博麗神社と訊ねられても、幻想郷の住人ですらその正確な所在を挙げられる者は少ない。
もともと幻想郷には人間が少ないし、妖怪達はと言えば、神社という施設の概念自体がなかなか受け入れることができないというのが主な理由だ。
そもそも、神社というのは神祇信仰においての神の住居である。太古の人々は、大きな木や巨大な岩に神が宿ると考えており、ここ幻想郷においてももろちんそれは一緒である。
むしろ、妖怪達にとってはそういった原始的な自然崇拝が至極当たり前なのだ。なにしろ、滅多にないけれども、幻想郷では本当に神様に会えることだってあるのだから。
だから、人間のような卑小な生物が家を作って神様を祀るという事自体、なかなか理解しにくいものだったのである。
神様とは、人間はもちろん妖怪達だって及ばない、大自然の力のような人知を超えたエネルギーによって生み出された、もっともっと神聖な場所にこそ降りるのだと、そう考えられているのだ。
人間は単に知らないだけ、妖怪は興味なし。
博麗神社に人が来ないのは、至極当然のようにも思える。
-1-
静謐な空気が、さほど広くない部屋を包み込んでいる。
畳が敷かれ、部屋の奥は一段高くなって祭壇が設けられていた。左右には緑鮮やかな榊が立てられ、神饌が供えられている。
祭壇の中央奥には御神体があるはずなのだが、白い幕がかけられていて窺い知る事はできない。
その前には、ひとりの少女が座っていた。
赤い刺繍を施された白いフリルブラウスに、やはり赤のベスト。赤のラッフルスカートは白のギャザーで飾られており、頭にはやっぱり赤い大きなリボンを結んでいる。赤と白とのコントラストが鮮やかに、年相応の女の子らしい元気な姿を華やかな雰囲気で彩っていた。
──と、これはここが人里であれば、という表現。
場所が場所だけに、神社の巫女──と考えるのが自然なのだが、端から見れば一般的な巫女のイメージとはかけ離れた姿格好だ。
というか、ここが神社でなければ、巫女というイメージ自体が成立しないばかりか、赤と白という配色がなければそんな単語すら出てこないだろう。
だが、彼女──博麗霊夢は紛れもなくこの博麗神社の巫女である。
服の構造についてここでとやかく言うのはやめにしておこう。白小袖に緋色袴、という神祇装束は少なくとも人間世界のイメージであるし、ここは幻想郷である。なにより、赤と白という服に身を包んでいる事は、彼女にとっては正装なのだから。
長い間、霊夢は目を閉じて身じろぎもしない。
瞑想でもしているのか、それとも祈りを捧げているのか。
やがて、ゆっくりと目を開くと大きく息をつき、急に立ち上がった。
「さあーて、今日のお勤めも終わり終わり。」
うーん、と大きく背伸びをする。さっきまで静かに佇んでいた姿は、少しは巫女というイメージに沿ったものだったかもしれないが、もう駄目だ。
やっぱり本来の彼女の姿は、どうしても神職のイメージには程遠いと言うしかないだろう。
もうすっかり日は暮れ、外は夜の帳が降りている。夕方から何だかバタバタと忙しく、気が付けばもうこんな時間だ。
「…まったく、変な夜ね。今日はもう休んだほうがいいのかしら。」
それとも、もう少しゆっくりしてお菓子でも摘んでいようか。
どうでもいい事に腕組みをして考え込むあたりが霊夢らしい。
が、その瞬間、唐突に何かが脳裏に閃いた。
正確には、何かの気配を感じ取ったのだ。
誤解のないようにして欲しいところだが、彼女は曲がりなりにも生まれつき霊力のある本物の巫女なのである。
まあ、とてもそうは思えないという率直な意見は否定しないが。
「また?!なんなのよ、今日に限って!」
霊夢は悪態をつくと、ずかずかと祭壇の前に歩み寄り、降ろされていた幕を邪魔なものを追い払うように捲る。
かなり投げやりに拝礼すると、そこに鎮座していた黒と白に塗り分けられた拳大の玉を乱暴に引っ掴み、スカートのポケットに捻じ込む。
「くっそ~、魍魎に幽鬼と来て、今度は何よ?!妖怪?!それとも悪霊?!今晩は呪われているのかしら、あるいは厄日か何か?!」
誰に向かって怒鳴っているのか、あまり巫女とも思えない発言だが、この際だからあまり気にしないでおこう。
霊夢は祭壇の傍に置いてあった御札を手にすると、もう一度、今度はかなりではなく本当に投げやりに拝礼し、怒りに身を任せるように荒々しく戸を空け、凄い勢いで神社の裏手の森へと飛んで行った。
実は本日三度目の”出動”である。
普段から妖怪がよく訪れたり通ったりする──逆に人間はというと、特定の人物以外は滅多に来ない──博麗神社だから、別に妖気を感じたところで珍しくも何ともない。が、その妖気が裏手の森の奥へと向かっているとなると、話は別だ。
神社の裏手の森の奥は、人はもちろん妖怪だって理由もないのに滅多なことでは立ち入らない。
なにしろ、幻想郷の玄関口とも言ってもいい。古に封印され、人間達の住む世界との境界を為す『博麗大結界』の結界石が設置されている場所なのだから。
幻想郷の住人の多くは、結界そのもので幻想郷自体が覆われていると思っているが、それは少し事実と異なる。有り体に言うと、覆っている結界というのは袋のようなもので、袋の口に相当する場所がこの博麗神社の裏手の森なのだ。
流石に、大勢の修験者や僧が持てる霊力の限りを駆使して作った結界なだけあって、”袋の底”をぶち破るというのは容易ならざる事である。
外に出られる可能性があるとすれば、それは結界を妖怪たちが再構築した際、目印として使われた石が点在している辺り。つまり、この博麗神社の裏手の森ということになる。
そして、その門前に作られた神社の巫女が代々務めてきた職務の一つが、結界の監視だ。
もっとも、結界に近づく妖怪全てを相手にしているわけではない。それは、博麗神社の巫女は人間である以前に、ここ幻想郷の住人であることに理由がある。
妖怪の主食は人間のため、妖怪たちは頻繁に人間の住む世界へと食料の調達に出かけなければならず、それを毎回相手にするのは、いくら力のある巫女でも分が悪すぎる。なにしろ、結界に穴を空けるとなると相当な妖力がないと無理な芸当だからだ。
それに、種族としての人口比を考えてみよう。
言わば閉鎖世界である幻想郷の人間はそんなに多くはおらず、外世界との接点が遮断されれば、たちまち幻想郷の人間はいなくなってしまうだろう。
いや、それは少し誇張が過ぎるか。妖怪たちも、幻想郷の人間を絶滅させる気などさらさら無いはずだ。
さて、組織的に人間を狩る妖怪たちは隠密行動を旨としているので、外世界でも大袈裟に人間を襲ったりはしない。人知れずひっそりと行動するので、特に騒ぎは起こらず問題視されない。というか気付かれないので騒ぎになりようがない。
博麗神社の巫女とはいえ、ここ幻想郷の平和を祈念する──現実はそんなに大仰なものではないのだが──という観点では、黙認するのが正解なのだ。
酷いと思うかもしれないが、それは価値観の違いというやつだろう。
幻想郷は、妖怪と人間の共存する文明圏なのだから。
だが、中には何らかの事情があって外世界に出ようとする妖怪がごく稀にいる。そういう”ワケあり”な輩は、外で何をするか分からない。それを狩ることこそ、博麗神社の巫女の務めなのである。
もっとも、この外世界との接点においても、容易なことでは結界は破れはしないのだが。
ひょっとすると──外に出ようとすること自体が、いや、外に出ようという考えを抱く事そのものが、幻想郷では許されざる大罪なのかもしれなかった。
-2-
霊夢の右手が一閃し、持っていた赤い御札が黒い影に殺到する。
が、相手の動きは予想外に速く、光の帯となった御札が木々の枝を次々と叩き折り、幹を薙ぎ倒していくが、黒い影に到達するのは一拍遅い。
「ちょこまかと小賢しいわね!」
再度、赤い札の一斉射撃。と同時に、霊夢は左手の青い札を宙にばら撒く。
射角をつけた上で発射のタイミングをずらし、斜めに薙ぎ払われるように降り注ぐ赤い札。枝から枝へと跳び、その直後にそれまでの足場は両断され、一瞬前まで黒い影の身体があった空間を赤い札が掠めるように切り裂いてゆく。
青の札はジグザグの軌道を描きながら、木々の間をすり抜けるように影を追う。下からすくい上げるように、上から斬りかかるように襲いかかる弾道の間を曲芸のようにくぐり抜け、さらに進路を目まぐるしく変えながら跳び移る。
今度は垂直に三条の赤い札。それを取り巻くように青い札が嵐に舞う木の葉のように、しかし意志を持った凶器のように追撃する。
直線状に飛来する無数の赤い札を避け、黒い影は今度は上に跳ぶ。
半瞬ばかり遅れて次々と木の幹に突き刺さり、堅い樹皮を削り取って木っ端を散らせる赤の札。
大木が傾いだその瞬間、今度は青の札がまるで幹に沿うかのように軌道を曲げると、螺旋の条痕を描きながら血に飢えた猟犬のように獲物を求めて上空へと舞い上がる。
猛スピードで木々の間を縫うように追う霊夢も、大木にぶつかるかと思わせたその刹那、空中で後転するように頭と足の位置を強引に入れ換えて大木の幹を蹴り、進路を水平から垂直へと直角に無理矢理変える。
同時に放射状に赤の札、続け様に横に青の札を放つ霊夢。
虚空を切り裂いて四条の赤い光の帯が空に向かって突き抜け、僅かに遅れて側面から回り込むように青い光が楕円に近い軌跡を描く。
空中で交差する二つの札の弾道。
衝突音。
今度こそ命中した──が、黒い影は翼を翻して急転回した。
一撃で決められなかったことに霊夢は思わず舌打ちする。
さらに悪いことに、葉と枝の群れに切れ目が見えて空が近づいて来る。
勢いがつき過ぎていた霊夢だったが、減速することを拒絶した。体を捻ると幹のちょうどてっぺんあたりの枝を引っ掴み、力のベクトルをまたしても強引に曲げにかかる。
「このおぉぉぉっ!!!」
焼けるような鋭い痛み。
さらに、急激に運動方向が変わった衝撃で全身が軋みを上げたが、それも一瞬のことだ。枝のしなりと遠心力を利用して、手を離すと霊夢の体は弾かれるように森の木々の上を加速をつけて飛んでいく。
手のひらが凄い事になったが、それでも相手との距離は離れず、逆に少し縮まった。
月明かりに照らし出された森の上を、風を切って赤と白の少女は黒い影を追い続けていった。
この先は、掛け値なしに本当に幻想郷の外れだ。
この方向だともうすぐ森が切れ、僅かに広場のようになった場所がある。
勝負をかけるとすれば、そこだ。おそらく、そこを目指しているに違いない。
案の定、先を飛ぶ黒い影は徐々に高度を下げていく。
そして、霊夢の視界に森の切れ目に立つ大きな岩が見えた瞬間、黒い影が急停止した。それを見逃す霊夢ではない。
「斉っ!!」
鋭い声と共に真下に向かってありったけの赤の御札を立て続けに撃ち出すと、まるで地面に光が反射しているかのように、札は黒い影を下から上へと一直線に切り裂いた。
間髪を入れず、手にした陰陽玉を投げつける。
終わりだ。
次の瞬間、衝撃波を伴った閃光が幾つも爆ぜ、眩い光を撒き散らして一際大きな光の玉が炸裂する。
轟音と共に、森の木々が大きく傾いで葉を散らし、爆風が霊夢の黒い髪と赤いリボンを棚引かせた。
やがて──。
光が収まり、舞い上がった葉や枝が地に落ちる頃には、まるで何事も起こらなかったかのように、もう森は普段の静けさを取り戻していた。
ゆっくりと霊夢は岩のすぐそばに舞い降りる。
乱れた髪を直そうとして、急に思い出して顔をしかめた。左手は酷い状態で、袖まで真っ赤に染まっていたのだ。
仕方がないので右手だけで直す。
「…随分と、手古摺らせてくれたわね。」
もう跡形も残っていない相手に向かって忌々しげに呟くと、広場のほぼ真中にある大きな岩を見つめる。
遠くからだと対比するものがなくてよく分からなかったが、とても大きな岩だ。霊夢の背丈の五倍はあるだろう。上のほうは大きく太い注連縄で括られており、何かしら神聖なものであることを窺わせる。
先程の爆発でも何ら変わりはなく、静かにそこに聳え立っている。
霊夢は溜息をつくと、帰路に就くためふわりと舞い上がり、博麗大結界の結界石を祀っている、森の一隅を後にする。
「…馬鹿な奴ね。仮に要石をひとつ壊しても、結界は解けないのに。」
要石を全て壊さなければ結界が解けることはないのだから──。
誰ともなく言い残すと、結界の最後の要たる博麗の巫女は、闇の中を滑るように飛んで行った。
「はあ~ぁ、今日はこれっきりにして欲しいわ。」
ぶつぶつと愚痴りながら、出かけるときよりかはちょっとだけ真面目に拝礼して、でも手つきはけっこう適当に陰陽玉を祭壇へと戻す。
こんなに頻繁に持ち出される御神体というのも珍しい──というか普通はありえない──のだが、陰陽玉は神社の宝物や祭器の中でも最大級の霊力があり、ほとんど神宝に近い代物だから便宜上ここに祀ってあるだけだ。
昔のことは知らないが、博麗神社の文献によると、神社が建立された頃は何も祀られてはいなかったらしい。それはもちろん、博麗神社の本当の御神体というのは、あの結界に他ならないからである。
でもそれじゃ格好がつかないから──かどうかは定かではないが、いちおうそんな感じで今は陰陽玉が祀ってあるのだ。でも、霊夢自身は、この幻想郷を守っていると言われても漠然とした印象しか持てない博麗大結界より、この陰陽玉のほうに割と思い入れがある。
過去にもいろいろと騒ぎに巻き込まれたり首を突っ込んだりしたが、何度もこの陰陽玉に助けられて窮地を脱している。
『そりゃお前の修行が足りないからだろ。』
何故か馴染みの魔法使いの声が聞こえたような気がしたが、彼女とやり合った時もやはり陰陽玉の力が助けてくれた。
霊夢はしばらく陰陽玉を見つめていたが、やがて急に神妙な面持ちになると、祭壇の正面に向き直り、きちんと拝礼した。
そして壇を下りて正座し、古式床しい礼法に則り、もう一度拝礼。
さっきまで悪態をついたり、大事な陰陽玉を乱暴に扱っていた霊夢とはうって変わって、その姿は本当に神に仕える女性のような慕わしさを感じさせるものがある。
そして、それは誰もが同意見のようだ。
「ふーん、そうやってると霊夢って本当に巫女さんっぽく見えるね。」
トーンの高い、からかうような声が後ろから飛んできた。霊夢は少しだけ不快そうな表情を垣間見せたが、振り向かずに声の主に告げる。
「…本当も何も、私は正真正銘の巫女よ。間違いなく。」
「そうは思えないよ。赤と白の服じゃなかったら、まず巫女さんには見えないって。」
それも、誰もが同意見のはず。
やっと振り返る霊夢。
覚えのある姿。
真っ赤なワンピースに身を包み、頭には緑のドレスハットを被った小柄な少女が、肩幅くらいに足を広げて、まるで仁王立ちのように立っていた。悪戯っぽい笑みを浮かべる口に、僅かに八重歯が覗いている。だが、帽子の脇に見える三角の耳と、腰の後ろ辺りで振られている尻尾が人間ではないことを物語っていた。
凶兆の黒猫──橙。
霊夢は厳しい表情になると、ゆっくりと立ち上がり、
「…で?喧嘩を売りに来たのなら買うわよ、化け猫。」
と、両手に御札を広げて構えると顎をしゃくり、かかって来いと言わんばかりのあからさまな挑発と共に、殺気のこもった低い声で告げた。
(つづく)
何から何まで文句がつけられないこの作品。
特に白眉なのは森を飛び交う戦闘シーン。
霊夢と名も無い溶解のド迫力のドッグファイトがお得意の緻密な描写でどばどばと書き綴られる様は圧巻。
拙の脳内にどばどばと垂れ流されるアドレナリンも圧巻。
つーかかっちょええー!
続き読みてえー!!
でっち上げの癖に違和感ねえー!
くそう才能ってあるところにはあるのね _| ̄|○
いや才能のせいにするのは良くないぞ自分。
これは間違いなく作者様の努力の結晶の形であるのだから。
なんてちょっと熱暴走気味な自分を諌めつつ次回を楽しみにお待ちしています。
霊符のショットが視覚的に分かるかのように描かれている様は、よくぞそこまでと感心するばかりです。これまでもそうでしたが、MUI氏が書くとえらくカッコいいキャラになってしまうのが面白いというか、もう病みつきです私w
今作は地の文もくだけた表現が多くなっているようですが、やっぱり意識なさっているのでしょうか。それも面白い。
後編にも俄然期待させて頂きます。
疾駆する人妖の魅せるスピード感に引きずり込まれてしまいました。
弾幕描写が凄まじい勢いで、それも立体的に伝わってきます。
オリジナル設定も独特のそれっぽさが滲み出てとても良い感じ。
本当、ドラマなんてものは、
彼女達の身の回りには売る程あるに違いないと思わせられる逸品。
この結界の完成を心待ちにしております。
他人様から栄養を貰ってる身としては、良質の蛋白質を摂取できたような気分です。
実生活でも蛋白質が食いたい読者より。
霊夢が霊夢ではないようなカッコ良さ。
惚れ惚れしますねぇ~。
この後、どのように物語が展開していくのか、楽しみですね。