夜の帳の落ちた林道。
こうして久し振りに歩くという行為を行ってみると、自分にも二本の足がついていたのだということを思い出す。
「あら―――――」
丁度その中腹でのことだ。中々に珍しいものを見かけた所為で、つい間の抜けた声を上げてしまった。
血の気のない青ざめた顔、骨と皮しか残っていないのではないかと思うほどに痩せこけた体躯、それに反して異様なほどに膨れ上がった腹部――――餓鬼だ。餓鬼共が群れを為して小山を作り、血飛沫と下品な咀嚼音を撒き散らしていた。
別に、これ自体はそう大して珍しいものでもない。しかし、その餓鬼がこちらを睨みつけてきたとなれば話は変わってくる。普段は影すら見せもしないというのに、今夜は随分と大胆なことだ。
警戒するように身構えていた餓鬼の一体が、小山のうえから跳ねるように飛び掛ってきた。実に、まったくもって珍しい。
ふと見上げた夜空には、春でもないのに雲を纏った満月が翳みながら揺蕩っていた。成る程、これの所為で気が立っているのか――――と、合点がいく。
それはそうと、目の前に迫る牙と爪はどうしたものだろうか。
別に自分で何とかしても良いのだが、生憎と今は両手がふさがっているし―――それに何より面倒臭い。
「――――――藍」
彼女が言うが早いか、餓鬼と彼女の間に『金』が顕現する。
『金』は手を伸ばして餓鬼の頭を無造作に掴むと、硬い―――幾重にも踏み均されたであろう林道へと叩き付けた。僅かな破砕音の後、悲鳴すら上げることもできずに餓鬼が絶命する。
動かなくなった餓鬼から手を離した『金』は、瞬きする間も無く人間の女性を模った。
いや、正確には女性の形に似た何かだ。頭部には獣のような耳が対になり、臀部からは九本の豊かで鮮やかな金毛の尾が生えている。その姿は、およそ人の輪郭からはほど遠い。
惨状を目の当たりにして及び腰になっていた他の餓鬼共は、金色の獣の一瞥を受けると蜘蛛の子を散らすように足早に逃げ去っていった。
式の雄姿に彼女は控えめな拍手を送る。
「―――流石は藍。まるで他人の獲物を横取りする獅子のようだわ」
「―――それ全然誉めてません。それより、お怪我はありませんか?」
「特に無いわね。こっちもこの通り――――」
そう言って両手に一本ずつ持った一升瓶を掲げて見せると、八雲藍は安心したように微笑む。
「珍しいこともあるものですね」
「偶には狂いたくもなるんでしょう。―――ほら、丁度今夜は満月だし」
「それはそうと、あちらは如何しましょうか?」
藍の指した先―――つい先程まで餓鬼共が群がっていた場所には、予想通り元人間が朱い水溜りの中に沈んでいた。
顔が、尻が、太腿が、体のあちこちが歯で抉られて欠損しており、原型が殆ど残っていない。腹から胸にかけてはひらきにされて肋骨が剥き出しになっており、中身は既に喰われた後のようだ。晒された骨盤と、辛うじて残った頭皮から生える長い黒髪の御蔭で、それが女性だとなんとか分かる程度か。
背格好から鑑みるに、丁度あの人間と同じくらいの年頃だろうか。こんな月夜に出歩くとは、余程命が惜しくなかったと見える。
「抛っておきなさい、どうせすぐに彼等が戻ってくるわ。――――ああ、もしかして食べたかったの?」
「違います」
憮然とした式の態度に一笑し、八雲紫は宵闇との境界が曖昧になった紫紺のドレスを翻した。
粗雑な造りの石段を登り、幾重にも連なる朱い鳥居を潜ると、そこは幻想郷の端だった。
久し振りに訪れた博麗神社は相も変わらず寂れていた。それどころか所々が破損しており、目も当てられない状況になっている。しかし、そこはあえて無視するのが礼儀というものだろう。
取り敢えず灯篭に彩られた石畳の参道を真っ直ぐ歩いて本殿まで足を運んでみたが、目当ての人間はそこには居なかった。目に付くものといえば、賽銭箱とぶら下がった鈴くらいのものか。本当に何も無い。
興味本位で賽銭箱を覗いた藍の表情が悲痛なものへと変わる。藍はゆったりとした袖口から小銭を取り出して賽銭箱に放り、鈴も鳴らさずに背を向けた。
「何処に居るんでしょうね」
「まあ、予想はつくけど」
紫が視線を向けた先―――社務所からは、白い湯気が立ち昇っていた。
今宵は旧暦八月の満月。となれば、当然必要になってくるものがある。
「お邪魔するわね」
「お邪魔するぞ」
紫と藍が開けっ放しになっていた縁側から直接社務所の居間に上がりこむと、たちまち奥から神社の主が現れた。
「――――あんたら何しにきたのよ」
客もぞんざいなら主人もぞんざいだ。博麗神社の巫女―――博麗霊夢は上がり込んで来た二匹の妖怪を見咎め、早速とばかりに悪態を吐いた。
春でも夏でも十五夜でも変わらぬ霊夢のフリル付き巫女服だったが、今日はいつもとは少しばかり毛色が違っていた。袖を肘まで捲くって襷で止め、頭には白い三角巾が乗っかっている。
そして両手には堆く積まれた団子を乗せた皿。
「はい、手土産」
紫は持っていた二本の一升瓶を大儀そうにちゃぶ台の上に置いた。どちらも名の知れた大吟醸である。思わぬ袖の下に霊夢の相好が崩れる。
「・・・・まあ、別に良いんだけど」
霊夢は月見団子を酒の横に置き、摘み食いしたら針千本、とだけ言い残してまた奥へと引っ込んでいった。
「だそうよ、藍」
「摘みません」
紫は微笑して縁側に腰を掛け、空を見上げる。
林道で見たはずの朧月はそこには無く、星屑の舞う夜空には綺麗な真円の穴が穿たれていた。
それは単なる太陽光線の反射だというのに、眺めているだけで体の奥が酷くざわつく。
隣に控える藍も同様のようで、手を揃えて正座こそしているものの、獣耳と尻尾が引っ切り無しにふさふさと動いていた。
逸る気持ちを押えるために、紫は月見団子を一つ摘む。
「あ」
藍の制止をよそに団子を半分齧り、もう半分を藍の口に押し込んだ。証拠隠滅。共犯者誕生。甘辛いたれが日本酒によく合いそうだ。
「――――む、中々に美味い」
「でしょう?どうやら人となりと料理の腕は関係がないようね」
「――――あいつが料理上手いっていうのも意外だよな」
何処からともなく響く声。
僅かに間を置き、ざりざりと砂利を踏み鳴らしながら黒衣を纏った金髪の魔女が浮かび上がるように現れる。
「こんばんは」
「よう。実に不吉な夜だな」
「―――そうかしら?」
「ああ。妖怪が居るところなんかが特にな――――」
くつくつと魔女―――霧雨魔理沙は喉を鳴らして笑う。手にはいつもの箒の他に、自身の身の丈はあろうかという見事な薄を持っていた。
「――あら、中々気が利くじゃない」
「何言ってんだ。これが普通だぜ」
魔理沙は箒を立て掛けて居間に上がり、部屋の隅にある鬼灯が刺さったままの備前に薄を押し込んだ。ついでにちゃぶ台の上にある団子を摘もうとしたが、針を構えた霊夢に睨まれて手を引く。
「はい、これ」
何時の間にやら居間に戻ってきていた霊夢の手には、丁度四つの杯があった。そのうち三つを一人一匹一人に手渡す。
「有難う」
「ん、かたじけない」
「小さい杯だな」
三者は三様の反応を見せて杯を受け取り、位置につく。
「それじゃ、まあ――――乾杯」
少女達の宴は幕を開けた。
鈴虫が合唱し、秋風が草木を奏で、月が照らしあげる舞台の上で酒を飲む。
嗚呼、風流かな。
などと言えるのも最初のうちだけだ。
「――――なんで耳が四つあるんだ。許せん」
魔理沙が藍の獣耳を引っ張りながら、壊れた人形のようにけたけたと笑う。
彼女の頬は既に朱に染まっていた。完全に酔っているのだが、そう訊ねると「酔っていない」と完全に酔っ払った者の常套句を吐き散らす始末だ。
初めはその行為を諌めていた霊夢だが――――最早どうでも良くなったらしく、今では一升瓶を片手に黙々と酒を飲んでいた。
藍は耳と尻尾に阻害感を感じながらも、無言で差し出される紫の杯に酒を注ぐ。
因みに団子はとうに底をついており、酒も神社の神酒を引っ張り出してきたものだ。安い酒だったが、無いよりは余程良い。
笑い疲れたのか、魔理沙は藍の尻尾を掴んだまま寝転がって寝息を立て始めていた。
霊夢は変わらず酒を呷っていたが、その目は虚ろで焦点が合っておらず、口元は微かに開いている。
なんともはや、目の前に妖怪が居るというのに二人とも大胆で無防備なことだ。
―――――余程命が要らないと見える。
夜空を見上れば輝く月。
紫の胸が、一つ大きく高鳴った。
朱い、朱い海に沈んだ喰い滓が脳裏に浮かぶ。
そういえば、あの人間は美味しかったのだろうか?随分と小柄だったが、果たしてあの餓鬼共は満足したのだろうか?それとも戻ってきて骨の髄までしゃぶり尽くしているのだろうか?
―――――嗚呼。
見ようとしたわけではないのに、顔を向けようとしたわけではないのに、意図したわけではないのに――――
――――どうしても目の前の人間が視界に入る。
一度考えてしまえばそこで終わりだ。それは宛ら影のように、紫の脳裏に附着して離れない。
紫は霊夢を見遣った。
あの後れ毛の伸びたうなじに舌を這わせ、酒気で朱く染まった珠の肌に歯を食い込ませたら、どんな味がするのだろうか?
白魚のような指に手を重ね、滑らかな太腿を指で弄りながら抉り出した臓腑に唇を寄せる自分を思い浮かべただけで芯から震えがくる。
紫は魔理沙を見つめた。
長く、清流のように流れ落ちる髪を愛でながら口付けをし、食い千切った舌から溢れる紅血を飲み干せば、どれほど喉が潤うのだろうか?
滴る汗を掬い上げ、嗚咽を残さず拾い上げ、合わせた肌から抜け落ちる体温を想像するだけで絶頂を覚える。
いくら満月とはいえ―――――――
宴の席にあるまじき不埒な想像をするだけで、どうしようもなく腹が唸る。
しかし、押えようとする気持ちは毛程も沸いてこない。
彼女らの目はどんな食感だろうか?鼻はどんな味だろうか?唇は柔らかいだろうか?
舌は?
脳は?
咽喉は?
手は?
胸は?
腹は?
尻は?
性器は?
太腿は?
脹脛は?
踝は?
――――――――――――嗚呼。
不意に、頭の奥で声がした。
――――何を馬鹿な、と。
紫は渇いた咽喉に酒を流し込み、沸き上がる衝動を一笑に伏す。
愚かだ。なんて、馬鹿なのだろうか。そもそもこの問いは前提条件が間違っている。誰が、誰に食われるというのか。
博麗霊夢が、八雲紫に?
有り得ない。
霧雨魔理沙が、八雲紫に?
面白い冗談だ。
手足が折れ、裂傷が走り、血と涙を流しながら嗚咽を漏らすのか?
無理だ、想像力の限界を彼方に置き去りにしている。
ほら、一発でも撃ち込んでみればすぐに証明ができる。すぐさま札と星屑が数十倍になって返ってくることだろう。外観に騙されてはいけない。これは擬態だ。周到な罠だ。
怠慢で騒々しく、やる気も無いのに頭に血が上れば暴れだす。どんなに網を振り回しても捕らえることができず、疲れて座れば鼻の先に止まる蝶。
――――堪らなく、堪らない。
繊細で力強く、不敵で不屈。自らの限界を認めず、測らず、ただひたすら前へと突き進む魔女。
――――それでこそ。
手を出せず、手に入らず。それ故に、こうまで焦がれるのだ。
「―――おい、もう酔ったのか?」
気が付くと、魔理沙が上半身だけ起こしてこちらを眺めていた。その目にはいつも通りの知性が宿っている。
「ふん、紫様ほどの蟒蛇を捕まえて酔ったなどとは笑止千万―――」
「藍、それ誉めているようには聞こえないわ――――。それと、その台詞はあっちに言ったほうがいいんじゃないかしら?」
紫の視線の先には、注ぎすぎて杯から酒を溢れ返らせている霊夢が居る。
「あーあー、勿体無い・・・・・」
心底惜しそうに魔理沙が苦悶の溜息を吐いたが、霊夢には届かない。空になった酒瓶を傾けたまま、一寸も動かずに親指の出汁を取りつづけている。
「霊夢、寝るか醒ますかどちらかにした方がいいんじゃない?そのままじゃお酒に失礼よ」
「そうだぞ、失礼だぞ」
紫の声で我に返った霊夢が、杯と酒瓶を交互に見比べて状況の把握に努める。
「・・・・・ああ、勿体無い」
第一声がそれだ。
「霊夢ー、酒追加だー」
「・・・・これで最後よ」
酒瓶を転がして杯を置き、霊夢が立ち上がる。
「ちょっと涼んでくる・・・・・」
そのままふらふらと、千鳥足でどこぞへと歩いていってしまった。夜道は危険だが、まあ心配は要らないだろう。それより、酒を残して席を立つとは何事だろうか。無粋極まりない。
藍の尻尾から手を離し、魔理沙も立ち上がった。
「・・・・・帰る。酒がないんじゃあ居る理由も無いぜ」
立てかけていた箒を掴んでけんけんして跨ると、千鳥飛行で夜空へと飛び立っていってしまった。
あれよという間にその場に取り残される妖怪と式。
「ふふ―――――」
何故か急に可笑しくなり、紫の口からは自然と笑みが零れた。
「私達も帰りますか?紫様」
藍は花瓶から一本だけ抜き取った薄を手で遊んでいた。猫じゃらしの代わりにでもするつもりなのだろうか。
「そうね」
紫は手に持っていた扇子で空間をなぞる。一瞬、陽炎のように大気が揺らぎ、『すきま』が現れた。
『すきま』の奥で見開かれた、人のものとは思えないほどの巨大な眼が紫と藍を捕らえる。ぎりぎりと『すきま』が広がり、ずるりと這い出る誰のものともつかない手。
紫は杯を拾い上げた。
それは自分のものではなく、先程まで霊夢が口をつけていたものだ。
紫はそれを、つい、と傾ける。
酒気帯びて尚白い咽喉が律動し、ゆっくりとゆっくりと月を飲み干す。
「美味しゅう御座いますか?紫様」
藍の問い掛けに、紫はにっこりと清雅に、淫蕩に微笑んだ。
「ええ―――――美味しいわ、とても」
だあれも居ない神社の境内で、からり、と何かが転がった。
あかい、あかい、血よりも朱い、肉よりも朱い、漆の杯が転がった。
こうして久し振りに歩くという行為を行ってみると、自分にも二本の足がついていたのだということを思い出す。
「あら―――――」
丁度その中腹でのことだ。中々に珍しいものを見かけた所為で、つい間の抜けた声を上げてしまった。
血の気のない青ざめた顔、骨と皮しか残っていないのではないかと思うほどに痩せこけた体躯、それに反して異様なほどに膨れ上がった腹部――――餓鬼だ。餓鬼共が群れを為して小山を作り、血飛沫と下品な咀嚼音を撒き散らしていた。
別に、これ自体はそう大して珍しいものでもない。しかし、その餓鬼がこちらを睨みつけてきたとなれば話は変わってくる。普段は影すら見せもしないというのに、今夜は随分と大胆なことだ。
警戒するように身構えていた餓鬼の一体が、小山のうえから跳ねるように飛び掛ってきた。実に、まったくもって珍しい。
ふと見上げた夜空には、春でもないのに雲を纏った満月が翳みながら揺蕩っていた。成る程、これの所為で気が立っているのか――――と、合点がいく。
それはそうと、目の前に迫る牙と爪はどうしたものだろうか。
別に自分で何とかしても良いのだが、生憎と今は両手がふさがっているし―――それに何より面倒臭い。
「――――――藍」
彼女が言うが早いか、餓鬼と彼女の間に『金』が顕現する。
『金』は手を伸ばして餓鬼の頭を無造作に掴むと、硬い―――幾重にも踏み均されたであろう林道へと叩き付けた。僅かな破砕音の後、悲鳴すら上げることもできずに餓鬼が絶命する。
動かなくなった餓鬼から手を離した『金』は、瞬きする間も無く人間の女性を模った。
いや、正確には女性の形に似た何かだ。頭部には獣のような耳が対になり、臀部からは九本の豊かで鮮やかな金毛の尾が生えている。その姿は、およそ人の輪郭からはほど遠い。
惨状を目の当たりにして及び腰になっていた他の餓鬼共は、金色の獣の一瞥を受けると蜘蛛の子を散らすように足早に逃げ去っていった。
式の雄姿に彼女は控えめな拍手を送る。
「―――流石は藍。まるで他人の獲物を横取りする獅子のようだわ」
「―――それ全然誉めてません。それより、お怪我はありませんか?」
「特に無いわね。こっちもこの通り――――」
そう言って両手に一本ずつ持った一升瓶を掲げて見せると、八雲藍は安心したように微笑む。
「珍しいこともあるものですね」
「偶には狂いたくもなるんでしょう。―――ほら、丁度今夜は満月だし」
「それはそうと、あちらは如何しましょうか?」
藍の指した先―――つい先程まで餓鬼共が群がっていた場所には、予想通り元人間が朱い水溜りの中に沈んでいた。
顔が、尻が、太腿が、体のあちこちが歯で抉られて欠損しており、原型が殆ど残っていない。腹から胸にかけてはひらきにされて肋骨が剥き出しになっており、中身は既に喰われた後のようだ。晒された骨盤と、辛うじて残った頭皮から生える長い黒髪の御蔭で、それが女性だとなんとか分かる程度か。
背格好から鑑みるに、丁度あの人間と同じくらいの年頃だろうか。こんな月夜に出歩くとは、余程命が惜しくなかったと見える。
「抛っておきなさい、どうせすぐに彼等が戻ってくるわ。――――ああ、もしかして食べたかったの?」
「違います」
憮然とした式の態度に一笑し、八雲紫は宵闇との境界が曖昧になった紫紺のドレスを翻した。
粗雑な造りの石段を登り、幾重にも連なる朱い鳥居を潜ると、そこは幻想郷の端だった。
久し振りに訪れた博麗神社は相も変わらず寂れていた。それどころか所々が破損しており、目も当てられない状況になっている。しかし、そこはあえて無視するのが礼儀というものだろう。
取り敢えず灯篭に彩られた石畳の参道を真っ直ぐ歩いて本殿まで足を運んでみたが、目当ての人間はそこには居なかった。目に付くものといえば、賽銭箱とぶら下がった鈴くらいのものか。本当に何も無い。
興味本位で賽銭箱を覗いた藍の表情が悲痛なものへと変わる。藍はゆったりとした袖口から小銭を取り出して賽銭箱に放り、鈴も鳴らさずに背を向けた。
「何処に居るんでしょうね」
「まあ、予想はつくけど」
紫が視線を向けた先―――社務所からは、白い湯気が立ち昇っていた。
今宵は旧暦八月の満月。となれば、当然必要になってくるものがある。
「お邪魔するわね」
「お邪魔するぞ」
紫と藍が開けっ放しになっていた縁側から直接社務所の居間に上がりこむと、たちまち奥から神社の主が現れた。
「――――あんたら何しにきたのよ」
客もぞんざいなら主人もぞんざいだ。博麗神社の巫女―――博麗霊夢は上がり込んで来た二匹の妖怪を見咎め、早速とばかりに悪態を吐いた。
春でも夏でも十五夜でも変わらぬ霊夢のフリル付き巫女服だったが、今日はいつもとは少しばかり毛色が違っていた。袖を肘まで捲くって襷で止め、頭には白い三角巾が乗っかっている。
そして両手には堆く積まれた団子を乗せた皿。
「はい、手土産」
紫は持っていた二本の一升瓶を大儀そうにちゃぶ台の上に置いた。どちらも名の知れた大吟醸である。思わぬ袖の下に霊夢の相好が崩れる。
「・・・・まあ、別に良いんだけど」
霊夢は月見団子を酒の横に置き、摘み食いしたら針千本、とだけ言い残してまた奥へと引っ込んでいった。
「だそうよ、藍」
「摘みません」
紫は微笑して縁側に腰を掛け、空を見上げる。
林道で見たはずの朧月はそこには無く、星屑の舞う夜空には綺麗な真円の穴が穿たれていた。
それは単なる太陽光線の反射だというのに、眺めているだけで体の奥が酷くざわつく。
隣に控える藍も同様のようで、手を揃えて正座こそしているものの、獣耳と尻尾が引っ切り無しにふさふさと動いていた。
逸る気持ちを押えるために、紫は月見団子を一つ摘む。
「あ」
藍の制止をよそに団子を半分齧り、もう半分を藍の口に押し込んだ。証拠隠滅。共犯者誕生。甘辛いたれが日本酒によく合いそうだ。
「――――む、中々に美味い」
「でしょう?どうやら人となりと料理の腕は関係がないようね」
「――――あいつが料理上手いっていうのも意外だよな」
何処からともなく響く声。
僅かに間を置き、ざりざりと砂利を踏み鳴らしながら黒衣を纏った金髪の魔女が浮かび上がるように現れる。
「こんばんは」
「よう。実に不吉な夜だな」
「―――そうかしら?」
「ああ。妖怪が居るところなんかが特にな――――」
くつくつと魔女―――霧雨魔理沙は喉を鳴らして笑う。手にはいつもの箒の他に、自身の身の丈はあろうかという見事な薄を持っていた。
「――あら、中々気が利くじゃない」
「何言ってんだ。これが普通だぜ」
魔理沙は箒を立て掛けて居間に上がり、部屋の隅にある鬼灯が刺さったままの備前に薄を押し込んだ。ついでにちゃぶ台の上にある団子を摘もうとしたが、針を構えた霊夢に睨まれて手を引く。
「はい、これ」
何時の間にやら居間に戻ってきていた霊夢の手には、丁度四つの杯があった。そのうち三つを一人一匹一人に手渡す。
「有難う」
「ん、かたじけない」
「小さい杯だな」
三者は三様の反応を見せて杯を受け取り、位置につく。
「それじゃ、まあ――――乾杯」
少女達の宴は幕を開けた。
鈴虫が合唱し、秋風が草木を奏で、月が照らしあげる舞台の上で酒を飲む。
嗚呼、風流かな。
などと言えるのも最初のうちだけだ。
「――――なんで耳が四つあるんだ。許せん」
魔理沙が藍の獣耳を引っ張りながら、壊れた人形のようにけたけたと笑う。
彼女の頬は既に朱に染まっていた。完全に酔っているのだが、そう訊ねると「酔っていない」と完全に酔っ払った者の常套句を吐き散らす始末だ。
初めはその行為を諌めていた霊夢だが――――最早どうでも良くなったらしく、今では一升瓶を片手に黙々と酒を飲んでいた。
藍は耳と尻尾に阻害感を感じながらも、無言で差し出される紫の杯に酒を注ぐ。
因みに団子はとうに底をついており、酒も神社の神酒を引っ張り出してきたものだ。安い酒だったが、無いよりは余程良い。
笑い疲れたのか、魔理沙は藍の尻尾を掴んだまま寝転がって寝息を立て始めていた。
霊夢は変わらず酒を呷っていたが、その目は虚ろで焦点が合っておらず、口元は微かに開いている。
なんともはや、目の前に妖怪が居るというのに二人とも大胆で無防備なことだ。
―――――余程命が要らないと見える。
夜空を見上れば輝く月。
紫の胸が、一つ大きく高鳴った。
朱い、朱い海に沈んだ喰い滓が脳裏に浮かぶ。
そういえば、あの人間は美味しかったのだろうか?随分と小柄だったが、果たしてあの餓鬼共は満足したのだろうか?それとも戻ってきて骨の髄までしゃぶり尽くしているのだろうか?
―――――嗚呼。
見ようとしたわけではないのに、顔を向けようとしたわけではないのに、意図したわけではないのに――――
――――どうしても目の前の人間が視界に入る。
一度考えてしまえばそこで終わりだ。それは宛ら影のように、紫の脳裏に附着して離れない。
紫は霊夢を見遣った。
あの後れ毛の伸びたうなじに舌を這わせ、酒気で朱く染まった珠の肌に歯を食い込ませたら、どんな味がするのだろうか?
白魚のような指に手を重ね、滑らかな太腿を指で弄りながら抉り出した臓腑に唇を寄せる自分を思い浮かべただけで芯から震えがくる。
紫は魔理沙を見つめた。
長く、清流のように流れ落ちる髪を愛でながら口付けをし、食い千切った舌から溢れる紅血を飲み干せば、どれほど喉が潤うのだろうか?
滴る汗を掬い上げ、嗚咽を残さず拾い上げ、合わせた肌から抜け落ちる体温を想像するだけで絶頂を覚える。
いくら満月とはいえ―――――――
宴の席にあるまじき不埒な想像をするだけで、どうしようもなく腹が唸る。
しかし、押えようとする気持ちは毛程も沸いてこない。
彼女らの目はどんな食感だろうか?鼻はどんな味だろうか?唇は柔らかいだろうか?
舌は?
脳は?
咽喉は?
手は?
胸は?
腹は?
尻は?
性器は?
太腿は?
脹脛は?
踝は?
――――――――――――嗚呼。
不意に、頭の奥で声がした。
――――何を馬鹿な、と。
紫は渇いた咽喉に酒を流し込み、沸き上がる衝動を一笑に伏す。
愚かだ。なんて、馬鹿なのだろうか。そもそもこの問いは前提条件が間違っている。誰が、誰に食われるというのか。
博麗霊夢が、八雲紫に?
有り得ない。
霧雨魔理沙が、八雲紫に?
面白い冗談だ。
手足が折れ、裂傷が走り、血と涙を流しながら嗚咽を漏らすのか?
無理だ、想像力の限界を彼方に置き去りにしている。
ほら、一発でも撃ち込んでみればすぐに証明ができる。すぐさま札と星屑が数十倍になって返ってくることだろう。外観に騙されてはいけない。これは擬態だ。周到な罠だ。
怠慢で騒々しく、やる気も無いのに頭に血が上れば暴れだす。どんなに網を振り回しても捕らえることができず、疲れて座れば鼻の先に止まる蝶。
――――堪らなく、堪らない。
繊細で力強く、不敵で不屈。自らの限界を認めず、測らず、ただひたすら前へと突き進む魔女。
――――それでこそ。
手を出せず、手に入らず。それ故に、こうまで焦がれるのだ。
「―――おい、もう酔ったのか?」
気が付くと、魔理沙が上半身だけ起こしてこちらを眺めていた。その目にはいつも通りの知性が宿っている。
「ふん、紫様ほどの蟒蛇を捕まえて酔ったなどとは笑止千万―――」
「藍、それ誉めているようには聞こえないわ――――。それと、その台詞はあっちに言ったほうがいいんじゃないかしら?」
紫の視線の先には、注ぎすぎて杯から酒を溢れ返らせている霊夢が居る。
「あーあー、勿体無い・・・・・」
心底惜しそうに魔理沙が苦悶の溜息を吐いたが、霊夢には届かない。空になった酒瓶を傾けたまま、一寸も動かずに親指の出汁を取りつづけている。
「霊夢、寝るか醒ますかどちらかにした方がいいんじゃない?そのままじゃお酒に失礼よ」
「そうだぞ、失礼だぞ」
紫の声で我に返った霊夢が、杯と酒瓶を交互に見比べて状況の把握に努める。
「・・・・・ああ、勿体無い」
第一声がそれだ。
「霊夢ー、酒追加だー」
「・・・・これで最後よ」
酒瓶を転がして杯を置き、霊夢が立ち上がる。
「ちょっと涼んでくる・・・・・」
そのままふらふらと、千鳥足でどこぞへと歩いていってしまった。夜道は危険だが、まあ心配は要らないだろう。それより、酒を残して席を立つとは何事だろうか。無粋極まりない。
藍の尻尾から手を離し、魔理沙も立ち上がった。
「・・・・・帰る。酒がないんじゃあ居る理由も無いぜ」
立てかけていた箒を掴んでけんけんして跨ると、千鳥飛行で夜空へと飛び立っていってしまった。
あれよという間にその場に取り残される妖怪と式。
「ふふ―――――」
何故か急に可笑しくなり、紫の口からは自然と笑みが零れた。
「私達も帰りますか?紫様」
藍は花瓶から一本だけ抜き取った薄を手で遊んでいた。猫じゃらしの代わりにでもするつもりなのだろうか。
「そうね」
紫は手に持っていた扇子で空間をなぞる。一瞬、陽炎のように大気が揺らぎ、『すきま』が現れた。
『すきま』の奥で見開かれた、人のものとは思えないほどの巨大な眼が紫と藍を捕らえる。ぎりぎりと『すきま』が広がり、ずるりと這い出る誰のものともつかない手。
紫は杯を拾い上げた。
それは自分のものではなく、先程まで霊夢が口をつけていたものだ。
紫はそれを、つい、と傾ける。
酒気帯びて尚白い咽喉が律動し、ゆっくりとゆっくりと月を飲み干す。
「美味しゅう御座いますか?紫様」
藍の問い掛けに、紫はにっこりと清雅に、淫蕩に微笑んだ。
「ええ―――――美味しいわ、とても」
だあれも居ない神社の境内で、からり、と何かが転がった。
あかい、あかい、血よりも朱い、肉よりも朱い、漆の杯が転がった。
話は面白かったです。
全ての要素が上手く絡み合い、独特の世界が作り上げられていると思います。
お見事。
どこかつかみどころのない紫の妖という本性を、満月に後押しさせて描く部分は確かにちょっとどきりとしますね。
ここを残酷と捉えるか普通と捉えるか異常と捉えるか真実と捉えるか。難しいところです。
しかしそれを差し置いて相変わらずの描写の上手さは流石。
この表現力がなければ紫の狂気もこれほどに引き立たなかったでしょう。
自分は、裏で何を考えているのか毛筋も見せないその胡散臭さがいかにも紫らしいと思いました。
百合だと思って育てていた球根から彼岸花が咲いた気分です。
ああ良かった、自分以外にも似たような経験をした方がいました、ここに。
自分の場合、大抵において育てた球根は別物に進化します。或いは合体事故を起こします。オレゲドウマーボーコンゴトモヨロシクです。
何故でしょう。誰か教えて。
紅魔館倒壊の巻、楽しみにしています。
それでは。
それこそが「妖怪は人間を食う」という大前提。
そこに月の光によってぼんやりとスポットを当てたこの話は、どことは無しに全体的に上手いです。いい感じにぞくぞくしました。
特にキャスティングに紫を使ったのが非常に効果的に働いていると思います。東方世界で一・二を争う胡散臭さとえも言われぬ本能的なおっかなさを、初めて紫に会った時に私も感じましたが。それが余すことなく表現されていたと思います。
>疲れて座れば鼻の先に止まる蝶。
この表現好きー。東方らしさというか、霊夢・魔理沙に凄くらしい一文。言葉の選び方が凄いハイセンスで、痺れるような怖さと爽やかさを同梱させている不思議
な話です。まあ、私には100年経ってもこういうの書けそうに無いですがー。
そして、最後の2行。「赤い」と単純に書かず、表現を工夫する事でこれほど怖くなるとは……。東方の裏(本来は表のはずの裏)を、垣間見させて頂きました。次のお話も期待しております。
>百合だと思ってたら<br> ……普通に薄やらかすみ草やらスズランあたりを育てていたら、咲いたのは百合ばっかりという奴よりも良いですよー(笑)
というか、こういう燻し銀な話を書いてみたい~! 似合わないだろうけど。
紫はなんだか真面目なようで全然真面目でない霊夢と似たような印象を持っていたのでこの紫様は恐いぃ~~~。
長く生き続けた妖怪である紫は人を喰らうという事をどう思っているのか、まさにこんな感じなのではないだろうか。
>次回
>「超絶パワー!ついに倒壊か!?紅魔館!!」
………。マジですかぁ~~!!!
「・・・・・帰る。酒がないんじゃあ居る理由も無いぜ」とあっさり帰る所なども、自分のイメージではとても魔理沙らしい態度だな~と思いました。
話の内容もとても素直に自分の中に入ってきて「嗚呼、良い作品だな~」と感じました。
次回作も楽しみにしています。
感想とも言い難いような文章ですが……どうか、がんばってください。
これ以上、何かを書くのが失礼に当たるように思えるほど。
謝辞だけは書き置いて、若輩は退去させていただくとします。
この妖―――大変に、美味しゅう御座いました。
紫嬢の、胡散臭いとされている部分を主題に据えるとなると、必然的にこういう話になってしまう予感もします。酒宴の描写=日常的な風景がひどく褪せて見えるような、うら寒さを覚えました。
見事な文章だとしか言いようがありません。
過去作も拝見しておりますが、その表現力はますます冴え渡っているように思います。紫の本質を鋭く描く文章は、同じSS書きとして大いに勉強になりました。
・・・読み終えた余韻がとても心地よいですな。
残酷な描写もありますが、この雰囲気をだす要素としては大・正・解だと思います。(毒も適切に使えば素晴しい薬に…
特に、最後の2行は脳内に情景が自然に映しだされるほど素敵な文ですね
次回の作品が とても たのしみ
>餓鬼
下等で大した力もないけど、奴等のお食事シーンは怖いっす。(真Ⅰの母惨殺で大活躍ー
■2004-09-12 11:55:35
のお名前は
誤:MUI
正:名前が無い程度の能力
勝手ながら追加させていただきました。
私などのために貴重な時間を割いていただき、まずは深く低頭すると共にお詫び申し上げます。
この場で謝罪を済ませるのは酷く礼に失すると思い、掲示板の方にも書き込みをさせていただいた次第です。
誠に申し訳御座いませんでした。
妖怪にとっては喰うことも愛情表現の一部なのかー。(食べちゃいたいほど、ってやつですね
読みやすい、よくできた作品だ。
紫さんの心情と言うか(俺達人間から見たら)狂気と言うかそんな感じが前面に押し出されてますね。
描写も凄く上手くて頭の中でその光景がすんなりと(グロい部分含む)思い浮かびました。
同じ小説書きとして尊敬に値する作品、お見事です。