伝えたい……伝えなければならない。早くあの人に伝えなければならない。
あの人の夢が、孤独と絶望に終わってしまう前に――。
あの人の愛が、悲しみと憎しみに変わってしまう前に――。
そして……私の憧れが、醜い嫉妬に墜ちてしまう前に。
そうなる前に、私はあの人に伝えなければならない。
――伝えなければ、いけなかったのに……。
私は歌が好きだ。歌こそ、私の生命そのものであると言っても良いくらいに。
生まれついての盲人である私が今日まで生きてこられたのも、それは勿論、裕福な商家の一人娘に
生まれ付いたからというのもあるのだけれど、精神的な面では、歌う喜びと出逢い、歌うことに支えられて
きたからであることは間違いない。
そうでなければ、私は心を閉ざし、この家から一歩も外に出ることなく、この生涯を終えていたことだろう。
幸いアポロン神は、その御姿を見ることが叶わない私に、光の代わりに歌の才能を分けてくださった。
私が歌い出すと、誰もが振り返り、その足を止めた。私が歌い終わると、誰もが拍手と喝采を送ってくれた……
一度調子に乗って、ライン河の岩陰に隠れて歌ってみた時には、私の歌に夢中になった水夫達の小舟を
転覆させてしまったこともあった。
ずぶ濡れの水夫達に散々怒られ、以降私は河に近づくことを固く禁じられてしまったのだけれど、それ以外は
概ね、私の歌は誰にでも受け入れて貰えた。
そんな私は幸せだったし、だから私が歌うのも、春の日差しのように暖かい喜びに満ち溢れた歌ばかりで、
それで誰かを幸せにすることが出来るのだと、私は信じて疑わなかった。
「全く酷い歌だな。とても聴いていられたものじゃない」
……だから、その男にそう言われた時には、私は怒ることも忘れ、ただ驚くばかりだった。
「何なのよ、あいつ……」
自室に戻って冷たい水を呷りながら、私は漸く怒ることを思い出していた。
いつものように往来で気持ち良く歌っていた私に、観客に混じっていた一人の男が難癖を付けてきたのだ。
自慢ではないが、歌を貶されたのはそれが生まれて初めての事だった。
ラインの歌姫と呼ばれ、最近では遠くの街からわざわざ私の歌を聴きに来てくれる人まで居るのだ。
そんな中にあって、その男は当然他の観客達の怒りを買い、石を投げられて退散して行った。
もう歌う気にもなれなかったし、私も早々に退散して、こうして自室で愚痴を溢していた次第である。
「……一体何者なのかしら。聞いたことのない声だったけれど。
ねぇ、あいつのこと知ってる?」
空になった硝子杯を返しながら私が言うと、彼女は私の手を握って応えてくれた――「知らない」そうだ。
彼女とは、其処に居る私の乳姉妹のことだ。私の乳母の娘であり、今では住み込みで私の世話をしてくれる
女中でもある。でも私にとっては、誰よりも信頼し、愛している妹だ。
彼女の喉は生まれ付き、声を発することが出来なかった。
盲目の姉と、口の訊けない妹。それでコミュニケーションが成り立つのかと疑問に思うかも知れないが、
これが案外何とかなるもので、今ではこのようにして立派に意思疎通を果たすことが出来る。
この子が居なければ、往来に出て歌うなんて、私には到底出来なかっただろう。そして何よりも、
この子は何時でも私の一番近くに居て、真っ先に私の歌を喜んでくれる、大切な家族なのだ。
「あいつ、また来るのかな……」
私が呟くと、彼女は不安そうに私に身を寄せて来た。その頭を撫でながら、私も不安を覚えていた。
不安と――自分でも理解出来ない、場違いな期待を……。
その男はライン河を往来する商船の船長だった。加えて驚くべき事に、伝説の黄金を探す、
冒険者でもあるのだそうだ。
ラインの黄金――この辺りでは有名な伝説だ。
水の妖精達が河底に隠したと言う黄金の伝説。その黄金を手にした者は、世界中の富を手に入れることが
出来るとさえ言われている。
しかし、その黄金を本気で探そうとする者は、あまり居ない。何故ならば、その黄金を手にすることが出来るのは、
この世の全ての愛を捨て去った者だけだとされているからだ。
そんな黄金を探そうとしている男のことだ。彼の過去に何があったのかは知る由もないが、きっと愛に絶望し、
憎んですらいるのだろう。どんな気紛れで彼が私の元に現れたのかは解らないが、もう二度と逢うことも
ないだろう。
その時、私は、そう思っていた――。
「この世に愛なんてない。そんなものは幻想だ。お前の歌も、くだらない子供騙しに過ぎない」
彼は私にそう言った。
「そんなことはないわ。皆が私の歌を聴きに来てくれる。そして、幸せそうな顔をして帰って行くもの」
彼の言葉に、私はそう応えた。
私の予想に反して、彼は幾度となく私の元に訪れた。
彼はいつも決まって私の歌を最後まで聴き、誰よりも多額のお捻りを投げ、そして最後には必ず歌を貶して
去って行くのだった。何時からか私達は、こんな風に語り合う間柄になっていた。
「それならば俺は、黄金を見付けて証明してやろう。お前の前に黄金を山と積み上げて、お前を嘲笑ってやる」
「いいわ。それなら私は私の歌で、貴方に愛を教えてあげる。私の歌で、貴方を黄金の呪いから解き放って
見せるわ」
そしてその日、私は彼とそんな賭をした。
もうお解りだろう――この時には、私は彼を愛していたのだ。
それは彼に歌を褒めて貰いたいという、幼稚な感情だったのかも知れない。それでも私は、この時生まれて
初めて、歌うこと以外の望みを得たのだ。
そんな私の手を、不安そうに握る最愛の妹。
大丈夫――きっと私はこの賭けに勝ってみせる。
もっと沢山練習して、もっと上手く歌えるようになる。そうすればきっと、私の歌は彼の心に届くだろう。きっと彼は、黄金を諦めてくれるに違いない。
遠ざかる彼の船を見詰めたまま、私は震える小さな手を握り返した。
――それから幾つかの季節が過ぎた。
私は必死になって歌の練習をした。
以前より多くの人達が私の歌を聴きに来てくれるようになったけれど、その中に彼の姿は無かった。
私は賭けに負けたのだ――。
何時しか私は歌が歌えなくなっていた。
幸せな歌しか知らない私は、歌うべき歌を見失ってしまったのだ。絶望し、病に冒され、生命そのものだった
歌をもなくしてしまった私の心と体は、次第に冷えていった。
私は死を予感した。
-結局彼は、黄金を手にすることが出来たのかしら?-
見る影もなく掠れた声で、私は問いかける。死の床に伏した私にしがみ付き、必死に私を励まそうとしている、
優しい私の妹に。
-それとも、何処か知らない場所で、別の誰かと一緒になったのかしら?-
冷たく乾いた彼の心を、私の知らない誰かが暖め、潤したのだろうか?
でもきっと、彼は黄金を見付けたのだろう。
私の歌すらも彼の心には届かなかったのだ。全ての愛を拒絶して、彼は呪われた黄金を手にしたのだろう。
ならば私はセイレーンになろう。セイレーンになって、山成す黄金を詰んでライン河を上って帰って来る彼の船を
沈めてしまおう。そうすれば、ラインの冷たい水底で、何時までも彼と一緒に居ることが出来る――。
窓の外を、星すら見えない漆黒の闇が塗り潰していた。その闇に吸い込まれるように、私の生涯は
幕を閉じた――。
ラインの水底、一筋の光さえ届かない暗黒の世界。その闇よりもなお昏く、いっそ鏡のような漆黒の壁。
一欠片の救いも無いその黒の壁に囲まれて、一人の少女が泣いていた。
膝を折り、まるで毒を呷って藻掻き苦しむかのように、自らの喉を掻き毟りながら、大粒の涙を流して泣き叫ぶ。
――それでも彼女の口からは、嗚咽すら漏れ出すことはない。
少女の喉は生まれ付き、声を発することが出来なかったから。
(貴女だったのね……私を呼んだのは――)
紫色の人影を前にして、その少女が顔を上げた。涙で真っ赤に腫れ上がったその瞳が、女の姿を映し出す。
(貴女は知っていたのね。あの男には、黄金を手にすることは出来なかったということを)
女のその言葉に怯えるように、少女が自分の両肩を抱き締める。
そう、あの哀れな男には、ついに黄金を手にすることは叶わなかった。光り輝く黄金を前にして、
しかしその男には、黄金に触れることが出来なかったのだ。
――彼の心の中にはもう、彼女の歌が在ったから。
彼の歌姫は、男との賭けに勝っていたのだ。
(貴女はそれを知っていたのね? そして貴女は、彼女にそれを伝えられなかった……いいえ、伝えなかった。
口が訊けなくとも、目が見えなくとも、伝える方法はあった筈なのに)
その言葉に少女は耳を塞ぎ、いやいやと頭を振り乱す。
姉の歌う歌が好きだった。
幸せそうに歌う姉に憧れていた。
溢れ出す気持ちを美しいメロディに乗せて、想い人に伝えることが出来る姉が羨ましかった
……それは、少女には決して叶うことのない願いだったから。
「―――――――――――――――!!」
声無き声で、少女は訴える。このような結末を、自分は望んでいたのではないのだと。
しかし、伝えるべき想いすら伝えられなかったその少女に、まして弁明する資格など与えられる筈もなく、
だからその少女の想いは、世界中の誰にも届くことはない。
――それでも少女は、床に爪を立てて訴え続ける。
(……それなら、そうやって鳴き続けなさい。
その想いを、何時か誰かに見付けて貰える日が訪れるまで――)
無音の慟哭が無明の闇に響き渡る。
そして、只一人として夢から覚めることのない宵闇の空に、一羽の雀が舞い上がった――。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「紫の桜は果てしなく長い時間をかけて、罪から人を解放するのでしょう。降りしきる桜の花、
これは罪人が多すぎると、桜が泣いているのです」
変な帽子を被った変な女が、気持ち良く歌っていた私の邪魔をした。
おまけに何だかお説教まで始まってしまったみたい……そんなこと一遍に言われたって、私に覚えきれる
訳ないじゃない。
「降りしきる桜の下で、鎮魂歌の一つでも歌えるようになるがいい!」
変な女は、やっぱり変なことを言う。
そうは言っても、私は頭の中に流れるこの素敵なメロディを囀るだけ。
何処で覚えた曲なのかはまるで思い出せないし、歌詞なんて物凄く適当。だって、やっぱり忘れてしまったから。
歌詞なんて適当で良いのだ。
私はこの素敵な曲を、誰かに聴いて貰いたいだけなのだ――。
ワーグナー『ニーベルンゲンの指輪』第四部・ラインの黄金―
及び、ローレライ―ドイツ・ライン河流域に伝わる伝承より
あの人の夢が、孤独と絶望に終わってしまう前に――。
あの人の愛が、悲しみと憎しみに変わってしまう前に――。
そして……私の憧れが、醜い嫉妬に墜ちてしまう前に。
そうなる前に、私はあの人に伝えなければならない。
――伝えなければ、いけなかったのに……。
私は歌が好きだ。歌こそ、私の生命そのものであると言っても良いくらいに。
生まれついての盲人である私が今日まで生きてこられたのも、それは勿論、裕福な商家の一人娘に
生まれ付いたからというのもあるのだけれど、精神的な面では、歌う喜びと出逢い、歌うことに支えられて
きたからであることは間違いない。
そうでなければ、私は心を閉ざし、この家から一歩も外に出ることなく、この生涯を終えていたことだろう。
幸いアポロン神は、その御姿を見ることが叶わない私に、光の代わりに歌の才能を分けてくださった。
私が歌い出すと、誰もが振り返り、その足を止めた。私が歌い終わると、誰もが拍手と喝采を送ってくれた……
一度調子に乗って、ライン河の岩陰に隠れて歌ってみた時には、私の歌に夢中になった水夫達の小舟を
転覆させてしまったこともあった。
ずぶ濡れの水夫達に散々怒られ、以降私は河に近づくことを固く禁じられてしまったのだけれど、それ以外は
概ね、私の歌は誰にでも受け入れて貰えた。
そんな私は幸せだったし、だから私が歌うのも、春の日差しのように暖かい喜びに満ち溢れた歌ばかりで、
それで誰かを幸せにすることが出来るのだと、私は信じて疑わなかった。
「全く酷い歌だな。とても聴いていられたものじゃない」
……だから、その男にそう言われた時には、私は怒ることも忘れ、ただ驚くばかりだった。
「何なのよ、あいつ……」
自室に戻って冷たい水を呷りながら、私は漸く怒ることを思い出していた。
いつものように往来で気持ち良く歌っていた私に、観客に混じっていた一人の男が難癖を付けてきたのだ。
自慢ではないが、歌を貶されたのはそれが生まれて初めての事だった。
ラインの歌姫と呼ばれ、最近では遠くの街からわざわざ私の歌を聴きに来てくれる人まで居るのだ。
そんな中にあって、その男は当然他の観客達の怒りを買い、石を投げられて退散して行った。
もう歌う気にもなれなかったし、私も早々に退散して、こうして自室で愚痴を溢していた次第である。
「……一体何者なのかしら。聞いたことのない声だったけれど。
ねぇ、あいつのこと知ってる?」
空になった硝子杯を返しながら私が言うと、彼女は私の手を握って応えてくれた――「知らない」そうだ。
彼女とは、其処に居る私の乳姉妹のことだ。私の乳母の娘であり、今では住み込みで私の世話をしてくれる
女中でもある。でも私にとっては、誰よりも信頼し、愛している妹だ。
彼女の喉は生まれ付き、声を発することが出来なかった。
盲目の姉と、口の訊けない妹。それでコミュニケーションが成り立つのかと疑問に思うかも知れないが、
これが案外何とかなるもので、今ではこのようにして立派に意思疎通を果たすことが出来る。
この子が居なければ、往来に出て歌うなんて、私には到底出来なかっただろう。そして何よりも、
この子は何時でも私の一番近くに居て、真っ先に私の歌を喜んでくれる、大切な家族なのだ。
「あいつ、また来るのかな……」
私が呟くと、彼女は不安そうに私に身を寄せて来た。その頭を撫でながら、私も不安を覚えていた。
不安と――自分でも理解出来ない、場違いな期待を……。
その男はライン河を往来する商船の船長だった。加えて驚くべき事に、伝説の黄金を探す、
冒険者でもあるのだそうだ。
ラインの黄金――この辺りでは有名な伝説だ。
水の妖精達が河底に隠したと言う黄金の伝説。その黄金を手にした者は、世界中の富を手に入れることが
出来るとさえ言われている。
しかし、その黄金を本気で探そうとする者は、あまり居ない。何故ならば、その黄金を手にすることが出来るのは、
この世の全ての愛を捨て去った者だけだとされているからだ。
そんな黄金を探そうとしている男のことだ。彼の過去に何があったのかは知る由もないが、きっと愛に絶望し、
憎んですらいるのだろう。どんな気紛れで彼が私の元に現れたのかは解らないが、もう二度と逢うことも
ないだろう。
その時、私は、そう思っていた――。
「この世に愛なんてない。そんなものは幻想だ。お前の歌も、くだらない子供騙しに過ぎない」
彼は私にそう言った。
「そんなことはないわ。皆が私の歌を聴きに来てくれる。そして、幸せそうな顔をして帰って行くもの」
彼の言葉に、私はそう応えた。
私の予想に反して、彼は幾度となく私の元に訪れた。
彼はいつも決まって私の歌を最後まで聴き、誰よりも多額のお捻りを投げ、そして最後には必ず歌を貶して
去って行くのだった。何時からか私達は、こんな風に語り合う間柄になっていた。
「それならば俺は、黄金を見付けて証明してやろう。お前の前に黄金を山と積み上げて、お前を嘲笑ってやる」
「いいわ。それなら私は私の歌で、貴方に愛を教えてあげる。私の歌で、貴方を黄金の呪いから解き放って
見せるわ」
そしてその日、私は彼とそんな賭をした。
もうお解りだろう――この時には、私は彼を愛していたのだ。
それは彼に歌を褒めて貰いたいという、幼稚な感情だったのかも知れない。それでも私は、この時生まれて
初めて、歌うこと以外の望みを得たのだ。
そんな私の手を、不安そうに握る最愛の妹。
大丈夫――きっと私はこの賭けに勝ってみせる。
もっと沢山練習して、もっと上手く歌えるようになる。そうすればきっと、私の歌は彼の心に届くだろう。きっと彼は、黄金を諦めてくれるに違いない。
遠ざかる彼の船を見詰めたまま、私は震える小さな手を握り返した。
――それから幾つかの季節が過ぎた。
私は必死になって歌の練習をした。
以前より多くの人達が私の歌を聴きに来てくれるようになったけれど、その中に彼の姿は無かった。
私は賭けに負けたのだ――。
何時しか私は歌が歌えなくなっていた。
幸せな歌しか知らない私は、歌うべき歌を見失ってしまったのだ。絶望し、病に冒され、生命そのものだった
歌をもなくしてしまった私の心と体は、次第に冷えていった。
私は死を予感した。
-結局彼は、黄金を手にすることが出来たのかしら?-
見る影もなく掠れた声で、私は問いかける。死の床に伏した私にしがみ付き、必死に私を励まそうとしている、
優しい私の妹に。
-それとも、何処か知らない場所で、別の誰かと一緒になったのかしら?-
冷たく乾いた彼の心を、私の知らない誰かが暖め、潤したのだろうか?
でもきっと、彼は黄金を見付けたのだろう。
私の歌すらも彼の心には届かなかったのだ。全ての愛を拒絶して、彼は呪われた黄金を手にしたのだろう。
ならば私はセイレーンになろう。セイレーンになって、山成す黄金を詰んでライン河を上って帰って来る彼の船を
沈めてしまおう。そうすれば、ラインの冷たい水底で、何時までも彼と一緒に居ることが出来る――。
窓の外を、星すら見えない漆黒の闇が塗り潰していた。その闇に吸い込まれるように、私の生涯は
幕を閉じた――。
ラインの水底、一筋の光さえ届かない暗黒の世界。その闇よりもなお昏く、いっそ鏡のような漆黒の壁。
一欠片の救いも無いその黒の壁に囲まれて、一人の少女が泣いていた。
膝を折り、まるで毒を呷って藻掻き苦しむかのように、自らの喉を掻き毟りながら、大粒の涙を流して泣き叫ぶ。
――それでも彼女の口からは、嗚咽すら漏れ出すことはない。
少女の喉は生まれ付き、声を発することが出来なかったから。
(貴女だったのね……私を呼んだのは――)
紫色の人影を前にして、その少女が顔を上げた。涙で真っ赤に腫れ上がったその瞳が、女の姿を映し出す。
(貴女は知っていたのね。あの男には、黄金を手にすることは出来なかったということを)
女のその言葉に怯えるように、少女が自分の両肩を抱き締める。
そう、あの哀れな男には、ついに黄金を手にすることは叶わなかった。光り輝く黄金を前にして、
しかしその男には、黄金に触れることが出来なかったのだ。
――彼の心の中にはもう、彼女の歌が在ったから。
彼の歌姫は、男との賭けに勝っていたのだ。
(貴女はそれを知っていたのね? そして貴女は、彼女にそれを伝えられなかった……いいえ、伝えなかった。
口が訊けなくとも、目が見えなくとも、伝える方法はあった筈なのに)
その言葉に少女は耳を塞ぎ、いやいやと頭を振り乱す。
姉の歌う歌が好きだった。
幸せそうに歌う姉に憧れていた。
溢れ出す気持ちを美しいメロディに乗せて、想い人に伝えることが出来る姉が羨ましかった
……それは、少女には決して叶うことのない願いだったから。
「―――――――――――――――!!」
声無き声で、少女は訴える。このような結末を、自分は望んでいたのではないのだと。
しかし、伝えるべき想いすら伝えられなかったその少女に、まして弁明する資格など与えられる筈もなく、
だからその少女の想いは、世界中の誰にも届くことはない。
――それでも少女は、床に爪を立てて訴え続ける。
(……それなら、そうやって鳴き続けなさい。
その想いを、何時か誰かに見付けて貰える日が訪れるまで――)
無音の慟哭が無明の闇に響き渡る。
そして、只一人として夢から覚めることのない宵闇の空に、一羽の雀が舞い上がった――。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「紫の桜は果てしなく長い時間をかけて、罪から人を解放するのでしょう。降りしきる桜の花、
これは罪人が多すぎると、桜が泣いているのです」
変な帽子を被った変な女が、気持ち良く歌っていた私の邪魔をした。
おまけに何だかお説教まで始まってしまったみたい……そんなこと一遍に言われたって、私に覚えきれる
訳ないじゃない。
「降りしきる桜の下で、鎮魂歌の一つでも歌えるようになるがいい!」
変な女は、やっぱり変なことを言う。
そうは言っても、私は頭の中に流れるこの素敵なメロディを囀るだけ。
何処で覚えた曲なのかはまるで思い出せないし、歌詞なんて物凄く適当。だって、やっぱり忘れてしまったから。
歌詞なんて適当で良いのだ。
私はこの素敵な曲を、誰かに聴いて貰いたいだけなのだ――。
ワーグナー『ニーベルンゲンの指輪』第四部・ラインの黄金―
及び、ローレライ―ドイツ・ライン河流域に伝わる伝承より