※以下のお話には百合表現やスタンダール著「赤と黒」の当方による極端な文学解釈が含まれています。
百合が嫌いな方、赤と黒に思い入れがあるかたは、ブラウザ上部の「戻る」にて引き返される方が賢明かと思われます。
「赤と黒」
───赤く紅い満月の夜。
少女は一冊の本に読み耽っていた。
傍らには今宵の満月に勝るとも劣らぬ紅い紅茶。優しい色を放つスタンドライト。そして派手過ぎず、かといって質素すぎない程度の写真立てがひとつ。
窓も、外光が入る隙間すらないその部屋の中、その部分だけが切り取られたかの様に浮かんでいる。
ここは霧の湖に浮かぶ孤島。その畔に聳え立つ洋館───紅魔館。
吸血鬼が住むことで人々に知られ、恐れられている悪魔の館。
館の地下の広大なスペースを使った大図書館。彼女がいるのはそこである。
今は暗闇に包まれ人間には視認できないが、この図書館には人間の一生全てを読むことに捧げても読み切れぬほどの書物が存在する。しかし驚いたことに、その書物全てが彼女の蔵書であり、さらに驚いたことにその全てを彼女は読破している。ただ読むだけでなく、全てを理解し、暗記すらしていた。
詰まる所、彼女は人間ではないのだ。魔法使いなのである。
魔法使いの少女は今日も、そして明日も、何年先も、何十年先も、唯々本を読み続ける。
それが彼女の生き甲斐であり、生きる理由でもある。
「本の傍に或るものこそ自分」
彼女に本を読み続ける理由を訊ねた時、必ずその答えが返ってくる。
他人は彼女をこう呼ぶ。
知識と日陰の少女。
得体の知れない魔法の元。
花曇の魔女。
そして───動かない図書館。
彼女の名は、パチュリー・ノーレッジ。
「今日は何を読んでいるのかしら?」
先程まで何者も存在しなかった黒の世界から、一人の幼い人影が浮かび上がった。
その幼い容姿の少女こそがこの館の主、吸血鬼レミリア・スカーレットである。
「毎日毎時、よく飽きないわね」
彼女はそう言いつつ、魔法使いの傍までふわりと「飛んで」きた。
橙色のライトに映し出されたレミリアの姿は、人間で言えば十代前半の少女にしか見えない。ただし、紅く輝く瞳、唇の端から覗く牙、さらに背中から生える黒い翼を除けばではあるが。
「……赤と黒」
華やかとも言える雰囲気を放つレミリアとは対極的に、良く言えば清楚、悪く言えば地味な雰囲気のパチュリーが、小声でそれだけをぽそりと呟いた。
「何が?」
「……読んでいる本」
断りもなしに向かいの椅子に座ったレミリアに対し、パチュリーは読みかけの本の表紙を見せる。
───赤と黒 著:スタンダール
「人間の本、よね?」
「そう」
パチュリーは目線を文字から離さず素っ気なく答えた。読書中の彼女は大抵、素っ気ない。尤も読書中でない時間は殆どないのだが。
「そんなもの読んで楽しいの?」
言葉にも態度にも「呆れた」という感情が溢れている。
「この本は楽しくなる物語ではないわ」
「感動するってこと?というか、小説なの?てっきり軍人と聖職者のどちらに就職するかの指南書かと思ったわ」
「感動もできないわね」
「どうして読んでいるのよ?」
先程より一層、「呆れた」という感情がレミリアの表情に浮かぶ。
パチュリーは質問責めの友人に付き合うことにしたのか、もしくは今夜の読書は中断するしかないと諦めたのか、その本『赤と黒』に金属で出来た洒落た栞を挟み畳んだ。
「───この世に価値のない本はないわ」
パチュリーはそう言うと、すっかり冷め切った紅茶を口にした。
「価値、ねぇ。じゃあ、この本の価値はなんなの?」
吸血鬼の少女が、こつこつとその小さな指で件の本を突付き訊ねた。友人が何と答えるのか興味津々である、とその表情は語っている。五百歳以上である齢とは裏腹に、彼女の姿も表情も、仕草もまるで少女のように幼い。好奇心を全く隠そうともしないその態度は、ある意味、彼女の魅力の一つであるとも言える。
「……そうね。例えるなら、人間の愚かさ、ね」
「愚かさ?この本に頼らなくても、人間の愚かさなんて彼らを見ればすぐに分かるわよ」
「……違うわ。人間が愚かであるということを、この本に書いてあるのではなく、こういう愚かな人間がいる、ということが書いてあるのよ」
「?」
「……」
「わかりやすく」
「……少し長くなるけど、あらすじでも説明した方がいいかしら?」
「そうね。あ、でも長くなるならお茶がいるわね。───咲夜」
パチンッとレミリアが指を鳴らすと、突然、彼女の背後に給仕服を着た女性が現れた。
「───お呼びでしょうか?お嬢様」
「お茶を用意して頂戴。それから、ここは辛気臭いし、カビ臭いわ。テラスに移るからそこに用意して。パチェのもね」
「畏まりました」
咲夜と呼ばれたその女性は、ニコリと微笑み主人の命令を受け取った。
「……そんなに長くないわよ。……あと確かにここはカビ臭いけど、辛気臭くはないわよ」
日陰の少女の反論を聞く者は、もうすでにその図書館にはいなかった。
何時の間にやら、レミリアも咲夜も姿を消していたのであった。
「……はぁ」
図書館には、パチュリーとその細い溜息だけが存在した。
「で、その何から何まで愚かなお話から何が得られるのよ?」
赤く紅い満月に照らされた紅い館の庭。
その庭のほぼ中央に造られた円状のテラスに、パチュリー、レミリアの二人は豪奢なテーブルセットを囲み、真夜中のティータイムを愉しんでいた。尤も愉しんでいるのはレミリアであるが。
「……今、説明した通りよ」
「あらすじしか聞いてないわよ」
「……それが全て」
「意味不明だわ。だとしたなら、私がその本から得るものはないわね」
パチュリーが図書館より庭へと移ると、すでに紅魔館のメイド長、十六夜咲夜が出来たての紅茶と茶請けのクッキーを用意してあった。友人を待たずに先に紅茶を楽しんでいたレミリアに、『赤と黒』と梗概を説明したのは、ほんの数分前である。
パチュリーの語った梗概が以下である。
田舎町ベリエールの製材小屋の息子ジュリアンは、父と兄に虐待されて育ったが、類まれな知性の持ち主であり、不屈の意志で出世の道を切り開いていった。
はじめは、町の金持ちレナール家の家庭教師となり、信心深く貞淑なレナール夫人と熱烈な恋に落ちてしまう。その噂が町じゅうに広まったため、レナール家を出たジュリアンは、神学校に入学した。やがて校長に、パリの大貴族ラ・モール侯爵の秘書に推薦される。
そこでも彼は、高慢な令嬢マチルドに見初められ、またじらされ、何とか彼女を屈伏させて結婚までこぎつける。ところが、彼を中傷するレナール夫人の手紙が届き、全てを台無しにされてしまう。
彼はベリエールに舞い戻り、教会で礼拝中のレナール夫人をピストルで撃ってしまう。しかし、投獄されてから、夫人の自分に対する愛情を知り、自分も実は夫人だけしか愛していなかったことを悟る。
以上がパチュリーのまとめたあらすじである。作品自体は今から約二百年前のものであり、現代とは違う価値観であったとはいえ、パチュリーは非常によくまとめてあると言える。
が、どうやらレミリアには額面通りにしか伝わらなかったようである。
「要するに、貧乏な生まれの男が、人妻と不倫して、ばれたから引っ越して、その先で新しい恋人を手にしたけど、嫉妬した前の恋人が嫌がらせしてきたので、殺そうとして、最後には捕まって、でもやっぱりあの人妻が好きだったんだー!って愚かにも気づく話なんでしょ?」
「……私の説明が足りなかったのかしら?」
魔法使いの少女は、酷く寂しそうな視線を月に向けた。この吸血鬼の理解力が足りないのか、自分の説明が不足しているのか、はたまた双方の価値観に大きな違いがあるのか───、できれば三番目の選択肢であることを彼女は強く願った。
「補足するまでもないと思うけど、フランスの七月革命は知っているわよね?」
「もちろんよ。何百年生きていると思うの?対岸の火事とは言え、それ位は知っているわ」
「この話は西暦一八三〇年フランスの情勢が大きく関わってくるわ。時代の大きな変革を恐れつつも堕落した生活を続ける、王政復古下の聖職者や貴族階級の姿があますことなく表現されているとは思わない?ある意味、支配階級の腐敗を鋭くついているわ」
「そうね。そうかもね。さっきのパチェのあらすじから、それを読み取れなんてナンセンスではなくて?」
鋭い視線でパチュリーを下から睨み付けるレミリアから視線を逸らしつつ、日陰の少女は、出来る限り認めたくはなかった二番目の選択肢が真実であったことに落胆していた。
「言葉足らずだったわ。ごめんなさい」
「別にいいわよ。パチェの説明が分かりづらいのは、いつものことよ」
どうやら、いつもパチュリーの説明は相手に理解されていなかったらしい。今夜初めて知った事実に、パチュリーは大きな溜息しかでなかった。
「で?当時の支配階級の腐敗?その本の本質は、まさかそれだけなの?」
ストロベリージャムをのせた一口サイズのクッキーを摘み、レミリアはパチュリーに更なる説明を求めた。傷心の少女は、渋々説明を続けた。
「野心的な青年ジュリアンの目を通して、ありのままに七月革命が描かれている、この物語の歴史的価値と文学的価値はその部分よ。人間達の多くは、その部分を評価の土台にしているわ」
「で、パチェは?」
何だかんだと言っても、流石は友人である。パチュリーがフランスの歴史を知る為にその本を読んでいたわけではないということを、文句を垂れながらも理解している。
パチュリーは少し嬉しくなり、彼女にしては珍しく少し大きな声で、それでも他人よりは小さな声だが、補足を続けた。
「これは極少数の人間も同じ解釈なのだけど、この物語は表層で展開する恋愛話に主観を置いて受け止めるのが正しいと思うわ。つまり、最も愛している人との関係を、プライドを守る為や世間体を気にするあまりに、いとも簡単に手放してしまう愚かさ。そして新たな場所で得られた何も障害のない極普通の恋愛に甘え、溺れてしまう愚かさ。最後に、取り返しの付かない状況に至ってようやく自分の本当の気持ちに気づく愚かさ」
「なるほどね。ジュリアンの愚かさが際たつわね」
「そう。彼はいくつもの愚かな行為を……間違いを続けてしまった為に、このような結末に至ってしまったわ。どれか一つでも回避することができるならば、或いは違う結末を導くことも出来たかもしれない。ジュリアンだから、この物語は生まれた」
そこで一端説明を止め、カップに口をつけ香りを鼻腔で楽しみながら、少量だけ口に含んだ。紅茶を舌で味わいつつ、ゆっくりと飲み込み、パチュリーは続きを再開した。
「だからこの本は、人間が愚かであると書かれているのではないの。愚かな人間もいると書かれている」
「なるほど、ね」
パチュリーの話を聞きつつ、その紅い双眸は、紅魔館の廊下内を意味もなく慌しく走り回るメイド妖精たちと、彼女等に指示を出す十六夜咲夜を眺めていた。紅魔館には数十の妖精たちが雇われ、メイドとして働いている。が、如何せん妖精である為、全くといってもいい程、役にはたたない。紅魔館のあらゆる家事は、メイド長である十六夜咲夜が一手に支えている。
「解釈については理解できたわ。でも、どうしてそんな本を読んでいるの?」
視線は廊下に向けたまま、レミリアは訊ねた。
すぐに答えず、しばらく間を開け、パチュリーは語りだした。
「果たして自分は、ジュリアンの様に愚かであるのか、そうでないのか。それを知りたかったの」
「……パチェ」
紅い月光に映し出された荘厳な庭で、二人の少女たちは視線を重ねた。
まるで視線を交じらせることで、言葉はなくともお互いの考えが伝わるかのように、しばらく見詰め合った後、パチュリーは瞳を伏せ、瞼を閉じ、レミリアは再び紅魔館の廊下へと視線を戻した。
「レミィにも心当たり、あるでしょ?」
「……」
「種族の違いなんかを理由に、自分の本当の気持ちを見失ったりしていない?」
「……なんのことかしら?」
「自分や他人が生み出したくだらない価値観に縛られていない?」
「パチェ」
それまでとは違う硬く鋭い声。レミリアは横目でパチュリーを睨み付けた。
物怖じもせず、パチュリーは続ける。
「妖怪と人間の恋があってもいいと思うわ。周囲からどう思われようと、お互いがお互いのことを想えるのなら。後悔することの無い様に」
「……」
「ジュリアンの様に、風評などを気にしていては本当の幸せを見つけられないと思うの。人間も、妖怪も」
「……パチュリー・ノーレッジは結論が出たの?」
「相手次第かしら?」
そう言うと、パチュリーは立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
その背中に向け、レミリアは一言だけ告げた。───悪戯を思いついた子供のように目だけ笑って。
「妖怪と人間が結ばれるなんて夢みたいなこと、絶対にないわ」
立ち止まったパチュリーはゆっくりと振り返った。───意地悪げな感情を瞳に浮かべ。
「人が話をしている間、ずっと想い人を視線で追いかけていた人に、言われたくはないわ」
───白く輝く月の夜。
少女は一冊の本に読み耽っていた。
傍らには紅い紅茶。優しい色を放つスタンドライト。そして派手過ぎず、かといって質素すぎない程度の写真立てがひとつ。
写真立てには、一枚の写真。
写真の中では、黒い大きな帽子を被った金髪の少女が満面の笑顔でこちら側にピースサインをしている。その少女に寄り添うようにして、魔法使いの少女が幸せそうな微笑を浮かべ、こちらを見ていた。
fin
百合が嫌いな方、赤と黒に思い入れがあるかたは、ブラウザ上部の「戻る」にて引き返される方が賢明かと思われます。
「赤と黒」
───赤く紅い満月の夜。
少女は一冊の本に読み耽っていた。
傍らには今宵の満月に勝るとも劣らぬ紅い紅茶。優しい色を放つスタンドライト。そして派手過ぎず、かといって質素すぎない程度の写真立てがひとつ。
窓も、外光が入る隙間すらないその部屋の中、その部分だけが切り取られたかの様に浮かんでいる。
ここは霧の湖に浮かぶ孤島。その畔に聳え立つ洋館───紅魔館。
吸血鬼が住むことで人々に知られ、恐れられている悪魔の館。
館の地下の広大なスペースを使った大図書館。彼女がいるのはそこである。
今は暗闇に包まれ人間には視認できないが、この図書館には人間の一生全てを読むことに捧げても読み切れぬほどの書物が存在する。しかし驚いたことに、その書物全てが彼女の蔵書であり、さらに驚いたことにその全てを彼女は読破している。ただ読むだけでなく、全てを理解し、暗記すらしていた。
詰まる所、彼女は人間ではないのだ。魔法使いなのである。
魔法使いの少女は今日も、そして明日も、何年先も、何十年先も、唯々本を読み続ける。
それが彼女の生き甲斐であり、生きる理由でもある。
「本の傍に或るものこそ自分」
彼女に本を読み続ける理由を訊ねた時、必ずその答えが返ってくる。
他人は彼女をこう呼ぶ。
知識と日陰の少女。
得体の知れない魔法の元。
花曇の魔女。
そして───動かない図書館。
彼女の名は、パチュリー・ノーレッジ。
「今日は何を読んでいるのかしら?」
先程まで何者も存在しなかった黒の世界から、一人の幼い人影が浮かび上がった。
その幼い容姿の少女こそがこの館の主、吸血鬼レミリア・スカーレットである。
「毎日毎時、よく飽きないわね」
彼女はそう言いつつ、魔法使いの傍までふわりと「飛んで」きた。
橙色のライトに映し出されたレミリアの姿は、人間で言えば十代前半の少女にしか見えない。ただし、紅く輝く瞳、唇の端から覗く牙、さらに背中から生える黒い翼を除けばではあるが。
「……赤と黒」
華やかとも言える雰囲気を放つレミリアとは対極的に、良く言えば清楚、悪く言えば地味な雰囲気のパチュリーが、小声でそれだけをぽそりと呟いた。
「何が?」
「……読んでいる本」
断りもなしに向かいの椅子に座ったレミリアに対し、パチュリーは読みかけの本の表紙を見せる。
───赤と黒 著:スタンダール
「人間の本、よね?」
「そう」
パチュリーは目線を文字から離さず素っ気なく答えた。読書中の彼女は大抵、素っ気ない。尤も読書中でない時間は殆どないのだが。
「そんなもの読んで楽しいの?」
言葉にも態度にも「呆れた」という感情が溢れている。
「この本は楽しくなる物語ではないわ」
「感動するってこと?というか、小説なの?てっきり軍人と聖職者のどちらに就職するかの指南書かと思ったわ」
「感動もできないわね」
「どうして読んでいるのよ?」
先程より一層、「呆れた」という感情がレミリアの表情に浮かぶ。
パチュリーは質問責めの友人に付き合うことにしたのか、もしくは今夜の読書は中断するしかないと諦めたのか、その本『赤と黒』に金属で出来た洒落た栞を挟み畳んだ。
「───この世に価値のない本はないわ」
パチュリーはそう言うと、すっかり冷め切った紅茶を口にした。
「価値、ねぇ。じゃあ、この本の価値はなんなの?」
吸血鬼の少女が、こつこつとその小さな指で件の本を突付き訊ねた。友人が何と答えるのか興味津々である、とその表情は語っている。五百歳以上である齢とは裏腹に、彼女の姿も表情も、仕草もまるで少女のように幼い。好奇心を全く隠そうともしないその態度は、ある意味、彼女の魅力の一つであるとも言える。
「……そうね。例えるなら、人間の愚かさ、ね」
「愚かさ?この本に頼らなくても、人間の愚かさなんて彼らを見ればすぐに分かるわよ」
「……違うわ。人間が愚かであるということを、この本に書いてあるのではなく、こういう愚かな人間がいる、ということが書いてあるのよ」
「?」
「……」
「わかりやすく」
「……少し長くなるけど、あらすじでも説明した方がいいかしら?」
「そうね。あ、でも長くなるならお茶がいるわね。───咲夜」
パチンッとレミリアが指を鳴らすと、突然、彼女の背後に給仕服を着た女性が現れた。
「───お呼びでしょうか?お嬢様」
「お茶を用意して頂戴。それから、ここは辛気臭いし、カビ臭いわ。テラスに移るからそこに用意して。パチェのもね」
「畏まりました」
咲夜と呼ばれたその女性は、ニコリと微笑み主人の命令を受け取った。
「……そんなに長くないわよ。……あと確かにここはカビ臭いけど、辛気臭くはないわよ」
日陰の少女の反論を聞く者は、もうすでにその図書館にはいなかった。
何時の間にやら、レミリアも咲夜も姿を消していたのであった。
「……はぁ」
図書館には、パチュリーとその細い溜息だけが存在した。
「で、その何から何まで愚かなお話から何が得られるのよ?」
赤く紅い満月に照らされた紅い館の庭。
その庭のほぼ中央に造られた円状のテラスに、パチュリー、レミリアの二人は豪奢なテーブルセットを囲み、真夜中のティータイムを愉しんでいた。尤も愉しんでいるのはレミリアであるが。
「……今、説明した通りよ」
「あらすじしか聞いてないわよ」
「……それが全て」
「意味不明だわ。だとしたなら、私がその本から得るものはないわね」
パチュリーが図書館より庭へと移ると、すでに紅魔館のメイド長、十六夜咲夜が出来たての紅茶と茶請けのクッキーを用意してあった。友人を待たずに先に紅茶を楽しんでいたレミリアに、『赤と黒』と梗概を説明したのは、ほんの数分前である。
パチュリーの語った梗概が以下である。
田舎町ベリエールの製材小屋の息子ジュリアンは、父と兄に虐待されて育ったが、類まれな知性の持ち主であり、不屈の意志で出世の道を切り開いていった。
はじめは、町の金持ちレナール家の家庭教師となり、信心深く貞淑なレナール夫人と熱烈な恋に落ちてしまう。その噂が町じゅうに広まったため、レナール家を出たジュリアンは、神学校に入学した。やがて校長に、パリの大貴族ラ・モール侯爵の秘書に推薦される。
そこでも彼は、高慢な令嬢マチルドに見初められ、またじらされ、何とか彼女を屈伏させて結婚までこぎつける。ところが、彼を中傷するレナール夫人の手紙が届き、全てを台無しにされてしまう。
彼はベリエールに舞い戻り、教会で礼拝中のレナール夫人をピストルで撃ってしまう。しかし、投獄されてから、夫人の自分に対する愛情を知り、自分も実は夫人だけしか愛していなかったことを悟る。
以上がパチュリーのまとめたあらすじである。作品自体は今から約二百年前のものであり、現代とは違う価値観であったとはいえ、パチュリーは非常によくまとめてあると言える。
が、どうやらレミリアには額面通りにしか伝わらなかったようである。
「要するに、貧乏な生まれの男が、人妻と不倫して、ばれたから引っ越して、その先で新しい恋人を手にしたけど、嫉妬した前の恋人が嫌がらせしてきたので、殺そうとして、最後には捕まって、でもやっぱりあの人妻が好きだったんだー!って愚かにも気づく話なんでしょ?」
「……私の説明が足りなかったのかしら?」
魔法使いの少女は、酷く寂しそうな視線を月に向けた。この吸血鬼の理解力が足りないのか、自分の説明が不足しているのか、はたまた双方の価値観に大きな違いがあるのか───、できれば三番目の選択肢であることを彼女は強く願った。
「補足するまでもないと思うけど、フランスの七月革命は知っているわよね?」
「もちろんよ。何百年生きていると思うの?対岸の火事とは言え、それ位は知っているわ」
「この話は西暦一八三〇年フランスの情勢が大きく関わってくるわ。時代の大きな変革を恐れつつも堕落した生活を続ける、王政復古下の聖職者や貴族階級の姿があますことなく表現されているとは思わない?ある意味、支配階級の腐敗を鋭くついているわ」
「そうね。そうかもね。さっきのパチェのあらすじから、それを読み取れなんてナンセンスではなくて?」
鋭い視線でパチュリーを下から睨み付けるレミリアから視線を逸らしつつ、日陰の少女は、出来る限り認めたくはなかった二番目の選択肢が真実であったことに落胆していた。
「言葉足らずだったわ。ごめんなさい」
「別にいいわよ。パチェの説明が分かりづらいのは、いつものことよ」
どうやら、いつもパチュリーの説明は相手に理解されていなかったらしい。今夜初めて知った事実に、パチュリーは大きな溜息しかでなかった。
「で?当時の支配階級の腐敗?その本の本質は、まさかそれだけなの?」
ストロベリージャムをのせた一口サイズのクッキーを摘み、レミリアはパチュリーに更なる説明を求めた。傷心の少女は、渋々説明を続けた。
「野心的な青年ジュリアンの目を通して、ありのままに七月革命が描かれている、この物語の歴史的価値と文学的価値はその部分よ。人間達の多くは、その部分を評価の土台にしているわ」
「で、パチェは?」
何だかんだと言っても、流石は友人である。パチュリーがフランスの歴史を知る為にその本を読んでいたわけではないということを、文句を垂れながらも理解している。
パチュリーは少し嬉しくなり、彼女にしては珍しく少し大きな声で、それでも他人よりは小さな声だが、補足を続けた。
「これは極少数の人間も同じ解釈なのだけど、この物語は表層で展開する恋愛話に主観を置いて受け止めるのが正しいと思うわ。つまり、最も愛している人との関係を、プライドを守る為や世間体を気にするあまりに、いとも簡単に手放してしまう愚かさ。そして新たな場所で得られた何も障害のない極普通の恋愛に甘え、溺れてしまう愚かさ。最後に、取り返しの付かない状況に至ってようやく自分の本当の気持ちに気づく愚かさ」
「なるほどね。ジュリアンの愚かさが際たつわね」
「そう。彼はいくつもの愚かな行為を……間違いを続けてしまった為に、このような結末に至ってしまったわ。どれか一つでも回避することができるならば、或いは違う結末を導くことも出来たかもしれない。ジュリアンだから、この物語は生まれた」
そこで一端説明を止め、カップに口をつけ香りを鼻腔で楽しみながら、少量だけ口に含んだ。紅茶を舌で味わいつつ、ゆっくりと飲み込み、パチュリーは続きを再開した。
「だからこの本は、人間が愚かであると書かれているのではないの。愚かな人間もいると書かれている」
「なるほど、ね」
パチュリーの話を聞きつつ、その紅い双眸は、紅魔館の廊下内を意味もなく慌しく走り回るメイド妖精たちと、彼女等に指示を出す十六夜咲夜を眺めていた。紅魔館には数十の妖精たちが雇われ、メイドとして働いている。が、如何せん妖精である為、全くといってもいい程、役にはたたない。紅魔館のあらゆる家事は、メイド長である十六夜咲夜が一手に支えている。
「解釈については理解できたわ。でも、どうしてそんな本を読んでいるの?」
視線は廊下に向けたまま、レミリアは訊ねた。
すぐに答えず、しばらく間を開け、パチュリーは語りだした。
「果たして自分は、ジュリアンの様に愚かであるのか、そうでないのか。それを知りたかったの」
「……パチェ」
紅い月光に映し出された荘厳な庭で、二人の少女たちは視線を重ねた。
まるで視線を交じらせることで、言葉はなくともお互いの考えが伝わるかのように、しばらく見詰め合った後、パチュリーは瞳を伏せ、瞼を閉じ、レミリアは再び紅魔館の廊下へと視線を戻した。
「レミィにも心当たり、あるでしょ?」
「……」
「種族の違いなんかを理由に、自分の本当の気持ちを見失ったりしていない?」
「……なんのことかしら?」
「自分や他人が生み出したくだらない価値観に縛られていない?」
「パチェ」
それまでとは違う硬く鋭い声。レミリアは横目でパチュリーを睨み付けた。
物怖じもせず、パチュリーは続ける。
「妖怪と人間の恋があってもいいと思うわ。周囲からどう思われようと、お互いがお互いのことを想えるのなら。後悔することの無い様に」
「……」
「ジュリアンの様に、風評などを気にしていては本当の幸せを見つけられないと思うの。人間も、妖怪も」
「……パチュリー・ノーレッジは結論が出たの?」
「相手次第かしら?」
そう言うと、パチュリーは立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
その背中に向け、レミリアは一言だけ告げた。───悪戯を思いついた子供のように目だけ笑って。
「妖怪と人間が結ばれるなんて夢みたいなこと、絶対にないわ」
立ち止まったパチュリーはゆっくりと振り返った。───意地悪げな感情を瞳に浮かべ。
「人が話をしている間、ずっと想い人を視線で追いかけていた人に、言われたくはないわ」
───白く輝く月の夜。
少女は一冊の本に読み耽っていた。
傍らには紅い紅茶。優しい色を放つスタンドライト。そして派手過ぎず、かといって質素すぎない程度の写真立てがひとつ。
写真立てには、一枚の写真。
写真の中では、黒い大きな帽子を被った金髪の少女が満面の笑顔でこちら側にピースサインをしている。その少女に寄り添うようにして、魔法使いの少女が幸せそうな微笑を浮かべ、こちらを見ていた。
fin
そうですね、私もあっても良いと思います。
レミリアが話の最中も姿を追っていた人は咲夜さんでいいですよね?ね!?
風評に捕らわれることなく繋がって欲しいものですね。
もちろん、それはパチュリーにも言えることですけど。
面白かったです。 次回の作品も楽しみですね。