見上げれば青い空。白い雲。
見下ろせば黒い瓦。そして梯子。
私はいま、屋根の上にいた。
里を吹き抜けていく風が、優しく頬を撫でていく。そう表現したいところだが、体勢を低くしてしがみついている現状を鑑みるに、これを撫でていくなどという生やさしい表現で表すことはできない。乱打である、乱打。
なるべく早く風が治まることを祈りつつ、私は必死にしがみつくのであった。
そんな状況を見かねてか、軒下からお手伝いさんの声が聞こえてくる。
「何をされているんですか、稗田様」
「……見てわかりませんか?」
「見えません」
もっともだ。瓦と同化せんばかりに体勢を低くしているのだ。例え庭に出たとしても、私の姿を確認することはできないだろう。
「空が綺麗だったから屋根に上がったんです」
「はぁ」
「そうしたら、急に突風が吹いてきたんです」
「なるほど」
「だから、吹き飛ばされないように必死でしがみついている最中なんです」
「勤務時間が過ぎたんで、帰ってもいいですか?」
帰るなよ。
一層風が強さを増したので、ついぞその言葉が口から出ることはなかった。
代償として、お手伝いさんは帰ってしまったが。
改めて思う。私は、どうしてあんな公務員体質のお手伝いさんなんか雇ったのだろう。もっと融通がきいて、能力があって、私に優しいお手伝いさんはいなかったのか。
いなかったのである。幻想が集う幻想郷でさえ、そんなパーフェクト家政婦は一人か二人くらいしかいない。そして当然、彼女たちには既に主が存在していた。
世知辛い世の中である。私はため息をつき、慌てて両手に力をこめた。
現世を憂いている場合ではない。
ピンチなのだ。
それも、とびっきりのピンチなのだ。
だから、こんなときにこそ思う。
ああ、空が飛べたらな。
どこぞの天狗のように空が飛べるなら、こんな風などもろともせずに颯爽と空へと踊り出し、今日から私も天空組の仲間入り。
こんにちは、水滴の塊。さようなら、酸素。
いや待て、酸素は待て。
頭を振る。いつのまにか我が意識は大気圏突破を試みていたようだ。
恐ろしい。
だがロケットのような性能は無くとも、せめてこの風を切って飛ぶくらいの能力は欲しいところ。
それさえあれば、こんな危機的状況になくとも平時から空を飛んでまわるだろう。
常頃から思っていたのだ。
巫女が空を飛べるんだから、御阿礼の子もそろそろ飛んでも良い頃合いじゃないかと。
九代も続けてきた。物理法則が根負けしてもいい年数だ。
もしも飛べるのであれば、もう永琳先生のところへ「空を飛びたいんですが」などと診察に行く必要もない。
あの時の先生の顔を、私は今でも忘れない。まるで怪しい薬でも貰いに来たのかと、疑うような顔だった。
常識なら持ち合わせている。ヘロたんインしたお、なんて麻薬には縁がない。
この生身の身体で、物理的に飛びたいのだ。
先生は言った。
分かった。分かったから入院しよう。
失礼な話である。
だがしかし、結局先生は私が飛べないと断言することはなかった。
そう、本当なら飛べてもいいはずなのである。
ゴクリ。乾いたのどを唾が潤す。
ひょっとしたら私はもう、飛べるのかもしれない。
不意に、そんな考えが頭をよぎった。
思えば、私は飛びたいと願いながら飛ぼうとしたことがあっただろうか。いやない。
真に物理法則に捕らわれていたのは、私の方だったのだ。
本当は飛べるはずなのに、試さず地上をはいずり回っていたのは、ひとえに私の愚かだったから。
ならば、今こそこの醜い大地から飛翔すべきとき。
私は意を決し、両手を離した。
身体は風に囚われ中を舞……うことはなかった。
「あら」
気がつけば、いつのまにか風は止んでいた。
なんたる、恥ずかしいことか。私は風も吹かぬ屋根の上で、一人悶々と飛べるだの飛べないだのと葛藤していたのだ。
ひどく赤面する。
危機的状況が過ぎ去れば、慌てていた思考も自ずと正気に戻る。何を馬鹿な事を考えていたのだろう。ただの人間が、空を飛べるわけないのだ。
そりゃあ、私は普通の人とは違う。違うからといって、空を飛べるわけではない。
まったく、何を勘違いしていたのやら。
これはもう、早くお風呂に入ってご飯を食べて寝るに限る。
私は顔を押さえながら、降りるための梯子を探した。
地上と屋根を繋ぐ梯子は、抵抗空しくノックダウンしたようだ。
だらしなく地面に倒れ伏している。
さて。
私は悩んだ。
悩んだ末に、思考の第二ラウンドが幕を開けた。
私の名は稗田阿求。御阿礼の子にして、九代目阿礼乙女。
見た物を忘れない求聞持の能力を有しており、幻想郷縁起の編纂に携わっている。
趣味は紅茶と音楽鑑賞。運動は苦手。
片足ケンケンなんて、生まれてこの方一度も成功したことがない。
ほら。
「うわっ、ここ屋上でした」
瓦で足を滑らせ、危うく中庭へイルスタードダイブを決めるところだった。夜雀でもあるまいし。
現実逃避の一環として始めた自己紹介だが、これもそろそろ飽きてきた。そもそも、誰に対しての自己紹介なのか。それすらも分からない。
人間、暇すぎると壊れてくるという話を聞いたことがあるけれど、まさか本当だったとは思いもしなかった。これは、次の幻想郷縁起にも記す必要があるかもしれない。独白辺りで警告しておこう。
などと、詮無い思考が次から次へと押し寄せてくる。
視線は空。ため息は重い。
なるべく見ないようにしていた地面を見下ろせば、相変わらずやる気のない梯子が姿を現す。なんだろう、度重なるフライングに抗議でもしているのだろうか。だとしたら許してあげるから、そろそろ起きあがって欲しい。
屋根の上に取り残されてから半刻。
たかが半刻、されど半刻。寿命の短いに私にとって時間はとても貴重なのだ。
それを、ただ空を見上げるだけで過ごしてしまうだなんて。私はどれだけ牧歌的な乙女なのだ。
もっとも、これを好きでやっているのなら仕方ない。
だが、否応無しに選択されているのなら大問題である。そして、私は否応無しに選択させられていた。
降りたい。でも降りられない。
人間の可能性を試すかのように、屋根から地面への距離は離れている。
一時期は阿礼の代から秘められた力が目覚めるのではないかとも思ったが、そんな都合の良い能力まであるわけがない。私が出来ることなんてせいぜい、ここからの景色を脳に焼き付けておく程度のことだ。
あ、オニヤンマ。
すっかり秋である。
「……そこで何してるのかしら?」
鬼瓦に止まったオニヤンマという状況に軽い笑いが巻き起こる最中、庭から私に話しかける声が聞こえてきた。
お手伝いさんは帰ったし、特に来訪者が訪れる予定もない。
しかし、これはチャンスである。
梯子さえかけて貰えれば、もうこんな退屈な時間とはおさらばである。願わくば、庭にいる人物が素直で従順で優しい人間でありますように。
私は落ちないように気を付けながら、庭を見た。
「こんにちは」
風見幽香がいた。考え得る最悪である。
まさか要求が全て裏切られるとは思わなかった。
神よ、何故私にかような試練を与えたもうたのですか。
唇を噛みしめながら、空を仰ぎ見る。
青空に浮かんだ八坂神奈子が『ドンマイ!』と良い笑顔で親指を立てている幻覚が見えた。覚えておくといい。次の幻想郷縁起では、きっと彼女の項目が全てが最悪になっていることだろう。
「それで、あなたはそこで何をしてるのかしら?」
「そういう風見さんこそ、私に何か用ですか?」
「ええ、ちょっと。この本のことで話があるの」
「またですか」
風見幽香が取り出したのは、私が編纂した幻想郷縁起である。
どういうわけか、この妖怪。度々私の家にやってきては、色々と本のことで文句を言って帰っていくのだ。
それも決まって、自分の項目について。
「いやね、そりゃあ私だって人間なんて嫌いよ。別に積極的に接することもないし、花畑を荒らされれば殺してやりたくなる。でもね、何も極高最悪にする必要は無いんじゃないかしら」
告げられる台詞も、大抵変わらない。どうやら、危険度と人間友好度に不満があるようなのだが、困ったものである。
「そう言われましても。これは私が独自の取材で導き出した結論ですので」
「あと、この絵はあまりにも凶悪すぎやしないかしら。変なイメージを植え付けるようで、偏向すぎる気がするわ」
「お似合いですよ」
「嬉しくないわね」
気むずかしい妖怪である。出来ることなら早めにお帰り願いたいところだが、さてどうしたものか。
梯子をかけて貰うチャンスではあるのだが、いかんせん相手が悪い。どちらかと言えばチャンスというより、ピンチだ。
しかし、地面に誰かいるという事実は間違いない。
ここは、我が力を総動員してでも風見幽香を誘導すべきではないか。
浮かんできた提案は、さほど悪いもののように思えなかった。
相手は大妖怪。だが、話の通じない類ではない。ちょっと常識がずれているだけだ。
なに、恐れることはない。
私には求聞持の能力と、幻想郷縁起で培った知識があるのだ。
風見幽香とて、この誘導術からは逃れられるわけがない。
「ところで、風見さん」
「何よ」
「梯子をかけたくなる奇病に冒されてはいませんか?」
「ふーん。へぇ、なるほど。降りられなくなったわけね」
虐めがいのある獲物を見つけたという笑顔で、風見幽香は微笑んだ。まさしく、幻想郷縁起の絵そのものである。
しかし、おかしい。何故、ばれた。
「それで、私にこの梯子をかけて欲しいと?」
「いえ、別に。そういうわけじゃありません」
「じゃあ、この梯子折ってもいいかしら?」
「駄目です。我が家の備品ですから。折るなら自分の腕にしてください」
「そんな自虐趣味は無いわ。おっと、足が滑った」
茶色い革靴が、梯子を踏みつける。
木製の梯子だ。力を込めれば、すぐに折れるだろう。
「待ってください!」
「んー?」
慌てて止める。
風見幽香は愉しそうな顔で、こちらを見上げた。
ここで泣きながら「わかりました。幻想郷縁起をあなたの言うとおりに編纂しますから、どうか梯子をかけてはくれませんか」と言えば満足してくれるのだろう。
しかし、それは稗田の矜持が許さない。
「待つのは構わないけど、物にはちゃんとした頼み方があるんじゃないかしら?」
「くっ……」
悔しげに顔を歪める。
「あっ! 空飛ぶ豚がマーガリンを塗られてる!」
「ふふふ、何を言ったところで私の気を逸らすことはできないわよ」
「あ、ムクドリ」
「害鳥め! また花畑を荒らしにきたのね!」
私の奸計に引っかかり、まんまと意識を逸らした風見幽香。チャンスは今しかない。
しかし、そこではたと気づく。
何のチャンスだ。
いつのまにか、風見幽香の気を逸らそうと一生懸命になっていたが、この状況で気を逸らせたからといって事態が好転するわけでもない。
根本的な問題解決の為には、やはりここから降りるしかないのだ。
それも自力で。
私は覚悟を決めた。
もはや、飛ぶしかない。
己の内に秘められた、重力から脱出する力を覚醒させるのだ。
助走をつけ、呼吸を整える。
「ん?」
ムクドリの驚異が無いとわかった風見幽香は、私の様子がおかしいことに気がついたらしい。
だが、もう遅い。
私は全速力で走り、そして屋根を蹴った。
「あーきゅうーふらい!」
意味不明なかけ声とともに、空へと飛びだした。
この時の私は、きっと追いつめられていたに違いない。
ふっと目を開ける。
そこは空でもなければ、庭でもなかった。
見慣れた天井。見覚えのある掛け軸に、見覚えのある生け花。
求聞持の能力が無くとも、簡単に分かる。
ここは、私の寝室だ。
しかし、どうして寝室に?
首を傾げる私は、立ち上がろうとして右足の違和感に気がついた。
「あれ?」
右足には何故か、石膏が取り付けられていた。
まさか、私が眠っている間に誰かが型を取ろうとしていたのか。だとしたら、何とも奇妙な話である。
「あら、気がついたのね」
障子戸が開き、八意永琳が姿を現す。その手には、水の張られた洗面器があった。
まったく状況が掴めない。
「あの、どうしてあなたがここに?」
「記憶が混濁してるようね。いいわ、説明してあげる。あなたは屋根から落ちて、気絶していたのよ」
思い出すのは簡単だった。なにせ、一度見た物は忘れないのだから。
そうだ。私は確かに空を飛ぼうとしていたのだ。
だがこうして布団に寝かされているところを鑑みるに、案の定私に秘められた力などなかったらしい。
「右足は完全に折れていたから、固定しておいたわ。後で痛み止めを飲んでおきなさい」
「あ、ありがとうございます」
「礼なら私じゃなく、風見幽香に言うことね。私を呼びに来たのも、あなたをここへ運んだのも、彼女がやったことなんだから」
風見さんが、私を?
俄には信じがたい話だ。
「ついでにお見舞いだって、その箱を置いていったのよ」
「箱?」
枕元を見れば、確かに箱が置かれている。
「まぁ、とりあえずの治療は終わったから、また一週間後に永遠亭までいらっしゃい。経過を見て、また判断するから。それじゃあ、御大事に」
気を利かせたのか、永琳は挨拶も簡単に部屋を出て行った。
私は箱を手に取った。
小さな、白い、可愛らしい箱だ。
お見舞いだなんて、風見幽香らしくもない。
でも、なんだろう。この胸に宿る温かい感情は。
彼女の言うがままに幻想郷縁起を変えることはできないけれど、少しばかり手心を加えてもいいのではないか。
その箱を抱いていると、自然とそう思えるようになった。
ひょっとしたら、これも彼女の作戦なのかもしれない。
でも、構わない。
私は代償として、もっと温かいものを手に入れたのだから。
私は箱を開いた。
びよーん。
ふざけた顔のピエロが姿を現す。
びっくり箱だ。
…………
………………
…………………………
私はそっと蓋を閉めた。
これは風見幽香名義で、八雲紫のところへ送っておこう。
それでちょっとした争いが起きても、私の責任ではない。
箱を置き、布団をかぶった。
やはり私はこうして、地面に寝そべっている方が性に合う。
人は大地、巫女は空。
それぞれには、それぞれの道があるのだ。変に憧れて、道を誤るとこうなる。
良い勉強になった。
私はあくまで私として、これからの人生も、そして来世も過ごしていくことにしよう。
などと良い感じに纏めようと思ったが、聡い私だ。
何となく分かる。
多分、来世でも同じ事やるんだろうな。
幻想郷縁起を纏める際に、阿弥が左足を骨折したという記述があった。特に何か事故があったわけでもないのに。
覚えてはいないが、おそらく似たようなことをやったのだろう。
ため息をつく。
私は何度生まれかわっても、やっぱり私のようだった。
ちなみにこの後、マジックペンを片手に風見幽香がお見舞いにやってきた事は記す必要もないだろうし、記したくもない。
ちくしょう。
君もトべるさ!
いろいろ素晴らしいです。っていうかお手伝いさんドライすぎるよw
爆笑と言うよりもニヤニヤが止まらない。
空飛べなくても大丈夫、素面で充分にトんでるあーきゅーふらい!
ほんとにあなたのセンスは常識を逸脱してるよ。
さて問題はお見舞い(という名の強襲)に来たゆうかりんが取った行動だ!
①石膏に落書き
②額に肉
③マジックペンで(フラワースパーク
ムクドリに引っかかるゆうかりん面白いよ!
いや待て、酸素は待て。
このくだりに吹いた
のノリで読まして貰いました!
あーきゅーふらい
ちょっと空とんでくる
そして誰も神奈子様に突っ込まないwww
とりあえず、神奈子様ドンマイb
でも一番アホなの作者、あんただb
覚りすぎだよ、あっきゅんww
その後、どうなるかは知らんが。
なんつー理論だw
『ガイ長』で発音しちゃった私はにとりんとポロロッカしてきます。
やはり八重結界さんは一味違うぜ。
>イルスタードドライブを決めるところだった→イルスタードダイブ
>経過を見て、また判断すから。→判断するから
ところで、
>人は大地、巫女は空。
巫女が人間扱いされてない!? いや、当然k(無題「空を飛ぶ不思議な巫女」
「あーきゅうーふらい!」はスペルカードにしてもいいレベルww
阿求とゆうかりんの微妙な距離感がたまりません。
GJ!
楽しませてもらいましたw
ゆうかりんツンデレ説を唱えても構いませんね!
しかし何だろう、この可愛い人達
それにしてもこのゆうかりんと阿求は本当に可愛すぎる。
「あーきゅうーふらい!」ってそれがやりたかっただけだろ!
ビックリ箱とか用意しちゃうゆうかりん可愛い。
八雲との頂上決戦が待ち受けているんだろうが。