これが現実なのか、夢なのか分からなかった。
否定できるのならしたい現実が自分の目の前に広がっていた。
自分の腕を伝う暖かな物、徐々に冷たくなっていく一人の少女の体がこれが紛れも無い現実であると主張する。
なら今、私の目の前にあるのは一体何の間違いなのだろうか。
赤より紅い血の海の中、何の感慨も無く立ちすくむ一人の少女。少女の着る青を基調とする服は一色に染まっている。
それは腕に抱く少女、紅魔館のメイド長『十六夜咲夜』が目の前に存在した。
「お待たせしました。レミリア様。」
その声は、私にとって何度も耳にしてきた声。
「あなた、誰・・・?」
「ご冗談を、この紅魔館でメイド長を務めている十六夜咲夜ですよ。お忘れになったのですか、『レミリア様』」
「違う!」
パキッ
その声は窓ガラスさえ悲鳴を上げる程の拒絶の意。
声も姿も私の知っている咲夜である。鏡に映したような咲夜そのもの。
でも違う。彼女が咲夜のはず無い。
(私の知っている咲夜はあんな笑い方をするはずが無い!)
未だ見た事の無い咲夜の笑顔。それでも、あんな笑い方はしないと信じたかった。
指についた血をおいしそうに舐めながら笑う少女が咲夜のはずが無いと
「違いません。私は十六夜咲夜。貴方にお仕えするメイドであります。」
「ち、違ぅ・・・」
出した声が震えているのは自分でも分かった。
500年の永い時を生き続けてきた吸血鬼とは思えないほどか弱い、恐怖に怯える少女の声であった。
彼女が恐いわけではない。
ただ、自分が認めてしまう事への恐怖、目の前にいるのが十六夜咲夜であるという事を認めてしまう事への・・・
なら、自分の腕の中で今にも消え入りそうな少女は誰なの?
「お分かりになられたようですね。」
咲夜だけれども咲夜ではない声。
鋭さ、冷たささえ持ちえない無機質な声。
「ならば、話はお早い・・・」
「!」
――― 死んでください。レミリア様
一切の感情を殺していた咲夜が一瞬見せた殺意。
顔を上げた私の目には映るのは迫り来る一本の銀のナイフであった。
*
ザクッ
「あぁぁっ!」
数十本目のナイフがレミリアの肩を貫いた。深深と突き刺さるナイフは血を吸うかのごとくレミリアの体から血を奪う。
体はずでに無数のナイフに抉られ、体中を赤く染めるほど大量の血を流していた。
まさしく、スカーレットデビルの由来のように
シュッ
無慈悲に空を裂く音は一直線にレミリアを目指す。
「くっ・・・」
音を聞いてからでは避けられないであろう一撃を間一髪で避ける。
吸血鬼という種であるレミリアだからこそ避けられる亜音速ともいえる銀の光。驚異的な瞬発力、洞察力、判断力が彼女の命を辛うじてつないでいた。
普段のレミリアなら自身の能力を合わせ、容易くかわす事が出来るだろう。
しかし、予想外の事象がレミリアを死へと追い詰めていた。
「曲がれ」
グサッ
「かはぁっ!」
避けたはずのナイフが常識に反して180度反転し、速度も衰えずそのままレミリアの腹部を貫いた。
口からは行き場を失った血が迸る。その小さな体に、未だそんなにも血が残っていたかという程の量が口から溢れ出す。
血を大量に失った事により意識は朦朧とし始め、体に力が入らない。
先の一撃で膝が崩れた。
「無様ですね。」
コツコツと床を叩きながら彼女が近づいてくる。その瞳はやはり何も映さず自分の主を見下す。
その姿には傷一つ無かった。
本来ならこんなにも圧倒的な戦況にはなる筈が無かった。
相手はあのスカーレットデビルと恐れられた紅い悪魔である。どんな相手だろうと無傷にして敵を殲滅する。
自身の能力、運命を操る能力があれば敵の攻撃、自身の攻撃を自分の思う通りに操る事が出来る。
それは無敵とも思える能力である。
運命の糸が見えるからこそ無敵であるレミリア。しかし、この戦いではその糸を見出す事が出来なかった。
あれほど、自身を戒めるように這う無数の紅い糸が一本たりとも見出す事が出来なかったのである。
能力を封じられてもレミリアは吸血鬼である。遅れをとるとは考えられない。しかし、腕に抱えるものが彼女を不利なものとしていた。腕に抱えるのは自分より大きな人間、咲夜である。あの機械のような咲夜は彼女をも狙って攻撃してくるため、あのままにしておく事が出来なかった。
そして、吸血鬼であるからの弱点。
日の光がレミリアの力を奪い、本調子の半分ほどしか力が出せなくしていた。
銀のナイフも例外ではない。銀によって付けられた傷は吸血鬼の再生能力を奪っていた。
様々な事象が折り重なり今の状況を作り出していた。
(何故、見えないの?)
今まで、ずっと在り続けた自分を取り巻いていた運命の糸。それが突如として消えた。
(これが、私の運命だというの?)
「気が付かないんですか。レミリア様。」
心を見透かすような咲夜の言動。
そして、私が何に気が付かないというの・・・
「ここは、私の世界。そう、私だけの世界。」
― パーフェクトスクウェア ―
完全な孤独の檻。
それが彼女が作り上げた完全な孤独の世界。
何人たりとも受け入れる事無い、切り離された咲夜唯一人の世界である。
それはもう一人の咲夜の心の鏡像そのものであった。
*
(もう動けない・・・)
すでに全体の70%以上の血液を失ったであろう少女の体は、力なくだらんと垂れ下がっている。
吸血鬼といえど死ぬレベルの出血量である。
朦朧とする意識の中、腕に抱くものだけははっきりと感じられる。
そっと触れた頬はまるで陶器のように白なり、冷たい。まるで眠っているかのような安らかな寝顔。流れるような艶やかな髪。急いでいたのか小さな寝癖があった。腕の中には咲夜がいた。
しかし、腕の中には生の営みを終えた抜け殻。
咲夜という亡骸があった。
「お別れです。レミリア様。」
スッとナイフをガードルから抜く音がやけに大きく聞こえる。
あと数秒すればそのナイフが私の首を刈り取るだろう。
吸血鬼の再生能力を奪う銀のナイフなら首を落とされれば、確実に命を落とすであろう。
迎えるのは死。
500年という長い年月を生き、死と疎遠だった私へ最愛なる者から下される死の宣告。
その事への恐怖は無かった。
永く生き過ぎた心は擦り切れ疲弊していたのかもしれない。そう思うと死は甘美な誘惑なのかもしれないと思った。
「一つ・・・、いいかし・・・ら。」
喉に血がこびりつきまともに言葉さえ紡ぎ出せなかった。
「なんでしょうか。レミリア様。」
「あ・・・なたは・・・」
最後にその事を確認したかった。
「本当・・・に、咲夜な・・・の。」
「・・・・・・」
最後の力を振り絞り、顔を上げた。
目に入るのはナイフを片手に持つ一人の少女の姿。
「私は『十六夜咲夜』ですよ。」
「・・・そう。」
いつものように無表情な顔が映った。
(ははは・・・)
笑えてくる。何故、もっと早く気が付かなかったのだろうか。
すっかり温もりを失った咲夜を強く抱きしめる。
(ははは・・・)
その頬に、一粒の雫が落ちる。
紅い悪魔と恐れられた彼女が流した血では無い、無垢な雫。
(そうよね。咲夜)
その瞳に映るのは血に塗れた二人の少女。
職務を忠実にこなす瀟洒な従者。
その割には何処か世間離れしているのか部下のメイド達と何度も揉めては、重傷者を出しながらも悪びれた風も無く私に説教される咲夜。
美鈴を苛める咲夜。
昼の一時、一心にナイフを磨く咲夜。
あっという間に紅魔館を掃除する咲夜。
料理上手な咲夜。
私にいつもそっけない咲夜。
夜遅く、眠そうな目をしながら見まわりをする咲夜。
いつも無表情な咲夜。
何事にも動じず私に仕える咲夜。
私を恐れずに接してくれる咲夜。
(そう・・・)
血に塗れ、敵を殺す事で喜ぶ咲夜。
殺す事でしか、自分を見つけられない咲夜。
殺す事への躊躇の無い咲夜。
血のような紅い瞳を持つ咲夜。
(私は何を迷っていたのだろう)
腕に抱く少女も、目の前にいる少女も、どちらも本当の『十六夜咲夜』ではないか・・・
*
(分からない)
咲夜はその能面のような表情を初めて歪ませた。
(何故・・・)
目の前の出来事が信じる事が出来ない。
しかし、確かにそれは今自分の目の前で起きている。
だからこそ信じる事が出来ない。
「何故なの!」
悲鳴にも近い少女の声がその空間に木霊する。
でも、誰も答えてくれるはずが無い。ここには目の前にいる少女以外存在しないのだから。
「・・・・・・」
一歩、また一歩と心もとないその足取りでその少女は私に近づいてくる。
歩くたびに体から血が噴きだたせながら近づいてくる。
「来るなー!」
シュッ
目にも止まらぬ銀の投擲は近づいてくる少女貫くあろう。
・・・が、
パキンッ
少女の体に触れた瞬間、銀で出来たはずのナイフはまるでガラスの様に霧散した。
留めに振り下ろしたナイフ同様砕け散ったのである。
「・・・・・・」
なおも、少女は無言でその歩みを進める。
何かにとり付かれたように一歩、また一歩と足を動かす。その度に、床は紅く染まっていく。
「それ以上、近づくなー!」
恐怖が彼女を支配する。
声と共に無数のナイフが展開される。
数十、いや数百とも思える大量のナイフが近づいてくる少女にその矛先を向け、その銀幕が一斉に殺到した。
壁とも思える大量のナイフ、一人の少女を殺すには有り余るものである。
「な!」
当たらない。
避ける隙間無い。それなのに殺到したナイフが一本たりとも少女に当たらない。
通り過ぎたナイフは血を求めるように反転し、少女を串刺にしようと試みる。
しかし当たらない。
避ける事も無くただ歩く少女をナイフは一本たりとも当たる事が無い。なおも屈折しながら殺到するナイフの中、紅い少女は歩みを止める事無く歩き続ける。
「なんで・・・」
崩れ落ちる膝。それに従うようにナイフは力無く床に落ちていく。
激しい金属音が酷く遠くに聞こえる。なのに、迫り来る少女の足音だけははっきりと聞き取れる。
その足音が私の目の前まで来て止まった。その体は歩みを止めてもなお血が流れ続けている。
目の前には体中を自身の血で真っ赤に染めた少女の姿。
虚ろな瞳で私の瞳を覗き込む少女は、その紅く染まった手が伸ばしてくる。
血を滴り落としながらゆっくりと
「あぁ、ぁぁ・・・」
殺される。
伸びた手は、何の抵抗も無く自分の首を圧し折るだろう。
体が震える。
凍っていたはずの心をも揺さぶるような恐怖。
それは、死への恐怖。
(死にたくないよ。)
近づいてくる少女の腕を振り払おうと考える事が出来なかった。
その手が私を・・・
*
私の周りに紅い糸が集まってきた。
まるで意思をもつかのように私に絡みついてくる。
普段なら、忌々しく感じるかもしれないが、今は嬉しかった。
――― 変えられない運命は無いわ
昔、パチュと戦った時に言っていた言葉。自分にとってはつまらない戯言のはずであった。
でも、今なら分かる。
無数の紅い糸の中、一つの糸を見つけた。
その糸は今まで見たものとは明らかに違っていた。
今にも切れそうな程細くて頼りない糸。
色もくすんでしまいでボロボロであった。
例え、私以外にこれらの紅い糸が見えたとしてもそんな糸には目もかけないであろう。
でも、私にはとても大切な物だ。
――― 何を恐がっているの。レミィ
恐かったのかもしれない。
運命を操っているのでは無く、操られているのかもしれない事に
触れようとした指に傷がついた。
それでも、手を伸ばす。
その行為を拒絶するかのように手には無数の傷がつくられる。
――― 運命は切り開くものよ
自分から歩もうとしなかった。
やっと手にとった糸は本当に細かった。
持っただけでも切れてしまいそうな程か弱い糸。
手に取った紅い糸は冷たく震えていた。
*
トンッ
一瞬何が起きたのか分からなかった。
突然、引き寄せられ柔らかな布の感触。そして、温かい。
トクトクと心臓の鼓動が聞こえる。
「大丈夫よ・・・」
柔らかな声が耳元から聞こえる。
「大丈夫・・・」
髪をそっと撫でながら何回も繰り返される暖かな声。
「もう、大丈夫だから・・・」
ただ、その行為をひたすら続けるだけ。
たったそれだけなのに、とても落ち着く。
「もう、大丈夫だから・・・」
掛けられる声。優しく髪を撫でる小さな手。
それだけで、心が満たされていく。
ただ人を殺す事でしか満たされなかった器がゆっくりと満たされていく。
「貴方は、一人じゃないわ。私が何時までも見守っていて上げる・・・」
目頭が熱かった。
景色が歪んで見える。
温かな雫が止めど無く溢れ頬を濡らす。
「恐がらなくていいの・・・」
ピシッ
空間に亀裂が入る。
止まっていた世界が動き出すかのように亀裂は広がっていく。
「うぅ・・・」
崩れいく世界の中、一人の少女の嗚咽だけが聞こえる。
ガラスの様に崩壊していく世界の中、レミリアはそのか弱い少女の頭を撫で続けた。
咲夜の二面性が脳に響くように感じましたが、しかし、この印象を表現しようとすると言葉に詰まります。
時に殺したくなるほど好き──。
最後は、どの方向に予想を裏切られるのでしょう。期待半分、もう半分は…。
残酷な咲夜さんがなんとも言えず怖かったです。
私の過去の作品とは比べ物にならないほどの暗さ、感服いたしました。
私もこれぐらい書けるようになりたいです。
次回がどのようになるのか期待して待ってます。