むかーし、むかし。
山々に囲まれたある所に人里がありました。
そこは、山の実りと狩猟によって成り立つ、小さく貧しいが平凡な里です。
里長は頑固で融通は利かないけれど基本的に人望があり、その長男である跡継は父を見て育った為、融通の利く有望な若者でした。
跡継には許嫁がおり、里の先生の娘でもある許嫁は素直で聡明だと評判な娘でした。
里に暮らす誰もが、少なくとも向こう三十年は安泰に過ごせるだろう、そう思って日々を過ごす。
そんな、とても平和な里がありました。
或る日。山の緑が赤くなる時期、これから寒くなるからその前に、と許嫁は他の娘達と連れ立って山の実りを採りに入りました。
物心ついた頃から慣れ親しんできた山、娘達にとってそこは庭先に過ぎません。道なき道を自在に進み、木々と枝々を縫ってあっという間に背負った籠を一杯にします。
「ああ、もうこんな位でいんじゃねっかな。疲れっちもう明日にせようよ」
「そだねー。疲れっちねー」
「したら明日はあっちの方回ってみる?」
「そうせよっか。こっちはもうあらかた採ったし」
たっぷり重い荷物を背負った、娘達の他愛のない会話。
ふと、許嫁が少し高い所になる実を見つけました。
「あ、でももうちっとくらいは……ん? ねぇ、あそこに実がまだ一つあるよ」
「え? でもちーっと危なくない?」
「大丈夫大丈夫、気ぃ付けるから」
心配そうな他の娘の言う事ももっともです。その実の傍には崖があり、だからこそ採り残されていたのですから。
ですが許嫁は笑って言い、手慣れた様子で木に足をかけます。
ところが。
「あ?」
慣れているからこその不注意か、苔を踏んだ足は容易に滑ってしまいました。
「きゃああああああああああぁぁぁぁ―――」
何と言う事でしょう、許嫁は崖を転げ落ちていってしまいます。
一緒に居た娘達は突然の事態に驚き、山林の奥へ消える叫び声をただ聞く事しかできませんでした。
娘達の誰かが崖下へ声を張り上げて呼びかけてみましたが、返事はありません。
これは一大事だ、と娘達は顔を見合わせ、目印を置いて駆け足で山を降りました。
「なんだってぇ!?」
娘達の言葉に、掴みかからん勢いで大声を上げたのは里の跡継です。それも当然でしょう、崖底へ消えたのは他ならぬ自分の許嫁なのですから。
放っておくと娘達を端から殴り飛ばしかねない勢いの跡継を他の男達が懸命に抑え、宥め、彼が落ち着く頃には里長が将来の娘の為に山狩りの準備を終えていました。
「最悪、これで見つからねども籠の中身がある。怪我さえしていなけんばそうたったと死ぬこたねぇだろ」
里長の言葉に跡継はきりりと眉を吊り上げましたが、流石に父親に殴りかかるような事はありませんでした。
普段はどちらかといえば調停役に回る事の多い跡継のこの態度に、里の者達は彼が許嫁を心から心配しているのだなと思い、山狩りに参加する男衆は緊張を新たにします。
頭を冷やせと、里長や許嫁の親から説得されても受け入れなかった跡継も山狩りに参加する事になり、男達は山へと入って行きました。先導役に娘の一人を付き添わせて。
その頃、滑落した許嫁はと言うと……。
「…………」
転げ落ちたせいで小さな怪我こそ無数にありますが、運良く落ち積もった枯葉に受け止められ、大事は無かったようです。
ですが、許嫁にとってそんな事はどうでも良い事でした。
彼女の言葉を失わせている原因は、枯葉の上にへたり込む彼女の目の前に居るのですから。
腰が抜けた許嫁の姿を映す九つの瞳。そして六本の角と四本の脚を持つ異形の獣。
ああ、命拾いしたとホッとした所でそんな獣と視線が合っては、言葉など失って当然です。
じぃ、っと獣は許嫁を見ていましたが、ぐぱっ、と音を立てて大きな顎が開けました。
上顎と下顎を唾が糸引いてそれはそれは身の毛がよだちます。
「……ホウ。之ハ珍シイ事ダナ?」
「し、しゃべ……った」
てっきり齧られる、と覚悟を決めていた許嫁は、狐につままれた顔でそんな事を言います。
するとそれが大層おかしかったのか、獣は声を立てて笑いました。これがどれほどおぞましいか。人間ではない者が人間の言葉を喋り、人間のように大笑いしているのです。許嫁は改めて身の毛もよだつ思いを味わいました。
「嗚呼、上ノ里ノ細カキ者ナド何百年振リカ。……ソロソロト言ウ事ナノデアロウカナ」
笑った後にそんな事を呟いたかと思うと、獣は獣らしからぬ理性のある瞳で許嫁を見ました。これは獣からしたら先程からずっとそうだったのですが、許嫁の方の気が動転していたので初めてその事に気が付いたのです。
「……里を、知っている?」
「知ッテイルトモ、知ッテイルトモ。里ノ事ナラ何デモ知ッテイルトモ」
孫を自慢する翁のような言い方に、許嫁は首をかしげます。
「それって……どういう……」
「聞キタイカネ?」
ですが、ごす、と枯葉を踏み抜く一歩と共に獣が応えたものだから、許嫁は思い切り後ずさりました。
「クックク、細カキ娘ヨ。知ルトイウ事ハ大変恐ロシイ事ダヨ。ソレデモ良ケレバ、聞カセヨウカ」
「えっ……えっ?」
「ハ、ハ、ハ。脅カシテモコレデハ、ツマラヌナ」
再び動転する許嫁の前で、獣は脚を折りどっかりと伏せの姿勢になります。
「此処カラ崖ヲ上ルノハ難儀ダロウ。今デハヤツガレシカ知ラヌ抜ケ道ヲ教エルカラ、ソコヲ通ッテ里ヘ帰ルト良イ」
そう言って、タダシ、と獣は付け加えました。
「暫クノ間ヤツガレノ話シ相手ニナッテ欲シインダ」
「……話し、相手?」
許嫁の言葉に獣は頷きます。
「ソウダヨ。今迄カナリ退屈シテイタンダヨネ、ヤツガレハ」
微笑む獣の姿を見て、ふと、許嫁はこのおぞましい獣からおぞましさを感じなくなっている事に気付きました。
賢さを感じ、邪悪さを感じなかったからでしょう。
それに……良く見てみれば、獣の造形も醜悪と言うよりは可愛げがある……ような気もしてきましたから。
「物事ヲ良ク知ッテイルダケデハネ、知識ハトテモ希薄ナモノナンダ。例エバ、一ツノ事象ヲ客観的ニ知ッテイテモ、ソレヲ知ラシメナイ限リソレハ存在シテイナイノト変ワラナイカラネ。知識トハ自己満足デハナイノダヨ」
そんな調子で獣は滔々と語り始めましたが、残念な事に許嫁は早速ちんぷんかんぷんでした。
獣の方も、誰かに物を話すのはとても久しぶりだったので、仕方なかったかもしれません。
日も暮れ夜も深夜となり。山狩りに参加した者達が松明を手に手に肩を落として帰ってきました。跡継など、崖へ飛び込もうとした為に年長者に殴られた痣を頬に拵えています。
そんな男達を出迎えたのは、誰あろう今まで山中を回って探してきた許嫁でした。
「え!? お前……どうして!? なんでだ!?」
「崖から落ちて、どうせようか迷っていたんだけど……いつの間にか里に戻ってこれて」
本当は、獣の長話につきあった見返りに教わった抜け道を通って来たのですが、それは言うべきでは無いと許嫁は考えていました。
「よ……良かったぁ~……ッ!」
ともあれ許嫁の無事な姿を見た跡継は、人目も憚らず男泣きに男泣きし、その勢いで許嫁を抱き締めて平手打ちを食らったりして。
周囲の笑いに包まれつつ、顔を真っ赤にした許嫁は跡継に謝ったのでした。
―――そして時は流れ、美しく成長した許嫁はこの春にも跡継との婚儀を控えていました。
里の者はその事を皆知っていますが、許嫁は婚儀の事を自分の師に報告する事にしました。
「……そういう訳で、あのお人と結婚する事になったわ」
「ホウ、ソウカネソウカネ。ソレハ結構ナ事ダ」
崖を落ちた先にある沢の畔、いつも通りの伏せの姿勢で返事をした獣に対し、許嫁は嬉しそうに表情を綻ばせます。
「ダガネ、ソノ事ナラヤツガレハトックニ知ッテイルノダガ」
「正確な日取りは今日決まったばかりなのに?」
「フーム、ソレハマダ知ラナカッタ」
「ふふん」
思わず唸る獣に、許嫁は得意げに腰に手を当てました。
実はこの許嫁、好奇心からあの後何度も獣の元へ足を運んでいたのです。獣の方も退屈していたからか、彼女を迎え、色んな知識や事実を語って聞かせました。許嫁はこうして得た知識を里の為に活かし、自らの親を超える識者として里から大事にされ、親からは誇りに思われるようになっていたのです。
ですが本来は自分の手柄では無いという事も手伝ってか、許嫁は何度も獣の事を里の皆に教えようとしました。ですが、その都度獣が嫌がるのです。
「一対一デアッタカラコソ、コウシテ仲良クナレタノダカラネ。ソレニ、ヤツガレガアマリ好マシイ外見デ無イ事クライハ知ッテイルヨ」
そんな風に言って、何故、何故と口を窄ませる許嫁を宥めたのです。
ですがこの日、許嫁は跡継を一人だけ連れてくる、と言いました。
「これならどうかしら?」
「……フーム。ドウカナ」
「不安? きっと杞憂で終わるわ」
獣は何か言いたげでしたが、結局、許嫁の熱意に押し切られる形で跡継と会う事を了承したのでした。
「…………ドウナッテモ、後悔ノ無イヨウニナ」
では呼んで来る、と背を向けて立ち去った許嫁にそんな言葉をそっと零して。
「おいおい、一体なんなんだい」
困惑と嬉しさが半分半分くらいの跡継の声。彼は今目隠しをされ、許嫁に手を引かれて山を進んでいました。
「前から言ってたでしょ? 私の手柄は殆ど私の手柄じゃ無いって。あ、右足気を付けて、根が」
気楽と嬉しさが半分半分くらいの許嫁の声。彼女は今、目隠しをした跡継の手を引いて山を進んでいました。
「っと。そうは言うが、お前の言う事はそれに関しては胡散臭いからなぁ。この山は爺様の爺様の爺様そのまた爺様くらいからずっと親しんで来てるんだぞ? お前が言うような獣が居たら、とっくに退治されているさ」
「だから、退治しちゃダメよ?」
「はいはい、分かってる分かってる」
跡継は以前から獣の事は聞いていました。しかし信じられません、せいぜい猪ならまだ分かるものの、なんと目が顔と胴に計九つ、角が頭と胴に六つで、猪よりもずっと大きくて言葉を話すだなんて。
どう考えてもそんなのがいる訳がありません。
てっきり、次々と新しい知識を披露し続けた事に対する複雑な照れ隠しか何かだろう、と跡継は思っていのたのです。
しかし。
「じゃあ、良いわね? 目隠し取るわよ」
跡継の視界が開かれたその瞬間から。
許嫁にとって最も望まない事態が待ち受けていました。
「……ヤア、我ガ死ヨ」
跡継の目に映る獣の姿。それはまさしく許嫁の言ったとおりで、彼女の言葉の正しさを証明するものです。だけどそんな事は跡継にとってはどうでもいいものとなっていました。
「ぅ……」
「安心して? あの方はとても賢―――」
「うわ、わあああああああああああああああああああああああああ!!!!」
獣への返事は叫びになって、その叫びから跡継の状態を察し、宥めようとした許嫁はすぐさま跡継に抱きかかえられてしまいます。
「な、何を!?」
「逃げるぞ!」
一目散に里へと駆ける跡継。彼の表情には緊張と使命感が見て取れ、異形の化け物から許嫁を生かす事で頭が一杯になっているようでした。
「待って、違う、違う!」
「何が違うものか! あれは化け物だ、あれは化け物だ!」
許嫁に髪を引かれ頭を叩かれようと、跡継は必死に里へと走ります。
「違うったら! あの方のおかげで今の里があるようなものなのよ!?」
「違うもんか! あれはお前の手柄だ、お前のおかげで今の里があるんだ!」
「だから! ……話を聞いてよ! ねぇ!」
許嫁の悲鳴は跡継には届きません。
ただ、跡継は自分の本能が鳴らす危険の鐘に従って、ひたすらに里への道を駆け抜けて行ってしまいました。
「…………」
獣はただその様をじっと見つめ、見えなくなった辺りでようやく長い息を吐きました。
跡継は里に帰るなり、尋常じゃ無い様に疑問を投げかける全ての人を無視して許嫁を自宅の座敷牢に放り込んでしまいます。
「痛っ!」
「お前はここにいろ、ここにいれば安全だ」
「何をするの!? ……いえ、何をする気!?」
許嫁が立ち上がった頃には、座敷牢の格子戸は閉ざされてしまいました。これでは許嫁は外へ出る事が出来ません。
「お前はここにいろ」
跡継は許嫁の問いに答えず、そう言っただけで足早に去って行きます。
「待って! ……何をする気なの!?」
許嫁の叫びは跡継には届きません。
それでも許嫁は座敷牢の格子戸に縋りつき、大声を出し続けました。
戸を締め、許嫁の声を遮断した跡継は、心配げな視線を向ける里長と、近い内に父親となる先生に対し言います。
「今すぐ、山狩りの準備を」
「なんでだ?」
「とにかく早く。山に化け物が居たんだ」
里長と先生は半信半疑の様子で顔を見合わせましたが、
「早く!」
跡継の様子が只事では無い事を物語っていたので、この場は彼の言う通りにしました。
獣はじっと空を見つめていました。
いつも通りの、美しい橙色の空。全ての目を使ってじっとその空を見つめています。
獣は気が付いていました。
沢の畔、自分が伏せるその位置を囲む細かき者達の存在に。
でも獣は無視を決め込み、ただ空ばかり見つめていました。
やがて、心胆の据わった屈強な者を五人ばかり従えて、跡継が獣の前に姿を現します。
手に手に槍を持つ彼等は、異形な獣に対し明らかな畏怖を感じていますが、それでも里を護る使命感が勝っているようでした。
「……サテ、ヤツガレニ何カ用デモオアリカナ?」
ぎょろりと、九つの瞳が男達の方へ向きます。
それだけで男達はたじろぎますが、一人跡継は一歩前へ進むと、勇猛に肩をいからせ槍を上段に構えました。
「お前を退治しに来た。話せるなら、俺が言っている意味が分かるだろう」
跡継の言葉に叱咤されるように、他の男達もそれぞれ槍を構えながら跡継を中心に鶴翼の陣を取ります。そして更に周囲では一斉に隠れていた男達が立ち上がり、それぞれ弓に矢を番え始めました。
「害敵ヲ排除スルノハ至極真ッ当ナ事ダ。……ソレヲトヤカク言ウツモリハ無イガ、アノ細カキ娘ハドウシテイルノダロウカネ?」
瞳をそれぞれ動かして、獣は自分がすっかり包囲されている事を改めて知ります。
「あれはお前に誑かされたのだ。お前の手の届かぬ所、お前の声が届かぬ所に閉じ込めてある」
「ソウカネソウカネ。デ、細カキ者ドモヨ。ヤツガレヲ追イ払ウノカ、ソレトモ殺スノカ。ドチラカネ」
「殺すに決まっている。お前のような恐ろしき者が害を成さない筈が無い!」
獣の問い掛けに対し、跡継は一片の疑いも無い声音で言い切りました。
「里ヲ護ル為ニカネ?」
「他に何がある!」
「イヤ、瑣末ナ事ダ」
そう言って獣は立ち上がりますが、その時気が逸ったか、誰かが矢を放ってしまいます。
この山狩りに集められたのはそれぞれが手練れ、走る猪すら射止める者ばかり。そんな者が、例え脅えや怯みがあった所で、獣のように大きな図体をした獲物を外す筈がありません。
「グ」
丁度横っ腹の辺りに矢を受け、獣は小さく唸りました。
そしてその瞬間、矢が利くのなら槍も利くだろうと跡継達は気勢を揚げて猛然と突撃し、他の弓手達も一斉に矢を放ちます。
獣はただ、九つの瞳で他人事のようにそれらを見つめていました。
許嫁には不幸中の幸が二つありました。
一つ、座敷牢はこの里では滅多に利用される事も無く、根気良く頑張れば錠前が勝手に外れてしまうという事。
二つ、跡継があまりに急に事を運んだせいで、仔細を知らない里の者達は許嫁の見張りに誰一人として立たなかったという事。
これにより、男達が山狩りに出た暫く後、薄暗くなった頃に許嫁は脱走する事が出来たのです。
後は人目を盗み、彼女は獣の元へと走りました。
里のただならない空気から、嫌な予感が足を急がせます。
「ぁ!」
丸い月の明かりを頼りに駆ける許嫁は、途中小さく驚くと慌てて木陰へ身を隠しました。
物陰から様子を窺い、彼女が見たのは憔悴した様子で里へと歩く男達。その中に跡継の姿を認め、許嫁は心が茨で締め付けられるような気持を味わいます。
まさか、まさか、まさか。
許嫁が嫌な予感に立ち竦んでいる内に、男達は見えなくなりました。
「そんな……」
不安を口にしながら、許嫁は再び獣の元へと走ります。
男達はきっと獣を見つけられなかったに違いない、そうだ、あの後律儀にあの獣が同じ場所に居る筈が無い。
だから大丈夫、絶対に大丈夫。
あの方は無事で、息せき切って来た私をいつものように出迎えるに違いない。
だからまず謝らないと。こっぴどく怒られるかもしれないけれど、とにかく謝らないと。
それから里へ帰って、どうにかして誤解を解かないと。あのお人だっていずれ分かってはくれるでしょうけど、今はまだ早かった。
皆私のせいだ。だから、とにかく早く急がないと。
許嫁は走りました。
そして、沢の畔まで来て、立ち止まりました。
丸い、丸い、月明かり。
暗い、暗い、血の香り。
許嫁は目を見開いて、信じられないものを前にして、ただ何も言えず、何も出来ず、ただ立ったまま。
「…………え……?」
ようやくそれだけを言う事が出来ました。
どうして、獣が此処に居るのでしょうか?
どうして、獣は倒れているのでしょうか?
どうして、獣の身体から血が流れているのでしょうか?
「………………どう、して……?」
砂利を踏んで、砂利を踏んで、砂利を踏んで、血を踏んで、許嫁は倒れたまま動かない獣の傍まで来ます。
そしてもう一歩血を踏んで、矢と、槍が突き立てられ、横向きに倒れる獣の前で、膝が抜けて血の上に座り込みました。
許嫁は、もう何が何だか分かりません。
獣は隠れようと思えば隠れる事が出来た筈です。
獣は抗おうと思えば容易にそれが出来た筈です。
獣はその気になれば跡継らを説得出来た筈です。
彼女の良く知る賢い獣なら、そのどれでも好きな事を選び、その通りに出来た筈でした。
なのに、そのどれもする事無く、獣はこうして血に沈んでいます。
許嫁は訳が分かりませんでした。
ですから、ただ茫然と獣を見つめ、何も言えず、何も出来ず、ただ座ったまま。
そうしたまま、月の光が血と砂利に獣と許嫁の影をすっかり縫い込んだ頃。
「…………ォヤ」
獣の声を聞いた許嫁は吃驚して、再び目を見開きました。
「え……? い、生きて……?」
許嫁がようやくそれだけを呟くと、倒れている獣が少しだけ身動ぎます。
「ウム、ソノヨウダネ。……先ハソウ長クハナサソウダガ」
「そんな……! だって、どうして!? 私は、私はただ……」
獣の弱々しい声を聞いて、許嫁は大声を出し、それから罪悪感に頭を抱えました。
何もかも自分のせいだと、そう考えるには充分過ぎる顛末ですから。
「……細カキ娘ヨ」
声をかけられて、許嫁は思い切り身を縮めます。どれだけの怨嗟を受けても仕方がないと思ったからです。
「此ノ事ハ、ヤツガレハ分カッテイタノダヨ」
「…………え?」
ですが獣は怨嗟どころか、許嫁が思いもしなかった事を言いました。
「初メテ出逢ッタアノ時点デ、ヤツガレガコウナル事ハ予想ガ出来テイタノダヨ。……タダ、予想ヨリモチョット遅カッタガ」
「そんな、じゃあどうしてそれを私に言わなかったの? どうして私を止めなかったの!? あなたならちゃんとした対策が出来た筈よ! ……そうでしょう?」
「ソウダネ。ダガ……言ッタトオリ、ヤツガレハ退屈シテイタシ、寂シクモアッタンダヨ」
「だからって! だからって!!」
苦しげな苦笑交じりの獣に、許嫁は心から怒りました。
こんな目に遭うと分かっていたのなら、退屈でも寂しくても我慢するべきだと思ったからです。
握った拳を震わせて、目尻には涙を浮かべて、自分の方を向いている瞳の一つを真っ向から見つめました。
暫く許嫁の瞳を見つめ返した後、獣は長く深い息を吐きます。
「…………優シイナ。ダガ、ソロソロヤツガレカラ離レナサイ」
「……どうして」
「ヤツガレハ之デモ神獣ト呼ビ習ワサレテイテネ。……神トイウモノハ、常ニ在ラネバナラナイモノ。ソレ故、ヤツガレガ隠レル時ハ傍ノ者ガヤツガレノ役ヲ負ワサレル。コノ永キ孤独ヲ押シ付ケタクハ無イノダヨ」
獣の言葉に、許嫁は勢い良く首を左右に振りました。
「嫌……」
「之カラ……死ノウトイウ者ヲ。困ラセルモノデハナイヨ?」
「だって、私が悪いんだもの。私がしっかりしていれば、こんな事にはならなかったんだもの。だから……」
「ダカラ、ヤツガレノ厄ヲ受ケルト言ウツモリカネ」
そうよと言って、許嫁は身を起こすと獣に覆い被さります。もちろん、到底足りませんが。
「あなたはどうして、私に恨みごとの一つも言わないの。私のせいであなたは死のうとしてしまっているのに」
「……ソレハ、前ニ言ッタ通リダヨ」
―――以前、一度許嫁が獣にきいた事があります。
「あなたはお喋りが大好きなのに、なんでこんな辺鄙な所におるの?」
実際の所、獣は許嫁以上によく喋るものだから、この疑問も当たり前でした。そうしたら獣は苦笑交じりにこう答えました。
「ヤツガレハ細カキ者ヲ愛シテイル。ソレガ故ニ此処ニ居ルノダヨ」
すると許嫁は首を傾げます。
「じゃあ里で一緒に暮らせば良いのに」
「ハ、ハ、ハ。ソレハ出来ナイ相談ダヨ」
「話してみればあなたが悪い者じゃない事くらい、皆分かってくれると思うんだけど……」
許嫁の言葉に、獣は寂しそうな瞳を見せました。
「…………ソウデアレバ、ドンナニ良イカ」
その時は、許嫁は獣の言葉と、瞳の意味に気付けよう筈が無かったのです―――
「だからって……どうして……?」
「愛スル事ニハネ、理由ナンテ無インダヨ。ヤツガレハ細カキ者達ヲ愛シ、ソノ事ヲ後悔シテナドイナイノダカラネ」
「どうして……」
許嫁には分かりませんでした。
そんなにも愛しているのに、その愛している者の手によって、死に瀕してしまっているのに。それでも尚、獣は許嫁らを愛していると言うのです。
死んでも構わない程の愛というものが、理由も無く存在すると言う事が許嫁にはどうしても分かりませんでした。
「イズレ分カルカモシレナイガ……出来ル事ナラ……負ワセタクハナカッタ、ヨ」
「!」
ですが、最期に長い息を吐いた獣は、それっきり一言も喋らなくなってしまいます。
そして。
山狩りを終えて里長達に事の次第を話し終えた跡継は、座敷牢に許嫁が居ない事を知って愕然としました。
慌てて里中を探し回り、まさか、と丸い月の明かりを頼りにあの獣の元へと走ります。
そして。
許嫁は跡継を見ました。
跡継は許嫁を見ました。
「お前……」
跡継は獣の傍らで立ち上がる許嫁を愕然と見ていました。
ですが、その娘が許嫁だとは信じたくはありませんでした。
何故なら。
娘の頭には二本の角が生え、瞳は炯々と赤く、そして獣そっくりの尻尾が生えていたのですから。
許嫁の方は、そんな跡継の様子と、彼の瞳に映る自分の姿を見て、仔細を承知します。
獣が今まで負っていた役と厄が我が身に受け継がれた事は、今更疑う余地もありませんでしたから。
丸い、丸い、月明かり。
暗い、暗い、血の香り。
許嫁は少し寂しげな笑みを浮かべると、跡継から逃げるように走り去って行きます。
跡継は思わずそれを留めようと手を伸ばしますが、声は出ませんでした。
あの娘を呼び止めたって、どうしようもないと分かってしまったのです。
角と違う色の瞳と尻尾を持ったあの娘を連れ帰った所で、里は歓迎しないでしょう。なにより、自ら指揮して獣を害した跡継が、そんな事を出来る訳もありません。
ですから。
許嫁が消えて行くのを跡継はただ見ていることしか出来ませんでした。
むかーし、むかし。
山々に囲まれたある所に人里がありました。
そこは、山の実りと狩猟によって成り立つ、小さく貧しいが平凡な里です。
里長は頑固で融通は利かないけれど基本的に人望があり、その長男である跡継は父を見て育った為、融通の利く有望な若者でした。
跡継には許嫁がおり、里の先生の娘でもある許嫁は素直で聡明だと評判な娘でした。
里に暮らす誰もが、少なくとも向こう三十年は安泰に過ごせるだろう、そう思って日々を過ごす。
そんな、とても平和な里がありました。
この設定の話は初めてで、話にどんどん引き込まれていきましたよ。
慧音は獣の役目と厄を引き受けハクタクに成る・・・と。
獣との会話も場を引き締めていて良かったと思います。
とても面白い作品でした。
「こんな事があったかも」
と素直に幻視出来ました、面白かったです
素直に面白かったです。
ところで跡継と後継が文中で入り混じって使用されていますが、今回の場合どちらが正しいものなのでしょうか?
とても面白かった。
次のお話期待して待ってます!