『世は押しなべて事も無し、と』
そう、言っていた。
そう、感じることに、理由は多分なくていい。
――――――
寒い、な。
こんな不思議な場所でも季節は巡る。今は冬、外の世界と同じように樹々はその彩りを失っていき、纏っていた衣も寒々しくなる。
山の頂に続く長い長い階段の真ん中くらいで、ひらひらと舞い落ちてしまった衣の後始末をしている。掃いても掃いても、なくならない。徒労、のようにも傍からすれば感じられるのかもしれないけれど、実のところ、それほど詰まらない作業でもなかった。
『そんな格好をしてるから寒いのでしょう』
そう言われるものの、私は別段、風に吹き付けられて身を震わすことはなかった。私が風祝の巫女であるからだとか、そういう理由もちょっとはあるとしても、多分根本的なものではない。
それよりももっと、まさに今、空があんなに高くて透き通っているだとか。眼に見える虚ろさ、そもそも言うところの冬らしさ、「いのちの無さ」。そういったものに、どうしようもない程のつめたさを感じている。
私は確かに空を飛べるし、あの場所へ身を置くことだって出来る。でも、こうやって地に足をつけている間、あんなに高く、そしてつめたい空を見上げてしまったら。私は俯いてしゃがみこんでしまうだろう。
そんな情景を描いた詩があっただろうか。
何かの季節を、うたったものだったろうか。
それは、こんなに透き通った冬空を、うたっていたのか。
思い出せない。
思い出そうとする部分に、網がかかっている。
それはそれで、いいか。
竹箒の乾いた音が響く。さて、階段はあと何段。
考えている風で考えていない様とは、多分今のような状態を言うのかもしれない。
かさり、と。
そんな時ほど、ふと後ろから響いた、草分けの音などには敏感になる。
「あら」
「にゃーん」
「何か御用で?」
猫のような、猫。
この妖怪、あの鴉の知り合いだった筈。
「とりあえず、暴れにきたわけじゃないよ」
「もう問題は解決された筈では」
「問題がなくて遊びにくるのは、何か問題?」
「そういうわけでは」
ないか。
「博麗の巫女の元へは行かなかったのですか?」
「お姉さんは祭事で呼び出されて行っちゃったよ」
「祭事」
「そう。舞の練習なんかしててね、ひらひらきれいだったねぇ」
くるくると、自分の見たものを真似てか、人型の猫は踊る。
あの巫女も、ようやく重い腰を上げて信仰を集める気になったということか。
博麗の演舞は直に見たことが無い。形式自体は異なれど、それが意味するところは、私のものと大きな相違があるとは思えなかった。
そもそもな所、舞自体にご利益があるわけではないと私は感じている。
それを有難いと考える周囲の人間、すなわち信心ある者、が居て初めて舞には力が宿る。
信心を促す意味合いはあれども、やはり舞とは、器。からっぽでは、意味がうまれない。
ひとりでは、駄目なのだ。たったひとりでは。
「本当はもっと見たかったけど、ついてく訳にはいかないしねぇ」
「人里へですか」
「そう、賑わってるところじゃ、馴染まないのさぁ。ひっそりこっそり、誰も彼もが寝静まった頃にお邪魔するの」
この場所には、多くの妖怪が闊歩している。そして人間も居る。
妖怪と渡り合える人間は、僅か。
そんな人間が、居る、というだけで珍しい話ではあるのだけれど。
こうやって、普通に話をしているということも。
「風祝のお姉さんは、人里へは行かないの」
「偶に、ですね」
あのお二人に対して私は全幅の信頼を置いているし、私自身が布教の計画を立てるまでもない。
舞って欲しいと言われれば舞い、分社で禊を執り行ったりもする。
「ふうん、何か良いねぇ、そういうのも」
「良い、とは?」
目の前に居た猫のような猫と、いつのまにか隣り合って腰を下ろしている。
落ち葉集めは、少しお休みにしよう。
「なんとなくねぇ」
「なんとなく、ですか」
「いちいち理由をつけちゃあ野暮ったいものさぁ」
居心地の、良さも悪さもね。
言って、しっぽを振りながらにこにこと笑う、娘を象った猫は大変に愛らしい。とても普段、地の底の底で死体運びを取り仕切っているようには見えない。
「ぼんやりとしていられるのも、良いものなのさぁ。人間は何でも一飛びで通り越すのがすきで、死体になってからも忙しい」
言われて、そうかもしれない、と考える。
私はぼんやりと、思い出す。
覚えていることを、思い出す。
―――
「とてもぼんやりとしたものね、早苗」
人の世にある凡そのものは、そうであると。
そう神様に言い切られて、それは違うだろうとも特に思わなかった私は、そうかもしれません、と一言だけ返した。
月がとても綺麗な夜だった。
満ちに満ちたそれではなかったけれど、描かれた弧が、眼には捉えられずとも、暗い真円を描いているような気がした。
「かたちがあれば、それを人は崇める。崇めるかどうかも、半々か、それに満たないくらいかしら。本当、水物とはよくいったもの」
かたちある、器。そこに注がれるものが、溢れるほどであったなら、私たちが此処へやってくることもなかったのだろう。
「とてもぼんやりとしているの。捉えづらく、曖昧で、薄ら寒いこともある。ねえ? 本当のところ、私達は理解しないといけないのかもしれない。人はどうしてああもせわしなく、忙しいのか」
「そうかも、しれません」
私が言葉を返すと、あの方は私の頬にそっと手を触れながら、言った。
「後悔は、していない?」
あの方は、多分私が返す言葉を知っていたのだろうと思う。
神様にわからないことは、あんまりないから。
けれどそれは、あんまり、の範疇に入らないものが少々は在る、ということに他ならない。
ただ、此処へやってきてからは、私とのやり取りを楽しむかのように、話しかけてくれる回数が多くなった。あの方が楽しそうだと、私も何だか嬉しい。
そんな楽しい気分は、記憶に編みこまれていく。
すっぽりと覆いかぶさってくるのではなかった。
細い細い糸。それが目の粗い網になって、静かに、編みこまれていく。
一息に消してしまうこともない、そう、言っていたような。
いつだったか。
それは、貴女のためにならない。
いつのことだったか。
もう其処に在った記憶に、新しい何かが編みこまれている。
私にとって、それがきっと良いのだと。
私の在り方は、あの方の知っているものに、含まれていたに違いない。
それだけをぼんやりと覚えている。
だから、それでいい。
「先のことは見えないので」
「見えないので?」
「これが続いたなら、しあわせであろうと、思います」
そう、思います。
貴女は。
貴女は、どうですか。
私は結局、それを問わず。
眼の前に居たあの方は、杯を傾けながら、ただ静かに微笑んでいるだけ。
「月が綺麗ね」
「はい」
「今まさに、当たり前のことが、当たり前のように在る。だけどそれが存外、在り難い、ものであることを、もっと知るべきではないかしら」
冬の空は、冷たく高く、在った。
其処には、白く輝いている月が。その周りには、満天とはいい難いけれど、月のそれよりも若干控えめな光をたたえる星が、在った。
「世は押しなべて、事も無しと。どう、早苗も一献」
「いえ、遠慮しておきます」
「それは残念」
私がお酒に弱いことも勿論承知の上で、一度断りをいれたら、無理に勧めてくることはしない。
「近い内に、お付き合いしますよ」
曖昧な返事を、ひとつ。約束をひとつ繋げば、また次のひとつ。
そうすれば、ぼんやりと。けれどずっと続けることが、出来るのかもしれない。
静かに、曖昧な様。それは、不安と優しさの両方を孕むのだろうか。
ふっ、と笑みを返される。
これからもずっと、返してくれるのだろう。
「期待してるわね」
……
…
―――
…
……
あたたかい、
「お姉さん?」
「あ」
眼を開けると、景色が横向きに寝転んでいた。
「す、すみません」
「寝てていいよ、疲れてるのかもねえ」
猫のような猫の膝に頭を預けているのも、妙な感覚。
「猫車に乗せても良かったんだけど、お姉さんは死体じゃないし」
膝でよかった。
「……」
あたたかい、な。こうやって髪を撫でられるとまた、まどろみたくなってくる。
あの方が私にこうやってしてくれる手つきも、やさしい。
けれどまあ、私はまだ仕事の途中だ。
よっこらせ、とばかりに、身を起こす。
「そろそろ、続きをしないといけませんし」
「うん? そっか」
じゃあそろそろお暇しようかね、と。その場を去ろうとする娘に向かって、声をかける。
「もう少し待っていただければ、お楽しみがありますよ」
「お楽しみ?」
ぱっ、と。宙から取り出しましたるは、中身大入りの麻袋。
「折角集めた落ち葉ですから、有効に使いましょう」
「う、それは」
おや。喜んでくれるものかと思いきや、あまり反応が芳しくない。
「お嫌いでしたか、お芋」
「いや、その、熱いのはちょっとねえ」
あ、猫だからか。言われてみれば、至極当然のことに思える。
けれど聞いた話によれば、普段は地獄の釜のように燃え滾る、熱気の最中にいる筈なのに。
「とりもあえず落ち葉を集めて、適当に境内で焼きましょう。それはこちらの身内に振る舞いますけど、お芋を甘く煮詰めたのもありますから」
「熱くない?」
「熱くないし、甘いです」
「じゃあ、それがいいね!」
妖怪の年齢は不詳。確実に私よりは遥かに年をとっている筈でも、驚くほど幼く見えることもある。
「いそごういそごう、早くしよう」
くいくいと袖を引っ張られる。
つい先ほど、人間はいつでも忙しいと言っていたのを思い出して、小さく吹き出してしまう。
「焦らなくても、甘味は逃げません」
空を見上げる。大分陽の傾いた空が、茜色に染まっていた。
このまま階段を登っていけば、神様がお二人もいらっしゃる。何故かこの猫のような猫は上手い具合で、輪に溶け込むような気もしていた。
続きをしなければ、とたった今あたり思っていたものの。それはまた明日にしよう。
「世は押しなべて事も無し、と」
頂は遠い。此処は長い長い階段の真ん中くらいだもの、当たり前のこと。
空を見上げる。陽はもうその身を隠そうとしていたから、ぼんやりとして見えづらい。
それでなくても、空はいつだって高く、つめたく、私はそれでまた俯いてしまいそうになるのだ。
飛んでいってもよかったのだけれど、何故かそういう気分にはならなかった。
「ねえ、お姉さん」
「何ですか?」
「ほら」
そうして差し出された、手。
「なんとなくねぇ」
「なんとなく、ですか」
「やっぱり急がず行こうか」
「どうしました、いきなり」
「いちいち理由をつけちゃあ、野暮ったいものさぁ」
それもそうか。
思って、握り返した手が、とてもあたたかい。
「上に着いたら、お姉さんの舞を見せてよ」
「いいですけど、大したものでもありませんよ」
「期待してるさぁ。ああ、楽しみだ」
私達は、一段一段。
確かめるように、手を繋いで、登る。
―――
いいですな、こういう空気。
お燐の気侭だけど愛らしい猫っぷりが、ますます好きになる一作でした。