Coolier - 新生・東方創想話

もうひとりの裁判官

2008/10/04 02:01:30
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 ※『地霊殿』のキャラクターが登場します。
 ※作中でキャラクターが死亡します。また、独自設定が多数存在します。ご注意ください。









 私の力は万能ではない。誰の力だってそうなのだろうけれど。
 心を「読む」とは言うものの、文章のように素早く読めるのではない。人も妖怪も、思念を常に流暢な言葉にしている訳ではないから。
 例えば、彼女。
「さとり様、お客様見えましたよ」
 戸を叩いて、一礼する黒猫のお燐。その胸中には、「食べたい」、おくうの顔、葉っぱに包まれた羊羹、「違う」、猫車、客人の顔が見える。羊羹は私の知らないものだ。多分客の土産物だろう。これらの断片を整理すると、
「あー、客人のお出迎えなんてあたいの管轄じゃないのに。この羊羹食べちゃっていいかな、おくうと分けよう」
 となる。心を読み解くには客観的な想像力と、推理力が求められるのだ。
「貰ったお菓子と熱い焙じ茶をお願い。少しなら食べてもいいわ」
「ありがとうございます」
 駆けていくお燐を見送ると、私は客人に座布団を勧めた。昨日奥の間から引っ張り出したものだ。地霊殿に来客なんて、いつ以来だろう。
「忙しければ手紙でも良かったのよ」
「一応面と向かって頼むのが礼儀でしょう」
 楽園の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥ。重たそうな帽子に粉雪が載っている。
 彼女の心は割と読みやすい。精神の断片が論理的な言葉として出てくる。「今日は仕事が休みなので」「厄介事」「裁判の協力依頼に」「少し寒かった」嗚呼、正直者はわかりやすくて助かる。暖房の火鉢を寄せてやった。
「面倒な罪人のお裁きに、力を貸して欲しいと。珍しい」
 ――当分死にそうにはない者です。ただ、将来の裁きのためにも今罪を清算させたい。
 赤く弾ける炭火に手を翳しながら、閻魔は職務のことだけを考えていた。うちのペット達にも見習わせたい態度だ。動物は本能を脱しきれないから困る。
「それで、被告人と罪状は」
 ペットの持ってきた茶を啜り、問う。
 映姫は目を細めた。まるで彼岸花に群がる蜘蛛を見たときのように。「対処に困る」と語っている。
 第三の目が映し出す。
 若干激しい色味の口紅、リボンに彩られた少女趣味の日傘。
「八雲紫が、」
 新月の深い夜。鳥居の朱色。黒ずんだ赤い液体。その中に倒れ伏す紅白の姿。
「博麗霊夢を、」
 駆け寄って巫女の身体を抱き、揺すり続ける黒い魔女。胡散臭い笑みと共に、境界に消える妖怪。

「殺した?」

 視えていても問わずにはいられなかった。
 喪失感や怒りは生まれない。心中に湧いたのは、
「何故」
「それが知りたいから、貴方に助力を願うのです」
 疑問だけ。




「浄玻璃の鏡に映るのは、罪の光景。それだけを材料に彼女を裁いて良いものか」
「閻魔ともあろう者が」
「情けないのは承知しています。相手に応じて裁判の過程を変えるなど、ありえない。けれども彼女は、難しい」
 裁判の期日を告げて、閻魔は淡い雪の中を帰っていった。法廷にあの胡散臭い妖女が来るのかどうかも疑わしい。


 八雲紫。現在の幻想郷を形作るためには欠かせない妖怪。地霊殿に姿を見せたことはない。地上で幾度か目にしただけだ。心を読んだことは、確か何度かあった。その存在と同様、複雑怪奇な精神構造をしていた。読んでいて頭がばらけそうになった。言葉や風景や物体の欠片が行ったり来たり、どことどこを連結させて読めば良いのかわからない。千のジグソーパズルを同時に解かされている気分になった。
「予習が必要かしら」
 眉間を揉んで顔を上げる。
「何の予習?」
 隣で無邪気な声がした。見ると、こいしが羊羹を咥えていた。
「食べないみたいだから貰っちゃった」
「居るなら居るって言いなさい。それと脚」
 だらしなく伸ばしている膝を叩く。渋々正座の形を作った。お姉ちゃんは厳しすぎる、地上の人はもっと優しかったとぼやきながら。
 この子の心は視えない。意識の一切が幕に覆われている。こうなってしまってはお手上げだ。八雲紫は視える分だけまだ救いがある。
「それで何、何の予習? 今の人閻魔様よね、もしかしてお姉ちゃん裁かれちゃったの」
「逆。お裁きの手伝いをするの」
 そういえば、こいしは巫女の一件を知っているのだろうか。お茶を勧めて訊いてみると、
「うん、知ってるよ」
 殺人の流れとその後の状況を話してくれた。私はペットに紙と筆を持ってこさせた。


 現場は新月の夜の博麗神社境内。第一発見者の霧雨魔理沙の話では、八雲紫と博麗霊夢はしばらく話し合っていたらしい。霊夢は紫の言葉に腹を立てていたそうだ。しかし紫が説き伏せたのか、態度は軟化。抵抗しなくなった。更に二言三言の会話。その後、紫の放った光の針に黙って身体を貫かれた。魔理沙が急いで手当てするも既に絶命後。紫は逃亡したまま行方不明。空間の隙間に消える際、魔理沙に「裁判には顔を出す」と述べたらしい。意図があってのことだろうか。
「それでね、地上では霊夢の死は隠されているの。河童と天狗が情報統制、っていうのをやってる。神社では河童の作った霊夢の幻影が動いてるの。あれが産業革命の成果なのかしら」
 山の妖怪が霊夢の死を隠匿するのは、不要な混乱を防ぐためだろう。博麗の巫女の死は幻想郷を揺るがす。
「そうだ、大結界に影響は」
「今のところはないよ。狐の式神がこっそり検査してるのを見たけど、「正常」って言ってた」
 巫女なしで、博麗大結界を操るシステムの開発? 気付くと紙には数多の憶測や疑問が並んでいた。
「ところでお姉ちゃん、そんなにメモ取ってどうするの。推理小説を書くのならトリックと動機は陰湿陰惨に」
「閻魔の助手をするって言ったでしょう」
 ペットを呼びつけて、鞄と上着の用意を命じた。紙は巻いてまとめ、筆は漆塗りの箱に収める。
「なんでお姉ちゃんが動かなきゃいけないのー?」
 こいしは卓袱台に頬杖をついて、不満そうに唸っている。閉じた第三の目を指で弾いた。疵がつくからやめろと言っているのに。
「裁判長に苛められちゃった? 脅されちゃった? 弱味が欲しいなら持ってきてあげる」
「間に合ってるわ」
 焦げ茶革のトランクに筆記具を詰め込んで、白いコートを羽織る。
「一日留守にするから。いい子にしてて。話してくれてありがとう」
 風によくなびく、柔らかい銀髪を撫でてやる。こいしは「丸め込もうとしてるでしょ」と呟いた後、首に巻いていた狐の襟巻きをかけてくれた。以前はこのような気遣いのできる子ではなかった。この子を変えてくれたのは、地上の人間たち。かつて地霊殿を訪れた、騒がしい巫女と魔法使い。決して悪い者ではなかった。境界の妖怪は、何ゆえ彼らを苦しめる?
「お姉ちゃんは行きたくて行くの。安心して」
 ささやかな好奇心が、私を動かしていた。




 油断した。耳当ても持ってくればよかった。地上を吹き荒れる北風の厳しさを忘れていた。夕刻までには帰りたい。
 風穴から出て、私が向かったのは魔法の森だ。まずは殺害現場を見た者により詳しい話を聞きたい。
 道中幾人かの烏天狗と擦れ違った。大結界の端、神社の方角に飛んでいく。「記事」「新聞」「箝口令」「写真だけでも」。「箝口令下だけど取材はしたい、ネタが欲しい、せめて現場の写真だけでも押さえておきたい」と言ったところか。マスコミの探究心には恐れ入る。


 森の上空に至って、また烏天狗に遭遇した。度々地上で会ったことのある、やたらスカートの短い黒髪の娘だ。名前は確か射命丸とか言ったか。
「あやややや、私は取材目的じゃないのに、様子を見に来ただけ!」
 幾筋もの光線に追いかけられて、天狗少女は逃げていった。心を読む暇もない。
「うるさい、ぶんぶんぶんぶん飛び回りやがって」
 濃緑に茂った森の中から、魔法の主が顔を出す。霧雨魔理沙だ。前に地霊殿を訪れたときとそう変わらない外見をしている。黒服にとんがり帽子と箒、子供のイメージする魔女の姿そのもの。しかし少し観察すると、精神の荒みが見て取れた。膨らんだ袖には皺が刻み込まれている。前髪には何かに押し当てたような癖。机に突っ伏して泣いていたのだろう。
「今度はお前か」
 魔理沙は私を見るなり拳を握り締めた。「誰にも会いたくない」「皆消えてしまえ」「嫌だ」、言葉にならない恨み辛みの渦、在りし日の博麗の巫女の姿、「げ、こいつ心を読むんだった」。
「憎しみで目一杯の心を読んでしまってごめんなさいね」
「ふん」
 頬を拭うと魔女は脳内で素数を数え始めた。2と3と5と7の間に霊夢の笑顔と殺害現場が映る。「ばれてないよな」「早くどっか行け」。
「心に聞き次第早々に退散するわ。先刻巫女の死を知ったばかりなの。詳しい状況を知りたくて」
 魔理沙はこめかみの辺りを引っかいて、素数を数えるのを止めた。私の第三の瞳を睨みつける。明確な敵意、「地底は遅れてるな」「本当に何も知らないのかよ」。
「どうせ嫌だって言っても読むんだろ。きっと滅茶苦茶読みにくいぜ」
 そうでもない。彼女の頭の中は、マイナスの感情や霊夢への友愛といったノイズを取り払えば整然としたものだ。私は魔理沙の記憶する事件の様を、紙に書き留めていった。
 夜の神社、雨は降っていない。境内の隅で紫と霊夢が密談している。魔理沙はたまたま目撃しただけ。
 ――「こうするのが一番いいのよ」
 ――「嫌、まだ私は動ける。紫はわかってない」
 ――「生と死の境界を弄ってもいい、でも博麗の巫女の立場はどうなるの」
 紫は博麗神社と巫女のシステムについて話している。魔理沙には解らない内容なのだろう、全体が半透明のシャッターに覆われている。
 話し合いが一段落ついたのか、霊夢が頷いた。
 ――「本当に大丈夫なのね」
 ――「私に不可能はありませんわ」
 ――「嘘吐き。私を今すぐ助けられない癖に。あんたは幻想郷が愛しいだけ。本当は巫女は誰でもいいんでしょう」
 毒突きながらも、霊夢は落ち着いた様子で着物の前を肌蹴ていく。心臓の辺りを指差した。紫は魔理沙に背を向けている。表情は見えない。
 ――「そうでもないわ」
 ――「何がそうでもないんだか。痛いのはやめてよね、不可能はないんでしょ」
 ――「痛覚を快楽に変えてあげる。一発で冥府の住民よ。ううん、地獄かしら」
 ――「閻魔に会いたくないなぁ」
 後はこいしの報告通りだった。所々疑問点はあるが、詳細な情報が手に入った。
「ご協力感謝します」
「まるで探偵だな」
 次に向かうべきは、狐の式神か里の求聞持か。神社と結界と八雲紫に詳しい者。ついでに温かいお茶も出してくれるといい。空中での立ち話は辛い。
 幻想郷の地図を思い浮かべていると、
「お。お前さんたち暇かい」
 燃えるような赤髪の死神がやってきた。映姫配下の者だ。名前は、
「小町。悪いな、私は暇じゃないぜ」
 そう、小町。サボり癖があるとこいしに聞いた。今も心の中で「眠い」「四季様は働きすぎ」「すごく眠い」と叫んでいる。それから、「霊夢はどこに行った」「四季様に怒られる」とも。
「霊夢が行方不明?」
 訊ねると、死神は頭を抱えてうおわっ、と叫んだ。「え、あ、何この人」「閉じろ閉じろ」「あたいは無心だ」、大量の疑問符。映姫は私のことを部下に教えていないのか。魔理沙が簡単に私の紹介をしてくれた。
「はー、なるほど。おっかない」
「それで小町、霊夢が行方不明ってのはどういうことだ」
 周囲を警戒してか、魔理沙が小声になる。大柄な死神は、私と魔理沙の肩を抱き寄せて告げた。
「霊夢の霊魂がいつまでも三途の河に来ない。遅れてるだけかもしれないけど」
「お前がサボってるだけじゃないのか」
「失礼な」
 休みなしで霊魂を運び続ける小町の姿を読み取った。冬の始まりのこの時期、風邪をこじらせて逝く者が多いらしい。
「でも待てよ、河に来てないってことは蘇る可能性も」
「誰かに食われてる可能性もある。何にせよ、居るなら早く連れて行かないと。ボスが裁判の用意して待ってるんだよ」
 小町は脳内に幻想郷の地名を挙げていった。彼岸、魔法の森、霧の湖、紅魔館、人里……生前巫女の行った場所ばかり。その幾つかにバツ印がついている。「ああどうしよう」「四季様」悔悟の棒の振り下ろされる光景。この死神が少々哀れに思えてきた。
「わかった、探すのを手伝うぜ」
 魔理沙は頷くと、自分のテリトリーである魔法の森へ降りていった。
「私も手伝いましょう。気になるところに行ってみる」
 霊魂探しと事件の情報集め。その両方を果たせそうなところを、私は一箇所思いついた。美味しいお茶も出そうなところだ。
「助かった。見つけたら河に来いと言ってくれ。ええと」
「さとり。古明地さとり。貴方のボスに宜しくね」




 冥界を統べる屋敷、白玉楼。現在は桜ではなく雪で化粧をしている。前にも幾度か足を運んだことがあった。主人の西行寺幽々子とは顔見知りだ。彼女も八雲紫と同じくらい、読めない。
「どうぞ」
「いただきます」
 今お茶を注いだ庭師くらい、読みやすければ楽なのに。魂魄妖夢と言ったか、この娘は。同時に複数のことを考えないので、ほとんど読み違えずに済む。
 緑茶を啜る私を、妖夢は正座して眺めていた。「心が読めるって本当?」「私は今、何かやましいことを考えていないだろうか」二振りの剣の映像。生真面目な子なのだろう。
「大丈夫、貴方はやましいことを何も考えていない」
 第三の目を向けて言ってやる。「ひっ」、という声が口と心から聞こえた。素晴らしい。言動と内面にぶれがなければ、読心術を恐れる必要はないのだ。
「あんまり妖夢をいじめないでね~」
 間延びした口調で、幽々子がたしなめる。彼女の背後には禅寺風の石庭があった。牛乳のような白い空から、まばらな雪の結晶が降りてくる。地底も冥界も似たようなものだ。
 死人嬢の心に意識を向ける。言葉の形を取っているものはない。波のない湖と、春の終わりの桜が視える。時間は朝方にも夜の初めにも見える。時折桜餅や団子が混じる。閻魔を見習って手土産の一つも持ってくるべきだった。
 幽々子と妖夢は、霊夢の死を知らなかった。「あらそうなの」と幽々子にのんびり驚かれてから、まずいと思った。山の妖怪の箝口令を破ってしまった。
「問題ないわ。本当に内緒にしたいなら、大規模な箝口令なんて布かないはずよ」
 不死の世界のお姫様は、何とも落ち着いておられた。幻想郷の最重要人物の死を前にしても、動じる様子がない。「今日は涼しいわねえ」などと呟きながら、扇子で首筋を扇いでいる。隣のおかっぱ庭師の動揺振りとは大違いだ。
「妖夢、白玉を作っていらっしゃい。お客様が帰ってから食べましょう」
 慌てる少女を台所に送り出すと、幽々子は平穏そのものの笑みを浮かべた。
「お話伺いましょう」


 訊いたのは、紫の動向と霊夢の霊魂の所在。非常識な博麗の巫女のことだ。閻魔の裁きを逃れ、既に冥界にいるかもしれないと考えた。
「残念だけど、そんな子は来ていないわ」
 来ていたら解るもの。受け答えの間も、幽々子の心には全く関係のない物が浮かんでいる。枝垂桜の一生であったり、昨日妖夢の背中に見つけた引っかき傷であったり。まるで連想ゲームか、子供の遊びのようだ。脈絡がない。
「そうそう、紫のことね。一週間かな、一ヶ月かな。そのくらい前に一度来たわ」
 思い出し思い出し、様子を語ってくれた。彼女を知る手がかりになりそうなことはなかった。お茶を飲んで他愛のないおしゃべりをして帰っていっただけ。
「期待はずれ、って顔してる」
 亡霊に心を読まれるようでは、さとり失格だ。
 状況を整理しよう。八雲紫は神社で博麗霊夢を殺し、逃亡した。殺害には霊夢も同意していた節がある。犯行前の会話を振り返るに、巫女や幻想郷そのものに関連する重大な動機がある模様。霊夢の霊魂は行方不明。紫は閻魔の法廷には顔を見せると明言。
「……裁判」
「何のこと」
「八雲紫は、裁判や冥界について何か話をしていた?」
 幽々子はしばし瞳を丸くしていた。それから、心の中を光らせた。「あぁ、あのこと」。初めて事件に関連した思念波が出てきた。今私が居るのと同じ部屋で、紫と幽々子が向かい合っている。紫は幽々子に何かを託した。
 ――「預かってて。誰にも見せちゃ駄目よ。閻魔には特に」
「貴方は何を預かっているの」
 両の瞳を閉じる。第三の目に意識を集中させる。
「だーめ。見せられない」
 再び幽々子の精神の世界が、桜吹雪と月光に埋め尽くされる。いけない、せっかく視えたのに。私は花弁を掻き分けて、紫の姿を追った。羽虫のような花の奔流。そこに、桐の小箱が見える。蓋が開かれた。蒼と紅の蝶々が襲い掛かって、私の視界を奪おうとする。目を喰われると思った。
「ほら、諦めて帰りなさい。妖夢ー、お客様をお見送りして」
 伸びやかな声が胸中に響く。波紋が過去の風景をぼやかした。あと少し。箱の中身は?

(紅白の髪飾りと、丸薬?)

 そこまで視えたところで、世界から投げ出された。




 喉の奥から何かがせり上がってくる。少し力を入れると、胃の辺りが跳ねた。
「気持ち悪い」
 第三の目が回る。たまに酷使するとこれだ。
 時刻は夜五つ。もう夕暮れは通り過ぎた。上弦の月が見える。こいしに遅いと怒られそうだ。
 私は博麗神社の社内で横になっていた。地下に帰る前に現場を見ておきたかったのだ。しかしこの体調では、精密な調査などできるはずがない。そもそも事情を聞こうにも人がいない。いるのは河童特製のホログラム霊夢だけだ。生前の本人をそっくり真似て、月見酒を楽しんでいる。
 結局謎は解けなかった。今日調べた程度のことは、閻魔の鏡を使えばすぐに解るだろう。私は下手くそな探偵ごっこをやったに過ぎない。外の世界では心の読める探偵こそ最強などと言われているが、あれは大嘘だ。
『推理小説を書くのならトリックと動機は陰湿陰惨に』
 夢見るこいしの勝手な主張が思い出される。八雲紫の陰湿陰惨な動機。想像してみて噴き出した。陰湿陰惨、奇怪な動機しか浮かばない。痴情のもつれから、「霊夢が私を愛してくれない幻想郷なんて要らない、霊夢ごと滅びてしまえ」。霊夢の死体と魂魄を繋げてインスタント不死人を作り、博麗大結界を永久に管理させる。代替わりの心配不要。
「その三、あんな巫女じゃ頼りにならないから私が博麗の巫女をやってやるわ」
 八雲紫が腋全開の紅白装束を着ている姿を思うと、黒い笑いが止まらなかった。
「――あら、いい線行ってる」
 咳き込みたくなるような、熟れた花の香水の匂い。引きつった顔のまま、私は硬直した。
 頬に波打つ金髪が触れる。女豹のような色気のある眼光。両手が手袋越しに、私の顎のラインをなぞった。すぐに絞首に移行できる位置だ。身を起こそうとしたら、頭を腿できつく固定された。
「逃亡中、のはずでは」
「犯人は現場に戻る。外のミステリーの鉄則よ。更に言うなら、現場で手がかりを発見した人間を殺しちゃうんだけど」
 私はすぐに三つ目の瞳で凝視した。「うふふ」「綺麗ね」、太古の殺人事件の光景、貴婦人にも老婆にも見えるという騙し絵、「美味しそう」、糸電話型のこけし、「本当」、フォーク、幻想郷の細密画。次から次へと雑多な情報が運び込まれ、切り替わる。霊夢や地霊殿、私の姿もある。こんな暗号の世界を、どこから崩せばいいのだろう。八雲紫はわからない。
「かわいそうに。取って喰いはしませんわ」
 耳鳴りがする。
「私の裁判のために駆けずり回ってたのね、ご苦労様」
「別に貴方のためではない」
 紫が心の中で、ドラム缶を蹴飛ばした。赤い靴の踵で。執拗に。体中の膜を突かれるような感覚がある。
「さとりを苛めるのって簡単ね。次は何を考えようかしら。此の間おもしろーい小説を読んだの。ちょっと子供には見せられない感じでね、」
「やめなさい」
 濃密なまぐわいは、一喝すると四散した。再び多種多様な品と単語に世界が満ちていく。
「心証を良くしようとか考えないのかしら」
「貴方やあの堅苦しい閻魔が、お世辞に心動かされるとでも?」


 紫は私の髪を指先で梳いていた。胸中は混沌としている。後日、裁判でこの心を読まなければならないのか。五色の虹に狐の式神が跨って飛んでいく。「森の底」、眠る子供の姿、短冊、「今日も明日もいい天気」……気が重い。
 子守唄が聞こえる。紫が若い月に唄っていた。棘のない優しい声。きっと人を隠す際に唄うのだ。こんなに綺麗に唄う人が、悪者の訳がない。そう人間を油断させて。
(あるいは)
 私の脳裏に、ひとつの場面が映った。
 伏せる博霊の巫女の枕元で、穏やかに唄い続ける妖怪。彼らは深いところで、幻想郷そのもので繋がっていたから。直接魂に語るように、悪夢祓いのおまじないのように唄うことができて。
(きっと妄想だ)
 妖怪さとりは、主観に走ってはいけない。意識の断片を思うがままに繋げては、元の心と似ても似つかない化け物になってしまう。
 月に雲の帯が掛かる。光を取り戻すまで、一刻ほどかかるかもしれない。
 紫は唄を止めていた。一拍空けて、
「真相を教えてあげる」
 どうせ読めないでしょうから。そう私を嘲った。腹立たしさを傍らに置いて、私は彼女を見上げる。
「さっきいい線行ってるって言ったわよね。そうよ、私が博麗の巫女になりたかったの」
 心も表情も理解できなかった。暗い世界から降る声に、耳を傾けるしかなかった。
 紫は霊夢の寿命について話した。もともと丈夫ではなかったこと、大結界の維持が負担になっていたこと、薬を飲んでいたこと。月の薬師の力を以ってしても、完治は困難だったこと。幽々子の心中で視た丸薬は、霊夢のものだったのだ。
「巫女と大結界は密接に関わっている。弱い身体の巫女では、結界の維持は難しい。同時に二人の巫女を置ければ良かったのだけれど、それでは結界が混乱してしまう。だから私が提案したの」
 博麗霊夢を殺し、巫女の座を八雲紫が貰い受ける。
「境界を揺さぶれば、私は人にも妖にもなれる。博麗大結界が人間にしか扱えないとしても、無問題。加えて私の寿命は永い。何時までも幻想郷の平和を守ってあげられる」
 合理的でしょう? 紫は推理小説の犯人のように、高らかに自供を続けた。
「つまり、幻想郷の平和のために」
「そう。私の幻想郷をいつまでも守るために。霊夢には犠牲になってもらったわ。完全に納得はしてなかったようだけど。もう遅い。精々冥界で安穏と暮らせばいいのよ」
 それとも幽々子に食べられちゃうかしら? 弱いって嫌ね。
 紫は言葉を切ると、軽やかに立ち上がった。ビロードのドレスの裾をはたく。銀の扇の先で、空間に切れ目を設けた。
「あ、待って」
 私は一方的な独白を聞かされただけだ。確かに筋は通っているが、絶対にそうだとは言い切れない。心の底の底を掬わなければ、納得は出来ない。紫色のドレスを摘んだ。
 紫は、私の手を蹴飛ばした。
「貴方は今聞いたことを閻魔に伝えればいいの。読めないんでしょう? 一片たりとも。有難く塩を受け取っておきなさい」
 黄金の眼光が煌く。同時に、紫の心の中が爆発した。右から左から、一斉に意味の解らない悲鳴が放たれる。第三の瞳と頭とを繋ぐ糸が、大きく膨らんで脈打った。ストローに竹筒を押し込もうとしているかのよう。入るものか、情報量が多すぎる。読むどころではない。
「ほら、ほら。大人しく伝言役に徹しなさい」
「嫌」
 それはできない。全てに恐れられる妖怪、さとりの名が泣く。閉じるものか、負けたくない。
「出来ない。貴方の心はまだ隠し事をしている。幽々子に髪飾りを託したのは何故? ちっぽけな弱い巫女のものでしょう」
「瑣末事」
「どうして自分に不利な証言ばかりするの。閻魔は容赦しないわ、地獄に行きたいの」
「境界の妖怪なんてもともと罪人」
 質問の一つ一つを紫は切って捨てた。その度に精神世界の音が高まる。頭が割れる、視えなくなる、
「じゃあ、何故霊夢の魂は三途の河に来ないの!?」
 心の声に負けまいと、声を張り上げた。
「え?」
 脳を苛む悲鳴が、波のように引いた。視えるのは、無色の地平線。そして、「約束」という一単語。すぐさま元の何でもありの世界に引き込まれたけれど。
「どういうことなの」
 胸の内を漏らしたことも知らないのか、紫が早口に問いかける。
「死神も魔理沙も探してる。霊夢はまだ河を渡っていない」
 紫の心は、わざとらしいまでに賑やかだった。儀礼的、規則的なうるささ。動揺していて、思念を彩る余裕がないと見た。
「貴方なら、知っているんじゃ」
「探すわ。見つけたら必ず河を渡るように言って」
 嘆息混じりに命じると、紫は隙間に身体を滑り込ませた。




 探し人は桶に入っていた。
 地霊殿に朝帰りをした私の前に、こいしが持ってきたのだ。半透明の、手鞠のような大きさの霊魂を。
「怨霊に混ざってたのを、お燐が見つけたの。珍しいから貰っちゃった。昨日のうちに見せたかったのに」
 霊の心が視える。「この子にはわからないみたいね」「あの猫に捕まっちゃったの。マタタビ持てないって不便ね」一文一文の長い、率先して読まれたがっている思念。緊張感に欠ける物言い。間違いない。博麗霊夢だ。
「お手柄」
 こいしを目一杯褒めて、借りていた襟巻きを返した。
「でも彼岸に渡さないと。ペットじゃないんだから」
「行きたくないみたい。火に入りたがってる。死んでるのに自殺したがるなんて、変な霊」
 霊夢の意識を読み取る。「自殺志願じゃないわ」「此処に来たかったの」「私には似合うと思ったから」。私は巫女の魂にわかるように激しく頷いた。
「三途の河を渡りなさい。映姫が然るべき罰をくれるわ」
 うー、本当の地獄って怖いし。ここでも地獄の気分だし。ひ弱な愚痴が伝わってくる。
「いつもの強気な巫女はどこに行ったの。地霊殿を壊す勢いは」
「みこ? お姉ちゃん、これ霊夢なの」


 巫女の霊を餌付けしたいと唸るこいしを言い聞かせて、私たちは小雪のちらつく地下の都を飛んだ。
「逃げようと考えているでしょう。どちらにどうやって逃げるかまで、私には視えているのよ」
 霊夢は渋々ついてきた。「嫌だなぁ」「さよなら幻想郷」などと、悲観的な言葉を並べている。
「まだ地獄と決まったわけでもなし。八雲紫ではないのだから」
 「紫?」心が素早く反応した。近日中に開かれるだろう裁判のことを説明した。神社に現れた紫の、悪者然とした自供も。
「言葉の真偽を確かめるのは、私の特技のはずなのに。恥ずかしいけれど読めないの」
 私の話を聞くにつれ、巫女の心に小波が生じていった。素直に繋がらない言葉が増えていく。「紫の自白は正解よ」「紫の心くらい気合で読みなさいよ」「さとりのくせに」「違う!」「紫は勝手に悪者になってる」「どっちの味方をすればいい」「切り捨てればいい」「地獄に行くべきなのは」。精神の乱れを、私は丁寧に伸ばしていった。
「紫の告白が正解と言いたいけれど、言えない。自責の念が邪魔をしている。あと私のこと無能だと思ってる」
 風穴を抜けて、朝焼けの世界に姿を現す。東の空が薄紅に光っている。紺色の夜の世界が、冬の風に消えていく。「きれい」「ずっとここにいたかった」。霊夢の小さな思念が揺れていた。
 道中、霊夢の心は数多の想いを生んだ。
 紫に告げられた計画。
 ――「巫女の座を私に譲って、お逝きなさい。閻魔には私に殺されたと言い張って。巫女として積んだ善行を披露しなさい。業の深い貴方でも、積み重ね次第では冥界へ行けるわ」
 そして、交わした約束。
 ――「悔しいのなら、早く転生なさい。丈夫な身体を手に入れて、再び幻想郷に生まれなさい。巫女の座を奪いにいらっしゃい。いつまでも待っててあげる」
 髪飾りと薬は、霊夢から紫に預けた。
 ――「万一殺しに失敗しても安心ね。私が薬を奪ったって言えばいいわ。髪飾りは、貴方が来たら返してあげるわ」
 思念に薄暗い罪悪感が混ざる。澱のように。「私はそれでいいかもしれない、でも紫はどうなってしまうの」「次の巫女を決めればいい、私を切り捨てて」「地獄へ堕ちるなら私のほうだ」「紫はいつだって幻想郷を一番に考えてきた」「私はきっと違う、自分が大事なだけ」「殺されるとき、紫に酷いことを言ってしまった」「謝りたい」。
 なるほど、紫の劇的な犯行告白とはまた違った説得力がある。紫と霊夢、どちらが本当か見極めるのは難しいが。やはり紫の心を覗くしかないか。
 紫の裁判に参加すると話すと、霊夢は「紫に不利になる証言はしないで」と懇願した。
「判断するのは映姫。それに、紫の気遣いを無にしてしまうわ」
 せっかく貴方の地獄行きを避けようとしているのに。
 霊夢は「けち」「幼児体型」などと侮辱の言葉を巡らせていた。誰が幼児体型だ。
 大輪の彼岸花の彩る小路を行く。三途の河の岸辺で、小町はいびきをかいて寝ていた。連れてきた霊夢を見せると、飛び上がって舟に案内した。
「ご協力どうも。裁判の時にはお願いしますね」
「ああそうだ。霊夢の判決、出たら教えてくれる? 教えてくれなくても読むけど」
 死神は櫂で頭を掻いている。「参ったなー」、映姫のグーパンチの光景、「ま、いっか。いずれ解るし」。
 その横で、霊夢の魂が揺らめいた。「さとり」、と心が呼びかける。
「何かしら」
「紫を助けて。それができないなら、理解して。独りにしないで」
 実体のある人間の声のように、すっと頭に入った。霊夢の最後の願いだ。とても強く、切実な。
「努力するわ」





 八雲紫裁判の朝、地底には水っぽい雪の珠が舞い降りた。ペットたちが庭の掃除がてら雪遊びをしている。
 クローゼットを前に、司法関係者らしくかっしりした格好をすべきかと考えた。まあいいやと、平時の水色と白の上下を選んだ。今思案すべきは心の読み方。カオスの権化のような紫の心に、いかに踏み込むべきか。
 最初は好奇心で動き出したはずなのに。投げ出せない事柄に変わっていた。何故だろう。さとりの誇りに関わる、大事件の気がする。彼女の心を視たい。私にしかできない、大切な仕事。
「青いわね、私も」
 メイプルシロップの甘い香りがする。こいしが鼻歌交じりにパンケーキを焼いていた。ご丁寧にハートの型に液を流し込んでいる。地上の妖怪に作り方を教わったらしい。美味しいには美味しいのだが、後片付けを思うと溜息を吐きたくなる。ペットに任せればいいか。
「おくうはバターひとかけでいいのよね。ぁ、お姉ちゃんハートにぎざぎざ入れる?」
 頬に小麦粉の液をつけて、こいしが振り向いた。
「いらない」
 もしもこいしの瞳が開いたらと、夢想する。無意識の奥底まで見透かすことができるのではないかと。望んでも仕方がないことなのに。無い物をねだるのではなく、自分に出来る最善を尽くす。
 所々ダマのあるパンケーキをかじって、ふと思いついたことがあった。壁の大時計に目を遣る。裁判の終了予定時刻は、夕刻前。
「こいし、今日暇はある?」




 昼の無縁塚。急ごしらえの庵の中で、裁判は始まった。隙間風が冷たい。
 開始時刻になると、八雲紫は椅子の上に突如現れた。映姫と私は彼女に向かい合う形で座る。長机には記録紙と浄玻璃の鏡が用意されている。私の手元には紙辺と硬筆がある。映姫は心の声を紙に書いて知らせるように言った。
「貴方の罪は、一言では言い表せない。許し難い。当面、清算しなければならないのは」
 コンパクトのような大きさの鏡を向ける。こいしの報告で、魔理沙の回想で、霊夢の思念で幾度も見聞した殺害の風景。それが再び、鏡の中で展開された。浄玻璃の鏡の審判に間違いはない。罪状確認は五分とかからずに終わった。


「博麗霊夢の死の直前。何を話していたかを教えなさい」
 特にはぐらかす様子もなく、紫は話し出した。魔理沙から読んだものと違わない。私は紙切れに丸を描いて、映姫に見せた。裁判長は一呼吸置いて、語りかけた。
「このようなことを訊くのは、被告人の平等に反するかと思うのですが。もっと淡々とこなしても良いかと悩んだのですが」
「若いっていいわね」
「貴方の心を知りたい。犯行の目的、犯行当時の心境、何でも」
 映姫は懐から悔悟の棒を取り出した。「さあ、読んで」「断片でもいい」。静かな要請が視える。私は大きく息を吸い込んで、紫に向き直った。瞳が妖艶に光る。灯りなんてどこにもないのに。
「読む必要ないわ。全部話してあげる」
 紫の世界が軋んでいく。見せ付けられるのは無秩序そのもの。熊が踊り、魔女が地を這い、雨が巻き戻る。
「私が霊夢を殺したのはね、幻想郷が大好きだから」
 「愛してる」、天気雨、春の終わりの雪。躍動感あるピアノの小曲。次々生まれ来る雑念を押しのけても、何かに辿り着いた気がしない。この妖怪には心がないのかと疑いたくなる。読みたいのに届かない。
『理解して。独りにしないで』
 霊夢には、彼女の何が視えていたのだろう。二人を繋げていたものは。


 隙間妖怪は自供の唄を続けた。軽やかな物言いに、映姫は微量の怒りを滲ませている。
「幻想郷は貴方の玩具ではない。巫女だって」
「私が居なければ幻想郷はなかったわ。自分で創ったものを好きに弄って何が悪いの」
 閻魔の視線が痛い。「視える?」「業が深すぎる」「地獄でも生ぬるい」。私は肯定も弁護も出来ずに居る。素直に視えないと言うのも腹立たしい。紙に三角形を描いて見せた。第三の目の集中に戻る。神社では最後に一欠片が視えたではないか。やってやれないことはないはず。
(繋がりを視る。霊夢の心になって)
 私は精神の雑音を払い、霊夢や幻想郷の根幹に関連する象徴だけを選り分けることにした。お祓いの棒や狐の式神、鳥居、人妖が集まっての和やかな宴会。温かなものが集まって、彼女の世界が形成されていく。形成した先から、情報の洪水に押し流される。砂漠から宝石の粒を探すような、当てのない作業。
 紙片には視えたものを列挙した。映姫がそれを読み上げる。
「賑やかな宴、幻想郷の人間と妖怪、霊夢」
 語尾が訝しげに持ち上がった。紫の胸中の庭が震えた。ぬいぐるみや戦艦やフライパン、関係のないもので溢れ出す。だが確実に、関係のあるものも増えつつある。化け猫の式神を抱きしめる様子、夕暮れの神社、妖怪桜。幻想郷のパーツを寄せ集めて、その先を視る。
 陽だまりと、草の匂いと、声?

「ぁ……」

 唄が聴こえた。紫の空間に、起伏の少ない子守唄が木霊する。
 閻魔と妖怪は冷ややかな言い合いをしていた。
「貴方にとっては、ここが全て?」
「大事なものよ。だから殺したの。守れない巫女に価値はない」
 違う。彼女が嘘を言う度に、唄に不協和音が入る。
「それが貴方の結論なのね」
「閻魔様に認められようとは思ってませんわ。私は幻想郷を守るの。何を切り捨ててでも」
 どうでもいいものと大切なもの、歌声の先。息を止めて、心の目を伸ばす。普段視ていない領域にまで。

 何の境界も張り巡らされていない、無の大地。日傘を差して周囲を見晴るかすのは、今よりも背が低く幼い姿の紫。人々が、牛や馬を引いて畑を耕している。古参の妖怪達が賑々しく空を飛び交う。
 ――原初の幻想郷が、其処に在った。
 無数の文化が、妖が、境界が生まれた。
 今、理解する。紫の世界を埋め尽くさんばかりの物と人、言葉は、全て幻想郷で生まれたものなのだと。彼女はそれらを残さず、精神の領域に置いているのだ。忘れないように、慈しむように。
「八雲紫は、何も捨てられない」
 自然と言葉が声になっていた。
 映姫が、振り上げかけた悔悟の棒を下ろす。紫は
「戯言ね」
 と撥ね退けた。
「いいえ。読んだのよ」
 群がる人形も猫も兎も、幻想郷の産物。気付けば扱い方も解る。今なら視える。彼女の内側が。
「貴方には、切り捨てることなんてできない。弱い巫女であっても」
「鏡を見なかったのかしら。私は殺したわ」

 余裕溢れる笑みの裏。積み木や百合の花や濃霧に囲まれて、霊夢が眠っている。
 ――「巫女になるために帰ってこなくてもいい。元気な姿をまた見せて。転生しても捜し出す。それが叶わないのなら、冥界の桜の下で」
 ――「ううん、此処に居て。私の世界に。それだけでもいい」

 困る。剥き出しの悪意を見せ付けられるよりもずっと。眩しくて目を閉じたくなる。
 愛情云々を口にするなんて、柄じゃないのに。何と言って閻魔に伝えたら良い、視えるのに、読めるのに適切な表現が出来ない。
「それは、切り捨てたのではなくて……この分からず屋」
「犯人の自供は淡々と受け止めるものよ、素人探偵さん」
 ――「霊夢のためよ」
 心に釘を刺される。興奮していた頭から、熱が引いた。紫の願いは霊夢への寛大な裁き。叶えるためには紫の主張を受け入れなければならない。
「でも、それでは」
 立ち上がって首を振る。いけない、紫への罰が重くなる。二人とも助けたいのに。


 上手い言い訳を探していると、「裁判が台無し」「『無駄口』、と」との恨み言が視えた。勢い良く棒を叩きつけるイメージが発生する。
「あ、ちょっと」
 頭をかばったときにはもう遅かった。角張った棒が振り下ろされた後だった。平べったい痛みが広がる。映姫は険しい顔で忠告した。
「貴方は少し、自由奔放すぎる。私は疲れました」
 紫が扇で口元を隠して笑った。
 映姫を視ると、裁判の記録用紙と「本当なの?」「今読んだことは」「裁きに影響が」との問いが並んでいた。妖怪さとりとして、古明地さとりとして、何らかの意見を出す必要がある。さて、どうする。紫にも霊夢にも優しい判断。

 私は鉛筆を取って、一気に書き殴った。




「一日でクビになっちゃったわね、裁判の助手」
「地底の親玉の方が性に合ってるわ」
 澄んだ青空も、無縁塚では淋しげに感じられる。崩れた墓石の間を、私と紫は歩いていた。映姫は既に飛び去った後だ。酷く悩んだ末に、彼女は裁きを下した。
「地獄行き、執行猶予あり。ありふれた判決ね」
 紫は日傘の柄を回して、閻魔の重苦しい調子で言った。
「“そう、貴方は少し愛しすぎる。愛されること。これが今の貴方が積める善行よ”」
 なら、これは善行の内に入るのだろうか。
 枯れた古木の下で、こいしが手を振っている。平らな石を積み上げて遊んでいたようだ。
「お姉ちゃん、遅い」
「閻魔の説教が長引いたのよ。それで、連れて来た?」
 妹は自慢げに指を鳴らす。木陰から霊魂が半分顔を出した。
 隙間妖怪が、言葉を失った。日傘が落ちる。こいし製の石の塔が崩れる。紫の心にひとつ、温かな光が宿った。「信じられない」「どうして」。意識と瞼が目まぐるしく動いた。こいしに答えを促す。
「こっそり忍び込んだの。誰も気付かなかったもん。お姉ちゃんには絶対無理」
「でしょうね」
 こいしは彼岸潜入の武勇伝を語った。職務怠慢の死神の舟に乗り込んだ、順番待ちの霊魂の群れから捜し出したと。無意識で動く我が妹だからこそ出来た芸当。
「でもね」
 私は向かい合う二人に歩み寄る。紫には霊夢の想いを知る術がなかった。霊夢には紫に話しかける声がなかった。
「私だから出来ることもあるの」
 妖怪と巫女の胸の奥。私は間違いのないように、細かに読み解いた。
 八雲紫のこころは、これ以上ないほどに散らかっていた。照れ隠しか、パニックか。音符が、鬼の鎖が、人妖が乱舞する。家も魔法も何もかもが飛び交う。それは今の幻想郷のようだった。私は、「会えて嬉しい」や「閻魔に見付からないうちに戻れ」や「幸せに生きて」、「ごめんなさい」を拾い集めて霊夢に渡した。
 博麗霊夢のきもちもまた、複雑だった。ひねくれであったり、後悔の念であったり、謝罪であったり、言葉にし難い感情が渦を巻いている。目に視えたものを次々と紫に知らせた。
「絶対に、元気になって帰ってくる。それまで幻想郷をお願い。また兎鍋しましょう。それと、これは深い意味はないから聞き流して。愛してる」
「記憶力はいいのよ」
 彼女の幻想郷が、またひとつ色や想いを仕舞い込む。時々引き出しては愛でるのだろう。


『彼女の想いは真実です。ただし、私の力は万能ではありません』
 灰色の判断に、白黒はっきりつけたい閻魔様は呆れていた。
 善悪分けよと言われても無理な話だ。彼らは心に幻想郷を持っている。ごちゃついた想念を振り分けるのに、あと何年かかる。
「お姉ちゃん、嬉しいことがあったの?」
「さあ」
 私は遠い未来を視、二人の再会を祈った。
 こんにちは。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

 さとりの想起「二重黒死蝶」が見事で、霊夢は紫の弾幕をこれほど綺麗に捉えていたのか、二人の間柄について書いてみたいなぁ……と思い、形にしてみました。


 2008年10月5日 注意書きを追加しました。
深山咲
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コメント



0.4730簡易評価
9.100メガネとパーマ削除
これは・・・すごい。
とても面白かったです。
さくさくと読め、終わりも静かに終わっていてとても良かったです。
10.100名前が無い程度の能力削除
そして魔理沙や幻想郷の一般的な者たちには、博麗の巫女が病気であったための結界維持のための緊急措置として霊夢の殺害が説明されて、
真実を知らない知りえない者たちの負の感情は紫が矢面で引き受け、真実を知ったり真実を予見出来た者たちは紫と霊夢を思いを計って口を噤む訳ですね
最後の終わり方に後の幻想郷の様子を入れず、霊夢と紫とさとりの様子で切ったことで
逆に始めから終わりまで三人に焦点を当てきった纏まりになってスッキリ読めました
11.100名無しの氏削除
>さとりの想起「二重黒死蝶」が見事で、霊夢は紫の弾幕をこれほど綺麗に捉えていたのか

むむむ、その発想は無かった、成るほど、霊夢から見た紫の弾幕は、あんなに綺麗に見えていたのか……
この作品を読んだ後だと、紫と霊夢の間の心のつながりみたいなものを思わず空想してしまいます
とても良いものを読ませて頂きました、有難うございます
12.100名前が無い程度の能力削除
なんていうか・・・すごかったです

残された人らを敢えて書かずに終わらせたことで更に色々と想像できますが・・・
切ないというか、いたたまれないというか
せめて霊夢と紫にだけは救われてほしい
15.100煉獄削除
霊夢は病気を患っている・・・これだけの考えだったら病気になったからで終わってしまいますねぇ・・・。
え~っと・・・・霊夢は元々体が弱かった・・・と、いうことかな?
う~ん、どうなんだろう。
読んでいると病気になったから博麗のシステムを維持するために紫が肩代わりするというのにも
解釈できますし・・・・解らない。(苦笑)

いや、でも面白かったです。
スッキリと読めましたし紫、霊夢・さとりの感情など様々なことがあって
切ない感じもしますが素敵な話だったと思います。
いつか霊夢が紫のもとに現れることを願いたいですね。
面白かったです。
17.100名前が無い程度の能力削除
えっと…開いた口がふさがりません、凄い
20.無評価名前が無い程度の能力削除
どうして閻魔が生きている人(妖怪だけど)を裁くのか?
23.80名前が無い程度の能力削除
個人的には非常におもしろかったですが、死話であるというのを最初に明記したほうがいいかと思います
一部拙い点もありましたが、さして気にならない程度でした
26.100名前が無い程度の能力削除
bravo
28.100名前が無い程度の能力削除
良好
33.100名前が無い程度の能力削除
心を読むか・・・
38.50名前が無い程度の能力削除
霊夢が病気で亡くなったあとを紫が引き継ぐってのじゃいけなかったのかと。
それだと紫も罪を重くせず、霊夢も少しかもしれんが生きれたのではないかなと思いました。霊夢はまだ動けると主張してましたし、ギリギリの状態なら魔理沙あたりが気付きそうです。
殺さないと巫女の交代ができないってのも・・・。
一人で結界を負担することができるなら、紫が幻想郷を作って外界から隔離するときに、最初から紫が結界を維持していれば済む話のようにも思えます。不安定な人間に頼らずに。
さとりの表現はうまかったです。ただ、推理物は難しいですね
42.無評価シリアス大好き削除
推理物は苦手ですが、シリアス成分は大変美味しゅうございました、次回作にWKTK
51.無評価深山咲削除
 ご感想と鋭いご指摘、ありがとうございます。書き手として大変嬉しく感じます。

 疑問、質問にコメントします。言葉が足りなかったらすみません。

 遺された人々のその後については、主軸から外れる気がして書きませんでした。10.様の考察が深くて、驚きました。

 20.様の「どうして閻魔が生きている人(妖怪だけど)を裁くのか?」については、『花映塚』の各最終面での映姫の忠告・説教から想像しました。説教は生前裁判とも取れると考えました。

 煉獄様と38.様のご質問には、自分の論理の甘さを痛感しました。
 描きたいことのために、登場人物や制度を作為的に動かしすぎたかもしれません。特に霊夢の病状に関しては。
 紫の霊夢殺害については、殺すことによって裁判の時期を早める=転生可能ならその時期を早める、紫が悪役になることで相対的に霊夢の罪状を甘くする……などの目的を考えていましたが、映姫の厳格さを前にすると穴が目立ちます。

 作品の冒頭には、死話であることと共に、独自設定の存在を明記したいと思います。


 面白かった、すごかった、との嬉しいお言葉があって、恐縮すると同時にとてもにこにこしました。皆様の心に何かしら残ったのなら幸いです。
55.100ルル削除
その発想が凄まじい。羨ましい。橋姫じゃないが、妬ましいわ。

お見事!
62.80名前が無い程度の能力削除
花映塚でのこまっちゃんの対霊夢のセリフを思い出しました。
「この世には二種類の巫女がいる。
 極端に短命な者と、極端に長寿な者だ。」
霊夢が極端に短命な者に当てはまるのなら、実は病でありその進行が早すぎて、そのままでは転生に適うだけの善行を積む時間すらどうにもならないというのはありえますね。
また突発的な病死は残す者の心の準備がないままいきなり悲しませるため、ときに誰かに殺されるという残された者の憎しみの向かう先がある突発死よりも悪行となるとも聞きます。
この作品の霊夢が事情を知る僅かな者(紫や永琳)にしか病状を話さないまま隠して死のうと思っていたのなら、悪行にはなっても善行にはならなかったでしょう。
花映塚であれだけ映姫様に釘を刺されていた霊夢は、プラスになる要素が何も無いまま映姫様の前で審判を受けていたのかも。
そう考えると紫が霊夢を殺すことは、霊夢から病の苦しみを取り除き、突然の隠された病死という悪行を防いでいますね。
また殺される理由が紫側の個人的な理由にあることによって、殺される霊夢側の否による殺害ではないこともまた善行とは言わなくとも悪行にはなりませんしね。
結界設定云々は上の方が書かれてましたがに代理を立てるまでの緊急措置として自分が担っていると言えば済みますよね。
公式でも紫は結界に揺らぎも作れれば香霖堂だと霊夢が結界を緩めたらすぐ察知もできますから、今回「担える」と二次設定されても自分は違和感を感じませんでした。
それにこの話の紫は、自分が一人で結界を負担できる確信があるから霊夢を殺す計画をとったのではなく、いままで出来ないと思っていたけど、出来ようが出来まいが無理でも霊夢のためなら担ってみせるといった気持ちのほうが先にあった上で計画したと思えましたしね。

映姫さまの生前裁判自体は、幻想郷を覆う二つの結界の要の一方がもう一方を殺すという行為だけでも、動く理由になるかと思うので不自然には感じませんでした。
妖怪が人間を害するのは罪でなくともそのままでは紫の行く末は見えていますし、映姫様が説教する理由は少しでも生前の罪を軽く出来るよう相手のことを考えてのこと。
相手が誰であれ説教をしないという手段をとって、相手が生きているうちから「救済の可能性の否定」をするとも考えにくいので。

と、いろいろ自分で考察してしまったので、個人的にはその部分を文章でもうちょっと詰めてほしかった気もしました。
ですが、霊夢と紫の心を探るという行動を通して、さとりの心を丁寧に動かしそのキャラを浮き彫りにして、それがまた霊夢と紫の関係を浮き彫りにしていって、というのはお見事でした。
さとりの能力の独自解釈も良かったです。
一つさとりというキャラを学んだように思いました。
自分はこういう動かし方を思いつかなかったので。
いい作品を読ませていただきました。
63.100名前が無い程度の能力削除
霊夢と紫の再会はアカシック・レコードに載っているので無問題!!!(完全に妄想)
素敵な巫女と胡散臭い妖怪に幸あれ。
65.100名前が無い程度の能力削除
設定的に一癖も二癖もある古明地姉妹、その上で「心が読める」さとりを主人公にできただけで、作者の力量が伺えます。最後のこいしの活躍も有る意味スタンダードですが上手いなあ……。

さとりの意外な「人間臭さ」が紫の胡散臭さと対比になっているのもいいですね。

お見事。
66.100名前が無い程度の能力削除
これは…評価せざるを得ない…
ありがとうございます。
73.無評価深山咲削除
 素敵なご感想、ありがとうございます。一文一文噛み締めるように読んでいます。

 62.様の考察にコメントします。
 『花映塚』の小町の巫女の寿命に関する発言は、恥ずかしいのですがすっかり忘れていました。考察を読んで青くなりました。気付けていたら、もう少し説得力のある理由付けができたかもしれません。
 本当に説明不足で、申し訳なく思います。読んでくださる方の推理力に甘えてはいけません、もっと精進しませんと。
78.100過酸化水素ストリキニーネ削除
素晴らしかった
79.100名前が無い程度の能力削除
泣いた。人物描写に引き込まれました。既に上に書いてありますが、
物語の背景をもう少し分かりやすく描写してくれたら、より感情移入できたかも。
80.100名前が無い程度の能力削除
大変素晴らしかったです
特に紫の愛が
105.100名前が無い程度の能力削除
さとりの能力描写が絵画を見るように文字の羅列から浮かび上がってくる。
この描写力だけでも乾杯だけど、霊夢、紫、こいし、映姫といったメインキャラの立ち具合も凄まじい。
霊夢の最後の言葉、紫はどれほど嬉しかったでしょうかね。
106.80名前が無い程度の能力削除
さとりの能力がここまで活かされているssも珍しいと思う。
とても好かった
118.80楽郷 陸削除
さとりの能力がうまく活かされてました。
127.90名前が無い程度の能力削除
それはそれは残酷なこと