九天の滝。圧倒的な規模と勢力を持つ、妖怪の山にかけられた真白の垂れ幕。風という外力ではなく、自らの
重みで波打つその単色の帳は、しかし見るものが見れば様々な色の刺繍が施されていることに気が付くだろう。
それは巡る四季の一時にしか目にすることの出来ない、天からの恵み。単調な瀑布を錦に変える、八の彩り。
即ち、色彩と形の異なる秋の木の葉。これらと天より流れる滝とを合わせて、あの場所は九天の滝と称されて
いるのである――
遠く視界に秋めく滝を映したまま、犬走椛はそんな内容の眉唾話を思い出していた。この仮説は同僚の白狼
天狗が得意げに話していたものなのだが、あまりにも強引過ぎる説だったためか自分だけでなく周りの仲間達も
納得できない様子を示していた。
椛は視線を遥か遠くの九天の滝から崖下を緩やかに流れていく渓流の方に転ずる。そこには同僚曰く瀑布の
刺繍が、あるものは散り散りに流れあるものは寄り添って滞っていた。椛はそれら一つ一つの形と色を注意
深く観察する……どう見ても八種類以上に容易く分類することが出来そうだ。自分が今立っている、山の
中腹を流れる川の一部でさえそうなのだから、滝から川、麓近くの霧の湖まで全部を見渡してみれば、両手の
指をもってしても数え上げられないほどの様々な落ち葉が流れているに違いない。
とりあえずその話を聞いたときは、同僚に対して曖昧な反応を見せてお茶を濁した。ただ、後にこの話を
知り合いの鴉天狗に語った際に言われた言葉が今も忘れられないものとなっている――
「へぇ、なかなかに面白い仮説じゃない」
「でもいくらなんでも乱暴すぎると思います。同じ樹に茂っている葉っぱでさえ大きさや形や色が違って
いるというのに、落葉する木々を全て含めて考えたら明らかに八では足りませんよ。八百万というのなら
まだ分かるのですが」
「それだと八百万に一が飲み込まれてしまうわね。では、『八百万の滝』というのが正確な表現? でも
これだと九天には込められていた『高い場所。天上』という意味が無くなってしまうわね。代わりに
残ったのは『極めて多くの』という意味。でも、この滝は一つの流れでしかないからこれは不適切」
「それは……」
「本来の意味を壊さず、視点を変えた新たな意味を付加する。それが面白いものであれば、多少の無理は
あっても受け入れられるものよ。むしろ、真実を持ち出して他の解釈を全く否定してしまう方が粋では
無いこともあり得る。『物言えば 唇寒し 秋の風』というところね。少しくらい盲目である方が人生を
愉しむには丁度良いのよ。まぁ優れた眼を持つ貴女には悩ましい話か、見えすぎるというのも考え物ね」
――こんな具合だっただろうか、と椛は鴉天狗とのやり取りを回想する。何度思い返してみても、報道機関に
属する彼女に煙に巻かれただけのような気がする。彼女は面白さを優先し、その為なら多少は真実を曲げる
事も厭わない主義だということを知っている。そもそも、自分は九天の滝という呼称を変えようなどとは
露も思っていなかったというのに……
あの時もそのような文句を皮切りに反論しようとしたのだが、鴉天狗の言った一言に心を持っていかれてしまい、
結局何も言い返せなかった。確かに椛は彼女のもたらした言葉の一部分に、大いに同意するところがあることを
自覚していた。
見えすぎるのも考え物――
椛は、後ろに聳え立つ樹の上に身を潜めている人物のことを思い、気付かれないようにそっと溜息を吐いた。
その接近に気付いたのは全くの偶然だった。
それは、何の気なしに抜き放っていた白銀の太刀にその映し身をさらしていた。風が木々を揺らす音に紛れて
枝から枝へと移り渡り、時折だるまさんが転んだ、をしているかのように幹の後ろに身を隠す。その身に
纏っている服が、周りの秋めいた葉と同じ色をしていたので見づらくはあったものの、鏡のような刀身に映った
風景からも充分にそんな様子が見てとれた。
その人物が自分のもとに訪れるというのは予め知っていたことだが、その来訪の仕方はまるで予想して
いなかった。おそらく、こっそりと近づいて驚かせようとしているのだろう。そこに思い至ってみれば
この行動にも納得がいった。今までの交流を思い返してみればこういう稚気を覗かせることがしばしば
あったからだ。
今、椛は来客の意図するところに気付いてしまった。これで自分は身が縮む思いをしなくて済むのだが、
ここで即座に振り返った場合確実に落胆した顔を拝むことになる。それは出来れば避けたい事態だった。
そのため椛は一芝居を打つことにする。後ろの存在には気付いていない振りをして、いざその人物が
こちらを驚かせようとした時には不自然ではない程度に驚く。太刀はすでに腰の鞘に収めてある、こちらが
気付いていることを相手に悟られないように。結局、この場においても相手を興醒めさせないように
振舞っていることに、椛はかすかに苦笑した。
気の緩まった瞬間を狙っていたかのように、驚愕の魔の手が椛の心臓を鷲づかみにした。
起こった事実で表現するならば、何かが椛の顔面に目隠しをするように纏わりついた。
「うわわっ!」
演技などでは決してない、本心からの叫び声が山中にこだまを響かせる。慌てて顔をぬぐおうとするも、
焦りからか上手くいかない。自慢の千里眼も、こうして塞がれてしまっては近くのことでさえおぼつかない。
と、唐突にこの戒めが解除された。黒一色の世界が再び秋の山川の景色に変ずる。この改めて開かれた
視界の端には、つい先刻まで顔を覆っていたと思しき二枚のモミジの葉が映っていた。否、それはモミジの
葉のように繊細華奢な手のひらだった。椛は首を身体ごと振り返らせる。そして飛び込んできた来客の
有様に二度目の叫び声を上げかけた。
来客は悪戯っぽい笑みを浮かべて小さく舌を出していた。その、あどけない子供のような表情がゆらゆらと
揺れている。それもそのはず、来客は両脚を枝に引っ掛けて、逆さ吊りになっていたのだ。この状態なら
確かに、地面と接する音を立てることなくこちらの視界を奪えるだろう。
来客はすぐさま勢いをつけて身体を樹上へ持ち上げ、さらに身体を前に倒して枝から飛び降りる。その
過程でスカートをつまんで身体を一ひねり、こちらと向き合う姿勢をとりつつ音も無く地面につま先立つ。
膝と首を軽く折って着地したその姿は、身分の高い女性が会釈をする様とうり二つ、もっともこれは西の
様式ではあるが。来客が見せた一連の動作に椛は目を奪われていた。
秋静葉。妖怪の山の麓付近に社を構える、八百万の秋の神、その一人。木々の紅葉を司る、寂寥と終焉の
象徴。その名が示すとおり、彼女の言の葉が誰かの鼓膜を震わせることはない。その代わり、紅葉(モミジ)を
連想させる両の手のひらを様々に振るって、ある種の手話のような意思伝達を行っている。しかしその
意味するところはまだ彼女の身近にある者達にしか理解されていない。
椛も、そんな静葉の傍らにある者の一人であった。色々と我を忘れてしまう事態があったが、何とか取り
戻したうえで、椛は静葉の手をとった。西の様式の挨拶を返すためにその手の甲に唇を寄せる……などと
いうことは勿論しない。西の騎士道についてはある程度は知っているが、生憎と信奉するのは天狗道、と
椛は胸中で独りごちる。その代わりに、静葉の手のひらの上に自分の人差し指を走らせ、平仮名を一文字
ずつ書き連ねて意思を伝える。曰く、
「こんにちは。相変わらずお元気そうでなにより」
勿論、椛は静葉とは違い、言葉を喋ることは出来る。しかし静葉と会話をするときにはこのような筆談めいた
手法を用いていた。別に静葉は言葉を喋ることが出来ないからといって、耳まで聞こえないというわけでは
ない。この回りくどいやり取りは、ひとえに他人に合わせようとする協調性の高い椛の性格の問題だった。
そんな椛の心遣いと指使いをくすぐったく感じている静葉は、空書きに使われていない方の手をひらひらと
振って挨拶に答える。それからすぐさま中途半端な合掌のポーズをとり、申し訳なさそうに笑う。先程の悪戯を
気にしているのだろう。椛も力の抜けた笑顔を返し、走り書く。
「いえ、お気になさらず。見事にしてやられました。哨戒を務める者がこの始末、まだまだ私は修行不足
ですね」
背後からの接近に気付いたのは全くの偶然であり、また発見した時点で気が緩んでしまったことは、言い訳の
仕様が無い事実である。ともかく、静葉の顔に落胆の色を塗る事態を避けれたことに椛は安堵した。
静葉と最初に出会ったのは、未踏の渓谷に住む谷河童と夜通し将棋を指した帰り道だった。
その早朝の渓谷には深々と霧がかかっていた。隈の出来ていそうな目をこすりつつ、椛は九天の滝を目指して
飛んでいる途中だった。噂に聞く、三途の川霧もかくやという白い風景の中にあることに加え、眠気で曇り
きってしまった目では周りの距離感を全く掴めないでいた。
そんな連想をしていたからだろうか、霧の中にぼんやりと紅い何かを見かけたときは、今の自分が異界に
飲み込まれてしまったのではと勘違いしてしまった。しかしよくよく目を凝らしてみると、それらは川を
下るモミジの葉の群れだった。水に揺られる紅い木の葉が列を成して進むさまは、先程考えていたことと
相まって精霊流しを彷彿させた。
椛は興味の惹かれるまま、この源流を突き止めようと更に上流へ進んでいった。しばらくは視界の下にしか
紅い灯火のゆらめきは見うけられなかったが、やがて前方にうっすらと燃え盛る火の源泉が見えてきた。
それは、纏わる葉の全てに緋を灯した松明のごとき木々。そこからはらはらと火の粉のようにモミジが
舞い落ちていた。
その中に見つけた、小枝を大幣のように振りながら踊る、一柱の神を。
愁いの化粧を顔に施し、枝葉を震わせて音を響かせるその様は、酷く寂しく見えた。そして椛は悟った、
これは木々の葬儀に等しいのだと。この神はその死を見送るために、こうして踊っているのだと。
まるで神事を執り行う巫女のように一心不乱に舞い続ける神。その連想は別の物悲しさを椛にもたらした。
この神は仕える巫女が不在のため、こうして肉体に神霊を宿して自身の神徳を顕現している、そのことに
気付いてしまったからだ。
山に住む神にはそういう者が多い。信仰は儚き人間のために、しかし人間はその儚さゆえに山には気軽には
近付けない。無論巫女など作れるはずもない。加えて山に人間を近付けさせない制度を、天狗の社会が敷いて
いる。椛は急にいたたまれなくなった。自分達の社会制度が、自分の好きな物に不自由な思いをさせている。
ならばせめてささやかながらも報いたい……では、信仰を要しない猛き妖怪である自分が今この場でとりうる
術は――
親交、その答えに至る前に、椛は自分の手を高らかに打ち鳴らしていた。その音に驚いた神は、踊りを
中断して椛の方を向いた。そこに拍手を続ける椛の姿を認めると、少しはにかむように微笑み、それから
スカートの裾をつまんで会釈をしてみせた。
あの時とは違い渓流を順行する中で、椛は繋がれた手の先にいる静葉の後ろ姿を見つめる。今ではこうして
約束を交わして一緒に行動するなど、親交をかなり深めている。特に人間の里が収穫祭の時期にあたる
時節には、静葉から誘いがかかる事が多い。何でもその時期には自分の住む無人社に妹が不在で退屈している
ためらしい。
今日はそんな静葉の妹が珍しく在宅中らしく、三人で一緒に食事でも、という運びになった。その妹、秋
穣子には幾度か会っている。鼻の利く椛にとって、いつも芳しい香りを漂わせている彼女は非常に好ましい
存在だった。作ってくれる料理も、温かく懐かしく、しかも美味たるものであった。もっともそれは秋だけに
限った話、というのは穣子の弁。それが彼女の神徳の及ぶ限界らしい。他の季節に彼女の料理を味わった
ことのない椛にとっては俄かに信じがたい話ではあったが。
椛は下方を流れる川に目をやる。待ち合わせた場所よりも流れは随分と緩やかなものになっていた。その
ためか、秋色の小舟がいくつも接岸している様子がよく見える。その色、形状を改めて隈なく観察する……
やはり、八程度の表現では明らかに足りない。そう、椛は紅葉の見せる多種多彩な模様を知っているから、
あの時同僚の話に普段は抱かない反発心を覚えたのだった。自分の焦がれているものはそんな程度ではない
……心中ではそう主張したかった。
しかし、静葉の神徳は目に訪れるものなれば、百の言の葉で訴えかけるよりも八百万の紅葉を同僚に一見
させた方が効果的であろう、そう思いとどまった。とりあえず静葉から絶好の場所を聞き出しておくか、
いっそのこと彼女の舞姿を見せるか、そのような企てを考えていた。またその他の試みとして、自分の
盾にモミジの葉以外の模様を飾っていこうか、そうすれば「なんだか名札みたいで可愛いわ」などと
からかわれることも……。
椛がそんな風に物思いに耽っていると、寝耳に水を注ぐかのごとく、下方から水飛沫が上がってきた。
「ぷぁ! えっ!?」
いきなり冷や水を浴びせられた椛はしかし、手をつないでいた筈の静葉の不在にいっそう驚かされることと
なる。では先程の音はもしや、と焦燥に駆られた椛が視線を直下に向けると、水面に紅い散華が見られた。
それは、水に解かれた静葉の服……彼女の衣装は紅葉を寄せ集めてその繊維を組み替えたものだと聞いている
……それらが再び本来の形となって、川へ散り散りに流されていく。
椛はそこに静葉がいないことを確認すると、今度は水中に焦点を合わせ、視線を走らせる……いた。その姿を
認め、しかし慌てて視線を明後日に反らした。失念していたことだが、今の静葉は服を着ていない状態……
下着姿だった。全くもって、見えすぎるのも考え物、である。
それにしても、いきなり泳ぎだすとは一体どのような意図によるものだろうか? 静葉の無軌道すぎる
行動にはついていけない時がある、椛は溜息を吐くことで今し方浮かんだ言葉の代わりとした。
とりあえず川の上に浮いていてはまた静葉を見てしまうかもしれないと考え、近くの岸に着地する。この
辺りの川は深くて流れが緩やかなためか、水音がほとんど聴こえない。そのため静葉が時折水面を乱す音が
はっきりと聴こえてくる。
しばらく耳を傾けていると、一際大きな水音とともに銀色の何かが岸に打ち上げられた。近付いてみると
それは一匹の鮭だった。その鮭が跳ね回って再び川に戻ろうとしたので、椛は慌てて押さえにかかる。尾の
付け根を握って持ち上げてみると、結構な重量であった。見事な秋鮭である。などと感慨を覚えているうちに、
二匹目が岸に放られてきた。これもすぐさま拾い上げる。ここに至って、椛は静葉が川に飛び込んだ理由が
分かった。となるとこれは、今日のお昼ご飯の材料調達だろうか?
考えを巡らせる暇無く、三匹目が打ち上げられた。これ以上は手が足りない、逃げられてしまう……そう
焦った瞬間、突如として伸びてきた蔓が鮭を固く縛り上げた。呆気にとられている椛の横合いから声が
かけられる。
「ふふ、鵜飼いは上手くいっているみたいね」
「え?」
気付かなかった、誰かの接近を許していることに。すぐさま顔を振り向ける……と、葡萄の匂いが椛の鼻腔を
くすぐってきた。視線の先に立っていたのは、右腕にバスケットを下げた、赤い帽子の少女。その、むき出しの
足がゆっくりとこちらに向けて歩を刻み、椛の近くで止まる。
「久しぶりね、椛」
「あ、ご無沙汰しています、穣子さん」
彼女こそが静葉の妹にして豊穣を司る秋の神、穣子。先程、三匹目の鮭を捕らえた蔓は穣子が動かしたものの
ようだ。確か地を這う草本に働きかける力を持っていると聞いたことがある。その、三匹目の鮭を捕らえていた
蔓が穣子の足元のところで鮭を解放し、穣子は空いている方の手でそれを拾い上げる。
「うん、身が締まってて、脂の適度な……流石、姉さんの紅い物に対する鑑定眼は優れているわね」
満足そうに鮭を眺める穣子。椛も自分が持っている鮭に一瞬目をやり、穣子に話しかける。
「これが今日の主菜ですか。それにしても、静葉さんってあんな風に川で漁をするもんなんですね。ちょっと
吃驚しました」
「あら、あれでも姉さんは川によく行っているのよ。魚以外にも、サワガニとかモクズガニとかを捕ってきて
くれることもあるし」
「へぇ、川蟹ですか」
「残念ながら、今日は無いけどね」
そんな風に二人して話していると、川の方から大きな水音が上がった。その方向に目を向けるも、追加の
鮭の姿はなかった。と、今度は岸の傍に生い茂っていた木々のある方から、何かが落下した音が聴こえてきた。
しばらくして、茂みの中から紅のガウンを纏った静葉が歩いてきた。どうやら森の中に降りた際に周りの
紅葉を集めて構成したらしい。髪に肌に雫を滴らせながら、静葉は穣子の方へ大股に近付いていく。目を
尖らせ、両手を激しく変形させる様から察するに、穣子に文句を言っているようだ。対する穣子はばつの
悪そうな顔をしている。
「ごめんごめん、確かに鵜って言ったのは悪かったわよ。それよりもほら、頭でも拭いとかないと」
謝りつつ、穣子はバスケットからタオルを取り出して静葉の頭にかけた。まだ何か、不満を表現したいと
思っている様子の静葉も、その手をタオルに移した。声を発することの出来ない静葉なら、こうして手を
塞いでしまえばそれ以上の文句を抑えることが出来る……つきあいの長い穣子ならではの回避法だった。
更にこの機を逃さず、穣子は状況を動かす。
「さて、姉さんのお蔭で主菜も主賓も揃ったことだし、最良のソースの煮詰まり具合も頃合いよし。今日も
存分に腕を振るうから、期待しておいてね」
そう高らかに宣言し、椛と静葉に微笑んでみせた。
森の中の開けた場所に、秋姉妹の宿る無人社が鳥居を伴って立っている。丸太を組んだ校倉造りの社は、
穣子によればログハウスの雰囲気を醸し出したかったらしい。そんな無人社の裏手に、煉瓦造りの竈と、
大木の切り株をそのまま流用したテーブルがあった。今、そこには椛と静葉が隣り合って座り、互いに
言葉を交えない会話を繰り広げていた。静葉は先の濡れ鼠の状態を脱し、今は服も下着も新しいものと
交換している。
「出来たわよ~」
「あ、お疲れ様です」
熱気を帯びた鮭の匂いと焦げたチーズの香りを盆に載せて、穣子が竈からやってきた。
「里でジャガイモとチーズをもらってきたから、鮭と合わせてグラタンにしてみたわ……って」
穣子は姉の手のひらの上に空書きする椛を見て、苦笑交じりに問いかける。
「いつ見ても思うのだけど、そのやり方で面倒くさくないのかしら?」
「そんなことありませんよ。慣れてしまえば意外に早く伝えられるものです。まぁ外来人や神社の風祝様が
使っていた、ケイタイデンワなる物と同じような感覚ですね」
「? そ、そう」
あの機器の上を指がせわしなく駆け回ると文章が目に見える形で現れる様子を椛は見た事があるのだが、何の
ことか分からない穣子にはいまいち伝わっていない。とりあえずそのことはさておき、穣子はグラタン皿を
それぞれの前に置いていく。それから栓抜き片手に葡萄酒の瓶を開封し、透き通る淡い緑色の甘露をグラスに
注ぎ入れていく。ついに食卓は、穣子の手によって秋の芳香に支配された。
穣子の配膳が済んだところで椛は静かに手を合わせ、この昼食とそれを与えてくれた二柱に感謝の意を示す。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
妖怪から神への親愛の提示と、妖怪への神徳の享受が始まった。
「では、人間の里で収穫祭が近いのですか」
「ええ。今日もその打ち合わせで里に顔を出していたのよ」
香ばしいチーズの下に埋まっていたジャガイモとシメジを掘り出し、口に運ぶ。噛み締めるたびにバターに
溶けた旨味とハーブを交えた芳香が広がる。
「それで、最近の山の様子はどうかしら? 新しく来た神様とは上手くやっているの?」
「はい。八坂・洩矢の大御神とは天狗だけでなく河童も交えての宴会を繰り広げていますよ。今度河童達の
工場を視察する予定のようです」
それらを飲み込んでから葡萄酒に後を追わせ、一息つく。喉の奥から甘い香りが鼻に抜けていく。
「そう。麓については何か言ってなかった?」
「そうですね……まだなんとも。でも、八坂の大御神は山と麓の垣根くらいは緩くしたがっている様子でした。
おそらく風祝様のためでしょうが、天魔様達との交渉次第でしょうか。……そうそう、そういえば」
鮭のほぐし身をチーズに包んでから、口に入れて目を細めている静葉。椛は一声断ってその手を取り、人差し
指を走らせる。
「八坂の大御神が髪飾りの為の木の葉を欲しがっていました。また今度で構いませんので、上質な物を
見繕って頂けますか?」
これに対し、静葉は優越感に満ちた笑顔になり、胸を軽く打って承諾の意を示した。
穣子はそれを見て、静葉が椛を通じて山の様々な妖怪・神々と繋がっていっていることを実感した。密かに
安堵の溜息を吐く。自分とは違って、人間達から信仰を集めることが困難な姉。収穫祭の時には一人山に
残して行かなければならなかった姉。そんな孤独な姉がいつも気がかりだった。
今でも人間の信仰を得がたいことには変わりはないが、自分が不在の時には一匹狼の親交を受けるように
なっている。確かに神である以上人恋しさからは逃れられず、寂しさの象徴である以上神徳を顕現する時には
独りでなくてはならないが、以前よりも孤立感を覚える時間は少なくなっているはずだ。心なしか神霊力も
上がっている、と穣子は幻視し、頬を緩めた。
椛に手を許していた静葉は、穣子が頬杖をついて目を細めているのを見て首をかしげた。穣子は内情を隠す
ように一度目を閉じ、それから挑発するような笑みを浮かべた。
「どうかしら、実りの秋の匂いに包まれたこの食卓は? 姉さんの飾る色よりも優れているでしょう?」
あくまでも、静葉に示してみせるのは優越感に溢れた言動。何故ならこの意地っ張りな姉は、年下の妹に気を
使われる事を嫌がるから。果たせるかな、静葉も不敵な笑みを返す。こうして心の内に気遣いを抱くことなく
対峙できることのなんと喜ばしいことか。首を右往左往させている隣の椛がちょっと可笑しかった。
遅い昼食の片付いた食卓に、穏やかな秋の陽が差し込んでくる。丁度良く満たされた腹を抱えて、椛は大木を
背もたれにして座っていた。ちなみに穣子は食器の片付けに、静葉は干しておいた下着の様子見に、それぞれ
ばらばらに行動していた。本当は穣子の作業を手伝おうとしていたが、お客様にそんなことはさせられないと
断られてしまった。
椛は眠ってしまいそうな頭を誤魔化す為、何か考え事を試みる。思考の中に浮かぶより先に目に浮かぶのは
赤、黄、茶、緑……色とりどりの天蓋。そう、紅葉の映える場所を探そうとしていたことを思い出した。椛は
試しに、千里眼をもってここから及ぶ限りの範囲を目を凝らして見つめる――
視線を転々と巡らせてみるも椛にとっては見慣れた風景ばかりで、決定的なものは見当たらない。というよりも
こんなだらけた態度では見つかるものも見つからないのでは、と反省する。やはり静葉の舞う姿こそが見る
者の心を一番揺さぶるのではないだろうか、そう結論付けて視野を近くに戻そうとして――
そこに見慣れぬ黒い影がよぎった。その黒い影は木の陰から陰へ散発的に移動している。あたかも今日静葉が
自分のもとに訪れた時のように。異なるのはその移動速度。半端な動体視力ではその姿を明確に捉えられそうも
ない。椛はその黒い影の動きに注目し……そして思わず叫んだ。
「魔法使いかっ!」
勢いをつけて立ち上がる。行く先が森の中であることを鑑みて、鴉の姿に身を変じ、全速力で飛翔した。後ろ
から穣子の声が聴こえたような気がするが、振り向いている暇は無かった。
黒色の侵入者の出端を挫くように、椛は暗夜の礫のごとくその前に急降下して、人の姿に戻る。
「おおっ!?」
侵入者は小さく叫んでたたらを踏んだ。椛は改めてその姿を確認する。
大きなリボンをあしらった円錐型の帽子、汚れの目立たない黒装束の前にかけられた白いエプロン、そして
高速で飛行するための箒……間違いなく、以前から山に侵入を続けている人間・霧雨魔理沙だった。今年の
秋になって久しぶりに目にするその人物は、椛の出現に驚いていた表情を諦めたような苦笑いに変えた。
「あ~あ、天狗に見つかったか。でもおかしいぜ、どうしてお前がこんな麓の方にいるんだよ。いつもは
滝に打たれて修行しているんじゃなかったか?」
軽口で語りかけてくる魔理沙の言葉には耳を傾けず、椛は鞘から太刀を抜き放ち、その剣尖を突きつけて
威嚇する。
「退かれよ! ここは人間禁制の道。これ以上先に進むならば風がその身を削り、礫がその意志を挫くことと
なろう。我等天狗、山の秩序を乱す者には決して容赦はせぬぞ!」
冷たく言い放つ自分の言葉を聞いて、椛は自分が窮屈な社会制度に縛られていることを改めて自覚する。
基本的に天狗は山に侵入する者に対して風当たりを厳しくしている。何らかの理由でもあれば入山を
許可することもあるが、その基準も厳格だった。後は力や酒でねじ伏せられた場合だろうか、それもあまりに
度が過ぎると社会全体が抑止に働くが。その風は山に属する小さな者達にも吹き荒れている……静葉の顔が
浮かんできた。
そんな椛の心情には構わず、魔理沙はわざとらしく嘆息混じりの言葉をこぼす。
「相変わらず冷たいな、この山は。私はただ、山の裾野で秋の恵みのお裾分けをもらいに来ただけなんだが」
「幸を得んと欲するならば、土に汚れる覚悟の上で入ってきたのだろう? ならばこれも試練と心得よ!」
椛は太刀を振りかぶり、前に振り下ろした。その剣圧が突風を巻き起こし、地面の紅葉を巻き上げながら
魔理沙へ向けて前進する。
相対する魔理沙はしかし、余裕の笑みを浮かべて大木の陰に身を隠した。椛の起こした風は大木に命中するも、
その枝葉を攪拌しただけに留まった。ひとしきり揺れが治まった後で、大木の裏から声が投げかけられる。
「やはりこうも木々が密集していると、その刀は振り回しにくそうだな。滝にいるときに比べて勢いが
ぬるいぜ。天狗風ってのは、巨木をなぎ倒す勢いがあるんだったよな?」
椛は口元を引き結ぶ。確かにこの森の中は自分にとってもどかしい地勢だった。そこに追加される軽口が
苛立ちを加速させる。
「天狗颪に比べると……そうだな、今のお前の風は紅葉颪(もみじおろし)ってところか? まあ、綺麗だし
雅やかだよな。危なくないところがなお良い」
「!?」
的外れな賞賛は神経を逆撫でするようにしか働かない。全身に力の入った椛は魔理沙を隠した大木に駆け寄り、
太刀を横一文字に振りぬく。小気味の良い音と、それに続く鈍い崩壊音を立てて大木が倒れる。しかしその
裏に魔理沙の姿はなく、別の木の裏に移動していた。椛はただただ真っ直ぐに魔理沙を追う。一本、また
一本と木を切り倒していくが、太刀が魔理沙を捉えることはなかった。いい加減焦れた椛は苛立ち混じりの
言葉を吐き捨てる。
「くそ、ちょこまかと木の陰に隠れるしか能がないのか!?」
「いやいや、大自然に身を守ってもらうのも兵法の一つだぜ。お前だってやるだろ? 大自然の妖精を盾に
するとかさ」
その何気ない軽口は椛の感情を激しく揺さぶった。仕事場での、滝での戦闘が頭をよぎる。妖精達が突撃
していく中に、剣風を放つ……小さき者達に、天狗の風が向けられる……
「黙れぇっ!」
「お、おい!?」
鬼気にとらわれた椛を見て、魔理沙は少し焦った。だがその逃げ足には些かの乱れも現れない。対照的に
椛は太刀を我武者羅に振り回すようになっている。枝葉が跳ね、草が薙ぎ払われ、木々が倒れ伏す。
吹き荒れる破壊の暴風、それでも黒いものは一向に切り払えない。それが何度目だろうか、一際大きな
木の後ろに隠れた。椛はこれも一太刀で薙ぎ倒そうとして――
その幹に刃を捕られた。
ここで初めて、椛は自分の膂力が衰えていることに気が付いた。一石樽を片手で持ち上げるほどの怪力を
誇る天狗、それにも限界はあった。幹に挟まれた太刀を引き抜こうにも引き抜けない。
「私が言えた事じゃないんだがな……」
焦る椛の頭上から魔理沙の声が降ってくる。視線を振り向けると、真摯な目を貼り付けた顔があった。
「この秋色の風景の中だと白いお前はよく目立つよな。木陰からも窺えるくらいに」
その言葉を聞いて、椛は愕然とした。
守られていたのだ。小さな妖精達だけでなく、九天の滝にも、風に巻き起こされる白い水飛沫にも……
図らずも盾として利用していたのだ。大きな社会の中にいるからといって、自分も大きいものだと勘違い
していたのだろうか。それらから離されてしまった今の自分はなんと小さいのだろう。庇護が必要なのは、
果たしてどちらだろうか……
目を震わせている椛に向けて、魔理沙は静かに手のひらをかざす。
「正気をもぎ盗るつもりはなかったんだ。だから返すぜ。受け取ってくれよ」
呟きとともに、魔理沙の手のひらから魔法の光が零れ落ちてくる。それは虹色の光の粒……青、緑、黄、
そして赤色の……木の葉?
椛がそれに気付いたのと時を同じくして、樹上の魔理沙が後ろに飛び退いた。その、魔理沙のいた枝の上に、
紅い滝が流れ落ちてきた。椛はそれを、誰かの腕に抱かれながら見つめていた。腕は後ろから椛の胸の下
あたりを抱えている。
「えっ?」
我に返った椛が顔を後ろに振り向けると、そこには静葉の安堵に満ちた笑みがあった。そして静葉は笑顔を
収め、しかめ面を貼り付けた上で椛の額に自分のそれをコツンと打ち合わせる。抱きしめるその手にいっそうの
力も込められた。椛は自分の胸が暖かいもので満たされていくことを感じる。
と、倒木の鈍い音が響いてきた。紅い滝……圧倒的なまでの落葉の怒涛に、椛の太刀を捕らえていた大木が
薙ぎ倒されたのだろう。椛が顔を前に戻すと、遠くには蔓と格闘している魔理沙の姿が見えた。その蔓のうちの
一本が、椛の太刀を拾ってこちらに届けてきた。差し出されたそれを、まだ疲労の残る利き腕で何とか掴む。
やがて椛を抱えた静葉が地面に降り立つ。その隣には蔓を操っていた穣子がいた。椛の方に視線を向け、怪我の
無いことを確認すると安心したように微笑む。
「遅くなってごめんね。でも椛ったら、一人で突っ走って行っちゃうんだもん。私達も手伝おうと思ったのに」
「で、でもこれは私の仕事で……お二人にご迷惑をかけるわけには」
「あら、迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないわよ。ねぇ、姉さん」
椛の後ろに向かったウィンクを受けて、椛の後ろ髪に頬をすり寄せる返答が現れた。穣子は更に言葉を続ける。
「困った時に神頼みをするのは自然なことよ。まぁ貴女達妖怪は信仰はしてくれないんでしょうけど、信頼は
してくれてもいいんじゃない?」
どこまでも穏やかな穣子の笑顔がまぶしくて、椛はうなだれた。
「さて……」
椛に向けていた慈母の笑みを一転、蔓を掻い潜ってきたと思しき魔理沙に鋭い視線を向ける穣子。それを
受けて魔理沙は困惑の色を浮かべる。
「……なんだか焼き芋の香りがしてきたな。まさか持っているわけじゃないよな?」
「あらいけないいけない。収穫したてのお芋こそが私の香水なのに、熱気に焙られちゃったのかしら?
駄目ね、神様たるもの身に纏う香りには気を使わなくちゃいけないのに」
「なぁ。もしかしなくても、怒っているのか?」
おずおずとした魔理沙の問いかけに、穣子は怒号で答える。
「当ったり前でしょ! 大事な友達を翻弄して、あげく傷つけようとしたんだから」
「あー、それについては反省しているぜ。まさかあそこまで余裕を無くすとは思わなかったけどな。
『物言えば 唇寒し 秋の風』ってやつか」
魔理沙はばつが悪そうに後ろ頭を掻く。そして静かに帽子を取ると、椛に向けて頭を下げた。
椛としてはかける言葉が見つからない。確かに魔理沙の言葉は自分の心を酷く乱したのだが、同時に自分が
見落としていたことにも気付かせてくれた。
そんな椛をよそに、魔理沙は帽子を被りなおすと何事もなかったかのように言い放つ。
「それじゃ私はまだまだやることがあるんで、これで失礼するぜ」
そう言って穣子達とすれ違おうとする魔理沙を、穣子は溜息交じりに制止する。
「待ちなさいよ。まだ話は終わってないわよ」
「なんだよ、天狗には一応勝利したぜ。お前らは天狗の肩を持つのか?」
「いいえ、私達が持つのは……」
穣子は言葉の途中で後ろの椛、そして静葉に視線を向ける。その静葉は椛の双肩に両手を置き、強く頷いて
応じる。
「友達の肩よ。それとこの麓近くは私達の領域でもあるわ。勝手な真似はしてもらっちゃ困るわね」
穣子の宣言を受けて、魔理沙は静かに目を閉じる。次に開けられたそれを不敵に歪ませ、魔理沙は口の端を
吊り上げて低い声を放つ。
「あー、もういいぜ。穏便な採集は諦めたよ。そうだ、今日の私は何でも狩り獲って回るハンターなんだ。
という訳で世界一激しい紅葉狩り、愉しませてもらうぜ。ついでにトリックオアトリート(弾幕張ってでも
お菓子は頂く)だ!」
「ふん、秋の山の恵み、そう間単に渡してなるものですか! 自然崇拝の教義を受け継ぎ損なった新参者の
魔女(みこ)よ、神自らそれを教育してやるわ! ありがたく受け取りなさい!」
人も社も無い静かな山の中で、世にも騒がしい神遊びが幕を開けた。
先手、穣子はスペルカードを取り出し、それを地面に植えた。その秘められた力が解放される。
現れたのは光の苗、それが凄まじい速さで魔理沙に向かって一直線に植えられていく。足元を通り過ぎようと
しているそれを、魔理沙は慌てて横に飛び退くことで回避した。一列に並べられた苗は、瞬時に天に向けて
生長する。その黄金色に輝く逆さまの稲光は、頂に赤い稲穂を実らせていた。それが脱穀され、赤色のライス
シャワーとなって地面に降り注いでくる。魔理沙は大きく後退して、安全圏に避難した。
「豊作『穀物神の約束』か! いきなり大技だ……な!?」
反撃しようとしたところ、魔理沙の視界が赤い閃光に覆われた。それは夕暮れ時の稲田を照らす、落陽が如き
放射状のレーザー。魔理沙は慌てて近くの木陰に隠れる。その様子を確認し、穣子は静葉に呼びかける。
「姉さん、迷彩加工を椛に」
「え……わ、わぁ!?」
静葉が肩にかけていた両手を離すと、椛の服に様々な色の木の葉が纏わり、それが椛の白い服を錦に変えた。
そして静葉は椛の紅い頭巾を外してやる。その下にあった真白の頭に、穣子は自分の赤い帽子を被せた。
「これで少しは森の中に溶け込めるでしょう」
「あ……」
白い所のなくなった自分の姿を見て、椛は二人の意図を悟る。穣子は椛の装飾が済んだのを確認すると、
前方へ向けて再び光の苗を走らせる。その穣子に代わって、静葉が椛の左手を両手で掬い上げ、胸の前まで
持ち上げた。何事かと静葉の顔を見ると、静葉は真摯な目でこちらを見つめ返した。そこに背中を向けたままの
穣子の声がかかる。
「さあ、我等が親愛なる盟友・犬走椛。相手は嫌になるくらいの難敵よ。追い払うには貴女の協力が絶対に
必要なの。どうか我等に力をお貸し下さいますよう」
穣子の言葉が終わると同時に、静葉の手にいっそうの力が込められる。
自分は闘ってもいい、自分は利用してもいい、自分は利用されてもいい……小さいのは、お互い様。ならば
力を出し合って、艱難辛苦に立ち向かおう。
「はい!」
椛の目に活力が戻った。まだ利き腕のしびれは取れないが、自分には大事な役目がある。その為には迷いで
目を曇らせているわけにはいかない。
静葉はその様を認めると、椛を正面から軽く抱き締める。そしてゆっくりと離れると、椛に向かって片目を
閉じてみせた。椛は自分の利き腕を見て、それから静葉に強く頷いてみせる。それを受けてから静葉は傍に
立っている木の枝に飛び移った。そのままどんどん上まで飛び上がって行く。やがて紅葉と同じ色のその姿が
枝葉に紛れ、見えなくなった。
静葉は木の頂上まで飛び上がっていた。そこでスペルカードを取り出し、ばらばらに千切る。その残骸を片方の
手のひらに集め、静かに息を吹きかけた。吐息に飛ばされるそれらは、空中で紅い輝きを放ち始める。そして
樹下に、その秘められた力を現し始めた。
森に雪が降り始めた。その雪は紅くあるいは黄色く色付き、常人の目にもはっきりと分かるほどに巨大化した
六方対称の結晶の姿をしていた。自ら輝きを放つそれは、地面に落着すると溶けるように消えていく。それでも
なお狂ったように降りしきる雪は、樹に地面にと次第に化粧を施していく。
「きれい……」
葉符『狂いの落葉』、その儚くも激しい有様に、椛は目を奪われた。同時に自覚する。静葉は天狗の風に
荒らされるような、か細く小さい存在ではない、むしろ風にその身を遊ばせる、余裕と逞しさを併せ持った
神霊であると。そして今、その持てる神徳を最大に発揮して、こちらを守ってくれている。
そんな戦いの中で戦いを忘れている椛に、穣子のわざとらしく拗ねたような声がかけられる。
「ちょっと椛、今は姉さんに見とれている場合じゃないでしょ。もっと別のものに注目してくれないと」
「あ、すいません!」
椛は赤面して我に返り、その千里眼をもって前方の木々を隈なく見渡す。その秋色を塗りこめた絵画の中に
現れる、黒い落書きを看破する。
「いました! あの木の後ろに隠れています」
「了解!」
穣子は膝をついて身を屈め、両腕を広げて地面に手をついた。その双方から光の苗の列が地面を走り、狙った
木の両脇を通り抜ける。そして瞬時に稲穂を伸ばし、籾米を地に降らせる。
「盾にはならないか」
頭上から赤米の降り注いでくる中を掻い潜り、稲が萎れるタイミングを見計らって魔理沙は木の陰から
脱出する。そして次の木の陰を目指して飛行する、その合間に苗の走ってきた方向に視線を流した。森は
今や暖色の吹雪に包まれている。そのただでさえ視界の悪い中では、どれだけ目を凝らしても白いものは
見当たらない。
木々の間から赤いレーザーがこちらを正確に狙ってくる。それをすんでの所で逃げ延び、木陰に隠れた。
「まいったな。こちらからは相手の居場所が見えず、逆に向こうにはこちらの位置が筒抜けか」
魔理沙は相手の持っている、元は白く今は違う色の望遠鏡のことを思い出す。それは静止する星だけでなく
流れ星すらも捉えてみせている。恐るべき正確さを誇っていた。
「でもな、攻撃が直線だけなのは感心しないぜ!」
相手の位置を捉えにくい時にどうすれば良いかは経験が知っている。特に攻撃が直線的であればなお都合が
良い。直線は必ず二つの点を通る。つまり起点と進行方向上にある任意の点である。この場合後者は的、
つまり魔理沙であり前者は攻撃手・穣子である。ならばその弾道を追跡すれば必ず撃った者に繋がって
いるはずである。
魔理沙は木陰から顔を覗かせる。その頬の傍を風に狂う落葉が掠めた。だがその痛みを無視し、前方を
注視する。程なくして二又に分かれた光の苗の列がこちらに向かってきた。それに挟まれる前に木陰から
飛び出し、魔弾・スプレッドスターを射出する。そのまま撃つと動く、撃つと動く。そうして反撃を釣瓶撃ち、
別の木の陰に飛び込んだ。元いた場所で逆さまの稲光が轟音を轟かせる、その前に自弾の着弾音を拾った。
「どうだ、少しは効いたか!?」
撒かれた籾がこちらに及ばないのを確かめてから、魔理沙は木陰から出てきて着弾点を確認しようとする。
かろうじて捉えたそれは、赤いモミジ……手のひら……否。
「閃光!?」
魔理沙は瞬時に地を蹴って、木陰に転がり込む。最後まで残った靴裏を、赤色のレーザーが焦がした。
「椛の盾か! 完全に防がれたのか」
崩れた体勢を立て直しつつ、魔理沙は先程見た物を分析する。ここで初めて、前衛から退いた椛の第二の
役目を理解した。ただでさえ攻撃が命中しにくい中で、生半な攻撃では当たっても効果が無い……非常に
厄介な状況だった。
この状況を打破するためにはこちらもスペルカードを使うしかない……のだが、魔理沙は今の持ち物を
取り出してみる。出てきたのは愛用の小道具、ミニ八卦炉とカードデッキ。そのデッキの中身をざっと
調べると――
『マスタースパーク』『ファイナルスパーク』『ドラゴンメテオ』『実りやすいマスタースパーク』
『ダブルスパーク』『ブレイジングスター』
どれもこれも威力としては申し分ないが、代わりに周囲に与える被害も甚大そうなものばかりだった。
「……言っちゃったからなぁ。『トリックオアトリート(弾幕張ってでもお菓子は頂く)』って。私だって
炭は持ち帰りたくないしな」
それを考えると炉にくべるのが躊躇われるカードばかりだった。そもそも、得体の知れない魔法に守られた
紅魔館や、変化を完全に拒みそうな永遠亭に侵入する時とは異なり、山に入るときにはいつもミニ八卦炉は
家に置いていた。
「くそっ、『採れたて新鮮素材をその場で調理』なんて考えるんじゃなかったぜ」
今回が例外だったのは、そんな理由からだった。後もう一つとり得る選択肢としては、はるか上空に
飛び上がってからピンポイントに魔砲を狙い撃つことだったが、降り注ぐ稲穂や雪を蓄えた雲を無事に
通り抜ける自信は無い。
魔理沙は改めてデッキを眺める。どこを探しても弾幕を桜や紅葉に変えて散らす『霊撃』の文字は
見当たらない……そんな中、一枚の符が魔理沙の目に止まった。
「星符『ポラリスユニーク』……これならまぁ、あいつの守りを破れるかもしれないな。もっとも……」
このスペルは非常に動きの遅い攻撃であるため確実に当てるには接近しなくてはならない。魔理沙は覚悟を
決め、降りしきる落葉に気を払い早駆ける苗の隙を伺いつつ、徐々に敵の攻撃の起点に迫っていく。
不意に吹雪が弱まってきた。それに呼応するかのように穣子からの攻撃もまばらなものになる。魔理沙は
この突然の天候の好転を訝しく思い、木陰から向かう先の様子を覗き見る。ある程度接近したことに加え
暖色の吹雪が止んだこともあってか、何とか穣子と椛の姿を視界に納めることが出来た。そして、穣子が
肩で息をしている様も見えた。
(疲労だと? それとも……まぁいい、何が待っているにせよ、迅速さが全てを解決することもある!)
魔理沙は強行を決意するや、星符と他数枚のカードを炉の中に放る。炉全体が青白く光りだしたところで
魔理沙は深呼吸を一つ、そして箒に跨ると木陰から飛び出していった。
突然現れた黒い流星に対し、穣子は慌ててレーザーを撃ち放った。だがその明確すぎる直線は容易く回避
される。魔理沙はここぞとばかりに炉を構え、空中からポラリスユニークを発射した。迫る青白い彗星が
無防備な穣子を飲み込む、その前に盾を携えた椛が割って入った。彗星は鋭い音を轟かせて四散したが、
それと同時に椛の盾を弾き飛ばした。衝撃で倒れ伏す椛。魔理沙は勝利を確信し、追撃のために未だ発光を
続ける炉を構えた。
その魔理沙の背後で枝葉の激しく揺れる音が響いた。
咄嗟に魔理沙は後ろを振り返る。そこには今まで姿の見えなかった静葉が迫っていた、手に椛の爪牙を携えて。
枝から零れ落ちてきた一枚の葉(blade)は、その身に刃(blade)を伴って、今まさに敵を討とうとしていた。
森の中に鋭い金属音が走り抜けた。静葉の振り下ろした白銀の太刀は、魔理沙の突き出した炉によって受け
流され、脇に逸れていった。そのまま落下する静葉の後姿を目で追いつつ、魔理沙は攻撃対象を一瞬迷ったが、
まずは近くの静葉に炉を向ける。
「お姉ちゃん!」
穣子の叫び声にわずか意識を奪われ、そちらに注意を向けた。穣子は姉に届けと言わんばかりに手を前に
伸ばしていた。と、その手が赤く光る。レーザーの発射準備、しかしその向かう先は……
(同士討ち……じゃ、ない!!)
戦闘経験が魔理沙の頭の中で警鐘を鳴り響かせた。
穣子からレーザーが射出される。それはまっすぐに静葉に向かい、そして屈折した。方向を変えたレーザーは
魔理沙を射抜き、茂みの中に墜落させた。
静葉は目を開け、自分を守るように構えた白銀の太刀を眺める。鏡のように曇りの無いその刀身は、今は
レーザーを反射させたことで激しい熱を持っていた。静葉は太刀を下ろし、魔理沙のいた場所に目を向ける。
今その空間には何もない。
「やったの?」
遠く、穣子から声が届けられる。その目は魔理沙の墜落点を見ていた。
「浅い! 静葉さん、穣子さん、あいつはまだ健在です!」
戦闘の空気が緩みかけていたのを、椛の一言が引き締めなおす。それとは対照的に、茂みから魔理沙の気の
抜けた声が上がった。
「くそっ、バレたか。千里眼ってのは本当に便利だな。まぁでも、健在ってわけでもないんだが」
「しぶといヤツね。まさか奇襲を二度も避けるなんて」
「当てが外れて悪かったな。生憎と弾幕においては私の方が経験豊富でね。さっきの曲芸も初めて喰らった
わけじゃないんだ」
そう言って魔理沙は、とある騒がしい三姉妹のことを思い出す。彼女達はプリズムのタクトを振るうことで
弾幕の旋律を変化させてきた。そして今三人組と闘っているという状況にわずかに苦笑する。もしもこんな
状況でなければ忘れていたままだったかもしれない。
ともかく、自身への直撃を避けた魔理沙は自分の両手に握られているものを見る。先程まで自分を支えて宙に
浮かせてくれていた箒、それが反射されたレーザーをかわしきれずに真っ二つに焼き切られていた。そして
輝きの失せたミニ八卦炉。カードが完全に燃え尽きたのだろう、ポラリスユニークはもう撃ち止めになっていた。
(これ以上の戦闘は辛いか。向こうも相当消耗しているだろうが、後の作業を思うと奴等を倒しきる体力は
残ってないな。……仕方が無い、今日は諦めて仕切りなおすか)
魔理沙は静かに決断し、逃げの算段を図る。
魔理沙の墜落した茂みを油断なく取り囲もうとする静葉、椛、穣子。穣子はエプロンのポケットからもう
一枚のスペルカードを取り出しておいた。先程肩で息をしていたのは半分演技で半分は実情だったが、まだ
あと一枚分は使う余力があった。
緊張感に満ちた沈黙の中、それを破る魔理沙の大声が轟いた。
「ちょい、待った!」
いきなり制止が呼びかけられたことで、三人は足を止める。その様子を確認してから魔理沙が言葉を続ける。
「今日はもうここら辺で終わりにしないか。実はさっきの攻撃で箒が折れてしまってな。これではたとえ
お前等を破ってお菓子を頂いたとしても、持ち帰れない恐れが出てきたんだ。そんなわけでだ、今日は
大人しく退散しようと思うんだが、見逃してくれないか?」
「……それは本当なの? 椛」
「はい。間違いなくあの攻撃で箒は真っ二つになっていました。それで魔法使いは墜落したのです」
「酷いぜ……」
「魔女の言葉に素直に耳を傾けてはいけない、常識でしょ?」
穣子は素っ気なく言い放ち、しばし考える。そして傍らの椛に尋ねた。
「どうしようか、椛」
「素直に山を降りるというのなら私は何も文句はありません。『今日は』というのが少し引っかかりますが」
「そう。……両手をあげて、ゆっくりとそこから出てらっしゃい! 少しでもおかしな真似をしたら容赦なく
撃つわよ!」
魔理沙は言われたとおりの姿で木陰から姿を見せた。片方の手には柄の短くなった箒が握られている。その他、
茂みに墜落した時の影響か、服のあちこちに小さな穴が開いていた。
「見事に真っ二つね」
「だから言っただろ。はぁ、こいつの修復に一体どれだけ手間がかかるか……」
「つまり、しばらくは山には来れないってことね。それを聞いて一安心だわ。ああ、もう手を下ろしても
いいわよ」
安堵の溜息を吐いて両腕を下ろす魔理沙。そんな魔理沙の前に椛が歩み出る。
「世界一激しい紅葉狩りとか言ってたけど、あんたって人間はもう少し大人しく秋を満喫できないの?」
山にあえて入ろうとする人間が山の美しさ雄大さに触れ、畏敬の念を抱くとともに慎ましく行動するように
なってくれれば、天狗としての自分も文句は無く、山の神々にとっても信仰が得られて丁度良い。
しかし思ったとおりというべきか、魔理沙の答えはこちらの期待の斜め上をいくものだった。
「あー、それでもいいんだけどな。こう、紅葉真っ盛りだとつい気分が盛り上がってな、何かと力試しをして
頭を冷やしたくなるんだよ」
「……はぁ。山に入ることのできる儚くない人間は、自分の力を頼みにする奴ばかり、か」
「いいや違うぜ。これが私なりの信仰だ。大自然の脅威をその身で体感してそれに打ち克つための努力を」
「もういい。せいぜい他の天狗に見つからないように気をつけて帰りなさい」
呆れの溜息を吐きつつも、椛は魔理沙の言わんとしていることを理解した。自分も見ていたからだ、八坂の
大御神と人間との神遊びの一部始終を。それはかなり異常な形ではあったが、神徳の顕現と信仰に満ちて
いたように思われた。その異形こそが、儚くない人間達の信仰、もしくは親交の形なのだろう。
椛が言葉を吐き捨ててそのまま黙り込んだのを見て、魔理沙は踵を返して歩き出した。しばらく進んだ所で、
何かを思い出したように振り返ると、真剣な調子で言葉を投げかけてきた。
「苦手だからって、弾幕処女(アマチュア)なんて言って悪かったな。二度と言わないぜ」
「なっ!?」「は?」「?」
そんなこと言われていない、負け惜しみか、真顔で言うんじゃない……などの言葉よりも先に浮かんで
きたのはやはり、物言えば唇寒し秋の風……椛は、焼き芋の匂いを嗅いでそう思った。穣子は自分達が
示した反応にきょとんとしている魔理沙を睨み付け、怒気も露わに叫んだ。
「待ちなさい! 箒を折ってくたびれだけ儲けるなんて、割りに合わないでしょ。私からお土産があるの、
受け取ってくれるかしら!」
そして穣子は素足を片方持ち上げて、地面に思い切り叩きつけた。わずかな沈黙の後、魔理沙の頭上から
かすかな音が降ってきた。魔理沙は視線を頭上に向け、そして叫んだ。
「栗だと!?」
魔理沙は両手を帽子に持ってゆき、そのまましゃがみ込……んだりはしなかった。それどころか、帽子を
脱いで自分に向かってくる栗を全て掠め獲っていく。他の栗が地面に落着していく中、帽子にたくさんの
栗を集めた魔理沙が喜びも露わに穣子に感謝する。
「おお、棚(rack)から幸運(luck)ってやつか? ありがたく頂戴するぜ」
「こ、このっ」
穣子は追いかけようとするも、魔理沙の方が先に駆け出し、あっという間に小さくなってしまった。穣子は
その上げた足で地団太を踏む。
「まったくもう、一筋縄では縛れないわね! 今度は銀杏でも降らせてやろうかしら」
「それは名案かもしれませんね」
未だ熱気の冷めやらぬ穣子をなだめるように椛は穏やかに同意し、借りていた帽子をその頭に戻した。そして
二柱の神に向けて深々と頭を下げる。
「お二人の力添えのお蔭で、何とか侵入者を撃退できました。本当にありがとうございました!」
斜陽が森の中を薄く照らし出してくる。先程の戦いで相当の時間が経過し、すでに黄昏時を迎えていた。
椛は太刀と頭巾を静葉から返してもらい、太刀は鞘に収め、頭巾の紐をしっかりと締めた。服に施された秋色の
迷彩装飾はしかし、そのままにしておいてもらうことにした。そのように身支度を整えた椛に、穣子が惜しむ
ように問いかける。
「もう帰るの? この際だから夕食も食べていけばいいのに」
静葉も二度、首肯して椛を引きとめようとする。そんな二人の気遣いを嬉しく思い、しかし椛は首を
横に振る。
「ありがとうございます。ですが私はこれから山に戻らなくてはならないのです。一応侵入者ありとの
報告を上の者に告げなければいけなくて」
「そうなの。残念だわ」
穣子は言葉どおりの表情を作り、諦めのこもった溜息を吐く。静葉の方は納得がいかないのか、唇を
尖らせ、意思を両手の動きで伝える。そんな子供っぽい姉を諌めるよう穣子は言葉をかける。
「撃退したっていうことも含めて伝えなきゃいけないのよ。それが椛の仕事なんだから。あんまり無理を
言って困らせないの……って、痛っ! な、なぁにするのほ!」
静葉は穣子を睨みつけ、片手でその頬をつねりあげ、もう片方の手で文句をまくし立てた。椛が慌てて
二人の間に入りつつ、読み取った静葉の苦言は次のようなものだった――
「何、子供扱いしてるのよ! そうだ! 思い出したけど、『お姉ちゃん』は子供っぽいからやめろって、
いつも言ってるでしょ!?」
椛は苦笑を禁じ得なかった。そんな主張こそが、稚気に溢れていると感じたからだ。椛は何とか静葉を
引き剥がし、その手をとって空書きを走らせると同時に、穣子にも語りかけた。
「また、穣子さんが忙しくない頃合を見計らって、お誘いを受けますよ。……そうそう、その時には一つ、
やりたいことがあるのですが」
椛の提案に二柱の神は揃って首をかしげる。
「弾幕ごっこ、やりませんか? お二人とも苦手を克服したいと見受けられました。私も、自分の未熟さを
痛感したところですから。あいつは経験がどうのとか言ってましたし、丁度いい練習になるかと」
異常な人間の、異形な信仰様式。それを普通の人間以外がやったところで意味するところは変わらないだろう。
秋姉妹はしばし唖然としていたが、やがて楽しそうな笑みを浮かべ、快諾した。
「面白そうじゃない! 是非やりましょう。丁度いい運動になりそうね」
椛は満面の笑みを浮かべて頷き、そしてゆるやかに静葉の手を離した。静葉は少し、名残惜しそうな顔を
見せたが、握られていた手をひらひらと振って、椛に応えた。穣子も姉の動作を真似る。
「それではこれにて。今日は本当にありがとうございました!」
白狼天狗は空に飛び立っていった。後には、爽やかな風が吹き抜けていった。
森の中を突き抜け、椛は麓の上空に躍り出ていた。そして、夕陽に照らされる妖怪の山に千里眼を向ける。
山の木々はすでにその大半が紅葉していて、その裾野を赤・黄・緑のまだら模様に染めていた。その優美なる
様を眺めた後で、その中にかかる九天の滝に目を移す。仕事場にして我が身を荒々しく包んでくれる純白の
瀑布、そこに暮らす妖精達……彼等に一刻も早く告げたい事もあったから、秋姉妹の勧めを辞退し、今ここに
浮かんでいる。謝辞と、決意。いつか守られているばかりではなく、彼等の盾となれるくらいに大きくなろう。
――滝に打たれて修行しているんじゃなかったか?
――大自然の脅威をその身で体感してそれに打ち克つための努力を……
ふと、そんな言葉が椛の頭をよぎり、そして椛はその身を九天の滝に向ける。まずは滝の大きさ凄まじさから
体感することに決めた。せいぜい鴉の行水にならないよう精一杯抗おうと思う。
視界いっぱいに滝を映し、椛はそこへ一直線に飛んで行く。秋色に染められたそれは白い清流に飲まれ、しかし
他の刺繍のように流れ落ちることなく、力強く昇って行った。
重みで波打つその単色の帳は、しかし見るものが見れば様々な色の刺繍が施されていることに気が付くだろう。
それは巡る四季の一時にしか目にすることの出来ない、天からの恵み。単調な瀑布を錦に変える、八の彩り。
即ち、色彩と形の異なる秋の木の葉。これらと天より流れる滝とを合わせて、あの場所は九天の滝と称されて
いるのである――
遠く視界に秋めく滝を映したまま、犬走椛はそんな内容の眉唾話を思い出していた。この仮説は同僚の白狼
天狗が得意げに話していたものなのだが、あまりにも強引過ぎる説だったためか自分だけでなく周りの仲間達も
納得できない様子を示していた。
椛は視線を遥か遠くの九天の滝から崖下を緩やかに流れていく渓流の方に転ずる。そこには同僚曰く瀑布の
刺繍が、あるものは散り散りに流れあるものは寄り添って滞っていた。椛はそれら一つ一つの形と色を注意
深く観察する……どう見ても八種類以上に容易く分類することが出来そうだ。自分が今立っている、山の
中腹を流れる川の一部でさえそうなのだから、滝から川、麓近くの霧の湖まで全部を見渡してみれば、両手の
指をもってしても数え上げられないほどの様々な落ち葉が流れているに違いない。
とりあえずその話を聞いたときは、同僚に対して曖昧な反応を見せてお茶を濁した。ただ、後にこの話を
知り合いの鴉天狗に語った際に言われた言葉が今も忘れられないものとなっている――
「へぇ、なかなかに面白い仮説じゃない」
「でもいくらなんでも乱暴すぎると思います。同じ樹に茂っている葉っぱでさえ大きさや形や色が違って
いるというのに、落葉する木々を全て含めて考えたら明らかに八では足りませんよ。八百万というのなら
まだ分かるのですが」
「それだと八百万に一が飲み込まれてしまうわね。では、『八百万の滝』というのが正確な表現? でも
これだと九天には込められていた『高い場所。天上』という意味が無くなってしまうわね。代わりに
残ったのは『極めて多くの』という意味。でも、この滝は一つの流れでしかないからこれは不適切」
「それは……」
「本来の意味を壊さず、視点を変えた新たな意味を付加する。それが面白いものであれば、多少の無理は
あっても受け入れられるものよ。むしろ、真実を持ち出して他の解釈を全く否定してしまう方が粋では
無いこともあり得る。『物言えば 唇寒し 秋の風』というところね。少しくらい盲目である方が人生を
愉しむには丁度良いのよ。まぁ優れた眼を持つ貴女には悩ましい話か、見えすぎるというのも考え物ね」
――こんな具合だっただろうか、と椛は鴉天狗とのやり取りを回想する。何度思い返してみても、報道機関に
属する彼女に煙に巻かれただけのような気がする。彼女は面白さを優先し、その為なら多少は真実を曲げる
事も厭わない主義だということを知っている。そもそも、自分は九天の滝という呼称を変えようなどとは
露も思っていなかったというのに……
あの時もそのような文句を皮切りに反論しようとしたのだが、鴉天狗の言った一言に心を持っていかれてしまい、
結局何も言い返せなかった。確かに椛は彼女のもたらした言葉の一部分に、大いに同意するところがあることを
自覚していた。
見えすぎるのも考え物――
椛は、後ろに聳え立つ樹の上に身を潜めている人物のことを思い、気付かれないようにそっと溜息を吐いた。
その接近に気付いたのは全くの偶然だった。
それは、何の気なしに抜き放っていた白銀の太刀にその映し身をさらしていた。風が木々を揺らす音に紛れて
枝から枝へと移り渡り、時折だるまさんが転んだ、をしているかのように幹の後ろに身を隠す。その身に
纏っている服が、周りの秋めいた葉と同じ色をしていたので見づらくはあったものの、鏡のような刀身に映った
風景からも充分にそんな様子が見てとれた。
その人物が自分のもとに訪れるというのは予め知っていたことだが、その来訪の仕方はまるで予想して
いなかった。おそらく、こっそりと近づいて驚かせようとしているのだろう。そこに思い至ってみれば
この行動にも納得がいった。今までの交流を思い返してみればこういう稚気を覗かせることがしばしば
あったからだ。
今、椛は来客の意図するところに気付いてしまった。これで自分は身が縮む思いをしなくて済むのだが、
ここで即座に振り返った場合確実に落胆した顔を拝むことになる。それは出来れば避けたい事態だった。
そのため椛は一芝居を打つことにする。後ろの存在には気付いていない振りをして、いざその人物が
こちらを驚かせようとした時には不自然ではない程度に驚く。太刀はすでに腰の鞘に収めてある、こちらが
気付いていることを相手に悟られないように。結局、この場においても相手を興醒めさせないように
振舞っていることに、椛はかすかに苦笑した。
気の緩まった瞬間を狙っていたかのように、驚愕の魔の手が椛の心臓を鷲づかみにした。
起こった事実で表現するならば、何かが椛の顔面に目隠しをするように纏わりついた。
「うわわっ!」
演技などでは決してない、本心からの叫び声が山中にこだまを響かせる。慌てて顔をぬぐおうとするも、
焦りからか上手くいかない。自慢の千里眼も、こうして塞がれてしまっては近くのことでさえおぼつかない。
と、唐突にこの戒めが解除された。黒一色の世界が再び秋の山川の景色に変ずる。この改めて開かれた
視界の端には、つい先刻まで顔を覆っていたと思しき二枚のモミジの葉が映っていた。否、それはモミジの
葉のように繊細華奢な手のひらだった。椛は首を身体ごと振り返らせる。そして飛び込んできた来客の
有様に二度目の叫び声を上げかけた。
来客は悪戯っぽい笑みを浮かべて小さく舌を出していた。その、あどけない子供のような表情がゆらゆらと
揺れている。それもそのはず、来客は両脚を枝に引っ掛けて、逆さ吊りになっていたのだ。この状態なら
確かに、地面と接する音を立てることなくこちらの視界を奪えるだろう。
来客はすぐさま勢いをつけて身体を樹上へ持ち上げ、さらに身体を前に倒して枝から飛び降りる。その
過程でスカートをつまんで身体を一ひねり、こちらと向き合う姿勢をとりつつ音も無く地面につま先立つ。
膝と首を軽く折って着地したその姿は、身分の高い女性が会釈をする様とうり二つ、もっともこれは西の
様式ではあるが。来客が見せた一連の動作に椛は目を奪われていた。
秋静葉。妖怪の山の麓付近に社を構える、八百万の秋の神、その一人。木々の紅葉を司る、寂寥と終焉の
象徴。その名が示すとおり、彼女の言の葉が誰かの鼓膜を震わせることはない。その代わり、紅葉(モミジ)を
連想させる両の手のひらを様々に振るって、ある種の手話のような意思伝達を行っている。しかしその
意味するところはまだ彼女の身近にある者達にしか理解されていない。
椛も、そんな静葉の傍らにある者の一人であった。色々と我を忘れてしまう事態があったが、何とか取り
戻したうえで、椛は静葉の手をとった。西の様式の挨拶を返すためにその手の甲に唇を寄せる……などと
いうことは勿論しない。西の騎士道についてはある程度は知っているが、生憎と信奉するのは天狗道、と
椛は胸中で独りごちる。その代わりに、静葉の手のひらの上に自分の人差し指を走らせ、平仮名を一文字
ずつ書き連ねて意思を伝える。曰く、
「こんにちは。相変わらずお元気そうでなにより」
勿論、椛は静葉とは違い、言葉を喋ることは出来る。しかし静葉と会話をするときにはこのような筆談めいた
手法を用いていた。別に静葉は言葉を喋ることが出来ないからといって、耳まで聞こえないというわけでは
ない。この回りくどいやり取りは、ひとえに他人に合わせようとする協調性の高い椛の性格の問題だった。
そんな椛の心遣いと指使いをくすぐったく感じている静葉は、空書きに使われていない方の手をひらひらと
振って挨拶に答える。それからすぐさま中途半端な合掌のポーズをとり、申し訳なさそうに笑う。先程の悪戯を
気にしているのだろう。椛も力の抜けた笑顔を返し、走り書く。
「いえ、お気になさらず。見事にしてやられました。哨戒を務める者がこの始末、まだまだ私は修行不足
ですね」
背後からの接近に気付いたのは全くの偶然であり、また発見した時点で気が緩んでしまったことは、言い訳の
仕様が無い事実である。ともかく、静葉の顔に落胆の色を塗る事態を避けれたことに椛は安堵した。
静葉と最初に出会ったのは、未踏の渓谷に住む谷河童と夜通し将棋を指した帰り道だった。
その早朝の渓谷には深々と霧がかかっていた。隈の出来ていそうな目をこすりつつ、椛は九天の滝を目指して
飛んでいる途中だった。噂に聞く、三途の川霧もかくやという白い風景の中にあることに加え、眠気で曇り
きってしまった目では周りの距離感を全く掴めないでいた。
そんな連想をしていたからだろうか、霧の中にぼんやりと紅い何かを見かけたときは、今の自分が異界に
飲み込まれてしまったのではと勘違いしてしまった。しかしよくよく目を凝らしてみると、それらは川を
下るモミジの葉の群れだった。水に揺られる紅い木の葉が列を成して進むさまは、先程考えていたことと
相まって精霊流しを彷彿させた。
椛は興味の惹かれるまま、この源流を突き止めようと更に上流へ進んでいった。しばらくは視界の下にしか
紅い灯火のゆらめきは見うけられなかったが、やがて前方にうっすらと燃え盛る火の源泉が見えてきた。
それは、纏わる葉の全てに緋を灯した松明のごとき木々。そこからはらはらと火の粉のようにモミジが
舞い落ちていた。
その中に見つけた、小枝を大幣のように振りながら踊る、一柱の神を。
愁いの化粧を顔に施し、枝葉を震わせて音を響かせるその様は、酷く寂しく見えた。そして椛は悟った、
これは木々の葬儀に等しいのだと。この神はその死を見送るために、こうして踊っているのだと。
まるで神事を執り行う巫女のように一心不乱に舞い続ける神。その連想は別の物悲しさを椛にもたらした。
この神は仕える巫女が不在のため、こうして肉体に神霊を宿して自身の神徳を顕現している、そのことに
気付いてしまったからだ。
山に住む神にはそういう者が多い。信仰は儚き人間のために、しかし人間はその儚さゆえに山には気軽には
近付けない。無論巫女など作れるはずもない。加えて山に人間を近付けさせない制度を、天狗の社会が敷いて
いる。椛は急にいたたまれなくなった。自分達の社会制度が、自分の好きな物に不自由な思いをさせている。
ならばせめてささやかながらも報いたい……では、信仰を要しない猛き妖怪である自分が今この場でとりうる
術は――
親交、その答えに至る前に、椛は自分の手を高らかに打ち鳴らしていた。その音に驚いた神は、踊りを
中断して椛の方を向いた。そこに拍手を続ける椛の姿を認めると、少しはにかむように微笑み、それから
スカートの裾をつまんで会釈をしてみせた。
あの時とは違い渓流を順行する中で、椛は繋がれた手の先にいる静葉の後ろ姿を見つめる。今ではこうして
約束を交わして一緒に行動するなど、親交をかなり深めている。特に人間の里が収穫祭の時期にあたる
時節には、静葉から誘いがかかる事が多い。何でもその時期には自分の住む無人社に妹が不在で退屈している
ためらしい。
今日はそんな静葉の妹が珍しく在宅中らしく、三人で一緒に食事でも、という運びになった。その妹、秋
穣子には幾度か会っている。鼻の利く椛にとって、いつも芳しい香りを漂わせている彼女は非常に好ましい
存在だった。作ってくれる料理も、温かく懐かしく、しかも美味たるものであった。もっともそれは秋だけに
限った話、というのは穣子の弁。それが彼女の神徳の及ぶ限界らしい。他の季節に彼女の料理を味わった
ことのない椛にとっては俄かに信じがたい話ではあったが。
椛は下方を流れる川に目をやる。待ち合わせた場所よりも流れは随分と緩やかなものになっていた。その
ためか、秋色の小舟がいくつも接岸している様子がよく見える。その色、形状を改めて隈なく観察する……
やはり、八程度の表現では明らかに足りない。そう、椛は紅葉の見せる多種多彩な模様を知っているから、
あの時同僚の話に普段は抱かない反発心を覚えたのだった。自分の焦がれているものはそんな程度ではない
……心中ではそう主張したかった。
しかし、静葉の神徳は目に訪れるものなれば、百の言の葉で訴えかけるよりも八百万の紅葉を同僚に一見
させた方が効果的であろう、そう思いとどまった。とりあえず静葉から絶好の場所を聞き出しておくか、
いっそのこと彼女の舞姿を見せるか、そのような企てを考えていた。またその他の試みとして、自分の
盾にモミジの葉以外の模様を飾っていこうか、そうすれば「なんだか名札みたいで可愛いわ」などと
からかわれることも……。
椛がそんな風に物思いに耽っていると、寝耳に水を注ぐかのごとく、下方から水飛沫が上がってきた。
「ぷぁ! えっ!?」
いきなり冷や水を浴びせられた椛はしかし、手をつないでいた筈の静葉の不在にいっそう驚かされることと
なる。では先程の音はもしや、と焦燥に駆られた椛が視線を直下に向けると、水面に紅い散華が見られた。
それは、水に解かれた静葉の服……彼女の衣装は紅葉を寄せ集めてその繊維を組み替えたものだと聞いている
……それらが再び本来の形となって、川へ散り散りに流されていく。
椛はそこに静葉がいないことを確認すると、今度は水中に焦点を合わせ、視線を走らせる……いた。その姿を
認め、しかし慌てて視線を明後日に反らした。失念していたことだが、今の静葉は服を着ていない状態……
下着姿だった。全くもって、見えすぎるのも考え物、である。
それにしても、いきなり泳ぎだすとは一体どのような意図によるものだろうか? 静葉の無軌道すぎる
行動にはついていけない時がある、椛は溜息を吐くことで今し方浮かんだ言葉の代わりとした。
とりあえず川の上に浮いていてはまた静葉を見てしまうかもしれないと考え、近くの岸に着地する。この
辺りの川は深くて流れが緩やかなためか、水音がほとんど聴こえない。そのため静葉が時折水面を乱す音が
はっきりと聴こえてくる。
しばらく耳を傾けていると、一際大きな水音とともに銀色の何かが岸に打ち上げられた。近付いてみると
それは一匹の鮭だった。その鮭が跳ね回って再び川に戻ろうとしたので、椛は慌てて押さえにかかる。尾の
付け根を握って持ち上げてみると、結構な重量であった。見事な秋鮭である。などと感慨を覚えているうちに、
二匹目が岸に放られてきた。これもすぐさま拾い上げる。ここに至って、椛は静葉が川に飛び込んだ理由が
分かった。となるとこれは、今日のお昼ご飯の材料調達だろうか?
考えを巡らせる暇無く、三匹目が打ち上げられた。これ以上は手が足りない、逃げられてしまう……そう
焦った瞬間、突如として伸びてきた蔓が鮭を固く縛り上げた。呆気にとられている椛の横合いから声が
かけられる。
「ふふ、鵜飼いは上手くいっているみたいね」
「え?」
気付かなかった、誰かの接近を許していることに。すぐさま顔を振り向ける……と、葡萄の匂いが椛の鼻腔を
くすぐってきた。視線の先に立っていたのは、右腕にバスケットを下げた、赤い帽子の少女。その、むき出しの
足がゆっくりとこちらに向けて歩を刻み、椛の近くで止まる。
「久しぶりね、椛」
「あ、ご無沙汰しています、穣子さん」
彼女こそが静葉の妹にして豊穣を司る秋の神、穣子。先程、三匹目の鮭を捕らえた蔓は穣子が動かしたものの
ようだ。確か地を這う草本に働きかける力を持っていると聞いたことがある。その、三匹目の鮭を捕らえていた
蔓が穣子の足元のところで鮭を解放し、穣子は空いている方の手でそれを拾い上げる。
「うん、身が締まってて、脂の適度な……流石、姉さんの紅い物に対する鑑定眼は優れているわね」
満足そうに鮭を眺める穣子。椛も自分が持っている鮭に一瞬目をやり、穣子に話しかける。
「これが今日の主菜ですか。それにしても、静葉さんってあんな風に川で漁をするもんなんですね。ちょっと
吃驚しました」
「あら、あれでも姉さんは川によく行っているのよ。魚以外にも、サワガニとかモクズガニとかを捕ってきて
くれることもあるし」
「へぇ、川蟹ですか」
「残念ながら、今日は無いけどね」
そんな風に二人して話していると、川の方から大きな水音が上がった。その方向に目を向けるも、追加の
鮭の姿はなかった。と、今度は岸の傍に生い茂っていた木々のある方から、何かが落下した音が聴こえてきた。
しばらくして、茂みの中から紅のガウンを纏った静葉が歩いてきた。どうやら森の中に降りた際に周りの
紅葉を集めて構成したらしい。髪に肌に雫を滴らせながら、静葉は穣子の方へ大股に近付いていく。目を
尖らせ、両手を激しく変形させる様から察するに、穣子に文句を言っているようだ。対する穣子はばつの
悪そうな顔をしている。
「ごめんごめん、確かに鵜って言ったのは悪かったわよ。それよりもほら、頭でも拭いとかないと」
謝りつつ、穣子はバスケットからタオルを取り出して静葉の頭にかけた。まだ何か、不満を表現したいと
思っている様子の静葉も、その手をタオルに移した。声を発することの出来ない静葉なら、こうして手を
塞いでしまえばそれ以上の文句を抑えることが出来る……つきあいの長い穣子ならではの回避法だった。
更にこの機を逃さず、穣子は状況を動かす。
「さて、姉さんのお蔭で主菜も主賓も揃ったことだし、最良のソースの煮詰まり具合も頃合いよし。今日も
存分に腕を振るうから、期待しておいてね」
そう高らかに宣言し、椛と静葉に微笑んでみせた。
森の中の開けた場所に、秋姉妹の宿る無人社が鳥居を伴って立っている。丸太を組んだ校倉造りの社は、
穣子によればログハウスの雰囲気を醸し出したかったらしい。そんな無人社の裏手に、煉瓦造りの竈と、
大木の切り株をそのまま流用したテーブルがあった。今、そこには椛と静葉が隣り合って座り、互いに
言葉を交えない会話を繰り広げていた。静葉は先の濡れ鼠の状態を脱し、今は服も下着も新しいものと
交換している。
「出来たわよ~」
「あ、お疲れ様です」
熱気を帯びた鮭の匂いと焦げたチーズの香りを盆に載せて、穣子が竈からやってきた。
「里でジャガイモとチーズをもらってきたから、鮭と合わせてグラタンにしてみたわ……って」
穣子は姉の手のひらの上に空書きする椛を見て、苦笑交じりに問いかける。
「いつ見ても思うのだけど、そのやり方で面倒くさくないのかしら?」
「そんなことありませんよ。慣れてしまえば意外に早く伝えられるものです。まぁ外来人や神社の風祝様が
使っていた、ケイタイデンワなる物と同じような感覚ですね」
「? そ、そう」
あの機器の上を指がせわしなく駆け回ると文章が目に見える形で現れる様子を椛は見た事があるのだが、何の
ことか分からない穣子にはいまいち伝わっていない。とりあえずそのことはさておき、穣子はグラタン皿を
それぞれの前に置いていく。それから栓抜き片手に葡萄酒の瓶を開封し、透き通る淡い緑色の甘露をグラスに
注ぎ入れていく。ついに食卓は、穣子の手によって秋の芳香に支配された。
穣子の配膳が済んだところで椛は静かに手を合わせ、この昼食とそれを与えてくれた二柱に感謝の意を示す。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
妖怪から神への親愛の提示と、妖怪への神徳の享受が始まった。
「では、人間の里で収穫祭が近いのですか」
「ええ。今日もその打ち合わせで里に顔を出していたのよ」
香ばしいチーズの下に埋まっていたジャガイモとシメジを掘り出し、口に運ぶ。噛み締めるたびにバターに
溶けた旨味とハーブを交えた芳香が広がる。
「それで、最近の山の様子はどうかしら? 新しく来た神様とは上手くやっているの?」
「はい。八坂・洩矢の大御神とは天狗だけでなく河童も交えての宴会を繰り広げていますよ。今度河童達の
工場を視察する予定のようです」
それらを飲み込んでから葡萄酒に後を追わせ、一息つく。喉の奥から甘い香りが鼻に抜けていく。
「そう。麓については何か言ってなかった?」
「そうですね……まだなんとも。でも、八坂の大御神は山と麓の垣根くらいは緩くしたがっている様子でした。
おそらく風祝様のためでしょうが、天魔様達との交渉次第でしょうか。……そうそう、そういえば」
鮭のほぐし身をチーズに包んでから、口に入れて目を細めている静葉。椛は一声断ってその手を取り、人差し
指を走らせる。
「八坂の大御神が髪飾りの為の木の葉を欲しがっていました。また今度で構いませんので、上質な物を
見繕って頂けますか?」
これに対し、静葉は優越感に満ちた笑顔になり、胸を軽く打って承諾の意を示した。
穣子はそれを見て、静葉が椛を通じて山の様々な妖怪・神々と繋がっていっていることを実感した。密かに
安堵の溜息を吐く。自分とは違って、人間達から信仰を集めることが困難な姉。収穫祭の時には一人山に
残して行かなければならなかった姉。そんな孤独な姉がいつも気がかりだった。
今でも人間の信仰を得がたいことには変わりはないが、自分が不在の時には一匹狼の親交を受けるように
なっている。確かに神である以上人恋しさからは逃れられず、寂しさの象徴である以上神徳を顕現する時には
独りでなくてはならないが、以前よりも孤立感を覚える時間は少なくなっているはずだ。心なしか神霊力も
上がっている、と穣子は幻視し、頬を緩めた。
椛に手を許していた静葉は、穣子が頬杖をついて目を細めているのを見て首をかしげた。穣子は内情を隠す
ように一度目を閉じ、それから挑発するような笑みを浮かべた。
「どうかしら、実りの秋の匂いに包まれたこの食卓は? 姉さんの飾る色よりも優れているでしょう?」
あくまでも、静葉に示してみせるのは優越感に溢れた言動。何故ならこの意地っ張りな姉は、年下の妹に気を
使われる事を嫌がるから。果たせるかな、静葉も不敵な笑みを返す。こうして心の内に気遣いを抱くことなく
対峙できることのなんと喜ばしいことか。首を右往左往させている隣の椛がちょっと可笑しかった。
遅い昼食の片付いた食卓に、穏やかな秋の陽が差し込んでくる。丁度良く満たされた腹を抱えて、椛は大木を
背もたれにして座っていた。ちなみに穣子は食器の片付けに、静葉は干しておいた下着の様子見に、それぞれ
ばらばらに行動していた。本当は穣子の作業を手伝おうとしていたが、お客様にそんなことはさせられないと
断られてしまった。
椛は眠ってしまいそうな頭を誤魔化す為、何か考え事を試みる。思考の中に浮かぶより先に目に浮かぶのは
赤、黄、茶、緑……色とりどりの天蓋。そう、紅葉の映える場所を探そうとしていたことを思い出した。椛は
試しに、千里眼をもってここから及ぶ限りの範囲を目を凝らして見つめる――
視線を転々と巡らせてみるも椛にとっては見慣れた風景ばかりで、決定的なものは見当たらない。というよりも
こんなだらけた態度では見つかるものも見つからないのでは、と反省する。やはり静葉の舞う姿こそが見る
者の心を一番揺さぶるのではないだろうか、そう結論付けて視野を近くに戻そうとして――
そこに見慣れぬ黒い影がよぎった。その黒い影は木の陰から陰へ散発的に移動している。あたかも今日静葉が
自分のもとに訪れた時のように。異なるのはその移動速度。半端な動体視力ではその姿を明確に捉えられそうも
ない。椛はその黒い影の動きに注目し……そして思わず叫んだ。
「魔法使いかっ!」
勢いをつけて立ち上がる。行く先が森の中であることを鑑みて、鴉の姿に身を変じ、全速力で飛翔した。後ろ
から穣子の声が聴こえたような気がするが、振り向いている暇は無かった。
黒色の侵入者の出端を挫くように、椛は暗夜の礫のごとくその前に急降下して、人の姿に戻る。
「おおっ!?」
侵入者は小さく叫んでたたらを踏んだ。椛は改めてその姿を確認する。
大きなリボンをあしらった円錐型の帽子、汚れの目立たない黒装束の前にかけられた白いエプロン、そして
高速で飛行するための箒……間違いなく、以前から山に侵入を続けている人間・霧雨魔理沙だった。今年の
秋になって久しぶりに目にするその人物は、椛の出現に驚いていた表情を諦めたような苦笑いに変えた。
「あ~あ、天狗に見つかったか。でもおかしいぜ、どうしてお前がこんな麓の方にいるんだよ。いつもは
滝に打たれて修行しているんじゃなかったか?」
軽口で語りかけてくる魔理沙の言葉には耳を傾けず、椛は鞘から太刀を抜き放ち、その剣尖を突きつけて
威嚇する。
「退かれよ! ここは人間禁制の道。これ以上先に進むならば風がその身を削り、礫がその意志を挫くことと
なろう。我等天狗、山の秩序を乱す者には決して容赦はせぬぞ!」
冷たく言い放つ自分の言葉を聞いて、椛は自分が窮屈な社会制度に縛られていることを改めて自覚する。
基本的に天狗は山に侵入する者に対して風当たりを厳しくしている。何らかの理由でもあれば入山を
許可することもあるが、その基準も厳格だった。後は力や酒でねじ伏せられた場合だろうか、それもあまりに
度が過ぎると社会全体が抑止に働くが。その風は山に属する小さな者達にも吹き荒れている……静葉の顔が
浮かんできた。
そんな椛の心情には構わず、魔理沙はわざとらしく嘆息混じりの言葉をこぼす。
「相変わらず冷たいな、この山は。私はただ、山の裾野で秋の恵みのお裾分けをもらいに来ただけなんだが」
「幸を得んと欲するならば、土に汚れる覚悟の上で入ってきたのだろう? ならばこれも試練と心得よ!」
椛は太刀を振りかぶり、前に振り下ろした。その剣圧が突風を巻き起こし、地面の紅葉を巻き上げながら
魔理沙へ向けて前進する。
相対する魔理沙はしかし、余裕の笑みを浮かべて大木の陰に身を隠した。椛の起こした風は大木に命中するも、
その枝葉を攪拌しただけに留まった。ひとしきり揺れが治まった後で、大木の裏から声が投げかけられる。
「やはりこうも木々が密集していると、その刀は振り回しにくそうだな。滝にいるときに比べて勢いが
ぬるいぜ。天狗風ってのは、巨木をなぎ倒す勢いがあるんだったよな?」
椛は口元を引き結ぶ。確かにこの森の中は自分にとってもどかしい地勢だった。そこに追加される軽口が
苛立ちを加速させる。
「天狗颪に比べると……そうだな、今のお前の風は紅葉颪(もみじおろし)ってところか? まあ、綺麗だし
雅やかだよな。危なくないところがなお良い」
「!?」
的外れな賞賛は神経を逆撫でするようにしか働かない。全身に力の入った椛は魔理沙を隠した大木に駆け寄り、
太刀を横一文字に振りぬく。小気味の良い音と、それに続く鈍い崩壊音を立てて大木が倒れる。しかしその
裏に魔理沙の姿はなく、別の木の裏に移動していた。椛はただただ真っ直ぐに魔理沙を追う。一本、また
一本と木を切り倒していくが、太刀が魔理沙を捉えることはなかった。いい加減焦れた椛は苛立ち混じりの
言葉を吐き捨てる。
「くそ、ちょこまかと木の陰に隠れるしか能がないのか!?」
「いやいや、大自然に身を守ってもらうのも兵法の一つだぜ。お前だってやるだろ? 大自然の妖精を盾に
するとかさ」
その何気ない軽口は椛の感情を激しく揺さぶった。仕事場での、滝での戦闘が頭をよぎる。妖精達が突撃
していく中に、剣風を放つ……小さき者達に、天狗の風が向けられる……
「黙れぇっ!」
「お、おい!?」
鬼気にとらわれた椛を見て、魔理沙は少し焦った。だがその逃げ足には些かの乱れも現れない。対照的に
椛は太刀を我武者羅に振り回すようになっている。枝葉が跳ね、草が薙ぎ払われ、木々が倒れ伏す。
吹き荒れる破壊の暴風、それでも黒いものは一向に切り払えない。それが何度目だろうか、一際大きな
木の後ろに隠れた。椛はこれも一太刀で薙ぎ倒そうとして――
その幹に刃を捕られた。
ここで初めて、椛は自分の膂力が衰えていることに気が付いた。一石樽を片手で持ち上げるほどの怪力を
誇る天狗、それにも限界はあった。幹に挟まれた太刀を引き抜こうにも引き抜けない。
「私が言えた事じゃないんだがな……」
焦る椛の頭上から魔理沙の声が降ってくる。視線を振り向けると、真摯な目を貼り付けた顔があった。
「この秋色の風景の中だと白いお前はよく目立つよな。木陰からも窺えるくらいに」
その言葉を聞いて、椛は愕然とした。
守られていたのだ。小さな妖精達だけでなく、九天の滝にも、風に巻き起こされる白い水飛沫にも……
図らずも盾として利用していたのだ。大きな社会の中にいるからといって、自分も大きいものだと勘違い
していたのだろうか。それらから離されてしまった今の自分はなんと小さいのだろう。庇護が必要なのは、
果たしてどちらだろうか……
目を震わせている椛に向けて、魔理沙は静かに手のひらをかざす。
「正気をもぎ盗るつもりはなかったんだ。だから返すぜ。受け取ってくれよ」
呟きとともに、魔理沙の手のひらから魔法の光が零れ落ちてくる。それは虹色の光の粒……青、緑、黄、
そして赤色の……木の葉?
椛がそれに気付いたのと時を同じくして、樹上の魔理沙が後ろに飛び退いた。その、魔理沙のいた枝の上に、
紅い滝が流れ落ちてきた。椛はそれを、誰かの腕に抱かれながら見つめていた。腕は後ろから椛の胸の下
あたりを抱えている。
「えっ?」
我に返った椛が顔を後ろに振り向けると、そこには静葉の安堵に満ちた笑みがあった。そして静葉は笑顔を
収め、しかめ面を貼り付けた上で椛の額に自分のそれをコツンと打ち合わせる。抱きしめるその手にいっそうの
力も込められた。椛は自分の胸が暖かいもので満たされていくことを感じる。
と、倒木の鈍い音が響いてきた。紅い滝……圧倒的なまでの落葉の怒涛に、椛の太刀を捕らえていた大木が
薙ぎ倒されたのだろう。椛が顔を前に戻すと、遠くには蔓と格闘している魔理沙の姿が見えた。その蔓のうちの
一本が、椛の太刀を拾ってこちらに届けてきた。差し出されたそれを、まだ疲労の残る利き腕で何とか掴む。
やがて椛を抱えた静葉が地面に降り立つ。その隣には蔓を操っていた穣子がいた。椛の方に視線を向け、怪我の
無いことを確認すると安心したように微笑む。
「遅くなってごめんね。でも椛ったら、一人で突っ走って行っちゃうんだもん。私達も手伝おうと思ったのに」
「で、でもこれは私の仕事で……お二人にご迷惑をかけるわけには」
「あら、迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないわよ。ねぇ、姉さん」
椛の後ろに向かったウィンクを受けて、椛の後ろ髪に頬をすり寄せる返答が現れた。穣子は更に言葉を続ける。
「困った時に神頼みをするのは自然なことよ。まぁ貴女達妖怪は信仰はしてくれないんでしょうけど、信頼は
してくれてもいいんじゃない?」
どこまでも穏やかな穣子の笑顔がまぶしくて、椛はうなだれた。
「さて……」
椛に向けていた慈母の笑みを一転、蔓を掻い潜ってきたと思しき魔理沙に鋭い視線を向ける穣子。それを
受けて魔理沙は困惑の色を浮かべる。
「……なんだか焼き芋の香りがしてきたな。まさか持っているわけじゃないよな?」
「あらいけないいけない。収穫したてのお芋こそが私の香水なのに、熱気に焙られちゃったのかしら?
駄目ね、神様たるもの身に纏う香りには気を使わなくちゃいけないのに」
「なぁ。もしかしなくても、怒っているのか?」
おずおずとした魔理沙の問いかけに、穣子は怒号で答える。
「当ったり前でしょ! 大事な友達を翻弄して、あげく傷つけようとしたんだから」
「あー、それについては反省しているぜ。まさかあそこまで余裕を無くすとは思わなかったけどな。
『物言えば 唇寒し 秋の風』ってやつか」
魔理沙はばつが悪そうに後ろ頭を掻く。そして静かに帽子を取ると、椛に向けて頭を下げた。
椛としてはかける言葉が見つからない。確かに魔理沙の言葉は自分の心を酷く乱したのだが、同時に自分が
見落としていたことにも気付かせてくれた。
そんな椛をよそに、魔理沙は帽子を被りなおすと何事もなかったかのように言い放つ。
「それじゃ私はまだまだやることがあるんで、これで失礼するぜ」
そう言って穣子達とすれ違おうとする魔理沙を、穣子は溜息交じりに制止する。
「待ちなさいよ。まだ話は終わってないわよ」
「なんだよ、天狗には一応勝利したぜ。お前らは天狗の肩を持つのか?」
「いいえ、私達が持つのは……」
穣子は言葉の途中で後ろの椛、そして静葉に視線を向ける。その静葉は椛の双肩に両手を置き、強く頷いて
応じる。
「友達の肩よ。それとこの麓近くは私達の領域でもあるわ。勝手な真似はしてもらっちゃ困るわね」
穣子の宣言を受けて、魔理沙は静かに目を閉じる。次に開けられたそれを不敵に歪ませ、魔理沙は口の端を
吊り上げて低い声を放つ。
「あー、もういいぜ。穏便な採集は諦めたよ。そうだ、今日の私は何でも狩り獲って回るハンターなんだ。
という訳で世界一激しい紅葉狩り、愉しませてもらうぜ。ついでにトリックオアトリート(弾幕張ってでも
お菓子は頂く)だ!」
「ふん、秋の山の恵み、そう間単に渡してなるものですか! 自然崇拝の教義を受け継ぎ損なった新参者の
魔女(みこ)よ、神自らそれを教育してやるわ! ありがたく受け取りなさい!」
人も社も無い静かな山の中で、世にも騒がしい神遊びが幕を開けた。
先手、穣子はスペルカードを取り出し、それを地面に植えた。その秘められた力が解放される。
現れたのは光の苗、それが凄まじい速さで魔理沙に向かって一直線に植えられていく。足元を通り過ぎようと
しているそれを、魔理沙は慌てて横に飛び退くことで回避した。一列に並べられた苗は、瞬時に天に向けて
生長する。その黄金色に輝く逆さまの稲光は、頂に赤い稲穂を実らせていた。それが脱穀され、赤色のライス
シャワーとなって地面に降り注いでくる。魔理沙は大きく後退して、安全圏に避難した。
「豊作『穀物神の約束』か! いきなり大技だ……な!?」
反撃しようとしたところ、魔理沙の視界が赤い閃光に覆われた。それは夕暮れ時の稲田を照らす、落陽が如き
放射状のレーザー。魔理沙は慌てて近くの木陰に隠れる。その様子を確認し、穣子は静葉に呼びかける。
「姉さん、迷彩加工を椛に」
「え……わ、わぁ!?」
静葉が肩にかけていた両手を離すと、椛の服に様々な色の木の葉が纏わり、それが椛の白い服を錦に変えた。
そして静葉は椛の紅い頭巾を外してやる。その下にあった真白の頭に、穣子は自分の赤い帽子を被せた。
「これで少しは森の中に溶け込めるでしょう」
「あ……」
白い所のなくなった自分の姿を見て、椛は二人の意図を悟る。穣子は椛の装飾が済んだのを確認すると、
前方へ向けて再び光の苗を走らせる。その穣子に代わって、静葉が椛の左手を両手で掬い上げ、胸の前まで
持ち上げた。何事かと静葉の顔を見ると、静葉は真摯な目でこちらを見つめ返した。そこに背中を向けたままの
穣子の声がかかる。
「さあ、我等が親愛なる盟友・犬走椛。相手は嫌になるくらいの難敵よ。追い払うには貴女の協力が絶対に
必要なの。どうか我等に力をお貸し下さいますよう」
穣子の言葉が終わると同時に、静葉の手にいっそうの力が込められる。
自分は闘ってもいい、自分は利用してもいい、自分は利用されてもいい……小さいのは、お互い様。ならば
力を出し合って、艱難辛苦に立ち向かおう。
「はい!」
椛の目に活力が戻った。まだ利き腕のしびれは取れないが、自分には大事な役目がある。その為には迷いで
目を曇らせているわけにはいかない。
静葉はその様を認めると、椛を正面から軽く抱き締める。そしてゆっくりと離れると、椛に向かって片目を
閉じてみせた。椛は自分の利き腕を見て、それから静葉に強く頷いてみせる。それを受けてから静葉は傍に
立っている木の枝に飛び移った。そのままどんどん上まで飛び上がって行く。やがて紅葉と同じ色のその姿が
枝葉に紛れ、見えなくなった。
静葉は木の頂上まで飛び上がっていた。そこでスペルカードを取り出し、ばらばらに千切る。その残骸を片方の
手のひらに集め、静かに息を吹きかけた。吐息に飛ばされるそれらは、空中で紅い輝きを放ち始める。そして
樹下に、その秘められた力を現し始めた。
森に雪が降り始めた。その雪は紅くあるいは黄色く色付き、常人の目にもはっきりと分かるほどに巨大化した
六方対称の結晶の姿をしていた。自ら輝きを放つそれは、地面に落着すると溶けるように消えていく。それでも
なお狂ったように降りしきる雪は、樹に地面にと次第に化粧を施していく。
「きれい……」
葉符『狂いの落葉』、その儚くも激しい有様に、椛は目を奪われた。同時に自覚する。静葉は天狗の風に
荒らされるような、か細く小さい存在ではない、むしろ風にその身を遊ばせる、余裕と逞しさを併せ持った
神霊であると。そして今、その持てる神徳を最大に発揮して、こちらを守ってくれている。
そんな戦いの中で戦いを忘れている椛に、穣子のわざとらしく拗ねたような声がかけられる。
「ちょっと椛、今は姉さんに見とれている場合じゃないでしょ。もっと別のものに注目してくれないと」
「あ、すいません!」
椛は赤面して我に返り、その千里眼をもって前方の木々を隈なく見渡す。その秋色を塗りこめた絵画の中に
現れる、黒い落書きを看破する。
「いました! あの木の後ろに隠れています」
「了解!」
穣子は膝をついて身を屈め、両腕を広げて地面に手をついた。その双方から光の苗の列が地面を走り、狙った
木の両脇を通り抜ける。そして瞬時に稲穂を伸ばし、籾米を地に降らせる。
「盾にはならないか」
頭上から赤米の降り注いでくる中を掻い潜り、稲が萎れるタイミングを見計らって魔理沙は木の陰から
脱出する。そして次の木の陰を目指して飛行する、その合間に苗の走ってきた方向に視線を流した。森は
今や暖色の吹雪に包まれている。そのただでさえ視界の悪い中では、どれだけ目を凝らしても白いものは
見当たらない。
木々の間から赤いレーザーがこちらを正確に狙ってくる。それをすんでの所で逃げ延び、木陰に隠れた。
「まいったな。こちらからは相手の居場所が見えず、逆に向こうにはこちらの位置が筒抜けか」
魔理沙は相手の持っている、元は白く今は違う色の望遠鏡のことを思い出す。それは静止する星だけでなく
流れ星すらも捉えてみせている。恐るべき正確さを誇っていた。
「でもな、攻撃が直線だけなのは感心しないぜ!」
相手の位置を捉えにくい時にどうすれば良いかは経験が知っている。特に攻撃が直線的であればなお都合が
良い。直線は必ず二つの点を通る。つまり起点と進行方向上にある任意の点である。この場合後者は的、
つまり魔理沙であり前者は攻撃手・穣子である。ならばその弾道を追跡すれば必ず撃った者に繋がって
いるはずである。
魔理沙は木陰から顔を覗かせる。その頬の傍を風に狂う落葉が掠めた。だがその痛みを無視し、前方を
注視する。程なくして二又に分かれた光の苗の列がこちらに向かってきた。それに挟まれる前に木陰から
飛び出し、魔弾・スプレッドスターを射出する。そのまま撃つと動く、撃つと動く。そうして反撃を釣瓶撃ち、
別の木の陰に飛び込んだ。元いた場所で逆さまの稲光が轟音を轟かせる、その前に自弾の着弾音を拾った。
「どうだ、少しは効いたか!?」
撒かれた籾がこちらに及ばないのを確かめてから、魔理沙は木陰から出てきて着弾点を確認しようとする。
かろうじて捉えたそれは、赤いモミジ……手のひら……否。
「閃光!?」
魔理沙は瞬時に地を蹴って、木陰に転がり込む。最後まで残った靴裏を、赤色のレーザーが焦がした。
「椛の盾か! 完全に防がれたのか」
崩れた体勢を立て直しつつ、魔理沙は先程見た物を分析する。ここで初めて、前衛から退いた椛の第二の
役目を理解した。ただでさえ攻撃が命中しにくい中で、生半な攻撃では当たっても効果が無い……非常に
厄介な状況だった。
この状況を打破するためにはこちらもスペルカードを使うしかない……のだが、魔理沙は今の持ち物を
取り出してみる。出てきたのは愛用の小道具、ミニ八卦炉とカードデッキ。そのデッキの中身をざっと
調べると――
『マスタースパーク』『ファイナルスパーク』『ドラゴンメテオ』『実りやすいマスタースパーク』
『ダブルスパーク』『ブレイジングスター』
どれもこれも威力としては申し分ないが、代わりに周囲に与える被害も甚大そうなものばかりだった。
「……言っちゃったからなぁ。『トリックオアトリート(弾幕張ってでもお菓子は頂く)』って。私だって
炭は持ち帰りたくないしな」
それを考えると炉にくべるのが躊躇われるカードばかりだった。そもそも、得体の知れない魔法に守られた
紅魔館や、変化を完全に拒みそうな永遠亭に侵入する時とは異なり、山に入るときにはいつもミニ八卦炉は
家に置いていた。
「くそっ、『採れたて新鮮素材をその場で調理』なんて考えるんじゃなかったぜ」
今回が例外だったのは、そんな理由からだった。後もう一つとり得る選択肢としては、はるか上空に
飛び上がってからピンポイントに魔砲を狙い撃つことだったが、降り注ぐ稲穂や雪を蓄えた雲を無事に
通り抜ける自信は無い。
魔理沙は改めてデッキを眺める。どこを探しても弾幕を桜や紅葉に変えて散らす『霊撃』の文字は
見当たらない……そんな中、一枚の符が魔理沙の目に止まった。
「星符『ポラリスユニーク』……これならまぁ、あいつの守りを破れるかもしれないな。もっとも……」
このスペルは非常に動きの遅い攻撃であるため確実に当てるには接近しなくてはならない。魔理沙は覚悟を
決め、降りしきる落葉に気を払い早駆ける苗の隙を伺いつつ、徐々に敵の攻撃の起点に迫っていく。
不意に吹雪が弱まってきた。それに呼応するかのように穣子からの攻撃もまばらなものになる。魔理沙は
この突然の天候の好転を訝しく思い、木陰から向かう先の様子を覗き見る。ある程度接近したことに加え
暖色の吹雪が止んだこともあってか、何とか穣子と椛の姿を視界に納めることが出来た。そして、穣子が
肩で息をしている様も見えた。
(疲労だと? それとも……まぁいい、何が待っているにせよ、迅速さが全てを解決することもある!)
魔理沙は強行を決意するや、星符と他数枚のカードを炉の中に放る。炉全体が青白く光りだしたところで
魔理沙は深呼吸を一つ、そして箒に跨ると木陰から飛び出していった。
突然現れた黒い流星に対し、穣子は慌ててレーザーを撃ち放った。だがその明確すぎる直線は容易く回避
される。魔理沙はここぞとばかりに炉を構え、空中からポラリスユニークを発射した。迫る青白い彗星が
無防備な穣子を飲み込む、その前に盾を携えた椛が割って入った。彗星は鋭い音を轟かせて四散したが、
それと同時に椛の盾を弾き飛ばした。衝撃で倒れ伏す椛。魔理沙は勝利を確信し、追撃のために未だ発光を
続ける炉を構えた。
その魔理沙の背後で枝葉の激しく揺れる音が響いた。
咄嗟に魔理沙は後ろを振り返る。そこには今まで姿の見えなかった静葉が迫っていた、手に椛の爪牙を携えて。
枝から零れ落ちてきた一枚の葉(blade)は、その身に刃(blade)を伴って、今まさに敵を討とうとしていた。
森の中に鋭い金属音が走り抜けた。静葉の振り下ろした白銀の太刀は、魔理沙の突き出した炉によって受け
流され、脇に逸れていった。そのまま落下する静葉の後姿を目で追いつつ、魔理沙は攻撃対象を一瞬迷ったが、
まずは近くの静葉に炉を向ける。
「お姉ちゃん!」
穣子の叫び声にわずか意識を奪われ、そちらに注意を向けた。穣子は姉に届けと言わんばかりに手を前に
伸ばしていた。と、その手が赤く光る。レーザーの発射準備、しかしその向かう先は……
(同士討ち……じゃ、ない!!)
戦闘経験が魔理沙の頭の中で警鐘を鳴り響かせた。
穣子からレーザーが射出される。それはまっすぐに静葉に向かい、そして屈折した。方向を変えたレーザーは
魔理沙を射抜き、茂みの中に墜落させた。
静葉は目を開け、自分を守るように構えた白銀の太刀を眺める。鏡のように曇りの無いその刀身は、今は
レーザーを反射させたことで激しい熱を持っていた。静葉は太刀を下ろし、魔理沙のいた場所に目を向ける。
今その空間には何もない。
「やったの?」
遠く、穣子から声が届けられる。その目は魔理沙の墜落点を見ていた。
「浅い! 静葉さん、穣子さん、あいつはまだ健在です!」
戦闘の空気が緩みかけていたのを、椛の一言が引き締めなおす。それとは対照的に、茂みから魔理沙の気の
抜けた声が上がった。
「くそっ、バレたか。千里眼ってのは本当に便利だな。まぁでも、健在ってわけでもないんだが」
「しぶといヤツね。まさか奇襲を二度も避けるなんて」
「当てが外れて悪かったな。生憎と弾幕においては私の方が経験豊富でね。さっきの曲芸も初めて喰らった
わけじゃないんだ」
そう言って魔理沙は、とある騒がしい三姉妹のことを思い出す。彼女達はプリズムのタクトを振るうことで
弾幕の旋律を変化させてきた。そして今三人組と闘っているという状況にわずかに苦笑する。もしもこんな
状況でなければ忘れていたままだったかもしれない。
ともかく、自身への直撃を避けた魔理沙は自分の両手に握られているものを見る。先程まで自分を支えて宙に
浮かせてくれていた箒、それが反射されたレーザーをかわしきれずに真っ二つに焼き切られていた。そして
輝きの失せたミニ八卦炉。カードが完全に燃え尽きたのだろう、ポラリスユニークはもう撃ち止めになっていた。
(これ以上の戦闘は辛いか。向こうも相当消耗しているだろうが、後の作業を思うと奴等を倒しきる体力は
残ってないな。……仕方が無い、今日は諦めて仕切りなおすか)
魔理沙は静かに決断し、逃げの算段を図る。
魔理沙の墜落した茂みを油断なく取り囲もうとする静葉、椛、穣子。穣子はエプロンのポケットからもう
一枚のスペルカードを取り出しておいた。先程肩で息をしていたのは半分演技で半分は実情だったが、まだ
あと一枚分は使う余力があった。
緊張感に満ちた沈黙の中、それを破る魔理沙の大声が轟いた。
「ちょい、待った!」
いきなり制止が呼びかけられたことで、三人は足を止める。その様子を確認してから魔理沙が言葉を続ける。
「今日はもうここら辺で終わりにしないか。実はさっきの攻撃で箒が折れてしまってな。これではたとえ
お前等を破ってお菓子を頂いたとしても、持ち帰れない恐れが出てきたんだ。そんなわけでだ、今日は
大人しく退散しようと思うんだが、見逃してくれないか?」
「……それは本当なの? 椛」
「はい。間違いなくあの攻撃で箒は真っ二つになっていました。それで魔法使いは墜落したのです」
「酷いぜ……」
「魔女の言葉に素直に耳を傾けてはいけない、常識でしょ?」
穣子は素っ気なく言い放ち、しばし考える。そして傍らの椛に尋ねた。
「どうしようか、椛」
「素直に山を降りるというのなら私は何も文句はありません。『今日は』というのが少し引っかかりますが」
「そう。……両手をあげて、ゆっくりとそこから出てらっしゃい! 少しでもおかしな真似をしたら容赦なく
撃つわよ!」
魔理沙は言われたとおりの姿で木陰から姿を見せた。片方の手には柄の短くなった箒が握られている。その他、
茂みに墜落した時の影響か、服のあちこちに小さな穴が開いていた。
「見事に真っ二つね」
「だから言っただろ。はぁ、こいつの修復に一体どれだけ手間がかかるか……」
「つまり、しばらくは山には来れないってことね。それを聞いて一安心だわ。ああ、もう手を下ろしても
いいわよ」
安堵の溜息を吐いて両腕を下ろす魔理沙。そんな魔理沙の前に椛が歩み出る。
「世界一激しい紅葉狩りとか言ってたけど、あんたって人間はもう少し大人しく秋を満喫できないの?」
山にあえて入ろうとする人間が山の美しさ雄大さに触れ、畏敬の念を抱くとともに慎ましく行動するように
なってくれれば、天狗としての自分も文句は無く、山の神々にとっても信仰が得られて丁度良い。
しかし思ったとおりというべきか、魔理沙の答えはこちらの期待の斜め上をいくものだった。
「あー、それでもいいんだけどな。こう、紅葉真っ盛りだとつい気分が盛り上がってな、何かと力試しをして
頭を冷やしたくなるんだよ」
「……はぁ。山に入ることのできる儚くない人間は、自分の力を頼みにする奴ばかり、か」
「いいや違うぜ。これが私なりの信仰だ。大自然の脅威をその身で体感してそれに打ち克つための努力を」
「もういい。せいぜい他の天狗に見つからないように気をつけて帰りなさい」
呆れの溜息を吐きつつも、椛は魔理沙の言わんとしていることを理解した。自分も見ていたからだ、八坂の
大御神と人間との神遊びの一部始終を。それはかなり異常な形ではあったが、神徳の顕現と信仰に満ちて
いたように思われた。その異形こそが、儚くない人間達の信仰、もしくは親交の形なのだろう。
椛が言葉を吐き捨ててそのまま黙り込んだのを見て、魔理沙は踵を返して歩き出した。しばらく進んだ所で、
何かを思い出したように振り返ると、真剣な調子で言葉を投げかけてきた。
「苦手だからって、弾幕処女(アマチュア)なんて言って悪かったな。二度と言わないぜ」
「なっ!?」「は?」「?」
そんなこと言われていない、負け惜しみか、真顔で言うんじゃない……などの言葉よりも先に浮かんで
きたのはやはり、物言えば唇寒し秋の風……椛は、焼き芋の匂いを嗅いでそう思った。穣子は自分達が
示した反応にきょとんとしている魔理沙を睨み付け、怒気も露わに叫んだ。
「待ちなさい! 箒を折ってくたびれだけ儲けるなんて、割りに合わないでしょ。私からお土産があるの、
受け取ってくれるかしら!」
そして穣子は素足を片方持ち上げて、地面に思い切り叩きつけた。わずかな沈黙の後、魔理沙の頭上から
かすかな音が降ってきた。魔理沙は視線を頭上に向け、そして叫んだ。
「栗だと!?」
魔理沙は両手を帽子に持ってゆき、そのまましゃがみ込……んだりはしなかった。それどころか、帽子を
脱いで自分に向かってくる栗を全て掠め獲っていく。他の栗が地面に落着していく中、帽子にたくさんの
栗を集めた魔理沙が喜びも露わに穣子に感謝する。
「おお、棚(rack)から幸運(luck)ってやつか? ありがたく頂戴するぜ」
「こ、このっ」
穣子は追いかけようとするも、魔理沙の方が先に駆け出し、あっという間に小さくなってしまった。穣子は
その上げた足で地団太を踏む。
「まったくもう、一筋縄では縛れないわね! 今度は銀杏でも降らせてやろうかしら」
「それは名案かもしれませんね」
未だ熱気の冷めやらぬ穣子をなだめるように椛は穏やかに同意し、借りていた帽子をその頭に戻した。そして
二柱の神に向けて深々と頭を下げる。
「お二人の力添えのお蔭で、何とか侵入者を撃退できました。本当にありがとうございました!」
斜陽が森の中を薄く照らし出してくる。先程の戦いで相当の時間が経過し、すでに黄昏時を迎えていた。
椛は太刀と頭巾を静葉から返してもらい、太刀は鞘に収め、頭巾の紐をしっかりと締めた。服に施された秋色の
迷彩装飾はしかし、そのままにしておいてもらうことにした。そのように身支度を整えた椛に、穣子が惜しむ
ように問いかける。
「もう帰るの? この際だから夕食も食べていけばいいのに」
静葉も二度、首肯して椛を引きとめようとする。そんな二人の気遣いを嬉しく思い、しかし椛は首を
横に振る。
「ありがとうございます。ですが私はこれから山に戻らなくてはならないのです。一応侵入者ありとの
報告を上の者に告げなければいけなくて」
「そうなの。残念だわ」
穣子は言葉どおりの表情を作り、諦めのこもった溜息を吐く。静葉の方は納得がいかないのか、唇を
尖らせ、意思を両手の動きで伝える。そんな子供っぽい姉を諌めるよう穣子は言葉をかける。
「撃退したっていうことも含めて伝えなきゃいけないのよ。それが椛の仕事なんだから。あんまり無理を
言って困らせないの……って、痛っ! な、なぁにするのほ!」
静葉は穣子を睨みつけ、片手でその頬をつねりあげ、もう片方の手で文句をまくし立てた。椛が慌てて
二人の間に入りつつ、読み取った静葉の苦言は次のようなものだった――
「何、子供扱いしてるのよ! そうだ! 思い出したけど、『お姉ちゃん』は子供っぽいからやめろって、
いつも言ってるでしょ!?」
椛は苦笑を禁じ得なかった。そんな主張こそが、稚気に溢れていると感じたからだ。椛は何とか静葉を
引き剥がし、その手をとって空書きを走らせると同時に、穣子にも語りかけた。
「また、穣子さんが忙しくない頃合を見計らって、お誘いを受けますよ。……そうそう、その時には一つ、
やりたいことがあるのですが」
椛の提案に二柱の神は揃って首をかしげる。
「弾幕ごっこ、やりませんか? お二人とも苦手を克服したいと見受けられました。私も、自分の未熟さを
痛感したところですから。あいつは経験がどうのとか言ってましたし、丁度いい練習になるかと」
異常な人間の、異形な信仰様式。それを普通の人間以外がやったところで意味するところは変わらないだろう。
秋姉妹はしばし唖然としていたが、やがて楽しそうな笑みを浮かべ、快諾した。
「面白そうじゃない! 是非やりましょう。丁度いい運動になりそうね」
椛は満面の笑みを浮かべて頷き、そしてゆるやかに静葉の手を離した。静葉は少し、名残惜しそうな顔を
見せたが、握られていた手をひらひらと振って、椛に応えた。穣子も姉の動作を真似る。
「それではこれにて。今日は本当にありがとうございました!」
白狼天狗は空に飛び立っていった。後には、爽やかな風が吹き抜けていった。
森の中を突き抜け、椛は麓の上空に躍り出ていた。そして、夕陽に照らされる妖怪の山に千里眼を向ける。
山の木々はすでにその大半が紅葉していて、その裾野を赤・黄・緑のまだら模様に染めていた。その優美なる
様を眺めた後で、その中にかかる九天の滝に目を移す。仕事場にして我が身を荒々しく包んでくれる純白の
瀑布、そこに暮らす妖精達……彼等に一刻も早く告げたい事もあったから、秋姉妹の勧めを辞退し、今ここに
浮かんでいる。謝辞と、決意。いつか守られているばかりではなく、彼等の盾となれるくらいに大きくなろう。
――滝に打たれて修行しているんじゃなかったか?
――大自然の脅威をその身で体感してそれに打ち克つための努力を……
ふと、そんな言葉が椛の頭をよぎり、そして椛はその身を九天の滝に向ける。まずは滝の大きさ凄まじさから
体感することに決めた。せいぜい鴉の行水にならないよう精一杯抗おうと思う。
視界いっぱいに滝を映し、椛はそこへ一直線に飛んで行く。秋色に染められたそれは白い清流に飲まれ、しかし
他の刺繍のように流れ落ちることなく、力強く昇って行った。
いたずらっ子な静葉とか嫁にしたくなるような穣子とかが可愛くて仕方ない。
秋姉妹好きにはたまりませんねw
椛と秋姉妹との関係や雰囲気がとても和みました。
良いですねぇ・・・ほのぼのとしてて、でもシリアスな描写もあって。
楽しく読めました。
もう少し改行を使用すればもっと見やすくてよくなるかと。
その点が少し不満です
秋の山が余裕で幻視できました
前半のほのぼのとした空気と後半の弾幕ごっこの描写が好みです。
ほんの短い間だけ他の人の視点に切り替わるよりは、椛からの視点で通して欲しかった気もしますが
気になったのはそれくらいで全体的に楽しめました。
豊穣の神と紅葉の神様なんだから、もう少し人間や妖怪から敬われてもいいですよね。
しかし、早苗には様付で穣子や静葉にはさん付なんですね。
かなり重要な神様なのに扱いが悪くて可哀そうw
読みながらニヤニヤしてしまいました。