もう、いつかも思い出せないほど昔の話。
ある蛙が湖にいた。
ごく普通の、なんの変哲もない、ただの蛙だ。
ただし、ひとつだけ異なっている点があった。
それは、とてもとても長生きであったことだ。
子が産まれ、孫が産まれ、そのまた孫が産まれてもまだ生きていた。
ここまで長生きだと尊敬もされる。
なにせ長生きなだけあって、この蛙に知らないことは(蛙世界内では)無かったのだ。
蛙は湖内における王や長老のような役目を果たしていた。
なにか困ったことがあると、皆が相談に来た。
――くいもんがねえ。ちょうろう、どうしようか?
――――ばしょがわるい、もうちょっとみなみのほうへいけ。
――みなみってどっちだ?
――――あっちだ。
――ああ、あのたいようがのぼるほうこうな、わかったわかった。
このように、微妙に的確に答えていた。
微妙に間違っていたとも言う。
長老としての権勢は磐石であり永続するとさえ思えたが、ある日、あっけなく崩壊した。
「ああ、もうまた失敗!」
とある氷精が、自分たちを標的にし出したのだ。
なぜかその氷精は、意味も無く蛙たちを凍らせた。
万に一回、偶然に帰ってこれた者は、「おれがいきかえると、よろこんだ」という、混乱に拍車を掛けるようなことを言った。
生き返ると喜んだ?
あの氷精は自分たちを虐殺してるのではないのか?
蛙たちは長老に答えを求めたが、長老にもなんのことだかさっぱりだった。
こんなことは長い人生の中でも経験したことがない。
理由も意味もわからないまま、蛙たちは減少し、絶滅の危機にまで追いやられた。
生き残っているものたちは散り散りになり、一箇所に固まって滅びる愚策を避けた。
――――なんたることか。
長老は嘆いた。
――――まごも、ひまごも、やしゃごもしんだ。
――――いきのこったものも、きっと、ながくはない。
――――かえるは、このままほろぶうんめいなのか……?
長老はいつまでも嘆き悲しんでいたが、ふと、いにしえの記憶が甦った。
唯一当てにできるもの、蛙たちの盟友だ。
紅魔館とやらに住むものたちではない。
彼らは自分たちと話をすることもできはしない。
頼れるのはこの湖に住む者。
同じ住居で生活を供にする者。
しかも、長老と同じ『特殊』な者。
長老が『くろわたさま』と呼ぶ、毛玉たちの王だった。
――――くろわたさま、どうかわたしのねがいをきいてほしい。
+++
「さあ、キリキリ吐きなさい。主犯は中国ね?」
紅魔館の一室、何故あるのだか誰も分からなかった部屋が活用されていた。
そこは牢獄のように暗く、狭く、あまりに殺風景だった。
薄汚れた壁染みが、うらぶれた雰囲気を増加させている。
部屋にあるのは机が一つ。
横にはスタンド型のライトが設置されてた。
――まあ、簡単に言えば、よく刑事ドラマなどで見かける『あの部屋』である。
カツ丼と暴力刑事と「仏の○○さん」がセットで洩れなくついてくる、『アレ』――取調室だ。
グルグル巻きに縛られ、座らさせられているチルノ、その対面で、十六夜咲夜は鋭利な笑顔を浮かべていた。
「違うわよ! わたしが勝手にしたんだってば!」
「まったく意外だったわね、よくあるパターンだけど実際にされると有効ね、『誰も考えていなかった、意外な犯人』っていうのは」
「中国は関係ないの! というかアンタたち、酷いんじゃない! いきなり中国を首にするなんて!」
「一尺八寸の虫にも五分の魂、だったかしら? どんなものも軽視してはいけないってことかしらね……」
「ちょっと! はなし聞いてる!?」
後ろの方では書記役のメイドたちがヒソヒソ話をしてた。
「ねえ、咲夜様って、最近、推理小説にハマってるって本当?」
「本当よ、それも刑事モノね」
「あ、やっぱり? この部屋も改造したのは最近でしょ?」
「うん、そうそう。嬉々として作ってたわよ」
「うわあ、そんなことするなら私たちの給料、上げて欲しいわよね」
「うんうん、無駄なところにお金つかってるよね」
しゅかん、とナイフがメイド二人の間に突き刺さった。
ちなみに、咲夜はチルノに向き合ったままだ。二人の方を見もしないで放ったナイフだった。
――当たっても構わないということなのだろうか?
「…………そこ? 何か言ったかしら?」
「「はい! いいえ、何も言ってません!」」
メイド二人が揃って言った。
軍隊式の、『上官には必ず肯定してから言葉を言う』方式だった。
踵をそろえ、一部も隙もなく敬礼する様子はかなりの教育を感じさせた。
「そう、気のせいならいいわ」
「「…………」」
むしろ優しげな笑みを咲夜は浮かべていた。
見る側からすれば、それは恐怖でしかない。
今は真正面にいるチルノが一番恐怖してた。
(これって、ひょっとして『おーぼー捜査』とかってやつなんじゃ……)
チルノはそんな連想をした。
犯人が自白するまで続けられるというあれである。
直立して微動だにしないメイドを見てると、あながち勘違いとも思えない。
机を挟んで前にいるのは刑事兼判事兼裁判官だった。
望む答えが返ってくるまで、この『捜査』は続けられそうだった。
+++
「うう、嫌だなあ」
中国は迷っていた。
この後に及んでも決心がつかない。
いや、自分の中で決断はしたが、身体がそれに応えてくれない。
博麗神社の石段を降りるのも一苦労だ。
――つい先ほど、そう、ほんのついさっき、霧雨魔理沙が「なあんか、紅魔館の方が騒がしいぜ、どうもピンチらしい」という情報を知らせにきた。
霊夢と一緒に縁側でお茶していた時だ。
あまり茶飲み話としては相応しくない。
午後のほんわかした空気の邪魔をしてる。
だが、まあ、それだけならば「めでたしめでたし、良かった良かった」と茶を飲み、「悪は滅びたのね」と呟くだけなのだが、さらに「あと、なんかチルノのやつが連れ去られてたぜ、殺意満々のメイド長に連れられて」という言葉を聞くに及び、他人事ではなくなった。
チルノは、中国にとって数少ない友達だ。
少なくとも中国本人はそう思っている。
義に生きる女、中国は聞いた瞬間、ものも言わずに飛び出した。
友を裏切るという選択は彼女にはない。
チルノは、たまに怪しい目で見てきたり、鼻息が荒くなったり、女性同士が結婚できる国の詳細なレポートを見せにきたりするが、友達だ。
チルノが泊まりにきた日に限って、下着がニ・三枚なくなっていたり、当然のように一緒に寝ようとしてきたり、「看病するから風邪ひいて!」と冷気を吹き付けたりもするが、それでもやっぱり友達である筈だ。
凍らせて復活させた蛙に『中国3号』とか『恋愛成就』とか名前をつけてるのも見たが、あれもきっと他意はないに違いない。
「もうすぐ、もうすぐだよ!」と一人で拳を握り締めてお星様に誓っていた姿は、決して『中国を凍らせて独り占めにするんだ!』という誓いではない筈――
「……なんでだろ? 行く気力が失せてきてるような……」
場所はいまだ博麗神社階段の中腹だ。
ある程度はテンポよく降りていた足が、ピタリと止まる。
「えーと」
よく冷静になって紅魔館にいる面々の姿を思い出してみた。
先ずはヴワル図書館から滅多に出ないとはいえ、絶大なる力を持つパチュリー。
その知識は全てを網羅し、病弱であることさえ除けば、ほとんど無敵だ。
知識に知識を積み重ねた鉄壁さは、生半可な攻撃では突き崩せない。
正直、彼女だけでも中国の手に余る。
「あー……」
次に思い出されるのは、地下室に閉じ込められてはや495年、この度、無事に出所したフランドール・スカーレット。
その破壊力は反則的、その上、分身をするわ姿は消すわで、意外なまでにバライティーに富んだ攻撃を繰り広げる。
その姉上であるレミリアに至っては、『運命』なんていう良く分からないものまで操る。
弾が当たるのも運命と言えば運命だろうし、誰かが誰かに勝つというのもやっぱり運命だろう。
つまり、これは『レミリアには絶対勝つ事ができない』ということにはならないだろうか?
「むむ……」
まあ、だが、あの紅白と白黒はその運命に勝った。きっと、なにか抜け道があるのだろう。
あの姫様は、なにかと本気をださない節がある。
それよりも何よりも、一番敵に回してはいけないのは――
「咲夜――――様」
そう、紅魔館の実質的な顔役、メイド長たる十六夜咲夜こそが一番の強敵だった。
なにせ、彼女には隙がない。
強者だけが持ちうる『余裕』、もしくは『隙』を極力排除してる。
これは生半可な力の持ち主を相手にするより辛い。
妹様を相手にした方が、実はまだしも勝機があった。
どれだけ精緻を極めた攻撃ができても、その射手の心には隙がある。
例えば、黒帽子と黒装束を着用して特攻すれば、勝率を『万に一つ』から『百に一つ』にまで上げられることだろう。
だが、十六夜咲夜には、そうした類いの隙が何ひとつない。
完全なる従者は、やっぱり完全だった。
ふんぞり返ってる王様よりも、神経を尖らせ続ける兵士の方が戦いたくない相手なのは明白。
油断を敵が持っているからこそ、弱者が勝てる余地がある。
にっこりと笑いながらも警戒を怠らず、ナイフを構える咲夜の姿が思い浮かんだ。
「うわあ」
紅魔館のイメージが、中国の中でどんどん巨大化した。
難攻不落の最終ダンジョン、待ち受けるのは最強クラスのボス四人。
戦うのはレベル1で初期装備の、ぺーぺーな冒険者。『皮の服』と『ひのきの棒』だけが心の友。
そんな気分だ。
無茶とかそういったレベルではない、『ダンジョン、何歩まであるけるかな♪』という世界。
敗北はもはや当たり前、いかに生き残るかだけが問題だった。
――ふと、後ろを振り返ってみる。
「…………」
青空を四角に切り取る鳥居、その中に博麗神社の屋根が辛うじて見えた。
平和で安全な、とても暖かい場所だった。
世の中、捨てたもんじゃないと思えた。
人の情けが身にしみた。
朱い鳥居の先には、いまもあの巫女がお茶をすすってることだろう。
ここで引き返せば、何気ない振りをしながらも歓迎をしてくれるはずだ。
男気溢れる女、霊夢。その懐は意外と深い。
でも、
「そんな資格、私には無いし――」
洩れ出た言葉に意味はない。
彼女自身、なぜ言ったのか気が付かなかった言葉。
だが、なにかが中国の中で吹っ切れた。
空を見上げ、両頬をぴしゃんと叩く。
「うし! 行ってみよう!!」
自分を鼓舞しつつ、空中へと飛ぶ。
そこに迷いは微塵も無かった。
+++
「あー、いいのか?」
「何がよ」
茶を飲み、『何も気にしてない』という体勢を霊夢は取っていた。
横では魔理沙が、飛び去っている中国を指差している。霊夢がきちんと正座なのに対して、こちらは縁側の外へ足を出し、ぶらぶらとさせていた。
「あの不幸娘だよ。あのまま行かせるのか? なんにでも首を突っ込むお前にしては珍しいじゃないか」
「それはあんたのことでしょうが。わたしはちゃんと節度をもって首を突っ込んでるわ」
「ちょっかい出すのに節度もなにもないぜ? ったく素直じゃないな」
「あんたみたいに三回転半はひねくれてるような人間に比べれば、大半の人間は素直なはずよ」
「なにおう、レーザー光線のように真っ直ぐだと謳われた、この私に向かっての台詞か、それは」
「真っ直ぐなのは攻撃だけでしょ、あんたの場合」
「ほほう、そう言うか」
「何よ」
「ふふん」
「ヘンな笑い方やめなさいよ、気味悪いわよ?」
「その湯のみ」
ビシリと、霊夢の持っているそれを指し示す。
「中身が無くなってから何回飲んでる?」
「12回よ」
即答だった。
「…………数えてるのかよ」
「乙女のたしなみよ」
「どこの幻想郷のたしなみだ、それは」
「幻想郷は博麗神社、そこに住むちょっとばかり可愛い巫女のたしなみよ」
「へーへー、そうかい」
魔理沙はそっぽを向いた。
そのまま、あお向けに寝転がり、ふて寝を始めた。
霊夢は空湯飲みから酸素を飲んみ込んだ。13回目である。
中身に入っていたものは、中国が淹れてくれた『美味しい安物茶』である。
「それに、ね」
「ん?」
「このまま行かせた方がいいような気がするのよ、なぜか」
「おお、神社巫女のご神託か、ありがたやありがたや」
「…………そのうち祓い殺すわよ? 魔理沙」
「そのうちっていうのは、永遠にこない日のことを言うんだぜ? 霊夢」
殺伐とした空気が満ちつつあった。
+++
ぽこんぽこん、と泡立っていた。
太陽に照らされ、鏡面の輝きを見せる湖、その一角に申し訳なさそうに存在する『毛玉』の群れ、それが泡立っていたのだ。
せいぜいがプール一杯分といった量だが不自然だった。
四方八方から吹き付ける風がなければ、毛玉が紅魔館近くにいる理はない。
自ら意識しなければ、毛玉は集まる事さえもないはずだった。
――困ったなあ。
毛玉の王、『くろわたさま』は考える。
蛙の長老と大分前に約定を交わした。
記憶が霞むくらいだから、かなり昔だろう。
具体的には3日前程度だろうか?
その約定とは『この湖に棲む氷精を、こらしめてほしい』というものだった。
その時は重々しく『了解した』と返答したのだが、あまり積極的に行動するつもりは無かった。
だって、毛玉は平和主義者なのだ。
渡る風に乗って吹かれ行くまま、それが毛玉の生き様だ。
たまたま風の先に人間やら妖怪がいたりしても、それは不幸な出来事であって、自ら戦闘を望んでいるわけではない。
だからこそ、『その機会に恵まれれば』との言葉を付け足した。
正直、気分が乗らなかったのだ。
この条件を加えれば、しなくてもよくなるだろうと思っていた。
チルノと呼ばれる氷精は知っているが、この広い湖で出会う確率は少ないし、その時、配下である『毛玉』が充分量、揃っていなければ、『機会が無かった』ということにするつもりだったのだ。
――――困った。
ところがどっこい、どうも世の中そんなに甘いわけではないようだ。
目の前に見えるのは紅魔館、そこに氷精が連れ込まれるのを目撃してしまった。
周囲を見れば、充分すぎるくらいの毛玉がいる。
昨夜ほどではないものの、『くろわたさま』が力を振るうのには支障のない分量だ。
――本当に、困った。
条件が揃ってしまった。
どうも倒さなければいけないらしい。
そう溜息を吐き出した。
めんどくさいなあ、と思いつつも、『くろわたさま』はその力を行使した。
泡立っていた毛玉たちが上方へと『盛り上がる』。
分裂に分裂を重ね、不恰好ながらも形を作ろうとする。
パキパキと音をたて、生きているものには不可能な速度で増殖する。
太平な青空の下、膨れつづける様子は不気味の一言だ。
鍋から吹きこぼれる泡のように、湖上を再び覆おうとした。
――だが、前とは違うところが一つあった。
毛玉たちは、ある一定の広さまで広がると、今度は自立的に直角に曲がった。
ガラスの円筒があり、そこから先には行けないのだとでも言うように、全部の毛玉が綺麗に回転する。
増え、広がるのに、場所を狭めれば、当然、毛玉たちは上に行くしかない。
洗濯機の中身を取り出したかのような、『円筒内で回転する毛玉』が出現した。
端から見れば、不自然に回転する塔が見えただろう。
中心では、ゆっくりと何かが息づき始めていた。
+++
――――その様子は、紅魔館の取調室内からも見えた。
「…………」
――なにあれ?
ブラインドの隙間をちょっと広げ、咲夜的に『ちょっとカッコいいベテラン刑事』を演じつつ、そんなことを思った。
これからチルノに対し、『田舎に住む、おふくろさんが泣いてるぞ』と、泣き落としに入ろうとしてたのに台無しだ。
妖精に親はいないだとか、チルノは、ここの湖で生まれであるなんてのは考慮しない。
『紅魔館周辺に広がる大自然が泣いてるぞ』ではサマにならないし、番組が違う。すくなくとも刑事モノには絶対ならない。
――思う間にも円筒の毛玉は、その高さをどんどんと吊り上げていた。
中心には何やら黒い輝きを放つ、不審な物体も見えた。
恰好だけで持っていた煙草がポトリと落ちる。
夜間の悪夢が甦った。
あの雲海だ。
音を立てて振り返る。
身体全体でザッ!と。
「?」
チルノが、拘束されたままだった。
不機嫌そうな顔をしながらも、片眉を上げ、疑問を表している。
なによ、このメイド? といった様子だ。
どうやら犯人ではなさそうだ。
前回の原因が、今回の異変の原因とは限らないということだろう。
下手人がこんなに呑気にしてるはずもない。
「なに? どうしたのよ」
チルノは尋ねるが、それには答えない。
厳しい顔で回転し、再びブラインドの隙間から覗く。
何よりも、状況確認が最優先だ。
相手が攻撃するかどうかさえ、まだ分からないのだから。
毛玉の群れが、なんとか形を整えつつあった。
回転が止まり、早送りの形成がなされる。
勇壮な四肢が湖を踏み締め、
巨大な体躯が出現し、
水性を表す肌が作り出される。
紅魔館よりも確実に大きい。
馬鹿でかい、あまりに大きすぎる口は、人間なんか1000人単位で食べれそうだ。後ろ足は力強く、跳躍力の高さを暗示してる。
――――まあ、つまりは、巨大な毛玉の蛙がいた。
白く、艶やかでいながら規格外に巨大な様は、ある種の神聖ささえ感じさせた。
人間の限界を超えた姿だ。
咲夜の脳みそはショートして吹っ飛ぶ。
遠近法を無視した光景だ。
ただ呆然と見るしかない。
蛙は口を大儀そうにあけると、のっぺりと大きな舌を出した。
つぶらな瞳で狙いをしっかりと定めると、ベロを弾丸の速度で伸ばした。
衝撃で大気が鳴り響き、湖を二つに割りながら紅魔館まで直進する。
大きすぎる舌は細くなりつつ、咲夜のいる取り調べ室まで突入した。
「!」
紅魔館に張られた結界がほんの一刹那、抵抗したが無駄だった。
取り調べ室のガラス、ブラインドもろとも白槍となった舌が貫く。
咲夜が避けられたのは、彼女が時を止めたからにほかならなかった。
身体を捻った横を白槍は行く。
そのまま身動きの取れないチルノのすぐ傍らを通り抜け、背後の壁をぶち破り、廊下を蹴散らし、間の全ての部屋部屋を壊し、紅魔館の反対側まで突き抜け、ようやく止まった。
「――――へ?」
チルノはそれだけを言った。
衝撃で拘束が解けているのにも気がつかない。
書記役メイドの二人もまるで動けない。
事態を把握できていないのだ。
唐突に『白い何か』が窓の向こうから来た。そんな程度しか認識できない。
「警戒態勢『甲』!!」
崩れた体勢のまま、咲夜が叫ぶ。
最上位の警戒を呼びかける言葉だった。
メイド二人が命令遂行のため、反射的に立ち上がった。
だが、同時に紅魔館を貫く舌も崩壊した。
白槍は唐突に元の素材を思い出し、毛玉の姿を取り戻した。
大小種類も様々な毛玉が室内に満ちる。カマキリの卵を1トンやら2トンの単位で孵した有様だ。
「うわ!」
「ひょえ~!?」
「な、なに!?」
生理的嫌悪感と驚きで、三人は慌てふためいた。
無理もない、引いて当たり前の光景だ。
「ぼさっとしない! 混乱しない! 早く皆に伝えなさい!」
鋭く命じつつ、咲夜は自分とチルノ、そしてメイド二人に群がろうとしていた毛玉を瞬殺した。
投げたというよりも、周辺の壁、机や家具に毛玉の突き刺さったナイフが出現した、そうとしか思えない凄まじさだった。
その速度は、かき鳴らされた衝突音と、室内を吹き荒れる突風しか証明しない。
「「りょ、了解!」」
声を揃えて返答し、メイドたちは去った。
慌ててはいるが、ほどなく全員に伝わるだろう。その程度には二人とも優秀である。
「さて――」
とりあえず屋敷は大丈夫だ。
次は身の回り、このふよふよ室内を漂っている毛玉の対処だ。
咲夜は鋭い目をより細め、室内の毛玉を『視た』。
瞬間、時は動くのを止め、毛玉は空中に縫いとめられた。
あらゆるものが動かぬオブジェとなる。
チルノは両手を振り回す姿で固定され、落ちようとする窓ガラスは停止する。
こうなると仕事は簡単だ。
彼女は片手間に毛玉を殲滅しつつ、紅魔館内部の様子を窺った。
昨日の襲撃が『圧倒的物量による殲滅作戦』なら、今回のは『内部に兵を送り込む奇襲戦』といった所だろう。
効果はかなり高い、館内部では系統だった行動をとれていないようだ。
右往左往する様子がよく分かる。
「ふう」
時を戻す。
室内の毛玉が、完全に同時破裂した。
大きな破裂音が一回だけ鳴る。
これでしばらくは持つはずだ。
咲夜は、紅魔館の前に陣取っている蛙の化け物を睨みつけた。
混乱の様子は分かったが、それでも内部は放っておいても大丈夫だろと判断した、働ける人数こそ激減しているが、毛玉に遅れをとるような教育はしていない。
成すべきことを伝えれば、あとは各々が判断して行動する筈だった。
白蛙が『ぬぱ』っと口をあけた。
他を圧倒する声が響く。
『要求、するよー?』
意外なほどに高い、子どもの言葉が紡がれた。
つぶらな瞳を持つ蛙としては相応しいが、紅魔館よりも巨大なバケモノとしては相応しくない。
『そこにいる氷精を引き渡して欲しい。それで僕はここから帰る。もし、嫌なら、この館を壊して捜すよ。それは嫌だよね? 僕も嫌だ。だから素直に渡してくれると嬉しい――』
「ふえぇ!!!???」
この言葉に一番驚いたのはチルノだった。
「ちょ、ちょっとなんでよ!!?」
室内に籠ったまま叫んだ。さすがに窓の外に顔を出すようなことはしない。
そんなことをすれば拉致られるのは確実だった。
『……たのまれた――』
わずかな逡巡を挟んで、蛙は返答した。
不機嫌と不本意を混ぜ合わせた声だった。
『友達の家族が、そこの氷精に虐殺された。ジェノサイドだ。だから僕はこの姿であらわれたんだ――』
「は、はい!?」
チルノは敵をじっと見てみる。
よく観察する。
「あ、あー……」
良く見なくても、毛玉の塊は、蛙にしか見えない。
なんとか他のものに見えないかなと試してみるが、無駄だった。
ロールシャッハテストではないのだ、それ以外のものは連想さえ難しい。
これぞ蛙。まさに蛙。蛙な姿をした蛙っぽい蛙だ。
そう、チルノが日々、『実験』をしてる相手だ。
「……ひょ、ひょっとして。ひょっとする?」
『――――』
要領を得ない質問には、無言の圧力だけが返された。
「だから、そう言ってる」といった様子だ。
そういわれてみれば、ずいぶん『実験』したなあ、とチルノは思い返した。
(一日にあんだけ『実験』して、成功したのがあれだけだから……)
指を折って数えてみる。
なんと恨まれて当然な数字だった。
この湖がどれだけ広くても蛙は絶滅してるだろうなあ、という数値。
チリも積もれば山となる、賽の河原で積み上げられた小石がバベルの塔だった。
それは既に天まで届いてる。
「あのう……?」
『引き渡してよ――』
声はかん高く、だが圧倒的な威圧感をもって、毛玉蛙は要求した。
チルノは恐る恐る、十六夜咲夜を窺った、無表情に腕を組んでいる様からは、どんな温情も期待できそうに無い。
「――――」
咲夜は考える。
貧乏揺すりをしながら思考を展開する。
現在、紅魔館の戦力は激減してる。
パチュリーは喘息と心労が祟りベットから起きることもできない。
レミリア・フランドール両名は地下の棺桶で休息中。遅くまで弾幕を張っていたので起きる事もないだろう。
魔書・子悪魔・メイドたちのほとんどは、疲れきっていて活躍を期待できない。
つまり、まともに働けるのは咲夜ひとりだけ。
他は防衛するだけで精一杯だろう。
紅魔館を守る、それだけを考えるのなら、ここはチルノを引き渡すべきだ。
他の選択肢は考えられない、『量』はやはり『力』だ、雑魚である毛玉でさえあれだけ集まれば力を持つ。この蛙に至っては館を貫くほどの攻撃力を秘めている。
咲夜一人で退治するだけ、というならともかく、紅魔館を攻撃に晒さないようにしながら退治するとなると、相当に分が悪い。
現実を見据えるのであれば、合理的な判断を取るのであれば、『最小限の犠牲で済ませる』のが得策だ。
犠牲が一人でいいなんて破格な話だ。
敵戦力は強大であり、しかも、高速で増殖も可能な様子。
これでは一人対無限数なんていう、無謀な戦いとなってしまう。
「ハッ」
――だからどうした?
咲夜は、笑い飛ばした。
――充分すぎるほどの戦力だ。
この館を、主人を守る。
十六夜咲夜は、そのための存在だ。
敵の過多に強大さ、状況の厳しさ、敵の正当性、味方の少なさ、一人しか戦えない不利、一切合財問題ない。
ここにいるのは十六夜咲夜だ。
そこに合理は無かった、ただ誇りだけがあった。
あの毛玉蛙はよりにもよって『紅魔館を壊す』などとのたまった。
これに屈し敵の風下に立つなど、従者としてもメイド長としてもあり得ない。
それは咲夜が咲夜であることを否定する行動だ。
口の端を吊り上げた。
皮肉気な笑みを浮かべながらも、割れた窓から飛び立ち宣言する。
「蛙風情が何を言ってる? この紅魔館相手に脅しだと? 寝言は寝てから言え!」
そこにいるのは、決意を秘めた、ただ一人の人間だった。
+++
『交渉決裂、だね――』
「そもそも交渉の余地がないのよ、あなたは既に紅魔館を破壊した。それなら返礼をしなきゃ、無作法ってものでしょう?」
『いえいえお構いなく――』
「あいにくね、無理矢理にでもお礼するわよ」
『それは俗にいうお礼参りってやつじゃ――』
「違うわね、これは紅魔館では『礼儀正しい態度』って言うのよ」
咲夜は足を進めた。
湖の上を、なんの苦も無く歩く。
水面に、蛙とメイドが映し出された。
『そうなんだ。なら――』
「ええ、これ以上は――」
毛玉蛙が低く身構え。咲夜がナイフを出現させた。
一人と一匹の声が揃う。
『「言葉は無用! 弾幕あるのみ!!」』
――――そこからは超高速で事態が進んだ。
まず、ナイフが蛙の周囲に『出現』した。
跳びかかろうとする動きより、何倍も早い。
『くろわたさま』から見れば、攻撃直前にナイフで出来たドームに閉じ込められた感覚だ。
咲夜の掛け声と共に、それらは『閉じる』。
逃げ場所などありはしない、出口なんていう親切なものは付けられていない。
作ったとしても巨大な蛙の躰での突破は無理であったことだろう。
何も出来ないまま、ナイフ数千本に躰を貫かれ――――
「な!?」
――――ることは無かった。
紅魔館を貫いた舌と同じように、毛玉蛙は崩壊した。
不定形にゆらゆらと揺らめき、攻撃を無効化してしまう。
そう毛玉は平和主義者。風に流されるままの生き様。『くろわたさま』に強化された毛玉は、ナイフが纏う風にさえ流された。
ナイフは例外なく毛玉蛙を通過し、湖面を波立たせることしかしない。
唖然とする咲夜を、『くろわたさま』は見逃さなかった。
つぶらな瞳を光らせると、不定形な躰から幾つもの毛玉を飛ばす。
『くろわたさま』ほどではないが特別なもの。『弾丸を出せる毛玉』だった。
先ほどのお返しとばかりに咲夜の周囲にドーム状に展開。弾丸を盛大に吐き出す。
「くっ!」
それらを当然のように避けながらも、咲夜は困惑した。
己の攻撃が無意味であったのだ。
『攻撃を無効化』する相手に勝つことは不可能だ。
手詰まりというほどではないが、打てる手が大幅に減ってしまった。
『――――』
一方の『くろわたさま』の側も楽なわけでは無かった。
相手は攻撃のなにもかもを避けている。
放った弾幕は余裕で避けられ、飛ばした毛玉は瞬殺され、伸ばした舌は切断された。
時に別の場所に瞬間移動し、時に毛玉が激減する。
『絶対回避』――
こちらの『攻撃無効』に対して、相手が持っているのがそれだった。
とにかく攻撃が当たらない。
まるで処理速度をわざと遅くしてゲームをしてるへタレプレイヤーのような卑怯さだ。
(『だけど――』)
不利は敵も同じ。
無駄に弾幕の応酬をしているようで、『くろわたさま』はきっちり計算してた。
むしろ長期戦になれば、数で勝る毛玉が有利。スタミナはいくらでも、無尽蔵にある。
相手だって永久に『避け』られるはずはない、いつかはミスをする時が来る、と。
「くっ」
果たして、その時は訪れた。
しびれを切らしたメイド長が、無策とも思える突入をしたのだ。
(『やった!!』)
こころの中で快哉を叫びながら、全力で弾幕を繰り出す。
時を止めても避けられない、それこそ『攻撃無効』にでもしなければならないほどの弾幕量。
タイミング、威力、速度、全てが完璧だった。
上下左右、あらゆる角度から繰り出された渾身の攻撃だった。
『!?』
なのに――
それなのに――
完全にピンチである筈なのに――――
十六夜咲夜は嗤っていた。
とても楽しそうに。
とても可笑しそうに。
毛玉たちの無知を、過信を、失策を嘲る笑みだった。
会心の一手に嵌ってくれたことを賛える笑み。
その口から言葉が漏れる。
手元のスペルカードが力を乱舞させる。
――プライベート・スクウェア――
『空間』が広がる。
時間が歪む。
咲夜だけの世界が、すべてと切り離されてそこにある。
四方を囲む毛玉たちは『壁』を見た。
何色と表現できない、ただ空間の色としか言うことのできない『壁』。
すべての弾幕は、その壁に弾かれ消えた。
「はぁ!!」
『!!』
そして、弾くだけでは終らなかった。
その『絶対の壁』を引き連れたまま、咲夜はなお直進した。
高速回転するミキサーがそうであるように、周囲を削り壊しながら突き進む。
防御も反撃もできない、『絶対の一撃』だ。
空間を相手にしては、どんな構造物でも防御しきれない。
硬さなぞ、そこでは意味を消失する。
『ま、まだだ!!!』
『くろわたさま』は諦めなかった。
意外に往生際は悪い。
敵の攻撃範囲よりも更に広く、毛玉を拡散させようとした。
防御できないのであれば避ければいい、蛙の姿を崩し、ドーナッツ状に広がろうとしたのだ。
だが、そこに『待った』がかかった。
標的であった筈の氷精の声が、絶望的なまでに大きく響く。
――パーフェクトフリーズ!!!――
拡散に歯止めがかかる、これ以上広がることができない。動くこともできない。
「これで動けないでしょ!!」
紅魔館の窓中から、チルノが叫んだ。
巨大な氷の塊に閉じ込められ、一時的に動きを封じられる。
その一時は、あまりに重大な一時だった。
『あああああ!!!!!!』
絶望的な攻撃が、『くろわたさま』のすぐ目の前にまで迫っていた。
+++
「うわ……」
チルノは思わず呟いた。
予想外の破壊力だった。
チルノ自身が行使した力ではない、紅魔館メイド長が使った力のことだ。
まっすぐな、道ができていた。
湖が二つに分かたれ、その先の森にまで道は続いていた。
亀裂が余りに深すぎるのか、水がごうごうと音を立てて流れ込み、一向に満タンになる様子を見せない。
道の基点付近では、十六夜咲夜が跪き、肩で呼吸をしていた。
一応、空中に止まってはいるが、披露困憊であるようだった。
チルノの視線に気がつくと、彼女は力なく片手を上げ、口の端を吊り上げて微笑んだ。
チルノも微笑み返し、手をぶんぶん振る。
なんとなく、仲間意識のようなものが芽生えていた。
――後ろからコトリと、物音がした。
もう危険はないだろうとは思ったが、一応、振り返ると――
「あ、中国」
虚ろな瞳をした、いつもと様子の違う中国が、そこにいた。
エセ刑事モノやってた前半部はどこへやら、って感じです。
>中国の価値を再発見。みたいな『ちょっといい話』を狙ってたんですが、
では、中国に新たな価値が見い出されることを祈りつつ、終編を待ちます。
……でも中国だからなぁ(ぉぃ)。
咲夜さんの瀟洒さは言うに及ばず、毛玉群の圧倒感がたまりません
いやぁ、大変面白かったです。終編を心持ちにしております。
・・・あれ、何か忘れているような・・・?
今回の見所はやはり咲夜さん大暴れですね。プライベートスクウェアを利用した空間断絶攻撃はなるほど、そんな攻撃もありかと納得してしまいました。
さあラストはどんな山が待っているのでしょうか。
ちなみにこれは咲夜とチルノが主役のバトルものでしたっけ?
何かが違っていた気がするのですが……
え?中国?いたっけ?