私のご主人様である紫様は、普段起きていられることがあまりない。
紫様自身から直接聞いたことはないが、きっと睡眠時間が長いのにはそれなりの理由があるのだろう。
紫様はすきま妖怪。
あらゆる境界を司る妖怪。
私が見解するに、おそらく常に境界に触れているが故に、その境界が持つ意味が曖昧になっているんだろう。
それはきっと自分自身に対しても然り。
きっと紫様は長い年月を生き、ご自身の夢と現の境界が持つ意味が曖昧になりかけているのだろう。
だから紫様は夢と現を隔てない。
紫様は、常に夢と現の境界を彷徨っている。
…私が使役されたのは随分昔だったが、その頃からすでにその傾向は見られていた。
まだまだ未熟だった私は当然そのことに気がつくはずもなく、正直寝てばかりの紫様に腹の立つこともあった。
今から思えば、その巨大な力故の反動だと気付くこともできるが、当時はそうもいかなかった。
良くも悪くも、ご主人様を信頼していたのだ。
そしてある日、私は皮肉としてこう言ったのだ。
『いつまでも寝ているとそのうち夢が現で現が夢になってしまいますよ』と。
今でもそのときのことはよく覚えている。
その日の気候。そのときの家計状況。あの時の紫様の表情。口にされた、あの言葉。
『あら。いくら境界が曖昧だからって、そんなヘマはしないわよ。…だって私の現は、いつだってあなたに起こされるところから始まるんですからね』
紫様のその言葉とその真意。
とげとか耳に痛いこととかも含まれていたが、その言葉には紫様の私に対する深い愛情と信頼が感じられた。
だからこそそれは同時に、私に一つの答えを与えた。
自分の能力についてあまり喋りたがらない紫様が初めて漏らした、自己の境界の曖昧性。
当時だって今ほどではないがある程度の知識はあった。
それだけのヒントがあれば、答えに辿り着くには十分だった。
紫様は…誰かの支えがなければ、いずれ夢と現の区別ができなくなり、やがて生きていない…死んでないだけの存在になってしまう、と。
境界を司る大妖怪八雲紫。彼女は全ての境界の主。その生に終わりがくることはない。
紫様の言葉を聞いてから、わずか一分足らずの出来事。
そこまで考えて、だからこそ…私はその場で涙したのだ。
自分は紫様の恩に報いることができているのだと知ったから。
紫様が自分を支えにしてくれていることが、純粋に嬉しかったから。
――あの日以来、私は今まで以上の忠誠を紫様に誓った。
紫様は笑って、「そこまで畏まらなくてもいいのに。バカな子ね」と言ってくれた。
あなたはずっと私に側にいてくれればいいのよ。私の仕事の代わりをしたくないならばしなくてもいい。そんなものは博麗神社の巫女にでも任せてしまえ、とも言われた。
そんな紫様だからこそ、私は橙を使役している今でも紫様を叩き起こしている。
それが、私に与えられた本来にして唯一の役割なのだから。
「藍さま~。夕食のお膳立て、終わりました~」
「…よし。それじゃあ紫様を起こしてくるから、お前はここで大人しくしてるんだぞ?」
「は~い」
それは重労働ではあるけど、とても充実した時間。
前に橙が「もっとやさしく起こしてあげましょうよ~」と言っていたが、これはもうきっと治らないだろう。
これは一つの戦いでもあるのと同時に、私と紫様の一種のコミュニケーションと化しているのだから。
紫様のMy布団の前まで来て、熟考する。
さて、今日はどう起こしたものか。
紫様は基本的に学習しない方ではあるが、恐ろしく順応性が高いのであまり同じ手ばかり使っていると効果が薄れてしまうのだ。
ある意味学習する人よりもたちが悪い。
しゃがみこんで紫様の頬を突付きながらどう起こすかを考える。
紫様の頬はやわらかいなぁ、とか。
紫様の寝顔は可愛らしいなぁ、とか。
決してそんなことを考えているわけではないけど、こんなに無防備な表情をされているとこちらまで頬が緩んでしまう。
「……んの………こぉ~…………」
「…ん? なんですか、紫様?」
橙や紫様の寝言をよく聞く身としては、たとえ返事が返ってこないとわかっていてもそう聞き返してしまう。
そのせいでいつも起こすのが遅くなってしまうのだが、橙には今日も苦戦したのだとでも言っておこう。
「らんの……っぱ、んこ~………」
なんだか、私の名前のあとに不穏な音の並びがあったような。
ゆさゆさと揺さぶってもう一度催促をかけてみる。
「らんの……スッパテンコ~………」
「…………」
いくら絶対の忠誠を誓ったご主人であろうと、勝負を挑まねばならぬときというのがあると私は常々感じている。
今は、まさにその時だろう。
いくらご主人様といえど。許せないことというものは存在するものだ。
「まったく。こんなに無邪気な顔して、この人はなんてことを口走るんだ」
紫様を担いで部屋を出る。
「あ、藍さま。…て、紫さまの足を持ちながらどこに行くんですか?……紫さまの頭、引きずってますよ?」
「気にするな、橙。これから少し出かけてくる。ご飯が冷めないうちに帰ってくるから大人しくしてるんだぞ?」
「は~い」
橙にお留守番を任せてマヨヒガの家を出る。
出てしばらくしたところで風の印を結んで紫様を上空高くに放り投げる。
自分も飛び上がり、橙の手前我慢していた感情を肺の空気もろとも吐き出す。
「私は…!スッパテンコーじゃな~い!!」
式輝「プリンセス天弧 Illusion」
標準は眠っている紫様。
いくら避けやすい弾幕だったとしても睡眠中ならもろに直撃の弾幕。
さすがの紫様といえどただでは済まないだろう。
「……むにゃ? …………ちょ、藍!? 痛い! 痛い痛い! 藍、いきなり弾幕は卑怯よ! きゃ~、痛いってば~!」
「私はスッパテンコーじゃない! プリンセス天弧だ~!!」
「わかった! わかったから落ち着きなさい、藍! さすがに寝起きに弾幕はきついわ~!」
きゃ~! と叫びながらも、ナイトキャップが飛ばないように片手で押さえてもう片方の手で隠密の印を結ぶ紫様。
悲鳴をあげる紫様を見るのは久しぶりだ。……て、そうだった。普段は寝ているからあまり実感はないが起きてしまえば紫様はボム無効なお方だった。
多少冷静になった私は、とりあえずスペルカードの発動を中断する。
「…ふぅ。ちょっと、藍。ひどいわ。寝てる私に何をしようとしたのよ~」
「言葉だけ聞くと妙な誤解を招きそうな言い方をしないでください」
「そうそう、今日は面白い夢を見たのよ? えぇっと、たしか…」
ちょっとだけぼろぼろになったパジャマとナイトキャップ。ついでにちょっとだけ汚れた顔をにこにことさせてなかなかに上機嫌な紫様。
よほどいい夢を見たのだろう。スペルカードで起こしたことを怒られないなんて、どれくらい振りだろうか。
これでは勝手に狂乱していた自分が愚か者のように思えてしまう。
いや。ご主人様に歯向かう行為自体、すでに愚者のすることだが。
「たしか、久しぶりに藍がスッパテンコーでね? なだめるのに苦労した夢を見たの。ふふ、あの頃が懐かしいわぁ。藍ったら橙の前だと恥ずかしがって、最近じゃめっきりしなくなっちゃったんですものね」
「…………紫、様?」
紫様に話し掛ける自分の声が震えているのがよくわかる。
体も微妙に震えている。
「私が、いつ、どこで、どのように、スッパしていたというのですか?」
「藍がまだ若かった頃、マヨヒガの家で、お酒を飲みながら、スッパをしていたのよ?」
捏造だ。
きっと捏造に決まっている。
第一、私は家でお酒を飲むときはいつも一人と ――
「もしかして、こっそりと私がお酒を飲んでるのをすきまから覗いてたんですか?」
「もしかしなくても、そうだったかもしれないわね。ほら、藍ってばお酒を飲んででろんでろんになったあとっていつもスッパじゃない? 寒そうだから、いつも着せてあげてたのよ?」
紫様はそれはもうとてもとても楽しそうに思い出話に花を咲かせている。
「紫様、なんて……」
この時の私は顔が火が出るくらい熱くて、頭の中がグルグルで、きっと言語中枢が混乱していたのだろう。
「紫様なんて、足臭のくせに~!!」
少なくとも、今まで禁忌としていた言葉を口にしてしまう程度には。
「藍?」
ぴたりと、背後から紫様の声が聞こえる。
先ほどまで目の前にいたというのに、なんというすきま移動速度だ。
「世の中には言っていいことと言っちゃいけないことがあるって、知ってるわよね?」
あまりにもすがすがしすぎる天使のような紫様の声に、私は震えながら背後に視線を向ける。
そこにあった紫様の顔には、先ほどの笑顔よりももっとにこにことした笑顔が張り付いていた。
「あら、返事はないの? …ふふ。久しぶりに調教が必要なようねぇ?」
「い、いえあの、紫様? さ、さきほどの言はですね? その…なんと、いいましょうか……えぇっと」
「ふふ。言い訳はしなくていいわよ、藍」
がしっと襟を掴まれる。
紫様はそんなに腕力があるほうではないのだが、それにも関わらず解くことができない。
そうこうしているうちに、目の前の空間にすきまが出来始める。
……あ、あれ? いつもとなんだか雰囲気が ―― て、なんかブラックホール風味にまわりのものを吸い込んでるっ!?
ちょ、なんかごごごご~とかってすきまとは思えない音を立ててるし!
「ゆ、紫様……? ご冗談、ですよね……?」
思わずそう聞いてしまうほど、そのすきまには迫力があった。
―― が。
「えぇ、冗談ではこんなもの作らないわ」
にっこりと最上級の笑顔を見える紫様は、それ以上の迫力を持っていた。
……どうやら、もう逃げることはできないらしい。
「大人しく60秒間の地獄を……味わってきなさ~い!」
「あ~れ~!?」
思い切り、勢いよくすきまに投げ込まれる。
引力が働いているのか、すきまに近づけば近づくほど強く引きつけられる。
そしてすぽんという音を立てて、私はすきまの中に飲み込まれてしまった。
紫奥義「弾幕結界」 ―― 発動。
あ~れ~。
☆★☆★
「ふぅ、久しぶりにいい仕事をしたわ。橙、今日のご飯は何かしら?」
「あ。おかえりなさい、紫さま。藍さまはどうしたんですか?」
「さぁ?どこかてきとうなところで這いつくばってるんじゃないかしら。それより、ご飯ご飯~」
「は~い。あ、そうだ!今日はなんとおかずが焼き魚なんです!しかも旬の秋刀魚なんですよ~!はやく食べましょう!冷めた焼き魚ほどがっかりなものはないです!」
「えぇ、そうね。それにしても藍は残念ね~。こんな焼きたて旬な秋刀魚を食べれないなんて」
「おろし~大根おろし~」
「あら、いいわねそれ。私にも少しくれるかしら?」
「は~い」
★☆★☆
……ちぇ、ちぇん。
もう少し、私の心配をしてくれても――
罰は当たらないと、思うぞ……?
がくっ。
後半のノリも嫌いじゃないですけど、特に序盤が気に入りました。
紫の何気ない一言のその真意を汲み取り涙する藍が健気で健気で…。
このSSでの二人の関係は、私としても今までになくとても理想的です。
単なる主従関係だけでは無い想いが、お互いにあると信じたいですね。
前半も、後半も読んでいて面白かったです。
やっぱ、藍はスッパ、紫は足くs…(弾幕結界発動