢の神社の一室。
東風谷早苗は、自身に迫って懇願する山の神様二人に対して、必死の形相で首を横に振っていた。
そんな早苗の右手を八坂神奈子が握り、左手を洩矢諏訪子が握っている。
「お願いだよ早苗。人間からの信仰を得るためにも、ここは一肌脱いでおくれ」
「うんうん、早苗は可愛いからね。 出場すれば優勝間違いなし! 私が約束してあげる」
「そ、そんな如何わしい方法で信仰なんて得たくありません!」
本当は、神様ふたりにとって信仰など二の次であった。
ただ、可愛いこの子を何か大きな舞台に出してあげたい。それだけである。
優勝した暁には、この美少女はウチの風祝なんだぞー! と観客や参加者の前で自慢したいと思っていた。
……というか優勝を信じて疑っていない。
勿論、そんなことを言えば早苗に無用なプレッシャーを与えてしまうことになる。
だから信仰を理由に、神奈子と諏訪子はお願いする。
そこまで気を遣えるのに、親同然の欲目から早苗の意思自体はあまり尊重していないところが、この二人らしい。
「……守矢はまだこの幻想郷に来て日が浅い。他と比べて圧倒的に認知度が足りていないんだ。
早苗は宣教の為に、よく里に出向いてくれているけど、それだけでは時間がかかりすぎる。
これは起死回生のチャンスなんだ! かつての栄光を再び取り戻せる…転機!」
「私のようなぺったんこや、神奈子みたいなババアじゃ優勝なんてとても無理なの! お願い早苗! 私たちに力を貸して!」
「おい? 誰がババアだって?」
「なによぅ!」
顔を見合わせた瞬間、ぎゃいぎゃいあーうー喧嘩する神様たちを尻目に、早苗は嘆息した。
……そりゃ早苗だって信仰は欲しい。
だからって、何故自分がアイドルの真似事をしなければいけないのか。
そんなに自分に恥をかかせたいのか。
彼女たちが何を考えているのか、早苗にはわからなかった。
「……とにかく、私はそんな大会には」
「―――いけない! もうエントリーの受付が終わっちまう!
喧嘩している場合じゃないわ諏訪子。こうなったら強行手段を取るよ!」
「よしきた! 早苗ちょっと我慢しててね! すぐにつくから」
「え、ちょちょ、神奈子様! 諏訪子様ー!」
そう言って、息ぴったり頷き合った二人は、ガッシリと早苗の両腕を取ったかと思うと、哀れな巫女を連れて風のような速さで外へと躍り出た。
もうどうにでもなれ―――、早苗は薄れ行く意識の中で、そう思った。
「……行くのね? 穣子」
「止めないで静姉。勝てないかもしれないけど、それがっ…それが私のっ」
―――矜持。
建前の信仰獲得でコンテストに臨む守矢の少女たちとは違う、自身のプライドを賭けた挑戦であった。
秋を司る彼女たち秋姉妹にとって、これから長く苦しい一年間が訪れる。
豊穣の季節が終われば、もう二人の出番は当分ない。役目もほとんどない。
自身に対する信仰を細々と繋ぎ止めながら、ひたすら耐えていくしかないのだ。
……だが、突然目の前に思わぬチャンスが振って湧いた。
姉妹の存在を存分にアピール出来る、強烈な印象を残し得る絶好の機会が訪れたのだ。
優勝すれば、信仰に事欠くことはない。来年の秋もとても明るいものになるだろう。
大会の存在を新聞で知った昨夜、秋穣子は悩みに悩んで眠れぬ夜を過ごしていた。
きっとコンテストには、幻想郷に住まう粒揃いの美少女たちが参加するのであろう。
自分では勝てないかもしれない。……いや、きっと勝てない。
―――だから、だから何だというのだ。
挑みもしない内から諦めてしまうのか?
こんな滅多にないチャンスを、指をくわえて眺めているというのか?
恥をかく? 考えるだけで何も行動しない方がよっぽど恥ずかしいではないか!
穣子の腹は決まった。
翌朝、穣子は家の戸口に立ち、その背中を姉である秋静葉に向けて決然と立っていた。
少女の立ち姿から、最早迷いは見られない。
静葉はそんな妹を、何か眩しいものを見るかのように目を細め、そして穏やかな微笑を浮かべながら声をかけた。
「……いってらっしゃい。私も夜になったら応援に行くから」
「うん。私頑張る! きっと、きっと何かのカタチは残してみせるから―――」
姉の方を振り向き、穣子は満面の笑顔でそう言った。
紅魔館の巨大な門前に立つ、館の門番―――紅美鈴は、本館から門に向かって歩いてくる自身の上司、十六夜咲夜の姿を認め、不思議そうな顔で彼女に声を掛けた。
「あれ? 咲夜さん、こんな時間にお出かけですか?」
「……ええ、ちょっと里にね。くだらないコンテストに参加しなくては―――」
と、不機嫌そう説明していた咲夜は、そこで美鈴の顔をマジマジと見た。
突然何だろう、と少しだけ顔を赤らめて、美鈴は再びメイド長に訊ねた。
「ど、どうしたんですか? わたしの顔に何か付いて」
「―――美鈴。ちょうどいいわ。貴方も一緒に来なさい」
「……ええっ!?」
里に? 自分が? 何のために?
美鈴が混乱していると、咲夜はグイッと美鈴の腕をとって、そのままズルズルと彼女を引き摺り始めた。
「ちょちょちょっ! 咲夜さん! 門番の仕事はどうするんですかっ!?」
「代わりなんていくらでもいるでしょう? 旅は道連れ世は情け、ってね。……ついでだから貴方にも参加してもらおうかしら」
「まっ、待ってください! わたしの意思は? 拒否権は!?」
「あるわけないじゃない」
呆れたように、当たり前のように言う咲夜に、美鈴の顔が絶望に染まった。
何が、旅は道連れ世は情けだ! 道連れの部分しか合ってない―――!
しかし、咲夜も似たような形で参加する羽目になったことを、無論美鈴は知らない。
紅魔館の住人にとって、『上からの命令』は絶対なのだ。
可哀想な華人小娘に、反抗する術などあるはずもなかった。
「うわーん! 嫌です嫌です! 紅魔館に帰りたいっ!」
「……私だって、帰れるものなら帰りたいわよ」
それでもせめてもの抵抗、と子供のように手足をジタバタとさせる美鈴。
そんな彼女の首根っこを掴まえている咲夜は、深いため息を吐いた。
―――これで、コンテスト参加者全員が、里に結集することになる。
コンテストまであと数時間と差し迫った夕刻。
霖とアリスが里の広場に足を運んでみると、それはそれは立派な舞台が、すでに九割方完成していた。
十体以上もの人形が、寝る間も惜しんで手掛けた苦労の結晶だ。
力仕事担当の里の男たちも、夜遅くまで手伝ってくれた上、今もせっせと木材やらを運んでいる。
霖が男たちにお礼を言うと、顔を真っ赤にさせて頬をポリポリ照れていた。
ステージの上に立ち満足げに微笑むアリスに、隣に立つ霖はふわぁ~、と感嘆の声をあげた。
「す、すごいですね~。貴方に頼んだ甲斐がありましたぁ…」
「ふふ。……そういう貴方こそ見違えるようだわ。よくあの辛い特訓に耐えてくれたわね」
「よしてくださいよ。あの薬師に勝つためなら何だってしますぅ」
本当に見違えている。というよりもはや霖之助の面影などカケラも残ってなかった。
「本番まであと少し。後は舞台装置の点検と、貴方の総仕上げね!」
「お願いします師匠! ボク頑張りますっ!」
いや、一人称だけは辛うじて残っていたようだった。
これはこれでいい要素だろう、というアリスの判断によるものである。
すっかりブレインウォッシュされた霖は、太陽のように眩しい笑顔を見せた。
因幡てゐは、自身の手に握られた下馬評、オッズ表、参加者名簿を入念に吟味していた。
兎を使った情報網と持ち前の行動力が功を奏し、僅か半日程度で全てのデータが揃い、昼を回る頃には下馬評の完成。
あとは、日々の娯楽が少ない里の住民たちに一声掛けるだけで、用意していた下馬評と馬券は飛ぶように売れていった。
今回催される、『第一回幻想郷美少女コンテスト』の参加者は全部で七名。
エントリー№1 チルノ
エントリー№2 十六夜咲夜
エントリー№3 紅美鈴
エントリー№4 八意永琳
エントリー№5 秋穣子
エントリー№6 東風谷早苗
エントリー№7 霖
それぞれのオッズや人気順、評判などは、読者の皆さまのご想像にお任せする。
ただ、霖の人気は最下位であった。
だがそれも仕方ないだろう。何しろ全くと言っていいほど知名度がないのだ。
てゐが作った評価にも、『幻想郷の可愛い新入り』程度にしか書いていない。
一攫千金を狙うギャンブラーも、数えるほどしか賭けていない大穴中の大穴。
それを見たてゐは、しめしめとほくそ笑んだ。
「ククク。馬鹿な野郎どもだ」
実は使いの兎に頼んで、こっそりと自身のポケットマネーを全て、霖に賭けさせていた。
トトカルチョの元締めであるてゐが、堂々と賭けに参加するわけにはいかないからだ。
霖の美貌と、対抗馬である今の永琳のザマを実際に見たてゐだからこそ出来る、大胆な大博打。
これで霖が負けたらシャレにならないが、彼女には不思議とそんな不安はなかった。
てゐは人を幸運にする兎なのだ。そんな彼女が一人を応援すれば、負ける要素は微塵もない。
霖が勝てば集まった金はほぼ全て、てゐが独占する事になる、彼女にとっては実質的な出来レース。
「さーてと。それじゃ我が金運の女神様のツラでも拝みにいきましょーかね」
……そこには、兎詐欺がいた。
―――パッ、と一条のスポットが一人の少女を照らした。
「……それではっ! 大変長らくお待たせいたしました!
これより、第一回幻想郷美少女コンテストを開催しまーす!
司会は不肖ながらこのわたくし、射命丸文が勤めさせていただきます。どうぞよろしくっ!」
長さ四間、奥行き八間、高さ四間半はあろうかという、野外特設大ステージの上でマイクを持ち、そんな大声を上げる文に、観客達はワーッと歓声を上げる。
その数は千人は下らない。しかもそのほとんどが里の男たちだった。
里のそう広くもない広場に、ギュウギュウ詰めになりながらも、その目の色は期待に満ちている。
よくもまあ、これだけの男が集まったものだ。
勿論、慧音の声のおかげなのだろうが、文の宣伝活動も大きいのだろう。
その功績を讃えられ、大会の司会は文に任せることとなった。
アリスから話を持ちかけられた文は、子供のようにキラキラと瞳を輝かせ、胸をドンッと叩いた。
『ま、任せてください! これ以上ないってくらい盛り上げてみせますよ!』
観客は基本的に立ち見だ。流石に人数分の席を設けるだけの時間はなかったからだ。
そんな野郎たちの密集地帯から少し離れた所で、
霊夢、魔理沙、紫、藍、幽々子、妖夢の六人が観客としてコンテストの進行を眺めていた。
どこにいるかはわからないが、レミリアや神奈子、静葉、レティなど、参加している少女の関係者たちも全員来ているのだろう。
ちなみに、永遠亭のメンツは今回の発端の特権として、こっそりと舞台裏に控えていた。
「……それにしても、こんな大会がこうまで盛り上がりを見せるとは、な」
驚いた様子の魔理沙に、幽々子は残念そうにこう言った。
「本当に無念だわ。是非、うちの妖夢にも参加してもらいたかった」
「そ、そんなことになったら舌を噛み切って死にますっ!」
今も未練がましく、寂しそうに舞台を見つめる幽々子に、妖夢は顔を真っ赤にして返した。
狼狽からか、死んでも半霊から幽霊になるだけで、結局冥界の主人に仕えることになりそうな事実に気付いていない。
霊夢と紫は、万感たる思いでこのコンテストを眺めていた。
古道具屋の主人の、小さな失敗から始まったこの騒動。
数多くの幻想郷の住人と、少女たちを巻き込み、なお加熱していく観客のテンション。
異変よりもある意味異変らしい、やかましい騒ぎに霊夢は頭痛を覚えたように、額に手を当てた。
「……魔理沙じゃないけど、まさかこんなことになるなんてね」
「ふふ。異変をほっといた甲斐があったでしょ?」
「不謹慎なこと言わないでよ。まあ、あんたが好みそうな展開になったのは認めるけどね」
「あら。一人目の参加者が出てきたわよ」
呆れたようにいう霊夢に、紫は心底楽しそうに笑って、そしてステージの方を指差す。
舞台袖から、いつもの普段着のまま、ズンズンと歩くチルノが見えた。
「それでは! まずはエントリーナンバー1番! 氷の妖精チルノ選手のご登場でーす」
文の紹介が入り、舞台の中央に立ったチルノは、えっへんとふんぞり返ってみせた。
パッ、と様々な角度から、七色のスポットが浴びせられる。アリスの趣味だ。
「わぁ! なにこれ! きれ~~~~っ」
カラフルな照明に驚いたチルノは、ぴょんぴょん飛び跳ねて、キャッキャッとはしゃでいた。
自分を綺麗を見せないといけないこの大会で、当事者が別のものに目を奪われる。
チルノらしいといえばらしいのだが、参加選手としてはお話にならなかった。
「チ、チルノ…」
そんな彼女を、霊夢たちから更に離れた民家の屋根の上で、レティはハラハラと見守っていた。
舞台に近づくと、観客の熱気にあてられそうだったからだ。
「え、えっとあのチルノ選手? もっと自分をアピールしてくれないと困るのですけど…」
チルノの無邪気な様に、文は冷や汗を流してそう話しかける。
「あぴーる、ってなに? あたいはちゃんとやってるよ。だってあたいってばさいきょうなんだから!」
そんなワケのわからないことを言って、無に等しい薄い胸を思いっきり張るチルノ。
しーん、と静まり返る舞台。
ダメだこりゃ…、と文ががっくり項垂れてると、突然観客からワーッと歓声があがった。
「かわいいぞー! チルノー!」
「チルノ! チルノ!」
「俺は知ってる! お前こそが最強だーっ!」
そこまで大きいとは言えなかったが、確かにチルノを評価してくれる人がいる。
その声に文は驚き、チルノはその幼い瞳を輝かせて、ステージのギリギリ前まで走る。
「いえーい! あたいってばさいきょうねーーーっ!!」
「さいきょうねーっ!!」
何度も手を振り回しながら、最強を連呼するチルノの声と、それを返す何十人もの声。
レティはそんな舞台の様子に、ホッと安心し、そして満面の笑みではしゃぎまわるチルノを、優しく見守っていた。
「それでは次の挑戦者の登場です!
エントリナンバー2番! 完全で瀟洒な紅魔館のメイド長、十六夜咲夜選手ですー!」
文の声に、無表情な咲夜が、スタスタと淀みない歩調でステージの中央に立った。
その姿は勿論、普段のメイド姿。チルノとは違う意味で着飾る気など全くない。
「……皆さま、初めまして。ただいまご紹介があった通り。
私は、紅魔館のメイド長を勤めさせて頂いている十六夜咲夜と申します。…以上です」
はい、と司会にマイクを返す咲夜。
文は呆然とそれを受け取ったが、次の瞬間戸惑い顔で咲夜に話しかけた。
「こ、困りますよ咲夜さん。もうちょっと何か喋ってくれないと白けちゃいます」
「……知ったことじゃないわ」
言葉少なく、そう吐き捨てた咲夜は、踵を返して袖に引っ込もうとする。
こんな茶番はもう沢山だ。
お嬢様の命でなければ、誰がこんな場に立つか、と苛立ちをその美貌に浮かべる。
咲夜の憤りはもっともなのだが、あんな簡潔な紹介だけで従者の退場を許すほど、そのお嬢様は甘くはなかった。
「……咲夜!」
「ッ!」
突然、天から降り注いだ叱咤の声に、咲夜の細い肩がビクッと震える。
空を見上げると、レミリアが中空から降りてきた。
観客の目にも届く高さまでその身を落とすと、ギラリと咲夜を睨み付けた。
どうやら彼女は、空から眺めていたようだった。
「お、おじょうさま……」
「咲夜。お前、主人の私に恥をかかせるつもりなのか? そうなのか?」
「いっいえ! 滅相も御座いません! ちょうどこれから芸の一つでも披露しようかと思っていたところですわ!」
レミリアは半ば本気で怒っていた。その目は険しく、凄みをきかせる口元からは牙を覗かせている。
どうしてこんなお遊びで、と咲夜は内心愚痴りながらも、これ以上主人を怒らせないよう、咄嗟に予定になかった予定を口にした。
それで、レミリアは言葉なく再び空へと上っていった。
次、機嫌を損ねたら今度は弾幕と一緒に舞い降りてきそうな、強い一瞥を残して。
レミリアも、結局……神奈子や諏訪子と一緒だったのだ。
自分の家族同然の従者を、皆に見せびらかしたい。評価してもらいたい。
先ほどのチルノのように、ワーッと歓声をあげてもらいたい。
それを、あんなつまらない一言で終わりにしようとしたのが、許せなかったのだ。
だが、表向きのレミリアは、自分さえ従者の有能を知っていれば、それでいいと思っている。
他人の噂や評価に流されるなど、バカのすることだと。
矛盾する感情が苛立ちを呼び、紅い吸血鬼は結局、従者にやり直しを命じた。
「……では、これから拙い手品を披露したいと思います」
仕方なく再び中央に戻り、危険な手品師の異名も持つ咲夜は、両手を胸の前に掲げてみせた。
最初の投げやりな咲夜の態度が効いてか、観客の反応も見る目も若干冷たいものが混ざっている。
それをこれから挽回出来るかどうかは、咲夜次第!
「……今から、一瞬で私の服装を入れ替えてみせます。そこにいる―――彼女と」
彼女、という言葉と共に、咲夜はチラリと文を見る。
その瞬間、危険を感じた文はその場から退避しようと足に力を込めたが、それよりも早く咲夜の能力が発動した。
時間停止―――。たくさんの観客も、文も、ピタリと彫像のように固まる。
そして、咲夜はめんどくさそうに、いそいそと自分のメイド服を脱ぎ始めた。
―――そして、時は動き出す。
観客達が次に目にした光景は、文の服を着ている咲夜と、メイド服を身を纏っている文だった。
文がそれに気付いた瞬間、ギャー! と勤めも忘れて悲鳴を上げる。
鮮やかな手際と、滅多に見られない咲夜や文のコスプレ姿という、二重に美味しい見事な手品だった。
「おおおーーーーっ! メイド長ーー!」
「……見えたっ!(着替え中が)」
「ブラボォーーー! 咲夜さぁーーーーんっ!」
観客からも大きな歓声があがる。咲夜は淡く微笑んでゆっくりと手を振ってみせる。
空から眺めているレミリアも、そんな咲夜を見て本当に嬉しそうに笑った。
「さ、さて! 気を取り直して次にいきましょうっ!
エントリナンバー3番! 色鮮やかに虹色な門番、紅美鈴選手ですー!」
咲夜から服を奪い返した文が、コホンと咳払いして次の選手の入場を促した。
その声に、美鈴は生ける屍になったかのように、フラフラと観客達の目の前に立った。
―――なんで、わたしはこんなところに立っているんだろ…?
美鈴の、頭の中を占める思いはそればかりだった。
事情もよくわからず、納得もせず、里まで無理矢理引っ張られ、散々待たされたと思ったら、いつの間にかこんな所にいる。
自身に降りかかるあまりの不条理に、完全な放心状態だったのだ。
文が、美鈴にマイクを渡そうとする。
だがその前に、……客席から、今までで一番大きな歓声が響き渡った。地鳴りのような振動。
まだ紹介さえしていないのに。こんな事態は文にも美鈴にも予想だに出来ないものだった。
「うおおおおおおおー! ちゅうごくーーーーっ!!」
「ちゅうごく~~~~~~っ!!」
「ちゅうごくっ! ちゅうごくっ! ちゅうごくっ!」
それは、中国コールだった。傷心の美鈴に追い討ちをかけるがの如く、である。
ひ、ひでぇ…、とこれには部外者である文でさえたじろいた。
可愛らしく目を点にしていた美鈴がハッと我に返ると、すぐさま文からマイクをひったくって、歓声に負けない大音量で叫んだ。
「わ、わたしは中国じゃない! 紅美鈴! 紅美鈴! 紅美鈴! 紅美鈴! 紅美鈴!
キサマら耳の穴かっぽじってよく聞けぇ!! ホ・ン・メ・イ・リ・ンじゃああああ~~~っ!!」
美鈴は血涙を流し、喉が壊れそうになるくらいに絶叫する。
それでも中国コールは鳴り止まない。
まるで何かに操られたかのように、観客達が口にするは中国だけだった。
……これは一体何の拷問だ? と美鈴は思った。
自分は何か悪い事をしたから、こんな耐え難い責め苦を受けているのか、と。
―――咲夜さんっ! この時ばかりは! この時ばかりはお恨み申し上げますっ!
美鈴はギュッと目を固くつぶって、そんな恨み言を吐いた。
いくら、弄られ役というポジションに落ち着こうと、やっていい事と悪い事がある。
恥ずかしかった。悔しかった。立ち直れそうになかった。
血の涙ではない、本当の涙が零れそうになったその時―――。
「ごめんっ! ごめんよ! めいりんっ!!」
膝をついて俯く美鈴を見て、流石にからかいすぎたと感じた者がいたのか。
観客の一人が、彼女の本当の名前を呼んだ。ハッと美鈴が顔を上げる。
それに呼応するかのようにまた一人、また一人と美鈴の本当の名前を呼んでくれる者が現れた。
中国コールはじょじょに美鈴コールに押されていった。美鈴の波が広がり続ける。
歓声の全てが美鈴の名前で占められるまで、そう時間はかからなかった。
「めいりん~~~~~! 本当はみんなお前が大好きなんだぞ!」
「好きな子をいじめちゃうのも男のサガさ! めいり~~~~~~ん!!」
「めいりんっ! めいりんっ! めいりんっ! めいりんっ!」
「あ、あぁ……」
口元に手を当てた美鈴の目尻から、涙が零れ落ちた。
だがそれはさっきまで流しそうだった悔し涙ではない、掛け値なしの嬉し涙である。
美鈴は笑顔で立ち上がると、マイクをぎゅっと握り締め、再び大声で叫んだ。
「そ、そうっ! わたしの名前は美鈴! 紅美鈴よっ!
お願いもっと言って! もっと強く叫んで! もっと…もっともっともっともっとよ!!
冥界に! 彼岸に! 天界に! 地底界にまでわたしの名前を轟かせてあげてっ!!
ありがとう! ありがとうっ! みんなありがとうっ!! わたしも貴方たちが―――大好きっ!!」
「ウオオオオオオオオオオオオーーーーーっ!!!」
美鈴の声を受けるたび、歓声はさらに強く、際限なく大きくなり続ける。
その大きさは、先の二人の比ではない。近くにいた霊夢たちが耳を押さえるほどだった。
だが、これは美少女だからとか、そういう問題ではないような気がする。
それでも美鈴は満足だった。
幸せだった。
何か掛け替えのないものを手に入れたような気がして。
「……次は、いよいよ師匠の番ね」
舞台裏に立つ鈴仙が、緊張した面持ちで、少し離れた場所で出番を待つ永琳を見つめた。
静かに控える永琳は、普段の姿とは全く異なった格好をしていた。
まず、髪を結っていない。帽子もかぶっていない。それだけですでに別人のようである。
ストレートに下ろした美しい銀髪が、照明の残光にあてられる度、艶かしい輝きを放っていた。
そして、首から下には白いガウンを羽織っている。
いつもの服装でないことは確かだが、ガウンの下は一体どのような格好なのか、鈴仙にはわからなかった。
少し厚めの化粧を施した永琳の顔には、驚くほど感情の色がない。
目を瞑り、何かに耐えるように、ただただ黙して、進行役のスタッフから自分の名前を呼ばれる瞬間を待っていた。
「八意永琳さん。そろそろスタンバイお願いします」
舞台作りにも立ち会った、里の男性スタッフから、ついにお声が掛かる。
その声にビクッと鈴仙の身体が震える。
輝夜が、内から湧き上がる緊張を覆い隠すかのように、ゆっくりと自身の胸に手を当てる。
てゐは見えない所で、そんな二人を白けた顔で見つめていた。
―――永琳の双眸が、ゆっくりと開いた。
「……出るわ。うどんげ、上着をお願い」
今日の永琳は、怖いほどに無口だった。
何だか今日初めて彼女の声を聞いた気がして、鈴仙は不安を抱きながら、彼女の隣に立つ。
そして、永琳はついにその厚手のガウンに手を掛けた。
「―――!?」
脱ぎ捨てたガウンを受け取った鈴仙の耳がピンッと直立し、そしてふにゃふにゃと垂れ下がった。
鈴仙はよく驚く。師に振り回されて、あたふたと慌てることも多い。
だが、ここ最近の驚きも今の永琳の姿を前にしては、取るに足らない衝撃であった。
驚きすぎて驚けない。こんなことありえるのだろうか?
ガクガクと月兎の膝が震える。蒼白を通り越して土気色になった顔色は死人のようだ。
あ…、あ…、と言葉にならない鈴仙の呟きなど目もくれず、永琳はステージに向かって歩き出す。
輝夜が、どういうことなの…? と同じく顔面蒼白で自身のペットに問い質す。
飄々とした態度を崩さないてゐも流石に驚いたのか、驚愕に目を見開き口をパクパクとさせていた。
永琳を除く三人の永遠亭メンバーの心は一つであった。
これから、地獄が始まる。
「それではっ! どんどん参りましょう!
エントリナンバー4番! 街の薬屋さん、八意永琳選手ですー!」
相変わらずのテンションで、司会の文が舞台袖に向かって手を振り上げる。
最初はニコニコと笑っていたのだが、しなりしなりと女性らしいしなやかな歩みで、司会の元へと近づく永琳と目があった瞬間、文は絶句した。
観客たちも、ざわ…、ざわ…、とどこか別世界で出てきそうな擬音を放ち、冷や汗を浮かべている。
永琳は、黒のマイクロビキニを身に纏っていた。
まるで、熱帯の部族が着用するような、露出度95%のほぼマッパに近いデザイン。
上の水着は、絆創膏の方がまだマシだと思えるほどに、大事な部分を必要最小限にしか覆い隠せていない。
下半身はTバックどころではない。局部を申し訳程度に包むGストリング。
月の頭脳は、今日この時の為に、ナニとは言えないが剃ったのだ! これを身につけるがために。
このクソ寒い冬空の下、永琳はそれを気にした素振りも見せず、完全に衆目へと晒されるステージ中央に立つと、官能的な仕草でお色気ポーズを取った。
「―――ぱっふ~ん♪」
空気が凍る。
やりすぎだろ……、とさえ思える永琳の覚悟に、文も、袖から見守る鈴仙たちも声が出ない。
だが、それは嵐の前の一瞬の静けさであった。
―――お
―――おお…
―――雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄ォォォォォォ!!
観客たちが猛る! 怒号の如き千人の観客全ての魂の叫びが、里の夜空に響き渡る!
獣のように雄叫びをあげ、観客達は夢を見ているかのような面持ちで、片手を上下に振り始める。
「えーりん! えーりん!」
「えーりん! えーりん!」
「えーりん! えーりん!」
病的なほどのテンションであった。
司会の文も、観客の霊夢たちも、他の選手たちも、鈴仙たち関係者も、同じく袖から見ている霖とアリスでさえも、みな唖然とした全く同じ顔で立ち尽くしていた。
それに気をよくした永琳はさらに、己が全てを見るがよいとばかりに、大胆な悩殺ポーズを取る。
「―――あっはぁ~ん♪」
……それで、鈴仙は泡を吹いて失神した。これ以上は耐えられぬと、自ら意識を手放したのだ。
輝夜の動揺も極まったのか、『たすけてえーりん!』と涙目になって、意味不明な叫びを木霊させる。
「ヤ、ヤベェ…あいつ本気じゃん。こ、これは勝てないかも」
ナメてた。
彼女はちゃんと自身の最大の武器を知っていた。大人の色香を過剰なまでに活かした。
昨日の様子を見る限り、冷静ではいられないと思っていたが、永琳は冷めた頭で必死に手段と覚悟を固めていたのだ。
てゐは唯一人、焦燥に駆られたような顔で、冷や汗を浮かべた。
「さてさて! 永琳選手が現在トップを独走中のこのコンテストもいよいよ佳境に入りました!
エントリナンバー5番! 豊かさと稔りの象徴、秋穣子選手どうぞー!」
「うう…、な、なんでよりによってあんな人の次が私なの…」
司会の声に、身を硬くして緊張にうつむく穣子は、ガチガチとロボットのような動作でステージへと歩みだした。
先ほどまでは、手の平に人の字を書いて飲み込み、必死に平静を装っていたのだが、永琳の痴態と観客の絶叫を見て完全に気後れしていた。
あそこまでしなければ、勝てないのか、と。
穣子は普段どおりの服装。…というよりも、いつもと違う格好で現れたのは今の所永琳だけだ。
違う所といえば、薄い化粧をして、いつもより入念に髪を整えているくらいである。
準備が足りなかった。何しろこのコンテストの存在を知ったのは昨夜の事なのだから。
―――やっぱりこんなのやめとけばよかった! 私には無理だったんだ…。
千を超える目線が全て、自身に注がれている。
自分をあんなやつ呼ばわりした、霊夢や魔理沙もじっと穣子を注目している。
穣子は怖かった。不安で寒くて心細くてたまらなかった。
沢山の人に囲まれているはずなのに、まるで一人…闇の中に放り込まれたかのような虚無感。
―――棄権しよう。もうやめよう。私は頑張った。早く…早く家に帰りたいよぉ…。
緩慢な動作で近づく穣子のただならぬ様子に、文は眉を顰める。
「あ、あの。それではまずは自己紹介からお願いしますねっ」
努めて明るい口調でマイクを手渡そうとする文に、穣子は口を開こうとした。
「わ、私……このコンテストを―――」
「―――穣子っ!」
すぐ近くで、誰よりも聞き覚えのある声が聞こえ、穣子は思わず観客席に振り返った。
そこには姉の静葉が立っていた。観客たちの最前列。
一番ステージから近い位置で、穣子の泣きそうな顔を、悲痛な面持ちで見つめていた。
「し、静姉…な、なんで?」
何故、最前列にいるのだ?
彼女は夜に来ると言っていた。開始時間ギリギリに会場に来て、最前列に立てるはずがない。
それこそ、何時間も前からそこで待っていなければ。
「ま、まさか、ずっと…そこで?」
「……」
待っててくれたというのか。
妹の晴れ姿を一番近い場所で見るために、男で占める観客たちの只中、ずっと…ずっと。
「し、静ねぇ…、わ、私…私ねぇ」
「……穣子、いいのよ。無理に自分を大きく見せようとしなくても。
私たちは私たち。他の人たちみたいに、沢山の歓声なんかもらえなくたっていい」
「うん……うんっ!」
「貴方が今、一番伝えたいことを伝えなさい。しっかりと気持ちを込めて、貴方の思いを、願いを、…私たちの心を」
「―――ッ!」
私たちの心。その言葉を聞いた途端、穣子は感極まって泣き出した。
そうだ、自分は何のためにここまで来たのか。弱気になってそんなことも忘れていた。
自分は一人ではない。こんなにも暖かくて、優しい姉がそばにいてくれる。
嗚咽を漏らす穣子を、観客たちは戸惑ったように眺めている。
一番困惑していた文は、思わず素のテンションで穣子に向かい、静かな声で話しかけた。
「……これからどうしますか?」
「マイクを、貸して」
先の弱々しい瞳ではない、強い決意を秘めた穣子の顔に、文は黙ってマイクを手渡す。
そして、姉の一番見やすい位置まで立ち、穣子はマイクを握り締めて語り出した。
「わ、私は、秋穣子といいます。ご存知の方も多いと思いますが、豊穣を司る神です。
ここに参加者として訪れたのは、一重に皆さんに私たち姉妹のことをよく知ってもらうため。
……私たち秋姉妹は、例え季節が移り変わろうと、貴方たちの糧を支えています」
穣子の言葉に、観客は誰一人喋る事なく、静かに耳を傾ける。
「コンテストの趣旨に、大きくそぐわない内容であることは、よくわかっています。
聞く人によっては、何を今更、恩着せがましい、……と思われるかもしれません。―――でも、それでもっ!」
穣子のトーンがここで上がる。止まりかけていた涙が再びこぼれた。
「私は、私たちは忘れて欲しくないのっ! 季節が変わっても、皆の記憶にずっと残っていてもらいたい!
私のこの思いを! 誰よりも優しい自慢の姉を! わ、私……私は」
そこから先は声にならなくなったのか、言葉に詰まる穣子。
そんな彼女に、観客たちから一際大きな拍手が巻き起こった。
派手な歓声はない。賞賛の声もない。ただ、男達は拍手することで穣子に言外の意思を伝えていた。
―――絶対に忘れない。今日のことも、こんなにも素晴らしい姉妹が参加していたことも。
拍手は鳴り止まない。それどころか時が経つほどに大きくなり続ける。
藍と妖夢も、涙を流しながら盛大な拍手をしていた。どうやら姉妹の家族愛に感化されたらしい。
魂が抜けたかのような顔でそれを見ていた穣子が、静葉の方に顔を向ける。
「よく頑張ったわね。穣子」
「……静姉のおかげだよ。本当に、ほんとうにありがとう」
目を涙を浮かべ、同じく自慢の妹を誇らしげに見つめる静葉。
穣子はその言葉に、安心したかのように脱力し、そして笑った。
穣子が退場した後も、しばらく会場に包まれる拍手は止むことがなかった。
霖とアリス。
最初は偶然出会い、そして協力関係になった二人。
二日足らずという本当に僅かな関係。
だが、二人は言葉には出来ない、幾多もの思いを通じ合わせていたように感じた。
選手控え室で、霖のメイクをしてくれているアリス。その手つきは丁寧で優しい。
霖は気持ち良さそうに目をつむり、為すがまま彼女の手に任せている。
「アリス。君には感謝してもし尽くせない。本当にありがとう」
「……急に口調を元に戻しちゃって、どうしたの?」
アリスは霖のすべすべのモチ肌に、その指先を這わせながら訊ねる。
霖は舞台に立つ前に、どうしても彼女にお礼が言いたかった。
少女としてではなく、香霖堂店主 森近霖之助として。
その思いが伝わっているのか、アリスに男言葉を咎める様子は見られない。
「お礼を言うのは、わたしの方でもあるわ。
……楽しかった。短い間だったけど、霖と一緒にいれて、いっぱいお喋りして…本当に」
あ、店主さんじゃなくて、霖に言ってるんだからねっ、と慌てて一言付け加えるアリス。
霖は苦笑して頷いた。
「でも君がいなかったら、ボクはこの場に立つことなど出来なかった。
薬師に挑戦さえしなかっただろうし、きっと泣き寝入りして、自分を責め続けていたはずだ」
「……薬師といえば、あれはすごかったわね。貴方の挑発がよっぽど効いてたみたいよ?」
水着とも言えない水着を身に帯び、ステージで悩殺ポーズを決めていた永琳を思い出した。
確かに凄かった。永琳自身もだが、観客の反応も凄まじいものだった。
あれだけの歓声を湧かせるなんて並大抵のことではない。それはわかっている。わかっているのに―――
「誰にも負ける気がしないんだ。……不思議な感覚だ。
ボクたちが力を合わせれば、不可能なんかないような気さえしてる」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。陳腐だけどそういうのは嫌いではないわ」
静かな会話が、最後の時間が、緩やかに流れる。
……そう、これがきっと最後。
魔法が解けて男に戻れば、二人はただの店主と、たまに店に訪れる客の関係に戻る。
仮にコンテストで負けたとしても、今日が紫との約束のタイムリミットなのだ。どちらにしろ女のままではいられない。
「……霖、貴方のことは決して忘れない。誰が忘れても、わたしだけはずっと覚えてる。
猫耳で、ちょっと頭が固くて、全然頼りなくて。だけど穏やかで、優しい笑顔の少女が確かにわたしの隣にいたことを。
だから、だから……これはわたしの―――」
「おいおい。永遠の別れみたいに言わないでくれ。形は違ってもボクらはいつでも会える」
「―――未練、よ」
そう言って。
アリスはその小さな唇を、霖の頬に口付けた。
柔らかい感触に、霖はゆっくりと頬に手を当て、そしてアリスを見つめる。
人形使いの少女は頬を朱に染めて微笑んでいた。きっと今の霖も同じような顔をしているのだろう。
「……こういう事をしてくれるなら、もっとマシな理由にした方がいいと思うが」
「じゃあ、友人の勝利を願うわたしからの激励ってことでどうかしら?」
「……うん、それはいいな。俄然やる気が出てきそうだ」
言葉を交わしながら、二人は笑い合った。
メイクが終わり、アリスが仕立ててくれていたドレスに着替える。
白桃色の生地、その裾や襟元にはフリルが施してあり、細かな場所には七色の刺繍が入っている。
アリスの入魂の一作だった。人形の衣装で鍛えた腕である為、少女趣味は致し方ない。
一言でいうならゴスロリ風。だが、今の霖にはこの上なく似合っていた。
二人は今一度だけ師弟に戻り、外へと通じる扉の前に立った。
「もうすぐ出番よ霖! 心の準備は出来ているわねっ!」
「―――はいっ!」
「挑戦者も残す所、あと二人となって参りましたっ! 六人目の登場です!
エントリーナンバー6番! 祀られる風の人間、東風谷早苗選手お願いしますっ!」
司会も板についてきたのか、ノリノリの表情でマイクを持っていない方の腕を掲げる文。
…だが、いくら待っても早苗が現れない。袖から出てくる気配もなかった。
―――あ、あれ?
少しずつ沈静化される会場のテンションに、文は焦りを見せる。
ま、まさか、ドタキャン? と、慌てた様子でキョロキョロと辺りを見回した。
舞台裏で、スタッフが両手を交差させ、バツ印を作っている姿が見えた。
およそ早苗らしくない行動だった。文には信じられなかった。
確かに嫌がってはいたが、一度決めたことを途中で投げ出すような子じゃないはずなのに…。
しかし、こうなってしまった以上は仕方ない。コンテストの流れを止めるわけにはいかなかった。
文が残念そうにマイクを口元に近づける。
「……え~、誠に遺憾ですが、東風谷早苗選手は出場を辞退ということで失格―――」
「待ってくださいっ!」
と、そこでステージに向かって飛んできた早苗が、必死に叫んでいるのが聞こえた。
その傍らには、神奈子と諏訪子も飛んでいる。
よく見ると、さっきまで巫女服だった早苗が、何か別の衣装に着替えていた。
どうやらその服を取りに戻る為、神社まで一旦帰っていたようである。
「す、すみません、お待たせして。……もう失格になってしまいましたか?」
「い、いえ。それはいいんですけど…その格好は?」
「……」
ステージに空から現れるという、ある意味誰よりも派手な入場に観客たちが驚きの声をあげる。
そういう演出だと思ったようだ。
息を切らせて間に合ったか問う早苗に、文は放心気味に問い返した。
その質問に、早苗の頬が羞恥に染まり、下をうつむき黙り込んでしまう。
白い下地に、色違いのラインが入った紺色の襟。
その胸元は大きく逆三角形に開いていて、その中心には大きなリボンがくっついている。
丈の長いスカートからうっすらと伸びる白くて細い生足が、健康的なイメージを醸し出していた。
早苗はセーラー服に着替えていた。しかも夏服。
早苗は項垂れながら、先ほどまでの情景を思い返していた。
『あの女狐めがっ! なんつー禁じ手使いやがるんだっ!』
憤りを隠さず罵声をあげる神奈子に、舞台裏に控えた早苗は言い知れぬ不安を抱いていた。
女狐とは当然、永琳を指す。藍ではない。
永琳の女としての魅力が及ぼした観客の雄叫びに、怒号のような歓声に、神奈子は恐怖した。
今のままでは早苗は勝てない! そんなことを思ったのだろう。
『こ、こうなったら水着だ! 早苗もああいう際どいヤツで対抗するんだ!』
『イヤッ! ぜったいぜったいぜぇぇぇったいイヤですっ!』
残像が見えるかのような速度で、ブンブンと首を横に振る早苗。
それも当然だ。そこまで達観した考えを持てるほど早苗は長生きしていない。
いっそ殺してっ! と嫌がる早苗に、神奈子は困ったように諏訪子を見た。
そこで今まで黙していた諏訪子が、鶴の一声をあげた。
『だったら早苗が外の世界で着てた服で勝負しようよ? あれはあれで新鮮じゃない?』
つまりはそういうことである。
外の世界で着てた服。それで早苗の頭の中に真っ先に浮かんだのは、学校の制服であった。
水着よりはよっぽどマシだが、それでも幻想郷で制服を着るというのも抵抗がある。
勝てなくてもいいから巫女服のまま参加する、と言う早苗の主張は二人に当然却下された。
確かに変わり映えのしない服装で、永琳のインパクトを超えるなど到底不可能だろう。
もはや衣装の変更は免れられないと悟り、諦観に肩を落とす早苗。
そんな風祝の腕をまたもやギュッと握って、神奈子と諏訪子は急いで戻るよ、と笑った。
『え? わたしも一緒に行くんですか。もうすぐわたしの番なんですよ?』
『何言ってんの? 私たちだけが行っても、何着せればいいかなんてわからないだろ』
『そ、それじゃせめてスタッフの人たちに断りを入』
『飛ばすよ神奈子ー!』
『おう!』
まるで人の話も聞かず、鉄砲玉のように飛び出して早苗を振り回す神様二人。
悪意がないから余計にタチが悪い。
そんなこんなの流れで、三人は守矢の神社まで戻り、本番十分前になって衣装選びを始め出した。
焦りに焦った早苗は、押入れに眠ってた制服を引っ掴み、それに着替えてすぐさまUターン。
夏服だの冬服だの選んでいる余裕は皆無であった。
そして、セーラー服姿になった早苗に、観客の反応はというと―――
「オオオオオオオオオオオオオオォォォォォッ!!」
―――どうやら大好評のようである。主に中年世代から大絶賛。
観客たちの異様なボルテージに気圧され、早苗は怯えたように一歩身を引く。
全体的な印象で言うと、流石に永琳には及ばないが、それでも一部の客層からは水着よりも熱い視線が注がれていた。
結局、外の世界だろうと幻想郷だろうと、オヤジたちの嗜好に大した違いはないのである。
「さなえええええぇぇぇぇっ! 俺の娘になってくれ! 何なら嫁でもいいっ!」
「ハァハァ…! さ、さなえたんっ! ハァハァ…」
「な、なんて素晴らしいイベントなんだ! ……生きててよかったっ!!」
猛り狂って、ステージに上がろうとまでする数人の観客。
永琳が量なら、早苗は質。
間違った方向であるのは疑いようもないが、早苗の魅力は何人ものオヤジたちを完全に虜にしていた。
「……ひっ! だ、誰か……誰か助けてっ!」
じわじわと自身に近づくケダモノたちに、早苗は息を呑み、真っ青な顔になって悲鳴を上げる。
想定外のアクシデントに放心していた文も、慌てて取り押さえようと男たちに近づく。
これは警備のスタッフも雇った方がいい、と考えながら―――
「おのれら、うちの可愛い早苗になにさらすんじゃーーー!」
「基本的に私たちのせいなんだけど許さないわよっ!!」
だが、最速の文よりもなお速い速度で、早苗と男たちの間に立つ影があった。
もちろん、神奈子と諏訪子である。
グダグダな展開に文は、コンテストをぶち壊すんじゃねーっ! と悲痛な声で叫ぶ。
そんな神と人間の乱痴気騒ぎを隅っこで眺めていた早苗は、がっくりと膝を突き空を仰いだ。
「も、もうイヤーーーっ!!」
そんな彼女の叫びは、空しくも吹き付ける冷たい夜風に流れされていくのであった。
永琳は、会場に備え付けられた医務室のベッドに横たわっていた。
ステージを退場した直後、倒れたのだ。……あまりの恥ずかしさに。
ベッドのそばにあるパイプ椅子に腰掛けた鈴仙は、今も真っ赤な顔でうんうん唸っている師に対してポツリと呟いた。
「もう……、何であんな無茶するんですか。いくら何でもやりすぎですよ」
目を覚ましてみるとこの有様だ。
霖に勝ちたい気持ちはよくわかるが、これからしばらくは薬師の周りに良くない噂が流れることになるだろう。
輝夜なんかショックのあまり塞ぎ込み、家に帰ってしまった。
可愛い姫に消えない傷跡を残し、引き篭もりを助長させるような真似も、従者としては上手くない。
鈴仙が今後を考えてハァとため息を吐くと、気を失っていたはずの永琳が、ゆっくりと弟子の方に顔を向けた。
「―――うどんげ。店主は? もうコンテストは終わったの?」
「……まだです。もうすぐ店主の出番だと思います」
息も絶え絶え尋ねる永琳の痛々しい様に、鈴仙は静かな声で正直に答える。
なら行かなくちゃね、と永琳はヨロヨロの体を押して、ベッドから起き上がった。
勿論、すでに普段着である。
「え? む、無理ですよ。そんな身体でどこへ行こうというのですか?」
「……あの子のショーだけは、この目で見届けなければいけないのよ。
これだけの犠牲を払ったのだもの。直接見て、私の勝利を実感しなければ……」
「し、師匠…」
そこには賢人としてでも、従者としてでもない、一人の女性の姿があった。
形振り構わず、己の全力を出し切った。
恥も外聞も捨て去り、ただの女として、女のプライドを賭けてこの大会に挑んだ。
だからこそ、あれほどの歓声に至ったのだ。例え負けたとしても悔いはない結果だった。
今大会の最大のライバルである、霖の姿だけはこの目に焼き付けたい。
そんな永琳に、何も言い返すことが出来なかった鈴仙は優しい動作で、フラフラとよろめく師の身体を支えた。
「師匠の勝利は間違いありません。行きましょう! わたしが傍にいますから」
「……ええ。……ありがとう、うどんげ」
「―――数々の挑戦者による、笑いあり! 涙あり! 萌えあり! の此度のコンテストは如何だったでしょうかっ?
血で血を洗う少女たちの死闘の末、最後に笑うことが出来る者はただ一人!
それでは最後の挑戦者のご入場と参りましょうっ!
エントリナンバー7番! 幻想郷の可愛い新人、霖選手ですーーーーーーっ!!」
高々と上がった司会の大声に、観客たちのテンションは最高潮まで昇り詰めていた。
凄まじい歓声を近くで聞いていた紫が、霖の名前を耳にした途端キラキラと目を輝かせる。
待ちに待っていた少女の到来が、ついに訪れたからである。
「こうしちゃいられないわね。もっと近くで見物しなくっちゃ」
「……お、おいおい、わたしが言うのも何だけど、こんなにレベルの高い大会になったんだぜ?
リンってのが誰かは知らないけど、今更新人が出てきたところで勝ち目なんかないだろ」
はしゃいだ紫の言葉に、魔理沙が疑問の声をあげる。
最初はバカにしながら見ていたコンテストだったが、あまりの熱狂と選手たちのそれぞれのドラマに評価を改めたようだ。
そんな魔理沙の横にいた霊夢と藍が、ゆっくりと歩き出した。無論ステージに近づくためである。
最初は驚いていた様子の幽々子も、それに倣ってふわふわ移動する。妖夢も慌ててついていった。
「お、おい! なんだよ皆して! わたしだけ除け者か! そうなのかっ!?」
「いいから黙ってついてきなさいな。……とても面白いものが見れるでしょうから」
一人残された魔理沙が呆然と叫ぶと、紫は彼女の方に振り返り、意味ありげな笑みを浮かべた。
―――霖は歩く。
今までその身に起こった出来事を思い返しながら、静かな歩調で舞台に上がる。
その後ろで、アリスは両手をギュッと握り締め、固唾を呑んで彼女の背中を見つめていた。
アリスだけではない。
舞台袖から永琳も見ている。
その隣で慧音も見ている。
観客側から、紫たちも見ている。
咲夜を始めとした、他の選手たちも見ている。
司会の文も見ている。
勿論、沢山の観客たちもステージ中央に近づく霖の姿を黙って見つめていた。
全ての視線を真っ向から受け止め、霖は凛とした表情で文の前に立つ。
そして、霖は司会に向かって利き手を突き出した。
「……マイクを」
「はっ、はい」
人形使いの手で飾られた、およそ人とは思えぬ麗しい美貌に、文はしばし目を奪われた。
こんな話は聞いていない。一体彼女は何者なのだ、と。
霖の顔はすでに目にしていたハズなのに、さらに美しく化けた目の前の少女に、文は戦慄する。
小さな声に反応した文は、慌てた様子で霖にマイクを手渡した。
それを握り締めた霖は、肺に溜まった空気を吐き出した後、その顔が観客たちによく見えるよう、ステージの一番前に立った。
男たちがゴクリ、と喉を鳴らす。千人を超える観客たちの目は、一人の少女に釘付けになっていた。
淡く桃色の光を瞬かせた、その豪奢なドレスに。
同じ色の小さな帽子から覗かせる、可愛いネコミミに。
強い決意を内に宿す、その大きな栗色の瞳に。
そして、その瞳を飾るかのように添えられているメガネに。
左右に視線を動かし、皆の反応を確かめた後、霖は大きく息を吸い込む。
そして、満面の、これ以上はないだろうと言うほどの、とびきりの笑顔を浮かべた。
「幻想郷のみっなさ~ん♪ 初めましてぇ~!
みんなのアイドル! アナタたちの霖がこの場を借りて、姿を現しましたよぉ~♪」
……………………
…………
……
―――刹那。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!
ンンンンンオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォッ!!!
ウヒャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッッッ!!!
津波のような歓声が湧き立った! それは狂喜乱舞に等しい有様だった。
男たち全員が手を上げて、その美少女を掴み取ろうとするかのように、虚空を握る。
「メガネっ娘だ! メガネっ娘だ!」
「俺たちの真のアイドルが現れたっ!!」
「―――幻想郷にメガネっ娘がやってきたぞーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
男たちの興奮は留まる所を知らない。
血走った目でステージに昇ろうと走る観客を、警備の椛たち天狗が慌てて抑える。
先の失敗を受けて、文が呼び寄せた応急策であった。
ギェーーッ!! と悲鳴にも似た歓声を耳にしながら、霖はさらに言葉を紡いた。
「んもぉ。 ダメなんだぞー。 そんなにがっついちゃメッ♪
ボクはみんなのモノなんだからぁ。―――なんちゃってぇっ! キャハッ☆」
そういって、霖は可愛らしくポーズを取って、片目をパチリとウィンク。
星が飛ぶかのような、円らな瞳がもたらすウィンクは、男たちの意識を成層圏まで高上らせた。
「も、モエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッッ!!!」
そんな霖の姿に、アリスは目に涙を浮かべながら、恍惚とした表情で目元を拭った。
「……素晴らしい。素晴らしいわ霖。もう貴方に教えることなんて何もない。
今の貴方は立派な……誰がどこから見ても立派な女の子。幻想郷のアイドルだわっ」
わざと転んで、『ふみぃ…』と可愛らしく呻き声をあげる霖に、慧音はガタガタと震えていた。
その後ろで妹紅は、腸捻転でも起こしそうな勢いで笑い転げている。
「……り、り、り、り、霖之すすすけけけけけ」
「ギャハハハハハハッ! いいっ! あいつ面白いじゃん! な、なんかあいつのこと好きになりそうっ!」
前屈みになって、胸元が開いたその部分を思い切り強調する霖に、永琳は悪夢を眺めているかのように、茫然自失としていた。
鈴仙は白目になって、二度目の失神と洒落込んでいる。
「バ、バカ…な。ここまで……ここまで己を捨てられるの……?」
がっくりと膝を屈する永琳の傍に控えていたてゐが、小さくガッツポーズをしていた。
終いには歌まで歌いだして観客を熱狂させる霖を見て、霊夢は青ざめながら、隣で呼吸困難を起こしている紫に話掛けた。
どうやら笑いすぎて息が出来なくなったようだ。スキマの中でヒクヒク、と痙攣している。
「……ねえ紫? これって霖之助さんの男の尊厳を賭けた戦いなのよね?」
「……ハッ…ハヒッ…、そ、そうなんじゃ、ないの? ……あ、あひゃひゃひゃひゃひゃ!」
大きく手を振っている霖の姿が目に入り、またも腹を抱えて爆笑する紫。
霊夢はそっと目を瞑り、どこか遠くへ行ってしまった元店主に向かって、寂しそうに小さく呟いた。
「さよなら霖之助さん」
―――コンテストの結果など、今更語るは無粋。
―――間違いなく幻想郷の歴史に刻まれるであろう、熱狂の渦の中。
―――こうして『第一回幻想郷美少女コンテスト』は閉幕した。
/ epilogue
霖之助は男に戻り、そして我が家である香霖堂へと帰ってきた。
店のカウンターで、のんびりと何かの本を読み耽っている。
久しぶりに手に入れた心安らぐ時間を、霖之助は微笑を浮かべて堪能していた。
店の外には、雲ひとつない晴れやかな青空が広がっている。全ては元通りとなった。
幻想郷中を騒がせた美少女コンテストから二日経ち、ようやく霖之助もいつものリズムを取り戻せてきたようだ。
―――コンテスト終了後、選手控え室でがっしと抱き合い、健闘を称えているアリスと霖の元に、永琳が現れた。
その手に握るものは、紅色の液体に満ちたマッチ箱ほどの大きさの小瓶と、青い薬の特効薬。
永琳の物憂げな表情を見て霖は、これで男に戻れるのだ、と思った。
『……約束は守るわ。これでさっさと元に戻りなさい』
『……』
霖は無言で小瓶を受け取る。
アリスは一瞬悲しそうに目を伏せたが、すぐに笑顔に戻ると霖の肩を叩いて言った。
『……よかったわね』
『ああ、……みんなのおかげだ。本当に』
薬を見つめながら万感の思いを紡ぐ霖に、永琳は憂いを帯びたまま部屋の天井を見上げた。
『それにしてもまさかあそこまでやるとはね。…流石の私も思わなかったわ。そこの人形使いが仕込んだのかしら?』
『そうよ。……でもこれはわたしの力じゃない。霖の覚悟と努力があったからこその結果だわ』
『……覚悟か。私にはそれが足りなかったのかしらね』
自嘲気味に呟く永琳に、霖は静かに首を横に振った。
『それは違う。君の覚悟は本物だったし、このコンテストにかける意気込みも正直驚かされた』
『……慰めのつもり?』
『そうじゃない。……ただ、―――楽しかったよ』
楽しかった。そう言って霖は笑う。
少女であったこの三日間。
確かに辛かったが、辛い事ばかりではなかった。
色んな人に励まされ、優しくされ、知らなかった一面に気付けた。新たな関係を築けた。
誘惑に負けて薬を飲んだことも、このコンテストも今ならいい思い出に出来る気がした。
だからこそ、霖は永琳にもう一つだけ伝えなくてはならない事を伝えた。
『……君のせいでボクは苦しんだ。だけど、同時に君のおかげでボクは強くなれたような気がするんだ。
だから、だからボクは君にも感謝したい。……ありがとう八意永琳』
『―――完敗ね。……楽しかった、か。私に一番足りなかったのはその気持ちか』
頭を下げる霖をマジマジと見た後、永琳はそんなことを呟いて、苦笑した。
「おーっす、香霖。久しぶりだな」
「いらっしゃい」
戸が開く音がしたと思うと、そこには来客が立っていた。―――魔理沙だ。
魔理沙はカウンターまで近づき、手近にあった椅子に、のっしりと腰を下ろした。
彼女と最後に会ったのは、たった五日前のはずなのに、随分と長いこと顔を合わせていなかったような気がする。
日常の象徴とも呼べる妹分と、こうして再び気軽に向かい合えるようになった。
その事実に、霖之助は誰に向けるでもなく感謝した。
「……はあ。それにしてもあの異変って何だったんだろうな」
「ん? ああ、確かにおかしなことになっていたね」
ため息をつく魔理沙に、霖之助は何でもないことのように答えた。
どうやら、黒白の魔法使いは最後まで真相の外だったようで、霖之助はこっそり安堵する。
「異変っていえばすごかったんだぜ? 変テコなコンテストまであってさ!
終いにはバカっぽいアイドルなんかも現れたりして……香霖は見に行かなかったのか?」
「……僕は、そんなもの興味ないからな」
興奮してまくしたてる魔理沙に、霖之助は冷や汗をかきながら返した。
異変が起こるたびにする、いつもの土産話のつもりなのだろう。だが今回ばかりは霖之助に説明など必要なかった。
そのバカっぽいアイドルが、自身の目の前にいることに魔理沙は気付いていない。
「……んだよ。なーんかお前もノリが悪いな。
今のわたしは、霊夢や紫に妙な隠し事されてて傷心中なんだ。そこらへん気を遣ってくれよなっ」
「いや、その、…すまん」
コンテストの最後に現れた挑戦者に対する、霊夢や紫の反応は物凄いものだった。
あれだけ複雑な表情をして戸惑っている霊夢も珍ければ、あんなに笑い転げる紫なんて見たことない。
お前ら何を知っているんだ、と問い質しても、適当に誤魔化され続け、魔理沙は大分ネガティブ思考に陥っていた。
ちぇー、と近くにあった茶色のバスケットを蹴飛ばす魔理沙。バスケットに入っていた中身が―――
記念に持ち帰って、とアリスからもらった白桃色のドレスが、
舞台の小道具として使った、女の子が好みそうな小物やら装飾品やらが、
―――香霖堂の床に転がった。
「―――キャッ! ら、らめえっ!」
「…………」
慌ててそれを身体で覆い隠す霖之助。
アリスの教育の賜物なのか、咄嗟にそんな言葉が出た。……出てしまった。
ハッ、と我に返った霖之助が、魔理沙の方に振り返る。
魔理沙は慄然と立ち尽くし、その身体をぷるぷると震わせていた。
「……ここここここ、こーり、ん?」
「違うっ! これは、これは違うんだっ!」
「や、やっぱり……おま、おまえ……そっちの趣味に目覚めたんだ……、こ、香霖が」
「話を聞いてくれっ! 魔理沙!」
お互いの顔はもう可哀想なほどに真っ青だ。
何とか誤解を解かないと、とあれこれ弁解する霖之助の言葉など、すでに聞こえていないのか。
魔理沙の大きな瞳から、じわりと大粒の涙が浮かんだ。
「―――うわあああああああああぁぁぁぁんっ!!こうりんがっ!こーりんがー!」
「魔理沙!! まりさあああああああああぁぁぁぁっ!!」
ワッ、と泣き叫びながら外へと走る魔理沙と、それを必死の形相で追いかける霖之助。
幻想郷の深い青空が見守る中、二人の追いかけっこはいつまでも続いていた。
一部原作と異なる部分もあるかと思われますが、ご容赦ください。
『幻想郷にメガネっ娘がやってきたぞ!(前編)』の続きとなっています。
4/ 紫
一条の月光だけが遠慮がちに照らし出す暗澹たる一室の中で、二人の少女が無言で向かい合っていた。
その一方の少女が、突然目の前に現れた魅惑的な少女を、食い入るように見つめ続ける。
薄暗い夜闇の中でもなお映える、ウェーブを帯びた黄金色の髪は海波を髣髴とさせる。
口元には柔和な、母性さえ感じさせる微笑を浮かべているというのに、その青紫色の瞳には、相手を慮る意思は欠片も見られない。
目の前の対象を淡々と観察する、身が震えんばかりの冷たい光しか宿っていなかった。
「念のために聞いてあげるわ。貴方は誰?」
「……森近霖之助。君もたまに顔を出す、…この店の店主」
「それはそれは、面妖な話ですわね。私が知っている店主は、無愛想で物臭な男のはずなのだけれど」
「……こんな姿、好きでいるわけじゃない」
「本当に? あんなに楽しそうに、鏡の前で百面相をしていたのに」
境界を操る妖怪の賢者。幻想郷の母とも呼べる大妖怪。
八雲紫はそう言って、その白い指先を口元に当てながらクスクスと笑った。
彼女の雰囲気に呑まれて、あっさりと白状した霖之助の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
「ど、どこから見ていたんだ?」
「……えーと。私が初めてスキマから覗いた時、貴方はその姿で居間に倒れていたわ。
すぐに目が覚めたかと思うと、袖をまくったり、声をあげたり、髪を触ったり。
鏡の前で息を荒げている姿は、見ていて怖気が走ったもの。挙句の果てには自分の胸を触って鼻血―――」
「うわああああぁっ! 言うなっ! それ以上!」
全部見られていた!、と霖之助は頭を抱え、ブンブンと長髪を振り乱す。
終いの方になると、とうとう耐え切れなくなったのか、大声を上げて紫の言を遮った。
自分で聞いておいて、と紫はつまらなそうに呟く。
ゴロゴロと床を転がって、身悶えている霖之助にかまわず、スキマ妖怪は再び口を開いた。
「……らしくないわね。肉体だけじゃなく、精神まで退行したようにも思えるわ。今の貴方を見ていると」
「ほっといてくれボクの事なんか。……それよりもどうしてこんな所に来たんだ?
もう冬も始まろうかというこの時期に、店を開けている時間帯でもない香霖堂にわざわざ」
そこまで言って霖之助は、紫が今この場にいるのは偶然ではない、と察し言葉に詰まった。
いくらなんでもタイミングが良すぎる、と。
紫はこの季節、布団の中かスキマで冬篭りすることが多い。いわば冬眠のようなものだ。
完全な冬にはまだいくらか早いが、それでも積極的に活動したりはしないはずである。
にも関わらず、彼女はわざわざこの場まで足を運んだ。
ちょうど、霖之助が少女に変わる頃合いを見計らったかのように現れ、彼の痴態を一部始終覗いていた。
思い出して、霖之助の顔がまたもや羞恥に染まるが、それにかまわず紫に尋ねた。
「何故、どうやってボクの変化に気付いた?
いくら君でも、幻想郷で起こる全ての出来事を、リアルタイムで把握出来るはずがない。
……まさか、ずっとボクを監視していたのか?」
「……あのねえ。そんなことするほど、私ってヒマに見えるのかしら?」
有事の時以外は一日中家でゴロ寝して、式の九尾の手を焼かせている彼女が、そんなことを言ってもまるで説得力がない。
だが暇はあっても、さえない一店主をずっと監視するような理由など、確かに紫にはないだろう。
だったらどうして気付ける? と眉を寄せて、疑問符を浮かべる霖之助。
そんな彼に、紫は頬に手を当てて何かを考えるかのような素振りを見せた。
「貴方は確か半妖だったわよね。何も感じない?
この幻想郷を覆いつつある、不穏な気配に、……蕩けそうなほど甘い砂糖菓子のような香りに」
「……なんだって。まさか異変?」
「大きく息を吸って御覧なさい」
言われた通り霖之助は、スーハー、スーハー、と深呼吸を繰り返す。
紫の言う、甘い匂いなんて何も感じない。
ただいつもより、空気が少しベタついているかもしれない。
そんな曖昧な違和感を、辛うじて感じ取れる程度だった。
「甘い匂いなんて全くしないんだが…」
「半妖の鼻ではまだ知覚できないレベル…か。
となると、霊夢もまだ気付いてないわね。勘のいいあの子の事だから油断は出来ないけど」
ブツブツと独り言を呟く紫に不安を覚えた霖之助は、一歩彼女に詰め寄った。
「一人で納得していないで、ボクにもわかりやすく説明してくれないか。
幻想郷にまた異変が起こったのか? もしかしてボクがそれに絡んでいるのか? 教えてくれ!」
「……その前に、貴方が私に説明するのが先よ。
一体何があって、そんな可愛らしい姿に変わり果てたのかしら。まだ答えを聞いてないわ」
距離が一歩分近くなったからか、薄闇の中さっきよりも互いの顔がよく見える。
霖之助の頭にちょこん、と生えている猫耳を見て、紫は愉快そうにそんな皮肉を言った。
猫耳少女は、ムッと思いながらも、これまでの経緯を包み隠さず話すことした。
行商の話から、薬師との邂逅、薬の効果、自身の葛藤まで、ほとんど全て説明する。
すでに、自分の助平な姿までしっかりと見られているのだ。もう何を話そうと失うものなど何も無い。
ところが、最初こそ悪戯っぽい笑顔で耳を傾けていた紫だったが、話が進むにつれUの字だった口の形をヘの字へと変えた。
話が終わる頃には、紫は見るからに呆れた、という表情で目の前の少女を睨めつけた。
「あの薬師が原因だろう事は聞かなくてもわかるけど、完全にしてやられたのね。…情けない。
そも貴方の能力は何だったかしら? その青い薬とやらの正体が読めないほどに盲としていたの?」
と、紫がどこか試しているかのような口調で問いかける。
道具の名前と用途が判る程度の能力、を有している筈の少女は消え入りそうな声で答えた。
「…名前は元からなかった。製作者である薬師が、名前をつけていなかったからだ。
名前がわかっても、名付け親になれるわけじゃない。ボクはそこまで万能ではないんだよ。
用途だってそうだ。ボクはおおまかな使い道がわかるのであって、薬の細かい効果までわかるわけじゃない。
人体に変成を促す用途。ボクにわかったのは、せいぜいこれくらいだ。
……猫の耳と尻尾が生えるなんて、ピンポイントにわかるハズがないだろう!」
携帯電話を例に挙げれば、通話できることはわかっても、その他の機能の詳細までは見抜けない。
そういう事なのだろう。
喋っているうちに、さっきまでの憤りを思い出したのか、最後は荒々しい口調で吐き捨てた。
そんな霖之助を見て、紫はやっぱりらしくないわねぇ、と呟く。
「まあいいわ。過ぎたことを言っても仕方ないし、貴方もいちいち悔やむのはお止めなさい。
それよりも、貴方はこれからどうしたいのかしら。薬師のところにでも乗り込む?」
「そっ、それだ! 今すぐにボクを彼女の所に連れて行ってくれないか! スキマで飛べば一瞬だろう!?」
「……行ってどうするのよ。素直に元に戻してくれる相手ではない事は、もう貴方にも十分理解出来ているでしょうに。
それとも……、力ずくで従わせるつもりなのかしら? 霊夢たちのようにスペルカードで」
「ぐっ…!」
身勝手なことを言いながら縋り付く霖之助を、紫の容赦ない言葉が一蹴する。
そんなことはわかっている。
何の算段もなく、ただ闇雲に行ったところで、永琳が素直に本物の特効薬を渡してくれるとはとても思えない。
例え土下座して頼み込んでも、泣き叫んで駄々を捏ねても、彼女の心は一ミリも動じないだろう。
では、霊夢や魔理沙のように、弾幕でお話するか。
それこそ無謀でしかない話だ。億に一つも勝ち目はない。そもそも自分に弾幕を出せるかどうかさえもわからない。
だが、だがそれでも一刻も早く男の姿に戻りたい、と願う霖之助の焦りが、彼女を愚行に走らせた。
霖之助は突然、紫を前に跪き、額を地に擦り付けた。
これには流石の紫も面食らい、困惑の様相を露にする。霖之助の口が開いた。
「……お願いします。ボクに力を貸してください。
異変の内容はわかりませんが、ボクの今の姿も関係ないわけではないのでしょう?
ボクと一緒に薬師を説得してください。お願いします! この通りです…」
「……」
恥も外聞も捨てて頼み込む霖之助の姿に、紫は侮蔑にも似た険しい視線を送った。
「……女々しい男ね。肉体や精神だけでなく、性根まで女になってしまったのかしら?
この際はっきり言っておくけど、貴方に協力するなんて、お・こ・と・わ・り・よ。
自分で蒔いた種くらい、自分で何とかなさい。―――お嬢ちゃん」
「……ぐっ、…く」
紫の辛辣な返答に、霖之助は手を震わせ、歯を食いしばる。
悔しい。許せない。それは紫に対してではない、無力でちっぽけな自分自身に対してだ。
涙がこぼれそうになる。だが、それだけは許すものか、と自身の小ぶりな唇を噛んで必死に耐えた。
口の中に鉄の味が広がる。これが霖之助に残された最後の一線。
泣き出した瞬間、霖之助の男としてのプライドが、跡形もなく消え去ってしまいそうな気がした。
そんな霖之助に、紫は一瞬悲しそうに目を伏せる。だが、それはあくまで一瞬。
改めて視線を、今も背中を震わせる霖之助に向けて、紫は無機質な声で続きを紡いだ。
「察しの通り。今、幻想郷に異変が起こっているわ。原因は貴方が少女になったから。
本来なら、私はそれを食い止めなければいけない立場よ。貴方を男に戻すのも吝かではない。
……でも、それはしない。してあげない。
これは貴方自身が解決しなければいけない問題。私たちが首を突っ込むべきではないわ」
「君はっ、幻想郷を、愛しているんじゃなかったのかっ」
「ええ、愛しているわ。この世界に住む生きとし生けるもの全て、みんな私の可愛い、愛すべき我が子たち。
勿論、貴方もね。だからこそ甘やかす事は決してしない。自分の力で立ち上がってもらう」
「全よりも個を優先するのか? 異変によって起こる犠牲は無視するというのか? それが母なる君のやり方かっ!?」
「……黙りなさい。それも、場合によりけりでしょう。少し迷惑はするでしょうけど、犠牲が出るような類の異変ではないのだから」
「……?」
一体、どのような異変なのだろうか。
まるで、以前にも一度あったかのような、紫の確信めいた口調に、霖之助は疑問を浮かべる。
その疑問が顔に出ていたのだろうか。紫が、朝になればわかるわ、と一言付け加えた。
「さあ、これでもう話はおしまい、ね。私はこれから博麗神社に行って、霊夢に事情を説明しなければいけない。
放っておけば、異変を解決しようと勝手に飛び回ってしまうでしょうからね」
「そ、そこまで念入りに異変を放置するつもりなのか? 君は一体何を考えている?」
「さて、何を考えているのかしらね。
……でも、私ももうすぐ長い眠りにつくわ。流石に冬の間ずっとこの異変を放置するわけにはいかない。
だから期限を設けます。明日から三日以内に薬師をやり込めなさい。自分で方法を考え、自分の力で彼女を出し抜きなさい。
三日経っても貴方が少女のままなら、私や霊夢が永遠亭に出るわ。
それで異変は解決するでしょうけど、その時は貴方が男に戻るのは身体だけだと思いなさい」
「な…、そんな…」
あの薬師を出し抜く? 自分が?
三日どころか、十年考えたって無理に決まっている。
相手は月の頭脳とまで呼ばれた天才。もうどれ程長く存命しているかもしれない、生ける英知だ。
それを自分如き凡人が、ただでさえ散々弄ばれ、自信を喪失しかけている霖之助が?
出来るわけがない。三日間大人しく待って、自責に喘げと言われているようなものだった。
「踊らされっぱなしで、悔しくないの? 自分の責任で異変まで起こしておいて、最後まで他人に尻拭いさせるつもり?
貴方は男でしょう。……しっかりなさい。私は貴方を信じているのだから」
フワッと霖之助の頭が、何か柔らかくて暖かいものに包まれた。
それは紫の両腕だった。霖之助の小さな頭を撫でながら、その身体をすっぽりと胸に抱く。
それまで突き放してばかりだった冷たい態度から一転、紫は少女に母の慈愛を見せてくれた。
最初は呆然と、されるがままだった霖之助の瞳から、ポトリポトリと大粒の涙が止め処無く流れ出る。
人は、辛く当たられる時に泣くことは少ない。優しくされた時に泣いてしまうものだ。
しかし、霖之助は決して涙腺が緩い方ではなかった。
実際、最後に涙を流したのはもう覚えてもいないくらい遠い昔のことだ。
やはり、少女になったことで、肉体的にも精神的にも変化が顕れているのかもしれない。
決して泣かないと誓ったのに、とゴシゴシ目元を拭う霖之助に、紫はトドメの言葉を少女の耳元で囁いた。
「いいのよ泣いても。本当に悲しい時、辛い時に涙することは罪ではない。
男の子なら意地もあるでしょうけど、今だけは我慢せず、自分を少女だと思いなさい」
「うっ、ぐっ、うううううぅぅ~~!」
それで堰を切った。暗い部屋に、少女の小さな嗚咽が響き渡る。
彼女は本当にずるい、と霖之助は思った。
何故、こんな、最後の最後に、不意打ちみたいに優しくするのだ。
彼にはすでに父も母もいない。誰かに抱きしめられるなど、子供の頃以来であった。
数十年ぶりに包まれる、暖かなぬくもりに、優しく髪を撫でる柔らかな感触に、霖之助は子供のように涙した。
―――今夜は私の屋敷に来ないか?
紫の口からそんな提案が出たのは、霖之助にとっては意外なことであった。
「今は一人でいるのが辛いでしょう。客間は余ってるから、今夜くらいはゆっくりと休んで、英気を養うといいわ。
……藍に、今の貴方を見せてみたいしね」
少女は、泣き腫らした赤い瞳をパチクリとさせる。
最後の台詞に何か不穏な響きがあったが、霖之助に断るつもりはなかった。
もうすっかり頭が上がらない。今まで抱いていた苦手意識も大分解消してしまったようだ。
スキマに誘われ、幻想郷の艮の端に辿り着いた。
永遠亭に少し似た、日本家屋を再現したかのような古びた屋敷を、霖之助は所在なさそうに見回す。
すると、長い廊下からパタパタと導師服を着た長身の少女が、二人に向かって走ってきた。
その尾に生えている九つの狐尾。紫の式であり、おさんどんでもある八雲藍だ。
「お、お帰りなさい紫様。異変の原因はわかりましたか。 …って、その娘は?」
藍もすでに、異変の存在は把握していたようだった。
匂いがどうとか言っていたし、妖獣である彼女もすでに知覚しているのだろう。
そんな藍は、霖之助の顔を見るなり訝しそうに眉を顰め、主人に聞こうと顔を上げた。
藍も香霖堂のお客として、数えるほどだが訪れたことがあるので面識はある。
だが、事情を知らない藍は、一目見ただけでは少女が香霖堂の主人の成れの果てであると理解出来なかったようだ。
…わかったらいっそスゴイが。
「ふふ、すっごく可愛いでしょう。誰だと思う?」
「……勿体ぶらずに教えて下さいよ。見ない顔ですが、幻想郷の新しい住人ですか?」
猫耳少女は、文字通り借りてきた猫のように大人しく、そんな主従のやり取りを聞いていた。
いたずらっぽい紫の笑顔に、藍はわかりません、とすぐに降参のポーズを取る。
諦めが早いのではなく、無為なやり取りをさっさと切り上げたいのだろう。
「んもう、ノリの悪い子ね。……それじゃ霖、藍にご挨拶してあげて」
「……リン?」
「霖は霖じゃない。ほらほら、早くー♪」
これ以上ないくらい楽しそうに、紫は霖之助…もとい霖の背を押し、藍の眼前に立たせた。
交錯する視線。藍は名前を聞いてもわからない、というように黙って少女の紹介を待っていた。
「えーと、久しぶりだね。今はこんな姿だけど、香霖堂の店主の森近霖之助です」
「……」
「覚えてくれていないのかな? 君も何度か訪ねたことがあるんだが」
「……?」
ここで藍は可愛らしく小首を傾げる。
その顔はよくわからない、という困り顔だ。
どうやらあまりの事実に、脳の処理機能が完全に追いついていないようだった。
そんな哀れな式を、主である紫はこらえきれないかのように、口元に手を当てて震えていた。
「……あの」
「…香、…霖、…堂?」
「―――そう! ほら、顔に覚えがなくても、この服には見覚えがないかい?」
「…………」
そう言って霖は、ブカブカの服を摘み上げてみせる。
呆けた顔の藍は、香霖堂、こうりんどう、と咀嚼するようにその名を何度か呟いて―――
「―――えええええええええええええぇぇぇぇっ!?」
空気が震えるほどの大音量をあげながら、仰天した。
「あ、あはははは! らん、今の貴方の顔を鏡で見て御覧なさい! すごい顔よ…ぷくくくく」
「ちょ、え? あの店主が? あれ? え? な、何でそんな姿に…」
「話せば長くなるんだ、長く……」
ついに耐久値が臨界突破したのか、紫が腹を抱えて爆笑した。
そんな失礼な主の笑い声など、まるで聞こえないかのように、藍は激しく狼狽する。
霖は、おろおろと取り乱す式に、疲れた声で事の経緯を再び説明した。
「つまり薬師の誘惑に乗せられて、そんな姿になってしまった、と」
「……面目ない」
一通り説明を受けて、最後に藍が残したのは、呆れ返ったかのような一言だった。
霖は、小柄な身体をさらに縮こませて、藍の視線を受ける。
そして、藍は急に真面目な顔に戻ったかと思うと、やはりあの時と同じ異変か、と小さく呟いた。
ようやく笑いがおさまった紫も、それじゃ行くわ、と再びスキマを展開する。
「……どこに行かれるのですか? 紫様」
「霊夢のところ。少なくとも三日間は、彼女に異変を放置しててもらいたいのよ」
「ハァ!? そ、そりゃあの異変だとすれば、無害といえば無害ですが…。
霊夢がそんなの納得すると思いますか? それより何よりこの時間じゃもう寝てるでしょう」
就寝中の霊夢を無理に起こす。
そんな勇気のある者、幻想郷には紫含めて数えるほどしかいないであろう。
未だにその異変とやらの内容がわからない霖は、戸惑い顔で紫と藍の顔を交互に見比べている。
「第一、なぜ紫様がこの者の為に、そこまで手を尽くされる必要があるのですか?
話を聞く限り、今回の件はどう考えても彼の自業自得でしょう」
「……」
そういって、ジロリと霖を睨む藍。
返す言葉のない霖は、いたたまれない気持ちで俯いた。
「あんまりいじめないの。大丈夫、霊夢は必ず説得してみせるわ」
「そんなの心配してませんよ。ただ、あまりにも紫様らしくないような気がします。
住人や幻想郷にさほど影響はないとはいえ、異変をほっとくのもらしくないですし、霊夢以外の他人の為に、ここまで精力的に動くのが何よりいつもの紫様じゃない! ……いったい、何をお考えなのですか?」
「……ねえ、藍? 霖の顔を見てみて?」
「は、こんな時に何を」
そう言いつつも、主人の言葉は絶対なのか、無意識に霖の顔を覗き込む藍。
沢山の少女が住んでいる幻想郷にも関わらず、なお見る者を振り向かせてしまいそうな幼さと美しさと兼ね備えた極上の美貌。
その顔も泣き腫らしたのか、今は瞳を兎のように真っ赤にさせてしまっていて、惜しくもその美しさを若干損なわせていた。
……だからこそ! 柔らかそうな頬にまだ残っている涙の跡が、不安そうに藍を見つめるその小動物的な上目遣いが、殊更扇情的な魅惑を醸し出していた。
さらに少女の頭にある、我が愛しの式に似たネコ耳が手伝ってか、藍は知らずゴクリと生唾を飲み込んだ。
一言で言うと、中身はアレだが、外見は藍の大好物、ストライクゾーン―――!
「こんな愛くるしい少女が、泣きながら私に縋り付いてきたの。ボクを助けて、って。
私なら人肌脱がないと、……そう考えてしまうわ。貴方ならどうするかしら藍?」
「……むぅ」
大体合ってるが、微妙に間違ってないか、と霖は思った。あと一肌の字が違う。
藍の反応はとても苦しそうだ。
だが、赤く紅潮しているその頬が、答えをもう教えているようなものだった。
「それに今宵を限りにこの可憐な美少女と永遠の別れ。それはあまりにも寂しい結末ではなくて?」
「し、しかし、ですが……その」
紫が追い討ちの言葉を掛ける。藍はしどろもどろに弱々しい反抗の声をあげるばかり。
それで、勝敗は決した。
「それじゃ行ってくるわ。藍、彼女の世話と、異変の説明お願いね」
そう言って、紫は半身をスキマの中に潜り込ませる。
もう藍に制止の声をかけることは出来なかった。
「……ふふ。ランとリン。貴方たち、とてもお似合いよ」
最後に、そんな意味深な響きを残して、紫はスキマの中へと消えていった。
残された二人は、呆然と顔を見合わせるばかり。
「と、とりあえず、いつまでそんなサイズの合わない服を着ているつもりだ。
来い。私のお古だが、服を貸してやる。……ああ、その前に風呂に入れ。少し汗臭いぞ」
そう言って優れた嗅覚で、霖の身体をスンスンと嗅ぐ藍。
霖が慌てた様子で礼を言うと、紫様の命だからな、と呟いてそっぽを向いた。
思えば、この身体になってから冷や汗をかきすぎていた。
しかし風呂は、と霖は未だに戸惑いを捨てきれずにいる。
とは言ってもこれから三日間、一度も風呂に入らないわけにもいかない。諦めるしかなかった。
「ボクは、これからどうすればいいんだろうか」
夜空を見上げながらの霖の問いに、宝石箱のように煌びやかな光を宿す星々も、淡い光で優しく照らしてくれる月も、答えてはくれなかった。
博麗神社の母屋の一角にある、六畳一間の寝室。
そんな慎ましい一室の中心を陣取り、楽園の素敵な巫女である博麗霊夢は、静かな寝息を立てて眠りについていた。
完全に眠っている。熟睡中。きっと夢さえ見ていない。ノンレム睡眠の真っ只中。
そこに、起きる気配は微塵として存在し得ない。
寝室の空間にスキマを開いた紫は、微笑みを浮かべながら、そんな彼女の穏やかな寝顔を眺めつつ、しかしながらこのままでは話が進まない、と強行手段を取ることにした。
「霊夢~。おーきーてー」
「んに゛ゃ!?」
その無防備な腹の上に、フライングボディプレス。
少々やりすぎな気がしないでもないが、こうでもしないと今の霊夢は起きないだろう。
瞬間―――。
ドンッ、という重い衝撃と共に、寝室にあった障子という障子が爆風で全て吹っ飛んだ。
ふとんもふっとんだー! って感じである。寒いのは冬のせいだ。
ケホケホと咽ぶ紫の前に、無数の弾幕が飛んできた。勿論、ひょいっと避ける。
煙の向こうに、仁王立ちした巫女のシルエットがあった。
その顔は鬼のような形相をしていて、手には霊符『夢想封印』のスペルカードが握られている。
首から下に纏った水玉模様のパジャマが、そんな鬼神の貌と激しくアンバランスだった。
「我が眠りを妨げる者は何人たりとも……」
「きゃーきゃー待って霊夢! せっかくの初セリフがそれじゃ、主人公として締まらないわっ」
「問答無用!」
そう叫ぶや否や、恐ろしい数の光弾が紫を包囲する。
これは流石にシャレにならない、と幻想郷最強クラスの妖怪は冷や汗を流して喚いた。
「異変よ異変! この幻想郷に異変が起こったのよ!」
「……異変?」
その言葉に、ピタッと霊夢の動きが止まる。
そこで今更気付いたかのように、霊夢は紫の方に目を向けて、寝起きの不機嫌さを隠さず言った。
「……何だ紫じゃない」
「ふう~、怖かった。寿命が縮んだわ…」
ギャーギャー、と文句を垂れる霊夢を前にし紫は、もう滅多なことで霊夢を無理に起こすのはやめよう、と心に誓うのであった。
「お、上がったか」
「……」
霖が居間に戻ると、コタツに浸かっていた藍が、導師服を身に纏った風呂上りの少女の方に首だけ動かした。
霖の顔は真っ赤になっていた。それは恐らく、風呂上りだけが原因ではないのだろう。
しかし、当初に感じた劣情はすでに霖にはない。そこにあるのは照れくささから来る複雑な感情のみ。
いつ戻れるかわからない現状では、あの時とは違い、美しい裸体を楽しむ余裕などなかったのだろう。
「何だ、そんなに湯が熱かったのか? 顔が茹蛸のようだぞ?」
「……君にはわからないよ」
深いため息を一つ吐くと、霖は藍の向かい側に腰を下ろし、首を傾げる妖狐を正面から見据えると、真剣な面持ちで口を開いた。
「……それじゃ聞かせてくれ。何故ボクが女になると異変が起こるのか。
一体どのような異変なのか。まずボクは、それを知らなくてはいけない気がする」
「う、む…。紫様からも言われてるしな。だが、どういう異変かは今聞かずとも朝になればすぐわかる。
それはともかく、霖は『絶対少女領域』なるものを知っているか?」
「……絶対少女、領域?」
早速出たワケのわからない単語に、霖は困惑する。
紫も言っていたが、朝になればどんな異変かわかる、とはどういうことなのだろうか。
藍の説明は続いた。
「これは…、完全に紫様からの受け売りなので、私にも詳しい説明は出来ないのだが…。
何でもその世界観の中に、男性きゃらくたーなる人物がいなくなると起こる現象らしい」
「……何だいそれは?」
「だから説明出来ないと言ってるだろう! 私に聞くな!
…コホン。紫様が五百年ほど前に幻想郷に展開した『幻と実体の境界』。それの副産物といっていい。
日本以外に生息する妖怪を呼び込む為に、紫様自らが考案なされた結界。
紅魔館のスカーレット姉妹などの出現を例に出せば、わかりやすいだろう?」
「何となくわかるような、わからないような……」
「―――結界を張ったのはいいのだけれど、とんだ欠陥があったみたいでね」
「欠陥?」
神社の縁側に、霊夢と紫は肩を並べて腰を下ろしていた。
遠い昔に思いを馳せる紫に、霊夢がお茶を口につけながら聞き返す。すでに巫女服は着用済みだ。
当然、紫の茶はない。
「幻、の部分に強く傾きすぎていたのよ。
まあ、そのおかげで強い妖怪や吸血鬼が幻想郷に移るようになって、人間とのバランスは上手く保たれたのだけれど…。
私の結界が概念を曖昧なものにし、博麗大結界がそれらを全て内包し、閉じ込める檻となった。
ここまでは、幻想郷に住む人間なら、周知の事実よね」
「……わからないわよ。もっと簡単に説明してちょうだい」
寝起きの頭ではちんぷんかんだ、と霊夢は口を挟む。
寝起きでなくても理解しきれるかどうか怪しいが。
そんな霊夢に、紫は小さく苦笑すると今までの説明を総括した。
「つまり、幻想(ファンタジア)の部分が発達しすぎて、幻想郷が余計な機能を持つに至ったわけ。
その一つが『絶対少女領域』。現在、唯一の男キャラであった香霖堂の店主が少女になってしまった。
この幻想郷に住む設定持ちのキャラクターが、全て少女で占められた時、幻想郷に小さな異変が起こる。
住人の特性に合わせた、少女の為の少女の世界に、幻想郷が成り代わってしまうのよ」
「……ワッケわかんない」
男の登場人物が多い世界観は、基本的に荒いタッチで描かれ猛々しい。
では、少女しか現生しない少女チックな世界とは、幻想郷に如何なる変貌を遂げさせるのか。
紫の説明に釈然としない霊夢にはそんな世界など、想像すら成し得なかった。
設定持ちとか、キャラクターとかよくわからない単語も多いが、そこはあまり突っ込まない方がいい、と霊夢の自慢の勘が告げている。
「勘、と言えば、わたしの勘が働いていないわ。異変を前にして察知出来ない、なんて事は今までなかったハズなのに」
「危険がないからでしょう。それにこれは、幻想郷の住人が人為的に起こした異変ではないわ。
……まあそれでも、誰かさんの意図が働いていたのは、疑いようもない事実だけど」
「それにしても、あの霖之助さんが異変のストッパーになっていたとはね。正直、いてもいなくてもいい人だと思っていたけど」
「ふふ。少女化した彼は、それはそれは可愛らしかったわよ。貴方も一度ご覧なさい。藍なんか仰天していたんだから」
ひどいことをのたまう霊夢に、紫は意地の悪そうな微笑を浮かべた。
そんな彼女に、霊夢はふと思った疑問を口にした。
「でも、霖之助さんが幻想郷に住んでたのって、まさか五百年前からじゃないわよね?
彼が来るまで、幻想郷はずっとそんな甘ったるい世界だったの?」
「そんなことはないわ。それまでは妖忌がいたからね」
「あれは設定とやらがあるんだ」
しかし、その彼も今は幻想郷の外にいるという事なのだろう。
男キャラが全くいなくなってしまった幻想郷に、まずは砂糖菓子のような甘い空気が流れてくるらしい。
霊夢にはまだ、そんな匂いは感じなかったが、朝になる頃には人間でもわかるほど目に見えて変化する、と紫は説明した。
霊夢が起きる時間まで待てなかったのは、そんな理由からである。
なんだかなー、と霊夢は頬に両手を当て、疲れたように息を吐いた。
「めちゃくちゃだ」
説明を聞いた霖は頭を抱えていた。荒唐無稽にも程がある。
「だが、それも幻想郷だ。私も実際起こるまで信じられなかったのだからな。……今から三百年ほども前のことだろうか。
白玉楼の当時の庭師であった魂魄妖忌殿が、何かの用事で数日間、幻想郷の外に出た事があった。
当時は博麗の結界もなく、割と自由に外を行き来できたんだ。
……それから幻想郷は変わった。紫様もその時まで結界の不備に気付いていなかったらしく驚愕していた。
原因はすぐにわかったので、急いで修正を試みた。
だが、境界のバランスを弄っても、外の世界から男を幾人か引っ張ってきても一向に直らなかった。
これはもはや神主とかいう絶対神の呪いだな。
『何故、もっと男キャラを用意しなかった!』と紫様も激怒なさっていたが、あの方でさえ神主という存在の前では無力だった」
「……」
「それで霊夢に提案があるのだけれど。異変が起こっても、しばらくは静観していて欲しいの。三日間だけでいいわ」
「……正気で言ってるの? いくら危険がないとはいえ、博麗の巫女として異変をほっとけるわけがないじゃない」
紫の提案に、霊夢はしかめ面になって抗議した。
それも当然だ。幻想郷の調停者である彼女から、普段とはまるで逆の事を言われてるのだから。
霊夢の不信感丸出しの視線を受け止めて、紫はなおも微笑んで続けた。
「これは霖自身の戦いであるべきなのよ。第三者が口を挟んでいい問題ではない。
……あ、リンって言うのは、彼が少女でいる間だけの、私がつけた仮称ね。
あれだけの美少女に、いつまでも霖之助と呼ぶなんて私には耐えられないわ」
「聞いてねーわよ」
やたら楽しげな紫の口調に、霊夢が半眼になって、すかさずツッコミを入れた。
「期限は設けた。あとは彼がどのような行動を取るのかわからないけれど…。
あの子だって男の子なの。ちっぽけなものかもしれないけれど、意地があれば誇りもある。
それを奪われた形のまま、部外者の私たちが解決してしまえば、あの子は二度と立ち上がる事など出来ないでしょう。
……お願い霊夢わかって。彼の気持ちを汲んで、今は伏して待ってあげて頂戴」
「……紫」
紫の必死な懇願に、霊夢は小さな声で彼女の名前を口にする。
だが次の瞬間、霊夢は気の抜けた顔で、一言紡いだ。
「アンタ、面白がってるでしょ?」
「………………………てへ♪ やっぱりわかっちゃう?」
「これで、私からの話は御終いだ。これからどうするか、何を成すかはお前が決めろ。
……くれぐれも、紫様を失望させるような真似だけはしないでくれよ」
「しかし、……相手があの薬師では」
話を終えた藍が、スッと立ち上がる。
霖はなお俯いたまま、搾り出すかのように、そんな弱音を吐いた。
だが、それも致し方なしだろう、と藍は思う。
力も知能も、霖とはまるで違う次元のレベルの相手なのだ。
例え藍であっても、霖と同じ立場になればこのような顔をするだろう。
か弱き少女を励ますため、藍は少女に近づき、ポンとその細い肩に優しく手を乗せた。
「元気を出せ、とは言わないが、もっとしっかりしろ。お前がそんなでは打開できる状況も打開できないのではないか」
「……そうだ、ね。ありがとう、少し楽になったよ」
とは言うものの、自分のせいで異変が起こったという事実に軽い眩暈を覚えたのか。
霖の身体がふらりとよろめいた。
藍は咄嗟に支えようとするが、自身の足に躓いたのか、慣性の法則に従って霖の身体へと倒れこむ。
「―――あ」
それは、どちらが漏らした声だろうか。
藍の身体が、霖の身体に覆い被さる形で、二人はもつれあいながら横になった。
お互いの顔の距離が、一気にゼロに近くなる。
ドキドキ、と脈打つ互いの心臓の鼓動が、重なり合うかのように部屋に鳴り響く。
実際は聞こえるはずもない微かな音だが、二人には伝わっていた。…お互いの緊張が。
藍も霖も、顔がこれ以上ないくらいに赤くなっている。
早くどかないと、そう思っていても、まるでゼンマイが切れてしまったかのように身体が動かない。
「リ、リン」
「ラン…ボ、ボクは」
『……ふふ。ランとリン。貴方たち、とてもお似合いよ』
紫様があんな余計なことを言うからだっ、と藍は内心歯噛みした。
目の前の美少女を意識してしまって仕方ない。目を背けることは出来ない。
ダメだダメだ、と自制しようと思えば思うほど、身体にかかる金縛りは強くなる一方だった。
風呂上りの霖から漂う石鹸の匂いが、藍の頬に断続的にかかる熱い吐息が、真っ直ぐと藍を見つめる大きな瞳が。
藍の理性をガリガリとこそぎ落とす。狂わせる―――。
―――私は、この少女の色香に当てられてしまったのか? 馬鹿な。何故?
会ってまだ間もないというのに、どうしてここまで惹かれる? 囚われてしまう?
この女の美しさは魔性だ。藍はそう思った。
藍は必死になって、愛しき我が式の愛くるしい笑顔を思い出す。
―――橙、橙! 私を助けてくれ! この少女が織り成す蜘蛛の巣に絡まれた私を、どうか救ってくれっ!
その時だった。藍の切なる願いが届いたのか。
自分の目の前に、求めて止まない二尾の幼女が立っているように見えた。
―――嗚呼。橙! 助けに来てくれたんだね。
……ん?どうしたんだ、そんな驚いたような顔をして。
何でそんな泣きそうな顔をしているんだい? お前がそんな顔をすると、私まで悲しくなる。
頼むから笑っておくれ。私はお前の笑顔を見ているだけで幸せなんだ。
「ら、藍、さま…?」
そこで藍は気がついた。気付くのが遅すぎた。
猫は夜行性だということに。
甘い香りが漂うというこの異変は、初体験なはずの橙。
藍と同じく妖獣である彼女が、今夜の内に異変に気付くのは明白だ。
未知の異変に気付いた橙はまず何をする?
……決まっている。我が主に会いに、マヨヒガから飛んでくる―――!
「ちちちちぇ、橙! ち、違う! これにはワケが!」
バッ、と即座に身を起こし、目の前で涙を浮かべる自分の式に、慌てて弁解する藍。
さっきまでまるで動けなかったのが嘘のようだった。
霖も、今頃第三者の存在に気付いたのか、驚愕の表情でその場から離れ、橙の姿をまじまじと見やる。
橙も藍ではなく、霖の方を凝視していた。
藍と同じ導師服を身に纏う少女。
その頭と尾に、自分と似たようなものを生やしている少女。
真っ赤な顔をして、自分に怯えたような眼差しを向ける、とても美しい少女。
それで、今までロクに意識したことがなかった、橙の嫉妬が爆発した。
「ら、藍さまは…、あ、新しい式に鞍替え、な、なされたの、…ですね。
よ、よかったですね…、わ、わたしより綺麗だし、も、もうわたしなんか…いらないのですね」
「ち、違うっ! これは何かの間違いだっ! 私がお前を捨てるはずがないだろう!」
「な、なな何が間違いだっていうんですか。あんな格好で…あんな…」
「橙! 聞いてくれ! 私にはお前しかいないんだ! お前がいなくなったら私は死ぬるっ!
生きていく糧を失うことになる! ゆ、許してくれ。私が悪かった。こ、この通りだからぁ」
そう言って、自分の式に対して、ガバッと土下座する藍。
セリフの最後の方になると、藍まで涙目になって、声を震わせていた。
橙の成長を見守る。その為に自分は生まれてきた、とさえ思っている親馬鹿である。
橙に嫌われることは、自身の死に等しかった。
まさに必死である。
「ら、藍さまの…藍しゃまの…」
「ちぇ、橙?」
向かい合った主従の間に一呼吸分の間が流れる。それは大爆発一歩手前のチャージタイム。
「らんしゃまのうわきもの~~~~~~!!」
「ちぇ、ちぇええええええええぇぇぇぇぇん!!」
言い捨てて音速で外へと逃げ去る橙と、それを光速で追いかける藍。
風のように消えた二人が、その後どうなったかなど、霖にわかるはずもない。
藍の魂の叫びが、ドップラー効果でじょじょに低音になって、消えた。
霖は、一体何が起こったんだ? と立ち尽くしたまま、唖然とすることしか出来なかった。
5/ アリス
―――そして、夜が明けた。
紅魔館のメイド長である十六夜咲夜が、館の窓から外を眺めた瞬間。
彼女はその理知的な顔を崩し、驚きの様相を隠す事なく、息を忘れたかのように幻想郷の今の有様を見つめていた。
金平糖のような何やら甘ったるい匂いが、咲夜の整った鼻につく。
「こ、これが『絶対少女領域』? まさか本当に」
昨晩の事だ。彼女の主であるレミリア・スカーレットが、微かに香る甘い匂いに突然顔をしかめた。
咲夜がどうかしたのか、と訊ねたところ、レミリアはこの香りに覚えがある、と言う。
香りといってもそんなものは何も感じない、と咲夜は戸惑い顔で、主人にそう申し開いた。
レミリアはチッ、と一つ舌打ちすると、苦虫を噛み潰したかのような顔で次のように語った。
『……聞きなさい咲夜。これから幻想郷に、実にくだらない異変が起こるわ。
当時の私はこの異変に関わらなかったけど、あの不快感は今でもよく覚えている。
スキマ妖怪が絶対少女領域、とかいう幻想郷のバグのひとつだとか言ってたな』
バグ…? と咲夜は戸惑いの色を更に濃くして、再び主人に尋ねた。
異変ならば、私たちも解決に赴くべきではないか、と。
レミリアはしばし考えるような素振りをしたか思うと、完全で瀟洒な従者に答えは否、と返した。
『……それは何故でしょうか?』
『運命が視えたわ。ほっとけば、近いうちに何か面白いことが起こる、とね』
的中率ほぼ100%の予言にも似たレミリアの、どこか楽しそうな言葉。
主人にそう言われれば、咲夜としても勝手な行動を取るわけにはいかず、口を噤んだ。
レミリアはもう床についている。
異変が起こっても、紅魔館の内は何も変わらず、いつもと同じ忙しい一日が始まる。
変わり果てた幻想郷の空を見上げた咲夜は、何か嫌な予感がする、と言い知れぬ不安を感じていた。
「ゆ、幽々子様! ゆゆこさまーっ! 空が! 冥界の空が! 甘い空気が!」
「……落ち着きなさい妖夢」
白玉楼の主人、西行寺幽々子は、慌てた体で自身の寝室の襖をぴしゃーっ! と開け放った白玉楼の庭師、魂魄妖夢の狼狽を静かな声で諌めた。
だが、妖夢の取り乱しっぷりも、仕方ないことなのかもしれない。
冥界にまで及ぶこれほど大規模な異変は、彼女にとって一大事以外の何者でもないだろう。
真相を知っている幽々子は、今もハラハラと主と外を交互に見る、この可愛い従者の様子に知らず頬を緩めた。
「大丈夫よ。紫がきっと、何とかしてくれるわ」
「ひ、人任せでよいのですか!? こんな大きな異変、いつかのように私たちも解決に向けて動くべきでは……」
「……妖夢が生まれる前にもね、一度起こっている異変なのよ。
ああ、あの時は大変だったわ。なかなか帰ってこない妖忌にイライラと待っている紫がとても印象的だった」
「な、なぜそこでお師匠様の名が…?」
主人の意味不明な言葉に、困惑した面持ちで食って掛かる妖夢。
このままでは埒があかない、と幽々子は笑顔を崩さぬまま、突然パンッと両手を叩いた。
部屋に響き渡る乾いた音に、妖夢はビクッと肩をすくませる。
「―――さ。これでお話は終わりにしましょう。また後でちゃんと説明してあげる。
私はね、この異変が割と嫌いではないの。美味しそうな甘い匂いはとても食欲が進むわ。
……そんなこと言ってたらお腹が空いてきちゃった。妖夢、今日の朝食は何かしら~?」
「ゆ、幽々子さま…」
いつものα波垂れ流しの、幽々子のおっとりとした笑顔に、妖夢は脱力しながら主の名前を呟いた。
永遠亭の中庭に立った八意永琳が、どこか興奮したかのような面持ちで、眼前に広がる空を見上げていた。
「……成功だわ」
「せ、成功って何ですか? これは異変なんですか? な、何がどういう…」
嬉しそうに語る永琳の隣に立つ彼女の弟子、鈴仙・優曇華院・イナバの顔色はもう真っ青だ。
混乱も極まった様子で、師に救いを求めるかのように、震えた声で訊ねる。
「彼が薬を飲んでくれたのよ」
「か、彼って香霖堂の店主がですか? 何で女の子になっただけで幻想郷がこんなになるんですか!?」
「昨日の朝にも言ったでしょ。彼に薬を渡したのは道楽の為だけではない、と。
でも、こんなにも顕著に変化するなんて…。ああ、やはり彼は最高の被験者だったわ」
どうしてこの人は、いつもいつも核心部分しか語らず、自分の質問には何一つ答えてくれないのか。
鈴仙は拗ねたような、恨みがましい視線を永琳に送った。せめてもの反抗である。
そんな弟子の態度に永琳は苦笑すると、いつもの腕を組むポーズを取り、そして口を開いた。
「……私も、全てをわかっていたわけじゃないのよ。
ここをこうすれば、こうなるんじゃないか。…その程度の憶測の域を出ない予想だったのだから。
実際、このような変化だとは、思ってもみなかったわ。
永遠亭はつい最近まで、私の仕掛けによって時を、歴史を止めていた。そのせいで見そびれていた異変の一つがこれ」
「や、やっぱり異変なのですね!? わたしたちはどうすればよいのでしょうか!?」
「何もしなくていい。彼…、いえ彼女は必ずここに来るでしょうからねぇ」
そう言ってニヤリ、と不敵に笑う永琳に、鈴仙はうすら寒いものを感じざるを得なかった。
一体これからどうなってしまうのか、鈴仙には全く予想も出来なかった。
「―――な、何だこれは」
霖が翌朝目を覚ました時、何やら甘い要素が空気に混ざっているのを感じた。
これが正体か、と思いながら客間の襖を開け、縁側から屋敷の外を見た瞬間。
霖の頭の中は真っ白になった。完全に固まった身体で、そんなことを呟くしか出来ない。
幻想郷の空が、色濃い桃色に染まっていたのだ。
流れる雲は、綿菓子のようにはっきりと輪郭を帯びている。
その隣には、無数のクッキーやらチョコレートやらが星の如く、空に浮かんでいた。
大きく息を吸い込めば、まるで砂糖が舌にへばりついたかのような、人によっては不快感を覚えるであろう錯覚を抱かせる。
「これはひどい」
一ヶ月もいれば糖尿病になりそうな、絶対少女領域のサマを肌で感じた霖の抱いた感想はそれだった。
今頃、天狗あたりは大喜びで空を駆け回っているだろうな、と他人事のようにため息を吐いて、霖は屋敷の居間を目指して歩く。
現状を悲観しても仕方ない。どうせ期限付きの異変だ。
自分はそれまでに出来る事を考えよう、と今までの霖にしては若干楽観的な考えを抱いた。
こうして落ち着いて前を向けるようになったのも、紫のおかげなのだろう。
彼女には感謝しても足りなかった。
「おはよう藍」
「お、おはよう」
居間に辿り着くと、そこに座っている妖弧に霖は何でもないように挨拶をする。
昨夜のことは気にしてないよ、という意思表示のつもりだったのだが、藍の様子は数時間前とは明らかに違っていた。
……様子も違えば、よく見ると状況も違っていた。
藍の袖をしっかりと握り締めた、隣に座る化け猫の式が尻尾を立てて、霖を威嚇していたのだ。
何故、そんな敵意に満ちた目を向けられなければいけない、と不思議に思った霖なのだが、そこで自身の頭に生えている猫耳の存在を思い出して、納得に至った。
自分と似た存在が、一つ屋根の下にいるという状況が、彼女は気に入らないのだろう。
本当はそれだけではないのだが、女心に疎い霖之助には永遠にわからない。
「…り、霖。非常に申し訳ないのだが、朝食を食べたら速やかにここから出て行ってくれ。あまり橙を…刺激しないでやってくれ。
―――あ! それ以上私に近づくな! 何をするかわからんぞっ!」
藍は藍で、ダラダラと脂汗を流し、そんな冷たい言葉を投げかける。
明らかに様子がおかしいし、一体どうしたんだ? と霖が彼女に一歩近づくと、藍はバッと身構えて、橙の小さな身体を抱きしめながら、ワケのわからないことを喚いた。
嫌われた…わけではないらしい。それならもっと険しい表情で警戒するだろう。
むしろ藍は顔を赤くし、困まり果てた顔で霖を見る。どこか怯えているようにさえ見えた。
橙はぷくー、と頬を膨らませつつも、藍の抱擁になすがまま身を預けている。
どうやら和解はしたらしい。だがあの後、何が起こったのか容易に想像出来そうだ。
「……それはかまわないんだが、君の主人のスキマがなければボクは帰れないよ?」
「わ、わかっている。紫様はまだ寝ているが、命を賭けてもお前を家に送らせる! さ、さあ食事にしよう! 早く食べ終わろう!」
そんな大げさな、と呆れる霖に気づかず、藍は焦った様子で食事の用意を始めた。
その横に橙が、口を尖らせながらもぴったりと藍に離れずくっついている
可愛い子だなあ、と橙の様子を見て、霖は微笑ましく思った。
霖之助は、霖となって我が家へと帰ってきた。
実を言うと、紫が勢いでつけたこの仮名を、霖はけっこう気に入っていた。
自分らしさを失わず、尚且つ凛とした印象を聞くものに抱かせる、可愛らしい名前だ。
だが、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。
―――その紫といえば、と。
霖はついさっきまで行われてた乱闘を思い出して、困ったように頭を掻いた。
『ちょなによなによいきなりっ! 藍! 私に何か恨みでもあるのっ!?』
『あらいでかっ! 紫様のつまらん一言のせいで橙が! もう私は頭が上がらない!』
ぎゃーぎゃー! と霖と橙の目の前で女同士のプロレスが行われていた。
くんずほぐれつ絡み合って、髪を引っ張り合い、頬を伸ばして、お互いを罵りあう。
紫を起こすだけのはずなのに、何故このような有様に。藍の私怨は計り知れなかった。
責任転嫁にも見えるが、紫の不用意な一言が藍の行為を後押ししていたのは間違いない。
藍もこの憤りを霖にぶつけるわけにもいかず、鬱憤が溜まっていたのかもしれなかった。
たっぷり十分はそうして乱闘している二人を眺め、この時ばかりは霖と橙も顔を見合わせて首を傾げていた。
「……さて。これからどうしようか、な」
店の奥で胡坐をかき、霖は今後の方針を呆と考えていた。
勿論、永琳をギャフンと言わせる打開策。それを考えなければならない。
店は、男に戻るまで当然休業だ。扉という扉に施錠して、今香霖堂は完全な密室状態となっている。
魔理沙が来るかもしれないが、彼女は昨晩の霖之助の質問に大分参っていたようにも見えた。
絶対とはいえないが、当分顔を出さない可能性が高いだろう。
落ち着いて考える時間は十分にあった。
―――ドンドン
と、思っていたら店の扉を叩く音が、霖の耳に入った。
ノックする時点で魔理沙ではない。
どうしようか、と霖之助は焦った。
こういう事態は考えていないわけではなかったが、とりあえず店さえ閉めれば、自分に特別用がある人間など現れないだろう、と少しお気楽に考えていたのだ。
魔理沙や慧音は例外かもしれないが、二人とはつい最近会ったはずだし、この三日の間に訪ねてくる可能性は低いはずだった。
―――まさか、慧音か?
だが、ありえない話ではない。
薬を受け取った霖之助を気にして、わざわざ会いに来てくれる可能性も、無きにしも非ずなのだ。
……しかし、まだ会えない。霖には慧音と顔を合わせる勇気がなかった。
だからと言って、居留守を決め込むわけにもいかない。不審に思われるだけだ。
霖は慎重に、足音を立てないよう店の入り口まで近づいた。
一体誰が来た? と店の棚の物陰からそっと様子を窺う。
と、訪問者は霖の気配に気付いたのか。怒ったような口調で扉越しに声をかけた。
「霖之助さん、わたしよ。紫から事情は聞いているから開けて」
「霊夢…か」
見るからにホッとした顔で、霖は戸の鍵を外し、霊夢と顔を見合わせる。
不機嫌そうだった霊夢が、霖の姿を認めるなり驚愕に目を見開いて絶句した。
藍の時と違って、ある程度の理解と覚悟をもって臨んだはずなのに、霊夢の反応は藍と全く同じだった。
「…………ぇ? マジ? あんたホントに霖之助さん?」
「や、気持ちはわかるが、ボクだよ…」
硬直する霊夢を店内へと誘い、霖は急いで戸を閉めて鍵をかけた。誰に見られているかわかったものではない。
それにしても、他人への無関心さに定評のある霊夢が、他人を見てここまで驚く。
……その意味を、霖は漠然と感じ取っていた。
「それにしてもよく来てくれたね。ここに来たということは、とりあえず異変を静観してくれるつもりなのかい?」
「……」
居間に移り、二人は向かい合い茶と茶請けを囲む。
霖の問いに、博麗の巫女は無言で目を伏せた。
まだ納得しきれてないのは勿論だが、それよりも目の前の少女が霖之助の口調で話しかける、というこの状況に、違和感を感じているようだった。
霊夢は、意を決したように目線を戻すと、諦めたようにどこか清々しい声で言った。
「……納得したわけじゃないわよ。今幻想郷はヘンテコな世界になってるし、どこを飛んでも流れる甘い空気は好きじゃない。
ここに来る前に魔理沙が朝一番神社に飛び込んできたわ。
『おい異変だ! わたしたちの出番だぜ!』って。……テキトーに誤魔化したけど」
「霊夢。……彼女には」
「言ってたら魔理沙はすぐさまここに来てるわよ。霖之助さんのことは何も喋ってない。わたしだってそれくらいの空気は読めるわ」
そう言って、霊夢はズズッと自分専用の湯呑みに注がれている茶をすする。
ありがたかった。彼女もボクの味方であってくれている、と霖は心のうちで感謝した。
異変解決の使命を背負っている博麗の巫女といえど、彼女も基本的に情の深い人間だ。
霖の事情や感情を察し、見て見ないフリをしてくれていた。
「まあ、ここまでやったんだから、ちゃんと自分でこの異変を解決してよね。
結局、わたしたちの手を借りました、なんて結果になったらわたしは許さないわよ。……でも、そんな心配はいらないか」
「どうしてそう思うんだ?」
もうすでに結果を見ているかのように、霊夢は妙に確信めいた予感を口にする。
不思議に思った霖が訊ねた。
「……わたしの勘よ。紫風に言うのなら、今回のお話の主人公はきっとわたしじゃない。
霖之助さんが最初から最後まで事件の中心人物として、幻想郷を引っ掻き回す。…そんな気がするの」
「おいおい、ボクはそんな大物なんかじゃないよ」
「知ってるわ。……でも、誰にだってそんな晴れ舞台ってやつがあるんじゃないかな」
頑張ってね、と最後に言って、霊夢は初めて微笑んだ。
それは、いくら綺麗でも偽りの少女である霖よりもずっと…。
ずっと素敵なまぶしい笑顔だった。
霊夢が訪れた日から、さらに一日が経った。
つまり紫と交わした約束の二日目。期限まであと二日。
相変わらず、香霖堂の居間に居座りながら、霖は必死に様々な策を練っていた。
だが、……ダメだ。
いくら考えを張り巡らせても、永琳は常にその一歩先をいっている気がしてならない。
同時にまんまと騙されてこんな姿になった恐怖が甦る。
昨日は、知恵熱が出そうなほど悩んで、考えて、そして消沈を繰り返していた一日だった。
「……このままじゃダメだな。とても期限に間になんて合わない」
今の霖の姿は、藍が纏う導師服ではない。
昨日のうちに、自分の一張羅の寸法を、今の自分のサイズに合わせ着こなしていた。
ついでにメガネも合わせている。普段身につけているものがないと気持ち悪いからだ。
狭い居間で、散々悩みきった後、―――霖は思い切って外に出ることにした。
こんな所で詰めてたら、纏まるものも纏まらない。とにかく気分を晴らしたかった。
なあに、外に出て誰かに会ったところで、今の少女が森近霖之助だと誰が気付ける?
同じ服を着ていたところで、メガネをかけていたところで、同じ人間だと連想出来るはずがない。
何せ、あの霊夢でさえわからなかったのだから。
そうと決まれば里にでも行こう。……勿論、慧音のいそうな所からは出来るだけ離れた場所に。
ピンク色の空の下でも、里の人たちの生活は何も変わらない。
初日は流石に驚いていたようだが、二日目ともなると皆いつもと同じように暮らしていた。
すさまじい順応性だ。幻想郷で暮らす上での必須スキルなのかもしれない。
そんな往来を歩きながら、霖はこの異変が本当に害がないことに心から安堵していた。
むしろ喜ぶ者は喜ぶのか、空に浮かんでいる無限大のお菓子を、夢中で追いかけている子供達もいる。
その姿に微笑を浮かべていると、ふと何かが目に留まった。
里の人たちが集まっている一団がある。
けっこうな数で、皆興味深そうにガヤガヤとその中心を眺めていた。
何だろうと思い、霖もその輪の中に加わってみることにした。
『あま~い香りと沢山のお菓子に埋め尽くされた幻想郷。
ねえ上海? どうして世界はこんなになってしまったのかしら?』
『馬鹿ね蓬莱。それはきっと甘いものが食べられない人に、神様がくれたお慈悲なのよ』
それは人形劇だった。
煌びやかな装飾がなされている小さな舞台で、見覚えのある人形が向かい合って喋っていた。
その裏で金髪の少女が、糸もないその細い指先を微かに動かし、人形たちに喋らせたり、走らせたり、転ばせたりしている。
人形たちの一挙一動に、子供たちははしゃぎ、大人たちは感心し、老人は微笑を湛えていた。
霖には、人形を操っているその少女に見覚えがあった。
―――アリス・マーガトロイド。
魔法の森に住む人形使い。
人形の完全自律を自身の命題と定め、日々研鑽に勤しむ、孤高の探究者。
香霖堂にも回数こそ少ないが、人形の素材や魔道具を買いに来てくれることがあった。
アリスは汗を流しながらも、歓声が湧くたび、口元を緩めて人形たちを一生懸命操っていた。
種族の違いなど関係なく、里の人間と共存しようとするその前向きな姿勢は、魔理沙や大図書館にはないものだ。
魔理沙といえばもしかして彼女もいるのか、と霖はキョロキョロと辺りを見回すが、どうやらアリス一人のようだった。
……その時、一際大きな歓声があがった。
劇が終わったのだ。
ワーワー、と観客たちが賞賛の声を送る中、上海人形と蓬莱人形は互いの手を繋いで、丁寧にお辞儀をしていた。
里の人たちの歓声を聞いている霖に、―――突如電撃のような閃きが走った。
「―――こッ、これだっ!!」
永琳に一泡ふかせられるかもしれない方法。これしかない!
霖の声が思いの外大きかったからか、アリスが霖の存在に気付く。
衝撃のあまりつい声を出してしまったのだが、霖はそれにかまわず、アリスの元へと走り寄った。
「ありがとう! 素晴らしい劇だったよ! 君のおかげだ! ありがとうありがとう!」
「……は、はぁ。それはどうも」
アリスの両手を握ってぶんぶんと上下する霖に、アリスは戸惑いつつも言葉を返す。
「これで何とかなる! 勝てないかもしれないけど勝負になる!
アリスお願いだ! ボクに協力してくれ! 君の力が必要なんだ!」
「……え、ええと。ところで貴方だれ?」
里の外れにある風車台の前に、霖とアリスは腰を下ろしていた。
その行きがけに、これまで起こった出来事は、全てアリスに説明した。
最初は、目をぱちくりとして固まっていたアリスだったが、悲痛な表情で語る霖の姿に、何か感じ入るものがあったのだろうか。
話だけでも聞いてくれる気になったようだ。場所を移しましょう、と一言いった。
「……それにしても、まさかあの店主さんが、こんなにも可愛らしくなってしまうなんてね。
別にそのままでもいいんじゃないかしら? お客さんもきっと増えるわよ」
「……冗談じゃない。お断りだ。ボクはそこまで酔狂じゃないよ」
「魔理沙には話した? ……あの子、随分と貴方のこと慕っているみたいだけど」
「合わせる顔があると思うかい? 出来れば彼女には、男に戻るまで気付かないでいてもらいたい」
「こんな異変まで起こしておいて、随分とムシのいい話だこと」
そう言って、アリスはお菓子の国でもなってしまったかのような、幻想郷の空を見上げる。
この異変に初めて気付いた時、彼女は興奮した。
今までの異変とは毛色の違う、まるで童話の世界にでも迷い込んでしまったかのような錯覚に、アリスの乙女心は弾みに弾んだ。
その勢いで、魔理沙に会いに行こうと彼女の家まで赴いたが、生憎彼女は留守だった。
どうせそこら中飛び回っているんだろうな、と納得し、アリスは一人で異変の調査に乗り出した。
だが、そこでわかったのは、この異変はいわば自然発生したものだと言う事。
紅魔館、白玉楼、永遠亭など思いつく場所は回って訪ねてみたのだが、何か特別なことをしているような気配はない。
それどころか、彼女たちはこの異変に関わるつもりはない、と言う。
最後に博麗神社にも赴いてみた。しかし、霊夢の答えも知らない、どうでもいい、の一点張り。
博麗の巫女までもが静観するこの異変。
アリスには、この異変がそう悪いものではないようにさえ思えた。
実際、特に迷惑しているような住人はいないし、原因もさっぱりわからない。
いつまでこの状態が続くかは知れないが、しばらくならこの状況も悪くないか、と思う事にした。
まさか、男キャラがいなくなった事による異変だったとは、夢にも思わなかったが。
「だけど、祭りの時でもないのに人形劇を披露するなんて珍しいね。何か心境の変化でもあったのかい?」
「……別にそんなものないわよ。ただ幻想郷の変化をわたしなりにモチーフしたかっただけ。
興味深いことを他人に伝えようと思うのに、理由なんか必要ないわ」
話題を変えたいのか、気になっていた疑問をぶつける霖に、アリスはそっぽを向いて気だるげに答える。
霖の目論見は外れ、アリスは再び魔理沙の名前を口にした。
「そういえば、一昨日の昼だったかしら。魔理沙が家を訪ねてきたのよね。
香霖堂の窓を直したいから、復元のコツを教えてくれ、って。
何があったのかは教えてくれなかったけど、彼女……気落ちしていたわよ?」
「そう、か…。やっぱり気にしていたんだな」
アリスの言葉に、霖はうつむく。
自分と同じくらい、いやそれ以上かもしれない。
あの日の朝起こったやり取りに、魔理沙は傷ついていたのだ。
普段なら、少しくらいの無茶をしても魔理沙を迎え入れてくれる霖之助が、拒絶した。
帰って欲しい、という意思を隠そうともしなかった。
親元を飛び出した魔理沙は、霖之助を第二の父として捉えている節がある。
そこに恋愛感情など全くないことは確かだが、家族愛としてなら幻想郷にいる誰よりも深い。
魔理沙にとって霖之助は、ある意味親友である霊夢と同じくらい大切な人なのである。
だからこそ、霖は今の自分の姿を魔理沙に見せるわけにはいかなかった。
「そ、それで、わたしに協力して欲しいことって何?
まさか自分と一緒に、薬師のところへ乗り込めっていうの?」
「……違うよ。君にはあることをしてもらいたいんだ」
落ち込む霖に気まずさを感じたのか、慌ててアリスは本題に入る。
霖は、いつになく真剣な表情に戻して、口を開いた。
「し、信じていたのに」
霖は、アリスに協力の要請をした後、里の寺小屋へと訪れていた。自分の意思でだ。
教室で教鞭を振るっているであろう慧音に会う為に。
休憩時間を狙って、霖は慧音の休んでいる宿直室に顔を出した。
霖の顔を見て、慧音は一瞬ハテナマークを浮かべたが、少女の服装やメガネですぐに察した。
膝をつき、ガックリと項垂れて、そんなセリフを呟いた。
霖は今までのこと、この異変の原因などを手短に慧音に話すと、膝に当たるほどの勢いで頭を下げた。
「……すまない。君との約束を破ったことは謝る。だが聞いてくれ。ボクにはやらなくてはいけないことがあるんだ。
男の威信を賭けてあの薬師と対立する。……ムシのいい話だが君にも協力してほしい」
「あ、あれと対立だ、と? お前は何を考えているんだ。
言っちゃ悪いが、お前では相手にもならない。……それに協力ってなんだ?」
次々と驚愕の事実を聞かされて、慧音は若干混乱気味にそんなことを聞いた。
昨日から起こった異変が何か気にならないわけではなかったが、教え子たちがあんまりにも喜ぶので、自分から積極的に解決しようとは思わなかった。
だがまさか、霖之助が女になったから起こったとは…。頭を抱える思いだった。
腹立ちもあるといえばあるのだが、いつもの霖之助ではありえないその必死な懇願に押され、慧音はつい続きを促してしまう。
「君には里の男達を集めてもらいたい! 明日の夜に、里の広場に!」
「な、何だそれは? 明日って…ちょっと話が急すぎやしないか?」
「時間がないんだ。これは里の守護者である君にしか出来ない!」
霖のあまりの迫力に、慧音はタジタジになりながらも異論を返した。
だが、霖は譲らない。譲れない。今が―――その時。
結局、慧音は言いたいこともロクに言えないまま、首を縦に振るしかなかった。
……そして霖は、再び永遠亭の前に立つ。
その隣にはアリスが並び、不敵な笑みを目の前の屋敷へと向けていた。
珍妙なタッグはお互いの顔を見合わせ、頷き合った後、屋敷の門を叩く。
―――ファンタジーではなく、ファンシーと成り果てた幻想郷の空の下。
―――霖と永琳。二人の少女の戦いが、今まさに幕開けようとしていた。
6/ 霖
霖とアリスは、永遠亭の客間に通されていた。
玄関から顔を出した名もない兎に、『香霖堂の店主が来たと伝えてくれ』と言った。
すぐに戻ってきた兎の少女は、何やら慇懃な態度で二人の珍客を中に通した。
客人を丁重に持て成してくれ、とのことだ。どうやら歓待されているようである。
以前にも通された広い和室に座り、霖は何度も深呼吸を繰り返した。
「そんなに緊張しないで。大丈夫、薬師にはわたしから話すから」
「それは、…ダメだ。勝負の詳細の説明は君に任せるしかないが、挑戦状はボクが叩きつけるべきなんだ」
「……ふん。凛々しい顔しちゃってまぁ。でも、あまり心配する必要はないみたいね」
隣に座るアリスが、微笑を浮かべて目線を前に戻す。
もうすぐこの部屋に、永琳がやってくる。再び顔を見合わせる。
その事実が、煮え湯を飲まされた過去の映像をフラッシュバックさせる。
それを無理矢理振り払うと、霖はまたひとつ深呼吸した。
―――落ち着け、冷静になれ。ボクたちは対等だ。対等な立場でこれから勝負を申し込むんだ。
尻込みするな! ……紫、霊夢、そしてアリス。皆のおかげでボクはここにいられるのだから。
自身の弱さを、優しく受け止めてくれた人がいる。
使命感を抑え込み、なお励ましてくれた人がいる。
無茶なお願いに、快く手を貸してくれた人がいる。
今の彼女は霖之助であって、霖之助ではない。
沢山の思いや葛藤をその胸に秘め、そして確固たる意思を持つ、一人の少女―――霖だ。
永琳には負けない。彼女だけには…負けたくない!
どれほど、そうしていただろうか。
十分以上待ってたような気がするし、あるいは二~三分のことだったかもしれない。
気負い気味になって、時間の経過がわからない霖の耳に、襖の開く音がした。
「……あら、あらあらまあまあ! 貴方が香霖堂の店主?」
「う、うそ」
「へえー、可愛いじゃない。……これで賭けは私の勝ちね」
「……チッ」
そこに入ってきたのは、八意永琳だけではなかった。
永琳の弟子である、鈴仙・優曇華院・イナバ。
永遠亭の家主である、蓬莱山輝夜。
そして、兎たちを束ねる因幡てゐの姿が、そこにあった。
ちなみに輝夜の言っている賭けとは、女体化した彼が美人か否か。
比較対象は鈴仙である。
永遠亭のメンツが大集合といった、突然の人口密度の割増に、客人二人は度肝を抜かれる。
恐らく、霖の顔を拝見したかったからだろう。聞き耳だけでは物足りない。
特に店主の顔を知っている鈴仙は、口をあんぐりとさせて立ち尽くしていた。
「ふふ。外野たちは気にしないであげて頂戴ね。貴方を見たいとうるさくて…」
「……別にかまわないが」
実際、霖の前に座るのは永琳ただ一人だ。他の三人は部屋の隅に控えていた。
本来なら客人に対して、座して迎えるべきであろう立場の輝夜も、従者たちと一緒に引っ込んでいる。
私のお客さんではないから。…そういうことなのだろう。
あと、返す霖の口に、以前あった丁寧語は消えていた。もはや丁寧に対応するべき相手ではない。
永琳の目が、霖の横に座るアリスの方に向けられ、少し意外そうな顔をした。
何でアリスが霖と一緒にいるのか、流石に理由が思いつかないようだ。
「それで、どういった御用向きなのかしら? ……まさか、そこの人形使いと一緒に、私を倒す作戦でも立ててきたの?」
「……」
見下すような永琳の声に、霖は拳を強く握り、黙り込む。
力に訴えようとするなら無駄だ、と言外に伝えている。―――それが輝夜たちだ。
いくらアリスでも、一人でこのメンツを相手に勝てるはずがない。
男に戻す気はさらさらないようだった。
「愚問だな。君がそう簡単に折れるはずがないことはわかっている。
彼女は協力者だ。だが、それは戦力として買ったわけじゃない」
「……随分と強気、ね。では何? 貴方は私に何が言いたいのかしら?」
そこで、霖は最後の深呼吸をする。
甘い空気を思い切り吸い込んで、ゆっくり吐くと、霖は意を決したかのように口を開いた。
「明日の夜、里の広場で『第一回幻想郷美少女コンテスト』を開催する。
八意永琳。君も参加者としてエントリーするんだ。……ボクと勝負をする為に。ボクが勝ったら、男に戻れる薬を渡してもらう」
「…………は?」
ぽかん、と。永琳は口を半開きにして、愕然とした表情で、真剣な霖の顔を見る。
霖はこの時初めて稀代の薬師の、素の顔を見たような気がした。
霖之助が永琳に勝つ。
それは、はっきり言ってどんな勝負であろうと、不可能なことである。勝ち目などまるでない。
一介の半人半妖である彼と、月の頭脳とまで呼ばれる天才。
身体も頭も、その出来が分子レベルから違う。ライオンとミミズの戦いである。
だが、今のこの姿なら。
霖之助では無理でも、霖にならたった一つだけ勝機があった。
自分自身を悩殺し、
藍を陥落しかけ、
霊夢を仰天させた―――この美貌だけは、永琳にも負けていない!
およそ、霖之助がとりそうな手段ではなかったが、霖にはこれしか思いつかなかった。
霖の考えた勝負とはこうだ。
まず、手先の器用なアリスに舞台のセッティングをしてもらう。
大きな舞台を作らなくてはいけない。
あの尊大な薬師に、決定的な挫折と強い敗北感を味わってもらうために。
幻想郷全土を巻き込むような、派手で華々しいステージを仕立てあげなければならなかった。
それは、明日までという期限付きの霖一人ではとても無理な話である。
だからアリスに協力を願い出た。
人形を操る事で人手を増やせ、尚且つ物作りにかけては右に出る者はいない彼女の力を借りる必要があったのだ。
アリスは最初、驚いた顔で霖の説明を受けていたのだが、話が終わる頃にはニヤリと口元を吊り上げて、いじめっ子特有の邪悪な笑みを浮かべていた。
『……条件が二つあるわ』
『ボクに出来ることなら何でも』
『まず一つ目。
それは舞台の演出も、勝負の内容も、全てわたしに任せること。
……要は、店主さんはあの薬師と顔で勝負出来ればいいんでしょう。
だったらわたしに任せて頂戴! とびっきりの舞台を用意させてもらうわ!』
『そして二つ目。
わたしは貴方に、女の子としての極意。作法からポーズ、セリフまで全て伝授させるわ。
もちろん、貴方を勝たせるためにね。これから本番までの短い間、わたしを師と仰ぎなさい。わたしの言うことは絶対よ!
……ふふ。こんな素晴らしい無垢な素材をわたし色に染められるなんて、わたしって何てついているのかしら!』
狂喜しながらくるくると踊るアリスに霖は不安を覚えたが、それで協力してくれるのなら是非もない。
これは己の意地であった。
あの永琳に勝てるのなら、自分を女にしたことを後悔させられるのならば、何でもするつもりだった。
『大丈夫! わたしの言う通りにやったら、絶対に勝てるんだからっ』
そして、次に慧音に会い、その舞台の観客を用意してもらう。
やはり女性の純粋な魅力勝負なら、審査員は男以外にありえない。
これは慧音にしか頼めなかった。
裏切った上に、なお困らせるような真似をする。
……本当に、心苦しかった。
男に戻った後、何度だって彼女に謝ろう。許してくれないかもしれないが改めて謝罪しよう。
―――だが今は勝負に集中する。
霖はキッ、と永琳の顔を睨み付けた。
永琳はまだ我に返れない。霖の言葉があまりにも意外すぎたからだろう。
何百通りもの、およそ霖之助が取りそうな行動をシミュレートしていたのだが、こんな展開は永琳にさえ読み取れなかった。
それも当然だろう。霖之助なら絶対に取らない選択。だが霖なら取る。
自身の最大の長所を生かした苦肉の策。永琳の眉がピクッと引き攣った。
「……ふ~ん、貴方そんなに自分の顔に自信があるの? 見ていて滑稽なほどのナルシストね。
頭にウジでも湧いたのかしら? そんな子供騙しとも呼べない挑発に、私が乗るとでも思ってるの?」
ゴミでも見るかのような嫌悪感に顔を歪めながら、永琳はそんな蔑みの言を吐き捨てる。
普段よりも饒舌な永琳に、霖は気にした風もなくニヤリと笑ってみせた。
「男に負けるのが、そんなに怖いのか?」
「……な、なんで、すって」
月の頭脳に血が上る。
ワナワナと身体を震わせる永琳に、いつもの冷静さは微塵も感じられない。
鈴仙はおろおろして、永琳と霖の顔を見比べる。
対照的に、輝夜とてゐはニヤニヤと二人の会話を見守っていた。
そこに畳み掛けるかのように、今まで黙していたアリスが大会の概要を説明した。
「……この大会の参加者は、貴方たち二人だけじゃない。
参加する意志のあるものなら、誰だってエントリーを受け付けるわ。
今、私の人形たちが幻想郷の各所に回って宣伝している。…もう逃げられないわよ」
永遠亭の門前で見せた不敵な笑みを、アリスは再び浮かべた。
だが、永琳は抵抗する。
何故、私がそんなものに参加しなければならないのか、こんな屈辱を受けねばならないのか。
自分は躍らせる立場であるべき人間だ。
こんな低俗な発想しか浮かべられない連中の言葉に踊らされるなど、断じてあってはならない―――!
「……もう結構よ。貴方たちの下らない話を聞いてると、吐き気を催しそう。
客人がお帰りになるわ。うどんげ、玄関まで送って差し上げなさい」
「はっ、はい!」
永琳の言葉に、鈴仙が見るからに安堵した表情で、霖たちの横に立つ。
ホラ立ちなさい、とぐいぐい腕を引っ張る鈴仙にかまわず、霖は最後のセリフを紡いだ。
「逃げたければ逃げるといいよ。ボクには逃げるものを追う趣味はないからね。
男には戻れないが、本懐は果たしたようなものだ。ボクは君に一矢報いればいいのだから。
言われなくても、ボクたちはこれで失礼するよ。―――オバサン」
「…………」
「参加者として来るのが嫌なら、観客としていらっしゃいな。
人形使いの名にかけて、大きく派手に、そして楽しい大会に仕立ててみせるわ。
時間は明日の酉の刻。場所は里の中央広場よ」
「い、いいからもう帰って! これ以上師匠を怒らせないでっ!」
必死な鈴仙に背を押され、霖とアリスは退室する。
屋敷を追い出され、玄関の前に立つ二人に、冷たい冬の風が流れた。
永琳がまだいるだろう客間の方向をじっと見つめながら、霖がボソッと呟く。
「さて、これからが大変だ。舞台の準備とご指導、よろしく頼むよ」
「それはともかく貴方、挑発が上手いわね。あの薬師を相手にして、ああまで虚仮に出来る人なんてそうはいないわ」
「……これで少しは溜飲が下がったよ。それに、少々怒らせてでも彼女には参加してもらう必要がある」
「少々で済めばいいけどね。大会に血の雨が降らないことを祈るわ」
アリスの呆れたような言葉に、霖は苦笑いをした後、頬を強く引き締めた。
「―――ウドンゲェェ!」
「ひゃい!」
二人を追い出した後、憂鬱な表情で客間に戻ってきた鈴仙は、入って早々師匠の怒声に身を竦ませることになった。
ここまで怒りを露にする永琳を、鈴仙はついぞ見たことがない。
ああ、何てことしてくれたんだあの二人。これはとんでもないことが起こる―――。
「天狗のところまで使いに行って! 今すぐよっ! 人形たちに宣伝させるとか言ってたけど、そんなんじゃ生温いわ!
そのコンテストとやらを幻想郷中に! 大々的に広めるよう天狗に話を通して頂戴!」
「あ、あわわ…」
「まあまあ落ち着きなさいよ永琳。イナバが怯えているじゃない」
「姫は黙ってて!」
永琳のあまりの剣幕に、震えて動けない鈴仙を見かねてか、輝夜が仲裁に入る。
だが、その制止の声も今の彼女には届かないようだ。
おぉこわ…、と一歩身を引く輝夜にかまわず永琳は、狂ったように笑い出した。
「逃げるですって…、お、オバサンですって…! あ、あははははははは! 上等じゃない! 目に物見せてくれるわ!
絶対に優勝してやる! あの小娘に、生まれてきた事を後悔するほど恥をかかせてやる!」
机の上に片足を乗せ、両手を広げて哄笑する永琳に、鈴仙はこの世の終わりを見た気がした。
永琳と千年以上もの長い時を共にしてきた、さしもの輝夜も彼女のあまりの豹変ぶりに思わず冷や汗を浮かべる。
だが、てゐだけは違った。
彼女はいつの間にやら持っていた紙とペンを手に、活き活きと顔を輝かせていた。
「トトカルチョよ! まずは出馬する相手を調べなくっちゃ!」
……まるで、それが自身の使命であるかのように。
紅魔館に一通の文書が届いた。
人形が抱えてきた、そのカラフルな文書の内容は、第一回美少女コンテストの詳細と、
参加者募集中! とでかでかと書かれた一文であった。
それに目を通したレミリアは、ニヤリと笑うと、傍に控えている咲夜に向けて命を発した。
「やっぱり面白いことになったわね。―――咲夜、コンテストに出なさい。これは命令よ」
「……なっ!」
愉快そうに笑う主人に、咲夜は絶句して目を見開く。
冗談ではない、といった体で弱々しく抗議すると、レミリアはその紅色の瞳を細めて、威圧感たっぷりに言い放った。
「……聞こえなかったのか? 私は出ろ、と言ったのだけど」
「しっしかし、私は――――出ます……。お嬢様のご命令とあらば」
観念した咲夜はがっくりと項垂れる。レミリアはその様を満足そうに眺めていた。
嫌な予感は当たった、と咲夜は心のうちでポツリと漏らした。
「あたいこれにでるっ! あたいのさいきょうをみんなにつたえるぜっこうのチャンスだわっ!」
「チ、チルノ…?」
湖の畔に落ちてきたチラシを目にした途端、青いジャンパースカートを身に纏った幼女が、バッと両手を天に掲げ、意気揚々とした眩しい笑顔で隣に立つ少女に向かって叫んだ。
氷の妖精チルノと、冬にだけその姿を現す妖怪レティ・ホワイトロックである。
突然のチルノの決然とした様子に驚いたレティは、自身もちらりとそのチラシを覗き、そして青白い顔をさらに青くして言った。
「だ、ダメよダメよ! あんたみたいなのが出たって恥をかくだけだわっ」
「そんなのわかんないじゃない! レティはあたいがきれーじゃないっていうのっ!?」
「綺麗以前の問題でしょ! あんた、外見も頭もまんま子供じゃない!」
頭は関係ないと思うが、確かにチルノの見た目は○学生である。
そんな彼女が出ても、喜ぶのは一部のアブないお兄さんだけだ。
だが、チルノは折れない。これと信じたら溶けてなくなるまで突き進む、純真無垢な⑨なのだ。
「ぜ~ったいゆうしょうしてみせるわっ! レティもいっしょにでようよ!」
「無理無理無理無理! 悪い事は言わないからやめなさい! 何か私まで恥ずかしくなりそう!」
大きな湖に、二人の喧騒が響き渡る。
……四人目のエントリーが決まった瞬間であった。
―――射命丸文は歓喜していた。
突如幻想郷を襲った、妙ちくりんな異変だけでもネタに尽きないというのに、それどころか幻想郷の歴史に残りそうな、愉快という文字を体現したイベントが催されると言うのである。
伝えに来た鈴仙が涙目だったことなど、文は一秒で忘れていた。
己はこの時の為に生きてきたとばかりに、文は神速で原稿を作り、印刷機が刷りきれるまで発行し、そして幻想郷最速の名に恥じぬ速度で夕刊配布をしていた。
「みっなさ~ん! 毎度おなじみ文々。新聞で~す♪
明日の夜に幻想郷一大イベント! 『第一回幻想郷美少女コンテスト』が開催されますよー!
詳細は文々。新聞! 文々。新聞に! 文々。新聞を今後ともご贔屓に~!」
ヒャッホー! と掛け声をあげなから、文は幻想郷中を疾駆する。
その遥か後ろでフラフラと飛んでいた犬走椛が、すでに聞こえない距離まで離れているにも関わらず、文に向かって大声で叫んだ。
「あ、文さまー! 待ってください! もっと落ち着いてください! 何でわたしがこんな目にー!」
配布を手伝え、と有無を言わさず外へと連れ出され、そして、両手一杯に新聞を抱えさせられているこの状況。
……当然、そんな椛の悲痛な叫びなど、文には届いていなかった。
「び、美女コンテスト? 霖之助さんったら、何考えて…」
「あん? 何か言ったか霊夢?」
「……なんでもない」
博麗神社の縁側で、チラシを読んでいた霊夢が、慄然とした表情でそんな呟きを漏らした。
隣に座っていた魔理沙が、訝しげに眉を顰める。
聞こえてなくてよかったと内心安堵し、霊夢はチラシをくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。
それを鮮やかにキャッチした魔理沙は、チラシを広げ直し、その内容に目を通す。
『主催者:アリス・マーガトロイド』と書かれた項目を見て、魔理沙が腹を抱えて爆笑した。
「ぶはははははは! アリスのやつ一体何考えてんだ?
こんなアホな大会に出るような奇特モン、幻想郷には一人もいないぜ」
「……」
知らないとは何と幸せなことだ、と霊夢はそんな魔理沙を冷めた目で見やる。
それにしても、まさかこんな手段に講じるとは思ってもみなかった。
アリスをどうやって引き込んだのかは知らないが、タイミングといい、明日開催という急すぎる日程といい、霖之助が一枚噛んでいることは明白である。
でも、確かに今の霖之助があの薬師に勝つには、それしかないような気もする。
霖の美貌を一度見ている霊夢だからこそ納得出来た。
「―――明日が楽しみね~」
突然、二人の間からスキマを通して、紫がにょきっと顔を出した。
二人は一瞬驚いた素振りを見せるもすぐに持ち直す。紫の神出鬼没など、もはや慣れっこである。
「あんたは出ないの紫? こういうの好きでしょ」
「うーん、出たいのは山々なんだけどね。出たら私が必然の如く勝っちゃうし、ここは霖の顔を立てて自重するわ。
……藍を誘ってみたら全力で断られちゃった。『霖が出るなら私に勝ち目はありません』って」
「おい、リンって誰だ? 聞いた事ない名前だぞ」
ため息交じりに返す霊夢に、紫はおどけた口調で自信満々なセリフを口にした。
魔理沙は聞いた事のない名前に顔をしかめて、二人に尋ねる。
「……だいたいお前ら変だぞ。
異変はほっとくし、何かこうなることを知ってたような口ぶりだし、……わたしに何か隠し事があるんじゃないか?」
霊夢のため息や、紫の含み笑いに何かを感じたのだろうか。
魔理沙は、自分だけ蚊帳の外にいるような、そんなモヤモヤとした孤独感に苛まれた。
幻想の結界タッグは、そんな彼女を揃って見つめると、顔を見合わせて苦笑した。
霖はアリスの家で、彼女からレッスンを賜っていた。
内容は勿論、少女講座。
その立ち振る舞いから喋り方まで、アリスは自身の知っている全てを彼女に授けるつもりだった。
舞台の製作は今、操れる限界までの数の人形を使役して任せている。
勿論、それだけでは足りないので、里の人間にも数人、事情を話して手伝ってもらっていた。
「……いい? 貴方に要求することはただ一つ。馬鹿女になること」
「ば、ばかおんな?」
アリスのとんでもない発言に、霖は目を点にしてオウム返しに聞き返す。
「そうよ。あの薬師に勝つには、同じベクトルで挑んでもダメなの!
徹底的に彼女と対極の道を歩みなさい! つまらないプライドなんて一切合財捨てなさい!
観客に媚びて媚びて媚び尽して、萌え殺しなさい! そうすれば勝利は貴方のものよ!」
「……具体的にどんなことをすればいいんだい?」
「その口調をまずやめなさい! さっきのセリフを変換するならば、
『具体的にどんなことをすればいいんですかぁ~? キャハッ』―――こうよっ!」
「……」
興奮してまくしたてたり、身体をクネクネして甘い声を出したり、今のアリスのテンションはどうかしていた。
だが、顔だけで勝てるほど、世の中甘くはないのだ。
本当に勝ちたいならば、女に成りきることも覚悟しなければならない。
霖は、ダラダラと脂汗を流しながらも、必死に笑顔を作りさっきの掛け声を真似てみた。
「きゃ、きゃは」
「……何よそれ! やる気あるの!? ああもうっ! これは一晩かけてでも矯正する必要があるわね!
特訓よ! 調教よ! わたしが貴方を誰よりも女の子らしい女の子に変身させてあげる!」
たっぷり更けた夜の森に建つ、一軒屋の窓から生活の光が漏れている。
その窓から『ワンツー! ワンツー!』とダンスの特訓でもしているかのような掛け声も漏れ聞こえていた。
霖之助から霖への、真の意味での脱皮が今始まろうとしていた。
―――そして、約束の期限最終日。コンテスト当日。三日目の朝が訪れる。
「い、嫌ですっ! 美少女コンテストなんてわたし出れません!」
守矢の神社の一室。
東風谷早苗は、自身に迫って懇願する山の神様二人に対して、必死の形相で首を横に振っていた。
そんな早苗の右手を八坂神奈子が握り、左手を洩矢諏訪子が握っている。
「お願いだよ早苗。人間からの信仰を得るためにも、ここは一肌脱いでおくれ」
「うんうん、早苗は可愛いからね。 出場すれば優勝間違いなし! 私が約束してあげる」
「そ、そんな如何わしい方法で信仰なんて得たくありません!」
本当は、神様ふたりにとって信仰など二の次であった。
ただ、可愛いこの子を何か大きな舞台に出してあげたい。それだけである。
優勝した暁には、この美少女はウチの風祝なんだぞー! と観客や参加者の前で自慢したいと思っていた。
……というか優勝を信じて疑っていない。
勿論、そんなことを言えば早苗に無用なプレッシャーを与えてしまうことになる。
だから信仰を理由に、神奈子と諏訪子はお願いする。
そこまで気を遣えるのに、親同然の欲目から早苗の意思自体はあまり尊重していないところが、この二人らしい。
「……守矢はまだこの幻想郷に来て日が浅い。他と比べて圧倒的に認知度が足りていないんだ。
早苗は宣教の為に、よく里に出向いてくれているけど、それだけでは時間がかかりすぎる。
これは起死回生のチャンスなんだ! かつての栄光を再び取り戻せる…転機!」
「私のようなぺったんこや、神奈子みたいなババアじゃ優勝なんてとても無理なの! お願い早苗! 私たちに力を貸して!」
「おい? 誰がババアだって?」
「なによぅ!」
顔を見合わせた瞬間、ぎゃいぎゃいあーうー喧嘩する神様たちを尻目に、早苗は嘆息した。
……そりゃ早苗だって信仰は欲しい。
だからって、何故自分がアイドルの真似事をしなければいけないのか。
そんなに自分に恥をかかせたいのか。
彼女たちが何を考えているのか、早苗にはわからなかった。
「……とにかく、私はそんな大会には」
「―――いけない! もうエントリーの受付が終わっちまう!
喧嘩している場合じゃないわ諏訪子。こうなったら強行手段を取るよ!」
「よしきた! 早苗ちょっと我慢しててね! すぐにつくから」
「え、ちょちょ、神奈子様! 諏訪子様ー!」
そう言って、息ぴったり頷き合った二人は、ガッシリと早苗の両腕を取ったかと思うと、哀れな巫女を連れて風のような速さで外へと躍り出た。
もうどうにでもなれ―――、早苗は薄れ行く意識の中で、そう思った。
「……行くのね? 穣子」
「止めないで静姉。勝てないかもしれないけど、それがっ…それが私のっ」
―――矜持。
建前の信仰獲得でコンテストに臨む守矢の少女たちとは違う、自身のプライドを賭けた挑戦であった。
秋を司る彼女たち秋姉妹にとって、これから長く苦しい一年間が訪れる。
豊穣の季節が終われば、もう二人の出番は当分ない。役目もほとんどない。
自身に対する信仰を細々と繋ぎ止めながら、ひたすら耐えていくしかないのだ。
……だが、突然目の前に思わぬチャンスが振って湧いた。
姉妹の存在を存分にアピール出来る、強烈な印象を残し得る絶好の機会が訪れたのだ。
優勝すれば、信仰に事欠くことはない。来年の秋もとても明るいものになるだろう。
大会の存在を新聞で知った昨夜、秋穣子は悩みに悩んで眠れぬ夜を過ごしていた。
きっとコンテストには、幻想郷に住まう粒揃いの美少女たちが参加するのであろう。
自分では勝てないかもしれない。……いや、きっと勝てない。
―――だから、だから何だというのだ。
挑みもしない内から諦めてしまうのか?
こんな滅多にないチャンスを、指をくわえて眺めているというのか?
恥をかく? 考えるだけで何も行動しない方がよっぽど恥ずかしいではないか!
穣子の腹は決まった。
翌朝、穣子は家の戸口に立ち、その背中を姉である秋静葉に向けて決然と立っていた。
少女の立ち姿から、最早迷いは見られない。
静葉はそんな妹を、何か眩しいものを見るかのように目を細め、そして穏やかな微笑を浮かべながら声をかけた。
「……いってらっしゃい。私も夜になったら応援に行くから」
「うん。私頑張る! きっと、きっと何かのカタチは残してみせるから―――」
姉の方を振り向き、穣子は満面の笑顔でそう言った。
紅魔館の巨大な門前に立つ、館の門番―――紅美鈴は、本館から門に向かって歩いてくる自身の上司、十六夜咲夜の姿を認め、不思議そうな顔で彼女に声を掛けた。
「あれ? 咲夜さん、こんな時間にお出かけですか?」
「……ええ、ちょっと里にね。くだらないコンテストに参加しなくては―――」
と、不機嫌そう説明していた咲夜は、そこで美鈴の顔をマジマジと見た。
突然何だろう、と少しだけ顔を赤らめて、美鈴は再びメイド長に訊ねた。
「ど、どうしたんですか? わたしの顔に何か付いて」
「―――美鈴。ちょうどいいわ。貴方も一緒に来なさい」
「……ええっ!?」
里に? 自分が? 何のために?
美鈴が混乱していると、咲夜はグイッと美鈴の腕をとって、そのままズルズルと彼女を引き摺り始めた。
「ちょちょちょっ! 咲夜さん! 門番の仕事はどうするんですかっ!?」
「代わりなんていくらでもいるでしょう? 旅は道連れ世は情け、ってね。……ついでだから貴方にも参加してもらおうかしら」
「まっ、待ってください! わたしの意思は? 拒否権は!?」
「あるわけないじゃない」
呆れたように、当たり前のように言う咲夜に、美鈴の顔が絶望に染まった。
何が、旅は道連れ世は情けだ! 道連れの部分しか合ってない―――!
しかし、咲夜も似たような形で参加する羽目になったことを、無論美鈴は知らない。
紅魔館の住人にとって、『上からの命令』は絶対なのだ。
可哀想な華人小娘に、反抗する術などあるはずもなかった。
「うわーん! 嫌です嫌です! 紅魔館に帰りたいっ!」
「……私だって、帰れるものなら帰りたいわよ」
それでもせめてもの抵抗、と子供のように手足をジタバタとさせる美鈴。
そんな彼女の首根っこを掴まえている咲夜は、深いため息を吐いた。
―――これで、コンテスト参加者全員が、里に結集することになる。
コンテストまであと数時間と差し迫った夕刻。
霖とアリスが里の広場に足を運んでみると、それはそれは立派な舞台が、すでに九割方完成していた。
十体以上もの人形が、寝る間も惜しんで手掛けた苦労の結晶だ。
力仕事担当の里の男たちも、夜遅くまで手伝ってくれた上、今もせっせと木材やらを運んでいる。
霖が男たちにお礼を言うと、顔を真っ赤にさせて頬をポリポリ照れていた。
ステージの上に立ち満足げに微笑むアリスに、隣に立つ霖はふわぁ~、と感嘆の声をあげた。
「す、すごいですね~。貴方に頼んだ甲斐がありましたぁ…」
「ふふ。……そういう貴方こそ見違えるようだわ。よくあの辛い特訓に耐えてくれたわね」
「よしてくださいよ。あの薬師に勝つためなら何だってしますぅ」
本当に見違えている。というよりもはや霖之助の面影などカケラも残ってなかった。
「本番まであと少し。後は舞台装置の点検と、貴方の総仕上げね!」
「お願いします師匠! ボク頑張りますっ!」
いや、一人称だけは辛うじて残っていたようだった。
これはこれでいい要素だろう、というアリスの判断によるものである。
すっかりブレインウォッシュされた霖は、太陽のように眩しい笑顔を見せた。
因幡てゐは、自身の手に握られた下馬評、オッズ表、参加者名簿を入念に吟味していた。
兎を使った情報網と持ち前の行動力が功を奏し、僅か半日程度で全てのデータが揃い、昼を回る頃には下馬評の完成。
あとは、日々の娯楽が少ない里の住民たちに一声掛けるだけで、用意していた下馬評と馬券は飛ぶように売れていった。
今回催される、『第一回幻想郷美少女コンテスト』の参加者は全部で七名。
エントリー№1 チルノ
エントリー№2 十六夜咲夜
エントリー№3 紅美鈴
エントリー№4 八意永琳
エントリー№5 秋穣子
エントリー№6 東風谷早苗
エントリー№7 霖
それぞれのオッズや人気順、評判などは、読者の皆さまのご想像にお任せする。
ただ、霖の人気は最下位であった。
だがそれも仕方ないだろう。何しろ全くと言っていいほど知名度がないのだ。
てゐが作った評価にも、『幻想郷の可愛い新入り』程度にしか書いていない。
一攫千金を狙うギャンブラーも、数えるほどしか賭けていない大穴中の大穴。
それを見たてゐは、しめしめとほくそ笑んだ。
「ククク。馬鹿な野郎どもだ」
実は使いの兎に頼んで、こっそりと自身のポケットマネーを全て、霖に賭けさせていた。
トトカルチョの元締めであるてゐが、堂々と賭けに参加するわけにはいかないからだ。
霖の美貌と、対抗馬である今の永琳のザマを実際に見たてゐだからこそ出来る、大胆な大博打。
これで霖が負けたらシャレにならないが、彼女には不思議とそんな不安はなかった。
てゐは人を幸運にする兎なのだ。そんな彼女が一人を応援すれば、負ける要素は微塵もない。
霖が勝てば集まった金はほぼ全て、てゐが独占する事になる、彼女にとっては実質的な出来レース。
「さーてと。それじゃ我が金運の女神様のツラでも拝みにいきましょーかね」
……そこには、兎詐欺がいた。
―――パッ、と一条のスポットが一人の少女を照らした。
「……それではっ! 大変長らくお待たせいたしました!
これより、第一回幻想郷美少女コンテストを開催しまーす!
司会は不肖ながらこのわたくし、射命丸文が勤めさせていただきます。どうぞよろしくっ!」
長さ四間、奥行き八間、高さ四間半はあろうかという、野外特設大ステージの上でマイクを持ち、そんな大声を上げる文に、観客達はワーッと歓声を上げる。
その数は千人は下らない。しかもそのほとんどが里の男たちだった。
里のそう広くもない広場に、ギュウギュウ詰めになりながらも、その目の色は期待に満ちている。
よくもまあ、これだけの男が集まったものだ。
勿論、慧音の声のおかげなのだろうが、文の宣伝活動も大きいのだろう。
その功績を讃えられ、大会の司会は文に任せることとなった。
アリスから話を持ちかけられた文は、子供のようにキラキラと瞳を輝かせ、胸をドンッと叩いた。
『ま、任せてください! これ以上ないってくらい盛り上げてみせますよ!』
観客は基本的に立ち見だ。流石に人数分の席を設けるだけの時間はなかったからだ。
そんな野郎たちの密集地帯から少し離れた所で、
霊夢、魔理沙、紫、藍、幽々子、妖夢の六人が観客としてコンテストの進行を眺めていた。
どこにいるかはわからないが、レミリアや神奈子、静葉、レティなど、参加している少女の関係者たちも全員来ているのだろう。
ちなみに、永遠亭のメンツは今回の発端の特権として、こっそりと舞台裏に控えていた。
「……それにしても、こんな大会がこうまで盛り上がりを見せるとは、な」
驚いた様子の魔理沙に、幽々子は残念そうにこう言った。
「本当に無念だわ。是非、うちの妖夢にも参加してもらいたかった」
「そ、そんなことになったら舌を噛み切って死にますっ!」
今も未練がましく、寂しそうに舞台を見つめる幽々子に、妖夢は顔を真っ赤にして返した。
狼狽からか、死んでも半霊から幽霊になるだけで、結局冥界の主人に仕えることになりそうな事実に気付いていない。
霊夢と紫は、万感たる思いでこのコンテストを眺めていた。
古道具屋の主人の、小さな失敗から始まったこの騒動。
数多くの幻想郷の住人と、少女たちを巻き込み、なお加熱していく観客のテンション。
異変よりもある意味異変らしい、やかましい騒ぎに霊夢は頭痛を覚えたように、額に手を当てた。
「……魔理沙じゃないけど、まさかこんなことになるなんてね」
「ふふ。異変をほっといた甲斐があったでしょ?」
「不謹慎なこと言わないでよ。まあ、あんたが好みそうな展開になったのは認めるけどね」
「あら。一人目の参加者が出てきたわよ」
呆れたようにいう霊夢に、紫は心底楽しそうに笑って、そしてステージの方を指差す。
舞台袖から、いつもの普段着のまま、ズンズンと歩くチルノが見えた。
「それでは! まずはエントリーナンバー1番! 氷の妖精チルノ選手のご登場でーす」
文の紹介が入り、舞台の中央に立ったチルノは、えっへんとふんぞり返ってみせた。
パッ、と様々な角度から、七色のスポットが浴びせられる。アリスの趣味だ。
「わぁ! なにこれ! きれ~~~~っ」
カラフルな照明に驚いたチルノは、ぴょんぴょん飛び跳ねて、キャッキャッとはしゃでいた。
自分を綺麗を見せないといけないこの大会で、当事者が別のものに目を奪われる。
チルノらしいといえばらしいのだが、参加選手としてはお話にならなかった。
「チ、チルノ…」
そんな彼女を、霊夢たちから更に離れた民家の屋根の上で、レティはハラハラと見守っていた。
舞台に近づくと、観客の熱気にあてられそうだったからだ。
「え、えっとあのチルノ選手? もっと自分をアピールしてくれないと困るのですけど…」
チルノの無邪気な様に、文は冷や汗を流してそう話しかける。
「あぴーる、ってなに? あたいはちゃんとやってるよ。だってあたいってばさいきょうなんだから!」
そんなワケのわからないことを言って、無に等しい薄い胸を思いっきり張るチルノ。
しーん、と静まり返る舞台。
ダメだこりゃ…、と文ががっくり項垂れてると、突然観客からワーッと歓声があがった。
「かわいいぞー! チルノー!」
「チルノ! チルノ!」
「俺は知ってる! お前こそが最強だーっ!」
そこまで大きいとは言えなかったが、確かにチルノを評価してくれる人がいる。
その声に文は驚き、チルノはその幼い瞳を輝かせて、ステージのギリギリ前まで走る。
「いえーい! あたいってばさいきょうねーーーっ!!」
「さいきょうねーっ!!」
何度も手を振り回しながら、最強を連呼するチルノの声と、それを返す何十人もの声。
レティはそんな舞台の様子に、ホッと安心し、そして満面の笑みではしゃぎまわるチルノを、優しく見守っていた。
「それでは次の挑戦者の登場です!
エントリナンバー2番! 完全で瀟洒な紅魔館のメイド長、十六夜咲夜選手ですー!」
文の声に、無表情な咲夜が、スタスタと淀みない歩調でステージの中央に立った。
その姿は勿論、普段のメイド姿。チルノとは違う意味で着飾る気など全くない。
「……皆さま、初めまして。ただいまご紹介があった通り。
私は、紅魔館のメイド長を勤めさせて頂いている十六夜咲夜と申します。…以上です」
はい、と司会にマイクを返す咲夜。
文は呆然とそれを受け取ったが、次の瞬間戸惑い顔で咲夜に話しかけた。
「こ、困りますよ咲夜さん。もうちょっと何か喋ってくれないと白けちゃいます」
「……知ったことじゃないわ」
言葉少なく、そう吐き捨てた咲夜は、踵を返して袖に引っ込もうとする。
こんな茶番はもう沢山だ。
お嬢様の命でなければ、誰がこんな場に立つか、と苛立ちをその美貌に浮かべる。
咲夜の憤りはもっともなのだが、あんな簡潔な紹介だけで従者の退場を許すほど、そのお嬢様は甘くはなかった。
「……咲夜!」
「ッ!」
突然、天から降り注いだ叱咤の声に、咲夜の細い肩がビクッと震える。
空を見上げると、レミリアが中空から降りてきた。
観客の目にも届く高さまでその身を落とすと、ギラリと咲夜を睨み付けた。
どうやら彼女は、空から眺めていたようだった。
「お、おじょうさま……」
「咲夜。お前、主人の私に恥をかかせるつもりなのか? そうなのか?」
「いっいえ! 滅相も御座いません! ちょうどこれから芸の一つでも披露しようかと思っていたところですわ!」
レミリアは半ば本気で怒っていた。その目は険しく、凄みをきかせる口元からは牙を覗かせている。
どうしてこんなお遊びで、と咲夜は内心愚痴りながらも、これ以上主人を怒らせないよう、咄嗟に予定になかった予定を口にした。
それで、レミリアは言葉なく再び空へと上っていった。
次、機嫌を損ねたら今度は弾幕と一緒に舞い降りてきそうな、強い一瞥を残して。
レミリアも、結局……神奈子や諏訪子と一緒だったのだ。
自分の家族同然の従者を、皆に見せびらかしたい。評価してもらいたい。
先ほどのチルノのように、ワーッと歓声をあげてもらいたい。
それを、あんなつまらない一言で終わりにしようとしたのが、許せなかったのだ。
だが、表向きのレミリアは、自分さえ従者の有能を知っていれば、それでいいと思っている。
他人の噂や評価に流されるなど、バカのすることだと。
矛盾する感情が苛立ちを呼び、紅い吸血鬼は結局、従者にやり直しを命じた。
「……では、これから拙い手品を披露したいと思います」
仕方なく再び中央に戻り、危険な手品師の異名も持つ咲夜は、両手を胸の前に掲げてみせた。
最初の投げやりな咲夜の態度が効いてか、観客の反応も見る目も若干冷たいものが混ざっている。
それをこれから挽回出来るかどうかは、咲夜次第!
「……今から、一瞬で私の服装を入れ替えてみせます。そこにいる―――彼女と」
彼女、という言葉と共に、咲夜はチラリと文を見る。
その瞬間、危険を感じた文はその場から退避しようと足に力を込めたが、それよりも早く咲夜の能力が発動した。
時間停止―――。たくさんの観客も、文も、ピタリと彫像のように固まる。
そして、咲夜はめんどくさそうに、いそいそと自分のメイド服を脱ぎ始めた。
―――そして、時は動き出す。
観客達が次に目にした光景は、文の服を着ている咲夜と、メイド服を身を纏っている文だった。
文がそれに気付いた瞬間、ギャー! と勤めも忘れて悲鳴を上げる。
鮮やかな手際と、滅多に見られない咲夜や文のコスプレ姿という、二重に美味しい見事な手品だった。
「おおおーーーーっ! メイド長ーー!」
「……見えたっ!(着替え中が)」
「ブラボォーーー! 咲夜さぁーーーーんっ!」
観客からも大きな歓声があがる。咲夜は淡く微笑んでゆっくりと手を振ってみせる。
空から眺めているレミリアも、そんな咲夜を見て本当に嬉しそうに笑った。
「さ、さて! 気を取り直して次にいきましょうっ!
エントリナンバー3番! 色鮮やかに虹色な門番、紅美鈴選手ですー!」
咲夜から服を奪い返した文が、コホンと咳払いして次の選手の入場を促した。
その声に、美鈴は生ける屍になったかのように、フラフラと観客達の目の前に立った。
―――なんで、わたしはこんなところに立っているんだろ…?
美鈴の、頭の中を占める思いはそればかりだった。
事情もよくわからず、納得もせず、里まで無理矢理引っ張られ、散々待たされたと思ったら、いつの間にかこんな所にいる。
自身に降りかかるあまりの不条理に、完全な放心状態だったのだ。
文が、美鈴にマイクを渡そうとする。
だがその前に、……客席から、今までで一番大きな歓声が響き渡った。地鳴りのような振動。
まだ紹介さえしていないのに。こんな事態は文にも美鈴にも予想だに出来ないものだった。
「うおおおおおおおー! ちゅうごくーーーーっ!!」
「ちゅうごく~~~~~~っ!!」
「ちゅうごくっ! ちゅうごくっ! ちゅうごくっ!」
それは、中国コールだった。傷心の美鈴に追い討ちをかけるがの如く、である。
ひ、ひでぇ…、とこれには部外者である文でさえたじろいた。
可愛らしく目を点にしていた美鈴がハッと我に返ると、すぐさま文からマイクをひったくって、歓声に負けない大音量で叫んだ。
「わ、わたしは中国じゃない! 紅美鈴! 紅美鈴! 紅美鈴! 紅美鈴! 紅美鈴!
キサマら耳の穴かっぽじってよく聞けぇ!! ホ・ン・メ・イ・リ・ンじゃああああ~~~っ!!」
美鈴は血涙を流し、喉が壊れそうになるくらいに絶叫する。
それでも中国コールは鳴り止まない。
まるで何かに操られたかのように、観客達が口にするは中国だけだった。
……これは一体何の拷問だ? と美鈴は思った。
自分は何か悪い事をしたから、こんな耐え難い責め苦を受けているのか、と。
―――咲夜さんっ! この時ばかりは! この時ばかりはお恨み申し上げますっ!
美鈴はギュッと目を固くつぶって、そんな恨み言を吐いた。
いくら、弄られ役というポジションに落ち着こうと、やっていい事と悪い事がある。
恥ずかしかった。悔しかった。立ち直れそうになかった。
血の涙ではない、本当の涙が零れそうになったその時―――。
「ごめんっ! ごめんよ! めいりんっ!!」
膝をついて俯く美鈴を見て、流石にからかいすぎたと感じた者がいたのか。
観客の一人が、彼女の本当の名前を呼んだ。ハッと美鈴が顔を上げる。
それに呼応するかのようにまた一人、また一人と美鈴の本当の名前を呼んでくれる者が現れた。
中国コールはじょじょに美鈴コールに押されていった。美鈴の波が広がり続ける。
歓声の全てが美鈴の名前で占められるまで、そう時間はかからなかった。
「めいりん~~~~~! 本当はみんなお前が大好きなんだぞ!」
「好きな子をいじめちゃうのも男のサガさ! めいり~~~~~~ん!!」
「めいりんっ! めいりんっ! めいりんっ! めいりんっ!」
「あ、あぁ……」
口元に手を当てた美鈴の目尻から、涙が零れ落ちた。
だがそれはさっきまで流しそうだった悔し涙ではない、掛け値なしの嬉し涙である。
美鈴は笑顔で立ち上がると、マイクをぎゅっと握り締め、再び大声で叫んだ。
「そ、そうっ! わたしの名前は美鈴! 紅美鈴よっ!
お願いもっと言って! もっと強く叫んで! もっと…もっともっともっともっとよ!!
冥界に! 彼岸に! 天界に! 地底界にまでわたしの名前を轟かせてあげてっ!!
ありがとう! ありがとうっ! みんなありがとうっ!! わたしも貴方たちが―――大好きっ!!」
「ウオオオオオオオオオオオオーーーーーっ!!!」
美鈴の声を受けるたび、歓声はさらに強く、際限なく大きくなり続ける。
その大きさは、先の二人の比ではない。近くにいた霊夢たちが耳を押さえるほどだった。
だが、これは美少女だからとか、そういう問題ではないような気がする。
それでも美鈴は満足だった。
幸せだった。
何か掛け替えのないものを手に入れたような気がして。
「……次は、いよいよ師匠の番ね」
舞台裏に立つ鈴仙が、緊張した面持ちで、少し離れた場所で出番を待つ永琳を見つめた。
静かに控える永琳は、普段の姿とは全く異なった格好をしていた。
まず、髪を結っていない。帽子もかぶっていない。それだけですでに別人のようである。
ストレートに下ろした美しい銀髪が、照明の残光にあてられる度、艶かしい輝きを放っていた。
そして、首から下には白いガウンを羽織っている。
いつもの服装でないことは確かだが、ガウンの下は一体どのような格好なのか、鈴仙にはわからなかった。
少し厚めの化粧を施した永琳の顔には、驚くほど感情の色がない。
目を瞑り、何かに耐えるように、ただただ黙して、進行役のスタッフから自分の名前を呼ばれる瞬間を待っていた。
「八意永琳さん。そろそろスタンバイお願いします」
舞台作りにも立ち会った、里の男性スタッフから、ついにお声が掛かる。
その声にビクッと鈴仙の身体が震える。
輝夜が、内から湧き上がる緊張を覆い隠すかのように、ゆっくりと自身の胸に手を当てる。
てゐは見えない所で、そんな二人を白けた顔で見つめていた。
―――永琳の双眸が、ゆっくりと開いた。
「……出るわ。うどんげ、上着をお願い」
今日の永琳は、怖いほどに無口だった。
何だか今日初めて彼女の声を聞いた気がして、鈴仙は不安を抱きながら、彼女の隣に立つ。
そして、永琳はついにその厚手のガウンに手を掛けた。
「―――!?」
脱ぎ捨てたガウンを受け取った鈴仙の耳がピンッと直立し、そしてふにゃふにゃと垂れ下がった。
鈴仙はよく驚く。師に振り回されて、あたふたと慌てることも多い。
だが、ここ最近の驚きも今の永琳の姿を前にしては、取るに足らない衝撃であった。
驚きすぎて驚けない。こんなことありえるのだろうか?
ガクガクと月兎の膝が震える。蒼白を通り越して土気色になった顔色は死人のようだ。
あ…、あ…、と言葉にならない鈴仙の呟きなど目もくれず、永琳はステージに向かって歩き出す。
輝夜が、どういうことなの…? と同じく顔面蒼白で自身のペットに問い質す。
飄々とした態度を崩さないてゐも流石に驚いたのか、驚愕に目を見開き口をパクパクとさせていた。
永琳を除く三人の永遠亭メンバーの心は一つであった。
これから、地獄が始まる。
「それではっ! どんどん参りましょう!
エントリナンバー4番! 街の薬屋さん、八意永琳選手ですー!」
相変わらずのテンションで、司会の文が舞台袖に向かって手を振り上げる。
最初はニコニコと笑っていたのだが、しなりしなりと女性らしいしなやかな歩みで、司会の元へと近づく永琳と目があった瞬間、文は絶句した。
観客たちも、ざわ…、ざわ…、とどこか別世界で出てきそうな擬音を放ち、冷や汗を浮かべている。
永琳は、黒のマイクロビキニを身に纏っていた。
まるで、熱帯の部族が着用するような、露出度95%のほぼマッパに近いデザイン。
上の水着は、絆創膏の方がまだマシだと思えるほどに、大事な部分を必要最小限にしか覆い隠せていない。
下半身はTバックどころではない。局部を申し訳程度に包むGストリング。
月の頭脳は、今日この時の為に、ナニとは言えないが剃ったのだ! これを身につけるがために。
このクソ寒い冬空の下、永琳はそれを気にした素振りも見せず、完全に衆目へと晒されるステージ中央に立つと、官能的な仕草でお色気ポーズを取った。
「―――ぱっふ~ん♪」
空気が凍る。
やりすぎだろ……、とさえ思える永琳の覚悟に、文も、袖から見守る鈴仙たちも声が出ない。
だが、それは嵐の前の一瞬の静けさであった。
―――お
―――おお…
―――雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄雄ォォォォォォ!!
観客たちが猛る! 怒号の如き千人の観客全ての魂の叫びが、里の夜空に響き渡る!
獣のように雄叫びをあげ、観客達は夢を見ているかのような面持ちで、片手を上下に振り始める。
「えーりん! えーりん!」
「えーりん! えーりん!」
「えーりん! えーりん!」
病的なほどのテンションであった。
司会の文も、観客の霊夢たちも、他の選手たちも、鈴仙たち関係者も、同じく袖から見ている霖とアリスでさえも、みな唖然とした全く同じ顔で立ち尽くしていた。
それに気をよくした永琳はさらに、己が全てを見るがよいとばかりに、大胆な悩殺ポーズを取る。
「―――あっはぁ~ん♪」
……それで、鈴仙は泡を吹いて失神した。これ以上は耐えられぬと、自ら意識を手放したのだ。
輝夜の動揺も極まったのか、『たすけてえーりん!』と涙目になって、意味不明な叫びを木霊させる。
「ヤ、ヤベェ…あいつ本気じゃん。こ、これは勝てないかも」
ナメてた。
彼女はちゃんと自身の最大の武器を知っていた。大人の色香を過剰なまでに活かした。
昨日の様子を見る限り、冷静ではいられないと思っていたが、永琳は冷めた頭で必死に手段と覚悟を固めていたのだ。
てゐは唯一人、焦燥に駆られたような顔で、冷や汗を浮かべた。
「さてさて! 永琳選手が現在トップを独走中のこのコンテストもいよいよ佳境に入りました!
エントリナンバー5番! 豊かさと稔りの象徴、秋穣子選手どうぞー!」
「うう…、な、なんでよりによってあんな人の次が私なの…」
司会の声に、身を硬くして緊張にうつむく穣子は、ガチガチとロボットのような動作でステージへと歩みだした。
先ほどまでは、手の平に人の字を書いて飲み込み、必死に平静を装っていたのだが、永琳の痴態と観客の絶叫を見て完全に気後れしていた。
あそこまでしなければ、勝てないのか、と。
穣子は普段どおりの服装。…というよりも、いつもと違う格好で現れたのは今の所永琳だけだ。
違う所といえば、薄い化粧をして、いつもより入念に髪を整えているくらいである。
準備が足りなかった。何しろこのコンテストの存在を知ったのは昨夜の事なのだから。
―――やっぱりこんなのやめとけばよかった! 私には無理だったんだ…。
千を超える目線が全て、自身に注がれている。
自分をあんなやつ呼ばわりした、霊夢や魔理沙もじっと穣子を注目している。
穣子は怖かった。不安で寒くて心細くてたまらなかった。
沢山の人に囲まれているはずなのに、まるで一人…闇の中に放り込まれたかのような虚無感。
―――棄権しよう。もうやめよう。私は頑張った。早く…早く家に帰りたいよぉ…。
緩慢な動作で近づく穣子のただならぬ様子に、文は眉を顰める。
「あ、あの。それではまずは自己紹介からお願いしますねっ」
努めて明るい口調でマイクを手渡そうとする文に、穣子は口を開こうとした。
「わ、私……このコンテストを―――」
「―――穣子っ!」
すぐ近くで、誰よりも聞き覚えのある声が聞こえ、穣子は思わず観客席に振り返った。
そこには姉の静葉が立っていた。観客たちの最前列。
一番ステージから近い位置で、穣子の泣きそうな顔を、悲痛な面持ちで見つめていた。
「し、静姉…な、なんで?」
何故、最前列にいるのだ?
彼女は夜に来ると言っていた。開始時間ギリギリに会場に来て、最前列に立てるはずがない。
それこそ、何時間も前からそこで待っていなければ。
「ま、まさか、ずっと…そこで?」
「……」
待っててくれたというのか。
妹の晴れ姿を一番近い場所で見るために、男で占める観客たちの只中、ずっと…ずっと。
「し、静ねぇ…、わ、私…私ねぇ」
「……穣子、いいのよ。無理に自分を大きく見せようとしなくても。
私たちは私たち。他の人たちみたいに、沢山の歓声なんかもらえなくたっていい」
「うん……うんっ!」
「貴方が今、一番伝えたいことを伝えなさい。しっかりと気持ちを込めて、貴方の思いを、願いを、…私たちの心を」
「―――ッ!」
私たちの心。その言葉を聞いた途端、穣子は感極まって泣き出した。
そうだ、自分は何のためにここまで来たのか。弱気になってそんなことも忘れていた。
自分は一人ではない。こんなにも暖かくて、優しい姉がそばにいてくれる。
嗚咽を漏らす穣子を、観客たちは戸惑ったように眺めている。
一番困惑していた文は、思わず素のテンションで穣子に向かい、静かな声で話しかけた。
「……これからどうしますか?」
「マイクを、貸して」
先の弱々しい瞳ではない、強い決意を秘めた穣子の顔に、文は黙ってマイクを手渡す。
そして、姉の一番見やすい位置まで立ち、穣子はマイクを握り締めて語り出した。
「わ、私は、秋穣子といいます。ご存知の方も多いと思いますが、豊穣を司る神です。
ここに参加者として訪れたのは、一重に皆さんに私たち姉妹のことをよく知ってもらうため。
……私たち秋姉妹は、例え季節が移り変わろうと、貴方たちの糧を支えています」
穣子の言葉に、観客は誰一人喋る事なく、静かに耳を傾ける。
「コンテストの趣旨に、大きくそぐわない内容であることは、よくわかっています。
聞く人によっては、何を今更、恩着せがましい、……と思われるかもしれません。―――でも、それでもっ!」
穣子のトーンがここで上がる。止まりかけていた涙が再びこぼれた。
「私は、私たちは忘れて欲しくないのっ! 季節が変わっても、皆の記憶にずっと残っていてもらいたい!
私のこの思いを! 誰よりも優しい自慢の姉を! わ、私……私は」
そこから先は声にならなくなったのか、言葉に詰まる穣子。
そんな彼女に、観客たちから一際大きな拍手が巻き起こった。
派手な歓声はない。賞賛の声もない。ただ、男達は拍手することで穣子に言外の意思を伝えていた。
―――絶対に忘れない。今日のことも、こんなにも素晴らしい姉妹が参加していたことも。
拍手は鳴り止まない。それどころか時が経つほどに大きくなり続ける。
藍と妖夢も、涙を流しながら盛大な拍手をしていた。どうやら姉妹の家族愛に感化されたらしい。
魂が抜けたかのような顔でそれを見ていた穣子が、静葉の方に顔を向ける。
「よく頑張ったわね。穣子」
「……静姉のおかげだよ。本当に、ほんとうにありがとう」
目を涙を浮かべ、同じく自慢の妹を誇らしげに見つめる静葉。
穣子はその言葉に、安心したかのように脱力し、そして笑った。
穣子が退場した後も、しばらく会場に包まれる拍手は止むことがなかった。
霖とアリス。
最初は偶然出会い、そして協力関係になった二人。
二日足らずという本当に僅かな関係。
だが、二人は言葉には出来ない、幾多もの思いを通じ合わせていたように感じた。
選手控え室で、霖のメイクをしてくれているアリス。その手つきは丁寧で優しい。
霖は気持ち良さそうに目をつむり、為すがまま彼女の手に任せている。
「アリス。君には感謝してもし尽くせない。本当にありがとう」
「……急に口調を元に戻しちゃって、どうしたの?」
アリスは霖のすべすべのモチ肌に、その指先を這わせながら訊ねる。
霖は舞台に立つ前に、どうしても彼女にお礼が言いたかった。
少女としてではなく、香霖堂店主 森近霖之助として。
その思いが伝わっているのか、アリスに男言葉を咎める様子は見られない。
「お礼を言うのは、わたしの方でもあるわ。
……楽しかった。短い間だったけど、霖と一緒にいれて、いっぱいお喋りして…本当に」
あ、店主さんじゃなくて、霖に言ってるんだからねっ、と慌てて一言付け加えるアリス。
霖は苦笑して頷いた。
「でも君がいなかったら、ボクはこの場に立つことなど出来なかった。
薬師に挑戦さえしなかっただろうし、きっと泣き寝入りして、自分を責め続けていたはずだ」
「……薬師といえば、あれはすごかったわね。貴方の挑発がよっぽど効いてたみたいよ?」
水着とも言えない水着を身に帯び、ステージで悩殺ポーズを決めていた永琳を思い出した。
確かに凄かった。永琳自身もだが、観客の反応も凄まじいものだった。
あれだけの歓声を湧かせるなんて並大抵のことではない。それはわかっている。わかっているのに―――
「誰にも負ける気がしないんだ。……不思議な感覚だ。
ボクたちが力を合わせれば、不可能なんかないような気さえしてる」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。陳腐だけどそういうのは嫌いではないわ」
静かな会話が、最後の時間が、緩やかに流れる。
……そう、これがきっと最後。
魔法が解けて男に戻れば、二人はただの店主と、たまに店に訪れる客の関係に戻る。
仮にコンテストで負けたとしても、今日が紫との約束のタイムリミットなのだ。どちらにしろ女のままではいられない。
「……霖、貴方のことは決して忘れない。誰が忘れても、わたしだけはずっと覚えてる。
猫耳で、ちょっと頭が固くて、全然頼りなくて。だけど穏やかで、優しい笑顔の少女が確かにわたしの隣にいたことを。
だから、だから……これはわたしの―――」
「おいおい。永遠の別れみたいに言わないでくれ。形は違ってもボクらはいつでも会える」
「―――未練、よ」
そう言って。
アリスはその小さな唇を、霖の頬に口付けた。
柔らかい感触に、霖はゆっくりと頬に手を当て、そしてアリスを見つめる。
人形使いの少女は頬を朱に染めて微笑んでいた。きっと今の霖も同じような顔をしているのだろう。
「……こういう事をしてくれるなら、もっとマシな理由にした方がいいと思うが」
「じゃあ、友人の勝利を願うわたしからの激励ってことでどうかしら?」
「……うん、それはいいな。俄然やる気が出てきそうだ」
言葉を交わしながら、二人は笑い合った。
メイクが終わり、アリスが仕立ててくれていたドレスに着替える。
白桃色の生地、その裾や襟元にはフリルが施してあり、細かな場所には七色の刺繍が入っている。
アリスの入魂の一作だった。人形の衣装で鍛えた腕である為、少女趣味は致し方ない。
一言でいうならゴスロリ風。だが、今の霖にはこの上なく似合っていた。
二人は今一度だけ師弟に戻り、外へと通じる扉の前に立った。
「もうすぐ出番よ霖! 心の準備は出来ているわねっ!」
「―――はいっ!」
「挑戦者も残す所、あと二人となって参りましたっ! 六人目の登場です!
エントリーナンバー6番! 祀られる風の人間、東風谷早苗選手お願いしますっ!」
司会も板についてきたのか、ノリノリの表情でマイクを持っていない方の腕を掲げる文。
…だが、いくら待っても早苗が現れない。袖から出てくる気配もなかった。
―――あ、あれ?
少しずつ沈静化される会場のテンションに、文は焦りを見せる。
ま、まさか、ドタキャン? と、慌てた様子でキョロキョロと辺りを見回した。
舞台裏で、スタッフが両手を交差させ、バツ印を作っている姿が見えた。
およそ早苗らしくない行動だった。文には信じられなかった。
確かに嫌がってはいたが、一度決めたことを途中で投げ出すような子じゃないはずなのに…。
しかし、こうなってしまった以上は仕方ない。コンテストの流れを止めるわけにはいかなかった。
文が残念そうにマイクを口元に近づける。
「……え~、誠に遺憾ですが、東風谷早苗選手は出場を辞退ということで失格―――」
「待ってくださいっ!」
と、そこでステージに向かって飛んできた早苗が、必死に叫んでいるのが聞こえた。
その傍らには、神奈子と諏訪子も飛んでいる。
よく見ると、さっきまで巫女服だった早苗が、何か別の衣装に着替えていた。
どうやらその服を取りに戻る為、神社まで一旦帰っていたようである。
「す、すみません、お待たせして。……もう失格になってしまいましたか?」
「い、いえ。それはいいんですけど…その格好は?」
「……」
ステージに空から現れるという、ある意味誰よりも派手な入場に観客たちが驚きの声をあげる。
そういう演出だと思ったようだ。
息を切らせて間に合ったか問う早苗に、文は放心気味に問い返した。
その質問に、早苗の頬が羞恥に染まり、下をうつむき黙り込んでしまう。
白い下地に、色違いのラインが入った紺色の襟。
その胸元は大きく逆三角形に開いていて、その中心には大きなリボンがくっついている。
丈の長いスカートからうっすらと伸びる白くて細い生足が、健康的なイメージを醸し出していた。
早苗はセーラー服に着替えていた。しかも夏服。
早苗は項垂れながら、先ほどまでの情景を思い返していた。
『あの女狐めがっ! なんつー禁じ手使いやがるんだっ!』
憤りを隠さず罵声をあげる神奈子に、舞台裏に控えた早苗は言い知れぬ不安を抱いていた。
女狐とは当然、永琳を指す。藍ではない。
永琳の女としての魅力が及ぼした観客の雄叫びに、怒号のような歓声に、神奈子は恐怖した。
今のままでは早苗は勝てない! そんなことを思ったのだろう。
『こ、こうなったら水着だ! 早苗もああいう際どいヤツで対抗するんだ!』
『イヤッ! ぜったいぜったいぜぇぇぇったいイヤですっ!』
残像が見えるかのような速度で、ブンブンと首を横に振る早苗。
それも当然だ。そこまで達観した考えを持てるほど早苗は長生きしていない。
いっそ殺してっ! と嫌がる早苗に、神奈子は困ったように諏訪子を見た。
そこで今まで黙していた諏訪子が、鶴の一声をあげた。
『だったら早苗が外の世界で着てた服で勝負しようよ? あれはあれで新鮮じゃない?』
つまりはそういうことである。
外の世界で着てた服。それで早苗の頭の中に真っ先に浮かんだのは、学校の制服であった。
水着よりはよっぽどマシだが、それでも幻想郷で制服を着るというのも抵抗がある。
勝てなくてもいいから巫女服のまま参加する、と言う早苗の主張は二人に当然却下された。
確かに変わり映えのしない服装で、永琳のインパクトを超えるなど到底不可能だろう。
もはや衣装の変更は免れられないと悟り、諦観に肩を落とす早苗。
そんな風祝の腕をまたもやギュッと握って、神奈子と諏訪子は急いで戻るよ、と笑った。
『え? わたしも一緒に行くんですか。もうすぐわたしの番なんですよ?』
『何言ってんの? 私たちだけが行っても、何着せればいいかなんてわからないだろ』
『そ、それじゃせめてスタッフの人たちに断りを入』
『飛ばすよ神奈子ー!』
『おう!』
まるで人の話も聞かず、鉄砲玉のように飛び出して早苗を振り回す神様二人。
悪意がないから余計にタチが悪い。
そんなこんなの流れで、三人は守矢の神社まで戻り、本番十分前になって衣装選びを始め出した。
焦りに焦った早苗は、押入れに眠ってた制服を引っ掴み、それに着替えてすぐさまUターン。
夏服だの冬服だの選んでいる余裕は皆無であった。
そして、セーラー服姿になった早苗に、観客の反応はというと―――
「オオオオオオオオオオオオオオォォォォォッ!!」
―――どうやら大好評のようである。主に中年世代から大絶賛。
観客たちの異様なボルテージに気圧され、早苗は怯えたように一歩身を引く。
全体的な印象で言うと、流石に永琳には及ばないが、それでも一部の客層からは水着よりも熱い視線が注がれていた。
結局、外の世界だろうと幻想郷だろうと、オヤジたちの嗜好に大した違いはないのである。
「さなえええええぇぇぇぇっ! 俺の娘になってくれ! 何なら嫁でもいいっ!」
「ハァハァ…! さ、さなえたんっ! ハァハァ…」
「な、なんて素晴らしいイベントなんだ! ……生きててよかったっ!!」
猛り狂って、ステージに上がろうとまでする数人の観客。
永琳が量なら、早苗は質。
間違った方向であるのは疑いようもないが、早苗の魅力は何人ものオヤジたちを完全に虜にしていた。
「……ひっ! だ、誰か……誰か助けてっ!」
じわじわと自身に近づくケダモノたちに、早苗は息を呑み、真っ青な顔になって悲鳴を上げる。
想定外のアクシデントに放心していた文も、慌てて取り押さえようと男たちに近づく。
これは警備のスタッフも雇った方がいい、と考えながら―――
「おのれら、うちの可愛い早苗になにさらすんじゃーーー!」
「基本的に私たちのせいなんだけど許さないわよっ!!」
だが、最速の文よりもなお速い速度で、早苗と男たちの間に立つ影があった。
もちろん、神奈子と諏訪子である。
グダグダな展開に文は、コンテストをぶち壊すんじゃねーっ! と悲痛な声で叫ぶ。
そんな神と人間の乱痴気騒ぎを隅っこで眺めていた早苗は、がっくりと膝を突き空を仰いだ。
「も、もうイヤーーーっ!!」
そんな彼女の叫びは、空しくも吹き付ける冷たい夜風に流れされていくのであった。
永琳は、会場に備え付けられた医務室のベッドに横たわっていた。
ステージを退場した直後、倒れたのだ。……あまりの恥ずかしさに。
ベッドのそばにあるパイプ椅子に腰掛けた鈴仙は、今も真っ赤な顔でうんうん唸っている師に対してポツリと呟いた。
「もう……、何であんな無茶するんですか。いくら何でもやりすぎですよ」
目を覚ましてみるとこの有様だ。
霖に勝ちたい気持ちはよくわかるが、これからしばらくは薬師の周りに良くない噂が流れることになるだろう。
輝夜なんかショックのあまり塞ぎ込み、家に帰ってしまった。
可愛い姫に消えない傷跡を残し、引き篭もりを助長させるような真似も、従者としては上手くない。
鈴仙が今後を考えてハァとため息を吐くと、気を失っていたはずの永琳が、ゆっくりと弟子の方に顔を向けた。
「―――うどんげ。店主は? もうコンテストは終わったの?」
「……まだです。もうすぐ店主の出番だと思います」
息も絶え絶え尋ねる永琳の痛々しい様に、鈴仙は静かな声で正直に答える。
なら行かなくちゃね、と永琳はヨロヨロの体を押して、ベッドから起き上がった。
勿論、すでに普段着である。
「え? む、無理ですよ。そんな身体でどこへ行こうというのですか?」
「……あの子のショーだけは、この目で見届けなければいけないのよ。
これだけの犠牲を払ったのだもの。直接見て、私の勝利を実感しなければ……」
「し、師匠…」
そこには賢人としてでも、従者としてでもない、一人の女性の姿があった。
形振り構わず、己の全力を出し切った。
恥も外聞も捨て去り、ただの女として、女のプライドを賭けてこの大会に挑んだ。
だからこそ、あれほどの歓声に至ったのだ。例え負けたとしても悔いはない結果だった。
今大会の最大のライバルである、霖の姿だけはこの目に焼き付けたい。
そんな永琳に、何も言い返すことが出来なかった鈴仙は優しい動作で、フラフラとよろめく師の身体を支えた。
「師匠の勝利は間違いありません。行きましょう! わたしが傍にいますから」
「……ええ。……ありがとう、うどんげ」
「―――数々の挑戦者による、笑いあり! 涙あり! 萌えあり! の此度のコンテストは如何だったでしょうかっ?
血で血を洗う少女たちの死闘の末、最後に笑うことが出来る者はただ一人!
それでは最後の挑戦者のご入場と参りましょうっ!
エントリナンバー7番! 幻想郷の可愛い新人、霖選手ですーーーーーーっ!!」
高々と上がった司会の大声に、観客たちのテンションは最高潮まで昇り詰めていた。
凄まじい歓声を近くで聞いていた紫が、霖の名前を耳にした途端キラキラと目を輝かせる。
待ちに待っていた少女の到来が、ついに訪れたからである。
「こうしちゃいられないわね。もっと近くで見物しなくっちゃ」
「……お、おいおい、わたしが言うのも何だけど、こんなにレベルの高い大会になったんだぜ?
リンってのが誰かは知らないけど、今更新人が出てきたところで勝ち目なんかないだろ」
はしゃいだ紫の言葉に、魔理沙が疑問の声をあげる。
最初はバカにしながら見ていたコンテストだったが、あまりの熱狂と選手たちのそれぞれのドラマに評価を改めたようだ。
そんな魔理沙の横にいた霊夢と藍が、ゆっくりと歩き出した。無論ステージに近づくためである。
最初は驚いていた様子の幽々子も、それに倣ってふわふわ移動する。妖夢も慌ててついていった。
「お、おい! なんだよ皆して! わたしだけ除け者か! そうなのかっ!?」
「いいから黙ってついてきなさいな。……とても面白いものが見れるでしょうから」
一人残された魔理沙が呆然と叫ぶと、紫は彼女の方に振り返り、意味ありげな笑みを浮かべた。
―――霖は歩く。
今までその身に起こった出来事を思い返しながら、静かな歩調で舞台に上がる。
その後ろで、アリスは両手をギュッと握り締め、固唾を呑んで彼女の背中を見つめていた。
アリスだけではない。
舞台袖から永琳も見ている。
その隣で慧音も見ている。
観客側から、紫たちも見ている。
咲夜を始めとした、他の選手たちも見ている。
司会の文も見ている。
勿論、沢山の観客たちもステージ中央に近づく霖の姿を黙って見つめていた。
全ての視線を真っ向から受け止め、霖は凛とした表情で文の前に立つ。
そして、霖は司会に向かって利き手を突き出した。
「……マイクを」
「はっ、はい」
人形使いの手で飾られた、およそ人とは思えぬ麗しい美貌に、文はしばし目を奪われた。
こんな話は聞いていない。一体彼女は何者なのだ、と。
霖の顔はすでに目にしていたハズなのに、さらに美しく化けた目の前の少女に、文は戦慄する。
小さな声に反応した文は、慌てた様子で霖にマイクを手渡した。
それを握り締めた霖は、肺に溜まった空気を吐き出した後、その顔が観客たちによく見えるよう、ステージの一番前に立った。
男たちがゴクリ、と喉を鳴らす。千人を超える観客たちの目は、一人の少女に釘付けになっていた。
淡く桃色の光を瞬かせた、その豪奢なドレスに。
同じ色の小さな帽子から覗かせる、可愛いネコミミに。
強い決意を内に宿す、その大きな栗色の瞳に。
そして、その瞳を飾るかのように添えられているメガネに。
左右に視線を動かし、皆の反応を確かめた後、霖は大きく息を吸い込む。
そして、満面の、これ以上はないだろうと言うほどの、とびきりの笑顔を浮かべた。
「幻想郷のみっなさ~ん♪ 初めましてぇ~!
みんなのアイドル! アナタたちの霖がこの場を借りて、姿を現しましたよぉ~♪」
……………………
…………
……
―――刹那。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!
ンンンンンオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォッ!!!
ウヒャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッッッ!!!
津波のような歓声が湧き立った! それは狂喜乱舞に等しい有様だった。
男たち全員が手を上げて、その美少女を掴み取ろうとするかのように、虚空を握る。
「メガネっ娘だ! メガネっ娘だ!」
「俺たちの真のアイドルが現れたっ!!」
「―――幻想郷にメガネっ娘がやってきたぞーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
男たちの興奮は留まる所を知らない。
血走った目でステージに昇ろうと走る観客を、警備の椛たち天狗が慌てて抑える。
先の失敗を受けて、文が呼び寄せた応急策であった。
ギェーーッ!! と悲鳴にも似た歓声を耳にしながら、霖はさらに言葉を紡いた。
「んもぉ。 ダメなんだぞー。 そんなにがっついちゃメッ♪
ボクはみんなのモノなんだからぁ。―――なんちゃってぇっ! キャハッ☆」
そういって、霖は可愛らしくポーズを取って、片目をパチリとウィンク。
星が飛ぶかのような、円らな瞳がもたらすウィンクは、男たちの意識を成層圏まで高上らせた。
「も、モエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッッ!!!」
そんな霖の姿に、アリスは目に涙を浮かべながら、恍惚とした表情で目元を拭った。
「……素晴らしい。素晴らしいわ霖。もう貴方に教えることなんて何もない。
今の貴方は立派な……誰がどこから見ても立派な女の子。幻想郷のアイドルだわっ」
わざと転んで、『ふみぃ…』と可愛らしく呻き声をあげる霖に、慧音はガタガタと震えていた。
その後ろで妹紅は、腸捻転でも起こしそうな勢いで笑い転げている。
「……り、り、り、り、霖之すすすけけけけけ」
「ギャハハハハハハッ! いいっ! あいつ面白いじゃん! な、なんかあいつのこと好きになりそうっ!」
前屈みになって、胸元が開いたその部分を思い切り強調する霖に、永琳は悪夢を眺めているかのように、茫然自失としていた。
鈴仙は白目になって、二度目の失神と洒落込んでいる。
「バ、バカ…な。ここまで……ここまで己を捨てられるの……?」
がっくりと膝を屈する永琳の傍に控えていたてゐが、小さくガッツポーズをしていた。
終いには歌まで歌いだして観客を熱狂させる霖を見て、霊夢は青ざめながら、隣で呼吸困難を起こしている紫に話掛けた。
どうやら笑いすぎて息が出来なくなったようだ。スキマの中でヒクヒク、と痙攣している。
「……ねえ紫? これって霖之助さんの男の尊厳を賭けた戦いなのよね?」
「……ハッ…ハヒッ…、そ、そうなんじゃ、ないの? ……あ、あひゃひゃひゃひゃひゃ!」
大きく手を振っている霖の姿が目に入り、またも腹を抱えて爆笑する紫。
霊夢はそっと目を瞑り、どこか遠くへ行ってしまった元店主に向かって、寂しそうに小さく呟いた。
「さよなら霖之助さん」
―――コンテストの結果など、今更語るは無粋。
―――間違いなく幻想郷の歴史に刻まれるであろう、熱狂の渦の中。
―――こうして『第一回幻想郷美少女コンテスト』は閉幕した。
/ epilogue
霖之助は男に戻り、そして我が家である香霖堂へと帰ってきた。
店のカウンターで、のんびりと何かの本を読み耽っている。
久しぶりに手に入れた心安らぐ時間を、霖之助は微笑を浮かべて堪能していた。
店の外には、雲ひとつない晴れやかな青空が広がっている。全ては元通りとなった。
幻想郷中を騒がせた美少女コンテストから二日経ち、ようやく霖之助もいつものリズムを取り戻せてきたようだ。
―――コンテスト終了後、選手控え室でがっしと抱き合い、健闘を称えているアリスと霖の元に、永琳が現れた。
その手に握るものは、紅色の液体に満ちたマッチ箱ほどの大きさの小瓶と、青い薬の特効薬。
永琳の物憂げな表情を見て霖は、これで男に戻れるのだ、と思った。
『……約束は守るわ。これでさっさと元に戻りなさい』
『……』
霖は無言で小瓶を受け取る。
アリスは一瞬悲しそうに目を伏せたが、すぐに笑顔に戻ると霖の肩を叩いて言った。
『……よかったわね』
『ああ、……みんなのおかげだ。本当に』
薬を見つめながら万感の思いを紡ぐ霖に、永琳は憂いを帯びたまま部屋の天井を見上げた。
『それにしてもまさかあそこまでやるとはね。…流石の私も思わなかったわ。そこの人形使いが仕込んだのかしら?』
『そうよ。……でもこれはわたしの力じゃない。霖の覚悟と努力があったからこその結果だわ』
『……覚悟か。私にはそれが足りなかったのかしらね』
自嘲気味に呟く永琳に、霖は静かに首を横に振った。
『それは違う。君の覚悟は本物だったし、このコンテストにかける意気込みも正直驚かされた』
『……慰めのつもり?』
『そうじゃない。……ただ、―――楽しかったよ』
楽しかった。そう言って霖は笑う。
少女であったこの三日間。
確かに辛かったが、辛い事ばかりではなかった。
色んな人に励まされ、優しくされ、知らなかった一面に気付けた。新たな関係を築けた。
誘惑に負けて薬を飲んだことも、このコンテストも今ならいい思い出に出来る気がした。
だからこそ、霖は永琳にもう一つだけ伝えなくてはならない事を伝えた。
『……君のせいでボクは苦しんだ。だけど、同時に君のおかげでボクは強くなれたような気がするんだ。
だから、だからボクは君にも感謝したい。……ありがとう八意永琳』
『―――完敗ね。……楽しかった、か。私に一番足りなかったのはその気持ちか』
頭を下げる霖をマジマジと見た後、永琳はそんなことを呟いて、苦笑した。
「おーっす、香霖。久しぶりだな」
「いらっしゃい」
戸が開く音がしたと思うと、そこには来客が立っていた。―――魔理沙だ。
魔理沙はカウンターまで近づき、手近にあった椅子に、のっしりと腰を下ろした。
彼女と最後に会ったのは、たった五日前のはずなのに、随分と長いこと顔を合わせていなかったような気がする。
日常の象徴とも呼べる妹分と、こうして再び気軽に向かい合えるようになった。
その事実に、霖之助は誰に向けるでもなく感謝した。
「……はあ。それにしてもあの異変って何だったんだろうな」
「ん? ああ、確かにおかしなことになっていたね」
ため息をつく魔理沙に、霖之助は何でもないことのように答えた。
どうやら、黒白の魔法使いは最後まで真相の外だったようで、霖之助はこっそり安堵する。
「異変っていえばすごかったんだぜ? 変テコなコンテストまであってさ!
終いにはバカっぽいアイドルなんかも現れたりして……香霖は見に行かなかったのか?」
「……僕は、そんなもの興味ないからな」
興奮してまくしたてる魔理沙に、霖之助は冷や汗をかきながら返した。
異変が起こるたびにする、いつもの土産話のつもりなのだろう。だが今回ばかりは霖之助に説明など必要なかった。
そのバカっぽいアイドルが、自身の目の前にいることに魔理沙は気付いていない。
「……んだよ。なーんかお前もノリが悪いな。
今のわたしは、霊夢や紫に妙な隠し事されてて傷心中なんだ。そこらへん気を遣ってくれよなっ」
「いや、その、…すまん」
コンテストの最後に現れた挑戦者に対する、霊夢や紫の反応は物凄いものだった。
あれだけ複雑な表情をして戸惑っている霊夢も珍ければ、あんなに笑い転げる紫なんて見たことない。
お前ら何を知っているんだ、と問い質しても、適当に誤魔化され続け、魔理沙は大分ネガティブ思考に陥っていた。
ちぇー、と近くにあった茶色のバスケットを蹴飛ばす魔理沙。バスケットに入っていた中身が―――
記念に持ち帰って、とアリスからもらった白桃色のドレスが、
舞台の小道具として使った、女の子が好みそうな小物やら装飾品やらが、
―――香霖堂の床に転がった。
「―――キャッ! ら、らめえっ!」
「…………」
慌ててそれを身体で覆い隠す霖之助。
アリスの教育の賜物なのか、咄嗟にそんな言葉が出た。……出てしまった。
ハッ、と我に返った霖之助が、魔理沙の方に振り返る。
魔理沙は慄然と立ち尽くし、その身体をぷるぷると震わせていた。
「……ここここここ、こーり、ん?」
「違うっ! これは、これは違うんだっ!」
「や、やっぱり……おま、おまえ……そっちの趣味に目覚めたんだ……、こ、香霖が」
「話を聞いてくれっ! 魔理沙!」
お互いの顔はもう可哀想なほどに真っ青だ。
何とか誤解を解かないと、とあれこれ弁解する霖之助の言葉など、すでに聞こえていないのか。
魔理沙の大きな瞳から、じわりと大粒の涙が浮かんだ。
「―――うわあああああああああぁぁぁぁんっ!!こうりんがっ!こーりんがー!」
「魔理沙!! まりさあああああああああぁぁぁぁっ!!」
ワッ、と泣き叫びながら外へと走る魔理沙と、それを必死の形相で追いかける霖之助。
幻想郷の深い青空が見守る中、二人の追いかけっこはいつまでも続いていた。
設定がどうのとか男で名前があるのは一人だけしかいないとか。
あまりにも無理のあることなのではと思ったのですが・・・・。(汗
作品は悪いとか言えないのですが・・・良いとも感じることができなかったです。
次回の作品とかに期待したいかな。
ないわけですし、よほど無視しない限りはそれほど気にしなくてもいいかと思います。
文章はよく書けてますし、久々にみた性転換モノということで楽しませていただきました。
ただ、やっぱり永淋のステージ上のパフォーマンスを見ると、やっぱりおばs
霖之助なんて専用ウィキある位なんですから。
ただ一つ突っ込ませてください。
えーりんは美『少女』なんでしょうかw
「…でも、霖之介さんが幻想郷に住んでたのって、まさか五百年前からじゃないわよね?
霖之助ね、介ではないですよ。
件のスレではなく、敢えてここに半オリキャラを使った永琳貶しの構図を挙げるというのは如何なものでしょう?
作者擁護派と批判派が一歩も譲らねぇwww
一番、割食ったのは良かれと思って書いた作者だな
>>40
半ばオリキャラになっていようが、SS中で霖之助と明記されている上
容姿と性格が著しく変わってしまう原因(永淋のお薬)が記述されているのに
何がそんなに問題なの?別に永林を貶めているわけでもないと思うんだが……
嫌悪感を顕わにする人もいるでしょうけど二次創作への理解と許容が少ない人だと思って流しましょう
永淋や霖之助の覚悟とぶっとんだ行為、それに当てられた周囲の反応、どれもこれも楽しめました
惜しむらくは咲夜や秋姉妹・守矢神社などの場面が少々安易だった気がする程度ですか
文字通り、賛否両論となっていて戸惑いを隠せません(汗)
何分、右も左もわからない新米の書いたお話ですので、そこは平にご容赦下さい。
霖之助も永淋も大好きなキャラの一人です。決して貶めるつもりで書いたわけでは御座いません。
皆さんのご意見によって、キャラの認識不足を痛感させて頂きました。
それと、誤字のご指摘ありがとうございました。修正しました。
それについては最初に注意書きをされています。
主人公の霖之介が主眼に置かれた作品であり、永琳はいわば対立する位置にあるわけですから、
扱いが悪くみえるということはあると思います。
文体から、特定のキャラに対するバッシングの意図を感じるということもありませんでした。
最後に、作品について、
コンテストの部分、霖之介と永琳以外は、もう少し練ってほしかったかなという点を除けば、
パロディ作品として、とても楽しく読ませていただきました。
内容も個人的には面白かったので作者様の次回作にも期待したいと思いましたよ~
性転換ネタを種に混沌とした舞台を仕立て上げていくところがとても面白かったので、コンテスト中でのキャラの立ち振る舞いがちょっと物足りないかなぁという気はしました。
次回作も期待して待ってますね。
でも前編のね、霖ちゃんにね、少しだけ違和感を感じちゃいました。(ちょっち⑨ぽくて愛らしかったけれど)
もう後編のコンテストは凄ーく好きです。
その直前までが全て前座になる程に。
だってアリス師匠と吹っ切れた霖ちゃん&永琳がGJ過ぎてどうしようも無いもの。
故に他の方々にもっとハチャメチャっぷりとか欲しかったのもまた事実。
>「ーーーキャッ ら、らめえっ!」
何よりこの台詞が一番萌えます。
ありがとうございました。
ハッハッハッ、何を言っておらっしゃる。
姫さまはてゐのむk(ry
台詞回しも間の取り方も粋だし、キャラも立ってる。文句のつけようがない。
もっと評価伸びてもいいのになぁ。
個人的には、後編のてゐさんの勝負師魂にぐっときたっ!
ところどころに出てくる細かな描写がツボ。
正直、黒歴史と断じてしまいたいくらいお粗末な出来だと思っていたので、嬉しかったです。
(処女作であることを言い訳にするつもりはありません。霖之助、本当にごめんね)
皆さまのコメントを見て、少しでも改善しようと思い修正を試みましたが…、話の本流には逆らえませんので、誠に微々たるものです。
最後に、相当に落ち込んだこともあったけど、この作品のおかげで今の自分がある。書いてよかった。そう思います。
そして、それは間違いなく読者の方々のおかげだと思っています。
しかし、あざといっ…!あざとすぎるぜ、霖……!
朝倉理香子さんは、どこにいっちゃったんだろうなあ……
作品としていろいろ荒い点はあるのでしょうが、私は非常に楽しめました。
特に山場と言っていいコンテスト部分。
どうしても主役の2人に筆がいきがちなところを他の5人についても納得のいく展開となっていると思います。
ご馳走様でした。
永琳は何か企んでは最後にやり込められる。
霖之助は好き勝手に弄り放題。
なんかこんなんばっかだよね。食傷気味です。
文章は読みやすいし内容も面白い
最高です!
?私は決して危ないお兄さんではないですが?何でしょうか?
レミリアとチルノの小説ですよね?・・・え、違う・・・?