(全く、貴女みたいな変な人は初めてだわ)
心底呆れたと言う顔で、紫の洋服を纏った女が言う。また妙な仲間が増えるのかしらね、と。
別段私は、変な事も妙な事もしようとしているつもりはない。
優しくされれば、誰だって嬉しい。相手が喜んでくれれば、優しくした方だって嬉しいだろう。
それが解るから、誰かに優しくして貰った人間は、何時か誰かに優しくあげたいと思う
……とりわけ自分にしてくれたその人に、恩を返したいと思うのだ。
それはごく自然で当たり前な感情で、犬猫だって変りはないと聞く。まして人妖の差など、ある筈もない。
私がそう言うと、その女は苦笑しながら首を横に振った。
(それでも、貴女がこれからしようとしていることは、人の身に許されたことではないのよ)
さて、何処から語り初めようか。
もっとも、そう悩んでみたところで、結局最初から全部話すしかないのだけれど。
私の両親は武術家だった。外敵から村を守ることで日々の糧を得る――例えば、山賊から。例えば、
熊や野犬から。
そして……例えば、妖怪から。
しかし、妖怪の強さというのは圧倒的である。
仙人や道師様、或いは妖術使い達のような、妖怪達と同等の奇跡を有する異能者であるならばともかく、
体と技を鍛えただけの只の人間では、それを生業としている武術家であったとしても、そうは太刀打ち
出来るものではない。
私の両親は、妖怪に敗北した。
私の両親を喰らった妖怪は、結局通りすがりの巫女様に退治されたのだけれど、村の被害も甚大で、
それを妨げるべき役を負っていた両親は、死後も村の人間からその責を問われた。
結果、私は両親を弔ってやることも出来なかった。
そんな私達家族に手を差し伸べてくれたのも、その妖怪退治の巫女様だった。
巫女様は両親を弔ってくれて、二人を手厚く葬ってくれた。
そして、残された私を慰めてくれた。
私は嬉しかった……何よりも、命がけで戦った両親の名誉を守ってくれたことに。
二人の人生が、ただ一度の敗北で霞むようなことは決してないのだと言ってくれたことに。
巫女様が村を去った後、私も彼女の後を追うように村を出て、流浪しながら武術の腕を磨いた。
もっと腕を磨けば、あの巫女様のお役に立てるようになるかも知れない。
名声を得れば、彼女の耳にもそれが届くだろう。
何時かこの恩に報いることが出来る日を夢見て、私は何度も何度も危ない橋を渡り、己を磨いてきた。
何時しか私は、大陸でも有数の武術家として、名を馳せるまでになっていた。
そんな私が恩人との再会を果たしたのは、初めて彼女と会った日から、数えて十数年後のことだった。
「私の村を襲う妖怪の退治を手伝って頂きたいのです」
まだあどけなさを残す幼い顔で、少女はそう言った。
縁者……おそらくは、娘なのだろう、私が片時も忘れたことのない、あの人の面影を残した少女。
それが武で生計を立てる私の、今回の依頼者だった。
「生死区別なく人間を襲う、危険な妖怪です。村では既に何人も犠牲者が出ています。
お母様は長いこと煩っていて戦うことが出来ず、私にはお母様程の力はない
……私一人では、あの妖怪とは戦えないのです」
悔しそうに俯いて、少女は言う。長年の経験から、私にもそれは解った
――可愛そうだが、今の少女の力では、あの日に見た巫女様には到底及ぶものではないのだと。
「どうか、お願い致します」
依頼料として少女が提示した額は大した額ではなかったが、少女にとっては高額であったろう。
報酬なんて無くても……払ってでも引き受けたい仕事だった。
あの日の恩を返すチャンスであることは勿論だし、それに、私のような只の人間が、己の力だけで妖怪に
太刀打ち出来るのかを知りたかったというのもある。
私は一も二もなく快諾した。
「あの妖怪は夜だけ活動します。まずは夜になるのを待って、巡回しながら敵を見付けましょう。
妖怪を見付けたら、すぐに知らせてください」
震える声で、それでも少女は健気にそう言った。
「くれぐれも一人で立ち向かわないよう。
私と合流するまでは、妖怪の監視にのみ専念してください」
やがて少女は夜の帳の中に消えていった。私もそれに倣い、少女とは逆の方向に向って歩き始める。
病で床に伏せているという少女の母親に挨拶したかったけれど、私はそうはしなかった。
事が無事に済んでも、逢うつもりはない。恩は悟られないように返すものだと、死んだ両親から
教えられていたからだ。
彼女を守り、安心させてあげる為にも、早々に決着を付けなければならない。
暫く夜の集落を巡回していたが、妖怪は現れなかったし、少女からの連絡もなかった。私は一度少女の
屋敷に戻ることにした。
(――!!)
その途中で、私の首筋に針で刺したような痛みが走った。
これは両親が私に残してくれたものの一つ……危険が近づいたことを知らせる、私だけの直感。
これのおかげで、私は何度も命拾いして来た。
でも、今回は逃げる訳にはいかない。私は駆け足で、屋敷に戻った。
異臭と冷気――おそらくは妖気と言われるものが、屋敷の周囲に立ち込めていた。
そして屋敷の門の前に、その発生源たる人影が在った。
長く伸びた、人ならぬ紅い鉤爪。その貌を覆い隠す長い髪の隙間からは、
紅く輝く両目が私を覗き見ている。
女の輪郭をした妖怪が、其処に立っていた。
私は一瞬迷ったが、すぐに構えを取った。
私の見立てでは、もし私が敗れるような相手ならば、少女と二人で戦っても結果に変わりはないだろう。
それならば、恩人の娘である少女を危険な目に遭わせる意味はない。
こいつは、今此処で私が倒さなければ――。
長い髪を振り乱し、妖怪が私に襲い掛かる。
人間には到底真似出来ない疾風のような速度は、しかし何の技巧もない、無駄だらけの動きだった。
私が積み重ねてきた攻夫は、その妖怪より速く動くことは出来なくとも、その分少ない動作でそれに対処する。
いける……今の私なら、決して勝てない相手ではない。
「はぁ――! !」
妖怪の動きを紙一重で躱し、その背後に、私は裂帛の気合いを込めた拳を叩き込んだ。
……私の拳に帰ってきたのは、銅鐸に打ち込んだような固い手応え。
驚いた私を、女は五月蠅そうに片手で振り払った――。
十数メートルも宙を舞い、私は無様に地面に転がる。
一瞬意識が飛んだ。起き上がろうと地面に付いた腕に激痛が走る。見ると、腕からは骨が飛び出し、
肉はぐちゃぐちゃに飛び散って、肘から先が辛うじて腕からぶら下がっているような状態に破損していた。
たった一撃で……私は戦慄した。これが人間と妖怪の身体能力の差。十年以上の歳月をかけ、
数千回の打ち込みにも耐えてきた私の右腕は、何の技巧も意思もないただの一撃で、もう再起不能に
陥ってしまったのだ。
(……だからって、負ける訳にはいかない!)
恐怖に震えながら、それでも私は立ち上がる。
身体能力なら、異能者であっても只の人間とそう変りはない。あの人だって、この恐怖に耐えて
戦っていた筈だ。この程度のことで、私が臆する訳にはいかない。
妖怪を倒す方法は三つあるという。
一つは、妖怪と同等の奇跡を持ってそれに対する方法。
一つは、決められた手続きを踏んで、妖怪の弱点を突く方法。
もう一つは、況や別の妖怪を利用し、双滅を謀る方法。
残念ながら、私にはそのいずれをも望めない。より効率的に、少ない動作で妖怪の爪から逃れる。
より合理的に、効果的な一撃を妖怪に加えていく――それが、只の武術家に過ぎない私に許された、
唯一の戦い方……でもそれは、先の見えた戦い方でもあった。
どれほど五月蠅く飛び回ろうと、人を殺す毒を持とうと、まして数を揃えたところで、蜂に熊を倒すことは
出来ない。
私が打ち込んだのは百にも及ぶ拳と蹴り。しかし妖怪がそれに怯むことはなく、やがて再び妖怪の爪が
私の脇腹を捕らえた時、私の戦いは終わりを告げた。
(――私は死ぬのか。あの人に恩を返すことも出来ず、あの人の娘を守ることも出来ず……)
地面に這い蹲りながら、私は悔しさに唇を噛み締めた。
膝骨は砕け、歩くことも出来ない。
内臓も損傷し、満足に勁を錬ることも出来ない。
今日まで積み上げてきた攻夫が私に教えてくれたのは、只の人間では妖怪には勝てないのだという、
明快にして残酷な真理だったのか……。
妖怪がゆっくり私に近づいて来る――それは、敵に止めを刺そうという行為ではない。ただ、抵抗することも
出来ない哀れな小枝から果実をもぎ取るような、何の気概もない捕食行為でしかないのだ。
私の心が諦観に染まろうとしていた時、ふと、その妖怪の胸元が青白く光って見えた。
それが何で、何を意味するのかを理解するよりも速く、私の体は動いていた。
青白い光に最後の拳を叩き付ける……と、鋼のようだった妖怪の体は、冗談みたいに簡単に破裂した――。
動かなくなったその妖怪――妖怪だった女の体を、私は抱き締める。
その胸元を探ると、まだ僅かに燐光を灯す、血に塗れた紙束が出てきた。
見覚えのある文字と画図……それは、少女が持っていたものと同じ、退魔の護符。
私は震える指で女の前髪を払った。
私が片時も忘れたことのない、恩人の貌が其処にあった――。
妖怪の中には、捕食した人間を自らの眷属に変えてしまうものもいると聞く。
この人は、その妖怪と既に戦っていたのだろう。そしてその戦いに敗れ、彼女自身もまた、妖怪に
成り果ててしまったのだ――。
恩人の貌を優しく撫でながら、私は考える。私はこの人に、恩を返すことが出来たのだろうか。
妖怪になって人に仇成すなど、この人にとっては辱めであり、拷問でもあったろう。
未然とはいかなかったが、この人の娘がこの人自身の犠牲になる前に被害を食い止められたのは、
きっと誇り高かったこの人の望むところではあるのだろうと思う。
でも――それでも私は納得出来なかった。
妖怪退治の巫女が、妖怪に敗れたのみならず、その眷属と化して人を襲っていたのだ。この人の名誉は
地の底まで墜ちて、人々の誹りは彼女の娘にまで及ぶだろう。
私が返したかった恩は、私の両親に出来なかったことをして貰ったことだけではない。両親の名誉を
――二人の人生の意義を守ってくれたことなのだから。
ならば今、この人の為に私に出来ることは――。
(……駄目よ。そんな理由で、この境界を越えるべきではないわ)
突然頭上から声が降って来た。
驚いて見上げると、其処にあったのは通るべきではない黒い境。
黒くて巨大な壁を背にして、紫色の洋服を纏った女が、月すら見えない夜の空に浮かんでいた。
(妖怪とは利己的なものよ。彼らは誰しも、自身の願望を追って、この『人間と妖怪の境界』を越えて行く。
日の光の下では叶わぬ願いを、夜の世界に探しに行くのよ。
貴女の願いは、こちら側にありはしないわ)
突然現れた胡散臭い女は、意外にも私にそう諭す。
こいつも妖怪か……でももう、私は恐れなかった。だって、今こいつが現れた
ということは、きっと私がこれからしようとしていることで、私の望みが叶うということの証なのだから。
「私は十分利己的よ。だって、私が恩を返したいのはこの人の為ではないし、この人の娘の為でもない。
ただ、私が私自身の為にしたいと思っているだけだもの」
私がそう言うと、紫の女は心底呆れた顔をした。
(全く、貴女みたいな変な人は初めてだわ……それでも、貴女のしようとしていることは、人の身に
許されたことではないのよ)
……解っている。でも、だからこそ私の望みは叶うのだ。この人の恩に報いることは、
人の身では叶わないのだから――。
やがて、黒い壁の外側で誰かが息を呑む気配がした。騒ぎを聞きつけて、あの少女が戻って来たのだろう。
黒い壁に阻まれて、こちらから少女の姿を見ることは出来なかったが、少女には私と母親の姿が
見えているに違いない。
私は少女が居るだろう闇の向こうに、優しく微笑みかける。
そして――私は恩人の首に噛み付き、その肉を噛み千切り、嚥下した。
夜に墜ちた光の世界に、少女の悲鳴が木霊した――。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「さっき攻撃仕掛けてきたでしょ?」
「それは、普通に攻撃したの。でも、あんたが先に攻撃したのよ。あんたが、普通以外なのよ」
私は侵入者の軽口に、軽口で返す。
レミリアお嬢様に敗れ、門番の任を負ってからというもの、どうにも人間に舐められているようでいけない。
紅魔館から食料の配給を受けるようになり、今でこそ人を襲うことはしなくなったが、これでも私は
立派な妖怪なのだ。
それに――余裕の笑みを浮かべる巫女っぽい格好をした侵入者を睨み返しながら、私は思う。
人間の巫女とは、遠い昔に故郷の地で戦ったことがある。
異能の力を持つ、巫女の母娘。
その母親との戦いに辛くも勝利した私は、しかしその戦いで負った傷が原因で娘との戦いに敗れ、
這々の体で逃げ出した記憶がある。
その時の傷が原因なのか……それ以前のことは良く覚えていないのだが、それまでその地で多くの
人間を襲い、恐れられていた私なのだ。私が倒した母親の巫女だって、相当な実力者だったらしいし
……どれも、別の人間や妖怪から又聞きした話になってしまうので、いまいち実感が持てないというのが、
内心痛いところではあるのだが。
目の前に浮かぶ巫女っぽい少女は、あの時の少女と……全く欠片も似ている所が見付からない。
が、人間且つ少女で、巫女でもあることも、多分間違いはないのだろう……ほら、今自分で言っていたし。
ならば、あの時の敗北の汚名を、今此処で雪がせて貰うことにしよう。
巫女の肉を喰らうのは、これで二度目だ。
「それはよかった。たしか……巫女は食べてもいい人類だって言い伝えが……」
「言い伝えるな!」
鍾馗(ショウギ)―中国に広く伝わる伝承より
心底呆れたと言う顔で、紫の洋服を纏った女が言う。また妙な仲間が増えるのかしらね、と。
別段私は、変な事も妙な事もしようとしているつもりはない。
優しくされれば、誰だって嬉しい。相手が喜んでくれれば、優しくした方だって嬉しいだろう。
それが解るから、誰かに優しくして貰った人間は、何時か誰かに優しくあげたいと思う
……とりわけ自分にしてくれたその人に、恩を返したいと思うのだ。
それはごく自然で当たり前な感情で、犬猫だって変りはないと聞く。まして人妖の差など、ある筈もない。
私がそう言うと、その女は苦笑しながら首を横に振った。
(それでも、貴女がこれからしようとしていることは、人の身に許されたことではないのよ)
さて、何処から語り初めようか。
もっとも、そう悩んでみたところで、結局最初から全部話すしかないのだけれど。
私の両親は武術家だった。外敵から村を守ることで日々の糧を得る――例えば、山賊から。例えば、
熊や野犬から。
そして……例えば、妖怪から。
しかし、妖怪の強さというのは圧倒的である。
仙人や道師様、或いは妖術使い達のような、妖怪達と同等の奇跡を有する異能者であるならばともかく、
体と技を鍛えただけの只の人間では、それを生業としている武術家であったとしても、そうは太刀打ち
出来るものではない。
私の両親は、妖怪に敗北した。
私の両親を喰らった妖怪は、結局通りすがりの巫女様に退治されたのだけれど、村の被害も甚大で、
それを妨げるべき役を負っていた両親は、死後も村の人間からその責を問われた。
結果、私は両親を弔ってやることも出来なかった。
そんな私達家族に手を差し伸べてくれたのも、その妖怪退治の巫女様だった。
巫女様は両親を弔ってくれて、二人を手厚く葬ってくれた。
そして、残された私を慰めてくれた。
私は嬉しかった……何よりも、命がけで戦った両親の名誉を守ってくれたことに。
二人の人生が、ただ一度の敗北で霞むようなことは決してないのだと言ってくれたことに。
巫女様が村を去った後、私も彼女の後を追うように村を出て、流浪しながら武術の腕を磨いた。
もっと腕を磨けば、あの巫女様のお役に立てるようになるかも知れない。
名声を得れば、彼女の耳にもそれが届くだろう。
何時かこの恩に報いることが出来る日を夢見て、私は何度も何度も危ない橋を渡り、己を磨いてきた。
何時しか私は、大陸でも有数の武術家として、名を馳せるまでになっていた。
そんな私が恩人との再会を果たしたのは、初めて彼女と会った日から、数えて十数年後のことだった。
「私の村を襲う妖怪の退治を手伝って頂きたいのです」
まだあどけなさを残す幼い顔で、少女はそう言った。
縁者……おそらくは、娘なのだろう、私が片時も忘れたことのない、あの人の面影を残した少女。
それが武で生計を立てる私の、今回の依頼者だった。
「生死区別なく人間を襲う、危険な妖怪です。村では既に何人も犠牲者が出ています。
お母様は長いこと煩っていて戦うことが出来ず、私にはお母様程の力はない
……私一人では、あの妖怪とは戦えないのです」
悔しそうに俯いて、少女は言う。長年の経験から、私にもそれは解った
――可愛そうだが、今の少女の力では、あの日に見た巫女様には到底及ぶものではないのだと。
「どうか、お願い致します」
依頼料として少女が提示した額は大した額ではなかったが、少女にとっては高額であったろう。
報酬なんて無くても……払ってでも引き受けたい仕事だった。
あの日の恩を返すチャンスであることは勿論だし、それに、私のような只の人間が、己の力だけで妖怪に
太刀打ち出来るのかを知りたかったというのもある。
私は一も二もなく快諾した。
「あの妖怪は夜だけ活動します。まずは夜になるのを待って、巡回しながら敵を見付けましょう。
妖怪を見付けたら、すぐに知らせてください」
震える声で、それでも少女は健気にそう言った。
「くれぐれも一人で立ち向かわないよう。
私と合流するまでは、妖怪の監視にのみ専念してください」
やがて少女は夜の帳の中に消えていった。私もそれに倣い、少女とは逆の方向に向って歩き始める。
病で床に伏せているという少女の母親に挨拶したかったけれど、私はそうはしなかった。
事が無事に済んでも、逢うつもりはない。恩は悟られないように返すものだと、死んだ両親から
教えられていたからだ。
彼女を守り、安心させてあげる為にも、早々に決着を付けなければならない。
暫く夜の集落を巡回していたが、妖怪は現れなかったし、少女からの連絡もなかった。私は一度少女の
屋敷に戻ることにした。
(――!!)
その途中で、私の首筋に針で刺したような痛みが走った。
これは両親が私に残してくれたものの一つ……危険が近づいたことを知らせる、私だけの直感。
これのおかげで、私は何度も命拾いして来た。
でも、今回は逃げる訳にはいかない。私は駆け足で、屋敷に戻った。
異臭と冷気――おそらくは妖気と言われるものが、屋敷の周囲に立ち込めていた。
そして屋敷の門の前に、その発生源たる人影が在った。
長く伸びた、人ならぬ紅い鉤爪。その貌を覆い隠す長い髪の隙間からは、
紅く輝く両目が私を覗き見ている。
女の輪郭をした妖怪が、其処に立っていた。
私は一瞬迷ったが、すぐに構えを取った。
私の見立てでは、もし私が敗れるような相手ならば、少女と二人で戦っても結果に変わりはないだろう。
それならば、恩人の娘である少女を危険な目に遭わせる意味はない。
こいつは、今此処で私が倒さなければ――。
長い髪を振り乱し、妖怪が私に襲い掛かる。
人間には到底真似出来ない疾風のような速度は、しかし何の技巧もない、無駄だらけの動きだった。
私が積み重ねてきた攻夫は、その妖怪より速く動くことは出来なくとも、その分少ない動作でそれに対処する。
いける……今の私なら、決して勝てない相手ではない。
「はぁ――! !」
妖怪の動きを紙一重で躱し、その背後に、私は裂帛の気合いを込めた拳を叩き込んだ。
……私の拳に帰ってきたのは、銅鐸に打ち込んだような固い手応え。
驚いた私を、女は五月蠅そうに片手で振り払った――。
十数メートルも宙を舞い、私は無様に地面に転がる。
一瞬意識が飛んだ。起き上がろうと地面に付いた腕に激痛が走る。見ると、腕からは骨が飛び出し、
肉はぐちゃぐちゃに飛び散って、肘から先が辛うじて腕からぶら下がっているような状態に破損していた。
たった一撃で……私は戦慄した。これが人間と妖怪の身体能力の差。十年以上の歳月をかけ、
数千回の打ち込みにも耐えてきた私の右腕は、何の技巧も意思もないただの一撃で、もう再起不能に
陥ってしまったのだ。
(……だからって、負ける訳にはいかない!)
恐怖に震えながら、それでも私は立ち上がる。
身体能力なら、異能者であっても只の人間とそう変りはない。あの人だって、この恐怖に耐えて
戦っていた筈だ。この程度のことで、私が臆する訳にはいかない。
妖怪を倒す方法は三つあるという。
一つは、妖怪と同等の奇跡を持ってそれに対する方法。
一つは、決められた手続きを踏んで、妖怪の弱点を突く方法。
もう一つは、況や別の妖怪を利用し、双滅を謀る方法。
残念ながら、私にはそのいずれをも望めない。より効率的に、少ない動作で妖怪の爪から逃れる。
より合理的に、効果的な一撃を妖怪に加えていく――それが、只の武術家に過ぎない私に許された、
唯一の戦い方……でもそれは、先の見えた戦い方でもあった。
どれほど五月蠅く飛び回ろうと、人を殺す毒を持とうと、まして数を揃えたところで、蜂に熊を倒すことは
出来ない。
私が打ち込んだのは百にも及ぶ拳と蹴り。しかし妖怪がそれに怯むことはなく、やがて再び妖怪の爪が
私の脇腹を捕らえた時、私の戦いは終わりを告げた。
(――私は死ぬのか。あの人に恩を返すことも出来ず、あの人の娘を守ることも出来ず……)
地面に這い蹲りながら、私は悔しさに唇を噛み締めた。
膝骨は砕け、歩くことも出来ない。
内臓も損傷し、満足に勁を錬ることも出来ない。
今日まで積み上げてきた攻夫が私に教えてくれたのは、只の人間では妖怪には勝てないのだという、
明快にして残酷な真理だったのか……。
妖怪がゆっくり私に近づいて来る――それは、敵に止めを刺そうという行為ではない。ただ、抵抗することも
出来ない哀れな小枝から果実をもぎ取るような、何の気概もない捕食行為でしかないのだ。
私の心が諦観に染まろうとしていた時、ふと、その妖怪の胸元が青白く光って見えた。
それが何で、何を意味するのかを理解するよりも速く、私の体は動いていた。
青白い光に最後の拳を叩き付ける……と、鋼のようだった妖怪の体は、冗談みたいに簡単に破裂した――。
動かなくなったその妖怪――妖怪だった女の体を、私は抱き締める。
その胸元を探ると、まだ僅かに燐光を灯す、血に塗れた紙束が出てきた。
見覚えのある文字と画図……それは、少女が持っていたものと同じ、退魔の護符。
私は震える指で女の前髪を払った。
私が片時も忘れたことのない、恩人の貌が其処にあった――。
妖怪の中には、捕食した人間を自らの眷属に変えてしまうものもいると聞く。
この人は、その妖怪と既に戦っていたのだろう。そしてその戦いに敗れ、彼女自身もまた、妖怪に
成り果ててしまったのだ――。
恩人の貌を優しく撫でながら、私は考える。私はこの人に、恩を返すことが出来たのだろうか。
妖怪になって人に仇成すなど、この人にとっては辱めであり、拷問でもあったろう。
未然とはいかなかったが、この人の娘がこの人自身の犠牲になる前に被害を食い止められたのは、
きっと誇り高かったこの人の望むところではあるのだろうと思う。
でも――それでも私は納得出来なかった。
妖怪退治の巫女が、妖怪に敗れたのみならず、その眷属と化して人を襲っていたのだ。この人の名誉は
地の底まで墜ちて、人々の誹りは彼女の娘にまで及ぶだろう。
私が返したかった恩は、私の両親に出来なかったことをして貰ったことだけではない。両親の名誉を
――二人の人生の意義を守ってくれたことなのだから。
ならば今、この人の為に私に出来ることは――。
(……駄目よ。そんな理由で、この境界を越えるべきではないわ)
突然頭上から声が降って来た。
驚いて見上げると、其処にあったのは通るべきではない黒い境。
黒くて巨大な壁を背にして、紫色の洋服を纏った女が、月すら見えない夜の空に浮かんでいた。
(妖怪とは利己的なものよ。彼らは誰しも、自身の願望を追って、この『人間と妖怪の境界』を越えて行く。
日の光の下では叶わぬ願いを、夜の世界に探しに行くのよ。
貴女の願いは、こちら側にありはしないわ)
突然現れた胡散臭い女は、意外にも私にそう諭す。
こいつも妖怪か……でももう、私は恐れなかった。だって、今こいつが現れた
ということは、きっと私がこれからしようとしていることで、私の望みが叶うということの証なのだから。
「私は十分利己的よ。だって、私が恩を返したいのはこの人の為ではないし、この人の娘の為でもない。
ただ、私が私自身の為にしたいと思っているだけだもの」
私がそう言うと、紫の女は心底呆れた顔をした。
(全く、貴女みたいな変な人は初めてだわ……それでも、貴女のしようとしていることは、人の身に
許されたことではないのよ)
……解っている。でも、だからこそ私の望みは叶うのだ。この人の恩に報いることは、
人の身では叶わないのだから――。
やがて、黒い壁の外側で誰かが息を呑む気配がした。騒ぎを聞きつけて、あの少女が戻って来たのだろう。
黒い壁に阻まれて、こちらから少女の姿を見ることは出来なかったが、少女には私と母親の姿が
見えているに違いない。
私は少女が居るだろう闇の向こうに、優しく微笑みかける。
そして――私は恩人の首に噛み付き、その肉を噛み千切り、嚥下した。
夜に墜ちた光の世界に、少女の悲鳴が木霊した――。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「さっき攻撃仕掛けてきたでしょ?」
「それは、普通に攻撃したの。でも、あんたが先に攻撃したのよ。あんたが、普通以外なのよ」
私は侵入者の軽口に、軽口で返す。
レミリアお嬢様に敗れ、門番の任を負ってからというもの、どうにも人間に舐められているようでいけない。
紅魔館から食料の配給を受けるようになり、今でこそ人を襲うことはしなくなったが、これでも私は
立派な妖怪なのだ。
それに――余裕の笑みを浮かべる巫女っぽい格好をした侵入者を睨み返しながら、私は思う。
人間の巫女とは、遠い昔に故郷の地で戦ったことがある。
異能の力を持つ、巫女の母娘。
その母親との戦いに辛くも勝利した私は、しかしその戦いで負った傷が原因で娘との戦いに敗れ、
這々の体で逃げ出した記憶がある。
その時の傷が原因なのか……それ以前のことは良く覚えていないのだが、それまでその地で多くの
人間を襲い、恐れられていた私なのだ。私が倒した母親の巫女だって、相当な実力者だったらしいし
……どれも、別の人間や妖怪から又聞きした話になってしまうので、いまいち実感が持てないというのが、
内心痛いところではあるのだが。
目の前に浮かぶ巫女っぽい少女は、あの時の少女と……全く欠片も似ている所が見付からない。
が、人間且つ少女で、巫女でもあることも、多分間違いはないのだろう……ほら、今自分で言っていたし。
ならば、あの時の敗北の汚名を、今此処で雪がせて貰うことにしよう。
巫女の肉を喰らうのは、これで二度目だ。
「それはよかった。たしか……巫女は食べてもいい人類だって言い伝えが……」
「言い伝えるな!」
鍾馗(ショウギ)―中国に広く伝わる伝承より