「今年も雨月となりましたな」
宝永4年中秋の名月、魂魄妖忌は冥界白玉楼の居間にて、優雅に茶をすする主に呟いた。
「名月は心の中に月を描き、それを見ることで名月たり得るのよ。 かえって見えない方が趣があるものよ」
「では通年のごとく酒と団子を用意致しましょう」
白玉楼の主、西行寺幽々子はたおやかな仕草で湯飲みを食卓の上に置き、そのまま襖を開け縁側へと乗り出す。
「今夜は将棋も用意して。 あと──猪口をふたつ」
「今年は名月を相手に一局ですか。 それもまた風流ですな。 酒も振る舞われるとはなかなか粋な計らいで」
妖忌は屋敷で働く幽霊に将棋台を持ってくるよう命じ、自分は団子と酒の用意を始める。
すると幽々子は不思議そうな顔をして、薄い桜色の髪をなびかせた。
「あら、お酒は私が飲むものよ。 見えぬ相手に酒を振る舞って徐々に消えていく様を眺める程悠長な時間は月には許されていないわ。 今夜はね、客が来るのよ。 それは見事にみすぼらしい客がね」
「物乞いか何かの幽霊ですかね。 それを客と仰られるか」
今ひとつ幽々子の言わんとしていることが飲み込めない妖忌は言われるままに猪口と酒、団子を用意し、幽霊が持ってきた将棋台と駒を縁側に座る幽々子の前に出した。
妖忌にとって彼女がしばしば自分の理解の範疇外の言動を取ることは珍しくない。
だから疑問を感じても、さほど気にとめることもせず、ただ淡々と毎年の行事の準備を進めるだけだ。
そうこうしている内に幽々子はさっさと酒を自分の猪口に注ぎ、団子を頬張りながら将棋の駒を台の上に一手ずつ打っていく。
半刻程しただろうか。 妖忌は幽々子が将棋を指す音を聞きながら蕎麦を打っていたのだが、それが突然鳴り止んだ。
様子見ついでに彼は酒と団子の追加を縁側へ運ぶ。
「手が詰まりましたか」
「詰まるも何も、はじめから勝負になんてならないわ」
妖忌は将棋台へと目を落とすとそこに並ぶ駒は一種の不思議な様相を呈していた。
幽々子側の陣営は歩と玉のみ。 その歩も既に4つ。
逆に相手は駒が全く減っておらず、しかも矢倉囲いが組んであり、どう見ても幽々子側に勝つ目等無い。
確かにこれでは勝負になるはずもない。
「この歩のみは最初から、ですか?」
「歩のみの陣営だけに加え、相手の手駒を取っても自らのものとすることが出来ない。 非常に一方的で面白くもないものだわ」
「それはそうでしょう。 互いに同じ条件の下で戦って初めてそこに戦略性や面白味を見い出すが遊戯でしょうに」
案の定酒と団子は既に空になっており、妖忌は何気なく話しながら団子の追加を皿に載せ、小さな酒樽も持ってきた物と交換する。
「そんなことはわかっているわ。 こんな陣容であってなお、自分の勝利を信じて疑わずに戦いを仕掛けたたわけ者を笑うために打ってみたのよ」
「それが今夜現れる客、ということですか」
「もう来てるわよ」
幽々子が新たに置き換えられた酒樽から酒を猪口に注ぎ、一口つけると将棋台を挟んで彼女の対局側の空間に突如穴が開いた。
「ひどい言われようね」
「紫様、あなたでしたか。 今夜の客というのは」
穴からソレが出てくるより先に妖忌は客が誰かということを察した。
「私もそれなりの勝算を持って挑んだつもりだったけれど?」
優美な洋装に身を包み、見る者を虜にする金髪金目の女性、八雲紫──幻想郷における大賢者であり、一匹一種のすきま妖怪。
「あと四半刻程お待ち頂ければ、白玉楼の月見蕎麦をお持ち致します故、しばしこちらにて団子とお酒を召し上がっていてくだされ」
「月見蕎麦とは皮肉もこれみよがしね」
「なかなか気が利いてるでしょう」
紫は幽々子に劣らず回りくどい言い回しをし、理解に苦しむ。
しかしこれも妖忌にとっては日常茶飯事で慣れたもの。 深く考えず、深く追求せずに紫に会釈をし、縁側を後にする。
自らの前に置かれた将棋台に目を落とし紫は腰を落とす。
「まるで見てきたかのような戦局ね」
「名月は心の中で描いてこそ、よ」
二人は静かに、そしてこの上なく優雅な仕草で酒を酌み交わす。
しとしとと中秋の夜に降る雨の白玉楼は、得も言われぬ寂寥感を醸し出すが、この二人の作り出す独特の空間にはそれが無く、ただただ静かな煌びやかさが佇んでいた。
紫は猪口に注いだ酒を飲み干すとおもむろに盤上の駒を並べ直す。
「勝敗は兵家も期すべからず 恥を包み恥を忍ぶはこれ男児 江東の子弟才俊多し 捲土重来いまだしるべからず」
「いつからあなたは男の子になったのかしら」
「今回の敗北は戦略のひとつよ。 月は見えてもその中身までは見えなかった。 敵が見えなくては策のひとつも練れないわ」
「開けて悔しき玉手箱ね」
団子をひとつ、また一つと頬張る幽々子。 そうこうしている内に紫の駒を並べる手が止まる。
紫側は先ほど幽々子が最初に並べたように玉と歩のみ。 しかし歩は9つ全て揃っている。
幽々子側は先ほど紫側にあった矢倉囲いの陣がそのままそっくり逆の位置になっていた。
「一手は打ったわ。 相手の出方も見た。 矢倉の囲いを破るには?」
「定石は棒銀ね」
「まずは玉の側にあるべき金将が必要ね。 そして、攻撃の要である銀・飛車」
自らの周りに次々と紫は駒を並べていく。
「直線的な攻めだけでは能が無いわね、紫」
幽々子はそう言って紫側の陣営に角行と桂馬の駒を並べる。
「搦め手が活きるのは直線的な攻撃があってこそよ」
紫がさらに香車を置く。
そして出来上がった紫の陣営は何の変哲も無い、将棋に於ける開始時の配置となった。
「全く当たり前のことだけれど、これでようやっと再戦となるわけだわ」
一仕事を終えたような安堵のため息をつき、紫は空になった猪口に酒を注ぐ。
「幽々子、あなたは私の駒になる気はないかしら」
「あら、私は亡霊よ。 亡霊では将棋の駒にはなれないわ」
薄い桜色の髪をなびかせ幽々子は扇子を口元に当てくすくすと笑う。
「風が吹いたら亡霊は盤上の駒をひっくり返してくれるわ」
「金将、心当たりがあるのでしょう。 なら、他に取られる前にあなたが取ってしまいなさいな」
「もとよりそのつもりよ。 一月ほど回復に時間を当てたらあの狐との長い闘争の歴史に幕を引いてくるわ」
再び紫は酒を空にし、不敵な笑みを浮かべて幽々子に告げる。
「では、今夜は再戦の勝利に向けて蕎麦の上に乗った月を二人で食べてしまいましょう。 猪口に注がれた酒に映る月も飲み干してしまいましょう」
「あなたは月が乗っていなくても食べてしまうでしょう。 月が映っていなくても飲み干してしまうでしょう」
「あら、私は人も食べないし、血も飲まないわ」
「私は人を食べるし、血も飲むわ」
「きっと、兎の肉は美味しいのでしょうね」
「絶妙な焼き加減を妖忌にお願いしてね」
「生でもきっと美味しいわ。 たとえ骨が多くとも」
どこかずれて、どこか噛み合っている二人の声は雨の音しかしない白玉楼に吸い込まれて行き、この夜二人は朝が来るまで飲み明かした。
将棋を持ってくるあたりが上手いなーと思いました。
あ、それと誤字報告
>盤上の駒をを