―6.5 ゆらぎゆめみ―
***
いつか見た。
それが遥かに遠い昔日の夢なのか、
近しいが故に捨て去った隣席の幻想なのかはわからないけれど。
それを見た覚えが、私には確かにあった。
私なのか、“私”なのかは、私にも“私”にもわからない。
「あ、姉さん、ここにいたんだ。あー、良かった」
ここ、ここ?此処は何処だろう。
いや、自問自答は無用だ。聞く必要も無く、此処は私の書斎。
手に取った書を傾けて、眼を通し始めた所であの声が聞こえた。
それは私にしか聴こえない。この私は全てを知る私なのだから。
「さっき父様たちが探していたんだけれど、
ここにいるなら心配は無いね。うん、埃っぽいのを除けば」
書を棚に戻して目を向けると、そこには私と背格好の似た栗色の髪の少女がいた。
「あら、沙々花。どうしたのこんな時間に」
そう。この少女は沙々花、私の一つ下の妹。
それを知っているのは“私”だ。私ではない。
「もう、駄目だよー、姉さんったら。
ご飯の時くらい一緒にいてくれないとさ、私ちょっと寂しいよ」
沙々花はわざとらしく悲しむ真似をしている。
道化のようなあからさまな仕草だけど、この子のそれは演技でも嫌味でも無い。
この子は家族の中で、誰よりも家族全員を愛しているのだから。
いつも気忙しくしているけれど、この子は明るいからあまり人はそれに気付かない。
騒がしさで誤魔化されてしまうからだ。
この子が家族の為なら命を捨てるのも厭わない程の器量を持っていることを、“私”は知っている。
「沙々花お嬢様ー?どちらに行かれたんですかー。
本棚ばっかりでよくわかりませーん」
少し間延びした声が遠くに聞こえる。誰だ? 違う。自答に意味は無い。
私にはそれが誰の声なのかわかる。この“私”は、彼女にはまだ会った事が無いけれど、
そんなことは今の私には関係が無い。
「とと、いっけない。って、そだ、丁度いいや姉さん。
ちょっとこっち来て」
「え、ってちょっと沙々花、そんな慌てて引っ張らないで」
「ほらほら、こっちこっち。
おーい、すみかさーん。そこ動かないでねー」
沙々花はその誰かに声をかける。
私の書斎、というよりは家の書庫だけれど、
ここは実の所地下に造られた一室で、平面図での面積的には屋敷全体の半分を占め、
歩き慣れていないと迷いかねないという妙な部屋だ。
妹に腕を牽かれて、つっかかるように歩いて連れられていく。
「はー、何なのよ、沙々花。今の誰?」
「行けば判るってば。でもビックリするかも、すっごい綺麗な人なんだよー。
そういえば姉さん、歩きながら喋って平気なの?」
喜怒哀楽の激しい沙々花。喋りながらコロコロとその内容が変わる。
頭の回転が速いせいもあるけど、ついていくのが精神的にも肉体的にも大変だ。
何個目かの棚を曲がると、沙々花が立ち止まったので、
軽く息を切らしつつ私もそこで足を止める。
そこに、彼女はいた。
「はい、姉さん、こちらの方。今度からうちで働く事になった人だよ。
すみかさん、こっちは私のいっこ上の姉です」
「ああ、成る程・・・どうも、私は幽々子と申します。
貴女のお名前は、ええと、すみかさん、と仰るのね?」
知っている。私は知っている。
私が挨拶をすると、彼女は何故かぼうっとした顔を少ししてから、
突然絵の具をぶちまけたかのように真っ赤になって頭を下げ、自己紹介をした。
「すみかさん?」
「ははは、はい!
わたくし、昨日からこちらで働かせていただいております酒師で、
名前を―――すみかと申します。
いつまでこちらにご厄介になれるかわからないけど、
以後よろしくお見知り置きください!」
その真っ白い作務衣のような着物と、
少し癖の付いてしまっている長い長い白髪を見た瞬間。
私は夢の終わりが近付いている事を知った。
彼女らの交わす言葉が少しずつ朧に、
明瞭だった視界が徐々に白んでいく。
終わらない幻想は無い。覚めない夢は有り得ない。
そう、覚めない夢。それはもう、夢以外の何かだ。
自分にとっての新しい世界なのか、それは手の届かない華胥であるべきだったものか。
それはもう、何ものでも無い。
覚めるから夢であり、眠るから現実なのだ。
かくしてこの夢は忘れ去られる。誰の心からも消え去る。
それは終わらない夢であり、最早夢でなくなった幻想だから。
何者かの介入を受けていることにも気付かないままに、
忘却は自動的に行われる。夢を見るというのは、最も忘却に効率の良いシステムなのだ。
不要になった物を捨てなければ、人の心はどこまでも膨張していく。
決して破裂する事は無い。穴が空いて、何か大切な物まで駄々漏れになっていくかもしれないけれど。
そして、膨らんだ心を縮めるには、そういう大切な物を対価にしなければならない。
膨らみきった心の中に、どうしても捨て去ってしまいたい何かができたときに、
それを捨てる事で出来てしまう心中の隙間。
この間隙を埋めるだけの何かを、どれだけの人が見つけられるだろう。
取り返しが付かなくなってしまう前に、少しずつこまめに荷物を捨てて、
そこに不純物が入らないようにする。それが夢だ。
だから、心の中にも外にも行ってはいけない、純粋でも不純でも無い、
私であり私でない中間の幻想であるこのユメは、
その狭間に在って無きが如くに消え去り、境界そのものにならねばならない。
このユメは、私が見て記憶したり、また捨て去って忘却する事も許されない幻想。
忘れてはならない。思い出してはいけない。
それは、ただ朧に失せて、いつかは引かれた線にしか見えなくなる。
私は次の一瞬には、このユメをただの既視感としか捉えない。
このユメを夢見て眠る者は、存在してはいけないのだから。
それを初めに望んだのは、私だ。
そして、望むと望まざるとに関わらず、
過去からの来訪者はやって来て、線引きをかき乱そうとする。
決まってそういう時は夜なのだ。
夜は夕、夕は昔。夜闇の影から飛び出してくるのは、
いつだって必ず自分に忘れられたアヴェンジャー。
私のように過去を境界に刻み、その印を読めなくなった自盲者にも、
それはいつの日か、必ず夕凪の頃に訪れるのだ―――。
***
―7 あやしや、かのさくら―
月は休み無く冥界を照らし続けている。
その輝きが強すぎて、今宵の星は萎縮するが如く、
己の瞬きを言葉少ななものにしてちらちらと煌いていた。
雲一つ見えない冥界の空、我こそ世の支配者と言わんばかりに、
月下の全てに反射光の温情を与える太陰の帝。
しかし、今この時の白玉楼庭園においては、
月華を浴びた桜華の群集が跳梁しており、
その全てが帝政の無為と民意の無策を象徴する有り様である。
どいつもこいつも、他者の光など照らし返せばいいと思うだけで、
自ずから輝く星々ばかりが幅を喰うのだ。
葉を忘れ花咲く桜の幻想。幻想の因果。半分の幻。幻視に次ぐ幻視。この夜は幻が多過ぎる。
既視感の幻視に襲われた私は、幻視である故にそれをすぐさまに忘却した。
心此処にあらぬまま、大扇を回収し、妖夢をそこらの木に凭れさせて、
私は三度夜空に浮き上がる。
黒と朱の世界に、ただ一点の白色を見据えて。
純白は、殺気を隠すどころか迸らせて喋り始める。
「お嬢様?どうしたのお嬢様?
そんな呆けたような顔をして」
口振りは心配そうに、しかしその声音は憎悪に塗れている。
「私の顔を見て驚いてるんだ。ふふ、驚く?
何で驚くの。慄けばいいじゃない。何よ。あはは」
何故だか判らないけれど、私は途轍も無い間違いをしている気がした。
「私が死んだと思ってた?」
べらべらと、よく喋る白だこと。
私は、この白色が、こいつ自身は全く大した事の無い妖怪であることに気付いている。
「私を殺せたと思ってた?」
しかし状況は、この雑魚にしか見えない虚無色に、
事もあろうか最強の剣客である妖夢が敗北を喫したことを知らせている。
これは、どういう事なのだろう?
「ふふ、馬鹿にして!!
そうよ、私は確かに死にかけた。
でもね、死ぬ前にどうしても、やらなきゃならないことがあったのよ!!」
こいつは・・・何を言っているのだろう?
デジャヴはデジャヴに過ぎないのだ。
先程の既視感とて幻視の一種、私にはこんな奴と出会った記憶は無い。
だのに、この純白は私の事を知っているようである。
心の中で沸き立った荒波が凪ぎ、
少しずつ、私は落ち着きを取り戻している。
「西行寺、幽々子!!
あなたを殺し遂せるのなら、鬼にでも蛇にでも、
―――酒にでもなってやるわ」
酒。今、この純白は酒になった、と言った。
私は瞬時に理解し、何故今まで気付かなかったのかと心中で舌打つ。
そう、酒蓋が妖怪だったのなら、
中身の酒だって妖怪だったに決まっているじゃないか。
こいつは、先程の酒が人化した妖怪なのだ―――。
「ふん、さっきの子は折角志向性を与えてやったのに、
妙な小細工をしてあなたに負けちゃった。
何よあれ。当たらない弾なんて撃ってどうするのよ。
全く、咲いていない花があったから、
咲かせればあなたを楽に殺すのに使えるかと思ったのに」
妙な小細工?わからないことを言う奴だ。
まさか、弾幕戦がわからないなどというのだろうか。
いや、有り得ない事と言い切れもしない、のか。
先の酒蓋は蓋として封印されていたが故、
その身の半分を外に出していた事になる。
それにあれは逆因果の妖である。
発生時点で世俗の風評を識る性質を持っていたとも考えられるのだ。
内側に封じられていたこの妖怪がどんな化け物かはわからないけれど、
二者の違いとしてはそんなところが挙げられるだろう。
内にいた者と、狭間にいた者。
心中が、ほぼ完璧に落着した。
一戦交える前に、言葉も交えるのは当然のことと、私は純白に声をかける。
「あなた、弾幕ごっこ知らないの?」
私の声を聴き、憎しみだけに染められていた顔の歪みが少し和らいだ。
その貌は、美しい白。人間のように薄く通る毛細血管も存在しない、
一途なまでの白一辺倒。瞳だけがその白に桜色を浮かべている。
「弾幕、ごっこ? なによそれ、何かの遊び?」
白の澄み渡りと同じくらい純粋な疑問の声。
・・・本当に、弾幕戦のことを知らないようだ。
いちいち説明してやるのも面倒に思ったので、
この白を少々からかってやる事にした。
「冗談にしても笑えないわ。
こんな楽しい遊びを知らないなんて、田舎者にも程がある」
「っ・・・よくよく、人を小馬鹿にするのが好きね、あなたって人は。
知りたくも無いわよ、そんなの」
血も通わないその白皙が少し赤く染まり、不貞腐れたようにしてみせた。
中々、いじりがいのある反応を示してくれるものである。
しかし、そんな姿を見れば見るほど、
こんな脳の足りなそうな妖怪にあの妖夢が負けたというのが信じがたくなってくる。
それと共に、私は自分が何か大きな見落としをしているような感覚を受けるのだ。
何だろう、この違和感は。私は何を忘れている?
勿論、それは目前の純白と私の関係性などという物ではない筈で。
私は何を忘れ―――何を、怖れているのか。
「ふふん、まぁいいよ。余りもったいぶっても仕様が無いわ。
私はあなたの終わりの花を咲かせて、とっととこの世から始末しなきゃね」
「終わりの花?」
ふふふ、と口元だけでこの妖怪は笑う。
可笑しいことなど何処にも無いというのに。
晧々と照らす月光に犯されるまでもなく、目の前の純白は狂いに狂っているのである。
どうにも、先刻から勘が鈍っているようだ。
こんな危ない奴、一声も出さずに始末するべきだったのだ。
「まるっきり、言ってる意味がわからないのだけど。
貴方、まともに会話するつもりが無いのかしら」
「わかろうがわかるまいが、これは事実なのよ。私には見えるんだから。
あなたの心の中に、いまだ咲かずに残っている花があるの、ふふ」
純白は私のかけた挑発に、殆ど無視を決め込んで答えた。
自分の能力に陶酔し、その絶対性を信じ込んでいるのか、
この妖怪は、不条理なまでに強固な自信を抱いているようである。
妖夢を下し、あまつさえこの私すら打ち倒そうなどという傲慢。
捨て置くには度し難い愚昧だ。
本当に、こいつは私が誰だかわかっているのだろうか。
人間なら、知るときがその終わりの時になるのだけど。
第一、こいつは私を殺すといったけれども、
亡霊をどうやって殺戮せしめようというのか・・・。
疑惑の視線を送る私を何と見たのか、
白色の妖はクスクスと含み笑う。さっきから笑いっ放しだが、
この笑いは取り分け楽しげに見える。
恐らくは勘違い。自分の事を、この私が恐れていると思っているのだろう。
その笑いが、奇妙なほど癇に障った。
「ああ、面倒くさい。もういいわ」
白色が私の唐突な言葉に笑みを止める。
私は懐中の扇に手をかけながら、
少なからず残していた相手への警戒心を徐々に解いていく。
その警戒を吸取ったかのごとく、純白の妖は私に向けて身構えた。
何かをするつもりなのだろう、だがしかし。
もう、こいつの行動を観察するのに飽きた。
いちいち相手の出方を待つだなんて、私らしくもないじゃないか。
どう見ても、私にはこの妖怪が先の酒蓋を凌ぐ力を持っているとは到底思えない。
考えてみれば、私が受身になる理由なんてこれっぽっちもないのだし、
何よりこいつを見ていると、やけに私の心がざらつく。
「弾幕も知らないような時代遅れの妖怪。
習うより倣え、よ。少しだけ私が遊んであげるから、
―――殺せるものなら、殺してみなさい」
袖から一気に手を引き抜いて、勢いで開いた扇を持って空を切る。
すると二対の死霊が私の周囲に浮かび上がり、
私を中心とした衛星のようにひゅんひゅんと公転し始めた。
死霊たちはゆっくりと回転しながら、
仄かに輝く色とりどりの幻蝶を前へ向けてばらばらと撒く。
何の変哲も無い、実にシンプルな無指向性のばらまき弾というやつである。
これは相手の実力を測るための能動的な実験。
こいつの力量、大した事は無いだろうという目算こそあれ、
妖怪には其々特有の能力があるのだ。
それを用いての弾幕の回避を目論んでの事である。
自力で躱すのならそれも良し、その程度の実力の持ち主ならば少しは遊び甲斐もあろう。
能力を用いるのならば、こいつの不透明な狙いも正に自ずと知れる。
どちらであっても、私にとっては構わないのだ。
何もしないままでは、この不愉快な妖怪が面倒を起こすのに付き合わされるかもしれないのだから。
巻き込まれるよりは自分のペースに巻き込んだ方が、私自身は楽しいのだし。
だけど、この純白は。
「え、痛っ、うわ、ちょ・・・きゃっ・・・!」
弾はゆっくりと飛翔した。直撃するコースを取っていたのは全体のうちほんの僅かだった。
だというのに、この馬鹿はその全てに被弾した。
警戒をしていたにも関わらず、回避行動を取る素振りすら見せずに、
全弾を真っ白な身体に受け止めた衝撃で吹き飛ばされて、
物理法則の働くまま真っ逆様に庭園の只中へと落ちていってしまう。
「あらら・・・」
何という体たらく。思わず失笑が零れ、ふと私は無意識に呟いてしまった。
目も当てられない、とはこの事だろう。
完全に予想外の事態だった。あの程度の攻撃に、為す術も無く叩き落されてしまうなんて。
今日び数多いる精霊の類だってあれぐらいなら軌道を逸れて躱すだろう。
なのにあの純白ときたら。一体何者なのかなんて、多大に過ぎた心配だったみたいだ。
しかし、純白の妖が雑魚に過ぎないのであれば、
妖夢は果たして、何処の誰にあんな目に遭わされたんだろうか。
地に降り立ち、木を背にして眠っている妖夢に目を遣って無事を確認してから、
あの妖怪が飛ばされていった方へ歩きつつ考える。
不覚を取った、と妖夢は言った。あれはどういう意味だろう?
あんな妖怪を相手に不覚も何もあるまい。
少々抜けた所のある子で、偶さかには失態も犯すけれど、
そういう形での油断はまずあの妖夢には有り得ない筈なのだ。
どこをどう考えてみても、妖夢の負ける目は無い。
これを私の買いかぶりと取るには、妖夢は余りにも実績を残しすぎている。
先の花見まつりに置ける奇妙な出来事の始末だって、
妖夢がいなければ三月は後のことになっていただろう。
あの並外れた脚力と特殊能力で、あの子はこの庭園の端から端までを瞬時に跳躍してのけた。
妖夢は、あの妖怪には絶対に負けない。
これは間違いないとしよう。
ならば自然、妖夢は他の何者かに負けたのだ、ということになる。
酒蓋と酒以外に、この冥界に闖入者があったというのだろうか?
あと考えられるのは、酒瓶くらいだけれど。
そこまで考えたところで、あの純白が落ちてきた辺りに着いた。
衝撃で枝の折れた桜が幾本か見られたところから、場所に間違いは無い。
だが、そこに広がる桜色には、一点の白濁も存在しなかった。
妖怪の不在を見て取ったそのとき、ふと脳裏に純白の言葉が蘇る。
『花を咲かせる』と、あれが確かにそう言ったことを。
花を咲かせる程度の能力?成る程、庭園の桜の異常だけは真実あの純白の手によるものだったのか。
花を咲かせる、咲いた花、花・・・墨花、墨染めの―――。
ざわ、と。
その瞬間、身の毛もよだつ恐るべき感覚が全身に走り、
周囲の空気が今までに感じた事も無い
感じた事も無い?
香りに包まれた。
反射的に空を見上げる。
そこには、月が、星が、闇が、黒が無く。
ただ一面に、禍々しい桜雲が立ち込めていた。
それと同時に、私の心中に渦巻いていた疑問は全て氷解する。
「ああ―――すっかり忘れていたわね。
うちの名物だっていうのに、それというのも宣伝部長が怠けるせいだわ」
呟きながら私は宙へ舞い、迷い無く一直線に飛び始めた。
行き先は、目を瞑っていても判る。
桜色の雲を見上げつつ、私は幽かな予感を覚えた。
この夜の騒ぎは、後一刻もせずに終わりを迎えるだろうと。
***
ざわ、ざわざわ、ざわ。
その妖怪は長く永く生きている。
この世に己より優れたる者など存在しないと勝ち誇るように。
実際、妖は自分の事しか見ていなかった。
永き時を生きても、周りの何かに目を向けるということが無かった。
一人の聖人が妖を背に生涯を終えた時を皮切りに、
多くの生命が妖の無意識の誘いによって命を落とし、
多くの人がその生の流れを狂わされて堕落していったが、
妖がそんな彼らのことを気に留めた事は一度として無かったのだ。
妖は美しかった。今もその太くしなやかで剛い幹は衰えていないが、
昔は春となれば枝の先まで隙間無く満面の笑顔の如き花を咲かせており、
その余りの妖艶さが見る人の魂を誘引して止まぬ程であった。
だが今、妖は封印されている。解かれぬ限り、二度と満開を迎えることは無い。
それが、妖には酷く歯痒いことなのだ。
―――あの時、あのように欲を出さなければ。
妖は返す返すも悔やみに悔やむ。
これもまた、大昔のことである。
封印を成したのは一組の人妖。
片一方は妖と同じく、世の盛衰を遥か昔から眺めてきた超越の徒花、紫色の八ツ雲だった。
妖は彼女の事を知っていたが、彼女は妖の事に当時ようやく気付いたぐらいで、
人外としての階梯はほぼ同ランクであってもその志向性に違いがあった。
このときの妖にとって、八雲は問題ではなかった。無論彼女の力をもってすれば、
妖の存在自体を間隙に落とし込む程度のことは朝飯前とすら言える。
最も内側に在る境界である彼女の力は、世界の柱の一つと言い換えても差し支えの無いほどなのだから。
だがそれでも、妖は彼女を問題視する事は無かった。
何故なら、妖は彼女がどういったスタンスで行動する存在であるかを予め熟知していたのだ。
妖ほどの強大な妖怪がこの世からいなくなることによる影響というものを、
紫色の境界者である彼女はそれこそ退屈そうに理解している。
故に、己の分を越えた異常を引き起こさない限り、その累が己に及ぶ事は無いと。
しかし、もう一人の方、力無きことでは世に比類の無い筈の人間は、
このときの妖には天敵と呼ぶに相応しい存在だった。
それは若き少女、西行寺幽々子。妖の植わっている庭の持ち主である西行寺家の三女にして、
妖と同じ形質の能力を持つ『亜麻色の髪の少女』。
幽々子は、死霊を操る程度の能力を持っていた。
生まれ持った特質の能力は、しかし家族の中で彼女だけの特別ではなく、
言わば一家揃っての超能力者であった。
不変の自我、蒼穹の描写、死霊の児戯、和合の調律、四海の見聞、玉石の鑑別。
何れも超常の力、人として生きる上では邪魔になる荷物のようなもの、
と一人一人が己の力をそう自覚していた。
超常であっても人外ではなく、そういう意味では幸せな家族であった。
何せ、家族の持つ超常に気付かずに過ごす者の方が多かったのだから。
だが、運悪くしてか、幽々子だけは家族の誰とも違う要素を持っていた。
日々を共に過ごす家族も同然の千年桜、西行妖と全く同質の力を持つ彼女は、
年頃になるにつれて妖の語りかける声が聞こえるようになったのだ。
妖は幽々子に興味を持った。同質の能力の持ち主。
世界に人が生まれ、星の数よりも多くの概念を生み出した事によって、
同じ能力を持つ生命が同じ時に存在する可能性は0に限りなく漸近した。
既に長き時を生きてきた妖にとってさえ、幽々子との邂逅は特殊な出来事であり、
妖の拙い理性に好奇というものを生み出すだけの魅力を持っていた。
妖はゆっくりと彼女へ接触する。
やがて幽々子が生まれ出でて十数年、彼女の理性が凡そ形を整えた頃、
妖の呼びかけが彼女の耳に届き始め、
幽々子の悲劇が幕を開け、一年の後の春、幕を閉じた。
西行寺の一族は絶え、事の起こりであった妖もその満開を封印された。
ざわわ、ざざざ、ざわざ。
―――悔いばかりが残る。
―――あのような娘、抛っておくべきだったのだろう。
100%の干渉力を永遠に失った妖は、その意思を外に伝える機会を著しく欠いてしまった。
元々妖にこれという望みは無く、世界が滅んでも自分だけは生き延び、
一年に一度、桜花の世界を咲き誇ることがその生きる意味だったのに、
ある時突然泡のように浮かんだ興味本位の企みが、それを永久に奪い去った。
生きる意味を失った妖がはじめ望んだのは自らの終わりだった。
しかしそれさえも、人妖の刻んだ封印によって却下されてしまう。
もう自尽すらできない、やりたかったことも霞んで消え、
果たして西行妖という千年の妖怪は今も枯れる事無く咲く事無く続いている。
――― しかし。
悔いながらも妖は思う。
――― 一人ではない。続いているのも、あの娘がいれば悪くない。
そう、封印されたのは妖だが、その結界になっている幽々子もまた、
妖と全く同じ状態になっているのである。
自尽した幽々子は己の記憶全てを境界に刻み込み、
肉体を要として八ツ雲に印を結ばせた。
彼女は自分の力で死に、亡霊となって今も続いている。
妖は彼女の力で死に、妖怪―――“亡霊桜”となって今も続いている。
その形は、双方共に生前の関係と同じ。
二度とどちらからも歩み寄る事が無いだろうことを除けば。
そのせいか、妖は彼女に恨みを覚えた事も、これまた一度として無い。
ざざ、ざざざ、ざざわざわ。
そうして今、妖は困惑の只中にある。
有り得ざることだ。今年は既に咲きかけ、やはりいつもの様に至らずに散った筈。
時の流れの感覚に異常を来たしたのか、それとも時流を弄る不届き者が現れたのか。
年に二度も、己が咲きかけるなどという事態が、果たして起こり得るものなのか?
木々のざわめきはこの庭園に侵入者があるのを教えている。
その何れもが、既に散った筈の、満開の桜たち。
西行妖は、彼ら桜たちと比べれば確実に多い、
しかし妖にとっては五分程の花を咲かせて。
――― 咲ける、のか?
少しずつ開いていく自分の花を眺めながら、
何事かを深く、ただ深く思案していた。
デバイスは、のっそりと己に近寄ってくる純白の物体の存在を感知し、
ざざわ、ざあ、ざわわ、と感嘆に打ち震えているかのようだった。
***
桜色の空を見ることなく、
自分でかけた他人の布団を跳ね除けて、八雲紫は寝返りをうっている。
この妖怪はいつもそうだった。大事なときに、その場にはいないのだ。
本質から言えば、当事者になることが禁忌なのだけれど。
「・・・すー・・・すー・・・」
寝息は静かでも、体は周囲の異常を知らせるために激しく寝返る。
だが紫の根底は、今起床してはならないと、識るとも無く知っていたのである。
だから彼女は起きない。
いや、彼女が本当の意味で眠りから覚めた事が、果たして一度でもあったのだろうか?
答えは八雲のたなびく海に埋もれていて、知る者は彼女だけ。
「すー・・・」
***
冥府の扉に腰掛け、少女もまた桜の海を見上げていた。
「はー、わー。綺麗ー、きれいな桜、さくさく、農作物」
彼女の頭の中も、頭上の桜花に負けない春色に染まっている。
「こんなに咲いてるなら・・・」
にゅにゅにゅ、と呆けた顔を真面目っぽくしかめて何かを思考する。
と思えば、それをすぐに解いて元より気持ち晴れやかににぱっと笑い、
「さくらんぼ、沢山取れますね~、咲くさ、錯乱、暴れ八朔、あれ?」
勘違いしたままに言うのだった。
「あー、でも、収穫する人大変そう」
そんなどうでもいいことを大真面目に悩んで、
彼女は月見から花見に摩り替わった一人だけの宴を楽しんでいるのだ。
自分の目的も忘れてしまったかのように。
***
物語に関わりの無い一幕である。
桜雲は冥界白玉楼に留まらず、幻想の郷一杯に広がっていた。
ともすれば境を越え、桜色が外にはみ出るかとすら思える程にその威容は凄まじく、
百の鬼が、千の妖が、万の魔が皆一様に空を見上げる。
晧々たる月桂を遮って現れた桜色は、
しかし夜に満ちる妖気の程度においては月光のそれにも勝る狂おしさを誇った。
とある悪魔は「常世の癖に、全然常じゃないわね」と居城で呟いて、
月が隠れたからとさっさと床についた。
知らぬ仲でも無いが、辿り着く頃には朝になる。
それより前にあの漫才コンビはこれを解決するだろうと、
奇妙なシンパシィから心中で自分と同じ姫君に事態を一任した。
この何気ない動作にさえ、この悪魔の持つ運命操作という人外の力が含まれている。
素知らぬ顔で即興のピアノジャズをかき鳴らす天才は、実の所ただ椅子に座っただけなのだ。
***
桜色の大元、西行妖の根に凭れて、純白の妖怪・墨花はうめいている。
「痛いし・・・けどやっぱり、私もう人間じゃない」
その身に受けた傷は深く、片方の腕はあらぬ方向に曲がり、
脇腹には蝶の炸裂にこそがれた穴が空いていて、この上なく痛々しい外見だったが、
この妖怪は血も涙も無い化け物であるが故に、傷からの流血は無かった。
よって、彼女は傷ついてなお純白であり、それ以外の怪異にはなれない。
「それにしたって、ううん・・・。あんなのに近寄って花を咲かせるなんて、
とてもじゃないけど身がもちそうに無いよ」
独り言は昔からの癖だった。
彼女の能力で少しずつその範囲を広げていく桜雲を見上げて言う。
「でも、あいつを殺すまでは」
安らんでいたように見えた表情が、声と共に再び憎悪の笑いに歪む。
「死ねない・・・わよねぇ」
ふふふ、と零す。自分の直上を睨んで。
「こいつを使えば、あの化け物だって怯むでしょ。
目には目、歯には歯、死には死。
―――私のこの花を操る能力で、こいつらを対消滅させてやる」
轟、と強い風が吹いて、西行妖はあらん限りにざわめく。
墨花は首を少しだけ傾けて“桜の中に咲く桜”を見、その白皙をより一層の笑みに歪めた。
響き渡る葉音ならぬ花の音は、庭園の主の帰還を祝うファンファーレのようで―――
***
純白の憎悪と妖花の喝采を全身に浴び、彼の千年桜と差し向かう形で宙に佇む。
「小者の考える事ときたら、どうしてこうつまらないのかしら」
私は、今宵の何時よりも楽しい気持ちに胸を高鳴らせ、
怒気に柔らかな微笑を添えて、そっと静かに言った。
* * *
遠く遠く、誰かの奏でる舞曲が流れる。
それは死出の道行き、亡骸の運び、渡河する者達が聴く、
激しくも哀しく、美しくも醜い、歌い手のいない、誰の耳にも届かない調べ。
無題だった筈の楽譜には、何時の頃からか題と思しき文が添えられていた。
歌の名を、「幽雅に咲かせ、墨染の桜」という―――。