『湖上の大妖精』
辺境の大湖にはあまたの妖精どもが巣くっていたが、その中でも力ある大妖精は一目おかれていた。
彼女は遠見にして明察の持ち主であったから、いっときの流れに惑うことなく、巧みに身を処することができたのだ。
たとえば、あるとき剽悍な氷精チルノが威勢をふるっていた時分には、無理に逆らわずその下についたが、彼女がむざんに倒れたのちには再び湖のボスの座に返り咲いた。
他の妖精どもは大妖精を臆病とはいわず、むしろ賢明だと評し、いっそう信頼を深めたのだった。
あるとき彼女が小妖精らと砂遊びをしていると、いまや落魄して、往時の見る影もない氷精チルノがとぼとぼ歩いてきた。
「そこにいるのはチルノ! 良かったら、いっしょに遊んでいかない?」
そう呼びかけたが、チルノはおのれの身をかえりみて恥じること多く、彼女の言葉に応じなかった。
「あんたたちと違って、あたしは忙しいのよっ」
「と、いうと?」
「それはその」と、口ごもりつつ。「いろいろ、やることが、あるのよ」
「へぇ、具体的には?」とは、大妖精はいわず、「そうなの。頑張ってね」と微笑んだ。
さすがに氷精も少しばつが悪くなり、「とはいっても」少しくらいなら付き合ってもいい、と妥協した。
そこで大妖精は彼女のために口を利いてやり、小妖精たちと遊ばせた。
「楽しいかしら?」
「わりとね!」
それからしばらくのち、チルノがじゅうぶん妖精らに馴染んだとみるや、大妖精は忽然と湖から姿を消した。
「どうして?」
と不思議がる妖精たちに、チルノはいった。
「あたしにはなんとなくわかる」
彼女が去っていったであろう空を見上げ、まぶしげに目を細めつつ。
(彼女は利口になりすぎた)
妖精の本性は楽天にして奔放、それこそ風や水のように何ものにもとらわれぬもの。
しかし彼女は、仲間を守ろうという使命感に駆られたがゆえに世故に長け、智を蓄えたが、それがいまや重荷となっていたのであろう。
きっとかの大妖精は、もっと自由に、気ままに生きられる場所を探しに行ったのだ。
「でも……そうね。たっぷり垢を落としたら、戻ってきなさいよ」
それまでは、とチルノはつぶやいた。「あたしが、湖を守るからさ」
大妖精の帰還は、それから幾度目かの夏のことであったという。
『紅魔館の小悪魔』
紅魔館ことスカーレット家には、大小強弱さまざまな妖怪のたぐいが棲みついていたが、なかでも魔女の書斎をねぐらとする小悪魔は、その才と能を高く買われていた。
とはいえ彼女は己の分から外れることなく、あくまで小者として身を慎んでいたため、その存在を世の人が知る機会はまれと言ってよかった。
ところで小悪魔がいるからには大悪魔というのもいて、こちらはたいそう気が荒く、何よりたいへんな食欲の持ち主で、しばしば他の妖怪、ときには館のメイドすらも餌食にしてしまうのだった。
「掃除いたしましょうか?」とメイド長の十六夜が申し出ても、
「稚気や愛すべし」と、スカーレット家の令嬢は生白い歯を剥いて笑うばかりだった。
「捨て置けばいい。いずれ、その貪欲はおのが身すらも食らい尽くすであろうから」
それはそれとしても、小悪魔は同属として、かの大悪魔の所業を心悪しく思った。
そこで彼女――さよう、大悪魔といえども少女であった――のもとへ赴いて、いった。
「もう貪婪な真似はおよしなさい」
それは無理なことだ、と大悪魔。「だって私は渇していて、しかも飢えているのだもの」
「渇しているなら、水を。飢えているなら、パンや野菜を」食せばよいのに。
「そんなものでは」おさまらないの、と大悪魔の少女はつぶやいた。
「私は血をすすり、肉を食いちぎるほか、正気でいられないのだもの」
なぜ? と小悪魔の少女は頭の羽を振った。「かつてのあなたは、そうではなかったのに」
「変わったのよ」私も。「あなたもね」
大悪魔の少女は蒼い皮膚に血管を浮き立たせた。異形の力がみなぎる報せである。
「早く行って」と、大悪魔。「そうしなければ、私は――あなたを――」
食らえば良いわ、と小悪魔はいった。「あなたの渇きが、飢餓が、それで癒されるのなら」
野太く膨張した腕が伸びる。短刀ほどに肥大した爪が空を裂いた。
肉をえぐる音とともに引きずり出されたのは、心臓だった――大悪魔の。
「わかって、いたのでしょう」末期の息で。「私に、あなたは、殺せないと」
きっとね、と小悪魔はいった。彼女の頬を撫でながら。
「知って、いたのでしょう」絶息まぢかに。「私の、想い、を」
おそらくは、と小悪魔はいった。彼女の前髪を梳きながら。
「なんて、邪悪で――」大悪魔は心臓を差し出した。「なんと、哀しい瞳」
それは確かね、と小悪魔はいった。彼女の心臓に口づけながら。
小悪魔は心臓を布におさめ、その場を去り、館の門へ向かった。
背後から聞こえてくる小妖怪どもの歓喜の声、咀嚼音に羽すら動かすことなく。
彼女が泣いたのは、晩餐も過ぎ夜も更け、部屋にひとりになってから。
「ああ」彼女は胸をさすりながらささやいた。「あなたの名前も――思い出せない」
『リリーホワイト』
リリーホワイトは春を運ぶ精であり、春が来たことを伝えるのがさだめである。
その一生は、春の訪れにはじまり、その終わりとともに去る。
してみれば。彼女の生そのものが春であるといってよい。
ゆえに、人や妖はわざわざ彼女に『春が来た』などと伝えてもらう必要はないわけだ。
にもかかわらず、リリーホワイトがその無為とすら見えるいとなみを毎年くりかえすのは、いかなる存念あってのものであったろうか? ――判然とはしない。
あるとき、あまり春が早く来すぎたことがあった。
つまり、彼女が湧いて出てきたときにはとっくに春もさかりで、みな花見だ花見酒だ花見見だと大騒ぎのありさまで、さしもの彼女もそんな連中に向かって『春がきました』などとは言えなかったのだった。
彼女はとぼとぼと立ち去り、早いところ春が終わってくれないかしら、とぼやくことしきりだった。
ふと、「あぁまだ冬ね」「ああそうね」という声がした。
見ると、少女をかたどった雪だるまがふたつ立っていて、なかば溶けながらも能天気に雪合戦と洒落込んでいた。
自分の身体を引きちぎって投げているから、そのうち消えてなくなりそうだった。
リリーホワイトは大いに喜んだ。まさにここに、いまだ冬だと思っている輩がいるではないか。
そこで彼女は春風を巻き起こし、「春が」
暖気を巻き起こして彼らへ浴びせながらいった。「きました!」
すると、雪だるまどもはたちまち溶け始めた。
「こんなはずでは。まだ、冬でしょう、姉妹?」
「ええ。でも、間違っていたみたい」
「ずっと冬だったら、良かったのになぁ」
「そういうわけには、いかないのよ」
「あんたは……知ってたんだろう?」
「さてね……どうあれ、もう、お終い」
「もう、会えないの、姉妹……?」
「雪解け水になるだけよ、まじりあって」
「ああ……」
雪だるまどもは、折り重なるように倒れ、すっかり溶け崩れていった。
リリーホワイトは雪解け水を両手ですくい、口に含んだ。
「春なのに」喉を潤す感触に、彼女はつぶやいた。「こんなに、冷たい」
辺境の大湖にはあまたの妖精どもが巣くっていたが、その中でも力ある大妖精は一目おかれていた。
彼女は遠見にして明察の持ち主であったから、いっときの流れに惑うことなく、巧みに身を処することができたのだ。
たとえば、あるとき剽悍な氷精チルノが威勢をふるっていた時分には、無理に逆らわずその下についたが、彼女がむざんに倒れたのちには再び湖のボスの座に返り咲いた。
他の妖精どもは大妖精を臆病とはいわず、むしろ賢明だと評し、いっそう信頼を深めたのだった。
あるとき彼女が小妖精らと砂遊びをしていると、いまや落魄して、往時の見る影もない氷精チルノがとぼとぼ歩いてきた。
「そこにいるのはチルノ! 良かったら、いっしょに遊んでいかない?」
そう呼びかけたが、チルノはおのれの身をかえりみて恥じること多く、彼女の言葉に応じなかった。
「あんたたちと違って、あたしは忙しいのよっ」
「と、いうと?」
「それはその」と、口ごもりつつ。「いろいろ、やることが、あるのよ」
「へぇ、具体的には?」とは、大妖精はいわず、「そうなの。頑張ってね」と微笑んだ。
さすがに氷精も少しばつが悪くなり、「とはいっても」少しくらいなら付き合ってもいい、と妥協した。
そこで大妖精は彼女のために口を利いてやり、小妖精たちと遊ばせた。
「楽しいかしら?」
「わりとね!」
それからしばらくのち、チルノがじゅうぶん妖精らに馴染んだとみるや、大妖精は忽然と湖から姿を消した。
「どうして?」
と不思議がる妖精たちに、チルノはいった。
「あたしにはなんとなくわかる」
彼女が去っていったであろう空を見上げ、まぶしげに目を細めつつ。
(彼女は利口になりすぎた)
妖精の本性は楽天にして奔放、それこそ風や水のように何ものにもとらわれぬもの。
しかし彼女は、仲間を守ろうという使命感に駆られたがゆえに世故に長け、智を蓄えたが、それがいまや重荷となっていたのであろう。
きっとかの大妖精は、もっと自由に、気ままに生きられる場所を探しに行ったのだ。
「でも……そうね。たっぷり垢を落としたら、戻ってきなさいよ」
それまでは、とチルノはつぶやいた。「あたしが、湖を守るからさ」
大妖精の帰還は、それから幾度目かの夏のことであったという。
『紅魔館の小悪魔』
紅魔館ことスカーレット家には、大小強弱さまざまな妖怪のたぐいが棲みついていたが、なかでも魔女の書斎をねぐらとする小悪魔は、その才と能を高く買われていた。
とはいえ彼女は己の分から外れることなく、あくまで小者として身を慎んでいたため、その存在を世の人が知る機会はまれと言ってよかった。
ところで小悪魔がいるからには大悪魔というのもいて、こちらはたいそう気が荒く、何よりたいへんな食欲の持ち主で、しばしば他の妖怪、ときには館のメイドすらも餌食にしてしまうのだった。
「掃除いたしましょうか?」とメイド長の十六夜が申し出ても、
「稚気や愛すべし」と、スカーレット家の令嬢は生白い歯を剥いて笑うばかりだった。
「捨て置けばいい。いずれ、その貪欲はおのが身すらも食らい尽くすであろうから」
それはそれとしても、小悪魔は同属として、かの大悪魔の所業を心悪しく思った。
そこで彼女――さよう、大悪魔といえども少女であった――のもとへ赴いて、いった。
「もう貪婪な真似はおよしなさい」
それは無理なことだ、と大悪魔。「だって私は渇していて、しかも飢えているのだもの」
「渇しているなら、水を。飢えているなら、パンや野菜を」食せばよいのに。
「そんなものでは」おさまらないの、と大悪魔の少女はつぶやいた。
「私は血をすすり、肉を食いちぎるほか、正気でいられないのだもの」
なぜ? と小悪魔の少女は頭の羽を振った。「かつてのあなたは、そうではなかったのに」
「変わったのよ」私も。「あなたもね」
大悪魔の少女は蒼い皮膚に血管を浮き立たせた。異形の力がみなぎる報せである。
「早く行って」と、大悪魔。「そうしなければ、私は――あなたを――」
食らえば良いわ、と小悪魔はいった。「あなたの渇きが、飢餓が、それで癒されるのなら」
野太く膨張した腕が伸びる。短刀ほどに肥大した爪が空を裂いた。
肉をえぐる音とともに引きずり出されたのは、心臓だった――大悪魔の。
「わかって、いたのでしょう」末期の息で。「私に、あなたは、殺せないと」
きっとね、と小悪魔はいった。彼女の頬を撫でながら。
「知って、いたのでしょう」絶息まぢかに。「私の、想い、を」
おそらくは、と小悪魔はいった。彼女の前髪を梳きながら。
「なんて、邪悪で――」大悪魔は心臓を差し出した。「なんと、哀しい瞳」
それは確かね、と小悪魔はいった。彼女の心臓に口づけながら。
小悪魔は心臓を布におさめ、その場を去り、館の門へ向かった。
背後から聞こえてくる小妖怪どもの歓喜の声、咀嚼音に羽すら動かすことなく。
彼女が泣いたのは、晩餐も過ぎ夜も更け、部屋にひとりになってから。
「ああ」彼女は胸をさすりながらささやいた。「あなたの名前も――思い出せない」
『リリーホワイト』
リリーホワイトは春を運ぶ精であり、春が来たことを伝えるのがさだめである。
その一生は、春の訪れにはじまり、その終わりとともに去る。
してみれば。彼女の生そのものが春であるといってよい。
ゆえに、人や妖はわざわざ彼女に『春が来た』などと伝えてもらう必要はないわけだ。
にもかかわらず、リリーホワイトがその無為とすら見えるいとなみを毎年くりかえすのは、いかなる存念あってのものであったろうか? ――判然とはしない。
あるとき、あまり春が早く来すぎたことがあった。
つまり、彼女が湧いて出てきたときにはとっくに春もさかりで、みな花見だ花見酒だ花見見だと大騒ぎのありさまで、さしもの彼女もそんな連中に向かって『春がきました』などとは言えなかったのだった。
彼女はとぼとぼと立ち去り、早いところ春が終わってくれないかしら、とぼやくことしきりだった。
ふと、「あぁまだ冬ね」「ああそうね」という声がした。
見ると、少女をかたどった雪だるまがふたつ立っていて、なかば溶けながらも能天気に雪合戦と洒落込んでいた。
自分の身体を引きちぎって投げているから、そのうち消えてなくなりそうだった。
リリーホワイトは大いに喜んだ。まさにここに、いまだ冬だと思っている輩がいるではないか。
そこで彼女は春風を巻き起こし、「春が」
暖気を巻き起こして彼らへ浴びせながらいった。「きました!」
すると、雪だるまどもはたちまち溶け始めた。
「こんなはずでは。まだ、冬でしょう、姉妹?」
「ええ。でも、間違っていたみたい」
「ずっと冬だったら、良かったのになぁ」
「そういうわけには、いかないのよ」
「あんたは……知ってたんだろう?」
「さてね……どうあれ、もう、お終い」
「もう、会えないの、姉妹……?」
「雪解け水になるだけよ、まじりあって」
「ああ……」
雪だるまどもは、折り重なるように倒れ、すっかり溶け崩れていった。
リリーホワイトは雪解け水を両手ですくい、口に含んだ。
「春なのに」喉を潤す感触に、彼女はつぶやいた。「こんなに、冷たい」
短いのになんかこみあげてくるんだよ。