『Border of “past and future”』
静かに、静かに、幻想郷を覆い始めた異変。最初に気付いたのは、3人だった。
――マヨヒガ、八雲宅。
「ら~ん~、もう一杯~」
「紫様、もうそろそろお止めになったほうが・・・・・・」
「なによぅ、ちょっとくらいいいじゃないのよ?」
「もうちょっとどころではありませんが・・・・・・はぁ」
酔っ払いに何を言っても無駄なことを知っているのか、藍はため息を漏らし、諦めたように酒を注ぐ。
赤ら顔でそれを眺め、一杯になったとほぼ同時に、ぐぃっ、と飲み干し、はぁ~っ、と息を吐く様は、誰がどう見ても中年のそれだったし、藍もそう思ったのだが、口にはしなかった。命が惜しいから。
「おかわり~」
「はいはい・・・・・・」
差し出されたお猪口に酒を注ぐ藍の姿は、無理やり居酒屋に連れていかれ、上司に酒を注ぐ部下の姿に似てなくもない。
だが、注がれた酒を一気に飲み干し、上機嫌に鼻歌まで歌う紫に、藍も釣られるかのように微笑んだ。
「紫様、機嫌がよいみたいですが、何かあったのですか?」
「あったわよ。それも、とっても面白いことが」
「どのようなことが?」
藍の質問に、紫はどこからか取り出した扇を口元に当て、可笑しそうに笑う。
「紅魔館のメイド長は知ってるわよね?」
「ええ、まあ・・・・・・目も当てられない状態にされましたから・・・・・・あの者が何か?」
「子供が出来たんですって」
「・・・・・・・・・・・・は?」
紫の口から語られた内容に、藍は耳を疑った。心中では「あのメイド長が!?」という叫び声が、真横で鐘を鳴らされたかのように響き渡っていたが、生憎と混乱しすぎて間抜けな声しか出なかった。
あまりの衝撃に未だに立ち直れない藍に、紫は可笑しそうに笑いながら、
「メイド長に似た顔立ちの女の子だったわよ。睨む表情もそっくり」
「・・・・・・」
「気迫まで一緒だったから思わず気圧されちゃったわ」
「・・・・・・」
楽しそうに話す紫に対し、藍は引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
あえてその心境を語るならば「あれが二人・・・・・・勘弁してほしいわ、本当に・・・・・・」だろう。
それに気付かず――あるいは気付いた上でなのか――、紫は楽しそうに言った。
「近いうちに見にいきましょうか。確かに睨まれると怖いけど、笑うと可愛らしいわよ?」
「・・・・・・謹んでご遠慮したいのですが」
「駄目よ」
藍の懇願を、しかし紫は無情にも即答で返す。
深いため息を漏らした藍だが、目の前に差し出された空のお猪口に気付き、半ば無意識のうちに酒を注ぐ。既に条件反射となっているらしい。
注ぐ途中でそれに気付き、うなだれる藍。それでも注ぐ手が止まっていないその姿は、哀愁漂っていた。
それを横目に、紫はなみなみと注がれた酒を口にしかけ――ふと、その動きが止まる。
「・・・・・・紫様?」
気配が変わったことを不審に思ったのか、眉根を寄せながら問いかける藍に、まだ酒の残っているお猪口を横に置き、すっ、と目を細める。
藍は、紫の言葉を待った。
「・・・・・・藍」
「はい」
「橙の調子はどうかしら?」
「橙ですか?元気が有り余ってる、という様子ですが」
「あなたは?」
「特に悪い部分もないですし、今すぐ弾幕勝負をしろ、と言われても支障はありません。・・・・・・それが何か?」
「藍、霊夢の所へ行って、紅魔館に連れてきて頂戴。橙は幽々子の元へ。そこに魔理沙とアリスもいる筈だから、4人共お願いね。私はちょっと調べた後、そのまま紅魔館へ行くわ」
「紫様?」
藍の疑問の声に、紫はすぐに答えず、立ち上がり、にっこりと、底の見えない微笑を浮かべて言った。
「発つ前に、あなたも、橙も、スペルカードの数を確認しておきなさい。騒動の予感がするわ。・・・・・・今じゃなくても、そのうちに、ね・・・・・・」
――紅魔館。
「パチェ、ここに置いてある本、ちょっと見せてもらうわね」
「別にいいわよ。・・・・・・珍しいわね、こんな夜中にここへ来るなんて」
「ちょっと、ね」
「ふぅん・・・・・・まあ、いいけど」
そう言って、椅子に座り、本を読み始めるパチュリー。
レミリアは机の上に置いてあった本を手にとり、パチュリーと向かい合うような位置に座り、読み始める。
しばらくの間、本のページをめくる音だけが、図書館の一角に響いていた。
「・・・・・・それにしても、今日の騒動は面白かったわ。咲夜の子供ってところが特に」
思い出したように呟くパチュリーに、レミリアは微笑んで相槌を打った。
「そう言えば、似ていたわね。咲夜の幼い頃ってあんな感じだったのかしら?・・・・・・本当に隠し子だったりして」
「じゃあ、将来は咲夜に並ぶメイドになるかもね」
「お掃除も今より速く終わるかしら?」
「レミィも遊んでくれる時間が増えるからいいんじゃないの?」
「美鈴のお仕置きも二倍増し?」
「そのうち本当に死ぬわよ。・・・・・・今でもいっぱいいっぱいじゃないの?」
「お説教の長さも母親譲り?」
「それは勘弁してほしいわ」
「そうよね」
その光景を思い浮かべたのか、大真面目な顔で互いに頷き、そして笑う。
クスクスと楽しそうに笑いながら、パチュリーは再び、思い出したように呟く。
「そう言えば、子供をベルって名付けてたけど、何か思うことがあったのかしら」
「それよ。どこかで聞いたことある名前なのよね。だから、ちょっと調べにきたんだけど」
「あら、そうなの?」
「どこかの神話で似たような名前を見たことがあるのよね・・・・・・どれだったかしら?」
「けど、咲夜って神話とかに興味あったかしら。偶然じゃないの?」
パチュリーの言葉に、レミリアは艶やかに微笑んだ。
見る者すべてを魅了し、狂わせるような微笑みを浮かべたまま、レミリアは楽しそうに言う。
「パチェ。私の能力を忘れたかしら?必然を偶然に、偶然を必然にする因果――それも『運命』なのよ?」
「・・・・・・そうだったわね」
返答するまで間が開いたのは、その微笑みに魅入られかけていたからだ。
100年生きた大魔女パチュリーでさえも、気を抜けば魅入られる程の微笑みを浮かべたまま、紅月の象徴であり運命の化身であるレミリアは楽しそうに呟く。
「だから、咲夜があの子にベルと名付けたのも、運命でしょうね。――その名前が意味するものも」
「・・・・・・真名?」
「それに近いかもしれないし、遠いかもしれない」
どこか引っかかるような言い方に、パチュリーは目で問いかける。
レミリアは微笑みを打ち消し、真剣な表情で言葉を続けた。
「パチェ、分かる?私でさえも見えなかったのよ。その名前の意味する因果が」
「――なっ」
語られた内容に絶句するパチュリーに、レミリアは真剣な表情を崩さない。
「こんなこと久しぶりだわ。だからどこか引っかかる――」
レミリアの言葉は、しかし備え付けられた時計が24時を指し示す鐘の音を聞いた直後、打ち切られる。
「・・・・・・?」
鐘が鳴り始めた頃から、レミリアは、ある違和感を感じた。試しに自分の力を使い、その違和感の正体を確かめようとし――目を鋭く細める。
「どうしたの?レミィ」
レミリアの異変に気付いたのか、微かに心配そうな声色で問いかけるパチュリーに、レミリアは口元だけで笑みを作って答えた。
「パチェ、最近の喘息の調子はどう?」
「え?・・・・・・良い、と言えば良いけど?」
「そう・・・・・・」
「どうしたの?」
「・・・・・・もしかしたら、美鈴とあなた、咲夜、フラン・・・・・・全員の力が必要になってくるかもしれないわ」
「また騒動?」
「ええ。それも、私の考えが正しいなら、静かで、それ故に確実に侵食する異変と、それに伴う騒動が起こるでしょうね。・・・・・・騒動の際、戦力が必要になるかどうかは、まだ分からないけど」
「お願いだから、あまり騒がしくしないでね」
パチュリーの言葉に、レミリアは妖艶な微笑を浮かべた。
「今までで一番騒がしくなりそうよ、多分・・・・・・ね」
――香霖堂。
ぐっすりと眠っていた店主、霖之助は、時計の針が丁度24時を差した時、ふいに目を覚ました。
ゆっくりと上半身を起こし、軽く首を振る。
「ん・・・・・・」
「起きたかしら?」
霖之助以外、誰もいない筈の部屋に、しかし確かに少女の声が響いた。
未だに完全に覚醒していないのか、頭を掻きながら周囲を見渡した霖之助は、真横に立つ日傘の少女を見つけ、ため息を漏らす。
「・・・・・・会うのは何年ぶりですか?随分と昔のような気がしますが」
「何年、という単位では終わらないわね。100年は確実に過ぎているわ。・・・・・・本題に入ってもいいかしら?」
「いやに急いでますね。最初に言っておきますけど、僕は『傍観者』の立場を崩すつもりはありませんよ・・・・・・で?」
ようやく覚醒したのか、眼鏡をかけて起き上がろうとした霖之助を手で制し、少女は言う。
「あなたも、異変に気付いた筈よ。いえ――気付いていた、と言うべきかしら?」
「何に、ですか?」
「とぼけても無駄よ。『ワールド・クリエイティブマスター』のあなたなら、誰よりも先に気付いていた筈よ。幻想郷を覆い始めた異変と、その正体に」
「・・・・・・それで、仮に気付いていたとして。僕にどうしろと?」
「あなたはどうもしなくていいわ」
「・・・・・・?」
訳も分からず首をかしげる霖之助に、少女は笑みさえも浮かべずに言葉を続けた。
「ただ、騒動になった際、あなたの『世界』を一時的に借りることの承諾を得にきたのよ」
「・・・・・・霊夢と魔理沙が繰り広げるような弾幕勝負、ですか?」
「そうならないことを祈るけれどね。構わないかしら?」
「別にいいですよ。けど、放っておけば、霊夢達が解決するでしょう?」
霖之助の言葉に、しかし少女は首を振った。
「正体を見極める前に、幻想郷を覆う異変――分かりやすく言えば結界なんだけど、それが完全に構築し終わる危険があるわ。一部なら気付いたかもしれないけど、既に第一、第二段階は終わっている・・・・・・最後の段階が完成するまで、時間との勝負になるわ。――いえ」
一旦言葉を切り、少女は微かに笑って、言葉を続けた。
「もう、そんな概念すら通用しないわね。ここでは」
咲夜とベルが寝付いてから、数時間後。
紅魔館が静けさに包まれている中、しかしその静寂を破る声が、咲夜の部屋の前で響いた。
「咲夜さん、咲夜さん!起きてください!!」
ドンドンと扉を叩くのは、門番である美鈴だった。何故か両腕に包帯を巻いている姿が痛々しいが、表情はそれにも増して切羽詰っていた。
だから、美鈴は気付かない。間違っていないとしても、己のしていることが、爆弾の導火線に火を点ける行為であることに。
「咲夜さ――」
――瞬間、形容しがたい物凄い音が、紅魔館の廊下に響いた。
「・・・・・・睡眠妨害してまで私を呼ぶ理由は何かしら、美鈴?」
後ろからかけられた声に、美鈴、返事をする余裕すらない。扉には美鈴の体の形に添ってナイフが突き立てられていた。
美鈴はひしひしと感じていた。後ろを振り返れば、これ以上ない恐怖を覚えるだろうと。だが、振り返らなければ、確実に殺される、とも。
恐る恐る、振り返った美鈴は、恐怖のあまり顔が引きつった。
そこには、寝巻き姿のまま両手にナイフを持ち、時を止めて背後に回ったであろう咲夜が立っており、完全故に作り物だと一目で分かる笑みを浮かべていた。勿論、目は紅い。
恐怖のあまり声を出せない美鈴に対し、咲夜は止めとばかりに言う。
「あの子――ベルも寝ていたってことも考慮してくれると、とても助かったんだけど」
口調こそ穏やかだが、過去形なところが、咲夜の心境と美鈴の末路を何よりも雄弁に語っていた。
「ちょ、咲夜さ、ん・・・・・・一応、話を聞くだけは、聞いてください・・・・・・」
搾り出すような美鈴の声に、咲夜は顎に手を当て、ふむ、と呟いた。
「それもそうね。言ってみなさい、美鈴。もしくだらない用事だったら・・・・・・」
分かってるわね?と、まるでナイフの刃のように鋭く目を細める咲夜に、美鈴は引きつった表情のまま言った。
「お、お客さん、です・・・・・・」
「私に?こんな時間から?」
そう言って、窓の外に目をやる咲夜。未だに満月の光が地上を照らしており、咲夜が覚えている限り、寝る前と比べて、その位置はほとんど動いてないように見えた。
だが、美鈴は首を振った。
「咲夜さん、こんな時間って・・・・・・咲夜さんが寝てから、多分5時間は経っていますよ?時計を見てないので、正確には分かりませんけど・・・・・・」
「え?だって外は――」
「そのことも含めて、お嬢様とお客さんから話があるそうです。一足先にお嬢様のお部屋に案内しています。だから・・・・・・」
不安げに伺う美鈴に、咲夜は頷いて答えた。既に瞳の色も、元に戻っている。
「お嬢様も呼ぶような用件なら、しょうがないわね。ベルの相手をしてて頂戴」
「は、はい」
命が助かったことに安堵のため息を漏らす美鈴を尻目に、咲夜は着替える為に部屋へと戻った。
ベッドから起き上がり、眠そうに目をこすっていたベルは、急いで着替えを始めた咲夜の姿を見て首をかしげた。
「お母さん、どうしたの?」
「ちょっとお嬢様に呼ばれたから、行ってくるわ」
「私もいくー」
「駄目よ」
「私もいくー」
駄々をこねるベルに、しかし咲夜は首を振った。
「美鈴が遊び相手をしてくれるから、おとなしくしてなさい。いいわね」
「うー・・・・・・」
頬を膨らませるベルの姿は可愛らしくもあったが、それでも咲夜は「いい子だからおとなしくしなさい」と釘を刺し、足早に、レミリアの部屋へと向かった。
その様子を眺めていた美鈴は「もうしっかりお母さんだなぁ」と思ったが、口にはしなかった。命が惜しいから。
「失礼します、お嬢様」
丁重に部屋のドアを開け、中に入りかけた咲夜は、レミリアの他に意外な人物を認めて、思わず呆然と立ち尽くした。
「待ってたわよ、咲夜」
「・・・・・・久しぶりだな」
優雅に紅茶を飲むレミリアの正面に座っていたのは、本来なら幻想郷内のある村を守っている筈の少女――独特の服を着た、複雑な表情を浮かべている半人半獣の娘、上白沢慧音だった。
思わず目で問いかける咲夜に、レミリアは微笑んで答える。
「ちょっとした用事でここに来たのよ。それと、誤解は解いておいたから」
「誤解、ですか?」
「ええ。そして私があなたを呼んだのも、ちょっとした事情説明のためね。とりあえず座りなさい」
「しかし、お茶を・・・・・・」
「お茶会する暇はないわ、今回に限ってはね」
「はあ・・・・・・」
理由が分からず、それでも促されるままに座る咲夜。
それを横目に、レミリアはカップを置いて、慧音に話を振る。
「さて――ワーハクタクのお嬢さん」
「慧音だ」
「じゃあ、慧音。ここへ来た際の用件をもう一度説明してもらえないかしら?」
「分かった」
頷き、慧音は出されていた紅茶を一口飲んだ後、真剣な表情で言った。
「私が村の守護をしているのは知っているだろうが・・・・・・その村の人間達が、全員動かなくなった。いや、人間だけじゃない。ここへ来る最中も、妖怪も、動物達も、ほとんどが動いてなかった」
「どういう・・・・・・?」
「話は終わってない。辛うじて動いている妖怪達に確認してみたが、比較的強い力を持つ者ならば、多少は動けるらしい。・・・・・・話している最中に止まって動かなくなる、ということもあったから、現在進行形で異変は起こっている、ということになる。始まりは唐突だったが、後はじわじわとくるタイプだな。当然、私たちも影響を受けている筈だ」
「違和感を感じたのは24時よ。調べてみたけど、館の時計すべてが24時前後――これは時計によって誤差があるせいでしょうけど、そこで止められていたわ。・・・・・・まだ動く筈のものまで止まっているのよ」
「極めつけが、外だ。満月が24時の位置からまったく動いていない。――時が止まっているかのように、な」
そこまで言って、慧音は決まりが悪そうに咲夜の方を向き、
「時間を止める程の力を持つのは、お前しか心当たりがなかった。だから――」
「だから、最初はあなたの仕業じゃないかってここに来たのよ。勿論誤解だったんだけど」
「・・・・・・よく考えれば、幻想郷の時を止める程の大掛かりなことをする理由が、思いつかなかったから、な・・・・・・」
そう言う慧音に、咲夜は頷き、そして首をかしげた。
「では、一体・・・・・・?」
「私もそれが分からない。だからまだここに留まっているんだ。何か手がかりがないかと思ってな」
二人揃って首をかしげる中、レミリアは手を口元に添え、何かを考え込んでいた。
と、その時、唐突に部屋の扉が開かれた。三人分の視線が向けられた先にいたのは、美鈴と遊んでいる筈のベルだった。寝巻き姿のままである。
「・・・・・・お母さん」
「ベル?どうしてここに?」
答えず、ベルはとてとてと歩いていき、咲夜の足に抱きつく。突然現れた子供に呆気に取られていた慧音だったが、その微笑ましい光景に、釣られるように笑みを浮かべる。
丁度その時、後を追うようにして美鈴が登場。その表情には焦りが浮かんでいる。
「すみません、咲夜さん!ベルちゃんが迷子に・・・・・・て、あれ?」
「一体どうしたの?美鈴」
「いえ、ちょっと目を離した隙に部屋からいなくなっちゃって・・・・・・ねえ、ベルちゃん。どうやってここまできたの?」
美鈴の疑問はもっともだった。働いているメイド達でさえ、館の内部を完全には把握していない――しきれていない、というのが正確だ。館中の空間が操作されているためであり、見た目以上に広い。それを完全に把握しているのは後にも先にも咲夜のみである。
余談だが、内部を完全に近い形で把握しているのが、意外にも年中門の前に立っている筈の美鈴であり、それを不思議に思った館中のメイド達の間で、七不思議の一つとして囁かれている。種を明かせば、休憩時間の際につまみ食いに来て迷い、しかし通った道すべてを覚えているだけであり、驚くべき記憶力と食い意地の賜物なのだが。
ちなみに、その日、休憩時間が終わっても姿を現さなかった美鈴は、咲夜から世にも恐ろしい地獄を味わわされていたりもするのだが、それは別の話。
美鈴の質問に、ベルはきょとんとして答えた。
「こっちにお母さんがいるような気がしたから行ってみたの」
自分でもよく分かっていないらしい。その解答に美鈴はもとより咲夜でさえも脱力した。レミリアはその様子を微笑ましげに眺め、慧音は何故か、僅かに眉根を寄せていた。
「・・・・・・お嬢様」
「ええ、いいわよ。あなたに伝える話は終わっているし。また何かあったら呼ぶから、その子の相手をしてなさい」
「しかし、お掃除が・・・・・・」
「一日くらい非番をとっても罰は当たらないわよ?それくらいあなたは働いてるんだから、たまには気分転換しなさい」
「・・・・・・申し訳ありません。それでは、お言葉に甘えて、失礼致します。ベル、美鈴、行くわよ」
「うん」
「あ、はい」
そう言って、咲夜達は退室し、そのまま部屋へと向かった。ベルが寝巻き姿のままであり、着替えさせないといけないためである。
部屋の前に着いた咲夜は、後ろにくっつくようにしてついて来たベルを見下ろし、穏やかな口調で聞いた。
「ほら、着替えてらっしゃい。一人でできるわね?」
「うん」
「一応、私も見ておきますか?」
「じゃあ、お願いしようかしら・・・・・・それより美鈴、門番の仕事はいいの?」
「今が5時なら、丁度休憩時間ですし、大丈夫ですよ」
そう言って、ベルと一緒に部屋に入る美鈴を見送ってから、咲夜はポケットから銀の懐中時計を取り出す。
いつも肌身離さず持ち歩く時計は、5時15分を指し示し、今尚動いていた。
それを見て、咲夜はふと思う。
――館中の時計が24時で止まっていた、とお嬢様は言っていたけれど・・・・・・では、何故、私の時計は動いているの?
「私の時は、止まってはいない・・・・・?」
自問するかのような咲夜の呟きに、答える者は、いない。
退室した三人の後姿が見えなくなってから、レミリアは楽しそうに笑った。
それを横目に、慧音は不思議そうに首をかしげながら、
「子供なんていたのか?」
「昨日できたみたいよ」
「・・・・・・昨日?」
誤解を招きかねない――むしろそれを望んでいるかのようなレミリアの言葉に、慧音は耳を疑うような表情を浮かべたが、ふいに真顔になる。
「それよりも・・・・・・質問に答えろ」
「程度にもよるわね、何?」
「あの子供は、本当に人間か?」
その言葉に、レミリアは目を細める。
「・・・・・・理由は?」
「確証がないが、妙な違和感を感じたような気がした。あくまで気がした、という程度の話なんだが・・・・・・」
「あなたもなかなか鋭いわね」
響いた声は、しかしレミリアのものではない。
二人の視線が、先ほどまで咲夜が座っていた椅子の付近に集中した時、虚空に線がすぅっ、と引かれ、それが分かれる。そこから覗くのは、境界の中――そこに囚われて同化し、生きることも死ぬことも出来ずにいる『何か』の目と手。
常人であれば見ただけで気が遠くなりそうな空間の中から、結界と境界を統べる女性、八雲紫はゆっくりと浮き上がり、優雅な動きで線の上に座った。
その様子を、しかし二人は軽く鼻を鳴らす程度にしか反応しなかった。
「怖がる者がいるわけでもないのに、普通に出てこないの?」
「凝りすぎだろう」
「あら、これくらい凝らなくちゃ、そのうち、あの子みたいにカリスマ無しとか言われそうだもの。それに驚く人は驚くから、その反応を見るのも面白いわよ?今度ご一緒にどう?」
「驚かせた後に食料にするなら、咲夜か美鈴でも連れていってほしいわね。今はまだ備蓄があるみたいだけど」
「・・・・・・里の人間に手を出したら、ただじゃおかないからな」
紫の提案に、レミリアは楽しそうに笑い、対照的に慧音はしかめ面で釘を刺す、といった具合に、まったく違う反応を示す。
その様子を可笑しそうに眺める紫に、慧音はしかめ面を浮かべたまま問う。
「ところで、鋭い、とはどういうことだ?」
「簡単なことよ」
どこからか取り出した扇を広げて口元を隠し、底の見えない微笑みを浮かべて、紫は言葉を続ける。
「あの子は人間じゃないわ。そして、妖怪とも違う存在」
「・・・・・・何?」
「人間じゃない存在をすべて妖怪というのなら、その定義に当てはめてもいいのだけれどね」
「どういうことだ?」
「その前に、この異変について分かったことから話しましょうか」
話を変えられ、しかしそれについて異論はないのか、しかめ面のまま頷く慧音。
「ちょっと調べてみたんだけど、博麗大結界の内側に、幻想郷全体を覆うようにして、新しい結界――と言っていいのか分からないけど、便宜上そう呼ぶわね。それが構築されていたわ。それもかなり強力な、ね。迂闊に近寄ることさえ出来なかったわ」
「何故だ?結界はお前のお家芸じゃないのか?」
「あれに近づけば近づくほど、『時を止められる』圧力が高まっているのよ。試しに、威力を何通りかに加減した妖弾を撃ってみたんだけど、弱いものは放った瞬間に止まったわ。近づいたら、私でも無事にいられたかどうか」
肩をすくめる紫に、慧音は険しい表情を浮かべる。
「それが時を止めている正体か」
「そうみたいね。構築されたのは、恐らく24時。しかも計ったように、昨日と今日、今日と明日の境界で止められていたわ。どちらでもあり、どちらでもない時間に止めることが、果たして人や妖怪に出来るかしら?」
「人間や妖怪以外の存在が、この異変に関わっているのか?」
「その可能性が高いわ。勿論、偶然止めることができた、というのなら、人や妖にも可能なんだけどね。問題は、何故その境界で時を止めたのか、というところ。流石にその理由ばかりは分からないけどね」
お手上げだ、とばかりに匙を投げる紫。レミリアは俯いたまま考え込み、慧音は険しい表情を崩さない。
しばらくの間沈黙が続いていたが、ふと、慧音が思いついたように呟いた。
「・・・・・・まるで、過去と未来の狭間にいるような気分だな」
その言葉に、紫は目を鋭く細め、レミリアははっと顔を上げ、同じく鋭い目つきで問う。
「どうしてそう思ったのかしら?」
「ん?いや・・・・・・時が止まっているということは、過去も未来もない筈だからな。現在がいつまでも続いているような気がしただけだ」
「・・・・・・現在?」
「現在なんて思う瞬間から、それは過去だろう。思おうとすればそれは未来だ。現在なんて、知覚できる程長い時間じゃないからな。人間だろうが妖怪だろうが、同じことが言えるはずだ」
慧音の言葉に、紫は目を細めただけだったが、レミリアは俯き、言葉を繰り返す。
「・・・・・・過去、未来、境界、現在・・・・・・まさか・・・・・・!」
そして、唐突に立ち上がった。
突然の行動に目を白黒させる二人に対し、レミリアは微笑む。
「・・・・・・気になるなら、本人に聞きにいきましょうか」
「犯人が分かったのかしら?」
「間違いないわね。こんなこと、彼女しかできないわ。後の二人ではまず不可能」
レミリアの言葉に、紫、慧音共に絶句。約五秒程固まった後、慧音が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
「三人もいるのか!?」
「いるわよ。但し、今回の件に関わっているのは一人だけね。残りの二人は無関係でしょうけど」
「どういうことかしら?」
「まさか、こんな東方の地に現れるとは思わなかったから、今まで見落としていたけれど・・・・・・」
「レミリア?」
紫の疑問の声に、しかしレミリアは答えず、艶やかな笑みを浮かべ――だが、その目は笑っておらず、深紅に染まった瞳で二人を見つめる。
「会いに行きましょうか。この騒動の元凶であるお嬢さんに」
静かに、静かに、幻想郷を覆い始めた異変。最初に気付いたのは、3人だった。
――マヨヒガ、八雲宅。
「ら~ん~、もう一杯~」
「紫様、もうそろそろお止めになったほうが・・・・・・」
「なによぅ、ちょっとくらいいいじゃないのよ?」
「もうちょっとどころではありませんが・・・・・・はぁ」
酔っ払いに何を言っても無駄なことを知っているのか、藍はため息を漏らし、諦めたように酒を注ぐ。
赤ら顔でそれを眺め、一杯になったとほぼ同時に、ぐぃっ、と飲み干し、はぁ~っ、と息を吐く様は、誰がどう見ても中年のそれだったし、藍もそう思ったのだが、口にはしなかった。命が惜しいから。
「おかわり~」
「はいはい・・・・・・」
差し出されたお猪口に酒を注ぐ藍の姿は、無理やり居酒屋に連れていかれ、上司に酒を注ぐ部下の姿に似てなくもない。
だが、注がれた酒を一気に飲み干し、上機嫌に鼻歌まで歌う紫に、藍も釣られるかのように微笑んだ。
「紫様、機嫌がよいみたいですが、何かあったのですか?」
「あったわよ。それも、とっても面白いことが」
「どのようなことが?」
藍の質問に、紫はどこからか取り出した扇を口元に当て、可笑しそうに笑う。
「紅魔館のメイド長は知ってるわよね?」
「ええ、まあ・・・・・・目も当てられない状態にされましたから・・・・・・あの者が何か?」
「子供が出来たんですって」
「・・・・・・・・・・・・は?」
紫の口から語られた内容に、藍は耳を疑った。心中では「あのメイド長が!?」という叫び声が、真横で鐘を鳴らされたかのように響き渡っていたが、生憎と混乱しすぎて間抜けな声しか出なかった。
あまりの衝撃に未だに立ち直れない藍に、紫は可笑しそうに笑いながら、
「メイド長に似た顔立ちの女の子だったわよ。睨む表情もそっくり」
「・・・・・・」
「気迫まで一緒だったから思わず気圧されちゃったわ」
「・・・・・・」
楽しそうに話す紫に対し、藍は引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
あえてその心境を語るならば「あれが二人・・・・・・勘弁してほしいわ、本当に・・・・・・」だろう。
それに気付かず――あるいは気付いた上でなのか――、紫は楽しそうに言った。
「近いうちに見にいきましょうか。確かに睨まれると怖いけど、笑うと可愛らしいわよ?」
「・・・・・・謹んでご遠慮したいのですが」
「駄目よ」
藍の懇願を、しかし紫は無情にも即答で返す。
深いため息を漏らした藍だが、目の前に差し出された空のお猪口に気付き、半ば無意識のうちに酒を注ぐ。既に条件反射となっているらしい。
注ぐ途中でそれに気付き、うなだれる藍。それでも注ぐ手が止まっていないその姿は、哀愁漂っていた。
それを横目に、紫はなみなみと注がれた酒を口にしかけ――ふと、その動きが止まる。
「・・・・・・紫様?」
気配が変わったことを不審に思ったのか、眉根を寄せながら問いかける藍に、まだ酒の残っているお猪口を横に置き、すっ、と目を細める。
藍は、紫の言葉を待った。
「・・・・・・藍」
「はい」
「橙の調子はどうかしら?」
「橙ですか?元気が有り余ってる、という様子ですが」
「あなたは?」
「特に悪い部分もないですし、今すぐ弾幕勝負をしろ、と言われても支障はありません。・・・・・・それが何か?」
「藍、霊夢の所へ行って、紅魔館に連れてきて頂戴。橙は幽々子の元へ。そこに魔理沙とアリスもいる筈だから、4人共お願いね。私はちょっと調べた後、そのまま紅魔館へ行くわ」
「紫様?」
藍の疑問の声に、紫はすぐに答えず、立ち上がり、にっこりと、底の見えない微笑を浮かべて言った。
「発つ前に、あなたも、橙も、スペルカードの数を確認しておきなさい。騒動の予感がするわ。・・・・・・今じゃなくても、そのうちに、ね・・・・・・」
――紅魔館。
「パチェ、ここに置いてある本、ちょっと見せてもらうわね」
「別にいいわよ。・・・・・・珍しいわね、こんな夜中にここへ来るなんて」
「ちょっと、ね」
「ふぅん・・・・・・まあ、いいけど」
そう言って、椅子に座り、本を読み始めるパチュリー。
レミリアは机の上に置いてあった本を手にとり、パチュリーと向かい合うような位置に座り、読み始める。
しばらくの間、本のページをめくる音だけが、図書館の一角に響いていた。
「・・・・・・それにしても、今日の騒動は面白かったわ。咲夜の子供ってところが特に」
思い出したように呟くパチュリーに、レミリアは微笑んで相槌を打った。
「そう言えば、似ていたわね。咲夜の幼い頃ってあんな感じだったのかしら?・・・・・・本当に隠し子だったりして」
「じゃあ、将来は咲夜に並ぶメイドになるかもね」
「お掃除も今より速く終わるかしら?」
「レミィも遊んでくれる時間が増えるからいいんじゃないの?」
「美鈴のお仕置きも二倍増し?」
「そのうち本当に死ぬわよ。・・・・・・今でもいっぱいいっぱいじゃないの?」
「お説教の長さも母親譲り?」
「それは勘弁してほしいわ」
「そうよね」
その光景を思い浮かべたのか、大真面目な顔で互いに頷き、そして笑う。
クスクスと楽しそうに笑いながら、パチュリーは再び、思い出したように呟く。
「そう言えば、子供をベルって名付けてたけど、何か思うことがあったのかしら」
「それよ。どこかで聞いたことある名前なのよね。だから、ちょっと調べにきたんだけど」
「あら、そうなの?」
「どこかの神話で似たような名前を見たことがあるのよね・・・・・・どれだったかしら?」
「けど、咲夜って神話とかに興味あったかしら。偶然じゃないの?」
パチュリーの言葉に、レミリアは艶やかに微笑んだ。
見る者すべてを魅了し、狂わせるような微笑みを浮かべたまま、レミリアは楽しそうに言う。
「パチェ。私の能力を忘れたかしら?必然を偶然に、偶然を必然にする因果――それも『運命』なのよ?」
「・・・・・・そうだったわね」
返答するまで間が開いたのは、その微笑みに魅入られかけていたからだ。
100年生きた大魔女パチュリーでさえも、気を抜けば魅入られる程の微笑みを浮かべたまま、紅月の象徴であり運命の化身であるレミリアは楽しそうに呟く。
「だから、咲夜があの子にベルと名付けたのも、運命でしょうね。――その名前が意味するものも」
「・・・・・・真名?」
「それに近いかもしれないし、遠いかもしれない」
どこか引っかかるような言い方に、パチュリーは目で問いかける。
レミリアは微笑みを打ち消し、真剣な表情で言葉を続けた。
「パチェ、分かる?私でさえも見えなかったのよ。その名前の意味する因果が」
「――なっ」
語られた内容に絶句するパチュリーに、レミリアは真剣な表情を崩さない。
「こんなこと久しぶりだわ。だからどこか引っかかる――」
レミリアの言葉は、しかし備え付けられた時計が24時を指し示す鐘の音を聞いた直後、打ち切られる。
「・・・・・・?」
鐘が鳴り始めた頃から、レミリアは、ある違和感を感じた。試しに自分の力を使い、その違和感の正体を確かめようとし――目を鋭く細める。
「どうしたの?レミィ」
レミリアの異変に気付いたのか、微かに心配そうな声色で問いかけるパチュリーに、レミリアは口元だけで笑みを作って答えた。
「パチェ、最近の喘息の調子はどう?」
「え?・・・・・・良い、と言えば良いけど?」
「そう・・・・・・」
「どうしたの?」
「・・・・・・もしかしたら、美鈴とあなた、咲夜、フラン・・・・・・全員の力が必要になってくるかもしれないわ」
「また騒動?」
「ええ。それも、私の考えが正しいなら、静かで、それ故に確実に侵食する異変と、それに伴う騒動が起こるでしょうね。・・・・・・騒動の際、戦力が必要になるかどうかは、まだ分からないけど」
「お願いだから、あまり騒がしくしないでね」
パチュリーの言葉に、レミリアは妖艶な微笑を浮かべた。
「今までで一番騒がしくなりそうよ、多分・・・・・・ね」
――香霖堂。
ぐっすりと眠っていた店主、霖之助は、時計の針が丁度24時を差した時、ふいに目を覚ました。
ゆっくりと上半身を起こし、軽く首を振る。
「ん・・・・・・」
「起きたかしら?」
霖之助以外、誰もいない筈の部屋に、しかし確かに少女の声が響いた。
未だに完全に覚醒していないのか、頭を掻きながら周囲を見渡した霖之助は、真横に立つ日傘の少女を見つけ、ため息を漏らす。
「・・・・・・会うのは何年ぶりですか?随分と昔のような気がしますが」
「何年、という単位では終わらないわね。100年は確実に過ぎているわ。・・・・・・本題に入ってもいいかしら?」
「いやに急いでますね。最初に言っておきますけど、僕は『傍観者』の立場を崩すつもりはありませんよ・・・・・・で?」
ようやく覚醒したのか、眼鏡をかけて起き上がろうとした霖之助を手で制し、少女は言う。
「あなたも、異変に気付いた筈よ。いえ――気付いていた、と言うべきかしら?」
「何に、ですか?」
「とぼけても無駄よ。『ワールド・クリエイティブマスター』のあなたなら、誰よりも先に気付いていた筈よ。幻想郷を覆い始めた異変と、その正体に」
「・・・・・・それで、仮に気付いていたとして。僕にどうしろと?」
「あなたはどうもしなくていいわ」
「・・・・・・?」
訳も分からず首をかしげる霖之助に、少女は笑みさえも浮かべずに言葉を続けた。
「ただ、騒動になった際、あなたの『世界』を一時的に借りることの承諾を得にきたのよ」
「・・・・・・霊夢と魔理沙が繰り広げるような弾幕勝負、ですか?」
「そうならないことを祈るけれどね。構わないかしら?」
「別にいいですよ。けど、放っておけば、霊夢達が解決するでしょう?」
霖之助の言葉に、しかし少女は首を振った。
「正体を見極める前に、幻想郷を覆う異変――分かりやすく言えば結界なんだけど、それが完全に構築し終わる危険があるわ。一部なら気付いたかもしれないけど、既に第一、第二段階は終わっている・・・・・・最後の段階が完成するまで、時間との勝負になるわ。――いえ」
一旦言葉を切り、少女は微かに笑って、言葉を続けた。
「もう、そんな概念すら通用しないわね。ここでは」
咲夜とベルが寝付いてから、数時間後。
紅魔館が静けさに包まれている中、しかしその静寂を破る声が、咲夜の部屋の前で響いた。
「咲夜さん、咲夜さん!起きてください!!」
ドンドンと扉を叩くのは、門番である美鈴だった。何故か両腕に包帯を巻いている姿が痛々しいが、表情はそれにも増して切羽詰っていた。
だから、美鈴は気付かない。間違っていないとしても、己のしていることが、爆弾の導火線に火を点ける行為であることに。
「咲夜さ――」
――瞬間、形容しがたい物凄い音が、紅魔館の廊下に響いた。
「・・・・・・睡眠妨害してまで私を呼ぶ理由は何かしら、美鈴?」
後ろからかけられた声に、美鈴、返事をする余裕すらない。扉には美鈴の体の形に添ってナイフが突き立てられていた。
美鈴はひしひしと感じていた。後ろを振り返れば、これ以上ない恐怖を覚えるだろうと。だが、振り返らなければ、確実に殺される、とも。
恐る恐る、振り返った美鈴は、恐怖のあまり顔が引きつった。
そこには、寝巻き姿のまま両手にナイフを持ち、時を止めて背後に回ったであろう咲夜が立っており、完全故に作り物だと一目で分かる笑みを浮かべていた。勿論、目は紅い。
恐怖のあまり声を出せない美鈴に対し、咲夜は止めとばかりに言う。
「あの子――ベルも寝ていたってことも考慮してくれると、とても助かったんだけど」
口調こそ穏やかだが、過去形なところが、咲夜の心境と美鈴の末路を何よりも雄弁に語っていた。
「ちょ、咲夜さ、ん・・・・・・一応、話を聞くだけは、聞いてください・・・・・・」
搾り出すような美鈴の声に、咲夜は顎に手を当て、ふむ、と呟いた。
「それもそうね。言ってみなさい、美鈴。もしくだらない用事だったら・・・・・・」
分かってるわね?と、まるでナイフの刃のように鋭く目を細める咲夜に、美鈴は引きつった表情のまま言った。
「お、お客さん、です・・・・・・」
「私に?こんな時間から?」
そう言って、窓の外に目をやる咲夜。未だに満月の光が地上を照らしており、咲夜が覚えている限り、寝る前と比べて、その位置はほとんど動いてないように見えた。
だが、美鈴は首を振った。
「咲夜さん、こんな時間って・・・・・・咲夜さんが寝てから、多分5時間は経っていますよ?時計を見てないので、正確には分かりませんけど・・・・・・」
「え?だって外は――」
「そのことも含めて、お嬢様とお客さんから話があるそうです。一足先にお嬢様のお部屋に案内しています。だから・・・・・・」
不安げに伺う美鈴に、咲夜は頷いて答えた。既に瞳の色も、元に戻っている。
「お嬢様も呼ぶような用件なら、しょうがないわね。ベルの相手をしてて頂戴」
「は、はい」
命が助かったことに安堵のため息を漏らす美鈴を尻目に、咲夜は着替える為に部屋へと戻った。
ベッドから起き上がり、眠そうに目をこすっていたベルは、急いで着替えを始めた咲夜の姿を見て首をかしげた。
「お母さん、どうしたの?」
「ちょっとお嬢様に呼ばれたから、行ってくるわ」
「私もいくー」
「駄目よ」
「私もいくー」
駄々をこねるベルに、しかし咲夜は首を振った。
「美鈴が遊び相手をしてくれるから、おとなしくしてなさい。いいわね」
「うー・・・・・・」
頬を膨らませるベルの姿は可愛らしくもあったが、それでも咲夜は「いい子だからおとなしくしなさい」と釘を刺し、足早に、レミリアの部屋へと向かった。
その様子を眺めていた美鈴は「もうしっかりお母さんだなぁ」と思ったが、口にはしなかった。命が惜しいから。
「失礼します、お嬢様」
丁重に部屋のドアを開け、中に入りかけた咲夜は、レミリアの他に意外な人物を認めて、思わず呆然と立ち尽くした。
「待ってたわよ、咲夜」
「・・・・・・久しぶりだな」
優雅に紅茶を飲むレミリアの正面に座っていたのは、本来なら幻想郷内のある村を守っている筈の少女――独特の服を着た、複雑な表情を浮かべている半人半獣の娘、上白沢慧音だった。
思わず目で問いかける咲夜に、レミリアは微笑んで答える。
「ちょっとした用事でここに来たのよ。それと、誤解は解いておいたから」
「誤解、ですか?」
「ええ。そして私があなたを呼んだのも、ちょっとした事情説明のためね。とりあえず座りなさい」
「しかし、お茶を・・・・・・」
「お茶会する暇はないわ、今回に限ってはね」
「はあ・・・・・・」
理由が分からず、それでも促されるままに座る咲夜。
それを横目に、レミリアはカップを置いて、慧音に話を振る。
「さて――ワーハクタクのお嬢さん」
「慧音だ」
「じゃあ、慧音。ここへ来た際の用件をもう一度説明してもらえないかしら?」
「分かった」
頷き、慧音は出されていた紅茶を一口飲んだ後、真剣な表情で言った。
「私が村の守護をしているのは知っているだろうが・・・・・・その村の人間達が、全員動かなくなった。いや、人間だけじゃない。ここへ来る最中も、妖怪も、動物達も、ほとんどが動いてなかった」
「どういう・・・・・・?」
「話は終わってない。辛うじて動いている妖怪達に確認してみたが、比較的強い力を持つ者ならば、多少は動けるらしい。・・・・・・話している最中に止まって動かなくなる、ということもあったから、現在進行形で異変は起こっている、ということになる。始まりは唐突だったが、後はじわじわとくるタイプだな。当然、私たちも影響を受けている筈だ」
「違和感を感じたのは24時よ。調べてみたけど、館の時計すべてが24時前後――これは時計によって誤差があるせいでしょうけど、そこで止められていたわ。・・・・・・まだ動く筈のものまで止まっているのよ」
「極めつけが、外だ。満月が24時の位置からまったく動いていない。――時が止まっているかのように、な」
そこまで言って、慧音は決まりが悪そうに咲夜の方を向き、
「時間を止める程の力を持つのは、お前しか心当たりがなかった。だから――」
「だから、最初はあなたの仕業じゃないかってここに来たのよ。勿論誤解だったんだけど」
「・・・・・・よく考えれば、幻想郷の時を止める程の大掛かりなことをする理由が、思いつかなかったから、な・・・・・・」
そう言う慧音に、咲夜は頷き、そして首をかしげた。
「では、一体・・・・・・?」
「私もそれが分からない。だからまだここに留まっているんだ。何か手がかりがないかと思ってな」
二人揃って首をかしげる中、レミリアは手を口元に添え、何かを考え込んでいた。
と、その時、唐突に部屋の扉が開かれた。三人分の視線が向けられた先にいたのは、美鈴と遊んでいる筈のベルだった。寝巻き姿のままである。
「・・・・・・お母さん」
「ベル?どうしてここに?」
答えず、ベルはとてとてと歩いていき、咲夜の足に抱きつく。突然現れた子供に呆気に取られていた慧音だったが、その微笑ましい光景に、釣られるように笑みを浮かべる。
丁度その時、後を追うようにして美鈴が登場。その表情には焦りが浮かんでいる。
「すみません、咲夜さん!ベルちゃんが迷子に・・・・・・て、あれ?」
「一体どうしたの?美鈴」
「いえ、ちょっと目を離した隙に部屋からいなくなっちゃって・・・・・・ねえ、ベルちゃん。どうやってここまできたの?」
美鈴の疑問はもっともだった。働いているメイド達でさえ、館の内部を完全には把握していない――しきれていない、というのが正確だ。館中の空間が操作されているためであり、見た目以上に広い。それを完全に把握しているのは後にも先にも咲夜のみである。
余談だが、内部を完全に近い形で把握しているのが、意外にも年中門の前に立っている筈の美鈴であり、それを不思議に思った館中のメイド達の間で、七不思議の一つとして囁かれている。種を明かせば、休憩時間の際につまみ食いに来て迷い、しかし通った道すべてを覚えているだけであり、驚くべき記憶力と食い意地の賜物なのだが。
ちなみに、その日、休憩時間が終わっても姿を現さなかった美鈴は、咲夜から世にも恐ろしい地獄を味わわされていたりもするのだが、それは別の話。
美鈴の質問に、ベルはきょとんとして答えた。
「こっちにお母さんがいるような気がしたから行ってみたの」
自分でもよく分かっていないらしい。その解答に美鈴はもとより咲夜でさえも脱力した。レミリアはその様子を微笑ましげに眺め、慧音は何故か、僅かに眉根を寄せていた。
「・・・・・・お嬢様」
「ええ、いいわよ。あなたに伝える話は終わっているし。また何かあったら呼ぶから、その子の相手をしてなさい」
「しかし、お掃除が・・・・・・」
「一日くらい非番をとっても罰は当たらないわよ?それくらいあなたは働いてるんだから、たまには気分転換しなさい」
「・・・・・・申し訳ありません。それでは、お言葉に甘えて、失礼致します。ベル、美鈴、行くわよ」
「うん」
「あ、はい」
そう言って、咲夜達は退室し、そのまま部屋へと向かった。ベルが寝巻き姿のままであり、着替えさせないといけないためである。
部屋の前に着いた咲夜は、後ろにくっつくようにしてついて来たベルを見下ろし、穏やかな口調で聞いた。
「ほら、着替えてらっしゃい。一人でできるわね?」
「うん」
「一応、私も見ておきますか?」
「じゃあ、お願いしようかしら・・・・・・それより美鈴、門番の仕事はいいの?」
「今が5時なら、丁度休憩時間ですし、大丈夫ですよ」
そう言って、ベルと一緒に部屋に入る美鈴を見送ってから、咲夜はポケットから銀の懐中時計を取り出す。
いつも肌身離さず持ち歩く時計は、5時15分を指し示し、今尚動いていた。
それを見て、咲夜はふと思う。
――館中の時計が24時で止まっていた、とお嬢様は言っていたけれど・・・・・・では、何故、私の時計は動いているの?
「私の時は、止まってはいない・・・・・?」
自問するかのような咲夜の呟きに、答える者は、いない。
退室した三人の後姿が見えなくなってから、レミリアは楽しそうに笑った。
それを横目に、慧音は不思議そうに首をかしげながら、
「子供なんていたのか?」
「昨日できたみたいよ」
「・・・・・・昨日?」
誤解を招きかねない――むしろそれを望んでいるかのようなレミリアの言葉に、慧音は耳を疑うような表情を浮かべたが、ふいに真顔になる。
「それよりも・・・・・・質問に答えろ」
「程度にもよるわね、何?」
「あの子供は、本当に人間か?」
その言葉に、レミリアは目を細める。
「・・・・・・理由は?」
「確証がないが、妙な違和感を感じたような気がした。あくまで気がした、という程度の話なんだが・・・・・・」
「あなたもなかなか鋭いわね」
響いた声は、しかしレミリアのものではない。
二人の視線が、先ほどまで咲夜が座っていた椅子の付近に集中した時、虚空に線がすぅっ、と引かれ、それが分かれる。そこから覗くのは、境界の中――そこに囚われて同化し、生きることも死ぬことも出来ずにいる『何か』の目と手。
常人であれば見ただけで気が遠くなりそうな空間の中から、結界と境界を統べる女性、八雲紫はゆっくりと浮き上がり、優雅な動きで線の上に座った。
その様子を、しかし二人は軽く鼻を鳴らす程度にしか反応しなかった。
「怖がる者がいるわけでもないのに、普通に出てこないの?」
「凝りすぎだろう」
「あら、これくらい凝らなくちゃ、そのうち、あの子みたいにカリスマ無しとか言われそうだもの。それに驚く人は驚くから、その反応を見るのも面白いわよ?今度ご一緒にどう?」
「驚かせた後に食料にするなら、咲夜か美鈴でも連れていってほしいわね。今はまだ備蓄があるみたいだけど」
「・・・・・・里の人間に手を出したら、ただじゃおかないからな」
紫の提案に、レミリアは楽しそうに笑い、対照的に慧音はしかめ面で釘を刺す、といった具合に、まったく違う反応を示す。
その様子を可笑しそうに眺める紫に、慧音はしかめ面を浮かべたまま問う。
「ところで、鋭い、とはどういうことだ?」
「簡単なことよ」
どこからか取り出した扇を広げて口元を隠し、底の見えない微笑みを浮かべて、紫は言葉を続ける。
「あの子は人間じゃないわ。そして、妖怪とも違う存在」
「・・・・・・何?」
「人間じゃない存在をすべて妖怪というのなら、その定義に当てはめてもいいのだけれどね」
「どういうことだ?」
「その前に、この異変について分かったことから話しましょうか」
話を変えられ、しかしそれについて異論はないのか、しかめ面のまま頷く慧音。
「ちょっと調べてみたんだけど、博麗大結界の内側に、幻想郷全体を覆うようにして、新しい結界――と言っていいのか分からないけど、便宜上そう呼ぶわね。それが構築されていたわ。それもかなり強力な、ね。迂闊に近寄ることさえ出来なかったわ」
「何故だ?結界はお前のお家芸じゃないのか?」
「あれに近づけば近づくほど、『時を止められる』圧力が高まっているのよ。試しに、威力を何通りかに加減した妖弾を撃ってみたんだけど、弱いものは放った瞬間に止まったわ。近づいたら、私でも無事にいられたかどうか」
肩をすくめる紫に、慧音は険しい表情を浮かべる。
「それが時を止めている正体か」
「そうみたいね。構築されたのは、恐らく24時。しかも計ったように、昨日と今日、今日と明日の境界で止められていたわ。どちらでもあり、どちらでもない時間に止めることが、果たして人や妖怪に出来るかしら?」
「人間や妖怪以外の存在が、この異変に関わっているのか?」
「その可能性が高いわ。勿論、偶然止めることができた、というのなら、人や妖にも可能なんだけどね。問題は、何故その境界で時を止めたのか、というところ。流石にその理由ばかりは分からないけどね」
お手上げだ、とばかりに匙を投げる紫。レミリアは俯いたまま考え込み、慧音は険しい表情を崩さない。
しばらくの間沈黙が続いていたが、ふと、慧音が思いついたように呟いた。
「・・・・・・まるで、過去と未来の狭間にいるような気分だな」
その言葉に、紫は目を鋭く細め、レミリアははっと顔を上げ、同じく鋭い目つきで問う。
「どうしてそう思ったのかしら?」
「ん?いや・・・・・・時が止まっているということは、過去も未来もない筈だからな。現在がいつまでも続いているような気がしただけだ」
「・・・・・・現在?」
「現在なんて思う瞬間から、それは過去だろう。思おうとすればそれは未来だ。現在なんて、知覚できる程長い時間じゃないからな。人間だろうが妖怪だろうが、同じことが言えるはずだ」
慧音の言葉に、紫は目を細めただけだったが、レミリアは俯き、言葉を繰り返す。
「・・・・・・過去、未来、境界、現在・・・・・・まさか・・・・・・!」
そして、唐突に立ち上がった。
突然の行動に目を白黒させる二人に対し、レミリアは微笑む。
「・・・・・・気になるなら、本人に聞きにいきましょうか」
「犯人が分かったのかしら?」
「間違いないわね。こんなこと、彼女しかできないわ。後の二人ではまず不可能」
レミリアの言葉に、紫、慧音共に絶句。約五秒程固まった後、慧音が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
「三人もいるのか!?」
「いるわよ。但し、今回の件に関わっているのは一人だけね。残りの二人は無関係でしょうけど」
「どういうことかしら?」
「まさか、こんな東方の地に現れるとは思わなかったから、今まで見落としていたけれど・・・・・・」
「レミリア?」
紫の疑問の声に、しかしレミリアは答えず、艶やかな笑みを浮かべ――だが、その目は笑っておらず、深紅に染まった瞳で二人を見つめる。
「会いに行きましょうか。この騒動の元凶であるお嬢さんに」
うーむ、過去・未来・現在・お嬢さん・3人というキーワードって、どうにもアレを思い起こさせますw
それにしても、ここでもやはり中国は中ごk(ry