Coolier - 新生・東方創想話

黄昏の郷の黄昏 陰

2008/11/02 22:23:47
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 四 不惑因果


 1


 夢はまだ続いていた。
 例大祭が終わってからも連日連夜、幻想郷中の人妖が外の世界の夢を体験している。
 もっぱらそれは前世の夢ではないかとの評判だった。
 輪廻転生の仕組みについて知識の浅いものなら、そう思っても仕方ないだろう。それらの夢は、余りにも現実感がありすぎたから。
 しかし、幻想郷の閻魔である四季映姫は違う。彼女は輪廻転生については郷の中で一番詳しい。
 映姫も巷で噂になっている共有夢を体験していた。
 夢の内容を検分するに、現代の、外の世界の出来事を映しているに相違ないと思う。
 しかし魂は唯一無二のものだから、同時に二つの世界に存在するなどということはあり得ない。
 ということは、夢の世界は現実の体験ではないと言うことになる。
 映姫は数百年の間幻想郷で閻魔を務めてきた。少し前の外の世界でジョシコウセイなる身分を務めていたなどということは有り得ないのだ。
 となれば、結論は明確である。
 どれほど不思議であろうと、理屈が不明であろうと、あれは単なる夢にしかすぎない。
 たとえ一か月、一年続こうとも、まして日毎に進む夢でも、夢は夢でしかないはずだ。
 それでも余りにも夢の内容が生々しかったので、彼女もやはり囚われていた。
 閻魔たる者がそのような雑念に囚われてしまうのは、本来あってはいけないことなのだが。
 今、映姫の頭の中は彼女のことで一杯だった。
 彼女、小野塚小町。夢の中では、映姫が所属するバレー部に入部してきた困った新入生だった。
 彼女は夢の中でスケバン小町という仇名で呼ばれていた。
 不良や暴走族がほとんど死滅した現代に、そんな仇名で呼ばれているのはある種のあてつけでもあるのだろう。
 小町は男子とも殴り合いのけんかを演じてしまうようなお転婆だった。
 遅刻欠席サボり早引きはザラだし、乱暴で校則もお構いなしで破る。小町は学校の問題児だった。
 それでも映姫はこの小町のことを信用していた。現代の学校のような雁字搦めの管理教育の中では、自由奔放に振舞う彼女の美点は見えにくい。だが映姫はちゃんと気付いていた。小町は誰よりもまっすぐで誠実で、心根が優しい。だから映姫は小町のことが好きだった。後輩というよりは、親友と言った方が近い間柄だった。
 小町が入学し、同じバレー部の後輩になってすぐに仲良くなった。バレー部自体部員が少なく、アットホームな雰囲気だったので距離が縮まるのは早かった。やがて何をするにも彼女と一緒にするようになった。街に買い物に行ったり、部活帰りの電車で雑談したり。
 時には小町のせいで学校をサボらされたりしたこともある。
 そのまま電車で都会まで出かけ、小町の知り合いの家で私服を借りて夜遊びに出かける、という夢を見た。
 とても自由な世界だ。堅苦しい映姫は夢の内容を思い出すだけで顔を顰めてしまう。

 その日も映姫は夢を見ていた。
 朝、登校すると自分の下駄箱に手紙が入っていた。
 これはまさか。夢の中でも堅い性格をしており、委員長なんてやってた映姫は大いにうろたえる。
 すぐにトイレに入って鍵をしめ、どきどきしながら便箋を開いて内容を確認する。簡潔な文面だった。
 ずっと気になってました。今日の放課後教室で待ってます。
 映姫は昼休みの時間に小町を探した。校内を回る。
 相談するとすれば小町だと決めていたらしい。
 校舎中回って、一番最後に行った体育館の裏で立っている小町を見つけて話しかける。

「こ、小町、ちょっと相談があるの」
「ほえっ? 四季先輩が私に相談ですか? 珍しいですね」
「じつは恋文らしきものをいただいてしまって」
「恋文って、ラブレターですか!?」
「それでどうすればいいのかと」
「どうすればいいのかって……相手のことは知っているんですか?」
「し、知らない」
「とにかく会って話を聞いてみて、それから決めたらどうです?」
「そ、そう。あの」

 手紙を握りながら、もじもじする映姫。

「うん? どうしたんですか?」
「小町は私に恋人ができても平気なの?」
「えっ、だってそりゃ。尊敬する先輩が幸せになってくれたら、そりゃ嬉しいじゃないですか」
「そう、そうだよね……」
「? どうしたんですか、四季先輩」

 小町の言葉に何故だかひどく落ち込んだ気分になった。
 そんなところで目が醒めた。
 気がついたのは自分の執務室だった。
 居眠りするなんて十年来のことだ。
 途端に映姫は顔を真っ赤にする。
 夢の中で自分は、小町に対して説明のつかない感情を抱いていたようだ。
 しばらく両手で額を抱えてうつむく。何も手につかない。

「何か考え事でも?」

 背後から声がした。ふっと我に返る。

「うわっ!?」

 振り向いた先に、見なれた姿。白い帽子と道士服に、日傘。
 すきまを開いて八雲紫が部屋の中に入ってきていた。

「いきなり後ろに立つとはどういう了見ですかっ!」
「のぞき見をするつもりはなかったんです。火急の用がありまして」

 そう言う顔はいつになく真剣な面持ちをしている。
 八雲紫と言えば、人を手玉に取るのが好きで、いつもとりすました表情をしているのに。

「火急? どうしたのですか? 何か事件でも起こったのですか? そもそもあなたが自らこちら側へいらっしゃるなんて珍しい」
「事件はこれから起こるかもしれません。それがどうも大変なことになりそうで」
「大変なことってどれくらい大変なんですか?」
「うーん、漠然としているので何とも言えないのですが」

 急に人の部屋に割り込んできて、何か大事が起こると示唆しておきながら、漠然としているとはどういうことだろう。曖昧すぎて余計に気になる。

「とにかく水に気をつけていただけますか?」
「水?」
「災厄が始まるとすればおそらくは水辺から……そんな気がするんです」
「気がするってどういうことなんですか?」
「それが、私にもよくわからなくて」
「水、ということは洪水でも起こると?」
「あるいはそうかも」
「三途の川が洪水になることなんて有り得ませんよ? あれは概念としての川であって、本当の水ではないのですから。そんなことは幻想郷の創始者の一人であるあなたなら、良くご存知のはずでしょう?」
「本来ならそうなんですけど、今回は勝手が違うというか、いつもとは事情が違うというか」
「何とも歯切れの悪い。あなたにしては要領を得ないですね。災害と言いますけど、それでは何に対して備えればいいかわかりませんよ? 三途の川に堤防でも作れというのですか?」
「そうではないのですが……たぶんそんなことをしても無駄だと思うし……とにかく気を付けてください」
 
 結局よく分からないまま紫はすきまの中に引っ込んでいった。
 いったいなんだったのだろう。いつにない、落ち込んだ顔をしていたように見えた。
 まるで幽鬼のようだった。
 全く常の彼女とは似ても似つかない。映姫は不思議に思う。
 八雲紫が相談を持ちかけてくること自体珍しいし、不気味だ。
 幻想郷設立以来、色々な事件が起こってきたが、あれほど自身を見失っている紫を見るのは初めてだった。
 川の様子、見に行ってみるか。
 気になった映姫は午前中の仕事を早目に切り上げ、三途の川に出張することにした。

 彼岸に降り立った映姫の目前に、浩瀚とした三途の川の光景が広がっている。
 見渡してみたが、特に異変は見当たらない。
 何だ、何も変わっていないじゃないか。洪水が起こるようなことを言っていたが、水嵩もいつものままだ。
 川べりをふわふわと浮遊して進んでいくと、見覚えのある船がぷかぷかと浮いているのを見つけた。
 持ち主の姿は見当たらない。
 船の上がのぞける場所まで行くと、鎌を横に敷きながら寝そべっているサボタージュの泰山北斗の姿があった。
 能天気な鼻歌が聞こえてくる。船の上で寝ころびながらサボっているようだ。
 映姫が船のすぐ傍まで近づいても、全くこちらに気づく様子がない。
 暖かい陽気だったので、そのまま昼寝するつもりだったようだ。剛に入ったサボりっぷりである。
 映姫はうろんな目でその顔を凝視した。
 こいつ、夢の中でも幻想郷でも私を悩ませやがって。

「ふんふーん♪……ん?」

 小町が薄眼を開けて、すぐに顔をそらす。
 たらーと言う擬音が聞こえてきそうな表情をして黙り込む。
 正面に映姫が立っており、暗い笑顔でほほ笑んでいる。仁王立ち。すぐに手が出る距離。
 小町は最初は見て見ぬ振りをしようと思ったが、どう考えてもごまかせないと悟ったらしい。
 すぐにこびへつらうような笑顔を作った。

「えへへ、いい天気ですねー……」
「天罰覿面!」
「いだぁっ!」

 一閃。びしいという綺麗な音が川岸に響いた。
 音が収まった後、小町は頭をさすっている。

「もう、これ以上罪を犯すと百たたきの刑ではすみませんよ?」
「そう言う映姫様だって、夢の中では私と一緒に学校サボったじゃないですか」
「あ、あれは小町がそそのかすから!」

 思わぬことを指摘されて、映姫ははっとなり悔悟棒を口に当てて驚く。

「あ、ああー」

 それは夢を見た者しか知らないはずの内容だ。

「やっぱり小町も同じ夢を見ていたんですね……」

 映姫が頬を赤らめながら言うと、小町はニンマリした。

「夢の中の映姫様は可愛かったなー、やっぱり外の世界でもミニスカートなんですね?」
「えい!」
「いたい、なんで叩くんですか?」
「知りません」
「もしかして恥ずかしいとか?」
「えい!」
「いたいっ! あっ、そういえば結局映姫様はあのラブレターの相手をどうしたんでしょうね」
「なんで小町がそんなこと気にするのですか?」
「そりゃあやっぱり先輩に彼氏ができるとなると気になるじゃないですか。それに……どうしようかな……これは……」

 小町が急に思案げな顔をし出したので、映姫ははてと首を傾げる。

「まあ夢の中の話ですから言っちゃいますけど、実は私、寂しかったんですよ」
「え? 寂しい? 小町が? どうして?」
「だって、せっかく夢の中では映姫様と一緒に遊びに行ったりできるのに、彼氏ができちゃったらそっちに集中しちゃって、一緒に遊んでくれなくなるじゃないですか」

 存外に素直な気持ちを吐露されて、映姫は頬を赤らめた。

「ふーん、小町は私と一緒に遊びたかったのですね」
「そりゃあ、夢の中では親友っていう設定ですからね」

 そう言って小町は素知らぬふりをする。彼女も照れているのかもしれない。
 まあ、悪い気はしない。

「ところで、小町。またさぼってたんですね」
「さ、さぼってませんて」

 映姫はむーと険しい表情を作って睨む。
 こやつ、言い訳をしおって。素直に謝ればさっきの一発で許してあげようと思ったのに。
 これはもうお説教しておかないと気が済まない。

「寝てたじゃないですか」
「今日は違うんですよ、本当に霊の数が少なかったんです」

 霊が少ない?
 意外なことを言われて、映姫は周囲を見渡してみる。
 確かに小町の言うとおりだ。
 三途の川の周りには、いつも霊が無数に漂っているはずだが、今はほとんど見かけない。

「また夢見れるかと思ったんですけどねー」

 後ろで小町がぼやいたので、また映姫はジト目でにらむ。

「何言ってるんですか。いくら仕事が少ないからと言って居眠りなんて言語道断です」
「昼休みなんだからいいじゃないですか」
「どうせ朝からずっとさぼってたんでしょ。知らないとでも思ってるんですか?」
「きついなあ……あーあー、夢の中が恋しいなあ。こっちの映姫様ももうちょっと可愛くなってくれたらなあ」
「何虫のいいこと言ってるんですか。知りません!」

 映姫はぷんすか怒ってそっぽを向く。サボマイスター道を一意専心つらぬく不良死神(こまち)なんて放っておいて、異変の調査をしなければ。
 しばらく川べりを歩く。
 確かに常に比べると霊の数が圧倒的に少ない。やはりこれはちょっとした異変だ。
 川に何かあるのだろうか? 気になってあちらこちらを見つめる。うすく靄がかかり先の見通せない川面、白い石が敷き詰められた万乗の河原、透き通った水。いつもと何ら変化がない。違うのは、普段なら辺りに漂って川原の不気味さをこれでもか演出してくれている霊がほとんど見当たらない事だけ。
 きょろきょろと辺りを探る。振り向くと小町が視界に入った。川を眺めながら草を手に持って吹いている。
 さすがにこれだけ霊が少ないと、小町も手持ちぶたさだろう。
 それでもこっちを見てにこにこしている。
 手元で何かごそごそとしていると思ったら、草船なんか作ってた。

「わびぬれば~身をうき草の根をたえて~さそふ水あらばいなむとぞ思ふ~、なんてー」
 
 そう詠みながら小町は草船を川に流した。
 それは平安の歌人、小野小町が詠んだ歌だった。
 あなたが正直に気持ちを言ってくれないから、私はもう憂いつらい身です。そのうち辛さに耐えかねて、根の無い浮草がどちらへでも水の行く方に流れて行くように、誰でも誘ってくれた人の方に流れていっちゃいますよ、という意味。豆知識だが憂きと浮き草が掛け言葉になっているらしい。
 三途の川の水に掛けたつもりなのだろう。もっともこの川では浮き草なんて滅多に見かけないが。

「うまいこと言ったつもりですか?」

 ジト目で小町をにらむ映姫。ちょっと風流だなんて思ってしまったが、良く考えたらまたサボって遊んでるだけじゃないか。
 全くこいつは本当に仕事をするつもりがないんだと映姫は眉を顰める。

「てへへ」
「てへへ、じゃない。大体それは恋歌じゃないですか」
「あら、そういうのはなしですか? 女同士、主従の恋ってやつ」
「聞いたことないです」
「巷ではそういうのも流行っているらしいですよ」
「あなた、適当言ってますね。えい」

 小生意気に上司をからかっているようだったのでむっとなり、小町を仕事に戻すためにおしおきもしなきゃいけないと思い、映姫は小町の腕を棒で叩いた。

「あいた!」

 悔悟棒で叩かれて、小町は思わず鎌を川の中に落としてしまった。
 さっきから溜まっていた気恥ずかしさもあってか、思わず力が入ってしまった。
 
「あ、あんなところに」
 
 鎌は予想外の勢いがついて、船の上から飛んで川の中にどぼんと落ちた。
 小町は服が濡れるのも躊躇わず、川の中に入って鎌を取りに行こうとする。
 ばちゃばちゃと水をかきわけて進んでいく。
 ちょっと悪かったか。ううん、でもまあ小町は実質さぼっていたのだし、いい罰になる。眠そうだったから、川の水で顔を洗えばちょうど良いだろう。映姫は自己正当化気味にそう考え、小町は放っておいて、三途の川の調査を続けることにした。
 やはり八雲紫の様子が気になる。あんな八雲紫はついぞ見たことがない。
 それに夢で見た世界の話では、紫も出てきていたのに、紫は夢の話をしなかった。
 どうしても不安が募る。何か起こるのではないかと気になってしょうがない。
 霊も少ないのが気になるし、川に何か起こっているのは確かなのだろう。
 そこまで考えた時、突然背後でばちゃん、という水音がした。
 鎌を取りに行った小町の方から聞こえてきた。

「小町?」

 すぐに後ろを振り返ってみる。
 首を傾げる。音の聞こえてきた川の真ん中には誰もいない。
 視線を回して、周囲を探る。
 先ほどまで一緒に話していた部下の姿がどこにもない。
 ぐるぐると視線を巡らせる。いない。川の中……潜っているのだろうか? 川底の石にでも躓いて、すっ転んで前のめりに倒れてしまったのかも。
 三途の川の見慣れた水面を注視して小町の姿を探す。
 小町は見当たらないが、代りに何か棒のようなものを見つける。
 対岸の見えない三途の川の、彼岸側から少し離れた水面に小町の持っていた鎌の柄らしきものが浮いていた。
 映姫は近づいてそれを見てみる。
 ぞわっ、と悪寒が走った。余り体験したことの無い感覚だ。
 拍子をつけて、鎌の柄が、がくんと水面の下に沈んだ。
 そこからもうもうと白い煙が湧いてきている。

「こ、小町?」

 口がうまく動かせない。
 声がうわずる。鼓動が高まる。
 鎌の柄からしゅうしゅうと煙が噴き出して、やがて、それは、霞が晴れるように唐突に途絶えた。
 川の異変。まさかとは思いつつも、探していたそれ。
 普段の川とは明らかな差異があることを、映姫は遂に見つけた。
 今まで鎌があった場所を見れば、そこの水底だけが色が違っていて、赤色のような橙色のような不思議な色になっていた。
 いつの間にこんな色に変っていたのか。先程上空から川面を見たときは、いつもと同じように白みがかった水色をしていたはずだ。
 映姫は水面をなめるように見て、良く知っているはずのあの少女の姿を探した。
 幻想郷でも、現実じみた夢の中でも常に一緒だった、あの少女。
 自分の傍から居なくなることなどなかった……湧き上がる嫌な想像を、必死で否定する。
 馬鹿な、そんなはずはない。
 久しく感じた事の無い、胸の奥を締め付けられるような感覚。鼓動が早くなる。
 水……災害……八雲紫が言っていたのはもしかして。
 身震いする。ああ、思い出した。これは恐怖という感情だ。
 喉の奥が焼け付くような感覚と肌を覆った寒気に、一瞬の間目の前が真っ白になり、映姫は我を忘れていた。
 だから、まさかその水そのものに原因があろうとは露も思わず、自分のすぐ足もとまで色の着いた範囲が迫ってきていることに気付かなかったのだ。
 そして、気付いたときにはすでに遅かった。

「あ……?」

 腰まで川の水につかりながら、手をあげて見てみる。
 白い靄が目の前を覆う。その先にある自分の手は半分透き通っていた。
 映姫の体中から、もくもくと煙が吹きあがってきている。
 時間と共に目に見えて手の透明度が上がっている。
 幻想郷の閻魔はそれを見て呆けたように目と口を見開く。

「小町……幻想郷を、異変、巫女に」

 もがく。岸に、早く、上がらないと。

「こ………ゆ…か……」

 閻魔の杓がぽちゃんと水の中に落ちた。
 川底につく前に杓は溶けて消え、後には何も残らなかった。




 2


 長月の終わり頃のことだった。はちきれんばかりだった三途の川の水嵩が突如溢れた。
 小高く盛り上がった自然の堤を越え、川の此岸側に流れ込んだ水は、濁流となって三途の川に接する集落を一つ丸ごと飲み込んだ。
 目に見える形にはそれは単なる水害であった。幻想郷にとっては久しい洪水だ。
 だがそれは、見かけ以上に奇妙な被害をもたらしていたのだ。
 最初に報告を聞いたとき、里を治める立場にある上白沢慧音は眉をひそめた。

「消えた?」
「そうです。跡形もなく全ての住人が消えてしまったのです」

 そう報告しに来たのは稗田阿求だった。

「詳しく聞かせてくれないか?」
「目撃者の言によれば集落に流れ込んだ水に触れた時点で、あちこちから煙が湧いたとか。そして一瞬のうちに住人達の体が消えてしまったというんです」
「水に触れると消える?」
「そのあたりの詳しいところはまだ分かっていないみたいです。正確に分かるのは、急に水嵩が増え出して三途の川があぶれたとしか」
「徳の低い霊なら三途の川の水につかっていると、消えることがあると聞くが。それでも一瞬で消えたというのはおかしいな。それで、洪水は止められそうなのか?」
「私も人づてに聞いているので詳しいことは解りません。そのことについて話していた人も、ほうぼうの体で逃げ出して来たそうで。大分錯乱しているようでした。……川の周辺には人間だけでなく妖怪も多く住んでいますし、上流には妖怪の山もありますから、妖怪達が何か対策を立てないはずはないのですが」
「中有の道にも人間の街があるからな。あそこの里長達はどうするつもりなんだろう。どれほどの規模の洪水なのかも気になる」
「聞いた話によれば、鉄砲水のように勢いがあるわけではないので、すぐに里まで流れ込むようなものではないそうです」
「よし、私が見に行こう」

 三途の川から水が溢れ出した。
 その水に障ると、人々は消えてしまうという。奇異な話である。
 すぐさま慧音は空を飛んで、被害のあった一帯へ向かった。
 空を飛んでいけば、人間の里から三途の川周辺の地帯まではそれほどの距離があるわけではない。すぐにそれが見えた。
 小高い丘に降り立って、そこからかつて集落があった場所を眺める。
 生唾を飲む。目に入って来たものを言い表す言葉は一言。異様、だった。
 慧音の覚えている景色とはまるで違う。
 集落のあった場所には、ずっと水面が広がっているだけだった。それも、普通の水ではない。
 紅い水。これではまるで……。
 その水の切れ目を探そうと水平線の向うを見るが、先は霧が深くてとても見えなかった。
 三途の川が溢れた、と言うよりも、川そのものの幅が広がったと言った方が正確かもしれない。
 しかしそれにしても、紅い水と言うのは気味が悪かった。
 そしてもう一つ、目に見えておかしな部分がある。
 水没したといっても、周囲の山々と見比べる限りそれほど水面自体の嵩が高いわけではない。
 この程度の高さなら、本来なら集落にある背の高い建物は顔を出していてもよいはずだ。
 それがなく、ただ平坦な水面が広がっている。まるで建物すらも水に溶けてしまったかのように。

「けいね~」

 遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
 見上げると、空に見覚えのある赤いもんぺが漂っている。

「妹紅!」
「ひどい有様だね」

 妹紅が空から降りて、慧音の立っている丘に降り立った。

「ああ、こんなものは見たことが無い。これじゃあまるで」

 血の海みたいじゃないか。さすがに不吉な言葉だったので、慧音は発言を呑み込んだ。

「……高度を考えると、里まで水がやってくるのには大分時間がかかるんじゃないかな。それまでに何か対策を考えないとね」
「この霧のおかげで被害が増加しなければいいんだけど……」
「慧音、あれ、見える?」
「山の尾根のこと? あれがどうしたの?」

 妹紅が真剣な表情をして手をかざす。
 集落の右手に緑の尾根が続いている。妹紅はその一角を指差していた。

「あの山脈、確かもっと先まで、今水がある所のずっと奥まで続いていた。今度は左を見て。段々畑の途中まで水面が来ているだろう?」
「ああ。それがどうしたんだ?」
「ちょっと角度を変えてみると判る。水面の位置は、集落よりだいぶ低いんだ。横から見ると、畑が途中で寸断されて水際の線が一直線になっている。高度が関係なくなっているんだよ」
「あっ!?」

 確かに妹紅の言うとおりだった。慧音が少し斜めの位置から段々畑の向う側を見ると、畑の途中で削り取られたような崖になっていた。
 建物も山も無くなった。水面より高いはずの畑も切り取られて、地肌がむき出しになっている。
 まるで水に溶けてしまったかのようだ、と再度慧音は考え、そして戦慄する。

「ただの液体じゃないね。もしかしたら、何らかの術かもしれない」

 高度が関係ないということは、高台に避難しても無駄と言うことになるのだろうか。
 しかし幻想郷には空も飛べる連中もいるし、水が引くまで避難すれば、と慧音は頭をひねくって考える。

「とにかく何か対策を考えないと」
「対策?」

 異なことを、と一瞬思った。自分もさっきまで、対策を考えなければと思っていたのに。
 しかし、実際に目で見て分かった。これは普通の洪水ではない。全く異質な何かだ。


 3


 異変、それも前代未聞の異変だ。
 既に犠牲者が多数出てしまっている異変というのは比較的珍しい。
 幻想郷はここ数年の間に数多くの異変を経験している。
 霧が出たり、雪が降ったり、局地的な地震まであったが、今のところ死者は出ていなかった。
 といっても水に触れると消えてしまうと言うのが死にあたるのかどうかが理解し損ねた。
 ともかくも原因を探って何らかの対策を立てなければ。郷の心ある幾人かはそう考えた。
 神社には異変の噂を聞きつけて、既に数人の人妖が集まっていた。
 冥界や守矢神社や妖怪の山の面々はいないが、ほぼ幻想郷の主要メンバーがそろっている。
 一同は一様に沈んでいた。
 無理もない。 
 いつもはひょうひょうとしていて得体のしれない八雲紫が、目に見えて落ち込んで見える。
 うつむいて、蒼白な顔をし、目が泳いでいる。
 境内にたどり着いた者たちは皆紫の様子を見て口をつぐんだ。
 紫がこうまで目に見えてショックを受けているという事態の方がよっぽど異変に思えるのだ。

「なあ、紫。お前は何か知っているんだろ? へこんでばかりいないで状況を説明してくれよ」

 魔理沙が沈黙を破って紫に聞いた。

「幻想郷の周囲を霧が取り囲んでいるようです。水が蒸発してできたものだと言われていますが」

 妖夢が現状をまとめて話した。
 その右隣りには咲夜とレミリアがいる。

「あの水は一体何なんだろう」

 紫が返事をしないので、魔理沙も話に乗ることにした。

「彼岸は大丈夫なのでしょうか。まさか是非曲庁の方々が洪水に呑み込まれるなんてことはないでしょうけど」

 三途の川があふれて、此岸側に水が流れ込んでいると言うことは、同じ高さの彼岸にも同様に水が溢れているはずだ。
 今のところ水について解っている性質は、触れると人間が消えるということと、色が赤いという程度。
 妖怪も消えるらしい。是非曲庁の者はある種神に近いが、水に影響を受けるかどうかはわからない。
 庁には伝説級の力を持った閻魔がいる。何も対策を立てないで手をこまねいているということはないと思うが。

「彼岸? 彼岸なんてもう存在しないわ」

 妖夢の発言があってしばらくして、紫が投げ捨てるように言った。どこか投げ遣りな、全てをあきらめたような態度。

「おそらくは、私達の知っている、四季映姫も小野塚小町も」
「……どういう意味なんだ」

 魔理沙が顔を顰めて言葉をひねりだす。
 ヤマ・ザナドゥ四季映姫、死神・小野塚小町。二人とも殺しても死にそうにないやつだ。

「三途の川があぶれた。あの川の水には霊を消す力がある。だから、幻想郷は消えるの」
「霊を消すって……霊を消す程度でどうして幻想郷が消えるんだ?」

 質問の意味をとりかねて魔理沙が首をかしげると、妖夢が前に進み、拝殿のすぐ前にいる紫を見て言う。

「水を食い止めればよいのではないですか? 堤防なりなんなり作って。どこからか流れてきているんだったら」
「そういうことじゃ、ないのよ」
「どういうことなんだよ」

 紫の物言いは不可思議すぎる。魔理沙の声も思わず荒くなる。

「幻想郷は幻想になったものが集った世界。古の御伽噺を集めた、まほろばの幽夢よ。されど夢はいつかは醒めるもの。その時が来たの。冷たい三途の水に浸されて、夢の国の住人達は現実に目覚める。夢の中の出演者にしか過ぎないあなたたちには、公演のプログラムを変更することはできない」
「……何を言ってるんだ?」

 紫は返答せず、その場でうつむいた。皆がもっと詳しい説明を待ち望んでいるのに、黙ってしまって答えてくれない。
 紫はうつむいて、うつむいて、世界が終わりを迎えると思えるほどの時間が流れて、そしてやがて顔をあげて、笑顔を作った。

「そんなに気にする必要はないわ。だって、幻想郷は夢の世界に過ぎないんだから」

 あっけらかんと言う。
 聞いていた魔理沙は、支離滅裂じゃないかと思う。

「今までみんなありがとう。大丈夫、夢が醒めた後には、現実の世界が待っている。あなたたちがこれまで夢で見ていた世界が、本当の現実の世界なの。幻想郷はもうこれが最後だから、あなたたちは、最後の時をどう過ごすかを考えた方がよいかもしれない」
「な」

 何を言っているのかと魔理沙が抗議をしようと思った時、皆が見上げる姿勢になった。
 紫が宙に浮いたのだ。そのまま、紫はすきまを空中に開いて、そしてそこに入ってしまった。

「あ、おい!」
「ちょっと!?」

 呼びすがる声に答えずにすきまは閉じてしまい、紫は逃げるように異空に消えた。
 呆気に取られる。後に残された人妖達は一様に沈思していた。
 皆紫の不可思議な発言内容を解釈しようとしているのだ。

「霊夢……紫の言ってることは」
「紫より幻想郷に詳しいやつはいないわ」
「霊夢? まさか本気で思ってるのか?」

 慧音、狼狽を隠せない表情で永琳、そして輝夜を見た。
 この半獣は郷の歴史を収集している。幻想郷が夢だと言われたら、それは自分のやってきたことを否定されたことに等しい。永琳と輝夜を順番に見たのは、彼女らが誰よりも長生きしているからだ。慧音のすがるような目つきに答えるかのように、永琳が一同を見渡して発言する。

「博麗大結界の作用により外の世界で幻想になったものを取り込んだ世界。これが幻想郷と言われているわ」
「ああ」

 永琳の弁に対して慧音が相槌を打つ。それは先ほど紫も言っていた内容だ。

「その定義は間違っていないと思うわ。でも、紫の言ったことはたぶんこういうことだと思う。私達は本当は現実の世界から幻想郷と言う共有夢を見ているだけなのではないか」

 言われても皆はきょとんとしていた。
 そのうちレミリアが訝しげな視線を向けながら発言した。

「……幻想郷の中で夢を共有しているんじゃなくて、その逆だってこと? 幻想郷が始まってからこの方、みんなでずっと同じ夢を見ていたってこと?」
「でも、幻想郷には長い歴史があるんだ。私達は昔の記憶を持っている。百年以上生きている妖怪だって、ザラにいるじゃないか。夜寝ている時に見ているあの夢が現実だとするなら、辻褄が合わない」

 だってあれはどう見ても現代の外界のことで、と慧音は続けようとしたが、永琳の言葉に遮られた。

「すべての記憶を与えられて、少し前に創造されたのかもしれないじゃない」
「そんな」
「記憶さえ作り物だったとしたら、誰も世界が三十秒前に始まったことを否定できるものはいない。外の世界の小説ではそんな理屈もよく使われるらしいわよ」
「だけどそれは、余りにも荒唐無稽にすぎる」
「あら。幻想を寄り集めて作った郷なんて。もともと荒唐無稽なものじゃないかしら」

 そう言われると慧音は言葉に詰まり、反論できない。
 夢を見ているだけ。
 いずれは、夢から醒める。遅いか早いかの違いだけだというのだろうか。
 幻想郷が夢の世界で、寝ている時に見ていた夢が現実の世界だという。
 幻想郷と言う共有夢を皆で見ているという。
 境界の少女は言った、夢が醒めたら現実に戻るだけだ。
 それならば、夢の中の自分が本当の自分。あるべき姿ということになる。
 幻想郷は植えつけられた記憶に過ぎなかった。本当にそうなのだろうか。
 慧音は今まで築き上げてきた世界観が足もとからぼろぼろと崩れて行く印象を受けた。
 茜色の空の向うに、沈みゆく落日が見える。水はすでに郷の大半を飲み込んでいる。
 霧は深く、水平線は霞の下だ。
 終焉の時は近く、避けられない。本当にそうなのだろうか。

 話し合っても有効な議論はほとんど交わされなかった。誰も紅い洪水なんて見たことがない。
 おまけに一番幻想郷の仕組みに詳しい者は、不可思議な言葉だけを残してさっさと境内を去ってしまった。
 事情を詳しく知らない自分達だけではこれ以上めぼしい情報も得られないので、やがて少女達は家路に着くことにした。
 一人だけ、魔理沙だけは皆が去った後も境内に立っていた。
 それを見止めて霊夢が不思議に思い話しかける。

「魔理沙は行かないの?」
「うーん」

 なにやら腕を組んで思案げな様子。

「何考えてるの? 今日の夕飯?」
「ちがうよ。不思議だと思って」
「何が? さっき紫が言ってたこと?」
「いや、それもなんだけど。別にあってさ」
「何?」
「みんなは夢を見ているのに。私は見ないんだよな。霊夢も見てないんだっけ」
「そうね。大根かじってる夢なら一昨日見たけど」
「なんだいそれは。夢を見てない奴はどうなるのかなあ。気になるよなあ」
「別に私はどうでもいいけど」
「霊夢はいつもお気楽だなあ。紫、何を考えているのかな」
「紫の考えていることなんて、いつもわかんないでしょ」
「そうなんだけど……」

 さっきすきまに入る時に、目が合った。隣にいた霊夢ではなくて、確かに自分を見ていた。
 なんだろう。あの表情。伏せ目がちで、何か言いたげで、どこか申し訳なさそうにしていた。
 紫は自分のことを霊夢のおまけ程度にしか捉えていない、そう思っていた。紫のあんな表情を見るのは初めてだ。

「……みんな、どうするつもりなのかな」
「大人しくしろって言われて大人しくしている連中ばっかりじゃないからね。動くやつは動くんじゃないかしら。館のやつらとか、竹林のやつらとかは何かすると思うわ」
「そうだな。霊夢は何もしないのか? 異変だぜ」
「今回はちょっとねえ。何をしても無駄な気がして」
「無駄って……。幻想郷が水没しちゃうって言ってるんだぜ? 最初からあきらめてるのか? 殊勝に紫の言い付けを守るの?」
「そう言うわけじゃないけど。なんにしろ全く手掛かりがないからね」

 確かにその通りだった。
 幻想郷が夢の中の世界だなんて言われてしまったら、手の付けようが無い気がする。
 でもいつもの霊夢だったら、それでもとりあえず外に出て原因を探索してみるんじゃないだろうか。

「お得意の勘ってやつはどうしたんだよ」
「私の勘は呼ばれるまで動くなって言ってるのよ」
「呼ばれる? 誰に? ……紫?」
「さあね。今は何とも言えないわ」
「相変わらずお前らは判りにくいことばっかり言うんだなあ」
「やっぱり魔理沙は」
「え? やっぱり?」
「ううん、何でもないわ」
「何だよ、気になるじゃないか」

 魔理沙は先を聞きたかったが、霊夢はそれきり黙ってしまって何も語ってくれない。
 ちょっと考えた後に魔理沙はまた口を開いた。

「なあ霊夢、お願いがあるんだけど」
「うん、なあに?」
「しばらく神社に泊まっていいか?」
「なに? どうしたの一体」
「いやあその。ちょっと気になることがあってさ」
「あんた……もしかして寂しいとか?」
「や、や、や。そんなことはないぜ!」
「ふーん」

 ジト目ににやけ笑いを浮かべて魔理沙を眺める霊夢。

「な、なんだよ」
「そうねえ。あんたにまたチョロチョロされても厄介だし。近くに置いて監視するのもいいかもね」
「ずいぶんな言い草だなあ」
「言っとくけどうち今布団一つしかないわよ」
「それはなんとかするよ。よーし霊夢んちでお泊り会かー。うふふ、徹夜でトランプしようぜ」
「子供っぽいわねえ」




 4



 今日こそはみんなの仲間に入れてもらおう。
 そいつはそう心に決めていた。
 このままだと一生仲間外れにされる気がする。そんなのは死んでも嫌だ。
 これまでは不遇だったけど、今から挽回するんだ。

 いつもの公園へ行くと、案の定クラスメイトが数人たむろしていた。
 知らない顔もいる。それでかなり気遅れする。
 自分なんかが受け入れてもらえるだろうかといつも思う。なにしろ自分はあの両親の子供なのだ。
 そいつは自分の両親が大嫌いだった。母親は基督の名前だけ借りた奇天烈な名前の新興宗教にはまっていた。
 おまけに休みの日には娘を連れ出して、同級生の家を勧誘に回る。
 先週の日曜もそうだった。そいつは苦い思い出を思い返す。
 母親の隣に立たされながら、そいつは頭の中で考える。子供を連れていたら同情してもらえて、勧誘できる確率が上がるとでも思っているのだろうか。おめでたい話だ。無駄なことはやめてくれ。せめて一人だけでやって、娘を巻き込まないでくれと母親に言いたいが、言えない。そんなことを言えば、ひどく折檻されるに決まっているからだ。
 母親の熱心な独りよがりを聞いて、困った顔をした近所のおばさんの後ろに、クラスメイトが隠れて自分の方を見ている。
 きっとまた、このことをネタに学校でからかわれる。
 そんなのは嫌だ。もううんざりだった。自分だってクラスメイトにかこまれて、アイドルタレントの話なんかして、友達の家に集まってゲーム機で遊んで、キッズ携帯でメールのやりとりをしてみたい。そんな風に考えて、やっぱりそんな風に考える自分をみじめに思う。まだ小学生なのに、普通の人並みの幸せが欲しいなんて考える自分はどうかしている。大体無理だ。あの親が、そんなもの買ってくれるはず無い。ゲームどころか人形一つおもちゃ一つだってまともに買ってもらったことはない。服だって大抵町内の互助会のリサイクル品だ。新品を買ってほしいと言うと、贅沢品は人を堕落させるなどと偉そうな理屈をこねて、聖人ぶって自分を聡そうとしてきやがるが、知ってる。本音は違う。あいつらは単に自分に意地悪すること好きなだけなのだ。
 もしくはただ単に、家が貧乏だからかもしれない。二人ともお金とは縁遠いことばかりしているし、頭も良さそうには思えないから金儲けは下手だろう。
 結局無理だ。あの親の下で暮らしている限りは、自分に幸せなんてやってこない。延々とこの鬱屈として楽しいことなんて何にもない生活が続くだけなんだ。

 だけど、そんなみじめったらしい生活も、友達ができたら変わるかもしれない。輝いている人間はいつも大勢の友達に囲まれている。自分もその仲間入りをさせてもらえれば、輝いた人生が手に入るかもしれない。おもちゃとかゲームとかも貸してもらえるかもしれない。
 だからこれは人生の大一番なのだ。今後の全てがかかっていると言っても過言ではない。
 そしてそいつは覚悟を決めて、足を踏み出す。鼓動を抑えながら、歩き方はおかしくないか、笑顔はひきつっていないかそんなことを気にしながら。数人のクラスメイトの前に進み出て、そいつは勇気を出して声をかけた。

「私も仲間に入れて」

 全員きょとんとしている。少しの間沈黙があった。露骨に眉を顰めているものいる。目の前の集団は耳と口を寄せ合い、ひそひそと話し出した。どうするか相談し合っているらしい。
 しばらくしてグループのリーダー格が、いかにも悪戯を思いついた顔でにやりと笑った。そしてリーダー格はそいつの方を向くと、「じゃあ○○の物真似をして。うまくできたら仲間に入れてあげる」そう言った。
 真似するように指示されたもののことを、そいつは知らなかった。人名みたいだったから、たぶんテレビに出ているタレントかアニメに出てくるキャラか何かなのだろう。そいつはテレビなんて見たことがなかった。父親がテレビを見るやつは馬鹿になる、と言って見せてくれなかったのだ。別に父親に確たる信念があるわけじゃなくて、単に偏屈で意固地な大人だというだけでそうするのだが、この時はそれがネックになった。
 だけどそいつは可能性ってやつにすがって、とにかくチャレンジしてみたのだ。

 聞いたことのないやつのものまねを、特徴的な名前から連想して、きっとこんなやつなのだろうと必死に空想してやる。
 よくわからない身振り手振りをする。間違っていても必死にやれば、その努力を認めてくれるかもしれないと前向きに考える。だけどそんなのは徒労だ。
 向こうははなから知らないだろうと見当をつけてやらせているのだ。
 仲間に入れてやるなんてのは嘘だ。からかいたいだけだ。
 子供のグループは利に敏い。こびへつらったところで、本当の友人なんてできるはずもない。
 でもそいつは、すこしでも可能性があるのならとやってみせる。

 ふと、お姉ちゃん、という声が聞こえた。目線を声の聞こえてきた左にやると、いつの間にかそいつの妹が立っていた。
 何でこんな間の悪い時に来るんだ、とそいつは露骨に顔をしかめて見せる。
 どうせまた父親に暴力を振るわれて、家から逃げて来たんだろう。
 こいつはなぜか自分になついていて、追い払っても追い払ってもいつもいつもついてくる。鬱陶しったらありゃしない。
 さらに仰天する事態が起こった。妹がすぐ隣にきて、物真似を続けている自分の真似をし出したのだ。
 いったい何のつもりなのか。
 姉を慕っての行為なのだろうか。単に雛鳥が、保護者と思わしき鳥の真似をしたというだけなのだろうか、それとも姉の珍妙な仕草が気に入ったのか、何だか分からないが、とにかくサイアクだ。
 クラスメイトは最初それを冷めた目で見ていたが、やがて滑稽さが可笑しくなったらしく、噴き出した。
 笑い声が響く。一瞬そいつは、安堵の表情を作る。
 ともかくも受けは取れた。
 そうでしょ、私面白いの。だから一緒に遊ぼう。そんな展開を妄想する。
 だけど、次の一言で地獄にたたき落とされる。

 ばっかじゃねーの、全然似てねーよ。一番端っこの一番憎たらしい顔をした女がそう言った。
 それを拍子に、その場にいた全員が口々にそいつの悪口を言いだした。
 だっさ、必死なのが余計に笑えるよね。何やってんだか。
 結局そのグループは公園を去ってしまった。きっとグループの中の誰かの裕福な家に行って、仲間外れを作ってもっと楽しい遊びをするのだろう。

 妹が自分の隣にいて、泣きそうな顔をしている。
 姉が笑われたのが悲しかったのか、自分が笑われたのが悲しかったのか。
 泣きたいのはこっちだ、とそいつは考える。
 自分は悪くない。仲間に入れてもらえなかったのは、妹がとちったからだと決めつける。
 こいつが来なければ、皆に気に入ってもらえて、仲間に入れてもらえてたんだ。
 腹が立って、忌々しくて、いつもみたいに妹の頭を小突いた。とたんに、妹の目から涙がわっと溢れ出す。
 やめろ、と見ている彼女が言った。でもそいつはやめようとしない。
 ごんともう一発妹のこめかみを小突いて、それでますます妹は喚いて、この世の終わりみたいに泣き叫ぶ。
 こんなのは序の口で、これからどんどんエスカレートするに違いない、と彼女は思う。
 そいつは考える。
 自分が悪いんじゃない。最初に自分をいじめた者が悪いんだ。
 いじめられる側にも原因があると斬りこまれたら、ではそのような環境を作った者が悪いと言う。
 自分が悪いんじゃない。
 虐げられた者が、自分より弱いものをさらに虐げる。それが社会の縮図なんだと自分を正当化する。

 彼女はそれを覘いて思う。
 ふざけるな、誰も親切にしてくれないからと言って、他人に対して卑怯にふるまってよいなんて理屈が通るものか。
 自分勝手な被害者意識に反吐が出る。
 それでもそいつは、妹を、自分より弱いものを虐めることに法悦を感じていた。
 弱者の生殺与奪を握っている優越感から来るのか、性的なそいつ独自の嗜虐心から来るのかわからないが、何よりも下卑た感情であることは解る。それをそいつは正当化する。
 もっと刺激のある遊びをして、ストレスを解消したいとすら思っている。
 そしてそいつは最悪のことを思いついた。
 そうだ、この階段から落としてやろう。憎たらしい妹が転がっていく様は、きっと面白いに違いない。
 いつもみたいに父親の真似をして妹に火のついた煙草を押し付けたり、蚯蚓を無理矢理飲ませたりするよりはもっと刺激的な光景が見られるんじゃないか。
 やめろという彼女の叫びは何の力も及ぼさない。
 ただ面白そうだからという理由で、そいつは愚劣極まりない思い付きをせっせと実行に移す。
 妹の背中を押そうとして手を伸ばす。
 馬鹿な妹は眼を押さえて泣きじゃくっているだけで、全くこちらに気が付く様子がない。
 少しどきどきする。
 今だ、今が決定的瞬間だ。

 妹が振り向きながら、身をとっさによじった。
 それで丁度前に重心をかけていたそいつはバランスを崩して、足をもつれさせてすっ転び、ふぎっという無様な叫びを漏らして直後、ごろごろと階段を転げ落ちる。
 そいつの視界の中で妹が狼狽した顔が回転している。
 彼女は夢の中、望楼としていて感覚が薄いので痛みは感じない。ただそいつの視界が回転していることだけがわかる。
 体中を打ちつけて、何が起こったのか分からない。そいつは階段を転げ落ちて、公園の外の道路に投げ出された。
 そこでそいつが鋭い痛みを思い出し、苦悶していると、お姉ちゃん危ない、車が。そんな叫び声が聞こえた。
 目の前が真っ暗になっていて、目を開けたら妹の顔が見えた。
 自分の手を引こうとしている。遠くからものすごいスピードで黒い塊が迫ってきて、感覚を共有している彼女、

「うわっ」

 レミリア・スカーレットは飛び起きた。

 ……周囲を何もかも紅く塗りたくった幼稚な装飾が彼女を包んでいる。
 見回すまでもなくて、自分の部屋だ。
 夢だった。
 ベッドの中で安堵のため息をつく。
 吸血鬼らしくない。この夢を見るといつもそう思う。
 それにしても最後の光景は異様だった。途中で目が覚めてしまったが、先が気になる。

 人妖達が境内に集まってから丸一日経った。
 洪水は幻想郷の周囲を完全に覆ってしまっている。
 水は霧を伴っているので、周りの状況が分かりにくくなっている。
 視界が極度に悪くなっているために、連絡もところどころ途絶されている。
 それを押して集めた情報によると、郷の力のある者たちが共同し洪水に対して抵抗を試みたという話が伝わってきていた。
 いわく、龍を召喚して天魔や妖怪の賢者を集めたサミットが開かれたが、有効な打開策は結局見つからずじまいだったとか。
 いわく、術者を集めて結界を張って水の侵攻を食い止めようとしたが、全く効果がなかったとか。
 いわく、妖怪の山の頂上に住む巫女が下りてきて、海を割る奇跡を試したが、水たまりはぴくりと動かなかったとか。
 八雲紫は何もするなと言った。黙って見ていろと。
 幻想郷は早晩滅びを迎える。それを止める手段はお前らにはない。
 滅びたとしても、元の人生に帰るだけなのだから、それで満足しろ。

「納得いかないわ!」

 誤って絵の具をひっくり返してしまったみたいな色のロビーに向かって幼い叫び声が響く。
 声の主はそのままずんずんと階段を降りて行く。そして階下のロビーに降りてまた一声。

「座して滅びを待つなんて、アホのすることじゃない! 私は最後まで抗うわよ!」

 小さな拳と体に似合わない大きな羽をふるふると震わせながら、ノーライフのリトルクイーンはそうのたまった。

「パチェ、フランの拘束制御術式を全開放して!」
「え、なにそれ? そんなものあったかしら」
「ノリが悪いわねえ、フランの部屋の結界を全部解こうってことよ」
「だったらそう言ってよ」

 地下室の扉が盛大に開け放たれて、中から胡乱な目をしたブロンドの少女が出てきた。
 きらきらと七色に光る背中の装飾物が水晶の音を立てて光をまき散らし、弾け回っている。
 運命の妹、破壊の具現、フランドール。

「あら、お姉さま。自分から私を外に出すなんて、どういう風の吹きまわし?」

 辛辣な意味にも受け取れる皮肉に、レミリアは多少たじろぐ。夢の後遺症が残っているらしい。
 朝見た嫌な記憶が蘇ってきたが、頭の中でそれを振り払い、気を取り直して妹の顔をまっすぐ見つめる。

「まわりくどいから、嫌味はなしっこよ。聞いてるでしょ? 幻想郷が終わりっぽいの。妙な水が、郷のそこらじゅうを削っていってるらしいわ。でも黙って滅びを待つなんて、誇り高い夜の王のすることじゃない」
「なるほど。で、それと私とどう関係あるの?」
「とにかく来なさい! もうあなたは自由よ!」

 自由、と言う言葉を聞いてフランはぽかんとした顔をする。

「……いいの? 暴れちゃうよ?」
「もうどうせおしまいだって言うんなら、どうでもいいわよ。今まで閉じ込めてて悪かったわね。好きなだけ、外を歩きなさいな。私ももう太陽を嫌がるのに飽きたわ」

 くさくさした。運命だとかいう楔なんぞに縛られるのはもうまっぴらだ。
 この妹だってそうだろう。全力でやってやる。最初で最後の出陣だ。
 屋敷を出るからフランに準備をしろと伝える。
 着替えに戻るために踵を返したレミリアに、フランドールが声をかける。

「ねえ、お姉ちゃん」

 それを聞いて、ぴたり、とレミリアの足が止まる。
 いつもの呼び方じゃない。
 それはこの館で、二人だけしか知らない記憶だ。
 できることなら永遠に封印して置きたかった、忌わしいついさっきの記憶。

「夢の中のことを気にしているんじゃないの?」
「……気にしていないわけないじゃない」

 喉の奥からひねりだすようにか細い声を出す。
 肩がふるえている。共有していた。最悪のゲンソウってやつを。
 果たして自分は今のフランドールのことをどう思っているのだろうか。そして逆にフランは自分のことを、どう、と考える。

「どうしようもないくらい弱くて卑劣なやつ。貧しい、本当に貧しい人間。周りにつらく当たられた腹いせに、何もできない、自分より弱い人間にあたって」

 嫌いだった。大嫌いだった。夢の中の自分のことが。浅ましくて、醜くて、自分勝手で。
 妹は黙って黙って姉の背中を見る。レミリアは背を向けているので、今妹がどんな表情をしているのかが見えない。

「それだけじゃなくて、私はこの郷の中でさえ同じことを」
「違うよ。これは私が自分から言い出したことで」

 閉じ込めてほしいと言った。自分は力を暴走させてしまうから。それは妹から言い出したことだ。
 姉のエゴなんかじゃない。自分が望んだんだ。
 だから姉は悪くない。

「ごめん、本当に、ごめん。謝ってすむことじゃないけど、謝らないと私はほんとうにどうしようもない人間に」
「お姉ちゃん」

 フランドールが姉の肩に手を置いた。
 そのまま引きよせて、無理矢理自分の方に向かせると、ぼごっ、と姉の顔をぐーで殴った。
 へぼーという奇態な擬音を漏らしてレミリアの首が百二十度曲がる。

「これでおあいこ」
「うーん」

 めっちゃ痛かった。奥歯が抜けた上にはなぢがどばどば溢れてくる。
 全階級制覇できるんじゃないかって思えるぐらいのありえん必殺ブローだった。だけど。

「今度からはお姉様がいじめられる番かもよ?」

 そう言い残してくすくす笑いながらフランは部屋を出て行った。
 おかげですっきりしたかもしれない。
 今の妹は決して自分におびえるようなところはないし、夢の中で見たような暗い陰も見当たらない。
 ひょっとしたら力も心根も、もう自分より強いかもしれない。
 そうだ。とレミリア・スカーレットは思う。
 自分達はもうあんなふざけた夢なんて屁でもないと思うほどの体験をしてきた。
 自分達の間には五百年近い記憶と言う名の絆があるのだ。
 こちら側でもいつも喧嘩していたが、少なくとも夢の中よりはお互いに言いたいことを言い合って来たし、妹のことを想っていたはずだ。また自己正当化になってしまうのかもしれないが。
 それに今は二人だけじゃない。親友のパチュリーや、忠実に仕えてくれる咲夜や、手強い門番の美鈴が居る。
 自分を慕ってくれるメイドや小間使いも大勢いる。向うには無い、紅魔館という家族がいるのだ。
 夢の中で体験した形だけの家族なんかじゃない、血は繋がっていなくても、固い絆で結ばれた本当の家族が。
 紅楼で過ごした五百年の酔夢。たとえそれが幻に過ぎなかったとしても、やっぱりこっちの世界の方がいい。
 自分達の幻想を滅ぼされてたまるものか。レミリアは決意を新たにする。

 ロビーの隣の応接室で皆を待っていると、パチェが入ってきた。
 二人きりだ。咲夜もフランも遅い。ふと、パチュリーと視線が合う。そういえば、とレミリアは思いついた。
 今まで自分のことで精一杯だったために、館の者がどんな体験をしているのかを聞いてこなかった。

「ねえ、パチェ」
「ん」
「パチェも夢を見ているのよね?」
「見たわよ」
「パチェの夢ってどんなのなの?」
「聞きたいの?」
「聞きたいわ」
「そう、じゃあ話すわ」

 パチュリーの態度はそっけなかった。だからレミリアも特に気構えていなかった。

「……その国では、最下層の人間は教育を受けられず、親達は食うに困って都市に娘達を売りに行く」

 滔々と。パチュリーは語り始めた。淡々とした口調だが、のっけからいきなり重々しい空気のある話。
 さすがのレミリアも表情を硬くする。

「ある時日照りが続いて、村の井戸が枯れた。私の親は、口減らしに私と私の三歳下の妹を国境線の武装集団に売りに行った。その日から、私は彼らの玩具となった――」

 ある夜のことだった。その夜酒宴が開かれて、わずかな見張り以外は全員眠りこけていた。
 少女はチャンスだと思い、逃げ出した。
 驚いたことに、男達は少女の逃走に気づかなかった。
 少女は自分の妹を探そうと思ったが、それが到底不可能であることにすぐに気が付いて、後ろめたかったがとにかく一人で逃げることにした。
 だけど少女は帰り道を知らなかった。仕様もなく、夜通し砂漠を彷徨う。
 自分の村に帰ろうと思ったが、でも道がわからなくて、気付いたらだだっ広い中に鉄条網が引かれている地帯に出ていた。
 少女はそれが何か分からず、首をかしげながら、そのまま大地を仕切る網沿いにしばらく歩いた。

「それから?」

 どこからともなく数人の兵士が現れて、血相を変えて走ってきた。
 見慣れない制服を着ていたから、自分の国の兵士ではないと悟った。
 彼らは手に持った銃を少女に向けて、少女を取り囲んだ。
 兵士の一人が何かを叫んだ。それで少女は思い出した。
 生まれ育った村の大人達がいつか話していたのを。
 隣国との仲が険悪になってきている。そのため隣国の国境の兵士達は緊張してピリピリしている。
 少女のたどり着いた場所、そこが国境線だった。
 兵士の一人が、何か口やかましくわめきたてた。大きな声で、脅しつけるようで、少女は恐怖を感じる。
 わけがわからなくて、少女はとにかくその場から逃げようと夢中で走り出した。
 
「後で気づいたのだけど、聞き取りにくい発音ではあったけど、確かにその兵士は私の国の言葉で、『止まれ、そっちへ行くな』と言っていたのね。でもそれに気づいたのは、胸の中心を熱い鉄の塊が通り過ぎた後だった。それから私は地に伏せり、しばらくして意識が途切れた」
「それ、本当の話?」
「さあ、どうかしらね。私の作り話だとしても、レミィには真偽の確かめようがないわね。ただ、私はその時考えたの。途切れる意識の狭間で私は考えた。もし私がもっと馬鹿でなくて、状況を判断できるぐらいに賢かったら。学校に通わせてもらっていて、本をいっぱい読んで、隣の国の言葉が理解できていたら。そもそも砂漠で迷わないぐらいに知識があったら。そうやって自分の愚かさを後悔したのよ」
「ちょっと待って」

 レミリアは今の話に違和感を覚えた。
 八雲紫が境内で皆に聞かせた話と照合すると、パチュリーの夢にはある重大な問題がある。

「パチュリーは夢の中で死んだの?」
「ええ」
「もしそれが本当だとしたら、幻想郷という夢が醒めたときに、パチュリーはどうなるの?」
「わからないわ」
「だって死んでるんなら」
「レミィ、まだ何もわからないんだから、触れ回るべきじゃないわ」

 いつもより幾ばくか低い声でパチュリーが言った。釘を差したのだろう。恐らく想像していることは同じなのだ。
 しばらくの沈黙の後レミリアが何か言いかけたところで、咲夜が部屋に入ってきた。

「お待たせいたしました」

 タイミングを逸したために聞くに聞けなくなった。
 咲夜が出立の準備ができたと言う。フランドールも入ってきた。レミリアは釈然としないものを抱えてパチュリーを一瞥したが、ともかくも紅魔館を出ることに決める。
 紅魔館の力ある者は皆問題となっている洪水にまみれた地域へ飛ぶことになった。

「んで、これが問題の水?」

 フランドールがうんざりした面持ちでそう言った。
 問題の場所に到着した紅魔館一同の前には、水平線がどこまでも広がっている。
 彼女達の脳裏から海というものが記憶の彼方に過ぎ去って久しいが、何とかその姿を思い出して目の前の水溜りと比較してみた。
 だけど眼前に広がるものは常の海とは違う。蓄えられた水は一面赤い色をしていて、その水面の色が投影されているせいか、夕方の刻限でもないのに、空は周辺からだんだんと黄昏の色に染まっていた。赤潮というものも海にはあると聞くが、それでもこう綺麗に一色に染まったりはしないだろう。
 そして紅い不気味な海の向うには霞がかかっており、それが集まり霧となって、郷の周囲を包んで見通しを悪くしている。

「確かに悪魔の私達でも目をそむけたくなるぐらい不気味だわ。何なのかしらコレ。紅い水なんて見たことないわ」
「本にも載ってないわねえ」

 パチュリーが分厚い本を目のすぐ前に近づけてぶつぶつ言っている。
 レミリアはサーヴァントを一匹作りだし、目前の水溜りに向かって放った。
 蝙蝠が茜色の水に触れたとたん、しゅわっと言う音がし、煙が立ちこめる。
 煙が晴れる頃、使い魔は霧が晴れるように消えていた。

「本当に触れると何でも消えるのね」
「強酸性なのかしら」
「物理的に溶けてるわけじゃなさそうね。たぶん、霊的に分解しているんじゃないかしら」

 レミリアは後ろを向いてフランにうながす。

「フラン、もう全力でやっちゃっていいわよ。レーヴァティンをマスタースパークみたいに拡散させて、その勢いでこいつを吹き飛ばせないかしら」
「あー、普通なら何でも壊せるって言うんだけど」

 フランが水辺にやってきて遠くを見渡して答える。

「なんとなく、コレを見てるとあきらめムードが」
「ノリが悪いわねえ」
「まあ、とりあえずやってみるよ」

 フランドールは盛大に魔力を濃縮させ始めた。他の者は彼女の魔術に巻き込まれないように、少し下がって距離を置く。
 やがて、フランの両の掌中で囲まれた空間に、ぽつりと紅い光が生まれた。
 すぐにそれは膨張し、虚空を真っ二つに切り裂く紅蓮の直線へと姿を転じる。
 レーヴァティン。北欧神話の巨人スルトが神々の黄昏(ラグナロック)において世界を滅ぼす時に振るったと言われる赤炎の魔剣。
 破壊神の咆哮、暴力の結晶の如きその剣の喘ぎ声が、甲高い高周波となって空を斬り裂いた。
 しかし、膨大な熱量の赤熱線が放射されたにも関わらず、派生した効果は拍子抜けするものだった。
 熱線は水に当たっても何の効果も及ぼしていない。ただまっすぐ進んで水面に入射するだけで、素通りしているようにさえ見える。
 レミリア達観測者には、水面と熱線が接触している場所からわずかに白い靄が湧き上がっている様子だけが伺えた。
 どうやら水に当たった瞬間に煙になっているようだ。

「やっぱり駄目か」

 レミリアがフランの隣にやって来てレーヴァティンの当たった水面を観察する。

「レーヴァティンも触れた時点で分解されちゃってるみたいね」
「仕方無い。屋敷に帰って作戦を……」

 そう言ってレミリアは踵を返した。

「お姉さま!」

 レミリアが呼ばれて振り向くと、水の一部が、蛇のように首をもたげて空中に浮いているのが見えた。
 絶句する。いつの間に? なぜだ、今までまったく動かなかったのに。
 その蛇がレミリアをつかみ取ろうと襲いかかって来た。速い!
 どん、という音がした。
 誰かがレミリアを突き飛ばしたのだ。
 レミリアが地面から起き上がり、先程自分が立っていた場所を見るとフランがいた。
 両手の平を見ている。着ている服が濡れている。

「う、あ」
「フラン?」

 全身に水がかかってしまっている。あの紅い水。あれを被ったということは。

「フランドール?」

 もう一度呼びかける。声がうわずり調子の外れた響きになった。

「こんな、こんな。せっかく外に出られたのに。お姉さまに許してもらったのに……」
「だ、大丈夫だから? 大丈夫なはず……」

 狼狽を隠しきれない紅の吸血鬼が、自分でもそれと分かる気休めを言う。
 八雲紫は言った。幻想郷が終わってしまったとしても、現実の世界に帰るだけだ。
 しかし、しかし……
 パチュリーは夢の中で銃で撃たれて死んだと言った。
 朝、夢を見た。巨大な暴力の塊が自分に迫って来ているところで終わった。
 途中で目が醒めたので分からなかったが。あの後自分はどうなったのだろう。
 最後に夢の中の妹の顔が見えた。妹はどうなったのだろう。自分と同じ場所に立っていたはずの妹は。
 しゅうしゅうと音を立てて、紅い服のあちこちから煙が噴き出した。何もできない。姉が前に飛び出して妹にすがろうとしたが、従者達が左右から飛び掛り二人掛りで羽交い締めにして止めた。蝙蝠に変化して抜け出そうとするが、友人の魔法使いの張った結界にはばまれる。後で主の憎悪を真っ向から受けることとなるだろうが、それでも彼女らは唯一人しかいない主を守ろうとしたのだ。触ると自分達も溶けてしまう。
 フランの姿が薄くなっていく。何かを喋っているが、声が聞きとれない。
 姉が聞きとらなければいけないはずの声は音になっていない。
 幼い吸血鬼の影は大気に溶け込むように薄くなり、やがて完全に透明になって、被っていた帽子がすとんと地面に落ちた。その帽子も続けてすぐに塵となり、風にさらわれ消えた。
 後に残った紅魔館の一同に在るのは絶句だけで、四つの影はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。



 
 5



 私に近づかない方がいい。私に近づくと、不幸になるわ。
 それは祟りなんかじゃない。私は原因を知っている。あなたは一人なんかじゃないわ。私が構うもの。

 そんな会話を交わした記憶がある。いつのことだったか判らない。随分と遠い昔に体験したことのようにも感じる。
 自分の周りにある決まりごとのすべてを壊してくれて。そんなことは何でもないことなんだと吐き捨てて、精神の足枷を取り払って。
 強くて勇敢で、どうしようもなく優しい少女だった。
 彼女が孤独から救いあげてくれたから、何の見返りも求めずに自分を救ってくれたから、だから彼女のために働きたかった。
 だからそれが彼女の行動の動機となった。


 
 先の見通せない霧が冥界の周囲を包んでいる。
 二百由旬あるというその土地も、今では霧の作用によっていくらかが削り取られている。
 幽霊達が次々に消えていっている。
 人魂のままの幽霊は抵抗力が弱いのだろうか。
 三途の川が蒸発してできたその霧の中に入ると、いつの間にか消えている。煙が晴れるようにすっと消えていく。
 白玉楼に努めている幽霊達は、霧を恐れて屋敷の中に籠り切りになっている。主人の幽々子もそれを許した。
 妖夢も自分の半霊の部分をいたわって、なるべく霧の中を歩かないようにしていた。
 境内で紫の滅亡宣言を聞いて以来、幽々子と妖夢は何をするでもなく白玉楼の中に籠っていた。
 幽々子は何も言わないが、どちらかと言えば彼女は滅亡を唯々諾々として受け入れる体に見えた。妖夢は紫の話に多少違和感を覚えないでもなかったし、何より白玉楼に愛着があったのでできるならば幻想郷を存続させる手段を探しに行きたかった。
 だが、主が何もしないと言うのであれば、それに従うのが従者の務めであるとも思う。何より、妖夢には夢の世界があった。彼女の夢は、白玉楼の中とさほど変わりがなかった。そこには幽々子もいたし、かつて失った多くの知り合い達が生きて自分のそばにいてくれたのだ。だから、あまり幻想郷の滅亡に対して悲観的ではなかった。夢が醒めても、現実に帰るだけと言うのであれば、別にそれを受け入れても良いのではないかと思っていたのだ。
 今日も妖夢は幽々子に昨晩見ていた夢の話をしていた。最近は眠っているうちに見た夢を、幽々子と照らし合わせて歓談して過ごすのが習慣になっていた。

「なんだか喫茶店みたいでした。働いていたのは私だけでしたけど」
「私も妖忌のスープチャーハンていう食べ物を食べ忘れたことを覚えてるわ。あそこで紫が出てこなかったら。口惜しい!」
「お爺様があんなに料理が上手だなんて知りませんでした。私には一回も作ってくれたことないのに」
「私も。妖忌の喫茶店マスター似合ってたわねえ。渋みがあったわ」
「もしかして幽々子様ってオジサンふぇちっていう方ですか?」
「あなた、そんな言葉どこで覚えたのよ」
「それにしても、私夢の中でもずっと幽々子様と一緒なんですねえ」
「斬っても斬れない縁というわけね。楼観剣に斬れないものがまた一つ増えたわね」

 そう言って幽々子が笑うので、妖夢もなんだか可笑しくなって笑った。
 二人は白玉楼の庭に出て、少し歩くことにした。もう少しすればここにもあの消滅の力を持った霧が満ちる。
 文人が死後辿り着く楽園と言われた白玉楼中も、やはり夢の常の如く淀みの泡沫に消えるのであろうか。
 妖夢はこの庭で庭師として過ごしていた記憶を思い返す。懐かしい。本当に色々なことがあった。
 本当にあれが全て夢だったと言うのだろうか。

「春は千林に入る処々の花、秋は万水に沈む家々の月」

 ふと、幽々子が朗々たる声でそう詠み上げた。その淡麗な響きが初秋に色づき始めた庭の風景に溶け込んでいく。

「禅語ですね。春には至る処に花が咲くように、秋には全ての水面に月が映るように、仏の慈愛は誰にでも平等にそそがれる」
「あら、知ってたのね」
「どうして急に?」
「華胥の夢」

 返答の代わりに、幽々子はまたぽつりとつぶやく。
 昔、黄帝が治世に迷った折、夢で華胥氏の国に遊び、そこに理想の世を見て国作りの道を悟ったと言う。
 まさに幻想郷はその華胥氏の国のようであったと思う。

「成し難いという意味ではまさにここは理想郷だった」
「本当に、夢のような郷でしたね」

 妖夢は主が何を言いたいのか正確には掴めなかったが、彼女の雰囲気に呑まれているだけで幸せだった。
 寂しくはある。できるなら、以前の生活をずっと続けていたい。だけど、自分は基本的には従者だ。従者は主の下にさぶらう者。幽々子が現の世界に帰ると言うなら、自分も付いて行くだけだ。
 そう心の中では割り切っているものの、別れがつらかった。夢の中ではまだ何人か出てきていない知人がいる。現実に戻ったら彼女達とはもう会えなくなるのだろうか。

「幻想郷は本当に滅びるのでしょうか?」
「滅びてはいけないかしら」

 あら、と意外そうに幽々子は言う。意外そうに問い返されることが妖夢には意外だった。

「生まれ故郷です。滅びてほしくないです」

 妖夢は自分の声が泣いている子供みたいになっていることを自覚した。まるで駄々をこねているみたい。
 やはり自分は別れがつらいのだ。この郷で出会った人物だけではなく、郷そのものとの別れが。
 だいたいに幻想郷ほど郷愁を駆り立てる場所が他にあるだろうか。

「生ある者は必ず滅びるわ」

 そう幽々子は言う。生者必滅の原理。自然に存在する万物が逃れられない摂理だ。森羅万象である限り、それは生々流転する。幻想郷とて、世界や宇宙とて例外ではない。不滅のものなど万宇に存在した試しがない。

「どうして滅びるのでしょうか? 紫様は私たちが現実の世界に行くと言っていますが、本当にそのために幻想郷が滅びなければいけないのでしょうか」

 ずっと、夢を見続けたままではいけないのか。妖夢はそう問いたかった。
 妖夢は縋りつくように、幽々子の顔を見る。そんな妖夢に、幽々子は唯々優しい笑顔を向ける。
 泣きそうな顔をした妖夢と、それを慰めるような笑顔の幽々子は見つめ合ったまま、しばらく時間が流れる。
 妖夢は返答を待ちながらずっと主の笑顔を眺めていた。
 やがて幽々子は手を上げると、妖夢のさらさらした銀髪を優しく撫でる。そして言った。

「天意はわかりにくい。天には天の意思がある」

 天、天とは何のことだろうと妖夢は首を傾げる。
 天意とは万物を制御する者たちの総体的な意思のことだ。
 幻想郷に天意があるとすれば、それは幻想郷を創造した神様の意思と言うことになる。
 そうなれば、竜神や天仙達の意思ということになるのだろうか。

「いい、妖夢」
「はい?」
「たとえ天意によって巻き起こされる出来事が、一見すると理不尽に思えても、それで誰かを責めたりしてはいけませんよ」

 今更どうしてそんなことを言うのだろうと妖夢は不思議に思う。幽々子の言うことはいつも抽象的で分かりにくい。だけど、そこには何某かの意味があるのだ。今までだってずっとそうだった。妖夢は幽々子の言ったことの真意を考えることにした。
 
 昼食を済ませた後、妖夢は再び庭に出た。白玉楼が消える前に、最後の庭掃除をしようと思い至ったのだ。
 そこで彼女は不思議なものを目にする。
 どこからともなく視界に舞い込んできた、全宇を埋め尽くす、花弁の吹雪。季節は秋だと言うのに。
 はっとなる。花弁は、一番降ってきてはいけない場所から流れて来る。
 幅二百由旬にも及ぶと言われる西行寺家の庭の、一番奥にある尋常でない背丈の桜の木。
 妖夢は庭掃除用の箒を放り出して花弁が流れて来る方角へ走った。
 幽々子様がいない。幽々子様はどこへいったのか。
 既に庭の随所に霧が入り込んできている。走って行くと、だんだんと目の前の霞が晴れて、それの姿が露わになる。
 釣られて開花したと思われる、周りの一面の花模様に彩られて、一際目を引く……いや、これは美しいなどという言葉で表現できるものではない。
 一瞬で魂を奪いつくされる骨食みの蠱惑。
 西行妖。
 西行妖の開花。この妖怪桜が開花すると言うことは、それは、すなわち。
 雪崩の如く蠢く桜吹雪の根元、濃霧に人影が映っているのが分かる。道士服と日傘と白い帽子。
 走って行って、その姿が誰だか視認できると妖夢は叫んだ。

「紫様、幽々子様は!?」
「ああ」

 面倒臭そうにその大妖は答える。

「幽々子にはこれから西行妖の中に入ってもらうわ」

 紫はさも当然のことであるかのように淡々と言ってのけた。
 西行妖の中に入る。
 そんなことをすれば、あの妖怪桜に取り込まれてしまう。
 西行妖が開花し、幽々子の死体の封印が解ければ幽々子は消滅する。
 自分達が起こした異変の後、その事実を妖夢に教えてくれたのは、他ならぬ紫であった。

「紫様! なぜ!」

 遠い、紫との距離を遠く感じる。
 歩数にして五十歩ほどの距離。それでも、無限に等しく感じる。
 そして見えた。墨染の巨木の下に、青紫の服をまとった姿。風が払われて、その少女が頭に着けていた帽子が飛ばされ、桜色の髪が露になる。
 富士見の娘。死に囚われた偶さかの少女。
 その主の儚げな後姿を見て、妖夢の心が急く。そっちへ行ってはいけませんと魂が叫ぶ。

「なぜ、なぜお止めにならなかったのですか!?」
「止める必要なんてないわ。私がお願いしたんだもの」

 絶句する。何を言っているのだろうか、この人は。

「市のはずれにあった桜。まさかあれが西行法師が入滅した場所だとは思いもよらなかった。西行がそこに来たなんて記録は、どこにもなかったから」

 妖夢にはわからない。何かがおかしい。ずれている。だって、幽々子様と紫様は親友で。だから、紫様が幽々子様の害になるようなことをするはずはなくて。でも西行妖に取り込まれれば、この桜の花が完全に咲いてしまっているのをこのままにしておけば。
 現に眼前の妖桜は既に途方もない妖気を放出し、それを人を死に誘う力を持った反魂蝶の形で放っているではないか。

「西行、北面の武士・佐藤義清には娘が一人居たそうよ。旅立ちの時に泣いてすがる娘を、彼は縁側から蹴落として家を捨てた。その時の傷が元で娘は数日後に亡くなった。西行がその事実を知ったのは旅先でのこと。娘の名は由々子。西行が入寂する時に、子供のしゃれこうべを一つ抱えていたと言うわ」

 何の話をしているのか。その娘と富士見の娘、幽々子様は別人ではないのか。妖夢には分からない。紫の心胆が読めない。

「西行妖は数々の怨霊を内に抱えている。あえてそうしたのよ。幻想郷が破滅に瀕した時に、蓄えた霊体を使って瑕疵を修復できるように」
「どういうことですか? 紫様は幻想郷が滅んだとしても、それは夢が醒めるだけだと。夢が醒めた後は現実に帰るだけだとおっしゃったじゃないですか」

 沈黙。

「嘘だったんですか?」

 もしそれが嘘だとすれば、幻想郷の死は結局は住んでいる者全員の死だ。
 それを防ぐために、紫は西行妖を使おうとしているのか。
 そして、西行妖の力を解放できるのは、一番その仕事に適しているのは幽々子だけだから。
 だから、幽々子に消えてもらうと言うのか。力を解放した西行妖と共に。

「なぜです? 幽々子様は、紫様の親友だったのではないのですか?」
「最初から、幽々子にはこういう役目があったのよ」

 はっとする。朝方幽々子が庭先で言っていた言葉を思い出す。
 今から考えてみればあれは何某かの覚悟を決めた者の言葉とも取れた。
 天意は分かりにくいというのはこのことだと言うのだろうか。
 天意によって成された行為が例え理不尽でも、それで誰かを怨んではいけないと。
 目の前にいる紫の行為が天意だと? 馬鹿な。
 こんな理不尽が許せるか。幽々子様をお救いする!
 気づけば妖夢は地面を蹴っていた。
 即座に抜刀し、紫の居る位置目掛けて疾駆する。
 断じて幽々子様を人身御供になどさせはしない。
 そう思って飛び立った直後に、前方で甲高い金属音が響き、妖夢は強烈なショックと共に進行方向と真逆に押し戻される。何か硬質のものと自分の刀が衝突したのだ。

「! 藍さん!?」

 式の九尾が割り込んできた。金属だと思ったものは硬質化した彼女の尾の一本だった。
 紫の式、八雲藍は紫と妖夢の間を塞ぐように立った。

「どうして邪魔をするんですか!」
「紫様のご命令だ。儀式の邪魔はさせん」
「おかしな命令だ。そうでしょう! 主の命令だからと言って」
「式にとっては主の命令は絶対だ」
「分からず屋が、どけっ! 貴方の相手をしている暇はないっ!」
 
 妖夢が再び地を蹴った時、ざわり、と言う音がした。
 遠くで紫が何かの真言を唱えたところまでは確認した。
 その瞬間、ぎりりと空間そのものが軋む音がした。
 否、認識として音に聞こえただけだ。実際には空間は停滞し、同時に全てが停止していた。
 妖夢には目の前の世界そのものが溶解したように感じられた。
 闇の灯りが噴き出して――何もかも呑み込み――
 藍は自分と対峙しているというのに、後ろを振りかえったまま空中に停止している。多分蒼い顔をしているのだろう。
 紫は失敗したのだ。妖夢は直感で悟った。
 どういう経緯になるのかはわからないが、西行妖を使って世界の穴を埋めようとした。
 だけどそれは失敗して、あとにはその埋めようとした穴、つまり巨大な奈落だけが――蝕――
 轟々という音と共に地面が吸い込まれていく。
 黒い球体が冥界の大地を根こそぎ食いつくしている。妖夢は楼観剣と白楼剣を両方抜刀して庭の地面に突き立て、何とかこらえようとした。飛び退る飛沫で視界を侵食されながらもかろうじて薄眼を開けると、自分に立ち向かった九尾が黒い奈落に吸い込まれていくのを見た。成す術もなく回転している。何かを叫んでいるようにも見えたが、一瞬で視界から消えてしまったので、良く判らない。
 重力とも吸引する力とも違った形容しがたい力、恐怖そのものの具現のような力が歪に周囲の霊気を歪めている。
 舞っていた桜の花弁が塵になっていく。
 周囲の状況がどうなっているのか良く判らなかった。砂嵐、に似ているものが視界を遮っていたが、砂などどこにもないはずだと思う。なぜって、その黒い蝕は吸い込んだ瞬間に捕らえた物の存在を消し去っているのだから。
 大地に突き立てた楼観剣と白楼剣が地面ごとべりりとはがされ、妖夢の体が宙に浮いた。寸刻待たずに自分の体があの妖狐と同じ運命になるだろうことを彼女は悟る。妖夢は無意識に、目の前にぽっかりと空いた奈落に向けて刀を振るっていた。もう主を救いたいという切なる願いは彼女の脳裏には微塵もない。彼女は唯異質に対する原初の恐怖から、生存への欲求から剣閃を走らせた。
 仙術を用いた百歩は空を踏み、八卦の印も九鬼曼荼羅を召喚する術法もいつもどおり行使できた。
 しかしながら、彼女の秘剣、未来永劫斬、祈りを込めたその技は何一つ成すことがなかった。
 虚無の塊とも言うべき暗黒球に刃を浸した瞬間、耐えがたい激痛が手首に走った。
 がたがたと柄が揺れ、底知れぬ反動が手を通して伝わってきたのは一瞬、ぱきりという音がして、何かが終わった感触が妖夢の全身を支配した。
 三国に渡りて害を成したと言われる大妖・天狐が殺生石を練磨して形を作り、何体もの禍々しき水霊を刀身に封じ込めて刃と成し、万世を経てなお輝きを失わぬ伝来の宝刀、楼観剣。所持者がその気になりさえすれば、三千世界に斬れぬものなど無しと謳われたその刀身が、音を立てて脆くもばらばらに、完膚無きままに決定的に砕け散った。
 信じ難い一撃だった。妖夢が渾身を託して放った剣撃のほぼ全てが、そっくりそのまま術者本人に跳ね返ってきた。
 同時に、まるで空間自体が干渉されたことを怒ったかのように膨張し、破裂し、衝撃波となって周囲の物を弾き飛ばした。
 五体の軋む音を感じ、強烈な衝撃で体がのけぞる感覚を覚えたその瞬間に、妖夢の意識は途絶えた。



 ぶはっ、と水を吐いた。
 もがきながら岸に手を付ける。濡れた髪から水がぼたぼたと滴り落ちる。
 濡れて重くなった衣服と体を無我夢中で引きずって水の中から這い上がる。
 地面に両手両膝が付くことが分かると、腹に力を入れてもう一度水を吐き出した。ごほごほとせき込むと、肺のあたりに鋭い痛みが走った。
 吐き出した咳には紅いものが混じっている。
 耳鳴りがする。空が囂々と鳴っている。天の一角が黄昏色に染まっていて、その周りを陰鬱な霧が包んでいる。
 瞼についた滴を払いながら見渡すと、記憶にある場所だった。
 霧の立ち込めた湖畔、樹木が罔両のように水面に影を落としている。
 紅魔館のある湖。自分は冥界から弾き飛ばされて、こんなところまで来てしまったのだ。
 体中が痛む。手足は無事なようだが、体の骨がいくらか折れている。
 痛みがあるということは生きている証拠。それは半霊にも当てはまる。
 が、命が助かったという事実も彼女にとっては気休めにならない。
 心の中に空いた埋めようのない空虚に、妖夢は嗚咽を漏らした。
 今の彼女を支配しているのは、ただただ底知れない、喪失感。
 幻想の大気が、霊気が、三百里離れた先で起こった出来事を明確に伝えていた。
 冥界・白玉楼の主、彼女の主、富士見の娘・西行寺幽々子はこの世から消滅した。
 地面に突っ伏して首を伸ばした時に、自分の右手が視界に入った。
 五指は無事だが、手の甲に深い切り傷や何かが高速で衝突したことによってえぐられた痕が無数にできいた。
 それでもまだ、手の平は固く結ばれ、中には刀の柄が握られていた。
 見ると楼観剣の刀身は根元からもぎ取られたように無残に折れてしまっている。
 これではもう刀としての用は成さない。その無力な様を、まるで自分の事のように感じる。
 目の前にいたのに。何も、できなかった。
 また深い咳を何度かして、水と血の塊を吐き出した後、少女はまた、小さな嗚咽を漏らした。

「う、うううう……」

 声がだんだんと形をなし、音量も大きくなっていく。
 しばらくして、誰もいない湖に少女の絶叫が木霊した。


 6


 妖怪の山。
 この場所は現在深い霧に包まれており、外部との連絡をほとんど遮断されている。
 山に漂っていた幽霊たちは既に消えていたが、妖怪達は普通に生活を続けていた。
 紫から伝言が入っており、それを信じ切っているのだろうか。異変解決に動こうとする者は誰もいない。

「ふーん、なかなかの神社じゃない」

 立派な服装をした少女が守矢神社の境内を歩いてくる。
 彼女の身に着けている七色に輝く装飾品がちゃらちゃらと音を立てた。
 客が来たことに気づいて境内に早苗が出てきた。

「あれ? あなたは確か」
「こんにちは。宴会ではお世話になりましたね。比那名居天子です」
「天人様でしたか」

 天界の最も高い所、有頂天に住む天人と聞いている。 
 早苗にとっては特に親しい間柄でもないので、彼女が守矢神社を訪れたことが不思議だった。

「例大祭の前、舞台の交流会の時もいくらか話したんだけど、覚えてないのね」
「え、そうなんですか?」
「無理ないか。あなたすごく酔っ払ってたものね」
「ごめんなさい、私お酒弱くて」
「あなた、例の夢は見たの?」
「夢ですか? 見るには見るのですが。もともと私は外の世界から来ましたし、唯の昔の夢という感じですね」

 早苗がそう言うと、天子が覗き込むように早苗の瞳を見つめる。

「あの、何か?」
「ねえ、あなたがこちらに来た経緯を聞かせてもらえないかしら」
「ええ、神奈子様が幻想郷でセカンドライフを送りたいって仰るのでそれに付いて来たんですけど。昔から日本には幻想郷と言う妖怪や精霊が住む場所があると聞いて。それで私も少し憧れていたんです」
「向うで神社や湖が消えたら大騒ぎでしょう? その辺りはどうしたのかしら」

 聞かれて早苗は神奈子が施した術のことを答えた。

「そう、湖も神社もダミーを残して、ね」
「どうしたんですか」
「いえね、私の見た夢とはずいぶん違うと思ってね」
「え?」

 何のことだろうと早苗が不思議に思い始めた直後に、境内の奥から神奈子が出てきた。

「天人が何の用だい。私の風祝をナンパするつもりかい?」

 天子は博麗神社をぶっ潰し、建て替えることによって自分を祀る神社にすげ変えようとした経歴を持つ人間だ。神奈子はその経緯を聞いていたので、もしかしたら守矢神社もそうやって狙っているのかもしれないと警戒心を露にした。

「お誘いに来たんです。幻想郷、もう終わるらしいじゃないですか」
「そうらしいね。入ったばっかりだってのに、もう終わりだなんて。ああ、せっかくのセカンドライフが台無しだよ」
「最後に博麗神社に行って、ぱーっとやりませんか?」

 ぱーっとという言葉を聞いて幻想郷の者たちが思い浮かべるのは二つだ。一つは宴会で、もう一つは。

「なるほどね。最後の弾幕勝負ってわけか」
「確かにそれが私たちらしいわねえ」

 諏訪子も境内の中から出てきた。
 二神と天子はお互いを見遣ってにやっと笑みを浮かべる。
 最後の神遊び。それも一興。
 天子の言を受けて、守矢神社の一行はそのまま博麗神社へ移動することにした。
 空を飛んで移動する。彼女達が高空に飛び上がると、変わり果てた幻想郷の姿が見えた。
 もうすでに郷の周囲は水に囲まれ、霧は世界を覆う壁のようにその水面に聳え立っている。
 水は全て茜色に染まっているので、残った土地はまるで血の池地獄に浮いた孤島のように見えた。
 そんなものを眺めながら神社に向かう。
 移動している途中に天子が二神に話しかけた。

「お二人は以前はどうされていたんですか?」
「どうってずっと諏訪にいたさ」
「お二人は夢を見ました?」
「ああ、見たよ。まあ夢って言っても結局、以前外の世界で暮らしていた時のことを見てるだけだねえ」
「ここが夢の世界だって言われてけっこうびっくりしたけどね」

 諏訪子も相槌を打つ。

「伝え聞いていた伝承じゃ、博麗大結界によって幻想を取り込んだ郷としか聞いてなかったしねえ」
「本当に、本当にそうなんでしょうか?」
「何が言いたいんだい?」
「いえ。早苗さんはどんな夢を見ているんでしょうかと思って」
「早苗だって同じだよ。外の世界で私たちと一緒に暮らしていて」
「東風谷早苗。守矢神社の風祝。私の夢にも同じ人が出てきました。その人は……」

 意表を突くことを言われて、神奈子は即座に天子の方を見る。

「もうすぐ神社に着きますね。ここからは霧が深い。地上に降りましょう」
「あ、待て」

 天子は言葉を続ける前に勝手に地上に降りてしまった。
 神奈子達守矢神社の三人もその後を追った。


 7


 幻想郷の滅亡が顕著になっている。
 人々は最初、幻想郷の周辺にある高台に避難したが、やがてそれも無駄な試みであることがわかった。
 避難した者達も、いつとも知れず消えて行った。
 水自体に消失の効果があるのだから、そこから蒸発した霧にも、同じ効果があるのだろう。
 誰かがそう言った。
 確かなことは解らなかったが、幻想郷は滅亡するという。紅い水は範囲を広げ、徐々に幻想郷の大地が消失していっている。
 やがてこの水は郷の全土を埋め尽くし、幻想郷と言う名の土地は跡形もなく消えるだろう。誰もがその事実を受け入れなければならなかった。
 紫は使令を放ち、郷の各地に自分が知っていることを伝えていた。
 幻想郷は夢の世界であること。水は夢を消していく効果があるので、その水に触れると皆夢から醒め、幻想郷から消失する。だけどそれは死ではない。単に夢から醒めて、元居た現実の場所に帰るだけなのだから、何も心配することはない。
 それは里の者たちにも受け入られた。誰も消え去りたくはない。新しい生があるのだと言われれば、そちらの方が希望が持てるから、それを信じたがる。


「すごい霧ねえ」

 竹林の中にも霧が漂ってきている。
 鈴仙は急に霧が湧き出した原因をまだ知らなかった。だからその霧がもたらす効果も知らないが、なにしろ気味が悪いので率先して霧の中に入ろうとは思わない。

「鈴仙、わかってる?」

 隣を歩いていたてゐがいつにも増して真剣な表情をして話しかけてきた。

「ええ、何匹かもう」

 鈴仙は落ち込んだ表情を作る。
 永遠亭の兎も既に何匹か行方不明になっていた。
 霧に巻かれて迷って、そのまま水の中に落ちてしまったのだろうか。
 それとも他の原因があるのか正確なところは解らないが、先日から次々と見知った顔が消えていっている。

「何が原因かわからないけど、水以外にも原因があるのね」

 言われて鈴仙は周囲を見渡す。

「あの霧、もしかして」

 ようやく、水が増えたから霧が発生したのではないかと連想する。
 そして兎たちの行方不明と霧を結びつけて考える。
 そんな時に、てゐが近くに寄ってきて鈴仙のブレザーの端をちょいちょいと引いた。

「ねえ、鈴仙」
「なに?」
「れいせんはさ、地上に来て幸せだった?」
「え? どうしたの急に」

 見下ろすと、深刻そうに眼を伏せたてゐの顔があった。
 いつもいたずらばかり考えているてゐにしては珍しい神妙な表情だ。

「やめようよ。何だかそれって……まるで……」

 最後のお別れを言ってるみたいじゃない、鈴仙は言葉には出さず、心の中で繋げる。

「だって、聞いた話によれば、幻想郷は夢だって言うじゃない。私が見た夢の中には鈴仙は出てこなかった。だから」

 てゐの言いたいことが分かった。二人は現実の世界では友人ではなかった。
 もし幻想郷が終わって離れ離れになってしまえば、再び会えるかどうか分からないのだ。

「探すよ。夢が醒めて、元の世界に戻ったら、またてゐのことを探すよ」
「だって、住所も電話番号も覚えてないし。私の夢は、肝心なところは出てこない夢だったから」

 てゐが落ち込んだ顔をしてうつむく。
 彼女は百を数倍した歳を生きている妖怪だと言うのに、そうしている姿は外見通り子供にしか見えない。
 鈴仙はゆっくりとてゐの両手を取った。そしてやっぱり年下に言い聞かせるようにゆっくりと話す。

「私は月から降りてきて、それでも広い地球の中からてゐを見つけたんだよ。世界がどれだけ広くたって、てゐのことを探すよ」
「鈴仙」
「だから寂しいのなんて、別れなんて一時のことだよ。向うの世界で出会ったら、そしたらまた友達になろう。ね?」
「む」

 さらにてゐがうつむいて、繋いでいた両手を離した。
 そのままくるりと踵を返して背を向けてしまった。

「てゐ、どうしたの?」
「こっち見ないで。差し障りあるから」

 てゐは自分は我がままだから、鈴仙には今までひどいことを一杯してきたんじゃないかと思っていた。
 嘘ばっかりついて悪戯をし回って、大抵その被害を真っ先に被るのは鈴仙で、ずっと彼女を困らせてきた。
 それでもやっぱり鈴仙は自分のことを親友だと思っていてくれた。
 こんなに仲の良い友達ができたのは、何年ぶりのことだろうか。
 そしてその友達が、ずっと友達でいようと言ってくれる。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
 それで感極まって、ちょっと涙ぐんでしまったらしい。

「ちょっと感動した」

 鼻をすすりながら眼頭を赤くして、てゐは鈴仙の方に向き直り、素直な気持ちを伝えた。

「えへへ。てゐ、てゐ・れーせんはインペリシャブルよ!」
「おー、意味わかんないぞー!」

 鈴仙も気恥ずかしくなったらしく、ノリでごまかした。
 二兎は笑い合いながら竹林の中を歩いて行く。


 まだ霧が差しこんでいない頃、永遠亭の縁側では輝夜と永琳が並んで話をしていた。

「紅魔館、失敗したらしいわね。それにしても、永琳の力でもどうしようもないなんて」
「彼女の言が正しいのであれば何をしても無駄なのでしょうね。結界も全く効果ありませんでした」

 永遠亭もこっそりと幻想郷を覆っている水の除去を試みたが、それは徒労に終わった。
 水を防ごうと永琳が設置した結界は全く効果を及ぼさず、水はただ結界を素通りするだけだった。
 永琳に無理なのであれば、自分にも無理だろうと思い輝夜は早々と抵抗を諦めていた。

「まあ元々すぐに消えちゃいそうな幻想だったけどね。不老不死の月人なんて。それにしても残念。人が増えてきて、これから楽しくなりそうだったのに。月満つれば則ち虧く、ということなのかしら」
「さほど満ちた印象もありませんが。何か彼女にしかわからない原因があるのでしょう」
「随分殊勝に八雲の味方をするのね」
「言ってみれば我々は居候の身ですからね。幻想的にも、もう一方の意味でも」
「ふーん。良く分からないけど。何か知ってる風を匂わせるのはあなたも得意なのね」
「勿体ぶって話せば奥深みがあるように聞こえるでしょう」
「私も真似してみようかしら」

 輝夜は縁側から立ち上がり、永遠亭の庭先を少し歩いた。
 陰鬱に茂る竹林からわずかに洩れる光が庭を照らしている。
 もう少ししたら長年住み慣れたこの屋敷ともお別れなのだ。
 あとどのくらいか分からないが、異変の進行具合から考えてそれほど遠い未来のことでもないと思う。
 暫く歩いてから輝夜は振り向いて永琳を見た。

「それにしてもどういうことなのかしら。外の世界の夢を見るようになったら、今度は三途の川が溢れて幻想郷が消える?」
「全部繋がっているのでしょう」
「私には関連がわからないけど。永琳は何か気付いているのね」
「逆なんじゃないかと思ってます」
「逆って言うと?」
「もともと幻想郷が終わりかけていたから、夢を見たんじゃないかと。夢が醒めかけていたから、そこにいた者たちは」
「現実を思い出し始めた」

 言葉を繋ぐ。
 そうか、そういう考え方もできるのかと輝夜は目が醒めたような思いを味わう。

「そういうことです」
「では今までみんな幻想郷っていう夢を見ていたというのは真実なのね? この郷は作られた世界だと」
「誰も世界が三秒前に始まっていないことを証明できるものはいません」

 以前永琳は境内で同じことを言った。
 彼女は疑っていないのだろう。作られた世界。本来在るべき場所、本当の自分は別にある。それが事実だと。

「あのね」
「はい」
「もしあっちの方が現実だとしたら、えーりん私に懸想してる男の子になっちゃうんだけど」
「今プロポーズしてもかまいませんか?」

 すこし気弱そうな表情をしながら、まっすぐに輝夜を見つめる永琳。

「嫌だわ、そんな冗談」
「冗談ではありませんよ?」

 絶句する。
 本気なのかどうかわからないが、もう永琳の口元には笑みがなく、むしろなぜ冗談だなんて言うんだろうと不思議がっている様子に見えた。

「ゆ、夢が醒めたら」

 直視にたじろぎながら、輝夜は声を紡ぐ。話題を逸らしたかった。

「あっちの世界に戻るのかしら。ということは、既に消えた人間は死んだわけじゃなくて、ただ夢の外の世界に戻っただけってこと?」
「そうだったら何の問題も無いんですが……」
「どういうこと? 他に何かあるのかしら?」
「三途の川から終わりが始まったということが気になるんです。ただの偶然ではないと思うのです」
「三途の川?」

 輝夜は首をひねる。
 三途の川から異変が始まったということと、夢と現実と何か関係があるだろうか。
 確かに、洪水によって夢の世界の終わりが齎らされたというのは何か象徴的な意味がありそうに思えたが、だけどその二つの繋がりが良くわからない。だいたい世界の終りだからと言って、今まで何百年何千年と穏やかだった川の水が唐突に溢れて幻想郷が水没するなんてのは因果が無いように思える。よく神話で洪水で世界が滅びるからとか、単純にそういう繋がりなのだろうか。
 そうなるとそもそもそう言った神話との関連を考えて世界の終りを用意した主体がいるのだろうか。それもおかしな話だと思う。そうするとご丁寧に終末の筋書きを用意してくれた唯一神のような存在が何処かに居るという事になる。だとすると、そいつは誰?

「妹紅はどうしてるんでしょうね」

 輝夜が考え事をしていると、永琳が知り合いの名前をポツリと漏らした。
 妹紅もずいぶん長い付き合いになる。
 それに夢の話が本当なら、幻想郷終焉後には自分達と妹紅はかなり近しい位置で生活することになる。

「どうするって言うと?」
「そのまま今の生活を続けて水没を待つんですかね」
「そうねえ、気になるわね。丁度いいわ。今本人に調子を聞いてみましょうか」
『え?』

 どこからともなく第三者の声が聞こえる。
 輝夜は廊下にあった壁まで歩いて行き、そこに付いていた障子窓をがらっと開けた。
 あれっ、と障子戸の向う側に隠れていた妹紅が唖然とした顔をする。

「ねえ、妹紅。あんたどうするの? これから」
「うわあっ!?」

 妹紅は意表をつかれてのけぞった。

「なに、なに? バレバレだったの!? もしかして今までも」
「なーによ。あんたがいつもそこで聴き耳立ててるのなんて、とっくの昔からもりっとお見通しよ」

 妹紅の顔が真っ赤に染まる。
 妹紅は二人の様子が気になっていて、だいぶ前からこの場所に入り浸りだった。
 一定時間うろたえた後、妹紅はしゅんとうつむいた。
 どちらにしろ、もう皆とお別れなのだ。恐らくはそれを想い儚んでいるのだろう。

「なーに辛気臭い顔してんのかしら。まあ、こっちにいらっしゃいよ」

 うつむきながら輝夜に手を引かれる。
 歩いている途中、輝夜が柱の陰に隠れていた兎たちに目くばせをした。

「ん? あのー」

 輝夜は自分の手を引いてすたすたと廊下を進む。
 どこへ連れていくつもりなのだろうかと思っていたら、突き当たりの部屋の障子を開けた。
 目の前の畳敷きの部屋に布団が用意されている。
 今は昼だ。まさか万年床と言うこともなかろう。ということはさっき兎に命じて敷かせたのだろう。

「うわっ!?」

 輝夜が急に妹紅の手を引いたために、妹紅は布団の上に倒れこむ。
 そのまま妹紅の上に乗り、胸に顔をうずめる輝夜。

「あら、ぺったんこ」
「で、これはなんなんだ?」

 眉をはねあげながら自分の上に乗っかった輝夜の顔を除けようとする。

「最後だから、一線を越えてみる?」
「何バカなこと言ってんの」
「あら、意外と冷めてんのね。じゃあ、ヤる?」
「そっちの方が私達らしいんじゃないか?」
「まあね」
「まったく猿芝居して」

 わざわざ布団まで敷いて。意味がわからない冗談だ。

「あら。ちっちゃい頃はお姉ちゃんお姉ちゃんって言って私の隣で寝てたじゃない」
「それは夢の話だろ!」

 妹紅が叫ぶと、輝夜がちょっと真面目な顔をになった。
 そうだ、もう夢かどうかもわからないんだった。
 もしあの夢が現実で、幻想郷側の方が夢なのだとしたら、自分と輝夜は本当の姉妹ということになる。
 夢の中で、自分は姉に対してどのような感情を抱いていただろうかと妹紅は思い返す。

「とりあえず今は関係ないか」
「なあに?」
「何でもない。じゃあいくぜ!」
「おうともよ!」

 永遠亭から蓬莱少女二人が幻想の空に舞い上がった。
 太陽が南中し、お昼になるまで輝夜と妹紅は弾をぶつけあう。
 自分の前にいるのは一体誰なのだろう、と妹紅は思う。
 あの妖怪は、幻想郷は夢に過ぎないのだと言った。
 自分達の千年の歴史も。あれほど互いを憎み、そして焦がれた日々も。
 全ては夢で泡沫のよしなしごとで、植えつけられた記憶に過ぎなかったのだと。
 でもそれってあんまり自分達には関係のないことなのかもしれない、と妹紅は空の中で思った。
 なぜって、輝夜が言うからだ。竹林の千本槍の上、霧がかり周囲を黄昏に囲まれた青空の中で。
 妹紅、わかるでしょ、私たち蓬莱人にとっては……


 輝夜があちこちぼろぼろになった服をひきずりながら、永遠亭に帰ってきた。
 妹紅とは空で別れたらしい。彼女も他に別れを告げなければならない人がいるようだ。
 恐らくは白澤とか、里に住んでいる知人などだろう。
 屋敷の玄関で永琳が輝夜を出迎える。

「あらあら、ずいぶん長いこと遊んでいらしたんですね」

 声の調子が面白かったたので輝夜はころころと笑った。

「なあに? まるでやんちゃな子供の帰りを待つ母親みたいな口ぶりね」
「姫様と過ごした永の年月の間中、それと似たような気分でしたわ」
「ねえ、私と一緒に地上に来て、後悔していないの?」
「今更そんなことを聞かれるのも不思議なものですね。私はもともと地上の人間ですから」
「あら? 前にやった劇って本当だったの?」
「真実でもあり、幻でもありますわ。昔はそれは本当に昔は、物には形がなく、もちろん名前も明確に決まっていなかったんですよ。まだ性別もなくて男も女も無かった時に、私は月を司る女神の伴侶でした」
「それ本当の話なの? じゃああなたの弓の名前、后羿って言うのはその」
「だけどもう、否定されたお話かもしれませんわ。だってこのお郷は、もう夢かもしれないと言われているのですから。私が覚えている歴史は、ただの幻なのかもしれません。まさしく荘子が見た胡蝶の夢のように、別の世界の幻影に過ぎなかったのかも」

 荘子はある時蝶になった夢を見て、自分と蝶の間には明確な境界など定義できないのだと語ったと言う。
 自分達が見ていた別の世界の夢。あれはまるで胡蝶の夢のようだった。
 どちらが現実で、どちらが本当の自分なのか区別がつかない。

「八意永琳はどうして月を愛したのかしら」
「私は形のある永遠が欲しかったのです。月には不老不死の人が住むと言われていたから。私も不老不死になって、蓬莱人を愛そうと思いました。そうすれば、永遠に別れが来ることはないから」

 少し笑みを浮かべて、板敷の向うの虚空を見ながら永琳は語る。
 輝夜はその背後に真円に光る永夜の輝琳を見た気がした。
 彼女が求めたもの。永久に変わることのない輝き。

「人は皆それを望んでいると思うのです。人は誰もが永遠を欲しながら、心の底からそれを信じることができない。だから恐れる。忌わしい、自然の摂理に反したものだと理由を付けているけど、本当はただ触れるのを、幸せになるのを怖がっているだけ。不老不死だって、仲の良い人と一緒に暮らせるならそれは楽園となるのに。あまりにも夢がかないすぎてしまうと、それを受け止めるのに人間は躊躇してしまうのですね。逆に怖くなってしまう」
「そうかしら。私は怖くなかったし、夢がかなうんなら大歓迎よ。最も、私には永遠なんてなくても、今この時で十分だけど」
「それは姫様は特別なお方ですから」

 そう言われて輝夜は考える。
 母親として父親として。同性になっても異性になっても。
 いつまでも永遠に、のべつまくなしの愛を注がれる。
 そんな資格のある人間がいるのだろうか。自分にそんな資格があるのだろうか。
 輝夜は考える。そしてそれをしてきた人を見る。

「それはそれは、特別なお方」





 日暮れ頃、泣き腫らした鈴仙が永琳の元にやってきた。

「どうしたの!?」

 鈴仙の只ならぬ様子に永琳は狼狽した。

「てゐが、てゐが戻らないんです。川の様子を見に行くって。兎と一緒に出て行ったっきり」

 兎の耳が力なくしなだれて、頬が痛々しく赤く染まって。
 ぼろぼろと玉の涙を垂らしながら鈴仙が訴える。
 そこまで気にすることもない。夢が醒めて、皆がまた元の場所に集えば……そう言って鈴仙の気を安らげようとしたが、永琳は鈴仙の様子から解ってしまった。
 ああ、この子も解っているのだ。永琳ももう解っていた。
 てゐはもう帰ってこない。彼女は、あの力に包まれたのだ。
 この子にはもともと過敏な性質があったから、と永琳は不憫に思う。
 波を聴きとると言う能力は、得てして彼女を不幸にする。多すぎる情報は決して人を幸福にはしない。
 感情のある知的生物はある程度盲目である方が、生きる上で都合がよいのだ。
 鈴仙はきっと自分の能力によって、郷の夢の終わりまでを識ってしまったのだろう。
 数ある幻想の一つの形、みたいなお話。

 「黄昏の郷の黄昏 陰」は中編になります。後編「黄昏の郷の黄昏 箭」に続きます。
nig29
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コメント



0.1990簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
ああ…やだよ、先を読むのが怖いよ…
続きは明日にしよう。でも夢に出てきそうだ。
6.無評価名前が無い程度の能力削除
読後感が幼き日に読んだ某神話の神々の黄昏と完全同じ……。

>紫のあんな表情で見るのは初めてだ。
表情を、とかの方が良いと思います。
8.90名前が無い程度の能力削除
やべえ続きが気になりすぎる。

>取りん込んだ世界
>受け入れらた
誤字報告でございます。
9.90名前が無い程度の能力削除
ほんっと超大作ですね。
続き、読んでまいります。
10.90名前が無い程度の能力削除
続きを読むのが怖いわ
15.90名前が無い程度の能力削除
う…うわぁぁぁ;;  リアルで今涙目です
20.100しず削除
ぞくぞくします。
この幻想、嫉妬せざるを得ない。
21.無評価名前が無い程度の能力削除
ちょっとエヴァチック?
続きがたのしみです。
22.100名前が無い程度の能力削除
うおおお…。悪い予感しかしねえW
こ、こわい!でもみちゃう!く、くやしいっ!
24.100名前が無い程度の能力削除
俺はパッチェさんをおもちゃにした武装集団を絶対に許さない!絶対にだ!
28.無評価名前が無い程度の能力削除
誤字報告のみです。

> 追い払っても追い払ってもいついつもついてくる。鬱陶しったらありゃしない。
31.無評価名前が無い程度の能力削除
>基督の名前だけ借りた奇天烈な名前の新興宗教
えー……これ、モデル、っていうかわりとそのものな団体が現実に存在しますよね?
昔を思い出してちょっと作品とは別のところで欝になりました。
うちの場合家族仲はまぁ良好でしたが。
39.100名前が無い程度の能力削除
散りばめられた伏線が気になるううう
後編、読んできます
48.100名前が無い程度の能力削除
やばい止まらん。ワクワクというかドキドキ。
一体何が起こってるっていうんだ・・・閻魔たる四季様は普通に消え去ったのに幽々子には意味があって・・・?
紫の考えが読めないし藍は外の世界から帰ってきて早々消え去って・・・そもそも帰れない状況になったのはなんでだろう。逆なのか?吸い込まれてから外へ、外の世界からまた中へ・・・?
夢を見てないのは霊夢・魔理沙・?で天子もなんか知ってる臭いし・・・というかこの嫌な予感はなんだ・・・
うおおおお続き続きィ!
50.無評価名前が無い程度の能力削除
胡蝶の夢。