Coolier - 新生・東方創想話

異聞吸血鬼異変 ②

2008/10/03 21:16:09
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各種おことわり
・ フリーメイ○ン的な何かが出ますが現実のフリーメイ○ンとは何の関係もありません。















―― 第二章 ~ 蓬莱幻想 ~ ――















迷いの竹林を抜けたすぐ先を一本の川が流れている。
霧の湖と呼ばれる場所から流れ出た川で、水の色は澄んだ白藍をしている。それが河原の石灰質を多く含んだ白砂と相まって、実に清廉な印象を見る者に与えている。
加えて流れも穏やかだから一見すると想像しにくいのだが、この川は源流を目指せば妖怪の山の九天の滝へと行き着く。そこまで行けば、川はかなりの激流と化す。
逆にこの川の水が最終的にどこに行き着くかは、幻想郷に住まう者には確認のしようがない。なぜなら幻想郷の水流の大半は、最終的には結界の外へと流れて行ってしまうからである。幻想郷に海はないのだ。
九天の滝の滝つぼからその先――天狗たちが瑕疵無き要塞と称する渓谷の一帯にかけては、河童たちが多く生息している。彼らは川の水の清らかであることを望むから、この川は幻想郷の中でも取り分け良い水質を誇っている。里の人間も良く飲料水や生活用水としてこれを用いているのだった。

そののどかな川原に一人、釣り糸を垂らす少女がいた。
陽光を反射する銀の髪――ふくらはぎまで届くであろうその長い繊維は、奇妙な紋様の記されたリボンによって、いくつかの房を作るようにしてまとめられている。
身を覆うのは灰桜色のシャツに、赤錆びたふうの色のもんぺ。
少女は名を藤原妹紅といった。
傍らのびくにの中では、釣った魚が泳ぎ回っている。

「岩魚ばかりか……」

しかも数が少ない。
妹紅はさる薬を服用した影響で、死というものとは縁遠い。正確に言うと死んでもすぐに生き返ってしまう。
だから魚などは釣れなくとも一向に困らないのだが、妹紅にとって釣りは余興としての側面もあるから、釣果が思わしくないのはやはり癪だった。

「教えられたようにはいかないものね」

妹紅は自分に釣りを教えた人里の男を思い出す。
太公望というあだ名で人里の衆からは呼ばれていて、どことなく飄々として浮世離れした雰囲気の人物なのだが、これが妹紅とは違って実にほいほいと色々な魚を釣ってみせるのである。

「まあ、岩魚は岩魚で旨いんだが――」

そう呟く妹紅の背後でびくに近寄る一つの影があった。
大陸風の朱色の服を着た少女で、髪は茶色、その合間からは猫族の耳と思しきものがのぞいている。
いわゆる化け猫というものだろう。

「何やってんのかね、お嬢ちゃん」

とたしなめる妹紅。化け猫の少女はびくりと体を震わせた。

「人の釣果に手を出そうっての? いい心がけねえ」
「ふ、ふん。引っかかれたくなかったらこの魚をよこしなさい!」

上ずった声で答え、爪を構える少女。中々に鋭い爪である。なるほど、引っかかれたら痛そうだ――そんなことを妹紅は思う。
少女はその周りに何匹かの猫を引き連れている。配下なのだろう。しかしこちらはまだ人化もしていない普通の猫のようで、主であろう少女のことには大して興味が無いらしく、にゃあだのみゃあだののん気に鳴くばかりであった。

「力ずくってこと? いいよ、相手してあげるわ」

そう言うと妹紅は余裕のある笑みを浮かべた。






数分後、妹紅の足元には負かされた化け猫の少女――橙という名前らしい――が転がっていた。
妹紅はこう見えて、まだ鬼たちが地上を闊歩していた昔から妖怪退治をしている。尾が2本しかない化け猫などでは役不足というものであった。

「思いっきりやっても、結局貴女はゲームオーバー」
「痛たた」

橙がこぶの出来た頭をさすりながら言う。

「赤猫という食用の猫があってだね」
「それは赤犬だ!」
「そうそう、赤猫は――火事のことをいう」

にいとその口を歪めると、妹紅は再びその手に炎を宿した。。

「で、猫ってどう焼くのがイイの? レア? ミディアム? お好みで焼いてやろう」
「ど、どれもイヤよ!」
「ふむ、生がよいと」

そんなやり取りを繰り広げているとき、妹紅の足元に橙の配下(かどうかはすこぶる怪しい)の猫が一匹擦り寄ってきた。真っ白い毛をしている。
匂い付け半分、魚のおねだりが半分といった所のようである。上で煌々と火が燃えているというのに特に怖がる様子もないようだから、そろそろ化け猫へと進化するのかもしれない。

「生が好みらしいね。ほれ」

そう言うと妹紅はびくから魚を何匹か取り出すと猫たちの方に向かって放り投げた。
わらわらとそれに群がる猫たち。
火を嫌わなかったのは妹紅自身に殺気の類がなかったからなのだろう。その手の勘については下手な妖獣よりも普通の獣の方が優れているのだ。

「へ?」

橙はあっけに取られた顔をしている。そこに妹紅がたずねる。

「で、嬢ちゃんはどうなのさ。焼いた方がいいの? 魚の焼き加減」
「う……じゃあウェルダン」
「と、その前に」

妹紅はびくの中にあまっていた水を橙にかけた。

「ぎにゃあ!」

橙が素っ頓狂な悲鳴をあげる。

「み、水があ」
「やっぱり……お前さん、式憑きだったか。今は命令は入力されていないみたいだが」
「落ちちゃったじゃないのよ! 藍さまにしかられる~」
「ふん、獣くさいと思ったんだ」
「ほえ?」
「今すぐ憑け直してもらったら?」

そう言うや否や、妹紅は背後の竹林に向かって炎を投じた。
橙と戦っていたときとは比べ物にならない火勢――猫たちは、今度は驚いて逃げていった(魚はしっかり持っていったが)。
竹林の入り口付近の竹が炎上し、少し送れて竹の爆ぜるパンという音が連なる。

「覗き見とは感心しないねえ、狐」

その竹林の炎の中から一人の人物が歩み出てくる。

「そっちこそ、火事になったらどうする気?」

青の道師服。二股に別れた帽子。少し内はねのある金の髪。どれもこれも、火の中を歩いてきたというのに焦げ目一つない。
そしてその背には、炎を受けて煌々と輝く九本の狐尾。
その人物が火の中心で、祈るようにして右手をかざす。
途端にいくつもの爆発が起き、その爆風で炎はかき消された。

「久しぶりね、藤原の」

炎の中より現れた人物――八雲藍はそう言って不敵に笑った。






「三百と五十年ぶりぐらいかしら?」

妹紅は橙用の魚を焼きながら言った。隣では橙が目を輝かせて待っている。

「そんなに経つか……妹紅はいつ頃こっちに?」
「あんたとやり合ってから割とすぐよ」
「仇敵とやらは?」
「いた。いたけど――」

仇敵というのは竹林に住まう少女、蓬莱山輝夜のことである。さる事情により妹紅は彼女に対して恨みの念を抱いている。
ただ、正直な所その念は若干風化しつつもあった。
時を経て再開した輝夜は、妹紅が思っていたのとは違って、あまりに――あまりにも普通の人間だったのだ。わがままで、箱入り娘で、そして永く生きる存在としての葛藤があって――その姿は自分とちっとも変わりがなかった。
加えて再会の舞台となったこの幻想郷が今やてんで平和なのだ。この平和の内において、憎しみだの怒りだのといった負の情念を延々長々繋ぎ止めるのは難しい。

殺し合いはする。それは今でも変わらない。
定期的に、壮絶に、やる。何かを確認するために、何かを実感するために。
しかし、妹紅も輝夜も結局は永遠の命をもって生きる者である。死ぬだとか、殺すだとか、そういったことが取り立てて重要な意味を持つのは、有限なる存在の前においてのみである。無限の内にある二人にとって、それらは大した意味をなさない。いくら貫き、焦がし、殺めても、すぐになかったことになってしまう。
だからそれはもう、ただの戯れと大差がない。
そしてそれでも良いかと思い始めている自分がいるのも、また事実だった。

「まあ色々あるんだ、その話は止しにしよう。ほれ」

焼き上がった魚を橙に手渡す。

「熱いから気をつけなさい――で、あんたはどうなの? なんで私のとこに?」

ふうふうとしながら魚を食べる橙を横目に見つつ、妹紅は藍にたずねた。

「ちょっとね、貴女に協力して欲しいことがある」
「協力?」
「アポロ計画という名前に聞き覚えはあるか?」

はて、何だったか――そう思い妹紅は記憶をたどる。

「香霖堂で読んだ雑誌に何か書いてあったな……」

妹紅の記憶が確かなら、それは数十年ばかり前に外の世界の人間により実施された月面探査計画のことだったはずだ。

「そうね、表向きはそういうことになっている。でもね、それはほとんどが偽装された真実に過ぎない」
「嘘か……まあ、おかしいとは思っていたよ」

妹紅は輝夜から、月には巨大な都と高度に発展した技術があると聞き及んでいた。
だからあの雑誌に記されていた月面探査の結果には、大いに疑問を抱いていたのだ。
そして八雲藍は言った。



「アポロ計画――その実態は、さる組織により実行された月の都の侵略計画よ」



「待て待て、月は地上の比ではない強力な技術を持っているって聞いたわ。敵うわけが――」
「当然、敵わなかったわ。というかそもそも地上の勢力は『向こう側の月』に到達することすらできなかった」

月の都というのは月の裏側に存在していて、地上の人間がそこを目指そうと思っても、通常は表側の荒涼とした大地に降り立つだけなのだそうだ。それは恐らく、外の世界の人間が博麗神社を目指しても荒れ果てた神社にしか到達できないというのと似たような状況なのだろう。

「失敗したから結果を隠蔽しているのか?」
「まあそれもあるんだけど――そもそもの計画段階から極秘裏に事は進められていたの。端から真実を公表する気なんてなかったんだ。だから外の世界の人間も、大半はアポロ計画を単なる月面探査計画としてしか知らないし、知らされてもいない。あの雑誌はそういう意味では嘘だし、外の世界の常識に照らすなら正でもある」

ならそれは幻想郷においては誤りということなのだろう。
外の世界の常識は幻想郷の非常識であり、その逆もまた然りである。仮に幻想郷の誰かがあの手の雑誌を参照にして月へ行く方策を講じたところで、それだけではきっと月へは到達しえないに違いない。

「でも未遂とはいえ戦争だったんでしょう? 森近の店主の話じゃ、外の世界は家の一戸一戸に『ぱあそなるこんぴゅうた』って式が配備されていて、情報が高速で行き交いしてるって――」
「その状況においてなお、情報を完璧に覆い隠せるだけの規模を持った組織だった――そういうことよ」

そんな存在があるものなのだろうか?

妹紅はかつて外の世界にいたから、世界というものが地理的にも、また人種や文化の多様性においても非常に広いものなのだということを知っている。
あのときに比べて世界文明が後退したとは到底考えられない。現に先の回帰年月においては、近代兵器とやらの登場により信じられないぐらい大量の幽霊――死者が流入したのだ。妹紅が外にいた頃とは比べ物にならないレベルで文明は発展しているはずなのである。
そしてそれほどの技術力が情報の領域にも及んでいるのだとして――そうした世界において星間での戦争などという一大事実を隠蔽する事など果たして可能なのだろうか?

「どれだけの規模なのよ、その組織とやらは……」

それに行っているのは情報の隠蔽だけではないはずだ。
輝夜は(妹紅は認めたくなかったが)相当の実力者であり、そしてその傍には、たぶん間違いなくその輝夜を凌ぐ力を持つであろう従者――八意永琳がいる。月の都というのは、その二人をして隠れ住まわざるを得ないほどの勢力を誇っているのだ。現に昔の輝夜は月の都のことを恐れていたのだという。
その組織は、そんな月に戦争を吹っかけるだけの戦力、あるいはそれを行使するだけの権限を有しているはずなのである。
加えて月に都があることを把握している以上は、そうした『幻想』にまつわる知識もまた、一定の水準にあるのだろう。

「主人からの受け売りだがね、外の世界はこことは全く異なる構造でもって社会が成り立っているんだ」

藍の話では現在の外の世界は、政界・財界・軍部の三領域それぞれがピラミッド式のヒエラルキーを形成しており――

「連中はその全てにおいて世界の最上部に君臨し、ありとあらゆる国や地域にロッジ(支部)を有している――のだそうだ。近現代という時代には、常に連中の影が付きまとっている」

そこまで聞いて、妹紅が抱いていた疑問が一つ氷解した。

「なんで月の都の侵略なんかを企てたのかと思ったけど、今わかったよ」

かつて秦の始皇帝は永遠の命を欲し、方士徐福を海の向こうへと遣わせた。
歴史において権力を手にした者がその次に望むのは、いつだって同じ代物である。

「蓬莱の薬が目的か」
「そういうこと。連中は不老不死を希求して止まないでいる」
「急につまらない話になった」
「まあそう言うな」

藍は苦笑いを浮かべた。そして話を続ける。

「蓬莱の薬はアムリタだのネクタールだの仙丹だのと、地域によって呼称はまちまちなんだが……連中はそれらや優曇華の木といった物証や、各地に残る月にまつわる伝説等から、月に何らかの形で此方側の歴史に干渉している存在がいること、およびそいつらが不老不死にまつわる知識を有しているということだけは辛うじて嗅ぎつけたんだ。無論、不老不死の薬はどの時代どの場所においても民衆に対してはその存在は隠されてきた。権力者たちにとってはこれほど厄介なものはないからねえ。だから外の世界の一般人は、やはり月に都があるなんてことは知らないでいるんだが」
「各地の伝説って?」
「ん? そうだな、私の故郷ならば太陰星君――嫦娥の伝説が有名だろうな。本邦でいうなら、あれだ――」

なよ竹のかぐや姫――そう藍は言った。
それを聞いて妹紅は一瞬動悸を覚える。
永遠亭について知る者はこの幻想郷においても少ない。現に妹紅もあの素兎に招かれなければ、いまだあの屋敷のことなど知らずじまいだったはずだ(なぜわざわざあの兎が妹紅を招来したのかはよく分からないが)。
だからここでその名前が出るのは、単なる偶然なのだろうが――

「蓬莱の薬は、かつては結構な量が存在していたようなんだがね、何があったか今ではほとんど失われている……主人の話では、月の民が地上を見限ったのだとか何とか。あれはね、もともと地上の民を試す目的で月の民がばら撒いていたものらしい」
「え?」

――試す……だって?

言いようのない何かが妹紅の中で膨れ上がる。

「穢れし地上の民が、更なる穢れを顕わにするのか否か――」

その藍の言葉はすでに妹紅の耳には届いていなかった
妹紅は遠い昔の、あの富士山での出来事を思い出していた。
あの日勅命を受け蓬莱の薬を富士の火口へと運んでいた岩笠の一行と、それを尾行していた妹紅は、故あって山頂にて一夜を明かすことになったのだった。
不尽の山が天頂での一夜――囲った焚き火がやけに赤く燃えていたような気がする。

あの晩、一同は円になって座していた。
中心に置かれたのは、蓬莱の薬の入った壺。流刑に処された月の姫の置き土産だ。
いつの間にか互いが互いを監視していた。
不老不死の霊薬を前にして、誰もが疑心暗鬼に陥っていたのだ。一人起きてはそれまで起きていた者が寝入り、必ず二人以上で壺を見張るようになった。
やり切れない緊張感と閉塞感とが場を覆っていたように思う。
そして次に妹紅が目を覚ましたとき、妹紅と岩笠の周りには――焼け、爛れ、引き裂かれた無残な骸たちが転がっていた。岩笠の部下たちの死骸だ。
いったい何があったのかは知らない。
ただ、結局のところはあの陰鬱な一夜こそが――

「胸糞の悪い! 何が試すだ!」

気が付いたら叫んでいた。

「ど、どうした?」

藍が驚いた表情をする

――あれが……

あれこそが妹紅が普通の少女でいた最後の一夜だった。

「何が穢れだ! いったい何様の――」



――何を偉そうに憤っている?



妹紅の中の冷静な部分が、激昂する自分を冷ややかに見つめていた。
そうなのだ。
己には、怒りを燃やす資格も権利もありはしない。あの後――

――あの後、私は岩笠を……

殺めた。

何かに魅入られていた。
何かが違えていた。
それで後のことなど考えることができなくて、ただ目の前にある薬がこの上なく大事なものに思えて――殺した。
岩笠に恨みなどは抱いていなかった。むしろ恩義すら感じていたように思う。あの日、遭難しかけていた妹紅を救ったのは他ならぬ彼なのだ。
それでも――殺してしまった。
大した思いも考えもなかった。ただ痙攣的に、無意味に、殺した。
山道で岩笠を蹴落とし、薬を奪って遁走したのだ。

「私は……」

それこそまさに、試されていたのだ。
彼方の星の住人たちによる、賭け事がごとき行為――妹紅はその巻き添えとなり、そしてその魅力に抗い打ち克つことができなかった。結果は黒だ。
ただただ魅入られて、冷静さも、手を差し伸べてもらった恩もどこかに置き去りにして、愚を犯した。
その後妹紅は奪った薬を呷った。それで藤原妹紅の有限は終わり、代わりに無限を生きる蓬莱の人の型が生まれた。

「私は……とんだ見せ物だったか」

自嘲するように妹紅は呟いた。

「なあ、八雲の。おまえは癪じゃあないか? そんなふうに、天上からこちらの歴史を操っている奴等がいるなんて」
「たとえそれが操られ、誰かの手により紡がれたものなのだとしても――我々の歴史は我々のものだ。超越者を気取る奴らにはそうさせておけばいい。いずれここには関係のないこと――白澤と御阿礼の残す記録、そして私たち一人一人が積み上げてきた記憶こそが我々の歴史だ」

澱みなく凛然として、九尾の狐は語る。そしてやれやれといったふうな仕草を見せる。

「ま、実は私も似たようなことで主人に突っ掛かったことがあってね。そのとき言われたことさ、今のは。貴女がなんでアレを飲むに至ったのかは知らないし詮索もしないけど、あまり力むな。貴女が過去に何かを過ったのだとして――しかしそのことは、そんな程度のことは、この場所が背負う。幻想郷は全てを受け入れるのよ」

残酷なことにね、と藍は付け足す。それで妹紅も冷静さを取り戻した。

「……すまない、取り乱した。それで連中が地上を見限ったというのは?」
「それはあまり重要なことではないんだが……争いは愚かなものさ。しかし巨視的視野に立つなら、それこそが人類を発展させてきたのだとも言える。月の民が、蓬莱の薬や優曇華の木を地上にばら撒くのはそのためだ。はた迷惑な話だが、連中は連中なりに地上を牽引しようとはしていたんだな。そして外の人間はここの住人たちのように現状に満足するということを知らないから、簡単にそうした術策に嵌まる。だが――それは行き過ぎてしまった」

五十年前の花の異変を妹紅は思い浮かべる。

「外の世界は技術ばかりで、精神面はほとんど駄目になっている。何せ神が『死んで』しまうような場所だ。だから蓬莱の薬が投げ込まれることもなくなった……ねえ妹紅」
「ん?」
「子どもは好き?」

唐突にそうたずねた藍の視線は、橙の方へと向いていたように妹紅は思う。

「子どもが笑わない――そういう場所なのよ、外っていうのは」
「笑わない子ども?」



それは――とても哀しいことなのではないか?



妹紅はそれとなく橙を見やる。特に面白いことなどないだろうに、にこにこしている。
子どもなのだから問答無用で笑え、などとはもちろん思わない。笑いたくないのなら、笑わずとも良い。
ただ、笑うことを知らないのはどうにも可哀そうだ。笑いたいのに笑えないのは、当人も周りも辛いだろうと思う。

無邪気に笑う機会――本来、子どもに与えられるべきその特権的な時間を、ただの一度も与えられることなく育つ子がいる。
我慢することばかりを覚えて、己の役割を早々に悟ってしまって、それで笑うことを知らずに育ってしまう子がいる。
そうして出来上がるのは、きちんと子どもでいることができなかった、大人のような子どもたちだ。

「……いかんな、どうも脱線が多い。話を本筋に戻すぞ? 不老不死へと至る方法は現在三つ提唱されている。本当はもっと色々あるんだが……例えば世界各地で語り継がれる現人神なんぞは、信仰の力で不老長寿へと至っている。ただそれらは非常に稀なケースだ。また捨食捨虫の法には魔法の素質が必要不可欠、これも普通人にはたいそう難儀ね。というかそもそも魔法の力自体が外の世界では死にかけている」
「……その三つってのは要するに個人の資質とは関係なく実行可能なものってこと?」
「まあそんなところだね。例えば一番覿面で理想的な蓬莱の薬――これは飲めば誰でも即、不老不死。資質は一切関係ない。貴女だって使える術の大半は、不老不死になってから学んだものでしょう?」
「ふん、まあね……残りの二つは?」

不機嫌な声で妹紅は続きを促す。
隣にいる橙の口からは何かを擦り切るような妙な音がしている。どうやら魚の背骨を食べているらしい。

――背骨まで食べるのか……

骨には気を付けなさいと言って、藍は不老長寿にまつわる話を続ける。

「もう一つは賢者の石と呼ばれる物質を体内に取り込むこと。まあ本当の永遠をもたらすような代物は地上では穢れに阻まれて絶対に作り出せないし、それにそもそも賢者の石の本来の用途方法は全くの別物。だからやはり手段としては不完全なんだけど――」

藍の説明を聞いても、妹紅にはその内容の半分も理解できなかったのだが、どうも賢者の石というのは種々のエネルギーそのものが、具現化・物質化した代物であるらしい。つまりそれ自体がエネルギーの塊、ということなのだろうか。

外の世界の常識では、質量保存の法則というものがあって、言うなれば1からは1しか生み出すことはできないものらしい。またその変化にしても、単に同じ物質の性質や態様が変化しているというだけのことであって、例えば屑鉄から金を生成することなどは不可能であるとのことだ。
幻想郷はそんな法則などは綺麗さっぱり無視しているが――現に妹紅も髪の毛一本から再生できる――、魔法だの何だのといったものを捨て科学と呼ばれる体系に走った外の世界においては、そうした法則は通常覆しえないものなのだそうだ。

「単なる変化――1から壱って感じかしら? ――それにとどまらない物質変換を起こそうと思ったら、莫大なエネルギーが必要になる。そのエネルギーを引き出すための装置が賢者の石でね、だから本来はそういう変化のための触媒として用いられるべきなんだ。偶さか人体内に取り込んだ場合、副作用的に延命作用が生じるというだけのことね」

しかしその効能が持続する限りにおいては、それを取り込んだ者は年を取らず、また少なくとも寿命で死ぬということはなくなるらしい。怪我や病気に対する耐性も飛躍的に向上するのだそうだ。

「つまり不老長寿をもたらすエリクサーとしても、また莫大なエネルギーを引き出す触媒としても、それはたいそう魅力的なのさ。蓬莱の薬なき今、連中はその石を狙っていて――」

藍は先を急ごうとする。それを妹紅はさえぎる。

「待ってよ、もう一つあるんでしょ? 不老不死になる方法」
「それは大筋にはたぶん関係ない」
「いいじゃない。興味があるわ」
「聞いてどうする? 実践でもするのか?」
「いや、そんな無意味なことはしないけど……たんなる知的好奇心。ちなみに好奇心は猫を殺すぞ」

そう言うと妹紅は魚を食べ終わって退屈そうにしていた橙の耳をピンと指ではじいた。

「ひにゃっ!?」

藍からは大切にされているのだろう。
なんだかぬくぬくした感じでかわいい。だから、逆にどうにもいじめたくなる――そんな子どもっぽい理由で妹紅はそうしたのだった。

「おい、うちの式をいじめるな!」
「えい、はみはみ」
「やあああ! 耳噛まないでっ!」
「おい、止めろってば!」
「甘噛みだから大丈夫よ」
「大丈夫じゃない! 嫌がってるでしょ!」
「じゃあ話せ」
「藍さまぁ……」
「うぐ、仕方ないな……ごく稀にではあるんだがね、地上にも月の人間と同じような素質を持った者が生まれることがあるんだよ」

橙が逃げていった。

「月と――同じ?」
「たぶん隔世遺伝的な代物だと思うんだけどね、そういう奴は時間をある程度自在にできる能力を持つんだ」
「え?」

それは輝夜の力と同種のものではないのか?

「老死にせよ病死にせよ、あるいは怪我で死ぬにせよ、それらはすべからく『時の推移』というものからは無縁ではない。滅びの種は時の流れの内にこそある。時間が全ての元凶よ。それを止めてしまうことができれば――」
「死なない。壊れない」
「そういうこと」

妹紅は輝夜やその一味の住まう永遠亭を思い出した。
妹紅とも面識のある妖怪兎がその永遠亭に入り込んだのは、今から千年ほど前のことなのだという。そのころからあの大仰な屋敷は存在しているのだ。
それにも関らず、あそこは傷んだり壊れたり、あるいはそれを修復したりといった形跡が微塵も見当たらない。
かねがね不思議だと思っていたが、恐らく輝夜の力によって時の流れが止められているのだろう。

「というかね、時間を止めるというのはつまるところは物質の可変性を否定するということだ。だからたとえば時間の止まった存在にナイフを突き立てようとしたって、そもそも刺さらない。死因自体が無効化されてしまう……ま、理屈はどうでもいいわよね。そういう奴の持つ力を解析する――これが最後の一つだ。素体自体がレアだから、あまり進捗はしていないようだがね」
「解析ってのは例えばどうするんだ?」
「そうだな……捕まえて人体実験を施すなり解剖するなり、まあ色々やるんじゃない? 電流に対する耐性はどうかとか、打撃にはどの程度耐えられるのかとか。まあ何にせよ、被験者はただでは済まないだろうね。貴女だってそういうところに捕まれば、何か良からぬことでもされたんじゃないかしら?」
「あー、確かにそういうふうに迫ってくる連中もいたわ。しつこかったんだよなあ」

妹紅にも、そういう不老不死の秘密を探る輩から執拗に絡まれた経験があった。

「……ちょっと待て。それはいつのことだ?」

藍の声のトーンが下がる。

「あんたとやりあった頃だよ」
「ずいぶん古いな……その絡んできた連中の名前は分かるか?」
「ん? えーと何だったかな……たしか横文字だったような……ああ、そうそう、思い出した」

妹紅はぽんと手を打ち言った。



「『石工(メイソン)』だ。そう名乗っていた」



それを聞いた藍は目を見開いた後、額に手を当て嘆くような仕草を見せた。

「あー……何だ、だったらいちいち説明する必要はなかったな」
「え、あんたが言ってるその組織ってのは石工の連中のことなのか?」
「そうだよ。まあ、貴女と接触した頃はまだそれほど影響力を持った組織ではなかったのかもしれないけど……」
「じゃあ、ひょっとしてサン・ジェルマンの阿呆が?」

妹紅は昔自分にしつこく付きまとっていた男の顔を思い出す。

「『奇人』を知っているのか? ならますます説明の必要はなかったな……ここから先はまたしても主からの受け売りなんだがね、お前さんがこっちに来た後、世界は産業革命というものを迎えたのだそうだ」
「聞いたことがあるな。仏蘭西で革命があった頃だろう?」

その頃はまだ辛うじて幻想郷と外部の行き来はあったのだ。

「まあ本格的に各国へ伝播するのはもう少し後のことだがね。で、そこから生まれた資本主義の徒たちは、市場の無限の拡大を図るべく、軍部との結びつきを密にしていった――それで帝国主義の時代が訪れる。商才に長け、莫大な富を有すに至った特定民族資本家層が、政・財・軍への影響力を着々と増していく――それが近代におけるメイソンの世界的拡大要因であり――」
「待て、わりと本格的になに言ってるのかさっぱり分からん」
「私も分からん。テキストデータを音声出力したまでだ。正直、主の言うことの半分も私には理解できないもんでね……」

藍は少しもどかしげに語る。
式は主たる者の道具である。だから命令には原則として絶対服従であり、またそれこそが式が最も効率よく力を発揮するための手段でもある。なぜならとある目的の遂行において、最も重要な要素となるのは、目的の内容そのものではないからだ。何をなせばその目的が達成されるのか――それこそが肝要なのである。
逆にそれさえ知っていれば、究極的には目的の内容自体を知る必要などはない。
己の行為がどのような意味を持ち、それがどのような結果の表出に関ったのか――そんなことは知らずとも良い。

例えば陵墓の建設のために集められた奴隷たちがいたとする。奴隷たちはその王の名前すら知らず、ことによっては自分たちが造らされているのが墓であるということすら知らないかもしれない。
それでも材木を運んだり、壁を漆喰で固めたりする作業には、ちっとも差し支えは出ないのだ。ただ機械のように、自我無き歯車のように、黙々と作業をこなしていれば知らぬ間に墓は完成している。

――理屈の上ではそうなのだろうけど……

そうはいっても、やはりそこには葛藤めいたもの――施されたプログラムと、妖獣自身としての自我の対立があるのだろう。
特に藍は九本の尾を有した、最上級の妖獣である。つまりは知能に秀でているということでもあって、だからそうした葛藤は思いのほか大きなものなのかもしれない。分からないことを分からないままにしておくのは、どことなく引っかかるものがあるのだろう。

妹紅はかつて陰陽寮の関係者たちから式についていくらかのノウハウを教わったことがある。
彼らによると式というのは憑け方次第では、対象の自我を完全に抹消することも不可能ではないのだそうだ。逆にそれを残すような式の憑け方をすると命令違反等が多くなる、ということでもあるらしい。
藍の主とやらがどういう人物なのかは知らないが、藍の自我をこうして保全している以上、そうしたことは望んではいないということだろうか。

――いや……

今の、この人格自体が作られたものである可能性はないか?

一瞬妹紅はそんなことを思った。だがすぐにその問いの無意味さに気が付く。
それは妹紅の人格が復活以前と以後で果たして同一か、という問いと同種のもので、そうした己の存在がどうしたこうしたという問いは決まって答えなどは出てこないものなのである。
長く生きているから、そういう葛藤は当然妹紅にもあったのだ。
幾千回と思考したことでもあるし、今でもたまにそうしたことで悩むことはある。そしてただの一度とて、しっくり来る答えが見つかることなどはなかった。
しかし答えは出ずとも、妹紅は妹紅である。
同様に藍も藍なのだろう。

「主か――確か大結界騒動のときの、結界推進派の長の名が八雲だったわね。あんたの主ってのはそいつ?」
「ええ、そうよ」

結界に関わる存在であるなら、それは外の事情にも詳しいのだろう。

「好いてる?」
「当たり前のことを聞かないでよ」
「そうかい」

なら余計な横槍は不要というものだ。

「で、脱線してしまったけど、どうしてここに? 協力して欲しいことってのは?」
「さっき言った賢者の石ね、あれを錬成できる存在は限られているの。天賦の才と言い換えてもいいレベルの知識量、そしてそれを実践するだけの応用力が必要となるから――」
「要する作れるやつは貴重と」
「そう。その賢者の石の錬成に成功した娘がいてね、ホーエンハイムやカリオストロですら為し得なかったものなんだが……主はそいつをいたく気に入ったらしくて、こっち側に引き込もうとしているの」
「でも、石工が狙っていると?」
「まあそんなところ。要するに場合によっては出迎えに赴くこともあるかもしれないから、そのときはよろしくということさ」

東方の辺境の住人たちと、外界の一大権力集団――その二つが衝突する可能性を藍は示唆しているのだ。

――荒唐無稽な……

仮にこれが何かの物語だったとしたら、書いた輩は切腹もの、読み手は噴飯ものである。

「妖怪と違って貴女は外の世界でもある程度力を発揮できるでしょう?」

妖怪というのは――それがどういうメカニズムによるものかは分からないのだが――対峙する相手、あるいは存在する文化圏において『どの程度怖れられているか』次第で力が決定されている節がある。
そうしたこととは関係なく力を発揮できるタイプの存在もいるにはいるが、それは全体から見れば小数だ。大多数の妖怪はそうした制約から、外の世界で満足に力を揮うことは困難なのである。

「分らないことがある」
「何かしら?」
「結界の責任者なわけだろう、あんたの主は。ならこう、ちょいちょいっと結界を緩めてだね――」
「私もそれは疑問に思ってたずねてみたんだが――主が引き込もうとしている連中は、年こそまだ若いが強力だ。そうした強力な存在を好き勝手に引きずり込むことは、この場の実情にはそぐわん」
「分からん」
「そうだねえ……これは私が未熟なりにご主人様の言っていたことを分析して得た推論だが、たぶん間違ってはいないだろうと思うんだ」

少し藍は間を置き、再び話し出した。

「この一見すると回りくどくも見える主の振る舞いは、恐らく通過儀礼的な意味合いを含むものなのよ」
「通過儀礼?」
「外部にある者を内部へと越境させ、回収し、収斂させるための儀式とでも言おうかね。つまりこちら側のルールと世界観を学習してもらおうということさ。そしてそれは同時にあちら側、つまり外の理からの脱却も意味する」

分かるような分からないようなといったところである。
それはそれほどまでに重視しなければならないことなのだろうかとも思う。

「異なる理に則って動く二つの世界――その二つが接触し接続するとき、そこには軋轢というか波紋というか、まあ何かしらの食い違いが生じる。この場合は幻想郷と外部ということだが、別に顕界と冥界だとか地獄だとかそういったものでもいい。例えば人が彼岸に行こうと思ったなら、渡し守に代金を払うというプロセスがいるだろう? そのような、彼我の理の違いを是正するための加入礼が必要なんだ」
「そのための儀式が――」
「あちら側のルールに従って動いている強力な存在――それがそう易々とこちら側に入り込まれても困るのだよ。ルールを押し通されかねないしね。先ほどの喩えで言うなら、生きた奴が泳いで三途を渡ってしまうようなものだ。それはあってはならないこと……入ってくる過程で艱難を経るか、入ってきてから叩きのめされるか、何にせよ彼方のルールは捨ててもらわなければならない。お前さんも薄々感付いてはいるだろ? この場所は物語めいた秩序や結構性というものを重んじることで成り立っているんだ。異変において巫女は必ず勝つ、といったふうにね。それが乱されることを主は良しとしていないのよ。だからそれらを維持しつつ、連中を引きずり込まなくちゃあいけない。そのために――」
「手伝えって? だが正直言って面倒くさいねえ。義理もないしな」
「む……」

少し妹紅の中のひねくれた部分が顔をのぞかせる。
特に藍からの頼みを拒む理由はなかったのだが、素直に頼みごとを聞き入れるのも何だか『らしく』ないと思ったのだ。

「そうか……ふふ、そういえばさっき橙をいじめてくれたお礼、まだしてなかったわね」

一方藍は、喋りながらさりげなく妹紅の後ろに回り込んだ。そして少し悪戯っぽい笑みを浮かべると――妹紅の耳をぺろりと舐めた。

「やっ!? ちょ、何すんのさ!」
「舐めてるだけだから大丈夫――」

妹紅は背中にぞくりとしたものを感じる。

「やめろ、なんかヘンな気持ちになるっ!」
「――ではなかったかしら?」
「やあん……」

藍の、細長い指が妹紅の顎に回される。少しだけそこに力がこもって、妹紅の顎はくいっと上を向かされる。
白く、無防備な首筋があらわになる。
そして藍は妹紅の肩の上に首をやり、横からその顔を覗き込んだ。

「ねえ、協力して」

唾液で濡らされた妹紅の耳に、どことなく蠱惑的な聲が囁く。

「やっ……ものを頼むときには礼儀ってものが」
「別にいいわよ、このまま意地張って断り続けても。私はそれでも楽しいから、ちっとも構わないな」
「こ、ここは外よ」
「あら、なら中なら良いということかしら?」
「そういう意味じゃないっ! このけだものっ!」
「ええ、獣でしてよ」

藍の顔が妹紅の目前まで近付く。
割とさばさばした感じのしゃべり方をするから妹紅はすっかり失念していたのだが――

――そうだった、こいつは……

三國に渡り怪異を為した、傾城の妖狐。
その金色の髪や、白い肌からは甘く魅力的な香りが漂ってきて、それが妹紅の判断力を徐々に鈍らせていく。どうにも抗い難く、理性が消尽しそうになる。
背中には柔らかい少女の身体の感触と、しなやかな獣の体の感触――綯い交ぜになって押し当てられている。
その手がゆっくりと、妹紅の細い腰を這う。

「ん……」

このまま為すがままに、慰み者になってしまうのも悪くはない。
その愛撫には、一流の術師たる蓬莱人をしてそう思わせるだけの魔性があって――

「わかった、わかったわよ! 協力するってば~!」
「えー、残念。私は結構楽しんでいたのに。貴女、反応が生娘みたいで面白いから」
「きっ、生娘言うな! むきー!」
「……まあ、あれだ」

口調が真面目なものに戻る。

「事の次第によってはそういうことになるだろうから、そのときは頼むよ」

そう言って頭を下げる。

「さんざん好き勝手しといてどの口が言うか」
「悪かった。今度はきちんと然るべき手順を踏んで篭絡する」
「するな! ……まあ分かったよ。幻想郷内の騒ぎなら放っておくが、外のことだからね。その石を作った娘さんとやらは、『本当に』ヤバい状況ってことね?」
「その通りだ、理解が早くて助かる――では、私は行かなければならないところがあるからこれで。今度会うときは酒でも呑もうか」
「それより前回の決着を付けたいねえ」
「なに、幻想郷はさほど広くはない。いつか手を合わせることもあるだろうさ」

そう言って微笑むと、八雲藍は神社の方角に向かって飛び去っていった。






「まったく……」

舐められた耳には、疼きのようなものが残っている。思いきり引っ張って、その感覚を取り除いた。

「妹紅」
「ん?」

かわいらしい感じの声がした。それでそちらを妹紅が振り返ると――

「銀閣寺?」
「銀閣寺ではないな」
「ああ、なんだ。慧音か」

上白沢慧音が立っていた。妹紅に比べて姿勢が良く、背筋もしっかりと伸びている。
しかし――帽子のせいで分かりにくいが――背は妹紅に比べて頭一つ半ほど低く、声も割に子どもっぽくかわいい感じだ。妹紅は結構彼女のことは気に入っている。

「水汲みかしら?」
「まあ、そうですが……妹紅」
「ん? なにさ?」

慧音は人差し指を立てて話し出した。彼女が何かを教えたり説教したりするときは、大体このポーズである。
彼女は世話焼きというかお節介というか、そういう部分がある。妹紅も知り合ってからは何かと説教を食らうことが多々あった。

「えっと……『ああいうこと』は外でやってはいけません」
「へ?」

――見られた?

妹紅に動揺が走る。

「ひょっとしてさっきの?」
「まあ、水汲みに来たら、その、たまたま――」

慧音は少し顔を赤らめて言った。背丈が低いから、自然と上目遣いになる。なんだかいじらしい。
彼女は幻想郷においても、結構古いタイプの感性の持ち主である。貞操だなんだということには取り分けうるさい。
それに他の連中ならともかく慧音にだけは見られたくないと、そう感じてもいた。

「あれは向こうが一方的に迫ってきたんだ。私の意思じゃあない」
「綺麗な方でしたね」
「……ちょっと、何でそんな疑うような目で見るかな」
「日頃の行い何とやら、というものです」
「うぐ……」

たしかに、妹紅はろくにご飯を食べずにうっかり餓死したり、睡眠を全く取らずに疲労困憊して知らぬ間に野垂れ死んだりと、不摂生の極みともいうべきことをしばしばやらかす。何しろ蓬莱人の身体は不摂生し放題なのである。

「だ、だからって屋外でことに及んだりはしない!」
「屋外で殺し合う人なら何をやらかしても不思議ではないなあ」
「……あのさ、慧音。つかぬ事を伺うがね」
「何です?」
「なんか怒ってない?」
「いいえ」
「ほんと?」
「怒ってません」

にっこり笑う慧音。
しかし表情とは裏腹に、妙な凄みが伝わってくる。

――めちゃくちゃ怒っているじゃないか……

「えっと……ごめんなさい」

藤原妹紅は青空の下でとりあえず頭を下げるのだった。






◇◆◇






早苗の目の前で、戦闘機が一機墜落した。

「やられたー。実際に弾を撃つのは得意なのに~……ねえ、早苗。このコイン一個入れるってのは何なのかしら?」
「コンティニューするかどうかってことです」
「お遊戯ならコイン一個で命も買えるってことか。ていうか早苗」
「なんです?」
「『です』、とか要らない」
「ですが」
「また言った。もー」

フランがむくれる。

「早苗、吸血鬼だからって構える必要はないよ」

少し苦笑いを浮かべつつ、諏訪子が言った。
食事ができるまで退屈だということで、諏訪子とフランはテレビゲーム機を引っ張り出してきて遊んでいるのだった。

「お、おおっ!? えいっ!」

フランはそうしたものに触れるのは初めてだったようである。

――それにしても

あっという間に馴染んだ――感心半分、呆れ半分で早苗は二人のプレイを見ている。
卓袱台の上にゲーム機。遊んでいるのは西洋の吸血鬼と日本の土着神。
神奈子はといえば、台所でおさんどんである。早苗も手伝おうとしたのだが、疲れただろうから休んでいるようにと言われたので、好意に甘えることにしたのだった。

「諏訪子~、説明書によるとこの機体は核融合で動いているとあるけど……核融合って核分裂とは違うの?」
「全然違うわよ。今の科学技術じゃあまだ到底実現は無理だろうけど、完成された核融合っていうのはそれはそれは素晴らしく――」

延々と核融合の話をする諏訪子、それをふんふんと聞くフラン。
神と吸血鬼が未来の科学技術についてテレビゲームを通じて語り合うという珍妙な状況である。

「そういえば、諏訪子はどうして私のこと知ってたの?」
「日本は良い意味で宗教的にいい加減なのよ。神道の関係者でも教会の資料を閲覧するのは――」
「そうじゃなくて、早苗の手紙の相手が吸血鬼だってどうして分かったの?」
「魔力の残滓でよ。貴女の本体は相当強力でしょう? その魔力が手紙にこびりついているのよ」
「危険だとは――」
「早苗にとってはプラスになってたみたいだし、別に拒む理由はなかったわね。それより、諏訪子。早くゲーム片付けなさいな」

神奈子が夕飯の鍋を運んでくる。
濃い青紫色の豊かな髪。赤い服。胸元には神具の鏡を身に着けている。夜なのでいつもの注連縄は装着していない。

「出しっ放しでいいじゃないさ」
「私は食卓にやたら物が乗っているのは好きではないの」

煮え立った鍋が食卓にセットされる。諏訪子はそそくさとゲームを片付けている。

「事前に連絡をくれればもっとマシなものを作ったんだけどねえ」

鍋の中身を取り分けつつ、神奈子が言う。

「ごめんなさい、結構急を要することだったから」
「ま、とりあえずは食べようかしらね。お箸は使えるかな?」
「……無理だと思う」
「じゃあフォークだね。早苗、ちょっと取ってきてあげて」

そして早苗がフォークを持って戻ってきたところで食事が始まるのだった。
フランは猫舌なのか、食べるペースが遅い。そして二柱はと言えば、別に食べなくても平気なはずなのにやたらとハイペースで食材を消費するため、結局早苗が鍋奉行状態になるのだった。

「早苗~、豆腐を――」
「神奈子様、少しペースを抑えてください。フランの分がなくなります」
「そうよ、神奈子。これだから大飯ぐらいは」
「諏訪子様はお肉ばっかりじゃなくて、野菜も食べて下さい」

ありったけの野菜が諏訪子の取り皿に投入される。

「あーうー」
「早苗、おかわり」
「はいはい――そうぞ、フラン」
「ありがとー」

いつの間にかフランとは普通に話せていた。
語り口や言い回しは文通のときと変わらないし、加えてわりと天真爛漫といったふうでもあるからだ。もちろん、独特のいじのわるさも健在だったが。

「早苗、この赤いのはなーに?」
「磯五郎の七味よ。辛い」
「ちなみにこっちは大辛。ところでさ、フランは直接飛んできたんだろ?」

野菜と格闘しながら諏訪子がたずねる。

「そうだよ。疲れたの何のって、もうねえ。中東はさすがにきついからロシア寄りにぴゅーっと――」
「飛行機とかは?」
「いや、パスポートの偽造が間に合わなくて――」
「ぎ、偽造?」

何やら不穏当な言葉が飛び出て、思わず早苗は妙な声をあげてしまう。

「それに記録が残る乗り物に乗れば連中に感付かれる可能性が高い」
「連中?」
「ま、その話は追々ね」






そうしてしばらくは神と人と吸血鬼の団らんが続いた。
鍋の材料もあらかたなくなってきたところで、早苗は気になっていたことをフランにたずねてみた。

「ねえ、フラン。その――血とかは要らないの?」
「え、なになに? 早苗吸わせてくれるの?」

期待を帯びた瞳。吸血鬼とは思えないくらい無邪気だ。

「いや、そうじゃないけど……」
「まあ私は人間の襲い方とか知らないから遠慮するけど……実を言うと私ね、つい最近まで人間は飲み物の形でしか見たことがなかったのよ。本体は家から一歩も出たことがないし、それにこうやって分身を出せるようになったのもつい最近だしね」
「飲み物って……それ本当?」

本来ここは家から一歩も出たことがないという点に気を払うべきだったのだろうが、それにも増して飲み物という表現が何だか生々しかったから、早苗は少し引きつった表情をしてしまった。
フランはじとっとした意地のわるそうな目つきになる。

「ふふふ、どうだろうねえ……怖くなった?」
「……本音を言うならちょっと」
「それでいいと思うわ。でもとりあえず今の私はほぼ人畜無害。これは本当よ? 早苗だってそこそこ出来るみたいだから、仮に私がここで暴れても撃退は容易い。もちろんそんな益にもならないことはしないけどね……さて」

フランドールが姿勢を正す。

「正直もっとのんびりしていたいところなんだけどね、本題に移るわ」

少し声のトーンが下がり、瞳が鋭さを帯びる。

「幻想郷という場所、知ってる?」
「名前だけね。早苗は知らないだろうから、後で説明してあげるわ」

煮詰まった具材をそれとなく片付けつつ神奈子が言う。

「うちの一家はね、今度そこに引っ越すことにしたの」
「ん? 吸血鬼は別にこっちでも十分やっていけるんじゃないのかい?」
「そうでもないわよ。それにうちの家族には魔女もいてね、そいつがかなり弱っている。早苗には話したよね? パチェっていう、うちの蔵書の持ち主だよ」

知識は豊富だがロケットを知らないという彼女のことだろう。
ちなみに諏訪子はまだ野菜と格闘している。

「幻想郷は結界で覆われている。そして私たちはその結界を通過できない。だからこじ開けるというか――この辺は私もよく分からないんだけど、私たち一人一人を強制的にキャプチャリングさせるとかなんとか――」
「あそこの結界は外の世界で幻想になったものを自動的に引き寄せるんだったはず。あんたたちは敵が多いから結界から認識されないんだろうね」
「そうなのかな? ……でもそんな複雑な技術を持っているのはその魔女の子だけでね、私もお姉さまも細かい作業はからきしだから」
「まって、フラン」

早苗はほとんど話に付いていけてないのだが、気がかりな点があった。

「魔法の力は――どんどん衰えているって聞いたわ」
「そうね。で、うちの魔女は生粋の魔法使いなのよね、これが」

そう言ってフランはため息をついた。
生まれながらの魔法使いは、その存在の多くを魔法の力により占められているのだという。
つまり、魔法の力が衰えているということは――

「近い将来、彼女は一切の魔法が使えなくなるわ。そしてね、それは本来もっと先のことのはずだったんだけど……」
「何かアクシデントかしら?」

野菜との格闘を終えた諏訪子がたずねる。

「ええ。私は、もしも何か不測の事態が起こったときに備えて貴女たちに助力を求めに来たんだけど……その不測の事態がこっちに来る最中に、実際に起こってしまった。『本体』からそういう連絡が入ったの」
「誰に、何をされた?」
「教会からスティグマをね……もらってしまった」

フランはかなり悔しそうにしている。早苗にはよく分からなったが、そのスティグマとやらを刻まれるというのは何か屈辱的なことなのかもしれない。
諏訪子の表情も幾分か曇っている。

「聖痕……まだ魔女狩りなんてやってるのかい。効果は?」
「魔力の逓減。それでだいぶ削られて、転送に用いるための魔力が足りなくなってしまったの。あっちに行けばそんなの無尽蔵らしいけど、こっちの世界じゃ枯渇寸前。ソロモン神殿はメイソンの連中に押さえられているし……で、このままでは私の家族のうち何人かは幻想郷には行くことができない。置き去り――」
「だから、私たちで送り届けろ――と」
「ご名答、ですわ」

やはり話に付いていけていない早苗としては、確認しておきたいことがあった。

「ねえ、フラン。そのメイソンっていうのが、さっき言ってた人たちのこと?」
「そうよ。教会にギルドにメイソン――敵が多くてやんなっちゃうわ。スティグマをやってくれたのが、教会。でも本当に厄介なのはたぶんメイソンの方だろうね。組織力が伊達じゃあない。月にも行っちゃうような奴等だし」

――月?

「その魔女さんとやらはどうやってここまで来る?」

食後のお茶を淹れようとした早苗の隣で諏訪子がたずねる。
早苗もそれが気になっていた。
あまり話を理解できてはいなかったが、要するにフランの家族はその一部は幻想郷とやらに先に渡り、そして残された何人かはこの諏訪の地を訪れ、二柱の力を借りてその後を追う――そういう算段なのだろう。

「うちの一家の中に中国系の黒社会――三合会だったかな? ――それに顔の利く奴がいる。ていうか天地会系の秘密結社は大体は元をたどればあいつのとこに行き着くんだけど……ま、それはどうでもいいや。有り体にいえば密入国だね」

そしてフランドールは二人の到着日時を告げる。
対して神奈子はしばらく考え込む仕草をしていたが、やがて諏訪子に向かって言った。

「ねえ、諏訪子。七石七木は――」
「21日に気脈の流れが最大になる。そこを狙って繋げれば――うん、タイミング的には問題ないわね。フラン、足自体はもう確保できてるのよね?」
「え? ええ」
「ならいけるか……よし、分かった」

神奈子は両の膝をぽんと叩いて言った。

「フランドール・スカーレット。貴女の望み、聞き入れましょう」
「ほんと!?」

フランが目を輝かせる。

「ええ、昔のこともあるからね。ただしあくまで私たちは、だけど」

そう言うと神奈子は早苗の方へと向き直った。諏訪子も同じようにする。

「早苗はどうしたい? 私と諏訪子はあんたの意思に従うよ」
「私は……私もフランに協力します」

ほんの少し逡巡はあったが、早苗はそう答えた。

「良いの、早苗? 頼み込んでおいてなんだけどさ、連中は相当やばい組織だよ?」
「それは――」

不安がないのかといえば、それはもちろんある。
吸血鬼というのは相当に強力な種なのだと聞く。
その吸血鬼をして厄介と言わしめる組織――フランに協力するということは、その連中を敵に回すということでもある。

――でも

小学生の頃の、あの塞ぎ込んで何かに脅えていた日々――あの時、壊れた早苗に帰るべき場所を与えてくれたのは二柱だった。
そしてその早苗に外へと出るための勇気を与えてくれたのは、フランだった。
フランの手紙が、言葉が、破綻しかけていた早苗の精神を癒した。日常という名の時間の連続から零れ落ち、惑いの内にたゆたっていた早苗の心を繋ぎとめてくれたのだ。

――いや……違う。そうじゃない

恩義であるとか感謝であるとか、そういう回りくどいことはどうでもいいのだ。
理屈は関係ない。
早苗が彼女の力になりたいと思っている理由はもっと単純なもので――

「友達だもん。こまっているなら力になるよ」






食事の後フランはしばらく早苗と遊んでいたが、あまり時間がないのだそうで、早々に帰らなければならないらしかった。

「ちょっと見送りに行ってきます」
「お力添え、感謝しますわ」

そう言ってフランは神奈子と諏訪子に向って拍手を打った。

「あいよ、達者でね」
「ま、大船に乗った気持ちでいると良い。諏訪子はともかく私の神徳は半端じゃないからね」
「ああん? 何か言ったかしら?」
「ケロ神さまは頼りなし」
「変な名前付けんな! 大戦すんぞ!」
「頼りないという部分は否定しないのね」
「きーっ!」
「ぷっ、あはは――日本の神様って面白いのね」

楽しそうに笑うフラン。
表情が少し軽くなっている。当面の問題に目途が付いて安心したのかもしれない。

「じゃあ、ご家族によろしく」
「わたしは頼りなくないわよ」
「ええ、分かってるわ。じゃあね、ばいばい。神様たち」

行儀良くお辞儀をするフラン。
そして早苗とフランは外へと出て行った。






「さて、と……はあ」

二人が出て行ったあとの室内――そこで神奈子は大儀そうにため息をついた。

「諏訪子」
「どうしたもんかねえ……」

早苗が怖れることなくフランの頼みを引き受けたのは、自分たちへの信心、つまり信頼があったからということなのだろう。それについては二柱も重々承知している。そしてその信頼こそが神たるものの力の源でもある。
だからそうした手前引き受けてはみたものの――メイソンという組織は相当に厄介な組織である。そのこともまた二柱は知っているため、今後の展開を思うとたいそう億劫になるのだった。
帽子をいじりながら諏訪子は険しい顔をする。

「結局その魔女さんらがどこまで連中の追尾を免れるか次第だよ……上手くやれば連中がこの場所を察知する前に逃がしてあげられるだろうけど」
「あいつらのロッジはほとんどが空軍基地がらみだったわね……諏訪子、あんた『鷲』や『蜂』に勝てる?」
「単に戦えってだけならどうとでもなるけど、問題は『パス』の守護をどうするかよ。爆撃でも食らったらおじゃんだわ」
「そこまでやるかしら?」
「やりかねないわよ。月にだって喧嘩を吹っ掛けたんだから、地上でもやるでしょ」
「それにつきましては、こちら側から然るべき人員を送り込みますわ」

突然と場に混じる第三の声。二柱の背後の空間がひずみ、割れる。
その中から現れたのは、紫色のドレスの少女――例によって例のごとく、八雲紫である。相変わらず扇子に日傘という胡散臭い取り合わせをしている。

「解せないわ。そっちは平和なんでしょう? なぜそのことをフランに伝えない?」

神奈子が紫に問う。
あの二人の手前幻想郷の実態については知らないと二柱は答えていたが、実際のところは相応の知識は有しているのだった。そこが平和な場所であるということも、そしてそこに施された結界は、二柱の力をもってしてもそう容易には突破できない代物であるということも知っていた。
それらの事柄をフランドールに伝えるな――それが早苗が東京から帰ってくる少し前に、二柱が式の狐から頼まれたことだった。

「争いが必要だった。あまりにも平和が――行き過ぎました。いまの幻想郷は、頽落的な日常の内に埋もれつつある」

紫の表情には憂いが見て取れる。
諏訪子が険しい顔をして問う。

「それでわざわざ結界を緩めて、ご丁寧に外観を偽装してまで連中を誘い込んだのかい? 言ってることは分からなくもないけど、はっきり言って分の悪い賭けよ、それ。フランは馬鹿みたいに強力、そのお姉さんだって負けず劣らずでしょ? 未来事象の否定権限に因果律干渉、下手すりゃ貴女の能力だって……」

そこまで言った諏訪子はふいに納得の表情を見せる。

「ああ、そうか。手に負えなくなる前にオルグしようって魂胆か」
「まあそれもありますけどね。うっかり結界でも壊されてしまったらことですし……でも敵として十分な資質を有しているというのもまた事実――それより、魔女さんらの転送はいつのことになるかしら?」
「21日早朝、諏訪一帯の気脈の流れが最大になる。その時になるわね。早苗に各所の『パス』を開いてもらって、送り届けるよ。無駄に強い結界で辟易している」
「あらあら、ごめんあそばせ。『パス』はどちらに?」
「御射山、小袋石、峯湛木……そんなとこかな。状況にもよるけれど」

小袋石は諏訪七石のうち最大の大きさを誇る石であり、そして峯湛木は諏訪七木中現存する最後の一本である。

「了解しましたわ。心配しなくても、この地の住人の安全は確保する。泥舟気分でどうぞ~」

紫が胡散臭い笑みを浮かべる。
ただこの笑みにもどうやら色々パターンがあるようで――今のは信用してよい類の胡散臭さであると二柱は判じた。

「一つ聞かせなさいな、八雲の」
「なあに?」

扇子を開きながら紫は諏訪子の方を見る。

「あんたの力をもってすれば、全ての争いを回避可能なはずよ。なのにそれをしないのは――通過儀礼かい?」
「ええ。本当であれば、幻想郷の内にて全てを済ますつもりだったんだけど――結果として貴女方を巻き込む形になってしまったわ」
「それは気にしなくてもいい」
「別に気にしていませんわ」
「ちっとは気にしろ」
「たいへん気に病んでおります」

とぼけた口調と真剣な口調が脈絡なく立ち現れるのが八雲紫という少女である。

「でもねえ……そこまで頑なに守らなきゃいけないものなの?」
「それを頑なに守ろうとしなかったこちらの世界が、今どういう有様なのか――そういうことですわ」
「巻き込まれるこっちの身にもなってほしいんだけど」
「たいへん気に病んでおります」
「それはもういい」

そこで紫は少し間を置いた。
実のところ、フランドールが接触を図ったのがこの二柱でなかったなら、儀礼も形式も関係なく紫は即座に自身の能力を用いてあの館の面々全員を幻想郷に取り込むつもりでいた。
とりわけ強い力を持った二柱であったからこそ、今後この地で起こりうる戦いをも切り抜けられると踏んだのである。無論それは口にしない。

「人間とかは平気で神隠しするくせにさあ……」

諏訪子の不満ももっともであると紫は思う。
紫が神隠しによりパチュリー・ノーレッジを取り込んだ場合、諏訪にて想定される争い事の全ては回避できる。逆にそれをしない場合――諏訪の地は戦場となる可能性がある。

「然るべき力を持つ者を取り込むのならば、然るべきプロセスを――京都から東京まで53分で着いてもつまんないもん」

独り言のように紫はそう言った。

「は? 繋都新幹線のことかい?」
「そんな暖かそうな名前に心当たりはありません。では……」

わざとらしいくらいに恭しく、しかし本心から紫は礼をした。

「幻想現世東方西方、それらが交わりし戦い……楽しみにしておりますわ」

そう言い残すと八雲紫はスキマの向こうへと入ろうとした。
しかし何を思ったかその途中で足を止め、そして振り向きざまに呟く。

「あの早苗という子、随分と曖昧になっているわねえ」






◇◆◇






妖怪の山――幾多の神々が住まい、数多の妖怪の跋扈する幻想郷の最高峰である。
様相は天険にして峻険。あまりに高いため、山は五合目を迎えた辺りで早々に森林限界を迎えてしまう。そこより上には、まばらに高山植物が生えるばかりである。
高曇り気味な山頂付近からは一本の滝が流れ落ちている。山自体が急峻なために、ほとんど岩肌等にぶつかることもなく、その下の渓谷の起点まで一気に落下していく。
その九天の滝と呼ばれる巨大な直瀑の中ほど――滝からの飛沫の届かない位置にある岩場の上で、河城にとりはいつものように犬走椛と大将棋を打っていた。

「うむむ」

唸るにとり。
比較的使える駒である『飛牛』や『奔猪』を椛に取られてしまい、現在のにとりは長考のただ中である。
欠伸をしつつ、椛はそれを急かす。

「まだかしら? 暇つぶしで暇を持て余される身にもなってほしいね」
「急かすない……」

二人の座る岩場は結構突き出ているため、その下は断崖絶壁どころかそもそも遮るものがない。足を踏み外せば滝の水とともに下まで一直線である(空を飛べる輩の多い幻想郷では高さはそれほどの脅威にはならないのだが)。

「あーあ、ひまだよ。ひまひま。侵入者だっていないしさあ……」

椛が文句を垂れる。天狗組織の一員として協調性の高い性格をしている彼女だったが、他方で侵入者がいないときはこんなものである。そして妖怪の山に侵入しようとする輩などそうはいないから、要するにいつもこんなふうである。

「侵入者がいないのはいいことだろう?」
「そうでもない。あまり平和だと腕がなまってしまう」
「そりゃ椛たちの部隊の話よ。山全体で見るなら侵入者は少ない方がいい」
「そうだけどさ――あんまり誰も来ないと向日葵の子たちがどっか行っちゃうのよ」

椛の部隊とともにこの辺りの警備に当たっている向日葵の妖精たちは、弾幕能力はわりと優れているのだが、やはり妖精だけあって気まぐれなのである。命令も、楽しいことなら聞くが面倒なことはてんで聞こうとしない。

「それにさ、トラップの動作確認もしたいでしょ」
「トラップ? ああ、要塞渓谷の――」

九天の滝の滝つぼから先は瑕疵無き要塞と呼ばれる渓谷になっている。
この渓谷、見かけは大変に美しいのだが、そこにはかなり大掛かりな術式が施されているのだ。

それは一言でいうなら、侵入者を誘い込む仕掛けである。
今にとりや椛たちがいる北壁から侵入を試みる場合、大半の侵入者は山麓の樹海域から要塞渓谷を通って九天の滝を登るというルートを、『強制的に』取らされるのだ。知覚に作用するタイプの術式である。
空を飛ぶ者の多い幻想郷において、侵入者をすべて退けるのは極めて困難だ。だから侵入者は、わざと侵入させてから片付ける。術式により侵入ルートをあらかじめ狭めておいて、一点にて迎撃を行うことで、哨戒に必要な人員を最小限にまで減らしているのである。

この仕掛けは単純な者ほど良く嵌まる。これに引っかかるような者なら大体は渓谷から滝一帯にかけての迎撃部隊でことは足りる。逆にこれをあっさり見破り抜けてくるような相手ならば、上に報告が入り本格的な迎撃態勢が整えられるのである。
稀にいわゆる力馬鹿の類が仕掛けに引っ掛かった上で強行突破をかけてくることもあるが、大体において哨戒の任務も至って平和なのであった。

「椛、どこ見てんのかね?」

にとりがうんうんと考えているうちに、椛はいつの間にかあさっての方向を向いていた。

「遠くだよ……お、文さんを発見。あれが件の妖精か」

椛の先輩で烏天狗の射命丸文は、取材のため麓の霧の湖へと出向いていた。取材対象はなんでも、つい最近外からやって来た妖精なのだそうだ。

「どんな子?」
「んー、大人しそうな子みたい――にとりと案外ウマが合うかもね。人見知りっぽいところがさ」
「わ、私は人見知りではないよ――」

そうは言ってみたものの、その実も椛の言うとおりにとりはかなりの人見知りである。
口下手ということではないし、むしろ口は良く回るのだが、ただ相手の言ったことを踏まえて会話を膨らませる――コミュニケーションの類は大の苦手なのだ。
だから、例えば機械の話について延々と説明したりといったことは大得意だし、それならば冗談やら軽口やら交えて相手を退屈させないでおく自信もあるが、これが議論だ口論だとなると、途端に駄目になる。
会話の最中に突然口調が変わり戸惑われる、ということがにとりにはしばしばあるが、それも結局は人見知りに端を発することなのだ。相手の言い分に対し、特に気の利いたことを返せずに閉口しそうになったとき、にとりは口調を意図的に乱してごまかすのである。結果、戸惑った相手の言はそこで途切れて、余計に会話は台無しになるのだが。

「見かけによらず神経質よね」

椛に言わせるとそうらしい。
たしかに、別に四六時中ウィットに富んだ会話を交わさねばならないなどという決まり事はないのだし、そこまで気をもむ必要はないのだ。
そのことは頭ではにとりも分かっているのだが――やはり実際は上手くいかないのである。

「よし、決めた」

とりあえず今は守りを固めるのが得策と判じ、にとりは自分の陣地内に『悪狼』の駒を配する。何だか縁起が悪いような気もしたが、気にしないことにした。

「置いたよ~……椛?」

盤から顔を上げてみると、椛の表情が先ほどとは異なりどことなく強張っていた。返答はない。

「どしたの?」

考え込むかのように口元に手の平があてがわれている。ひょっとすると動揺を悟られたくなかったのかもしれない。
そしてその瞳が大きく見開かれる。

「まさか……気付いたのか? この距離で?」

驚きを浮かべ、椛が呟く。

「椛?」
「ただの妖精ではないのか?」
「椛~」
「へ? ああ、ごめん」
「どうしたのさ」
「いや、何でもない。使えそうな子だったからスカウトでもしようかなと思ってね」

そう言うと、椛は盤面とのにらめっこを始めた。

「にとりー」

と、そこで岩場の下方から呼び声が聞こえてきた。
誰だろうと思いにとりが下を見ると、二人の人影が滝を登って来るところだった。

「穣子様と静葉様だ――どうしたんだろ?」

果物の形をした飾りの付いた帽子、金髪にあしらわれた紅葉の髪飾り――秋穣子と秋静葉の姉妹神である。

「置いたよ、にとり」
「ひゅい? もう?」
「にとり、将棋の最中悪いんだけどね、修理をお願い」

上ってきた穣子が言う。

「修理?」
「雛がねえ――溜め込みすぎた」
「……場所は?」
「工房の方に移動済み」
「分かった。椛、悪いけど投了。負けました」
「はいよ。いってらっしゃい」

言うが早いか、にとりは滝つぼに向って落下していった。
三人はそれを見送る。

「……あの子、雛にご熱心よね。技術屋だからかしら」

穣子が不思議そうに言う。
一方の静葉は先ほどから何も言わないで、ただ微笑んでいる。

「それもあるんでしょうが、なんでも昔世話になったことがあるんだそうで――それより静葉様、一局いかがです?」
「へ? お姉ちゃん大将棋なんてできるの?」

驚いた声を上げる穣子。
静葉は相も変わらず微笑んだままうなずいた。そしてそのままにとりのいた場所にちょこんと正座をするのだった。






「私を取材してもあまり面白くないと思うのですが……」

おずおずと妖精の少女は言った。
片側でアップされた萌黄色の髪が特徴的な少女である。シンプルな青色の服に身を包み、背中には蜻蛉のように透き通る羽が生えている。
博麗神社から山を一つほど越えた先、霧の湖と呼ばれるその場所にて、烏天狗――射命丸文はその妖精の取材を行っていた。

「いやいや、最近まで外の世界で『現役』でいたんでしょ? ならそれだけでいいネタというものです」
「『現役』って……別に怖がられてたわけじゃないですよ? 戦うのは苦手ですし……色んなところで説明理論に組み込まれたせいで――幻と実体の境界でしたか? ――それが上手く動作しなかったっていうだけです」

苦笑いを浮かべながら彼女は答える。

「はて、こちらに来たばかりだというのにもう結界について知っている?」
「私をあちら側から解放してくださった魔女さんが教えてくれたんです。ここはそういう結界に覆われていると」
「解放、というのは?」
「名は体を表す、と言います。私の場合はその名の方がいたずらに有名になってしまって、それに束縛を受けるという形になっていました。だから――」
「名と体を切り離した、ということですかね?」
「ええ。結果、私はただの名も無い妖精になり、後はこちらの結界が自動的に私をこの地へと運んでくれた――」
「ほうほう……」

頷きながら文はメモを取る。
妖怪拡張計画の折に張られた幻と実体を分かつ結界は、その性質上外の世界で幻想になりつつあるものを、自動的に幻想郷側に引き寄せる効果を持っている。
元来、妖精の主要生息地は西方である。つまりこの結界は距離的な障害を無効化するような効果も付されているのだろう。

「魔女――について聞いても仕方がないか。外のことだし……あ、そうだ。貴女のその切り離したという名前は何ていうんです?」
「それについては――申し上げられません」

少し困った表情をして彼女は答えた。

「そう言わず」
「駄目です」
「そうですか……仕方がないですねえ」

にやりと微笑むと、文は天狗の扇を構える。つむじ風が砂塵を伴って、文の周囲で渦巻く。

「なら、腕ずくで――いっ!?」

決闘の前口上を垂れようとした文の脇腹に、刃渡り20センチばかりの短剣が添えられていた。
文の目の前にいたはずの妖精が、一瞬でその脇に回っていたのだ。その動きには一切無駄がなく、また普通の妖精に比べて段違いに反応が早い。
そこから伝わって来るのは、過剰ともいうべき警戒心である。

「あやややや、外の出っていうのは本当みたいですねえ」

天狗というのはかなり強力な種である。だから文もそうそう他者に遅れを取ったりはしないのだが、一方で幻想郷の流儀に慣れ親しんでいる身でもある。
だから今のは言ってみれば、戦場で名乗りを上げている最中に斬りかかられたようなものだった。

「でも、そういうのはこっちじゃあ流行りませんよ? もう少し遊びと余裕の心を持ちましょう」

文は両手を上げて敵意のないことを示す。その口調は少し呆れたふうである。
それで状況が把握できたのか、途端に妖精の少女は赤面した。短剣がすっと揺らいで、消える。魔力で生成したものだったのだろう。

「ご、ごめんなさい……その、こっちの人たちはどうも本気なのかそうでないのかが分からなくって」
「あー、あのね、この場所に本気の敵意なんてものはそうそうないと思っていいわよ? 本当はこういうことはあまり口に出さない方がいいんだけどね」
「……みたいですね。精進します」
「いや、だからもっと力抜きましょうよ」
「努力します」
「うーん……」

苦笑いを浮かべる文。
こういう真面目な雰囲気は、ここには少し似つかわしくないというものだろう。どうやらこの妖精の少女はまだ幻想郷の空気に慣れていないようだ。
もっともそれが彼女の良いところでもあるのだろうし、知恵もありそうだから、今後はこの一帯の妖精たちのまとめ役のような存在になっていくのかもしれない。

「文さん――でしたっけ? 貴女はあの山からおこしになったんですよね?」

周囲の風景を構築する山々の中でも、一際に高くそびえた山を見やりながら彼女はたずねる。

「ええ、そうですが。何か?」

山のそこかしこからは河童の工場からのものと思われる煙が立ち上っている。

「いえ、あちらの山から視線を感じたもので――千里眼かしら?」

文の目付きが幾分か鋭くなる。新聞記者としての目線ではなく、天狗組織の一員としてのそれである。

「……貴女本当にただの妖精? 取材とか関係なしに気になるわね」
「申し上げた通り、今は妖精です。外にいた頃は少し違うものでしたが――」
「見ていたのはたぶんうちの哨戒部隊の子だと思うけど――」

どうにも生真面目で、ややもすると説教くさく感じられる哨戒天狗の顔を文は思い浮かべる。

「この距離でなぜ分かったの?」
「風の便り、でしょうか」
「貴女も風を?」

妖精と思しき少女は慌てて手を振る。

「あ、天狗さんのように自在に操るなんてことはできませんよ? ほんのちょっとだけ力を借りたりとか、お話を聞いたりだとか、その程度です。私の管轄は飽くまでヨーロッパ圏域で――ええと、その……」

うつむき加減で言い訳をする。
先ほど彼女が見せた敏捷さや鋭敏さといったものと、このおずおずとした態度とは、一見すると相反するようにも見えるがおそらくそれらは根の部分では繋がっている。
やはり警戒心がかなり強いのだ。

「そんなに慌てないでいいですよ、もう。ところで、よーろっぱって何?」
「えっと、西洋のことです」
「ふむ……その辺をたどっていけば貴女のことも分かるのかしら? 上白沢センセのとこにでも聞きに行きましょうかね」
「あ、あんまり書き立てないで下さいね。何だかその、恥ずかしいです……」

そう言って妖精の少女は、再び赤面してうつむくのだった。






「溜め過ぎちゃった」

独特の茶目っけのある口調で鍵山雛はそう答えるのだが、にとりからしてみるとその明るい態度がかえってどことなく痛々しく感じられて、どうにも気が滅入ってしまうのだった。
渓谷にほど近い小さな洞窟の内ににとりの工房は居を構えている。
その工房の淡い光源が、傷ついた厄神の姿を照らし出していた。

「今回はキャパシティ超えないようにしようと思ったんだけど、崖から落っこちかかってる人がいて――」
「それでこれかい」

雛は左腕が取れていた。
限界を超える量の厄を背負い込んだ結果、それが雛自身の体にフィードバックしたのだ。
通常雛が厄を回収する場合、それは流し雛の人形を経由して行われる。
その限りにおいては雛の体にかかる負荷はそれほどでもないのだが、そうでない場合――緊急で厄を取り除かねばならないようなときは、一気に負担が大きくなる。今回はそれだ。

にとりはちらりと工房の机の方を見る。
そこには手首にリボンの巻かれた腕が無造作に置かれている。それがまったく無機的な、部品じみた雰囲気を醸し出していて、やはりにとりは気が滅入るのだった。
通すもののなくなったドレスの袖は所在なく弛んでしまっている。

「……雛」
「なあに?」
「もっと自分を大事にしないとだめだよ……」
「……ごめん」
「別に謝んなくてもいいけどさ……じゃあ、脱がすよ」

雛の髪は、胸元の前でフリルのあしらわれたリボンで結ばれている。

「ん、お願い」

にとりはそのリボンに手をかけ、それを解いた。柔らかなナイルブルーの髪が自由になる。
雛の肩まわりを覆う白布は赤紐によってドレスに繋げられている。それも丁寧にほどいて外した。

「袖、抜ける?」
「んー、片手じゃ無理みたい」
「わかった」

にとりは器用な手つきで、無事な方の腕を袖から引き抜いた。
そして雛の背後に回るとドレスの背中のチャックを下ろし、上半身をはだけさせる。
露になるのは、少し危うい感じのする白い素肌と――

「……派手にやったね」

無残に砕け、断裂した上腕。
断面からは様々な色、様々な太さの繊維がほつれ出ていて、その周囲は焦げ上がったようになっている。

「ごめん……でもまだ痛くないから」
「そういう問題じゃないよ」

体の特性上、出血等はない。よほどのダメージがなければ雛の体は出血というものからは無縁である。それが幸いだった。
これで血でも出ていようものなら、にとりはかなり暗澹とした心持ちになっていただろう。
腕ばかりが損傷個所とは限らないから、にとりは雛の体に触れて各部位に異常がないかを確認していく。
流し雛の長である雛の体は、当然に人形である。それはそうなのだが、他方で彼女は厄神という神性が形を成した存在でもあるから、普通の人形と全く一緒なのかといえばやはり違っている。
現ににとりの手には普通の少女のそれと変わらない、暖かく柔らかな感触が残っている。
しかし断たれた腕の方に触れてみると、こちらはまるっきり人形のそれと変わりなく、硬質で冷たい。また腕の断面付近の肩の辺りも、少し強張っている。なぜそういう違いが生じるのかは、にとりには分からないのだが。

「始めるよ」

儀式加工を施した工具を持ちだし、損傷部位の修復を始める。取れた左腕は作業しやすいように適当な高さの工具台の上に移して、雛の隣に置いておく。
まずは両の切断面周囲の体表素材を修復していく。
本音を言うなら、にとりは雛に厄を集めるのを止めてほしかった。こうして痛々しい姿を見せられるのははっきり言ってかなり辛い。

――雛、ちっとも分かってない

自分なら大丈夫だから――そう言って雛はいつも無理をするのだ。それで引き千切られた腕やら、幾多の創をこさえた体やらを見せられる方はどうなるというのか。雛は平気でも、にとりはちっとも平気ではないのだ。
けれどそれは言わない。言ってはいけない。
厄を集めることが雛の役目だ。神である以上、その役目をこなさねば雛は信仰を失う。
信仰を失い零落した神は、もはや妖怪と大差がない。そうして身をやつしたとして、幻想郷にはそのことを捕まえて嘲るような輩などはいないだろうが――それでもにとりは雛には神でいてほしかった。理由などはにとり自身もよく分からない。

「ふう……」

工程の第一段階が終わり、にとりは一息ついた。
水を飲む。冷え冷えした九天の滝の水である。

「疲れた?」

雛がたずねる。

「へっちゃらさね」
「静葉さんにも怒られちゃった。無理をするな、って」
「静葉様が?」

意外だった。
秋静葉といえば割と大人しいというか、むしろか弱いようなイメージすらにとりは抱いていたのだが――

「あんまり喋らないからそう思われるのよねえ。でも結構快活よ、彼女。か弱くもないし、付き合いのある連中は曲者ぞろいだし」
「曲者?」
「花の妖怪に、冬の妖怪に――」
「うわあ……」

敵に回したくない連中ばかりである。

「まあ、弾幕勝負はあんまり得意じゃないみたいだけど……」

そこで何となく会話が途切れたので、次の工程へと進む。次は断裂した各繊維間の接続の回復である。
ほつれ出た無数の繊維、それら一本一本を確認し、同じものどうしを繋ぎ合わせていく。
接続を誤ると腕が上手く動作しなくなるから、これは先ほどの作業に比べてより慎重に行わなければならない。
幾筋かの汗がにとりの額を伝う。かなりの集中力と、時間が必要になる作業だ。
この作業そのものを面倒だとは思わないが、雛が傷つくのは嫌だったので、これまでにとりは雛のキャパシティを引き上げられはしないかと色々試みていた。
しかし、そのどれもがまるで効果がなかった。
しょせん技術では神性に変動を与えることなどはできないということなのだろう。

――だったら全力でサポートするのみ

にとりはそう己に誓っている。
最後に繊維の繋がった両断面を接合して完了となる。
ここでなおざりな接合をすると、どこかの繊維に過負荷がかかり腕の動作に支障をきたしたりするから、やはり慎重に行わなければならない。
絡まったりしないように気をつけながら、両の面を近付けていく。
二つの面が接触した瞬間、その部位が少しだけ輝いた。
そして一瞬の後には、左腕は何事もなかったかのようにくっついていた。すっかり傷もなく元に戻っている。
触って確認してみると、きちんと柔らかい。しこり等もない。上手く接合されている証だ。

「よし、完了っと。雛、今日はもう休め」
「うん、そうする」

にとりはドレスを着せていく。

「ありがとう」
「お安い御用ということ。河童の技術力をもってすればお茶の子さいさい」

そう言ってにとりは雛に笑いかける。雛もその白歯を見せて明るい顔で笑った。






取材を終えて山へと帰っていく烏天狗を、名も無き大妖精は見送った。
取材結果が思わしくなかったのか、文は少し浮かない顔をしていたようだったが仕方がない。外にいた頃に人間たちにより勝手に付けられた名前に対し、彼女はあまり良い思い出を持ってはいないのだ。
名は体を表す。
付された名前が、自身の属性までをも左右する――かつて彼女に与えられたその名前は、自身を縛る鎖となってその自由を奪っていた。

人曰く、其は高き処にあり。
人曰く、其は尖塔の天辺に立つ者なり。
人曰く、其は峻厳なる頂にて魔導の輩を待つ者なり。

――私は……

人曰く、其は風を司りし、四大の――

――私はそんなものじゃない

名に縛られ、高き地に縫い付けられ、存在に楔を打たれ、そして仲間の妖精たちとの距離はどんどん離れていった。
当然だ。妖精は暖かきを好み、寒きを厭う。
一体どこの妖精が好き好んで厳寒の高山などへと赴くというのか。アイガー、グランドジョラス、マッターホルン――そんな地に来る妖精など、ありはしない。

――たった一人だけいたけれど……

霧の湖畔を大妖精は一人歩く。
こんなことですら、あちらでは満足にできはしなかった。それほどまでに名前という名の鎖は強固だったのだ。名を知られたことで人間たちに良い様に利用された妖魅の類など、伝承を紐解けば枚挙に暇がない。

1885年だったろうか、極東の地にて狭間の国が完成したとのことを風の便りで知った。
最後まで会いに来てくれていたその子も、その国へと引き寄せられ、彼女は一人になった。
それから百十余年ばかり、山の頂と教会の尖塔とを、己の意思とは半ば無関係にただだらだらと行き来し、信仰を失い零落していく神々を忸怩たる思いで見送り、吹雪荒ぶ高嶺からただ為すこともなく漫然と下界を見下ろし――そして一人だけの時間を重ねた。

万年雪の溶けることのない山上の空間は、ただ孤独だった。
いちど女性が一人――フォーチュンといっただろうか? ――自分と接触するべく訪れたこともあったが、それ以降は口を開くこともほとんどなくなっていたように思う。
雪と霧で色彩の全てが失われた白の世界。そこに響くのは虚無的な風の音ばかりである。
とても寒かった。
思い出したくはない。
その百十年の間に、世界は二度の大戦と幾多の紛争を経――時代の風は暗く、重く、淀んでいた。
そうしていよいよ世界から魔法や信仰といった諸々の幻想の力が失われ、もはや名のある神ですら存在を維持することが困難になり、また彼女自身も消えかかっていたその時、彼女は二人の人物の手により解放されこちら側へと引き込まれたのだった。極々、最近のことである。

パチュリー・ノーレッジ、レミリア・スカーレット。
二人はそう名乗っていた。
彼女たちには本当に感謝している。彼女たちの手によってこちらに送り届けられたおかげで――

「大ちゃーん!」

元気の良い声で大妖精のことを呼ぶ少女がいる。
さらさらとしたフロスティブルーの髪が湖畔の風を受けてふわついている。背かっこうは大妖精と同じくらいである(だから大妖精本人はなぜ自分に大などという接頭辞が付されるのか、よく分からないでいるのだが)。背中には水晶のような氷の羽根――見かけだけならば神秘的な雰囲気のする少女である。
しかし一たび口を開くとこれがものすごくおてんばだから、色々と台無しになるのだった。
名をチルノという。高き山々の虜囚と化した大妖精に、最後まで会いに来てくれた大切な仲間だ。
つまり大妖精と彼女は実に百十年ぶりの再会を果たしたことになるのだが、いかんせんチルノは昔から記憶力に難があったので、まるでほんの数日会わなかっただけであるかのように、実に自然に大妖精のことを迎え入れたのだった。
そして大妖精からしてみれば、変に構えられたりするよりもそちらの方がありがたかった。

「ん……」

走りよってきたチルノは、そのまま軽く大妖精の唇に自分の唇を重ねた。
やわらかな感触――あいさつ代わりの軽いキス。しかし一人でいる時間の長かった大妖精にとっては、その当たり前のような行為が何にも代えがたい大切なものなのだった。
だから慣れない。そういうことをされるたびに、いちいち泣きそうになってしまう。安心や安堵、そうしたものでも涙は流れるものなのだと初めて知った。
二人の唇が離れる。

「タコの奴が魚くれるって」
「た、たこ? 何それ?」
「こっちこっち」

どうやらそのタコのもとまで案内してくれるらしい。
大妖精は素直にそれに従ってついて歩いて行く。
それにしてもタコが魚をくれるというのは一体どういう状況なのだろうか? ひょっとすると何かタコを使った漁がこちらでは行われているのだろうか? それともタコの妖怪だろうか?

「お、いたいた。おーい、たこー」

チルノがさけぶ。
その先にいたのは、一人の釣り人だった。
四十ばかりの年ほどだろうか。春だというのに厚手の服を着こんで、湖畔に釣り糸を垂らしている。脇には何かの詰まった袋が置いてある。

「その子がお友達さんとやらかい?」

年の割に枯れた感じのする口調で釣り人はたずねた。

「大ちゃんよ。大妖精で、大ちゃん」
「えらい妖精さんですか。自分は人里に住んどる――」
「たこ! タイコーボーでたこ!」

遮ってチルノが言う。その略し方はないだろうと大妖精は内心で思う。
釣り人はチルノとは顔なじみらしいから、厚着はおそらくは冷気対策なのだろう。時と場合にもよるが、大体においてチルノの冷気は周囲に駄々漏れなのである。

「うん。まあ、たこでいいか。たこです、良しなに」
「あ、えっと――よろしくお願いします」

大妖精ですと名乗るのは妙だし、大ちゃんですと名乗るのも何か違う気がするので、結局名乗らなかった。

「魚まだ? はやく釣りなさい」
「ちょいと待ちんさい。チルノちゃんがあっち行っとる間に宵闇の嬢ちゃんが来てね、その分も釣らんといかんの」
「さかな~」
「待ちぼうけも釣りの醍醐味……と、まずは一匹」

たこと呼ばれた男は、慣れた手つきでひょいと魚を釣り上げた。
霧の湖は時おり河童が流れつくことがあるらしく、それだけに水質は極めて良好である。
ただ頻繁にたちこめる霧と同様に、水自体は薄紫色に濁っていて、底は見えない。深さがどの程度なのかも見当が付かない。

「そういや、知っとりますか? ここは新月の晩には、それはそれは大けな怪物魚が現れるんだそうで――」

呑気な口調で釣り人が大妖精に言う。
里の言い伝えとやらによると、過去には十尋(およそ18メートル)ばかりの巨大な魚の姿が確認されているのだそうだ。そんなものが仮に泳いでいるのだとするなら、水深も相当なものなのだろう。

「ほい、もう一匹。大ちゃんさんとやらも食べていくかね?」
「え? はあ、ありがとうございます」

妖精は特にものを食べなくとも生きていける。しかし、人間が栄養の摂取だけを目的にして食事をとるわけではないのと同様、やはり妖精も食事はするのだ。
大妖精が外にいた頃の食事といえば、冷たい雪か氷くらいのものだった。
と、そのとき――

「霧中の人間は食べてもいいという言い伝えが~」

良い具合に力の抜けた感じの声がした。
その声のした方からは、得体の知れない黒い球体が飛んでくる。声はその中から聞こえているようだ。

「あ、ルーミア」

球体はそのまま不安定な軌道でふよふよと飛んで、近間の木にぶつかって止まった。
そうしてその黒色が徐々に薄まっていって、その中からは金髪の少女が現れる。

「ここは霧があるから、闇を出す必要がないわね。肌も潤う。で、釣れた? 釣らないと食べちゃうよ~」

冗談なのかそうでないのか、今一つ分からない口調で少女は言う。
チルノと似たような背格好に、控えめな色彩の白黒の服。それが髪にあしらわれた赤のリボンと相まって、楚々とした雰囲気を醸し出している。

「とりあえず三匹釣れたから、じゃあ焼こうかね」

そう言って太公望は焚き火の準備を始めた。

「大ちゃん、これはルーミア。私の家来」
「誰が家来よ……大ちゃん、ね。よろしく~」
「あ、よろしくお願いします」

そんなやり取りを交わす。

「ふんふん、ふむふむ」

くりくりとしたルーミアの、赤い瞳。腰をちょっと下げたり、背伸びしたりと色々な角度から大妖精を見ている。観察しているのだろうか。
その横では太公望が鼻歌を歌いながら火を起こしている。

「ほうほう、へえ……」
「あの?」
「ようこそ~」

スカートをつまんで行儀良く会釈をするルーミア。
いまいち何を考えているのか分からない――彼女に対して、大妖精はそんな印象を抱く。
太公望は一つ合掌した後、串に刺した魚をたき火にセットし、自身はまた釣り糸を垂らし始めた。
魚の焼ける匂いが辺りを覆う。

「ああ、そうだ。宵闇の嬢ちゃんに彦左衛門の旦那から言伝を頼まれてね」
「んー?」
「警告感謝する、とのことで」
「彦左衛門てあの猟師? 私はあれ、食べようと思っただけ。でも美味しくなさそうだからやめたの」
「はっはっは、そりゃそうさね」

愉快そうに笑うと太公望はもう一匹魚を釣り上げた。
そして釣り竿を置くと、焚き火のもとへと歩み寄り、魚に適当に塩をまぶした。

「どうぞ。熱いから気を付けないね」

訛りのある口調でそう言うと、串を三人に手渡す。
文も言っていたが、ここは本当に平和なところのようである。
こうして妖精と妖怪(たぶんそうなのだろう)と人間とが共生しているなど、外ではありえないことだ。故に貴重な場所、なのだろう。

「いただきま~す」

そう言うと、ルーミアが真っ先に食べ出す。チルノは猫舌なのでふうふうしている。
大妖精もいただきますと言って食べ始める。

「おいしい――です」
「そうかいそうかい。今もう一匹さばくから、ちょいと待っとってね」

太公望は置いてあった袋から小さなまな板を、上着のポケットからは革カバーのかぶせられた包丁を取り出した。
そしてまた魚に合掌すると、それを使って器用に魚をさばき始めた。
まな板の上に四角く切られた魚の身が並んでいく。

「皿が一枚しかないから、まあ適当に」

袋から取り出しら木製の皿の上に、切り分けた身を適当に並べ、それを三人の前に差し出した。そこに何か茶色い液体を垂らしていく。

「チルノちゃん、あの茶色いのは?」
「ん? 醤油だよ」
「たまり~」

ルーミアの補足(らしきもの)が入る。

「春の人つう知り合いの歌詠みがね、趣味で醸造したもんなんだけども、これが中々どうして良い味でね。どうぞ」

箸が手渡される。

「そういえば、大ちゃんお箸使える?」
「そこそこ……というか、これひょっとして生で食べるの?」
「そうだよ? お刺身だもん。当たり前じゃない」
「う……生かあ」
「ああ、あんた最近こっちに来たクチかね。こりゃしまった」

頭をかく太公望。
そして早速お刺身とやらを摘み始めたルーミアが言う。

「美味しいから慣れるといいよ~? ローマじゃローマ人」

チルノも続く。冷たいから先ほどの焼き魚よりはチルノに向いているのかもしれない。

「おなか壊さないかなあ……」
「新鮮だから大丈夫だよー」
「大ちゃんも食べなって。おいしいからさ」
「……じゃあ一口だけ」

意を決して食べる。

――あれ?

正直どれだけ生臭いものかと大妖精は覚悟していたが、予想に反して不快な感じは一切なかった。醤油とやらも、少し塩分がきつい感じはするものの、量が抑えられているから特に問題はない。

「おいしい……」
「でしょう? えっへん」

なぜかチルノが威張る。

「お口にあいましたか。よかったよかった」

安心した声を出す太公望。そのまままた釣り竿を構えて湖に向きなおった。今度は自分用の魚を釣るのだろう。
人外三人は魚を食み、釣り人は呑気に釣りをする――そういう時間がしばし続いた。

「ところで、宵闇のお嬢さんや」

自分の分の魚を釣り終えた太公望は、湖に向って一礼し、そしてルーミアに話しかけた。

「んー?」
「里の樵のあんちゃんがね、最近やたら空木返しが多いって心配してるんですなあ」
「……それで?」

一陣、風が吹いた。
それで辺りの霧がかき乱される。

「何か心当たり、ないですかねえ?」

相変わらずの飄々とした口調で太公望は問う。
霧で気が付かなかったが、時刻は少しずつ夕方に迫りつつあるようだ。

「なんで私に聞くの? 賢者でも探したら? 何か教えてくれるかも」

少し低く、棘のある声だった。
何か気に障る要素があったのだろうか。

「いやあ、貴女なら何か知っているかと思いまして」

ルーミアの体から黒いものが沸き出し始める。
ゆらゆらと周囲の背景が滲み、その明度が下がっていく。

――これひょっとして……闇?

ルーミアの赤の瞳が、槍のような鋭さを帯びた。

「仮に知っていたとしても話せないな。話す義理もない。それぐらい分かるでしょ、人間」
「魚に免じて、ってわけには――」
「魚で免じてあげられるのは、貴女は食べないってことだけ。それに――」

闇が密度を増す。
ルーミアの口が三日月のように歪む。

「そろそろ日が落ちる」

昼夜の境、明暗の逆転する時。
一瞬、ルーミアの髪に結いつけられたリボンが紫色に輝いた。
それで大妖精は気が付く。このリボンは――

――封印だ……

「大ちゃん? どうしたの?」

気が付いたら大妖精はチルノとルーミアの間に立ち塞がっていた。

「貴女――何なの?」
「ただの人喰い妖怪だよ~」
「だって、そのリボンは――」
「あんたが『ただの』妖精なのと同じく、私も『ただの』妖怪ってこと」

やんわりと、しかし有無を言わさぬ口調でルーミアは言った。先ほどまでと調子はほとんど変わっていないのに、威圧感は比較にならない。
何も言い返すことができなかった。
ルーミアは太公望のもとへと歩いていく。

「ねえ、太公望。一匹と少しの魚、それじゃあちっともお腹は膨れないの」

――まさか食べる気なの?

大妖精の背を冷や汗が伝う。
ルーミアの周囲で闇が丸い形に結実していく。

「こんな場所で釣りなんかするのが怪我のもと」

黒い弾丸――それが釣り人に向かって放たれる。すんでのところで彼は飛びのいてかわした。

「おっとっと――ちょいとお喋りがすぎたか。失礼致しました」

荷物を持ち、一瞬首を垂れると、太公望はそのまま走っていった。そして俊敏な動きで岩場を駆け上って三人の視界から消えた。

「ちょっと、ルーミア! 何やってんのさ!」

彼が立ち去った後、チルノがルーミアに詰め寄った。

「何って、襲ったんだよ? 決まってるでしょ?」

きょとんとした表情でルーミアは答える。闇はすでに収束している。

「あいつ魚くれたじゃん!」
「それとこれとは別のことだよ。チルノは妖精だから分からないかもしれないけど、妖怪は人を襲うのが仕事なの」
「食べる気――だったんですか?」

大妖精は気になっていたことをたずねてみた。

「まさか。魚くれたんだから、食べないってば。そこまで食い意地はってない」

ルーミアがむくれる。すっかり最初のマイペースな調子に戻っている。
そして眠そうに欠伸を一つした。

「ふわああ……でも面倒くさいな~。もっと『襲いやすい仕組み』でもあればいいのにねえ」

ルーミアの周囲を黒い球体が覆う。

「あ、そうだ。大ちゃん」

球体の中から名を呼ばれる。

「もっと力抜いた方がいいよ、って誰かに言われてると思うけどさ――」

球体は、来たときと同じようにふよふよと不安定な軌道を描いて浮かぶ。

「『まだ』そうしない方がいい。その勘の鋭さはもうしばらく残しておいた方がいい」

またね、と言うとルーミアは空へと舞い上がっていった。
天にはそろそろ宵の明星が、夜を引き連れ顔を出す頃合である。
今宵は十四夜、そして明日は満月だ。
なぜだか大妖精は急に不安を覚えた。






◇◆◇






まばらに電灯のともったアスファルトの山道を、早苗とフランは歩いて行く。
山道は山の斜面にそって設けられている。
眼下には諏訪の夜景が良く見える。その向こうには、半分より少し膨らんだ月を映した神湖。車などはほとんど通らない。
フランは早苗の前を、スキップでもするかのように楽しそうに歩いて行く。

「今日は楽しかったよ」

くるりと振り返るフラン。
夜陰に映える金の髪。妖しく、幼く、輝いている。
なんだか夕暮れ時以上に、生き生きとしている。
吸血鬼――だからなのだろう。燦々とした陽光より、陰々たる月の光の方がこの子には何倍も似合う。
月下に遊化する、夜の少女――

――綺麗だな

素直にそう思う。

「オスシってのも食べてみたかったんだけどねえ」

フランは笑っている。
しかし早苗はあまりそういう気分にはなれなかった。

「フラン」
「ん?」
「もう文通は……できないよね」
「そうね」
「そっか」

会話が長続きしない。
話したいことなど山のようにあったはずなのに、いざこうして向き合ってみると何も言葉が出てこない。
それがどうにももどかしい。

「ねえ、早苗。ちょっといいかしら?」

そう言うとフランは早苗の方へと近寄って来た。そして手を伸ばして早苗の二の腕をつかむ。

「ふ、フラン? くすぐったいんだけど」

何かを調べるように早苗の腕を握ったりこすったりしている。
そして今度は後ろに回った。

「ちょ、ちょっと」

小さな手が早苗の腰をなでている。
その手は徐々に上の方へと移動していって――

「む、胸は駄目だってば!」
「うーむ」
「うーむ、じゃない!」

胸元を這っていた手が離れる。

「早苗、貴女なにかの病気じゃないわよね?」

フランの声は、いたって真面目だった。
そしてその問いで早苗はフランが何を確認しようとしていたのかを悟る。

「成長――の遅れのことを言いたいの?」
「ええ。聞いてはいけないことだったなら謝るわ。私の人体にまつわる知識なんてせいぜい医学書レベルだけど……なんか骨格や体格が――」
「フランの思ってる通りよ。私ね、成長が止まってるんだ」

早苗の成長が鈍化してからもう随分と経つ。月のもののペースもどんどん下がってきていて、最近ではほとんどなくなってしまっている。
内膜の排出が上手くなされないのは身体にも良くないだろうから、産婦人科を受診したこともあったが、至って正常と診断されていた。
やっぱり、とフランは言った。

「……信仰の影響?」
「たぶん……」
「現人神――早苗自身が信仰の対象になってるのね。だから年を取らない……レアなケースだね」

早苗にとってそれは一つのジレンマとなっている。
二柱への信仰のためと思って力をふるっても、結局は早苗が神の側に少しずつ足を踏み入れていくだけなのだ。
かといって早苗が何もしなければ、今以上の勢いで信仰は衰えていくのであって――

「早苗。たぶん、あの神様たちの姿を見て、言葉を聞くことができる存在は早苗で最後だと思うわ」
「最後?」
「そ、最後の風祝。というより早苗みたいな素質がこの時代に生まれたこと自体がある種の奇跡ね。あ、文学的表現ではないのよ? 確率のお話」

フランは少し照れくさそうにした。

「うー、良いこと言うのは慣れないなあ。ともかくね、貴女が一番の信者なのよ、あの神様たちにとっての。それだからこそ、貴女は強い力をふるうことができる。その結果として貴女自身に信仰が集まってしまったのだとしても、それは構造的に不可避なこと」
「でも……」
「信仰は儚き人間の為に――早苗だって信仰をする側だよ。ねえ早苗、普通の人とは違う時間を歩む、それって不幸なことかしら?」
「……そうは思わないよ。長生きはしたいしね」

不老長寿になれば人間ではなくなるのか?
そんなことはない。その程度のことで、人は人でなくなったりはしない。短命だろうが長命だろうが早苗は早苗、二柱に仕える人間である。
だから実のところ早苗の悩みは信仰の力が二柱に行き届かないという点にあるのであって、寿命が延びるとか成長が止まるとか、そうしたことは瑣末な問題でしかなかった。早苗は己の人としてのアイデンティティを、有限であるという点に見出したりはしていないのだ。

――もしも私がフランの言うように最後の風祝なら

出来るだけ長く二柱に仕える者でありたい――それが嘘偽らざる東風谷早苗の心境だった。

「ま、早苗がそんなに落ち込んでいないみたいで良かったよ」
「心配かけちゃった?」
「まあね。早苗って抱え込むタイプっぽいし」
「ごめんごめん」

いつの間にか二人が出会ったバス亭にたどり着いていた。
今度は二人で腰を下ろす。
雲のない夜空に、膨らみかけの月。諏訪の地を青白く照らし出している。

「ねえねえ、フラン」
「なあに?」
「髪の毛、さわっていい?」
「へ? 別にいいけど」

柔らかなフランの髪。それを早苗は優しくなぜる。
繊細で、それでいてちっとも傷んでいる様子はない。指と指の間を、絡まることなくさらさらとすり抜けていく。
少し甘い匂いがしたような気がした。

「んー」

フランが気持ち良さそうに目を細める。仕草が何だか猫っぽいと早苗は思う。

「ちょっと気持ちいいかも。もっとなでて」
「はいはい。それにしても綺麗な髪ねえ」
「ふふん、そりゃあ血筋が良いもの」

しばらくは他愛もないことをしゃべりながら、髪の毛をいじっていた。
長く生きているはずなのに、どうにも幼い。妹がいたらこんなふうだろうかと早苗は想像する。

「そういえば、こうやって誰かに頭をなでてもらう機会ってなかったよ……悪くないもんだね。そうだ、早苗もなでてあげるよ」
「え? いや、私は――」
「いいのいいの」

フランは早苗の頭に手を伸ばすと、早苗がしたのと同じようにそれをなでた。
小さな、子どもの手が早苗の髪をさらっていく。何だかこそばゆい。

「変な感じ」
「なんでさ。私のほうが早苗よりお姉さんだってのに」
「そうだけどさあ」
「文句言わない。うりうり」
「あ、ちょっとちょっと! もう、ボサボサになったじゃないのよ」
「ふふふ」

生意気そうな子どもの顔。
いったいこの子はいくつの表情を持っているのだろう。一度も屋敷から出たことがないという割には、その感情表現は豊かだ。
これまでの話から察するに、フランの家族はその多くが血の繋がりのない人々で構成されているようである。しかし絆は――深いのだろう。そうでなければこんな表情をする子が育ったりはしないはずだ。

「ま、あれよ――最後に早苗と会えて良かったよ」

少ししんみりとした声でフランが言う。

「なんか戦場に行くみたいなセリフね」
「実際そうなのよ。幻想郷は、世界中から地域を問わず様々な幻想の存在が集まっている。神話クラスの化け物だって、うじゃうじゃいる」
「……ごめん」
「え? いや、責めてるんじゃないのよ。ただ、美鈴の話じゃパチェが魔力を回復するまでには結構な時間がかかるってことらしいの。あ、美鈴ってのは船の手配をしてくれた奴ね。私たちの一番古い従者よ」

フランはため息をつく。

「パチェはね、凄いんだけど普通の子なのよ。それもぜん息持ちの。魔法が使えなきゃ、あっという間に誰かの餌食になりかねない。だから、先行する私たちはある程度の安全を確保しないといけないんだけど……」

そう言ったフランはこちらを見ていなかった。
前を――何を見るともなく、ただ遠くを見ている。

「フラン、どうしたの? 元気ないよ?」

その横顔からは皮肉屋めいた雰囲気や子どもらしい表情などは消え失せていた。

「……私はまた姉さまに『背負わせる』のよ」

弱々しい声だった。
何だかフランの体が一回り小さくなってしまったかのような錯覚を覚える。

「私たちの両親は――私が生まれたすぐ後に死んだわ。早苗と似ているのかもね。だから私は親の顔は知らないんだ」

訥々と語りだす。ある一つの感情がそこから伝わってくる。これは――

――憤り?

その感情がフラン自身へと向けられたものなのだと早苗が察するのは、フランが次の言葉を紡いだあとのことだった。

「私はろくに家からも出られやしない。戦力外なのよ……姉さまはね、五百年もの間、私や従者たちの運命を背負ってきたの。そして今回も私たちのために、たった一人で世界に戦いを挑もうとしている」

世界に戦いを挑む――比喩表現でもなんでもなく、まさしくそういうことを彼女の姉はやろうとしているのだ。

――いや

せざるを得なくなってしまった、といった方が正しいのだろう。

「お姉さんはいくつ?」
「私とは五つしか違わないよ。でも私は――お姉さまみたいに色んなものを背負うなんてできないわ。それどころか、肩だって貸せやしない。壊す以外に能がない。散々早苗に偉そうなこと言ったけど……私は無力なの」

少しフランは肩を震わせた。どうにも小さな、女の子の肩だった。

「フラン……」

どういう言葉をかければいいのか分からない。
何か言わなければとは思うのだが、口も頭も回らない。その魯鈍さに腹が立つ。フランはあれだけ豊穣な言葉をもって早苗のことを癒したというのに、いざそのフランが落ち込んでいるとき早苗は何の言葉も発せないでいる。
慰めも激励もない。ほんの僅かな安堵を与えることだって出来はしない。

――いや……

「フラン」
「ん?」
「家族の人は絶対そっちに届けるから……フランはフランの戦いに集中して。私は戦いのことは分かんないけど、そういうのって守りも大事なんでしょう? なら家の中は全力で守るとか――」

こんな拙い言の葉が、何かの足しになるとも思えなかったが、それでも何か言わずにはいられなかった。

「それに……どんな強い人にだって支えは要るのよ。えっと、だから――」

言いたいことがまとまらない。しかし当のフランは早苗の言わんとしていることは察したようで、その表情は少し変化を見せた。

「そうか……そうね。よし――」

掛け声とともにフランは立ち上がる。

「ごめんごめん、暗くなってしまったわ。せっかくの一度しかない別れの時間だというのに、こういうのは良くない」

フランは自分の頬をぺちぺちと叩いた。そしてパーカーのポケットから何かを取り出す。

「はい、これ」

フランドールが早苗に手渡したのは、水色をした水晶のようなものだった。
中では光が乱反射して七色に発色している。

「綺麗……」
「それは私の羽根の――まあいいや。美鈴の奴は勘が鋭いからね、それ持って近寄れば勝手に発見してくれるよ」

要するに待ち合わせ時の目印、ということなのだろう。

「早苗」
「ん?」
「早苗とのやり取りは楽しかったよ」

そう言ってフランは明るく笑った。
月がよく似合う、吸血鬼の少女――そして今日初めて出会った、何年も前からの友人。

「私も――楽しかったよ」

だから早苗も笑った。

「えへへ、そうかい?」
「まあ時おり何言ってるのか分からなかったけどね」
「それはご愛嬌というやつよ。早苗、自分の信仰心を大切にね」
「ええ」
「そろそろ消えるよ。この体は十分に役割を果たした」

そう言った途端、フランの身体が薄くぼやけて、背後の風景が透けて見えだした。
早苗も思わず立ち上がった。

「パチェたちの到着日時はさっき言ったとおりだよ」

フランの向こうに、諏訪の夜を照らす月が見える。
まるで月を呑みこんだみたいだ――そんなことを早苗は思う。

「家族のこと、お願いね」

夜の少女は八重歯を見せて、子どもっぽく笑った。

「フランも――がんばってね」

これで最後だと思うと寂しいものがあったが、それは表へは出さず、早苗は努めて明るくほほ笑み返した。

「ふふふ、私の本体は強いから安心していいよ」
「そっか。じゃあ、ばいばい。ご家族によろしく」
「そっちも、あの神様たちによろしく」

フランの姿がどんどん霞んでいく。その代わりに月は克明になる。
その透いた身体でフランは早苗に歩み寄ると、その頬に軽く口付けをした。
一瞬だけ触れたその柔らかい感触が、妙に尾を引くような気がした

「じゃあね、早苗」

そう言うと異国の少女は極東の夜の中、太陽のように笑った。
そしてその言葉を最後にフランドール・スカーレットの姿は早苗の目の前から掻き消え、後には蒼い月夜が残るばかりとなった。
早苗はため息を一つつくと、もう一度バス停のベンチに腰を下ろす。

「ばいばい、フラン」

諏訪の月を望みながら、東風谷早苗は一人つぶやいた。
その目から一滴だけ涙がこぼれ落ち、アスファルトに消える。

199X年5月5日――神湖の地はどこまでも静かな夜の内にあった。


(③へ続く)
メイソン(笑)

すごくキバヤシっているため、ここまで付き合ってくださっている方が何人いるか……アリガタヤー。
ゆかりんがやたら丁寧に説明をしてくれるというか胡散臭くないというか頼りないというか……でもそうしないと話が進まないので。他にもキャラだの設定だのがちげえという箇所がいくつもありますがまあいいや。猫と人間は誤差の範囲という。

以下、言い訳につき読み飛ばし推奨

「なんで東方なのにフリーメ○ソンなんか出すの? 死ぬの?」
と詰問されること間違いなしの内容ですが……そうでもしないと守矢一家の出番が……なくて…………ゆうかりん。
でも万が一お読みになった方の中に会員の方がいらっしゃいましたら、これは本当に申し訳ありません(ダヴィンチコード以降日本の会員も増えたそうですし)。よくある陰謀話として生暖かい視線でお願いします。
あと作中のその他オリ要素や用語は、大体は単に実在するものを(ちょいと弄りつつ)引っ張ってきただけだったりします。練馬の民話とか、フォーチュン女史とか、次の次の章で出る『位階』名称とか……マイナーってレベルじゃ(ry

追記①:日付関連でヤバいレベルの矛盾が生じたのでそそくさと修正。やっぱり思うようにはいかないなあ……

追記②:下の方でご指摘のあった通り、自分が考えていたのは『鷲』の方のようです。お二人の方、ありがとうございました。ていうか戦闘機とか航空力学とかまるで分からないけどどうしたものか……

追記③:あややと椛の関係をダブルスポイラー仕様に変更。今更。ていうか二年も前のものなので読み返すとけっこう恥ずかしい……まあ本当に恥ずかしいのは③からだがな!(半ば開き直りつつ)
ごんじり
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コメント



0.3370簡易評価
12.100名前が無い程度の能力削除
個人的には『理解出来ずとも雰囲気と勢いとノリで楽しむ』のがSSであり小説なので全く無問題です。
…………作者さん方の意図したことに気付けない己が駄目なんですが。
18.100名前が無い程度の能力削除
未来百鬼夜行で百鬼夜行のシーンに早苗さんがいた事に疑問があったのですが、
ようやく氷解しました。さて今から③を読まないと……
21.100名前が無い程度の能力削除
待ってました!
27.100名前が無い程度の能力削除
すっごいツボはいったよ、これ
30.100Jing削除
世界最大の秘密結社であり史上最後の秘密結社「フリーメイソン」を東方に出すとは・・・あなたの発想能力はすごいですね、感心しました。科学対魔法とこのような話を作ってくれる人を待っていたのでこれからも期待したいと思います。
32.100名前が無い程度の能力削除
作者さんの解釈は実に面白いですよ~
紫の「あの早苗という子、随分と曖昧になっているわねえ」という言葉が良かったです。
33.無評価名前が無い程度の能力削除
前回のフランの手紙がまさか大ちゃんの前振りだなんてw
抜け目ないというか上手いなあ・・・w
50.50名前が無い程度の能力削除
何より発想力に感服せざるをえない
点数については最後まで読み終えた時に、本当の点数をつけようかと
51.100名前が無い程度の能力削除
面白いですね
56.無評価名前が無い程度の能力削除
>『鷹』や『蜂』
と有りますがおそらくF-15イーグルとF-18スーパーホーネットの事なんでしょうが・・・F-15イーグルのイーグルは鷹ではなくて鷲だと思います。
文章の構成は巧いです。引き込まれるし続きがとても気になって仕方ないです。
完結したら点いれますね。
60.無評価名前が無い程度の能力削除
>>56
鷹はF-16ファイティングファルコンのことだと思いますよ
また自衛隊の対艦攻撃機F-2は別名フェイクファルコンと呼ばれているそうです
62.100名前が無い程度の能力削除
空戦フラグキター!!1
訂正されているという事はF-2じゃなくてF-15で良かったのか
それにしても現代兵器の名がでるとはw
名前だけでなく描写までされたら一生付いていきますぜ
66.100名前が無い程度の能力削除
今更ながら、最初から読んでます。
この点数以外あり得るだろうか…。
73.100名前が無い程度の能力削除
なんとも規模の大きい話ですね。
今回も退屈にならずに読み終わることができました。
78.100名前が無い程度の能力削除
凄い。すごいなこれ、としか言い様が無い。