――時間は少しばかり遡る。
紅魔館の主、レミリアは悩んでいた。
「なーんか、忘れているのよね」
現在、棺桶の中だ。
暗闇で腕を組み、懊悩していた。
うーんうーんと『?』マークを乱舞させている。
俗に言う「のどまで出てきてるのにぃ!」という状態。
これは非情に気持ちが悪い。あと一歩で思い出せると自覚してるのだから尚更だ。
外はもう朝日が昇っていた。空はどこまでも澄み渡り、良い吸血鬼は眠る時間。
ましてや昨日は昼も夜も起き続けていたので、24時間以上寝てないことになる。
こんな時に考え事はまるで向かない。
横になればあとは一直線、脇目も振らずに眠る以外にすべきことはない。
実際、レミリアの後頭部、枕が触れた部分からは睡魔がゆっくりと忍び込もうとしていた。
こっちへおいで~、こっちはいいぞ~、と誘惑してる。
けれど、曇って曖昧な記憶領域は、そんな睡魔にデンプシーロールを喰らわしつつ『何か重大なことを忘れてるんじゃあ!』と主張してた。
「……実は大した事じゃない、ってオチはないかしら?」
自分自身を騙す言葉を放ってみるが、意外なほど頑固な記憶領域は『そんなことは無い。ボケるのも大概にしろや、コラ』と断言する。
「う~ん」
――思い出せることは、ただイメージだけ。
不吉な、それでいて強固にこびりついてるイメージだけだった。
「どうかしてるわね」
そんなことはあり得ない。
不可能。
無理である。
他の色ならともかく、よりにもよって。
「『紅』、私自身を現すイメージを、『不安』に思うなんてね……」
結局これは考えすぎだろうということにして瞳を閉じる。
ふう、と息を吐き出すのを最後に呼吸を停止し――
胸の前で緩やかに手を組むのを最後に神経系を止め――
擬似的な体液循環を最低限のものだけを残して休止させ――
あらゆる『動いていた箇所』をストップさせる。
他人が見れば、その姿は死人にしか見えなかったことだろう。
紅い魔館の主は、白い肌をより白くしつつ『眠って』いた。
電化製品をスイッチ一つでオフにするのと同じ程度の簡便さで、彼女は一時的な活動休止に入った。
+++
きょろきょろ辺りを見渡してみる。
――――閑散としきっていた。
つばを指先につけ瞼に三回塗る。
――――狐に騙された時専用の対処法は意味をなさなかった。
「んん?」
腕を組んで頭を捻る。
――これは何かの間違いじゃなかろうか。
――誰か私を騙しているんだ、絶対。
――実はドッキリとかで、後ろを振り返るとメイドがひしめいているとか?
色々と考えてみるが、どれもこれも違うようであった。
中国は、疑心暗鬼の真っ最中だ。
それも当然。
「ほんとうに、誰もいないの?」
紅魔館は無人だった。
いや、正確に言えば気配だけはするものの人に出会う事がまったく無かった。
最終ダンジョンは、何のエンカウントも無く突き進めていた。
あれだけの決心をして来たというのに、これは肩すかしもいいところだ。
廊下は無人のまま、真っ直ぐにどこまでも伸びている。普段よりも薄汚れてる気はするが、それ以外に不審な点はない。
――なんだか、妙な気持ちだった。
昔したかくれんぼを思い出す。あれはいつだって最初は動きにくい。すぐに見つけられるんじゃないかという不安で縮こまってしまう。けれど、その緊張状態を脱すると徐々に大胆になり、ついつい周囲を探索したりもする。隠れるのに有利な地点を抜け、『も、もうちょっと向こうに歩いてみようかなあ……?』と無駄にアグレッシブになるのだ。
現在の中国はそんな状態だった。恐れおののきつつも前へ進んでいた。猫をも殺してしまう好奇心とは、きっとコレのことなのだろう。
なんだか泥棒にでもなった心地で、中国は忍び歩きをしてた。
「?」
足を止めた。
中途半端な恰好のままでストップ。きょろきょろと周囲を見渡してみた。
とてつもなく巨大な気配と存在感を感じたのだ。
薄く広がっていた妖気が凝縮してた。
まるで紅魔館の外に、規格外に巨大な妖怪が出現したみたいだった。
壁の向こうに、その妖気が形作られる様が見えたような気がした。
――風の弾ける音が迫った。
「わわっ!!?」
轟音が左から右へと疾走する。
叫び声もかき消されてしまった。
半端な音ではない。鼓膜の耐久ぎりぎり。人体に悪影響を与えるほどの音量だった。
紅魔館の骨組みを軋ませ、震度7かと思える威力で床を揺らす。
立ってはいられない、中国はその場で床にしりもちをつき、何とかやり過ごした。
ほんの数妙間だけの怪震は巻き起こり、そして、収束した。
「……………………」
床に座り込んだまま硬直する。
地震の原因と思われるものが、そこにはあった。
いつのまにか『白い何か』が、中国の前に建設されていたのだ。
奇妙なほどに艶やかな、真っ白な横倒しの円柱。
時折、蠢動してるようにも見えた。
信じがたいことだが、どうやら生きているようだ。
恐る恐る、その『白い何か』に触れてみる。
「わ!?」
瞬間、その円柱は崩壊した。
分裂・分解が爆発的速度で行われた。
中国の指先が針であり、それで巨大な風船をつついてしまったかのようだった。
散華した円柱は舞を繰り返しながら廊下一杯に広がる。
見慣れない光景であり、見慣れた光景だった
いつも門番として追っ払っている毛玉の、見た事も無い姿だ。
中国は目を大きく見開いたまま、唾を飲み込む。
毛玉が襲ってくる様子はない。
ふらふらと視界一杯にひろがる毛玉は意外にも綺麗だった。
まるで雪が降ってるみたいだと連想した。
これほどまで大規模・大多数の毛玉なんて、見た事もなかった。
「あ――――」
手が勝手に動く。
反射的に近づいてきてる毛玉を追い払おうと、否、『殺そう』として――
「WORNINNG! わーにん!」
「警戒態勢『甲』が発令されました、皆様、すみやかに虐殺体制を取ってください!」
寸前で声が割り込んだ。
扉が一斉に開かれる。
最上位の警戒を呼びかける声は、のんきに休息していたメイドたちの間を化学反応以上の速度で駆け巡った。
最初に2人のメイドが声を張り上げながら疾走し、それに連動して扉がぱたぱた開く。
大半がパジャマであったり、寝癖のままだったが、全員がその手にナイフを構えていた。
何はなくとも彼女たちは前にいる毛玉を瞬殺してから、声を揃えて返事をした。
「「「「「「「「「ヤー!(了解!)」」」」」」」」」
そして、どやどやと数十人単位で中国の両脇を通り抜ける。
しりもちをついてる中国の手足が踏まれなかったのは、無意味に発揮された中国の幸運と、メイドたちの日ごろの鍛錬のおかげであろう。
――――「もう! 寝はじめた所だったのに!」「まったく何事よ」「また毛玉?」「何年ぶりかしらね、『甲』まで行くなんて――」「わー、年期と年齢を感じさせるセリフですねー」「あ、中国おひさ」「ねむ……」「あんた、殺すわよ?」「わ、怒った怒ったー!」「昼ご飯は何かしラ」「食べる時間ってある?」「うわ、向こう見て! 何であんなに!?」「あー、昨日、あれだけ殺してまだ出てくるか、コイツら」「お掃除たいへんそうです――」「太陽が黄色いよう」「あっはっは、何かまっすぐ走れない~」「あっぶないって、おおい!」「あれ? なんでそんなとこにキスマークあんの?」「え、いえ、その!」「しぃー、しぃー!」「ひょっとしてそんな関係?」「む。そこの中国、寝てないで早くするのだ」「この前の紅白と白黒といい、スリリングな職場になってきたな」「うん、楽しいネ」「ねえ、その感覚ヘンだよ」「いや、その」「か、勘違いだよ、うん」「じゃ、なーんで一緒の部屋にいたのかな?」「――――」「ナイフ構えて走りながら寝るなあ!!」「さすが最古参ですねえ、投げるナイフに技術を感じます」「なら黙って当たれよ、若輩者」「わ!? なんでこんな大穴が!?」「誰が塞ぐんだろ、これ」「また残業かなあ」「もう慣れたネ」「ねーねーみんなあ!」「わー秘密だってば!」「お昼にデザートがないと口が軽くなりそうだなあ?」「……極悪」「広いながらも苦しい我が職」「正解なだけに笑えないって」――――
まさに台風一過、彼女たちの通った後には何も残らなかった。
過ぎ去った後、しん、とした空白が生じてしまう。
中国はただ硬直してた。
あまりに変化する事態についてゆけなかったのだ。
しばらくの間、茫然とたたずみ、それからポツリと呟いた。
「――あっと。『甲』、だっけ……?」
いちばん上の警戒を呼びかける宣言のことか、と思い出した。
頭がぼうっとしてた。
何とかどうにか体を起こす。
廊下が何故かやたらと広く見えた。
静かになった中で、ひとり立ちあがった。
「おお?」
くらっとした。
目の奥がぶれる。
脳の一番奥にあるスイッチ、それが押された感覚。
体勢を崩し、壁に手をついてしまう。
視界の端に毛玉が見える、チリのように細かな残骸だった。
いや、ずっと意識はしていたのだ。ただ、この時、はじめて直視してしまった。
見てると、呼吸が自然と荒くなった。
汗がびっしりと浮かぶ。
泣きそうなくらい、自分の体が言うことを聞かない。
――横に立てられた鏡の中には、中国ではない中国がいた。
姿格好はまるで同じ。ただし、猛禽の目と気概を持った女性だった。
『彼女』は、腕を組み、中国を苛立たしげに見てた。
気がつかないまま、中国は横を通り過ぎる。
目が合うことは最後までなかった。
――こころの底にある何かが蠢き、産声を上げる。
+ + +
――なんかヘンだった。
なにかがおかしかった。
頭の奥に違和感がある。
キリキリ痛む。
思考が繋がらない。
この埃のせいなのだろうか?
細かなカケラとなった毛玉の残滓。
それを見てると妙な気分になった。
回転する万華鏡を見てるような酩酊感。
上手に歩くことができなかった。
ふらふらと安定しない。
一歩ごとに体が左右に揺れる。
偽造された世界。
作られた世界。
真実が消え去り、世界がふるえる。
視界は揺れに揺れ、まるで、熱病にかかったみたいだ。
「は――あ――」
呼吸するのも一苦労。
足を前に出すのにも全身の力が必要だった。
(おかしい、なんかヘンだ)
中国自身、そう感じていたが、具体的になにがどうおかしいのかは分からなかった。
ただ脳の奥にある違和感に命じられるままに、体を移動させていた。
無駄なまでに広い廊下のはじっこで、壁に体を預けながらどうにか歩く。
先には何があるかは分からなかったが、絶え間なく何かを急かされていた。
――このままじゃ、間に合わない。
――――はやく。
――そう、はやく。
――――頭が痛むのが何だ。
――現実感が消し飛ぶくらい何だというのだ。
――――『それ』が欲しいのでしょう?
よく分からない声がする。
だが、それに疑問を覚えることもない。
もう上手く考えることも出来なかった。
――体を移動させる先には、『取調室』と呼称される部屋があった。
+++
道の基点付近では、十六夜咲夜が跪き、肩で呼吸をしていた。
一応、空中に止まってはいるが、披露困憊だった。
「ふう……」
湖の碧さが目にまぶしい。
太陽は容赦なく照りつけ、僅かとなった体力を容赦なく削り取る。
咲夜自身が作った断崖のはるか先には、肌の黒い女の子が目を回していた。
あれが『くろわたさま』とやらなのだろう。
あれだけの攻撃をくらったのだ。しばらくは何もできないはずだった。
後ろからの、チルノの視線に気がついた。
咲夜は力なく片手を上げ、口の端を吊り上げて微笑んだ。
チルノも微笑み返し、手をぶんぶん振っている。
なんとなく、仲間意識のようなものが芽生えようとしていた。
扉が開く音がして、人影が現れた。
チルノがあわてて振り返っていた。
「あ、中国」
嬉しそうな声が聞こえる。
部屋奥の、古びた扉が開かれていた。
咲夜は半端な姿勢のまま、何となく見てた。
――あれ?
ちょっと違う。
そんなことを咲夜は思った。
中国のいつもの、どこかとぼけた空気がなくなっていた。
代わりに空虚さに満ちている。
活力なんてまるで無い、よくできた中国の生き人形だと言われれば、そうなのかと納得してしまいそうだ。
「中国……?」
チルノも様子を察したのか、あまり近寄らなかった。
かけられた声にも中国は反応しない。
白磁の肌はつやつやに光り、両手は不安そうに胸の前で握られていた。
瞳に意志はなく、操られた人形のように動作もギクシャクしてる。
不安そうに1歩だけ前へと進んだ。
人形が口を開く。
人形が喋る。
「――咲夜様、妖怪を殺してました?」
活力のない様子まま、中国は尋ねた。
顔や身体は咲夜に向いてるが、瞳の焦点は咲夜になかった。
「ええ、厄介者は排除したわ」
咲夜は油断しなかった。
後ろ手にもナイフを握る。
底をつきかけてるスタミナを叱咤し、力をひねり出した。
臨戦体勢を無理矢理につくる。
披露困憊を隠し、形だけいつも通りにしながら取調室に近づいた。
咲夜の勘が最大警報を鳴らしていた。
ヤバイ。
――この冷や汗の量は何だ?
――どうして手足が無意味に震える?
絶対に、何があっても油断はできない。
中国は口を開き、吐息と共に言葉を紡いだ。
「いいなあ……」
「――――え?」
凍った。
言った意味を掴めなかった。
「咲夜様、ずるい。こんなに、こんなにいっぱい妖怪殺しちゃうなんて」
目の焦点は咲夜に向いていない。
ただひたすらに、チリとなった毛玉の破片に向けられていた。
熱望していた玩具が無残に壊されてる、そんな熱と悲しさが含まれた視線だ。
相変わらず不自然な様子のまま、口調だけは冷静に続けた。
「私、一日中、何も殺してないんですよ? ガマンしてたんですよ? 咲夜様が全部しなくてもいいじゃないですか……」
そう、そうだ。
昨日から門番の仕事をしていないんだ。
それこそが違和感の原因だ。
――『妖怪を殺せていない』――
焦燥のみなもと。
押されたスイッチ。
私はガマンしていた――
ずっと抑えこんでいた――
なんて酷い――
よりにもよって今日この時に、ひとりでこんな『大物』を殺すなんて――
あぶくのように次々と思いがあふれてた。
「――貴女、何を言ってるの?」
中国自身、わけが分からなかった。何かが間違ってるとは思っているのだが、それが自分で分からない。
まるで海外に単身放り込まれたみたいな違和感。
あまりに常識が乖離してた。
当たり前だと思っていることが、周りと自分とで異なりすぎている。
でも、この状態が本当だと、こころのどこかが囁いた。
知らない事実。
現実が反転する衝撃。
心臓が痛い、空気が熱い、吐き気が絶え間ない。
「あ、あ――」
「中国……?」
「チルノ! 近づくな!」
世界がずれる。
記憶にほころびが生じる。
己の根幹がせり上がる。
ぱきん、と音を立てて、呪いが解かれた。
ふらついて倒れようとする体をギリギリで止め、『彼女』は呟いた。
「ああ――そうだ」
突如、空気が重さを増した。
その声は、地の底から響いてくるようだった。
恨みと怨念が複雑に絡み合い、別種類の負の想念を形作っていた。
名をつけることができないその念が、空気を重くしていた。
『紅 美鈴』が、目を覚ましたのだ。
「――そうだった」
紅い氣が螺旋を描いて天井を焦がす。
チルノが後ずさりし、咲夜が両足を広げて構えていた。
ぽつりと、言葉が響いた。
「私は、あの吸血鬼を殺しに来たんだ」
「な!!?」
「……え?」
上がった顔に、いつもの中国はいなかった。
そこにあるのは酷薄な瞳。
血の匂いのする凶暴な笑み。
死すら凍える殺意の体現。
爽やかささえ添えて『彼女』は言った。
レミリア・スカーレットを殺すと。
「っ!!」
咲夜は一瞬の間を空け、即座に攻撃に転じた。
彼女にとってその言葉は、あらゆる物の上位に位置する禁句だ。
すでに彼女の中で、中国は以前と同じとしていなかった。
敵と断定し、敵として対処する。
脅しなどではなく、完全な本気で投擲されたナイフの数々は、しかし、『彼女』の震脚、その余波だけで吹き飛んだ。
鳴らされた大気が部屋を荒れ狂う。
第二射を放つその前に、『彼女』は咲夜に肉迫してた。
ナイフという短距離武器よりもさらに内側。ほとんど抱き合う距離で、驚愕の表情と猛禽の笑顔が出会った。
「くっ!」
「はあっ!」
反撃しようとした動きを、超至近距離の攻撃が打ち抜いた。
咲夜は成す術も無く宙を飛び、壁まで水平に叩きつけられる。
その威力のほどは、踏み壊された床とひび割れた壁が証明する。
「う――」
なおも攻撃しようとする咲夜の動きを『彼女』の蹴りが寸断した。まっすぐに蹴り出された衝撃力は、後ろの壁をも完全に破壊する。
まさに神速だった。
時を止める隙さえ与えない。
だが、むしろつまらなさそうに『彼女』は呟いた。
「なんだ、人間なのか」
崩れ落ちる咲夜を見ようともせず、横のチルノを睨む。
そして、ものも言わずに無音で近づいた。
「ひっ」
怯え、チルノは後ずさる。
これはいつもと様子が違うどころではなかった。
『彼女』の目には、明らかな『歓喜』があった。
チルノは咄嗟に紅魔館の主を思い出した。
「レミ――」
レミリア・スカーレット。その名を呼ぼうとして。
「無駄よ」
断言しつつ、そのノドを掴み、宙吊りにした。
意味のある言葉を出せないまま、チルノは息苦しさから手足をジタバタさせた。
「あの吸血鬼は休息中よ、気配で分かる。あの圧倒的な存在感は無い。そう――」
にぃ、っと口が横に裂ける。
「いまなら簡単に、誰でも殺せる。頼る相手を間違えてる」
暴れる無意識を統御し、ノドを掴む手に力をゆっくりと込める。
いままで表層にいた人格が必死に邪魔をしているが、逆に言えばこの氷精を殺せば後はおとなしくなるはずだ。そう思考しながら『彼女』はチルノの息の根を止めようと力を込め――
「チっ」
後ろから投げられたナイフを間一髪で避けた。
放り出され、床でバウンドしたチルノが、そのまま倒れ伏し気絶する。
「――――」
睨む先には、死線に半ば足を踏み出してる咲夜がいた。
壊れた壁に体を預けた状態で座り、立ち上がることさえ出来ていない。
手首のスナップだけで投げたと思われるナイフが最後の攻撃だった。
万全の体勢ならば結果は違っていたのかもしれない、けれど、毛玉蛙を相手にし披露困憊の咲夜では、これが精いっぱいだった。
「大人しくしていれば助かるものを」
「冗談。二度もお嬢様を『殺す』と言った奴を、そのまま野放しにできるわけはないでしょう?」
「ふん。『時』の繰り手がこれ以上なにをする? 力つき、動く事もできない身では、大したこともできまい」
「そうね」
咲夜は目を閉じて、疲れきった顔だった。
蹴られた腹に手を置き、速く苦しそうな呼吸を反復してる。
「――――」
『紅 美鈴』は疑問を覚えていた。
彼女が何らかの力を使っていた形跡がある。
にも関わらず、周囲に変わった様子がなにもないのだ。
(不確定要素は、さっさと減らしておくべきか……)
これからあの吸血鬼を倒しに行かなければいけないのだ。そう、もともと『紅 美鈴』はそのために紅魔館に来たのだ。
門番をしていたのは結局レミリアに敗れ、その上、記憶封鎖、力量制限など、各種の封印を施されたからに他ならない。
ようやく封印が解け、『この人格』を取り戻した。
かねてからの宿願を果たすその時に、後ろから刺されたり、トラップを設置されてはたまらない。
命を刈りとるために、『紅 美鈴』は一歩踏み出した。
だが、同時に咲夜が喋る。
「そうね、『私には』できないわね」
「な――?」
立ち止まる。
周囲の風景が様相を変えた。
午前の光が急速に衰え、闇の勢力が力を増した。
太陽が急速に沈み、空が回転する。
暗くなっているのではない 夜が始まろうとしていた。
「ほんと、大したことは出来ない――」
「貴様! 『紅魔館に流れる時間』を進めたのか!?」
言う間にも、夜は深まる。
先ほどまで絶叫していたセミはなりを潜め、耳鳴りがしそうなほどに静まりかえり、世界に暗闇が流れ込む。
咲夜は自嘲する笑みを浮かべた。
「まさか、そんな力、残ってないわよ」
「なに――」
「そう、せいぜい、完全休眠中の誰かを。それこそ死人と見間違うほど『抵抗力のない』、誰でも殺せるほど『弱ってる』人の時間を進めて、『起床時間を早める』ことくらいかしらね、私にできるのは」
皮肉気な笑みが深まった。
もう、完全な夜だ。
「! まさか!」
「『その人』が休息から目覚めれば、これ位のこと――昼を夜へと変えてしまう位のこと――できるとは思わない?」
――紅い月が、昼の暖気を押しのけ、冷たく輝いた。
「お嬢様、すみません。後は頼みま――――」
最後まで言い切れず、完全で瀟洒な従者の意識は落ちた。
行使しつづける力に耐え切れなかったのだ。
壁に身を預けたまま、崩れ落ちるようにして気を失った。
「ごくろうさま、咲夜。おかげでよく眠れたわ」
+++
レミリア・スカーレットがいた。
紅い月を背負い、夜闇を引き連れ、吸血鬼に相応しい血と死をまといながら、ただ空に立っている。
「こんばんわ、いい夜ね」
声だけが響いた。
その表情に、どんな笑みも浮かべていない。
無表情なまま、絶対的な支配力を明示しながら見下ろしている。
「…………」
『紅 美鈴』は黙したまま殺意を隠そうともせず、血が滲むほど拳を握り締めながら睨んでいた。
溢れる鬼気は、周囲の空間を歪ませる。
紅い闘気は、炎のように揺らめきながら、それと重なる。
「本当に久しぶりね。『あなた』のこと、すっかり忘れていたわ」
「――――」
「もう一度あなたに会えるなんて思ってもみなかったしね、元・『妖怪生まれの退魔道士』さん? 前に会ったのはいつだったかしら」
「知らないな。時間など意味はない。あるのは貴様の所業だけだ」
「あら、怒っているの?」
くすり、と。
ほんのかすかに笑った。
「まあ、無理もないのかしらね? あなたにした事を考えれば」
「――――」
「そんなに嫌だった? 門番の仕事は?」
「――――」
「怖い目ね。お好きな妖怪殺しを、24時間年中無休、盆も正月も土日も平日も無くずっとできたというのに不満なの?」
「ふ、巫山戯るな!!」
裂帛の気合が、紅い夜を切り裂いた。
「私の記憶を封印し、私のあり方を変え、私の生き方を変えておいて何をいけしゃあしゃあと!」
「そうね、私を倒しに来たあなたを籠絡し、道士という『天職』を『転職』させたのは私だったわね。でも、悪いとは思っていないわよ?」
「――――戯言を。言葉は不要なようだな」
「ふふ」
目を細め、幼子の戯れを咎めるようにレミリアは笑った。
「無駄よ。私が操るのは『運命』。それを打ち破ることは、あなたに出来ない」
「枷なくば貴様に負けることは決してない。今度こそ滅ぼしてくれる」
「ここは紅魔館。わたしの法(ロウ)が支配する世界。あなたはすでにその内に囚われている」
「我が『操氣』の概念を以て、貴様の『運命』を越えて見せる……!」
「どんな力であっても、どんな殺意であっても、ここでは無意味。その価値を変じてしまう」
「レミリア・スカーレット……!」
ギリ、っと歯をかみ締める音がした。
上空の、レミリアの余裕は崩れなかった。
「そう、あなたは私に縛られてる――」
その声はうたうように。
「思い出させてあげる、あなたは私の支配下にあるということを――」
呪文のように、絡みつく。
「逃げることは出来ない、既にあなたは認めてる――」
レミリアは、ゆっくりと指をさす。
「世界の理があなたを壊す――」
『紅 美鈴』は力を蓄えていた。
身中に氣が満ち、正中を通るチャクラが高速で回転をはじめる。
レミリアの言葉を無視して、意志を叩きつけた。
「積年の恨みをいまこそ晴らす……!」
紅い夜の中、紅い氣をまとわせ光と闇は対峙する。
床をはじけ壊し、『紅 美鈴』は突進した。
その速度は、どんなものであっても止められない。
いかなる防御も意味をなさないであろう、その攻撃を前に――
「中国……」
レミリアは笑っていた。
確信と余裕に満ちた瞳を持ち、泰然としてた。
紅い唇がゆっくり開き、
『死の言葉』を、そっと囁いた――――
――――あなたの給料、今月は抜きね。
「え――」
すぱん、と頭の中が切り替わった。
思考するために、疾走していた足は停止。
氣が極限まで込められた拳の力も霧散。
つるっとすべってダイレクトに地面へ突入。
冷や汗が、ぶわっと噴出し、
脳みそが、一拍おいて『言葉の意味』を悟った。
「つまり、只働きね――」
「ええええええええええええええええええ!???!??」
身を起こしつつ『中国』は声の限り絶叫した。
月夜の下、それは大きくこだまする。
『紅 美鈴』から『中国』へと一挙に変わる。
最優先事項が目の前に出現したのだ。
それ以外の事柄なんて星の彼方だ。
こちとら生活がかかってる。
叫び叫んだ。
ただ叫ぶ。
――そこにいるのは、もういつもの中国だった。
+++
「そ、そんな! 私、もう紅魔館の人全員からお金を借りてるんですよ!? この上、給料抜きなんかされたら本気で生きていけませんよぉ!!!」
全身の手足を使って主張した。
この身の窮状・ひっ迫状況をなんとか伝える。
必死というか、すがりつくようだった。
それを当たり前のように無視しながら、レミリアは心中こっそり「お金の力って、やっぱり偉大なのね」と呟いた。
そのショックは人格を交代させ、施した封印までをも再活性化させる。
『妖怪殺しの退魔道士』から『善良で不幸な門番娘』へと、ごく簡単にチェンジする。
身にこびりついた門番生活が、生命危機と同等のレベルで『中国』を叩き起こすのだろう。
『寝るなー、寝てたら死ぬぞー! マジで! あの目は本気で払わん気だ!!』と本能が叫び、全力で危機回避を行うのだ。
「大丈夫よ」
中国が先ほどから絶え間なくうるさいので、何の根拠も無く保証してみた。
「何がですか!」
「だって、お米がないのなら草を食べればいいじゃない」
「うわ! 傲慢な上にそこはかとなくリアルじゃないですか!?」
「あら、私はいつだって本気よ? 嘘なんて言わないわ」
「ひょっとして、私に死ねとおっしゃいますか?」
「あなたなら何とかなるわよ」
「その慰め、絶対に条件反射とかで言った言葉ですよね……」
涙がボタボタと流れる、中国はガマンするために空を見上げた。
だが、そうしても涙は溢れてしまう。
「うう、貧しさに完全敗北しそうです」
「安心なさい、実は既に負けてるから」
「雇用契約なんて嫌いです」
「そう? 私は大好き」
「それはお嬢様が搾取する側だからです……」
すんすんと鼻をすすりながら、恨みがましい目で雇用主を睨む。
すまし顔で軽く目を閉じていた。罪悪感等は一切なさそうだ。
「あれ?」
中国はふと疑問に思った。
「そういえば私って、どうしてここに来たんでしたっけ?」
「――――」
「?」
『中国』は、ふと気がつくとこの場にいた、前後の記憶は無かった。それはすっぽりと抜け落ちてた。
レミリアは一瞬だけ難しい顔をしたが、すぐに平静に戻り、当たり前の事のように告げた。
「それは、あなたが労働条件の改善を求めに来たからに決まってるじゃない」
「そうなんですか」
「そうなのよ」
「なら、なんで給料抜きの憂き目に会ってるんでしょう」
「見てご覧なさい」
「ん?」
そこには、倒れ伏している咲夜とチルノがいた。
「うわ、ど、どうしたんですか!!」
慌てて駆け寄った。
「安心なさい、傷は軽いわ」
「誰がこんな酷いことを……」
レミリアが意味ありげに中国を見ていた。
「――――ま、まさか?」
こっくりと頷く。
中国の顔から血の気がリットル単位で引いた。
「午後のお茶の最中、突然、乱入してきて『求ム昇給!』って叫びながら咲夜とチルノを殴り倒してたわよ、あなた」
「うぞ!?」
「ほんと」
怯え、後ろの壁まで後退した。
体を壁に張りつかせ、首を横に振っている様は、現実を認めたくない気持ちがあふれていた。
いつの間にか降りてきた館の主は、いつの間にか設置されていたテーブルに陣取り、いつも通り優雅に紅茶を飲んでいた。
その対比は、まさに怯える労働者と富める支配者層。
ベルリンの壁以上にそれは分厚く、越えられる日は永久に無さそうだった。
「ね」
紅茶を両手で抱え、無垢な少女のような笑顔を浮かべながら悪魔はささやく。
「無かったことに、してあげましょうか?」
「は、はひ?」
「だから、貴女が2人にしたこと、今のうちにちょっと記憶操作して、無かったことにしましょうか?」
「で、できるんですか、そんなこと!?」
「できるわよ、でも――」
「…………」
片手にはカップ、もう片方の手には『新たな契約書』が掲げられていた。
そうして欲しければ、ここにサイン。そういうことなのだろう。
「ひん……」
内容がどんなものであれ、中国に否の選択肢はない。
だって、命が大切だ。
メイド長を敵に回して生き残れると思えるほど、中国は楽観的ではない。
――こうして、何回目かも分からない契約は、無事に更新された。
+++
ぐしぐしと中国が裾で涙を拭いていた。
あふれる涙は止まることを知らない。
どん底は、どんどんとシャベルカーで深くされていた。
これ以上はないと思っていても、その更に底を作ってくれるのだ、この主は。
心の中だけで「やっぱり根暗なんだ、引きこもりなんだ、守銭奴なんだ」と呟きながら、扉を出ようとした。
「ねえ……」
ふと、レミリアは問いかけた。
「なんですか」
振り向かないまま、中国は返事した。
ちょっとドキッとする。
「あなた、いま幸せ?」
「こげな辛い状況にした張本人が何いっとるとですか」
間髪入れずに言葉を返す。なぜか微妙になまっていた。
半眼の、うらみがましい目でレミリアを見てた。
「なんだってこんなに給料が安いんですか、もうちょっと待遇が良くてもいいんじゃないかなあ、と思う事ひとしおですよ」
「ふうん」
レミリアはそれだけを言って紅茶を飲んだ。
しばらくの間、静寂が満ちる。
「…………………………………………………でも」
「ん?」
かなりの時間をおいて、躊躇しながら中国は答えた。
頬を染めて言うセリフは、本当は控えめな言葉であることを示していた。
「――そんなに嫌な生活とは、実は思ってないかも、です」
「そう」
レミリアは目を再び軽く閉じた。
「『天職』と言ったって、その本人が幸せになれるとは限らないのよね……」
「ん? なんの話ですか?」
「いえ、何でもないわ」
「はあ」
「貴女が紅魔館に必要な人材だって話よ」
――扉は閉じ、物語も閉じる。
何とびっくり意外なオリジナル設定を交えた展開、そしてこちらはどこまでも予想通りなオチ。
わくわくしながら読み進め、ほっとさせる終わりでした。
>作者の興味のおもむくままギャグに行ったかと思えばシリアスへ、シリアスに行ったかと思えばギャグへと走る~
その急カーブが良い刺激となって最後までしっかりと私の目を誘導してくれました。
それでは作者様の復活を願って。
ささやき いのり えいしょう ねんじろ!
――――Barragejunkyははいになりました
執拗なまでに中国中国と書き立てていた事に、
こんな裏の意味があったものとは露とも思いませんで。
実に読み応えの緩急幅広く、此処には寄り道の享楽を感じました。
と、此の素晴らしさに触れて血生臭い灰と化し、
カントに縋る路銀も無い自分めは、
さらさら風に流されて広がっていく我が身に蘇生の呪文をかけるとします。
ディ。
ロストしまs(墓
いきなりシリアスになったかと思ったら、たったの一言で元通りに・・・。
とりあえず、予想もつかない結末でした。
面白かったです。
それにしても面白かったです。
>shinsokku殿
・・ディは灰に使えませんよ。
という訳で灰となった皆様の為に。
マハマン!
>ししゃをいきかえらせる。
最初から最後まですばらしいテンションでした。
完結、お疲れ様でした。
法って雇用契約かい! しかしこれはこれで恐ろしい法だ。
シリアスとギャグの転回のさせ方が凄いです。中国と共に、いいように作者さんに振り回されました。
特にレミリアの『給料抜き』のくだり。その急なカーブには、「ぅえっ?」って感じに遠心力で窓から車外に吹っ飛ばされたみたいです(何だそれ)。
ともあれ、中国(?)SSの完結、お疲れ様です。
いや、2つの桁外れな急カーブにマジ参りました。いい意味で。
単純に、面白いです!
しかし退魔道士の頃は幸せではなかったんだろうか?と疑問が残る