昔、幻想郷に文明なるものがやってきたことがあった。外界との境界線が曖昧になった
時期のことであった。
水道やガスや電気が通っていない、あからさまに辺境の地に対して世間は驚いた。
無理もない話ではある。
大人とも呼べる人間が殆ど居らず、自給自足で生活する少女らの家屋がぽつんと存在す
るだけの集落しか発見できなかったのだ。自給自足で生を繋ぐという様式は文明と程遠い
ものだったし、また便利な物に囲まれた現代からすれば文明の貢献なしに生きることは即
ち苦痛という概念があった。悲惨なその生活ぶりに世間は動揺を隠せないようであった。
それゆえ早く現代の水準に適した暮らしを提供することが義務だとも感じていたようだ。
特に身寄りのない博麗霊夢や霧雨魔理沙はその筆頭とされる少女達だった。仲のよかった
二人は配慮されてか、ある町の同学区内にそれぞれ養子として引き取られた。
勿論二人としてはなんか外の世界も楽しそうだ、と思ってただ流れに任せていただけだ
ったのだが。
「行ってくるぜ」
決められた時刻の決められた時間内に食事を済ませ、そう言って玄関へと続く廊下へ出る。
艶のある長いブロンドの髪の毛は片方だけ結ってある。両方結う時間がないということに
しておく。
「いってらっしゃい。帰りは何時くらいになりそう?」
食事の手を止めて養母が尋ねる。
「不明だ。多分今日中には帰る」
「そう。いってらっしゃい」
養母はそう言って微笑みかける。その笑みに手を上げて答えて、そのまま挨拶にして玄関
に向かう。どうやら町にも四季があるらしく、冬は冬らしく寒い。手に持つ鞄も冷たい。
玄関の戸を開けると霊夢が道に立っている。
「おはよう」
「おう、はよう」
手を上げてこたえる。いつもこの時間帯に待ち合わせすることにしている。
「今日も寒い。時間ぴったりだ。お前の制服は似合わない」
ここに着て驚いたのはまず教育というシステムであり、着てくる服が指定されているとい
うことであり、大多数がそれに従っているということであり、それが普通ということだっ
た。
「言いたいことは一つずつ言ってよね」
喋りながら二人とも歩を進める。制服を指定した学校に向かって。
「特に言いたいことは無いぜ」
「本当に?」
「今日も遊びにいっていいか?」
「どうせ駄目って言っても来るんでしょ」
あながち今朝養母への返答も間違っていない。ちょくちょく霊夢の居る家に遊びに行くこ
とがある。
霊夢の家は発見された当時神社に住んでいたこともあって、町内にある神社の爺さんに
引き取られた。その爺さん曰く、霊夢は霊験高いそうだ、当たり前な話ではある。その神
社は博麗神社と違って妖怪が遊びに来ることも無ければ、賽銭箱が年中空ということもな
い。いたって普通の神社であった。
冬だけあって見かける人間も防寒と思われる服装をしている。黒いコートを羽織った中
年の男性、マフラーを巻いた若い女性、手袋をした同じような同じ学校の生徒。
「そういえば、魔女帽子被ってないわね」
「おふくろさんに止められた」
「目立つものね、あれ」
霊夢は苦笑する。初登校日に帽子を被っていって、初下校時には被らなかった。もとより
校則違反だったのだが。
「いいじゃないかよー。違反の一つや二つくらい、幻想郷じゃあ日常茶飯事だったぜ」
「嫌な日常茶飯事ね」
帽子を被って自己紹介する魔理沙を見た生徒たるや、唖然とするもの、笑い出すもの、無
意味に怖がるもの、各人様々な反応を返してくれたのだった。その衝撃的な自己紹介のお
かげで魔理沙は一瞬で名前を覚えられ、すぐに馴染んでいくことになった。
「ところで幻想郷はどうなったんだ?」
「紫が境界を修復したみたいね。多分元通りになったんじゃないかしら」
「だろうな。まあ人間があいつらと遊ぶにはあと千年分くらい進化してくれなきゃな」
「そのころには人間じゃなくなってるわ」
肌にしみる寒さの中、喋りながらぼちぼちと進む。だんだん学校に近づくにつれて、同じ
格好をした生徒が多くなってくる。校門までくるともう人だかりである。こんな時箒で飛
べたらさぞかし気持ちいいだろうと思いつつ校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替える。
「それじゃ楽しい宴の準備をよろしく」
「善処するわ」
そう言って手を振り別れる。
午後の授業中はこれといってすることがない。午前の授業中は今日の給食を楽しみにす
るという楽しみもあるのだが。魔理沙や霊夢はもともと頭が悪くはない、というかかなり
いい。飲み込みも早いし応用力もあるということで、授業中は本を読んでいるか他人と喋
っているかのどちらかである。入った当初は騒がれて色々聞かれたり喋ったりしたものだ
が、今ではすっかり雰囲気に溶け込んでいるのかどうかは分からないが特にわいわい話し
かけられることはなくなった。多分興味がなくなったからだ。霊夢にしても同様らしいし、
これが馴染むってことなのかと思う。
引き取ってくれた養父母もそこのあたりは気遣ってくれていて、なるべく早く慣れるよ
うにとTVの取材も拒否したそうだし、実に親切にしてくれる。今の私の制服だってそうだ。
私のために制服のスカート丈などを夜なべして直してくれている養母の姿を思うと、少し
胸が切なくなる。既に知っていたことだが、人間は情にもろいものだと思った。これは人
間界で学んだ重要なことの一つである。戻ったらアリスや中国に実践してみようと画策し
ている。勿論彼女たちは人間ではないのだが。
「あのー、霧雨さん」
「あー?」
本を読みつつ考え事をしていたらいつの間にか目の前に眼鏡の男子生徒が立っている。い
つの間にか授業が終わり放課後になっていたようだ。
「何か用かね」
「えーと・・・図書委員だったよね?」
そういえば、そういう役を押し付けられた気がする。本は好きだし、さっくり持って帰ろ
うと思って立候補したが、なってみて後悔した。本を読む暇などなく、面白くもない本の
整頓や返却の作業ばっかりだったのだ。
「そういう気がしなくもない」
ちょっと内気そうな男子生徒は弱気な声で言う。
「ちゃんと委員の仕事してくれないと困るんだ。代わりに僕が怒られるし」
「婦女子を守るのは男子たるものの務めってどこかに書いてあったぞ」
「話はぐらかさないでよー。ちゃんと出てよー?」
「善処するぜ」
「本当にー?」
相手の生徒はなにやら疑い深いし、怒りっぽい。返事をはぐらかすほどに頭にきているみ
たいだ。職務に忠実なのはいいけど妖夢くらい忠実なのもどうかと思う。
「怒りっぽいな。本当に給食食ったのか?」
「だからー話をはぐらかさない」
まあ委員の仕事を放棄して図書室の片隅で本を読めば問題ないだろう。そう思って魔理沙
は席を立った。
「じゃあ行こうか。で、場所どこだ」
その図書委員Aに連れられて図書室へ向かう。廊下の窓から見える運動場には、部活動
に励む生徒の姿が見えた。校内の教室にもちらほらと人が見える。もしこれほどの人間が
幻想郷に居たら妖怪達はさぞ喜んだに違いない。毎日人間が選り取りみどりだし、私のよ
うにある程度弾幕処理ができるわけでもない。階段を何階分か上ったところで目の前に見
るからに大きな部屋の前に着く。
「じゃあ霧雨さんは棚の整理をお願いするよ」
図書室に入って言うなり委員Aは貸し出し窓口に入っていってしまった。それを確認して
から奥の本棚の近くの机に座り、持ってきた本を開く。図書館の雑多な本の香りにまじっ
て魔道書の匂いが広がる。年季ものの本の匂いというものはとても心地よい。重く、心と
頭に響いてくるようだ。ページをめくるたびに私の知らないことが書いてあり、私の知識
が高みに上っていくのを感じる。また読み出すと止まらないので授業が終わっても気づか
ないことが多々ある。
「霧雨さん」
「どうした委員A」
「なんでそういう呼び方するかな」
「名前を知らないからってことはないぜ」
ページをめくりつつ答える。別に知りたくもないってわけでもないぜ。
「まあいいけど」
Aはちょっとむすっとしたが、すぐに表情を変えて聞いてきた。
「で、何読んでるの?」
怒っているというよりかは、興味から聞いてきたようである。確かにこの本は珍しい。と
いうよりか現代に現存しているかどうかも定かでない。
「魔道書だぜ」
「へー」
ちょっと感心したのか、疑っているのか顔を本に向けている私にはよく分からないが、ど
うやら文句を言われずに済むようだった。読書中に話されて少し気が抜けたのもあって、
きまぐれに言ってみた。
「見るか?」
「見る」
即答であった。やはり魔法・魔道などの響きに憧れるものがあるのだろうか。私から手渡
された本のページをぺらぺらめくっては難しい顔をしている。勿論分かるわけがないのだ
ろうけども。
「分かるか?」
「全然」
予想通りの返答とともに本を受け取る。魔道書と名を持つ本だけあって、書いてある文字
もまず見慣れない文字だし、場合によっては簡単な封印や暗号化されているページもある。
読めたら逆に驚きである。
「霧雨さんは分かるの?」
「読んだ部分はな」
当然読んでいない部分は分からない。勿論解けなかった封印や暗号化されたところも。
「へー、すごいねー」
「そりゃどうも。こう見えても本はすきなもんで」
ぱっと見普通に感心しているようであった。まあ見せたからといってどうこうなるわけで
もないし。逆になんか私を見る目が少し変わった気がするな。
「いつも持ち歩いているから気になったんだ。どこで買ったの?」
「こりゃ借り物だ。古い知人からな」
実際パチュリーから半強制的に借りてきた本だ。借りに行くときもでかい城みたいなお屋
敷の門番の目を盗んで・・・。そういえばなんて名前だったかな、あの門番。
「僕もいつか読めるようになるかな?」
「千年後だな。早くて500年」
「そのときには多分死んでるよー」
「それじゃ帰るぜ。呼びにきたってことは終わったってことだろ?」
言って席を立つ。足早に図書室を出て廊下を走り階段を下り、靴を履き替え校門を出て、
霊夢の済む神社に向かう。楽しい宴が待っているはずだ。
「一応善処したわ」
「それで結果がこれか」
神社の側にある社主のじいさんの家の居間に二人、ないよりはましな古い炬燵を挟んで座
っている。炬燵に向かい合う形でTVも置いてある。そして炬燵の上に並べられているのは
ジュース類と煎餅等の菓子。
「残念ながら今宵も酒にはありつけないらしいぜ。しかもつまみはまた煎餅だし」
至極残念だ・・・今宵もこの甘ったるい清涼飲料と香ばしい煎餅で過ごすのか。
「善処したけど売ってくれないのよ」
困った顔で霊夢が言う。多分善処したというくらいだからそれなりにやったのだろう。霊
夢のそれなりがどれくらいかは分からないが。
「仕方ないからおじいさんの隠していたお酒で始めましょう」
霊夢が隅に置いてある酒瓶を持ってきて炬燵の上に置く。それを見てほころぶ私の顔。用
意がいいというのはこういうのを言うのだろう。
「久々に楽しい夜になりそうだぜ」
「たまには家に早く帰りなさいよ」
霊夢がコップに酒を注ぎながら言う。
「あー、前向きに検討する。とりあえず飲もうぜ」
私もコップに酒を注ぎながら答える。そして一気に飲み干す。あとから来る喉と食道が熱
くなるこの感覚。一気に血液が集中して無意味にハイテンションにしてくれる。
「かーっ、これだ、これ!私が求めていたのは!」
「親父くさいわよ」
「ごもっともで」
言いながら霊夢もうれしそうな顔をして飲んでいる。やっぱり酒がないと盛り上がりに欠
ける一面がある。この夜の闇を恐れない現代、弾幕遊びできる妖怪も居ないし。
楽しい宴は酒が切れてしまって終了の運びとなった。酔い覚ましに夜の境内をうろつく
ことに決めて、二人で外に出た。
「あー、気持ちいいぜ」
石段を二人してふらつきながら上る。お酒で火照った体をひんやりとした冷気が包んでと
ても心地いい。
「やっぱり冬は冷えるわね」
そう言っているが霊夢も心地よさそうに見える。
「空飛んだらさらに心地よいだろうな」
「逆に寒いわよ、きっと」
石段を上りきって神社の境内にたどり着く。人工の光が何処にでも灯っている町中に比べ
ると明らかに暗い。懐かしい暗さであり、月の光こそがこの暗さの為の明かりなのだ。
「何か懐かしいわね」
境内を見回して霊夢が言う。多分博麗神社のことを思い出しているのだろう。思えば幻想
郷を出て大分経った気もするし、でもついこの間までそこに居た気もする。
「こうも妖怪が居ないと私の魔砲の腕も鈍っちまうぜ」
「いいじゃない、平和で」
霊夢は賽銭箱に腰掛けて月を見ている。
「これが普通ってやつなのか」
私も月を見上げる。排気ガスやほこりでくすんだ空のせいか、月も本来の輝きではない気
がする。いつの間にか火照りはさめ、時折吹く風がとても寒い。
「そうよ、もうここでは」
月を見上げたまま霊夢は言った。少し間をおいて、物寂しそうに。
「弾幕ごっこなんてしなくていいの」
その夜は結局日付が変わってからの帰宅となり、養母から少しばかりお説教を受けるこ
とになった。しかし説教を受けている最中も霊夢の言った言葉が耳から離れなかった。確
かにこの世界は平和で、闇も常時人工の光に照らされている。弾幕で攻撃してくる妖怪や
幽霊も居ないし、まして今の人間はそんなことができない。ただ問題なのはあいつがああ
いう事を言ったという事実なのだ。ああいうことを言う奴じゃなかったはずだが・・・。
「霊夢、お前なんか病気か」
「健康そのものよ」
次の週始まりの朝思い切って聞いてみたが、一言で返されてしまった。きりっと歩く霊夢
の姿には弾幕にかすった跡は見えないし、肺の病気のようにも見えない。
「なら今日も」
「帰宅を前向きに検討するんでしょ?それに今日は私部活だから遊べないわ」
言いかけたところで鋭い突っ込みにさえぎられてしまった。それよりも霊夢が部活に入っ
ていたなんて初耳だ。多分あいつが入るのは裁縫部とか百人一首部に違いない。そうは思
っても聞きたくなるのが人情だ、隣を歩く霊夢を横目に聞いてみた。
「で、どこの部だ?」
からかうつもりだったのだが、返ってきたのは意外な部の名前だった。
「バスケットボール部よ」
「ああ」
想像して納得した。
「お前空飛べるしな」
「飛ばないわよ」
明らかに阻止しようのないダンクシュートを想像するとすこし愉快な気分になれる。実際
そんなことをしたらゲームとして全くつまらないのだが。苦笑いする霊夢と話しつつ学校
へ歩を進めて行く。そして校門をくぐり、いつもどおり靴箱で履き替えたらさよならだ。
手を振り別れ、それぞれ教室へ歩き出す。
「あ、そうそう」
3歩進まないうちに霊夢が振り返る。
「明日から大会に向けての朝練に出るから、一緒には行けないわ」
「あー、分かったぜ」
「それじゃ」
今度はお互いに振り返らずに教室へ向かう。霊夢が居ない朝は寂しいが、会えないわけで
もないし、大会ってやつが終わればまた一緒に通えるのだろう。そう思って席に座り
退屈な授業の開始ベルを待つのだった。
放課後になると魔理沙は図書室の奥の書棚の近くの席を陣取り、持ってきた本を読み耽ることにした。午
前中担任に怒られている委員Aを見てしまったせいもあって、一応は図書室には居ることに
決めたのだった。冬だけあって午後5時ごろには既に空は赤い。強い西日で本が傷まないように窓の
ブラインドは閉められている。机に座って本を読んでいたから気づかなかったが、ブライ
ンドを委員Aが下ろして回っているようである。相変わらず職務に忠実な奴だ。息抜きに
立ち上がってブラインドを上げて窓を開放し風にあたる。暖房の聞いた部屋に冷たい空気
が流れ込む。目下に見える運動場からは部活動に勤しむ生徒の姿や声が確認できる。
彼らにとっては退屈な授業を受けて、友達と遊び、部活動に励むことが日常なのだ。そ
れ自体が悪いとはいえないし、私としてもそこまで楽しくなかったというわけではない。
ただ言うなら、彼らの常識は私たちの非常識であり、彼らの非日常が私たちの日常なのだ。
本人たちも分かってはいないのだろうけど、かれらは日常から必死で非日常を見出そうと
して色々なことをするのだ。部活をしたり、委員会の役員になったりと。それもいつしか
日常化されていくだろう。だから彼らはさらに日常化されにくい非日常を見つけようとし
て、新しい物質の発見をし、発明品を作り、月にロケットを飛ばすのだ。
「そろそろ幻想郷に帰るかな」
「幻想郷って何処?」
「居たのか、A」
「終わったから呼びにきたんだよ。あー、勝手に窓開けてるしー」
「もう閉めてかまわないぜ」
そう言うと、委員Aは窓を閉めてブラインドを元のように下ろした。私も席に戻って本を
鞄にしまう。Aは下ろし終わると、聞きなれない単語に興味が沸いたようで聞いてきた。
「幻想郷って何処にあるの?」
「さあな」
興味が沸いたことにはとことん知りたいタイプなのか、曖昧な返事にもかかわらず質問を
続けてくる。
「幻想郷って昔住んでいたところ?」
「今も住んでいないことはないぜ」
「どんなところなの?」
「そうだな」
そう言って幻想郷を思い浮かべようとした。思い浮かべようとしたその瞬間、鋭利な衝撃
と激しい戦慄が体を走った。そしてすぐに魔理沙にしては珍しく、ありえない事態に私の
頭が狂ってしまったに違いないと恐怖した。それもそのはずだった。思い浮かばなかった
のだ、住んでいた妖怪もそいつらの名前も顔も得意な弾幕も。まるで最初から幻想郷なん
てものはなく、この世界の一員として育てられていたかのように。浮かぶのは幻想郷に私
が住んでいたという今となってはおぼろげな記憶であり、なるべく早くそこに帰らなくて
はならないというあせりであった。
「よくわからんところだ」
今できる最高の返答と魔理沙は思った。たぶん、普通という狂気に当てられて少し記憶が
あいまいになってしまったのだ、と魔理沙は解釈して、このことについてはあまり考えな
いように決めた。
「それじゃあ、帰るぜ」
挨拶を済すませ、早々と図書室を去る。妙な危機感を胸にしまったまま、できるだけ早く
家に帰ろうと小走りで帰った。家に着いても絡みつく嫌な予感は拭えなかったが、夕食で
養父母と談笑していると少しは楽になった気がした。これは早く霊夢に相談した方がいい
と思い、明日あたりに会おうと決めて、早く眠ろうと努力するのだった。
結局睡眠不足のまま夜が明けた。今日は霊夢になんとしても会わなくてはならない。朝
食もそこそこに、そそくさと家を出て学校へ向かう。多分バスケットボールだから体育館
にでも居るのだろう。そう思い校門をくぐった後、校舎に比例して大き目の体育館の扉を
押し開いた。
体育館の中の空気は冷たかったが、目の前の部員たちは全く気にしない様子で必死に練
習していた。フリースロー、ドリブル、ブロックなどそれぞれパートに分かれてローテー
ションで練習しているようだった。その中の一員に見慣れたポニーテールを見かけた。こ
っちに気づけと念を送りつつ手を振ると、通じたのかこちらに気づく。激しく胸が上下し
ている様子からして、私が来る前よりもさらに早くにきて練習していたと見える。霊夢は
何やら上級生らしき人物と二言ほど話した後に、こっちへ向かって走ってきた。見た目よ
りかなり汗をかいているようであった。
「何か急用かしら?あんまり時間取れないのよ、あのキャプテン厳しくて」
「そりゃ励みがいがあるな。単刀直入に言うが」
少し間をおいて尋ねる。心のどこかでまとわりつく嫌な靄を一掃してくれるように願いな
がら。
「そろそろ幻想郷に帰らないか」
だがまたこれもある程度心のどこかで予想していたことではあった。ただそれは起きて欲
しくなかった可能性ではあった。
「冗談は急用に入らないわ。妄想もいいけどちゃんと魔理沙も家に帰るのよ」
そう心配そうに言って霊夢は練習のローテーションの輪に戻っていった。
その日の授業はいつも通りいつの間にか終わっていた。そしていつも通り委員Aが呼び
に来て、いつも通り本を読んで過ごして、Aがそれを興味深そうに見て、いくつか質問を受
け答えを返す。その質問は既によく分からないことか、当たり前のことばかりだった。は
っきりしていることは、私は魔法が使えて幻想郷というところからここに来たって事だけ
だった。ただ幻想郷自体は思い出せずにいる。どんなところで、どんな奴がいて、どんな
風に生活していたのか。最近妖怪を見ないのもこれを加速させているのだろう。でもよく
考えれば妖怪なんて居るわけがないし、ひょっとしたらやはり霊夢の言うように私はもと
よりここに住んでいる魔法使いで、幻想郷というのは妄想なのだろうか。とにかく色々お
かしい。
考えが全然まとまらない上に矛盾し始めてきた。そう思い魔理沙は考えるのをやめるこ
とにした。
「霧雨さん聞いてる?」
「聞いてない」
「明日のドッチボール大会楽しみだね、って言ったの。なんかぼーっとしてるけど大丈夫?
もう委員の活動時間は終わったから帰ってもいいよ?」
「ああ、そいつは気づかなかったぜ」
そう言って席を立って図書室の出口に向かう。後ろで委員Aが何か言っていたが、聞こえ
なかったことにしてそのまま図書室を出た。
時期のことであった。
水道やガスや電気が通っていない、あからさまに辺境の地に対して世間は驚いた。
無理もない話ではある。
大人とも呼べる人間が殆ど居らず、自給自足で生活する少女らの家屋がぽつんと存在す
るだけの集落しか発見できなかったのだ。自給自足で生を繋ぐという様式は文明と程遠い
ものだったし、また便利な物に囲まれた現代からすれば文明の貢献なしに生きることは即
ち苦痛という概念があった。悲惨なその生活ぶりに世間は動揺を隠せないようであった。
それゆえ早く現代の水準に適した暮らしを提供することが義務だとも感じていたようだ。
特に身寄りのない博麗霊夢や霧雨魔理沙はその筆頭とされる少女達だった。仲のよかった
二人は配慮されてか、ある町の同学区内にそれぞれ養子として引き取られた。
勿論二人としてはなんか外の世界も楽しそうだ、と思ってただ流れに任せていただけだ
ったのだが。
「行ってくるぜ」
決められた時刻の決められた時間内に食事を済ませ、そう言って玄関へと続く廊下へ出る。
艶のある長いブロンドの髪の毛は片方だけ結ってある。両方結う時間がないということに
しておく。
「いってらっしゃい。帰りは何時くらいになりそう?」
食事の手を止めて養母が尋ねる。
「不明だ。多分今日中には帰る」
「そう。いってらっしゃい」
養母はそう言って微笑みかける。その笑みに手を上げて答えて、そのまま挨拶にして玄関
に向かう。どうやら町にも四季があるらしく、冬は冬らしく寒い。手に持つ鞄も冷たい。
玄関の戸を開けると霊夢が道に立っている。
「おはよう」
「おう、はよう」
手を上げてこたえる。いつもこの時間帯に待ち合わせすることにしている。
「今日も寒い。時間ぴったりだ。お前の制服は似合わない」
ここに着て驚いたのはまず教育というシステムであり、着てくる服が指定されているとい
うことであり、大多数がそれに従っているということであり、それが普通ということだっ
た。
「言いたいことは一つずつ言ってよね」
喋りながら二人とも歩を進める。制服を指定した学校に向かって。
「特に言いたいことは無いぜ」
「本当に?」
「今日も遊びにいっていいか?」
「どうせ駄目って言っても来るんでしょ」
あながち今朝養母への返答も間違っていない。ちょくちょく霊夢の居る家に遊びに行くこ
とがある。
霊夢の家は発見された当時神社に住んでいたこともあって、町内にある神社の爺さんに
引き取られた。その爺さん曰く、霊夢は霊験高いそうだ、当たり前な話ではある。その神
社は博麗神社と違って妖怪が遊びに来ることも無ければ、賽銭箱が年中空ということもな
い。いたって普通の神社であった。
冬だけあって見かける人間も防寒と思われる服装をしている。黒いコートを羽織った中
年の男性、マフラーを巻いた若い女性、手袋をした同じような同じ学校の生徒。
「そういえば、魔女帽子被ってないわね」
「おふくろさんに止められた」
「目立つものね、あれ」
霊夢は苦笑する。初登校日に帽子を被っていって、初下校時には被らなかった。もとより
校則違反だったのだが。
「いいじゃないかよー。違反の一つや二つくらい、幻想郷じゃあ日常茶飯事だったぜ」
「嫌な日常茶飯事ね」
帽子を被って自己紹介する魔理沙を見た生徒たるや、唖然とするもの、笑い出すもの、無
意味に怖がるもの、各人様々な反応を返してくれたのだった。その衝撃的な自己紹介のお
かげで魔理沙は一瞬で名前を覚えられ、すぐに馴染んでいくことになった。
「ところで幻想郷はどうなったんだ?」
「紫が境界を修復したみたいね。多分元通りになったんじゃないかしら」
「だろうな。まあ人間があいつらと遊ぶにはあと千年分くらい進化してくれなきゃな」
「そのころには人間じゃなくなってるわ」
肌にしみる寒さの中、喋りながらぼちぼちと進む。だんだん学校に近づくにつれて、同じ
格好をした生徒が多くなってくる。校門までくるともう人だかりである。こんな時箒で飛
べたらさぞかし気持ちいいだろうと思いつつ校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替える。
「それじゃ楽しい宴の準備をよろしく」
「善処するわ」
そう言って手を振り別れる。
午後の授業中はこれといってすることがない。午前の授業中は今日の給食を楽しみにす
るという楽しみもあるのだが。魔理沙や霊夢はもともと頭が悪くはない、というかかなり
いい。飲み込みも早いし応用力もあるということで、授業中は本を読んでいるか他人と喋
っているかのどちらかである。入った当初は騒がれて色々聞かれたり喋ったりしたものだ
が、今ではすっかり雰囲気に溶け込んでいるのかどうかは分からないが特にわいわい話し
かけられることはなくなった。多分興味がなくなったからだ。霊夢にしても同様らしいし、
これが馴染むってことなのかと思う。
引き取ってくれた養父母もそこのあたりは気遣ってくれていて、なるべく早く慣れるよ
うにとTVの取材も拒否したそうだし、実に親切にしてくれる。今の私の制服だってそうだ。
私のために制服のスカート丈などを夜なべして直してくれている養母の姿を思うと、少し
胸が切なくなる。既に知っていたことだが、人間は情にもろいものだと思った。これは人
間界で学んだ重要なことの一つである。戻ったらアリスや中国に実践してみようと画策し
ている。勿論彼女たちは人間ではないのだが。
「あのー、霧雨さん」
「あー?」
本を読みつつ考え事をしていたらいつの間にか目の前に眼鏡の男子生徒が立っている。い
つの間にか授業が終わり放課後になっていたようだ。
「何か用かね」
「えーと・・・図書委員だったよね?」
そういえば、そういう役を押し付けられた気がする。本は好きだし、さっくり持って帰ろ
うと思って立候補したが、なってみて後悔した。本を読む暇などなく、面白くもない本の
整頓や返却の作業ばっかりだったのだ。
「そういう気がしなくもない」
ちょっと内気そうな男子生徒は弱気な声で言う。
「ちゃんと委員の仕事してくれないと困るんだ。代わりに僕が怒られるし」
「婦女子を守るのは男子たるものの務めってどこかに書いてあったぞ」
「話はぐらかさないでよー。ちゃんと出てよー?」
「善処するぜ」
「本当にー?」
相手の生徒はなにやら疑い深いし、怒りっぽい。返事をはぐらかすほどに頭にきているみ
たいだ。職務に忠実なのはいいけど妖夢くらい忠実なのもどうかと思う。
「怒りっぽいな。本当に給食食ったのか?」
「だからー話をはぐらかさない」
まあ委員の仕事を放棄して図書室の片隅で本を読めば問題ないだろう。そう思って魔理沙
は席を立った。
「じゃあ行こうか。で、場所どこだ」
その図書委員Aに連れられて図書室へ向かう。廊下の窓から見える運動場には、部活動
に励む生徒の姿が見えた。校内の教室にもちらほらと人が見える。もしこれほどの人間が
幻想郷に居たら妖怪達はさぞ喜んだに違いない。毎日人間が選り取りみどりだし、私のよ
うにある程度弾幕処理ができるわけでもない。階段を何階分か上ったところで目の前に見
るからに大きな部屋の前に着く。
「じゃあ霧雨さんは棚の整理をお願いするよ」
図書室に入って言うなり委員Aは貸し出し窓口に入っていってしまった。それを確認して
から奥の本棚の近くの机に座り、持ってきた本を開く。図書館の雑多な本の香りにまじっ
て魔道書の匂いが広がる。年季ものの本の匂いというものはとても心地よい。重く、心と
頭に響いてくるようだ。ページをめくるたびに私の知らないことが書いてあり、私の知識
が高みに上っていくのを感じる。また読み出すと止まらないので授業が終わっても気づか
ないことが多々ある。
「霧雨さん」
「どうした委員A」
「なんでそういう呼び方するかな」
「名前を知らないからってことはないぜ」
ページをめくりつつ答える。別に知りたくもないってわけでもないぜ。
「まあいいけど」
Aはちょっとむすっとしたが、すぐに表情を変えて聞いてきた。
「で、何読んでるの?」
怒っているというよりかは、興味から聞いてきたようである。確かにこの本は珍しい。と
いうよりか現代に現存しているかどうかも定かでない。
「魔道書だぜ」
「へー」
ちょっと感心したのか、疑っているのか顔を本に向けている私にはよく分からないが、ど
うやら文句を言われずに済むようだった。読書中に話されて少し気が抜けたのもあって、
きまぐれに言ってみた。
「見るか?」
「見る」
即答であった。やはり魔法・魔道などの響きに憧れるものがあるのだろうか。私から手渡
された本のページをぺらぺらめくっては難しい顔をしている。勿論分かるわけがないのだ
ろうけども。
「分かるか?」
「全然」
予想通りの返答とともに本を受け取る。魔道書と名を持つ本だけあって、書いてある文字
もまず見慣れない文字だし、場合によっては簡単な封印や暗号化されているページもある。
読めたら逆に驚きである。
「霧雨さんは分かるの?」
「読んだ部分はな」
当然読んでいない部分は分からない。勿論解けなかった封印や暗号化されたところも。
「へー、すごいねー」
「そりゃどうも。こう見えても本はすきなもんで」
ぱっと見普通に感心しているようであった。まあ見せたからといってどうこうなるわけで
もないし。逆になんか私を見る目が少し変わった気がするな。
「いつも持ち歩いているから気になったんだ。どこで買ったの?」
「こりゃ借り物だ。古い知人からな」
実際パチュリーから半強制的に借りてきた本だ。借りに行くときもでかい城みたいなお屋
敷の門番の目を盗んで・・・。そういえばなんて名前だったかな、あの門番。
「僕もいつか読めるようになるかな?」
「千年後だな。早くて500年」
「そのときには多分死んでるよー」
「それじゃ帰るぜ。呼びにきたってことは終わったってことだろ?」
言って席を立つ。足早に図書室を出て廊下を走り階段を下り、靴を履き替え校門を出て、
霊夢の済む神社に向かう。楽しい宴が待っているはずだ。
「一応善処したわ」
「それで結果がこれか」
神社の側にある社主のじいさんの家の居間に二人、ないよりはましな古い炬燵を挟んで座
っている。炬燵に向かい合う形でTVも置いてある。そして炬燵の上に並べられているのは
ジュース類と煎餅等の菓子。
「残念ながら今宵も酒にはありつけないらしいぜ。しかもつまみはまた煎餅だし」
至極残念だ・・・今宵もこの甘ったるい清涼飲料と香ばしい煎餅で過ごすのか。
「善処したけど売ってくれないのよ」
困った顔で霊夢が言う。多分善処したというくらいだからそれなりにやったのだろう。霊
夢のそれなりがどれくらいかは分からないが。
「仕方ないからおじいさんの隠していたお酒で始めましょう」
霊夢が隅に置いてある酒瓶を持ってきて炬燵の上に置く。それを見てほころぶ私の顔。用
意がいいというのはこういうのを言うのだろう。
「久々に楽しい夜になりそうだぜ」
「たまには家に早く帰りなさいよ」
霊夢がコップに酒を注ぎながら言う。
「あー、前向きに検討する。とりあえず飲もうぜ」
私もコップに酒を注ぎながら答える。そして一気に飲み干す。あとから来る喉と食道が熱
くなるこの感覚。一気に血液が集中して無意味にハイテンションにしてくれる。
「かーっ、これだ、これ!私が求めていたのは!」
「親父くさいわよ」
「ごもっともで」
言いながら霊夢もうれしそうな顔をして飲んでいる。やっぱり酒がないと盛り上がりに欠
ける一面がある。この夜の闇を恐れない現代、弾幕遊びできる妖怪も居ないし。
楽しい宴は酒が切れてしまって終了の運びとなった。酔い覚ましに夜の境内をうろつく
ことに決めて、二人で外に出た。
「あー、気持ちいいぜ」
石段を二人してふらつきながら上る。お酒で火照った体をひんやりとした冷気が包んでと
ても心地いい。
「やっぱり冬は冷えるわね」
そう言っているが霊夢も心地よさそうに見える。
「空飛んだらさらに心地よいだろうな」
「逆に寒いわよ、きっと」
石段を上りきって神社の境内にたどり着く。人工の光が何処にでも灯っている町中に比べ
ると明らかに暗い。懐かしい暗さであり、月の光こそがこの暗さの為の明かりなのだ。
「何か懐かしいわね」
境内を見回して霊夢が言う。多分博麗神社のことを思い出しているのだろう。思えば幻想
郷を出て大分経った気もするし、でもついこの間までそこに居た気もする。
「こうも妖怪が居ないと私の魔砲の腕も鈍っちまうぜ」
「いいじゃない、平和で」
霊夢は賽銭箱に腰掛けて月を見ている。
「これが普通ってやつなのか」
私も月を見上げる。排気ガスやほこりでくすんだ空のせいか、月も本来の輝きではない気
がする。いつの間にか火照りはさめ、時折吹く風がとても寒い。
「そうよ、もうここでは」
月を見上げたまま霊夢は言った。少し間をおいて、物寂しそうに。
「弾幕ごっこなんてしなくていいの」
その夜は結局日付が変わってからの帰宅となり、養母から少しばかりお説教を受けるこ
とになった。しかし説教を受けている最中も霊夢の言った言葉が耳から離れなかった。確
かにこの世界は平和で、闇も常時人工の光に照らされている。弾幕で攻撃してくる妖怪や
幽霊も居ないし、まして今の人間はそんなことができない。ただ問題なのはあいつがああ
いう事を言ったという事実なのだ。ああいうことを言う奴じゃなかったはずだが・・・。
「霊夢、お前なんか病気か」
「健康そのものよ」
次の週始まりの朝思い切って聞いてみたが、一言で返されてしまった。きりっと歩く霊夢
の姿には弾幕にかすった跡は見えないし、肺の病気のようにも見えない。
「なら今日も」
「帰宅を前向きに検討するんでしょ?それに今日は私部活だから遊べないわ」
言いかけたところで鋭い突っ込みにさえぎられてしまった。それよりも霊夢が部活に入っ
ていたなんて初耳だ。多分あいつが入るのは裁縫部とか百人一首部に違いない。そうは思
っても聞きたくなるのが人情だ、隣を歩く霊夢を横目に聞いてみた。
「で、どこの部だ?」
からかうつもりだったのだが、返ってきたのは意外な部の名前だった。
「バスケットボール部よ」
「ああ」
想像して納得した。
「お前空飛べるしな」
「飛ばないわよ」
明らかに阻止しようのないダンクシュートを想像するとすこし愉快な気分になれる。実際
そんなことをしたらゲームとして全くつまらないのだが。苦笑いする霊夢と話しつつ学校
へ歩を進めて行く。そして校門をくぐり、いつもどおり靴箱で履き替えたらさよならだ。
手を振り別れ、それぞれ教室へ歩き出す。
「あ、そうそう」
3歩進まないうちに霊夢が振り返る。
「明日から大会に向けての朝練に出るから、一緒には行けないわ」
「あー、分かったぜ」
「それじゃ」
今度はお互いに振り返らずに教室へ向かう。霊夢が居ない朝は寂しいが、会えないわけで
もないし、大会ってやつが終わればまた一緒に通えるのだろう。そう思って席に座り
退屈な授業の開始ベルを待つのだった。
放課後になると魔理沙は図書室の奥の書棚の近くの席を陣取り、持ってきた本を読み耽ることにした。午
前中担任に怒られている委員Aを見てしまったせいもあって、一応は図書室には居ることに
決めたのだった。冬だけあって午後5時ごろには既に空は赤い。強い西日で本が傷まないように窓の
ブラインドは閉められている。机に座って本を読んでいたから気づかなかったが、ブライ
ンドを委員Aが下ろして回っているようである。相変わらず職務に忠実な奴だ。息抜きに
立ち上がってブラインドを上げて窓を開放し風にあたる。暖房の聞いた部屋に冷たい空気
が流れ込む。目下に見える運動場からは部活動に勤しむ生徒の姿や声が確認できる。
彼らにとっては退屈な授業を受けて、友達と遊び、部活動に励むことが日常なのだ。そ
れ自体が悪いとはいえないし、私としてもそこまで楽しくなかったというわけではない。
ただ言うなら、彼らの常識は私たちの非常識であり、彼らの非日常が私たちの日常なのだ。
本人たちも分かってはいないのだろうけど、かれらは日常から必死で非日常を見出そうと
して色々なことをするのだ。部活をしたり、委員会の役員になったりと。それもいつしか
日常化されていくだろう。だから彼らはさらに日常化されにくい非日常を見つけようとし
て、新しい物質の発見をし、発明品を作り、月にロケットを飛ばすのだ。
「そろそろ幻想郷に帰るかな」
「幻想郷って何処?」
「居たのか、A」
「終わったから呼びにきたんだよ。あー、勝手に窓開けてるしー」
「もう閉めてかまわないぜ」
そう言うと、委員Aは窓を閉めてブラインドを元のように下ろした。私も席に戻って本を
鞄にしまう。Aは下ろし終わると、聞きなれない単語に興味が沸いたようで聞いてきた。
「幻想郷って何処にあるの?」
「さあな」
興味が沸いたことにはとことん知りたいタイプなのか、曖昧な返事にもかかわらず質問を
続けてくる。
「幻想郷って昔住んでいたところ?」
「今も住んでいないことはないぜ」
「どんなところなの?」
「そうだな」
そう言って幻想郷を思い浮かべようとした。思い浮かべようとしたその瞬間、鋭利な衝撃
と激しい戦慄が体を走った。そしてすぐに魔理沙にしては珍しく、ありえない事態に私の
頭が狂ってしまったに違いないと恐怖した。それもそのはずだった。思い浮かばなかった
のだ、住んでいた妖怪もそいつらの名前も顔も得意な弾幕も。まるで最初から幻想郷なん
てものはなく、この世界の一員として育てられていたかのように。浮かぶのは幻想郷に私
が住んでいたという今となってはおぼろげな記憶であり、なるべく早くそこに帰らなくて
はならないというあせりであった。
「よくわからんところだ」
今できる最高の返答と魔理沙は思った。たぶん、普通という狂気に当てられて少し記憶が
あいまいになってしまったのだ、と魔理沙は解釈して、このことについてはあまり考えな
いように決めた。
「それじゃあ、帰るぜ」
挨拶を済すませ、早々と図書室を去る。妙な危機感を胸にしまったまま、できるだけ早く
家に帰ろうと小走りで帰った。家に着いても絡みつく嫌な予感は拭えなかったが、夕食で
養父母と談笑していると少しは楽になった気がした。これは早く霊夢に相談した方がいい
と思い、明日あたりに会おうと決めて、早く眠ろうと努力するのだった。
結局睡眠不足のまま夜が明けた。今日は霊夢になんとしても会わなくてはならない。朝
食もそこそこに、そそくさと家を出て学校へ向かう。多分バスケットボールだから体育館
にでも居るのだろう。そう思い校門をくぐった後、校舎に比例して大き目の体育館の扉を
押し開いた。
体育館の中の空気は冷たかったが、目の前の部員たちは全く気にしない様子で必死に練
習していた。フリースロー、ドリブル、ブロックなどそれぞれパートに分かれてローテー
ションで練習しているようだった。その中の一員に見慣れたポニーテールを見かけた。こ
っちに気づけと念を送りつつ手を振ると、通じたのかこちらに気づく。激しく胸が上下し
ている様子からして、私が来る前よりもさらに早くにきて練習していたと見える。霊夢は
何やら上級生らしき人物と二言ほど話した後に、こっちへ向かって走ってきた。見た目よ
りかなり汗をかいているようであった。
「何か急用かしら?あんまり時間取れないのよ、あのキャプテン厳しくて」
「そりゃ励みがいがあるな。単刀直入に言うが」
少し間をおいて尋ねる。心のどこかでまとわりつく嫌な靄を一掃してくれるように願いな
がら。
「そろそろ幻想郷に帰らないか」
だがまたこれもある程度心のどこかで予想していたことではあった。ただそれは起きて欲
しくなかった可能性ではあった。
「冗談は急用に入らないわ。妄想もいいけどちゃんと魔理沙も家に帰るのよ」
そう心配そうに言って霊夢は練習のローテーションの輪に戻っていった。
その日の授業はいつも通りいつの間にか終わっていた。そしていつも通り委員Aが呼び
に来て、いつも通り本を読んで過ごして、Aがそれを興味深そうに見て、いくつか質問を受
け答えを返す。その質問は既によく分からないことか、当たり前のことばかりだった。は
っきりしていることは、私は魔法が使えて幻想郷というところからここに来たって事だけ
だった。ただ幻想郷自体は思い出せずにいる。どんなところで、どんな奴がいて、どんな
風に生活していたのか。最近妖怪を見ないのもこれを加速させているのだろう。でもよく
考えれば妖怪なんて居るわけがないし、ひょっとしたらやはり霊夢の言うように私はもと
よりここに住んでいる魔法使いで、幻想郷というのは妄想なのだろうか。とにかく色々お
かしい。
考えが全然まとまらない上に矛盾し始めてきた。そう思い魔理沙は考えるのをやめるこ
とにした。
「霧雨さん聞いてる?」
「聞いてない」
「明日のドッチボール大会楽しみだね、って言ったの。なんかぼーっとしてるけど大丈夫?
もう委員の活動時間は終わったから帰ってもいいよ?」
「ああ、そいつは気づかなかったぜ」
そう言って席を立って図書室の出口に向かう。後ろで委員Aが何か言っていたが、聞こえ
なかったことにしてそのまま図書室を出た。