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ノックをするが、いつも通り返事は無い。
「失礼致します。」
咲夜は豪奢な造りのドアを開けた。室内は広く、置かれている調度品はどれも見事な造りの物ばかりだ。豪華という形容は当てはまらず、かといって重厚さという言葉でも表現し切れているようには思われない。それは、長久の歳月のみが与えてくれる、命の輝きめいたものを持つに至った家具の佇まいに他ならない。
窓の無い部屋は、天井から吊るされたシャンデリアに灯された魔法の光で照らされている。
「レミリア様、おはようございます。」
咲夜は天蓋つきのベッドに歩み寄った。質素な柄のダウンケットに包まれて、小柄な影がそこに横たわっている。
青味がかったように見える不思議な銀色の髪、白く艶やかな肌。咲夜の問いかけに瞼が微かに開き、先程廊下で出会った妹と同じ深紅の双眸が、最も忠実な従者を見据えた。少女のような外見に似つかわしくない、異様な威圧感。人形師でもこうは造れないであろう、人知を超越した人外の美しさ。畏怖させるような美しさがそこにある。
咲夜が恭しく一礼すると、彼女の仕える主人にしてこの紅魔館の主、レミリア・スカーレットは、気怠るそうに上体を起こした。
「ご気分が優れませんか?」
咲夜は心配して僅かに眉を顰める。
「…なんでこんなに身体が重いのかしら。」
闇に生を受け、死を知らない一族の末裔でありながら、思い通りにならない身体に苛立つようにレミリアは呟いた。
「…私でよろしければ、少しいかがですか。」
既に咲夜の手にはナイフが握られていた。じっと見つめる咲夜と、レミリアとの目が合う。レミリアはすぐに視線を外すと、瞼を閉じてほんの僅かだけだったが頷くような仕草をした。
咲夜は何の躊躇も無く、右手に持ったナイフで左の掌を水平に切り裂いた。ベッドの側に片膝をつくと、主に左手を差し出す。
少しの間を置いて、レミリアは咲夜の左手を取る。白い秀麗な手に引かれた赤い線。鋭利過ぎるナイフのせいか、かなり大きく切った筈なのにわずかしか血は流れ始めていない。
目を閉じて、レミリアは咲夜の手を口元へと運ぶ。
ちゅ…
血が流れ出していないので、可憐な唇が血を啜る音を僅かに立てた。
咲夜は微笑を浮かべた。血を求めながら、その小さな身体には自分と同じ血の通わない、夜の眷属たちの幼き姫。でも、左手に感じられるものは、自分と同じく血の通った人間の温かさと何の違いも見出せなかった。
唇を離すと、レミリアは大きく息を吐いた。先程までの気怠るそうな表情は消え、感情の起伏が感じられないながらも、落ち着いた顔に戻っていた。
「やはりきちんとお食事をなさらないからです。私達と同じ物を食べても、本当に満たされるわけではないのですよ。」
咲夜はそう窘めるが、当のレミリアはその言葉をまったく聞き入れる気配はなく、何度も言わなくてもわかってるといったニュアンスの表情を、ほんの僅かに垣間見せただけだった。
「お召し替えをお手伝い致しましょうか?」
「…いえ、別にいいわ。」
その言葉で少しだけ咲夜は胸を撫で下ろした。断られたという事が、多少は気分が良くなったということを示しているからだ。
「今日はテラスでお茶をご用意致します。フランドール様が、ぜひレミリア様とご一緒したいと。」
「分かったわ、着替えたら後で行くから。」
素っ気無く告げると、レミリアはそれ以上は咲夜を見ようとせず、クローゼットに歩み寄って手をかけた。それが退出するよう促す意思表示だと汲んだ咲夜は、もう一度恭しく一礼すると踵を返す。
「…咲夜。」
不意に、レミリアが声をかけた。
「はい、何でしょう。」
弾かれるように半回転して直立する咲夜。出て行くよう促してから声をかける事は滅多にない。咲夜にとっては意外だ。
紅い悪魔の少女は、こちらを向かず、小声で呟くように言った。
「…ありがとう。」
その言葉に、咲夜は何も応える事はなく、ただもう一度、深く深く頭を下げた。
左手の傷は、何時の間にか綺麗になくなっていた。
-5-
鼻歌を歌いながら、琥珀色の液体が湯気を立てる白磁のカップへ、スプーンで砂糖を五杯は入れたフランドールを見て、美鈴はうんざりとした表情を浮かべた。さらにミルクをたっぷり入れるところを見て、今度は溜息をついた。
美鈴のカップは紅茶だけで、他には何も入れていない。咲夜はコーヒーも紅茶も淹れるのが巧い。紅茶の楽しみ方は、どちらかというと香りを楽しむほうにあると思っている美鈴は、美味い紅茶に砂糖やミルクは邪道だと考えている。
「フランドール様、せっかくの香りが飛んでしまいますよ。」
「えー、そんなことないもん。それより苦いんだもーん。」
フランドールは美鈴の注進を意にも介さずあっさり流すと、砂糖とミルクを入れ過ぎたおかげで量が増えてしまった紅茶を、こぼさないようにスプーンでかき混ぜるのに悪戦苦闘していた。
「フランドール様、さあどうぞ。」
咲夜が皿にケーキを切り分けると、フランドールは大喜びで早速フォークを手に口へと運んだ。紅茶は後回しにする決定がたった今下されたらしい。美鈴は苦笑して、咲夜に向かって首を振る仕草をした。それを見て咲夜も微笑む。
月が昇り、テラスを淡い光で包んでいる。湖から吹く風はほんの少しだけ冷たく、夏の名残と秋の気配を一緒に紅い屋敷へと運んできた。
いい月夜だ。
静かで、平和な時間がゆっくりと流れる。
不意にテラスの戸が開き、長い髪の小柄な少女が姿を現した。飾りリボンのたくさんついたフリルのドレスに、これまたリボンをいくつもあしらったドレスハットを頭に載せている。そして小脇には、あまり体躯に似つかわしくない大きな厚い本を抱えていた。
「ご相伴に預かりに来たわ。」
そう告げると、パチュリー・ノーレッジは椅子に腰掛けた。小柄なので足が床につかず、隣のフランドール同様に足をぶらぶらとさせる格好になる。
「ようこそ、パチュリー。ところで、頼んでおいた件はどうなったの?」
ポットにお湯を注ぎながら咲夜が訊ねた。そう、フランドールはもう完全に綺麗さっぱり忘れてしまったようだが、一緒に遊んでいたメイドはどこに行ったのか探しておかなければならなかったのである。こういった探し物は、やはり魔法のほうが便利なので、魔法使いであるところのパチュリーに頼んだというわけだ。隠すなら手品のほうがいいかもしれないが。
「ああ、見つけたわよ。別に今回は大したことにならなかったわ。もう戻っているでしょう。」
隣に問題の張本人が居るため、パチュリーはわざと文意だけが分かるように語を不明確にして答えた。それを聞いて咲夜もひと安心した。紅魔館は慢性的に人手が足りないのだから、ひとりでも減ると困るのである。いや、メイドが無事だったのはもちろん喜ばしい事なのだが。
今度は勢い良くテラスの戸が開いた。まるで蹴り飛ばしたような勢いでだ。
「ちょっと咲夜!一体これはどういうことなの!」
入ってくるのとほぼ同時に、紅魔館の主は珍しく凄い剣幕で咲夜へ詰め寄った。
「いえ、皆でお茶をと先程申し上げましたが…」
咲夜は受け流すように、慇懃無礼もいいところの口調でしれっと答えた。文意を汲んでいないのは明白だった。
「暢気にお茶なんて言ってる場合じゃないでしょう。ああもう、道理で気分が優れなかったわけだわ。」
厳しい表情で一同を見渡す。良く分からないといった面持ちで、美鈴とフランドールが顔を見合わせる。パチュリーはというと、何かを誤魔化すように咳き込んでいた。
レミリアはふん、と鼻を鳴らした。
「…もういいわ。私がちょっと行って来る。」
言うが早いか、レミリアの背に黒い影が生まれる。瞬時に、黒光りする二枚の漆黒の翼が広がった。そして、軽やかにテラスの手摺へ飛び乗る。
「お姉様、遊びに行くの?私も行く!」
はいはーい、とフランドールが手を挙げた。が、レミリアは邪魔なものを見るような眼で一瞥すると、
「…フランドール、今日はパチュリーがあなたと遊びたいそうだから譲るわ。仲良くね。」
と、言葉の内容とはまったく正反対の口調で冷ややかに告げた。驚いたのはパチュリーだ。より一層咳き込むと、
「レ、レミリア様?!」
と、信じられないものを見るような、それと同時に哀願するような眼で、絞り出すようにそれだけ言った。
「…パチュリー、あなたの良き友人として、あなたには私の妹とも友人であって欲しいと願っている。よろしく。」
前半部分は本心から、中程は今考えたばかり、最後の語は取って付けたように、紅い悪魔は死を告げる死神の如く、感情をまったく欠いた抑揚のない声で告げた。
ええー、とフランドールはまたしてもあからさまに不満の声を上げる。邪魔だから来るなと言われたも同然だったのだが、その言葉のギミックを理解するには、彼女はまだまだ幼く純粋すぎたらしい。
それにしても、姉とは大違いで喜怒哀楽の激しい子である。滅多なことでは館の外に出して貰えない上、唯一の肉親であるレミリアを異常なほど慕うフランドールにとっては、パチュリーでは代役としては明らかに役不足なのだ。少しだけ不憫に思える。
一方、パチュリーはこの世の不幸が全て我が身に降りかかったかのような、絶望と諦めとがない交ぜになった表情でうな垂れていた。拒絶も反駁も彼女に許されていないということは、ここで改めて確認するまでもないだろう。かなり不憫だ。
「まあまあ、フランドール様。今日は美鈴も一緒に遊んでくれますから、レミリア様の言う事をお聞き下さいませ。」
にこやかに咲夜が申し出ると、今度は先程からのやり取りをまったく気にもせずマイペースぶりを発揮していた美鈴が、飲みかけの紅茶を吹き出しそうになった。
「えええっ?!私?!」
「本当?!わあい!じゃあ二人とも、お部屋に行こうよ!」
流石に二人一緒に遊んでもらえる事はなかなかないので、フランドールはあっという間に機嫌を良くして飛び上がらんばかりに喜んだ。それはいいとして、紅茶とケーキはどうするのか。やはり現在進行形の事柄以外は、フランドールの記憶からは抹消されるようだ。
美鈴は恨みのこもった視線を咲夜に投げかけ、口を開こうとしたが、その隣の高いところから無言で抗いようのない圧力を加えるレミリアの紅い瞳に気付くと、萎縮したように背を丸めてフランドールの後に従っていった。
不憫だ。
美鈴には少しだけ悪いと思ったが、レミリアを守るだけなら容易いものの、レミリアを守りながらフランドールを止めるというのは、然しもの完璧で瀟洒なメイドであるところの咲夜にも荷が重過ぎる。
戦場に赴く戦士を見るような目で、咲夜はフランドールの後についてテラスを出て行く二人を見送った。
-6-
再び静寂。
対峙するレミリアと咲夜。レミリアは多少、苛ついているように見える。
満月が中空に昇り、南の空に輝いていた。
「…まさか満月じゃないとは思わなかったわ。」
おもむろにレミリアが口を開く。
レミリアの言う通りだった。ほんの少しだけ月が欠けている。おそらく、大多数の幻想郷の住人は気付いていないだろう。その程度の僅かではあったが、満月のはずの月はそうではなかったのである。
月の光は、夜の眷属と魔性の生物の大多数にとっては大切なものだ。それはもちろん、誇り高きヴァンパイアの末裔であるレミリアとて例外ではない。満月の夜にこそ、活力の源たる月のエネルギーを最大限享受することができる。その満月のはずの晩に、月が僅かながらも欠けているなど、こんな異変は五百年来一度もない。
咲夜は、レミリアを見据えて黙っていた。
知らなかったと言えば嘘だ。いちいち確認するまでもなかった月齢を確認したのは、宵の口に見た満月のはずの月が、満月ではなかったからに他ならない。
だが、それを言ってどうなるというのか。本心を言えばそこだ。
「追及はしないわ、来たくなければ構わない。好きにして。」
レミリアは、咲夜が知っていながら言わなかった事ももう分かっていた。あえて直接命じる事を避けて遠回しな言い方をしたのは、彼女の気遣いだったのかもしれない。そんな言われ方をされては、咲夜にとって答えるべき言葉はひとつしかない。
だが、咲夜は返答するのを先延ばしにした。
「…調査に赴くというのは分かりますが、心当たりはあるのですか。」
「そんなものないわよ。でも、こんな異変を放っておくなんてどうかしてるわ。誰も行かないなら私が調べに行く。」
やっぱり。咲夜は思わず溜息をついた。自分で行くというその精神と行動力は、我が主ながら実に素晴らしいと思うが、当てもないのに出て行こうとするあたりはどんなものか。いつもの我儘から来る相変わらずの無計画ぶりである。
もし朝日が昇れば、死には至らぬもののそれ以上自力で動く事はできなくなってしまう。夜には、その無尽蔵の魔力を際限なく行使できるレミリアだったが、日中は別だ。再び夜が訪れるまで、まったくの無力になってしまうのだ。
咲夜は嘆息すると、かぶりを振ってこう答えた。
「…主人に付き従わず、何のための従者でしょうか。もちろんお供致しますよ。」
その答えに、レミリアはやっと厳しい表情を解いた。
「朝までにお戻りになりませんと、お身体に障りますよ。」
レミリアはそれには答えず、おもむろに一枚の呪符を取り出した。紫の呪符。紅の呪符とは違う、普段なら使わないはずの呪符だ。
咲夜は息を呑んだ。 自分はその符が何なのか知っている。かつて忌み嫌った自分の力、その力を消し去ることはできないか探し続けた頃に知った。
時を示す紋様が描かれた呪符。
自分の力と同じ力を持つ符。
そして、自分の力を長らえさせる力を同時に併せ持っている符だ。
「…パチュリーに聞き出しておいた。彼女は月の魔力が必要だから、問い詰めたらすぐに教えてくれたわ。もちろん、夜のうちに原因を突き止めるわよ。」
咲夜は眼を閉じ、そして笑った。
「今晩は、とっておきの手品をご覧頂く事になりそうですね。沈まない月の不思議な手品を。」
「そうね、期待しているわ。」
知っていたのだ。いや、知っていたのは分かっていた。ずっと側に従っているのだから、お互い分からないはずが無い。それを口にしなかったのは、咲夜よりもずっと長い時を生きていながら、それでも誰かと接するのがひどく不器用な、レミリアなりの気遣いだったのだろう。
テラスに来る前にパチュリーに会ったのなら、何もかもお見通しで、なおかつ自分の思惑通りという事か。いつもそうやって計画的に事を進めてくれれば苦労はしないのに、まったくレミリア様も意地が悪い──。
咲夜は、眼を開けて愛すべき主の姿を見やる。黒く凶々しい翼を広げた幼き紅い悪魔は、咲夜にはこの世で最も気高く美しい姿のように見えた。
レミリアは軽く笑うと、
「手品の種を明かすのは無粋ね。」
と独白するように言い残し、漆黒の翼を広げ、テラスの手摺を蹴って夜の湖へと舞い降りていった。
水面に映る偽りの満月。
湖上を舞う、もうひとつの紅い月。
銀の従者を連れて、月の欠片を取り返しにゆく。
夜明けまでに、孤独な夜空の支配者の居るべき場所に。
時を止めてでも。
夜を止めてでも。
たとえどんなに、永い夜になったとしても。
(-了-)
刻符の出し方は非常にうまかったと思いますね。
そして美鈴、生きて帰ってこいよ(つ´д`)
基本的には紅魔館の日常をベースにしつつも、話としては永夜抄へとつながるプロローグ。
ふたりが出撃する前にはこんなやり取りがあったのだろうなと、納得できる話でした。
衣服に関する詳細な描写(とくに咲夜)には、作者さんのこだわりを感じます。
文章の素晴らしさはもちろん、高い構成力に脱帽ものです。改めて読み返してみると、個々のシーンの間に最後に向かってまとめるための布石のようなところがいくつもあって、さすがとしか言いようがありません。
永夜抄がすげーやりたくてたまらなくなってきましたが、漏れも委託待ち…_| ̄|○
お互いにクールなところが、他の組にはない魅力を醸し出していr(ムソーフイーン
そしてパチュには中国を次元の狭間まで探しに行くという仕事が増えたんでしょうね、きっとw
このお話の咲夜さんとレミリアには参りました。こんなに妖しくてかっこいい二人なんて反則です。私もかっこいいキャラを書けるようになりたいなあ。はふん。
しかしそれでいながら中盤にはくすりと笑いを洩らしてしまう場面も用意されていて、もういたれりつくせり、お腹いっぱいといった感じです。
ごちそう様でした。
パチェ&美鈴組、EXステージ頑張ってきてくれ。