冷たく晴れ渡る空。
素直なまでの青の色は、雲を乗せ、彼方の霧に白く霞みながら、果てなく続く。
煌々として煌めく湖。
遠きに臨む天に負けじと広がる水の清澄さは、それを望んでいるかのように、どこまでも健やかに。
何の打算も含みも無く、そうあり続ける。地平の向こう、二つの青は一つになった。
張りつめた空気に響く弦の音。
図ったように霧の晴れた空間に、騒霊たちはいた。
喧しい妖精も、物騒な妖怪も、もっと物騒な人間も、邪魔する者はだれ一人としていない。
それは彼女達に用意された、彼女達のための特別なライブステージ。
その演奏は、たった一人の何かの為に。
黒い少女は、奏でる。
掌上明珠、至極の弦楽器から生み出されるは、勇壮なる幽玄の調べ。
時として静かに、時として力強く響く波が、虚空を破り、馴染み、更なる音の広がりを持って、その存在をしたたかに主張する。
音が揺れ、空が揺れる。
その広大な身に隙無く染み込む鬱の鼓動に、空も思わず流れることを忘れた。
ヴァイオリンの少女もまた、感情のままに身を任せることにした。
両の手でしっかりと支えられていた楽器を手放し、大事そうに傍らに並べて浮かべる。
弾き手を見失い、手持無沙汰だ、退屈だ、と飛び回る相棒の事も意に介さないと言った様子で、その拍子、スッと全身の力を無くした。
それでもなお、止むことなく無音の宙天を盛りたてる弦楽。たった一人の奏でる、幾多の音色。
無心にして聞く自分の音は、思っていたよりもずっと不出来で、しかし、それ以上に心地よく体の芯まで貫き、伝わる。
気だるそうに投げ出した身体は意思も無く、吹かれたそよ風にくるり回る。ただ逆らわず、抗わず。
真っ黒の楽団服に、その透き通るような白さを際立たせられるかのように、瑞々しい肌は陽に照らされてより美しく。
さらされるのはスラリと細く引き締まった下肢。
もはや頼るものも無くたゆたうそれは、ともすれば易々と折れてしまいそうなほど、印象としては弱々しく柔い。
ふと長袖の下に隠れた左の細腕が、遠慮がちに伸ばされた。
次女のものと間違えてしまったのか、体躯に対していささか長すぎた袖から、丁寧に揃えた繊細な指の根までをちょこんと出して、何とはなしに見つめてみる。
意識の先を向けられた、惜しいところで外に出ることが叶わなかった親指以外、四指の先は、冷たい空気を、音を敏感に拾ってくれた。
ひしと伝わってくる夢幻の詩情。側には自分が唯一、一途に想うことのできる妹たち。
暫しの間、あらゆる悩みも忘れて、夢の中の世界に酔う。
半分ほどに閉じられた大きな瞳は、まるで寝る前の小さな子供のようにぼんやり眠たそうな半覚醒にも、愛おしい者を見守るような慈愛を秘めた表情とも映る。
ただ一つ確かな事、纏わる陰影、ルナサは哀愁の風景に融け入ってしまうほど切なく、静かに音を紡いでいくのだった。
白い少女は、踊る。
姉の弾く緩やかな舞曲に。共鳴する朝の光に。
何時もは曲を引っ張る元気なトランペットも、今ばかりは抱きしめられた腕の中に大人しく納まっている。
気持ちの良い調子の流れに、マイペースなステップ。
彼女にかかれば踏みしめる大地があるかどうかなど、取るに足らない些細なことだ。
地上から空中、果ては大結界の向こう側まで、ここだと思った場所は、その全てが彼女を主役とした舞台に変わる。
目を瞑っては、リズムに合わせて悠々と揺り動かされる半身。
その間にも、足は空を蹴り出し、半ばつられるかのようにふらりふらりと追従する。
気のみ気のまま、技法も調和も何も無く、在りたいがように振る舞う姿は縛られることのない純粋無垢なツキミソウ。
移り気な自由の中で唯に一つ、遠くに仰ぐ月に敬慕と切磋の念を抱く月見の花。
ここでたんと、静から動へ切り変わる曲調にも、苦も無く対応してみせる。
軽快なテンポ、心地よい和音のハーモニーには刹那、音の有する性状すら忘れさせてしまう癒しの余韻があった。
ただし、まだまだ私が一番だけどね。そんな事を思考の端にでも置いているか否か、その上機嫌な面持ちから図り知ることはできそうにない。
楽しげに舞い始めた楽曲に、自然足取りも軽くなってしまうというもの。
腕を目一杯に開いて翼を作り、鳥みたいに空を泳いだ。
ゴキゲンな音の波に乗れば、それはもう自由自在、勝手気ままにゆらめき動く。
ゆらぁりゆらり、ふんわりふわり、ひゅうひゅうすうすう好き放題。
片足を軸にしてくるくる回ると、ウェーブのかかった空色の癖っ毛が、ぷかぷかなスカートが、取り込む風にふわりと膨らんで、華やかさが一気に弾けた。
その内に、右に垂らしたたなびく偏重ヘアーが、目にかかってむず痒くっても全然気にしない。
幸せを運ぶ青い鳥の、伸びやかに広がった翼から、みんなへのハッピーのおすそわけ。
そのあまりに可憐なことに、我がもの顔で闊歩していた白い雲も、敢然と照りつける陽光すらも、まぶしくて目を眩ませる。
今、世はまさしく彼女の世界。
天の都の一輪の花。メルランは、気持ちの良いくらい本当に楽しそうに、表裏のない満面の笑顔を咲かせる。
地に佇む透き通る青ばかりが、天の様子を静かにその身に写していた。
赤い少女は、聞く。
聞いてどうするのかと聞かれれば、答えは簡単。操るのだ。
言い回しが少々悪かっただろうか。まぁ、結局の所、言葉での表現なんてどうしてくれたって構わない。
使う、扱う、操作、誘導、制御、管理にコントロール。何だったら、暗躍するととってくれても良いだろう。
ともかく彼女がしたい事というのは、そういうことだった。
どんな物事でも、先ずは本質を理解しなくては、思いのままに動かすことなどできやしない。
故に、その絶対的とも言える感覚、感性をフルに活用して、黙々と知ることに努める。
例えば、それは音楽。
音楽とは即ち、音の持つ協調性や調和性を根底に置いてこそ、楽を生む、あるいは生み出されるものである、というのが彼女の考えである。
一つ一つの優れた音たち、彼らの性格を見極めてあげ、繋ぎ合わせることで、それらは更なる高みへと登ることができる。
普通ならばノイズとして認識されるような日常の中の雑音だって、しっかり長所を磨いて組み立ててあげれば、十分にも、十二分にも光る筈。
彼女があらゆる楽器を扱い、日頃より未知なる音色を探し求めているのは、才のみに溺れることなく、そういったあらゆる音への可能性を見出しているからこそなのだ。
事実、躁と鬱を調和し、演奏を最も密かな部分から支えているのは、紛れもなくこの生意気そうなキュロット少女だった。
人を上辺の態度だけで判断してはいけない。彼女は実際、偉かったのだから。
そこで、聞くという事についてもう一つ例えを挙げるならば、今現在のまさにこの状況が相応しい。
流れる弦の響き、いつもより少し自由で陽気な弾奏に、ピアノの伴奏、シンセの音をなめらかに滑り込ませる。
成熟された技術がもたらす楽音は、見事に折り重なって姉たちの作る舞台の一助となる……わけでも無かった。
素人には判別のできない程度、ほんの僅かに伴奏のリズムを狂わせたからだ。それも態と。
知らない者には小さな綻びも、洗練された技の中では、完全な芸術を損なう大きな傷となる。
踊る少女は、彼女にしてみれば明らかにズレた音に、わわッと言わんばかりにパタパタ手をばたつかせてバランスを崩した。
何やってるのよもぅ、とこちらを軽く睨む。
それに気付く気配もなく、黒い少女は迷いなく弾く。
自分が主旋律を奏でている以上、妹たちはそれにきちんと合わせてくれると信じて止まない、そういうヒトだった。
それ以前に、この場の空気にすっかり酔ってしまった夢見心地の彼女が、こんな細かい変化を察することができる訳もなく。
まさに聞く少女の思惑通り、演奏の主導権は少しずつ転じ、その内に指揮は彼女へと移っていった。
少女は思う、めちゃめちゃ面白い、と。
そうやって姉たちの反応を、移り気な環境の声を聞いては一人影からくすくす笑ってやるのだ。
目標であり、好敵手でもある彼女らを、思ったように動かせるというのは愉快だし、ちょっぴり勝ち誇った気分になれる。
何より、そんな素直な姉たちが妹心からしても愛らしくて可愛らしくて、たまらなく大好きだった。
だから、リリカは聞く。無邪気な心で、いつだって私が幸せでいられるように。いつまでもみんなが幸せでいるために、どんなに嫌な役割回りだって受けてやるのだ。
いつの間にやら、また主役を譲ったキーボード。全ての音は、小さな小さな騒霊の手の平で踊る。
演奏が終わり、静寂が訪れた。
絶妙な間の作る静けさは、感動と余韻をより深めてくれる。大事な演奏の一部だ。
暫くして、ルナサが緩めた身体を名残惜しそうに起こす。案外、一番浸っていたのは彼女なのかもしれない。
とんがり帽子を被り直して、妹たちに目配りをすると、深く、酒脱に一礼をしてみせた。
「……ありがとうございました。おかげで、こっちも楽しませてもらったわ」
「寂しくなったらまた教えて頂戴ね。いつでも遊びに来てあげるんだから~」
「なぜなら私たち、呼ばれりゃ飛んでくちんどん屋。お代は聞いてのお帰りだよ!」
誰とも知れぬ誰かに、騒霊姉妹が言葉を伝える。
三通りの澄みきった声は、無音の空を抜け、眼下の大地まで響き渡る。
ふと、湖面がユラリ、呼応するかのように立った小さな波紋に揺れ動く。それは感謝か励ましか。
彼女たちの去り行く後、彼は再び深い霧の中に隠れ、いつとも知れない騒がしい音楽家たちの再訪問に心を躍らせた。
*****
門番は、拾う。
いつもよりも深みの掛った、もやもやとした霧の奥。
どこからか微かに聞こえてくる、どこかで聞いたような音楽は、退屈していた門番の少女の興味を強く惹くものだった。
踊り出したくなる楽しげな様子に、無意識に足が動きだそうになって、慌てて制した。
そう、自分は今、この紅魔の館の門を死守するという、大変重大な任務を負っているのだ。踊っている暇など無い。
何度聞いても素晴らしい演奏を耳に入れ、それを奏でる楽しそうな少女たちの姿を脳裏に浮かべるだけでも、十分だ。
――うん、踊るのは止めよう。でもちょっと休憩するくらい、良いよね?
それに、こんなに天気が良いのだから、お昼寝をしないほうが寧ろおかしい。ですよねー、お嬢様。
そう彼女が決めたのだ、勝手に。抗う術など、もはや無かった。
ごろんと横になって気持ち良く眠りの世界に入っていく。静かな音色を子守唄にして。
素直なまでの青の色は、雲を乗せ、彼方の霧に白く霞みながら、果てなく続く。
煌々として煌めく湖。
遠きに臨む天に負けじと広がる水の清澄さは、それを望んでいるかのように、どこまでも健やかに。
何の打算も含みも無く、そうあり続ける。地平の向こう、二つの青は一つになった。
張りつめた空気に響く弦の音。
図ったように霧の晴れた空間に、騒霊たちはいた。
喧しい妖精も、物騒な妖怪も、もっと物騒な人間も、邪魔する者はだれ一人としていない。
それは彼女達に用意された、彼女達のための特別なライブステージ。
その演奏は、たった一人の何かの為に。
黒い少女は、奏でる。
掌上明珠、至極の弦楽器から生み出されるは、勇壮なる幽玄の調べ。
時として静かに、時として力強く響く波が、虚空を破り、馴染み、更なる音の広がりを持って、その存在をしたたかに主張する。
音が揺れ、空が揺れる。
その広大な身に隙無く染み込む鬱の鼓動に、空も思わず流れることを忘れた。
ヴァイオリンの少女もまた、感情のままに身を任せることにした。
両の手でしっかりと支えられていた楽器を手放し、大事そうに傍らに並べて浮かべる。
弾き手を見失い、手持無沙汰だ、退屈だ、と飛び回る相棒の事も意に介さないと言った様子で、その拍子、スッと全身の力を無くした。
それでもなお、止むことなく無音の宙天を盛りたてる弦楽。たった一人の奏でる、幾多の音色。
無心にして聞く自分の音は、思っていたよりもずっと不出来で、しかし、それ以上に心地よく体の芯まで貫き、伝わる。
気だるそうに投げ出した身体は意思も無く、吹かれたそよ風にくるり回る。ただ逆らわず、抗わず。
真っ黒の楽団服に、その透き通るような白さを際立たせられるかのように、瑞々しい肌は陽に照らされてより美しく。
さらされるのはスラリと細く引き締まった下肢。
もはや頼るものも無くたゆたうそれは、ともすれば易々と折れてしまいそうなほど、印象としては弱々しく柔い。
ふと長袖の下に隠れた左の細腕が、遠慮がちに伸ばされた。
次女のものと間違えてしまったのか、体躯に対していささか長すぎた袖から、丁寧に揃えた繊細な指の根までをちょこんと出して、何とはなしに見つめてみる。
意識の先を向けられた、惜しいところで外に出ることが叶わなかった親指以外、四指の先は、冷たい空気を、音を敏感に拾ってくれた。
ひしと伝わってくる夢幻の詩情。側には自分が唯一、一途に想うことのできる妹たち。
暫しの間、あらゆる悩みも忘れて、夢の中の世界に酔う。
半分ほどに閉じられた大きな瞳は、まるで寝る前の小さな子供のようにぼんやり眠たそうな半覚醒にも、愛おしい者を見守るような慈愛を秘めた表情とも映る。
ただ一つ確かな事、纏わる陰影、ルナサは哀愁の風景に融け入ってしまうほど切なく、静かに音を紡いでいくのだった。
白い少女は、踊る。
姉の弾く緩やかな舞曲に。共鳴する朝の光に。
何時もは曲を引っ張る元気なトランペットも、今ばかりは抱きしめられた腕の中に大人しく納まっている。
気持ちの良い調子の流れに、マイペースなステップ。
彼女にかかれば踏みしめる大地があるかどうかなど、取るに足らない些細なことだ。
地上から空中、果ては大結界の向こう側まで、ここだと思った場所は、その全てが彼女を主役とした舞台に変わる。
目を瞑っては、リズムに合わせて悠々と揺り動かされる半身。
その間にも、足は空を蹴り出し、半ばつられるかのようにふらりふらりと追従する。
気のみ気のまま、技法も調和も何も無く、在りたいがように振る舞う姿は縛られることのない純粋無垢なツキミソウ。
移り気な自由の中で唯に一つ、遠くに仰ぐ月に敬慕と切磋の念を抱く月見の花。
ここでたんと、静から動へ切り変わる曲調にも、苦も無く対応してみせる。
軽快なテンポ、心地よい和音のハーモニーには刹那、音の有する性状すら忘れさせてしまう癒しの余韻があった。
ただし、まだまだ私が一番だけどね。そんな事を思考の端にでも置いているか否か、その上機嫌な面持ちから図り知ることはできそうにない。
楽しげに舞い始めた楽曲に、自然足取りも軽くなってしまうというもの。
腕を目一杯に開いて翼を作り、鳥みたいに空を泳いだ。
ゴキゲンな音の波に乗れば、それはもう自由自在、勝手気ままにゆらめき動く。
ゆらぁりゆらり、ふんわりふわり、ひゅうひゅうすうすう好き放題。
片足を軸にしてくるくる回ると、ウェーブのかかった空色の癖っ毛が、ぷかぷかなスカートが、取り込む風にふわりと膨らんで、華やかさが一気に弾けた。
その内に、右に垂らしたたなびく偏重ヘアーが、目にかかってむず痒くっても全然気にしない。
幸せを運ぶ青い鳥の、伸びやかに広がった翼から、みんなへのハッピーのおすそわけ。
そのあまりに可憐なことに、我がもの顔で闊歩していた白い雲も、敢然と照りつける陽光すらも、まぶしくて目を眩ませる。
今、世はまさしく彼女の世界。
天の都の一輪の花。メルランは、気持ちの良いくらい本当に楽しそうに、表裏のない満面の笑顔を咲かせる。
地に佇む透き通る青ばかりが、天の様子を静かにその身に写していた。
赤い少女は、聞く。
聞いてどうするのかと聞かれれば、答えは簡単。操るのだ。
言い回しが少々悪かっただろうか。まぁ、結局の所、言葉での表現なんてどうしてくれたって構わない。
使う、扱う、操作、誘導、制御、管理にコントロール。何だったら、暗躍するととってくれても良いだろう。
ともかく彼女がしたい事というのは、そういうことだった。
どんな物事でも、先ずは本質を理解しなくては、思いのままに動かすことなどできやしない。
故に、その絶対的とも言える感覚、感性をフルに活用して、黙々と知ることに努める。
例えば、それは音楽。
音楽とは即ち、音の持つ協調性や調和性を根底に置いてこそ、楽を生む、あるいは生み出されるものである、というのが彼女の考えである。
一つ一つの優れた音たち、彼らの性格を見極めてあげ、繋ぎ合わせることで、それらは更なる高みへと登ることができる。
普通ならばノイズとして認識されるような日常の中の雑音だって、しっかり長所を磨いて組み立ててあげれば、十分にも、十二分にも光る筈。
彼女があらゆる楽器を扱い、日頃より未知なる音色を探し求めているのは、才のみに溺れることなく、そういったあらゆる音への可能性を見出しているからこそなのだ。
事実、躁と鬱を調和し、演奏を最も密かな部分から支えているのは、紛れもなくこの生意気そうなキュロット少女だった。
人を上辺の態度だけで判断してはいけない。彼女は実際、偉かったのだから。
そこで、聞くという事についてもう一つ例えを挙げるならば、今現在のまさにこの状況が相応しい。
流れる弦の響き、いつもより少し自由で陽気な弾奏に、ピアノの伴奏、シンセの音をなめらかに滑り込ませる。
成熟された技術がもたらす楽音は、見事に折り重なって姉たちの作る舞台の一助となる……わけでも無かった。
素人には判別のできない程度、ほんの僅かに伴奏のリズムを狂わせたからだ。それも態と。
知らない者には小さな綻びも、洗練された技の中では、完全な芸術を損なう大きな傷となる。
踊る少女は、彼女にしてみれば明らかにズレた音に、わわッと言わんばかりにパタパタ手をばたつかせてバランスを崩した。
何やってるのよもぅ、とこちらを軽く睨む。
それに気付く気配もなく、黒い少女は迷いなく弾く。
自分が主旋律を奏でている以上、妹たちはそれにきちんと合わせてくれると信じて止まない、そういうヒトだった。
それ以前に、この場の空気にすっかり酔ってしまった夢見心地の彼女が、こんな細かい変化を察することができる訳もなく。
まさに聞く少女の思惑通り、演奏の主導権は少しずつ転じ、その内に指揮は彼女へと移っていった。
少女は思う、めちゃめちゃ面白い、と。
そうやって姉たちの反応を、移り気な環境の声を聞いては一人影からくすくす笑ってやるのだ。
目標であり、好敵手でもある彼女らを、思ったように動かせるというのは愉快だし、ちょっぴり勝ち誇った気分になれる。
何より、そんな素直な姉たちが妹心からしても愛らしくて可愛らしくて、たまらなく大好きだった。
だから、リリカは聞く。無邪気な心で、いつだって私が幸せでいられるように。いつまでもみんなが幸せでいるために、どんなに嫌な役割回りだって受けてやるのだ。
いつの間にやら、また主役を譲ったキーボード。全ての音は、小さな小さな騒霊の手の平で踊る。
演奏が終わり、静寂が訪れた。
絶妙な間の作る静けさは、感動と余韻をより深めてくれる。大事な演奏の一部だ。
暫くして、ルナサが緩めた身体を名残惜しそうに起こす。案外、一番浸っていたのは彼女なのかもしれない。
とんがり帽子を被り直して、妹たちに目配りをすると、深く、酒脱に一礼をしてみせた。
「……ありがとうございました。おかげで、こっちも楽しませてもらったわ」
「寂しくなったらまた教えて頂戴ね。いつでも遊びに来てあげるんだから~」
「なぜなら私たち、呼ばれりゃ飛んでくちんどん屋。お代は聞いてのお帰りだよ!」
誰とも知れぬ誰かに、騒霊姉妹が言葉を伝える。
三通りの澄みきった声は、無音の空を抜け、眼下の大地まで響き渡る。
ふと、湖面がユラリ、呼応するかのように立った小さな波紋に揺れ動く。それは感謝か励ましか。
彼女たちの去り行く後、彼は再び深い霧の中に隠れ、いつとも知れない騒がしい音楽家たちの再訪問に心を躍らせた。
*****
門番は、拾う。
いつもよりも深みの掛った、もやもやとした霧の奥。
どこからか微かに聞こえてくる、どこかで聞いたような音楽は、退屈していた門番の少女の興味を強く惹くものだった。
踊り出したくなる楽しげな様子に、無意識に足が動きだそうになって、慌てて制した。
そう、自分は今、この紅魔の館の門を死守するという、大変重大な任務を負っているのだ。踊っている暇など無い。
何度聞いても素晴らしい演奏を耳に入れ、それを奏でる楽しそうな少女たちの姿を脳裏に浮かべるだけでも、十分だ。
――うん、踊るのは止めよう。でもちょっと休憩するくらい、良いよね?
それに、こんなに天気が良いのだから、お昼寝をしないほうが寧ろおかしい。ですよねー、お嬢様。
そう彼女が決めたのだ、勝手に。抗う術など、もはや無かった。
ごろんと横になって気持ち良く眠りの世界に入っていく。静かな音色を子守唄にして。