懐中時計が丁度3時を示した。
館内の時計が一斉に鳴り始める。
レミリアの部屋の前で待機していた咲夜は媒体となる懐中時計を握りしめ全神経を集中させた後、時を止めた。
間髪入れず扉を開けて室内に入り後ろ手に勢いよく扉を閉め、ティーセットを前に目を瞑ったまま微動だにしないレミリアを確認し、手早く紅茶を淹れ終えて姿勢を正すと、丁度時計の針が動き始め、柱の時計が3つ目の音を打った。
「見事だわ。咲夜」
いつものパフォーマンスであるが、レミリアは満足そうに紅茶の湯気を吸い込んだ。
「お気に召していただき、幸いです」
咲夜は、数日前から引いている風邪のせいで荒れた声を出して静かに頷いた。
「後」
「はい」
「フランがあなたに話しがあるって」
咲夜は内心、溜息を吐いた。
「分かりました。すぐに行きます」
「よろしくね。私は、別に犬くらい構わないと思っているのよ。まあ、そこはあなたに任せるけど」
「はい。考えます」
以前であれば、ここで図書館ないし自室に戻り休息を取れたものであったが、フランドールの世話までも一手に引き受けている現在はそうもいかない。
咲夜はフランドールの居場所に見当が付いた。
門番のところである。
予想通り、日傘片手のフランドールは門番のところにいた。
それ自体は一向に構わぬことだが、その脇にいる輩が問題なのだ。
案の定、フランドールの足下で尻尾を振っている邪魔者を見て咲夜は顔を引きつらせた。
恭しい挨拶をする美鈴を無視して、咲夜はフランドールに話しかけた。
「フランドール様、ご用は何でしょうか」
フランドールは座り込んで、目の前の大型犬の頭を撫で続けながら鋭い視線を咲夜に向けた。
「私、これ飼うよ」
先日、この黒白模様の大型犬の子供が紅魔館に迷い込んでからずっとこの調子だ。
腹を減らしていたらしく、門の前で動けなくなっていたのを見かねた美鈴が餌をやったばかりに居着いてしまったのであるが、そこを美鈴と仲の良いフランドールが通りかかり、紅魔館で座敷犬として飼うことを提案した。
そうなると、やはり決定権を握るのは普段から館内の家事を統括し、メイド連中の人事権やら何やらを握っている咲夜である。
咲夜からすれば、冗談ではない。現在でも仕事で手一杯なのに犬など飼えばそのための食事など用意しなければならないし、その他必然的に仕事が増える訳である。ましてや、座敷犬など考えただけで寒気がした。
「駄目です。絶対。さっさと返しなさい。座敷犬なんて冗談じゃありません。こんな汚い犬」
フランドールは、犬の脚を持ち上げてみせた。
「オスカルは綺麗だよ。今は汚れてるけど、ちゃんと洗えば綺麗になるよ。ね?オスカル」
「名前なんか付けて。何がオスカルですか。こんな犬、ポチとかシロで十分です」
確かにオスカルは言い過ぎだとしても、白毛をベースに黒く模様付けされた体を見るに中々上等な犬だと思われた。
顔も同じく白毛の上に黒く隈取りが施されており、また眉毛にあたる部分に盛り上がった白毛も相余って歌舞伎役者の様な凛々しい顔立ちをしていた。
咲夜は何となく気にくわない。
「大体ね。このでかい犬は俗にシベリアンハスキーとか呼ばれてるやつで、これからまだまだでかくなります。今だってでかいのに。その脚の先っぽの白い部分を見てご覧なさい。普通の犬の二倍は太い。でかくなる証拠です。ああでかいでかい」
太い脚を持ち上げられた犬はあくびした。
座ると、咲夜の太ももの辺りに顔が来る本当にでかい犬だ。
これからまだまだでかくなるのだから、呆れる。
「大きくって何が悪いの? この子は賢いし、いい子だよ。ちゃんと私が面倒見るから」
咲夜は重い頭を勢いよく振った。
「みんな、そう言うんですよ。それに誰がこの犬のご飯を作るんですか、妹様はろくに目玉焼きだって作れないじゃないですか」
「それは、そうだけど。美鈴だって手伝ってくれるし」
「えっ」
美鈴は目を見開いたが、フランドールに睨まれて小さく頷いた。
咲夜は大げさに溜息を吐く。
「ほら、見たことですか。もう、すでに他人に頼ってる。私はもう中に入りますよ、忙しいので」
小刻みに震えるフランドールと、青ざめる美鈴を残して玄関ホールに入ろうとする咲夜の背中に甲高い罵声が浴びせかけられた。
「死ね、死ねえっ。お姉様の手先。犬、犬、犬っ。大嫌い。死ね」
フランドールはレミリア寄りの立場にいる咲夜を当初から好んではいなかったらしいが、最近は特に表面的に嫌悪感を露わにしている。
咲夜の胃がきりきりと痛んだ。
夕食後、片付けを済ませて部屋に戻った咲夜は一層激しい胃痛に襲われ、ベッドに頭を埋めた。
今までもそれなりに激務をこなしていたし、それほど丈夫な体をしていないこともあって体調を崩すことはあったが、これほどまでに酷い痛みは味わった事がない。
咲夜は、鉛が入ったように不快な胃を抱えて洗面所まで歩いていくと水っぽい胃液を三度吐き出した。
咲夜はある種、確固としたプライドを持っており、その一つとして「体調を崩しても自力で回復する」があったのだが、今回ばかりは耐えかねた。
「はい、舌出して」
パチュリーは、咲夜の喉の奥を観察して机上の紙面に何やら書き込んだ。
「どうですか」
「焦らないで、じっくり見ないと病名は分からないわ。ここは痛む?」
それもそうだと思った矢先、胃袋の下の方をしたたか引っぱたかれて咲夜はむせた。
「痛いです」
「そう」
パチュリーはまたもや、ペンを取り勢いよく紙面上を走らせている。
「風邪と神経性疲労ね。まだちょっと気持ち悪いでしょう? 顔色が悪い」
パチュリーが何やら棚の中から粉薬を取り出し始め、咲夜は頷いた。
「今まで、元気だったのに、疲れは溜まっているものね」
苦い薬を飲み干した咲夜は、パチュリーの知ったような口ぶりに苛立った。
自分は本来疲れるような人間ではないのだ。
不摂生なパチュリーと違って規則正しい生活を送り、疲れを溜めないよう人一倍努力を重ねているのだ。
「いえ、私は本来であれば疲れるようなことはありません」
「妹様が外に出たから?」
「違います」
声を荒げて、ようやく咲夜は自分の発言を後悔した。
「犬が全部悪いんです、知っているでしょう? 門の所にふてぶてしく居座っているあの犬を。丁度まずい時にあの犬が来ておかしくなったんです」
パチュリーは、小馬鹿にしたように口の端を小さく動かした。
「可愛いものじゃない。飼ってあげればいいのに。まあ、何にしろ風邪を引いてたのは事実だし。しばらくお休みをもらったら? あなたが欠けても紅魔館が倒れるわけじゃないもの」
レミリアとパチュリーは普段から咲夜の世話になっているため犬の件に関して明確な言い方を避けていたのだが、それがまた咲夜を苛立たせる要因であった。
「絶対に嫌です」
咲夜の鼻から、水っぽい鼻汁が噴き出した。
「あのでかい犬を追い出して、私は今まで通り規則正しく働きます」
咲夜は息巻いて立ち上がった。
「そう、私は別に構わないけどね。それじゃ、この薬を渡しとくから朝晩飲みなさい。それと」
「はい」
「しばらく、時間使うの止めたほうがいいかもね。疲れるでしょう?」
咲夜は小さく頷くと、薬の入った紙袋を抱えて図書館を出た。
風邪に侵された頭がどうにも熱っぽく、廊下をいつも以上に長く感じさせる。
明日は早起きして、オスカルを追い出してしまおう。
咲夜は心に固く誓った。
そうすることで風邪が治るような予感さえしたし、このまま放置しておくとオスカルがよそ者と関係者の境界線をのっそりと乗り越えて来るような気がしてならなかった。そうなれば、あの大図書館らが動かないとも限らない。
咲夜がふいっ、ふいっと熱い息を吐きながら自室のある3階まで階段を上りきり廊下に出た時、あろうことかオスカルを連れた美鈴と鉢合わせた。
余りの事に咲夜は言葉を失って口をぱくつかせる。
美鈴も、相当狼狽したらしくその場で土下座した。
ご丁寧にオスカルの首には立派な黒革の首輪がはめられている。
「すいません。すいません。フランドール様が中に入れろとおっしゃるので。どうか見逃してください。ちゃんと何度も洗いましたので」
「外で殺す」
咲夜は、オスカルの首輪を掴んで外に引っ張り出すべく階段を下りようとした。
しかし、犬も賢いものでお座りの体勢を保ったまま、階段の上から動こうとしない。
恐らく、館から追い出された自分の辿るであろう末路に薄々勘付いているのだ。
ハスキー犬が本気で踏ん張ってしまえば女子供の力などが及ぶはずも無く咲夜は階段に足をかけたまま、顔を真っ赤にして唸った。
「どうか、どうか」
美鈴の諫めなど聞き入れられる筈もなく、咲夜は喚いた。
「黙れ。お前も殺すぞ」
大声で騒ぐものだから通りかかったメイド達が足を止め、小さな人だかりが形成された。
オスカルは吠えるでもなく座ったまま落ち着き払った様子で咲夜を見上げている。
「オスカル」
事態に気付いたフランドールも駆けつけてきて、咲夜は怒りに任せて吠えた。
「この犬は何ですか、私は飼わないといったでしょう。追い出しなさい。さあ、早く」
フランドールはオスカルの隣に腰を下ろして、泣き喚いた。
「やだあ、家で飼う。オスカルは悪くないもん」
「いけません、いけません」
咲夜はオスカルの首輪を両手で掴んで引っ張り続ける。
更に、どこからか事態を聞きつけたレミリアも駆けつけてきた。
「あ、犬」
「お姉様。この犬、家で飼わせて」
美鈴が土下座し、咲夜が吠え、フランドールが泣き出し、オスカルを中心に取り囲んだ30人ほどの群衆が騒ぎ、そこにレミリアが割って入ろうと悪戦苦闘し、東側・第一階段は騒然とした。
「咲夜もフランも落ち着きなさい、何だっていうの」
「オスカルを連れて行かないで」
オスカルは尻尾をべったり、と床に付けたまま動こうとしない。
直接レミリアに諭されたこともあり咲夜は手の力を緩め、フランドールも泣き止み、小康状態を迎えるかと思われたその時オスカルがぺろり、と舌を出してあくびした。
途端、咲夜の血液が全身から頭に流れ込む。
「くそ犬」
「止めて咲夜、オスカルは悪くない」
次の瞬間、オスカルを引きずり下ろすべく、その太い首を抱え込もうとした咲夜の腕が勢い余ってすっぽ抜けた。
咲夜の全体重は言うまでもなく階段側にかかっており、行き場を失った力は当然そちら側へと向かう。
咲夜は後方へと大きく傾き天井を仰いだ。
「きゃ」
「あ」
「ああ」
「まあ」
「オスカル」
「咲夜」
「ああ」
「あっ」
「咲夜さん」
「アンドレ」
「きゃあっ」
「わ」
「あら」
「咲夜さん」
叫びの交差する中、咲夜は足を踏み外し体勢を立て直す暇も無く、踊り場まで25段にも及ぶ階段を真っ逆さまに落ちて行く。
中ほどで一度、背中を打ち付けた咲夜は高く跳ね上がり、胸から踊り場に叩きつけられた。
咲夜は胸と床に挟まれた懐中時計がひしゃげる音を聞いて、そのまま意識を失った。
追うようにして、群衆が踊り場に押し寄せて来る。
「大丈夫ですか」
咲夜を抱き起こすや否や、美鈴が悲鳴を上げた。
「どうしたの」
最悪の事態を想定したレミリアとフランドールが、美鈴の腕の中を見るが早いか腰を抜かした。
辺りが騒然となる。
「咲夜さんは無事なの」
「美鈴さん」
「お返事を」
「各自、部屋に戻れ。フラン、犬を外に出しておきなさい」
レミリアはそれだけ言い切ると、咲夜を図書館に運ぶよう美鈴を促した。
オスカルは相変わらず階段の上で、運ばれていく咲夜を眺めていた。
薄目になって舟を漕ぐ小悪魔を見て、パチュリーは頭を掻いた。
未だ壁の時計は8時を過ぎた辺りである。
どうにも昼間働かせ過ぎてしまったらしい。
部屋で寝るように声を掛けようとした直後、図書館の扉が勢いよく開かれてレミリアと美鈴が駆け込んできた。
パチュリーの心臓が跳ね上がると同時に、小悪魔も飛び起きた。
滅多なことでは慌てぬレミリアが血相を変えて走り寄って来たのを見るに、良くないことがあったらしい。
美鈴は何やら腕の中にメイドらしき物をかかえている。怪我人か。
隣の小悪魔を見ると、うんざりした表情を浮かべていた。
自分も同様であった。
「パチェ」
レミリアはパチュリーの前まで来ると、念を押すように訴えた。
「怪我人かしら」
「実は、咲夜が階段から落ちて」
面倒くさいことになりそうだ。
すっかり顔から血の気の引いた美鈴がゆっくりと咲夜を机の上に下ろすや否や、パチュリーと小悪魔も目を見開いた。
「咲夜?」
机上に見慣れた咲夜の姿は無かった。
どう見ても6,7歳の少女がオーバーサイズのメイド服に包まれて眠っていた。
少女は咲夜同様、透き通るような長い銀髪を生やしており、まるで咲夜がそのまま小さくなったような印象である。
「怪我人?」
怪我らしい怪我も見当たらず、少女は静かに呼吸音を立てながら眠っている。
「どう思う」
試しているような、含みのあるアクセントでレミリアが尋ねた。
「どうって。これは確かに咲夜かどうかも分からない。私をからかっているの?」
脇の小悪魔は早くも頭を抱えている。
美鈴共々無言で、発言を恐れているように見えた。
「そういうことじゃないの。これは咲夜よ。階段から落ちて叩きつけられるところまで、大勢が見てたもの」
「階段から落ちたらこうなった? 大勢?」
「メイド連中やフランドール」
レミリアは苛々とした語調で続ける。
「問題は、どうしてこうなったかなのよ」
パチュリーは首を振った。
「分からない」
「そうよねえ。元々謎の多い子だったものねえ」
あはははは。
図書室は少し和やかさを取り戻した。
「もしかして、これも能力の一つとか?」
「さあ、でも生きてるのは間違い無いみたいよ」
パチュリーが咲夜の心臓に手をやると、調子に乗った小悪魔が咲夜の頬を突いた。
「何してるの」
「柔らかいです。いやあ、目覚めるかなと思って。起こしちゃ駄目ですか」
「駄目ってわけじゃないけど」
パチュリーも、咲夜が目覚めた時の反応が気になった。
正面のレミリアもやはり気にしているように見える。
「ちょっとだけ」
他の3人が見守る中、パチュリーが恐る恐る手を伸ばし柔らかい頬の肉に触れた。
「どう?」
「すごく、柔らかい」
全員がほうっと声を漏らした。
美鈴の喉が、ごくり、と鳴る。
「触りたいの?」
美鈴は、血走った目を輝かせて頷いた。
「触りたいです」
「じゃあ、触れば」
美鈴の細い指先が薄紅色の咲夜の頬に触れた途端、咲夜の青い目がおもむろに開いた。
「ひゃ」
美鈴は雷に打たれた様に飛び退いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。咲夜さん。そんなつもりは無かったんです」
咲夜はゆっくりと上体を起こした。
4人は鼻息も荒く、咲夜の動向を寸部たりとも見逃すまいと集中している。
「咲夜?」
咲夜は、4人を順に見回した。
毛先を焦がすような緊張が図書館の一角を満たす。
「ここ、どこ?」
咲夜の小さな唇から高く幼い声が漏れた。
一同は返答にあぐねたが、パチュリーが率先して答える。
「図書館よ」
「私、何してたんだっけ」
こっちが聞きたいくらいだ。
パチュリーは周りの顔を窺ったが、一様に俯いており期待できない。
「名前、言える?」
「えっと、名前はね。×××。」
これまた、聞き覚えの無い名前が出てきた。
レミリアが小さく反応した。
大きすぎるメイド服が、咲夜の肩からずり落ちようとしている。
いよいよ、パチュリーの頭が痛くなってきた。
「×××? そう。×××。年は、いくつ?」
「6才」
今度は即答が返ってきた。
パチュリーの見立ては案外間違っていなかった。
「私、病院に帰りたくない」
咲夜は声を荒げて、パチュリーに訴えた。
パチュリーは他の3人にアイサインを送り救援を求めたが、一斉に目を反らされてしまった。
本当に使えない連中だ。
「分かったわ、帰らなくていいわ。病院に帰らなくていいのよ」
今ひとつ事情が飲み込めず、パチュリーは手探りを続ける。
「病院から逃げて来たの?」
「うん。病院はつまらないんだもん。ご飯は美味しくないし。それに」
話しが脱線しかけたので、パチュリーは慌てて次の質問を振る。
「それから、どうしたの」
「お腹減って、道ばたで急に眠くなって、そしたら」
そこで、パチュリーは咄嗟に言った。
「そうだったのね。あなた、ずっとあっちの通りに倒れてたのよ。そこで、そこの美鈴があなたを連れて来たの。美鈴よ美鈴。見たことない?」
咲夜は薄灯りに照らされた美鈴の顔を見つめたが、やがて首を横に振った。
どうやら、メイド長・咲夜の知識やらは残っていないらしい。
「私を連れて来てくれたの?」
「そうよ。眠っていたのなら仕方ないわね。お母さんやお父さんは?」
「いないよ。私は3才の時から病院の中。ずっと病院にいなくちゃ駄目だって」
咲夜がぼうっと虚空を見つめ、パチュリーも言葉に詰まったため気まずい沈黙が訪れたが、咲夜は突如思い出したように大声を上げた。
「どうしたの?」
沈黙に耐えきれなくなっていた小悪魔が尋ねた。
「時計」
「え?」
「時計見なかった? 前の服のポケットに入れてた。取られちゃった」
パチュリーは、咲夜がいつも習慣のようにメイド服の右胸の所に入れていた懐中時計を思い出す。
「あなたの胸の所に入っているのは違う?」
咲夜が拙い手つきで胸ポケットの中を探ると針が折れ、歯車が飛び出し、全体が大きく歪んだ懐中時計が出てきた。
パチュリーを含めて全員が息を呑む。
先ほど、落ちた時のものだとレミリアが耳打ちした。
「壊れちゃった」
咲夜の目に涙が滲んだ。
「大事な物なの?」
「うん」
「貸してみなさい、直してあげる」
パチュリーは時計を受け取った。
「それよりも、×××はお腹減ってるんでしょ。小悪魔」
小悪魔はあからさまに顔をしかめた。
寝不足の小悪魔が作ったオムライスを夢中でかき込んでいる咲夜からやや離れたテーブルでレミリアとパチュリーは向かい合った。
「原因は、見当が付くわね。多分これに間違いないわ」
滅茶苦茶に壊れて動かない時計を前にレミリアは頷いた。
「何やら、曰くありげな代物だと思ってはいたけれどもね。直せば咲夜も戻るかしら?」
「さあ。そもそも直せないかも」
パチュリーはこのような機械いじりをしたことがない。
「戻らなかったら、その時は」
「分からない。あのまま育ててみてもいいかも」
「そうね」
またレミリアは頷いた。
2つ向こうのテーブルで何やら小悪魔と美鈴が悲鳴を上げている。
「さっきの×××っての聞いたわね」
「ええ」
レミリアは何か知っているらしいが、数瞬口ごもった。
「まあ、大体分かると思うけれど、×××ってのは咲夜の本当の名前なのよ。実に久しぶりに聞いたわ。本人があまり好きじゃなかったみたいだから、咲夜に変えたのよ」
レミリアは顔を歪めたが、パチュリーが興味無さそうにしているのを見て続ける。
「パチェにとっては関係ないわね。それより当面の問題は、人目でしょう。さっき言ったけど、階段を落ちた時に大勢に見られたわ」
パチュリーはようやく自分の気になっていた部分に話しが移ったので、安心した。
「目撃者を全部殺す? もう噂は広まっているわよ。それよりも、館全体に箝口令を敷きましょう。勿論、口裏を合わせるように指導もして」
「ええ。それが最善ね。ただ厄介なのは。分かるでしょう?」
白黒と紅白。レミリアは頷いた。
「ばれて騒がれたら面倒臭いことこの上ない。美鈴の力では門を死守できないから、つまり警備を固めるのは相手を刺激するだけで逆効果」
レミリアは、遠くで何やら咲夜と会話している美鈴を指さした。
「身内総ぐるみで徹底的に隠しましょう。当分の間、咲夜は紅魔館に存在しない。幸いにも咲夜には記憶が無い」
レミリアの大きな目が光った。
「裏切り者は」
「殺す」
「明日、朝一で全員集めて口裏指導するわ」
パチュリーは手持ちぶさたに懐中時計を突くと、レミリアは神妙な顔で尋ねた。
「あれって、咲夜がそのまま子供の頃に返ったと考えていいの?」
「何とも。咲夜が子供の時のことなんて知らないし。ある日、ひょっこりレミィが連れて来たときにはもう子供じゃなかったでしょう。それに、どうにも私は無関心だったから」
「そうよねえ。咲夜はどこへ行ってしまったのかしら」
「いてててて」
「あ、こら」
オムライスを食べ終え、すっかり元気になった咲夜は小悪魔の頭の羽を掴んで遊んでいた。
美鈴としては小悪魔が可哀想なので止めたいが、相手が咲夜では注意しにくい。
「引っ張っちゃ、駄目ですよ」
「頭に羽が付いてて変なの」
その時、2つ向こうのテーブルから指を鳴らす音が聞こえ3人とも振り向いた。
見れば、パチュリーとレミリアが手招きしている。
「まあ、腰掛けなさい」
パチュリーの隣に小悪魔が腰掛け、少し離れて美鈴と咲夜が着席するとレミリアが話し始めた。
「×××。懐中時計は、このパチュリーが直すわ。それでいい?」
くれぐれも「咲夜」と呼ぶな、の念を込めてレミリアが言った。
「大丈夫、私に任せておきなさい」
「うん」
「あなたは、もう病院に帰らなくていいのよ。好きなだけここにいなさい」
咲夜が頷いた。
「翌朝、また説明するけど美鈴は今まで通り、門番をして決して人を通さないように」
美鈴も頷いた。
「そして、小悪魔。あなたは×××のお世話をしなさい。いい? ×××、この小悪魔お姉ちゃんに面倒見てもらいなさい」
「ええっ」
「仕方ないでしょう。他に人材がいないんだから」
咲夜は小悪魔の頭上を指して笑った。
「頭から羽が生えてて、変なの」
「そうね、変ね」
パチュリーは必死に笑いをこらえている。
「では、今日はこれにて解散。後は翌朝、大広間で」
レミリアが立ち上がると、全員が後に続いて立ち上がった。
「ちょっと、待ってください。私は司書ですよ」
必死に抗議する小悪魔にパチュリーは囁いた。
「ただし、小悪魔は×××を寝かせつけてから、自分の部屋に帰って寝ること」
一人、一人と部屋に帰って行き、薄暗い図書館には小悪魔と咲夜が残された。
咲夜はぶかぶかのメイド服から手を覗かせて、笑った。
「ここの部屋を使ってくださいね」
「広い」
咲夜は自らの私室を見て驚き、走り回った。
小悪魔は「あなたの部屋でしょうよ」を口の奥に押し込んで、咲夜の部屋を観察した。
部屋は常時整頓されているらしく、初めて入ったホテルの一室のようであった。
小悪魔も綺麗好きの自覚があったが、それを遙かに上回る。
「とりあえず、お風呂に入りましょう。ちょっと待っててください」
ベッドの上で飛び跳ねている咲夜を残して、小悪魔は廊下を走り、階段を駆け下り、また廊下を走り、階段を駆け上がり自らの着替えと、最も小さいXSサイズ(小型妖精用)の服をかき集めてきた。
ところが部屋に入ると咲夜の姿がない。
小悪魔の額から冷や汗が噴き出す。
鍵を掛けておけば良かったと後悔したところで遅い。
このままではパチュリーに殺されてしまう。
「×××、どこですか」
小悪魔が必死に名前を呼び部屋を出ようとすると、咲夜がベッドの下から飛び出してきた。
「ばあっ。驚いた?」
このクソガキが本当に十六夜咲夜になるのだろうか。
小悪魔は取り違えの可能性を疑った。
「いいですから、もう。お風呂に入りましょうよ」
「うん」
手を引いて脱衣所に入り、小悪魔から服を脱ぎ始めると咲夜がまじまじと注視した。
小悪魔は、恥ずかしくなり視線を反らす。
「小悪魔、胸大きい」
「誰だって大きくなりますよ、あなただって」
そこまで言いかけて小悪魔は、はっとなった。
咲夜の胸はこの先も、大きくならないのだ。
「私も大きくなるかなあ」
「なります。きっとなります」
小悪魔は心の中で、生まれて初めて神に懺悔した。
咲夜は浴槽の広さや大きな鏡にいちいち驚くので、これは見ていて面白い。
湯上がりに特小サイズのメイド服を着た咲夜は、やはり似合っていた。
「この服、かっこいいね」
「そうですか。なら将来着るといいでしょう」
小悪魔は疲れていることもあり、段々と受け答えが適当になっているのを自分自身感じる。
「さあ、もう寝ましょう」
小悪魔は内鍵を掛けて電気を消すと、自分の部屋に戻るのも億劫なので咲夜の隣へと横になった。
元々どでかいベッドなので、後2人は寝られそうである。
「明日、遊んでいい?」
「いいですよ。どうぞお好きに」
それから咲夜が色々と話しかけて来たが、疲労困憊の小悪魔は適当な相づちを打っている内に眠ってしまった。
翌朝、早々に起床した小悪魔は隣に寝ている咲夜を確認し、緊急集会が開かれる大広間に向かった。
どこからともなく犬の遠吠えが聞こえてきたが、今の小悪魔にそれを気に留める余裕は無かった。
館内の時計が一斉に鳴り始める。
レミリアの部屋の前で待機していた咲夜は媒体となる懐中時計を握りしめ全神経を集中させた後、時を止めた。
間髪入れず扉を開けて室内に入り後ろ手に勢いよく扉を閉め、ティーセットを前に目を瞑ったまま微動だにしないレミリアを確認し、手早く紅茶を淹れ終えて姿勢を正すと、丁度時計の針が動き始め、柱の時計が3つ目の音を打った。
「見事だわ。咲夜」
いつものパフォーマンスであるが、レミリアは満足そうに紅茶の湯気を吸い込んだ。
「お気に召していただき、幸いです」
咲夜は、数日前から引いている風邪のせいで荒れた声を出して静かに頷いた。
「後」
「はい」
「フランがあなたに話しがあるって」
咲夜は内心、溜息を吐いた。
「分かりました。すぐに行きます」
「よろしくね。私は、別に犬くらい構わないと思っているのよ。まあ、そこはあなたに任せるけど」
「はい。考えます」
以前であれば、ここで図書館ないし自室に戻り休息を取れたものであったが、フランドールの世話までも一手に引き受けている現在はそうもいかない。
咲夜はフランドールの居場所に見当が付いた。
門番のところである。
予想通り、日傘片手のフランドールは門番のところにいた。
それ自体は一向に構わぬことだが、その脇にいる輩が問題なのだ。
案の定、フランドールの足下で尻尾を振っている邪魔者を見て咲夜は顔を引きつらせた。
恭しい挨拶をする美鈴を無視して、咲夜はフランドールに話しかけた。
「フランドール様、ご用は何でしょうか」
フランドールは座り込んで、目の前の大型犬の頭を撫で続けながら鋭い視線を咲夜に向けた。
「私、これ飼うよ」
先日、この黒白模様の大型犬の子供が紅魔館に迷い込んでからずっとこの調子だ。
腹を減らしていたらしく、門の前で動けなくなっていたのを見かねた美鈴が餌をやったばかりに居着いてしまったのであるが、そこを美鈴と仲の良いフランドールが通りかかり、紅魔館で座敷犬として飼うことを提案した。
そうなると、やはり決定権を握るのは普段から館内の家事を統括し、メイド連中の人事権やら何やらを握っている咲夜である。
咲夜からすれば、冗談ではない。現在でも仕事で手一杯なのに犬など飼えばそのための食事など用意しなければならないし、その他必然的に仕事が増える訳である。ましてや、座敷犬など考えただけで寒気がした。
「駄目です。絶対。さっさと返しなさい。座敷犬なんて冗談じゃありません。こんな汚い犬」
フランドールは、犬の脚を持ち上げてみせた。
「オスカルは綺麗だよ。今は汚れてるけど、ちゃんと洗えば綺麗になるよ。ね?オスカル」
「名前なんか付けて。何がオスカルですか。こんな犬、ポチとかシロで十分です」
確かにオスカルは言い過ぎだとしても、白毛をベースに黒く模様付けされた体を見るに中々上等な犬だと思われた。
顔も同じく白毛の上に黒く隈取りが施されており、また眉毛にあたる部分に盛り上がった白毛も相余って歌舞伎役者の様な凛々しい顔立ちをしていた。
咲夜は何となく気にくわない。
「大体ね。このでかい犬は俗にシベリアンハスキーとか呼ばれてるやつで、これからまだまだでかくなります。今だってでかいのに。その脚の先っぽの白い部分を見てご覧なさい。普通の犬の二倍は太い。でかくなる証拠です。ああでかいでかい」
太い脚を持ち上げられた犬はあくびした。
座ると、咲夜の太ももの辺りに顔が来る本当にでかい犬だ。
これからまだまだでかくなるのだから、呆れる。
「大きくって何が悪いの? この子は賢いし、いい子だよ。ちゃんと私が面倒見るから」
咲夜は重い頭を勢いよく振った。
「みんな、そう言うんですよ。それに誰がこの犬のご飯を作るんですか、妹様はろくに目玉焼きだって作れないじゃないですか」
「それは、そうだけど。美鈴だって手伝ってくれるし」
「えっ」
美鈴は目を見開いたが、フランドールに睨まれて小さく頷いた。
咲夜は大げさに溜息を吐く。
「ほら、見たことですか。もう、すでに他人に頼ってる。私はもう中に入りますよ、忙しいので」
小刻みに震えるフランドールと、青ざめる美鈴を残して玄関ホールに入ろうとする咲夜の背中に甲高い罵声が浴びせかけられた。
「死ね、死ねえっ。お姉様の手先。犬、犬、犬っ。大嫌い。死ね」
フランドールはレミリア寄りの立場にいる咲夜を当初から好んではいなかったらしいが、最近は特に表面的に嫌悪感を露わにしている。
咲夜の胃がきりきりと痛んだ。
夕食後、片付けを済ませて部屋に戻った咲夜は一層激しい胃痛に襲われ、ベッドに頭を埋めた。
今までもそれなりに激務をこなしていたし、それほど丈夫な体をしていないこともあって体調を崩すことはあったが、これほどまでに酷い痛みは味わった事がない。
咲夜は、鉛が入ったように不快な胃を抱えて洗面所まで歩いていくと水っぽい胃液を三度吐き出した。
咲夜はある種、確固としたプライドを持っており、その一つとして「体調を崩しても自力で回復する」があったのだが、今回ばかりは耐えかねた。
「はい、舌出して」
パチュリーは、咲夜の喉の奥を観察して机上の紙面に何やら書き込んだ。
「どうですか」
「焦らないで、じっくり見ないと病名は分からないわ。ここは痛む?」
それもそうだと思った矢先、胃袋の下の方をしたたか引っぱたかれて咲夜はむせた。
「痛いです」
「そう」
パチュリーはまたもや、ペンを取り勢いよく紙面上を走らせている。
「風邪と神経性疲労ね。まだちょっと気持ち悪いでしょう? 顔色が悪い」
パチュリーが何やら棚の中から粉薬を取り出し始め、咲夜は頷いた。
「今まで、元気だったのに、疲れは溜まっているものね」
苦い薬を飲み干した咲夜は、パチュリーの知ったような口ぶりに苛立った。
自分は本来疲れるような人間ではないのだ。
不摂生なパチュリーと違って規則正しい生活を送り、疲れを溜めないよう人一倍努力を重ねているのだ。
「いえ、私は本来であれば疲れるようなことはありません」
「妹様が外に出たから?」
「違います」
声を荒げて、ようやく咲夜は自分の発言を後悔した。
「犬が全部悪いんです、知っているでしょう? 門の所にふてぶてしく居座っているあの犬を。丁度まずい時にあの犬が来ておかしくなったんです」
パチュリーは、小馬鹿にしたように口の端を小さく動かした。
「可愛いものじゃない。飼ってあげればいいのに。まあ、何にしろ風邪を引いてたのは事実だし。しばらくお休みをもらったら? あなたが欠けても紅魔館が倒れるわけじゃないもの」
レミリアとパチュリーは普段から咲夜の世話になっているため犬の件に関して明確な言い方を避けていたのだが、それがまた咲夜を苛立たせる要因であった。
「絶対に嫌です」
咲夜の鼻から、水っぽい鼻汁が噴き出した。
「あのでかい犬を追い出して、私は今まで通り規則正しく働きます」
咲夜は息巻いて立ち上がった。
「そう、私は別に構わないけどね。それじゃ、この薬を渡しとくから朝晩飲みなさい。それと」
「はい」
「しばらく、時間使うの止めたほうがいいかもね。疲れるでしょう?」
咲夜は小さく頷くと、薬の入った紙袋を抱えて図書館を出た。
風邪に侵された頭がどうにも熱っぽく、廊下をいつも以上に長く感じさせる。
明日は早起きして、オスカルを追い出してしまおう。
咲夜は心に固く誓った。
そうすることで風邪が治るような予感さえしたし、このまま放置しておくとオスカルがよそ者と関係者の境界線をのっそりと乗り越えて来るような気がしてならなかった。そうなれば、あの大図書館らが動かないとも限らない。
咲夜がふいっ、ふいっと熱い息を吐きながら自室のある3階まで階段を上りきり廊下に出た時、あろうことかオスカルを連れた美鈴と鉢合わせた。
余りの事に咲夜は言葉を失って口をぱくつかせる。
美鈴も、相当狼狽したらしくその場で土下座した。
ご丁寧にオスカルの首には立派な黒革の首輪がはめられている。
「すいません。すいません。フランドール様が中に入れろとおっしゃるので。どうか見逃してください。ちゃんと何度も洗いましたので」
「外で殺す」
咲夜は、オスカルの首輪を掴んで外に引っ張り出すべく階段を下りようとした。
しかし、犬も賢いものでお座りの体勢を保ったまま、階段の上から動こうとしない。
恐らく、館から追い出された自分の辿るであろう末路に薄々勘付いているのだ。
ハスキー犬が本気で踏ん張ってしまえば女子供の力などが及ぶはずも無く咲夜は階段に足をかけたまま、顔を真っ赤にして唸った。
「どうか、どうか」
美鈴の諫めなど聞き入れられる筈もなく、咲夜は喚いた。
「黙れ。お前も殺すぞ」
大声で騒ぐものだから通りかかったメイド達が足を止め、小さな人だかりが形成された。
オスカルは吠えるでもなく座ったまま落ち着き払った様子で咲夜を見上げている。
「オスカル」
事態に気付いたフランドールも駆けつけてきて、咲夜は怒りに任せて吠えた。
「この犬は何ですか、私は飼わないといったでしょう。追い出しなさい。さあ、早く」
フランドールはオスカルの隣に腰を下ろして、泣き喚いた。
「やだあ、家で飼う。オスカルは悪くないもん」
「いけません、いけません」
咲夜はオスカルの首輪を両手で掴んで引っ張り続ける。
更に、どこからか事態を聞きつけたレミリアも駆けつけてきた。
「あ、犬」
「お姉様。この犬、家で飼わせて」
美鈴が土下座し、咲夜が吠え、フランドールが泣き出し、オスカルを中心に取り囲んだ30人ほどの群衆が騒ぎ、そこにレミリアが割って入ろうと悪戦苦闘し、東側・第一階段は騒然とした。
「咲夜もフランも落ち着きなさい、何だっていうの」
「オスカルを連れて行かないで」
オスカルは尻尾をべったり、と床に付けたまま動こうとしない。
直接レミリアに諭されたこともあり咲夜は手の力を緩め、フランドールも泣き止み、小康状態を迎えるかと思われたその時オスカルがぺろり、と舌を出してあくびした。
途端、咲夜の血液が全身から頭に流れ込む。
「くそ犬」
「止めて咲夜、オスカルは悪くない」
次の瞬間、オスカルを引きずり下ろすべく、その太い首を抱え込もうとした咲夜の腕が勢い余ってすっぽ抜けた。
咲夜の全体重は言うまでもなく階段側にかかっており、行き場を失った力は当然そちら側へと向かう。
咲夜は後方へと大きく傾き天井を仰いだ。
「きゃ」
「あ」
「ああ」
「まあ」
「オスカル」
「咲夜」
「ああ」
「あっ」
「咲夜さん」
「アンドレ」
「きゃあっ」
「わ」
「あら」
「咲夜さん」
叫びの交差する中、咲夜は足を踏み外し体勢を立て直す暇も無く、踊り場まで25段にも及ぶ階段を真っ逆さまに落ちて行く。
中ほどで一度、背中を打ち付けた咲夜は高く跳ね上がり、胸から踊り場に叩きつけられた。
咲夜は胸と床に挟まれた懐中時計がひしゃげる音を聞いて、そのまま意識を失った。
追うようにして、群衆が踊り場に押し寄せて来る。
「大丈夫ですか」
咲夜を抱き起こすや否や、美鈴が悲鳴を上げた。
「どうしたの」
最悪の事態を想定したレミリアとフランドールが、美鈴の腕の中を見るが早いか腰を抜かした。
辺りが騒然となる。
「咲夜さんは無事なの」
「美鈴さん」
「お返事を」
「各自、部屋に戻れ。フラン、犬を外に出しておきなさい」
レミリアはそれだけ言い切ると、咲夜を図書館に運ぶよう美鈴を促した。
オスカルは相変わらず階段の上で、運ばれていく咲夜を眺めていた。
薄目になって舟を漕ぐ小悪魔を見て、パチュリーは頭を掻いた。
未だ壁の時計は8時を過ぎた辺りである。
どうにも昼間働かせ過ぎてしまったらしい。
部屋で寝るように声を掛けようとした直後、図書館の扉が勢いよく開かれてレミリアと美鈴が駆け込んできた。
パチュリーの心臓が跳ね上がると同時に、小悪魔も飛び起きた。
滅多なことでは慌てぬレミリアが血相を変えて走り寄って来たのを見るに、良くないことがあったらしい。
美鈴は何やら腕の中にメイドらしき物をかかえている。怪我人か。
隣の小悪魔を見ると、うんざりした表情を浮かべていた。
自分も同様であった。
「パチェ」
レミリアはパチュリーの前まで来ると、念を押すように訴えた。
「怪我人かしら」
「実は、咲夜が階段から落ちて」
面倒くさいことになりそうだ。
すっかり顔から血の気の引いた美鈴がゆっくりと咲夜を机の上に下ろすや否や、パチュリーと小悪魔も目を見開いた。
「咲夜?」
机上に見慣れた咲夜の姿は無かった。
どう見ても6,7歳の少女がオーバーサイズのメイド服に包まれて眠っていた。
少女は咲夜同様、透き通るような長い銀髪を生やしており、まるで咲夜がそのまま小さくなったような印象である。
「怪我人?」
怪我らしい怪我も見当たらず、少女は静かに呼吸音を立てながら眠っている。
「どう思う」
試しているような、含みのあるアクセントでレミリアが尋ねた。
「どうって。これは確かに咲夜かどうかも分からない。私をからかっているの?」
脇の小悪魔は早くも頭を抱えている。
美鈴共々無言で、発言を恐れているように見えた。
「そういうことじゃないの。これは咲夜よ。階段から落ちて叩きつけられるところまで、大勢が見てたもの」
「階段から落ちたらこうなった? 大勢?」
「メイド連中やフランドール」
レミリアは苛々とした語調で続ける。
「問題は、どうしてこうなったかなのよ」
パチュリーは首を振った。
「分からない」
「そうよねえ。元々謎の多い子だったものねえ」
あはははは。
図書室は少し和やかさを取り戻した。
「もしかして、これも能力の一つとか?」
「さあ、でも生きてるのは間違い無いみたいよ」
パチュリーが咲夜の心臓に手をやると、調子に乗った小悪魔が咲夜の頬を突いた。
「何してるの」
「柔らかいです。いやあ、目覚めるかなと思って。起こしちゃ駄目ですか」
「駄目ってわけじゃないけど」
パチュリーも、咲夜が目覚めた時の反応が気になった。
正面のレミリアもやはり気にしているように見える。
「ちょっとだけ」
他の3人が見守る中、パチュリーが恐る恐る手を伸ばし柔らかい頬の肉に触れた。
「どう?」
「すごく、柔らかい」
全員がほうっと声を漏らした。
美鈴の喉が、ごくり、と鳴る。
「触りたいの?」
美鈴は、血走った目を輝かせて頷いた。
「触りたいです」
「じゃあ、触れば」
美鈴の細い指先が薄紅色の咲夜の頬に触れた途端、咲夜の青い目がおもむろに開いた。
「ひゃ」
美鈴は雷に打たれた様に飛び退いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。咲夜さん。そんなつもりは無かったんです」
咲夜はゆっくりと上体を起こした。
4人は鼻息も荒く、咲夜の動向を寸部たりとも見逃すまいと集中している。
「咲夜?」
咲夜は、4人を順に見回した。
毛先を焦がすような緊張が図書館の一角を満たす。
「ここ、どこ?」
咲夜の小さな唇から高く幼い声が漏れた。
一同は返答にあぐねたが、パチュリーが率先して答える。
「図書館よ」
「私、何してたんだっけ」
こっちが聞きたいくらいだ。
パチュリーは周りの顔を窺ったが、一様に俯いており期待できない。
「名前、言える?」
「えっと、名前はね。×××。」
これまた、聞き覚えの無い名前が出てきた。
レミリアが小さく反応した。
大きすぎるメイド服が、咲夜の肩からずり落ちようとしている。
いよいよ、パチュリーの頭が痛くなってきた。
「×××? そう。×××。年は、いくつ?」
「6才」
今度は即答が返ってきた。
パチュリーの見立ては案外間違っていなかった。
「私、病院に帰りたくない」
咲夜は声を荒げて、パチュリーに訴えた。
パチュリーは他の3人にアイサインを送り救援を求めたが、一斉に目を反らされてしまった。
本当に使えない連中だ。
「分かったわ、帰らなくていいわ。病院に帰らなくていいのよ」
今ひとつ事情が飲み込めず、パチュリーは手探りを続ける。
「病院から逃げて来たの?」
「うん。病院はつまらないんだもん。ご飯は美味しくないし。それに」
話しが脱線しかけたので、パチュリーは慌てて次の質問を振る。
「それから、どうしたの」
「お腹減って、道ばたで急に眠くなって、そしたら」
そこで、パチュリーは咄嗟に言った。
「そうだったのね。あなた、ずっとあっちの通りに倒れてたのよ。そこで、そこの美鈴があなたを連れて来たの。美鈴よ美鈴。見たことない?」
咲夜は薄灯りに照らされた美鈴の顔を見つめたが、やがて首を横に振った。
どうやら、メイド長・咲夜の知識やらは残っていないらしい。
「私を連れて来てくれたの?」
「そうよ。眠っていたのなら仕方ないわね。お母さんやお父さんは?」
「いないよ。私は3才の時から病院の中。ずっと病院にいなくちゃ駄目だって」
咲夜がぼうっと虚空を見つめ、パチュリーも言葉に詰まったため気まずい沈黙が訪れたが、咲夜は突如思い出したように大声を上げた。
「どうしたの?」
沈黙に耐えきれなくなっていた小悪魔が尋ねた。
「時計」
「え?」
「時計見なかった? 前の服のポケットに入れてた。取られちゃった」
パチュリーは、咲夜がいつも習慣のようにメイド服の右胸の所に入れていた懐中時計を思い出す。
「あなたの胸の所に入っているのは違う?」
咲夜が拙い手つきで胸ポケットの中を探ると針が折れ、歯車が飛び出し、全体が大きく歪んだ懐中時計が出てきた。
パチュリーを含めて全員が息を呑む。
先ほど、落ちた時のものだとレミリアが耳打ちした。
「壊れちゃった」
咲夜の目に涙が滲んだ。
「大事な物なの?」
「うん」
「貸してみなさい、直してあげる」
パチュリーは時計を受け取った。
「それよりも、×××はお腹減ってるんでしょ。小悪魔」
小悪魔はあからさまに顔をしかめた。
寝不足の小悪魔が作ったオムライスを夢中でかき込んでいる咲夜からやや離れたテーブルでレミリアとパチュリーは向かい合った。
「原因は、見当が付くわね。多分これに間違いないわ」
滅茶苦茶に壊れて動かない時計を前にレミリアは頷いた。
「何やら、曰くありげな代物だと思ってはいたけれどもね。直せば咲夜も戻るかしら?」
「さあ。そもそも直せないかも」
パチュリーはこのような機械いじりをしたことがない。
「戻らなかったら、その時は」
「分からない。あのまま育ててみてもいいかも」
「そうね」
またレミリアは頷いた。
2つ向こうのテーブルで何やら小悪魔と美鈴が悲鳴を上げている。
「さっきの×××っての聞いたわね」
「ええ」
レミリアは何か知っているらしいが、数瞬口ごもった。
「まあ、大体分かると思うけれど、×××ってのは咲夜の本当の名前なのよ。実に久しぶりに聞いたわ。本人があまり好きじゃなかったみたいだから、咲夜に変えたのよ」
レミリアは顔を歪めたが、パチュリーが興味無さそうにしているのを見て続ける。
「パチェにとっては関係ないわね。それより当面の問題は、人目でしょう。さっき言ったけど、階段を落ちた時に大勢に見られたわ」
パチュリーはようやく自分の気になっていた部分に話しが移ったので、安心した。
「目撃者を全部殺す? もう噂は広まっているわよ。それよりも、館全体に箝口令を敷きましょう。勿論、口裏を合わせるように指導もして」
「ええ。それが最善ね。ただ厄介なのは。分かるでしょう?」
白黒と紅白。レミリアは頷いた。
「ばれて騒がれたら面倒臭いことこの上ない。美鈴の力では門を死守できないから、つまり警備を固めるのは相手を刺激するだけで逆効果」
レミリアは、遠くで何やら咲夜と会話している美鈴を指さした。
「身内総ぐるみで徹底的に隠しましょう。当分の間、咲夜は紅魔館に存在しない。幸いにも咲夜には記憶が無い」
レミリアの大きな目が光った。
「裏切り者は」
「殺す」
「明日、朝一で全員集めて口裏指導するわ」
パチュリーは手持ちぶさたに懐中時計を突くと、レミリアは神妙な顔で尋ねた。
「あれって、咲夜がそのまま子供の頃に返ったと考えていいの?」
「何とも。咲夜が子供の時のことなんて知らないし。ある日、ひょっこりレミィが連れて来たときにはもう子供じゃなかったでしょう。それに、どうにも私は無関心だったから」
「そうよねえ。咲夜はどこへ行ってしまったのかしら」
「いてててて」
「あ、こら」
オムライスを食べ終え、すっかり元気になった咲夜は小悪魔の頭の羽を掴んで遊んでいた。
美鈴としては小悪魔が可哀想なので止めたいが、相手が咲夜では注意しにくい。
「引っ張っちゃ、駄目ですよ」
「頭に羽が付いてて変なの」
その時、2つ向こうのテーブルから指を鳴らす音が聞こえ3人とも振り向いた。
見れば、パチュリーとレミリアが手招きしている。
「まあ、腰掛けなさい」
パチュリーの隣に小悪魔が腰掛け、少し離れて美鈴と咲夜が着席するとレミリアが話し始めた。
「×××。懐中時計は、このパチュリーが直すわ。それでいい?」
くれぐれも「咲夜」と呼ぶな、の念を込めてレミリアが言った。
「大丈夫、私に任せておきなさい」
「うん」
「あなたは、もう病院に帰らなくていいのよ。好きなだけここにいなさい」
咲夜が頷いた。
「翌朝、また説明するけど美鈴は今まで通り、門番をして決して人を通さないように」
美鈴も頷いた。
「そして、小悪魔。あなたは×××のお世話をしなさい。いい? ×××、この小悪魔お姉ちゃんに面倒見てもらいなさい」
「ええっ」
「仕方ないでしょう。他に人材がいないんだから」
咲夜は小悪魔の頭上を指して笑った。
「頭から羽が生えてて、変なの」
「そうね、変ね」
パチュリーは必死に笑いをこらえている。
「では、今日はこれにて解散。後は翌朝、大広間で」
レミリアが立ち上がると、全員が後に続いて立ち上がった。
「ちょっと、待ってください。私は司書ですよ」
必死に抗議する小悪魔にパチュリーは囁いた。
「ただし、小悪魔は×××を寝かせつけてから、自分の部屋に帰って寝ること」
一人、一人と部屋に帰って行き、薄暗い図書館には小悪魔と咲夜が残された。
咲夜はぶかぶかのメイド服から手を覗かせて、笑った。
「ここの部屋を使ってくださいね」
「広い」
咲夜は自らの私室を見て驚き、走り回った。
小悪魔は「あなたの部屋でしょうよ」を口の奥に押し込んで、咲夜の部屋を観察した。
部屋は常時整頓されているらしく、初めて入ったホテルの一室のようであった。
小悪魔も綺麗好きの自覚があったが、それを遙かに上回る。
「とりあえず、お風呂に入りましょう。ちょっと待っててください」
ベッドの上で飛び跳ねている咲夜を残して、小悪魔は廊下を走り、階段を駆け下り、また廊下を走り、階段を駆け上がり自らの着替えと、最も小さいXSサイズ(小型妖精用)の服をかき集めてきた。
ところが部屋に入ると咲夜の姿がない。
小悪魔の額から冷や汗が噴き出す。
鍵を掛けておけば良かったと後悔したところで遅い。
このままではパチュリーに殺されてしまう。
「×××、どこですか」
小悪魔が必死に名前を呼び部屋を出ようとすると、咲夜がベッドの下から飛び出してきた。
「ばあっ。驚いた?」
このクソガキが本当に十六夜咲夜になるのだろうか。
小悪魔は取り違えの可能性を疑った。
「いいですから、もう。お風呂に入りましょうよ」
「うん」
手を引いて脱衣所に入り、小悪魔から服を脱ぎ始めると咲夜がまじまじと注視した。
小悪魔は、恥ずかしくなり視線を反らす。
「小悪魔、胸大きい」
「誰だって大きくなりますよ、あなただって」
そこまで言いかけて小悪魔は、はっとなった。
咲夜の胸はこの先も、大きくならないのだ。
「私も大きくなるかなあ」
「なります。きっとなります」
小悪魔は心の中で、生まれて初めて神に懺悔した。
咲夜は浴槽の広さや大きな鏡にいちいち驚くので、これは見ていて面白い。
湯上がりに特小サイズのメイド服を着た咲夜は、やはり似合っていた。
「この服、かっこいいね」
「そうですか。なら将来着るといいでしょう」
小悪魔は疲れていることもあり、段々と受け答えが適当になっているのを自分自身感じる。
「さあ、もう寝ましょう」
小悪魔は内鍵を掛けて電気を消すと、自分の部屋に戻るのも億劫なので咲夜の隣へと横になった。
元々どでかいベッドなので、後2人は寝られそうである。
「明日、遊んでいい?」
「いいですよ。どうぞお好きに」
それから咲夜が色々と話しかけて来たが、疲労困憊の小悪魔は適当な相づちを打っている内に眠ってしまった。
翌朝、早々に起床した小悪魔は隣に寝ている咲夜を確認し、緊急集会が開かれる大広間に向かった。
どこからともなく犬の遠吠えが聞こえてきたが、今の小悪魔にそれを気に留める余裕は無かった。
後編が楽しみ
ところで頻繁に名前を呼ぶ必要があるなら暫定的に名前を付けるか、名前で呼ばない工夫をした方がよくないですかね?
悪魔に、神に懺悔させるほど育たない何かに涙。
名前をちゃんと付けてもいいのでは?というのが一番の感想でした
文章自体は尊敬に値します
後編期待してます
続き楽しみにしてます。
後半が控えてる様なので、後半を見てから改めて
途中咲夜さんが死んじゃったのかと思ってどきっとした。
オスカルっていうと薄茶色をイメージしちゃう。
斬新な発想に脱帽しました。
おもしろいなあ。