物事に善悪という概念は無く、全てはただ在るように在るだけである。
そんな猿でも解る理屈は十二分に理解しているつもりなのだが、脳の支配下にあり、個という観点から逃れることのできないこの閉塞した世界に於いては、残念ながら厳然としてそこに善悪は存在する。それが生物としての限界。
善と悪。言い換えれば損と得であり、快と不快である。
つまり、前触れもなく来訪してきた上に挨拶一つだけで返事も待たずに不躾に部屋に上がり、人が食べようと思っていた厚焼きの醤油煎餅を貪り始める奴は、誰がどう見たって立派な悪でしかないということだ。
あまつさえ、最後の一枚に手を伸ばしたところをその相手が横から皿ごと掻っ攫い、これ見よがしにいやらしい笑いを浮かべようものなら堪忍袋の緒がブッ千切れたとしても仕方のないことだと言える。妙覚でも持っていればまた違うのかもしれないが、生憎とここは寺ではない。神社だ。
「ちょっと、魔理沙!」
ここ、参拝客のいない神社として有名な博麗神社の主兼巫女である博麗霊夢がちゃぶ台をバンバンと叩きながら声を張り上げた。
客がいないといっても神職であることを放棄するわけにもいかない彼女の衣装は、赤と白という目出度くも伝統的な巫女の彩色が為されていた。しかし伝統的なのは色だけでその服は従来のものとは違って様々な個所が切り取られており、やけに肌の露出が多いものとなっている。とはいえ、そうでもなければ桜の散り終わったこの季節を快適に過ごすことなどできるわけがないのだろうが。
普段なら可愛らしいと表現するのが妥当なのだが、現在は持ち主の怒りを代弁するかのように上下する腕に合わせて袖が雄々しくはためいていた。
ちゃぶ台を挟んで霊夢の向かい側に座っているのは、黒と白というあまり目出度くない色のエプロンドレスを纏った金髪の魔女、霧雨魔理沙である。
小柄な体躯も相俟ってか―――ともすれば西洋のアンティーク人形のようにも見える魔理沙の佇まいだったが、額から流れ落ち、肌と服とを張り付かせる汗がそうでないことを如実に表している。何よりその稚気に満ちた大きな瞳から、目の前の本のページを捲るそのたおやかな手つきから、そして煎餅をバリバリと音を立てて噛み砕きずるずると茶を啜るその小さな口から、作り物では表現しようのない生気が溢れていた。
一応二人は友人という立ち位置ではあったが、一連の行動を見る限り魔理沙の方がそう思っているかどうかは甚だ怪しいところだろう。万が一今の行為が親愛の情の表れであるとするならば、彼女の性根はロールパンのように捻じ曲がり、納豆のように醗酵しているに違いない。
「・・・・叫ぶなよ、余計に暑くなるだろ」
捻じれた納豆パンであるところの霧雨魔理沙が、額の汗を手で拭いながら怠そうに答えた。
その吸光率と機密性を両立させた服を脱げば半分くらい解決すると思われるのだが、彼女は普遍性に独自のこだわりを持っているためか、いかにも魔女然といった装いを好む傾向にあった。その辺りの感覚は、アレンジを加えてまで巫女服を着用する霊夢にも通じるものがある。
「知らないわよそんなの。それより、私のお煎餅返しなさいよ」
「・・・・了見の狭い奴だぜ」
そう言って、半分ほど欠けて唾液の付着した煎餅を差し出してきた。霊夢はその手と魔理沙の頭を取って、口の中へと無理矢理煎餅を押し返す。
「むが―――」
最初のうちこそ少し苦しそうにしていたが、そのうち突っ込まれた手ごと煎餅を食い始めたのを見て、霊夢は呆れ混じりの溜息を吐いた。
「あんたまさか、態々嫌がらせにきたわけじゃないでしょうね?」
「濡れ衣だな。今日私がここに来たことと、ちゃぶ台の上に美味しそうな煎餅があったことには特に因果関係がない」
「じゃあ何よ」
霊夢は空になった魔理沙の湯飲みに急須の中身を注ぐ。
「いや、実はな――――」
似合わない語り口調で、魔理沙が口を開いた。
霧雨魔理沙曰く、「今朝方ハーブティーを飲みながら優雅に読書に勤しんでいた」
霧雨魔理沙曰く、「周りには積み上げられた本があり、そこはかとなく幸せだった」
霧雨魔理沙曰く、「茶の代わりを用意しようと思ったが、部屋に足の踏み場がないほど物が散乱していた」
霧雨魔理沙曰く、「それでも無理矢理動こうとしたところ、局地的な雪崩に襲われた」
霧雨魔理沙曰く、「なんとか読みかけの本だけ抱えて這這の体で逃げ出した」
「――――という訳だ」
喋り終えた魔理沙に、霊夢の冷たい熱視線が突き刺さる。
「つまり、あんたが家の掃除をしないから私のお煎餅が無くなったのね」
「最初と最後をくっつけて要約するな。誤解を生むだろ」
残念ながら誤解でもなんでもない。ついでにいうと残念でもない。
魔理沙の整頓不精は今に始まったことではないが、その報いがよりによって何故今、この時なのだろうかと思わないでもない。が、すぐにそれもどうでも良くなった。諦観からくる刹那的衝動に重きを置いたスタンスと、刹那的であるが故に後に尾を引かないこの性格こそが、霊夢の美徳であり人徳であり悪徳である。
「・・・・・・・まったく、それなら此処じゃなくても色々あるでしょうが。赤いところとか、白いところとか」
魔理沙は霊夢を上下に繁々と眺める。
「服の話じゃない」
ぴしゃりと言って、霊夢は腰を上げた。
「出かけるのか?」
「違うわよ、あんたの所為で思い出したの」
「――――?」
「掃除よ、掃除」
「別に散らかっちゃいないと思うぜ」
魔理沙は首を回して視線を巡らせた。
純和風といった趣の居間には、ちゃぶ台と、箪笥と、それから一応神棚が申し訳程度に設置してあった。この場合、散らかっていないというより、物が少なすぎて掃除をする必要がないと言った方が正しいだろう。
「蔵のよ。蔵」
「あー、そういえば神社だったな、ここ」
魔理沙が、まるで猫のように喉を鳴らして笑った。
大小様々だが、大抵の神社には宝物を収めるための蔵というものが存在しており、やはり博麗神社とてそれは例外ではない。
十三代という年月がそうさせたのか、霊夢の目の前に聳える土蔵はやけに古ぼけ、薄汚れていた。雨風に晒された白壁は無残にも土混じりの染みを広げ、元は立派であったと思われる木製の扉は黒ずんで苔が生えてしまっている。しかし霊夢の性格を鑑みる限り、一概に年月だけのせいとは言い切れないところだろう。
「相変わらずボロいな」
魔理沙が背中越しに、実に率直で忌憚ない感想を述べてくれた。
「勝手について来たくせに文句言うな」
ついて来るなとは言わなかった。言ったところで猫を大量虐殺しても余りある魔理沙の好奇心を押えることなど無理というものだ。
「滅相もないぜ。博麗神社の蔵出しに付き合える機会なんかそうないからな」
「邪魔だけはしないでよ」
霊夢は懐から鍵を取り出して、錆び付いてシルエットが歪に変形した南京錠に差し込み、
「よっ―――と」
力を込めて鍵を回した。
ガリガリと錆の落ちる音に続いて、錠前の外れる音が聞こえる。
霊夢は鍵を仕舞うと、両手を扉の取っ手に掛けて思い切り引っ張った。
扉は微動だにしない。
「・・・・・魔理沙、手伝って」
二人は観音開きの扉の取っ手を片方ずつ掴むと、全身の力を込めて引っ張った。
しかし、扉はいよいよ動かない。さりとて、扉を破壊するわけにもいかない。
外聞をかなぐり捨てた二人は、足を支点にして、おとがいを反らしながら全体重を扉にかける。
「く―――――!」
「ぐ、あ、あ―――――!!」
その甲斐あってか、ようやく扉の蝶番がギシギシと悲鳴を上げ始めた。
「魔理沙、あと少しよ!」
「年季入りすぎだろこの扉―――!!!」
どんなものでも終わりは呆気ないものである。ばん、と音を立てて、それまでの抵抗が嘘のように扉は全開まで勢いよく開かれた。
当然、取っ手を掴んでいた二人も、扉と一緒に勢いよく飛んでいた。
「よっと」
霊夢は空中で体勢を立て直すと、地面に片手をついてくるりと身を翻す。その足は空中で綺麗な弧を描いて、着地。すぐさま立ち上がって手を叩き、土を払う。
「痛って―――――」
魔理沙はというと、あまりの勢いのため無様に尻餅をついていた。が、そのまま勢いを利用し後転、立ち上がる。しかし背中から頭にかけて地面と接したため、凝った衣装と綺麗な金髪が台無しになる。
残念なことに、アクティブな昼行灯とアクティブな引き篭もりとの運動能力の差を示す結果となってしまった。
「まったく、やれやれだぜ―――――」
土を叩き落としながら蔵の中を覗いた魔理沙の動きが止まった。
それも無理はない。蔵の中には物が散乱しており、あまりにも雑多すぎたのだ。
「もうちょっと整然とした感じを想像してたんだけどな」
「ほら、行くわよ」
霊夢は魔理沙の手を引いて、蔵の中へと足を踏み入れた。
外から見ても異様だったが、中に入ると更に異様―――魔境だった。
弓、太刀、祭壇、燭台など、宝物と一緒に祭事で使用するものまでまとめておいてあるのは解るのだが、あまりにも色々なものをまとめ過ぎて、全体的なまとまりがなくなっている。天井近くまで乱雑に積み上げられた様々な宝物や祭器が、まるで威圧するように二人を見下ろしていた。
去年掃除したときもこんな風だっただろうかと霊夢は記憶の糸を手繰り寄せたが、こんな風だった気もするし、こんな風じゃなかった気もする。やはり記憶など随分といい加減なものだということを再確認して、一人満足する。
「流石、蔵だけあって涼しいな」
物を保管する場所ということもあり、蔵の中は夏とは思えないほど涼しかった。日を遮っているのもあるが、元々が風通しの良い作りをしているために、熱気が溜まることなく循環しているのだ。これぞ、日本家屋の真骨頂とも言えるだろう。
納涼を満喫したためか、それとも目の前の宝の山に中てられたためか、頼みもしていないのに魔理沙は少し元気になってしまったようだ。
「あんまりその辺の物に触らないでよ」
と言われて引き下がるようでは、それは魔理沙ではない。偽魔理沙だ。
「なあ、これは何だ?」
霊夢の舌の根の乾きを待たぬうちに魔理沙がガラクタの山から引きずり出したのは、一本の矢だった。
その矢は明らかに破魔矢とは違い、物に突き刺さる為だけに存在しているように鋭く簡素な作りをしている。
「ああ、それ?それは弓神事に使うやつよ」
「ほほう、そんなのもやってたのか」
「歩射だけじゃなくて騎射もやってたみたいだけど。因みに私はどっちもやったことがないわ」
「だろうな。おお、鞍と鐙までちゃんとあるじゃないか」
楽しそうに言って、今度はその鞍と鐙を引っ張り出した。山の上の方が揺れたのには気付いていない。
「魔理沙!」
「ぐえ――――――」
霊夢は魔理沙の襟元を掴んで引き摺り寄せた。その細腕のどこにそんな力が、と思うほどの勢いである。
後ろに引き倒される形になった魔理沙の足の間に、金属製の篝籠がガラガラと大きな音を立てて崩れ落ちてきた。
「・・・・・・・・・・・・・・あぶね」
「だから触るなって―――――」
今度は霊夢の後ろの山が揺れた。元々不安定な形で積み上げられていた灯篭の一つが、吸い寄せられるように霊夢目掛けて落下を始める。
霊夢はそれを事も無げに、鼻を鳴らしながら手にした玉串で打ち払った。やはり引き篭もりとは一味違う。
「ああ、もう――――」
ぐらり、と、今度は土蔵全体が揺れた。いや、それは錯覚だったのだが、そう感じるほどに今度の揺れは大きかった。ガラクタの山がゆっくりと、しかし着実にしな垂れかかってくる。
あまりに予想通りの展開に霊夢はこめかみを掻き、魔理沙は口の端を吊り上げる。
「おい、どうするんだ」
霊夢、と魔理沙が呼びかけたときには、彼女はもう既にその場に居なかった。
霊夢の行動は迅速だった。するりと空中に浮かび上がったかと思うと、蔵の天窓まで辿り着き、小さい扉を蹴り開ける。
「成仏しなさいよ、魔理沙。別にしなくてもいいけど」
それだけ告げると、天窓から霊夢は外に飛び出していった。そしてその場には、仰向けに倒れた格好の魔理沙一人が取り残される。
気持ちの良いくらいあっさりと見限っていった。清風のような爽やかさすら感じてしまう。
「くっ―――――!」
魔理沙は身を起こし、出口に向かって走り出した。魔理沙も飛んで逃げればいい話なのだが、残念ながら彼女の手元に箒が無かった。もしかすると無くても飛べるのかもしれない。だが、魔女は箒に乗って飛ぶものだ。
そして無常にも、たった一つの出入り口を塞ぐように大きな影が落ちる。
神輿である。成人男性が十人以上いなければ担げなさそうなほどの大きさの神輿が、今にも落ちてこようとしていた。
ここは神社なのであって、神輿があるのは別に構わないのだが、何故それを上の方に積むのだろうか―――――。
そんな些細な疑問など知ったことではない神輿は、当然重力に則って地面に落ちるしかない。
轟音が鳴り響き、地面が揺れた。
そして閉ざされる唯一の活路。
途方に暮れ、恐る恐る振り返った魔理沙の目に映ったのは、雪崩れかかってくる注連縄、絵馬、札、掛け軸、巻物、能面、古文書、絵皿、陶器、鎧兜、刀剣、太鼓、篝、等等。
「う、わ――――――――――」
天窓から外に飛び出した霊夢は、来たるべき崩壊に備えて耳を塞いだ。
目論見とは違ったものの、結果的に見れば霊夢のこの行動は功を奏したといえる。
轟音、振動、そして僅かな間を置いて土蔵の屋根が吹き飛んだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・は?」
土蔵から溢れ出てきたのは無数の星。日中では陽光に恥じ入り姿を見せぬそれらも、流石にこの至近距離では太陽と比べても遜色なく煌びやかに輝いていた。
流れる星々は川を作り、白雲を突き抜け、散らし、そして蒼天へと吸い込まれて消えていく。天から落ちる星は数あれど、地から天へさかしまに落ちる星はそうそう見れるものではないだろう。
しかしそんな人間の機微などお構いなしに、周囲の木々に潜んでいた雀や烏はその音と、衝撃と、それから降ってくる色々な物から逃げ惑っていた。
流れ星に巻き上げられた土蔵の中身が、かなりの高高度から地上を襲撃し始める。当然、同じ博麗神社の敷地内にある建物が無事で済むわけがない。
本殿の瓦をぶち抜いて突き立つ日本刀。社務所の縁側にばら撒かれる原型を留めていない木片。鳥居を中心からへし折り鎮座する甲冑。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
好意的解釈をすれば前衛芸術と取れないこともない様相だったが、余人の理解を得るにはあと数世紀ほどの時間が必要だろう。
「いやー、危ないところだった――――」
上半分がなくなった土蔵の壁を昇って、いつも通り素敵な笑顔の魔理沙が現れた。その頭を、有無を言わさず霊夢が玉串で小突いた。
「ぐおおおお!!」
かなり全力で殴ったためか、小気味良い音が辺りに響き渡った。魔理沙は後頭部を押えてゴロゴロと転がる。
「魔理沙!何てことすんのよ!!」
「そりゃこっちの台詞だ!本気で殴りやがって・・・・・」
「あんたが悪いんでしょうが」
「あのな、お前も視界いっぱいに隙間なく弾幕が広がってたらボムを撃つだろ?誰だってそうする。私もそうする」
「代わりにうちの神社が滅茶苦茶じゃない。どうせお客なんかこないけど、いい迷惑だわ」
「ふん、知らないのか?整理整頓のコツっていうのは要らない物を捨てることなんだぜ?」
二人はやはりいつもの調子でぎゃあぎゃあと喚きだす。一人足りないというのに姦しいことこの上ない。
だが最後の台詞を聞いた瞬間、霊夢の顔から表情が抜け落ちた。既に勝負するものと思ってスペルカードに手を伸ばして準備していた魔理沙は、その不可解な変貌に眉根を寄せる。
「そういえば、あんたの家も散らかってるのよね―――」
「――――――」
その言葉だけで霊夢の意図を瞬時に理解したらしく、魔理沙は掌からマジックミサイルを放ってきた。
緑の、まるでモミの木のような弾頭は一瞬その場に停滞した後、急加速して一直線に突き進んでくる。
「――――私が片付けといてあげるわ」
しかし時既に遅く、博麗の巫女はいつものように悠然とした動きで空に舞い上がる。当然、向かう先は魔理沙の家がある魔法の森。
「あっ、おい!待て、くそ――――!」
魔理沙がとてとてと社務所の方に走っていった。立てかけてあった箒を取りに行ったのだろうが――――残念ながら箒は現在瓦礫の下敷きとなっている。飛行速度では魔理沙に一日の長があるといっても、飛べなければ話にならない。
ある程度遠ざかったところで眼下にある神社の様子を窺うと、掌ほどの大きさになった魔理沙が縁側で両手をついてうな垂れているのが見えた。因果応報とはまさにこのことだ。
「―――違った、報いはこれからだったわ」
懐の呪符の枚数を調べながらどこか楽しそうに呟いて、霊夢は飛行速度を僅かに上げた。
そしてこれより数刻後、霧雨邸は――――――
そんな猿でも解る理屈は十二分に理解しているつもりなのだが、脳の支配下にあり、個という観点から逃れることのできないこの閉塞した世界に於いては、残念ながら厳然としてそこに善悪は存在する。それが生物としての限界。
善と悪。言い換えれば損と得であり、快と不快である。
つまり、前触れもなく来訪してきた上に挨拶一つだけで返事も待たずに不躾に部屋に上がり、人が食べようと思っていた厚焼きの醤油煎餅を貪り始める奴は、誰がどう見たって立派な悪でしかないということだ。
あまつさえ、最後の一枚に手を伸ばしたところをその相手が横から皿ごと掻っ攫い、これ見よがしにいやらしい笑いを浮かべようものなら堪忍袋の緒がブッ千切れたとしても仕方のないことだと言える。妙覚でも持っていればまた違うのかもしれないが、生憎とここは寺ではない。神社だ。
「ちょっと、魔理沙!」
ここ、参拝客のいない神社として有名な博麗神社の主兼巫女である博麗霊夢がちゃぶ台をバンバンと叩きながら声を張り上げた。
客がいないといっても神職であることを放棄するわけにもいかない彼女の衣装は、赤と白という目出度くも伝統的な巫女の彩色が為されていた。しかし伝統的なのは色だけでその服は従来のものとは違って様々な個所が切り取られており、やけに肌の露出が多いものとなっている。とはいえ、そうでもなければ桜の散り終わったこの季節を快適に過ごすことなどできるわけがないのだろうが。
普段なら可愛らしいと表現するのが妥当なのだが、現在は持ち主の怒りを代弁するかのように上下する腕に合わせて袖が雄々しくはためいていた。
ちゃぶ台を挟んで霊夢の向かい側に座っているのは、黒と白というあまり目出度くない色のエプロンドレスを纏った金髪の魔女、霧雨魔理沙である。
小柄な体躯も相俟ってか―――ともすれば西洋のアンティーク人形のようにも見える魔理沙の佇まいだったが、額から流れ落ち、肌と服とを張り付かせる汗がそうでないことを如実に表している。何よりその稚気に満ちた大きな瞳から、目の前の本のページを捲るそのたおやかな手つきから、そして煎餅をバリバリと音を立てて噛み砕きずるずると茶を啜るその小さな口から、作り物では表現しようのない生気が溢れていた。
一応二人は友人という立ち位置ではあったが、一連の行動を見る限り魔理沙の方がそう思っているかどうかは甚だ怪しいところだろう。万が一今の行為が親愛の情の表れであるとするならば、彼女の性根はロールパンのように捻じ曲がり、納豆のように醗酵しているに違いない。
「・・・・叫ぶなよ、余計に暑くなるだろ」
捻じれた納豆パンであるところの霧雨魔理沙が、額の汗を手で拭いながら怠そうに答えた。
その吸光率と機密性を両立させた服を脱げば半分くらい解決すると思われるのだが、彼女は普遍性に独自のこだわりを持っているためか、いかにも魔女然といった装いを好む傾向にあった。その辺りの感覚は、アレンジを加えてまで巫女服を着用する霊夢にも通じるものがある。
「知らないわよそんなの。それより、私のお煎餅返しなさいよ」
「・・・・了見の狭い奴だぜ」
そう言って、半分ほど欠けて唾液の付着した煎餅を差し出してきた。霊夢はその手と魔理沙の頭を取って、口の中へと無理矢理煎餅を押し返す。
「むが―――」
最初のうちこそ少し苦しそうにしていたが、そのうち突っ込まれた手ごと煎餅を食い始めたのを見て、霊夢は呆れ混じりの溜息を吐いた。
「あんたまさか、態々嫌がらせにきたわけじゃないでしょうね?」
「濡れ衣だな。今日私がここに来たことと、ちゃぶ台の上に美味しそうな煎餅があったことには特に因果関係がない」
「じゃあ何よ」
霊夢は空になった魔理沙の湯飲みに急須の中身を注ぐ。
「いや、実はな――――」
似合わない語り口調で、魔理沙が口を開いた。
霧雨魔理沙曰く、「今朝方ハーブティーを飲みながら優雅に読書に勤しんでいた」
霧雨魔理沙曰く、「周りには積み上げられた本があり、そこはかとなく幸せだった」
霧雨魔理沙曰く、「茶の代わりを用意しようと思ったが、部屋に足の踏み場がないほど物が散乱していた」
霧雨魔理沙曰く、「それでも無理矢理動こうとしたところ、局地的な雪崩に襲われた」
霧雨魔理沙曰く、「なんとか読みかけの本だけ抱えて這這の体で逃げ出した」
「――――という訳だ」
喋り終えた魔理沙に、霊夢の冷たい熱視線が突き刺さる。
「つまり、あんたが家の掃除をしないから私のお煎餅が無くなったのね」
「最初と最後をくっつけて要約するな。誤解を生むだろ」
残念ながら誤解でもなんでもない。ついでにいうと残念でもない。
魔理沙の整頓不精は今に始まったことではないが、その報いがよりによって何故今、この時なのだろうかと思わないでもない。が、すぐにそれもどうでも良くなった。諦観からくる刹那的衝動に重きを置いたスタンスと、刹那的であるが故に後に尾を引かないこの性格こそが、霊夢の美徳であり人徳であり悪徳である。
「・・・・・・・まったく、それなら此処じゃなくても色々あるでしょうが。赤いところとか、白いところとか」
魔理沙は霊夢を上下に繁々と眺める。
「服の話じゃない」
ぴしゃりと言って、霊夢は腰を上げた。
「出かけるのか?」
「違うわよ、あんたの所為で思い出したの」
「――――?」
「掃除よ、掃除」
「別に散らかっちゃいないと思うぜ」
魔理沙は首を回して視線を巡らせた。
純和風といった趣の居間には、ちゃぶ台と、箪笥と、それから一応神棚が申し訳程度に設置してあった。この場合、散らかっていないというより、物が少なすぎて掃除をする必要がないと言った方が正しいだろう。
「蔵のよ。蔵」
「あー、そういえば神社だったな、ここ」
魔理沙が、まるで猫のように喉を鳴らして笑った。
大小様々だが、大抵の神社には宝物を収めるための蔵というものが存在しており、やはり博麗神社とてそれは例外ではない。
十三代という年月がそうさせたのか、霊夢の目の前に聳える土蔵はやけに古ぼけ、薄汚れていた。雨風に晒された白壁は無残にも土混じりの染みを広げ、元は立派であったと思われる木製の扉は黒ずんで苔が生えてしまっている。しかし霊夢の性格を鑑みる限り、一概に年月だけのせいとは言い切れないところだろう。
「相変わらずボロいな」
魔理沙が背中越しに、実に率直で忌憚ない感想を述べてくれた。
「勝手について来たくせに文句言うな」
ついて来るなとは言わなかった。言ったところで猫を大量虐殺しても余りある魔理沙の好奇心を押えることなど無理というものだ。
「滅相もないぜ。博麗神社の蔵出しに付き合える機会なんかそうないからな」
「邪魔だけはしないでよ」
霊夢は懐から鍵を取り出して、錆び付いてシルエットが歪に変形した南京錠に差し込み、
「よっ―――と」
力を込めて鍵を回した。
ガリガリと錆の落ちる音に続いて、錠前の外れる音が聞こえる。
霊夢は鍵を仕舞うと、両手を扉の取っ手に掛けて思い切り引っ張った。
扉は微動だにしない。
「・・・・・魔理沙、手伝って」
二人は観音開きの扉の取っ手を片方ずつ掴むと、全身の力を込めて引っ張った。
しかし、扉はいよいよ動かない。さりとて、扉を破壊するわけにもいかない。
外聞をかなぐり捨てた二人は、足を支点にして、おとがいを反らしながら全体重を扉にかける。
「く―――――!」
「ぐ、あ、あ―――――!!」
その甲斐あってか、ようやく扉の蝶番がギシギシと悲鳴を上げ始めた。
「魔理沙、あと少しよ!」
「年季入りすぎだろこの扉―――!!!」
どんなものでも終わりは呆気ないものである。ばん、と音を立てて、それまでの抵抗が嘘のように扉は全開まで勢いよく開かれた。
当然、取っ手を掴んでいた二人も、扉と一緒に勢いよく飛んでいた。
「よっと」
霊夢は空中で体勢を立て直すと、地面に片手をついてくるりと身を翻す。その足は空中で綺麗な弧を描いて、着地。すぐさま立ち上がって手を叩き、土を払う。
「痛って―――――」
魔理沙はというと、あまりの勢いのため無様に尻餅をついていた。が、そのまま勢いを利用し後転、立ち上がる。しかし背中から頭にかけて地面と接したため、凝った衣装と綺麗な金髪が台無しになる。
残念なことに、アクティブな昼行灯とアクティブな引き篭もりとの運動能力の差を示す結果となってしまった。
「まったく、やれやれだぜ―――――」
土を叩き落としながら蔵の中を覗いた魔理沙の動きが止まった。
それも無理はない。蔵の中には物が散乱しており、あまりにも雑多すぎたのだ。
「もうちょっと整然とした感じを想像してたんだけどな」
「ほら、行くわよ」
霊夢は魔理沙の手を引いて、蔵の中へと足を踏み入れた。
外から見ても異様だったが、中に入ると更に異様―――魔境だった。
弓、太刀、祭壇、燭台など、宝物と一緒に祭事で使用するものまでまとめておいてあるのは解るのだが、あまりにも色々なものをまとめ過ぎて、全体的なまとまりがなくなっている。天井近くまで乱雑に積み上げられた様々な宝物や祭器が、まるで威圧するように二人を見下ろしていた。
去年掃除したときもこんな風だっただろうかと霊夢は記憶の糸を手繰り寄せたが、こんな風だった気もするし、こんな風じゃなかった気もする。やはり記憶など随分といい加減なものだということを再確認して、一人満足する。
「流石、蔵だけあって涼しいな」
物を保管する場所ということもあり、蔵の中は夏とは思えないほど涼しかった。日を遮っているのもあるが、元々が風通しの良い作りをしているために、熱気が溜まることなく循環しているのだ。これぞ、日本家屋の真骨頂とも言えるだろう。
納涼を満喫したためか、それとも目の前の宝の山に中てられたためか、頼みもしていないのに魔理沙は少し元気になってしまったようだ。
「あんまりその辺の物に触らないでよ」
と言われて引き下がるようでは、それは魔理沙ではない。偽魔理沙だ。
「なあ、これは何だ?」
霊夢の舌の根の乾きを待たぬうちに魔理沙がガラクタの山から引きずり出したのは、一本の矢だった。
その矢は明らかに破魔矢とは違い、物に突き刺さる為だけに存在しているように鋭く簡素な作りをしている。
「ああ、それ?それは弓神事に使うやつよ」
「ほほう、そんなのもやってたのか」
「歩射だけじゃなくて騎射もやってたみたいだけど。因みに私はどっちもやったことがないわ」
「だろうな。おお、鞍と鐙までちゃんとあるじゃないか」
楽しそうに言って、今度はその鞍と鐙を引っ張り出した。山の上の方が揺れたのには気付いていない。
「魔理沙!」
「ぐえ――――――」
霊夢は魔理沙の襟元を掴んで引き摺り寄せた。その細腕のどこにそんな力が、と思うほどの勢いである。
後ろに引き倒される形になった魔理沙の足の間に、金属製の篝籠がガラガラと大きな音を立てて崩れ落ちてきた。
「・・・・・・・・・・・・・・あぶね」
「だから触るなって―――――」
今度は霊夢の後ろの山が揺れた。元々不安定な形で積み上げられていた灯篭の一つが、吸い寄せられるように霊夢目掛けて落下を始める。
霊夢はそれを事も無げに、鼻を鳴らしながら手にした玉串で打ち払った。やはり引き篭もりとは一味違う。
「ああ、もう――――」
ぐらり、と、今度は土蔵全体が揺れた。いや、それは錯覚だったのだが、そう感じるほどに今度の揺れは大きかった。ガラクタの山がゆっくりと、しかし着実にしな垂れかかってくる。
あまりに予想通りの展開に霊夢はこめかみを掻き、魔理沙は口の端を吊り上げる。
「おい、どうするんだ」
霊夢、と魔理沙が呼びかけたときには、彼女はもう既にその場に居なかった。
霊夢の行動は迅速だった。するりと空中に浮かび上がったかと思うと、蔵の天窓まで辿り着き、小さい扉を蹴り開ける。
「成仏しなさいよ、魔理沙。別にしなくてもいいけど」
それだけ告げると、天窓から霊夢は外に飛び出していった。そしてその場には、仰向けに倒れた格好の魔理沙一人が取り残される。
気持ちの良いくらいあっさりと見限っていった。清風のような爽やかさすら感じてしまう。
「くっ―――――!」
魔理沙は身を起こし、出口に向かって走り出した。魔理沙も飛んで逃げればいい話なのだが、残念ながら彼女の手元に箒が無かった。もしかすると無くても飛べるのかもしれない。だが、魔女は箒に乗って飛ぶものだ。
そして無常にも、たった一つの出入り口を塞ぐように大きな影が落ちる。
神輿である。成人男性が十人以上いなければ担げなさそうなほどの大きさの神輿が、今にも落ちてこようとしていた。
ここは神社なのであって、神輿があるのは別に構わないのだが、何故それを上の方に積むのだろうか―――――。
そんな些細な疑問など知ったことではない神輿は、当然重力に則って地面に落ちるしかない。
轟音が鳴り響き、地面が揺れた。
そして閉ざされる唯一の活路。
途方に暮れ、恐る恐る振り返った魔理沙の目に映ったのは、雪崩れかかってくる注連縄、絵馬、札、掛け軸、巻物、能面、古文書、絵皿、陶器、鎧兜、刀剣、太鼓、篝、等等。
「う、わ――――――――――」
天窓から外に飛び出した霊夢は、来たるべき崩壊に備えて耳を塞いだ。
目論見とは違ったものの、結果的に見れば霊夢のこの行動は功を奏したといえる。
轟音、振動、そして僅かな間を置いて土蔵の屋根が吹き飛んだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・は?」
土蔵から溢れ出てきたのは無数の星。日中では陽光に恥じ入り姿を見せぬそれらも、流石にこの至近距離では太陽と比べても遜色なく煌びやかに輝いていた。
流れる星々は川を作り、白雲を突き抜け、散らし、そして蒼天へと吸い込まれて消えていく。天から落ちる星は数あれど、地から天へさかしまに落ちる星はそうそう見れるものではないだろう。
しかしそんな人間の機微などお構いなしに、周囲の木々に潜んでいた雀や烏はその音と、衝撃と、それから降ってくる色々な物から逃げ惑っていた。
流れ星に巻き上げられた土蔵の中身が、かなりの高高度から地上を襲撃し始める。当然、同じ博麗神社の敷地内にある建物が無事で済むわけがない。
本殿の瓦をぶち抜いて突き立つ日本刀。社務所の縁側にばら撒かれる原型を留めていない木片。鳥居を中心からへし折り鎮座する甲冑。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
好意的解釈をすれば前衛芸術と取れないこともない様相だったが、余人の理解を得るにはあと数世紀ほどの時間が必要だろう。
「いやー、危ないところだった――――」
上半分がなくなった土蔵の壁を昇って、いつも通り素敵な笑顔の魔理沙が現れた。その頭を、有無を言わさず霊夢が玉串で小突いた。
「ぐおおおお!!」
かなり全力で殴ったためか、小気味良い音が辺りに響き渡った。魔理沙は後頭部を押えてゴロゴロと転がる。
「魔理沙!何てことすんのよ!!」
「そりゃこっちの台詞だ!本気で殴りやがって・・・・・」
「あんたが悪いんでしょうが」
「あのな、お前も視界いっぱいに隙間なく弾幕が広がってたらボムを撃つだろ?誰だってそうする。私もそうする」
「代わりにうちの神社が滅茶苦茶じゃない。どうせお客なんかこないけど、いい迷惑だわ」
「ふん、知らないのか?整理整頓のコツっていうのは要らない物を捨てることなんだぜ?」
二人はやはりいつもの調子でぎゃあぎゃあと喚きだす。一人足りないというのに姦しいことこの上ない。
だが最後の台詞を聞いた瞬間、霊夢の顔から表情が抜け落ちた。既に勝負するものと思ってスペルカードに手を伸ばして準備していた魔理沙は、その不可解な変貌に眉根を寄せる。
「そういえば、あんたの家も散らかってるのよね―――」
「――――――」
その言葉だけで霊夢の意図を瞬時に理解したらしく、魔理沙は掌からマジックミサイルを放ってきた。
緑の、まるでモミの木のような弾頭は一瞬その場に停滞した後、急加速して一直線に突き進んでくる。
「――――私が片付けといてあげるわ」
しかし時既に遅く、博麗の巫女はいつものように悠然とした動きで空に舞い上がる。当然、向かう先は魔理沙の家がある魔法の森。
「あっ、おい!待て、くそ――――!」
魔理沙がとてとてと社務所の方に走っていった。立てかけてあった箒を取りに行ったのだろうが――――残念ながら箒は現在瓦礫の下敷きとなっている。飛行速度では魔理沙に一日の長があるといっても、飛べなければ話にならない。
ある程度遠ざかったところで眼下にある神社の様子を窺うと、掌ほどの大きさになった魔理沙が縁側で両手をついてうな垂れているのが見えた。因果応報とはまさにこのことだ。
「―――違った、報いはこれからだったわ」
懐の呪符の枚数を調べながらどこか楽しそうに呟いて、霊夢は飛行速度を僅かに上げた。
そしてこれより数刻後、霧雨邸は――――――
個人的には後頭部を押えて転げまわる魔理沙がヒット。
描写がすごく丁寧で、場面を想像するのが非常に楽でした。それのお陰でごろごろする魔理沙が頭の中に浮かんで……
こういう書き方、自分も出来るようになりたいです。
>場面と場面の繋ぎ方とか、語彙の足りなさとか、芸の無い文の終わり方だとか、下手糞な情景描写だとか、張りの無い話の終わらせ方だとかで~
これだけのものを書かれてなお上を見続けるその姿勢も併せて、見習わせていただきたいと思います。
」などと卑下なさっていますが、私にはかえってそれが嫌味に聞こえます。二人とも活き活きと描かれていて、情景が目に見えるかのようです。
漢字が多い文章なのですが、セリフに頼らない分読み応えがあり、それでいて堅苦しさを感じさせないのは、表現や言い回しが巧みで面白いからだと感じました。
漢字の多い文は不思議と、東方の世界観によく似合っていると思うのは私だけでしょうか。
難を言えば、読点の位置がいまいちで、話のリズムが途切れがちのような気がします。また、筆力から察するに、もう少し長めの文章であればご自身の持ち味がずっと輝くと思います。
ぜひ、中・長編の文章も読みたいところです。