【失われた音】
ギィ、と軋む音がして、私は闇に目を凝らした。
深く、青みを帯びた夜空が広がる冬の夜である。七分まで満ちた月は気温と同調するかの様な鋭く寒々しい光を投げかけている。
吐いた息が白く染まるその先には、朽ちかけた古木があった。幾年を経て安寧の死へと落ちかけた物寂しいその姿は、哀れを誘うのと同時に、長い年月を生き抜いた穏やかな誇りを感じさせた。
音が聞こえたのはその古木の根元からである。冬ざれた固い大地を踏みしめ近づくと、そこには、
古ぼけた人形が真っ暗な孤独に耐える様に、ゆっくりと朽ち果てていた。
ギィ、ギィ。
風が吹いた弾みか、蟲の悪戯か。
それとも人形に意思でも宿ったか。
人形は、私が覗き込んだ丁度その瞬間に再び軋みを上げた。
私はいったいどうすれば良い物か分からずに、呆然と立ち尽くした。
月に照らされた古木と人形の、なんと物悲しく、美しい事か。古木の根に抱かれた人形は絵画に描かれる母子のような格好で、全く行く末との違いを際立たせている。
或いは、若しこれが滅びを迎えるだけの母子であったとしても、私には救いの手を差し伸べる事は出来なかったやも知れぬ。
ここには滅びしかないけれど、それでも青白く横たわる彼女達は息を飲むほどに美しいのだ。誰にか、この結末を汚せよう。
けれど。
ギィ、ギィ、と。私にはその音が、赤子の泣く声のように思われて。
私が手を伸ばせば、その音はここから永久に失われてしまうのだろう。この美しい有り様は永久に失われるのだろう。
七分の蒼い光が太平楽を気取って私を照らしている。見上げると、まるで月の雫が落ちてきそうな夜である。
私は、どうした物か、と夜空に向かって白い息を吐き。
それでも、そこに残ったのは静寂だけだった。
【誰彼】
元は頑強な丸太で出来た小屋であるらしかった。
長い年月の内に腐り落ち、或いは蟲に喰われ、腕で押しただけで倒壊しそうなまでに変貌したその小屋の中から、微かに甘い匂いがした。
私はまるで虫が焚き火の光に吸い寄せられるように、小屋の中を覗いた。
腐朽した壁からうっすらと射し込む西日を頼りに目を凝らすと、そこには人の形をした何かがあった。
私は、それはほとんど腐臭もしないほどに時間が経ち、白く骨が浮き上がった死体である、と直感した。彼はこの森の中で孤独に死を迎えたのだと、その結末がはっきりと浮かんだ。
だが、どうやらそれはただの人形であった。それも、私が何故斯様な思い違いをしたか分からぬほどに死体とはかけ離れた人形である。
大きさは直立させて私の膝までと言った所であろうか、トンガリ帽を被ったピエロのぬいぐるみである。はみ出した綿を骨と見紛ったのかも知れない、と私は思った。
しかし、それは自らの過ちに対する誤魔化しであった。木枯らしの甲高い音色で我に返った私は、どうにかそれを認める事が出来た。
確かに私は人形を成人男性の白骨死体と思ったのである。その死に様までを夢想したのである。
私は人形を拾い上げると、小屋に背を向け、帰途に着いた。西日が翳り始めた冬の誰彼刻である。
歩き始めてすぐに強風が吹き、私は小屋が崩れ落ちた気がして振り返ったが、しかし小屋はぐらぐらと今にも壊れそうに、それでもまだそこに在った。
そして私は風が運んできた小屋の匂いに気付いたのだ。微かに甘く香る、腐臭である。
恐らく私が夢想した様に、彼は居たのだ。朽ちかけた小屋は、再び風に吹かれてぐらぐらと揺れた。
確かに居た筈の彼が何処へ行ったのか、私は知らない。
【空に。】
鯨の髭が必要である。
人形の手入れをしながら私はそう見当をつけた。ほつれた操り糸は、海に住まうと言われる巨大な獣の体毛で成っていたのだ。
海から遠く離れたこの地では鯨を捕らえる事は出来ない。ならば、と私は或る道具屋へと向かう事にした。
その道具屋は珍奇な我楽多ばかりを取り扱っている。あの店ならば鯨の髭その物があるやも知れぬし、或いは鯨の髭を用いた道具が転がっている可能性もある。
と言う風な事を考えながら、私は支度をし、家を出た。外では日が出ているにも関わらず雪がちらついている。所謂風花であるが、どうにも風が強く、風流からは外れているように思われた。
その空に、優雅に泳ぐ大きな影があった。
全長は百間を超えようか、巨大な体躯に相応しく、ぷかぷかと雲の様な速さで、矢張り雲の様にどこかぼんやりと移動している。
鯨であった。
少なくとも私にはそう見えた。
人は余りに理解を超えた出来事に直面した際、思考が働かなくなるものである。私も例に漏れず、ただ呆然とその白い鯨を見上げた。
私が鯨を目にしたのはこれが初めてである。図鑑で姿形、生態等を知っていたが、巨大化する個体が存在し、尚且つ飛行能力をも備えているとはどの図鑑を調べてもなかったように思う。
なかった筈である。私はこの非常識な光景に、頭がくらくらするのを感じた。
しかし、そこで私は実利的な人間であると言う事を思い出した。
採取するべきだ。そう私は決意したのである。思えばそれは実利的な判断と言うよりも、自棄に近い感情だったかも知れない。
私は家の中に取って返し、躍起になって捕獲の為の装備を整えた。何せ相手は今までに見た事もないほど巨大な生物なのである。
再び風花の中に飛び出し、宙に飛び上がると、私は鯨へとぐんぐんと近づいてゆく。
だが結局の所、装備は必要ではなかったのだ。
鯨のすぐ傍まで寄ると、どうにも毒気が抜かれてしまったのである。高空に居るにも関わらず不思議と風は凪ぎ、白い鯨と風花に、私はどうにも不思議な感傷を抱いてしまった。
雄大なのだ。何処までも無邪気で、なんとも形容しがたい、浮遊感の様な感情が湧き上がるのだ。
全く違う光景だが、私は子供の時分に見上げた夏の青空を思い出した。
私は青空を狩ろうとしていたのか、とその様に思考が飛躍し、しかしその考えはどうも的を射ている様に感ぜられ、私はくすりと笑みを零した。
地に降り立った私は、鯨の髭を捜すのを後日に改める事にした。
視界の端に浮かぶ鯨は、潮を一つ勢いよく吹いて、ぼんやりとした速度で彼方へと去っていった。
【有閑】
今日の昼前に届いた新聞によると、三日前の天気予報は快晴であったらしい。洗濯物がよく乾くであろう、等と書かれている。
一週間前から降り続いている豪雪を窓の外に見ながら、私は新聞を暖炉にくべた。雪の中で湿り気を帯びたか、新聞紙は火の勢いを少し弱め、じわりじわりと端から焦げ始めた。
どうにも手持ち無沙汰である。新聞などを広げたのもそれが故であるが、その行為は全く功を奏さなかった。
何かする事はないか、等と逸りそうになる気持ちを抑え、私は一つ息を吐いた。このような気分の時は、何をしても満たされぬ事を私は知っている。
さて、と私は一つ息を吐き。
何をしようか、とまた考えてしまった。
いいや、考えてはいけない。そう自分に言い聞かせる。そうしてしばらくの間、窓の外を眺めながらぬるくなった紅茶を口に含んだりしていると、私は不思議と満たされた気分になっていた。
何もかもが緩やかに流れている。客観的に見れば、私は何もしていない。退屈さえ感じて居る筈の状況である。
だと言うのに、これで良いのだ。深々と積もる雪をただ眺めるだけで、今は満たされたまま過ぎ去る。
降り積もる雪が音無き音を鳴らせば、カップがソーサーと衝突するカチカチと言った音が跳ね返り、暖炉は素知らぬ顔でパチパチと爆ぜ、やかんは穏やかに蒸気を拡散させ続ける。
時折吹く強風は侘しさを添えて窓ガラスを揺らす。まるで冬のシンフォニーである。静寂と、静寂に近い音とが奏でる楽曲は、精神を落ち着かせる効用を持つに違いない。
ふと気が付くと、湿気ていた新聞紙は暖炉の中で乾いた灰となっていた。
私は夢を見るように時を過ごした事を自覚し、再び満たされた時を過ごす為に、紅茶の新しいのを淹れる事にした。
【春】
間もなく春が来る。
空から眺める地表は、眩く輝いていた。まだ雪も融けぬほどではあるが、それでも春が少しだけ近づいたような陽気のお陰で、見渡す一面は照り返しによって光を放っていたのである。
二月も暮れに差し掛かると、気の早い妖精は既に起き出して来ているようで、寝ぼけ眼でふらふらとうろついている。空気からは少し棘が抜けた感じがして、私は思い切り澄んだ空気を肺に送り込んだ。
私よりも空気の変化に聡い者達は、そろそろ春に向けた準備を始めたようである。植物達は希望の芽を生やし、獣達はその本能によって昂揚を感じている。妖怪はそれぞれの性質によって感じ方は違うであろうが、概ね春を歓迎している筈である。
私は若し鯨でも浮かんでいようものならばきっと捕獲してやろうなどと半分思いながら、所用の帰りの空を飛んでいた。残念ながら鯨は居ないようであった。
不思議と、最近私は訪れる春よりも去り往く冬について考えている。明るく活力に満ちた春が来る事よりも、暗く陰鬱な冬が去る方が悲しいのである。
ただ静寂だけがある夜の、蒼く刺すような月光の美しさ。孤独に歩く暗い森の、引き込まれるような魅力。
木枯らしが吹く誰彼刻の侘しさ。冬風が運ぶ廃墟の匂い。
澄んだ日の風花の優雅さ。冬晴れにこそ映える巨獣。
一人で過ごす、何もないけれど満ち足りた時。静かな時と共にある心の安寧。
それらが過ぎ去る事が、どうしようもなく寂しいのだ。
けれども。
何処かで雪が落ちる音がした。獣はそれに呼応するかの様に鳴き声を挙げた。木霊した声に、鳥が甲高い鳴き声を返す。
満ち満ちた活力が、音となって世界に響き渡る。どうしようもなく寂しいけれど、こんなにも暖かい。
いつの間にか、私の中の空虚は暖かな活力で満たされていた。冬が過ぎ去るのは惜しいけれど、まだ私は進めると、そう思えた。
突き抜けるような青空を見上げると、白い息が霞むその向こう、南に遠く太陽が輝いている。既に彼は厚く垂れ込める雲と言う冬の外套を脱ぎ捨てた。間もなく北風を押しのけて自らの存在を強く主張し始めるだろう。
私が家の玄関の前に降り立つと、太陽を押し返そうとするように北風が強く吹いた。その冷たさは、冬はまだ終わっていないと主張しているようで、少しだけ嬉しく思えた。
或いは、と私は思いなおす。
或いは、冬の終わりを告げる最後の北風であるかも知れない。そう思って、私はもう一度、真っ白な世界に振り返る。
そうだとしても、何が出来るわけでもない。終わりとは、別れとはそういう物だ。いや…
一つだけ、私に出来る事があった。
雪の重さでしなる枝を。強く光を放つ白銀の大地を。冷たさを孕んだ北からの風を。薄く透明感のある空の青を。
私は心に刻みつけた。いずれ巡り来る冬まで、この光景を忘れないように。
間もなく春が来る。空気に満ちる希望の中に、私の溜息が一つ混じり、消えた。
ギィ、と軋む音がして、私は闇に目を凝らした。
深く、青みを帯びた夜空が広がる冬の夜である。七分まで満ちた月は気温と同調するかの様な鋭く寒々しい光を投げかけている。
吐いた息が白く染まるその先には、朽ちかけた古木があった。幾年を経て安寧の死へと落ちかけた物寂しいその姿は、哀れを誘うのと同時に、長い年月を生き抜いた穏やかな誇りを感じさせた。
音が聞こえたのはその古木の根元からである。冬ざれた固い大地を踏みしめ近づくと、そこには、
古ぼけた人形が真っ暗な孤独に耐える様に、ゆっくりと朽ち果てていた。
ギィ、ギィ。
風が吹いた弾みか、蟲の悪戯か。
それとも人形に意思でも宿ったか。
人形は、私が覗き込んだ丁度その瞬間に再び軋みを上げた。
私はいったいどうすれば良い物か分からずに、呆然と立ち尽くした。
月に照らされた古木と人形の、なんと物悲しく、美しい事か。古木の根に抱かれた人形は絵画に描かれる母子のような格好で、全く行く末との違いを際立たせている。
或いは、若しこれが滅びを迎えるだけの母子であったとしても、私には救いの手を差し伸べる事は出来なかったやも知れぬ。
ここには滅びしかないけれど、それでも青白く横たわる彼女達は息を飲むほどに美しいのだ。誰にか、この結末を汚せよう。
けれど。
ギィ、ギィ、と。私にはその音が、赤子の泣く声のように思われて。
私が手を伸ばせば、その音はここから永久に失われてしまうのだろう。この美しい有り様は永久に失われるのだろう。
七分の蒼い光が太平楽を気取って私を照らしている。見上げると、まるで月の雫が落ちてきそうな夜である。
私は、どうした物か、と夜空に向かって白い息を吐き。
それでも、そこに残ったのは静寂だけだった。
【誰彼】
元は頑強な丸太で出来た小屋であるらしかった。
長い年月の内に腐り落ち、或いは蟲に喰われ、腕で押しただけで倒壊しそうなまでに変貌したその小屋の中から、微かに甘い匂いがした。
私はまるで虫が焚き火の光に吸い寄せられるように、小屋の中を覗いた。
腐朽した壁からうっすらと射し込む西日を頼りに目を凝らすと、そこには人の形をした何かがあった。
私は、それはほとんど腐臭もしないほどに時間が経ち、白く骨が浮き上がった死体である、と直感した。彼はこの森の中で孤独に死を迎えたのだと、その結末がはっきりと浮かんだ。
だが、どうやらそれはただの人形であった。それも、私が何故斯様な思い違いをしたか分からぬほどに死体とはかけ離れた人形である。
大きさは直立させて私の膝までと言った所であろうか、トンガリ帽を被ったピエロのぬいぐるみである。はみ出した綿を骨と見紛ったのかも知れない、と私は思った。
しかし、それは自らの過ちに対する誤魔化しであった。木枯らしの甲高い音色で我に返った私は、どうにかそれを認める事が出来た。
確かに私は人形を成人男性の白骨死体と思ったのである。その死に様までを夢想したのである。
私は人形を拾い上げると、小屋に背を向け、帰途に着いた。西日が翳り始めた冬の誰彼刻である。
歩き始めてすぐに強風が吹き、私は小屋が崩れ落ちた気がして振り返ったが、しかし小屋はぐらぐらと今にも壊れそうに、それでもまだそこに在った。
そして私は風が運んできた小屋の匂いに気付いたのだ。微かに甘く香る、腐臭である。
恐らく私が夢想した様に、彼は居たのだ。朽ちかけた小屋は、再び風に吹かれてぐらぐらと揺れた。
確かに居た筈の彼が何処へ行ったのか、私は知らない。
【空に。】
鯨の髭が必要である。
人形の手入れをしながら私はそう見当をつけた。ほつれた操り糸は、海に住まうと言われる巨大な獣の体毛で成っていたのだ。
海から遠く離れたこの地では鯨を捕らえる事は出来ない。ならば、と私は或る道具屋へと向かう事にした。
その道具屋は珍奇な我楽多ばかりを取り扱っている。あの店ならば鯨の髭その物があるやも知れぬし、或いは鯨の髭を用いた道具が転がっている可能性もある。
と言う風な事を考えながら、私は支度をし、家を出た。外では日が出ているにも関わらず雪がちらついている。所謂風花であるが、どうにも風が強く、風流からは外れているように思われた。
その空に、優雅に泳ぐ大きな影があった。
全長は百間を超えようか、巨大な体躯に相応しく、ぷかぷかと雲の様な速さで、矢張り雲の様にどこかぼんやりと移動している。
鯨であった。
少なくとも私にはそう見えた。
人は余りに理解を超えた出来事に直面した際、思考が働かなくなるものである。私も例に漏れず、ただ呆然とその白い鯨を見上げた。
私が鯨を目にしたのはこれが初めてである。図鑑で姿形、生態等を知っていたが、巨大化する個体が存在し、尚且つ飛行能力をも備えているとはどの図鑑を調べてもなかったように思う。
なかった筈である。私はこの非常識な光景に、頭がくらくらするのを感じた。
しかし、そこで私は実利的な人間であると言う事を思い出した。
採取するべきだ。そう私は決意したのである。思えばそれは実利的な判断と言うよりも、自棄に近い感情だったかも知れない。
私は家の中に取って返し、躍起になって捕獲の為の装備を整えた。何せ相手は今までに見た事もないほど巨大な生物なのである。
再び風花の中に飛び出し、宙に飛び上がると、私は鯨へとぐんぐんと近づいてゆく。
だが結局の所、装備は必要ではなかったのだ。
鯨のすぐ傍まで寄ると、どうにも毒気が抜かれてしまったのである。高空に居るにも関わらず不思議と風は凪ぎ、白い鯨と風花に、私はどうにも不思議な感傷を抱いてしまった。
雄大なのだ。何処までも無邪気で、なんとも形容しがたい、浮遊感の様な感情が湧き上がるのだ。
全く違う光景だが、私は子供の時分に見上げた夏の青空を思い出した。
私は青空を狩ろうとしていたのか、とその様に思考が飛躍し、しかしその考えはどうも的を射ている様に感ぜられ、私はくすりと笑みを零した。
地に降り立った私は、鯨の髭を捜すのを後日に改める事にした。
視界の端に浮かぶ鯨は、潮を一つ勢いよく吹いて、ぼんやりとした速度で彼方へと去っていった。
【有閑】
今日の昼前に届いた新聞によると、三日前の天気予報は快晴であったらしい。洗濯物がよく乾くであろう、等と書かれている。
一週間前から降り続いている豪雪を窓の外に見ながら、私は新聞を暖炉にくべた。雪の中で湿り気を帯びたか、新聞紙は火の勢いを少し弱め、じわりじわりと端から焦げ始めた。
どうにも手持ち無沙汰である。新聞などを広げたのもそれが故であるが、その行為は全く功を奏さなかった。
何かする事はないか、等と逸りそうになる気持ちを抑え、私は一つ息を吐いた。このような気分の時は、何をしても満たされぬ事を私は知っている。
さて、と私は一つ息を吐き。
何をしようか、とまた考えてしまった。
いいや、考えてはいけない。そう自分に言い聞かせる。そうしてしばらくの間、窓の外を眺めながらぬるくなった紅茶を口に含んだりしていると、私は不思議と満たされた気分になっていた。
何もかもが緩やかに流れている。客観的に見れば、私は何もしていない。退屈さえ感じて居る筈の状況である。
だと言うのに、これで良いのだ。深々と積もる雪をただ眺めるだけで、今は満たされたまま過ぎ去る。
降り積もる雪が音無き音を鳴らせば、カップがソーサーと衝突するカチカチと言った音が跳ね返り、暖炉は素知らぬ顔でパチパチと爆ぜ、やかんは穏やかに蒸気を拡散させ続ける。
時折吹く強風は侘しさを添えて窓ガラスを揺らす。まるで冬のシンフォニーである。静寂と、静寂に近い音とが奏でる楽曲は、精神を落ち着かせる効用を持つに違いない。
ふと気が付くと、湿気ていた新聞紙は暖炉の中で乾いた灰となっていた。
私は夢を見るように時を過ごした事を自覚し、再び満たされた時を過ごす為に、紅茶の新しいのを淹れる事にした。
【春】
間もなく春が来る。
空から眺める地表は、眩く輝いていた。まだ雪も融けぬほどではあるが、それでも春が少しだけ近づいたような陽気のお陰で、見渡す一面は照り返しによって光を放っていたのである。
二月も暮れに差し掛かると、気の早い妖精は既に起き出して来ているようで、寝ぼけ眼でふらふらとうろついている。空気からは少し棘が抜けた感じがして、私は思い切り澄んだ空気を肺に送り込んだ。
私よりも空気の変化に聡い者達は、そろそろ春に向けた準備を始めたようである。植物達は希望の芽を生やし、獣達はその本能によって昂揚を感じている。妖怪はそれぞれの性質によって感じ方は違うであろうが、概ね春を歓迎している筈である。
私は若し鯨でも浮かんでいようものならばきっと捕獲してやろうなどと半分思いながら、所用の帰りの空を飛んでいた。残念ながら鯨は居ないようであった。
不思議と、最近私は訪れる春よりも去り往く冬について考えている。明るく活力に満ちた春が来る事よりも、暗く陰鬱な冬が去る方が悲しいのである。
ただ静寂だけがある夜の、蒼く刺すような月光の美しさ。孤独に歩く暗い森の、引き込まれるような魅力。
木枯らしが吹く誰彼刻の侘しさ。冬風が運ぶ廃墟の匂い。
澄んだ日の風花の優雅さ。冬晴れにこそ映える巨獣。
一人で過ごす、何もないけれど満ち足りた時。静かな時と共にある心の安寧。
それらが過ぎ去る事が、どうしようもなく寂しいのだ。
けれども。
何処かで雪が落ちる音がした。獣はそれに呼応するかの様に鳴き声を挙げた。木霊した声に、鳥が甲高い鳴き声を返す。
満ち満ちた活力が、音となって世界に響き渡る。どうしようもなく寂しいけれど、こんなにも暖かい。
いつの間にか、私の中の空虚は暖かな活力で満たされていた。冬が過ぎ去るのは惜しいけれど、まだ私は進めると、そう思えた。
突き抜けるような青空を見上げると、白い息が霞むその向こう、南に遠く太陽が輝いている。既に彼は厚く垂れ込める雲と言う冬の外套を脱ぎ捨てた。間もなく北風を押しのけて自らの存在を強く主張し始めるだろう。
私が家の玄関の前に降り立つと、太陽を押し返そうとするように北風が強く吹いた。その冷たさは、冬はまだ終わっていないと主張しているようで、少しだけ嬉しく思えた。
或いは、と私は思いなおす。
或いは、冬の終わりを告げる最後の北風であるかも知れない。そう思って、私はもう一度、真っ白な世界に振り返る。
そうだとしても、何が出来るわけでもない。終わりとは、別れとはそういう物だ。いや…
一つだけ、私に出来る事があった。
雪の重さでしなる枝を。強く光を放つ白銀の大地を。冷たさを孕んだ北からの風を。薄く透明感のある空の青を。
私は心に刻みつけた。いずれ巡り来る冬まで、この光景を忘れないように。
間もなく春が来る。空気に満ちる希望の中に、私の溜息が一つ混じり、消えた。
何でここに投稿したの?
最大の欠点はこれを読んで『東方の二次創作』だと分からないこと。
「創想話に投稿されたからこれは東方だな」と思うことが出来ても、仮にブログなどに掲示した時、
「これは東方の二次創作じゃないんだな」と思う方が圧倒的に多いのではないでしょうか。
人形等の東方に関連する(何か変な言い方ですが)キーワードの片鱗は存在するも、肝心の本体が存在してませんし。
雰囲気は好きなので、またこのような形で次回作を書き上げる予定なら、東方らしさを表現してほしいです。
主人公が誰なのかすらも私には判断できませんでした。
作中に人形が出てきて、暖炉のある家に住んでいるからアリス、とも限りませんし。