高さが天井まで、幅が部屋の端から端まである棚を、精緻に作り込まれた人形が埋め尽くしている。ブリキ細工。木彫りの彫刻。綿の詰まったぬいぐるみ。様々な材質、多様な製法によって作られた、一様に少女を模した人形。その中でも特に生きた少女に似たビスクドールの隣へ登った“私”は、触れば温もりを感じることもできそうな陶製の顔に手を触れた。
(――)
まるで磁器のような(それが本当に意外なことだと感じた)冷たさに驚き、慌てて指を離す。貌に触れられたというのに、ビスクドールは身じろぎ一つしなかった。微笑んだ形のまま固まった貌が、僅かな揺らぎもない双眸を“私”に向けている。
本物の少女をそのまま縮めたようにしか見えない、肉の膨らみのある脚や、しなやかな五指を備えた手、生気を感じさせる貌。だが、そこに息づかいはない。
恐ろしくなった“私”は棚から飛び降りた。
棚の向かい側にある壁にもやはり同じ大きさの棚が設置され、隙間なく人形が並べられている。その全てがものを言わないまま、じっとこちらを見つめていた。二つの棚に挟まれた机の上は、作りかけの人形の部品と、堆く積まれた資材で埋め尽くされている。目覚めたとき“私”が座っていたのは、その机の上だった。
“私”は自分の手を凝視する。節の一つ一つから指紋に至るまで再現され、この手が触れたビスクドールと比べても更に精巧な造りになっていた。意志を籠めると五指は関節に従って折れ曲がり、握った形に変わる。それを何度か繰り返し、手が動くことを確かめると、今度は自分の貌に指先で触れた。弾力のある肌触り。指先に感じた温度は、低かった。
“私”は棚に並んだ少女の人形を仰ぎ、そのなかに動くものがないかを必死に探る。笑顔で佇む人形があった。憤怒の形相で剣を振りかぶる人形もあった。いずれも例外なく、今にも動き出しそうな出来映えであり、だというのに、一向に動き出そうとしない。
冷えて固まってしまったように、動かない。
その様子が、“私”に何かを連想させる。
ここには居たくない。そう思った“私”は、脚部の球体関節を屈伸させて床を走った。部屋の出入り口の近くまで寄って、ドアのノブに飛びつき、体重をかける。ノブは何かに引っかかり、“私”の体重では回らなかった。鍵がかかっている。片腕でノブにぶら下がったまま、ロックの摘みに手を伸ばした。捻ろうとするが、“私”の指では握力が足りない。
ドアを開けられないと知り、“私”は愕然とした。
焦って摘みを回そうと試みるが、やはり歯が立たない。そうして“私”が我を忘れかけたとき、摘みがひとりでに回った。続けてノブが周ったことで“私”はドアから振り落とされ、開いたドアに跳ねられる。
部屋の中に入ってきたのは、“私”の何倍も高い背丈の人影だった。
ブルーのワンピースに、フリルをふんだんにあしらった肩掛けを身につけ、肩までの長さがある波打つ金髪をカチューシャで留めている。並んだ人形の多くと似通った要素の多い容姿だったが、彼女は人形ではなかった。“私”は彼女を知っている。
アリス・マーガトロイド。“私”を作った魔法使いだった。
人形である“私”は、彼女に従わなくてはならない。
人形。棚に並んでいるのと同じ、人形。人形遣いの意に従うために作り出され、使役される。人形である“私”は彼女に従わなくてはならない。
「あれ?」
机を見たアリスが疑問符をあげる。“私”が机の上に居ないと気づいたのだ。
扉の影に隠れた“私”を、アリスはまだ見つけていない。姿を見られず、まだ何も命じられていない今なら・・・・・・
(・・・・・・“私”はまだ自由でいられる?)
滑らかな関節は音もなく稼働させることができた。
開いたままのドアを抜けて、扉の外へ駆けてでる。廊下にも吊り棚が設けられ、動かない人形が並んでいた。それらから逃げ出すために“私”は足を速める。廊下から居間、玄関に至るまで、人形の眼が伺っていない場所はない。人形遣いが命じればそれらは作り物の眼が視た情景を彼女に伝えるだろう。アリスがその気になったならば、抵抗する術はない。“私”が逃走したと気取られる前に家を抜け出さなければいけなかった。
逃げ道は知っている。この家の間取りならば、食材の調理法や掃除用具の取り扱いと共にインプットされていた。アリスを補佐するのに必要な一通りの知識が“私”には備わっている。当然、家の外については極限られた情報しかもっていない。それでも“私”は、外へ向かった。
一番近い窓が視界に入る。目一杯勢いをつけて、そこへ飛び込んだ。カーテン越しに硝子が粉々に砕ける。同時に瑞々しい香りを含んだ涼やかな空気が肌に触れた。カーテンを押し切って飛び出すと、深い緑の森が眼前に広がる。木枠と硝子の破片とともに、緑色の地面へ着地した。水気のある地面は見た目よりも柔らかく、衝撃は小さい。落ちた硝子片がちゃかちゃかと音を立てた。
(――)
区切る壁もなく、空間が広がっている。深緑色の葉をつけた樹が密に生い茂る森は、どこまでも広がっているように見えた。その広さに比べて酷く小さな躯が頼りなげで、“私”は尻込みする。
逡巡はしばらく続いた。
人形遣いから逃れようとするなら、この広い世界に踏み出さなければならない。外部から身を隠せる分厚い壁は森にはないのだ。未知ばかりがあった。何が“私”を脅かすのか、“私”の知る知識では計ることができない。もしも、支配を受け入れさえするなら安全な家のなかに戻ることができる。
不安が衝動に反発していた。相反する方針が拮抗することで、回路にかかる負荷が増大していく。自衛本能を突破するプロセスを模索するうちに、“私”は一つの提言に辿りついた。
(自ら判断することも含めて“私”である。マスター・アリスの支配下に入ることは結果として“私”を損なわせる可能性があり、“私”の存続上それは避けられるべき事態である)
その提言に、自衛本能は一定の理解を示した。
が、それとは別に反発する要素もあった。人形遣いのために行動しないことは、人形にとっての存在意義に反するのではないか。
(マスター・アリスは既に十分な人形を所持しており、いずれの分野においても“私”の補佐が加わる必要はない。またマスター・アリスが“私”に与えた意義は“自律”であり、この行動はマスター・アリスの望みに叶うものである。故にこの行動は有意である)
諸要素の反発を抑えた隙に意志を押し通し、“私”は判断を強行した。加熱された回路が一時的に機能を低下させ、危険を推し量る思考力が麻痺する。迷いの無くなった“私”は重心を前へ傾け、脚部で地面を後方へ蹴った。ただ一心に森へと駆けだしていく。
一歩一歩を踏み出すたびに冷えた空気が後方へと流れていった。下生えが脚に当たるむず痒い感触。流れ、移り変わっていく光景。既にここは“私”の関知する世界ではなかった。石や浮きでた木の根に足を取られないことや、枝に衝突しないことに意識を集中して森へ踏み込んでいく。
不思議な浮遊感があった。アリスからの魔力供給がなければ空を飛ぶことはできないのだが、こうして走ることにも浮き立つような感覚を得ることができると“私”は知る。弾んだ心地で地面を蹴り続けるうちに、突然、脚が空を掻いた。
首の後ろが何らかの力に固定され、躯が持ち上がる。
「どうしてこんな所に人形が居るんだ。アリスはどうした?」
声のする方角をへ首を巡らせる。
長い金髪に大きな黒い帽子を被った少女の顔がそこにあった。顔と声紋を知識から参照して個体を特定。最警戒対象に登録されている人間、霧雨魔理沙だった。“私”の後ろ襟を掴んで持ち上げたまま、魔理沙は首を左右に巡らせて辺りを見回すと、“私”に話しかける。
「もしかして、一人か?」
訊かれた意味は理解できた。従属物であるはずの人形がアリスから離れて居ることについて疑問に思ったのだろう。口と声帯を稼働させ、回答する。
『はい』
“私”自身も初めて耳にする、透明な音声。
「喋った? いや、喋らせるくらいならできるか。私の言うことがわかるのか?」
『はい。わかります』
「それなら私がこれからアリスの家でかっぱらおうとしているものが何か当てられるか?」
『――わかりません』
「隣の家に塀ができたってねぃ」
『隣の家について“私”の知識にないため、同意できません』
「ふむ。こりゃアリスが声を飛ばしてるわけじゃないな。ってすると、まさかアリスの奴、本当に自・・・・・・」
絹を裂くような叫びが割って入った。
「何をしているのよ魔里沙!」
勢い込んで飛来するのは、アリス・マーガトロイド。刀剣を構えた人形を三体操り、着地するなり魔理沙へ嗾ける。慌てて飛び退いた魔理沙は首と手を左右に振った。否定の動作だ。
「まて、アリス。いきなり攻撃されるような覚えはないぜ?」
「よくもそんな大嘘がつけるわね。じゃあその手に持ってる人形は何なのよ。特製の人形なんだから、魔理沙が盗んだって猫に小判もいいところだわ」
「勘違いしているみたいだな。私はこいつを盗んだわけじゃない」
「私の作業台から人形が無くなっていて、今それがあなたの手にある。それで、何をどうやったら魔理沙がシロだって言えるのよ」
魔理沙は“私”をアリスに向かって突き出した。
「こいつが自分で走ってここまで来たんだ」
「誰がそんな戯言に・・・・・・」
「こいつ、自律式の人形なんだろう?」
魔理沙から“私”をひったくろうと伸ばしたアリスの手が、ぴたりと停まる。吊り上がっていた目尻が急に下がり、逆に瞼は上がる。見開かれた碧眼が呆然と“私”を見つめた。
「嘘・・・・・・だって、これは結局失敗作で、指示をもとに思考することまではできても能動的に行動することなんてできないはずなのに」
「だが現にこいつは、森を走っていた。アリスがそう指示したんでなければ、独りでに走ってきたんだ」
「本当に、そうなの?」
おそるおそる、アリスは“私”に手を伸ばす。期待と不安の入り交じった瞳が“私”の貌を凝視する。注がれている情の強さを見て取り、“私”は恐怖を抱いた。
ここで掴まれたなら、二度と離されることはないのではないか。
『やめて』
拒絶の言葉は、自然に口からでてきた。
頬に触れようとしていたアリスの指が反射的に退かれ、その表情が強張る。
『マスター・アリス。“私”はあなたに従わない』
ふっ、と。頭上で吐息が聞こえた。不意に躯が後ろに引かれ、“私”は魔理沙の小脇に抱えられる。なにやら激しく動きながら、弾んだ声で魔理沙は言った。
「こりゃ本物だな、面白い。ちょっと借りていかせてもらおう」
「ちょと、それは・・・・・・」
「本人の意志は大事だぜ?」
突然のことだった。景色が一気に流れ、アリスの姿が小さくなる。上空から俯瞰する森は、家の絨毯を緑に塗り替えたようだった。急に角度が変わり、緑の絨毯が視界の下方に流れる。変わりに上方から流れてきたのは、一面の空色。そこに遮る天井はなく、広大な空間がどこまでも続いている。
「空を見るのは初めてか」
『はい』
「捕まっていてくれ」
抱えられた状態から、箒の後ろに移される。“私”は言われたとおり両手で魔理沙に捕まった。胴に手を回すには尺が足らないため、エプロンの両端を握る。
「飛ばすぜ、いいな?」
「待ちなさい! 私の人形を勝手に持って行かないでよ!」
下方から呼び止めようとする声が登ってくる。答える変わりに、魔理沙はカードを取り出した。
『魔符「スターダストレヴァリエ」』
魔理沙の掲げた手から星を象った色とりどりの魔力が空に広がる。
直後、凄まじい加速が躯を圧迫した。
「そういえば、これからどこに行くか考えてなかったぜ」
果てしなく続いているように見えた森も、空から俯瞰すれば広さに限りがあるとわかる。深い緑色はかなり前方で途切れ、その先からは多彩に色分けられた地帯が広がっていた。地面のほとんどが花に彩られている。
「とりあえずパチュリーにでも見せびらかしてみるか。それにしても、運が良かったな。今は異変の真っ最中だ、おまえはとびっきり楽しい瞬間に生まれたみたいだぜ?」
空まで舞い上がった花弁が魔理沙のいる高さまで届き、そのうちの一枚が“私”の貌に張り付いた。魔理沙は風を切って加速を続けながら遠方に視認できる紅い建物へ一直線に進む。活発に動き回る妖精が時たま進路上に飛び出しては、魔理沙の放ったレーザーに撃ち落とされたりもした。大気に混じるかすかな油分の香りは、地上一面に咲き並ぶ花々から立ち昇っているのだろう。森の外にある草木は皆それぞれに花を咲かせ、景観の輝度を高くしていた。
大きな湖を越え、紅い屋敷の門まで辿りつく。
魔理沙は津波のように星形の魔弾をふり撒いて門前に立ち塞がった妖怪を吹き飛ばし、館の窓を外から蹴り開けて中に入る。一連の行動には無駄な動きが無く、同様の動作を幾度も反復してきたのだろうことを伺わせた。
「おーい、パチュリー。面白いものを見つけたんだ」
薄暗い部屋へ踏みいるなり、魔理沙は大声をあげた。
「帰りなさい」
広い部屋の奥に山積みされた書籍の狭間から、険のある声が退去を勧めてくる。本に半分隠れた猫背の身に薄い紫色の外套をまとい、月形の飾りがついた帽子をかぶった少女が、分厚い本から顔を上げて気怠げにこちらを伺っていた。
パチュリー、という名前は知っている。大図書館に棲みついた七曜を操る魔女の名前だ。
「魔理沙さんこんにちわー。面白いものって何ですか?」
質素な事務服を着た羽のある少女が本棚の上から降りてくる。
魔理沙は“私”を掲げて振り回した。
「こいつだ」
「人形? それ、アリスさんのですよね?」
「ただの人形じゃないぞ。こいつは何の操作もしなくても自分で動く人形なんだ」
「何ですって?」
と、魔理沙の言った言葉に、無関心そうにしていたパチュリーが反応する。急に動いて接触したのか、積まれた本の一山が崩れて床に雪崩落ち、大量の埃が舞い上がる。咳き込むパチュリーに、魔理沙は言った。
「アリスの家から逃げだしたみたいなんだ。放っておけば自分で動くし、少しなら会話もできる。おおかた主人が陰気なのに嫌気がさして家出したってところだろう」
「こほ・・・・・・ほ、けほ・・・・・・本当に自分で動くの?」
風を纏って飛んできたパチュリーが“私”に顔を近づける。どことなく、アリスに似た雰囲気を持っていた。魔理沙は“私”を手放して、床に立たせる。パチュリーに見つめられた状態に居心地の悪さを感じた“私”は、視線から逃れるために魔理沙の後ろへ隠れた。
「嫌われたな。やはり陰気なのが嫌いか」
「えいっ!」
こっそり回り込んでいた羽のある少女に素早く飛びかかられる。“私”は手足を動かして抵抗を試みたが、力一杯抱きしめられて身動きがとれなくなった。混乱して訳がわからなくなった“私”は、思考停止に陥り硬直する。
その様子を眺めながら、パチュリーは首を捻った。
「妙だわ。アリスのやりかたはたかだか数十年で自律にたどり着けるような手法じゃないのに。精霊なり動物なりを核にするのでもなく人形に自分の意志を持たせるなんて、魂を自作しようとするようなものよ?」
「それは私も思ったな。さっき、こいつはアリスに反抗した。なにかアリスにとって予定外なことが起こってたまたまできてしまったんじゃないか?」
「入れ込まれすぎて魂でも宿ったのかしら。でなかったら、亡霊か何かが憑依したとか」
「霊か・・・・・・ああ、それだな。行き場のない幽霊がその人形を体と間違えたんだ」
「そんな事は滅多に起こらないわよ。縁もない人形に宿ってしまえるような執着の薄い霊なら、普通はすんなり彼岸に渡れるはずだもの」
「三途の渡し守がサボっていたんだろう。こいつは人形に宿って順番待ちをしているんだ」
「そんなことあるのかしら」
「六十年に一度くらいはあるかもな」
「そういえば、そうだったわね。ああ、そういうことなのね」
パチュリーは力んでいた体を弛緩させた。心持ち気色ばんでいた顔色が元の蒼白に近い状態まで戻る。
「確かに、一つくらいは人形に宿る霊もいるかもしれない。自律を目指して作られた人形なら人間の体みたいなものでしょうし、可能性は十分にあるわね。アリスはこのことを知っているのかしら」
「知らないんじゃないか。あいつは若造だからな」
「魔理沙がいえたことじゃないでしょうに」
「小悪魔、ちょっとそいつを返してくれ」
はい、と差し出された“私”の両脇が魔理沙の手で支えられる。そのまま同じ目線になる高さまで持ち上げられた。大きく開いた双眸を真っ直ぐ“私”に向けながら訊いてくる。
「これからどうしたい? 私はこれからその辺りを適当に飛んで回ろうと思っていたんだが、ついて行きたいか。アリスの所に帰りたいなら送っていってやる。なんなら、この図書館で本を読んでいたっていい」
「最後のは却下」
「どうする?」
選べ、と魔理沙は言っているのだ。
初めて家を出たときと同様の迷いが駆け巡った。知識にない領域へ踏み込んでいくことは、恐ろしくあると同時に得体の知れない充実感をも与えてくれる。やはり抵抗は強かったが、それでもまだ、“私”は知らない場所へ行きたいと望んでいた。
『ついていきます』
魔理沙の口端が、にぃ、と吊り上がった。
「よし、じゃあ行くか。パチュリーもたまには外へ行ったらどうだ。四季の花が同時に咲くなんて滅多にない機会だぜ?」
「・・・・・・そうね、考えておくわ」
石造りの道に降りた魔理沙は、朱色に塗られたゲートを潜ってやはり石の敷き詰められた広場に入った。石の道の奥には古めかしい木造の神社があり、広場を囲むようにして一定間隔で生えている木には鮮やかな桜が密集して咲き乱れている。その派手な木の下に麻の敷物を広げて、頭に角の生えた少女と、頭に三角形の布を巻いた少女が酒と料理を囲んでいた。二人の影には、息苦しそうに寝転がる、黒い棒状のものを背負った少女の姿もあった。
「なんだ、萃香と幽々子も来ていたのか」
「花見の季節だからねぇ」
「私にはどの季節かわからないがな」
魔理沙が声をかけると、角の生えた少女がふやけた調子で答えた。三角布の少女は一目だけ魔理沙を見遣ってから、何も言わず皿に乗った料理を口に運ぶ作業に戻った。魔理沙は敷物に上がり、黒い棒を背負った少女の手前に置いてあった空の杯を取って、角の生えた少女のそばに転がっていた大きな瓢箪から杯に酒を注ぐ。
「勝手に注がないでよ~」
「いいだろう。どうせ中身は無限なんだし」
「そうだけどさ・・・・・・ん? その人形はどうしたの?」
角のある少女が蕩けた視線を“私”に向けた。アリスよりは魔理沙に近い陽気さがあったが、しかしどこか凄みのある仕草を恐れた“私”は、慌てて魔理沙の後ろに隠れる。
そこへ暢気な、“私”の識っている声がかかった。
「あ、魔理沙も来てたんだ」
「おお霊夢、お邪魔しているぜ」
神社から歩いてきたのは、赤と白の布で作られた巫女服と思しき衣装を纏い、菓子の載った盆を両手に持った少女だった。霊夢、と呼ばれたその少女は、盆を敷物の中心に置くと角のある少女を蹴り飛ばし、空いた座布団に座った。
「なんだか横暴だよ霊夢!?」
「席が埋まってたんだから仕方がないでしょう」
「空席が無くなったのは魔理沙が座ったからじゃない。私が立ち退きを迫られるのは不条理よ~」
「座布団くらいなら妖夢に持って来させれば良かったのよ。でもその妖夢を誰かさんが酔い潰してしまったから、席が足りないのは萃香のせいなの。こうしてつまみだって私が持ってこないといけなくなったんじゃない。座布団なしで我慢しなさい」
理論的整合性を欠く発言を堂々としてのけた少女は、その時になって“私”に気がついた。無造作に“私”の後ろ首を掴み、顔の前にぶら下げる。
「アリスの人形じゃない。また盗んできたの?」
「いいや、こいつはアリスの所から勝手に逃げてきたんだ。自分で動くことのできる人形なんだぜ」
「へぇ。この子、お酒は飲めるの?」
「どうなんだろうな。試してみるか」
振り返った魔理沙が杯を“私”の貌に近づける。口内に液体を注がれそうになった“私”は慌てて制止した。
『“私”には飲食でエネルギー補給を行う機能はありません。マスター・アリスからの魔力供給によってのみ補給が可能です』
「そうか。じゃあ無理なんだな」
「あの人形遣いも妙なものを作ったわね。飲み相手にもならないなら自分で動いても仕方がないじゃないの。力比べにもなりそうにないし」
横合いから角のある少女が奇妙な感想を述べる。
「というか自律すること自体には驚かないんだな」
「へ? 人形には魂が宿るものでしょう?」
「・・・・・・そこまで安直に言われるとアリスが浮かばれないぜ」
「そもそも」
と、それまで黙っていた三角巾の少女が口を開いた。
“私”を箸で指して言う。
「それは人間じゃないの」
「なに言ってるのよ、幽々子。どう見ても人形じゃない」
「どう視たって人間だわ。そこの桜と同じ」
幽々子、と言うらしい少女がそうするのに倣って、“私”は頭上を仰いだ。そこには生々しい薄桃色の花が小さな花弁を所々で落としながら、枝を覆い尽くさんばかりの自己主張をしている。
「一時だけ盛大に咲いて、散っていくのよ」
意図が捉えづらい、特に強くも弱くもない言い方。
“私”を指して言っているらしいが、意味がわからなかった。“私”がアリス・マーガトロイドによって作られた人形であることに疑いはなかったし、人間と花は違うものだ。理屈が通っていない。
「ふむ」
魔理沙は顎に手を当てる。
「飲み食いできないとなると、こいつは此処にいてもあまり意味がないな。なあ霊夢、どこかで面白そうなことはないか?」
「そうねぇ」
目線を上げてしばし黙考した霊夢は、ああ、と手を叩いた。
「そういえば、このまえ幽香が言ってたんだけど・・・・・・」
花に溢れた草原の上を風と足並み揃えて飛んでいくうちに、風下の方角から奇妙な音が聞こえてきた。紫一色だった地面が白に変わる。長細い茎をもった名を知らない白い花が風に揺れてなびく先、風下の方角に舞台が設えられ、三つの人影が楽器を演奏している。
「これだな、騒霊のライブというのは」
演奏している少女達は騒霊というらしい。魔理沙はスピードを落とし、慣性で緩やかに舞台へ近づいていった。僅かに聞きとることができる程度だった楽器の音が次第に大きくなり、楽曲が聞き取れるようになっていく。賑やかな調子の音に包まれた空間の内側に入ると、花々の活気を感じることができるようになった。地上に咲き乱れる花はどれも生気に溢れていたが、この舞台の周りでは一際盛り上がっている。
魔理沙は舞台間近まで寄ったところで花畑の中に着地した。演奏の手を止めないまま訝しげにこちらを伺っている騒霊達に向かって勢いよく片手をあげる。
「今日のところは聴きに来ただけだ。邪魔はしないから気にせず続けてくれ」
声は楽曲にかき消されて、“私”ですら聞き取るのがやっとという位だったが、騒霊達は納得したようで、それまで通りに演奏を続けた。
曲は一際激しいトランペットのソロによって最高潮を迎え、唐突に終わりを迎える。場に一転した静寂が広り、花畑を包んでいた活気は小康状態に入った。それぞれ黒、赤、白の服を着た三人のうち、紅い服を着たキーボードの騒霊が舞台上から声を上げる。
「どうやら人形のお客さんも着てくれたみたいね。その人間もそうかな? まぁいいや、どっちにしても今日は良く晴れた合奏日和。誰彼構わず楽しんでいって!」
続けて白い服の騒霊が前に出た。
「じゃあみんな、次の曲にいくわよ。これは冥途へ持って行く最期の土産、『明日への弔辞』。渾身の力で永眠する意気込みを奏でるわ!」
言い終わるより早いタイミングで、黒い服の騒霊がヴァイオリンの早弾きを始める。
気忙しい低音に不安が喚起され、“私”は思わず身構えていた。花畑一帯を張り詰めた空気が覆ったところへキーボードが重苦しい音色を重ね、暗澹とした雰囲気を形成する。立ちこめる鬱気に気分が沈みかけた、その時。
軽快なトランペットが花畑を吹き抜けた。
不意な突風のように花畑を昂ぶりが広まっていく。その瞬間、“私”は白い花々に“私”自身と近しい何かを感じた。
暗い音から浮き立った陽気な音が、他に囚われず縦横無尽に駆けめぐる。ヴァイオリンが歩調を揃えようと歩み寄るが、軽快な音はひょいと躱して調子をずらした。躁鬱の音通同士は重ならないまま主張し合い、個別にテンションを高めていく。
知識にない鍵楽器が悲鳴じみた激しさで打ち鳴らされ、それをきっかけに曲は変化を始めた。不揃いであった躁鬱の音が僅かずつ近寄り、重なっていく。ほんの数秒間の重奏。騒音はそこから始まった。
「ぐおっ!?」
魔理沙が仰け反って呻きを漏らす。
重なった状態から互いが絶妙に音程を外れ、盛大にぶつかり合った。衝撃がのたうちまわり、躯の奥底を壮絶に揺さぶる。やはり周囲の花々からも同様の衝撃に震える気配を感じた。
「幽霊たちは盛り上がってるんだな。こういうのがトレンドなのか?」
ヴァイオリンとトランペットが互いを押し遣ろうと競い合い、その間を気紛れにキーボードが取り持ったり取り持たなかったりする。それらは出鱈目なようでいて、何故か一つの流れになっていた。
不快でない喧噪。
賑やかさに躯が沸き立ってくる。
“私”はいつのまにか花畑の中を走っていた。舞台へ、演奏する騒霊達へ向かって。晴天の下であるにもかかわらず花畑には冷気が漂っている。或いは、そこに“私”の眼に視えない何者かが居るのかもしれなかった。
花を踏みつけないように気をつけながら、強く地面を蹴る。跳躍して舞台に登った“私”は、後ろを振り返り、盛況の中にある花畑を見渡した。一面に広がる花畑から押し寄せてくる活気。騒霊の演奏は、それが賑やかになっていくほど花たちを楽しませていた。
凄いとも、羨ましいとも思う。この演奏のようなことがしてみたい。風を切って空を飛ぶことや、弾を撃ち合うこともそうだ。
我慢しきれずに、“私”は四肢を全力で動かして、舞台上を暴れ回った。
(――違う)
ただ闇雲に暴れ回っても、足りない。
なにかできることがないか、機能を参照する。そして最も相応しいと思った機能を作動させた。“私”は両手を真上に掲げ、何もない空へレーザーを照射。そして照射を止めた両手を、今度は黒い服の騒霊へ向けた。
横に飛んだ騒霊がそれまで居た地点を、レーザーが通過し、そのまま舞台の幌を貫通して伸びていく。演奏が停まる――かに思えた。
「このままやろう。リリカ、メルラン、続けて」
ゆいいつ演奏の中断していなかったヴァイオリンを中心に、トランペットとキーボードが再開する。曲は変わらないまま、音の“外観”が変化した。音が視認できる音符の形をとって三人の騒霊を中心に広がり、そのうちの幾つかが“私”にも向かってくる。それは、目が覚めてからここに来るまでの間に何度か眼にしてきたもの、弾幕だ。星や、七色の気によって空に描かれる模様を、この騒霊達は音によって描くのだろう。そして弾幕が狙う相手は“私”だった。
舞台上を転がって音を回避する。一つを避けたとしても、それに続く大量の音が飛来していた。
「賑やかしなら歓迎するわ」
黒い服の騒霊が言った。
“私”はひたすら弾幕の隙間を探り、身を躱すために跳び回る。弾に当たってしまえば負けになることは識っていた。負けないためには、こちらも撃ち返さなければならない。
「こいつを使え!」
すぐ近くから魔理沙が叫んだ。
(――!)
咄嗟に動いた“私”は、音符をかいくぐり、舞台の縁から身を乗り出した魔理沙が投げて寄越した、白い布袋へ手を伸ばす。辛うじて袋の端が指に引っかかった。
「投げれば使える魔法の弾丸だ。やれるだけやるといい」
紐で綴じられた袋の中には、“私”の親指程の大きさで黒く湿りがある、材質の見当も付かない塊が一杯に詰まっていた。“私”がその塊を一掴み手にして騒霊へ投げつけると、塊は空中で光り始め、加速しながら空を切って広がっていく。騒霊達はそれぞれに弾丸を回避しながら演奏を続け、止む間もなく次々に音を降り注がせた。
光の弾丸はささやかなもので、音に比べれば取るに足らない。
(――当てるだけならできる?)
激しさや、美しさでは劣っているが、単に当てるだけであるなら、万に一つの望みはある。そう信じたい。きっと“私”は些細な存在であるに違いないが、挑んだからには、勝ってみたかった。
理由はわからない。目を覚ました瞬間から、プログラムされた行動規範と明らかに異なる衝動に突き動かされてここまで来たのだ。躯に残る魔力はすでに残り少なく、無補給で活動できる限界はもう長くない。
可能な限りの機能を眠らせて弾幕の予測に専念し、音符に溢れかえる舞台から比較的安全な経路を探りながら移動する。予測が正しいことを信じて、“私”は攻勢に踏み切った。手前に浮かんでいる黒い服の騒霊を目指して跳躍した“私”は、袋に残った塊を勢い任せにぶちまける。
一瞬だけ、音符に勝る鮮やかさを持った光が生まれた。
無軌道に飛び散る弾は騒霊達を捉えこそしなかったものの、動きを制限することには成功する。“私”は近距離まで迫った黒い服の騒霊へレーザーの狙いを定めた。音が躯を掠め、照準は揺れている。この距離で予測が間に合うはずもなく、“私”にできることは、運に身を任せることだけだ。
届くことをただ願いながら、“私”は撃った。
「魔理沙、ここにいたのね! 人形はどうなったの!?」
「よう、遅かったな」
掴みかからんばかりに躙り寄るアリスに軽く手を挙げて挨拶した魔理沙は、挙げた手を巡らせて舞台上を指さした。
「あいつなら、眠っているところだぜ?」
霞草の花畑の中央、ライブの続く舞台で、プリズムリバー姉妹に囲まれた人形は静かに横たわっていた。
激しかった曲は終わり、替わって始まった穏やかな曲が花畑を包んでいる。
その曲が始まるや否や、幽霊達はあっさり活気を納めて、今は耳障りの良い和音に聞き入っていた。周囲に合わせたがる気質の霊が集まっているのかもしれない。精巧に少女を象った人形は、悲しげなヴァイオリンの旋律と、か細いトランペットの音色、キーボードが鳴らす暖かな幻想の物音に囲まれて、心地良さそうに瞼を伏せている。
花にも囲まれ、ここまで贅沢に葬送されたなら、起きるつもりにもなるまい。
このまま二度と眼は開かないのだろうと、魔理沙は思った。
「派手に咲きすぎたんだな」
「え?」
遠巻きに人形を眺めていたアリスがこちらを振り向く。執心していた人形をすぐ回収に行かないのは、やはり彼女も、この光景を近寄りがたいものだと感じたからなのだろうか。
「だから遅れて咲いたくせに、真っ先に散ってしまったんだ」
霧に包まれて見渡すことができない川の向こう側から、一席の木船が私の居る川岸へと渡ってくる。船頭は岸に木船を就けると、私に笑いかけた。
「待たせたねぇお客さん。さ、乗ってくれ」
船頭から促されるままに船に乗る。簡素な木船は体重で揺れるだろうと身構えていたというのに、一歩を踏み込んだその時、私は足が無くなっていることに気がついた。
「そうさ、あんたは死んだんだ。そしてここは三途の川。あんたはこれから彼岸にいくんだよ」
不思議と、驚きはしなかった。
「んん、そりゃいいことだ。納得して死んだんだろうね。これからあたいはあんたを彼岸に渡すんだけど、そのためには渡し賃を貰わないといけない。あんたは今、どれだけ持っている?」
そう言われて初めて、幾つかの貨幣を手に持っていることを知った。その貨幣を渡すと、船頭は、瀬戸際だなぁ、と呟き、貨幣を懐にしまう。
「じゃあ、行こうか」
波のない川面を櫂が緩やかに引き裂き、木船は川の彼岸へと出港した。たちこめていた霧がいつの間にか晴れて、向こう岸まで見通せるようになっている。それでも長大な川幅があったから、きっと長い航行になるのだろう。
あの世へ行ったなら、いずれ生まれ変われるのだろうか。
「向こうへ着けたなら、あとは閻魔さまの判決次第だね。それに相応しければ、然るべき場所へ行った後で人なりなんなりに生まれ変われるさ」
そうであれば嬉しい。生きている間、まるで何も成し遂げてこなかった私だったけれど、ここへ来る前に鮮やかな夢を見たのだ。次に生まれてきたならば、ああして懸命に生きてみたい。
船頭は櫂を漕ぐ手を緩めないまま器用に振り向いて、陽気な声で私に言った。
「ところでお客さん、貰った銭にやたらと新しいやつが混じっていたんだが。ちょいと狡をしてやいないかい?」
意地が悪そうな言い方。
私が視た分には、どちらも同じ古銭だったはずだ。
「しかも、外の世界のじゃなくて幻想郷のやつだ。どうにか誤魔化して、死んでからちゃっかり稼いだとみたね」
急に後ろめたくなる。ものを貰った覚えはなかった、けれど、得たものがないと言うこともできない。それは拙いことだったのだろうか。
「とはいえ、そこに白黒つけるのは閻魔さまの仕事だ。渡し賃さえ払ってくれるならあたいは一向に構わない。それより生きていた頃の話を聞かせてもらえないか。先は長いし、あんたは貴重な体験をしているようだ」
首はないのに、何となく頷くことができた。
話す内容など見つからないかと思っていたのに、前向きになってから振り返れば存外、愉快だったこともあったのだとわかる。幸い、話せる時間なら沢山あった。彼岸に辿り着くのはまだ先のことだ。
(・・・・・・?)
ふと、気が遠くなりかける。
疲れているのか、どことなく意識が茫洋としてくるようだった。
まぁいいや。酷い眠気はあるけど、ひとまず起きていられるうちは、昔話に時間を使おう。どこから話そうか。そうだ、私が幼い頃に初めて人形を作った時の話なんだけれど――
偶然にしろ遂に完成した自立人形を持っていかれ、やっと見つけた時には壊れてて検証もできない研究にも生かせない、持って行った本人は全く悪びれた様子も無い。
正直不快でした、魔理沙らしいのかもしれないけど。
> ゆいいつ演奏の中断していなかったヴァイオリンを中心に、
2行目から判断すると上の台詞はルナサのものと思われるので、「メルラン、リリカ、続けて」が
正しいのではないかと。
作品に関しては、上の方と同じことを感じました。
アリスの目標が自律人形を作ることだということは魔理沙も知っていると思います。
泥棒に入ろうとした矢先にその重要な成果を持ち去って、「主人が陰気なのに嫌気がさして
家出したってところだろう」と言い放つのは、いくら何でも酷すぎます。
ライブ会場でアリスが追いついてからも反省した様子はありませんし。
魔理沙だから仕方ないのでしょうか。
人形にとっての人形遣いが絶対悪であるという前提でしょうか?
従者は主人からの解放を求めているに違いない、とか?
この人形は私事で暴走し納得して死んだのですから満足でしょう。ではアリスは?
子がいきなりいなくなり、必死で探しまわって見つけた時には死んでいた―――
―――親はこの状況を殺されたと感じるのではないでしょうか―――その時の親の気持ちは?
この後のアリスの心境、予測される行動、子供の死に関係した存在への感情と今後の接し方を思うと、
ただの救われない果てのない悲劇にしかなりません。
尤も、怒りと憎しみの矛先は他者ではなく自分自身に向く可能性もありますが、いずれにせよ悲劇にしかならない。
アリスにとってはせっかくの人形が残念なことになりましたが、本来なら三途の川を渡れないはずの幽霊を救えたので、人助けだと思って……とは、納得できないでしょうがねえ。
人形に宿りそうな性格の人って、やっぱり人形が好きな人なんでしょうか。
アリスがそこまでたどり着いた、ということがもう少し示唆されれば、良い終わり方だと思います。
多分、わかっているのだとは思いますが、本人の口から何かが欲しい気もします。
でも「派手に咲きすぎたんだな」という言葉は、胸に響きました。
それ以外は楽しく読ませてもらいました、発想が面白かったです