「ふぅ……」
何度目かの溜め息を、彼女は吐いた。
その幽かな音は、本の森に紛れて消えて行く。
―名前が欲しい。
小悪魔の密かな望みである。
主人であるパチュリーは「リトル」などと呼んでくれているが、どうもしっくり来ない。
誰か、名前を「付けて」くれない物だろうか。
喧騒が聞こえて来る。
「おーい、中国!遊びに来たぜ!!」
「中国じゃない!」
「だって、中国じゃないか。
お前は中国が中国で中国なんだから」
「どう言う理由よ!」
「うわっと!セラギネラ9とはまた…
お前、中国じゃなくて“中毒”って呼ぶぞ」
「私の名前は、」
「中国だろ?中国だよな?そうだよな?」
「う~っ……」
―ああなるのは、ご免だが。
「フラン……さん、ですよね」
暗いので、念のため確認。
「あれ、司書さん」
その声に、フランドールは本を読む手を止めた。
「…あ、眼鏡」
「何か最近眼が疲れるんですよ。
もうちょっと明るくしてくれないかなぁ……」
最近眼鏡を使うようになった。
魔理沙から貰った物で(彼女は無期限貸与だと言い張っている)、
色々見える優れものだ。
悪魔が眼鏡と言うのも変な話だが、実際視力は落ちている。
それだけ眼を酷使する暗さだと言う事だ。
普通の人間ではきっと、自分の掌すら見えないかも知れない。
「相手がパチュリーさんじゃ、間違い無く黙殺だね。きっと」
対するフランドールだが、その暗さで平然と本を読んでいた。
ついこの前までは辞典を傍らに読んでいたのに、今ではもうそれが無い。
彼女の吸収の速さには、小悪魔もただただ感心するばかりだ。
さりげなくページを覗き見る。
“…「先生……、現実って何でしょう?」
萌絵は小さな顔を少し傾けて言った。
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」…”
随分と難しい本だ、と思った。
しかも。
「あ、この本?
『レッドマジック』って言葉が出て来たから気になって読んでるんだけど、
……ちょっと私には難しいな。誰が犯人か、まだ分からないし」
「そうですか……」
さりげなくだったのに、気付かれてしまった。
―それは難しいのではなく、ミステリーならば当然の事でしょう。
と言う言葉は飲み込む。
それを言ってしまっては元も子も無い。
「何か用?」
「あ、ええ…」
フランドールが促してくれた。
そこで、思い切って小悪魔は訊いてみる事にした。
「ところで、」
「?」
「私を見て、フランさんは何を想像します?」
「うーん……何処をどう見ても小悪魔にしか見えないなぁ……」
上から下までしげしげと眺めながらフランドールは答えた。
ストレートだ。
と言うか、そのまんまだ。
「……」
「どうしたの?鏡でも壊れた?」
「いや、そう言う訳じゃなくて……」
「じゃあ、何で自分の格好なんか気にしてるの?
何か違和感があるなら鏡を見れば良いと思うけど」
「いや、そう言う訳でもなくて……」
「良い体つきだし、良い人だし……それに、綺麗だし。
気にするような所、司書さんにあるのかな……」
聞いた方が赤面するような事を、フランドールは時折平然と言う。
褒められるのは嬉しいが、それよりも。
「……その、呼び方ですよ」
「?」
「……名前?」
「はい……」
フランドールに事情を全て話すと、小悪魔は溜め息を吐いた。
息が少し苦しいのは、一気に話したからだけではないだろう。
「ニックネームじゃなくて、名前?」
「はい……」
何でそう言う事私に訊くかなぁ、と腕組みをしつつ、訊く。
「うーん……今までそれで何か不都合あったの?
そこら辺の事知らないから、分からないんだけど……」
不都合。
確かにここで働くようになった以前も以後も、
名無しである事で特に不都合が生じた事は無かった。
……と思う。
「不都合……?あったかしら?」
「あはは、訊き返さないでよ」
フランドールはちょっと笑ってから、
「…そうだなぁ…。
私は無くても良いと思うけど、それじゃ嫌なんだよね……」
言った。
「でも、私はあんまり『お母さん』って呼ばれたくないかな……」
「はい?」
「名前を付けるって言うのは、その位重要な事なんでしょ。
魔理沙に教わったの。
『モノに名前を付ける時は、そのモノと家族になる事だと考えろ』って」
多分、何か勘違いしてるな。
と小悪魔が思った時だった。
「よう、また来たぜ」
「うわ、何か臭いわよ」
「仕方無いだろ、弾幕潜り抜けて来たばっかなんだから。
多少焦げ臭いのは……」
「そうじゃなくて、火薬臭い」
「ああ、そっちか。
新しいスペルカードの開発を徹夜でやってたからな。
ほら、眼の下にクマまで」
「出来てない出来てない。着替えると言う事を知らないのあんたは」
噂をすれば影。
「あ、魔理沙だ!」
「……で、名前が欲しい、と」
「はい…」
フランドールから手短に事情を聞かされた魔理沙は、何を思ってかニヤリと笑った。
「お前、私の使い魔になる気あるか?」
「え?」
「だから、私の手足になる気があるか、と訊いてるんだ」
「あ、あのえと、話が読めないんですが……」
小悪魔の答えを鼻で笑ってから、魔理沙は真顔になる。
「私に名前を付けて貰うって言うのは、私に
『私は貴女の召使いになります』って言うのと同じだぜ、って事」
「はあ…?」
「え?なんで?」
「私に言ってるからだよ。
名前って言うのは、魔法の対象として最も定めやすい物だからな。
それさえあれば、操るのだって簡単だ」
「意地悪な人ね」
「私は魔女だぜ。そんなに歳老いて無いけど。
……まあ冗談はこの辺にして、名前か。
私は無くて良いと思うぞ」
「私と同じ事言ってる」
「武器の世界では、無銘と書いて最強と読むからな。
それとは少し違うけど、名無しであり続けられているのなら、
それをいじる必要は無いだろ」
「…いじる、ですか?」
「うん。
……人の在り方を縛る物は基本的に2つ。
肩書きと、名前だ。
特に名前は、問答無用で『某』を『某』と言う殻に閉じ込めてしまう。
要するにそう言う事で、
名前を付けてしまうと、その人はその名に縛られてしまうんだ。
だから、さっき言ったけど、
名前って言うのは、魔法の対象として最も定めやすい物なんだよ。
それだけでその名前を持つ人だって分かるだろ。誰が聞いても」
「へぇ……」
「そんなわけで今のお前には、
『悪魔を含むモノ』に作用する以外の呪術は全く通用しない。
だから、誰かの使い魔として操られる事も無い。
…こう言った方面から見ると、名無しって、結構得だろ?
得してるのに、わざわざそれを自分から捨てる事は無いよ」
「確かに……」
確かに、そうかも知れない。
小悪魔は、素直にそう思った。
素直にそう思って、ふと生じた疑問に首を傾げた。
「貴女は大丈夫なんですか?」
「何が?」
「名前、いろんな人に知られてますよね」
「別に大丈夫だよ。解呪の方法ぐらい知ってるし。
フランには教えたよな」
「えーっと、『呪いなんて陰湿な物、笑い飛ばせばそれで終わりだ』ってやつ?」
―迷う事無く笑い飛ばす。
それが、魔理沙の呪いの解き方だった。
「凄く簡単なんですね…」
「いや、難しいよ。
呪いって言うのは一種の暗示だから、本人の気付かぬ所で進行してる事も多いし」
「うーん……」
「ま、要するに。
名前が無いお前には、こういう心配も無用だって事だ。OK?」
「はあ…」
俯いてしまった小悪魔の肩を、魔理沙はぽんと叩いた。
「気落ちする事は無いぜ。
芸術家は、自分の最高傑作に敢えて無題と名付ける。
それは、名前が無いんじゃなくて、
名前を付けないと言う意味なんだ。
自分の全てを注ぎ込んで作り上げた物を、名前と言う形で束縛しないようにするために。
……お前の無名と言う在り方も、きっと同じ事だろ」
「魔理沙、ちょっといい?」
パチュリーの呼ぶ声。
魔理沙はさて、と立ち上がる。
「まあ、そんなとこだ。
変な事で悩んでると、お肌に来るぜ」
妙な事を言い残して、魔理沙はフランドールを連れて入り口の方へと消えた。
「無名、か……」
小悪魔は独り考える。
確かに、それもありかも知れない。
後付けの名前なんて、よそよそしいだけだし。
きっと何か、理由があるのだろう。
自分の知らない所で。
名前が人を縛るものならば。
それが無い自分は、その枷も無いのだから。
……と。
「本が一冊足りないんだけど」
「あ?そりゃあ私が借りてるからだぜ」
「それ以外に一冊!『死を相手に複数回与える魔法』の本よ。
禁呪の本だから貸し出し禁止の筈なの」
「……。知らんぞ」
「嘘じゃ無いでしょうね」
「当たり前だろ、私が何時嘘を吐いた?」
「何か疑わしいのよ」
「お前な、少しは人を信用しろ。
……さもないと、小悪魔に名前付けるぞ」
「…う…」
「1人しかいない貴重な戦力を失うのと、人の言う事を信用するのと。
どっちの方が大変だ?」
「…それは困りますマジで勘弁して下さい」
「分かってもらえれば何よりだ」
前言を撤回したくなるような会話だ。
これがその理由でない事を祈りながら、
小悪魔は静かに司書室へと戻った。
(※引用符内:森博嗣「すべてがFになる」(講談社ノベルス)より引用)
今回初めて書きこむわけですが、良い物を読ませていただきました。
作品中の幾つかの小道具、設定などが話の本筋を離れない程度にうまく配置されていたのが好印象です。
-10点内訳は美鈴と魔理沙の会話の後、場面転換が唐突すぎかな、と感じたのが-5。フランがもう少し子供っぽく(読書などから大人っぽさを得たというには大人しすぎ)動く演出をして欲しかったのが-5となってます。
レッドマジックあそこでだすのはうまいなぁ。どうして7は孤独なのか、フランとか悩みそうですねとか思ったりした桜でした。
次の作品、楽しみに待たせていただきます。ではでは。