※この話は慧音の過去話です。自己解釈と自己設定が入ります。特に白澤。
それでもいい方はお読みください。
大陸の東望山に獣あり。それ、人語をよく解し森羅万象に通じ、万物の歴史を食らひ、綴る霊獣なり。
自然の力により生きる。徳在りし者の前に現れ知識を与ふ。
その獣、名を白澤と言ふ。
その姿、いまや見る者なし。
◆◇◆◇◆
人も入らぬ深山。
その山に広がる森で二つの影があった。
一つは立っている長い黒髪の女。
「本当なのか?ハク」
もう一つは人ではなく獣であった。後ろ足を折り前足で支える所謂“おすわり”の状態だ。
「あぁ。まことだよ。リン」
二つの影は向かい合い視線を合せ話していた。
『ハク』と呼ばれた獣は人語を使った。
一見、人に見える『リン』と呼ばれた女性も人ではない。
『ハク』と呼ばれたこの獣、霊獣と呼ばれるこの地では有名な『白澤』であった。
一方の『リン』と言う女性は『麒麟』と呼ばれるこちらは瑞獣であった。
種族が違うこの二人だが、取り分け仲が良く無二の親友と言える関係だった。
しかし、人が自然を忘れ大地を踏み躙る様になった今。白澤達は次々と力を失い、その数を減らしていった。
「……何故だ?」
「分かるだろう。大地から力が失われていくのが。それに……私の“目”はもうこの二つしか見えないよ」
そして今最後の白澤が力尽きようとしていた。
その証拠に白澤の特徴ともいえる九つの目のうち胴体にある六つの眼はどれも閉じられており、その体毛に埋もれつつあった。額の目もまた濁りきり閉じられる寸前だった。
風の噂でそれを聞き付けたリンは確かめる為に急いでハクのもとへ駆け付けた。
「……思いは変わらないのか……」
「……すまない」
そこで聞かされたのは白澤がこの地を離れる事にしたという話だった。
「ここで死んでもいいが……足掻きたいのだ」
「ハク……」
もはや消えるしかないハクは“最後の足掻き”と、自然が踏み躙られていくこの地を離れ、まだ自然のあるかもしれない別の地に行くことを決意した。
「……何処に?……あてはあるのか?」
「あぁ。……海を……越えて」
「…!」
北は雪が降る地、南は暑さの厳しい地。白澤が住むには厳しい環境。
なら残るは東西。東は海が広がり、西には大地が広がる。
ハクが選んだのは東だった。
これは賭けだ。島はある。だがそこに白澤を生かすだけの自然があるとは限らない。あったとしても、ここと同じように消えて行くであろう予測は立てられた。
だが、ハクは決心した。
「何故だ?西の方がいいのでは……」
「一見はな。だが、自然は西から減っていった」
「つまり、西の自然はここより悪いか……」
そう呟くとリンはハクの首に両腕を回し、柔らかな淡い緑の体毛に顔を埋めた。
「リン……」
「……行くな」
それはとても小さな声で囁かれた。
「行かないでくれ……」
「………」
「みな、私を置いていく。……ハクにまで居なくなられたら、私は……」
それは瑞獣と呼ばれるリンの本音。
薄らと涙を零れさせながらリンはハクの言葉を待つ。
「……リン……ありがとう」
それは“留まる事が出来ない。この地を離れる”という意思。
リンはその言葉を受け止めるのが限界だった。
ハクの体毛を涙で濡らしながら、リンは泣き崩れた。
森に麒麟の嘆きが響いた。
◆◇◆
「ごめん。冷たかったよね」
「構わないよ」
泣きやんだリンはどこか吹っ切れた顔をしていた。
「で?」
「うん?」
「うん?じゃないよ。東は海だぞ。超える力はあるのか?人に変化できなくなったのに……」
ハクは、それかと呟いた後説明をした。
曰く、変化出来なくなったのではなく力の温存の為にしなかった。旅立つ時は満月の力を借りて海を渡る。と。
「なに?……余分な力はまだあるか?」
「あぁ、あるがどうするつもりだ?」
にやりとリンは不敵に微笑みいった。
「最後の思い出づくりをさせて」
時はすでに夜。
「まだまだぁ!」
「なにぉ!」
森だけではなく、山、林、平原。そこらかしこに響く二人の人外が楽しむ声。
最後の白澤とその親友たる麒麟が幼い頃の様に、追いかけっこを楽しんでいるのだ。
二人はまるで風のように空を走り、地を駈ける。
リンは先程話していた時と同じ姿で、ハクは獣の時の体毛のような淡い緑色の長い髪をした女性になっていた。
「たのしいな!ハク!」
「ああ!こんなに楽しいのは何年振りだろう!」
終わることのない追いかけっこが続く。
時に人の姿で、時に獣の姿で。
無邪気にはしゃぐ二人の眼元には流さないと決めたはずの涙があふれていた。
十三夜の月だけがその様子を眺めていた。
◆◇◆
満月の夜。
ハクは出立の為に東の海が見える場所まで来た。
「……行くのか……」
「ああ。見送りは要らんと言ったのに……」
「それくらいさせてくれ」
獣の姿のハクとリン。
「その姿、久しぶりに見たが……相変わらず綺麗だな」
「ハクの淡い緑の方が私は好きだが……」
「そうか?リンの漆黒の鬣や毛並みは目を見張るものがあるぞ」
そう言い合ったあと、同時に吹き出す。
しばらく笑い合い、ハクが重い腰を上げた。
「……その心……安らかに。我が無二の友、親友よ」
「ありがとう。健やかにあれ。親友」
そして……
大陸最後の白澤は、東の島を目指して飛び立った。
残された麒麟はその後ろ姿が見えなくなるまで見守った。
◆◇◆◇◆
ザクッ ザクッ
落ち葉をかき分けて森を歩く獣。
「……いい所だ」
そう呟いて獣―ハクは森を進む。
ハクはかろうじて海を越え切り、倭―――既に日本と呼ばれていたが、長い生を持つ白澤からすれば未だに倭である―――に辿り着いた。
季節は秋。自然がもっとも輝く季節である。
ハクは大陸と違い、まだその美しさを保っている倭の自然に目を潤ませた。
それから、人間に見つからない様な山や森を探し約半月。紅葉した木々がその葉を散らせ始める頃。
ようやく過ごしやすそうな場所を発見した。
森に元々住んでいたモノ達との話し合いを済ませ、ハクはここに住むことが決定したのだ。
近くに小さな村があるが、森のモノ達の話によれば森を荒らすこともない穏やかな村だという。それに森は深く姿を見られたとしても、姿を隠すのは容易い。
ならばここほど好条件な場所もない。
白澤の淡い緑の毛並みを風がなでていく。
心地よさそうにハクは目を細めた。
◆◇◆
村に冬の冷たい風が吹く。
だと言うのに子供達は元気にはしゃぎまわっている。
そして当たり前のように親の言い付けを破るのだ。
『遊んででもいいけど、森は注連縄のある木までだよ。その奥は山神様や動物達、妖怪の場所なのだから』
この子供達も遊んでいるうちにそんな言い付けは綺麗さっぱり忘れているのだろう。
忘れていなくとも破るのだろうが。
すでに森の境界を決めていた注連縄の木を超えていた。
遊んでいる子供達は5~6人程度。
その中に、薄い青色の髪をした女の子がいた。歳は10才程だろう。
「ねぇ!ダメだよ!注連縄の木過ぎたよ!」
どうやら、言い付けを守ろうと他の子供達に叫んでいる。
「なんだよ!慧音!怖いのかよ?」
「ち、違うよ!山神様がお怒りになるよ」
「ば~か。山神なんているわけないだろ!」
「そんなこと言って、本当は怒られるのが怖いだけなんだろ」
いつの時代も悪ガキというのは存在するものである。
そして大体決まって悪乗りするのだ。
「や~い。怖がり!怖がり慧音!」
「やめなよ!」
そして止めさせようと他の女の子が口を出し、喧嘩になるのだ。
「なんだよ!」
「なによ!」
子供とは元来そういうものである。
「あぁぁ」
その様子を見て慧音は頭を抱えるのだった。
よくできた子供である。
「なら、お前たちは帰ればいいだろ!俺たちはまだ遊ぶんだ!」
「なんですって!」
言い争いは更に激しくなり、掴みかかる寸前。
ガザリ
「ッ!」
音のした方向を振り返る子供達。
そこには……
「グルルルゥ」
狼の群れがいた。森の奥から子供達の声を聞きつけたのだろう。
冬が近づき獲物が少なくなったせいだろう。酷くお腹をすかせている様子だ。
「ひっ」
声を出すことも、動くことも出来ない子供達を嘲笑うかのように狼達は歩み寄る。
すると……
ガツン
「キャィン」
何かがぶつかった音と狼の鳴き声が響いた。
鳴き声を上げた狼の足元には大きめの石が落ちていた。
残りの狼達が一斉に石が飛んできた方を見る。
「こっちだ!馬鹿狼!」
そこにはいつの間に後ろに回り込んだのか慧音が仁王立ちになって叫んでいた。
足は震え声も掠れているが慧音は狼達を睨みつけていた。
「早く!村に戻って!」
慧音がいるのは森の奥。他の子供達がいるのは村の方だった。間に狼の群れを挟んでいる。
慧音は他の子供達を逃がすために囮になったのだ。
目論見通り、狼達は標的を慧音に絞ったようだ。
「慧音!」
「私はいいから!早く!」
駆け出す慧音。間を置かずに追いかける狼達。
残された子供達は泣きながら村の方へと走っていった。
◆◇◆
走る。走る。
「はぁ、はぁ」
息が切れてもなお走る。
「ガウッ!」
すぐそこまで迫る狼達。土地の形を生かして逃げる。
しかし、地の利があるのは狼達だ。
「はぁ、……ッ!」
加えて、二本の脚と、四本の脚。一人と、多数。
慧音の方が分が悪かった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
追い詰められたのはすぐだった。
大きな岩に慧音は追い詰められた。
切れる息。
恐怖で体が震える。
迫る狼の牙がそれを煽る。
慧音は目を閉じて自分を食おうとする狼の姿を消した。
――死ぬのかな……。皆、うまく逃げられたかな……。……じいさま……ごめんなさい……。
しかし、いつまで待っても牙が刺さる痛みはやってこない。
気になって薄らと目を開けてみると、先ほどまでいた狼の群れが消えていた。
「え?」
しっかりと目を開けて見渡しても、狼達の姿は見つけられなかった。
「なんで?」
「この時期の山に入るとは……愚かなのか、それとも……」
「!」
声が後ろの岩の上から聞こえた。
驚き振り返る慧音。
「人の子は見ていて飽きないな」
そこには淡い緑の毛並みをした獣がいた。
ハクである。ハクは岩の上に“ふせ”の状態で座っており、慧音を見てはいなかった。
しかし慧音には唯の化け物にしか見えないし、何時跳びかかってくるか分からない。
安心したのもつかの間。新たな恐怖の対象の出現に慧音は腰をぬかしその場に座り込んだ。
「な、なに?」
「ん?何?」
しかし驚いたのは慧音だけではなかった。
ハクもまた驚いた。
ハクは今人間に見えないように術を使っている。
それなのに慧音はハクの姿を見ているのだ。
――……まだ、いたのか……。私の姿を見、私の声を聞く人間が。あぁ。なんと嬉しいことか……。人も捨てたものではないな。
白澤達が力を失った原因は、人間が彼らの住む自然を踏み躙り始めた事にあった。
仲間の白澤達が人間を見限っていく中、ハクもまた人間を見限りつつも見捨てきれない部分があった。
ハクが村が近くにあるこの森を住処に選んだのにはそういった捨て切れない思いを持っていたからであり、生まれ育った大地を離れてまで足掻こうとした理由もそこにあった。
ハクは人間が好きだったのだ。
だからこの時。ハクは涙を浮かべて喜んだのだ。
自然の霊獣である白澤を―――あまつさえ術を使い隠れている白澤を―――見ることが出来たということは、慧音は自然を踏み躙ってはおらず、自然を大切にしているということを意味したのだから。
未だ己を見て震える慧音にハクは優しく語り掛けた。
「恐れるな。私はお前を襲いはしない」
「え?」
「安心しろ。私はここから動かない。だからまずは落ち着きなさい」
その言葉は優しく温かく慈しみに満ちており、慧音を落ち着かせることができた。
「う、うん。……もう、大丈夫」
「怪我は?大事ないか?」
「うん。平気。ねぇ」
「うん?」
「あなた、なぁに?」
子供特有の高い声と疑問。
慧音は完全にいつもの調子を取り戻した。
知識欲が旺盛な子供。
それが慧音という子供だった。
「何とは?」
「だって、じいさまが話してくださる妖怪や山神様の姿と全然違うんだもん。じいさまは村一番の物知りなのに……。それに、都の方の偉い方々が書かれた書物にも書いてなかった」
「ほう。字が読めるか。それに、都の本か」
「うん。時々、来る商人さんが複写したものだけど、って持ってきてくださるんだよ。字はじいさまが教えてくれたの」
「そうか、そうか」
「だから、あなたなに?」
心底不思議だったのだろう。
慧音は先程までの恐怖を忘れ、岩の上にいるハクに近づこうと先程まで背中を貼り付けていた岩に正面から抱きつくように張り付いて、ハクを見上げた。
そんな慧音を見てハクは目を穏やかに細め答えた。
「私は白澤と呼ばれる霊獣だよ。大陸の生まれだ」
「大陸!?」
「あぁ。ここには秋の中頃から住み着いていてな」
「この森に?どうして?」
「この森は“ゆたか”だからな。住み心地がいいんだよ。お前さんの村が森を大切にしてくれているからな」
慧音が知識を求めるものなら、ハクは知識を与えるものだ。
求められては答え。答えては求められる。
理想の教師と生徒である。
慧音はハクの持つ膨大な知識の虜になり、ハクもまた久しぶりの人間との会話と教えることに夢中になった。
「それで?」
「それはな……」
結果。一人と一匹の会話は終わることが無かった。
◆◇◆
会話が終わらずとも時間の終わりはやってくる。
すでに時刻は夕方。
慧音がハクと出会ったのが太陽が真ん中を過ぎる少し前。
「ん?」
「どうしたの?」
「どうやら、話し込み過ぎたようだ。村が騒がしくなってきたぞ」
「え?」
無事に村に辿り着いた子供達から話を聞いた村の大人が、慧音を探そうと村長(むらおさ)たる慧音のじいさまに森を探すことを申し出ていたのだ。
しかし、村長は言い付けを破った子供達が悪い、自分達の不手際で森を荒らしてはならないとその申し出を却下し続けていたのだ。
そんな村長の断固とした態度に痺れを切らした若者達が、無理矢理森に踏みこもうとして一悶着起きていたのである。
「うむ。これはいかんな。早く村に帰りなさい」
もし森に若者達が入ってきたら、森に住むモノ達が黙ってはいない。
今回は勝手に森に入ってきた子供達に非があり、何かあっても森のモノ達には罪はないのだ。
罪のある子供を助けようと若者達が森に入ってきたとしても、それは逆に森の怒りを買うだけで、何の解決にもならないのだ。
無駄な死体が増えるだけである。
まだ帰りたくない。白澤ともっと話をしていたい。と駄々をこねる慧音にハクはそう言って聞かせなだめた。
「でも……」
「なら、森の境界の注連縄の近くまで送ろう。勿論……背に乗せて……な」
「えっ!」
話の中、慧音はハクの淡い緑の毛並みをいたく気に入り、触りたいと言っていたのだ。
まだ話していたい。
けどあの毛並みを触って―――しかも乗れる―――みたい。
慧音はその二つの思いの間で揺れ動いた。
そして……
「……分かった……帰る……」
淡い緑の毛並みの誘惑に負けた。
岩の上から音もたてずに降り立ったハクは、先程までそうしていたように“ふせ”の形をとり、慧音が乗りやすいようにした。
それでも幼い慧音にとってもハクの背に乗るのは一苦労した。
漸く背に座れた慧音は、見た目以上に柔らかく暖かい毛並みに驚いた。
「わぁ!やわらかい。あったかい。ふわふわだぁ」
「気に入ってくれたかな?」
「うん!とっても!」
もふもふと音が聞こえるほど柔らかな毛並み。加えて光によって淡い緑が変化して見える光沢。
かつてリンが絶賛したそれは、ハクの持つ知識と同じくらい慧音を虜にした。
背中で慧音がはしゃぐのを感じハクはゆっくりと立ち上がった。
「わわ!」
「しっかり掴まっているんだよ」
「何処に?」
掴むところなんてどこにある?あるのは柔らかな体毛だけだ。
そう慧音が言おうとしたのを感じたのかハクは言った。
「目の前にたくさんあるよ。大丈夫。痛くないからしっかり掴まりなさい」
言われた通り、目の前にある淡い緑の毛並みを少しまとめて掴む慧音。
「そうそう。さぁ、行くよ」
ハクはふわりと駆け出した。
「うわぁ」
ハクの背は揺れを感じることがなく、駆ける足は風の様に滑らかで。
手を離しても落ちることは無さそうだった。
それよりも慧音が驚いたのは木々がハクを避けていることだった。
ハクは真っ直ぐに走っている。
当然木や枝が前に表れる事もある。しかし、それらにぶつかる事なくハクは走る。
ぶつかるより早く、木がハクに道を譲っているのだ。
白澤は自然の力によって生きる霊獣。自然の一部と言える存在なのだ。
そんな存在が、自然の森で怪我をするか。木にぶつかるか。答えは否だ。
自然の力は白澤に従う。
だから白澤が森を歩けば木々は自ら白澤の為に道を作るし、川を渡ろうとすれば川の流れが緩やかになったり、踏み石が出来たりして道を作るのだ。
生まれ育った大陸の山なら、自在に自然の力を操れた。
しかし、此処はハクにとって異国の地。
自然の力を操るのは困難であり、木々も道を作ることもないはずである。
だが、現実はハクに道を作っている。
それはハクがこの森に認められ、森の主となった証だった。
そうとは知らない慧音はハクがそうやっているのだと思い、ますますハクに惹き付けられていった。
注連縄の木まではあっという間だった。
注連縄の木の辺りには、村の人間達が集まっていた。
村長が森に入ることを認めなかった為、せめて近くまでと集まっていたのだ。
「長!」
「だめじゃ」
「うちの馬鹿息子のせいで……すまねぇ!」
「長。見殺しになさるおつもりで?」
「山神様があの娘に目を止められれば、帰ってくるじゃろう」
そんな声が慧音とハクの耳に届いた。
「じいさま」
「成る程。あれがお前のじいさまか」
「うん。こっちに気付いてないの?」
「あぁ。まだ術をかけているし、それにこの姿では……」
「見えないの?」
「そうだ。だから、今から人に化けるよ」
ハクは慧音を背から下ろして目を閉じた。
一陣の風が吹き慧音は目を閉じ、再び目を開けたら目の前にはお尻よりも長い淡い緑の髪をもった異国の服―――大陸の導師服と思われる―――に身を包んだ女性が立っていた。
「ハクタク?」
「そうだよ。……おや?」
「あっ!」
「グゥルゥゥ」
「な、なんで狼の群れが!」
「いかん!戻れ!村まで、早く!」
「長!」
「私はいい。早く!」
それは、慧音を追いかけていた群れだった。
「なんで?」
「人に手を出す気か?」
「ハ、ハクタク!じいさま達を!」
「あぁ。これは、狼達に非がある」
村人達が逃げられないように周りを囲んだ狼達。
狼達に囲まれて怯える村人達。
その場所に慧音とハクは足を向けた。
◆◇◆
「お、長……」
「……?……!あれは……」
その時長の目に映ったものは
淡い緑の長い髪を揺らしながらこちらに歩いてくる女性と、その女性に守られるようにして隣を歩く孫娘の姿だった。
長の隣にいた村人もその姿を見つけ、次々と村人達はその姿を見つけた。
同時に狼達を取り仕切っている頭(かしら)の狼もまたその姿を認知した。
すると、今まさに跳びかかろうとしていた狼達の唸り声が止み、その場に“おすわり”をした。
そして、導かれるように村長と、狼の頭はハクの前に歩み出た。
「じいさま」
「おお。慧音。無事じゃったか……良かった……」
「うん」
村長と慧音が会話をしている横でハクの前に歩み出た狼の頭はおすわりをして項垂れる様にしていた。
そして狼の頭はハクと視線を合せた。
傍から見ればよく分からないがこの時、言葉が交わされていた。
《人に手を出してはいけないと言ったはずだが?》
《申し訳ありません》
《……いや、違うな。襲ってもいい。ただ、境界線の近くはやめろ》
《はい……》
《それに今回はお前たちの獲物に手を出してしまった私にも非がある。餓え死にしない程度の食事をくめんしよう》
《本当ですか?》
《あぁ。嘘は言わん》
《ありがとうございます》
狼の頭は立ち上がると一声鳴いた。
すると、座っていた他の狼達も立ち上がり森の奥に消えていった。
「帰ったの?」
「ああ」
その様子を眺めていた村人達から安堵の息が聞こえると慧音はハクに歩み寄ってきて聞いた。
そして恐る恐る村長がハクに話しかけてきた。
「……貴女様は……山神様ですかな?」
「ん?違う。そんな大層なものじゃない」
「では?」
「う~ん。そうだな……今の森の主 (ぬし) ……かな?」
「……主殿……」
「あのね、ハクタクは凄いんだよ」
「ハクタク?」
慧音はそういうとハクに教わったことを話し始めた。
村長は後で聞いてあげると慧音をさとし、ハクに向き直って聞いた。
「何故?慧音が主殿と共に?」
「色々あってな。夕方は妖怪が活動を始める頃だからな。送ってきた」
「ありがたい」
「私は人間がそんなに嫌いではないからな。礼を言われることではない。気まぐれさ」
「何かお礼をしたいのですが……」
「礼など……あぁ、なら一つ。お前さんの村に食用の家畜はいるか?」
「おりますが……」
「小さいのでいい。それを一匹もらえんか?狼と約束をしてな」
「約束ですか?」
「あぁ。見逃す代わりに食べ物を与えなくてはならなくてな。頼めるか?」
「わかりました」
快く返事をする村長。
「では、頼む。この注連縄の近くに繋いで置いてくれればいい」
「?今ではないので?」
「あぁ。五日後くらいでいい。さあ、日も暮れた帰るといい」
「本当にありがとうございました」
村の者達が頭を下げるのを見て、ハクは苦笑し森の中に引き返していった。
「慧音。今日の事、主殿の事、全部聞かせてもらうぞ」
「はい。じいさま」
ハクの姿が見えなくなると村長は慧音にそう言って、村への道を歩き始めた。
◆◇◆
森の奥。
慧音とハクが出会った岩のある場所よりも奥。
高い崖の麓に獣の姿のハクがいた。
それと向き合うように狼の頭が座っていた。
「人間は貴方と違ってすぐに心移ろう者です。いくら守ろうとすぐ死ぬものです」
「だが……それが面白い」
この狼の頭、父を狼に、母を『禍斗』という妖怪に持つものだった。
ハクはこの狼を『奎(とかき)』と呼んでいた。
「……私には何もいえません。御身の為さるがままに」
「ありがとう、そうさせてもらうよ。奎」
「ところで、何故名前を呼ばないので?」
「気づいていたか。言霊になる、で理解できるか」
「なるほど」
『言』葉には『魂』が宿る。それつまり『言魂』。
言魂は言霊とも言われ、信じられてきた事だ。
名は縛るもの。
力あるものが人の名を呼べば、呼ばれた人間は言霊によって縛られる。
わずかに息さえあれば、たとえ足が飛ぼうが腕が飛ぼうが命じられるままになる。
それが言霊。
耐性のある人間や、妖怪などには効果は無いが無防備な弱いとされる人間などは簡単に言霊に縛られる。
ハクはそれを避ける為にあえて名を呼ぶことなく接していたのだ。
「白澤殿。あの村の者、あの娘を含めて、いかがでしょう」
「よい村だ。……これからも変わらずにあってほしい。さぁ、そろそろお前も群れに帰るがいい」
「では、そうさせていただきます」
「そこの牡鹿。忘れずにな」
「感謝いたします」
ハクが視線を向けた先には、一匹の牡鹿が死んでいた。
奎との約束通り、村からの帰り道に狩っておいたのだ。
奎はひとつ礼をして牡鹿を咥えて去っていった。
ハクはその姿が消えるのを確認して崖の上に登った。
崖の上部にある洞窟の入り口に立ち、月を見上げる。
雪がもう降り始めていた。
◆◇◆◇◆
深々と降る雪が村や山を白く覆っていく。
野の獣たちは寒さを耐えるように住処から出ようとはせず、人間もまた村の外に出ようとはしなかった。
しかし、森の中を走る子供が一人いた。
慧音である。
――ここを左!
その足取りは戸惑うことなく目的地まで進んでいた。
慧音が森を走っているのはハクに会うためである。
あの日以来、慧音はハクに会いに森に出かけるようになっていた。
「ハクタク!」
最初はそれを咎めていたハクだったが、言っても無駄だと悟ったのか次第に咎めることも無くなり、今では慧音が来るのを楽しみにしていたりする。
「今行くよ」
「うん」
しかし森を子供だけで出歩くのは何かと危険なため、ハクは注連縄の木より奥にある比較的安全な場所で会うことと、お守りを必ず身に着けてくることを条件にだした。
「お守りはちゃんと身につけているかい?」
お守りというのは、ハクの淡い緑の毛で作られた組み紐―――ミサンガの様なもの―――である。
いまやこの森の主となったハクの毛で作られているということは、ハクのかごを受けている証拠。
そんなものを身に着けている子供を襲えばハクの怒りに触れることになる。
するとハクの怒りを恐れて慧音を襲うモノはいなくなる。
「もちろん!」
ほら、と右手につけたお守りを見せる慧音。
それを確認してハクは満足げに頷く。
「よしよし。なら、今日は何の話をしようか」
「う~んと。大陸のお話はもう聞いたから……」
「ふむ。なら、生活にかかわる話をしてやろう」
「ん?」
「例えば……秋の実りを豊かにする方法とかな。じいさまに教えておやり」
「うん!」
◆◇◆
「なんだって」
「そうか……。なら、今度試してみよう」
「お~い。慧音。遊ぼうぜ」
「今行く~」
「気を付けてな」
ばたばたと元気よく外に駆け出す孫を見送って、村長はひとつ息を吐く。
――ハクタク殿……か。
慧音がハクに教わっている知識は村長の知る以上のものだった。
ハクの慧音を通しての助言は、取り分け厳しい今回の冬を乗り切るのに十分だった。
季節は既に春に移り変わろうとしており、いつもなら何人かが森に食べ物を探しに入り行方不明になる事があったが今回はそれもなかった。
――感謝せねばな。
加えて、作物がよく育つ方法も教えてもらった。
恐らく今年は不自由の無い年になるだろう。
長がそう考えていたとき。
「長!商人さんが来なさったぞ」
元気のいい言葉が響いた。
「いやはや。今回は酷い冬でしたな」
「その割にはお早い商売で」
「まぁな」
月に何度か来る商人も冬の間は来なくなる。
冬の森や山ほど危険なものは無いからだ。
いつもなら雪が完全に溶けてから来る商人だが今年は雪がまだ残っているのに来た。
長は多少の不安を交えながら会話をした。
「今回の冬は厳しかったからな。物資が足り無いんじゃないかと思って早めに来たわけ
だ」
「ありがたい……ですが、本当にそれだけですかな?」
「おっ!かなわんね。……実はな、都の動きがきな臭いんだわ」
「と言いますと?」
「戦が起きるんじゃないかって、もっぱらの噂だよ」
いやな予感は的中した。
「詳しいことはわからんがね。一応、警告だ」
「ふむ……何時頃?」
「さぁね。だが、四、五年以内には……」
そう言って商人は顔をしかめた。
◆◇◆
「戦か……」
「うん。じいさまと村の皆が話してるの聞いたんだ」
山桜が見事に咲き誇る下で、人に化けたハクと慧音は話をしていた。
「………」
「ハクタク?」
「あぁ。すまない。少し考え事をしていてな」
慧音は長と村の人間の会話を聞いた慧音はハクに相談しに来たのだ。
「いいかい」
「?」
「今から少し長くて、少し難しい話をするよ。よく、聞きなさい」
ハクは今までに無い真剣な目を慧音に向け話し始めた。
「命は全てに備わっている。そして命は他の命によって支えられている。全ての命は支えあい、繋がり生きている。自然に生きるものたちはそれをきちんと理解している。だが、例外が一つだけいる。なんだかわかるか?……人間だよ。人間だけはその摂理を忘れてしまっている。考えてごらん。人間は人間同士殺しあうだろう。しかし、人間以外の生き物は同じ種族同士殺しあうかい?あぁ勿論ある。だが、それは己の命に関わる事だからだよ。自分の縄張りに侵入したものがいる場合だ。確かに人間も自分の土地を守るために戦うこともあるさ。だけどその全てが自分の命に関わる重大なことなのか。違うだろう。何故、話し合わない?意思を伝えない?伝わらないからか?なら殺していいのか?同族だぞ。それを簡単に殺していいのか?………。それだけではない。人間以外の生き物は食べるためとさっき言った守るためにしか殺しをしない。だが人間は?人間は故意で獣を狩る。食べもしないのに。害があったわけでもないのに。自分達の脅威となるものに人間は恐怖し、それを排除しようとする。例え、人を襲わない穏やかなものであっても、な」
「私は言った。全ての命は繋がっていると。たとえを使おう。鷹と鼠と芋と大地を例にしよう。まず、大地は芋を育てるな。その芋を鼠が食べる。その鼠が鷹に襲われ食べられる。そしてその鷹が死ねば大地に落ちて大地の栄養となる。その栄養を糧として芋が育ち、それを鼠が食べ、鷹に……。自然はこの繰り返しでできている。ちょうどいい具合に連鎖しているんだ。人間もまたその連鎖の中にいる……いや、いた。今はその連鎖が崩れている。分かるか?人は芋を育てる。そしてその芋が鼠に荒らされない様に鼠を駆除する。すると、食べるべき鼠の数が減り、鷹の数が減る。鷹の数が減れば、大地への栄養が無くなる。悪循環だ。天敵の数が減った鼠の数が増えることもあるかもしれない。人間はいま、連鎖を壊し始めている。支えあうべき命を蔑ろにしている」
「……この話をしたのはいい機会だと思ったからだ。私が言いたいことは、自分以外の命を大切にしなくてはならないということだよ」
慧音はハクの言っている『れんさ』が何なのか理解はできなかったが、『命を大切に』と言うことは理解した。
「だが、いくらお前が他の命を大切にしようが崩れたものは戻しようがないのだがな」
慧音の姿が見えなくなるとハクはそんなことを呟いた。
「何故……私は人間が好きなのだろうな……」
人間の愚かさを知りつつも、人間をいまだに好いていることにハクは苦笑をこぼした。
「では……戦が起こるまでの短い生を謳歌しなければな。手始めに……あの子供にもう少し知識を教えてみるか」
終わりの見えた己の生。
戦が起きれば自然に人間が侵入してくる。
ただでさえ、余命いくばくも無い―――とは言っても、ハクの感覚でなので人からしたら一生の半分くらいはある―――というのにこの上自然が踏み荒らされれば死は目前となる。
恐らく数年のうちにその時が訪れることになる。
――最後まで人間を好きなまま死にそうだな。
そんなことを考えながら獣の姿に戻ったハクに、山桜が気前よく桜吹雪を降らせた。
◆◇◆◇◆
あれから数年の時が流れた。
その間ハクは村の子供達と遊んだり、知識を与えたりして暮らしていた。
年々とハクの力は衰えていった。
ハクは力を無駄にしないように、人型に変化したまま過ごすようになっていた。
そして……夏のある日。
戦が起こった。
村に戦火が飛んできたのは秋の終わりの頃だった。
◆◇◆◇◆
「来たか」
住処の岩場で人化しているハクは呟いた。
「はい。ただ……」
「分かっている。……蛮人……それを追って武士……だろう」
その呟きを受けて返事をしたのは奎だ。
奎は群れを山奥に避難させハクの元に来たのだ。
ハクの言う蛮人とは、戦火に乗じて村を襲うとする山賊たちをまとめて呼んだものだ。
彼らは戦場の近くに住む人間だったため戦により家を失いそのまま山賊になった者達だ。
「……奎」
「何でしょう?」
「……お別れだ。恐らく私はもう……もたない」
「っ!?」
「足掻いたかいがある。再確認できたよ。やはり人間は愚かで浅はかで、儚く脆弱で、そのくせ傲慢で……だが……美しい。……己の死の原因たる存在なのだから美しいは言い過ぎか」
その言葉は奎に向けられてはおらず独り言のようで。
目も奎ではなく、暁の太陽を見つめていた。
うっすらと、自嘲の笑みさえも浮かべている。
「白澤殿……。悲しいことをおっしゃらないで下さい」
「本当のことだよ。楽しかった。僅かな時間。その間に私はお前たちも人間も好きになれた。あの村の人間限定だがね」
奎の頭を撫でながらハクは心の底から言った。
「ありがとう」
◆◇◆
変化をとき本来の姿に戻ったハクの前に、先程ハクと奎が蛮人と呼んだ人間が数人立っていた。
「おい。こりゃなんだ?」
「妖怪か」
「みてぇだな」
「あれか?もしかして村の連中が言ってた主ってこいつか?」
“村の連中”という言葉にピクリと反応するハク。
「……村か」
「うおっ!喋った!」
現在の時刻は黄昏時だ。
あれから、涙を流しながら奎が去った後。
ハクは村の様子がわかる場所で村が襲われる様を見ていた。
村の者達には予め人間同士の争いに手を出さないと伝えていた。
人間が好きだった為に、襲う側といえどもハクは手を出せないのだ。
そして、ハクが見たものは襲われる村だった。
初めはただの強奪だった。
それが変わったのは、彼らを追ってやってきた武士達が村に着くなり虐殺を始めてからだ。
蛮人達は森に逃げ、豊かな村を見つけた武士達は好都合とばかりに村を襲い始めた。
「お前たちは彼らを殺さなかった」
「当たり前だ。奪いこそすれ、殺しはしない。なのに!あいつら!」
「行け。武士がやってきた」
「俺達を殺さないのか?」
「あぁ。さあ、行け。助かるかはお前たちしだい」
「お、おう」
――村が襲われるきっかけを作った者を逃がすか……。そこまで出来るほど私は人間が好きなのか……ここまできたら、手のつけようが無いな。
「ぬしはなんぞ?」
嘲笑を零すハクの傍に一人の武士が来た。
「………」
「妖か」
「………」
「どうした?」
後ろから何人か現れる。
誰も彼も、現れた武士達からは血の臭いがした。
「ほう。妖にしては良い毛だな。ふむ。おい、これの毛を切れ。良い飾りになりそうだ」
「はっ」
汚れていない小太刀を抜き近づこうとする。
「勘弁願おう」
ハクはそれを見やってハクは立ち上がり声をかける。
一斉に構える武士達。
「取って食いはせんさ。お前達に一つ言っておきたいことがあってな。待っていたのだよ。わざわざこの姿でな。おとなしく聞いてもらうぞ」
その言葉は武士達を縛り付ける。
動けない武士達はハクを見るしかない。
ハクが口を開いた。
「今はまだ大丈夫だろう。しかし人間よ。自然の中で生きている以上、それに逆らうことは出来ん。覚えておけ。お前達が自然の摂理を壊した分だけ、何時の日かその反動はお前達に返る」
それは理(ことわり)。
「この大地は人間を呪うだろう。遙か先。大地が人間の為に実りを与えることは無くなる。川や湖の水は毒となりお前達を苦しめる」
それは呪詛。
「自然を顧みるがいい。そうすれば、それほど酷くならないだろう」
それは忠告。
「だが、もはやそれを無くすことは出来ん。未来、お前達は苦しむことになる」
それは確定された事。
「私は、人間が嫌いになれないらしい。どんな卑劣でもな。だから、未来でもお前達が苦しむのが嫌だ」
それは最後の白澤の本心。
「だから、お前達に言う。心に刻み、覚えておけ。己の子孫に苦しい思いをさせたくなくば」
それは命令。
言の葉に力を込めた言霊。
「さぁ、刻まれた言葉を抱いて、この森から……この場所から去れ!」
◆◇◆
昨日まで村であった場所を人の姿のハクは歩く。
火が燻っているのかパチパチと音がする。
月が照らす村の様子は悲惨。
畑は踏み荒らされ、あちこちに血飛沫が飛んでいる。
井戸や小川は赤くなっている。
家は倒壊させられたものや燃やされたものばかり。
ハクの目的の家は倒壊していた。
――未練か。期待を持つだけ無駄だと言うのに……。
ハクの目的は慧音だった。
死ぬ前に、例えそれが死体でも一目見たかったのだ。
それほどまでにハクは慧音という人間を大切にしていたのだ。
――見つけられないか……。倒壊した家の下にいるとも限らぬというのに……。
ハクが諦めて森の己の住処に戻ろうとした時だ。
「……これは」
視界の端。土倉の方。
そこに見覚えのある組み紐があった。
ただしその組み紐は淡い緑ではなく、赤く染まっていた。
◆◇◆
ハクは奇跡かと思った。
腕の中に抱きしめた体にはまだ辛うじて温もりが残っていた。
外傷は切られたのだろう。右の二の腕が真っ赤に染まっていた。
その血がお守りを赤く染めていた。
数年も付けていれば流石にハクの毛で作られたものとはいえ千切れるだろう。
どうやら、ハクがお守りに込めていた力が慧音をかろうじて生かしていたのだろう。
死なないで欲しい。
ハクは心の底から願った。
しかし、ハクには分かっていた。
慧音はもうすぐ……死ぬ。
血が足りない。
白澤として持っている知識がそう告げている。
ハクはこの時ほど自分の知識を呪ったことはないだろう。
助ける方法を考えてもすぐに知識がそれでは無理だと知らしめる。
――どうすればいい……見殺しには……出来ない。
考えどもハクにはいい案が浮かばずに途方に暮れるしかなかった。
――もうじき死ぬ私には、命を繋ぎ止めるだけの力がない。どうすれば……。……死ぬ?……。そうだ、私は死ぬ。そう……か。その手が……あった。
記憶の奥の奥。最も深いところからある記憶を引っ張り出す。
――幸い今日は満月、時刻もいい。これで助けられる。しかし……。
腕の中の消えゆく命を見やる。
「………」
ハクは躊躇していた。
こればかりは本人の意思が必要なのだ。
だが、今慧音は話をできる状態ではない。
だから……ハクは使った。
「……慧音」
優しく、優しく。
その名を呼んだ。
「……ハク…タク……」
掠れる声で返事をする慧音。
言霊により、声を引き出す。
「答えて。慧音」
力を言の葉に乗せて呼ぶ。
「生きたい?」
その問いに
「………」
慧音は
「生きたい?」
震える声で
「……い…きたい」
そう、答えた。
「……まだ…ハクタクと……話し…て……いたい」
死にかけだというのに、その言葉は掠れているのに。
慧音の眼には生きたいという思いで満ちていた。
その眼を見つめたハクは、その思いをしっかりと受け止めた。
◆◇◆
空にある満月を仰ぎみてハクは言った。
「慧音。まだ、死んではいけないよ。頑張りなさい」
返事はない。
当たり前だ。
慧音は目を閉じて生きようと必死になっていたのだから。
ハクは誰に説明するでもなく呟く。
「もうすぐ死ぬ私にできることは、この命を、魂を与えること。霊獣の魂は人間の魂とは結びつかない。だが、死にかけの魂は欠けているようなもの。この子の魂の欠けた部分を私の魂で補えばいい。白澤として弱っている今の私の魂なら、人間の魂も受け入れる事が出来る」
呟きながら片手を月に伸ばす。
「だが、魂が半分人間ではなくなると言うことは、人間の括りから外れると言うこと。おそらく……半獣になる。元が人間だから、大した変化はないだろうが……」
淡い光の粒がハクの体から抜け出していく。
「あぁ。私は……死さえも人間の為に使うのか。リン、お前が見たらなんというかな?私らしいと笑うか?」
抜け出した光は慧音の体に吸い込まれていく。
「末期だな。私の人間好きは」
自嘲とも喜びともとれる笑顔を浮かべるハク。
その腕の中では、生気を取り戻しつつある慧音が眠っていた。
「……っ!……そろそろ、いいか」
光の粒が消える。
慧音は一命を取り留めた。
◆◇◆
「さてと、もう一仕事だ」
ハクは慧音を地面に下ろし、手をその上に掲げた。
「慧音は優しいからな。私が死んだと聞いたら悲しむだろう。だから……私という存在を、“無かった事”にしてやる。この地に来てからするのは初めてだが、なんとかなるだろう。ついでに、あの村の惨劇も“無かった事”にしておこう。心穏やかに生きるためにな」
そしてハクは食った。
慧音という歴史の中から白澤という存在を。村の惨劇のことを。
そして綴った。
慧音という歴史の中に幼いころに半獣になったということと、歴史の食い方と創り方を。
村の人間は冬を越すことができずに滅んだということを。
「これでいいか」
先程まで死にかけていた事を感じさせないほど穏やかな顔をして慧音は眠っている。
ハクの魂が馴染んできているからだろう。
慧音の薄い青色の髪が、ハクの淡い緑色になっていた。
「ここで、目を覚まされると困るな」
そう言って、ハクは慧音を抱きかかえて住処の岩場まで歩き始めた。
ゆっくりと歩むハク。
もはや飛ぶ力も出ない。
森のモノ達はそんなハクを遠目から眺めていた。
ハクは慧音と会ってからの日々を思い出しながら歩いていた。
注連縄の木。
待ち合わせの広場。
村の子供達を交え遊んだ木々。
自分の思いと考えを話した山桜。
魚釣りをした小川。
――思えば……慧音はいつも私のそばにいたな。
そして……初めて出会った岩。
――ここから始まった。この子と会って私の人間好きに拍車がかかったな。
様々な思いがハクの中をかける。
「ここに連れてくるのは初めてか」
住処としている岩場の洞窟に足を踏み入れる。
そこには……
「……白澤殿……」
「奎」
奎がいた。
「ふふふ。私は正真正銘の愚かものさ。だが……後悔はしていないぞ」
苦笑の後に優しい目線を奎に向ける。
「目を覚ました時、慧音は私を覚えてはいないだろう。今までに話した知識は残っている。もともと知っていたという形でな」
「私どもはどうすれば……」
酷く悲しい目をして奎は聞く。
「簡単だ。この子を……慧音を頼む」
ハクはそういうと慧音を下におろす。
その慧音の姿は人ではないものに変っていた。
「魂の結びが終わったか」
魂が変われば、器たる肉体も変わる。
慧音の髪は淡い緑になり、その頭から二本の角が生えていた。
お尻にはハクと同じような尻尾も生えていた。
慧音は半獣として生まれ変わったのだ。
「半獣は人間とは相いれない。これから苦労することになる。それでも……生きていれば……それだけでいい」
ハクは愛おしそうに慧音にいう。
「これはお守りだ。私はもう死ぬ。最後まで見届けられない代わりに、これを贈ろう」
そう言ってハクが取り出したのは、血で真っ赤に染まったあの組み紐だった。
「解き、紡ぎ直そう」
そうハクが言うと、赤い組み紐はしぜんと解けていき元の毛に戻った。
その赤く染まった毛にハクは自分の尾から新しい毛を取り出し混ぜた。
それにハクは己の血を一滴たらす。
すると不思議なことに混ざった新しい毛は赤く染まり、元の毛と区別がつかなくなった。
そして再び編まれていく。
出来上がったのは平たく細長い織物だった。リボンである。
「最初で最後の半獣の白澤に、最後の完全な白澤から贈る」
出来上がったリボンをハクは慧音の頭にある角の片方に結びつける。
「私の知をお前に譲ろう。私の血がお前を守ろう。……その証としてこれを贈ろう」
ハクは眠る慧音を見つめる。
「………」
その目は慈愛に満ちていて穏やかだった。
そして、するすると獣の姿に戻るとハクはゆっくりと目を閉じた。
奎が悲しみの遠吠えをした。
ここに最後の白澤が永久の眠りに就いた。
◆◇◆◇◆
「……ハク?」
大陸。
人間の町の近くの山。
そこで人の姿のリンは月を見上げていた。
満月を背負ったハクがそこにいた。
「お前……」
海を越えたハクが再び戻ってくるとは考えられない。
帰ってくるとすれば……死んだ時。その証拠に、ハクの姿は透けていた。
認めたくはなかった。
そんな悲しいこと、リンは認めたくなかった。
「……死んだ……のか……?」
分かり切ったこと。
それでも聞かずにはいられなかった。
《あぁ》
だから、ハクのその言葉は酷く残酷なものだった。
「何故っ!」
《色々あった》
そういって苦笑を浮かべるハクの目は安らかだった。
「そうか……何とも、お前らしい最後だ」
《リンもそう思うか。私もそう思う》
ハクはリンにあの地で起こった事、自分がした事、すべてを話した。
「しかし、よく思いついたな。白澤としての部分の魂を分け与えるなんて……」
《伯父上がな》
「うん?」
《死にかけの伯父上が、別の死にそうな白澤にやったことさ》
「なるほど。確かに破天荒な方だったからな」
《荒業さ》
リンは最初は悲しんでいたが今はもう落ち着いてハクの話を聞いている。
「慧音といったか」
《あぁ》
「もし、私が彼の地に行くことがあったら会っても?」
《会ってやってくれ。私のことは内緒にな》
色々な話をする。
しかし、刻限はすぐにやってくる。
《そろそろ逝くよ》
「……そうか。なぁ、ハク」
《なんだ?》
沈痛な表情から一変。
リンは真剣な顔をして聞く。
「たのしかったか?」
ハクはにこりとほほ笑むと
《あぁ。もちろんだ。“我が人生に悔いなし”だ》
「人ではないだろうに」
《違いない》
そう言って二人は笑った。
一人残されたリンは思う。
――慧音。白澤を継いだ人間。会ってみたいものだ。
そして、ハクが消えていった満月を望んでいった。
「ああ、月が奇麗だ。そう思うだろう。なぁ、ハク」
◆◇◆◇◆
「……ぅ…ん」
洞窟の中。
半獣が目を覚ました。
「……?ここは……」
頭が痛む。
自分という存在がよくわからない。
霞が晴れない。
――私は……
覚醒を促すかのように声に出して確認をする。
「ここは……住処。で、私は慧音。半獣の慧音」
声に出すと、霞が晴れていく。
「昨日は満月だったから、ここに隠れて……」
「くぅ~ん」
「お前は……奎?そうだ。奎だ」
心配そうに声を上げた奎をやさしい手つきで撫でる。
慧音は忘れていた。
ハクが綴った通りに。
「よし。目が覚めた」
慧音はもう人間であったころとは違う。
まだあった幼さが抜け、口調も変わっていた。
洞窟の外に出た慧音。
時間は夜明け前。まだ外は暗い。
沈みゆく満月が照らすだけだ。
「あれ?……なんで?」
満月を見た瞬間。
心が締め付けられる様に傷んだ。
――何?空しい?悲しい?何で!?
ポタリと。
涙がこぼれた。
「……あ」
それに気づいたら止まらない。
涙が……零れる。
声にならない叫びが響く。
理由を知らず。わかることもなく。
ただただ、慧音は泣き続けた。
心に空いた穴がある。
でも、慧音はそれに気づかない。
否、気づけない。
慧音に出来ることは泣き続けることだけだった。
そんな慧音を、奎と沈みつつある満月だけが見守っていた。
◆◇◆◇◆
幻想郷に半獣あり。それ、人里に住み人を守る守護者なり。知識にたけ、歴史を食うことのできるものなり。
望の夜には姿を変え、歴史を創る。
その半獣、名を慧音、性を上白沢と言ふ。
慧音の話って色々と想像できる分、幅があって面白いですよね。
白澤と慧音の知識を教える話や、村の状況も読んでてグッときました。
面白かったです。
ハクと慧音が出会う場面は、なんとなくもののけ姫のアシタカとモロが対話するシーンを彷彿とさせる。
それと恐らく誤字と思われる箇所が。
ぞれから→それから
敢えて「性を」(生まれ持った性質的な意味合いで)としたのだろうか・・・。
どちらにせよ楽しく読ませて頂きました。
過去話は一人一人解釈が違うので楽しいですね♪
全体的にまとまっていて、すんなりと読むことが出来ました。
読んでいて色々とクる物がありました。頭が痺れた感じです。
とても面白かったです。
よい物語をありがとうございました。
P.S.木が避けてるところで思わずネコバスを思い出しましたw
そんなものは些細なことだと思えるほどこの作品が面白かったです。
PCに眠らせないでいてくれてありがとう。
あ、ただ気になることがひとつ。
>「うん?じゃないよ。東は海だぞ。超える力はあるのか?人に変化できなくなったのに……」
>曰く、変化出来なくなったのではなく力の温存の為にしなかった。
>ハクは力を無駄にしないように、人型に変化したまま過ごすようになっていた。
前半と後半で、力の温存に関することで矛盾があるように感じました。
変化する祭に多大な力が必要となるだけで、人型維持にはそれほど力は必要ないということでしょうか?
慧音の過去については、いろいろな解釈がありますが
こういった解釈も良いですね。
本当にPCに眠らせておくには勿体無いお話でしたよ^^
本当にありがとうございます。
では、お返事をば。
>煉獄様
慧音の過去はほんと考えてて面白かったです。
グッとくるですか。そう言ってもらえてとてもうれしいです。
>9の方
ありがとうございます!
>13の方
>なんとなくもののけ姫のアシタカとモロが対話するシーンを彷彿とさせる
言われてみればそうですね。気づきませんでしたw
たぶん、ハクの住処付近のイメージとしてシシ神の森を思い浮かべていたからかも知れません。
かっこいいなんて初めて言われました。
あと、誤字の指摘、ありがとうございます。
>17の方
確かに多かったですもんねw
>22の方
あぁ!それは私のミスです。
ですが、このままでもいいような気がするのでそのままにしておきます。
指摘ありがとうございます。
>芳乃奈々樹様
いえいえ。こちらこそ読んでいただきありがとうございます。
あ。ネコバスは書いてて私も思いましたw
>25の方
そう言ってもらえるとうれしいです。
あぁ。人化についてですね。
紛らわしい書き方をしてすみません。
その通りです。
人化するのにかかる負担が10だとするなら、維持するのにかかるのは2~3くらいなんです。
加えて言うなら、大陸ではハクの力となる自然が無くなって来ているので、維持するのも大変なんです。
駆けっこではリンが力を貸して支えてくれていたんです。
日本の森はまだハクを支えるだけの力が自然に残っていたので、維持する負担は1以下にまでなっているんです。
ハクが人化を使い続けたのは、村の人間に獣の姿のハクは映らないからなんです。
村に係る以上人化は避けられませんから、負担のかかる変化を繰り返すより、人化したままでいたほうが力が温存できるんです。
これで分かって頂けたでしょうか?
>30の方
もののけ姫ですか。
おそらく、森のシーンや、戦があるところなどがそう思わせるんだと思います。
ありがとうございます。
匿名の点数ボタンを押してくださった方々もありがとうございました。
皆さんにそう言ってもらえて、本当にPCに眠らせなくてよかったと感じています。
ありがとうございました!