―4.7 えいもせず―
***
硝子の割れる音がする。
目が覚めたので、ふわ、と欠伸をして。
ふと瞼を開けると、涙で霞む視界で、みんなが寝ていた。
姉たちが仰向けに。
弟たちがうつ伏せに。
祢巳は両膝を抱えて蹲り、
父様と母様は私の頭上にぶら下がって。
妖忌と炭処は、あは。
寝相が悪いわ。もぞもぞと寝返りをうっている。
打ち捨てられ、忘れ去られた道具箱の奥の玩具みたいに。
ごろごろ、ごろごろ。ごろごろ、ごろごろ。
―――がちゃん。玻璃の割れる音がする。
滑稽。
不意に見上げた空、遠い遠い向こうまで一面に桜色。
風の匂いは春の陽射しを運んでいるのに、空色はどこにも見えない。
見下ろす果ても、彼方どこまでも桜色、紅桜色、朱桜色、白桜色、山桜色、小春桜色。
家族の色。綺麗、だった。
たった一人、そこだけの揺ぎ無い紫色がいることを除けば。
「幽々子。可哀相にね。
そんなになるまで耐えるくらいなら、
さっさと自害でも何でもすればよかったのよ」
紫だった。それに、今何か言ったのも紫だった。
なぁに、ゆかり?まだお昼なのに、あなたどうして起きているの。
紫は私のお友達だ。お友達とは遊ばなければ。
今日は何をする?そう、たまにはそれもいいけど。
ちょっと用事があるのよ、私には。このお庭を、桜色に染めないと。
だからあなた、桜になって。今だけと言わず、ずっとね。
「でも、そうか。それは私にも言えること、か。
見ている夢が楽しすぎて、道を見失っていたのは私も同じね」
彼女は難しいことを言っている。
いつもなら私は彼女のそういった物言いに、
いちいち質問しては彼女を困らせるのだけど。
起きたばかりで、体が思うように動かないから、
意見もせずにただ彼女の言葉を聞く。
彼女が私の話を聞いてくれないのは今に始まったことじゃない。
それにしても、紫色が鬱陶しい。早く桜に染めないと。
「本来交わらざる二線、走り逝く直線と回り続ける曲線が織り成す夢郷。
有り得ることじゃないわ。まさか私すら夢に惑わされかどわかされるとはね。
この桜・・・西行某か。本当に千年程度の樹齢なのかしら」
西行桜、千年の華美。わたしのおともだち。そう、今はこの子と遊んでいるのだから。
父様は、この国の南の南にある島の、千年杉のことを話してくれた。
そして、それよりもずっと、この子の方が大きいのだ、と語ってくれた。
だから私は、私は。
「・・・幽々子。そう、聴こえていないのね、あなた。
そして、もう聴こえないのね。何も。
だったら、聴こえるようにしてあげるわ。
わたしが、他ならぬ私が、あなたの境界を引き直す。
引き直されてキレイになったあなたは、
後ろの木の力を借りるまでも無く、人を殺す能力を持つ。
その力で、ソレを殺しなさい。
同質であれば、よりキレイな方が勝つのだから」
初めは嫌いだった。この子の色は私と同じだから。
私よりずっと綺麗なこの子は、でも、本当は心までとっても綺麗だった。
だから友達になれた。
迦々璃姉さんの描いてくれた油絵は、桜の親子が二人して並んでいるみたいで。
ツンと匂いがきつくて嫌いだった油絵の具も好きになれた。私には絵の才能は無かったけれど。
仲良くなってから、皆がこう言うようになった。アレに近付くな、幽々子。
「狂ヒ世を見続けて悪鬼となるより、
全てに気付いて、自らの手で幽リ世に堕ちなさい。
でも、せめて死ぬまでは忘れないで。
過ちを繰り返すのは人の性だと言った自分を、
そして、その性に立ち向かうのが人間だと言った自分を。
わかるわね。境界は私が引く。
だから、あなたは」
私は?
「自分がするべきことをしてから、死になさい。
でないと、あなたは自分と、自分の家族たちを、永遠に殺し続けることになる。
あなたが自分を殺すのは、その後よ」
何の事、と問う暇も無く。
紫色が動いて、私の天地が逆転した。
続いて色という色が全て反転し、色の境界線から重油のような黒が染み出して視界を塗り潰していく。
やがて何も見えなくなった。桜が見えない。見えない。見えない。
***
見上げた桜は、とてもとても綺麗。
世のどんな麗人より、生まれたての赤子より、夜に輝く星の空より。
まるで、その綺麗さだけで、この世界を支配し尽くそうとしているかのように。
でも。そんなことは、許されることではないから。
そんなものが在ることが、許される世界ではないから。
私と共に逝きましょう。あなたと私が許される世界へ。
そこではあなたが全てを支配していいの。
その代わりに、あなたは自分だけは支配できない。
だからね。私があなたを支配してあげる。
ずっとずっと一緒に、その残酷な綺麗さで、
夜道を外れたときにふと見つけた民家から漏れる暖かな、それゆえに惨たらしい光で、
わたしとあなた、ふたりだけ。
わたしは死に続ける。
あなたが勝手に終わってしまわないよう、
わたしの死があなたの死を殺す。
そして、あなたが終わらなければ、わたしも決して終わりきらない。
ゴールの目の前、こんなに幸せな場所で、
永遠にユメを見続けるだなんて。
なんて、
わたしとあなたは幸せなのかしら。
わたしは桜、あなたも桜。とてもとてもキレイ。
世のどんな麗人より、生まれたての赤子より、夜に瞬く星の海より。
そう、そのキレイさだけが、この世界を支配する権利を持っているのだから。
暖かな残酷を、ずっとずっと。
わたしとあなた、ふたりだけ。
***
―5 とざしふた―
まず、空を見る。冥界の空。
冥界は究極的に端的に言えば雲の上にあるため、
ここ白玉楼には雨が降らない。雪もだ。
風流を愛でる者の多く住むこの場においてこの特性は少々寂しいものがある。
夏に雨の句が詠めぬ、冬に雪の詩が詠えぬでは、表現者の心の方に雲も無いのに翳りができる。
そんな万年日本晴れの冥界の空に、今は一面の黒と、
ちらちらと光る満天の星、そしてぽっかりと空いた穴のように丸い月が映っている。
他には何も見つからない。
次に、地を見る。冥界の地。
白玉楼の庭園に、時節外れの桜絨毯が敷かれている。
この絨毯の幅と長さ、それぞれおよそ二百由旬。嘘だが。
測ったことは無いが、誰もわざわざ測らないだろうから、好きに言っているのだけど。
まぁ、直下の絨毯は先ほどまでの戦闘でちょっとばかりズタズタになってしまっているが、
どうせ多分、今夜限りの絨毯である。傷んだ桜もただの桜ではないのだから、いずれ治るだろう。
ともかく、絨毯は遠くまで一色に染まっている。
他には何も見つからない。
さわさわと桜並木を波立たせていた風が止んでいたが、
いまだに辺りに満ちる巨大な妖気は消えていない。
つまりあの妖怪はいまだ健在、ということだが、
周囲にあの酒蓋妖怪は見当たらなかった。
「近くの桜の影、かしら?
・・・でも、いちいち探すのは面倒ね」
扇を畳み、袖口に入れながら呟く。
そう言ってから、姿を消したのがあの酒蓋だけでないことに気付いた。
酒蓋を追いまわしていた私のカードと、それをまた追いかけていた蝶の群れ。
これまた、まだ近くに残って続いていることはわかるのだが、
ざっと見渡した限りではどこにもいないように思える。
「ちょっと、聴こえてるー?
かくれんぼするには時間が遅いと思うわー」
少しばかり声を張り上げて、辺りに聞こえるように言ってみる。
が、暫く待っても返答は無く、風の無い庭園には静寂だけが広がっていた。
ともすれば私の声の残響音が聴こえてきそうなくらいだ。
「うーん、いくらなんでも無反応っていうのはねえ。
歪空間退避系とかのスペルかとも思ったんだけど・・・」
そう、無反応。声をかけて返答が無いということについてだけでなく、
先ほど強い光を一枚の符から放って、それ以降何の攻撃行為も無い、ということ。
俗に無敵系と呼ばれるタイプのスペルは、符の効果が持続している間、
術者本人が空間の歪みに入り込み、相手からの攻撃を表面的に無力化するものだ。
こういったスペルには、相手からの弾幕に一定量被弾してしまい、
符の動作に必要な結界を維持し切れなくなることで符自体の破壊を招くリスクを無くすというメリットがある。
あの妖怪が使ったスペルの効果、まさか光を放つだけのものではあるまい。
なら、彼の姿が見当たらない、というのは、と考えたのである。
しかしやしかし、そういった類の符であれば、
少なくとも術中に何らかの攻撃があって然るべきだ。
従って、この線も無い。とすると、自然、答えは一つになる。
隠れたのでなければ。
「・・・敵前逃亡とは、男らしくないわね。
戦略的撤退とでも言うつもりかしら」
そう、空間退避なんて離れ業を使うまでも無い。
あの危機的状態から逃れるには、文字通り逃走すれば事足りるのだ。
でも、そんな下らない結論を認めるのが嫌で。
私は再びあの酒蓋が姿を現すのを少しの間待っていた。
しかし、待てども待てども待ち人来ず、
周囲の桜が風が吹かないばかりに静かに咲き乱れている。
数分の待ちぼうけの後、私は結論を認めて大きく溜息をつく。
「うーん、ひきょーもん。
というか、デートを途中退場するなんて、
親戚が死んだ程度の言い訳で許されるもんじゃないわ」
予想外の幕切れに、思わず膨れる私。すっかり興を削がれてしまった。
なかなかに面白い人物、いや人じゃないけど、妖怪だと思っていたのに。
大体刺客なんだったら、決闘放棄よりも任務放棄ではないか。
戻って一体どう報告するつもりなのか。どえらい怖いお嬢さんにいじめられました?
「はぁ、まあいいや」
相手がいなくては決闘もお開きである。
私は大きく落胆した気持ちを忘れるため、
私の虚言で庭園を駆けていった妖夢を探すことにした。
目的も達したことだし、さっきのお酒でも飲みながら妖夢いじりをしよう。
あの子がどこへ行ったのかはわからないが、適当に飛んでいれば見つかるだろう。
と、特に考えも無く桜の庭を飛び始めた。
ああ、そう言えば、あの酒蓋に黒幕の名前を聞き忘れていたわ。
ふとそう思った、一瞬の後。
ごつん。鈍い音。
何か、硬いものが頭に当たった。
「あいたたた・・・って、なんでよ」
頭部に走る鈍痛。反射的に滲む涙。
一体何が自分の身を襲ったのか全く理解できなかった。
思わず一瞬前までの記憶を失うほどだ。えーと、なんだっけ。
順を追って考える。
そう、決闘を放棄した奴がいて、つまんないから、妖夢を探そう。
どこにいるかしら。まー適当に飛んでれば見つかるわねきっと。
じゃあまずこっちの方に行こうっと。ふわふわ。
無意識に、考えたとおりに体が動いていた。
ごつん。鈍い音。
「っ・・・つぅ~。何~?」
頭部に走る鈍痛。ぶわわと目に浮かぶ涙。増水した。
今度は、何が起こったのかしっかりと覚えている。
何も無い所で、頭をぶつけたのだ。
「いや、なんで?」
わからなかった。
「えー? どういうこと?」
困惑しながらも、起こったことを冷静に考えてみる。
頭をぶつけた。ぶつけた、ということは。
そこに何も無いように見えても、実際には物がぶつかるような何かがある、ということだ。
考えを確かめるために、目の前の空間に幻の蝶をいくつか飛ばしてみた。
ふわりと飛んだ蝶はどれもある地点まで辿り着くと、
何かに当たった時のように衝撃を撒き散らして消えた。
その辺りまで近寄って、そろそろと手を差し出してみる。
手応え。堅く、つるりとした硝子のような感触に阻まれた。
そのまま見えない壁をぺたぺたと触り、
強く押したり、がんがん叩いたり、妖気をぶつけてみたりと試行してみたけど、
この壁、相当に頑丈な様子である。
「・・・もしかして、これって」
そのあまりの頑健さに、現状を説明する一つの解答を思いつく。
出来れば真実であって欲しくないが、
それゆえにそうであろうという確信めいたものも感じた。
考えを実証するため、私は懐から一つの符を取り出し、
それを頭上に掲げたまま強く言葉を発する。
「展符「パピヨンズパビリオン」」
言霊を受け、ほんのりと光ったカードは、私の周囲に三百六十×三百六十の幻蝶を生む。
蝶たちは発生地点で数秒ちらほらと舞った後、
私を飾る集中線を描くかのようにめいめいの一直線を飛んだ。残り三つの内の一つ。
そして。
線の悉くが或る地点に辿り着くと同時に吹き消え、
私は自分の置かれた状況を今度こそ精確に理解する。
「閉じ込められた、ってことよね。
あいつが歪んだ空間に退避したんじゃなくて、
私が歪んだ空間に放り込まれた。
―――そういうことでしょう、ご老人?」
掲げた符が、ぼう、と強く光った後、灰に、塵になって、風も吹かぬ密閉空間に広がった。
私は忌々しげに、誰もいない中空へ向けて言う。
返事は期待していなかったけれど、
返事の予想はしていた。
「ようやくにして、気付いたかの」
不思議なことに、この酒蓋妖怪が声を出すと空気が震える。
口も無いのに本当に音を発し、音波を利用して言葉を伝えているのだ。
発音器官を持たない人外は相手の精神に直接介入して話し掛けるモノが大半なのである。
そういった特殊な技術の利用も含めて、私なりにこの妖怪の力量は推し量っていたつもりだったのだが。
嘗めていた。この妖怪を、私は今の今まで完全に嘗めていた。
閉鎖空間を作り出す「こともできる」。
認めざるを得なかった。
こいつは、凡百の妖怪とは一線を画す能力を持っている。
「やるわね。二つ以上の能力の保有者なんて、
本当に随分長らく久しぶりにお目にかかるわ」
閉じられた空間。こちらからは手詰まりと言えるこの状況。
こうして声を出し、状況を明かした以上は歪空間退避系スペルと同じで、
恐らくはスペルが終わるまで続く現況、ただ閉じ込めるだけで済むはずが無い。
程なくして何らかの攻撃が私に対して加えられるであろうことは想像に難くなかった。
であれば、会話できるうちに、できるだけの挑発で情報を引き出すのみである。
「ふむ?いや、これはわしの、酒を操る程度の能力。
その応用編といったところじゃな。
何も二つの能力を使っているわけじゃないぞい」
私の意図を知ってか知らずか、姿が見えないままの妖怪は、
いとも簡単に能力の正体を暴露した。
しかし、それで納得できよう筈も無く、続けて私は問い掛ける。
「とぼけているのかしら、そこで素知らぬ顔をすることに意味があるのかしら。
今が時節で言うと晩春にあたるってわかってて言ってるわよね」
梅雨も近い晩春・初夏の境界に、桜の花が一面に咲き広がるこの異常な光景。
何の説明も無くこんなことが起こり得る道理が無い。
だが、この私の当然の疑問に対して酒蓋妖怪はあっけらかんと答えた。
「ああ、桜が咲いていることか。
そりゃ能力じゃない。ありゃあ、わしの体質、いや性質じゃな。
一年三百六十五日、わしの周りは花が咲きっぱなし。
わしの行く先に、枯れた花なんぞ存在せん」
「? どういうことかしら?それはつまり、
ご老公には花を咲かせる程度の能力がある、ということなんでしょう?」
「いんや。勘違いじゃよ、嬢ちゃん。亡霊の姫。
そも、妖怪というのは歪んだ因果から生まれた概念存在じゃからな」
「・・・難しいことを言って、煙に巻こうとしてる、
わけじゃあ、ないみたいですわね」
「わしは嘘はつかんよ。冗句は好みじゃが、嘘吐きは好かん。
じゃから素直に言い直すとな。
わしが花を咲かせているのではなく―――」
「花が咲いているから、あなたがいる、ということ」
言うより先に答えると、見えない老人の幻視が、空の上で呵々、と笑う。
「ご名答。まぁ、本来は酒蓋の妖怪なんぞじゃないんじゃよ。
ただ、わしだけはちっと特別でな。咲く花の翁という妖怪はどこにでも現れるが、
わしはこの酒蓋にしか発現せん。その代わり、こうして独立した意識を持っているわけじゃが」
不可思議を説明するために生み出された不可思議。結果の後に用意される原因。
なんということだろう。咲く花の翁。
―――花咲じじい。昔語の化け物。
幻想郷において実は珍しい、純然たるこの国の妖怪だ。
その性質は、枯れた花が咲くその場に在る、こと。
枕返しという妖怪がいる。
この化け物は夜寝た時と朝起きた時で枕の位置を逆にしてしまうのだという。
だが実際にはこんな妖怪は実在せず、単に盛大に寝返りをうっただけなのである。
他にも幸福を引き寄せる座敷童、油を嘗める猫又、人を彼の世に導く死神。
これらは全て『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という奴で、
人間の思い込みが生んだ妄想に過ぎないけれど、
人が幻視するまでも無く、共通認識から生まれた妄想は一つの立派な概念となる。
その昔、朧なモノが身近であった時代には、こういった妖怪が沢山生み出された。
金満家には座敷童が、障子の向こうには猫又が、死にゆく人の側には死神が、
それらが発生する条件に合致した瞬間、確かにそれらはそこに存在していたのである。
そして、この酒蓋妖怪、いや花咲妖怪は、そういった妖怪の一種である、というのだ。
そんなものが冥界にいて、私のような幽霊と話しているということから、
本人が言うとおりにやや特殊な存在ではあるようだが。いや、そんなことは今はどうでもいい。
重要なのは、この妖怪は花が咲く原因になり得ない存在だ、ということ。
花を咲かせているのではない。つまり、それは。
「もう一人。・・・花を咲かせている奴が、この白玉楼のどこかにいる、そういうことだわ」
「ふむ。それはわしにはわからんがの。
わしとて久方ぶりにこうして意識を現したのじゃからな」
「そう。じゃあ、妖夢が行ったきり帰ってこないのもそいつの仕業ってことね」
「そうなのかもしれんし、そうでないかもしれん」
「そう。それじゃあ」
私が人間を死に誘う時、それ自体が昨今では既に実に珍しいことであるが、
その際に必ず行う決まり事がいくつかある。
ポリシィの一。久方ぶりの獲物への、久方ぶりの決闘の、久方ぶりの『死出の誘い方』。
私は珍しく俯いて、両手をだらりと横に投げ出し、
半眼だけを覗かせた上目遣いのまま、
―――『ボソリと、宣告の如く』言う。
「こんなところで、遊んでいる場合じゃあないわね」
「ホ!言いおる!じゃがお嬢さん、あんたはまだ自分の状況を正しく理解しておらん!
大口を叩くのは次の芸をその目でしかと見てからにするんじゃな!」
私の『終わらせる意思』を受けて猶この妖怪には必勝の策が在るのか。
翁が昂揚した声を発すると、何も無かった中空に突如歪みが走った。
背後の景色を撓ませて、一瞬の後には大きな泡が私の眼前に姿を現す。
泡、と認識したのは、この妖怪の能力から言えば、これも酒でできた水玉なのだろう、
と推測したからで、実際には泡のように背後の景色が透けて見えることは無く、
ぱっと見た感じでは巨大なビー球のようである。
玉の中にはぐずぐずと蠢く不定形の何かがあり、それが背景を遮っているのだ。
「―――」
「それが何なのか、お嬢さんならわかるじゃろう。
そう、今まさにあんたが捕らえられている空間と同じ閉鎖歪曲空間じゃ。
そして賢いお嬢さん、あんたは既に、
その中に“何を閉じ込めてあるか”察しが付いている!」
「―――」
私は何も答えない。
相手を術中に嵌めたことから起きる昂ぶりを微塵も隠す様子の無い妖怪とは対称に、
まんまと策にひっかかった私は静かに酒の泡を睨む。
そうだ、そんなものは考えるまでもない。
姿を消したのは、あの酒蓋だけではなかったのだから。
「じゃが!わかっていたところで、お嬢さん、あんたはこれをかわせん!
それは先ほど、あんた自身が言っていたことじゃ・・・!
―――霊率「モルトマエストロ」!!」
泡が、弾ける。
中から多くの水滴と共に飛び出してきたのは、
いまだ燃え尽きずに目標を真っ直ぐに追いつづける私の符と、
それを更に追って舞い飛ぶ幾千幾万の―――蝶の塊。
紛れもなく私の行使したスペルであるところのそれは今、術者である私を襲おうとしている。
自律式のスペルではあるが、術者本人に影響が及ばないように作った筈なのに、だ。
「―――」
恐るべき応用力、と言わざるを得ない。
酒を操る程度、と聞いてここまでの芸当を予想できる者はいまい。
歪曲空間の生成と、起動中の相手のスペルを捕獲・操作する技術。
普段の私ならすぐさまひとりスタンディングオベーションものの神藝だ。
「―――」
恐らく、戦闘用のこの二種類以外にも、様々な応用が可能なのだろう。
この妖怪なら、本人の特性も絡めれば二十以上の能力を持っていてもおかしくないように思える。
何となくではあるが、底の知れない老人の幻視といい、やりかねないな、と感じられた。
思い感じながら、初撃の牛歩をようやく終えようとしている我がスペルの操られる様を見遣る。
大したことではある。ではある、が。
「―――」
嗚呼、全く恐れ入る。
だが、今の私はそれを見ても何の感慨も覚えない。
だって、私は今、猛烈に憤慨しているのだ。激怒しているのだ。
―――つまらん芸を見ている余暇なぞ毫ほども無い。
「―――ずるいわ」
「・・・なに、なんと言ったかね、姫さん」
「ずるい、と言ったのよ」
「ずるい? ホ、そうじゃな、そうかもしれん。
相手を閉じ込めて、相手の攻撃を操り、それでいて自分は安全な所からその様子を眺める。
これは確かに、いかにも卑怯かもしれんな、うむ。
じゃが、お嬢さん。わしがあんたに勝つには、こういう手段を取らねば―――」
「違うわよ、花咲お爺さん。
そんな些事は卑怯でもなんでもない。
戦いにおいて、ずるいとか卑怯とか卑劣とかいう言葉は何の意味もなさない、
どうでもいい、聞き流すまでもない塵芥のような概念だわ」
向ってきた符を首だけ動かしてかわし、
それを追って狂い舞う蝶の群れに対峙する。
「そんなことは、本当に、真実根底どうでもいい。
お爺さん。咲く花の翁さん。私が怒っているのはね」
手を袖から、シュッ、と出し、蝶塊を指差す。指先に、懐から取り出した一枚の符を挟んで、
「他ならぬこの私が、騒ぎの主賓を大好物にしてるこの私が」
見えはしない、そこにはいない酒蓋を中空に見据え、
「あなたみたいな!前座を相手にしていること!
騒乱の中心にいて、一番やりがいのある祭を、
最高に楽しい位置でもってドンチャンやるべき、この私が!」
終、と軽く横に指を振り、生じたゆらぎが蝶の塊を一命たりとも残さず吹き消して、
「―――っな、」
動揺した様子の声が聞こえても無視、空いた片手で袖から別の扇を出し、
「一番おいしい所を、どうやらこのままじゃ見逃してしまって、しかもその上!
妖夢に、ゆゆこさまおけがはありませんか、なんていらない心配をされちゃうじゃないのっ!!」
その手で、思いっきり上空へ向けて、『車の描かれた扇』を、放り投げる。
そうだ。このままじゃ、もしかすると万が一億が一、妖夢が危ない目にあってて、
それよりもずっと問題なのは、ことが全部終わった後で、
妖夢に対して得意げに『ああ楽しかった。妖夢、後片付けお願いね』って言えないこと。
そこが一番の、大騒ぎを締めくくる最大の楽しみなのに!
「んな、滅茶苦茶な―――!」
「全部責任取りなさい、固定概念!まず手始めに!」
扇は宙を舞い、まるで当然であるかのように地面に対して垂直に立った姿勢を取ってから、
重力に牽かれて徐々に落下し、私の背中まで来たところで―――
「この空間を、終わりへと誘う!!」
―――咲いた。
「・・・幽岸「未完の石塔」!」
びしり、と桜の苑に無数のひびが入る奇妙なビジョンが見え。
刹那、空間が割れた。
***
「あらら~、困りました、困っています。困ってしまえ、困らいでか」
幻想の郷の遥か高き雲の上の上。
横幅も高さも異常な程の巨大な、ゆっくりと回転する魔法陣に守られた門。
幽冥と顕現の境、桜花結界。冥府の扉。
「こーんな、遠かったり高かったり寒かったりするところまで来てるなんて、
不思議、不可思議、不承不承」
この門扉を前に、目を細めて首傾げ、頬に手を当てぶつぶつと呟く、
一匹の妖怪少女が、いや、変な妖怪少女がいた。
何が変なのかというと、宙に浮きながらふらふらとその場で前へ横へと揺れているあたりが。
その様子は何か、出来損ないの起き上がり小法師のようで、
揺れのリズムも一定でなく、見るものにいつか落ちるに違いないと心配させるものがある。
「わたしのお酒・・・うん、間違いなくこの先にある。あれば。あるとき」
上下が真っ黒に塗り潰された作務衣のような着物。
それと対比するかのような形で、闇に差す光のように膝まで伸びる白い髪。
単純に容姿で言えば、妖に醜女おらずと散人が伝えるとおり、
幻想の郷においては珍しくは無いものの、真実美人と呼ぶに相応しいカタチである。
が、あまり手入れされていない様子の白髪はぼさぼさで、
首筋辺りに黒い紐の髪留めをして纏めてあるせいで辛うじて顔面の確認はできるものの、
正面から見たときの体の面積を倍近くに感じさせる広がりを見せていた。
「でも、通れない、通れません。通してくれない、通せん坊」
ふらふらと横に揺れながら、呟きを止める様子も無く。
と、ぴたりと揺れを止め、何かに思いついた様子。
「誰かが出入りするときには開くだろうから、それまで待とう、待て。待つなら、待てまいに」
ふわふわと浮かんで、
「それまで待とう、座って待とう、座して待とう~」
門の上、分厚い門扉の上に腰掛ける。
「はーやく。だーれっか、来ないかな」
ああ、この妖怪。あまりおつむの調子がよろしくないようである。
腰掛けられるなら、乗り越えていけるのではないか、などと思いもしない。
思いもせずに、そのまま座って、脚をぶらぶらさせて、鼻歌を歌って、
開くはずの無い扉が開くのを待ちつづける。
と、そのとき。
がしゃああぁぁぁぁ・・・・・・ん。
「おお?」
大きなガラスが割れたような音が、腰掛けた扉の向こう、
長い長い階段の先の方から、こんなところまで聴こえてきた。
「なんでしょうねー、ボールが窓に?ボーラ、ボーロ・・・暴利」
ああ、この妖怪の、このおつむの調子がほんの少しこれより快調で、
門を越えて目的の物目指して飛んでいったなら、
これから起こる、ほんの少しこの中の住人にとってほろ苦い出来事を、
もしかするともしかしたら、未然に防ぐことが出来たかも、知れないのに。
「待ちぼうけ~。待ちぼうけ~。ある日せっせと・・・待ちぼうけ~」
・・・かも、知れなかったのに。
爺が咲かせるのではなく、咲く花の下に現れる象という『花咲か爺さん』の設定が巧いなあと感心してしまいました。なるほど、そうなるとは確かに人じゃなくて妖ですね。
しかし、最後に出てきた謎の人物……どうにも弾幕ごっこが出来そうに思えない。なんか危なっかしいし。
それでいて実は相当な実力者とかだったりするのもまた燃えますが。