-3-
唐突な霊夢の邀撃体勢に、橙の顔に狼狽の色が浮かぶ。
「ちょ、ちょっと待って!今日は別に喧嘩しに来たんじゃないよ~!」
いきなり殺気をぶつけられ、橙はらしくもなく、慌てたように必死に首をぶんぶんと振る。一緒に尻尾もふるふると振られている。
「じゃあ何よ、さっきからその後ろ手に隠しているものは何なわけ?」
「こ、これは…。」
橙は僅かに逡巡すると、観念したように後ろ手に持っていたものを差し出した。
笹の葉にくるまれた包みがひとつ。
きょとんとする霊夢。
「…お団子だよ、霊夢と一緒に食べようと思って。」
「…は?」
意外な展開に、思わず間の抜けた声を出してしまった。それだけのために、わざわざここまで来たというのか?
だとしたらますますもって怪しい。
訝しげに冷ややかな目で見つめる霊夢の心中を察してか、
「い、いやその…紫様も藍様もいないから、ひとりで食べててもつまんないし、霊夢と一緒ならどうかな~なんて…。」
と、取り繕うように早口で言う橙。
式神であるところの橙の主人──八雲藍はともかく、そのまた主人である紫までもが夜に不在となると、ますますもって疑わしい。大体、一日の半分以上は寝ているというあの妖怪が夜に不在など、言い訳ならもっとましなものが思い付きそうなものである。
まして、博麗大結界に近づく輩が宵の口からもう既に三回。
さして妖力の強いわけでもない妖怪が、何の後ろ盾もなく結界に近づくなど考えられることではない。張り直しているとはいえ、もともとは人間が作った博麗大結界は、妖怪が力ずくで強行突破できるような並みの結界とは訳が違う代物なのだ。
ならば、紫のように結界を自在に緩めたり隙間を空けたりできる、強大な力を持つ妖怪が裏で糸を引いているのではと考えるのが当然で、実際にも霊夢はその可能性を考えていた。
だが、人間でも妖怪でも誰でも惹きつけてしまう楽園の素敵な巫女は、人に好かれるが故に相手の真意を見抜くことにも長けている。目や仕草を見れば、嘘をついているかはすぐに分かってしまう。
それは少し悲しいことなのかもしれないけれど。
霊夢はゆっくりと構えを解き、腕を下ろした。
そう、橙は嘘はつかない。
ぶつかってくる時も、悪戯する時も、いつでも本音と本気と少しだけの茶目っ気。
紫の件についても、結界に空隙を開けるとしたら、彼女ならばもっと外連味に満ちた派手さで『結界に穴を空けちゃいましたよ~』くらい言って来てもおかしくはない。今晩のように単独で突破しようとする妖怪に力を貸すなど、面倒なことは全て式に任せっきりという、怠惰を絵に書いたような紫の性格からして、あんまり考えられない。
拍子抜けしてしまい、なんだか自分が馬鹿みたいに思えて頭を掻く。それを見た橙にも、やっと安堵の表情が広がる。
「それなら、お茶でも入れましょうか。西の邑で貰ってきた、上等なものがあるから。」
そう言ってくるっと背を向けながら垣間見せた霊夢の表情は、それまで見せていた気丈な横顔とは違い、誰でも惹きつけられるような不思議な微笑だった。
白露を過ぎて、昼間はまだ夏の残り火のように暑さを感じるが、夜は嘘のように涼しくなった。
いい月夜だ。
縁側に腰掛けて足をぶらつかせていた橙の傍に盆を置くと、湯呑みを手渡す。
「えへへ、ありがと。」
それを聞いて霊夢はふっと笑った。本当に他意はないらしい。
過去の経緯を考えると、ただ遊びに来たとか言われてもその言葉にはまるで説得力がない。だが、猫舌のせいか熱い湯呑みに口もつけずに持て余している橙の姿からは、何も悪意めいたものは感じられない。
橙の隣に腰掛けて、団子をひとつ口に放り込む。
中に練りこまれている餡の甘さが、霊夢の気持ちを和らげた。
「まったく、今日は変な夜よ。三度も結界まで出向かなきゃならなかったし、あんたみたいのが訪ねてくるしでね。」
「…あはは、迷惑だった?」
「いや、そんなんじゃないけどね、別に。…ところでこっちは?」
霊夢は一緒に包みに入っていた、茶色い焼き菓子を手に取る。
「これは華国のお菓子で、月餅っていうんだよ。胡麻と扁桃、胡桃、落花生とそれに杏仁を餡を混ぜて焼いたの。」
手に取って少し齧ってみると、甘い中に木の実の香ばしさが感じられた。餅というより、食感としては饅頭に近いものがある。
華国では『小餅は月を嚼する如く、中に酥や飴が有り』と言われ、中身はいろいろと種類があるのだと橙は解説した。
「私は五仁を入れるんだけど、西瓜の種が無かったんで扁桃にしたんだ。蓮蓉でも良かったんだけど、霊夢は嫌いかなって思って…。」
「ふーん、初めて食べたけど結構美味しいわね。」
お茶を啜りながらもぐもぐと口を動かしていた霊夢は、ふとその動きを止めた。
そしてまじまじと橙を見る。
『焼いたの』と言ったか?
口の中の月餅を飲み込むと、たっぷり一呼吸置いて尋ねた。
「…あんたが作ったの?」
にこにこと笑いながらこくこくと頷く橙。
霊夢はなんだか妙な気持ちになった。
そしてさらに気がつく。
今、『霊夢は嫌いかなって思って』とか言わなかったか。さっきは『藍と紫がいないから』とか言っていなかったか?
なんか…ヘンだ。
だが、殊更に口に出して尋ねることのほどでもないか。
橙がお菓子を作ってお月見しようとやって来た。そりゃ珍しい出来事かもしれないけど、別段、おかしいことではないかも。
自分に言い聞かせるように勝手に納得すると、霊夢は空を見上げた。
満月がもう高く昇り、白く淡く輝いている。
だが、隣の橙は黙ったまま、じっとどこかを見つめていた。それは、猫がそうであるように、人間の目に見えない何かを見ているかのように感じられた。
「あのさ…ちょっと…」
橙が何かもどかしそうに、うつむき加減でもごもごと口を開いた。語尾は消え入るかのように不鮮明で、よく聞き取れない。
「何?どうしたの。」
霊夢は少し心配になってきた。いつもの突き抜けたような元気さの橙はどこに行ったのか。
具合でも悪いのか、それとも悩み事でもあるのか。悩み事は似合わないが、まあそれは霊夢もいい勝負だ。
それより、そっちのほうがわざわざ博麗神社まで訪ねてきた理由としては、よっぽど説得力があるというものだ。
橙はちらっと横目で霊夢を見やり、そしてまた下を向いた。
何か言いたそうにしているが、それを切り出すのによほど躊躇いがあるのか、足をぶらぶらとさせてまたしばらく黙りこくっていた。
長いような短いような間。橙の尻尾はくるくると丸まったり、またそわそわと振り回したりと実に落ち着きがない。
そして今度は顔を上げ、やや上目遣いで霊夢を見る。
「…あのね…。」
言いかけて、一呼吸置く。
「…抱っこしてくれない…かな?」
いつも無邪気で、それでも悪戯っぽい橙とはまるで別人のように、どこか怯えたような不安げな眼差し。
散々言いよどんで恐る恐る口にした、あまりにも意外な橙のお願いに、霊夢は目をぱちぱちとさせた。
「え?」
咄嗟に口を突いて出た言葉はそれだけ。というか、霊夢の認識能力および橙に対しての行動予測の想定範囲内には、ありえない言葉だったはずだから無理もない。
やっと口に出した橙はというと、また恥ずかしそうにうつむいて、横目でちらちらと霊夢のほうを見ている。尻尾はと言えば、気恥ずかしさを誤魔化しているように、所在無さげにぱたぱたと振られていた。
やがて状況と語の意味を認識すると、あまりに危険すぎる想像が一瞬脳裏をよぎり、
「ええええ?!ちょ、ちょっと待ちなさいよ!ななな何言い出すのよあんたはっ!!」
と、想像どころか自分を全否定するかのような勢いでまくし立てる霊夢。だが、その視線はどこかを遠くを泳ぎまくっている。
「あ…ええと、別に変な…意味じゃなくってね。その…霊夢の膝の上に…ね?」
頬をほんのりと桜色に染めて、頭を掻きながら何処か照れるような橙。
いつもの闊達さとは天地の差で、語尾と語意がひどく不明瞭だ。
それを見るや、霊夢は耐えられないとばかりに、弾かれたように大きく飛び退る。
「ああああのねえ!人をからかうのもいい加減にしなさいよっ!」
ビシッと指を指して宣言──したつもりだったが、その指先に捉えた橙の姿を見て反射的に引っ込めてしまう。
橙は、軽く握った拳の第二関節辺りを軽く口唇に触れさせ、僅かに顎を引いて上目遣いで真っ直ぐに霊夢を見つめていた。
人間の姿の時は、本来の姿の特徴は薄れているとはいえ、やっぱり猫の瞳は猫の瞳である。ところが、夜のせいで橙の瞳は人間の女の子のそれとまったく変わらないばかりか、もともと虹彩の大きな黒目がちのつぶらな瞳だから、可愛らしさをより一層強調させるのに一役買っている。
心なしか潤んでいるように見えるのは、意識し過ぎていることによる錯覚なのかどうなのか。
目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものだ。
このポーズで堕ちなきゃおかしい。
…あ、いや、それは男だったらの話。残念ながら女の子の霊夢にはこの必殺の一撃も通用しないっぽい。
何とも言えないこの雰囲気を打破しようと言い含めるつもりだったが、流石の霊夢も行き場を失った指先を腕組みの中にしまい込んで、だんまりを決め込むのが精一杯だった。
どちらにしても、どもりながらしか言葉が出てこないのでは迫力不足だが。
長い沈黙が二人の間に流れた。
しかし──。
しかし、いつも騒々しくて感情的で、直情径行で一本気な霊夢は、どのような形であれど、やっぱり一本槍な気持ちには弱いのだった。
少しだけ悪戯心が混じっていても確信犯。
橙は自分にも他人にも嘘はつかないのだ。
霊夢は憮然とした表情のまま、片方だけ目を開けると瞳だけを動かして橙を見据え、人差し指を立ててちょいちょいと招くような仕草をする。
「…あは♪」
橙は安堵と共に、照れ隠しのようなはにかんだ笑みを浮かべると、猫がじゃれ付くように四つん這いのまま霊夢へと近寄る。
そして霊夢の腕をきゅっと握り、少しだけ頬擦りすると、ゆっくりと彼女の膝の上に腰を下ろした。
「えへへー♪」
楽しげに足をぶらぶらとさせて顔だけこちらへと向け、また何かを誤魔化すような笑い。目を細めて笑うその様は、本当に猫のようだ。
「…何だっていうのよ、まったく。」
呆れたように呟く霊夢だったが、先程までの不満そうな表情はどこかに消え失せ、その顔には優しげな微笑が浮かんでいた。
初めて出会ったのは、流星のように降り注ぐ光の雨の中。
陰陽玉と特製の御札を手に、誰も知らない忘れられた迷い家で出会った。
二度目の出会いは、退路を断ち切るように上下左右に飛び交う、文字通りの十字砲火の中。
今度は陰陽玉と、祓い清められた特別製の針を手に、顕界と虚界の境界線上で再会した。
霊夢は微睡んでいるような、物憂げな表情で橙との二度の邂逅を思い出すが、この春先の出来事なのに、なんだか遠い昔の出来事のように思えて仕方がない。
やがて、霊夢の両手が橙のおなかのあたりで組まれる。そして、橙もうつむき加減のまま、ゆっくりと両手を霊夢の手に重ね合わせた。
微風が二人を包み込む。
秋も間近な月の夜。
今日はおかしな夜だから、こんなおかしな時間をゆっくりと過ごすのもいいかなと、霊夢はちょっとだけ苦笑混じりに思った。
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「お二人さん、やけに仲良しじゃないの。主人の私にもそんなに甘えてくれないのに、少し妬けるな。」
不意に声がして顔を上げると、何時の間にか石畳に人が立っていた。
青い柄が入った白い着物姿の少女。
いや、人ではないようだ。
腰の後ろには橙と同じように尻尾が揺れている。が、橙のそれとは違ってふわふわとした金色の毛に覆われた尻尾で、しかも九本。風になびく金色の髪には、やはり同じように金色の三角の耳を立てていた。年齢的には幼いように見えるが、きりっとした表情にはどこか大人びた雰囲気を漂わせている。
橙は照れたように曖昧に笑い、逆に霊夢はばつが悪そうな顔をする。だが今更取り繕うのも馬鹿馬鹿しいし、かえって妙な誤解をされそうなので開き直りを決め込む。
「別にいいでしょ…藍。あんたまでやって来るとは、本当に今夜はどうかしてるわね。」
最後のあたりは本音である。
橙の主人──八雲藍は、藍自身の主人が怠惰な生活を送っている分、主人に代わってやるべきことが多く、あまり人里には出てこないと思っていたのだが、それは間違っているのか、それともこの夜のせいなのか。
霊夢の考えていることが分かるのか、それとも無関係なのか、藍はふふっ、と意味ありげに笑う。
「私も隣にいいかな、霊夢。」
「え?…ああ、べ、別に構わないわよ。」
藍も橙と同様、喧嘩を売りに来た訳ではなさそうだ。ありがとう、とにっこり笑うと、目が細まって橙と同じく猫のように見える。
藍はちょこんと霊夢の隣に腰掛けると、くっつくように寄り添い、何の前触れもなくその腕に自分の腕を絡めた。
「………!!」
霊夢は目を見開き、驚きの声を上げかけて何とか思い留まった。
膝の上に化け猫を抱き、そして隣では身体を預けるように寄りかかる化け狐。
急に、馴染みの魔法使いの少女の人を小馬鹿にしたような顔が浮かんだ。魔理沙に見られたら、何を言われるか分かったもんじゃない。その後しばらくからかわれるのは火を見るより明らかだ。
とは言え、振り解こうにも橙は先に自分から呼んだわけだし、橙を抱いたままでは藍を引き離すのも忍びない。
途方に暮れたように強張った表情の霊夢だったが、本当はお人好しな彼女には結局のところどうすることもできず、疲れたような顔になると、もうどうにでもなれといった風情で大きく溜息をついた。
無意識のうちに、首筋にかかる藍の金色の髪を優しく撫でる。
藍は僅かに目を開け、少しだけ口元を綻ばせたが、霊夢はそれには気がつかなかった。
夢の淵で揺蕩うように、静かに目を閉じていた藍が口を開いたのは、随分と時間が経ってからのことだ。
「…てっきり、振りほどかれると思ったんだけどね。」
「…じゃあ一体どういうつもりよ、あんたといい橙といい。こんなおかしな夜は初めてよ。」
つい詰問口調になってしまったが、霊夢は訂正しない。
藍はそれには答えず、身体を離すと、笹の葉の上に広げられた月餅を手に取った。
「橙の月餅は、橙のずっと古い先祖が人間と一緒に暮らしていた頃、よく作ってもらっていたそうでね。かの国では、秋の満月の晩は、月見と収穫祭を兼ねているそうだよ。」
誰ともなく言うと、月餅に口をつける。
「…そして、月餅は丸い月のように団欒を象徴するお菓子でね。…霊夢が橙と仲良くしてくれて良かったよ。」
「な……!」
見透かしているのか、藍の言葉は橙が霊夢のために作ったものだということを肯定しているとしか受け取れない。
今度ばかりは顔を赤くした霊夢は何事か怒鳴ろうとするが、それを見るや藍は片目を瞑り、人差し指を立てて口に当てる。
気がついて見やると、霊夢の膝の上で橙は可愛く静かな寝息を立てていた。
くすくすと笑う藍に下唇を噛んで一瞥をくれると、霊夢はそっと小柄な橙の身体を抱き上げる。
「…そこで笑ってないで、布団でも敷きなさいよ。そこの押入れにあるから。」
「ふふ…はいはい。」
改めて、縁側に座り直す二人。
「…で、もう分かったんでしょ。」
藍がおもむろにそう尋ねると、霊夢は頭を掻きながら、すっかりぬるくなってしまったお茶を一気に飲み干す。
息を吐くと、今度は真面目な顔に戻って、
「そりゃあね。でもわざわざ月餅なんか作ってさ、そんな重ね言葉のような遠回し過ぎる真似しなくっても。」
と、少し不満げに言った。
途中から薄々気が付いてはいたのだ。おかしな出来事が立て続けに起こっているのではなく、この夜が只ならぬ夜であることに。
生まれ持った霊力があるとはいうものの、所詮は人間である霊夢より、橙や藍のような妖怪たちのほうが余程敏感に事の重大さを察知している。
結界の外に出ようとする命知らずも、その異変が我が身にもたらす災厄から逃れようと足掻いていたのかもしれない。それは今となっては知る術のないことだが。
霊夢は天空に白く輝く月を見上げた。
橙がどこか不安に怯えていたような素振りを見せていたのも、今なら分かる。
欠けている。
満月のように見える。少し前までは、自分もそう信じて疑いもしなかった。
だが、おそらくは幻想郷の住人といえど大半は気付いていないだろう。その程度の僅かな差ではあったが、今日は満月のはずなのに、月は満月に満たずほんの少しだけ欠けている。
満月は人を狂わせる。
満月の晩には月の光を糧とする妖怪たちが嬉々として跳梁跋扈するので、人の里では警戒も強まり、こうして月見を楽しむなど年に一度の仲秋の名月くらいだ。
でもそれは、事実を指し示すには多少言葉が足りない。
美しい月の夜には、人の里では血生臭い事件が頻発する。それは月が人心を惑わし、人を狂わす為だと言われているが、本当のところはどうだか知らない。
兎にも角にも、満月の夜というのは、月の恩恵を受ける妖怪たちが、人里で起こる惨劇に惹かれて飛び回る危険な夜なのである。
ところが、今宵はどうだろうか。
考えてみれば静か過ぎる。まあ、結界に近づく輩が続出したとはいえ、それに目を瞑れば静かなことこの上ない。森も山も、息を殺して何かが通り過ぎるのを待っているかのようだった。
あの月のせいなのか。
あの、満月を装った偽りの月の。
「…察しておあげなさいな、”月が怖い”なんてそう誰にでも相談できることではないわ。」
唐突に聞こえた声の方向を振り返ると、空中にまるで亀裂が入ったように青白い光の筋が生まるのが目に入る。
裂け目が広がるように亀裂は大きくなり、やがてその間から人影が現れた。
長く見事な金色の髪。
紫色の豪奢なドレスは、月明かりに照らされた夜の薄闇にあって相応しく、またその美貌によく映えている。
だが、やはり人ではない。
僅かでも霊力のある者なら、内から発せられる強大な妖気を感じて恐れ戦くだろう。
その妖艶な美しさは、全身に纏った妖気が見せる幻惑なのか。
霊夢はうんざりとした表情を見せたが、当の本人はそれを軽く受け止めると、
「ごきげんよう、霊夢。」
と笑いかけた。
今度は霊夢は睨むような視線を向ける。別に会いたくもないのに、橙の主人の藍が来たからには、その藍の主人──八雲紫がここに現れるであろうことは想像に難くない。だが、分かっていても実際に会ってみるとやはりうんざりしてしまう。
「…最初はあんたの仕業だと思ってたくらいよ。なにしろ、日に三度も”結界破り”がいるなんて初めてだったからね。」
「あら、信用していないの?」
「できるわけないじゃない!あんたみたいな胡散臭い妖怪の、どこを信用するってのよ!!」
紫が幾度も結界に穴を穿ち、その都度迷い込む人間を保護したり、結界の外へ出ようとする妖怪と空中戦を演じてきたのは他ならぬ霊夢である。信用しろというのが無理な相談だ。
「まあ、信用はしてくれなくてもいいわ。ただ、私の仕業ではないと分かったのでしょう?」
「…まあね。まさかあんたも、あの月を盗むなんて芸当は無理でしょうね。」
右手を頬杖にして憮然としたままぼやく霊夢だったが、そこではたと気が付く。
「…仕業って、これは誰かが仕組んだってこと?あの月が?」
紫は薄く笑うと、その質問には直接答えず、
「博麗の巫女がこの事態を放って置いていいのかしら?」
と、悪戯っぽい笑いを交えて言い放った。それは、暗に調査して事態の打開を図れと言っているも同然である。
その笑いが胡散臭いというのだ──。
「随分な言い方ね。…でもそんな面倒な事をする義理はないわ。大体、原因もわからないし、そのうち元に戻るかもしれないでしょうが。」
「原因は見当をつけているんだ、霊夢。その為にここしばらく留守がちだったんだよ、私も紫様も。」
今度は隣で黙っていた藍が口を開いた。
その顔はいつになく真面目で、放って置く訳にはいかないというニュアンスが感じ取れる。
霊夢はそれ以上言葉を発しなかった。この異変を作った”敵”がいて、その異変を取り除くためには紫と藍の二人ではまだ役不足というのか。少なくともそういう受け取り方しかできない。
「…ふん。これ以上結界に近づく奴がいたら、おちおち寝てもいられないわね。」
しばらく黙ったままの霊夢だったが、やおら嘆息混じりにそう呟くと立ち上がる。
紫と藍と一緒に出かけなければならないという点にしては、自分の中でかなり納得できないが、霊夢はそれを口には出さずに黙殺した。
少なくとも、紫と藍はどちらもこの異変を元に戻そうとしているのだ。
誰に聞いても巫女らしくはないという言葉しか返ってこないが、それでも霊夢は博麗の巫女。月の異変が、それから逃れようと結界に近づく妖怪を増やしているのだとしたら、結界の護り手としては看過できる問題ではない。
紫は妖怪の中でもかなり力のあるほうだし、藍も式神とはいえ、今や式神であることを忘れるほどの──本人も含めて──力の持ち主だ。その二人が揃ってここへ来たからには、冗談と笑い飛ばせるようなものではないだろう。
「それじゃ、霊夢の参戦も決まったし、すぐに出発しましょう。」
「あれ?橙はどうするの?」
霊夢は橙が眠っている筈の奥の部屋を指差す。
紫は答えず、ただにっこりと笑みを浮かべた。
霊夢は首を傾げるが、主人がそう言うのなら仕方がない。戦力になればこそすれ、足手まといになるとは思えなかったが、何か訳でもあるのだろうか。
それとも──それとも、戻れないかもしれない戦いに子供は連れて行けないと、暗に示しているのか。
紫の体が浮き、次いで藍もそれに従う。
霊夢は振り向くと、橙が眠っている筈の奥の部屋を見やり、少しだけ微笑んだ。
(行ってくるわね、橙。)
そして自分も、石畳を蹴って高く飛び、鳥居を越えて月明かりが満ちる夜の幻想郷の空へと駆け出していった。
「でもさぁ、それって今夜のうちにどうにかするつもりなわけ?敵の見当がついているなら、もうちょっと偵察とか準備とかしたほうがよくない?」
霊夢にしては珍しく、建設的かつ賢明な意見だったが、
「まあ、夜明けまでは遠いけど、夜はそんなに長いわけじゃないわ。」
と言って紫は取り合わない。
「ちょっと!それどういうこと?!また昼と夜との境界をいじるつもりね!」
霊夢は怒鳴ったが、紫は振り向いて笑い返すのみ。藍は聞こえないふりをして前を向いたまま。
偽りの満月に照らされた森の木々の上を、人間と妖怪と式神の三つの影が躍る。
「もちろん、事態が収拾すれば元に戻すわよ。ただ──。」
その時、急に強い風が吹き、紫の言葉の最後の部分は風に流されて霊夢まで届かなかった。
ただ、今夜は、永い夜になるでしょうけど──。
(-了-)
※注釈
『陰陽玉』…旧作では黒白でしたが、最近は赤白のようです。どっちかというと旧作のほうが存在感が大きかったので、ここでは黒白としました。
『博麗神社正殿』…今回も無駄なく隙なく容赦なく、完全に妄想とでっち上げで書きました(笑)。本編とはぜんぜん関係ないです。
『博麗大結界』…これも一部はマニュアルとかおまけファイルに記載のある通りで、あとはでっち上げと身勝手な解釈の連続(笑)。
『意外な展開』…もう、目が点になっている霊夢はもちろん、読者様も置いてけぼりってくらいのありえない展開。( ゚д゚)ポカーン ←AAだとこんな感じ?(笑)
『華国』…中国文学研究で名高い青木正兒氏の「華国風味」という本から勝手に拝借。なお「東奉幻獣記」とはたぶん関係ないです(笑)。
『中国』…と書くと雰囲気が出ないこともありますが、東方二次創作の世界では人名らしいので、代替案に苦慮しました(笑)。
『月餅』…仲秋の名月、中国では団子ではなくやはり月餅。「帝京景物略」には60センチの巨大なものまで出てきます(笑)。
『五仁』…普通は核仁・松仁・瓜仁・杏仁・欖仁を指しますが、橙は扁桃(アーモンド)、胡桃、落花生を入れています。…と勝手に決めました(笑)。
『小餅は月を嚼する如く、中に酥や飴が有り』…宋の詩人・蘇東坡の漢詩より引用。
『藍の耳』…帽子の下にきっとありますよね?そんな形ですし。誰かあると言ってくれ(笑)。
『式神・藍』…え?…永夜抄で紫が連れているのって藍じゃないの?…どう見ても藍ですけど…違うの??(笑)
ノーコンティニューでいいんでひとつください(ぉ
ゴホン、さておき。結界完成おめでとうございます。
前編の激しい日常と、後編のお熱い非日常の対比。
これこそ「動と静の均衡」、ですね。
八雲一家と霊夢の関係性が暖かく、柔らかな雰囲気が漂ってきます。
静かな夜の旅立ちが大形でないのも、
彼女らの日常の非日常性を良く物語っていて素敵です。
大変面白く拝読させていただきました。
これからもより一層のご活躍を・・・期待しても、良いでしょうか?
なんか、新刊を読んだら新事実が明らかに!…とかいう推理小説のよう(笑)。
それに、「橙を書きたかった」「ラブコメしたかった」っていうのはいくらなんでも嘘でしょう?
前編も一緒に読み返すと、どう考えても異変の起こっている夜を演出するために橙を出したようにしか思えず、それをこうして趣味を入れつつまとめ上げてしまう氏の才覚はさすがだと思いました。
最後は実に鮮やかにまとまっていて、特に紫はそこはかとなくあやしい感じがよく出ています。
ひょっとして、橙がお気に入りですか?随分と”愛”を感じましたが(笑)。
まさかこんな形でラブコメを組み込むとは。
正直、最初は「???」って感じでしたが。
読み進めていくうちにすっきりと収束していく様はお見事の一言。
紫も胡散臭さを上手く表現されてますし、
藍の格好良さも個人的にはかなりツボです。
>藍の耳
もちろんあります!(根拠なし)
と言うかヒトミミと獣耳両方あると思います。<個人的嗜好
こういう新しい関係を題材とした作品は斬新でいいですね
だっこ橙にやられた…
狐さんが好きです。でも猫さんがもっと好きです♪(おぉ)
永夜抄プロローグなMUIさんのシリーズ、全部目を通させて頂きました。その上で思うこと。もはやこれは、SSではなくて芸術作品の域に来ているなぁ……と感じたり(細部を上手くボカして描く印象派の風景画を思わせますね)
数多くの知識に支えられた重厚で、それでいて東方らしい地の文の山……一生こんなの私には書けませんよ、ぐっすん(泣)
何よりこの「妄想とでっちあげ」が上手い。私も東方SS書く時はしょっちゅうやってます、妄想とでっちあげ(笑)でも、私なんかがやるよりずっと東方らしい。東方書く上での必須技能(ぉ)とも思えるここが上手いのは凄く羨ましいです。
まあ、4つのストーリーを通しで読んで、幾つか気になった事もあるにはありますよ。
・幾度も使われている『役不足』は正しい意味で使うなら『役者不足』です
・咲夜はレミリアの事を『お嬢様』と呼ぶのが本来
・逆に妖夢は幽々子の事を『幽々子様』と呼ぶのがが本来
・橙は別に式が憑いていなくても常に人型
……重箱の隅ですいません。でも橙が常に人型ってのは重要な事だと思うのですよ、橙萌えとしてはっ!(私は東方シリーズ通して橙がぶっちぎりで最萌です)
おほん、えーっと失礼しました(汗)後は、作者さん慣れてないのかなーという感じですね、らぶこめ(笑)あともう一歩後ろに踏み込んでから切り出せばいい感じです(何)
ただプロローグのストーリーとして、4本ともどれも非常に高いレベルで纏まっていて、かつ相当に面白いです。それでいて渋いんですよねー、凄く。
これぞまさに燻し銀ストーリー。私には一生縁の無い単語ですが(泣)素晴らしい話を読ませて頂きました。次も当然ですが期待しております。
では私からは最後に。
……この話、橙を出すのはきっとかなり難しかったと思いますっ! そんな中であえて橙を出した事に作者さんのこだわりを感じました。橙萌えとして、最大級の感謝をお送りいたします♪
>藍のきつね耳~
あれ? 妖々夢EXで藍さま撃墜すると、帽子の半分が焦げて穴が開いていて、きつね耳なのがはっきり見られますよ~(橙の次に藍さまが好きー)
耳と尻尾は江戸の華っ!(ダメすぎ)
しかし、それだけでは終わらずちゃんとした伏線だったと言う所がさすがだなと思いました。
ミステリアスな紫様の演出も場が引き締まって良い感じですな。
4つのお話とも面白かったです。