(※このSSは想像設定が過分に含まれています。加えて、多少過激な表現も使用しています。ご了承ください)
夕焼けが山の向こうへ傾いている。それを遠目に見ながら藤原妹紅は、手の内でちりちりとした皮膚の焼ける感覚がゆっくりと失せていくのを感じていた。最後の一欠片の火を握りつぶすと、木の爆ぜるような音と共に妖気が霧散する。ふぅ、と一息ついて妹紅は艶めいた黒髪を掻きあげて汗を払った。乱雑な仕草だがどことなく気品を感じさせる仕草で、そぞろに切られた髪が夕焼けを映している。
さきほど妖気を握りつぶした片手は握りこんだまま、妹紅が後ろを振り向いて藪の方へもう一方の手を振ると、感嘆のような声と共にぞろぞろと何人もの男たちが這い出してきた。その中でも一際年かさの入った風な男が前に出てきて頭を下げ、つられるように他の男たちも次々と頭を垂れた。
「ありがとうございました! 本当にあの化け火にはほとほと手を焼いておりまして。村の者も追い払おうとはしたのですが……ともかく、ありがとうございました」
「いやぁ、構わないよ。ついでみたいなものさ」
地面にこすり付ける勢いで頭を下げる男たちに、妹紅は照れたように頬を掻きながらそう言った。ここは街道沿いの小さな宿場村。しかも急峻な峠を前にしたあまり人の多く通ることも無い裏道に近い街道だった。このような土地では街道に妖怪の類が出るというだけで村の趨勢に関わる。そこに自分のような妖怪の類を退治できる人間がたまたま訪れたことは本当にありがたかったのだろう、 男たちは妹紅が頭を上げるように言うまで決して頭を上げようとはしなかった。
このまま峠へと街道を行くという妹紅を、村長であるその年長の男は慌てて引き止めた。
「お待ちください! あなたには村を助けていただいたようなものです。お礼の一つもないようでは罰が当たります。
それに、もう夜も更けてまいります。ここはうちの宿にお泊まりください。勿論お代などいりません。私どもで出来るだけのお世話をさせていただきますので、どうか……」
「そうはいかないよ。私は自分が行く道を塞ぐもんを勝手に退治しただけだ。それでそんなお礼をされたらこっちが恐縮する。お礼ならさっき貴方達が頭を下げてくれただけで十分」
そういわれて、男たちは喜ぶというよりむしろ困惑したようだった。それも仕方が無い、と妹紅は思う。おそらくこの村ではこれまでも何度か街道に妖怪が出て退治を頼んだことがあるのだろう。普通の人間が妖怪を退治するのにはかなりの苦労と危険があるから、相応の対価を要求されても不思議は無い。それを頭を下げるだけでいいというのだ、いぶかしむのが自然だろう。
困ったようにぼそぼそと話し合う男たちに妹紅は声をかける。
「心配しなくてもあの妖怪はきちんと退治したよ。貴方達もみていただろ。それに、ちょっと用があって道を急ぐんだ。だからどうしてもお礼がしたいって言うなら今度私が来たときにでもしてくれればいい」
「しかし……」
「心配なのなら私を世話する金で巫女でも呼んで見てもらってくれ。土地の人間でもない私が言うよりその方が貴方達も都合がいいだろ」
そこまで言って、ようやく男たちも安心したようだった。ありがたい、ありがたい、と言いつつそれぞれまた頭を下げる。妹紅は苦笑した。彼らは放っておいたらいつまでも頭を下げていそうな気さえしてくる。
「まあこんな運のいいこともそうそう無いだろうから次は気をつけてな。あれはそう人を傷付けるものでもないが、ただの人間で妖怪に手を出すのは感心しない。
あ、そうそう。もしよければ峠の途中に夜露をしのげるような所はあれば教えてもらえないか? さすがの私も一日でこの峠を越えられるとは思えないから」
「それでしたら、一つ目の山を越えたところに小さな社がございます。今からなら一刻……女性なら1刻半くらいでたどり着けるかと。もう人が訪れることもほとんどないので荒れてはいるでしょうが」
「屋根があればそれで十分だ。ありがとう」
これで少なくとも野宿する手間は省けそうだ。妹紅がそう思っていると、一人の若者が一言妹紅に尋ねた。
「しかし貴方はお若いし一見僧にも巫女にも見えないのですが、どこで妖怪退治などという術を身に付けられたのですか」
「それは……」妹紅は一瞬思案するそぶりをして答えた。「まあ長い間旅をしていれば自然に身につくものさ」
尋ねた男は意味が分からずに首をかしげ、妹紅はそれを見てただ微笑んだ。
そうして妹紅は口々に礼を言う男たちに別れを告げて、次第に夜に近づいていく街道へ歩みを向けた。話していた始終握りこんだままだった手は、男たちの声が聞こえなくなる頃には火傷のあとも残っていなかった。
***
村を離れてから一刻を少し過ぎた頃、妹紅の行く道の先に村長の言っていた社の境内がようやく姿を見せた。確かに人の訪れが絶えて久しいのか手入れされていない風だったが、社は妹紅の想像よりもしっかりとしていた。社の周りだけ木の群れが途絶え、月明かりが差し込んでいる。
妹紅が社までたどり着くと、座り込んで盛大に息をついた。歩いてきた街道は意外と急峻で、死なないとはいえ女性の体である妹紅にはかなり厳しい道のりだった。それでも大の男並みの速さでたどり着けたのは、妹紅がこれまで何度もこういった場所を歩いてきたからに相違ない。とはいえ妖怪退治に山道にと随分体力を使わされた妹紅は、ともかく一晩この社で過ごすことにした。
ささくれた立て付けの悪い木扉を開いて社の中へ入り、手持ちの荷物から火打石と明かり取りの蝋燭を取り出して火をつけた。蝋燭の光で照らされたこじんまりとした内部はしかし一人寝泊りするには十分な広さで、見る限り獣や山賊に荒らされた気配も妖怪の類が巣食っている様子も無い。これなら今夜は安心して眠ることが出来るだろう。
――くぅぅぅぅ……
「安心したらお腹がすいてきたな……」
確か荷物の中にさっきの村で買った握り飯と煮込みものがあったはずだ。ごそごそと荷物を漁り、それを取り出す。普段なら人里から離れたところで寝泊りすることが多いこともあって干飯などとその場で採れる山菜などを食べること多い妹紅だが、今日は村から山道に入ったばかりだから多少豪勢なものも食べられる。山道を行く最中で汲んだ湧き水を飲みながら、豪快に口に入れていく。たまの非常食や山野の材料以外の食事で、空になっていた腹はすぐ満たされた。
食事を済ませると、荷物を枕にして床に寝転がる。明日からもしばらくは山道を行かなければならない。板間は多少背が痛かったが、少なくとも木や河原を背にして横になるのよりははるかに良かった。寝転がった妹紅の顔を明かり取りの木窓から差し込む月明かりが照らす。妹紅からは青い夜空に煌々と浮かぶ月と風にざわめく木々の揺らめきが見え、どこからか吹き込む風に妹紅は少し身を震わせた。
「……あの村長の言うことにしたがっておけばよかったか」
すこしだけそう後悔するが、今更考えてもどうしようのないことだと考えるのをやめる。
妹紅が人里の宿を避けるのにはちょっとした理由があった。
かつてまだ妹紅が妖怪退治を始めたばかりの頃だ。今日と同じような流れで妹紅は村の人間に歓待され、久しぶりの暖かい食事に素直に喜んでいた時だった。偶然食事を運んでいた給仕が躓いて転び、その拍子に割れた器で妹紅が手を切りそれが治っていくところを見られてしまったのだ。妹紅は妖怪退治の英雄から他の妖怪と結託して人間をだました妖怪へと扱いが様変わり、色々と抗弁したものの聞く耳はもたれず、最後には周囲の寺社から巫女やら僧侶やらが出てくる騒ぎになって結局その町から逃げ出すことになった。
もちろんこれまで数百年生きた妹紅なら巫女や僧侶を退けるのは訳ないし、まず妖怪ではないので妖怪退治の技術では妹紅を退治することは出来ない。しかし妖怪(とされた者)が簡単に巫女や僧侶を倒してしまってはそれ以後のその町や村は妖怪にとって格好の標的になってしまう。それは避けたかった。
それから妹紅はよほどのことが無い限りは人里で泊まることを止めている。何の拍子でまた騒ぎになるか分からないからだ。
月は荒涼と青い光を静かに放ち続けている。暖かさの感じない月だ。とくり、と妹紅の心が痛みを放った。月を見ているとどうしても輝夜の事を思い出してしまう。今思い出しても忌々しく思う。数百年前の出来事を何故いまも、と妹紅自身思わなくもないがそれでも激しい恨みの気持ちは絶えていなかった。
絶世の美女として父を始め多くの貴族を魅了し無理難題を押付けてはからかい、果ては帝をも動かしたというのに月の使者とともにどこかへ消えてしまった、という。伝え聞いた話に過ぎないといえばそうだが、秘されていたとはいえ父の顔を見ることもあった妹紅だ、それが事実であろうことは分かっていた。それゆえに帝が焼き捨てるはずだった不死の薬を奪ってまでどこにいるとも知れない輝夜を追うことにしたのだ。
しかし、と妹紅は自分を省みて笑う。父に隠匿され、隔離された生活とはいえ貴族の生活はそれなりに満たされたものだった。それを丸ごと捨ててまで父に恥をかかせた者に復讐しようなどと今思えば無謀にも程がある。
「……そんなに父に認めてもらいたかったのか、私は」
もう何度も考えたことだった。全く、というほどではないがそれでも公にされていた兄弟姉妹とは違い、妹紅は父に会う機会も少なく厄介者扱いされていたのも事実。そのため誰に和歌や楽器を習うわけにもいかず、容姿がそれこそ輝夜のように特段秀でたわけでもなく、ろくに貴族らしいこともできなくてその方面で父に認められることもありえない。そんな自分だったから、父に認めてもらうためには手段を選んではいられなかった。
しかし、そんな父も妹紅が家を飛び出して不死の薬を奪い、不死の体を持て余しているうちに亡くなってしまった。
「それにもし輝夜に私が意趣返ししたとしても、父がそんなことで私を認めてくれるとは思えないし」
若気の至り、と妹紅はいつもの結論に落ち着く。
それでも輝夜への復讐をかなえようとしているのは、もはや取り返しのつかない体となった妹紅の意地だ。曲がりなりにも妹紅がこうなったのは輝夜のせいである。その恨みを多少ぶつけても罰は当たるまい。
そう思っていなければ、不死の体を抱えて生きていくことなど妹紅の心では困難だった。
本人は意識していないが、妹紅にとって輝夜への復讐はもはや生きる目的だ。妖怪退治の仕事の真似事を始めたのも、もちろん路銀を稼ぐ意図もあるが、輝夜へたどり着くための情報がどこからか手に入らないかという期待があるからだ。こういう真似をしているとそれなりに出所不明の怪しい情報も入ってくるものだ。それを追いかけていればいつかは輝夜へたどり着けるはず、と思いながら何度も危ない橋を渡りつつも力をつけながらここまで着た。
妖怪退治をしながら輝夜への情報を集める。輝夜の居場所が不明な以上、妹紅に出来るのはどうしてもそれくらいになってしまう。しかし、
「今までそんな情報はいってきたことないんだよな……。まず月の住人ってだけでも眉唾なのに、そうそう情報が入るとは思ってはないけど」
そんな生活ももう100年近く続けている。なんだかどうしようもなく無駄なことをしているような気がするのを妹紅は否めなかった。ころり、と体を回して月を背にする。月明かりにほつれ放題の自分の黒髪を見て、妹紅は溜息をつく。
明日も山道を越えていかなければならない。今日はもう眠ってしまおう、と妹紅は思った。目を閉じると森の囁くようなざわめきが聞こえてくる。
月明かりは傾いていくしばらくの間じっと妹紅を照らしていた。
***
妹紅が目を覚ますと、既に社の中は明るかった。山鳥の鳴き声が四方から聞こえてくる。窓から外の様子を見て妹紅は少し寝すぎたかと後悔した。別に野宿しても構いはしないが、できれば今日中に峠を抜けたかった。
がたがたと木扉にあけて、朝の光を浴びて伸びをする。昨日の疲れは残っていない。少し早足で行けば夜までには峠を抜けて次の村まではたどり着けるだろう。と、妹紅がのんびり考えたときだった。社の正面荒れた石畳の上に、見慣れない鳥が横たわっていたのを見つけたのは。
「? 見たことない鳥だな……」
近づいてまじまじと見て、妹紅はその考えを確かにした。その鳥は雀くらいの大きさではあったが、見た目はむしろ孔雀に近いような不思議な姿をしていた。それに加えて全身が色とりどりの羽毛で覆われていて、一言で言うと派手だ。特に体の大きさに見合わない長い尾が透ける様な青色で、一際異彩を放っている。それに、
「なんで灰まみれなんだろう、この鳥は」
優しく持ち上げて妹紅は灰を払いのけた。灰は木や炭の灰に比べて妙に軽く、軽くなでただけで妹紅の手を汚すこともなく宙に舞った。
よくは分からないが珍しい野鳥だとしてもこんなところに転がしておくのは忍びない。せめて土に埋めてやるくらいはしてやるか、と妹紅がたちあがろうとした時だった。
「おおっ」
驚く。手の中の小鳥が小さいながらも確かに一声鳴いたのだ。しかしその声は非常にかすかで、いまにも消え入りそうである。
「ちょっと待ってろ。今助けてやる」
妹紅はその小さな生き物の生命力に驚きつつもなるべく静かに石畳の上にそれを横たえ、手持ちの荷物を大急ぎで探り出した。妖怪退治の道具やら生活道具やらをあたりに散らかしながら取り出したのは非常食の乾燥させた米と、昨晩の残り水だ。手のひらで米をすり潰し、再び鳥を手に取るとくちばしの辺りに米を近づける。
「鳥って何食べるのか分からないな……こんなんでいいのかな。鶏はこんなもん食べてた気はするけど。
……おっ、食べた食べた!」
小鳥は苦しいのかゆっくりとした動きだったが、確かに妹紅の手から米の粉を口に運んでいく。合間合間に水筒から雫を落としてやるとそれも飲んだ。その仕草がかわいらしく、妹紅は微笑む。次第に小鳥も妹紅の手から餌を受けるのに慣れて来たのか、しばらくするとすり潰した米が手の上からなくなってしまう。
――ピィ、ピィ。
「なんだ、まだ足りないって言うのか。欲張りな奴だな」
言いながら再び干飯を少しとってすり潰して与える。餌を貰って少しづつ元気を取り戻してきたのか横たえていた体を起こし、積極的に餌をついばみ始めた。さっきまで今にも死にそうな風だったというのに不思議なもんだ、と妹紅は笑いながら感心した。
米をすり潰して与え、雫を落として飲ませる。しばらくそんな作業を繰り返す。妹紅の手つきはたどたどしいものだったが、それでも半刻もする間に小鳥は随分と力強く鳴くようになり、手の平から離れ羽ばたけるようになった。
「随分食べたな。一応私の大事な食料だったんだけどな」
――ピィー、ピィー。
「感謝してくれてるのか? 礼はいらないよ。私が好きでやったんだからな。
元気になったのなら自分の住処に帰りな」
そう言って妹紅は手の平の上から小鳥を石畳の上に放した。手の平を打って粉粒を払い落とすと、先ほど散らかした荷物をまとめて立ち上がる。とことこと周りを歩く小鳥に妹紅は独り言のように声をかけた。
「じゃあな。何があったか知らないけどもうこんな幸運なことは無いぞ。今度は一人で……いや一羽か? ともかくしっかり生きるんだぞ」
そうして妹紅は社の境内から歩き出す。突然のことで時間を取ったからまた余計に急がなければならなくなった。山からは抜け出せなくても、せめて人里の近い所まで行っておきたい。今からでももう一山くらいは越えられるはずだ。
境内から出て山道に再び戻ったときだった。
――ピィ。
後ろを振り向く。さっきの小鳥が背負った荷物の上に乗っていた。
あー、と思わず声が出る。どうやら懐かれてしまったらしい。手で払いのけようとするが小鳥は意外なくらいの素早さでそれをかわすと再び荷物の上に止まる。よほど餌がもらえたことが嬉しかったのか離れる気はないようだ。
妹紅は唸った。正直ついて来られても困る。餌代が、などというほど困っているわけではないが、単純にいつもの生活を考えると小鳥がついてこられるとは思わない。それに単純に小鳥など扱った事が無いのでどうしたらいいかも分からない。
しかしここで唸っていても始まらない。今日は出来れば早く進んで行きたいから、こんなことで時間を取られるのもうっとうしかった。
「うーん……まあそのうち勝手にどっかに行くだろう。おいお前。私は私の好きなように行くからな。置いていかれても恨むなよ」
――ピィ。
小鳥は返事をするように一声鳴いた。それで一応話はまとまった、ということに妹紅はしておいた。
「じゃあ出発するぞ。振り落とされても知らないからな」
そういって妹紅は一人と一羽で山道を再び歩み始めた。
そして結局もう一晩この山で、今度は野宿することになった。
***
妹紅の予想に反して、その小鳥はしつこくついて来た。
峠を越え、いくつかの人里を抜け、街道を何処と知れず歩いていく旅路。しかし山を離れ人通りの絶えない道を行くようになっても小鳥は一向に離れようとはしなかった。元々妖怪避けの護符やらを貼り付けた妹紅の出で立ちは衆人の注目を集めるものであったのに、それに加えてやけに派手な鳥を連れていることでさらなる注目を集め妹紅が少し困ったりしたこともあったが、妹紅がそれを言うと小鳥は決まってあさっての方向を向きながらごまかすように鳴いたのだった。
道中幾度となく妖怪の類と出会ったり退治を頼まれたりしてその度妹紅は退けてきた。時に強力な妖怪との戦いともなれば苛烈を極めたが、その最中小鳥はいつもどこかに消えていて妹紅が再び出発しようとする頃になるといつの間にか戻ってきていた。何度もそんなことを繰り返しているうちに妹紅は段々と一人と一羽のこの奇妙な組み合わせに慣れて来た自分に気付いていた。
妹紅自身は気付いていなかったが、やはり一人きりで生きていくというのは心細いものだったのだろう。人ではない、言葉を交わすこともできない相手ではあったが、むしろそれがこれまで人に疎まれながら生きてきた妹紅にとってはちょうどいい旅の道連れだったのかもしれない。
今日も今日とて小鳥を連れながら、妹紅はのんびりと久々の人里を歩いていた。大体妹紅は人里を通るときは足早に通り抜けるようにしていくことが多いのだが、今日は目的地がある。先日の妖怪との争いで尽きかけている符を補充するために神社に向かうのだ。符に効力を刻むのは紆余曲折あって妹紅自身でも出来るのだが、それ用の紙を調達するのはどうしても神社のような特別な場所でなければいけない。
土地の神を祭る神社へと向かう。その神社は古びてはいたが、それだけに美しく丁寧に手入れされた神社だった。神社に入り、一応お参りを済ませる。別に神様に縋るわけではないが、こういうのは気持ちの問題だ。
お参りを終えた後、社務所を尋ねる。年若い巫女が愛想よく挨拶してくる、とすぐに驚いたような顔をした。
「何か珍しい鳥を連れられていますね……」
「ああ、」そう言われていつの間にか頭の上に例の小鳥が止まっているのに気付いた。叩き落としたくなるのを妹紅は必死で耐える。「私が飼ってる鳥なんだ。種類は分からないが珍しいからちょっとね」
「そうなんですか……」
そう答えるのもそぞろに巫女はまじまじと妹紅の頭の上を注目する。注目されていい気になったのか、小鳥は妹紅の頭の上でとことこと歩いて回って飛び跳ねた。妹紅はあきれる。巫女が顔を輝かせる。
「……可愛い!」
「……あの……すまない、お札をもらえるかな?」
そこでようやく巫女は自分の仕事を思い出したようだった。恥ずかしそうに顔を赤らめながら居住いを正して、再び妹紅に笑いかける。妹紅は苦笑せざるを得ない。
「ええ、構いませんよ。どのような種類のお札ですか?」
「あ、いや、出来れば白紙の札が欲しいんだ」
巫女は意味が分からず首をかしげる。白紙の札を欲しがるのは自分くらいのものだろうから、こんなやり取りもいつものことだ。
「ええと……白紙の札ですか? それではあまり意味がないように思うのですが……」
「いいんだ。意味は自分でつけるから」
「うーん……良く分かりませんが、ちょっと聞いてきますね。少しだけ待って頂いてもいいですか?」
「ああ、頼むよ」
そういうと巫女は立ち上がって社務所の奥へ入っていった。話す相手もいなくなり所在無くなった妹紅は、社務所の壁に身を預けながら荷物を降ろして一息つく。すると小鳥が妹紅の肩に止まると、くちばしで肩をたたき始めた。最近はこういう仕草だけで意味が分かるようになってきている自分に妹紅はあきれる。
妹紅は荷物の中から小袋を取り出すと、手の平の上に中身を少しだけ取り出した。鳥の餌だ。さすがに人間用の食事をいつまでも与えていると良くないような気がしたから、最近はきちんと買うことにしていた。ちょこちょこと自分の手から餌をついばんでいく姿を見ながら、妹紅は思わず頬が緩むのを感じた。
「あ、いました。あちらの方です」
そう声が聞こえてそちらに振り返ると、先ほどの巫女がここの神主らしい初老の男性を連れてこっちに向かってきていた。神主は妹紅を確認し頭を下げた後、巫女を下げさせる。
「こんにちは。貴方ですか、白紙の札が欲しいというのは」
「そうだ」妹紅は手の上の小鳥と餌を取りこぼさないように気をつけながら神主のほうへと向き直る。「色々あってね。まあ大体格好を見てくれれば分かるとは思うけど」
派手な赤白の服の上に貼り付けられた札。その言葉で神主は得心がいったようだった。それなら差し上げますよ、とふと神主の眼が妹紅の手元へと行った時だった。神主は目を見開いて体を強張らせたのは。妹紅はその意味が分からず首をかしげる。
「……えっと、じゃあ札を貰っても構わないかな?」
「これは……。あの、この小鳥はどちらで見つけられたものでしょうか」
妹紅の言葉に答えず神主は震える声でそう言った。質問を無視されたことに少しむっとしたが、あまりに神主の態度が尋常ではないので妹紅は気おされるように答える。
「ああこいつは、どっかの山に登ったとき小さな社があったんだが……そこで一晩泊まったら朝石畳の上で死に掛けてて……私が助けてから懐かれてそれから連れて歩いてるんだ」
「そうでしたか……あの、差し出がましいようですが、こちらの小鳥を私どもにお預け願いでしょうか」
「何を言ってるんだ、こいつはただの珍しい小鳥で……」そう妹紅が答えようとしたのを神主は強い口調で遮った。「いえ、この鳥はただの小鳥ではありません。あちらをご覧ください」
そう言って神主が指差したのは神社の拝殿の上だ。妹紅がそちらに目を向けると鳥を象った装飾が拝殿屋上の左右に鎮座していた。
「あれは瑞鳥の鳳凰です。鳳凰は五色で絢爛な見た目をしており、特にその青い尾は一際目を引くといいます。そしてその声は詩を歌うように美しく、その涙は傷を癒し、その血を飲めば不老不死になるといわれています」
妹紅は手元の小鳥を見た。五色絢爛な小鳥は青い尾を振りながらまだ妹紅の手の上で餌をついばんでいる。注目されたことに気付いたのか餌をついばんでいた体を止め、妹紅の方に首を向けじっとこちらを見た。
「しかし、だったらなぜあんなところで、しかも傷ついて転がっていたんだ」
「それについては分かりませんが……瑞鳥といえど、猛禽の類に襲われれば傷付いてしまうものなのかもしれません。貴方のような優しい方に拾われて幸運であったのでしょう。
……それで、その小鳥を私どもにお預け願いたいのですが」
言いながら神主が手を伸ばそうとしたのを妹紅は思わず払いのけ、守るように背を向けた。そうしながら、私はなぜこんなにもこの小鳥を守ろうとしているのか、と妹紅は疑問に思った。ただなんとなく手放したくないような気がした、というだけでは説明のつかない自分の態度に驚く。
その態度になんとなしにこれまでの妹紅とその小鳥との関係を察したのだろう。不躾に手を伸ばしたことを神主は詫びた。だが、その小鳥――鳳凰については譲るつもりはないようで、背を向けたまま黙る妹紅に諭すような声で続ける。
「鳳凰は先ほど申しましたように非常に珍しく、人妖問わずそれを鳳凰と知れば狙うものも出るでしょう。それでなくとも、珍しい姿をした鳥というだけで狙われかねないのですから。これまでそのようなことが無かったのはただ幸運だったという他ありません。
貴方もおそらくは妖怪退治などを生業としている方なのでしょう? ただでさえ妖怪の類に恨みを買うのです、加えてこれからそのような狙いで追ってくる者を退けながらそのまだ幼い鳳凰を守っていけますか?」
妹紅は声を出せなかった。確かにこれまで恨みを理由に妖怪に襲われたこともある。でも大概は散発的な、しかも自分自身を狙うものだった。死ねない妹紅にとってそれは別に恐ろしいものでもなんでもない。多少痛いだけのことだ。
しかし自分の周りのものを、しかも組織的に狙われるとしたら。
「でも……」
「私どもに預けていただければ、安全に管理することも出来ます。この神社もそう小さいものではありませんが、瑞鳥ともなればおそらくもっと上の……それこそ帝様に献上することになるでしょう。そうなればもはや傷つけることの適うものなどおりません。
……これはもちろん鳳凰を守るためでもありますが、貴方の身を守るためでもあるのですよ」
真剣な表情で神主は言う。妹紅の身を案じているというのも一応とはいえ本当のことなのだろう。人のよさそうなその姿から妹紅は自分をだまそうとする意識は感じられなかった。それだけに、妹紅はより自分の感情や理性と向き合わなければならなかった。
黙りこくったまま下を向き続ける妹紅に神主は溜息をついた。
「……あるいは本当に手放したくないのであれば、それでも構いません」
「本当か!」
頭を上げた妹紅に苦渋といった表情を向けながらも神主は続けた。
「ええ。もし貴方が本気で抵抗すれば私などでは奪うことは出来ないでしょうし、無理によこせとは言いません。
ただ、その幼い鳳凰が貴方と共に行くのが本当に最もいいことなのかどうかきちんと考えてください」
「…………」
――ピィ。
妹紅の手の中で鳳凰が一声鳴いた。手の中の小さなそれを妹紅は見る。自分と比べればあまりにもか弱く、小さな命。
「……私は……」
そうして、妹紅は決断した。
***
「……まあ、そんなに長い間一緒にいたわけでもないし、どうせ元に戻るだけだ。大した事じゃないよ」
灯籠の明かりが部屋の中を柔らかい光で照らしていた。品のある調度品と落ち着いた雰囲気の内装の部屋。神主が妹紅を労って街の旅籠を見繕って紹介してくれたのだ。この土地で大きな力を持っているらしい神主の紹介ともあって、対応も部屋も想像より遥かによいものだった。少しだけ、かつて貴族の子で会ったころを思い出させる部屋である。とはいえ、大通りに面しているせいか多少騒がしくはあるが。
人は立ち入らないよう神主を通じて告げてあった。神主は大事にしていた鳳凰との別れでそうしてもらいたいのだと思っていたようだが、妹紅はただ自分の体のことで騒ぎになるのを避けたいという理由でそうしてもらっただけだった。あの小鳥を神主に手渡してから妙に冷め切った感覚で、逆に冷静になっているように妹紅自身も思う。こんなさめた人間だったのだろうか、と自分で自分を笑いたい気分だ。
今は先ほどの神主からもらった白紙の札に書き込んでいる最中である。いつもなら書き損じの一つや二つもあるものだが、今日はやけに調子が良く淡々と書き終えた札が積み重なっていた。火除けの札、妖怪が嫌う札、妖怪の身動きを封じる札。かつて学んだ符術の記述通りに筆を滑らせていく。しばらくすると貰ってきた符はもうなくなってしまった。相当な枚数貰ってきたのだが、いつもの半分くらいの時間しかかかっていない。これもいつもはひよひよ言いながら邪魔してきたあいつがいないからだと思った。
やることもなくなって、妹紅は手持ち無沙汰になる。
「……もう寝るか」
既にしいてある布団の上に体を投げ出すように飛び込む。久々の柔らかい布団は日向の匂いがして気持ちよかった。同時に、体の疲れがぐっと身に押し寄せてくる。特に体を酷使するようなことも無かった今日はむしろ疲れを感じなくてもおかしくはないはずだが。
「……やっぱり寄りかかってたのかね、私は」
数百年を一人で生きてきた。でもそれは誰かと共にいることが叶わないだけで一人で生きていたいからそうしたわけでもない。人間は大抵私の不老不死を知るだけで気味悪がる。妖怪でないかと疑う。今までであった人間の中にもそうは思わない奇特な人間もいるにはいたが、そのような人間には妹紅自身があまりにも依存しそうで怖くて、自分から離れていった。
そういう意味で、妹紅には自分を区別せず他の人間と同じように振舞う動物は自分にとって都合が良かったのかも知れない。
結局は、自分の心の弱さのためにあの小鳥を使ったのだ。だからあの時奪われると思い己が身で守ろうとし、あれにとって最もいい選択は明白であったのにそれを拒もうとした。柔らかい布団の上から身を起こし、窓を開いた。夜風が軽く妹紅の髪をなぶり、妹紅の目の前には静かに寝静まった街と荒涼とした月が浮かんでいる。
ちょうどその時だった。妹紅の視線の向こう、夜が反転するような光があがったのは。おもわず妹紅は手で光を遮るが、それでも目を傷めるほどの明るさだった。火柱、というのが最も的確だろうか、赤々と立ち上る炎は何かしらが燃えているには余りにも強く光り、そしてその先端は天を突つほど高い。
その炎は昼訪れた神社の方から立ち上っている。
妹紅は机の上の書きたての符と妖怪退治の道具を握り窓から通りへと飛び出した。
***
妹紅を旅籠まで送った後、いや送っている最中も、神主は小鳥――鳳凰の扱いについて考えていた。
鳳凰は瑞鳥である。それが現れたということは荒れた世を良く治める天子の現れを示すという。つまり今の帝にとっては自分の治世が正しいことを知らしめるものであり、ともすれば乱世の元ともなる貴族などを正す絶好の機会ともなる。それを捧げたとなれば、それなり以上の見返りが期待できることは明らかだった。
神主も既にこの土地では十分な財と地位を持ってはいる。とはいえ所詮は都からは遠い地、皇族その他位の高い者と縁があるわけでもなく、他の寺社や貴族に対して力はなかった。むしろ貴族からはないがしろにされているのが昨今の悩みの種でもある。
しかし、帝に瑞鳥を献上したともなればまた別だ。他の寺社は一目置かざるを得なくなるだろうし、いけ好かない貴族たちも寄進を弾むようになるだろう。また帝に讃えられるなどとなれば、この神社だけではなく自分自身も何か恩寵を賜れるかもしれない。
妹紅に札を渡して神社に戻るとすぐ、神主は鳳凰の幼鳥とともに本殿に篭った。幼鳥には符を貼り眠らせてある。鳳凰は妖怪の類としては力も弱く、成鳥となっても符で十分に押さえつけられる程度の力である、と伝え聞いていた。また鳳凰は霊鳥でもあり、霊力を与えることで時間を与えずとも育てることが出来る。幼鳥のまま献上しても十分ではあるだろうが、なるべく見栄え良くしていた方が良いに決まっている。実際妹紅が連れていた間まともに手入れもされていなかったので、鳳凰の羽は塵に塗れ絢爛な羽毛もくすんでしまっていた。しかし成鳥まで育てられれば俗世の塵など燃えて消えるだろう。
四方を縄で囲み儀式を行う準備をする。鳳凰ほどの霊鳥ともなれば本来は人身御供くらいの捧げ物でなければ急に成長させられなどしない。が、ここは本殿の中で神の霊力で満ちている。普通神の霊力を割き与えると土地の力も衰えてしまうが、鳳凰が成鳥となればそれさえ十分に元が取れるはずだ。
幼鳥を捧げ持ち、祝詞を奏上する。始めは何の変化も無かったが、儀式が進むにつれ鳳凰はその体を大きく膨らませていった。神主の額に玉のような汗が浮かび、罅割れた唇から囁くような祝詞が続く。初老とはいえ年老いた神主にとっては一人きりで儀式を行うのは苦痛ではあったが、それもこの後のことを考えればなんということでもなかった。
しばらくして祝詞は奏上を終え、儀式はつつがなく終わった。始まる前は符で身が覆われるほどの大きさであった鳳凰は、すでに五尺はある巨大な鳥へと変化していた。
本殿の冷たい板張りの上に手をつき、神主は息を吐く。と、その神主に声がかかった。
『貴殿が我に力を割き与えてくれたのか』
名のある和歌の達人が名歌を読み上げる様な朗々たる声。神主が頭を上げると、そこにはこれまで窮屈に閉じられていた羽根を広げ、惜し気もなく五色絢爛な身を曝す鳳凰の姿があった。思わず息を飲む。その余りの神々しさからか、神主は鳳凰に後光さえ幻視した。枯れ果てた喉から搾り出すようにして声を出す。
「はい、そうでございます。幼鳥でありました貴方様に、こちらの神力をお借りして」
『そうであったか。感謝する』
その言葉だけで神主はこの先の自分の成功を確信した。
鳳凰は自身の体に不調がないか確かめるように全身を繕った後、再び神主に声をかけた。
『貴殿は我をこの後どうするつもりだったのだ』
鳳凰の言い草がおかしいことに神主は気がつかなかった。
「はい、私どもの手に余りますので、帝様へと献上しようと」
『そうか』
鳳凰は高く一声鳴いた。まるで高価な笛の音のように雅な声。神主はそれを聴いているだけで儀式で疲れ果てた体が再び力を取り戻すような心地になった。神主は立ち上がり、鳳凰へと声をかけた。手には符の大量に巻き付けられた細い注連縄が握られ、鳳凰が口を開く前に首へと巻きつける。
「それでは、帝様に献上されるまでこちらの符で眠っていただきます。ご容赦ください」
『……』
「御前にお届けするまでに貴方様の身が狙われるわけにはいけません。そのためにどうしてもこうせねばならぬのです。不自由でしょうが、どうか……」
そこまで言って、鳳凰が嘲笑するように笑ったのが神主に聞こえた。疑問に思って首を傾げるまもなく、鳳凰の背後、本殿奥の御神
体に火が放たれているのが見えた。後光が見えたのはなんのことではない、鳳凰が背後に火を放ったのだ。鳳凰に気を取られ神主はこれまで気がついていなかったが、辺りを見回せば本殿の各所から火の手が上がっている。
「なっ……」
『我を誰に捧げるだと? 我はここより遥か西方で生まれた翼ある物の王。それを捧げようなどと、おこがましい』
神主は思わず耳を塞いだ。陶器をすり合わせるような、砂をすり合わせるような、なんとも聴き難い雑音混じりの声であったからだ。聴いているだけで不快になる声で鳳凰は続ける。
本殿を焼く炎は勢いを増し、もはや神主の周囲を残し全てが炎で嘗め尽くされている。
『しかし、自分の崇める神の力を割いてでも我に力を与えてくれたことには感謝する。本来百年は待たねばならぬところをほんの数ヶ月でここまで成る事が出来た。
礼に、苦しむことなきよう焼き滅ぼしてくれよう』
神主は息を飲み、一息焼けた空気を吸った。その僅かに開いた口から鳳凰の放った火が入り込み口食道肺腑を焼き、焼け付いた息が膨張で口から吐き出されたときにはその僅かな振動で胴体から崩れて落ちた。
視界全てが燃えて盛る情景に満足げに首を尾を動かすと、鳳凰はさらなる炎を身から吹き上げた。
***
妹紅が全速力で通りを駆け抜けている間に火柱はもう姿を消し、夜空は一見平穏を取り戻していた。ただ莫大な熱で巻き上げられた空気でさきほどまで月明かりの美しかった空は、今や暗澹とした雲が現れ渦巻いている。
夜も更けていたとはいえあれだけの光を放てば誰しもが注目するだろう、神社の周りは人だかりで騒然としていた。しかしさすがに神社の境内まで入り込む勇気はないのか、遠巻きに囲みながら不安そうに会話しているだけである。妹紅が人波を泳ぐように通り抜け神社の正面に立つと、崩壊したそれの異様が目に飛び込んできた。
古めかしくも美しかった社はもはや見えず、回りを囲む鎮守の森はその形を保ったまま炭化している。それどころか石畳さえもそこかしこがひび割れ、酷く焦げ付いていた。境内の中に入らなくても焦げ臭い匂いがそこかしこから漂ってくる。妹紅は奥歯を軋むほど噛み締め、境内の中へと走りこんでいく。
中に入ればそれはさらに酷い情景だった。焼け焦げた空気が喉の奥まで傷付けてしまいそうでおもわず妹紅は口に手をやる。走っている足にも草履越しに石畳の熱が伝わって酷く熱い。息もするのも困難な中で妹紅は、今日の昼間では拝殿のあった、灰の山の前まで走りこんだ。足元がもう火傷し始めているが、妹紅は気にしなかった。それよりももっと遥かに探すべきものがあったからだ。
鳳凰を受け渡したのが昼のこと。そして今晩のこれだ。関係がない方がおかしい。火の燻る拝殿の残骸を掻き分け、まだ煙を上げる灰を蹴り上げながら走った。拝殿の奥には本殿があったはずの場所がある。
足が焼けては治っていく痛いようなむず痒い様な感覚が足元から登ってくるが、なおも走る。
妹紅は足を止めた。確か本殿のあったはずの場所は、丸くくり貫かれたように削れていた。そしてその表面は陶器の破片のような白い粉末で覆われている。それがどうして起きたものかまでは分からなかったが、恐ろしいほどの熱で焼かれたために起きたことは妹紅でも想像がついた。そしてその中心には、熱でいまだ陽炎をあげる何かの姿がある。
身の丈は五尺超。全身は五色絢爛な羽毛で覆われ、特にその尾は透ける様に青い。陽炎の揺らめきを通してでも分かる、怪鳥の威容。長い鎌首をもだけ、赤色の翼を広げてその怪鳥は高く一声鳴いた。その声は高価な笛よりも遥かに胸を打つ澄んだ音で高く空に響く。
一陣の風が吹き、大粒の雨が盛大に降り注ぎ始めた。辺りから雨粒の蒸発する音が聞こえる。
足を踏み出そうとしたが、吹き上がる余りの熱で妹紅はおもわずたじろいだ。が、その僅かな足音で気がついたのか、怪鳥は飛び上がると妹紅の背後に降り立つ。振り向けばあの時灰塗れで横たわっていた時と変わらず、しかし巨鳥となった鳳凰が立ちふさがるように翼を広げていた。
妹紅は焼け付いた空気を吸って底から渇いている喉から、搾り出すように声を出した。
「お前は、鳳凰か」
『そうだ。……いや、厳密には違うが』先ほど鳴いた声とは比べ物にはならない、思わず耳を塞ぎたくなるような声で言った。『我は本来遥か西方の地の者。しかしこの地で呼ばれる名があるとするならばその鳳凰、というのが最も近いのだろうな』
毛繕いをするように羽根を嘴で弄りながら、鳳凰はそう答える。降り注ぐ雨に妹紅は身を塗らして行くが、鳳凰には触れることは出来ないかのようにその寸前で避けて跳ねた。塗れてへばり付く黒髪も気に止めずに、妹紅は立ち尽くす。燻る炎に照らされた顔は血色なく白い。
『そういえばお前は傷ついた我を快方してくれたな、ありがたかったよ。本来はそうされるまでもなかったのだがな。散々食餌も与えてくれた』
「ああ、あれは面倒臭かったよ。いちいち米をすり潰したり鳥の餌を買って来たりな」
耳障りの悪い声に顔をしかめながら妹紅がそう答えると、鳳凰は笑った。馬鹿にした笑いだ。
笑い声を聞きながら妹紅はこれまで小鳥と過ごしていた時間を想像した。あの小鳥と目の前の化け物とがどうしてもつながらなくて、気持ち悪くなる。
『いや、あれは俗物の鳥の食餌だよ。我がいつも食していたのはお前が退治した後の妖怪の血肉だ。元々我も猛禽の類だ。血肉でなければ食事をした気にならん』
ああ、だから私が妖怪退治をしている間お前はいつもどこかにいて、しばらくしてから戻ってきていたのか。
「どうしてこの一晩でここまで成長を」
『ここの神主が土地の神の霊力を分けてくれたのでね。帝とやらに捧げたかったらしいが。私と比べれば力も弱い神だったが、幼鳥だった私には他に手立てもなくちょうど良かったよ。おかげさまで完全とはいかなかったが、そこそこまでは回復できた。不味かったが』
ああ、それであの人のよさそうだった神主は、燃えて死んだのか。
「じゃあ、どうしてここをこんな風にしたんだ」
『気分が良かったのと、そうだな。こうすればお前は駆けつけてくるだろうと思った。お前ほどよく妖怪退治など出来る人間なら、ここの神主より遥かにうまいと思った』
ああ、それでこんな古びていて美しかった神社が灰になったのか。
「そうか」
空を見上げた。大粒の雨が妹紅の体を打つ。塗れた服が肌に張り付いて気持ち悪い。
『悔しいか? しかし我らは誰しもがそんなものだ。あの神主も自分の欲のために我を使おうとした。お前もまた、自分の孤独を癒すために我を利用した。規模は違えど、変わるものではない』
「知ってるよ」
ただ忘れていただけだ。なんのために自分がこの永遠を孤独に生きることを選んだのか。なんのために自分が人から離れて生きようと思ったのか。誰もが私利私欲で動く、こんな世界だからそうしようと思ったのに。結局利用し利用され、今自分はここにいる。
雨で塗れた髪をかき上げ、鳳凰を見据えて妹紅は問うた。
「最後に聞きたい。お前はこんなことが出来るくらい強力な奴だってことは分かった。
じゃあなんで、私が始めてあったとき、あんなボロボロで、灰塗れでその辺に転がっていたんだ」
そう妹紅が言うと、鳳凰は耳障りな声で笑いながら、しかし体をすくめ翼で覆い、怯えるようにして答えた。
『思い立ってこの地に訪れたときに、人型でありながら妖怪でも人間でもないものを見つけた。暗い山の奥だったよ。面白い、と思ってそいつを焼いて取って食おうと思った。
だが、その女たちは我の炎でも死なず、むしろ我を弓で打ち死の寸前まで追い詰めた。それで己が身を焼いて灰から蘇らざるを得なかった。
……名前はそう、確か片方の女が、輝夜とか呼ばれていたか』
「……そうかい!」
そう言って妹紅は懐から符を取り出して投げつけた。妖怪になら触れるだけで爛れる様な符も鳳凰にはたどり着く前に燃え尽きる。鳳凰は嘲るように笑い、それが戦いの口火となった。
『質問は終わりか。では焼いて食らうとしよう』
爆ぜるように放たれた火を妹紅は灰の上を転がりながら回避した。転がりざま、鳳凰に向けて刀子を投げつけるが、翼で弾くまでもなく火で炙られ体まで到達しない。妹紅は舌打ちする。
鳳凰が体を縮める。いやな予感がして妹紅はさらに灰塗れになるのも厭わず全力で身を反転させ地面へと飛び込んだ。刹那の後、先ほど夜空で燃えていたものとも似た炎の塊が妹紅の背中の上を通り過ぎる。
背中を焼かれた。鈍い痛みに顔をしかめるが、素早く身を起こして再び鳳凰へと構えなおす。
次々と自分に向けて飛んでくる火球を体の端を焦がしながら走りつつ回避し、妹紅は考える。火球は確かに早くまた確実に妹紅を狙ってきてはいたがそれほど火力は高くはないようだった。余り強い火力で焼き殺すと食えないのだろう、妹紅からすれば鳳凰が気を抜いているうちにどう落とすかが問題だった。
転がり、飛び跳ね、走り回りながら妹紅は考える。ただの符では焼き落とされる。刀子を投げつけるのも通用しない。妖怪相手なら経文や読経も効果はあるだろうが、目の前のこの化け物には通用するとは思えない。
牽制の刀子を数本投げつける。が、それさえ弾き飛ばしながら火球が迫ってくるのを見て妹紅は焦りながら三度飛び込んで回避した。避け切れない。引き付けきれなかった右足を火球が直撃する。激痛に無言で耐えながら右足を見た。
草履は焼ききれ痛みは酷いが、意外にも足のほうは見た目には効果は少ないように見えた。火除けの符も貼り付けてあるからか、熱と衝撃で足は痛んでも酷い傷を負っているわけではなさそうだ。助かる、と妹紅は背を低くし立ち上がりながら思った。不死の力は最後の切り札である。それを悟られるわけにはいかない。
鈍く痛む足をかばいつつ走り出しながら、刀子を一本取り出して符を突き刺して投げつけた。鳳凰が妹紅ごと貫こうと火球を撃ちはなつ。が、刀子は火球の中心を貫き、鳳凰の翼に突き立った。回避に横転する妹紅はそれを見て笑い、鳳凰は痛みにか小さく首を蠢かせる。
「なんだかんだいいながらも火は火。火除けの符はどうにもならないみたいだな」
『ぬかせ。こんな細い刀子の一本や二本突き立ったところでなんだというのだ』
言いながらも鳳凰はさらに火球を連発してくる。それをすんでのところで避けながら妹紅はにやりと笑った。やたらめったらに火を飛ばしてくるのは火除けが効くことは否定できない証拠だ。そして反応からして明らかに傷に動揺している。
今晩のことを思い出す。火除けの符は全部で十。さっきの刀子で残り九枚。それでしとめる。
火球を避けられ続けていることに苛立ったのか、鳳凰は一旦火球を口から放つのを止めた。妹紅も足を止め相手を警戒しながら刀子に符を仕込んでいく。まずは三枚。そこで鳳凰の腹が酷く膨らみ身を縮めていることに気付いた。
「……そう来たか!」
猛烈な勢いで放たれた火球は三つ。しかも連続で妹紅の位置にあわせながら放たれてくる。妹紅は火球の合間を縫うようにして走りこみ、鳳凰への距離を詰める。服が火に掠り取られて熱が全身を襲うが無視。火球の合間から相手の体を視認、瞬間に刀子を投げた。
狙い目は両翼の付け根と首。恐ろしい熱とそれによる風の中で寸分の違いなく目標へと刀子が放てるのは、火除けの符だけでなく妹紅の長年蓄積された技量によるものだ。避けようにも鳳凰は火球を放つために身を縮込ませていて動けない。そう妹紅は踏んだ。
『……舐めるな!』
鳳凰は口から放たれるはずだった火を全身から噴出し衝撃を放った。符を貼り付けた刀子は鳳凰に突き立つ前に弾き飛ばされ、妹紅自身の体もその勢いで飛ばされる。紙のように吹き飛ばされながら妹紅は自分の予想に確信を持つ。たかが刀子を受け流すのにもこんな力を使うなら、鳳凰も圧倒的な力のように見せながらその実まだ本調子ではないのだ。土地神の力を食ってなお妹紅をも喰らおうとするのはその力を取り戻すため。ならば勝機はある。
符は残り六枚。
火球ではらちがあかないと思ったのか鳳凰は大きな翼を最大限まで広げ、全身から羽毛のような火を放つ。妹紅は慌てて回避に入った。一個一個はさきほどの火球より遥かに小さいが、その数と速さが比ではなかった。まるで火の矢が面で飛んでくるようである。しかし、その炎は鳳凰の翼の正面からしか飛んできてはいない。妹紅は右足を引き摺りながら全速力で走り火の雨から身を離すが、鳳凰は火を放ちながら体の向きを変え、回避を許さない。次第に追いつき、妹紅の体に殺到する。
限界まで身をかがめて直後跳び、弾幕を回避した。が、一本だけ妹紅の正面逃れなれない位置に火が迫る。
「っ!」
火除けの符を打ちつけ相殺。残りの符は五枚だ。なんでもっと符を持ってなかったんだろう、と後悔するが遅い。次出会った妖怪には絶対腐るほど符を打ちまくってやろうと心に決める。
『残りの符が少ないようだが』
「うるさいなぁ。黙って私に倒されればいいんだよお前は」
表情から符の残弾が少ないことを見越したのだろう、嘲笑いながら言う鳳凰に妹紅は毒づく。妹紅の見立てでは鳳凰を打ち倒すには一個しか方法はなさそうだった。鳳凰は体に傷を受けることを最優先で避け、自分に妹紅が近づけないよう火を放っている。こちらの符も残り少ない。もしそれを突き崩すとすれば一撃で相手の首を取るしかない。
再び放たれ始めた火の雨を全身を左右に行き来させながら避けつつ妹紅は両手に符を握る。右に三枚、左に二枚。右手には合わせて刀子を握りこんだ。これで首を取れなければ妹紅の敗北は決まる。
翼から放つ火も避けられ始めたことに鳳凰は気がついた。一旦翼を閉じ弾幕を止める。
『しかし、これだけの実力があれば我から逃げることもたやすいだろうに、何故敢えて我に立ち向かう』
「まあ理由はあるけどな」妹紅はひざを灰の上について荒い息をしながら答えた。「私が起こした不始末だからその責任を取るってのもあるが……それより重たいものもある」
『なんだそれは』
「……それはどっちかが勝ったら教えてやるよ」
『…………』
鳳凰は溜息をつくように沈黙した。呆れられたのかも知れない。人の身でこんな妖怪の類を呆れさせられる自分は案外すごいのかも知れないな、と妹紅は思った。
『……では、是非聞かせてもらうとしよう』
そう言って鳳凰は再び両翼を広げた。放たれる火はさきほどと同じ小粒の火だが、翼の角度の問題か鳳凰の正面は火が飛び交ってはいなかった。誘いだ。それでも妹紅は全速で距離を詰めながら鳳凰の正面へと飛び出す。そこでようやく鳳凰の腹が膨張しているのに気付いた。
翼からの火と同時に口から放たれた火は火球ではなく、むしろ翼を広げた小型の鳥のようであった。それはこれまでの火のいずれよりも早く、放たれた瞬間に妹紅へと肉薄する。しかし、妹紅は微笑んだ。
「こういう大技を待ってたんだよ……!」
妹紅は自分の腹に突き刺さる直前の火の鳥を左の手の二符で持って掻き消し、鳳凰の前上面へ突進した。鳳凰は焦ったように翼の範囲を狭めていくが、妹紅の体を捉えるにはいたらない。最後の一歩を大きく踏み込んで符ごと刀子を突き出す。狙いは勿論鳳凰の首だ。
体を鳳凰へ預けるように倒れこみながら、妹紅は首に思い切り刀子を突き刺した。肉を突き刺す確実な感触が手に伝わる。血が噴き出し炎が右手を舐めていくが、符で守られた右手と刀子を焼ききるには至らない。鳳凰は口から血を吹き出して、妹紅と共に灰の中へ倒れこんだ。
翼の火はもう止まっている。
妹紅は突き刺さった刀子を引き抜き、左手で首根をつかんで刀子を当てた。もうおそらく十分だろうが、これだけ強力ならば油断は出来ない。首を切り落とすのが一番安全だ。そう思って強く力を込め刀子を引ききろうとした、そのときだった。ふわりと、鳳凰の翼が妹紅の背を抱き寄せるようにかき抱いたのは。
それに反応して妹紅が右手を動かす、それより先に鳳凰の全身から炎が上がった。
「……!」
声にならない声が妹紅の口から漏れた。背から胸から妹紅の体が焼き尽くされ、全身から肉の焦げる臭いが立つ。体を焼かれながらも妹紅は必死の形相で右手に力をかけるが、筋肉が熱で引き攣れて思うように刀子を引ききれない。それでもなお妹紅はその翼の戒めから逃れようと身をよじったが、最後には妹紅の体は鳳凰の首を捕まえたまま痙攣するように跳ね、そして妹紅は力を失って、いまだ燃え盛る鳳凰の体への倒れ伏した。それを確認して、鳳凰は身の炎を収める。
鳳凰はゆっくりと灰の中から半身を起こした。今自分の翼の中には焼け焦げた死体が抱かれている。鳳凰は心底驚愕していた。全盛ではないとはいえ人の身にここまで自分が消耗させられるなど思っていなかったのだ。あげくの果てには首を跳ねられる寸前まで至っている。所によっては悪魔とまで言われた自分からすれば恐ろしいことだ。
鳳凰が身を立てると、妹紅の手はそれでも鳳凰の体を握りしめ離さなかった。すさまじい執念だ。結局理由を聞くことができなかったが、おそらくよほどの理由があったのだろう。人間ではない鳳凰には想像もつかなかった。
首を握りしめる手を鳳凰は羽根先で払いのけようとしたが、しかしあまりに強く握りしめられて羽根先ではうまく払いのけられない。仕方がない、と思いつつ火を羽根先に集め、手を焼ききろうとした。皮膚は焼けただれ、焦げ臭さが酷くなっていくが、しかし首を握る力は衰えなかった。
いやむしろ首を握る力は強くなっていっている。
鳳凰が驚愕していると、ボロボロに爛れた顔から搾り出すような声が聞こえた。
「……ああ、ちょっと死んでた。悪い」
首を押さえた妹紅の手に更なる力が入り、鳳凰は苦しさにうめきながら首を振り、再び全身から炎を噴き上げ妹紅の体を焼こうとした。炎は確かに妹紅の肉体を傷つけ炙ったが、しかし体の表面以上を焼くにはいたらない。鳳凰は動揺した。これではまるで、
「我があった女たちと同じだ、って思ったか? ……そうだよ、そのとおりだ。人でありながら人でない、不死の人間」
鳳凰は再び地面へと引き倒され、妹紅はその上に馬乗りになった。炎は火勢を弱めることなく妹紅の体を焼いている。しかし妹紅はもう体の動きを止めることはない。左手に力を込め、右手に握っていた刀子を首に当てようとする、が刀子は燃え尽きたのか右手には既に握られてはいなかった。仕方がない、と妹紅は鳳凰の首に両手を当てた。
『ぐっ……お前は、我をどうするつもりだ』
「あ? そうだなぁ……」
本当に今まで考えてもいなかったように妹紅は首をかしげ、口元を引きつらせるように笑った。顔は焼け爛れ酷い形相で背後では鳳凰の放っている炎が揺らめく。鳳凰はその壮絶な光景に息を飲む。痛みは発狂するほどのはずだ。体は不死のものでも耐えかねる熱さを受けているはずだ。なのに何故そんなにも無邪気な笑いを浮かべられるのだ。
そのとき鳳凰は思い出す。戯れに人でないものを炎で焼き、返り撃たれたあの日のことを。あの時自分が焼いた女も、同じような笑みを浮かべてはいなかったか。あの時自分を弓で落とした女も、同じ顔で笑ってはいなかったか。
「鳳凰って確かその血を飲むと不老不死になれるらしいな。不老不死の私が飲むとどうなるんだろうな。
……とりあえずお前は私を食べようとしたよな? だったら、」
鳳凰は押さえられた首に一際強い力が篭るのを感じた。
『……やめろ』
「私がお前を喰っても、罰は当たらない。そうだろ?」
妹紅は全力で握りこんだ首を上下に引き千切った。鳳凰の上げようとした壮絶な悲鳴は、喉が引きちぎられたことで永久に上げることは叶わなかった。のた打ち回る首を投げ捨て、血と炎を噴き出し痙攣する鳳凰の体を妹紅は逆さにし、血を浴び飲み干す。全身を取り巻く炎の中全身に血を浴びる妹紅の姿は、壮絶というのも生易しい。
鳳凰の血はぬめりも臭みもなく、むしろ上質な酒を飲むような滑らかさで妹紅は驚いた。喉を鳴らし、滴る一滴も残さずに飲み干していく。うまい。妹紅はそう思っている自分を嘲笑いながらもはや血も枯れた鳳凰の体を投げ捨てた。口元の血を拭う。血を拭い取った手にはすでに火傷のあともなく、妹紅が自分の体を見回すと元通りの姿だった。蓬莱の薬の力か、鳳凰の血のもたらすものか、どちらかは分からなかったが。
とくり、と妹紅は自分の腹のうちが熱くなるのを感じた。血の不死の力が腹のうちで蓬莱の薬の不死の力とぶつかり合い、行き場を探しているようにも思えた。数瞬して激烈な痛みが体を襲い、妹紅は体を折り膝をついてその痛みに耐えた。頭が、体が、割れるような痛み。好奇心と復讐心で血を呷った後悔すらする暇もなく、ただ中から焼かれるような痛みだけが走り続けた。
妹紅の中では数日にも近い、しかし現実には数秒の間に痛みは落ち着いた。ただその間に妹紅の黒髪は色を失って透けるような青白い髪となり、そして妹紅には身のうちに余す強烈な炎だけが残った。
いつの間にか雨は止んでいた。周囲にはただ痛くなるような静寂だけがある。
さきほど投げ捨てた鳳凰の首を拾い上げた。もはや完全に絶命した鳳凰の首は、ちょうど小鳥だった頃妹紅が拾い上げたのと同じくらいの大きさだった。優しく手に持つと、妹紅は少しだけ愛しそうにその鳳凰の頭を撫でた。
「……お前も、私が餌を与えたりなんかしなかったら、私がつれて歩きなんかしなかったら、こんなところで死ぬことも無かったのにな」
さっき投げ捨てた鳳凰の体の上に、その首を置いてやる。確かやりあう前に灰の中から蘇るなどといっていたような気がする。ただの感傷にすぎないが万に一つでも可能性があるのなら、妹紅はそれでもするだけの価値はあると思った。
鳳凰の死骸に手を翳す。火の出し方はなんとなく分かった。この内燃する力を外にちょっと差し向けてやればいい。
「そういや、理由を言ってなかったな。お前からしたら納得できない理由かもしれないけど、一応言っておこうか。
……お前を倒せないようじゃ、あいつらを倒すことなんて出来ないからだよ。
じゃあ。……今度は私なんかと出会ったりするなよ」
言うと同時、妹紅の手から放たれた炎は鳳凰の体へと殺到しその肉を焼く。鳳凰のくべられた火は眩く燃え上がり、妹紅は眩しくて空を見上げた。燃え上がる炎と白い煙は高く伸び、遠く夜空の月まで昇るようだった。
妹紅は一人じっと佇んで、鳳凰の身が全て灰になり燻る火までもが絶えるまで、ただただ夜空を見上げていた。
***
夕焼けが山の向こうへゆっくりと沈んでいく。それを遠目に見ながら、妹紅は手の内でちりちりとした皮膚の焼ける感覚が失せていくのを感じていた。最後の一欠片の火を握りつぶすと、木の爆ぜるような音と共に妖気が霧散する。
ふぅ、と一息ついて妹紅が後ろを振り向いて藪の方へと手を振ると、感嘆のような声と共に一人の若い僧侶が這い出してきた。己の未熟を恥じてか顔を赤らめながら、妹紅に頭を下げる。
「ありがとうございました、旅のお方。私も修行の旅の道中で……私も立ち向かいはしたのですが、全く歯が立たず。危うい所を助けていただきありがとうございます」
「いやぁ、構わないよ。もし私の方がここまで来るのが早ければ出会うのは私のほうだった。感謝されるいわれはないさ」
そう言いながら手を振り、妹紅は歩き出そうとした。その背後から、真剣な僧侶の声が聞こえてきた。妹紅は首だけで振り返る。
青く透き通るような髪が、振り返った瞬間に風になびいて広がった。
「しかしあなたはお若いし、一見僧侶にも巫女にも見えませんが……しかも火を使うなどという神通力までお持ちで。一体いかなる高僧の元で修行を」
「それは……」妹紅は一瞬思案するそぶりをして、笑って答えた。
「まあ長い間旅をしていれば自然に身につくものさ」
夕焼けが山の向こうへ傾いている。それを遠目に見ながら藤原妹紅は、手の内でちりちりとした皮膚の焼ける感覚がゆっくりと失せていくのを感じていた。最後の一欠片の火を握りつぶすと、木の爆ぜるような音と共に妖気が霧散する。ふぅ、と一息ついて妹紅は艶めいた黒髪を掻きあげて汗を払った。乱雑な仕草だがどことなく気品を感じさせる仕草で、そぞろに切られた髪が夕焼けを映している。
さきほど妖気を握りつぶした片手は握りこんだまま、妹紅が後ろを振り向いて藪の方へもう一方の手を振ると、感嘆のような声と共にぞろぞろと何人もの男たちが這い出してきた。その中でも一際年かさの入った風な男が前に出てきて頭を下げ、つられるように他の男たちも次々と頭を垂れた。
「ありがとうございました! 本当にあの化け火にはほとほと手を焼いておりまして。村の者も追い払おうとはしたのですが……ともかく、ありがとうございました」
「いやぁ、構わないよ。ついでみたいなものさ」
地面にこすり付ける勢いで頭を下げる男たちに、妹紅は照れたように頬を掻きながらそう言った。ここは街道沿いの小さな宿場村。しかも急峻な峠を前にしたあまり人の多く通ることも無い裏道に近い街道だった。このような土地では街道に妖怪の類が出るというだけで村の趨勢に関わる。そこに自分のような妖怪の類を退治できる人間がたまたま訪れたことは本当にありがたかったのだろう、 男たちは妹紅が頭を上げるように言うまで決して頭を上げようとはしなかった。
このまま峠へと街道を行くという妹紅を、村長であるその年長の男は慌てて引き止めた。
「お待ちください! あなたには村を助けていただいたようなものです。お礼の一つもないようでは罰が当たります。
それに、もう夜も更けてまいります。ここはうちの宿にお泊まりください。勿論お代などいりません。私どもで出来るだけのお世話をさせていただきますので、どうか……」
「そうはいかないよ。私は自分が行く道を塞ぐもんを勝手に退治しただけだ。それでそんなお礼をされたらこっちが恐縮する。お礼ならさっき貴方達が頭を下げてくれただけで十分」
そういわれて、男たちは喜ぶというよりむしろ困惑したようだった。それも仕方が無い、と妹紅は思う。おそらくこの村ではこれまでも何度か街道に妖怪が出て退治を頼んだことがあるのだろう。普通の人間が妖怪を退治するのにはかなりの苦労と危険があるから、相応の対価を要求されても不思議は無い。それを頭を下げるだけでいいというのだ、いぶかしむのが自然だろう。
困ったようにぼそぼそと話し合う男たちに妹紅は声をかける。
「心配しなくてもあの妖怪はきちんと退治したよ。貴方達もみていただろ。それに、ちょっと用があって道を急ぐんだ。だからどうしてもお礼がしたいって言うなら今度私が来たときにでもしてくれればいい」
「しかし……」
「心配なのなら私を世話する金で巫女でも呼んで見てもらってくれ。土地の人間でもない私が言うよりその方が貴方達も都合がいいだろ」
そこまで言って、ようやく男たちも安心したようだった。ありがたい、ありがたい、と言いつつそれぞれまた頭を下げる。妹紅は苦笑した。彼らは放っておいたらいつまでも頭を下げていそうな気さえしてくる。
「まあこんな運のいいこともそうそう無いだろうから次は気をつけてな。あれはそう人を傷付けるものでもないが、ただの人間で妖怪に手を出すのは感心しない。
あ、そうそう。もしよければ峠の途中に夜露をしのげるような所はあれば教えてもらえないか? さすがの私も一日でこの峠を越えられるとは思えないから」
「それでしたら、一つ目の山を越えたところに小さな社がございます。今からなら一刻……女性なら1刻半くらいでたどり着けるかと。もう人が訪れることもほとんどないので荒れてはいるでしょうが」
「屋根があればそれで十分だ。ありがとう」
これで少なくとも野宿する手間は省けそうだ。妹紅がそう思っていると、一人の若者が一言妹紅に尋ねた。
「しかし貴方はお若いし一見僧にも巫女にも見えないのですが、どこで妖怪退治などという術を身に付けられたのですか」
「それは……」妹紅は一瞬思案するそぶりをして答えた。「まあ長い間旅をしていれば自然に身につくものさ」
尋ねた男は意味が分からずに首をかしげ、妹紅はそれを見てただ微笑んだ。
そうして妹紅は口々に礼を言う男たちに別れを告げて、次第に夜に近づいていく街道へ歩みを向けた。話していた始終握りこんだままだった手は、男たちの声が聞こえなくなる頃には火傷のあとも残っていなかった。
***
村を離れてから一刻を少し過ぎた頃、妹紅の行く道の先に村長の言っていた社の境内がようやく姿を見せた。確かに人の訪れが絶えて久しいのか手入れされていない風だったが、社は妹紅の想像よりもしっかりとしていた。社の周りだけ木の群れが途絶え、月明かりが差し込んでいる。
妹紅が社までたどり着くと、座り込んで盛大に息をついた。歩いてきた街道は意外と急峻で、死なないとはいえ女性の体である妹紅にはかなり厳しい道のりだった。それでも大の男並みの速さでたどり着けたのは、妹紅がこれまで何度もこういった場所を歩いてきたからに相違ない。とはいえ妖怪退治に山道にと随分体力を使わされた妹紅は、ともかく一晩この社で過ごすことにした。
ささくれた立て付けの悪い木扉を開いて社の中へ入り、手持ちの荷物から火打石と明かり取りの蝋燭を取り出して火をつけた。蝋燭の光で照らされたこじんまりとした内部はしかし一人寝泊りするには十分な広さで、見る限り獣や山賊に荒らされた気配も妖怪の類が巣食っている様子も無い。これなら今夜は安心して眠ることが出来るだろう。
――くぅぅぅぅ……
「安心したらお腹がすいてきたな……」
確か荷物の中にさっきの村で買った握り飯と煮込みものがあったはずだ。ごそごそと荷物を漁り、それを取り出す。普段なら人里から離れたところで寝泊りすることが多いこともあって干飯などとその場で採れる山菜などを食べること多い妹紅だが、今日は村から山道に入ったばかりだから多少豪勢なものも食べられる。山道を行く最中で汲んだ湧き水を飲みながら、豪快に口に入れていく。たまの非常食や山野の材料以外の食事で、空になっていた腹はすぐ満たされた。
食事を済ませると、荷物を枕にして床に寝転がる。明日からもしばらくは山道を行かなければならない。板間は多少背が痛かったが、少なくとも木や河原を背にして横になるのよりははるかに良かった。寝転がった妹紅の顔を明かり取りの木窓から差し込む月明かりが照らす。妹紅からは青い夜空に煌々と浮かぶ月と風にざわめく木々の揺らめきが見え、どこからか吹き込む風に妹紅は少し身を震わせた。
「……あの村長の言うことにしたがっておけばよかったか」
すこしだけそう後悔するが、今更考えてもどうしようのないことだと考えるのをやめる。
妹紅が人里の宿を避けるのにはちょっとした理由があった。
かつてまだ妹紅が妖怪退治を始めたばかりの頃だ。今日と同じような流れで妹紅は村の人間に歓待され、久しぶりの暖かい食事に素直に喜んでいた時だった。偶然食事を運んでいた給仕が躓いて転び、その拍子に割れた器で妹紅が手を切りそれが治っていくところを見られてしまったのだ。妹紅は妖怪退治の英雄から他の妖怪と結託して人間をだました妖怪へと扱いが様変わり、色々と抗弁したものの聞く耳はもたれず、最後には周囲の寺社から巫女やら僧侶やらが出てくる騒ぎになって結局その町から逃げ出すことになった。
もちろんこれまで数百年生きた妹紅なら巫女や僧侶を退けるのは訳ないし、まず妖怪ではないので妖怪退治の技術では妹紅を退治することは出来ない。しかし妖怪(とされた者)が簡単に巫女や僧侶を倒してしまってはそれ以後のその町や村は妖怪にとって格好の標的になってしまう。それは避けたかった。
それから妹紅はよほどのことが無い限りは人里で泊まることを止めている。何の拍子でまた騒ぎになるか分からないからだ。
月は荒涼と青い光を静かに放ち続けている。暖かさの感じない月だ。とくり、と妹紅の心が痛みを放った。月を見ているとどうしても輝夜の事を思い出してしまう。今思い出しても忌々しく思う。数百年前の出来事を何故いまも、と妹紅自身思わなくもないがそれでも激しい恨みの気持ちは絶えていなかった。
絶世の美女として父を始め多くの貴族を魅了し無理難題を押付けてはからかい、果ては帝をも動かしたというのに月の使者とともにどこかへ消えてしまった、という。伝え聞いた話に過ぎないといえばそうだが、秘されていたとはいえ父の顔を見ることもあった妹紅だ、それが事実であろうことは分かっていた。それゆえに帝が焼き捨てるはずだった不死の薬を奪ってまでどこにいるとも知れない輝夜を追うことにしたのだ。
しかし、と妹紅は自分を省みて笑う。父に隠匿され、隔離された生活とはいえ貴族の生活はそれなりに満たされたものだった。それを丸ごと捨ててまで父に恥をかかせた者に復讐しようなどと今思えば無謀にも程がある。
「……そんなに父に認めてもらいたかったのか、私は」
もう何度も考えたことだった。全く、というほどではないがそれでも公にされていた兄弟姉妹とは違い、妹紅は父に会う機会も少なく厄介者扱いされていたのも事実。そのため誰に和歌や楽器を習うわけにもいかず、容姿がそれこそ輝夜のように特段秀でたわけでもなく、ろくに貴族らしいこともできなくてその方面で父に認められることもありえない。そんな自分だったから、父に認めてもらうためには手段を選んではいられなかった。
しかし、そんな父も妹紅が家を飛び出して不死の薬を奪い、不死の体を持て余しているうちに亡くなってしまった。
「それにもし輝夜に私が意趣返ししたとしても、父がそんなことで私を認めてくれるとは思えないし」
若気の至り、と妹紅はいつもの結論に落ち着く。
それでも輝夜への復讐をかなえようとしているのは、もはや取り返しのつかない体となった妹紅の意地だ。曲がりなりにも妹紅がこうなったのは輝夜のせいである。その恨みを多少ぶつけても罰は当たるまい。
そう思っていなければ、不死の体を抱えて生きていくことなど妹紅の心では困難だった。
本人は意識していないが、妹紅にとって輝夜への復讐はもはや生きる目的だ。妖怪退治の仕事の真似事を始めたのも、もちろん路銀を稼ぐ意図もあるが、輝夜へたどり着くための情報がどこからか手に入らないかという期待があるからだ。こういう真似をしているとそれなりに出所不明の怪しい情報も入ってくるものだ。それを追いかけていればいつかは輝夜へたどり着けるはず、と思いながら何度も危ない橋を渡りつつも力をつけながらここまで着た。
妖怪退治をしながら輝夜への情報を集める。輝夜の居場所が不明な以上、妹紅に出来るのはどうしてもそれくらいになってしまう。しかし、
「今までそんな情報はいってきたことないんだよな……。まず月の住人ってだけでも眉唾なのに、そうそう情報が入るとは思ってはないけど」
そんな生活ももう100年近く続けている。なんだかどうしようもなく無駄なことをしているような気がするのを妹紅は否めなかった。ころり、と体を回して月を背にする。月明かりにほつれ放題の自分の黒髪を見て、妹紅は溜息をつく。
明日も山道を越えていかなければならない。今日はもう眠ってしまおう、と妹紅は思った。目を閉じると森の囁くようなざわめきが聞こえてくる。
月明かりは傾いていくしばらくの間じっと妹紅を照らしていた。
***
妹紅が目を覚ますと、既に社の中は明るかった。山鳥の鳴き声が四方から聞こえてくる。窓から外の様子を見て妹紅は少し寝すぎたかと後悔した。別に野宿しても構いはしないが、できれば今日中に峠を抜けたかった。
がたがたと木扉にあけて、朝の光を浴びて伸びをする。昨日の疲れは残っていない。少し早足で行けば夜までには峠を抜けて次の村まではたどり着けるだろう。と、妹紅がのんびり考えたときだった。社の正面荒れた石畳の上に、見慣れない鳥が横たわっていたのを見つけたのは。
「? 見たことない鳥だな……」
近づいてまじまじと見て、妹紅はその考えを確かにした。その鳥は雀くらいの大きさではあったが、見た目はむしろ孔雀に近いような不思議な姿をしていた。それに加えて全身が色とりどりの羽毛で覆われていて、一言で言うと派手だ。特に体の大きさに見合わない長い尾が透ける様な青色で、一際異彩を放っている。それに、
「なんで灰まみれなんだろう、この鳥は」
優しく持ち上げて妹紅は灰を払いのけた。灰は木や炭の灰に比べて妙に軽く、軽くなでただけで妹紅の手を汚すこともなく宙に舞った。
よくは分からないが珍しい野鳥だとしてもこんなところに転がしておくのは忍びない。せめて土に埋めてやるくらいはしてやるか、と妹紅がたちあがろうとした時だった。
「おおっ」
驚く。手の中の小鳥が小さいながらも確かに一声鳴いたのだ。しかしその声は非常にかすかで、いまにも消え入りそうである。
「ちょっと待ってろ。今助けてやる」
妹紅はその小さな生き物の生命力に驚きつつもなるべく静かに石畳の上にそれを横たえ、手持ちの荷物を大急ぎで探り出した。妖怪退治の道具やら生活道具やらをあたりに散らかしながら取り出したのは非常食の乾燥させた米と、昨晩の残り水だ。手のひらで米をすり潰し、再び鳥を手に取るとくちばしの辺りに米を近づける。
「鳥って何食べるのか分からないな……こんなんでいいのかな。鶏はこんなもん食べてた気はするけど。
……おっ、食べた食べた!」
小鳥は苦しいのかゆっくりとした動きだったが、確かに妹紅の手から米の粉を口に運んでいく。合間合間に水筒から雫を落としてやるとそれも飲んだ。その仕草がかわいらしく、妹紅は微笑む。次第に小鳥も妹紅の手から餌を受けるのに慣れて来たのか、しばらくするとすり潰した米が手の上からなくなってしまう。
――ピィ、ピィ。
「なんだ、まだ足りないって言うのか。欲張りな奴だな」
言いながら再び干飯を少しとってすり潰して与える。餌を貰って少しづつ元気を取り戻してきたのか横たえていた体を起こし、積極的に餌をついばみ始めた。さっきまで今にも死にそうな風だったというのに不思議なもんだ、と妹紅は笑いながら感心した。
米をすり潰して与え、雫を落として飲ませる。しばらくそんな作業を繰り返す。妹紅の手つきはたどたどしいものだったが、それでも半刻もする間に小鳥は随分と力強く鳴くようになり、手の平から離れ羽ばたけるようになった。
「随分食べたな。一応私の大事な食料だったんだけどな」
――ピィー、ピィー。
「感謝してくれてるのか? 礼はいらないよ。私が好きでやったんだからな。
元気になったのなら自分の住処に帰りな」
そう言って妹紅は手の平の上から小鳥を石畳の上に放した。手の平を打って粉粒を払い落とすと、先ほど散らかした荷物をまとめて立ち上がる。とことこと周りを歩く小鳥に妹紅は独り言のように声をかけた。
「じゃあな。何があったか知らないけどもうこんな幸運なことは無いぞ。今度は一人で……いや一羽か? ともかくしっかり生きるんだぞ」
そうして妹紅は社の境内から歩き出す。突然のことで時間を取ったからまた余計に急がなければならなくなった。山からは抜け出せなくても、せめて人里の近い所まで行っておきたい。今からでももう一山くらいは越えられるはずだ。
境内から出て山道に再び戻ったときだった。
――ピィ。
後ろを振り向く。さっきの小鳥が背負った荷物の上に乗っていた。
あー、と思わず声が出る。どうやら懐かれてしまったらしい。手で払いのけようとするが小鳥は意外なくらいの素早さでそれをかわすと再び荷物の上に止まる。よほど餌がもらえたことが嬉しかったのか離れる気はないようだ。
妹紅は唸った。正直ついて来られても困る。餌代が、などというほど困っているわけではないが、単純にいつもの生活を考えると小鳥がついてこられるとは思わない。それに単純に小鳥など扱った事が無いのでどうしたらいいかも分からない。
しかしここで唸っていても始まらない。今日は出来れば早く進んで行きたいから、こんなことで時間を取られるのもうっとうしかった。
「うーん……まあそのうち勝手にどっかに行くだろう。おいお前。私は私の好きなように行くからな。置いていかれても恨むなよ」
――ピィ。
小鳥は返事をするように一声鳴いた。それで一応話はまとまった、ということに妹紅はしておいた。
「じゃあ出発するぞ。振り落とされても知らないからな」
そういって妹紅は一人と一羽で山道を再び歩み始めた。
そして結局もう一晩この山で、今度は野宿することになった。
***
妹紅の予想に反して、その小鳥はしつこくついて来た。
峠を越え、いくつかの人里を抜け、街道を何処と知れず歩いていく旅路。しかし山を離れ人通りの絶えない道を行くようになっても小鳥は一向に離れようとはしなかった。元々妖怪避けの護符やらを貼り付けた妹紅の出で立ちは衆人の注目を集めるものであったのに、それに加えてやけに派手な鳥を連れていることでさらなる注目を集め妹紅が少し困ったりしたこともあったが、妹紅がそれを言うと小鳥は決まってあさっての方向を向きながらごまかすように鳴いたのだった。
道中幾度となく妖怪の類と出会ったり退治を頼まれたりしてその度妹紅は退けてきた。時に強力な妖怪との戦いともなれば苛烈を極めたが、その最中小鳥はいつもどこかに消えていて妹紅が再び出発しようとする頃になるといつの間にか戻ってきていた。何度もそんなことを繰り返しているうちに妹紅は段々と一人と一羽のこの奇妙な組み合わせに慣れて来た自分に気付いていた。
妹紅自身は気付いていなかったが、やはり一人きりで生きていくというのは心細いものだったのだろう。人ではない、言葉を交わすこともできない相手ではあったが、むしろそれがこれまで人に疎まれながら生きてきた妹紅にとってはちょうどいい旅の道連れだったのかもしれない。
今日も今日とて小鳥を連れながら、妹紅はのんびりと久々の人里を歩いていた。大体妹紅は人里を通るときは足早に通り抜けるようにしていくことが多いのだが、今日は目的地がある。先日の妖怪との争いで尽きかけている符を補充するために神社に向かうのだ。符に効力を刻むのは紆余曲折あって妹紅自身でも出来るのだが、それ用の紙を調達するのはどうしても神社のような特別な場所でなければいけない。
土地の神を祭る神社へと向かう。その神社は古びてはいたが、それだけに美しく丁寧に手入れされた神社だった。神社に入り、一応お参りを済ませる。別に神様に縋るわけではないが、こういうのは気持ちの問題だ。
お参りを終えた後、社務所を尋ねる。年若い巫女が愛想よく挨拶してくる、とすぐに驚いたような顔をした。
「何か珍しい鳥を連れられていますね……」
「ああ、」そう言われていつの間にか頭の上に例の小鳥が止まっているのに気付いた。叩き落としたくなるのを妹紅は必死で耐える。「私が飼ってる鳥なんだ。種類は分からないが珍しいからちょっとね」
「そうなんですか……」
そう答えるのもそぞろに巫女はまじまじと妹紅の頭の上を注目する。注目されていい気になったのか、小鳥は妹紅の頭の上でとことこと歩いて回って飛び跳ねた。妹紅はあきれる。巫女が顔を輝かせる。
「……可愛い!」
「……あの……すまない、お札をもらえるかな?」
そこでようやく巫女は自分の仕事を思い出したようだった。恥ずかしそうに顔を赤らめながら居住いを正して、再び妹紅に笑いかける。妹紅は苦笑せざるを得ない。
「ええ、構いませんよ。どのような種類のお札ですか?」
「あ、いや、出来れば白紙の札が欲しいんだ」
巫女は意味が分からず首をかしげる。白紙の札を欲しがるのは自分くらいのものだろうから、こんなやり取りもいつものことだ。
「ええと……白紙の札ですか? それではあまり意味がないように思うのですが……」
「いいんだ。意味は自分でつけるから」
「うーん……良く分かりませんが、ちょっと聞いてきますね。少しだけ待って頂いてもいいですか?」
「ああ、頼むよ」
そういうと巫女は立ち上がって社務所の奥へ入っていった。話す相手もいなくなり所在無くなった妹紅は、社務所の壁に身を預けながら荷物を降ろして一息つく。すると小鳥が妹紅の肩に止まると、くちばしで肩をたたき始めた。最近はこういう仕草だけで意味が分かるようになってきている自分に妹紅はあきれる。
妹紅は荷物の中から小袋を取り出すと、手の平の上に中身を少しだけ取り出した。鳥の餌だ。さすがに人間用の食事をいつまでも与えていると良くないような気がしたから、最近はきちんと買うことにしていた。ちょこちょこと自分の手から餌をついばんでいく姿を見ながら、妹紅は思わず頬が緩むのを感じた。
「あ、いました。あちらの方です」
そう声が聞こえてそちらに振り返ると、先ほどの巫女がここの神主らしい初老の男性を連れてこっちに向かってきていた。神主は妹紅を確認し頭を下げた後、巫女を下げさせる。
「こんにちは。貴方ですか、白紙の札が欲しいというのは」
「そうだ」妹紅は手の上の小鳥と餌を取りこぼさないように気をつけながら神主のほうへと向き直る。「色々あってね。まあ大体格好を見てくれれば分かるとは思うけど」
派手な赤白の服の上に貼り付けられた札。その言葉で神主は得心がいったようだった。それなら差し上げますよ、とふと神主の眼が妹紅の手元へと行った時だった。神主は目を見開いて体を強張らせたのは。妹紅はその意味が分からず首をかしげる。
「……えっと、じゃあ札を貰っても構わないかな?」
「これは……。あの、この小鳥はどちらで見つけられたものでしょうか」
妹紅の言葉に答えず神主は震える声でそう言った。質問を無視されたことに少しむっとしたが、あまりに神主の態度が尋常ではないので妹紅は気おされるように答える。
「ああこいつは、どっかの山に登ったとき小さな社があったんだが……そこで一晩泊まったら朝石畳の上で死に掛けてて……私が助けてから懐かれてそれから連れて歩いてるんだ」
「そうでしたか……あの、差し出がましいようですが、こちらの小鳥を私どもにお預け願いでしょうか」
「何を言ってるんだ、こいつはただの珍しい小鳥で……」そう妹紅が答えようとしたのを神主は強い口調で遮った。「いえ、この鳥はただの小鳥ではありません。あちらをご覧ください」
そう言って神主が指差したのは神社の拝殿の上だ。妹紅がそちらに目を向けると鳥を象った装飾が拝殿屋上の左右に鎮座していた。
「あれは瑞鳥の鳳凰です。鳳凰は五色で絢爛な見た目をしており、特にその青い尾は一際目を引くといいます。そしてその声は詩を歌うように美しく、その涙は傷を癒し、その血を飲めば不老不死になるといわれています」
妹紅は手元の小鳥を見た。五色絢爛な小鳥は青い尾を振りながらまだ妹紅の手の上で餌をついばんでいる。注目されたことに気付いたのか餌をついばんでいた体を止め、妹紅の方に首を向けじっとこちらを見た。
「しかし、だったらなぜあんなところで、しかも傷ついて転がっていたんだ」
「それについては分かりませんが……瑞鳥といえど、猛禽の類に襲われれば傷付いてしまうものなのかもしれません。貴方のような優しい方に拾われて幸運であったのでしょう。
……それで、その小鳥を私どもにお預け願いたいのですが」
言いながら神主が手を伸ばそうとしたのを妹紅は思わず払いのけ、守るように背を向けた。そうしながら、私はなぜこんなにもこの小鳥を守ろうとしているのか、と妹紅は疑問に思った。ただなんとなく手放したくないような気がした、というだけでは説明のつかない自分の態度に驚く。
その態度になんとなしにこれまでの妹紅とその小鳥との関係を察したのだろう。不躾に手を伸ばしたことを神主は詫びた。だが、その小鳥――鳳凰については譲るつもりはないようで、背を向けたまま黙る妹紅に諭すような声で続ける。
「鳳凰は先ほど申しましたように非常に珍しく、人妖問わずそれを鳳凰と知れば狙うものも出るでしょう。それでなくとも、珍しい姿をした鳥というだけで狙われかねないのですから。これまでそのようなことが無かったのはただ幸運だったという他ありません。
貴方もおそらくは妖怪退治などを生業としている方なのでしょう? ただでさえ妖怪の類に恨みを買うのです、加えてこれからそのような狙いで追ってくる者を退けながらそのまだ幼い鳳凰を守っていけますか?」
妹紅は声を出せなかった。確かにこれまで恨みを理由に妖怪に襲われたこともある。でも大概は散発的な、しかも自分自身を狙うものだった。死ねない妹紅にとってそれは別に恐ろしいものでもなんでもない。多少痛いだけのことだ。
しかし自分の周りのものを、しかも組織的に狙われるとしたら。
「でも……」
「私どもに預けていただければ、安全に管理することも出来ます。この神社もそう小さいものではありませんが、瑞鳥ともなればおそらくもっと上の……それこそ帝様に献上することになるでしょう。そうなればもはや傷つけることの適うものなどおりません。
……これはもちろん鳳凰を守るためでもありますが、貴方の身を守るためでもあるのですよ」
真剣な表情で神主は言う。妹紅の身を案じているというのも一応とはいえ本当のことなのだろう。人のよさそうなその姿から妹紅は自分をだまそうとする意識は感じられなかった。それだけに、妹紅はより自分の感情や理性と向き合わなければならなかった。
黙りこくったまま下を向き続ける妹紅に神主は溜息をついた。
「……あるいは本当に手放したくないのであれば、それでも構いません」
「本当か!」
頭を上げた妹紅に苦渋といった表情を向けながらも神主は続けた。
「ええ。もし貴方が本気で抵抗すれば私などでは奪うことは出来ないでしょうし、無理によこせとは言いません。
ただ、その幼い鳳凰が貴方と共に行くのが本当に最もいいことなのかどうかきちんと考えてください」
「…………」
――ピィ。
妹紅の手の中で鳳凰が一声鳴いた。手の中の小さなそれを妹紅は見る。自分と比べればあまりにもか弱く、小さな命。
「……私は……」
そうして、妹紅は決断した。
***
「……まあ、そんなに長い間一緒にいたわけでもないし、どうせ元に戻るだけだ。大した事じゃないよ」
灯籠の明かりが部屋の中を柔らかい光で照らしていた。品のある調度品と落ち着いた雰囲気の内装の部屋。神主が妹紅を労って街の旅籠を見繕って紹介してくれたのだ。この土地で大きな力を持っているらしい神主の紹介ともあって、対応も部屋も想像より遥かによいものだった。少しだけ、かつて貴族の子で会ったころを思い出させる部屋である。とはいえ、大通りに面しているせいか多少騒がしくはあるが。
人は立ち入らないよう神主を通じて告げてあった。神主は大事にしていた鳳凰との別れでそうしてもらいたいのだと思っていたようだが、妹紅はただ自分の体のことで騒ぎになるのを避けたいという理由でそうしてもらっただけだった。あの小鳥を神主に手渡してから妙に冷め切った感覚で、逆に冷静になっているように妹紅自身も思う。こんなさめた人間だったのだろうか、と自分で自分を笑いたい気分だ。
今は先ほどの神主からもらった白紙の札に書き込んでいる最中である。いつもなら書き損じの一つや二つもあるものだが、今日はやけに調子が良く淡々と書き終えた札が積み重なっていた。火除けの札、妖怪が嫌う札、妖怪の身動きを封じる札。かつて学んだ符術の記述通りに筆を滑らせていく。しばらくすると貰ってきた符はもうなくなってしまった。相当な枚数貰ってきたのだが、いつもの半分くらいの時間しかかかっていない。これもいつもはひよひよ言いながら邪魔してきたあいつがいないからだと思った。
やることもなくなって、妹紅は手持ち無沙汰になる。
「……もう寝るか」
既にしいてある布団の上に体を投げ出すように飛び込む。久々の柔らかい布団は日向の匂いがして気持ちよかった。同時に、体の疲れがぐっと身に押し寄せてくる。特に体を酷使するようなことも無かった今日はむしろ疲れを感じなくてもおかしくはないはずだが。
「……やっぱり寄りかかってたのかね、私は」
数百年を一人で生きてきた。でもそれは誰かと共にいることが叶わないだけで一人で生きていたいからそうしたわけでもない。人間は大抵私の不老不死を知るだけで気味悪がる。妖怪でないかと疑う。今までであった人間の中にもそうは思わない奇特な人間もいるにはいたが、そのような人間には妹紅自身があまりにも依存しそうで怖くて、自分から離れていった。
そういう意味で、妹紅には自分を区別せず他の人間と同じように振舞う動物は自分にとって都合が良かったのかも知れない。
結局は、自分の心の弱さのためにあの小鳥を使ったのだ。だからあの時奪われると思い己が身で守ろうとし、あれにとって最もいい選択は明白であったのにそれを拒もうとした。柔らかい布団の上から身を起こし、窓を開いた。夜風が軽く妹紅の髪をなぶり、妹紅の目の前には静かに寝静まった街と荒涼とした月が浮かんでいる。
ちょうどその時だった。妹紅の視線の向こう、夜が反転するような光があがったのは。おもわず妹紅は手で光を遮るが、それでも目を傷めるほどの明るさだった。火柱、というのが最も的確だろうか、赤々と立ち上る炎は何かしらが燃えているには余りにも強く光り、そしてその先端は天を突つほど高い。
その炎は昼訪れた神社の方から立ち上っている。
妹紅は机の上の書きたての符と妖怪退治の道具を握り窓から通りへと飛び出した。
***
妹紅を旅籠まで送った後、いや送っている最中も、神主は小鳥――鳳凰の扱いについて考えていた。
鳳凰は瑞鳥である。それが現れたということは荒れた世を良く治める天子の現れを示すという。つまり今の帝にとっては自分の治世が正しいことを知らしめるものであり、ともすれば乱世の元ともなる貴族などを正す絶好の機会ともなる。それを捧げたとなれば、それなり以上の見返りが期待できることは明らかだった。
神主も既にこの土地では十分な財と地位を持ってはいる。とはいえ所詮は都からは遠い地、皇族その他位の高い者と縁があるわけでもなく、他の寺社や貴族に対して力はなかった。むしろ貴族からはないがしろにされているのが昨今の悩みの種でもある。
しかし、帝に瑞鳥を献上したともなればまた別だ。他の寺社は一目置かざるを得なくなるだろうし、いけ好かない貴族たちも寄進を弾むようになるだろう。また帝に讃えられるなどとなれば、この神社だけではなく自分自身も何か恩寵を賜れるかもしれない。
妹紅に札を渡して神社に戻るとすぐ、神主は鳳凰の幼鳥とともに本殿に篭った。幼鳥には符を貼り眠らせてある。鳳凰は妖怪の類としては力も弱く、成鳥となっても符で十分に押さえつけられる程度の力である、と伝え聞いていた。また鳳凰は霊鳥でもあり、霊力を与えることで時間を与えずとも育てることが出来る。幼鳥のまま献上しても十分ではあるだろうが、なるべく見栄え良くしていた方が良いに決まっている。実際妹紅が連れていた間まともに手入れもされていなかったので、鳳凰の羽は塵に塗れ絢爛な羽毛もくすんでしまっていた。しかし成鳥まで育てられれば俗世の塵など燃えて消えるだろう。
四方を縄で囲み儀式を行う準備をする。鳳凰ほどの霊鳥ともなれば本来は人身御供くらいの捧げ物でなければ急に成長させられなどしない。が、ここは本殿の中で神の霊力で満ちている。普通神の霊力を割き与えると土地の力も衰えてしまうが、鳳凰が成鳥となればそれさえ十分に元が取れるはずだ。
幼鳥を捧げ持ち、祝詞を奏上する。始めは何の変化も無かったが、儀式が進むにつれ鳳凰はその体を大きく膨らませていった。神主の額に玉のような汗が浮かび、罅割れた唇から囁くような祝詞が続く。初老とはいえ年老いた神主にとっては一人きりで儀式を行うのは苦痛ではあったが、それもこの後のことを考えればなんということでもなかった。
しばらくして祝詞は奏上を終え、儀式はつつがなく終わった。始まる前は符で身が覆われるほどの大きさであった鳳凰は、すでに五尺はある巨大な鳥へと変化していた。
本殿の冷たい板張りの上に手をつき、神主は息を吐く。と、その神主に声がかかった。
『貴殿が我に力を割き与えてくれたのか』
名のある和歌の達人が名歌を読み上げる様な朗々たる声。神主が頭を上げると、そこにはこれまで窮屈に閉じられていた羽根を広げ、惜し気もなく五色絢爛な身を曝す鳳凰の姿があった。思わず息を飲む。その余りの神々しさからか、神主は鳳凰に後光さえ幻視した。枯れ果てた喉から搾り出すようにして声を出す。
「はい、そうでございます。幼鳥でありました貴方様に、こちらの神力をお借りして」
『そうであったか。感謝する』
その言葉だけで神主はこの先の自分の成功を確信した。
鳳凰は自身の体に不調がないか確かめるように全身を繕った後、再び神主に声をかけた。
『貴殿は我をこの後どうするつもりだったのだ』
鳳凰の言い草がおかしいことに神主は気がつかなかった。
「はい、私どもの手に余りますので、帝様へと献上しようと」
『そうか』
鳳凰は高く一声鳴いた。まるで高価な笛の音のように雅な声。神主はそれを聴いているだけで儀式で疲れ果てた体が再び力を取り戻すような心地になった。神主は立ち上がり、鳳凰へと声をかけた。手には符の大量に巻き付けられた細い注連縄が握られ、鳳凰が口を開く前に首へと巻きつける。
「それでは、帝様に献上されるまでこちらの符で眠っていただきます。ご容赦ください」
『……』
「御前にお届けするまでに貴方様の身が狙われるわけにはいけません。そのためにどうしてもこうせねばならぬのです。不自由でしょうが、どうか……」
そこまで言って、鳳凰が嘲笑するように笑ったのが神主に聞こえた。疑問に思って首を傾げるまもなく、鳳凰の背後、本殿奥の御神
体に火が放たれているのが見えた。後光が見えたのはなんのことではない、鳳凰が背後に火を放ったのだ。鳳凰に気を取られ神主はこれまで気がついていなかったが、辺りを見回せば本殿の各所から火の手が上がっている。
「なっ……」
『我を誰に捧げるだと? 我はここより遥か西方で生まれた翼ある物の王。それを捧げようなどと、おこがましい』
神主は思わず耳を塞いだ。陶器をすり合わせるような、砂をすり合わせるような、なんとも聴き難い雑音混じりの声であったからだ。聴いているだけで不快になる声で鳳凰は続ける。
本殿を焼く炎は勢いを増し、もはや神主の周囲を残し全てが炎で嘗め尽くされている。
『しかし、自分の崇める神の力を割いてでも我に力を与えてくれたことには感謝する。本来百年は待たねばならぬところをほんの数ヶ月でここまで成る事が出来た。
礼に、苦しむことなきよう焼き滅ぼしてくれよう』
神主は息を飲み、一息焼けた空気を吸った。その僅かに開いた口から鳳凰の放った火が入り込み口食道肺腑を焼き、焼け付いた息が膨張で口から吐き出されたときにはその僅かな振動で胴体から崩れて落ちた。
視界全てが燃えて盛る情景に満足げに首を尾を動かすと、鳳凰はさらなる炎を身から吹き上げた。
***
妹紅が全速力で通りを駆け抜けている間に火柱はもう姿を消し、夜空は一見平穏を取り戻していた。ただ莫大な熱で巻き上げられた空気でさきほどまで月明かりの美しかった空は、今や暗澹とした雲が現れ渦巻いている。
夜も更けていたとはいえあれだけの光を放てば誰しもが注目するだろう、神社の周りは人だかりで騒然としていた。しかしさすがに神社の境内まで入り込む勇気はないのか、遠巻きに囲みながら不安そうに会話しているだけである。妹紅が人波を泳ぐように通り抜け神社の正面に立つと、崩壊したそれの異様が目に飛び込んできた。
古めかしくも美しかった社はもはや見えず、回りを囲む鎮守の森はその形を保ったまま炭化している。それどころか石畳さえもそこかしこがひび割れ、酷く焦げ付いていた。境内の中に入らなくても焦げ臭い匂いがそこかしこから漂ってくる。妹紅は奥歯を軋むほど噛み締め、境内の中へと走りこんでいく。
中に入ればそれはさらに酷い情景だった。焼け焦げた空気が喉の奥まで傷付けてしまいそうでおもわず妹紅は口に手をやる。走っている足にも草履越しに石畳の熱が伝わって酷く熱い。息もするのも困難な中で妹紅は、今日の昼間では拝殿のあった、灰の山の前まで走りこんだ。足元がもう火傷し始めているが、妹紅は気にしなかった。それよりももっと遥かに探すべきものがあったからだ。
鳳凰を受け渡したのが昼のこと。そして今晩のこれだ。関係がない方がおかしい。火の燻る拝殿の残骸を掻き分け、まだ煙を上げる灰を蹴り上げながら走った。拝殿の奥には本殿があったはずの場所がある。
足が焼けては治っていく痛いようなむず痒い様な感覚が足元から登ってくるが、なおも走る。
妹紅は足を止めた。確か本殿のあったはずの場所は、丸くくり貫かれたように削れていた。そしてその表面は陶器の破片のような白い粉末で覆われている。それがどうして起きたものかまでは分からなかったが、恐ろしいほどの熱で焼かれたために起きたことは妹紅でも想像がついた。そしてその中心には、熱でいまだ陽炎をあげる何かの姿がある。
身の丈は五尺超。全身は五色絢爛な羽毛で覆われ、特にその尾は透ける様に青い。陽炎の揺らめきを通してでも分かる、怪鳥の威容。長い鎌首をもだけ、赤色の翼を広げてその怪鳥は高く一声鳴いた。その声は高価な笛よりも遥かに胸を打つ澄んだ音で高く空に響く。
一陣の風が吹き、大粒の雨が盛大に降り注ぎ始めた。辺りから雨粒の蒸発する音が聞こえる。
足を踏み出そうとしたが、吹き上がる余りの熱で妹紅はおもわずたじろいだ。が、その僅かな足音で気がついたのか、怪鳥は飛び上がると妹紅の背後に降り立つ。振り向けばあの時灰塗れで横たわっていた時と変わらず、しかし巨鳥となった鳳凰が立ちふさがるように翼を広げていた。
妹紅は焼け付いた空気を吸って底から渇いている喉から、搾り出すように声を出した。
「お前は、鳳凰か」
『そうだ。……いや、厳密には違うが』先ほど鳴いた声とは比べ物にはならない、思わず耳を塞ぎたくなるような声で言った。『我は本来遥か西方の地の者。しかしこの地で呼ばれる名があるとするならばその鳳凰、というのが最も近いのだろうな』
毛繕いをするように羽根を嘴で弄りながら、鳳凰はそう答える。降り注ぐ雨に妹紅は身を塗らして行くが、鳳凰には触れることは出来ないかのようにその寸前で避けて跳ねた。塗れてへばり付く黒髪も気に止めずに、妹紅は立ち尽くす。燻る炎に照らされた顔は血色なく白い。
『そういえばお前は傷ついた我を快方してくれたな、ありがたかったよ。本来はそうされるまでもなかったのだがな。散々食餌も与えてくれた』
「ああ、あれは面倒臭かったよ。いちいち米をすり潰したり鳥の餌を買って来たりな」
耳障りの悪い声に顔をしかめながら妹紅がそう答えると、鳳凰は笑った。馬鹿にした笑いだ。
笑い声を聞きながら妹紅はこれまで小鳥と過ごしていた時間を想像した。あの小鳥と目の前の化け物とがどうしてもつながらなくて、気持ち悪くなる。
『いや、あれは俗物の鳥の食餌だよ。我がいつも食していたのはお前が退治した後の妖怪の血肉だ。元々我も猛禽の類だ。血肉でなければ食事をした気にならん』
ああ、だから私が妖怪退治をしている間お前はいつもどこかにいて、しばらくしてから戻ってきていたのか。
「どうしてこの一晩でここまで成長を」
『ここの神主が土地の神の霊力を分けてくれたのでね。帝とやらに捧げたかったらしいが。私と比べれば力も弱い神だったが、幼鳥だった私には他に手立てもなくちょうど良かったよ。おかげさまで完全とはいかなかったが、そこそこまでは回復できた。不味かったが』
ああ、それであの人のよさそうだった神主は、燃えて死んだのか。
「じゃあ、どうしてここをこんな風にしたんだ」
『気分が良かったのと、そうだな。こうすればお前は駆けつけてくるだろうと思った。お前ほどよく妖怪退治など出来る人間なら、ここの神主より遥かにうまいと思った』
ああ、それでこんな古びていて美しかった神社が灰になったのか。
「そうか」
空を見上げた。大粒の雨が妹紅の体を打つ。塗れた服が肌に張り付いて気持ち悪い。
『悔しいか? しかし我らは誰しもがそんなものだ。あの神主も自分の欲のために我を使おうとした。お前もまた、自分の孤独を癒すために我を利用した。規模は違えど、変わるものではない』
「知ってるよ」
ただ忘れていただけだ。なんのために自分がこの永遠を孤独に生きることを選んだのか。なんのために自分が人から離れて生きようと思ったのか。誰もが私利私欲で動く、こんな世界だからそうしようと思ったのに。結局利用し利用され、今自分はここにいる。
雨で塗れた髪をかき上げ、鳳凰を見据えて妹紅は問うた。
「最後に聞きたい。お前はこんなことが出来るくらい強力な奴だってことは分かった。
じゃあなんで、私が始めてあったとき、あんなボロボロで、灰塗れでその辺に転がっていたんだ」
そう妹紅が言うと、鳳凰は耳障りな声で笑いながら、しかし体をすくめ翼で覆い、怯えるようにして答えた。
『思い立ってこの地に訪れたときに、人型でありながら妖怪でも人間でもないものを見つけた。暗い山の奥だったよ。面白い、と思ってそいつを焼いて取って食おうと思った。
だが、その女たちは我の炎でも死なず、むしろ我を弓で打ち死の寸前まで追い詰めた。それで己が身を焼いて灰から蘇らざるを得なかった。
……名前はそう、確か片方の女が、輝夜とか呼ばれていたか』
「……そうかい!」
そう言って妹紅は懐から符を取り出して投げつけた。妖怪になら触れるだけで爛れる様な符も鳳凰にはたどり着く前に燃え尽きる。鳳凰は嘲るように笑い、それが戦いの口火となった。
『質問は終わりか。では焼いて食らうとしよう』
爆ぜるように放たれた火を妹紅は灰の上を転がりながら回避した。転がりざま、鳳凰に向けて刀子を投げつけるが、翼で弾くまでもなく火で炙られ体まで到達しない。妹紅は舌打ちする。
鳳凰が体を縮める。いやな予感がして妹紅はさらに灰塗れになるのも厭わず全力で身を反転させ地面へと飛び込んだ。刹那の後、先ほど夜空で燃えていたものとも似た炎の塊が妹紅の背中の上を通り過ぎる。
背中を焼かれた。鈍い痛みに顔をしかめるが、素早く身を起こして再び鳳凰へと構えなおす。
次々と自分に向けて飛んでくる火球を体の端を焦がしながら走りつつ回避し、妹紅は考える。火球は確かに早くまた確実に妹紅を狙ってきてはいたがそれほど火力は高くはないようだった。余り強い火力で焼き殺すと食えないのだろう、妹紅からすれば鳳凰が気を抜いているうちにどう落とすかが問題だった。
転がり、飛び跳ね、走り回りながら妹紅は考える。ただの符では焼き落とされる。刀子を投げつけるのも通用しない。妖怪相手なら経文や読経も効果はあるだろうが、目の前のこの化け物には通用するとは思えない。
牽制の刀子を数本投げつける。が、それさえ弾き飛ばしながら火球が迫ってくるのを見て妹紅は焦りながら三度飛び込んで回避した。避け切れない。引き付けきれなかった右足を火球が直撃する。激痛に無言で耐えながら右足を見た。
草履は焼ききれ痛みは酷いが、意外にも足のほうは見た目には効果は少ないように見えた。火除けの符も貼り付けてあるからか、熱と衝撃で足は痛んでも酷い傷を負っているわけではなさそうだ。助かる、と妹紅は背を低くし立ち上がりながら思った。不死の力は最後の切り札である。それを悟られるわけにはいかない。
鈍く痛む足をかばいつつ走り出しながら、刀子を一本取り出して符を突き刺して投げつけた。鳳凰が妹紅ごと貫こうと火球を撃ちはなつ。が、刀子は火球の中心を貫き、鳳凰の翼に突き立った。回避に横転する妹紅はそれを見て笑い、鳳凰は痛みにか小さく首を蠢かせる。
「なんだかんだいいながらも火は火。火除けの符はどうにもならないみたいだな」
『ぬかせ。こんな細い刀子の一本や二本突き立ったところでなんだというのだ』
言いながらも鳳凰はさらに火球を連発してくる。それをすんでのところで避けながら妹紅はにやりと笑った。やたらめったらに火を飛ばしてくるのは火除けが効くことは否定できない証拠だ。そして反応からして明らかに傷に動揺している。
今晩のことを思い出す。火除けの符は全部で十。さっきの刀子で残り九枚。それでしとめる。
火球を避けられ続けていることに苛立ったのか、鳳凰は一旦火球を口から放つのを止めた。妹紅も足を止め相手を警戒しながら刀子に符を仕込んでいく。まずは三枚。そこで鳳凰の腹が酷く膨らみ身を縮めていることに気付いた。
「……そう来たか!」
猛烈な勢いで放たれた火球は三つ。しかも連続で妹紅の位置にあわせながら放たれてくる。妹紅は火球の合間を縫うようにして走りこみ、鳳凰への距離を詰める。服が火に掠り取られて熱が全身を襲うが無視。火球の合間から相手の体を視認、瞬間に刀子を投げた。
狙い目は両翼の付け根と首。恐ろしい熱とそれによる風の中で寸分の違いなく目標へと刀子が放てるのは、火除けの符だけでなく妹紅の長年蓄積された技量によるものだ。避けようにも鳳凰は火球を放つために身を縮込ませていて動けない。そう妹紅は踏んだ。
『……舐めるな!』
鳳凰は口から放たれるはずだった火を全身から噴出し衝撃を放った。符を貼り付けた刀子は鳳凰に突き立つ前に弾き飛ばされ、妹紅自身の体もその勢いで飛ばされる。紙のように吹き飛ばされながら妹紅は自分の予想に確信を持つ。たかが刀子を受け流すのにもこんな力を使うなら、鳳凰も圧倒的な力のように見せながらその実まだ本調子ではないのだ。土地神の力を食ってなお妹紅をも喰らおうとするのはその力を取り戻すため。ならば勝機はある。
符は残り六枚。
火球ではらちがあかないと思ったのか鳳凰は大きな翼を最大限まで広げ、全身から羽毛のような火を放つ。妹紅は慌てて回避に入った。一個一個はさきほどの火球より遥かに小さいが、その数と速さが比ではなかった。まるで火の矢が面で飛んでくるようである。しかし、その炎は鳳凰の翼の正面からしか飛んできてはいない。妹紅は右足を引き摺りながら全速力で走り火の雨から身を離すが、鳳凰は火を放ちながら体の向きを変え、回避を許さない。次第に追いつき、妹紅の体に殺到する。
限界まで身をかがめて直後跳び、弾幕を回避した。が、一本だけ妹紅の正面逃れなれない位置に火が迫る。
「っ!」
火除けの符を打ちつけ相殺。残りの符は五枚だ。なんでもっと符を持ってなかったんだろう、と後悔するが遅い。次出会った妖怪には絶対腐るほど符を打ちまくってやろうと心に決める。
『残りの符が少ないようだが』
「うるさいなぁ。黙って私に倒されればいいんだよお前は」
表情から符の残弾が少ないことを見越したのだろう、嘲笑いながら言う鳳凰に妹紅は毒づく。妹紅の見立てでは鳳凰を打ち倒すには一個しか方法はなさそうだった。鳳凰は体に傷を受けることを最優先で避け、自分に妹紅が近づけないよう火を放っている。こちらの符も残り少ない。もしそれを突き崩すとすれば一撃で相手の首を取るしかない。
再び放たれ始めた火の雨を全身を左右に行き来させながら避けつつ妹紅は両手に符を握る。右に三枚、左に二枚。右手には合わせて刀子を握りこんだ。これで首を取れなければ妹紅の敗北は決まる。
翼から放つ火も避けられ始めたことに鳳凰は気がついた。一旦翼を閉じ弾幕を止める。
『しかし、これだけの実力があれば我から逃げることもたやすいだろうに、何故敢えて我に立ち向かう』
「まあ理由はあるけどな」妹紅はひざを灰の上について荒い息をしながら答えた。「私が起こした不始末だからその責任を取るってのもあるが……それより重たいものもある」
『なんだそれは』
「……それはどっちかが勝ったら教えてやるよ」
『…………』
鳳凰は溜息をつくように沈黙した。呆れられたのかも知れない。人の身でこんな妖怪の類を呆れさせられる自分は案外すごいのかも知れないな、と妹紅は思った。
『……では、是非聞かせてもらうとしよう』
そう言って鳳凰は再び両翼を広げた。放たれる火はさきほどと同じ小粒の火だが、翼の角度の問題か鳳凰の正面は火が飛び交ってはいなかった。誘いだ。それでも妹紅は全速で距離を詰めながら鳳凰の正面へと飛び出す。そこでようやく鳳凰の腹が膨張しているのに気付いた。
翼からの火と同時に口から放たれた火は火球ではなく、むしろ翼を広げた小型の鳥のようであった。それはこれまでの火のいずれよりも早く、放たれた瞬間に妹紅へと肉薄する。しかし、妹紅は微笑んだ。
「こういう大技を待ってたんだよ……!」
妹紅は自分の腹に突き刺さる直前の火の鳥を左の手の二符で持って掻き消し、鳳凰の前上面へ突進した。鳳凰は焦ったように翼の範囲を狭めていくが、妹紅の体を捉えるにはいたらない。最後の一歩を大きく踏み込んで符ごと刀子を突き出す。狙いは勿論鳳凰の首だ。
体を鳳凰へ預けるように倒れこみながら、妹紅は首に思い切り刀子を突き刺した。肉を突き刺す確実な感触が手に伝わる。血が噴き出し炎が右手を舐めていくが、符で守られた右手と刀子を焼ききるには至らない。鳳凰は口から血を吹き出して、妹紅と共に灰の中へ倒れこんだ。
翼の火はもう止まっている。
妹紅は突き刺さった刀子を引き抜き、左手で首根をつかんで刀子を当てた。もうおそらく十分だろうが、これだけ強力ならば油断は出来ない。首を切り落とすのが一番安全だ。そう思って強く力を込め刀子を引ききろうとした、そのときだった。ふわりと、鳳凰の翼が妹紅の背を抱き寄せるようにかき抱いたのは。
それに反応して妹紅が右手を動かす、それより先に鳳凰の全身から炎が上がった。
「……!」
声にならない声が妹紅の口から漏れた。背から胸から妹紅の体が焼き尽くされ、全身から肉の焦げる臭いが立つ。体を焼かれながらも妹紅は必死の形相で右手に力をかけるが、筋肉が熱で引き攣れて思うように刀子を引ききれない。それでもなお妹紅はその翼の戒めから逃れようと身をよじったが、最後には妹紅の体は鳳凰の首を捕まえたまま痙攣するように跳ね、そして妹紅は力を失って、いまだ燃え盛る鳳凰の体への倒れ伏した。それを確認して、鳳凰は身の炎を収める。
鳳凰はゆっくりと灰の中から半身を起こした。今自分の翼の中には焼け焦げた死体が抱かれている。鳳凰は心底驚愕していた。全盛ではないとはいえ人の身にここまで自分が消耗させられるなど思っていなかったのだ。あげくの果てには首を跳ねられる寸前まで至っている。所によっては悪魔とまで言われた自分からすれば恐ろしいことだ。
鳳凰が身を立てると、妹紅の手はそれでも鳳凰の体を握りしめ離さなかった。すさまじい執念だ。結局理由を聞くことができなかったが、おそらくよほどの理由があったのだろう。人間ではない鳳凰には想像もつかなかった。
首を握りしめる手を鳳凰は羽根先で払いのけようとしたが、しかしあまりに強く握りしめられて羽根先ではうまく払いのけられない。仕方がない、と思いつつ火を羽根先に集め、手を焼ききろうとした。皮膚は焼けただれ、焦げ臭さが酷くなっていくが、しかし首を握る力は衰えなかった。
いやむしろ首を握る力は強くなっていっている。
鳳凰が驚愕していると、ボロボロに爛れた顔から搾り出すような声が聞こえた。
「……ああ、ちょっと死んでた。悪い」
首を押さえた妹紅の手に更なる力が入り、鳳凰は苦しさにうめきながら首を振り、再び全身から炎を噴き上げ妹紅の体を焼こうとした。炎は確かに妹紅の肉体を傷つけ炙ったが、しかし体の表面以上を焼くにはいたらない。鳳凰は動揺した。これではまるで、
「我があった女たちと同じだ、って思ったか? ……そうだよ、そのとおりだ。人でありながら人でない、不死の人間」
鳳凰は再び地面へと引き倒され、妹紅はその上に馬乗りになった。炎は火勢を弱めることなく妹紅の体を焼いている。しかし妹紅はもう体の動きを止めることはない。左手に力を込め、右手に握っていた刀子を首に当てようとする、が刀子は燃え尽きたのか右手には既に握られてはいなかった。仕方がない、と妹紅は鳳凰の首に両手を当てた。
『ぐっ……お前は、我をどうするつもりだ』
「あ? そうだなぁ……」
本当に今まで考えてもいなかったように妹紅は首をかしげ、口元を引きつらせるように笑った。顔は焼け爛れ酷い形相で背後では鳳凰の放っている炎が揺らめく。鳳凰はその壮絶な光景に息を飲む。痛みは発狂するほどのはずだ。体は不死のものでも耐えかねる熱さを受けているはずだ。なのに何故そんなにも無邪気な笑いを浮かべられるのだ。
そのとき鳳凰は思い出す。戯れに人でないものを炎で焼き、返り撃たれたあの日のことを。あの時自分が焼いた女も、同じような笑みを浮かべてはいなかったか。あの時自分を弓で落とした女も、同じ顔で笑ってはいなかったか。
「鳳凰って確かその血を飲むと不老不死になれるらしいな。不老不死の私が飲むとどうなるんだろうな。
……とりあえずお前は私を食べようとしたよな? だったら、」
鳳凰は押さえられた首に一際強い力が篭るのを感じた。
『……やめろ』
「私がお前を喰っても、罰は当たらない。そうだろ?」
妹紅は全力で握りこんだ首を上下に引き千切った。鳳凰の上げようとした壮絶な悲鳴は、喉が引きちぎられたことで永久に上げることは叶わなかった。のた打ち回る首を投げ捨て、血と炎を噴き出し痙攣する鳳凰の体を妹紅は逆さにし、血を浴び飲み干す。全身を取り巻く炎の中全身に血を浴びる妹紅の姿は、壮絶というのも生易しい。
鳳凰の血はぬめりも臭みもなく、むしろ上質な酒を飲むような滑らかさで妹紅は驚いた。喉を鳴らし、滴る一滴も残さずに飲み干していく。うまい。妹紅はそう思っている自分を嘲笑いながらもはや血も枯れた鳳凰の体を投げ捨てた。口元の血を拭う。血を拭い取った手にはすでに火傷のあともなく、妹紅が自分の体を見回すと元通りの姿だった。蓬莱の薬の力か、鳳凰の血のもたらすものか、どちらかは分からなかったが。
とくり、と妹紅は自分の腹のうちが熱くなるのを感じた。血の不死の力が腹のうちで蓬莱の薬の不死の力とぶつかり合い、行き場を探しているようにも思えた。数瞬して激烈な痛みが体を襲い、妹紅は体を折り膝をついてその痛みに耐えた。頭が、体が、割れるような痛み。好奇心と復讐心で血を呷った後悔すらする暇もなく、ただ中から焼かれるような痛みだけが走り続けた。
妹紅の中では数日にも近い、しかし現実には数秒の間に痛みは落ち着いた。ただその間に妹紅の黒髪は色を失って透けるような青白い髪となり、そして妹紅には身のうちに余す強烈な炎だけが残った。
いつの間にか雨は止んでいた。周囲にはただ痛くなるような静寂だけがある。
さきほど投げ捨てた鳳凰の首を拾い上げた。もはや完全に絶命した鳳凰の首は、ちょうど小鳥だった頃妹紅が拾い上げたのと同じくらいの大きさだった。優しく手に持つと、妹紅は少しだけ愛しそうにその鳳凰の頭を撫でた。
「……お前も、私が餌を与えたりなんかしなかったら、私がつれて歩きなんかしなかったら、こんなところで死ぬことも無かったのにな」
さっき投げ捨てた鳳凰の体の上に、その首を置いてやる。確かやりあう前に灰の中から蘇るなどといっていたような気がする。ただの感傷にすぎないが万に一つでも可能性があるのなら、妹紅はそれでもするだけの価値はあると思った。
鳳凰の死骸に手を翳す。火の出し方はなんとなく分かった。この内燃する力を外にちょっと差し向けてやればいい。
「そういや、理由を言ってなかったな。お前からしたら納得できない理由かもしれないけど、一応言っておこうか。
……お前を倒せないようじゃ、あいつらを倒すことなんて出来ないからだよ。
じゃあ。……今度は私なんかと出会ったりするなよ」
言うと同時、妹紅の手から放たれた炎は鳳凰の体へと殺到しその肉を焼く。鳳凰のくべられた火は眩く燃え上がり、妹紅は眩しくて空を見上げた。燃え上がる炎と白い煙は高く伸び、遠く夜空の月まで昇るようだった。
妹紅は一人じっと佇んで、鳳凰の身が全て灰になり燻る火までもが絶えるまで、ただただ夜空を見上げていた。
***
夕焼けが山の向こうへゆっくりと沈んでいく。それを遠目に見ながら、妹紅は手の内でちりちりとした皮膚の焼ける感覚が失せていくのを感じていた。最後の一欠片の火を握りつぶすと、木の爆ぜるような音と共に妖気が霧散する。
ふぅ、と一息ついて妹紅が後ろを振り向いて藪の方へと手を振ると、感嘆のような声と共に一人の若い僧侶が這い出してきた。己の未熟を恥じてか顔を赤らめながら、妹紅に頭を下げる。
「ありがとうございました、旅のお方。私も修行の旅の道中で……私も立ち向かいはしたのですが、全く歯が立たず。危うい所を助けていただきありがとうございます」
「いやぁ、構わないよ。もし私の方がここまで来るのが早ければ出会うのは私のほうだった。感謝されるいわれはないさ」
そう言いながら手を振り、妹紅は歩き出そうとした。その背後から、真剣な僧侶の声が聞こえてきた。妹紅は首だけで振り返る。
青く透き通るような髪が、振り返った瞬間に風になびいて広がった。
「しかしあなたはお若いし、一見僧侶にも巫女にも見えませんが……しかも火を使うなどという神通力までお持ちで。一体いかなる高僧の元で修行を」
「それは……」妹紅は一瞬思案するそぶりをして、笑って答えた。
「まあ長い間旅をしていれば自然に身につくものさ」
私が今まで他作品で見てきた妹紅の身への炎の宿し方とは
違った解釈・アプローチで、これも有りだな、と。
妹紅が火の能力を手に入れた背景もこのように解釈できるのだなぁ、と思いました。
一つ言いたいことがあるとしたら刀子・・・読めなかったorz
確かにこういうことが、あったのかもしれませんね。
いやはや、面白かったです。
ただ、ここまで切ないのは初めてかもですね、面白かったです。
鳳凰に力を与えられるとかよりもこの作品のように戦って勝ち取ったみたいな方が妹紅らしい気がしました
ほのぼのあり、格好良いバトルあり、意外性ありの素晴らしい作品だったと思います。
読後、爽快感の中に残る暗さが個人的に好きです。
楽しませてもらいました。ありがとうございます。
次回作以降に期待するという意味も込めましてこの点数で
まあ私が中二病患者なだけですかねw
面白かったです。
妹紅のスペルで鳳凰とかフェニックスの名前がついているのですが、「あれ?鳳凰と不死鳥って別物じゃないの?」って疑問を持っていたので、この話を読んで成る程、と溜飲が下がりました。
また一つ、もこたんの素敵な話が生まれましたねw
バトルシーンも良かったです♪
初投稿とのことですが、充分な文章力をお持ちで羨ましいです。
次回作期待しててもいいですかね?
一応皆さんの疑問に答えさせていただきたいと思います。
刀子はとうすと読みます。小刀のことなのですが……おとなしく小刀と書けばよかったですね。分かりにくい表現でした、すいません。
鳳凰についてですが、41の方が言われているように鳳凰ではなくフェニックスを吸収したが、妹紅はフェニックスなんてしらないから鳳凰だと思っています。おそらくその後道中でフェニックスという名前を聞いて、自分が吸収したのがどっちか分からないがとりあえず適当につけて使ってる、という感じで想像しています。
次回作はよりみなさんに喜んでもらえるような作品を書ければと思います。
繰り返しになりますが、みなさんお読みいただきありがとうございました!