川のほとりで少女が焚き火をしている。
「もっえろーもえろーはげしくもえろー」
適当な音階で適当な歌詞を口ずさみつつ、火に薪をくべる。
その火の周りでは、串に刺された魚が数匹焼かれている。
「やっけろーやけろーおいしくやけろー」
珍妙な歌を歌いながら魚を焼いているのは、蓬莱人・藤原妹紅。
時折串を回し、焼き加減を調節する。
自然と、辺りに焼き魚の良い匂いが広がっていく。
「んー、美味しそう。やっぱり魚は釣ったその場で焼いて食べるのが一番だね」
独り言にしては少々声が大きい。誰かに聞かせているような、当てつけているような声色だ。
更に独り言は続く。
「それにしても今日は良く釣れた、入れ食いだ。誰でも釣れそうな気がするよ」
すると、少し離れたところから不機嫌な声がした。
「……それは嫌味かしら?」
「いやいや、そんなつもりは無いのだけれどね。おや、そっちはまだ釣れていないのか?」
「……今日は調子が悪いのよ」
「この前もそんなことを言ってたじゃないか」
「この前も調子が悪かったの」
「そうかい、そりゃ難儀なことで」
目も合わせずに言い合う。妹紅は魚と火の加減を見ながら。声の主は、仏頂面で釣り糸を川に垂らしながら。
ピクリとも反応することの無い竿先と川面を交互に眺めているのは、蓬莱山輝夜。妹紅と同じく不老不死の蓬莱人である。
痺れを切らした輝夜はいつまで経っても釣れる気配の無い自分の釣竿を放り出し、妹紅の……焼かれている魚の傍へやってきた。
そして妹紅が座っている岩の反対側にしゃがみ込むと、串に刺された魚を突き始めた。
「なによ。……あげないからな」
「施しを受けるつもりなんて無いわ。ただ、あなたがどうしてもっていうのなら貰ってあげても良いわよ」
「そうか。やらない」
取り付く島がない。もとより、千年来の仇敵である輝夜に妹紅が優しさを見せるはずもなく。
「そう。ならいいわよ」
「ああ、そこで指でも咥えてな」
魚も良い具合に焼きあがった。一本串を掴み、熱々のまま頬張る。
「はふはふ……んー!美味いねぇ」
「ちょっと」
「この時期の鮎は脂が乗ってて最高だよ、うん」
「ねえ!」
「んん?なんだ、指なんか咥えて。美味いのか?」
「美味しくないわよ。ねえ、お腹減った」
串刺しの鮎を突きながら暗に催促してくる輝夜。それに対し妹紅は、
「そうかい。はむはむ」
当然のように無視した。
ますます不機嫌になっていく輝夜。突く指が強くなる。
それを見て流石に哀れになったのか、手に持っていた串を差し出した。
「ほら、これやるよ」
「……頭と尻尾と骨しか残ってないじゃない」
「それだけあれば十分だよ」
勢い頭と尻尾と骨だけが残った串を受け取った輝夜は、顔をしかめる。
「はらわたまで食べるなんて。あんな苦いとこなんか食べて、変よ」
「その苦みがいいんだよ。長く生きてるくせにこの美味しさが分からないなんて、可哀相だね」
言いながら、二本目の串に手を伸ばす。
最初のものよりも少し大きめだ。
嬉しそうな顔で、また頬張る。
「はふはふ。うん、美味しい」
「……」
それをただ見ていた輝夜は、更に強く突く。
そんなことをしていれば当然のように、
「あ」
「あー!」
輝夜が先程から一生懸命突いていた鮎が火の中へ倒れた。
強く燃える火が瞬く間に皮を焦がし、身を焼き、旨みを奪ってゆく。
妹紅の腹に収まるはずだった鮎は火の勢いを増すための贄になってしまった。
「あぁ、私の朝食兼昼食が……」
「えーっと、残念だったわね」
何故か同情の眼差しで妹紅を見る輝夜。
「お前、何してんだ!私の鮎を!」
「いいじゃない、他にもいっぱいあるんだから」
「あれは一番大きいから最後に食べようと思ってたのに!」
「うーん、それは残念だったわね」
全く反省しない輝夜に、妹紅の我慢が限界に達する。
元々輝夜に対しては沸点が低めに設定されているのであるからして。
手にしていた串を放り投げ、立ち上がった。
「……今日の晩御飯は蓬莱山輝夜の塩焼きでいいか」
「あら、私は藤原妹紅の丸焼きがいいわね。素材の味をそのまま生かしましょう」
少し離れて対峙する。
互いに弾幕を展開する。
そして、切欠は鮎の串焼きという余りにも馬鹿馬鹿しい理由で殺し合いが始まった。
「……お腹減った」
竹林の中を少女が歩いている。
先程まで死闘を繰り広げていた藤原妹紅である。
勝負の結末は、恐らく引き分け。妹紅が蘇生して意識が戻った時に同時に輝夜も蘇生したのだから引き分けだろう。
妹紅と輝夜の殺し合いは数百年もの昔から続いてきた。最早一種のイベントのようなものである。
続けようと思えば永遠に殺しあえる不毛な二人は、どういう形であれ一度勝負がつけばその日はすっぱりと別れる。
互いに起き上がり、それじゃあまたと別れたところだ。
「はあ、さっきの鮎は大きかったのになあ」
輝夜との勝負はいつでもできるからどうでもいいのだが、食べることのできなかった鮎には未練がある。最近釣った中では最も大きかったから尚更だ。
とはいえ戦いの余波で無残に飛び散った鮎たちを見ていたら虚しくなり、今日は釣りを再開する気にはならなかった。
しかし腹は減った。
結局のところ、
「仕方ない、慧音のところにたかりに行こう」
食料に困った時いつもしているように、友人に頼ることにした。
人里にある寺子屋。そこで教鞭をとっている半獣の歴史家、上白沢慧音は妹紅の友人である。
寺子屋の方に近づいていると、丁度授業が終わったのか子供たちが外に出てきた。
その大半が眠そうにしているのは、慧音の授業の成果に違いない。
妹紅自身も何度か子供たちに混ざって授業を受けてみたことがあるが、ものの数分で夢の世界へ旅立った。
子供たちと一緒に慧音が出てくるのが見える。
「せんせー、さようなら!」
「はい、さようなら。気をつけて帰るんですよ。寄り道をしないように。それと、里の外に出ないこと。妖怪に襲われてしまいますよ」
「はーい」
友人同士で談笑しながら、ぱらぱらと帰って行く。
その中には、見知った顔である妹紅を見つけては手を振ってくる子供もいた。
「もこー!」
「や、気をつけて帰りなよ」
「うん、ばいばーい!」
立ち止まり、手を振り返してやりながら子供たちを見送る。
全員が見えなくなったところで、改めて寺子屋の方に向き直り、歩く。
妹紅が来ていることには気付いていたのだろう、外で慧音が待っていた。
「夕飯をいただきに来ました」
「まったく、暫く顔を見せなかったかと思えば突然来て挨拶もなしにそれか。相変わらずだな」
「あはは、そっちこそ相変わらずお固いねえ。こんにちはー」
「はい、こんにちは」
まるで生徒扱いだ。子供と一緒にされているようで、なんだか可笑しい。
唯一心を許せる友人に会い、先の殺し合いで少しささくれ立っていた気分が安らぐ。
「んー、やっぱり定期的に会わないとね。心の栄養が不足しちゃうよ」
「なんだそれは。ま、とにかく上がりなさい」
「うん、お邪魔します」
寺子屋兼住居の慧音の家に上がりこむ。
住人の性質を反映しているように整然と並んだ家具に、大量の書物が収められた本棚。
本当に全ての本を読んだのだろうか、見栄を張ってただ並べているだけじゃないのだろうかと思うほどの量が並んでいる。しかもこれは書斎に入りきらないから置いてある分だから恐ろしい。
いつもの定位置に座り、一息つく。
まったりしていると、慧音がお茶を汲んできた。
「どうぞ」
「お、ありがとー」
茶碗を受け取り、啜る。
少し熱めなお茶の熱が身体全体に広がっていく。
「うん、美味しいね」
「そうか、それはよかった」
慧音も座り、茶碗を手に取る。
暫く部屋には静かにお茶を啜る音だけが響いていた。
お互いお茶を飲み干したところで妹紅が切り出した。
「お腹減った」
身も蓋もない言い草に、苦笑する。
「分かりやすいのはいいことだが、少しは遠まわしに言ったらどうなんだ」
「いやいや、私たちの間にそんなまどろっこしいことは必要ないじゃん」
「親しき中にも礼儀あり、だよ」
「固いなあ」
「しかしな、こういうことはしっかりと弁えておかないと。良い機会だから言っておくが、人との交流というのは先ず何をおいても相手への気遣いが重要で……」
授業という名の説教が始まった。閻魔もかくやという慧音の説教は一度始まれば長い。それはもうとても長い。
その全てを聞いていたら暫く耳鳴りが止まらなくなるのだが、そこは妹紅も心得たものである。
目を瞑り、いかにも真剣に聞いているフリをする。時折うんうんと頷くのも忘れない。
しかし説教は素通りだ。わざわざ自分から頭痛になることもない。
心は静かに。外界の音を遮断する。
無念無想の境地へ。
意識が霧散する。
「……すぴー」
夢の中へ
夢の中へ
行ってみたいと思いませんか?
「戻って……来い!!」
ゴスッ
「あいだぁーーーー!!!??」
一瞬で戻ってきた意識が次の瞬間遠くへ飛んでいった。
額を中心に頭全体に激痛が広がる。
床を転げまわる妹紅。慧音はお茶を啜っている。
「おおぉ……いいぃ……ああぁ」
「自業自得だよ」
妹紅は暫くのたうち回っていたが、ようやく痛みも引いてきた。
額を押さえながら座りなおす。
頭突きをくらった額はぷっくりと大きくたんこぶになっている。血は……出ていない。
「いちち、死ぬかと思ったよ」
「大丈夫だよ、手加減はしてる」
「あれで!?」
「うん」
事も無げに言う慧音に、戦慄を覚える。
慧音、恐ろしい子……!
くきゅるるー
腹の虫が鳴きだした。
思い出す。当初の目的は晩御飯だったのだ、痛い思いをしに来たのではない。
「お腹減ったよー。頭痛いけどそれ以上に空腹なんだよー」
「はあ、仕方ないな。夕食にしよう」
言って、慧音が立ち上がる。
台所へと向かい、なにやらごそごそと漁っている。
「いや、実際のところ今日は妹紅が来てくれて助かったんだよ。私一人では持て余していたところだからな」
「なになに、何か良い物が手に入ったの?」
「うん、生徒の親御さんから戴いたのだけれど、なにぶん量が多くてね。この時期だから早めに食べてしまうか、燻製にでもしないといけないかなと思っていたんだが」
と言いながら両手に抱えてきたのは、
「肉?」
「そう、牛肉だよ。ほら、こんなに沢山」
確かに、抱えるほどの牛肉は一人で食べるには随分と大変だろう。
しかし……。
妹紅は眉をひそめた。
「ねえ、大丈夫なの?」
「うん?今日貰ったばかりだから新鮮だぞ?」
「いや、そうじゃなくてさ」
少し声を小さくして、確認するために聞いてみる。
「慧音はワーハクタクでしょう?」
「そうだけど……それがどうかしたのか?」
「ほら、ハクタクって身体が牛だとかってアレでしょう?牛肉なんて食べたらさ、慧音は共食いってことになるんじゃないの?」
「……」
黙り込む慧音。
「(おや、もしかして言われるまで気付いてなかったのかな?まあ普段はしっかりしてるけどたまに抜けてるところもあるからなあ、慧音は。仕方ない、牛肉は私一人で……)」
ヨコシマなことを考えていると、すっと視界が影に覆われた。
見上げると、すぐそこに慧音がいる。
「あれ?慧音、何か、目の光が」
いつのまにか持っていた牛肉を横に置いている。
代わりに妹紅の頭を掴むと、ピンポイントに、正確に、針の穴を通すかのような精緻さで先程自らが作ったタンコブヘと額を再度打ち込み、
ガスゴリィッ
この世ならざる擬音を生み出した。
「――ッ!!!」
妹紅は悲鳴を上げることすらできずに、倒れた。
意識が戻ってくる気配がない。
倒れたままの妹紅。慧音はお茶を啜っている。
数十秒が経ったころ、ようやく妹紅が復活した。
「い、今死んだ!確実に一回死んだ!っていうか頭突きと同時にグリグリって追打ちをかけたよね!?」
「二回目は少し工夫をしてみたんだ。それと、ちゃんと死なない程度には加減をしたよ」
「嘘ぉ!?」
「私は嘘をつかない」
それは真実だ。上白沢慧音は嘘をつかない。
「うう、死ぬほど痛かった……」
「だから、自業自得だよ。変なことを言い出すからだ」
「だってさ、本当にそう思ったんだもん。鴉天狗のブン屋や永遠亭に居る月の兎だって鳥や兎が食べられるのを良く思ってなかったよ?」
「む。そうだな、確かに疑問に思っても仕方ないか」
茶碗を置くと、居住まいを直す。
「確かに彼女たちは同族とも言える鳥や兎が食料になることを忌避している。それは、彼女たちが最初から<鴉>であり<兎>でもあるからだよ。人型をとっているから人間と同じように考えてしまうかもしれないが、間違いだ。生粋の妖怪であり、鴉であり、兎なんだ。当然、仲間が食べられるのは気分が良くないだろう。しかし私は、今はワーハクタクの身とはいえ元は人間だ。それにハクタクとなるのも満月の晩だけだからな。それ以外はずっと人間。つまり、今の私は人間としての倫理観に基づいて思考や行動をしている。勿論ハクタクであることも少なからず影響してくるが、人間である間はそれほどの影響は出ないよ。ハクタク時であれば話は少し違ってくるけども」
話の内容よりも、一息で喋ったことに驚きを感じながら妹紅は尋ねた。
「成程。……えーっと、つまり?」
「つまり、今の私は牛肉を食べることが出来るということだ」
「なんだ、それを早く言ってよ」
「疑問に思ったって言ったから答えたんだが……」
折角説明したのに、と少し落ち込む慧音。
やはり人の話をちゃんと聞くことから教えないとだめかな、などと不穏な独り言が聞こえてきたため、妹紅は慌てて話題を移す。
「さ、それじゃあ疑問も解決したところで夕飯にしようよ。ね?」
「むう。そうだな」
「そうしようそうしよう。すき焼きなんてどうかな?文明開化ー」
「お前、それは古いよ」
「そうかな、私にとっちゃ新しいけどねえ」
「それはそうかもしれないがね。それじゃあ今夜はすき焼きにしよう。手伝ってくれ」
「はいはーい」
少々遠回りであったが、ようやくご飯にありつける。
「「いただきます」」
ぐつぐつと煮立った鍋から、いい匂いのする湯気が上がっている。
先程まで話題の中心だった牛肉も、今は食卓の中心として鍋の中にある。
昼間のいざこざや、二度くらった頭突きによって空腹も限界を迎えつつあった妹紅は早速肉に箸を伸ばす。
「お肉ーお肉ー染み込みこみー」
「肉だけじゃなくて野菜もしっかり食べるんだぞ」
「わかってるって。とりあえず最初は肉だよ」
多めに掬い取った肉を半分ほど溶き卵に浸し、頬張る。
「はふはふ。美味しいー!」
「肉は沢山あるんだ、少しずつ食べなさい」
「はーい。はふはふ」
返事をし、また口いっぱいに頬張る。
言っても無駄だと諦めたのか、慧音も食べることにした。
肉を取り、卵をつけ、食べる。
「うん、良い味だね」
牛肉と割り下の味に満足し味わっていると、妹紅が感心した目で見ていた。
「……なんだ?」
「いやー、本当に牛肉を食べてるなあと思って」
「本当に食べてるよ。まったく、それなりに長い付き合いになるというのに何故今更そんなことを気にするんだ」
「や、何の偶然か今まで牛肉を一緒に食べたことってなかったし。それにさ、いつもは何とも思わないのにふと疑問になることってあるでしょ。私なんてついこの間輝夜を見てて、どうしてこんな胸も無いちんちくりんがモテたんだろうって思ったんだよ」
「それは流石に今更過ぎるような気がするが。それに、背丈や体型に関してお前たちは似たようなものじゃないか」
「ふん。私のほうが大きいさ、絶対に」
「そうか。まあ、その辺りのことは当事者同士で解決してくれ。それに、内容はともかく疑問を持つのはいい事だよ。心に余裕がある証拠だ」
妹紅によりあっという間に鍋から消えてなくなった肉を新たに鍋へと投入しながら、慧音は律儀に妹紅の疑問に答える。
「それはともかく、蓬莱山輝夜は客観的に見て美女……美少女と言えると思うぞ。人ならざる美しさというやつだ。本当に地上の人間ではないのだし」
「ふん」
「だがそれ以上にかぐや姫の美しさを引き上げたのは、その神秘性だろう。やんごとない家系に生まれ蝶よ花よと育てられた貴族のご令嬢ではなく、一平民の家に突然現れた正体の知れない美少女。あまりにも突然に出てきて出自もわからず、しかし確かに存在している。最初は周辺の住民だけが驚いただろう。そのうちに噂は肥大化して伝播し、その噂を聞いた全ての人を引きつけるまでになった。時の権力者を動かすほどにな。まあ、結局のところは実際に美しくなければ意味などないのだが、輝夜はその噂を嘘だと言わせないほどに美しかったということだね」
「……」
またも一息で説明していると、いつのまにか妹紅がふてくされていた。不機嫌な顔で肉を頬張っている。
肉以外の材料が全く減らないことを注意すべきかどうか迷ったが、少々喋りすぎたことを謝ることにした。
「すまないな、妹紅のことを考えずに喋りすぎた」
「いや、あいつの事を話題に出したのは私だもん、慧音が謝ることじゃないよ。ただ……」
ふと、肉をつつく箸を止めた。
「私はどっちかっていうと蝶よ花よの方だからさ。何かアイツに負けた気がするのがやだ」
「くふっ」
思わず顔をそらし、笑いを堪える。
妹紅は、輝夜が美人だ綺麗だとちやほやされたことが気に入らないらしい。
「いや、妹紅。確かに輝夜は美人だが、お前だって負けず劣らず美しいよ」
「そういうお世辞はいらないよ」
「お世辞なんかじゃないよ、本当にそう思ってる。私は嘘をつかない」
「けーね……」
それは真実だ。上白沢慧音は嘘をつかない。
妹紅は機嫌を直し、最初よりも速いペースで肉を食べ始めた。
「ちゃんと野菜や他のものも食べなさい」
「うん!」
団欒の時が過ぎていく。
一つの鍋を二人で突き、仲は深まる。
結局、妹紅は肉以外食べなかった。
夕食も済み、妹紅は竹林にある自分の住まいへと戻ることにした。
「今日はありがとう。それじゃあ、またね」
「ああ。妹紅なら問題ないだろうが、夜の妖怪には気をつけるんだぞ」
「どうせ死なないんだから襲われたって平気だよ」
「それはだめだよ。自分の身を大切にすることは他者を大切にすることに繋がるんだから」
「はーい、わかったよ。それじゃあね」
「うん、それじゃあまた」
慧音宅を後にする。
満腹になったお腹をさすりながら、ふと空を見上げる。
月はほぼ真円に近く、明かりのない夜道を静かに照らしている。
明日は、満月だ。
次の日の晩、妹紅は再び慧音の家へと向かっていた。
鼻歌を歌いながら、軽やかに歩いていく。
玄関を数度叩き、呼びかける。
「慧音ー、慧音ー」
何度か呼んでみたものの、出てくる気配はない。満月の晩はいつものことだ。
戸を開け、上がりこむ。明かりが漏れている部屋へ向かうと、覗き込んだ。
「おーい、お邪魔してますよ」
「妹紅か。今忙しいんだ、ご飯なら昨日の牛肉が残っているから勝手に食べていなさい」
少々刺々しい。容貌もいつもとは変わっている。角と尻尾が生え、妖気も感じられる。
知識の妖怪、ハクタクである。満月の晩のみにハクタクとなる慧音は、その能力を生かして歴史の編纂作業を行う。
相変わらず忙しいのだろう、妹紅の方を向くこともなく筆を走らせている。気が立っているのか、尻尾もせわしなく動いている。
この日に慧音が忙しいことを知っている妹紅は、慧音の態度にも気にせず会話を続ける。
「あ、やっぱり今日は牛肉を食べないんだね」
「なんだ、そんなことを確かめに来たのか」
「それもあるけどさ、他に疑問が出てきたんだ。それで、ちょっと調べに来たというか」
「なんだ」
「いや、慧音は人間の時は人間としての基準に従ってるから牛肉を食べられるんでしょう?だとすると、ハクタクになったら妖怪として人間を襲っちゃうのかなーと思って」
「……」
黙り込む慧音。
「あ、あれ?もしかして図星だった?んー、ダメだよ慧音、人間を襲ったら。私が退治しちゃうぞー、なーんて。あはは……」
ボキィッ
「……は?」
例えるなら、筆を片手で折った様な音が響いた。
慧音は無言のまま立ち上がり、妹紅へ向き直る。
手には真っ二つになった筆を持っている。どうやら片手で折ったようだ。
「ハクタクである私が人間を襲うのかを確かめに来たのか?」
「う、うん。まあちょっとした好奇心がね」
「そうか。好奇心というのはいいものだ。知識を増やし、世界を広げる」
「そ、そうだね」
静かな慧音に、いつもとは違う気配を感じる。
何故か脳裏に噴火直前の火山が浮かぶ。
「ところで妹紅。お前は蓬莱人だが、私はお前の事を人間だと思っている。永遠の命を得ようと、本質を見失わなければ人は人のまま在り続ける」
「うん、そう言ってくれる慧音には感謝してる…よ?」
慧音にとって妹紅とは人間である。その意味は、とても重い。
「さて、ここからが本題だが。……私は今まで人間を襲ったことなどない。ただの一度も。でもね、何だか今日は襲いたい気分なんだ」
「うぇ?」
「別に選り好みをするつもりはないよ。目の前に人間がいたら、その人間を襲えばいい」
「えっと…それってもしかしなくても」
間違いなく妹紅だろう。
慧音の目を見てみる。狂気だ。
「お、落ち着こう慧音。えっと、こういう時は」
思い出す。ものの本には何と書いてあったか。
「きょ、今日はまた一段と良い毛並みだねえ。その尻尾とか」
「ありがとう」
「お、おや。その素敵な角は、あの有名な越後屋甚平の作品かい?」
「これは自前だ」
「……お、落ち着いた?」
「私はさっきから落ち着いているぞ。何も変わらない」
状況は変わっていなかった。
慧音が一歩前へ踏み出す。
ただそれだけの動作で、
死を超越した蓬莱人は、
数百年振りに死への恐怖を感じ、全力で逃げた。
永遠亭。迷いの竹林にある屋敷の縁側で、蓬莱山輝夜は涼んでいた。少し強めの風が気持ち良い。
特に何をするわけでもなく和んでいると、目の前の柵を破って人影が飛び出てきた。
すわ敵襲かと身構えたが、よく見れば人影は見知った人物だった。
一応敵であることに違いはないが、いつもの相手だ。優雅に座りなおし、話しかけた。
「あら妹紅、斬新な登場の仕方ね。どうしたの、今日の勝負にでも来たのかしら?」
「ち、違う!助けてくれ、追われてるんだ!殺されてしまう!」
「はあ。殺されるくらい別にいいじゃない。何をしたのかはわからないけど、一度くらい殺されてあげれば相手も気が済むのではないの?」
「馬鹿、あれはそんな生温いモノじゃないよ!もっと恐ろしいんだ!」
切羽詰った様子の妹紅。
生き死にの話で今更何を慌てる必要があるんだと、全く相手にしない輝夜。
進展することのない問答を繰り返していると、
「もこうぅー」
「ひぃっ」
地獄から響いてくるような声がした。
妹紅が怯えている。
これは珍しいものが見れたと喜ぶ輝夜。
怯える妹紅。喜ぶ輝夜。
すると、妹紅が壊した柵の向こうから、またも何者かが現れた。
「あら?なんだ、どれだけ恐ろしい怪物が出てくるのかと思ったら里の獣人じゃないの」
「なんだじゃない、今の慧音はいつもの慧音じゃないんだよう!」
「まあ、角と尻尾は生えてるわね。でも今日は満月だし、それが普通なのでしょう?」
「見た目じゃなくて!いや、見た目もあるんだけど中身も!」
延々輝夜と妹紅が漫才をしているが、慧音には妹紅しか見えていないようである。
一歩一歩近づきながら、話しかける。
「なあ妹紅、お前の生き胆は美味しいのかな?」
「不味いですっ。というかそんなもの食べたら慧音まで死ねなくなっちゃうよ!」
「食べた後に首まで砂に埋まれば大丈夫だろう」
「それはフグの毒抜き!しかも迷信だし!」
少しずつ、慧音と妹紅の距離が縮む。
輝夜の助勢が叶わなくなった妹紅は、懺悔を始めた。
「ご、ごめんなさい!これからはちゃんと挨拶します!ちゃんと野菜も食べます!だからいつもの慧音に戻って!生き胆を食べないで!」
「あら、あなた野菜が嫌いだったの?だから怒られてるのね」
「合ってるけど違うわ、ばかぐやー!」
距離が縮む。最早逃げる術は無い。
長年の友である妹紅を喰らわんと、慧音が迫る。
二人の距離は近く、心の距離は果てしなく遠い。
「うう、慧音ーごめんよー」
「妹紅……いただきます」
最後まで噛み合わない二人。
そして、
二つの影が、
重なった。
「うひゃわーーーーー!!!」
「もっえろーもえろーはげしくもえろー」
適当な音階で適当な歌詞を口ずさみつつ、火に薪をくべる。
その火の周りでは、串に刺された魚が数匹焼かれている。
「やっけろーやけろーおいしくやけろー」
珍妙な歌を歌いながら魚を焼いているのは、蓬莱人・藤原妹紅。
時折串を回し、焼き加減を調節する。
自然と、辺りに焼き魚の良い匂いが広がっていく。
「んー、美味しそう。やっぱり魚は釣ったその場で焼いて食べるのが一番だね」
独り言にしては少々声が大きい。誰かに聞かせているような、当てつけているような声色だ。
更に独り言は続く。
「それにしても今日は良く釣れた、入れ食いだ。誰でも釣れそうな気がするよ」
すると、少し離れたところから不機嫌な声がした。
「……それは嫌味かしら?」
「いやいや、そんなつもりは無いのだけれどね。おや、そっちはまだ釣れていないのか?」
「……今日は調子が悪いのよ」
「この前もそんなことを言ってたじゃないか」
「この前も調子が悪かったの」
「そうかい、そりゃ難儀なことで」
目も合わせずに言い合う。妹紅は魚と火の加減を見ながら。声の主は、仏頂面で釣り糸を川に垂らしながら。
ピクリとも反応することの無い竿先と川面を交互に眺めているのは、蓬莱山輝夜。妹紅と同じく不老不死の蓬莱人である。
痺れを切らした輝夜はいつまで経っても釣れる気配の無い自分の釣竿を放り出し、妹紅の……焼かれている魚の傍へやってきた。
そして妹紅が座っている岩の反対側にしゃがみ込むと、串に刺された魚を突き始めた。
「なによ。……あげないからな」
「施しを受けるつもりなんて無いわ。ただ、あなたがどうしてもっていうのなら貰ってあげても良いわよ」
「そうか。やらない」
取り付く島がない。もとより、千年来の仇敵である輝夜に妹紅が優しさを見せるはずもなく。
「そう。ならいいわよ」
「ああ、そこで指でも咥えてな」
魚も良い具合に焼きあがった。一本串を掴み、熱々のまま頬張る。
「はふはふ……んー!美味いねぇ」
「ちょっと」
「この時期の鮎は脂が乗ってて最高だよ、うん」
「ねえ!」
「んん?なんだ、指なんか咥えて。美味いのか?」
「美味しくないわよ。ねえ、お腹減った」
串刺しの鮎を突きながら暗に催促してくる輝夜。それに対し妹紅は、
「そうかい。はむはむ」
当然のように無視した。
ますます不機嫌になっていく輝夜。突く指が強くなる。
それを見て流石に哀れになったのか、手に持っていた串を差し出した。
「ほら、これやるよ」
「……頭と尻尾と骨しか残ってないじゃない」
「それだけあれば十分だよ」
勢い頭と尻尾と骨だけが残った串を受け取った輝夜は、顔をしかめる。
「はらわたまで食べるなんて。あんな苦いとこなんか食べて、変よ」
「その苦みがいいんだよ。長く生きてるくせにこの美味しさが分からないなんて、可哀相だね」
言いながら、二本目の串に手を伸ばす。
最初のものよりも少し大きめだ。
嬉しそうな顔で、また頬張る。
「はふはふ。うん、美味しい」
「……」
それをただ見ていた輝夜は、更に強く突く。
そんなことをしていれば当然のように、
「あ」
「あー!」
輝夜が先程から一生懸命突いていた鮎が火の中へ倒れた。
強く燃える火が瞬く間に皮を焦がし、身を焼き、旨みを奪ってゆく。
妹紅の腹に収まるはずだった鮎は火の勢いを増すための贄になってしまった。
「あぁ、私の朝食兼昼食が……」
「えーっと、残念だったわね」
何故か同情の眼差しで妹紅を見る輝夜。
「お前、何してんだ!私の鮎を!」
「いいじゃない、他にもいっぱいあるんだから」
「あれは一番大きいから最後に食べようと思ってたのに!」
「うーん、それは残念だったわね」
全く反省しない輝夜に、妹紅の我慢が限界に達する。
元々輝夜に対しては沸点が低めに設定されているのであるからして。
手にしていた串を放り投げ、立ち上がった。
「……今日の晩御飯は蓬莱山輝夜の塩焼きでいいか」
「あら、私は藤原妹紅の丸焼きがいいわね。素材の味をそのまま生かしましょう」
少し離れて対峙する。
互いに弾幕を展開する。
そして、切欠は鮎の串焼きという余りにも馬鹿馬鹿しい理由で殺し合いが始まった。
「……お腹減った」
竹林の中を少女が歩いている。
先程まで死闘を繰り広げていた藤原妹紅である。
勝負の結末は、恐らく引き分け。妹紅が蘇生して意識が戻った時に同時に輝夜も蘇生したのだから引き分けだろう。
妹紅と輝夜の殺し合いは数百年もの昔から続いてきた。最早一種のイベントのようなものである。
続けようと思えば永遠に殺しあえる不毛な二人は、どういう形であれ一度勝負がつけばその日はすっぱりと別れる。
互いに起き上がり、それじゃあまたと別れたところだ。
「はあ、さっきの鮎は大きかったのになあ」
輝夜との勝負はいつでもできるからどうでもいいのだが、食べることのできなかった鮎には未練がある。最近釣った中では最も大きかったから尚更だ。
とはいえ戦いの余波で無残に飛び散った鮎たちを見ていたら虚しくなり、今日は釣りを再開する気にはならなかった。
しかし腹は減った。
結局のところ、
「仕方ない、慧音のところにたかりに行こう」
食料に困った時いつもしているように、友人に頼ることにした。
人里にある寺子屋。そこで教鞭をとっている半獣の歴史家、上白沢慧音は妹紅の友人である。
寺子屋の方に近づいていると、丁度授業が終わったのか子供たちが外に出てきた。
その大半が眠そうにしているのは、慧音の授業の成果に違いない。
妹紅自身も何度か子供たちに混ざって授業を受けてみたことがあるが、ものの数分で夢の世界へ旅立った。
子供たちと一緒に慧音が出てくるのが見える。
「せんせー、さようなら!」
「はい、さようなら。気をつけて帰るんですよ。寄り道をしないように。それと、里の外に出ないこと。妖怪に襲われてしまいますよ」
「はーい」
友人同士で談笑しながら、ぱらぱらと帰って行く。
その中には、見知った顔である妹紅を見つけては手を振ってくる子供もいた。
「もこー!」
「や、気をつけて帰りなよ」
「うん、ばいばーい!」
立ち止まり、手を振り返してやりながら子供たちを見送る。
全員が見えなくなったところで、改めて寺子屋の方に向き直り、歩く。
妹紅が来ていることには気付いていたのだろう、外で慧音が待っていた。
「夕飯をいただきに来ました」
「まったく、暫く顔を見せなかったかと思えば突然来て挨拶もなしにそれか。相変わらずだな」
「あはは、そっちこそ相変わらずお固いねえ。こんにちはー」
「はい、こんにちは」
まるで生徒扱いだ。子供と一緒にされているようで、なんだか可笑しい。
唯一心を許せる友人に会い、先の殺し合いで少しささくれ立っていた気分が安らぐ。
「んー、やっぱり定期的に会わないとね。心の栄養が不足しちゃうよ」
「なんだそれは。ま、とにかく上がりなさい」
「うん、お邪魔します」
寺子屋兼住居の慧音の家に上がりこむ。
住人の性質を反映しているように整然と並んだ家具に、大量の書物が収められた本棚。
本当に全ての本を読んだのだろうか、見栄を張ってただ並べているだけじゃないのだろうかと思うほどの量が並んでいる。しかもこれは書斎に入りきらないから置いてある分だから恐ろしい。
いつもの定位置に座り、一息つく。
まったりしていると、慧音がお茶を汲んできた。
「どうぞ」
「お、ありがとー」
茶碗を受け取り、啜る。
少し熱めなお茶の熱が身体全体に広がっていく。
「うん、美味しいね」
「そうか、それはよかった」
慧音も座り、茶碗を手に取る。
暫く部屋には静かにお茶を啜る音だけが響いていた。
お互いお茶を飲み干したところで妹紅が切り出した。
「お腹減った」
身も蓋もない言い草に、苦笑する。
「分かりやすいのはいいことだが、少しは遠まわしに言ったらどうなんだ」
「いやいや、私たちの間にそんなまどろっこしいことは必要ないじゃん」
「親しき中にも礼儀あり、だよ」
「固いなあ」
「しかしな、こういうことはしっかりと弁えておかないと。良い機会だから言っておくが、人との交流というのは先ず何をおいても相手への気遣いが重要で……」
授業という名の説教が始まった。閻魔もかくやという慧音の説教は一度始まれば長い。それはもうとても長い。
その全てを聞いていたら暫く耳鳴りが止まらなくなるのだが、そこは妹紅も心得たものである。
目を瞑り、いかにも真剣に聞いているフリをする。時折うんうんと頷くのも忘れない。
しかし説教は素通りだ。わざわざ自分から頭痛になることもない。
心は静かに。外界の音を遮断する。
無念無想の境地へ。
意識が霧散する。
「……すぴー」
夢の中へ
夢の中へ
行ってみたいと思いませんか?
「戻って……来い!!」
ゴスッ
「あいだぁーーーー!!!??」
一瞬で戻ってきた意識が次の瞬間遠くへ飛んでいった。
額を中心に頭全体に激痛が広がる。
床を転げまわる妹紅。慧音はお茶を啜っている。
「おおぉ……いいぃ……ああぁ」
「自業自得だよ」
妹紅は暫くのたうち回っていたが、ようやく痛みも引いてきた。
額を押さえながら座りなおす。
頭突きをくらった額はぷっくりと大きくたんこぶになっている。血は……出ていない。
「いちち、死ぬかと思ったよ」
「大丈夫だよ、手加減はしてる」
「あれで!?」
「うん」
事も無げに言う慧音に、戦慄を覚える。
慧音、恐ろしい子……!
くきゅるるー
腹の虫が鳴きだした。
思い出す。当初の目的は晩御飯だったのだ、痛い思いをしに来たのではない。
「お腹減ったよー。頭痛いけどそれ以上に空腹なんだよー」
「はあ、仕方ないな。夕食にしよう」
言って、慧音が立ち上がる。
台所へと向かい、なにやらごそごそと漁っている。
「いや、実際のところ今日は妹紅が来てくれて助かったんだよ。私一人では持て余していたところだからな」
「なになに、何か良い物が手に入ったの?」
「うん、生徒の親御さんから戴いたのだけれど、なにぶん量が多くてね。この時期だから早めに食べてしまうか、燻製にでもしないといけないかなと思っていたんだが」
と言いながら両手に抱えてきたのは、
「肉?」
「そう、牛肉だよ。ほら、こんなに沢山」
確かに、抱えるほどの牛肉は一人で食べるには随分と大変だろう。
しかし……。
妹紅は眉をひそめた。
「ねえ、大丈夫なの?」
「うん?今日貰ったばかりだから新鮮だぞ?」
「いや、そうじゃなくてさ」
少し声を小さくして、確認するために聞いてみる。
「慧音はワーハクタクでしょう?」
「そうだけど……それがどうかしたのか?」
「ほら、ハクタクって身体が牛だとかってアレでしょう?牛肉なんて食べたらさ、慧音は共食いってことになるんじゃないの?」
「……」
黙り込む慧音。
「(おや、もしかして言われるまで気付いてなかったのかな?まあ普段はしっかりしてるけどたまに抜けてるところもあるからなあ、慧音は。仕方ない、牛肉は私一人で……)」
ヨコシマなことを考えていると、すっと視界が影に覆われた。
見上げると、すぐそこに慧音がいる。
「あれ?慧音、何か、目の光が」
いつのまにか持っていた牛肉を横に置いている。
代わりに妹紅の頭を掴むと、ピンポイントに、正確に、針の穴を通すかのような精緻さで先程自らが作ったタンコブヘと額を再度打ち込み、
ガスゴリィッ
この世ならざる擬音を生み出した。
「――ッ!!!」
妹紅は悲鳴を上げることすらできずに、倒れた。
意識が戻ってくる気配がない。
倒れたままの妹紅。慧音はお茶を啜っている。
数十秒が経ったころ、ようやく妹紅が復活した。
「い、今死んだ!確実に一回死んだ!っていうか頭突きと同時にグリグリって追打ちをかけたよね!?」
「二回目は少し工夫をしてみたんだ。それと、ちゃんと死なない程度には加減をしたよ」
「嘘ぉ!?」
「私は嘘をつかない」
それは真実だ。上白沢慧音は嘘をつかない。
「うう、死ぬほど痛かった……」
「だから、自業自得だよ。変なことを言い出すからだ」
「だってさ、本当にそう思ったんだもん。鴉天狗のブン屋や永遠亭に居る月の兎だって鳥や兎が食べられるのを良く思ってなかったよ?」
「む。そうだな、確かに疑問に思っても仕方ないか」
茶碗を置くと、居住まいを直す。
「確かに彼女たちは同族とも言える鳥や兎が食料になることを忌避している。それは、彼女たちが最初から<鴉>であり<兎>でもあるからだよ。人型をとっているから人間と同じように考えてしまうかもしれないが、間違いだ。生粋の妖怪であり、鴉であり、兎なんだ。当然、仲間が食べられるのは気分が良くないだろう。しかし私は、今はワーハクタクの身とはいえ元は人間だ。それにハクタクとなるのも満月の晩だけだからな。それ以外はずっと人間。つまり、今の私は人間としての倫理観に基づいて思考や行動をしている。勿論ハクタクであることも少なからず影響してくるが、人間である間はそれほどの影響は出ないよ。ハクタク時であれば話は少し違ってくるけども」
話の内容よりも、一息で喋ったことに驚きを感じながら妹紅は尋ねた。
「成程。……えーっと、つまり?」
「つまり、今の私は牛肉を食べることが出来るということだ」
「なんだ、それを早く言ってよ」
「疑問に思ったって言ったから答えたんだが……」
折角説明したのに、と少し落ち込む慧音。
やはり人の話をちゃんと聞くことから教えないとだめかな、などと不穏な独り言が聞こえてきたため、妹紅は慌てて話題を移す。
「さ、それじゃあ疑問も解決したところで夕飯にしようよ。ね?」
「むう。そうだな」
「そうしようそうしよう。すき焼きなんてどうかな?文明開化ー」
「お前、それは古いよ」
「そうかな、私にとっちゃ新しいけどねえ」
「それはそうかもしれないがね。それじゃあ今夜はすき焼きにしよう。手伝ってくれ」
「はいはーい」
少々遠回りであったが、ようやくご飯にありつける。
「「いただきます」」
ぐつぐつと煮立った鍋から、いい匂いのする湯気が上がっている。
先程まで話題の中心だった牛肉も、今は食卓の中心として鍋の中にある。
昼間のいざこざや、二度くらった頭突きによって空腹も限界を迎えつつあった妹紅は早速肉に箸を伸ばす。
「お肉ーお肉ー染み込みこみー」
「肉だけじゃなくて野菜もしっかり食べるんだぞ」
「わかってるって。とりあえず最初は肉だよ」
多めに掬い取った肉を半分ほど溶き卵に浸し、頬張る。
「はふはふ。美味しいー!」
「肉は沢山あるんだ、少しずつ食べなさい」
「はーい。はふはふ」
返事をし、また口いっぱいに頬張る。
言っても無駄だと諦めたのか、慧音も食べることにした。
肉を取り、卵をつけ、食べる。
「うん、良い味だね」
牛肉と割り下の味に満足し味わっていると、妹紅が感心した目で見ていた。
「……なんだ?」
「いやー、本当に牛肉を食べてるなあと思って」
「本当に食べてるよ。まったく、それなりに長い付き合いになるというのに何故今更そんなことを気にするんだ」
「や、何の偶然か今まで牛肉を一緒に食べたことってなかったし。それにさ、いつもは何とも思わないのにふと疑問になることってあるでしょ。私なんてついこの間輝夜を見てて、どうしてこんな胸も無いちんちくりんがモテたんだろうって思ったんだよ」
「それは流石に今更過ぎるような気がするが。それに、背丈や体型に関してお前たちは似たようなものじゃないか」
「ふん。私のほうが大きいさ、絶対に」
「そうか。まあ、その辺りのことは当事者同士で解決してくれ。それに、内容はともかく疑問を持つのはいい事だよ。心に余裕がある証拠だ」
妹紅によりあっという間に鍋から消えてなくなった肉を新たに鍋へと投入しながら、慧音は律儀に妹紅の疑問に答える。
「それはともかく、蓬莱山輝夜は客観的に見て美女……美少女と言えると思うぞ。人ならざる美しさというやつだ。本当に地上の人間ではないのだし」
「ふん」
「だがそれ以上にかぐや姫の美しさを引き上げたのは、その神秘性だろう。やんごとない家系に生まれ蝶よ花よと育てられた貴族のご令嬢ではなく、一平民の家に突然現れた正体の知れない美少女。あまりにも突然に出てきて出自もわからず、しかし確かに存在している。最初は周辺の住民だけが驚いただろう。そのうちに噂は肥大化して伝播し、その噂を聞いた全ての人を引きつけるまでになった。時の権力者を動かすほどにな。まあ、結局のところは実際に美しくなければ意味などないのだが、輝夜はその噂を嘘だと言わせないほどに美しかったということだね」
「……」
またも一息で説明していると、いつのまにか妹紅がふてくされていた。不機嫌な顔で肉を頬張っている。
肉以外の材料が全く減らないことを注意すべきかどうか迷ったが、少々喋りすぎたことを謝ることにした。
「すまないな、妹紅のことを考えずに喋りすぎた」
「いや、あいつの事を話題に出したのは私だもん、慧音が謝ることじゃないよ。ただ……」
ふと、肉をつつく箸を止めた。
「私はどっちかっていうと蝶よ花よの方だからさ。何かアイツに負けた気がするのがやだ」
「くふっ」
思わず顔をそらし、笑いを堪える。
妹紅は、輝夜が美人だ綺麗だとちやほやされたことが気に入らないらしい。
「いや、妹紅。確かに輝夜は美人だが、お前だって負けず劣らず美しいよ」
「そういうお世辞はいらないよ」
「お世辞なんかじゃないよ、本当にそう思ってる。私は嘘をつかない」
「けーね……」
それは真実だ。上白沢慧音は嘘をつかない。
妹紅は機嫌を直し、最初よりも速いペースで肉を食べ始めた。
「ちゃんと野菜や他のものも食べなさい」
「うん!」
団欒の時が過ぎていく。
一つの鍋を二人で突き、仲は深まる。
結局、妹紅は肉以外食べなかった。
夕食も済み、妹紅は竹林にある自分の住まいへと戻ることにした。
「今日はありがとう。それじゃあ、またね」
「ああ。妹紅なら問題ないだろうが、夜の妖怪には気をつけるんだぞ」
「どうせ死なないんだから襲われたって平気だよ」
「それはだめだよ。自分の身を大切にすることは他者を大切にすることに繋がるんだから」
「はーい、わかったよ。それじゃあね」
「うん、それじゃあまた」
慧音宅を後にする。
満腹になったお腹をさすりながら、ふと空を見上げる。
月はほぼ真円に近く、明かりのない夜道を静かに照らしている。
明日は、満月だ。
次の日の晩、妹紅は再び慧音の家へと向かっていた。
鼻歌を歌いながら、軽やかに歩いていく。
玄関を数度叩き、呼びかける。
「慧音ー、慧音ー」
何度か呼んでみたものの、出てくる気配はない。満月の晩はいつものことだ。
戸を開け、上がりこむ。明かりが漏れている部屋へ向かうと、覗き込んだ。
「おーい、お邪魔してますよ」
「妹紅か。今忙しいんだ、ご飯なら昨日の牛肉が残っているから勝手に食べていなさい」
少々刺々しい。容貌もいつもとは変わっている。角と尻尾が生え、妖気も感じられる。
知識の妖怪、ハクタクである。満月の晩のみにハクタクとなる慧音は、その能力を生かして歴史の編纂作業を行う。
相変わらず忙しいのだろう、妹紅の方を向くこともなく筆を走らせている。気が立っているのか、尻尾もせわしなく動いている。
この日に慧音が忙しいことを知っている妹紅は、慧音の態度にも気にせず会話を続ける。
「あ、やっぱり今日は牛肉を食べないんだね」
「なんだ、そんなことを確かめに来たのか」
「それもあるけどさ、他に疑問が出てきたんだ。それで、ちょっと調べに来たというか」
「なんだ」
「いや、慧音は人間の時は人間としての基準に従ってるから牛肉を食べられるんでしょう?だとすると、ハクタクになったら妖怪として人間を襲っちゃうのかなーと思って」
「……」
黙り込む慧音。
「あ、あれ?もしかして図星だった?んー、ダメだよ慧音、人間を襲ったら。私が退治しちゃうぞー、なーんて。あはは……」
ボキィッ
「……は?」
例えるなら、筆を片手で折った様な音が響いた。
慧音は無言のまま立ち上がり、妹紅へ向き直る。
手には真っ二つになった筆を持っている。どうやら片手で折ったようだ。
「ハクタクである私が人間を襲うのかを確かめに来たのか?」
「う、うん。まあちょっとした好奇心がね」
「そうか。好奇心というのはいいものだ。知識を増やし、世界を広げる」
「そ、そうだね」
静かな慧音に、いつもとは違う気配を感じる。
何故か脳裏に噴火直前の火山が浮かぶ。
「ところで妹紅。お前は蓬莱人だが、私はお前の事を人間だと思っている。永遠の命を得ようと、本質を見失わなければ人は人のまま在り続ける」
「うん、そう言ってくれる慧音には感謝してる…よ?」
慧音にとって妹紅とは人間である。その意味は、とても重い。
「さて、ここからが本題だが。……私は今まで人間を襲ったことなどない。ただの一度も。でもね、何だか今日は襲いたい気分なんだ」
「うぇ?」
「別に選り好みをするつもりはないよ。目の前に人間がいたら、その人間を襲えばいい」
「えっと…それってもしかしなくても」
間違いなく妹紅だろう。
慧音の目を見てみる。狂気だ。
「お、落ち着こう慧音。えっと、こういう時は」
思い出す。ものの本には何と書いてあったか。
「きょ、今日はまた一段と良い毛並みだねえ。その尻尾とか」
「ありがとう」
「お、おや。その素敵な角は、あの有名な越後屋甚平の作品かい?」
「これは自前だ」
「……お、落ち着いた?」
「私はさっきから落ち着いているぞ。何も変わらない」
状況は変わっていなかった。
慧音が一歩前へ踏み出す。
ただそれだけの動作で、
死を超越した蓬莱人は、
数百年振りに死への恐怖を感じ、全力で逃げた。
永遠亭。迷いの竹林にある屋敷の縁側で、蓬莱山輝夜は涼んでいた。少し強めの風が気持ち良い。
特に何をするわけでもなく和んでいると、目の前の柵を破って人影が飛び出てきた。
すわ敵襲かと身構えたが、よく見れば人影は見知った人物だった。
一応敵であることに違いはないが、いつもの相手だ。優雅に座りなおし、話しかけた。
「あら妹紅、斬新な登場の仕方ね。どうしたの、今日の勝負にでも来たのかしら?」
「ち、違う!助けてくれ、追われてるんだ!殺されてしまう!」
「はあ。殺されるくらい別にいいじゃない。何をしたのかはわからないけど、一度くらい殺されてあげれば相手も気が済むのではないの?」
「馬鹿、あれはそんな生温いモノじゃないよ!もっと恐ろしいんだ!」
切羽詰った様子の妹紅。
生き死にの話で今更何を慌てる必要があるんだと、全く相手にしない輝夜。
進展することのない問答を繰り返していると、
「もこうぅー」
「ひぃっ」
地獄から響いてくるような声がした。
妹紅が怯えている。
これは珍しいものが見れたと喜ぶ輝夜。
怯える妹紅。喜ぶ輝夜。
すると、妹紅が壊した柵の向こうから、またも何者かが現れた。
「あら?なんだ、どれだけ恐ろしい怪物が出てくるのかと思ったら里の獣人じゃないの」
「なんだじゃない、今の慧音はいつもの慧音じゃないんだよう!」
「まあ、角と尻尾は生えてるわね。でも今日は満月だし、それが普通なのでしょう?」
「見た目じゃなくて!いや、見た目もあるんだけど中身も!」
延々輝夜と妹紅が漫才をしているが、慧音には妹紅しか見えていないようである。
一歩一歩近づきながら、話しかける。
「なあ妹紅、お前の生き胆は美味しいのかな?」
「不味いですっ。というかそんなもの食べたら慧音まで死ねなくなっちゃうよ!」
「食べた後に首まで砂に埋まれば大丈夫だろう」
「それはフグの毒抜き!しかも迷信だし!」
少しずつ、慧音と妹紅の距離が縮む。
輝夜の助勢が叶わなくなった妹紅は、懺悔を始めた。
「ご、ごめんなさい!これからはちゃんと挨拶します!ちゃんと野菜も食べます!だからいつもの慧音に戻って!生き胆を食べないで!」
「あら、あなた野菜が嫌いだったの?だから怒られてるのね」
「合ってるけど違うわ、ばかぐやー!」
距離が縮む。最早逃げる術は無い。
長年の友である妹紅を喰らわんと、慧音が迫る。
二人の距離は近く、心の距離は果てしなく遠い。
「うう、慧音ーごめんよー」
「妹紅……いただきます」
最後まで噛み合わない二人。
そして、
二つの影が、
重なった。
「うひゃわーーーーー!!!」
妹紅無茶しやがって……だからあれだけ編纂作業の邪魔をするなと。
……え、それだけじゃない? そーなのかー。
しかし霊夢が現れなかったら今頃妹紅は慧音においしくいただかれていたわけですね。
もちろん食事的以外な意味合……む、宅急便でも届いたかな?
まあ、あれですね。
「口は災いの元」って事でしょう。
しかし想像力の乏しい自分には、なんで霊夢が永遠亭の近くにいたのか真面目に分かりませんでした・・・
わかりません
>4さん
楽しんでいただけたら幸いです。慧音先生には申し訳無いことになってますがw
>名前を表示しない程度の能力さん
真面目な人を安易にからかってはいけないという教訓を織り込みました(ぇ
妹紅の迂闊っぷりに乾杯です。
霊夢が現れなかったら、こういう健全な場で公開して良い作品にはなりませんでした……ゴクリ。
>9さん
その格言はあまりにも危険すぎる……!
というか思い込みで一気に書いたんですけど、本当に白沢って牛の体なんだろうかという疑問が(ぉ
>15さん
満月の晩に慧音を刺激してはいけないという幻想郷限定の教訓でもありますw
霊夢の登場は……不思議な巫女さんパワーというやつで解決できま……せんねorz
>24さん
満月の晩の慧音はすごく良い香りを纏っているのですね、食欲をそそる的な意味で。
しかしそうなると捕食者であったはずの慧音が被食者に早変わり……!