生ぬるい風が吹く。静かな夜だ。
死体を運ぶにはおあつらえ向きの。
竹林を、ひとりの少女が歩いている。竹林の緑に、夜の黒に溶け込むような、ダークグリーンのワンピースを着ている。普通の少女と比べて少しペースが遅い。手押し車を押しているからだ。使い込まれた木製の車で、台の上には白い布が敷かれてある。
何かを覆い包むように。
「ああ、素敵な夜だねえ。こう、わけもなく胸が高鳴ってくるよ」
夜空を見上げる。その拍子に、赤髪のツイテンテールがぱっと舞う。
「とっても強い死体と巡り合えそうな、そんな予感がする」
普通の人間が聞けば物騒なことこの上ないセリフを、少女は可憐な笑顔でさらりと口にする。
お燐は火車だ。
人間が厭う腐臭を、必ずしも火車が同じように厭うわけではない。
風が吹く。今までの、生ぬるく、ゆったりとした風とは全く異質の風が、真横から吹き抜ける。再びツインテールが舞う。ワンピースのスカートがはためく。
熱風だ。それも、水を水蒸気に変えるほどの高い熱を持った。
お燐は熱風を一瞬浴びると、反射的にその場から飛びのいた。動物なら皆そうする。しかし、たぎった薬缶を触るのとはわけがちがう。通常の人間や動物ならばたちまち火傷し、悲鳴をあげて転がりまわるだろう。
お燐は平然としている。火傷ひとつない、白いすべすべした頬を人差し指でなぞる。
「これは炎の余波……? それも、自然に発生したものじゃないね。何かの術、か」
顔に満面の笑みを浮かべた。これから出会うモノに思いを馳せた。
「さあ、死体は拾ったげるよ! 待っててね!」
手押し車は、手品のようにお燐の袖の中へ消えた。そして駈け出す。今までの、特に目的もない、ぶらぶらとした歩き方からは想像もつかないほどの速度だった。先程吹き抜けて来た風よりも速かった。
しかも、音を立てない。そよ風ほどの揺らぎもそこに生じない。
キャッツウォーク。
遮蔽物は巧妙に避ける。体は柔らかい。速度を少しも緩めずに、生い茂る竹林の間を縫って、目的地へ向かう。目の前に竹が密集していた。その向こうが、あの熱風が吹いてきた場所だと直感する。
お燐は身をかがめる。体に変化が訪れる。骨格が変わる。四足になる。
一匹の黒猫となる。尻尾は二本ある。ぬるりと、竹の間をかいくぐる。
「ねえねえ、お燐さあ」
その尻尾を、何者かの手がつかんだ。
「ぎゃっ」
猫は悲鳴をあげる。そのまま引き戻される。たちまち少女の姿になる。尻もちをついた状態で、上目遣いで相手を睨みつけた。
黒髪に、白いシャツ、明るいグリーンのスカートの少女が立っている。胸のところに巨大な目玉のようなものがあり、背中に巨大な翼を生やしているところが、普通の少女と違うところと言えば、違うところだった。もっとも、お燐は彼女の姿に見慣れているので、特に何とも思わない。
「何すんのさおくう、せっかくひとがテンション上がっている時に。邪魔するならするっていいなよ」
「あ、ごめんねお燐。びっくりした?」
のんびりした物言いに、お燐は口を尖らせる。
「びっくりはしないよ。あんたがいるのはわかってたから。ただ、そっちが何も声かけてこなかったから、こっちも何も言わなかっただけ」
「ふうん。まあ私も何も言うことがなかったから何も言わなかっただけなんだけど」
「何も用がないなら、放っておいておくれよ。今いいところなんだから」
そう言って立ち上がり、スカートの埃を払って竹林の密集地帯へ分け入っていこうとする。その尻尾をおくうがつかむ。
「だから待ってって」
「もおおおお何だいあんたは。ヒマなのかい? あたいと弾幕ごっこでもやりたいってのかい?」
「そうだなあ、それもおもしろそうね」
「いいよ。そんなのもうやり飽きたから。あっちの方が数倍面白そうだ」
おくうはつかんだままのお燐の尻尾を、ぴこぴこと二度ひっぱる。お燐はおくうの頭をはたく。
「そのことなんだけどね」
おくうはのんびりしたままの口調で、じっとお燐の目を見る。
「死ぬよ。お燐ひとりだと」
「へ? なんだって」
お燐は眉をしかめて、一笑して終わらそうと思った。だができなかった。霊烏路空は物忘れや勘違いや判断ミスはあっても、嘘はつかない。
「だから、ミイラ取りがミイラになる。死体運びが、死体になる。でも心配ないよ。私が一緒にいれば、その可能性はぐっと低くなるから。向こうも同じ能力使うみたいだし」
お燐にはわかる。友人の言っていることが正しいことを。この友人はぼーっとしているようで、事の本質は捉えているのだ。
「なんだいなんだい、あんたまるで何もかもわかっているようなこと言っちゃってさ。この獲物見つけたのはあたいが先だよ? それをあとからやってきて口出しするなんて、図々しいにもほどがあるね」
だから、こんな風にまくしたてながらも、準備は怠りなく整えていた。
「だいたいさ、あんた山の神様だっけか、あのひとに力もらってからいっぺん……」
「あ、お燐、伏せて」
おくうの黒い翼が広がるのと、空から灼熱の鳥が襲いかかってきたのは、ほぼ同時だった。翼と翼がぶつかりあい、周囲の竹が燃え盛る。
「ひ、ひええ……すんごいの降ってきたね」
おくうは両手をかざし、足を踏みしめて、耐えている。熱の余波がお燐にも来る。熱い。さっきの熱風の比ではない。もし直接あの炎を食らったらどうなるか、想像したくもなかった。
おくうの額には汗が浮かんでいる。お燐は、友人のこんな切羽詰まった表情など、滅多に見たことがない。
特に八咫烏の力を得てからというもの、ここまで追い詰められたのは、地上から来た連中と戦った時ぐらいだった。黒白の魔法使いも人間にしては異常な強さを誇っていたが、それ以上に、紅白の巫女と、それにくっついている奇妙な珠が展開する弾幕の強さは、尋常ではなかった。弾幕とは違うのかもしれない。あの珠に、おくうの火は、悉く呑みこまれていった。力を吸収する相手と対峙したのは、お燐もおくうも初めてではない。たいてい相手の容量がキャパシティ負けするのだが、あの巫女の珠だけは違った。あとで巫女に聞いたところ、あれは〈結界〉というものらしかった。
あの時もおくうは切羽詰まった表情をした。それは己の太陽の力が暖簾に腕押しするがごとく手応えがなかったためだ。だが今回は違う。純粋な力と力、炎と炎だ。
「お燐、ちょっと思い切りやるからどっか行ってて!」
「了解!」
おくうが空けたわずかな炎の隙間から、黒猫となって抜け出す。
「ええい!」
光球がおくうの周囲十六方向へ、数珠状に飛び散る。おくうの周囲は光と熱で溢れた。灼熱の翼は吹き払われた。
「か、勝ったねっ、さすがおくう!」
「ふう……あ、まだだ」
一息ついたおくうが夜空を見上げると、今度は灼熱の鳥が降ってきたのとは逆方向から、五色に輝く光線が襲いかかってきた。
「おくう!」
「駄目、パワー切れ……」
光線がいくつも突き刺さる。
おくうの目の前で、何匹もの半透明の妖精が、光線に貫かれる。そのおかげで、おくうに届く前に光線は力を失った。
お燐のゾンビフェアリーだ。お燐の意図を察したおくうはすぐにその場から離れる。直後、光線に貫かれた妖精が次々に爆裂した。大量の白弾が散る。
まるで霧がかかったように視界が利かなくなる。お燐以外は。
「おくう、いったん距離取るよ!」
黒猫のお燐がおくうの横を駆け抜ける。続いておくうも烏となり、低空で黒猫のあとを追いかける。白弾の煙幕でおくうの視界は利かないが、お燐の慣れ親しんだ匂いを追いかけていけばいい。
「もう大丈夫かな」
お燐は黒猫のまま空に浮かび上がる。烏もあとに続く。
自分たちが逃げてきた方向を見て、ふたりは同時にため息をついた。
「へえ……」
「こりゃ、すごいね……」
まるで花火だった。
火の鳥が宙を飛びまわり、色鮮やかな光球とレーザーがその間を縫っている。どうやら、あの炎とレーザーはお燐たちを狙ったものではなく、たまたま流れ弾が飛んできただけのようだった。
「地上じゃ、こんなことが日常茶飯事で行なわれているんだねえ。いいね、ますます気に入ったよ、あたいは」
お燐は腰に手を当てて、興奮に目を輝かせた。おくうはあくびした。
「じゃ、私は帰るね」
「え、もう帰るの?」
「うん、なんか今ので疲れた」
「なんだつまらないね。見ていかないのかい、この弾幕」
「興味ないから」
おくうは帰っていった。神社から地底に戻るのだろう。お燐は、美しい弾幕のやり取りを終わるまで見ていた。どんな強い死体が出来上がるのか、楽しみでしかたなかった。
空が白んでくる頃、竹林は静かになった。
闇に包まれていた竹林は朝日に照らされ、その惨状を露呈する。
一帯の竹林は、焼け焦げた匂いを放っていた。というより、そこはもはや竹林とは言えなかった。ただの焼け跡だった。
足下まで届く長い黒髪を持った少女は、ひょこひょことおぼつかない足取りで、焼けた竹林を歩いている。桃色の上着と、地面まで届くスカートも、元は立派な装飾の施された美しいものであると想像はつくが、今は所々焦げたり、破れたり、血糊がついていたりして、見る影もない。
まだ無事な方の竹林から手押し車を押してやってきたお燐は、少女と目があった。少女の目には隈ができていた。徹夜で寝不足なのだろう。お燐より先に、少女が口を開く。
「あら、お嬢さん、こんなところに何か用かしら?」
お嬢さん、と言うほどに、ふたりの外見に年齢的な差があるわけではなかった。だがお燐は反論せず、にっこり笑ってうなずく。この黒髪の着物の少女が、あの弾幕を繰り広げていた片側であることを確信していた。
「そうだよ、あたいは死体を運ぶのが仕事の妖怪猫さ」
「ふうん、火車ね、久しぶりに見るわ」
「あれ、お姉さん、知っているの?」
黒髪の少女は、微笑した。深い笑みだった。お燐はそこから少女の何かをつかみとれたわけではなかった。ただ、自分の想像もつかないほどの年月が、そこに刻まれていることだけは、辛うじて理解できた。
「そんなに詳しくはないけれどね。何度か見た、という程度よ。あなたたち、変な趣味してるわね。欲しいものなら、もうちょっと先、このはた迷惑な火事の爆心地に転がっているわ」
す、と腕をあげて指を差す。その優雅な仕草に、お燐はため息が出た。反対の腕を見ると、そこは無残に焼け焦げていた。このひとでもいいな、とお燐は自分の気持ちが揺らぐのを感じた。
「あら、私を運んでいくつもりかしら火車さん。車に乗る習慣は、もうずっと昔になくしてしまったの。久しぶりに乗ってみたくもあるわね」
「本当かい」
お燐は目を輝かせ、黒髪の少女に手を伸ばす。
その瞬間だ。
上空から一本の矢が落ち、お燐と少女の間に突き立つ。
「っつ……!」
お燐の人差し指の、ちょうど爪の部分が吹っ飛んでいた。さらに、見下ろすまでもなく、矢が自分の親指を押しつぶしていることがわかる。
的確過ぎる狙いだった。その気になれば、お燐の眉間だろうと喉だろうと心臓だろうと、思ったところに矢を命中させることができるだろう。黒髪の少女が何かしたようには見えなかった。
「ふふふ、あなたも、私のブリリアントドラゴンバレッタを破れるくらいだから大した腕前だとは思うけれど、謙虚な気持ちを常に持っておくことは大事ね」
また、計り知れない笑みを浮かべると、少女は宙に浮き上がり、さらに竹林の奥深くへ去っていった。もうひとり、それについていくのがわかる。わかるが、姿形までは見えない。何かしらの方法を使って、まわりから見えないようにしている。それはわかる。だがどんな方法かさっぱりわからない。
黒髪の少女ともうひとつの得体の知れない存在をひとまず忘れ、お燐は少女が指差した方へ車を押していった。
「まあ、あのキラキラしたレーザーはあたいの好みじゃないねえ。名前も長ったらしいし。どっちかっていうと、あの熱い風、おくうをあそこまで手こずらせた炎の使い手の方が、あたいはいいな。こっちが死体みたいで、運が良かったかな」
次第に辺りは竹林の原形をほとんどとどめなくなってきた。炭ばかり転がっている。
「あ」
いた。喉と腹にぱっくりと大きな傷をつけている少女が。喉から出たと思しき血は、地面にしみ込んでいる。腹からは臓物が飛び出て、悪臭を放っていた。お燐はその生臭いにおいを嗅ぐ。馥郁たる香り、とはさすがにお燐も思わないが、自分の一番野性的な部分、奥に潜むどす黒い部分を柔らかく刺激される気がする。
野性に身を委ねて己の快楽を欲しいままにする時期は、とっくに過ぎた。牙が折れ、爪が折れてから、お燐の術の習得は始まった。そうして、自分の本能と上手に付き合うすべを覚えた。今でも時々、野性にどっぷりつかってみたいと思うことがある。地上からやってきた巫女と魔法使いに対して、その欲望が芽生えもした。だが、臨界点に達するまでにはいかなかった。あの地上人との戦いは、元々、暴走しつつあるおくうを止めることが目的だったため、自分自身に冷静になるよう常に言い聞かせていたというのもある。それがなければ、ひょっとすると暴走していたのは自分かもしれないという、秘かな思いもあった。
その少女は、白髪だった。頭に赤で縁取られた白のリボンをつけている。白いシャツに、赤い長ズボン。ズボンは赤いサスペンダーでつっていた。今はサスペンダーの片側が千切れている。左胸に拳大の穴が空いているから、そこを空けられた時に一緒に千切れたのだろう。
顔は血の気がなく、青ざめていた。まるであらかじめこうなることがわかっていたかのように、潔く、目も口も閉じられている。
お燐は、その完璧な死体ぶりに、目を奪われた。
手押し車の布を広げる。駆け寄り、白髪の少女を両腕で抱え、布の上に乗せ、広げた分の布をかぶせて丁寧にくるむ。
作業の間、指先が小さく震えていた。
「すごい、すごいよ……」
我知らず、言葉が口からもれていた。
博麗神社では、縁側で巫女が茶を飲んでいた。車を押しながら空を飛んできたお燐は、巫女の前で着地した。
「じゃーん。見て見て」
「階段くらい使いなさいよ。人が見たらびっくりするじゃないの」
お燐が胸を張って車を指差すが、巫女はそちらには一瞥を与えただけで、また茶を啜る。
「ほら、すっごいいい死体手に入れたんだよ」
「仕事に精が出るわね」
「お姉さんも早起きしてお茶を飲むなんて、よっぽど怠けたいんだね」
「怠けたいなら寝てるわよ。朝のお勤めのあとの一服よ。適度な休息は、勤労意欲を保つためにも重要なことなの」
「違う違う。ちゃんと起きてないと、怠けてるって実感できないんでしょ? 寝てる時は、寝てるってことをしてるわけだから」
巫女は眉をしかめる。
「そうかもしれないわね」
また、茶を啜る。
「お姉さん、見てよ、これ」
「あーはいはい、見てる見てる」
「嘘。絶対見てない」
「私は色々と忙しいの。私の名前知っている?」
「うん知ってるよ。……えーとね」
「博麗霊夢。私は博麗神社の巫女なの。仕事があるの。ひとりにしておいて」
「はーい」
がらがらと車を押し、神社の裏に行く。裏道から三分ほど歩けば間欠泉が湧いているところにつく。霊夢の他にも何人かがそれぞれの思惑で温泉を作ろうと目論んでおり、作り始めの小屋や看板などが見受けられるが、まだ肝心の温泉はできあがっていない。
熱湯が溢れ出、蒸気が噴き出している。それを横目で見ながら、洞窟に入っていく。通い慣れた道だ。
地霊殿へは急げば三十分もかからない。ゆっくり行っても一時間あればつく。ただし地底に疎ければ百年経ってもつけない。
途中、旧地獄街道で一杯ひっかけていくことも考えた。鬼がいれば盛り上がるだろう。だが盛り上がり過ぎて半日以上引き留められてしまう危険性もある。すると、死体の腐臭は一段と強くなるだろう。お燐は腐臭をほとんど気にしない。自分の野性が刺激されることさえ自覚しておけば、あらかじめ冷静さを保つことはたやすいからだ。嫌なのは、鬼や他の連中から白い目で見られることだった。
まっすぐ地霊殿に行くことにした。
「ただいまー、さとり様」
扉を開け、人気のない広々としたロビーに入る。姿は見えないが、主人の古明地さとりのことだから館内に自分が入ったことは把握しているだろう。そのまま地下室へ向かった。
地霊殿の地下には、お燐の部屋がある。お燐が運ぶ死体は最終的に霊烏路空の火炎地獄跡に持っていくのだが、その前に死体から魂を抜いたり、死体を加工したりする時には、ここの地下室が使われることが多い。一応火焔猫燐個人の部屋ということになっているが、古明地こいしもしょっちゅう利用しているので、ふたりの共有部屋と言った方が正しい。もしくは、共有の死体安置所。
部屋の分厚い鉄の扉を開けると、独特な匂いがむわりとお燐を包み込む。錆臭さや生臭さだ。お燐は昂る気持ちを、深呼吸をして落ち着かせる。意識して冷静さを保たないと、これからする作業は捗らない。
効率を度外視して、気ままに作業をして時を忘れることも嫌いではないが、今日怠けた分は明日返ってくることを、経験上お燐は知っている。
無機質な石造りの四角い部屋だ。その真ん中に台が据えられている。手押し車に乗せた少女を、布にくるんだまま移す。手つきは慎重だ。
布を広げ、白髪の少女の姿が露になる。シャツのボタンをはずし、脱がせようとする。体に引っかかると、無理に死体を動かしたりはせず、爪を伸ばし、手慣れた動作で衣服を切り裂き、脱がせていく。
白髪の少女は一糸まとわぬ姿になった。喉と腹の切れ目と、左胸の穴が余計に引き立つ。傷口の鋭さはあまりに美しかった。傷口の向こうは骨や臓物でなく、暗闇が満ちているように感じる。あの黒髪の少女の光線にやられたのだろうか、とお燐は想像する。お燐とおくうが受けたあの凄まじい攻撃が、ふたりの戦いの単なる余波だとしたら、このふたりの間ではどれほど激しい攻撃が交わされたのだろうか、想像すると、興奮で背筋が震える。
壁際の浴槽に近づいた。浴槽には水が張っている。棚に並んだ瓶のひとつをとり、中の粉を溶かしこむ。透明な水が白く染まった。
服が濡れないよう、お燐はワンピースを脱ぐ。下にもう一枚あるワンピースも脱ぎ、黒いペチコート姿になる。それから少女の体を抱え、浴槽に浸す。棚の手ぬぐいを取り、少女の体を洗っていく。
地下室は冷えており、お燐の吐く息は白い。
少女の口からも、白い息がもれる。
「え?」
お燐は最初、見間違いかと思った。心臓の停止は確認している。
また、白い息が少女の口のまわりを漂う。
少女の目が開く。
「え、え、なんで」
お燐は混乱する。
少女はまず、お燐の顔を見、ペチコートを見、さらに視線を自分の体に戻す。さらにまわりを見回す。
冷え込んだ安置所の室温が、心なしか上昇したように、お燐は感じた。
少女は再びお燐を見る。その赤い目に、炎がちらついている。
「あんた……何者?」
少女は尋ねる。その凛々しい口調に、お燐はくらりと来て、思った通りのことを言った。
「あたい、お燐って言うんだ。死体を運ぶのが仕事。お姉さん、とってもいい死体だったのに、生き返って残念だよ。よかったらさ、よかったらでいいから、もう一回死んでくれないかなーなんて」
「凱風快晴……」
室温が急激に上昇する。
「え? ちょ、何。お姉さん、やる気出しちゃって。あたいは何もお姉さんに変なことしようとか、痛い目に合わせようとかそういうんじゃないよ。ただね、お姉さんに死体になってもらって、それから色々飾り付けしたりして」
「フジヤマヴォルケイノ!」
とっさにその場から飛びのき、ありったけの怨霊を呼び集める。
室内で火山が爆発した。
お燐はそう感じた。石壁に激しく体をぶつけ、倒れる。ペチコートはところどころ焼け焦げて、肌が露出している。
浴槽の水はすっかり干上がり、石壁は所々焼け崩れていた。そこに、白のシャツと赤のズボンを身にまとった少女がいた。白髪は、炎のようにめらめらと逆立っている。炎が、少女のまわりで猛っている。
「あいたたた……あれ? 服が。それに首や胸の傷も」
「私は不死身なの」
少女は笑っている。目は笑っていない。
「まったく、悪夢の後に目覚めてみれば、こんな薄暗い地の果てみたいなところで服を引っ剥がされてイタズラされているとはね」
「ご、ごめんよお姉さん、そんなに怒るとは思わなかったんだ。嫌だった? それだったらもうやめるよ」
「嫌も何も……」
少女は手を伸ばし、お燐の首をつかんで吊り上げる。抵抗できない。今の一撃で、体が痺れてしまったように動かない。回復には少し時間がかかる。喉はカラカラに乾いていた。
ケタ外れの威力だ。
少女の手に、炎が集まっていく。
「あんたいい加減にしなよ」
その炎が、今まさに爆裂しようとした時だった。炎は急速に弱まり、少女の目は虚ろになり、そのまま人形の糸が切れたように倒れた。
「ふう……」
お燐は首にできた手のひら型の火傷跡をさすりながら、その場に座り込んだ。鉄の扉が開く。帽子をかぶり、ベージュ色の上着を羽織った少女が現れる。
「お燐」
「ああ、こいしちゃん、いたんだね。気づかなかったよ」
「そりゃ今来たからよ。それにしても、いったいどうなっちゃってんのこの部屋。なんか凄い音が聞こえたから来たんだけど。大丈夫?」
「うん。なんとか死体にならずに済んだよ」
「あら残念。死体のお燐は素敵そうだけど。そっちの死体は?」
「運んでいる途中で怨霊漬けにしていたの。その効果がようやく出たってところ。もしそれをしていなかったら、ちょいとばかし、いや、かなーり危なかったよ」
「ふーん。弄っていい?」
「駄目」
「どうしてよ」
「このお姉さん、凄く嫌がっていた」
「お燐。死人に口なしよ」
「この死人には口があるの」
車に乗せる。
「口が利ける死人はあたいの守備範囲外だよ。元の場所に戻してくる」
「へえ、感心感心」
まったく感心していなさそうな口調でこいしが相槌を打つ。
「ま、その前にちょっと休まないとね。お姉さんからきつーい一発もらったせいで、今にも倒れそうだよ。それにこんな恰好じゃ恥ずかしくて外を歩けたもんじゃない」
「休憩がてら、お茶しよう、お燐」
「そうだねえ」
応えながら、石壁の崩れた中からワンピースをひっぱりだす。それは勢いよく燃えていた。
「やっぱり駄目か。着替え取りに行ってくるよ。お茶はこいしちゃんの部屋で、だね」
「着替えって、お姉ちゃんのところ?」
焼け崩れた部屋から去ろうとするお燐の背中に、こいしは呼びかける。お燐が振り向くと、こいしは意味深な笑みを浮かべていた。
「当たり前じゃないか」
「そう。当たり前ね。そうしたら、私がお姉ちゃんの部屋から着替え取ってきてあげるから、私の部屋で着替えなよ。私の目の前で」
「な、何言ってるんだい」
お燐はうろたえる。こいしはその様子を楽しんでいる。
「だってお姉ちゃんの前なら平気で着替えるんでしょ?」
「そりゃ、さとりさまは私の飼い主だから」
「私は?」
「こいしちゃんは友達」
「飼い主の妹なのにね」
「それとこれとは別だよ。あのね、今度は相当怨霊漬けにしておくから、なかなかお姉さん起きないだろうけど、それでもあんまり待たせてたらまた生き返っちまうよ」
「はいはい、余計なこと言って時間とらせたりしないから、とっとと着替えておいで」
死体が腐る心配もなくなったので、旧地獄街道で一杯ひっかけていくことにした。
少女は今、生死の境をさまよっていた。どちらかというと生側にいるのだが、暴れられると困るので、お燐が怨霊を大量に注入して、蘇生を遅らせている。もっともそれも一時的な措置で、地上につく頃にはどうやっても生き返ってしまうだろう。
旧地獄街道は大通りの両脇に飲み屋や宿屋、賭博場などが所狭しと立ち並び、朝から晩までほとんどひと通りが絶えない。
お燐が街道に差しかかった時、大通りにはひとだかりができていた。ただでさえ混雑するところで、さらにひとの流れが止まっているものだから、なかなか先へ進めなくなってしまった。
花火と喧嘩が大好きな街道の住人達は、事あるごとに集まっては騒ぎ出す。この日も何か彼らの血を騒がす祭りが行なわれているのだろうと、お燐は考える。不意に凄まじい轟音が響き渡る。人々のざわめきが続き、さらにメキメキと柱が折れ、建物が崩れる音がした。
どっちみち、飲み屋に寄るにしろ地上へ行くにしろ、大通りを通らねばならない。お燐はひとだかりに近づく。中に、知った顔がいた。黒帽子に、茶色の服を着ており、全体的にもこもこしたシルエットになっている。
「ヤマメの姐さん」
「おや、お燐ちゃんじゃないの。どうしたどうした」
黒谷ヤマメは振り向き、気さくに手をあげた。
「ちょっとこれから地上に出なきゃいけなくてね。ヤボ用で。それよりか姐さん、いったい何が起こっているのさ」
「それがね、地上からまた人間がやってきたみたいなんだよ」
「また?」
「そう。しかも前と違って、始めっから鼻息荒いのよ。モコーを返せモコーを返せって、うるさいんだから嫌になるわ」
「モコー?」
お燐が聞き返すが、ヤマメは首を傾げるだけでそれには答えない。
「で、今は誰が」
「星熊の姐御」
その名を聞き、一瞬お燐の顔が引きつる。ヤマメはそれに気づいたようだったが、特に何も言わなかった。内心ヤマメに感謝しつつ、お燐は話の流れを進めていく。
「あちゃあ、それじゃ勝負も何もあったもんじゃないね」
「いや、そうでもないんだよ。地上人がね、頭から牛みたいに角生やして、姐御を吹っ飛ばしたんだよ」
ヤマメが指差した方には、ブラウスの上に緑のワンピースを着た少女がいた。頭には猛々しい二本の角が生えており、その左側にはリボンが結わえてある。
「勇儀の姐さんを? へえ、そりゃすごいねえ。で、姐さんは伸びてるの?」
「今、あそこに」
崩れた壁や折れた柱、砕けた瓦が堆く積もったところに、一本の腕が生えていた。そこに赤い盃が落ちてくる。上に向けた手のひらに、盃はぴたりと収まった。周囲から歓声が上がる。
「よっこらせと」
歓声に応えるようにもう一本の腕が、残骸を吹き飛ばした。
額に生えた一本の角、機動性に長けた白の綿製のシャツ、番傘のような柄のスカートの少女が姿を現す。
地底の鬼、星熊勇儀だ。
「オヤジ、すまないね、明日三丁目の大工を訪ねな。星熊の名前を出せば、すぐに建て直してもらえるから」
「いいってことよ、目の前でいい喧嘩見せてもらってるからな。見物料さ。ちと高えが」
倒壊した建物の主人らしき馬頭は、笑って言った。
「そうはいくかい。明日三丁目に来なかったら引きずってでも連れていくよ」
盃の口をつけ、くいっとあおる。そして角の少女を見る。
「ふふん、楽しいね、あんた。もしこの盃の酒が半分近く減っていなかったら、ひょっとするとこぼしていたかもしれない」
「おやまあ、吹っ飛ばされる寸前に盃を上に投げてたんだねえ。相変わらず酔狂なひとだ」
ヤマメはしきりと感心している。
勇儀とは対照的に、角を生やした少女の顔に余裕はない。
「いいから妹紅の居場所をさっさと吐くんだ。さもなければ、妖怪との密約があろうと、そんなことはどうでもいい。お前の命の保証はしない」
「へえ、約束のことまで知っているんだ。そんなに年食っているようにも見えないけど。言っとくけど、別に秘密にしてるわけじゃないよ。上白沢慧音、と言ったね、さっきも言った通りさ、私に勝ったら教えてやるよ」
「わかったよ、お前に何を聞いても無駄だということが」
勇儀の背後から弾幕の弧が現れ、襲いかかる。勇儀は振り返りもせず、跳躍してかわす。
「転生・一条戻り橋」
弧はひとつではない。十にも二十にも、折り重なり、混じり、勇儀を飲みこもうとする。何十番目かの弧をよけそこない、左足首から血が吹き出す。体勢が崩れたところへ、さらに右肩が切られる。
「ははッ! 強いね、行くよ!」
勇儀は盃を離さない。
「ひい!」
一歩、踏み出す。そのたった一瞬で、弧の弾幕を抜き去り、慧音との距離を詰める。既に拳が届く間合いだ。そこへ、図ったように赤い大弾が正面から勇儀に襲いかかる。よけようがない。
「ふう!」
さらに踏み出す。真正面から大弾を受け、弾き飛ばす。だがさすがに勢いが弱まる。そこへ狙い澄ました角の一撃がくる。
「みい!」
角が勇儀を串刺しにするよりも、えぐるようなボディブローが慧音に刺さる方が速かった。慧音の背後には大弾弾幕が大量に展開されている。そこへ慧音は吹っ飛ばされていった。
「三歩必殺……とくらぁ!」
爆裂に次ぐ爆裂。見物人たちは突風に思わず身を縮める。
「ひゃあ、相変わらず派手だねえ、姐御は。こないだの地上人が相当なやり手だったもんだから、手加減の仕方忘れちゃってんじゃないの?」
ヤマメも帽子が飛ばないよう手で押さえ、身を低くしていた。お燐はその場に突っ立ったまま、突風をものともせず、呆然と勇儀を見ていた。
「やっぱり鬼は、強いねえ……でも」
手押し車の布にくるまっている白髪の少女を見下ろす。
「このお姉さんと、どっちが強いだろう」
白髪の少女は、既に怨霊漬けにしている。生きている時は無理だが、完全に死ねば操ることができる。そうすれば、あの鬼とも素敵な弾幕ごっこができるのではないかと、強い誘惑に駆られる。
弾幕の爆裂が収まった後、ボロボロになった少女は、頭を押さえながら起き上がる。角は引っ込み、服は緑から青に変わっていた。
「くっ、さすがに地下では満月の効果もここまでが限度か」
「勝負ありだね。でもなかなか楽しめた。私も協力するよ、あんたの探している……」
「ああああああーーーーーーっっっ!!!」
突如、慧音の辺り憚ることのない叫び声が街道中に響き渡った。今までの冷静さは完全に崩壊していた。お燐の方を指差す。
「も、も、も、も、妹紅おおおおお!!」
青白いレーザーが交差しながらお燐に向かってくる。その鋭さは、鬼の勇儀と戦った後の体に、まだそんな力が残っているのかとお燐が呆れるほどだった。
「終符・幻想天皇!」
「わ、ちょ、何さいきなり」
お燐は戸惑っていたが、慌ててはいなかった。見境なく撃っているようにみえるレーザーは、実のところお燐の周囲の見物人に当たらないよう、相当な配慮がなされていた。
「こんな気遣わなくたって、街道の見物に慣れている奴らなら弾幕の避け方ぐらい知ってるんだけどねえ」
お燐は気分が乗らなかった。今の気分は、殺伐としたものからはほど遠かった。
「あんた、優しいんだね」
しかし、車に乗せた少女だけは死守した。やがてレーザーはやんだ。
「私は上白沢慧音。火車よ、私と話し合う気はないか」
「ん、いいよ」
お燐は飛び回るのをやめて、車を押して慧音に近づく。
「お前が今車に乗せているのは藤原妹紅と言って、私の大切な友達だ。返してくれ」
「ん、いいよ」
「そうか、良かった。なら私が抱えていこう」
慧音は布を広げて、妹紅と呼ばれた白髪の少女を抱きかかえる。お燐は邪魔をしなかった。
「この子は死なないんだ。多分、死んだところを見て、間違えて連れてきたんだろう? 火車は本能的にそういう習性を持つからな。だが、この子は、死なないんだ」
「その代わり、あたいも連れていって」
「何?」
慧音は、話のつながりが見えないようだった。お燐はにっこりと微笑む。無垢な笑顔だ。無垢なままに、己の欲望を叶えようとする笑顔だ。
「あたい、このお姉さん気に入っちゃった。傍でずっと見ていたい。駄目って言ったら駄目だよ。もう怨霊漬けにしちゃったから、あたいが傍にいて調節してあげないと、このお姉さん、きっと寝覚め良くないと思うな」
慧音が目を細め、冷たい眼差しを向けてくるのがわかったが、お燐は気にしなかった。
藤原妹紅の家は、竹林の奥深いところにぽつんと建っている。寝間と囲炉裏と物置と土間で構成されている。質素なのは間違いないが、決して粗末な造りではない。多少の地震や台風には耐えきれるし、見た目よりも寒さ暑さに強い造りになっている。
「おはよう、お姉さん」
妹紅が頭をぽりぽりとかきながら寝間から出ると、エプロンをつけたお燐が火を焚いて鍋で何か料理を作っていた。
「あんた……まだいたの」
「またそんなこと言う。もうすぐ一週間も経つんだよ。いい加減慣れようよ」
「毎朝物音がするから、こんな早くに起きる羽目になる」
「早起きは三文の徳だよ」
「得になるようなことは何もないよ。眠いだけ」
「お姉さんってさ、さぼるときは思い切りさぼるよね。普段忙しそうにしているのに」
「さぼってるんじゃなくて、ゆっくりしてるの。忙しいんじゃなくて、義理を果たしてるだけ」
「義理って、人間の道案内のことだよね? みんなに頼られて、慕われて、お姉さん人気者だね」
「なんだ、あんた一日中私をつけて回っているの」
「当たり前だよ」
「時々黒猫がちらちらしているとは思ってたけど。ずっといたの? あんた気配隠すのうまいね」
「お姉さんはあまり得意ではないね」
「うるさいな。ところであんた、いったい何がしたいの」
「ん?」
おたまで汁をすくい、舌で舐める。ひとりでうなずき、碗に入れて、妹紅に差し出す。妹紅はあぐらをかいて碗を受け取り、汁を啜る。塩味の鋭い、熱々の味噌汁だった。
「うまい。あんたやっぱり料理上手だね」
真顔でほめる。
「えへへ、ありがとう」
「どうせ猫舌だからぬるいものしか出さないと、はじめは思ってた」
「ふふん。古い迷信だね」
「慧音が、あんたのことをずいぶん警戒している」
真顔のまま、さらりと言う。
「私の死肉にたかる、ハイエナだ、って」
「猫だよ。火車」
「ハイエナってなんだろう。蠅の一種かな。ま、それはいいんだけど」
「あたいはね、お姉さんの死体が欲しいんだ。とっても素敵だった」
「ふん。私は死んでもどうせ生き返るよ」
そう言って味噌汁を飲み干して、空の碗を差し出す。お燐はそれにご飯を盛る。
「汁ももう一杯」
言われた通り、ご飯に汁をかける。妹紅はそれをひったくるようにして手元に持ってくると、凄まじい勢いでかきこむ。
「よほどお腹空いていたのね」
かきこみながら、妹紅は無言でうなずく。
「たんと食べてね。あたいの作った手料理だから」
妹紅の返事は期待しない。妹紅がかきこんでいる間、薪を取って火加減を調節する。前に失敗して煮込み過ぎて、特濃味噌汁ができたことがある。あの塩辛さは、筆舌に尽くしがたいものがあった。
「猫まんま好きなの、お姉さん」
ずるずる、と汁かけ飯をかきこむ妹紅は、一度箸の動きを止めた。
「好きだよ。胃が病気でやられた時も、歯が折れたり口内が腫れたりで咀嚼ができない時も、これなら食べられる。それで何となく安心できる食べ物って印象ができて以来、好物。あんたは?」
「あたいは、そうだねえ」
お燐の答えには興味がないのか、妹紅はまた汁かけ飯を啜り出す。
「あたいは、うーん、どっちでもないかなあ」
「次の、満月」
空になった碗を差し出す。
「ずっと私についているといい。あんたの言う、素敵な死体が拝めるよ。今のところどっちのかはわからないけど」
お燐は汁をつぎ足す。あの夜が再現されるのだ。胸が高鳴る。
夜半、お燐は妹紅の寝顔を見ている。妹紅の中に染み込ませた怨霊の具合を確かめる。悪くはない。自分の手足ほどではないが、それに近い感覚で動かすことができる。次に妹紅が死んだ時、どんな操り人形ができあがるのか、期待で胸が膨らむ。
怨霊は恨みを持った霊だ。怨霊歴が長ければ長いほど、恨みの力は大きくなるが、その恨みの元となった記憶は薄れていく。誰かが憎いだとか、過去の行為を悔やむだとかの具体的な事物から離れて、ただ憎しみ、恨むだけの存在となる。感情の強度だけが強まる。憎む対象、悔やむ対象が消えてしまうと、恨みがもたらす苦痛すらなくなってしまう。最終的に怨霊は、純粋な、強い精神の塊となる。もっとも、実際はそこに達する前に、生き物や道具に乗り移って怨霊とは別の存在になったり、もっと強い精神存在に食われたりする。本当に長い間怨霊をやっていられる者は、少ない。
お燐は、妹紅を怨霊漬けにする際、そんな優秀な怨霊ばかりを選りすぐった。かなりしんどい作業ではあったが、妹紅に魅かれたお燐にとっては、苦しくも何ともなく、むしろ悦びだった。
「どうして、そんな窓辺でじっと立っているんだい? 外は寒いだろうに」
お燐は妹紅の枕元で、うつぶせになって両手を重ね、手の甲に顎を置いている。
「用があるなら入ってきたらどう?」
「お前の顔を見たら、何をするか自分でわからんからな」
窓の外から応答がある。
「妹紅お姉さんの顔を見たら、の言い間違いじゃなくて?」
「どういう意味だ」
「あなた、お姉さんのこと好きでしょ」
「な、何を……」
「あたいもお姉さんのこと好きだよ。綺麗だもんね。強いし。かっこいいし」
「何を、お前と、一緒に……」
怒気が、壁越しに伝わってくる。
「慧音さんもね、死んだらいい怨霊になるよ」
「私はお前と戯言を交わしにきたんじゃない。言っておくことがあったから、ここにいる。それが終わったらすぐに帰る」
「じゃあさっさと言ってよ」
「私は今はお前を始末しない。なぜか、妹紅はお前を気に入っている」
「昔猫でも飼っていたのかな。わかんない。で、慧音さんは、お姉さんが私を気に入っているっていうことを認めるために、わざわざ来たの?」
「〈今は〉、始末しない、ということだ。妹紅の死体にお前が手を出すなら、容赦はしない。下賤な火車に、妹紅を穢させるものか」
「他のひとに触られたくないだけでしょ?」
「次が満月なら、私は本気を出す」
「そうだね。今の慧音さんじゃ、多分私に勝てない。角が生えたらどうかな? 星熊と……星熊の姐御とやってた時は、かなりのもんだったからね。あたいとしたらどうなるんだろう。ああ、気になるねえ。考えてたらワクワクしてきたよ」
しばし、沈黙があった。空気の流れで、慧音が、長いため息をついたことが、お燐にはわかる。
「お前は、自分の好奇心のままにしか行動しないのだな。それでまわりがどうなるか、考えもしないのだな」
「そうだねえ」
「お前を仲間と認める者などいないのではないか。ひととひとが信頼関係で結びつくということを、理解できないんじゃないか。仲間という概念がないのならそれも仕方ないが」
「おい」
お燐は、我知らず声を低めていた。
「訂正しろ」
慧音を嘲笑うような余裕はなくなっていた。
「何を?」
逆に慧音が余裕を取り戻す。
「私に仲間がいない、ということ。私を仲間にしようとする者が存在しないということ」
それは、お燐の仲間を、霊烏路空の存在を否定するのと同義だった。そしてまた、お燐の主人、古明地さとりの存在を。
答えはない。風が吹く。空気の流れが、窓際に誰もいないことをお燐に教える。お燐は歯を食いしばる。妹紅にとりついている怨霊が、お燐の心臓の鼓動に合わせて妖しく光る。
空に十五夜が輝いている。
お燐は夢を見ていた。自分がまだ完全に人化するすべを持たなかった頃の夢だ。迅速な動きで相手を撹乱し、獰猛に襲いかかり、血肉を裂き、食らう。
敵が強ければ強いほど、食っている間は至福であり、食い終わった後は空しかった。そのうち、殺した相手をなるべく綺麗な形のままにしておくよう、努力するようになった。無闇に四肢を引き裂いたりせず、的確に喉や胸を抉る。敵が強く、こちらが生命の危機に瀕しても、焦らず、機会を窺う。
当時の火焔猫燐は自覚していなかったが、この考えが、彼女の強さをさらなる高みへ上げることになった。
自在に人化できるようになり、お燐がもっとも嬉しかったことは、想起するという行為が以前より格段にしやすくなったことだった。旧地獄と言う場所柄、怨霊ともよく話した。中にはかつて食らった敵の怨霊もいた。裏表のないさっぱりした性格であるお燐は、命のやり取りをした怨霊とも屈託なく親交を結んだ。
まだ八咫烏を飲み込む前の霊烏路空が、しばしば心配そうな目で怨霊と戯れるお燐を見ることもあったが、お燐は気づかないふりをした。おくうは、自分自身がのめり込みやすい性格のくせして、友人に対してはひどくおせっかい焼きなのだ。
怨霊を飼い馴らし、操ることを覚えた。操ると、怨霊は、元の力よりもひとまわり大きな力を出せた。それもお燐の悦びだった。さらに次の理想を目指した。自分の気に入った相手の死体を、完全な状態で、いつも傍にいるよう操り続けるのだ。一時的にではない。いつまでも、だ。この理想にはまだ到達したことがない。
先日おくうを叩きのめした地上人をそうしようともしたが、失敗した。
だが今度こそは、と思う。
「おい、起きろ」
肩を揺り動かされる。
「今度こそは」
「ん、何を寝言言ってるんだ」
お燐が目を開けると、立って自分を見下ろしている妹紅の顔が見え、その後ろに、窓から十五夜が覗いていた。
「夕方ぐらいからうとうとし出したのは見ていたけれど。変な時間に寝るものなんだな、猫って」
「なんだか疲れちゃってね。それに、ちょうどいい気分だったのさ。お姉さんも、気分よさそうだね」
「私か? 私は、これから気分がよくなるのさ。ついておいで」
妹紅は月明かりに照らされた竹林の道を歩いていく。その一歩後ろからお燐はついていく。
「いい天気だ。こんな夜は月見に限る」
「どこに行くんだい、お姉さん。やっぱり、あの黒髪の女のところ?」
「お月見には、それなりの豪華な料理と屋敷がないと」
お燐は、妹紅と長い間歩いた気がした。実際に何分何秒だったかは、わからない。そもそもお燐にそういう時間の感覚はない。ただ、妹紅と一緒に月の下の竹林を歩けて、のんびりと幸福な思いを満喫していた。気づいた時には、妹紅の足は止まっていた。
竹林の向こうに、和風の建物が見える。
「ここが、永遠亭。あの女の根城よ」
妹紅が竹に手をかけて、軽く腕を横に振ると、目の前の竹の茂みが一瞬で炎に包まれ、吹き払われ、その先に永遠亭の庭が広がった。
縁側には、台に月見団子を乗せて、黒髪の少女が涼んでいる。傍らには、兎耳が縦に伸びた少女が座っている。また、反対側には、青と赤で中心から色分けされている服を着ている少女がいる。そちらの少女を見た瞬間、お燐は体が固まった。
確信する。あの矢の持ち主が彼女であることを。あの矢は、星熊勇儀でもしのぎきれないかもしれない。
「あッ……」
兎耳の方が、立ち上がって、妹紅を指差した。その表情には恐れがある。赤と青服の少女も声につられてお燐と妹紅の方を見るが、特に表情に動きはない。
「お前、こんなところにまで!」
兎耳の少女は、右手の親指と人差し指を伸ばし、左手で右手首をつかみ、銃口を向けるようにして妹紅に狙いをつける。
「待ちなさいウドンゲ」
赤と青服の少女が一声かけると、直接触れられたわけでもないのに、兎耳の少女は電流でも流されたようにびくりと反応し、たちまち構えを解いた。
「勝手な真似をしないの」
「で、でも師匠……」
「よく迷わずにやってこれたわね。直接永遠亭に来るのは珍しいんじゃない? 二十年ぶりぐらいかしら」
ふたりの少女のやり取りを無視して、黒髪の少女は妹紅に呼びかける。特に声を張り上げたようにも見えないのに、周囲に凛と響き渡る声だった。美しい、とお燐は思う。だが、好みではない。
「よう、輝夜。久々にあんたの豪邸の軒下にでも野宿させてもらおうと思ってね」
ズボンのポケットに手を突っこんだままずかずかと縁側に近づき、月見団子をひとつつまみ、口に放り込む。
「こ、こら、いい加減に!」
「ウドンゲ」
「イナバ」
師匠と呼ばれた少女と、輝夜と呼ばれた少女に同時に声をかけられ、ウドンゲは耳をうなだれさせ、小さくなった。
「どう、貧乏くさいあなたの家じゃ、とてもこんな味付けの団子は食べられないでしょう」
「ああ、食べられないね。こんなにしつこい味の団子。甘ったるくてむかむかする。体裁ばっかり取り繕ったような団子。まるであんたみたい」
そう言いながら、もうひとつつまんで食べる。それから、お燐の方へ引き返し、彼女の肩を叩いて引き寄せる。
「こいつの味噌汁の方が何十倍も上等だね」
「へえ、言うわね」
輝夜の背後に魔方陣が浮かび上がる。
「もちろん。挑発しに来たのだから」
同じく妹紅の背後にも同じ形のものが出現する。
始まりは唐突だった。
輝夜の前に現れた鉢から無数のレーザーが迸る。妹紅は札で卍型の弾幕を作り、それを遮る。その間に上空、左右と、計三羽の火の鳥が輝夜に襲いかかる。対して三方向へ火の衣を作り、鳥をその中へ包み込む。余波で炎が、廊下や障子、屋根に散る。
「ああっ、急いで消さないと。てゐ、みんな、早く来て!」
「心配いらないわウドンゲ。こういうこともあろうかと、防火剤塗らせておいたから、放っておけばそのうち消える」
「さすが永琳、気が利くわ」
興奮に目を輝かせた輝夜は、振り返らぬまま、言った。
「お誉めに預かり光栄ですわ、姫様」
永琳は輝夜の背中に向けて、恭しく頭を下げる。
「フジヤマ……ッ」
妹紅は跳躍し、輝夜との間合いを瞬時に詰める。極限まで曲げた膝を、バネが弾けたように一気に伸ばし、蹴りを突き出す。輝夜は鉢をかざしてそれを防いだ。風圧が辺りに散り、鉢にわずかにヒビが入るが、輝夜にまったくダメージはない。むしろ、真っ向から余波の跳ね返りを受けた妹紅の肌にいくつか傷がついた。
しかし妹紅の空中の蹴りは一発では終わらない。二発、三発と蹴りを叩きこむ。まるで子供が地団太を踏むように。
「ヴォルケエエエイイイイイイイッッッ!!!」
秒間に何十発、あるいは何百発叩きこんだか、お燐にはわからなかった。ウドンゲと呼ばれた兎耳も、わかっているようには見えなかった。蹴っている当人、受けている輝夜、そして涼しい顔でこの激しい弾幕合戦を間近で眺めている永琳には、見えているのだろう。
「凱、風……快晴ッ!」
とどめとばかりに渾身の蹴りを叩きこむ。鉢が砕け散る。そこにもう輝夜はいない。既にまわりこんで、妹紅のさらに上空にいて、弾幕を展開している。
「さあ、開幕はこんなものね、第一幕はこちらから行くわ!」
輝夜の宣言に対し、妹紅はひきつったような無言の笑みで応える。その意味を問うより先に、輝夜は反射的にその場から飛び去っていた。
複数の怨霊が輝夜目がけて集まってきていた。
怨霊が一点に収束した途端、強烈な爆風が発生する。爆風には、地上のものではない匂いがする。浴びるだけで生気が削ぎ取られていくような風だ。
「これは地底の風……怨霊ね!」
「なんだって!」
輝夜の叫びに、一番驚いたのはお燐だった。慌てて妹紅を見上げる。
「お姉さん、まさか」
妹紅はお燐を見下ろし、にやりと笑った。
「あんた、私を怨霊漬けにしていたよね。その中の一部を、使わせてもらったよ。私は死とは相性がいいの」
さらに二つ、三つと、輝夜を追いかけるようにして怨霊が集まり、一点にかたまると同時に地底の風を吹き散らす爆発が起きる。その爆風に乗って、火の鳥が、札の隊列が、誘導ナイフが、飛ぶ。
「す……」
お燐は息を呑む。そして、吐き出す。
「すごいすごいすごい! お姉さんの弾幕はいったいどうなっちゃってんのさ! いったいどこまで、どこまであたいを……」
お燐の言葉はそこで途切れた。
「天丸・壺中の天地」
輝夜は球の中に閉じ込められた。いや、閉じ込められたのではない。鳥も札もナイフも、悉くその球に弾かれた。輝夜は守られたのだ。
そして妹紅は、光る糸に全身を縛られていた。
「天網蜘網捕蝶の法」
糸は粘り気があり、妹紅の腕や足、腹、首にきつく食い込んでいた。
「がっ」
妹紅の首が奇妙な角度に曲がる。腕も足も、通常ではありえない角度に曲がる。糸が消えると、戒めの解かれた操り人形のように、地面に落ちる。
「永琳!」
球の中の輝夜は、まなじりをきつくつりあげ、縁側で団子を食べながら茶を飲んでいる部下を睨みつける。永琳は、輝夜を見上げ、視線を合わせる。
「あなたと彼女の一対一の遊びなら、私は何も申しません。ですが、そこに第三者を介入させるような真似をされれば、話は別です」
表情は今までと変わらず冷めていたが、目には揺るぎない、確固たる意志があった。厳しく、冷酷な光を湛えている。輝夜はそれ以上言い募ることができなかった。
永琳は目線をお燐へ向ける。
「火車……あなたも、自分から好んで彼女に力を貸したわけではないのでしょう。でもあなたが傍にいて、これ以上彼女に関わろうとするなら、私が潰す。もちろん、二度と私たちの前に現れないと誓うならば、私たちも何もしない」
永琳は口調に少し憐みを混ぜていた。それがお燐にはわかる。癪だった。ナメられている、と思った。
「好きでお姉さんの手助けをしたわけじゃないって? そんなことはないさ。あたいは妹紅お姉さんで遊んでみたくて仕方なかったんだ」
妹紅の上半身ががばっと起き上がる。目は虚ろだ。
「誰、あんた! 妹紅じゃないわね」
輝夜はヒステリックに叫び、五色の光線を繰り出す。妹紅は虚ろな目のまま、関節の曲がった腕を上げる。そこから、極大の火の鳥が飛び出す。
「きゃあああああっっ」
「姫! 薬符・壺中の大銀河」
さっきよりもひとまわり大きな球が輝夜を包み込む。極大の火の鳥は球ごと輝夜を焼き尽くす。輝夜は炎に巻かれながら、墜落していった。
「これだ、わかった、ついに、たどりついたよ!」
お燐は歓喜の叫びをあげる。そんな彼女を、弾幕が取り囲む。
「忠告したはずだ」
竹林から、角を生やした緑の装いの少女が現れる。
「妹紅の死体に手を出したら、始末する」
「やってごらんよ」
「旧史・旧秘境史 オールドヒストリー」
弾幕は動き出していた。整然とした法則で動く弾幕と、ひたすらお燐を狙う弾幕が同時に襲いかかる。お燐は嬉々として身をそらし、飛び、跳ねた。
「はははっ、このぐらいじゃあたいを捉えきれやしないよ」
「新史・新幻想史 ネクストヒストリー」
さらに分厚い弾幕が重ねて囲む。弾幕の二枚重ねに、物理的に抜ける隙間などほとんどない。だがお燐の顔には依然として余裕がある。
「もう逃げられないぞ」
「慧音さん、もっとまわりを見ようよ」
それで注意をそらしてとっさに辺りを見回すほど、慧音は甘くない。
「焔星・プラネタリーレボリューション!」
しかし、巨大な複数の火球に囲まれてしまっては、どうすることもできなかった。隙間を抜けようとしても、隙間を潰すようにして飛んでくる火球に対処しきれない。
「うわああああっ」
慧音は火球に呑み込まれた。お燐を囲んでいた二重の弾幕が消える。
「迂闊だった。まだ他にいたのか」
慧音は地面に大の字になって転がった。
おくうは慧音を上空から見下ろす。
「そうだよ、私はお燐の仲間。ちゃんといるんだから」
おくうの口調に、慧音は思い当たる節がある。気まずそうな顔をする。
「そうか……ならば彼女とお前にはひどい侮辱を与えてしまった」
「まあそんなところかな。ま、あんまり気にすることないよ。お燐がまわりのこと考えずほいほい行動するのは確かだから。そうそう、今回はお燐に頼まれたからあなたを攻撃したけど、別にあなたに恨みはないから、あなたも私を恨まないでね」
慧音は堪えるように笑った。
「なんと虫のいい」
「何よ」
「いや、お前たちはさぞかし仲の良い友人同士なのだなと、想像がついただけだ」
「まあ、悪くはないね。付き合いも長いし」
慧音は横たわった状態で、お燐を見る。つられて、おくうも友人を見やる。
お燐の周囲には、いまだかつてないほど怨霊が集まっていた。その怨霊は、同じ密度を保ったまま、紐のようにして妹紅の死体とつながっている。妹紅は首を傾けたまま、永琳に歩み寄っていく。永琳は立ち上がり、いつの間に出したのか、弓矢を構えていた。
「子供の遊びだって、国家間の戦争の引き金になる」
矢が放たれ、妹紅の右腕が吹っ飛ばされ、近くの竹に縫いとめられる。腕は炎に巻かれ、それだけが独自の生き物のようにして永琳の髪をつかみかかる。永琳は鬱陶しそうに、弓を払って、腕の襲撃を退ける。腕は妹紅の体にくっついて戻った。
「ましてや、子供の恋心の前では、どんな化け物だって目を醒まさずにはいられない」
弓をかざすと、暗い回廊が現れる。お燐と妹紅、永琳はこの突如現れた回廊に呑みこまれる。
永琳の作り出した疑似空間だ。永夜異変では、誘い込んだ霧雨魔理沙やレミリア・スカーレットら錚々たる面子の超火力を、すべてここでいなした。どれだけここで暴れようが、まわりに被害は及ばない。あの事件が終わった時、彼女らを相手取ってなお永遠亭がほとんど修築を必要としなかったのは、この空間の功績が大きい。
逆もまた、しかり。
「秘術・天文密葬法」
永琳が全力を出しても、周囲に一切被害は及ばない。
目を覚ますと、体のあちこちが痛かった。お燐を起こしてくれたのは、おくうだった。おくうの後ろから朝日がちらちらと射している。
「大丈夫? 心配したよ」
全然心配してなさそうな、呑気な顔でおくうは言った。辺りは、死屍累々といった様相を呈していた。妹紅も輝夜も、地面に突っ伏したままぴくりとも動かない。少し距離の離れたところでは慧音が伸びている。あれは、おくうがやった。逃げ遅れて巻き添えを食らったのか、庭ではウドンゲと言う名の兎耳少女が伸びている。他にも、ウドンゲを助けようとしたのか、それとも単なるやじ馬で来て逃げそびれたか、兎耳の少女が何人か倒れていた。無事なのはおくうと、縁側でお月見の後片付けをしている永琳だけだった。
「あら、お目覚め」
永琳は、体を起こしたお燐に気づくと、やさしく微笑んでみせた。しかし目が笑っているようには見えない。お燐はばつが悪かった。思い切り暴れてしまった。酒宴で気分がよくなって、大声でわめいて踊って、物を散らかして他人に絡んで嘔吐を繰り返して一夜明けたような気分だ。
すごく、楽しかった。
「あ、あの、ごめんなさい」
「いいのよ、反省しようとしているなら」
「ううん、きっとこの子、反省していないよ」
「おくう、余計なこと言わないでよ」
「反省するというのは、難しいものよ。すぐにできるとは思わないわ。大切なのは、反省しようと努力すること」
「よくわかんないな」
「その子とは、どうするの」
最初、永琳が誰を差しているのか、お燐はわからなかった。
「このままだと、ずっと口を利かないまま、わかり合わないままよ。それでもいいなら、いいけれど。きっと気分が悪いと思うわ。お腹の辺りがね、もやもやしてしまうの。そういうのはたいてい、薬じゃ治らない」
上白沢慧音のことを言っているのだと、お燐はやっと理解できた。
「ふうん、話半分に聞いておくよ」
「それで丁度いいわ。さ、とっとと帰って。後片付けの邪魔よ」
お燐とおくうに言い放ち、倒れた輝夜に近づく。
「まったく、いつも世話ばっかりさせて」
呆れたようにため息をつく。唇は微笑みに彩られ、目元は慈しみで満ちていた。ふたりはとても幸せな関係なんだ、とお燐は思った。
博麗神社の温泉が完成していた。
一ヶ月妹紅の家に居候していた間に、色んな人間やら妖怪やらがやってきて、紆余曲折を経つつも、どうにか温泉と呼びうるものができあがったようだ。
境内からも、温泉の湯気が立ち上っているのがよく見える。
「へー。作る作るとは言っていたけど、本当にできたのね」
おくうはしきりと感心している。
「まあね。利権をめぐる醜い争いもあったけど、どうにかこうにか収まったわ」
博麗霊夢は、縁側で茶を飲みながら答えた。お燐とおくう、ふたりは庭に突っ立ったままだが、霊夢は茶を勧めもしないし、上がれとも言わない。この扱いは、ふたりが賽銭を持ってきていないからというのが専らの理由だが、もちろんふたりとも気づいていない。
「入っていいかしら」
「どうぞ。元はと言えばあんたが湧かした間欠泉でできているんだしね」
「よかった。それじゃお燐、行こう」
「え、あ、うん」
お燐は霊夢に聞きたいことがあった。だが、それはおくうの前では言いづらいことだった。それに、一晩中弾幕遊びに興じたせいで、体はくたくただった。外で夜を明かしたため肌も相当冷え込んでいた。
体中の細胞という細胞が温泉を求めていた。
霊夢のことが気にかかりながらも、おくうに手を引かれて、神社の裏道へ向かう。
「待ちなさい。大切なものを忘れているわよ」
その時、横から声がかかった。お燐もおくうも不思議に思ってそちらを見る。そこにはひとの気配はまったくしていなかった。今も、鳥の巣箱のようなものがあるだけだ。だが、声はそこからしているようだった。
「ここよ、ここ」
その鳥の巣箱のようなものから、一升瓶と腕が飛び出した。さらに青い髪の女が顔を出す。そのまま、ずるずると体を出して、地面に降りた。赤い服を着ている。背の高い、堂々とした女だった。
「温泉であったまりながら、一杯やる。これが常道でしょう」
お燐は戸惑った。この女が人間でないことはわかる。ただそこにいるだけで周囲に影響を及ぼしてしまうような徳が、体からにじみ出ている。それは神徳と言ってもいい。
「あんた、何者だい」
「わあ、助かるわ。いちいち地霊殿に戻ってお酒持ってくるの面倒だなあって思ってたの」
警戒するお燐とは対照的に、おくうは女の差し出した一升瓶を受け取り、先に行く。女は首を傾げた。
「本当に覚えていないとはね。どうも……ねえ、わかってはいるんだけれど、納得できないわ」
お燐にはよくわからない独り言をもらして、おくうの背中を眺める。お燐に視線を転じ、肩をぽんと叩く。
「友達には私がついていってあげるから、あなたも話したいことがあるんだったら今のうちに聞いておきなさい。今日は、博麗の巫女も話したい気分みたいだから」
「え、あ、うん。ありがとう、そうする」
まだ警戒や戸惑いが完全に抜けたわけではないが、彼女の言葉に従うと、なぜか安心できる自分を自覚した。女は微笑んだ。その微笑みで、お燐は、無条件に自分が肯定された気になる。
「ぜひそうして。それから、さっきの質問に答えるけど、私の名前は八坂神奈子。この幻想郷の山の神様をやっているわ」
合点がいった。これは本物の神徳だったのだ。
「山、ねえ。あたいは山って言われても針の山ぐらいしか思い浮かばないけど」
「よかったらおいでなさい。宴会を開いてあげるわ。火車の力、見てみたいしね」
「あたいが火車だって、わかるんだ」
「もちろんよ」
「あたいの能力が地上で忌み嫌われていることも?」
「もちろん」
「じゃあどうして歓迎するのさ。忌み嫌われているから?」
過去にも、そういった人間がいた。僧や、それに似た性質の人間だ。死体にまとわりつく火車の業を憐れみ、あえて近づいて対話を試みようとする者たちだった。こちらの悦びも悲しみも理解できないくせに、憐みだけで近づく人間たちを見ると、お燐は苛立ちを抑えきれなかった。それで、たいてい粗暴に追い払った。
この山の神様も同じ理由で、嫌われ者の機嫌を取ろうとしているのかもしれないと、お燐は疑った。
「忌み嫌う? なぜ。あなたの能力があれば、死者に話させることができる。葬式の時なんか、すばらしい演出になるわ。既に死んだ者が、まだ生きている者達へ感謝と激励の言葉を贈る。きっと葬式は大盛り上がりよ。参列者は一様に涙を流し、式後に控える宴会へ向けて、テンションはうなぎ昇りに高まっていくわ」
「そこで死者が空気読まないで、まだ死にたくないだの、お前らも一緒に死んでしまえだの言っちゃったらどうするのさ」
お燐は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。神奈子はよどみなく答える。
「それを言わせないのが、神様の仕事よ。みんなに空気を読ませる程度のことができなきゃ、神である資格がない」
そのあっさりとした、しかし自信に満ちた物言いに、お燐は感服した。
「まあ、外の世界じゃ実際に資格がなくなったようなものか。それでこっちに引っ越してきたんだけどね」
「山神様は外にいたのかい」
「そうよ。免許剥奪されたのよ」
「外は住みにくいかい」
「さあ、ね。ひとそれぞれよ。ほら、そんなに神の過去を詮索するものじゃないわ。私はもう行くから」
神奈子は、もうずいぶん遠ざかったおくうのあとを追って裏道を下っていく。お燐は再び神社の表に戻る。縁側に霊夢はいなかった。靴を脱いで上がり込む。建物の中は冷え込んでいて、乾燥していた。
俎板を包丁で叩く音がする。調理場で霊夢が野菜を切っていた。
「何か用? 人生相談なら神奈子にした方がいいわよ。あいつ、神だし」
足音などまったく立てていなかったのに、霊夢は気づいた。お燐に背中を向けたままだ。
「あたいは相談したいんじゃなくて、質問したいんだ。神奈子さんじゃなくて、お姉さんに」
霊夢は振り返らないまま、野菜を切り続ける。
「お姉さん、妹紅姉さんが死なない人だってこと、知ってたでしょ」
「そういえばそんなだったわね」
「最初に神社にお姉さんの死体を運んで来た時、止めなかったね。火車が人間の死体を運んで地底へ下ろうというのに。
「忙しかったのよ」
「茶を飲んでいただけじゃない。あそこで騒ぎ立てれば、妹紅姉さんを地底まで連れていくこともなかったのに」
「別に大した事件にはならないと思ったからよ」
「昨日の夜のことも、大した事件じゃないんだね」
「そのことはよく知らないけど。ただ、私は、ちらりとあんたたちを見て、ふたりとも、それなりに楽しそうだったから、まあいいか、と思っただけよ。あとの事情は知ったことじゃないわ」
「ふたりとも……だって?」
あたいだけじゃなくて、そう聞こうと思い、お燐は躊躇う。
巫女の意図がよくわからない。何もかもわかっているように思わせておいて、実はただ適当に嘘を並べているだけかもしれない。
巫女は何もしていないように見える。地底で自分やおくうとやりあったときも、巫女本人は攻撃をかわしているだけだった。相手の攻撃を凌いだり、牽制したりする時に札を飛ばしてはいたが、実際の攻撃は珠から出てくる針や、風や、気だった。
お燐は迷う。このまま霊夢と対話を続けるか、続けるとしたらどんな言葉を接ぎ穂とするか。
「あーもうめんどくさい」
そう言う霊夢の声を聞いた直後、前方に天井があった。
蹴られて床に転がっているのだと気づくまでに、数秒かかった。霊夢の声が足下の方からする。
「そんなことはいいから、あんたも賽銭持ってきなさいよ、もう次からでいいから。運搬業やってるんでしょ、運賃って感覚がないとは言わせないわ。あの鳥頭にも言い聞かせておきなさい。神社というのは何をしに来るところかってことをね」
ぴしゃりと扉が閉まる。お燐は立ち上がって、神社から出て、裏道へ向かった。博麗の巫女は底知れない。不可解だ。
道を降りていくと〈博麗温泉〉と墨書された看板が見えた。鄙びた田舎の温泉を思わせる、貧相な造りだった。靴を脱いで、裸足でぺたぺたと廊下を歩く。男、女と書かれた暖簾があるので、無論女の方に行く。
服を脱ぎ、籠にまとめ、一枚布で胸から下をくるむ。扉を横に開くと、濛々たる湯気に出迎えられた。
湯煙の中、声のする方へ歩いていく。おくうと神奈子がいた。神奈子は、温泉の縁にもたれかかり、両肩をお湯から出して、目の前にお猪口の乗った盆を浮かべて、くつろいでいる。やや顔は上気しているものの、酔いにも湯当たりにも無縁そうだった。反対におくうは、顔を真っ赤にしてふらふらしていた。温泉には膝から下だけを浸かり、縁の岩の上に座っていた。布を膝の上にかけている。お燐や神奈子のように全身を包まないのは、翼が邪魔だからだ。
「神様、おくう」
「おや、お燐ちゃん、来たね。おくうちゃんはもう駄目ね。酔いに湯当たりともう最悪。でも友達が来たんだから、少しは元気を取り戻してもらわないと。ほら、おくうちゃん、もう飲まなくていいから、湯には入りなさいよ。気持ちいいわよ」
神奈子が声をかけると、不思議なもので、今までぼーっとしていてひとの言葉など耳に入りそうにもなかったおくうが、うなずいて、温泉に肩まで入った。
「うにゅー、熱い」
「それがいいんじゃないか、おくう君」
「どれどれ。いや、これやっぱ熱いよ。おくうが音を上げるのも無理ないね」
そう言いながら、お燐も肩までつかった。たまりにたまった疲労が、熱で焼き殺されていく気がして、爽快だった。
「くぅあぁぁ~~っ」
思わず声をあげ、手足をびいんと伸ばす。
「ほら」
神奈子がお盆の縁を押して、お燐の前にやる。お燐はお猪口の酒をくいとあおった。
「くぅうぅ~~」
また、意識せずに声が漏れる。
「昨日は、大変だったわね」
弛緩して湯に身を任せるお燐に、神奈子はねぎらうように話しかけた。
「ああ、うん、まあね」
「疲れたろう」
「うん。疲れた。あたいも、途中から自分が何をしたいのかわかんなくなっちゃったもん。夢中になってさ。妹紅お姉さんの死体を操って動かしたいってのは、前から思ってたんだ。ま、永琳ってひとにあっさりやられちゃったけど。あれはあたいの動かし方が悪かったんだと思うな」
「慣れてないとね、そんなものよ」
初めて出会った神奈子がまったく問題なく自分の話に合わせてきているのを、お燐は少し奇妙に感じたが、すぐにどうでもよくなった。神様なんだから、その辺りの情報はどうにかするのだろうと、結論づけた。
どこかで見ていたのかもしれない。
「妹紅姉さんには、会いたいんだ」
「会いに行けばいいじゃないか」
「そうしたら、怒る人が出て来るからねえ」
「あの獣人?」
獣人、という響きに、侮蔑の響きは感じられない。種族として、神奈子がそう認識しているだけ、という感じだ。さっきお燐のことを火車と言った時も、そうだった。輝夜や慧音、永琳が火車、と言った時にわずかに含まれていた、見下しや侮りの成分が、神奈子の言葉にはまったく入っていなかった。
「そう慧音さん」
「大丈夫、怒っていないわ。少なくとも、あなたには」
「じゃあ誰に怒っているの」
「自分自身に対して、だろうね。普段からあいつは冷静沈着な態度を崩さないのだけれど、時々ああやって我を忘れる。根がまじめなものだから、反省し過ぎるくらい反省する。でも気まずいものだから、自分から謝ろうとはしない」
「慧音さんが謝ることじゃないよ。あたいはただ、みんなと楽しく騒ぎたかっただけなんだ」
「死をね、一緒になって楽しめる存在ってのは、あまりいないものよ」
「そうかな」
「というか、あなたも、死んだら嫌でしょう」
「痛いのは嫌だねえ」
「痛いだけじゃなくて、別れなきゃいけない」
「別れても、どうせ相手も死んだら同じところに行くんでしょう」
「さあ、私は冥界の管理人でも地獄の裁き主でもない、一介の神様だから、そんなに詳しくは知らないけれど」
神奈子は、おくうをちらりと見る。おくうは、顔を真っ赤にして、桃源郷をさまよっているようだ。
「何かのきっかけで離れてしまわないとも限らない。というか、ごめんね」
いきなり、両手を拝む形に合わせて、頭を下げられて、お燐は面食らった。神様を拝んだことはあっても、神様に拝まれることは初めてだった。
「え、ちょっと、神様」
「この前、この子が力を持ち過ぎて暴走しちゃったでしょう。あれ、私たちのせいなの。おくうちゃん素直そうだったから大丈夫だろうと思ったら、素直すぎたのね。自分の欲望にあまりに忠実に動くものだから、びっくりしたわ。まあ、私たちが気づいた時には既に事件は終わっていたんだけど。でも、こんなに早く異変が片付いたのは、お燐ちゃん、あなたのお陰よ。あなたが怨霊を出して、境界の妖怪たちを引っ張り込んだから、この子は無事でいる」
「そりゃあ、ね、星熊たちに目をつけられたらただじゃ済まないからね」
神様の前なので、お燐は気兼ねなく鬼の名を呼び捨てにした。自分でも姑息な気がしないでもなかったが、執拗に強さを振り回す鬼たちを、お燐はそこまで好きではなかった。強くても弱くても、一緒に話して遊んで楽しければそれでいいと、お燐は思う。
もちろん強い者は大好きだ。恰好いい。だが、それだけではない。
「あなたは、友人思いなのよ」
神奈子は腕を伸ばし、お燐の頭を撫でた。
「お疲れさま。昨夜の件は、目くじら立てて怒っている連中もいるみたいだけど、私はノーカウントだと思っている」
「ノーカウント? なんだか神様らしくない言葉使いだね」
そういえばさっきもテンションがどうとか言っていた。
「フランクさが大事なのよ」
「でもやっぱり神様が使うと似合わないなあ」
「ほっときなさい」
神奈子は湯からあがり、湯煙の向こうへ消えていった。お燐はおくうを見る。いつの間にか湯からあがっている。今度は足の指先すら湯につけず、岩の上に横になってひたすら団扇で自分を仰いでいる。
「おくう、あんたなんて恰好しているんだい」
「熱ーい、熱ーい。鳥が茹でられるとどうなるんだっけ」
「あんたが弾幕る時の熱はこんなもんじゃないよ」
「自分が出している時はなんともないの。体臭と一緒よ」
「そうかねえ」
「神様が言っていることは正しいと思うわ、お燐」
「聞いてたの」
「なんとなく。というか、あの神様が私に力をくれたのね。初めて知ったわ」
「忘れてただけでしょ」
「お燐、あなたは、私を止めてくれた」
「あの時は、どうなるかと思ったよ」
お燐はおくうに近づく。縁に両腕を重ね、顎を乗せ、横になって団扇を仰ぐおくうと目を合わせる。ふたりの距離は近い。お互いの息がかかる。ふたりはお互いの目を自在に観察できる距離にいる。
「あんた、いきなりさ、あたいが待てって言っているのに、地上侵略するとか言い始めて」
「ごめんって。天狗になってたのよ。そしたら天狗が来たけど」
「胃に穴が空くかと思ったよ。鬼に目をつけられたらどうするつもりだったのさ。いや、鬼だったらまだいいよ。あたいだって協力して、なんとか煙にまいてやるさ。でも」
「わかってるわよ、お燐。わかってる」
「さとりさまが」
「ごめんって」
「さとりさまが悲しむ。自分の言うことを聞いてくれないと、あの方は寂しがるんだ」
「そういうつもりじゃ、なかったって」
「おくう。ねえ、やっぱちゃんとさとりさまに謝ろう。地底の騒動の後、なんとなく地霊殿に戻って一緒にご飯食べたりしているけど、ちゃんと言っていないでしょ。もちろん、怨霊を地上に出したことだって、あたいも謝っていないし」
「それは謝ることじゃないって、さっき神様が」
「神様は神様。さとりさまはさとりさま」
「うー、心の準備が」
「思い立ったが吉日」
「待って、練習しよう。練習。先に地上の問題から片をつけましょう」
「肩慣らしみたいに言ってくれるね。そっちはそっちであたいにも覚悟がいるんだから」
「覚悟じゃないわ。勇気よ、お燐」
温泉からあがった後、霊夢から、炊き立てのご飯と大根を振る舞われた。大根は醤油と砂糖で煮込んであって、それだけでご飯が何杯でも行けた。すっかり腹が膨れたお燐とおくうは、とどめとばかりに出されたお茶を飲み干すと、あまりに気持ちがよくてそのまま座布団の上で眠ってしまった。起きた時にはもう夕日が座敷に差し込んでいた。ふたりの上には毛布が二枚ずつ重ねてあった。
しゃっ、しゃっ、と箒を掃く音がする。庭を見ると、霊夢が庭を掃いていた。
「ねえねえ、慧音さんの家ってどこ?」
「行って何するの? 多分、あいつとあんた、何ひとつとして話が合わないと思うけど」
「いいじゃんそんなの、ほっといてよ」
「家は人間の里からちょっと離れたところにあるけど……でも、今夜はいないわね。竹林にいるわ」
霊夢は意味ありげに微笑む。今回の事件以前のお燐だったらわからないほのめかしだったが、今はわかる。
「妹紅姉さんと会ってるんだね」
「……それを実際に口に出して言ってしまうところが、獣よねえ」
霊夢はわざとらしくため息をついて見せる。
「さ、それじゃ行き先も決まったことだし、お燐、行こうか」
「何さ、おくう、あんたも行くの。ま、いいか」
ふたりはせっかくかけられていた毛布をたたみもせずに、縁側に行き、靴をはく。
「ちょっと、あんたらこれから暗くなるってのに迷いの竹林に行くの? 馬鹿なの?」
霊夢はそう言いながらも、竹の筒に茶を入れてふたりに持たせた。
それから二刻が過ぎた。
ふたりは迷いの竹林で、ものの見事に現在地を見失っていた。
「お燐、どうしよう、ひょっとしたら、ひょっとしたらだけど、ひょっとしたらだから、驚かないで聞いてね。私たち、迷ったりしちゃってるかも」
「いや、ひょっとしても何も、しっかり迷っているよ。多分一刻前から既に」
「え? そんな早くから」
「あんた気づくの遅いよ」
「ああもう、どうしようかしら。プチフレアでもして明るくしようかしら」
「やめなよ。そんなことしたら慧音さんたち、怒ってやってくるじゃないかい」
「やってくるんならそれでいいじゃん。会えるんでしょう」
「そんな会い方最悪だよ」
お燐は頭を抱える。
「あーもう、あんたみたいなのが相棒だと、余計に気疲れするよ」
「大変ねえ」
「ほんとだよ」
拳をぷるぷると握り締める。
すぐに力を抜く。
「ま、いいや。おかげで助かっているし。あんたといると楽だもん」
「気疲れはするのに?」
「それは別腹」
おくうは何も考えていないわけではない。付き合いの長いお燐は、そのことをよく知っている。おくうはおくうなりの一貫した論理で動いている。それが、他から見たら鈍重に感じたり、不可解に思える場合があるというだけのことだ。
「お燐、こういう時はね、こいしちゃんの真似をするといいよ」
そう言って、おくうは目を閉じた。お燐も真似して目を閉じる。
視界が閉ざされる。元より迷っているのだから、大差ない。
「目、閉じたよ。これからどうするんだい」
「さあ」
「さあ、って!?」
「これからどうするかはお燐が決めてよ」
お互い向き合って、目を閉じて、会話を続けている。この珍妙な状況に、お燐は我ながらおかしくなって、笑ってしまった。おくうもつられて笑う。
ふたりの笑い声に、竹の葉を揺らす風の音が混じる。
その風に、笛の音が混じる。
お燐とおくうは、ぴたり、と笑うのをやめた。
目を閉じたまま、じっと耳を澄まし、笛の音の出処を探る。
そして、音もなく、笛の音を追う。
キャッツウォーク。
竹林が開け、ぽっかりと空間が開く。ちょっとした広場のような光景が、目の前に広がった。その広場のちょうど真ん中に、木造の家屋が一軒建っている。お燐はこの家を知っている。つい昨日まで、一ヶ月間過ごしてきた家だ。
笛の音は広場を突き抜けた先からしていた。先は曲がりくねった登り道で、進むほどに角度は急になっていく。視界が開けると、眼下に迷いの竹林だけでなく、その先の人間の里までもが一望できた。崖の突端は、さらに上まで続いている。そこに、親指ほどの大きさで、人の姿が見えた。
遠目からでもわかる。笛を吹いているのは、藤原妹紅だ。
旋律は物悲しく、ゆったりとしていた。不意に転調し、急き立てるような、墜落するような旋律にもなった。だがすぐにまた緩やかな旋律に戻る。
お燐は声をかけようと、息を吸い込んだ。
その時、妹紅の旋律に、別の旋律がそっと寄り添った。それは控え目に、はじめの旋律を侵さないよう気を使いつつ、しかしはっきりとした意志を持っていた。決して妹紅の旋律から離れはしないという、確固たる意志が感じられた。
妹紅は笛を吹きながら、後ろを振り返る。しばらくそのままでいて、また前に向き直る。旋律はより一層和し、物悲しくも力強い音楽を創り上げていく。どんな表情かはお燐のいるところからでは見えない。
お燐は声が出せなかった。自分の声で、妹紅と慧音のふたりの時間を壊してしまいたくなかった。
うつむいて何もできないでいるお燐の背後から、がさがさと音がする。おくうだ。
「ふう、やっと追いつけた。足音立てないと追いかけづらいわね。あれ? 妹紅さんと慧音さんじゃない。おおーーーい!!」
お燐が止める間もなかった。おくうは大声をあげて、手を振った。ふたりの視線が同時にこちらを向く。お燐は反射的に顔を伏せたが、それはかえって邪魔をしたという事実から逃げているだけのように思えて、癪に感じ、堂々と顔をあげた。
妹紅と慧音は、軽く片手をあげて、こちらに手を振った。短い動作だったが、こちらに対して礼が込められていたのが、遠目からでもわかる。それから何事もなかったように、ふたりは音楽の世界に入っていく。
「ああ、いいなあ」
お燐はそんなふたりに魅せられていた。
「羨ましいなあ、ああいう関係」
「何、お燐、ふられたの? でもはじめっから勝ち目ゼロだったよ」
「うるさいなーおくうは。別にそんなんじゃないさ。妹紅姉さんは恰好良かったから、ちょっと死体にして遊んでみたいなあって、思っただけだよ」
「その割にはずっと執着していたけどね」
「ああもう、黙りなよいい加減」
「お燐の気持は報われないのよね。さとりさましかり、巫女しかり、魔女しかり、不死身の少女しかり」
「そういうあんたはどうなのさ。あんたこそ空回りしっ放しでしょ。地上征服なんて白昼夢、結局誰ひとりまともに相手しなかったじゃないか」
「ああ、あれはもうどうでもいいわ。地上をとんでもなく広い灼熱地獄にしたら、あんたと思い切り遊び回れると思っただけだから。あんたがあんな嫌がるとは思わなかった。それならそうと言えばよかったのに」
「聞きゃしなかったわよ、あの時の増長し切ったあんたじゃね」
「それもそうかもね。だからわざわざ怨霊出してくれたんだよね。私を鬼から助けるために。さとりさまを助けるために」
話が湿っぽくなりそうだったので、お燐は口を閉じる。おくうは構わず話す。
「地上まで怨霊を出すなんて遠隔操作、今まであんまりしたことなかったでしょ。きつかったんだよね、きっと」
「まあ、ね」
「ありがとう。私はそんなお燐が傍にずっといてくれれば、あとはもう何も望むことない」
「……まあ、ね」
おくうのまっすぐな言葉に、お燐は顔を赤らめる。目をそらすのも悪いと思い、おくうの目をまっすぐ見る。ますます照れ臭くなる。
悪循環だ。動悸が速まるばかりだ。
竹薮から、忍び笑いが漏れた。
慌ててそちらに向き直り、睨みつける。
「誰だい!」
「ごめんなさいね、邪魔する気はなかったのだけれど」
裾の長い着物に身を包んだ、黒髪の少女、輝夜だ。傍らには白いワンピースを身につけた、兎耳の少女が付き添っている。前回輝夜の傍で巻き添えを食っていたウドンゲとは、また違う兎だ。
「このイナバが急に笑い出すものだから」
「笑ってなんかいないよ。泣いていたんだよ」
「ほら、この通り」
輝夜は微笑む。豪奢な微笑みだ。
「なんだかイラつくねえ」
お燐は眉をしかめて、手押し車を出現させる。その周囲に怨霊が集う。
おくうの小さく畳まれた翼が大きく膨らむ。その周囲に熱が集まる。
今まさに弾幕合戦が始まろうという時だった。
お燐、おくう、輝夜、イナバのちょうど真ん中に、炎に包まれた人型の影が降り立った。
「さあ、今日のお楽しみ、音の夜会は終わり。あとは後片付け。ゴミはきちんと燃やしてしまわないと」
炎に身を包んだ妹紅は、楽しそうに笑い、輝夜を見る。輝夜もまた、同種の、興奮を帯びた笑みで応える。
「も、妹紅姉さん! あ、あの、その」
お燐は何か言わなければと思った。だが、言葉が出てこない。感謝なのか謝罪なのか、もっとそれ以前に自己紹介なのか、それとも慧音と仲良くやってくれという激励なのか、とにかくいろんな言葉が言葉以前の状態で唇の内側にとどまって、出ていかない。
妹紅は炎を解き、お燐を振り向く。
「ひとつ、言ってなかったことがあったのを、思い出したわ。もうずっと当たり前に思っていたから、あなたが家にいた時も結局言ってなかったけど」
「何をだい? お姉さん」
「あなたのその車。おそらく死体しか乗せないんだろうけど。そこに乗っている間、居心地良かった。上等な車の中で、うとうとと惰眠を貪るような感じかな。何もかも、すべての責任や気負いから解き放たれて、ただ体の力を抜き、がたごとと揺れる車の振動に身を任せて、目を閉じるの。数多くの死体がその車に乗ったんだろうけど、苦情を言う奴なんてほとんどいなかったでしょう」
「う、うん。陰でなんて言われてたかは知らないけど」
「陰口なんて意見に入らないから、気にしなくていいの。それよりも、あなたは、直接、車に乗った奴から意見を聞かないといけない」
「うん。うん!」
「あなたの車、抜群の乗り心地だった。素敵な死体旅行を満喫できたわ」
次の瞬間、虹色の小弾が乱れ飛び、複数の魔方陣から噴火が起こる。お燐とおくう、イナバはたまらずその場から飛び去った。
「ふええ、相変わらず派手な弾幕だね」
「まったく、会えば暴れることしか頭にないのか、あいつらは」
お燐の後ろから聞き覚えのある声がした。
「慧音さん」
「火車か」
そう言って、口を閉じ、また言いなおす。
「火焔猫か」
慧音の目に、明確な憎悪や侮蔑は感じ取れない。だからといって、打ち解けた風でもない。
「その呼ばれ方、嫌いなんだけどなー」
お燐も、妹紅や神奈子相手ならすらすらと言葉が出てくるはずなのに、慧音を前にすると、言葉が滞る。
「妹紅お姉さんにつきまとっていた怨霊は、もうないよ。永琳ってひとに、綺麗さっぱり払われちゃった」
それでもお燐は、明るく振る舞うことを自分に強いた。ああやってふたりでひっそりと笛を吹くような関係にある妹紅と慧音の間に割って入った自分が、ひどく無粋な存在に感じられたからだった。
お燐が、後ろめたさという感情を持つのは、これが初めてのことだった。
「八意永琳と真っ向からぶつかって、何事もなかったのが不思議なくらいだ。よくよく丈夫な妖怪だな、お前も」
慧音の返答も固い。妹紅と一緒にいた時に手を振って応えたような柔らかさはない。不器用なのだ、このひとは、とお燐は思う。
「じゃ、あたいたちは帰るね」
「今夜は見ていかないのか?」
「目的は果たしたからいいや」
慧音と妹紅に謝るため、とは言いたくなかった。
「慧音さんは?」
「私は見届けていくよ。お前たちも、道中気をつけてな。人間を襲うんじゃないぞ」
「はーい。行こう、おくう」
帰り道、お燐は自分の心が少し軽くなっていることを自覚した。
「やっぱり、あのひととお燐は、相性合わないね。博麗の巫女が言っていた通りだよ」
「そうさ。多分趣味も全然合わないよ」
「でもよかったね。一応話せて」
お燐は目を見開いておくうを見る。
「やっぱりあんた、色々わかっているんだねえ」
「うん? そうかな」
***
久しぶりに地霊殿に戻ると、心なしか館のあちこちが煤けているような気がした。
掃除用ペットもいることはいるのだが、とても館内全域にまで手が回っているようには見えない。さとりさまはひとの心をつかむ術は心得ているが、それを統率するのは苦手であるというのが、ペットたちの中で出ている結論だ。
「それにしても、ちょっと手を抜きすぎじゃないかい」
掃除用具箱から引っ張り出したはたきを適当にかけながら、お燐は階段を上っていく。
「さとりさまどっか外に出てるのかな。それでペットが手抜きしているとか」
おくうは自分の翼をはたき代わりにしているが、埃が立つばかりで、あまり意味がないと、お燐は思う。
さとりの部屋の前に来た。鍵はかかっていない。
部屋の中で、少女が浮いていた。
紫髪のショートカットで、ハートのアクセサリーがついたカチューシャをつけている。水色のシャツに薄紫のスカートを身につけた、小柄な少女だった。
部屋の中をふわふわと移動している。時々転がるように、体勢を変える。何度目かの体勢の変化で、さとりはふたりと目が合う。ふたりは、何も言わなかった。
「おいで」
さとりは床に足をつく。さとりの部屋は、ふかふかのカーペットが敷かれている。歩くたびに雲の上を歩いている気がするほどのふかふか具合だ。さとりがお尻をぺたりとカーペットにつけ、両足を前に投げ出す。お燐とおくうは、それぞれ膝にすり寄って、目を閉じた。
「よしよし、言いたいことがたくさんあるのね」
にゃーん。
くるっくー。
ふたりはただ鳴く。
「謝りたいの? 今更のことね。そんなの、とっくにわかっているのに。お礼を言いたいの? それこそもっと今更ね。いつも感じているわ」
くるっくー。
ごろごろ。
「でも、そうね、地上人ははた迷惑だったけど、ひとつだけためになることを私に教えてくれたわ。それは、言葉は力になるということ。言葉とは何? 思考を伝える道具? それもある。あるけど、もっと別の機能がある。〈意思〉を……いいえ、〈意志〉を伝えることができるの。〈意志〉とは力よ」
さとりはさっきからふたりの頭をなでたり、顎をいじったりしている。つい、と顎を持ち上げる。交互にふたりの目を見る。
「言葉にしてごらんなさい。あなたたちの意思だけでなく、意志も感じたいの。そういう点では、きっと、地上の者たちの方が、私たちよりずっと得手のはず。私にも、教えて」
お燐は言った。
「さとりさまの手、あったかくて、気持ちいい。大好き」
おくうは言った。
「ずっと一緒にいたい。さとりさま」
さとりは笑う。何か答えようとして口を開くが、何も出てこない。
まだまだだな、とさとりは思う。まだ自分は、このふたりのように、強い言葉を持てないでいる。
ふたりが羨ましい。そんなふたりの言葉が嬉しい。
満足のため息を漏らして、寄り添ってくるふたりの頭をなでる。ふたりがうとうとと眠りかけた頃、ようやく言葉に出せた。
「おかえりなさい。ありがとう」
死体を運ぶにはおあつらえ向きの。
竹林を、ひとりの少女が歩いている。竹林の緑に、夜の黒に溶け込むような、ダークグリーンのワンピースを着ている。普通の少女と比べて少しペースが遅い。手押し車を押しているからだ。使い込まれた木製の車で、台の上には白い布が敷かれてある。
何かを覆い包むように。
「ああ、素敵な夜だねえ。こう、わけもなく胸が高鳴ってくるよ」
夜空を見上げる。その拍子に、赤髪のツイテンテールがぱっと舞う。
「とっても強い死体と巡り合えそうな、そんな予感がする」
普通の人間が聞けば物騒なことこの上ないセリフを、少女は可憐な笑顔でさらりと口にする。
お燐は火車だ。
人間が厭う腐臭を、必ずしも火車が同じように厭うわけではない。
風が吹く。今までの、生ぬるく、ゆったりとした風とは全く異質の風が、真横から吹き抜ける。再びツインテールが舞う。ワンピースのスカートがはためく。
熱風だ。それも、水を水蒸気に変えるほどの高い熱を持った。
お燐は熱風を一瞬浴びると、反射的にその場から飛びのいた。動物なら皆そうする。しかし、たぎった薬缶を触るのとはわけがちがう。通常の人間や動物ならばたちまち火傷し、悲鳴をあげて転がりまわるだろう。
お燐は平然としている。火傷ひとつない、白いすべすべした頬を人差し指でなぞる。
「これは炎の余波……? それも、自然に発生したものじゃないね。何かの術、か」
顔に満面の笑みを浮かべた。これから出会うモノに思いを馳せた。
「さあ、死体は拾ったげるよ! 待っててね!」
手押し車は、手品のようにお燐の袖の中へ消えた。そして駈け出す。今までの、特に目的もない、ぶらぶらとした歩き方からは想像もつかないほどの速度だった。先程吹き抜けて来た風よりも速かった。
しかも、音を立てない。そよ風ほどの揺らぎもそこに生じない。
キャッツウォーク。
遮蔽物は巧妙に避ける。体は柔らかい。速度を少しも緩めずに、生い茂る竹林の間を縫って、目的地へ向かう。目の前に竹が密集していた。その向こうが、あの熱風が吹いてきた場所だと直感する。
お燐は身をかがめる。体に変化が訪れる。骨格が変わる。四足になる。
一匹の黒猫となる。尻尾は二本ある。ぬるりと、竹の間をかいくぐる。
「ねえねえ、お燐さあ」
その尻尾を、何者かの手がつかんだ。
「ぎゃっ」
猫は悲鳴をあげる。そのまま引き戻される。たちまち少女の姿になる。尻もちをついた状態で、上目遣いで相手を睨みつけた。
黒髪に、白いシャツ、明るいグリーンのスカートの少女が立っている。胸のところに巨大な目玉のようなものがあり、背中に巨大な翼を生やしているところが、普通の少女と違うところと言えば、違うところだった。もっとも、お燐は彼女の姿に見慣れているので、特に何とも思わない。
「何すんのさおくう、せっかくひとがテンション上がっている時に。邪魔するならするっていいなよ」
「あ、ごめんねお燐。びっくりした?」
のんびりした物言いに、お燐は口を尖らせる。
「びっくりはしないよ。あんたがいるのはわかってたから。ただ、そっちが何も声かけてこなかったから、こっちも何も言わなかっただけ」
「ふうん。まあ私も何も言うことがなかったから何も言わなかっただけなんだけど」
「何も用がないなら、放っておいておくれよ。今いいところなんだから」
そう言って立ち上がり、スカートの埃を払って竹林の密集地帯へ分け入っていこうとする。その尻尾をおくうがつかむ。
「だから待ってって」
「もおおおお何だいあんたは。ヒマなのかい? あたいと弾幕ごっこでもやりたいってのかい?」
「そうだなあ、それもおもしろそうね」
「いいよ。そんなのもうやり飽きたから。あっちの方が数倍面白そうだ」
おくうはつかんだままのお燐の尻尾を、ぴこぴこと二度ひっぱる。お燐はおくうの頭をはたく。
「そのことなんだけどね」
おくうはのんびりしたままの口調で、じっとお燐の目を見る。
「死ぬよ。お燐ひとりだと」
「へ? なんだって」
お燐は眉をしかめて、一笑して終わらそうと思った。だができなかった。霊烏路空は物忘れや勘違いや判断ミスはあっても、嘘はつかない。
「だから、ミイラ取りがミイラになる。死体運びが、死体になる。でも心配ないよ。私が一緒にいれば、その可能性はぐっと低くなるから。向こうも同じ能力使うみたいだし」
お燐にはわかる。友人の言っていることが正しいことを。この友人はぼーっとしているようで、事の本質は捉えているのだ。
「なんだいなんだい、あんたまるで何もかもわかっているようなこと言っちゃってさ。この獲物見つけたのはあたいが先だよ? それをあとからやってきて口出しするなんて、図々しいにもほどがあるね」
だから、こんな風にまくしたてながらも、準備は怠りなく整えていた。
「だいたいさ、あんた山の神様だっけか、あのひとに力もらってからいっぺん……」
「あ、お燐、伏せて」
おくうの黒い翼が広がるのと、空から灼熱の鳥が襲いかかってきたのは、ほぼ同時だった。翼と翼がぶつかりあい、周囲の竹が燃え盛る。
「ひ、ひええ……すんごいの降ってきたね」
おくうは両手をかざし、足を踏みしめて、耐えている。熱の余波がお燐にも来る。熱い。さっきの熱風の比ではない。もし直接あの炎を食らったらどうなるか、想像したくもなかった。
おくうの額には汗が浮かんでいる。お燐は、友人のこんな切羽詰まった表情など、滅多に見たことがない。
特に八咫烏の力を得てからというもの、ここまで追い詰められたのは、地上から来た連中と戦った時ぐらいだった。黒白の魔法使いも人間にしては異常な強さを誇っていたが、それ以上に、紅白の巫女と、それにくっついている奇妙な珠が展開する弾幕の強さは、尋常ではなかった。弾幕とは違うのかもしれない。あの珠に、おくうの火は、悉く呑みこまれていった。力を吸収する相手と対峙したのは、お燐もおくうも初めてではない。たいてい相手の容量がキャパシティ負けするのだが、あの巫女の珠だけは違った。あとで巫女に聞いたところ、あれは〈結界〉というものらしかった。
あの時もおくうは切羽詰まった表情をした。それは己の太陽の力が暖簾に腕押しするがごとく手応えがなかったためだ。だが今回は違う。純粋な力と力、炎と炎だ。
「お燐、ちょっと思い切りやるからどっか行ってて!」
「了解!」
おくうが空けたわずかな炎の隙間から、黒猫となって抜け出す。
「ええい!」
光球がおくうの周囲十六方向へ、数珠状に飛び散る。おくうの周囲は光と熱で溢れた。灼熱の翼は吹き払われた。
「か、勝ったねっ、さすがおくう!」
「ふう……あ、まだだ」
一息ついたおくうが夜空を見上げると、今度は灼熱の鳥が降ってきたのとは逆方向から、五色に輝く光線が襲いかかってきた。
「おくう!」
「駄目、パワー切れ……」
光線がいくつも突き刺さる。
おくうの目の前で、何匹もの半透明の妖精が、光線に貫かれる。そのおかげで、おくうに届く前に光線は力を失った。
お燐のゾンビフェアリーだ。お燐の意図を察したおくうはすぐにその場から離れる。直後、光線に貫かれた妖精が次々に爆裂した。大量の白弾が散る。
まるで霧がかかったように視界が利かなくなる。お燐以外は。
「おくう、いったん距離取るよ!」
黒猫のお燐がおくうの横を駆け抜ける。続いておくうも烏となり、低空で黒猫のあとを追いかける。白弾の煙幕でおくうの視界は利かないが、お燐の慣れ親しんだ匂いを追いかけていけばいい。
「もう大丈夫かな」
お燐は黒猫のまま空に浮かび上がる。烏もあとに続く。
自分たちが逃げてきた方向を見て、ふたりは同時にため息をついた。
「へえ……」
「こりゃ、すごいね……」
まるで花火だった。
火の鳥が宙を飛びまわり、色鮮やかな光球とレーザーがその間を縫っている。どうやら、あの炎とレーザーはお燐たちを狙ったものではなく、たまたま流れ弾が飛んできただけのようだった。
「地上じゃ、こんなことが日常茶飯事で行なわれているんだねえ。いいね、ますます気に入ったよ、あたいは」
お燐は腰に手を当てて、興奮に目を輝かせた。おくうはあくびした。
「じゃ、私は帰るね」
「え、もう帰るの?」
「うん、なんか今ので疲れた」
「なんだつまらないね。見ていかないのかい、この弾幕」
「興味ないから」
おくうは帰っていった。神社から地底に戻るのだろう。お燐は、美しい弾幕のやり取りを終わるまで見ていた。どんな強い死体が出来上がるのか、楽しみでしかたなかった。
空が白んでくる頃、竹林は静かになった。
闇に包まれていた竹林は朝日に照らされ、その惨状を露呈する。
一帯の竹林は、焼け焦げた匂いを放っていた。というより、そこはもはや竹林とは言えなかった。ただの焼け跡だった。
足下まで届く長い黒髪を持った少女は、ひょこひょことおぼつかない足取りで、焼けた竹林を歩いている。桃色の上着と、地面まで届くスカートも、元は立派な装飾の施された美しいものであると想像はつくが、今は所々焦げたり、破れたり、血糊がついていたりして、見る影もない。
まだ無事な方の竹林から手押し車を押してやってきたお燐は、少女と目があった。少女の目には隈ができていた。徹夜で寝不足なのだろう。お燐より先に、少女が口を開く。
「あら、お嬢さん、こんなところに何か用かしら?」
お嬢さん、と言うほどに、ふたりの外見に年齢的な差があるわけではなかった。だがお燐は反論せず、にっこり笑ってうなずく。この黒髪の着物の少女が、あの弾幕を繰り広げていた片側であることを確信していた。
「そうだよ、あたいは死体を運ぶのが仕事の妖怪猫さ」
「ふうん、火車ね、久しぶりに見るわ」
「あれ、お姉さん、知っているの?」
黒髪の少女は、微笑した。深い笑みだった。お燐はそこから少女の何かをつかみとれたわけではなかった。ただ、自分の想像もつかないほどの年月が、そこに刻まれていることだけは、辛うじて理解できた。
「そんなに詳しくはないけれどね。何度か見た、という程度よ。あなたたち、変な趣味してるわね。欲しいものなら、もうちょっと先、このはた迷惑な火事の爆心地に転がっているわ」
す、と腕をあげて指を差す。その優雅な仕草に、お燐はため息が出た。反対の腕を見ると、そこは無残に焼け焦げていた。このひとでもいいな、とお燐は自分の気持ちが揺らぐのを感じた。
「あら、私を運んでいくつもりかしら火車さん。車に乗る習慣は、もうずっと昔になくしてしまったの。久しぶりに乗ってみたくもあるわね」
「本当かい」
お燐は目を輝かせ、黒髪の少女に手を伸ばす。
その瞬間だ。
上空から一本の矢が落ち、お燐と少女の間に突き立つ。
「っつ……!」
お燐の人差し指の、ちょうど爪の部分が吹っ飛んでいた。さらに、見下ろすまでもなく、矢が自分の親指を押しつぶしていることがわかる。
的確過ぎる狙いだった。その気になれば、お燐の眉間だろうと喉だろうと心臓だろうと、思ったところに矢を命中させることができるだろう。黒髪の少女が何かしたようには見えなかった。
「ふふふ、あなたも、私のブリリアントドラゴンバレッタを破れるくらいだから大した腕前だとは思うけれど、謙虚な気持ちを常に持っておくことは大事ね」
また、計り知れない笑みを浮かべると、少女は宙に浮き上がり、さらに竹林の奥深くへ去っていった。もうひとり、それについていくのがわかる。わかるが、姿形までは見えない。何かしらの方法を使って、まわりから見えないようにしている。それはわかる。だがどんな方法かさっぱりわからない。
黒髪の少女ともうひとつの得体の知れない存在をひとまず忘れ、お燐は少女が指差した方へ車を押していった。
「まあ、あのキラキラしたレーザーはあたいの好みじゃないねえ。名前も長ったらしいし。どっちかっていうと、あの熱い風、おくうをあそこまで手こずらせた炎の使い手の方が、あたいはいいな。こっちが死体みたいで、運が良かったかな」
次第に辺りは竹林の原形をほとんどとどめなくなってきた。炭ばかり転がっている。
「あ」
いた。喉と腹にぱっくりと大きな傷をつけている少女が。喉から出たと思しき血は、地面にしみ込んでいる。腹からは臓物が飛び出て、悪臭を放っていた。お燐はその生臭いにおいを嗅ぐ。馥郁たる香り、とはさすがにお燐も思わないが、自分の一番野性的な部分、奥に潜むどす黒い部分を柔らかく刺激される気がする。
野性に身を委ねて己の快楽を欲しいままにする時期は、とっくに過ぎた。牙が折れ、爪が折れてから、お燐の術の習得は始まった。そうして、自分の本能と上手に付き合うすべを覚えた。今でも時々、野性にどっぷりつかってみたいと思うことがある。地上からやってきた巫女と魔法使いに対して、その欲望が芽生えもした。だが、臨界点に達するまでにはいかなかった。あの地上人との戦いは、元々、暴走しつつあるおくうを止めることが目的だったため、自分自身に冷静になるよう常に言い聞かせていたというのもある。それがなければ、ひょっとすると暴走していたのは自分かもしれないという、秘かな思いもあった。
その少女は、白髪だった。頭に赤で縁取られた白のリボンをつけている。白いシャツに、赤い長ズボン。ズボンは赤いサスペンダーでつっていた。今はサスペンダーの片側が千切れている。左胸に拳大の穴が空いているから、そこを空けられた時に一緒に千切れたのだろう。
顔は血の気がなく、青ざめていた。まるであらかじめこうなることがわかっていたかのように、潔く、目も口も閉じられている。
お燐は、その完璧な死体ぶりに、目を奪われた。
手押し車の布を広げる。駆け寄り、白髪の少女を両腕で抱え、布の上に乗せ、広げた分の布をかぶせて丁寧にくるむ。
作業の間、指先が小さく震えていた。
「すごい、すごいよ……」
我知らず、言葉が口からもれていた。
博麗神社では、縁側で巫女が茶を飲んでいた。車を押しながら空を飛んできたお燐は、巫女の前で着地した。
「じゃーん。見て見て」
「階段くらい使いなさいよ。人が見たらびっくりするじゃないの」
お燐が胸を張って車を指差すが、巫女はそちらには一瞥を与えただけで、また茶を啜る。
「ほら、すっごいいい死体手に入れたんだよ」
「仕事に精が出るわね」
「お姉さんも早起きしてお茶を飲むなんて、よっぽど怠けたいんだね」
「怠けたいなら寝てるわよ。朝のお勤めのあとの一服よ。適度な休息は、勤労意欲を保つためにも重要なことなの」
「違う違う。ちゃんと起きてないと、怠けてるって実感できないんでしょ? 寝てる時は、寝てるってことをしてるわけだから」
巫女は眉をしかめる。
「そうかもしれないわね」
また、茶を啜る。
「お姉さん、見てよ、これ」
「あーはいはい、見てる見てる」
「嘘。絶対見てない」
「私は色々と忙しいの。私の名前知っている?」
「うん知ってるよ。……えーとね」
「博麗霊夢。私は博麗神社の巫女なの。仕事があるの。ひとりにしておいて」
「はーい」
がらがらと車を押し、神社の裏に行く。裏道から三分ほど歩けば間欠泉が湧いているところにつく。霊夢の他にも何人かがそれぞれの思惑で温泉を作ろうと目論んでおり、作り始めの小屋や看板などが見受けられるが、まだ肝心の温泉はできあがっていない。
熱湯が溢れ出、蒸気が噴き出している。それを横目で見ながら、洞窟に入っていく。通い慣れた道だ。
地霊殿へは急げば三十分もかからない。ゆっくり行っても一時間あればつく。ただし地底に疎ければ百年経ってもつけない。
途中、旧地獄街道で一杯ひっかけていくことも考えた。鬼がいれば盛り上がるだろう。だが盛り上がり過ぎて半日以上引き留められてしまう危険性もある。すると、死体の腐臭は一段と強くなるだろう。お燐は腐臭をほとんど気にしない。自分の野性が刺激されることさえ自覚しておけば、あらかじめ冷静さを保つことはたやすいからだ。嫌なのは、鬼や他の連中から白い目で見られることだった。
まっすぐ地霊殿に行くことにした。
「ただいまー、さとり様」
扉を開け、人気のない広々としたロビーに入る。姿は見えないが、主人の古明地さとりのことだから館内に自分が入ったことは把握しているだろう。そのまま地下室へ向かった。
地霊殿の地下には、お燐の部屋がある。お燐が運ぶ死体は最終的に霊烏路空の火炎地獄跡に持っていくのだが、その前に死体から魂を抜いたり、死体を加工したりする時には、ここの地下室が使われることが多い。一応火焔猫燐個人の部屋ということになっているが、古明地こいしもしょっちゅう利用しているので、ふたりの共有部屋と言った方が正しい。もしくは、共有の死体安置所。
部屋の分厚い鉄の扉を開けると、独特な匂いがむわりとお燐を包み込む。錆臭さや生臭さだ。お燐は昂る気持ちを、深呼吸をして落ち着かせる。意識して冷静さを保たないと、これからする作業は捗らない。
効率を度外視して、気ままに作業をして時を忘れることも嫌いではないが、今日怠けた分は明日返ってくることを、経験上お燐は知っている。
無機質な石造りの四角い部屋だ。その真ん中に台が据えられている。手押し車に乗せた少女を、布にくるんだまま移す。手つきは慎重だ。
布を広げ、白髪の少女の姿が露になる。シャツのボタンをはずし、脱がせようとする。体に引っかかると、無理に死体を動かしたりはせず、爪を伸ばし、手慣れた動作で衣服を切り裂き、脱がせていく。
白髪の少女は一糸まとわぬ姿になった。喉と腹の切れ目と、左胸の穴が余計に引き立つ。傷口の鋭さはあまりに美しかった。傷口の向こうは骨や臓物でなく、暗闇が満ちているように感じる。あの黒髪の少女の光線にやられたのだろうか、とお燐は想像する。お燐とおくうが受けたあの凄まじい攻撃が、ふたりの戦いの単なる余波だとしたら、このふたりの間ではどれほど激しい攻撃が交わされたのだろうか、想像すると、興奮で背筋が震える。
壁際の浴槽に近づいた。浴槽には水が張っている。棚に並んだ瓶のひとつをとり、中の粉を溶かしこむ。透明な水が白く染まった。
服が濡れないよう、お燐はワンピースを脱ぐ。下にもう一枚あるワンピースも脱ぎ、黒いペチコート姿になる。それから少女の体を抱え、浴槽に浸す。棚の手ぬぐいを取り、少女の体を洗っていく。
地下室は冷えており、お燐の吐く息は白い。
少女の口からも、白い息がもれる。
「え?」
お燐は最初、見間違いかと思った。心臓の停止は確認している。
また、白い息が少女の口のまわりを漂う。
少女の目が開く。
「え、え、なんで」
お燐は混乱する。
少女はまず、お燐の顔を見、ペチコートを見、さらに視線を自分の体に戻す。さらにまわりを見回す。
冷え込んだ安置所の室温が、心なしか上昇したように、お燐は感じた。
少女は再びお燐を見る。その赤い目に、炎がちらついている。
「あんた……何者?」
少女は尋ねる。その凛々しい口調に、お燐はくらりと来て、思った通りのことを言った。
「あたい、お燐って言うんだ。死体を運ぶのが仕事。お姉さん、とってもいい死体だったのに、生き返って残念だよ。よかったらさ、よかったらでいいから、もう一回死んでくれないかなーなんて」
「凱風快晴……」
室温が急激に上昇する。
「え? ちょ、何。お姉さん、やる気出しちゃって。あたいは何もお姉さんに変なことしようとか、痛い目に合わせようとかそういうんじゃないよ。ただね、お姉さんに死体になってもらって、それから色々飾り付けしたりして」
「フジヤマヴォルケイノ!」
とっさにその場から飛びのき、ありったけの怨霊を呼び集める。
室内で火山が爆発した。
お燐はそう感じた。石壁に激しく体をぶつけ、倒れる。ペチコートはところどころ焼け焦げて、肌が露出している。
浴槽の水はすっかり干上がり、石壁は所々焼け崩れていた。そこに、白のシャツと赤のズボンを身にまとった少女がいた。白髪は、炎のようにめらめらと逆立っている。炎が、少女のまわりで猛っている。
「あいたたた……あれ? 服が。それに首や胸の傷も」
「私は不死身なの」
少女は笑っている。目は笑っていない。
「まったく、悪夢の後に目覚めてみれば、こんな薄暗い地の果てみたいなところで服を引っ剥がされてイタズラされているとはね」
「ご、ごめんよお姉さん、そんなに怒るとは思わなかったんだ。嫌だった? それだったらもうやめるよ」
「嫌も何も……」
少女は手を伸ばし、お燐の首をつかんで吊り上げる。抵抗できない。今の一撃で、体が痺れてしまったように動かない。回復には少し時間がかかる。喉はカラカラに乾いていた。
ケタ外れの威力だ。
少女の手に、炎が集まっていく。
「あんたいい加減にしなよ」
その炎が、今まさに爆裂しようとした時だった。炎は急速に弱まり、少女の目は虚ろになり、そのまま人形の糸が切れたように倒れた。
「ふう……」
お燐は首にできた手のひら型の火傷跡をさすりながら、その場に座り込んだ。鉄の扉が開く。帽子をかぶり、ベージュ色の上着を羽織った少女が現れる。
「お燐」
「ああ、こいしちゃん、いたんだね。気づかなかったよ」
「そりゃ今来たからよ。それにしても、いったいどうなっちゃってんのこの部屋。なんか凄い音が聞こえたから来たんだけど。大丈夫?」
「うん。なんとか死体にならずに済んだよ」
「あら残念。死体のお燐は素敵そうだけど。そっちの死体は?」
「運んでいる途中で怨霊漬けにしていたの。その効果がようやく出たってところ。もしそれをしていなかったら、ちょいとばかし、いや、かなーり危なかったよ」
「ふーん。弄っていい?」
「駄目」
「どうしてよ」
「このお姉さん、凄く嫌がっていた」
「お燐。死人に口なしよ」
「この死人には口があるの」
車に乗せる。
「口が利ける死人はあたいの守備範囲外だよ。元の場所に戻してくる」
「へえ、感心感心」
まったく感心していなさそうな口調でこいしが相槌を打つ。
「ま、その前にちょっと休まないとね。お姉さんからきつーい一発もらったせいで、今にも倒れそうだよ。それにこんな恰好じゃ恥ずかしくて外を歩けたもんじゃない」
「休憩がてら、お茶しよう、お燐」
「そうだねえ」
応えながら、石壁の崩れた中からワンピースをひっぱりだす。それは勢いよく燃えていた。
「やっぱり駄目か。着替え取りに行ってくるよ。お茶はこいしちゃんの部屋で、だね」
「着替えって、お姉ちゃんのところ?」
焼け崩れた部屋から去ろうとするお燐の背中に、こいしは呼びかける。お燐が振り向くと、こいしは意味深な笑みを浮かべていた。
「当たり前じゃないか」
「そう。当たり前ね。そうしたら、私がお姉ちゃんの部屋から着替え取ってきてあげるから、私の部屋で着替えなよ。私の目の前で」
「な、何言ってるんだい」
お燐はうろたえる。こいしはその様子を楽しんでいる。
「だってお姉ちゃんの前なら平気で着替えるんでしょ?」
「そりゃ、さとりさまは私の飼い主だから」
「私は?」
「こいしちゃんは友達」
「飼い主の妹なのにね」
「それとこれとは別だよ。あのね、今度は相当怨霊漬けにしておくから、なかなかお姉さん起きないだろうけど、それでもあんまり待たせてたらまた生き返っちまうよ」
「はいはい、余計なこと言って時間とらせたりしないから、とっとと着替えておいで」
死体が腐る心配もなくなったので、旧地獄街道で一杯ひっかけていくことにした。
少女は今、生死の境をさまよっていた。どちらかというと生側にいるのだが、暴れられると困るので、お燐が怨霊を大量に注入して、蘇生を遅らせている。もっともそれも一時的な措置で、地上につく頃にはどうやっても生き返ってしまうだろう。
旧地獄街道は大通りの両脇に飲み屋や宿屋、賭博場などが所狭しと立ち並び、朝から晩までほとんどひと通りが絶えない。
お燐が街道に差しかかった時、大通りにはひとだかりができていた。ただでさえ混雑するところで、さらにひとの流れが止まっているものだから、なかなか先へ進めなくなってしまった。
花火と喧嘩が大好きな街道の住人達は、事あるごとに集まっては騒ぎ出す。この日も何か彼らの血を騒がす祭りが行なわれているのだろうと、お燐は考える。不意に凄まじい轟音が響き渡る。人々のざわめきが続き、さらにメキメキと柱が折れ、建物が崩れる音がした。
どっちみち、飲み屋に寄るにしろ地上へ行くにしろ、大通りを通らねばならない。お燐はひとだかりに近づく。中に、知った顔がいた。黒帽子に、茶色の服を着ており、全体的にもこもこしたシルエットになっている。
「ヤマメの姐さん」
「おや、お燐ちゃんじゃないの。どうしたどうした」
黒谷ヤマメは振り向き、気さくに手をあげた。
「ちょっとこれから地上に出なきゃいけなくてね。ヤボ用で。それよりか姐さん、いったい何が起こっているのさ」
「それがね、地上からまた人間がやってきたみたいなんだよ」
「また?」
「そう。しかも前と違って、始めっから鼻息荒いのよ。モコーを返せモコーを返せって、うるさいんだから嫌になるわ」
「モコー?」
お燐が聞き返すが、ヤマメは首を傾げるだけでそれには答えない。
「で、今は誰が」
「星熊の姐御」
その名を聞き、一瞬お燐の顔が引きつる。ヤマメはそれに気づいたようだったが、特に何も言わなかった。内心ヤマメに感謝しつつ、お燐は話の流れを進めていく。
「あちゃあ、それじゃ勝負も何もあったもんじゃないね」
「いや、そうでもないんだよ。地上人がね、頭から牛みたいに角生やして、姐御を吹っ飛ばしたんだよ」
ヤマメが指差した方には、ブラウスの上に緑のワンピースを着た少女がいた。頭には猛々しい二本の角が生えており、その左側にはリボンが結わえてある。
「勇儀の姐さんを? へえ、そりゃすごいねえ。で、姐さんは伸びてるの?」
「今、あそこに」
崩れた壁や折れた柱、砕けた瓦が堆く積もったところに、一本の腕が生えていた。そこに赤い盃が落ちてくる。上に向けた手のひらに、盃はぴたりと収まった。周囲から歓声が上がる。
「よっこらせと」
歓声に応えるようにもう一本の腕が、残骸を吹き飛ばした。
額に生えた一本の角、機動性に長けた白の綿製のシャツ、番傘のような柄のスカートの少女が姿を現す。
地底の鬼、星熊勇儀だ。
「オヤジ、すまないね、明日三丁目の大工を訪ねな。星熊の名前を出せば、すぐに建て直してもらえるから」
「いいってことよ、目の前でいい喧嘩見せてもらってるからな。見物料さ。ちと高えが」
倒壊した建物の主人らしき馬頭は、笑って言った。
「そうはいくかい。明日三丁目に来なかったら引きずってでも連れていくよ」
盃の口をつけ、くいっとあおる。そして角の少女を見る。
「ふふん、楽しいね、あんた。もしこの盃の酒が半分近く減っていなかったら、ひょっとするとこぼしていたかもしれない」
「おやまあ、吹っ飛ばされる寸前に盃を上に投げてたんだねえ。相変わらず酔狂なひとだ」
ヤマメはしきりと感心している。
勇儀とは対照的に、角を生やした少女の顔に余裕はない。
「いいから妹紅の居場所をさっさと吐くんだ。さもなければ、妖怪との密約があろうと、そんなことはどうでもいい。お前の命の保証はしない」
「へえ、約束のことまで知っているんだ。そんなに年食っているようにも見えないけど。言っとくけど、別に秘密にしてるわけじゃないよ。上白沢慧音、と言ったね、さっきも言った通りさ、私に勝ったら教えてやるよ」
「わかったよ、お前に何を聞いても無駄だということが」
勇儀の背後から弾幕の弧が現れ、襲いかかる。勇儀は振り返りもせず、跳躍してかわす。
「転生・一条戻り橋」
弧はひとつではない。十にも二十にも、折り重なり、混じり、勇儀を飲みこもうとする。何十番目かの弧をよけそこない、左足首から血が吹き出す。体勢が崩れたところへ、さらに右肩が切られる。
「ははッ! 強いね、行くよ!」
勇儀は盃を離さない。
「ひい!」
一歩、踏み出す。そのたった一瞬で、弧の弾幕を抜き去り、慧音との距離を詰める。既に拳が届く間合いだ。そこへ、図ったように赤い大弾が正面から勇儀に襲いかかる。よけようがない。
「ふう!」
さらに踏み出す。真正面から大弾を受け、弾き飛ばす。だがさすがに勢いが弱まる。そこへ狙い澄ました角の一撃がくる。
「みい!」
角が勇儀を串刺しにするよりも、えぐるようなボディブローが慧音に刺さる方が速かった。慧音の背後には大弾弾幕が大量に展開されている。そこへ慧音は吹っ飛ばされていった。
「三歩必殺……とくらぁ!」
爆裂に次ぐ爆裂。見物人たちは突風に思わず身を縮める。
「ひゃあ、相変わらず派手だねえ、姐御は。こないだの地上人が相当なやり手だったもんだから、手加減の仕方忘れちゃってんじゃないの?」
ヤマメも帽子が飛ばないよう手で押さえ、身を低くしていた。お燐はその場に突っ立ったまま、突風をものともせず、呆然と勇儀を見ていた。
「やっぱり鬼は、強いねえ……でも」
手押し車の布にくるまっている白髪の少女を見下ろす。
「このお姉さんと、どっちが強いだろう」
白髪の少女は、既に怨霊漬けにしている。生きている時は無理だが、完全に死ねば操ることができる。そうすれば、あの鬼とも素敵な弾幕ごっこができるのではないかと、強い誘惑に駆られる。
弾幕の爆裂が収まった後、ボロボロになった少女は、頭を押さえながら起き上がる。角は引っ込み、服は緑から青に変わっていた。
「くっ、さすがに地下では満月の効果もここまでが限度か」
「勝負ありだね。でもなかなか楽しめた。私も協力するよ、あんたの探している……」
「ああああああーーーーーーっっっ!!!」
突如、慧音の辺り憚ることのない叫び声が街道中に響き渡った。今までの冷静さは完全に崩壊していた。お燐の方を指差す。
「も、も、も、も、妹紅おおおおお!!」
青白いレーザーが交差しながらお燐に向かってくる。その鋭さは、鬼の勇儀と戦った後の体に、まだそんな力が残っているのかとお燐が呆れるほどだった。
「終符・幻想天皇!」
「わ、ちょ、何さいきなり」
お燐は戸惑っていたが、慌ててはいなかった。見境なく撃っているようにみえるレーザーは、実のところお燐の周囲の見物人に当たらないよう、相当な配慮がなされていた。
「こんな気遣わなくたって、街道の見物に慣れている奴らなら弾幕の避け方ぐらい知ってるんだけどねえ」
お燐は気分が乗らなかった。今の気分は、殺伐としたものからはほど遠かった。
「あんた、優しいんだね」
しかし、車に乗せた少女だけは死守した。やがてレーザーはやんだ。
「私は上白沢慧音。火車よ、私と話し合う気はないか」
「ん、いいよ」
お燐は飛び回るのをやめて、車を押して慧音に近づく。
「お前が今車に乗せているのは藤原妹紅と言って、私の大切な友達だ。返してくれ」
「ん、いいよ」
「そうか、良かった。なら私が抱えていこう」
慧音は布を広げて、妹紅と呼ばれた白髪の少女を抱きかかえる。お燐は邪魔をしなかった。
「この子は死なないんだ。多分、死んだところを見て、間違えて連れてきたんだろう? 火車は本能的にそういう習性を持つからな。だが、この子は、死なないんだ」
「その代わり、あたいも連れていって」
「何?」
慧音は、話のつながりが見えないようだった。お燐はにっこりと微笑む。無垢な笑顔だ。無垢なままに、己の欲望を叶えようとする笑顔だ。
「あたい、このお姉さん気に入っちゃった。傍でずっと見ていたい。駄目って言ったら駄目だよ。もう怨霊漬けにしちゃったから、あたいが傍にいて調節してあげないと、このお姉さん、きっと寝覚め良くないと思うな」
慧音が目を細め、冷たい眼差しを向けてくるのがわかったが、お燐は気にしなかった。
藤原妹紅の家は、竹林の奥深いところにぽつんと建っている。寝間と囲炉裏と物置と土間で構成されている。質素なのは間違いないが、決して粗末な造りではない。多少の地震や台風には耐えきれるし、見た目よりも寒さ暑さに強い造りになっている。
「おはよう、お姉さん」
妹紅が頭をぽりぽりとかきながら寝間から出ると、エプロンをつけたお燐が火を焚いて鍋で何か料理を作っていた。
「あんた……まだいたの」
「またそんなこと言う。もうすぐ一週間も経つんだよ。いい加減慣れようよ」
「毎朝物音がするから、こんな早くに起きる羽目になる」
「早起きは三文の徳だよ」
「得になるようなことは何もないよ。眠いだけ」
「お姉さんってさ、さぼるときは思い切りさぼるよね。普段忙しそうにしているのに」
「さぼってるんじゃなくて、ゆっくりしてるの。忙しいんじゃなくて、義理を果たしてるだけ」
「義理って、人間の道案内のことだよね? みんなに頼られて、慕われて、お姉さん人気者だね」
「なんだ、あんた一日中私をつけて回っているの」
「当たり前だよ」
「時々黒猫がちらちらしているとは思ってたけど。ずっといたの? あんた気配隠すのうまいね」
「お姉さんはあまり得意ではないね」
「うるさいな。ところであんた、いったい何がしたいの」
「ん?」
おたまで汁をすくい、舌で舐める。ひとりでうなずき、碗に入れて、妹紅に差し出す。妹紅はあぐらをかいて碗を受け取り、汁を啜る。塩味の鋭い、熱々の味噌汁だった。
「うまい。あんたやっぱり料理上手だね」
真顔でほめる。
「えへへ、ありがとう」
「どうせ猫舌だからぬるいものしか出さないと、はじめは思ってた」
「ふふん。古い迷信だね」
「慧音が、あんたのことをずいぶん警戒している」
真顔のまま、さらりと言う。
「私の死肉にたかる、ハイエナだ、って」
「猫だよ。火車」
「ハイエナってなんだろう。蠅の一種かな。ま、それはいいんだけど」
「あたいはね、お姉さんの死体が欲しいんだ。とっても素敵だった」
「ふん。私は死んでもどうせ生き返るよ」
そう言って味噌汁を飲み干して、空の碗を差し出す。お燐はそれにご飯を盛る。
「汁ももう一杯」
言われた通り、ご飯に汁をかける。妹紅はそれをひったくるようにして手元に持ってくると、凄まじい勢いでかきこむ。
「よほどお腹空いていたのね」
かきこみながら、妹紅は無言でうなずく。
「たんと食べてね。あたいの作った手料理だから」
妹紅の返事は期待しない。妹紅がかきこんでいる間、薪を取って火加減を調節する。前に失敗して煮込み過ぎて、特濃味噌汁ができたことがある。あの塩辛さは、筆舌に尽くしがたいものがあった。
「猫まんま好きなの、お姉さん」
ずるずる、と汁かけ飯をかきこむ妹紅は、一度箸の動きを止めた。
「好きだよ。胃が病気でやられた時も、歯が折れたり口内が腫れたりで咀嚼ができない時も、これなら食べられる。それで何となく安心できる食べ物って印象ができて以来、好物。あんたは?」
「あたいは、そうだねえ」
お燐の答えには興味がないのか、妹紅はまた汁かけ飯を啜り出す。
「あたいは、うーん、どっちでもないかなあ」
「次の、満月」
空になった碗を差し出す。
「ずっと私についているといい。あんたの言う、素敵な死体が拝めるよ。今のところどっちのかはわからないけど」
お燐は汁をつぎ足す。あの夜が再現されるのだ。胸が高鳴る。
夜半、お燐は妹紅の寝顔を見ている。妹紅の中に染み込ませた怨霊の具合を確かめる。悪くはない。自分の手足ほどではないが、それに近い感覚で動かすことができる。次に妹紅が死んだ時、どんな操り人形ができあがるのか、期待で胸が膨らむ。
怨霊は恨みを持った霊だ。怨霊歴が長ければ長いほど、恨みの力は大きくなるが、その恨みの元となった記憶は薄れていく。誰かが憎いだとか、過去の行為を悔やむだとかの具体的な事物から離れて、ただ憎しみ、恨むだけの存在となる。感情の強度だけが強まる。憎む対象、悔やむ対象が消えてしまうと、恨みがもたらす苦痛すらなくなってしまう。最終的に怨霊は、純粋な、強い精神の塊となる。もっとも、実際はそこに達する前に、生き物や道具に乗り移って怨霊とは別の存在になったり、もっと強い精神存在に食われたりする。本当に長い間怨霊をやっていられる者は、少ない。
お燐は、妹紅を怨霊漬けにする際、そんな優秀な怨霊ばかりを選りすぐった。かなりしんどい作業ではあったが、妹紅に魅かれたお燐にとっては、苦しくも何ともなく、むしろ悦びだった。
「どうして、そんな窓辺でじっと立っているんだい? 外は寒いだろうに」
お燐は妹紅の枕元で、うつぶせになって両手を重ね、手の甲に顎を置いている。
「用があるなら入ってきたらどう?」
「お前の顔を見たら、何をするか自分でわからんからな」
窓の外から応答がある。
「妹紅お姉さんの顔を見たら、の言い間違いじゃなくて?」
「どういう意味だ」
「あなた、お姉さんのこと好きでしょ」
「な、何を……」
「あたいもお姉さんのこと好きだよ。綺麗だもんね。強いし。かっこいいし」
「何を、お前と、一緒に……」
怒気が、壁越しに伝わってくる。
「慧音さんもね、死んだらいい怨霊になるよ」
「私はお前と戯言を交わしにきたんじゃない。言っておくことがあったから、ここにいる。それが終わったらすぐに帰る」
「じゃあさっさと言ってよ」
「私は今はお前を始末しない。なぜか、妹紅はお前を気に入っている」
「昔猫でも飼っていたのかな。わかんない。で、慧音さんは、お姉さんが私を気に入っているっていうことを認めるために、わざわざ来たの?」
「〈今は〉、始末しない、ということだ。妹紅の死体にお前が手を出すなら、容赦はしない。下賤な火車に、妹紅を穢させるものか」
「他のひとに触られたくないだけでしょ?」
「次が満月なら、私は本気を出す」
「そうだね。今の慧音さんじゃ、多分私に勝てない。角が生えたらどうかな? 星熊と……星熊の姐御とやってた時は、かなりのもんだったからね。あたいとしたらどうなるんだろう。ああ、気になるねえ。考えてたらワクワクしてきたよ」
しばし、沈黙があった。空気の流れで、慧音が、長いため息をついたことが、お燐にはわかる。
「お前は、自分の好奇心のままにしか行動しないのだな。それでまわりがどうなるか、考えもしないのだな」
「そうだねえ」
「お前を仲間と認める者などいないのではないか。ひととひとが信頼関係で結びつくということを、理解できないんじゃないか。仲間という概念がないのならそれも仕方ないが」
「おい」
お燐は、我知らず声を低めていた。
「訂正しろ」
慧音を嘲笑うような余裕はなくなっていた。
「何を?」
逆に慧音が余裕を取り戻す。
「私に仲間がいない、ということ。私を仲間にしようとする者が存在しないということ」
それは、お燐の仲間を、霊烏路空の存在を否定するのと同義だった。そしてまた、お燐の主人、古明地さとりの存在を。
答えはない。風が吹く。空気の流れが、窓際に誰もいないことをお燐に教える。お燐は歯を食いしばる。妹紅にとりついている怨霊が、お燐の心臓の鼓動に合わせて妖しく光る。
空に十五夜が輝いている。
お燐は夢を見ていた。自分がまだ完全に人化するすべを持たなかった頃の夢だ。迅速な動きで相手を撹乱し、獰猛に襲いかかり、血肉を裂き、食らう。
敵が強ければ強いほど、食っている間は至福であり、食い終わった後は空しかった。そのうち、殺した相手をなるべく綺麗な形のままにしておくよう、努力するようになった。無闇に四肢を引き裂いたりせず、的確に喉や胸を抉る。敵が強く、こちらが生命の危機に瀕しても、焦らず、機会を窺う。
当時の火焔猫燐は自覚していなかったが、この考えが、彼女の強さをさらなる高みへ上げることになった。
自在に人化できるようになり、お燐がもっとも嬉しかったことは、想起するという行為が以前より格段にしやすくなったことだった。旧地獄と言う場所柄、怨霊ともよく話した。中にはかつて食らった敵の怨霊もいた。裏表のないさっぱりした性格であるお燐は、命のやり取りをした怨霊とも屈託なく親交を結んだ。
まだ八咫烏を飲み込む前の霊烏路空が、しばしば心配そうな目で怨霊と戯れるお燐を見ることもあったが、お燐は気づかないふりをした。おくうは、自分自身がのめり込みやすい性格のくせして、友人に対してはひどくおせっかい焼きなのだ。
怨霊を飼い馴らし、操ることを覚えた。操ると、怨霊は、元の力よりもひとまわり大きな力を出せた。それもお燐の悦びだった。さらに次の理想を目指した。自分の気に入った相手の死体を、完全な状態で、いつも傍にいるよう操り続けるのだ。一時的にではない。いつまでも、だ。この理想にはまだ到達したことがない。
先日おくうを叩きのめした地上人をそうしようともしたが、失敗した。
だが今度こそは、と思う。
「おい、起きろ」
肩を揺り動かされる。
「今度こそは」
「ん、何を寝言言ってるんだ」
お燐が目を開けると、立って自分を見下ろしている妹紅の顔が見え、その後ろに、窓から十五夜が覗いていた。
「夕方ぐらいからうとうとし出したのは見ていたけれど。変な時間に寝るものなんだな、猫って」
「なんだか疲れちゃってね。それに、ちょうどいい気分だったのさ。お姉さんも、気分よさそうだね」
「私か? 私は、これから気分がよくなるのさ。ついておいで」
妹紅は月明かりに照らされた竹林の道を歩いていく。その一歩後ろからお燐はついていく。
「いい天気だ。こんな夜は月見に限る」
「どこに行くんだい、お姉さん。やっぱり、あの黒髪の女のところ?」
「お月見には、それなりの豪華な料理と屋敷がないと」
お燐は、妹紅と長い間歩いた気がした。実際に何分何秒だったかは、わからない。そもそもお燐にそういう時間の感覚はない。ただ、妹紅と一緒に月の下の竹林を歩けて、のんびりと幸福な思いを満喫していた。気づいた時には、妹紅の足は止まっていた。
竹林の向こうに、和風の建物が見える。
「ここが、永遠亭。あの女の根城よ」
妹紅が竹に手をかけて、軽く腕を横に振ると、目の前の竹の茂みが一瞬で炎に包まれ、吹き払われ、その先に永遠亭の庭が広がった。
縁側には、台に月見団子を乗せて、黒髪の少女が涼んでいる。傍らには、兎耳が縦に伸びた少女が座っている。また、反対側には、青と赤で中心から色分けされている服を着ている少女がいる。そちらの少女を見た瞬間、お燐は体が固まった。
確信する。あの矢の持ち主が彼女であることを。あの矢は、星熊勇儀でもしのぎきれないかもしれない。
「あッ……」
兎耳の方が、立ち上がって、妹紅を指差した。その表情には恐れがある。赤と青服の少女も声につられてお燐と妹紅の方を見るが、特に表情に動きはない。
「お前、こんなところにまで!」
兎耳の少女は、右手の親指と人差し指を伸ばし、左手で右手首をつかみ、銃口を向けるようにして妹紅に狙いをつける。
「待ちなさいウドンゲ」
赤と青服の少女が一声かけると、直接触れられたわけでもないのに、兎耳の少女は電流でも流されたようにびくりと反応し、たちまち構えを解いた。
「勝手な真似をしないの」
「で、でも師匠……」
「よく迷わずにやってこれたわね。直接永遠亭に来るのは珍しいんじゃない? 二十年ぶりぐらいかしら」
ふたりの少女のやり取りを無視して、黒髪の少女は妹紅に呼びかける。特に声を張り上げたようにも見えないのに、周囲に凛と響き渡る声だった。美しい、とお燐は思う。だが、好みではない。
「よう、輝夜。久々にあんたの豪邸の軒下にでも野宿させてもらおうと思ってね」
ズボンのポケットに手を突っこんだままずかずかと縁側に近づき、月見団子をひとつつまみ、口に放り込む。
「こ、こら、いい加減に!」
「ウドンゲ」
「イナバ」
師匠と呼ばれた少女と、輝夜と呼ばれた少女に同時に声をかけられ、ウドンゲは耳をうなだれさせ、小さくなった。
「どう、貧乏くさいあなたの家じゃ、とてもこんな味付けの団子は食べられないでしょう」
「ああ、食べられないね。こんなにしつこい味の団子。甘ったるくてむかむかする。体裁ばっかり取り繕ったような団子。まるであんたみたい」
そう言いながら、もうひとつつまんで食べる。それから、お燐の方へ引き返し、彼女の肩を叩いて引き寄せる。
「こいつの味噌汁の方が何十倍も上等だね」
「へえ、言うわね」
輝夜の背後に魔方陣が浮かび上がる。
「もちろん。挑発しに来たのだから」
同じく妹紅の背後にも同じ形のものが出現する。
始まりは唐突だった。
輝夜の前に現れた鉢から無数のレーザーが迸る。妹紅は札で卍型の弾幕を作り、それを遮る。その間に上空、左右と、計三羽の火の鳥が輝夜に襲いかかる。対して三方向へ火の衣を作り、鳥をその中へ包み込む。余波で炎が、廊下や障子、屋根に散る。
「ああっ、急いで消さないと。てゐ、みんな、早く来て!」
「心配いらないわウドンゲ。こういうこともあろうかと、防火剤塗らせておいたから、放っておけばそのうち消える」
「さすが永琳、気が利くわ」
興奮に目を輝かせた輝夜は、振り返らぬまま、言った。
「お誉めに預かり光栄ですわ、姫様」
永琳は輝夜の背中に向けて、恭しく頭を下げる。
「フジヤマ……ッ」
妹紅は跳躍し、輝夜との間合いを瞬時に詰める。極限まで曲げた膝を、バネが弾けたように一気に伸ばし、蹴りを突き出す。輝夜は鉢をかざしてそれを防いだ。風圧が辺りに散り、鉢にわずかにヒビが入るが、輝夜にまったくダメージはない。むしろ、真っ向から余波の跳ね返りを受けた妹紅の肌にいくつか傷がついた。
しかし妹紅の空中の蹴りは一発では終わらない。二発、三発と蹴りを叩きこむ。まるで子供が地団太を踏むように。
「ヴォルケエエエイイイイイイイッッッ!!!」
秒間に何十発、あるいは何百発叩きこんだか、お燐にはわからなかった。ウドンゲと呼ばれた兎耳も、わかっているようには見えなかった。蹴っている当人、受けている輝夜、そして涼しい顔でこの激しい弾幕合戦を間近で眺めている永琳には、見えているのだろう。
「凱、風……快晴ッ!」
とどめとばかりに渾身の蹴りを叩きこむ。鉢が砕け散る。そこにもう輝夜はいない。既にまわりこんで、妹紅のさらに上空にいて、弾幕を展開している。
「さあ、開幕はこんなものね、第一幕はこちらから行くわ!」
輝夜の宣言に対し、妹紅はひきつったような無言の笑みで応える。その意味を問うより先に、輝夜は反射的にその場から飛び去っていた。
複数の怨霊が輝夜目がけて集まってきていた。
怨霊が一点に収束した途端、強烈な爆風が発生する。爆風には、地上のものではない匂いがする。浴びるだけで生気が削ぎ取られていくような風だ。
「これは地底の風……怨霊ね!」
「なんだって!」
輝夜の叫びに、一番驚いたのはお燐だった。慌てて妹紅を見上げる。
「お姉さん、まさか」
妹紅はお燐を見下ろし、にやりと笑った。
「あんた、私を怨霊漬けにしていたよね。その中の一部を、使わせてもらったよ。私は死とは相性がいいの」
さらに二つ、三つと、輝夜を追いかけるようにして怨霊が集まり、一点にかたまると同時に地底の風を吹き散らす爆発が起きる。その爆風に乗って、火の鳥が、札の隊列が、誘導ナイフが、飛ぶ。
「す……」
お燐は息を呑む。そして、吐き出す。
「すごいすごいすごい! お姉さんの弾幕はいったいどうなっちゃってんのさ! いったいどこまで、どこまであたいを……」
お燐の言葉はそこで途切れた。
「天丸・壺中の天地」
輝夜は球の中に閉じ込められた。いや、閉じ込められたのではない。鳥も札もナイフも、悉くその球に弾かれた。輝夜は守られたのだ。
そして妹紅は、光る糸に全身を縛られていた。
「天網蜘網捕蝶の法」
糸は粘り気があり、妹紅の腕や足、腹、首にきつく食い込んでいた。
「がっ」
妹紅の首が奇妙な角度に曲がる。腕も足も、通常ではありえない角度に曲がる。糸が消えると、戒めの解かれた操り人形のように、地面に落ちる。
「永琳!」
球の中の輝夜は、まなじりをきつくつりあげ、縁側で団子を食べながら茶を飲んでいる部下を睨みつける。永琳は、輝夜を見上げ、視線を合わせる。
「あなたと彼女の一対一の遊びなら、私は何も申しません。ですが、そこに第三者を介入させるような真似をされれば、話は別です」
表情は今までと変わらず冷めていたが、目には揺るぎない、確固たる意志があった。厳しく、冷酷な光を湛えている。輝夜はそれ以上言い募ることができなかった。
永琳は目線をお燐へ向ける。
「火車……あなたも、自分から好んで彼女に力を貸したわけではないのでしょう。でもあなたが傍にいて、これ以上彼女に関わろうとするなら、私が潰す。もちろん、二度と私たちの前に現れないと誓うならば、私たちも何もしない」
永琳は口調に少し憐みを混ぜていた。それがお燐にはわかる。癪だった。ナメられている、と思った。
「好きでお姉さんの手助けをしたわけじゃないって? そんなことはないさ。あたいは妹紅お姉さんで遊んでみたくて仕方なかったんだ」
妹紅の上半身ががばっと起き上がる。目は虚ろだ。
「誰、あんた! 妹紅じゃないわね」
輝夜はヒステリックに叫び、五色の光線を繰り出す。妹紅は虚ろな目のまま、関節の曲がった腕を上げる。そこから、極大の火の鳥が飛び出す。
「きゃあああああっっ」
「姫! 薬符・壺中の大銀河」
さっきよりもひとまわり大きな球が輝夜を包み込む。極大の火の鳥は球ごと輝夜を焼き尽くす。輝夜は炎に巻かれながら、墜落していった。
「これだ、わかった、ついに、たどりついたよ!」
お燐は歓喜の叫びをあげる。そんな彼女を、弾幕が取り囲む。
「忠告したはずだ」
竹林から、角を生やした緑の装いの少女が現れる。
「妹紅の死体に手を出したら、始末する」
「やってごらんよ」
「旧史・旧秘境史 オールドヒストリー」
弾幕は動き出していた。整然とした法則で動く弾幕と、ひたすらお燐を狙う弾幕が同時に襲いかかる。お燐は嬉々として身をそらし、飛び、跳ねた。
「はははっ、このぐらいじゃあたいを捉えきれやしないよ」
「新史・新幻想史 ネクストヒストリー」
さらに分厚い弾幕が重ねて囲む。弾幕の二枚重ねに、物理的に抜ける隙間などほとんどない。だがお燐の顔には依然として余裕がある。
「もう逃げられないぞ」
「慧音さん、もっとまわりを見ようよ」
それで注意をそらしてとっさに辺りを見回すほど、慧音は甘くない。
「焔星・プラネタリーレボリューション!」
しかし、巨大な複数の火球に囲まれてしまっては、どうすることもできなかった。隙間を抜けようとしても、隙間を潰すようにして飛んでくる火球に対処しきれない。
「うわああああっ」
慧音は火球に呑み込まれた。お燐を囲んでいた二重の弾幕が消える。
「迂闊だった。まだ他にいたのか」
慧音は地面に大の字になって転がった。
おくうは慧音を上空から見下ろす。
「そうだよ、私はお燐の仲間。ちゃんといるんだから」
おくうの口調に、慧音は思い当たる節がある。気まずそうな顔をする。
「そうか……ならば彼女とお前にはひどい侮辱を与えてしまった」
「まあそんなところかな。ま、あんまり気にすることないよ。お燐がまわりのこと考えずほいほい行動するのは確かだから。そうそう、今回はお燐に頼まれたからあなたを攻撃したけど、別にあなたに恨みはないから、あなたも私を恨まないでね」
慧音は堪えるように笑った。
「なんと虫のいい」
「何よ」
「いや、お前たちはさぞかし仲の良い友人同士なのだなと、想像がついただけだ」
「まあ、悪くはないね。付き合いも長いし」
慧音は横たわった状態で、お燐を見る。つられて、おくうも友人を見やる。
お燐の周囲には、いまだかつてないほど怨霊が集まっていた。その怨霊は、同じ密度を保ったまま、紐のようにして妹紅の死体とつながっている。妹紅は首を傾けたまま、永琳に歩み寄っていく。永琳は立ち上がり、いつの間に出したのか、弓矢を構えていた。
「子供の遊びだって、国家間の戦争の引き金になる」
矢が放たれ、妹紅の右腕が吹っ飛ばされ、近くの竹に縫いとめられる。腕は炎に巻かれ、それだけが独自の生き物のようにして永琳の髪をつかみかかる。永琳は鬱陶しそうに、弓を払って、腕の襲撃を退ける。腕は妹紅の体にくっついて戻った。
「ましてや、子供の恋心の前では、どんな化け物だって目を醒まさずにはいられない」
弓をかざすと、暗い回廊が現れる。お燐と妹紅、永琳はこの突如現れた回廊に呑みこまれる。
永琳の作り出した疑似空間だ。永夜異変では、誘い込んだ霧雨魔理沙やレミリア・スカーレットら錚々たる面子の超火力を、すべてここでいなした。どれだけここで暴れようが、まわりに被害は及ばない。あの事件が終わった時、彼女らを相手取ってなお永遠亭がほとんど修築を必要としなかったのは、この空間の功績が大きい。
逆もまた、しかり。
「秘術・天文密葬法」
永琳が全力を出しても、周囲に一切被害は及ばない。
目を覚ますと、体のあちこちが痛かった。お燐を起こしてくれたのは、おくうだった。おくうの後ろから朝日がちらちらと射している。
「大丈夫? 心配したよ」
全然心配してなさそうな、呑気な顔でおくうは言った。辺りは、死屍累々といった様相を呈していた。妹紅も輝夜も、地面に突っ伏したままぴくりとも動かない。少し距離の離れたところでは慧音が伸びている。あれは、おくうがやった。逃げ遅れて巻き添えを食らったのか、庭ではウドンゲと言う名の兎耳少女が伸びている。他にも、ウドンゲを助けようとしたのか、それとも単なるやじ馬で来て逃げそびれたか、兎耳の少女が何人か倒れていた。無事なのはおくうと、縁側でお月見の後片付けをしている永琳だけだった。
「あら、お目覚め」
永琳は、体を起こしたお燐に気づくと、やさしく微笑んでみせた。しかし目が笑っているようには見えない。お燐はばつが悪かった。思い切り暴れてしまった。酒宴で気分がよくなって、大声でわめいて踊って、物を散らかして他人に絡んで嘔吐を繰り返して一夜明けたような気分だ。
すごく、楽しかった。
「あ、あの、ごめんなさい」
「いいのよ、反省しようとしているなら」
「ううん、きっとこの子、反省していないよ」
「おくう、余計なこと言わないでよ」
「反省するというのは、難しいものよ。すぐにできるとは思わないわ。大切なのは、反省しようと努力すること」
「よくわかんないな」
「その子とは、どうするの」
最初、永琳が誰を差しているのか、お燐はわからなかった。
「このままだと、ずっと口を利かないまま、わかり合わないままよ。それでもいいなら、いいけれど。きっと気分が悪いと思うわ。お腹の辺りがね、もやもやしてしまうの。そういうのはたいてい、薬じゃ治らない」
上白沢慧音のことを言っているのだと、お燐はやっと理解できた。
「ふうん、話半分に聞いておくよ」
「それで丁度いいわ。さ、とっとと帰って。後片付けの邪魔よ」
お燐とおくうに言い放ち、倒れた輝夜に近づく。
「まったく、いつも世話ばっかりさせて」
呆れたようにため息をつく。唇は微笑みに彩られ、目元は慈しみで満ちていた。ふたりはとても幸せな関係なんだ、とお燐は思った。
博麗神社の温泉が完成していた。
一ヶ月妹紅の家に居候していた間に、色んな人間やら妖怪やらがやってきて、紆余曲折を経つつも、どうにか温泉と呼びうるものができあがったようだ。
境内からも、温泉の湯気が立ち上っているのがよく見える。
「へー。作る作るとは言っていたけど、本当にできたのね」
おくうはしきりと感心している。
「まあね。利権をめぐる醜い争いもあったけど、どうにかこうにか収まったわ」
博麗霊夢は、縁側で茶を飲みながら答えた。お燐とおくう、ふたりは庭に突っ立ったままだが、霊夢は茶を勧めもしないし、上がれとも言わない。この扱いは、ふたりが賽銭を持ってきていないからというのが専らの理由だが、もちろんふたりとも気づいていない。
「入っていいかしら」
「どうぞ。元はと言えばあんたが湧かした間欠泉でできているんだしね」
「よかった。それじゃお燐、行こう」
「え、あ、うん」
お燐は霊夢に聞きたいことがあった。だが、それはおくうの前では言いづらいことだった。それに、一晩中弾幕遊びに興じたせいで、体はくたくただった。外で夜を明かしたため肌も相当冷え込んでいた。
体中の細胞という細胞が温泉を求めていた。
霊夢のことが気にかかりながらも、おくうに手を引かれて、神社の裏道へ向かう。
「待ちなさい。大切なものを忘れているわよ」
その時、横から声がかかった。お燐もおくうも不思議に思ってそちらを見る。そこにはひとの気配はまったくしていなかった。今も、鳥の巣箱のようなものがあるだけだ。だが、声はそこからしているようだった。
「ここよ、ここ」
その鳥の巣箱のようなものから、一升瓶と腕が飛び出した。さらに青い髪の女が顔を出す。そのまま、ずるずると体を出して、地面に降りた。赤い服を着ている。背の高い、堂々とした女だった。
「温泉であったまりながら、一杯やる。これが常道でしょう」
お燐は戸惑った。この女が人間でないことはわかる。ただそこにいるだけで周囲に影響を及ぼしてしまうような徳が、体からにじみ出ている。それは神徳と言ってもいい。
「あんた、何者だい」
「わあ、助かるわ。いちいち地霊殿に戻ってお酒持ってくるの面倒だなあって思ってたの」
警戒するお燐とは対照的に、おくうは女の差し出した一升瓶を受け取り、先に行く。女は首を傾げた。
「本当に覚えていないとはね。どうも……ねえ、わかってはいるんだけれど、納得できないわ」
お燐にはよくわからない独り言をもらして、おくうの背中を眺める。お燐に視線を転じ、肩をぽんと叩く。
「友達には私がついていってあげるから、あなたも話したいことがあるんだったら今のうちに聞いておきなさい。今日は、博麗の巫女も話したい気分みたいだから」
「え、あ、うん。ありがとう、そうする」
まだ警戒や戸惑いが完全に抜けたわけではないが、彼女の言葉に従うと、なぜか安心できる自分を自覚した。女は微笑んだ。その微笑みで、お燐は、無条件に自分が肯定された気になる。
「ぜひそうして。それから、さっきの質問に答えるけど、私の名前は八坂神奈子。この幻想郷の山の神様をやっているわ」
合点がいった。これは本物の神徳だったのだ。
「山、ねえ。あたいは山って言われても針の山ぐらいしか思い浮かばないけど」
「よかったらおいでなさい。宴会を開いてあげるわ。火車の力、見てみたいしね」
「あたいが火車だって、わかるんだ」
「もちろんよ」
「あたいの能力が地上で忌み嫌われていることも?」
「もちろん」
「じゃあどうして歓迎するのさ。忌み嫌われているから?」
過去にも、そういった人間がいた。僧や、それに似た性質の人間だ。死体にまとわりつく火車の業を憐れみ、あえて近づいて対話を試みようとする者たちだった。こちらの悦びも悲しみも理解できないくせに、憐みだけで近づく人間たちを見ると、お燐は苛立ちを抑えきれなかった。それで、たいてい粗暴に追い払った。
この山の神様も同じ理由で、嫌われ者の機嫌を取ろうとしているのかもしれないと、お燐は疑った。
「忌み嫌う? なぜ。あなたの能力があれば、死者に話させることができる。葬式の時なんか、すばらしい演出になるわ。既に死んだ者が、まだ生きている者達へ感謝と激励の言葉を贈る。きっと葬式は大盛り上がりよ。参列者は一様に涙を流し、式後に控える宴会へ向けて、テンションはうなぎ昇りに高まっていくわ」
「そこで死者が空気読まないで、まだ死にたくないだの、お前らも一緒に死んでしまえだの言っちゃったらどうするのさ」
お燐は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。神奈子はよどみなく答える。
「それを言わせないのが、神様の仕事よ。みんなに空気を読ませる程度のことができなきゃ、神である資格がない」
そのあっさりとした、しかし自信に満ちた物言いに、お燐は感服した。
「まあ、外の世界じゃ実際に資格がなくなったようなものか。それでこっちに引っ越してきたんだけどね」
「山神様は外にいたのかい」
「そうよ。免許剥奪されたのよ」
「外は住みにくいかい」
「さあ、ね。ひとそれぞれよ。ほら、そんなに神の過去を詮索するものじゃないわ。私はもう行くから」
神奈子は、もうずいぶん遠ざかったおくうのあとを追って裏道を下っていく。お燐は再び神社の表に戻る。縁側に霊夢はいなかった。靴を脱いで上がり込む。建物の中は冷え込んでいて、乾燥していた。
俎板を包丁で叩く音がする。調理場で霊夢が野菜を切っていた。
「何か用? 人生相談なら神奈子にした方がいいわよ。あいつ、神だし」
足音などまったく立てていなかったのに、霊夢は気づいた。お燐に背中を向けたままだ。
「あたいは相談したいんじゃなくて、質問したいんだ。神奈子さんじゃなくて、お姉さんに」
霊夢は振り返らないまま、野菜を切り続ける。
「お姉さん、妹紅姉さんが死なない人だってこと、知ってたでしょ」
「そういえばそんなだったわね」
「最初に神社にお姉さんの死体を運んで来た時、止めなかったね。火車が人間の死体を運んで地底へ下ろうというのに。
「忙しかったのよ」
「茶を飲んでいただけじゃない。あそこで騒ぎ立てれば、妹紅姉さんを地底まで連れていくこともなかったのに」
「別に大した事件にはならないと思ったからよ」
「昨日の夜のことも、大した事件じゃないんだね」
「そのことはよく知らないけど。ただ、私は、ちらりとあんたたちを見て、ふたりとも、それなりに楽しそうだったから、まあいいか、と思っただけよ。あとの事情は知ったことじゃないわ」
「ふたりとも……だって?」
あたいだけじゃなくて、そう聞こうと思い、お燐は躊躇う。
巫女の意図がよくわからない。何もかもわかっているように思わせておいて、実はただ適当に嘘を並べているだけかもしれない。
巫女は何もしていないように見える。地底で自分やおくうとやりあったときも、巫女本人は攻撃をかわしているだけだった。相手の攻撃を凌いだり、牽制したりする時に札を飛ばしてはいたが、実際の攻撃は珠から出てくる針や、風や、気だった。
お燐は迷う。このまま霊夢と対話を続けるか、続けるとしたらどんな言葉を接ぎ穂とするか。
「あーもうめんどくさい」
そう言う霊夢の声を聞いた直後、前方に天井があった。
蹴られて床に転がっているのだと気づくまでに、数秒かかった。霊夢の声が足下の方からする。
「そんなことはいいから、あんたも賽銭持ってきなさいよ、もう次からでいいから。運搬業やってるんでしょ、運賃って感覚がないとは言わせないわ。あの鳥頭にも言い聞かせておきなさい。神社というのは何をしに来るところかってことをね」
ぴしゃりと扉が閉まる。お燐は立ち上がって、神社から出て、裏道へ向かった。博麗の巫女は底知れない。不可解だ。
道を降りていくと〈博麗温泉〉と墨書された看板が見えた。鄙びた田舎の温泉を思わせる、貧相な造りだった。靴を脱いで、裸足でぺたぺたと廊下を歩く。男、女と書かれた暖簾があるので、無論女の方に行く。
服を脱ぎ、籠にまとめ、一枚布で胸から下をくるむ。扉を横に開くと、濛々たる湯気に出迎えられた。
湯煙の中、声のする方へ歩いていく。おくうと神奈子がいた。神奈子は、温泉の縁にもたれかかり、両肩をお湯から出して、目の前にお猪口の乗った盆を浮かべて、くつろいでいる。やや顔は上気しているものの、酔いにも湯当たりにも無縁そうだった。反対におくうは、顔を真っ赤にしてふらふらしていた。温泉には膝から下だけを浸かり、縁の岩の上に座っていた。布を膝の上にかけている。お燐や神奈子のように全身を包まないのは、翼が邪魔だからだ。
「神様、おくう」
「おや、お燐ちゃん、来たね。おくうちゃんはもう駄目ね。酔いに湯当たりともう最悪。でも友達が来たんだから、少しは元気を取り戻してもらわないと。ほら、おくうちゃん、もう飲まなくていいから、湯には入りなさいよ。気持ちいいわよ」
神奈子が声をかけると、不思議なもので、今までぼーっとしていてひとの言葉など耳に入りそうにもなかったおくうが、うなずいて、温泉に肩まで入った。
「うにゅー、熱い」
「それがいいんじゃないか、おくう君」
「どれどれ。いや、これやっぱ熱いよ。おくうが音を上げるのも無理ないね」
そう言いながら、お燐も肩までつかった。たまりにたまった疲労が、熱で焼き殺されていく気がして、爽快だった。
「くぅあぁぁ~~っ」
思わず声をあげ、手足をびいんと伸ばす。
「ほら」
神奈子がお盆の縁を押して、お燐の前にやる。お燐はお猪口の酒をくいとあおった。
「くぅうぅ~~」
また、意識せずに声が漏れる。
「昨日は、大変だったわね」
弛緩して湯に身を任せるお燐に、神奈子はねぎらうように話しかけた。
「ああ、うん、まあね」
「疲れたろう」
「うん。疲れた。あたいも、途中から自分が何をしたいのかわかんなくなっちゃったもん。夢中になってさ。妹紅お姉さんの死体を操って動かしたいってのは、前から思ってたんだ。ま、永琳ってひとにあっさりやられちゃったけど。あれはあたいの動かし方が悪かったんだと思うな」
「慣れてないとね、そんなものよ」
初めて出会った神奈子がまったく問題なく自分の話に合わせてきているのを、お燐は少し奇妙に感じたが、すぐにどうでもよくなった。神様なんだから、その辺りの情報はどうにかするのだろうと、結論づけた。
どこかで見ていたのかもしれない。
「妹紅姉さんには、会いたいんだ」
「会いに行けばいいじゃないか」
「そうしたら、怒る人が出て来るからねえ」
「あの獣人?」
獣人、という響きに、侮蔑の響きは感じられない。種族として、神奈子がそう認識しているだけ、という感じだ。さっきお燐のことを火車と言った時も、そうだった。輝夜や慧音、永琳が火車、と言った時にわずかに含まれていた、見下しや侮りの成分が、神奈子の言葉にはまったく入っていなかった。
「そう慧音さん」
「大丈夫、怒っていないわ。少なくとも、あなたには」
「じゃあ誰に怒っているの」
「自分自身に対して、だろうね。普段からあいつは冷静沈着な態度を崩さないのだけれど、時々ああやって我を忘れる。根がまじめなものだから、反省し過ぎるくらい反省する。でも気まずいものだから、自分から謝ろうとはしない」
「慧音さんが謝ることじゃないよ。あたいはただ、みんなと楽しく騒ぎたかっただけなんだ」
「死をね、一緒になって楽しめる存在ってのは、あまりいないものよ」
「そうかな」
「というか、あなたも、死んだら嫌でしょう」
「痛いのは嫌だねえ」
「痛いだけじゃなくて、別れなきゃいけない」
「別れても、どうせ相手も死んだら同じところに行くんでしょう」
「さあ、私は冥界の管理人でも地獄の裁き主でもない、一介の神様だから、そんなに詳しくは知らないけれど」
神奈子は、おくうをちらりと見る。おくうは、顔を真っ赤にして、桃源郷をさまよっているようだ。
「何かのきっかけで離れてしまわないとも限らない。というか、ごめんね」
いきなり、両手を拝む形に合わせて、頭を下げられて、お燐は面食らった。神様を拝んだことはあっても、神様に拝まれることは初めてだった。
「え、ちょっと、神様」
「この前、この子が力を持ち過ぎて暴走しちゃったでしょう。あれ、私たちのせいなの。おくうちゃん素直そうだったから大丈夫だろうと思ったら、素直すぎたのね。自分の欲望にあまりに忠実に動くものだから、びっくりしたわ。まあ、私たちが気づいた時には既に事件は終わっていたんだけど。でも、こんなに早く異変が片付いたのは、お燐ちゃん、あなたのお陰よ。あなたが怨霊を出して、境界の妖怪たちを引っ張り込んだから、この子は無事でいる」
「そりゃあ、ね、星熊たちに目をつけられたらただじゃ済まないからね」
神様の前なので、お燐は気兼ねなく鬼の名を呼び捨てにした。自分でも姑息な気がしないでもなかったが、執拗に強さを振り回す鬼たちを、お燐はそこまで好きではなかった。強くても弱くても、一緒に話して遊んで楽しければそれでいいと、お燐は思う。
もちろん強い者は大好きだ。恰好いい。だが、それだけではない。
「あなたは、友人思いなのよ」
神奈子は腕を伸ばし、お燐の頭を撫でた。
「お疲れさま。昨夜の件は、目くじら立てて怒っている連中もいるみたいだけど、私はノーカウントだと思っている」
「ノーカウント? なんだか神様らしくない言葉使いだね」
そういえばさっきもテンションがどうとか言っていた。
「フランクさが大事なのよ」
「でもやっぱり神様が使うと似合わないなあ」
「ほっときなさい」
神奈子は湯からあがり、湯煙の向こうへ消えていった。お燐はおくうを見る。いつの間にか湯からあがっている。今度は足の指先すら湯につけず、岩の上に横になってひたすら団扇で自分を仰いでいる。
「おくう、あんたなんて恰好しているんだい」
「熱ーい、熱ーい。鳥が茹でられるとどうなるんだっけ」
「あんたが弾幕る時の熱はこんなもんじゃないよ」
「自分が出している時はなんともないの。体臭と一緒よ」
「そうかねえ」
「神様が言っていることは正しいと思うわ、お燐」
「聞いてたの」
「なんとなく。というか、あの神様が私に力をくれたのね。初めて知ったわ」
「忘れてただけでしょ」
「お燐、あなたは、私を止めてくれた」
「あの時は、どうなるかと思ったよ」
お燐はおくうに近づく。縁に両腕を重ね、顎を乗せ、横になって団扇を仰ぐおくうと目を合わせる。ふたりの距離は近い。お互いの息がかかる。ふたりはお互いの目を自在に観察できる距離にいる。
「あんた、いきなりさ、あたいが待てって言っているのに、地上侵略するとか言い始めて」
「ごめんって。天狗になってたのよ。そしたら天狗が来たけど」
「胃に穴が空くかと思ったよ。鬼に目をつけられたらどうするつもりだったのさ。いや、鬼だったらまだいいよ。あたいだって協力して、なんとか煙にまいてやるさ。でも」
「わかってるわよ、お燐。わかってる」
「さとりさまが」
「ごめんって」
「さとりさまが悲しむ。自分の言うことを聞いてくれないと、あの方は寂しがるんだ」
「そういうつもりじゃ、なかったって」
「おくう。ねえ、やっぱちゃんとさとりさまに謝ろう。地底の騒動の後、なんとなく地霊殿に戻って一緒にご飯食べたりしているけど、ちゃんと言っていないでしょ。もちろん、怨霊を地上に出したことだって、あたいも謝っていないし」
「それは謝ることじゃないって、さっき神様が」
「神様は神様。さとりさまはさとりさま」
「うー、心の準備が」
「思い立ったが吉日」
「待って、練習しよう。練習。先に地上の問題から片をつけましょう」
「肩慣らしみたいに言ってくれるね。そっちはそっちであたいにも覚悟がいるんだから」
「覚悟じゃないわ。勇気よ、お燐」
温泉からあがった後、霊夢から、炊き立てのご飯と大根を振る舞われた。大根は醤油と砂糖で煮込んであって、それだけでご飯が何杯でも行けた。すっかり腹が膨れたお燐とおくうは、とどめとばかりに出されたお茶を飲み干すと、あまりに気持ちがよくてそのまま座布団の上で眠ってしまった。起きた時にはもう夕日が座敷に差し込んでいた。ふたりの上には毛布が二枚ずつ重ねてあった。
しゃっ、しゃっ、と箒を掃く音がする。庭を見ると、霊夢が庭を掃いていた。
「ねえねえ、慧音さんの家ってどこ?」
「行って何するの? 多分、あいつとあんた、何ひとつとして話が合わないと思うけど」
「いいじゃんそんなの、ほっといてよ」
「家は人間の里からちょっと離れたところにあるけど……でも、今夜はいないわね。竹林にいるわ」
霊夢は意味ありげに微笑む。今回の事件以前のお燐だったらわからないほのめかしだったが、今はわかる。
「妹紅姉さんと会ってるんだね」
「……それを実際に口に出して言ってしまうところが、獣よねえ」
霊夢はわざとらしくため息をついて見せる。
「さ、それじゃ行き先も決まったことだし、お燐、行こうか」
「何さ、おくう、あんたも行くの。ま、いいか」
ふたりはせっかくかけられていた毛布をたたみもせずに、縁側に行き、靴をはく。
「ちょっと、あんたらこれから暗くなるってのに迷いの竹林に行くの? 馬鹿なの?」
霊夢はそう言いながらも、竹の筒に茶を入れてふたりに持たせた。
それから二刻が過ぎた。
ふたりは迷いの竹林で、ものの見事に現在地を見失っていた。
「お燐、どうしよう、ひょっとしたら、ひょっとしたらだけど、ひょっとしたらだから、驚かないで聞いてね。私たち、迷ったりしちゃってるかも」
「いや、ひょっとしても何も、しっかり迷っているよ。多分一刻前から既に」
「え? そんな早くから」
「あんた気づくの遅いよ」
「ああもう、どうしようかしら。プチフレアでもして明るくしようかしら」
「やめなよ。そんなことしたら慧音さんたち、怒ってやってくるじゃないかい」
「やってくるんならそれでいいじゃん。会えるんでしょう」
「そんな会い方最悪だよ」
お燐は頭を抱える。
「あーもう、あんたみたいなのが相棒だと、余計に気疲れするよ」
「大変ねえ」
「ほんとだよ」
拳をぷるぷると握り締める。
すぐに力を抜く。
「ま、いいや。おかげで助かっているし。あんたといると楽だもん」
「気疲れはするのに?」
「それは別腹」
おくうは何も考えていないわけではない。付き合いの長いお燐は、そのことをよく知っている。おくうはおくうなりの一貫した論理で動いている。それが、他から見たら鈍重に感じたり、不可解に思える場合があるというだけのことだ。
「お燐、こういう時はね、こいしちゃんの真似をするといいよ」
そう言って、おくうは目を閉じた。お燐も真似して目を閉じる。
視界が閉ざされる。元より迷っているのだから、大差ない。
「目、閉じたよ。これからどうするんだい」
「さあ」
「さあ、って!?」
「これからどうするかはお燐が決めてよ」
お互い向き合って、目を閉じて、会話を続けている。この珍妙な状況に、お燐は我ながらおかしくなって、笑ってしまった。おくうもつられて笑う。
ふたりの笑い声に、竹の葉を揺らす風の音が混じる。
その風に、笛の音が混じる。
お燐とおくうは、ぴたり、と笑うのをやめた。
目を閉じたまま、じっと耳を澄まし、笛の音の出処を探る。
そして、音もなく、笛の音を追う。
キャッツウォーク。
竹林が開け、ぽっかりと空間が開く。ちょっとした広場のような光景が、目の前に広がった。その広場のちょうど真ん中に、木造の家屋が一軒建っている。お燐はこの家を知っている。つい昨日まで、一ヶ月間過ごしてきた家だ。
笛の音は広場を突き抜けた先からしていた。先は曲がりくねった登り道で、進むほどに角度は急になっていく。視界が開けると、眼下に迷いの竹林だけでなく、その先の人間の里までもが一望できた。崖の突端は、さらに上まで続いている。そこに、親指ほどの大きさで、人の姿が見えた。
遠目からでもわかる。笛を吹いているのは、藤原妹紅だ。
旋律は物悲しく、ゆったりとしていた。不意に転調し、急き立てるような、墜落するような旋律にもなった。だがすぐにまた緩やかな旋律に戻る。
お燐は声をかけようと、息を吸い込んだ。
その時、妹紅の旋律に、別の旋律がそっと寄り添った。それは控え目に、はじめの旋律を侵さないよう気を使いつつ、しかしはっきりとした意志を持っていた。決して妹紅の旋律から離れはしないという、確固たる意志が感じられた。
妹紅は笛を吹きながら、後ろを振り返る。しばらくそのままでいて、また前に向き直る。旋律はより一層和し、物悲しくも力強い音楽を創り上げていく。どんな表情かはお燐のいるところからでは見えない。
お燐は声が出せなかった。自分の声で、妹紅と慧音のふたりの時間を壊してしまいたくなかった。
うつむいて何もできないでいるお燐の背後から、がさがさと音がする。おくうだ。
「ふう、やっと追いつけた。足音立てないと追いかけづらいわね。あれ? 妹紅さんと慧音さんじゃない。おおーーーい!!」
お燐が止める間もなかった。おくうは大声をあげて、手を振った。ふたりの視線が同時にこちらを向く。お燐は反射的に顔を伏せたが、それはかえって邪魔をしたという事実から逃げているだけのように思えて、癪に感じ、堂々と顔をあげた。
妹紅と慧音は、軽く片手をあげて、こちらに手を振った。短い動作だったが、こちらに対して礼が込められていたのが、遠目からでもわかる。それから何事もなかったように、ふたりは音楽の世界に入っていく。
「ああ、いいなあ」
お燐はそんなふたりに魅せられていた。
「羨ましいなあ、ああいう関係」
「何、お燐、ふられたの? でもはじめっから勝ち目ゼロだったよ」
「うるさいなーおくうは。別にそんなんじゃないさ。妹紅姉さんは恰好良かったから、ちょっと死体にして遊んでみたいなあって、思っただけだよ」
「その割にはずっと執着していたけどね」
「ああもう、黙りなよいい加減」
「お燐の気持は報われないのよね。さとりさましかり、巫女しかり、魔女しかり、不死身の少女しかり」
「そういうあんたはどうなのさ。あんたこそ空回りしっ放しでしょ。地上征服なんて白昼夢、結局誰ひとりまともに相手しなかったじゃないか」
「ああ、あれはもうどうでもいいわ。地上をとんでもなく広い灼熱地獄にしたら、あんたと思い切り遊び回れると思っただけだから。あんたがあんな嫌がるとは思わなかった。それならそうと言えばよかったのに」
「聞きゃしなかったわよ、あの時の増長し切ったあんたじゃね」
「それもそうかもね。だからわざわざ怨霊出してくれたんだよね。私を鬼から助けるために。さとりさまを助けるために」
話が湿っぽくなりそうだったので、お燐は口を閉じる。おくうは構わず話す。
「地上まで怨霊を出すなんて遠隔操作、今まであんまりしたことなかったでしょ。きつかったんだよね、きっと」
「まあ、ね」
「ありがとう。私はそんなお燐が傍にずっといてくれれば、あとはもう何も望むことない」
「……まあ、ね」
おくうのまっすぐな言葉に、お燐は顔を赤らめる。目をそらすのも悪いと思い、おくうの目をまっすぐ見る。ますます照れ臭くなる。
悪循環だ。動悸が速まるばかりだ。
竹薮から、忍び笑いが漏れた。
慌ててそちらに向き直り、睨みつける。
「誰だい!」
「ごめんなさいね、邪魔する気はなかったのだけれど」
裾の長い着物に身を包んだ、黒髪の少女、輝夜だ。傍らには白いワンピースを身につけた、兎耳の少女が付き添っている。前回輝夜の傍で巻き添えを食っていたウドンゲとは、また違う兎だ。
「このイナバが急に笑い出すものだから」
「笑ってなんかいないよ。泣いていたんだよ」
「ほら、この通り」
輝夜は微笑む。豪奢な微笑みだ。
「なんだかイラつくねえ」
お燐は眉をしかめて、手押し車を出現させる。その周囲に怨霊が集う。
おくうの小さく畳まれた翼が大きく膨らむ。その周囲に熱が集まる。
今まさに弾幕合戦が始まろうという時だった。
お燐、おくう、輝夜、イナバのちょうど真ん中に、炎に包まれた人型の影が降り立った。
「さあ、今日のお楽しみ、音の夜会は終わり。あとは後片付け。ゴミはきちんと燃やしてしまわないと」
炎に身を包んだ妹紅は、楽しそうに笑い、輝夜を見る。輝夜もまた、同種の、興奮を帯びた笑みで応える。
「も、妹紅姉さん! あ、あの、その」
お燐は何か言わなければと思った。だが、言葉が出てこない。感謝なのか謝罪なのか、もっとそれ以前に自己紹介なのか、それとも慧音と仲良くやってくれという激励なのか、とにかくいろんな言葉が言葉以前の状態で唇の内側にとどまって、出ていかない。
妹紅は炎を解き、お燐を振り向く。
「ひとつ、言ってなかったことがあったのを、思い出したわ。もうずっと当たり前に思っていたから、あなたが家にいた時も結局言ってなかったけど」
「何をだい? お姉さん」
「あなたのその車。おそらく死体しか乗せないんだろうけど。そこに乗っている間、居心地良かった。上等な車の中で、うとうとと惰眠を貪るような感じかな。何もかも、すべての責任や気負いから解き放たれて、ただ体の力を抜き、がたごとと揺れる車の振動に身を任せて、目を閉じるの。数多くの死体がその車に乗ったんだろうけど、苦情を言う奴なんてほとんどいなかったでしょう」
「う、うん。陰でなんて言われてたかは知らないけど」
「陰口なんて意見に入らないから、気にしなくていいの。それよりも、あなたは、直接、車に乗った奴から意見を聞かないといけない」
「うん。うん!」
「あなたの車、抜群の乗り心地だった。素敵な死体旅行を満喫できたわ」
次の瞬間、虹色の小弾が乱れ飛び、複数の魔方陣から噴火が起こる。お燐とおくう、イナバはたまらずその場から飛び去った。
「ふええ、相変わらず派手な弾幕だね」
「まったく、会えば暴れることしか頭にないのか、あいつらは」
お燐の後ろから聞き覚えのある声がした。
「慧音さん」
「火車か」
そう言って、口を閉じ、また言いなおす。
「火焔猫か」
慧音の目に、明確な憎悪や侮蔑は感じ取れない。だからといって、打ち解けた風でもない。
「その呼ばれ方、嫌いなんだけどなー」
お燐も、妹紅や神奈子相手ならすらすらと言葉が出てくるはずなのに、慧音を前にすると、言葉が滞る。
「妹紅お姉さんにつきまとっていた怨霊は、もうないよ。永琳ってひとに、綺麗さっぱり払われちゃった」
それでもお燐は、明るく振る舞うことを自分に強いた。ああやってふたりでひっそりと笛を吹くような関係にある妹紅と慧音の間に割って入った自分が、ひどく無粋な存在に感じられたからだった。
お燐が、後ろめたさという感情を持つのは、これが初めてのことだった。
「八意永琳と真っ向からぶつかって、何事もなかったのが不思議なくらいだ。よくよく丈夫な妖怪だな、お前も」
慧音の返答も固い。妹紅と一緒にいた時に手を振って応えたような柔らかさはない。不器用なのだ、このひとは、とお燐は思う。
「じゃ、あたいたちは帰るね」
「今夜は見ていかないのか?」
「目的は果たしたからいいや」
慧音と妹紅に謝るため、とは言いたくなかった。
「慧音さんは?」
「私は見届けていくよ。お前たちも、道中気をつけてな。人間を襲うんじゃないぞ」
「はーい。行こう、おくう」
帰り道、お燐は自分の心が少し軽くなっていることを自覚した。
「やっぱり、あのひととお燐は、相性合わないね。博麗の巫女が言っていた通りだよ」
「そうさ。多分趣味も全然合わないよ」
「でもよかったね。一応話せて」
お燐は目を見開いておくうを見る。
「やっぱりあんた、色々わかっているんだねえ」
「うん? そうかな」
***
久しぶりに地霊殿に戻ると、心なしか館のあちこちが煤けているような気がした。
掃除用ペットもいることはいるのだが、とても館内全域にまで手が回っているようには見えない。さとりさまはひとの心をつかむ術は心得ているが、それを統率するのは苦手であるというのが、ペットたちの中で出ている結論だ。
「それにしても、ちょっと手を抜きすぎじゃないかい」
掃除用具箱から引っ張り出したはたきを適当にかけながら、お燐は階段を上っていく。
「さとりさまどっか外に出てるのかな。それでペットが手抜きしているとか」
おくうは自分の翼をはたき代わりにしているが、埃が立つばかりで、あまり意味がないと、お燐は思う。
さとりの部屋の前に来た。鍵はかかっていない。
部屋の中で、少女が浮いていた。
紫髪のショートカットで、ハートのアクセサリーがついたカチューシャをつけている。水色のシャツに薄紫のスカートを身につけた、小柄な少女だった。
部屋の中をふわふわと移動している。時々転がるように、体勢を変える。何度目かの体勢の変化で、さとりはふたりと目が合う。ふたりは、何も言わなかった。
「おいで」
さとりは床に足をつく。さとりの部屋は、ふかふかのカーペットが敷かれている。歩くたびに雲の上を歩いている気がするほどのふかふか具合だ。さとりがお尻をぺたりとカーペットにつけ、両足を前に投げ出す。お燐とおくうは、それぞれ膝にすり寄って、目を閉じた。
「よしよし、言いたいことがたくさんあるのね」
にゃーん。
くるっくー。
ふたりはただ鳴く。
「謝りたいの? 今更のことね。そんなの、とっくにわかっているのに。お礼を言いたいの? それこそもっと今更ね。いつも感じているわ」
くるっくー。
ごろごろ。
「でも、そうね、地上人ははた迷惑だったけど、ひとつだけためになることを私に教えてくれたわ。それは、言葉は力になるということ。言葉とは何? 思考を伝える道具? それもある。あるけど、もっと別の機能がある。〈意思〉を……いいえ、〈意志〉を伝えることができるの。〈意志〉とは力よ」
さとりはさっきからふたりの頭をなでたり、顎をいじったりしている。つい、と顎を持ち上げる。交互にふたりの目を見る。
「言葉にしてごらんなさい。あなたたちの意思だけでなく、意志も感じたいの。そういう点では、きっと、地上の者たちの方が、私たちよりずっと得手のはず。私にも、教えて」
お燐は言った。
「さとりさまの手、あったかくて、気持ちいい。大好き」
おくうは言った。
「ずっと一緒にいたい。さとりさま」
さとりは笑う。何か答えようとして口を開くが、何も出てこない。
まだまだだな、とさとりは思う。まだ自分は、このふたりのように、強い言葉を持てないでいる。
ふたりが羨ましい。そんなふたりの言葉が嬉しい。
満足のため息を漏らして、寄り添ってくるふたりの頭をなでる。ふたりがうとうとと眠りかけた頃、ようやく言葉に出せた。
「おかえりなさい。ありがとう」
自分の理解力が乏しいだけかも知れないけど
そして永琳が少女とな
特にお燐と勇儀の描写が上手いなぁと思いました。
そしてさすがぼくらのえーりん!
お燐かわいいよお燐
戦闘シーンと食事シーンの描写が素敵でした。こんなの読んだら、ずっと食べてなかった猫まんまが欲しくなります。
そしておくうが大変可愛らしい。ラストの唐突なくるっくーには吹きましたが。
「妹紅、猫に懐かれる」
「慧音、自分不器用ですから・・・」
「永琳、本気を出す」
>すごいすごいすごい! お姉さんの弾幕はいったいどうなっちゃってんのさ! いったいどこまで、どこまであたいを……
→魅了するでー
しかし、くるっくー…w
サブタレイニアンローズで力尽きます。
ポリグラフをノーボムでいけるようになったので自分的には今日はもうおkです。
あの忌々しいキャベツはゆかりんの援護3回で終了。
あれって隙間あるんですか? 多分ないですよ。
>2
欲張りすぎましたねー。
前回は蓮子とメリー二人だけだったので、登場キャラ数が約七倍となっております。
ちょっとごちゃごちゃさせてしまったかもです。
>3
永琳は少女ですが何か。
>6
「対決!マスターバックス」でも「くるっぽー」と言っているので許して下さい。m(_ _)m
>13
紫、幽々子、幽香、永琳が自分的四強です。
でも勝負事ってのは、常にたゆたっているものなので、わかんないです。ってモラu(ry
>22
30キャラぐらい一度の話に出して書き分けるのが目標です。
2キャラでA4用紙200枚ぐらい書くのが夢です。
>24
なんだろーなー、どうしてあんなにかわいいのかなー。
>25
「綺麗な女の人がものを食べているシーンは美しい」とは、あるイラストレーターさんの言葉です。
至言です。そこに近づけるよう、努力します。
惜しむらくは、それが誰の言葉で、どこで目にしたか忘れてしまったことです。私が鳥頭です。
>柊さん
おっしゃぁ突っ込んでくれた!
スルーされたらどうしようかと思ってました。
「なぁんだいこのボムわぁ」マジセクシー。
>31
これだけ無数のキャラがいると、色んな関係が生まれそうで、生み出せそうで
想像するだけで拙者wktkが止まりませぬぞ。
>34
あざーす!!
死体を操るのと人形を操るのでどうとか。
ところで、最後に笛を吹いてた時の妹紅の格好って
もしかしたらけしからん格好だったりしませんか?
うむ、動物抱きたい。
それと同じくおくうかわいいよおくう。
あと40氏と同じく妹紅+笛(+慧音)で某所のけしからん格好で笛を演奏するものを思い出したw
こういう一人(?)のキャラクターを追求するような作品は凄い好みなので楽しく読ませてもらいました。
もっと評価されていいと思います。
地霊殿キャラがいい味だしてるなー。
死、傀儡、静止、そして蓬莱人形、考えると夢が広がります。
実は私、アリス大好きなんですよ。
手前味噌ですが
つ 作品集54「風花幽夢抄」
次回か次々回でアリスが出るまでは、こちらのアリスでお楽しみください。
そして笛、ご明察です! オマージュと思っていただければ。
あの、不意に笛の音が二重になる瞬間、ぐっと来ますね。
>46
ほんとはお燐と慧音と仲直りのシーンで締めるつもりでしたが、なんか書き足りないなー、と。
「あ、さとりだ!」 書いたらすっきりしました。
地霊殿は、なんだかんだでこのひとが中心にいますね。
>49
ご明察です。
強調したいので二度言いました。
あの方の作品群は、ストーリー性のある流麗な動画、シンプルながら印象に残る編曲と、実にすばらしいです。
が、あの方の趣味に関してはまったく賛同いたしかねますw
尚、この話で妹紅と慧音が吹いているのは”竹”笛です。
>50
自分が作品を書くことで、東方のキャラが掘り下げられていくのならば、これに勝る悦びはないです。
>52
ありがとうございます。
そういうタグがつけばいいんですけどw
常に想像を上回れるかどうかわかりませんが、次もご期待いただければ、と思います。
お燐にもくらりときちゃいましたが。
各々がいいキャラを出せていたと思いますよ。
地霊殿キャラと他のキャラとの絡み話はまだ少ないのに
違和感がなくて面白かった
ところで気になったんだけど、
贓物は腐臭っつーよりも生臭さと鉄臭さじゃね?
肉が腐るのって時間かかるから、
死亡直後~当日だと流石に腐らないんじゃないかなーってね
くらり、と、落ちるんですよね。
キャラの魅力に。
ああ、この子に出会えてよかったと。
そう思う瞬間が何度もあるので東方は好きです。
>66
お、どの辺かが気になりますね。
お燐が鬼にやや悪感情を抱いていたりとか、
各キャラのパワーバランスですか?
>他キャラとの絡み
これから紅楼夢、冬コミ、例大祭と
各作家陣がどんな地霊殿世界を展開してくれるか、楽しみです。
>68
妹紅と輝夜が戦っていたのが夜。お燐が死んでいる妹紅を発見したのは明け方。
なるほど、これは腐らない。
臓物なんで当然悪臭でしょうが、少なくとも「腐」臭ではない。
明らかな誤表現です。
グロ描写=「腐」って字いれときゃ雰囲気出るだろう
という安易な思考で書いてしまったようです。訂正します。
つか、よく見てますねw
嬉しいですよ。
地霊キャラのイメージも考えていた通りで良かったです。
妖怪の森編や紅魔館編も期待してますw
紅魔館編書きましたよー
と、一応報告。
凛々しいのも良いけど、やっぱり妹紅には女らしさがある方が好き。
あと慧音と勇儀カッコイイ。良いねぇ。
どのキャラも魅力的。
あっという間に読み終えたけど、終わってしまうのが惜しかった。
応援してます。
原作のキャラがすごく自然ですごく良かった。
あと、
ちょwwゴールデンエッグww
あれは爆笑しましたねえw
咲夜が説教中に
レミリアの手からスカーレットシュートが飛び出るシーンがたまらなく好きです。
なんだろ……このおりんはきっと純粋なんですね。キャラクタに誰にも嫌味がなくて、読んでいて気持ちよかったです。
それにしても、もこうとおりんで死体旅行ですか。すごくわくわくしました。キャラクタの性質にぴったり合ったお話ですね。いやあ、面白かったです。
「そんなに死体が欲しけりゃ妹紅さらっちゃいなよ!」と、プレイ当時思いましたので。
今まで書いた中では、この作品が一番スルスルと短時間で書けました。
歪みをあまり入れると、ケレンミばかりになって味が強くなりすぎる。
何も入れないと味がなくなる。バランスは難しいです。