※「東方永夜抄」製品版のネタバレは含まれて居りません。
《凶兆の黒猫 橙》
橙(チェン)はすきま妖怪の式の式、すなわち式神の式神である。
彼女はもともと山に棲む化け猫で、人間を脅かしたり小馬鹿にしたり苛めたりして、暢気に過ごしていた。
ところがある日のこと、通りがかった人間の娘を脅かそうとしたら、逆にこっぴどく痛めつけられてしまった。
「化け猫風情が、調子に乗るからだ」
その妖怪――そう、相手は人間に化けた妖怪であった――は冷たく言い放ち、
「悪さができないように、尻尾を引っこ抜いてやろうかな?」と、人の悪い笑みをうかべた。
そればかりはご勘弁を、と橙が必死に哀願したおかげで、彼女は尻尾をあきらめた。
「ただし、条件がある」
「と、いうと?」
「私の飼い猫になれ」
それはまったくもって嫌なことだったが、このさい尻尾を取られるよりはマシというべきだったから、橙は不承不承うなずき、「よし、今日からお前のことを橙と呼ぼう」と勝手に名前をつけられても、文句一つ口にしなかったのだった。
かくして妖怪(名を八雲藍といった)は彼女をねぐらに連れ帰り、己の部屋に入れた。
「いいか? この部屋から出てはいけない。もし出れば……」
くいっ、と引っ張るしぐさに、橙はおもわず尻尾を押さえ、ぶんぶんと首肯していた。
「そう、いい子だ。じゃ、おとなしくしているんだな」
こうして、橙の退屈な生活がはじまった。
飼われているのだから仕方はないが、要は軟禁状態である。余猫は知らず、野山を自在に駆け巡ってきた橙に、耐えられるものでないのは自明だった。
「なんとか逃げ出さにゃ……」
とはいえ、それが容易ならざることもまた、明らかだった。
肝心の戸口には鍵がかかっているし、壁を突き破って脱出できるほどには彼女も頑丈でない。
(仕方は無い)
こうなれば、しばらくは大人しくしていて、隙をさぐるほかはなさそうだった。
それにしても、飼い猫生活も楽ではなかった。
藍がいないあいだはまぁいい。しかし、彼女が戻ってきたらそれはもう、大変なことになる。
まず、藍は橙でひととおり遊ぶ。もてあそぶ、といってもいい。
毛糸の玉を転がして反応を楽しみ、のしかかっては手のひらをぷにぷにと存分に押し、服を脱がせてはどこからか持ってきた派手派手な服を着せて鑑賞し、しまいには橙がもっとも嫌がる水で身体をごしごしと洗うのだった。
藍はたいそう楽しげであったが、橙にとっては責め苦にも似たものであったこと、紙幅を費やすまでもない。
「お前は、私によく似ているよ」
彼女はしばしばそんなことをささやいたが、橙にしてみれば「何を抜かしてやがる」という話だった。
それでも橙は耐えた。耐え忍んだ。
そのうち、藍やこの屋敷に関する情報もつかめてきた。
どうやら藍は他の妖怪の式神であるらしい。彼女ほどの強大な妖力をもつ者を使役しているのだから、それはそれは恐ろしい怪物なのだろう、と橙は推察した。
藍は本体だけでも十分に強力な妖狐であるが、主に鬼神を付与されることでさらに大きな力を得ているのだと知り、橙は一思案した。
「どうかこのさい」と彼女は藍に嘆願した。「私にも、鬼神を憑けてください」
藍は橙の耳を引っ張る手を休め、苦いものでも舐めたような顔をした。
「やめておくのがいい。式神なんぞ――ろくなものじゃない」
それはいたって真情のこもったものだったが、橙はなお食い下がった。「ご主人さまのお役に立ちたいんです!」
文字通りの猫なで声で媚びられて、藍もついついうけ合った。
「では、憑けるけれど」
藍は念を押した。「けっして、つまらないことは考えないように」
まさかまさか、と橙は愛想をふりまいた。
なおも浮かぬ顔で、藍は彼女に式神を憑けた。
「――っ!!」
全身にみなぎる異様なまでの力に、橙はうめいた。
「どう? 気分は」
「……っ、コ……ウ」
「なに?」
「最ッ……高……ッッ!!」
「!?」
雄たけびとともに、橙は藍に体当たりを食らわせていた。
不意をうたれ、壁を突き破って吹っ飛ぶ妖怪狐。
「さっさとトンズラしようと思ってたけど……! やっぱり、溜まったうっぷんは晴らさせてもらわないとね!!」
五臓六腑に、四肢に尻尾に、あふれんばかりに充満する妖力におののきながら、橙は哄笑した。
「食らえっ、食らえっ、食らえっ!!」
無数の妖気弾をこしらえ、藍めがけてちぎっては投げ、ちぎっては投げつける。たちまち、屋敷は半壊していた。
「はーっ、はぁーっ、はぁーーっ……」
「……気は済んだ?」
ふいに耳元で声がして、ギョッとして振り向くと、そこには藍が――まるで無傷で――立っていた。
「な……っ」
「やっぱり、お前と私は、よく似ているな」
橙が何か言う前に、藍は彼女から式をひっぺがし、彼女を宙に投げ出した。
(化かしあいで、猫が狐にかなうもんか)
地面に落下して失神する寸前、橙はそんなことを考えていた。
「――たいそう荒れたこと」
橙の大暴れで瓦礫と化した離れを眺め、屋敷の主がいった。
申し訳ありません、と叩頭する藍。
「いいけど、別に。私の寝所さえ無事ならね」
と、寝床へ向かおうとしたすきま妖怪は、ふと足を止め、思案顔をした。
「そういえば、あなたも似たような真似をしてくれたわね」
「……よくご記憶で」
それはそうよ、と主。「だってあなたは、私が鬼神を憑けてあげたとたん、マヨヒガが半壊するくらいの大暴れをしてくれたじゃないの?」
若気の至りというものです、と藍は頭を下げた。
「まぁ、せいぜい」きちんと躾けることね、と言い残して藍の主人は寝所へ向かった。
仰せのとおり、と答えたものの、
(先は長いな)
藍は、そうひとりごちた。
何しろ、さっきまで猫を縛っていた柱に、既にその姿はなかったのである。
(だがね、ドラ猫――)
式神の追跡を開始しつつ、八雲藍は微笑んだ。
(気の長さでは、私のほうがきっと上手だよ)
果たして、彼女の自己分析が正しかったことが証明されるには、なおいくばくかの歳月を要することとはなるのだった。
《八雲 藍》
八雲藍は八雲紫の式神として、ずいぶん長いあいだ仕えてきた。
主人の式神使いはけっして荒くないとはいえないものだったが、藍はそれなりに苦労しつつも、まぁそれなりの楽しみを享受していた。根っから、楽観的なのである。
ある冬のこと。
あるじが冬眠してしまったので、その役目を代行するかたわら、藍は人間に変化してはあちこちへ赴き、無聊を散じていた。
そんなおり、山中で一匹の子狐と出会った。
「親のない子か」藍は生来情の濃いたちだったから、大いに同情した。
しかしまた、彼女も自然の理の中より生まれそこに生きる者であったから、情をもってこの狐を助けることは、はばかられた。
「ここに」と、彼女は一枚の符を取り出し、子狐のもとに置いた。
「呪符がある。お前がこれを必要とするなら、もっていけ」
しばし躊躇していた子狐だったが、やがて符をくわえ、いずこかへと走り去っていった。
「もしお前に運と命があれば」藍はつぶやいた。
「その符が、お前の助けとなるだろう」
かくて、そのまま立ち去った。
それから数年ののち、藍はふたたびかの山中を訪れた。
なにやら騒がしいのでよく見れば、多勢の人間どもが得物を手に押し寄せている。いや、わずかながら妖怪の姿も見えた。
「これは何のさわぎだね」と手近な人間に問うと、
「この山にたちの悪い妖怪狐が巣くって、人間といわず妖怪といわず毒牙にかけている。そこで我々は手をとって、かの化け狐を討つことにしたのだ」
(もしや?)
と、藍は思ったが、彼らと共にくだんの妖狐を探索することにした。
ほどなくして、雄たけびと轟音を響かせながら、林の中から妖怪狐が狩り出されてきた。
すでに手負いの彼に向かい、人間や妖怪がいっせいに襲いかかったが、狐の放つ無数の妖弾に阻まれ、近づくことすらできない。
「下がれ」
一喝し、藍は狩人らを押しのけて突き進んでいった。
一見すると隙間もない妖気の結界だが、彼女には道筋がはっきりと見えていた――何しろ、自分でこしらえたものであったから。
妖狐の放つ邪気をすり抜け、その鼻先に肉迫した。
「憶えているか、小せがれ?」
「ああ――」妖孤は答えた。「憶えているさ」
「なぜ、こうなった?」
「理由など」妖怪狐は吼えた。「知らん。おれが、知りたい」
「私は、お前を生かすべきではなかったのかな」
「それも」彼はひどく疲れたふうにいった。「知ったことではない。おれにとっては――どちらでも、同じことだった」
「ならば、どうする?」
「死ぬのみだ。とはいえ」妖怪狐は、呪符を放った。「おれは妖怪ではなく、獣として死ぬさ」
果たして、妖力を失ってただの狐となった彼は、たちまち狩人らによって八つ裂きにされた。
それを見届け、藍はきびすを返した。
血染めの符を入れた懐が、ひどく重く思えた。
こののち、藍は、おのれの式神がもっと強い鬼神を憑依させてくれと言ってきても、けっして許さなかった。
「狐ですら溺れた。まして猫ではね」
そうした述懐は、もとより誰も知ることのないものである。
《八雲 紫》
八雲紫は境界を操る程度の能力を持ち、気の遠くなるような歳月を妖怪として過ごしてきた。
しかしおおむね寝てばかりいたので、それに見合った知識があるかどうかはあやしい、と見られているが、当人にとってははなはだどうでもよいことだった。
ある夏のこと、暑くて寝苦しいので、使役している式神に
「なんとかしなさい」と命じた。
式神は思案のあげく、竹で抱き枕をこしらえ、献上した。そのかみ大陸で見かけた、竹夫人と呼ばれるものである。
紫は大いに喜び、竹の枕を抱いて、そのひんやりとした感触を楽しんだ。
式神は、おかげで夜っぴて尻尾を回して風を送らなくても済むようになり、ホッとしたことだった。
それはまぁそれで良かったが、力ある妖怪によって作られ、夜ごと(というより、日がな一日)さらに力ある妖怪に抱かれつづけたこの竹夫人は、いつしか妖力を持つようになった。早い話が、妖怪化したのである。
とはいえ、じっさいに紫が使っているあいだはどうということもなかった。
が、季節が過ぎて夏も終わり、いいかげん抱き枕も不要となった時分に、事件は起きた。
ある日のこと、式神が、式神に――ややこしいが、つまり紫の式神自身も式神を持っているのだ――「釣りに行きたい」とねだられた。
「やめておくのがいい。お前は水が苦手なのだから」とさとしたものの、嫌だいやだ釣り立ての魚を食べたいんにゃーと駄々をこねられ、へきえきした。
「それに第一、私はご主人様のお世話に忙しいんだ」
そう説いてなんとか納得させたものの、式神にとっても、いささか物憂いことではあった。
そのとき、「よろしければ、私が代わってさしあげましょうか」という声がした。
何奴、と見れば、かの竹夫人である。
「お前は……そうか。変化したのか。だが、なんだって? 私の代わりだと?」
「おかげさまで、私もちょっとした能力を身につけましたので。これ」と、竹夫人はドロンと姿を変えてみせた。「このとおり」
なるほど広言するだけあって、式神そっくりの姿である。
「フム。それで、私の代わりにご主人のお世話をすると?」
いかにも、と竹夫人。「お世話になっておりますれば」
「ふーむ……」
そこで式神は彼女に後をまかせ、式の式を連れて湖へ出かけた。
そうとも知らず、紫は寝入っていたが、ふと寝汗が気になってきたので、着替えを持ってきて頂戴、と式神を呼びつけた。
すぐさまやってきた式神――中身は竹夫人であるが――は、てきぱきと本物以上の手際の良さで紫の衣服を脱がせ、また新しい寝巻きを着せた。
「今日はずいぶん」と、主人。「張り切ってるのね」
「それはもう」と、従者。「楽しいことですから」
「そう。ところで、寝疲れで筋肉痛なの。ちょっと腰でも揉んでくれる?」
もちろんです、とさっそく揉みはじめる。
「ああ、いい塩梅だわ……」
と、さっそくうつらうつらと船をこぎ出す紫。
それを見た偽式神はふと手を離した。そして、やおら紫に覆いかぶさって――
しかし一瞬の後、竹夫人は吹き飛んでいた。
「やはり悪心があったか!」悪い予感にかられ、式の式を放って帰ってきた式神が叫ぶ。
「……私は」虫の息ながら、妖怪がいった。「……ただ、抱きかっただけ」
「なに?」
「いつも抱かれてばかりだったから。この方を……抱いてさしあげたかった。見えざるものから、覆ってさしあげたかった。ほんの、ひとときでも」
「――っ」
でもそれも、と最後の一息。「……もう、かなわない」
式神は黙って竹の残骸を片付けた。
戻ってくると、ちょうど主が目を覚ましたところだった。
「あら。どこに行ってたの? もっと揉んで頂戴」
心得ました、と式神は答え、紫の身体を起こし、そっと背後から抱きしめた。覆うように、守るように。
「どうしたの?」紫は不思議そうにいった。
「お嫌ですか」
そうね、と式神の主はいった。「そうでもないわ」
式神は大陸の歌を口ずさんだ。
「それは……子守唄……?」
いいえ、と式神は答えた。「――挽歌です」
しかし紫はすでに寝入っていたから、その答えを聞くことはなかったのである。
《凶兆の黒猫 橙》
橙(チェン)はすきま妖怪の式の式、すなわち式神の式神である。
彼女はもともと山に棲む化け猫で、人間を脅かしたり小馬鹿にしたり苛めたりして、暢気に過ごしていた。
ところがある日のこと、通りがかった人間の娘を脅かそうとしたら、逆にこっぴどく痛めつけられてしまった。
「化け猫風情が、調子に乗るからだ」
その妖怪――そう、相手は人間に化けた妖怪であった――は冷たく言い放ち、
「悪さができないように、尻尾を引っこ抜いてやろうかな?」と、人の悪い笑みをうかべた。
そればかりはご勘弁を、と橙が必死に哀願したおかげで、彼女は尻尾をあきらめた。
「ただし、条件がある」
「と、いうと?」
「私の飼い猫になれ」
それはまったくもって嫌なことだったが、このさい尻尾を取られるよりはマシというべきだったから、橙は不承不承うなずき、「よし、今日からお前のことを橙と呼ぼう」と勝手に名前をつけられても、文句一つ口にしなかったのだった。
かくして妖怪(名を八雲藍といった)は彼女をねぐらに連れ帰り、己の部屋に入れた。
「いいか? この部屋から出てはいけない。もし出れば……」
くいっ、と引っ張るしぐさに、橙はおもわず尻尾を押さえ、ぶんぶんと首肯していた。
「そう、いい子だ。じゃ、おとなしくしているんだな」
こうして、橙の退屈な生活がはじまった。
飼われているのだから仕方はないが、要は軟禁状態である。余猫は知らず、野山を自在に駆け巡ってきた橙に、耐えられるものでないのは自明だった。
「なんとか逃げ出さにゃ……」
とはいえ、それが容易ならざることもまた、明らかだった。
肝心の戸口には鍵がかかっているし、壁を突き破って脱出できるほどには彼女も頑丈でない。
(仕方は無い)
こうなれば、しばらくは大人しくしていて、隙をさぐるほかはなさそうだった。
それにしても、飼い猫生活も楽ではなかった。
藍がいないあいだはまぁいい。しかし、彼女が戻ってきたらそれはもう、大変なことになる。
まず、藍は橙でひととおり遊ぶ。もてあそぶ、といってもいい。
毛糸の玉を転がして反応を楽しみ、のしかかっては手のひらをぷにぷにと存分に押し、服を脱がせてはどこからか持ってきた派手派手な服を着せて鑑賞し、しまいには橙がもっとも嫌がる水で身体をごしごしと洗うのだった。
藍はたいそう楽しげであったが、橙にとっては責め苦にも似たものであったこと、紙幅を費やすまでもない。
「お前は、私によく似ているよ」
彼女はしばしばそんなことをささやいたが、橙にしてみれば「何を抜かしてやがる」という話だった。
それでも橙は耐えた。耐え忍んだ。
そのうち、藍やこの屋敷に関する情報もつかめてきた。
どうやら藍は他の妖怪の式神であるらしい。彼女ほどの強大な妖力をもつ者を使役しているのだから、それはそれは恐ろしい怪物なのだろう、と橙は推察した。
藍は本体だけでも十分に強力な妖狐であるが、主に鬼神を付与されることでさらに大きな力を得ているのだと知り、橙は一思案した。
「どうかこのさい」と彼女は藍に嘆願した。「私にも、鬼神を憑けてください」
藍は橙の耳を引っ張る手を休め、苦いものでも舐めたような顔をした。
「やめておくのがいい。式神なんぞ――ろくなものじゃない」
それはいたって真情のこもったものだったが、橙はなお食い下がった。「ご主人さまのお役に立ちたいんです!」
文字通りの猫なで声で媚びられて、藍もついついうけ合った。
「では、憑けるけれど」
藍は念を押した。「けっして、つまらないことは考えないように」
まさかまさか、と橙は愛想をふりまいた。
なおも浮かぬ顔で、藍は彼女に式神を憑けた。
「――っ!!」
全身にみなぎる異様なまでの力に、橙はうめいた。
「どう? 気分は」
「……っ、コ……ウ」
「なに?」
「最ッ……高……ッッ!!」
「!?」
雄たけびとともに、橙は藍に体当たりを食らわせていた。
不意をうたれ、壁を突き破って吹っ飛ぶ妖怪狐。
「さっさとトンズラしようと思ってたけど……! やっぱり、溜まったうっぷんは晴らさせてもらわないとね!!」
五臓六腑に、四肢に尻尾に、あふれんばかりに充満する妖力におののきながら、橙は哄笑した。
「食らえっ、食らえっ、食らえっ!!」
無数の妖気弾をこしらえ、藍めがけてちぎっては投げ、ちぎっては投げつける。たちまち、屋敷は半壊していた。
「はーっ、はぁーっ、はぁーーっ……」
「……気は済んだ?」
ふいに耳元で声がして、ギョッとして振り向くと、そこには藍が――まるで無傷で――立っていた。
「な……っ」
「やっぱり、お前と私は、よく似ているな」
橙が何か言う前に、藍は彼女から式をひっぺがし、彼女を宙に投げ出した。
(化かしあいで、猫が狐にかなうもんか)
地面に落下して失神する寸前、橙はそんなことを考えていた。
「――たいそう荒れたこと」
橙の大暴れで瓦礫と化した離れを眺め、屋敷の主がいった。
申し訳ありません、と叩頭する藍。
「いいけど、別に。私の寝所さえ無事ならね」
と、寝床へ向かおうとしたすきま妖怪は、ふと足を止め、思案顔をした。
「そういえば、あなたも似たような真似をしてくれたわね」
「……よくご記憶で」
それはそうよ、と主。「だってあなたは、私が鬼神を憑けてあげたとたん、マヨヒガが半壊するくらいの大暴れをしてくれたじゃないの?」
若気の至りというものです、と藍は頭を下げた。
「まぁ、せいぜい」きちんと躾けることね、と言い残して藍の主人は寝所へ向かった。
仰せのとおり、と答えたものの、
(先は長いな)
藍は、そうひとりごちた。
何しろ、さっきまで猫を縛っていた柱に、既にその姿はなかったのである。
(だがね、ドラ猫――)
式神の追跡を開始しつつ、八雲藍は微笑んだ。
(気の長さでは、私のほうがきっと上手だよ)
果たして、彼女の自己分析が正しかったことが証明されるには、なおいくばくかの歳月を要することとはなるのだった。
《八雲 藍》
八雲藍は八雲紫の式神として、ずいぶん長いあいだ仕えてきた。
主人の式神使いはけっして荒くないとはいえないものだったが、藍はそれなりに苦労しつつも、まぁそれなりの楽しみを享受していた。根っから、楽観的なのである。
ある冬のこと。
あるじが冬眠してしまったので、その役目を代行するかたわら、藍は人間に変化してはあちこちへ赴き、無聊を散じていた。
そんなおり、山中で一匹の子狐と出会った。
「親のない子か」藍は生来情の濃いたちだったから、大いに同情した。
しかしまた、彼女も自然の理の中より生まれそこに生きる者であったから、情をもってこの狐を助けることは、はばかられた。
「ここに」と、彼女は一枚の符を取り出し、子狐のもとに置いた。
「呪符がある。お前がこれを必要とするなら、もっていけ」
しばし躊躇していた子狐だったが、やがて符をくわえ、いずこかへと走り去っていった。
「もしお前に運と命があれば」藍はつぶやいた。
「その符が、お前の助けとなるだろう」
かくて、そのまま立ち去った。
それから数年ののち、藍はふたたびかの山中を訪れた。
なにやら騒がしいのでよく見れば、多勢の人間どもが得物を手に押し寄せている。いや、わずかながら妖怪の姿も見えた。
「これは何のさわぎだね」と手近な人間に問うと、
「この山にたちの悪い妖怪狐が巣くって、人間といわず妖怪といわず毒牙にかけている。そこで我々は手をとって、かの化け狐を討つことにしたのだ」
(もしや?)
と、藍は思ったが、彼らと共にくだんの妖狐を探索することにした。
ほどなくして、雄たけびと轟音を響かせながら、林の中から妖怪狐が狩り出されてきた。
すでに手負いの彼に向かい、人間や妖怪がいっせいに襲いかかったが、狐の放つ無数の妖弾に阻まれ、近づくことすらできない。
「下がれ」
一喝し、藍は狩人らを押しのけて突き進んでいった。
一見すると隙間もない妖気の結界だが、彼女には道筋がはっきりと見えていた――何しろ、自分でこしらえたものであったから。
妖狐の放つ邪気をすり抜け、その鼻先に肉迫した。
「憶えているか、小せがれ?」
「ああ――」妖孤は答えた。「憶えているさ」
「なぜ、こうなった?」
「理由など」妖怪狐は吼えた。「知らん。おれが、知りたい」
「私は、お前を生かすべきではなかったのかな」
「それも」彼はひどく疲れたふうにいった。「知ったことではない。おれにとっては――どちらでも、同じことだった」
「ならば、どうする?」
「死ぬのみだ。とはいえ」妖怪狐は、呪符を放った。「おれは妖怪ではなく、獣として死ぬさ」
果たして、妖力を失ってただの狐となった彼は、たちまち狩人らによって八つ裂きにされた。
それを見届け、藍はきびすを返した。
血染めの符を入れた懐が、ひどく重く思えた。
こののち、藍は、おのれの式神がもっと強い鬼神を憑依させてくれと言ってきても、けっして許さなかった。
「狐ですら溺れた。まして猫ではね」
そうした述懐は、もとより誰も知ることのないものである。
《八雲 紫》
八雲紫は境界を操る程度の能力を持ち、気の遠くなるような歳月を妖怪として過ごしてきた。
しかしおおむね寝てばかりいたので、それに見合った知識があるかどうかはあやしい、と見られているが、当人にとってははなはだどうでもよいことだった。
ある夏のこと、暑くて寝苦しいので、使役している式神に
「なんとかしなさい」と命じた。
式神は思案のあげく、竹で抱き枕をこしらえ、献上した。そのかみ大陸で見かけた、竹夫人と呼ばれるものである。
紫は大いに喜び、竹の枕を抱いて、そのひんやりとした感触を楽しんだ。
式神は、おかげで夜っぴて尻尾を回して風を送らなくても済むようになり、ホッとしたことだった。
それはまぁそれで良かったが、力ある妖怪によって作られ、夜ごと(というより、日がな一日)さらに力ある妖怪に抱かれつづけたこの竹夫人は、いつしか妖力を持つようになった。早い話が、妖怪化したのである。
とはいえ、じっさいに紫が使っているあいだはどうということもなかった。
が、季節が過ぎて夏も終わり、いいかげん抱き枕も不要となった時分に、事件は起きた。
ある日のこと、式神が、式神に――ややこしいが、つまり紫の式神自身も式神を持っているのだ――「釣りに行きたい」とねだられた。
「やめておくのがいい。お前は水が苦手なのだから」とさとしたものの、嫌だいやだ釣り立ての魚を食べたいんにゃーと駄々をこねられ、へきえきした。
「それに第一、私はご主人様のお世話に忙しいんだ」
そう説いてなんとか納得させたものの、式神にとっても、いささか物憂いことではあった。
そのとき、「よろしければ、私が代わってさしあげましょうか」という声がした。
何奴、と見れば、かの竹夫人である。
「お前は……そうか。変化したのか。だが、なんだって? 私の代わりだと?」
「おかげさまで、私もちょっとした能力を身につけましたので。これ」と、竹夫人はドロンと姿を変えてみせた。「このとおり」
なるほど広言するだけあって、式神そっくりの姿である。
「フム。それで、私の代わりにご主人のお世話をすると?」
いかにも、と竹夫人。「お世話になっておりますれば」
「ふーむ……」
そこで式神は彼女に後をまかせ、式の式を連れて湖へ出かけた。
そうとも知らず、紫は寝入っていたが、ふと寝汗が気になってきたので、着替えを持ってきて頂戴、と式神を呼びつけた。
すぐさまやってきた式神――中身は竹夫人であるが――は、てきぱきと本物以上の手際の良さで紫の衣服を脱がせ、また新しい寝巻きを着せた。
「今日はずいぶん」と、主人。「張り切ってるのね」
「それはもう」と、従者。「楽しいことですから」
「そう。ところで、寝疲れで筋肉痛なの。ちょっと腰でも揉んでくれる?」
もちろんです、とさっそく揉みはじめる。
「ああ、いい塩梅だわ……」
と、さっそくうつらうつらと船をこぎ出す紫。
それを見た偽式神はふと手を離した。そして、やおら紫に覆いかぶさって――
しかし一瞬の後、竹夫人は吹き飛んでいた。
「やはり悪心があったか!」悪い予感にかられ、式の式を放って帰ってきた式神が叫ぶ。
「……私は」虫の息ながら、妖怪がいった。「……ただ、抱きかっただけ」
「なに?」
「いつも抱かれてばかりだったから。この方を……抱いてさしあげたかった。見えざるものから、覆ってさしあげたかった。ほんの、ひとときでも」
「――っ」
でもそれも、と最後の一息。「……もう、かなわない」
式神は黙って竹の残骸を片付けた。
戻ってくると、ちょうど主が目を覚ましたところだった。
「あら。どこに行ってたの? もっと揉んで頂戴」
心得ました、と式神は答え、紫の身体を起こし、そっと背後から抱きしめた。覆うように、守るように。
「どうしたの?」紫は不思議そうにいった。
「お嫌ですか」
そうね、と式神の主はいった。「そうでもないわ」
式神は大陸の歌を口ずさんだ。
「それは……子守唄……?」
いいえ、と式神は答えた。「――挽歌です」
しかし紫はすでに寝入っていたから、その答えを聞くことはなかったのである。
前回の教訓を生かして、一言です。
お見事。