―2 さくらぎをあるき―
その木に見覚えは無かった。
木に寄り添って眠る少女の記憶も無かった。
けど、私には。
その木は、その少女が起きるまで、
枯れることも満開に咲くこともできはしないだろう、と思えてしまった。
ふと、そう感じた。
どうしてかは、わからなかった。
***
「さーくーらー、さーくーらー・・・っと」
「ご機嫌でいらっしゃいますね、幽々子様・・・。
あくまで探し物をするついでに散歩しているのですよ。
そう上ばかり見ていたら、見つかるのは桜の花ばかりです。
月も見えないくらいなのですから」
「あら、星も見えるわ。死兆星とか」
「見たくありませんよ、そんなもの・・・」
「まぁ、冥界で見ても意味無いわよ。もう死んでるし」
「顕界で見たって死にませんよ、迷信です」
「私が誘えばこっちに来るわよ」
「無闇に住人を増やさないで下さい。
飽和しないまでも、掃除の手間が増えます」
「お祭りは賑やかな方が良いわ、妖夢」
「ですから、毎日がお祭りになってしまう事を言っているのです」
「さーくーらー・・・、妖夢。この後の歌詞覚えてる?」
「出だしから忘れてるのですか・・・じゃなくて、話を逸らさないで下さいよぉ・・・はぁ」
真夜中なのに妙に明るいのは、月がいつもより日光を強く反射しているからだけれど、
今このときは、桜が月光を受けて桜光とでも言うべきものを放っているのだ、と思えた。
勿論、電磁波である光とは別物で、花の光に花の区別はない。
雪月花の倣いから、雪にも光があるだろう。
それどころか、世にあるもの全てにそれぞれの光がある。
あの世の桜が光るのだから、現世の万物に光れない道理はあるまい。
森羅万象をこれ光と言い換えても良いくらいだ。
光っていればいいのかというと、それはまた別の話になるのだが。
愚考しつつ、桜達の咲き誇る姿を眺めて歩く。
探し物を半ば忘れてしまっていても、知ってるふりをするか、または知らんふりをして練り歩く。
満開の桜。こちらは庭に出て十秒と経たないうちに見つかった。
それも、上空から軽く見渡しただけであちらこちらにちらほら沢山。
その様子が見事だったものだから、私と妖夢は飛ぶのをやめて夜桜の中を散策することにした。
夜が明けるまでには酒蓋も見つかるわ、と何の根拠も無く決め付けて。
そんなんでいいのですか、と妖夢は言ったけど、
見つからなければその時は後日妖夢に庭掃除のついでとして依頼するまでである。
その通りに告げたら予想通りの溜息が帰ってきたので、私としてはそれだけで満足だ。
そんなわけで、ただいま私たちは散歩中。月も隠れる桜の森で。
「しっかし、あの辺りも、ここいらも満開ねー。
明るいうちは気付かなかったのかしら」
「あ、ええ。そうですね」
「というか、ほとんど半分がそうじゃない?
むしろ散ってる桜が無いわ」
「そう・・・ですね。・・・おかしいなあ。
あの辺りもここいらも、
確かに昼間は散り際だったはずなのですが・・・」
たった今気付いたかのように何気なく指摘する。
と、変だなぁおかしいなぁ、としきりに首を傾げる妖夢。
―――おかしい。そう、彼女の言うとおり、今、この庭はおかしい事になっている。
この一面に広がる桜色は、今の時期にあっては異常なのだ。
先頃行われた、春季恒例白玉楼大花見まつりの時と比べても、
色艶といい香りといい、その壮麗さに全く遜色が無い花模様。
さて、ではこの満開の桜の苑は、一体?
思考する事数秒、私の灰色の脳細胞が閃く。
私の場合脳が(物理的に)無いので、灰色の脳味噌を想像してから考えるのが大変なのだが、
類稀なる私の想像力をもってすれば虹色の味噌であれ造作も無いことである。
軽度の問題として、私は脳の色と思考力にどういった関連性があるのかを寡聞にして知らない、
ということがあるのだけれど、まぁ虹よりは灰の方が器官としては相応しいだろう。
それはさて置くとして、脳は解答を数種類にまで絞り込んだ。やはり灰色だ。
ふ、と口元を歪めて、思わせぶりに笑んでみる。
「なるほど。そういうことか」
「え、幽々子様、今、何かおっしゃいましたか?」
同じく思わせぶりに呟く。と、それが聴こえたか妖夢が聴き返してきた。
聴こえるように言ったのだから当然だが、反応が顕著なのはよいことだ。
「ふふん、妖夢。驚く無かれ、よ。
こんなことになっている理由、考えたわ。聞きたい?」
「・・・あぁ、はい。どうぞ、御話し下さい」
がくり、と妖夢の肩が落ちる。返事の方も気の無い様子で、明確な落胆の色が見て取れた。
「む、その言い方は。真面目に聞く気無いのね?」
「いえ、そういうわけではないのですが、その・・・なんと言いますか。
幽々子様が考えた、って仰った時は、
往々にして思い付きを当てずっぽうで言われますので、少々不安が・・・」
「・・・いじわる」
「だ、だって、幽々子様ってば先日のお席でもあんな・・・」
ちょっぴり眉根を寄せて、睨むように妖夢を見る。
すると妖夢は、自分の発言を顧みてか、目に見えて狼狽し始めた。まぁ、妖夢の言は尤もであるが。
しかし、明らかに理不尽な主への苦言すらままならないのは、守護として如何なものだろうとは思う。
思いはするが、こういったことの度に慌てている様子も可愛らしいので、当面は良しとする。
良しとはするが、そんな素振りを見せるのも癪であるから、やや冷たく。
緩急を旨とするのが妖夢いじりの基礎である。
「まあいいわ、別に聴かれてなくても独り言するだけだし。
聴きたくなければ耳栓でもすればいいのよ。ふんだ」
「そんな、拗ねないで下さいよ、小さい子供でもあるまいし」
「まず一つ」
「いくつもあるんですか」
「今年は、桜が散らなかったのよ。ずっと咲きっぱなしだったの」
「さっき桜が散ってきたって話をしたばかりじゃないですか」
「二つ、誰かがここの桜を植え替えた」
「誰かって、一夜で庭の桜を全部植え替えるような化け物が侵入したら気付きますって。
というか、散った桜を持っていって誰が得するんですか?」
「三つ、桜は夜の間だけ咲く木だった」
「朝顔ですか?新種ですね。というかそれはもう桜じゃないと思います」
「四つ、桜とは実はそもそも散ることが無い植物である」
「いや、もうわけわかんないですよ、幽々子様」
「妖夢、聴かないんじゃなかったの?」
なんだかいちいち妖夢が口を挟んでくる。独り言だって、言ったのに。とんだお節介だ。
そう、この子は無類のお節介焼きさんである。
私のやる事為す事に大体目くじら立て、そうして少々愚痴りつつも、いつも結局言うとおりにしてくれる。
本当、重宝して・・・いや、感謝している。
決して妖夢は便利だわ、なんて思ってない。露とも思っていない。これは嘘偽り無い真実だ。
だって、こんなことを妖夢に言ったら、それはもう酷い哀しみ方をするだろう。
私は別に、妖夢を泣かせたいわけではなく、その・・・。
一体何に対して言い訳をしているのかわからなくなったあたりで、妖夢がぶつぶつ呟く声が聞こえた。
「幽々子さまの方がよっぽど意地悪ですよ、もう・・・」
「あら、そんなのもちろんだわ。あなたより意地悪な奴なんて、このあたりにごまんと居る」
「・・・もしかして、また私、からかわれてました?」
「修行が足りない」
「ああ、もう・・・幽々子様のそのご趣味だけは、
私、多分一生理解できないと思います・・・」
「さすが妖夢ね。半人の割と長い一生を、同じ信念で生き続ける。立派よ、立派」
「誉めるか貶すか、どっちかにしてくださいっ!」
「お、ようやく怒った」首を向けてぱちぱち、と軽い拍手を送る。
「最近変に落ち着きが出てきちゃって、まだ若いのに勿体無いわよ、妖夢」
「それは幽々子様が落ち着かれないから・・・」
「何か言った?」
「いいえ何も。それで幽々子様、この事態について、まだお考えは御座いますか?」
「んー、桜が散ってない系の案は全部あなたに没にされそうだから、残るのは後一個だけね」
「なんでそんなに偏ってるんですか、さっきまで散る桜を肴に一緒に飲んでいたのに」
「花より団子と酒と酒と団子と、あと酒かしら。花見ならお重にお弁当も悪くないけど」
「・・・はぅ」
妖夢に告げたとおり、大体の案は問題外として破棄される案である。
私とて、今年の春に散る桜の下を歩いた記憶ぐらい持っている。
昔のことは覚えてないけれど、最近のことなら痴呆でもあるまいし。
生前の自分をよく思い出せない幽霊なんて、大して珍しくも無いのだし。
閑。
さて、桜が散っていた、ということは間違いない、厳然たる事実である。
その上で、今こうして庭一面に桜が咲き乱れるというのは、つまり―――
「まあ、あれね」
「何か、合理的な解釈が? まぁ、変事なら変事としても・・・」
「一春に二度も桜が咲くなんて、珍しい事もあったものだわ、うん。
桜は散って、今もまた咲いている。じゃぁ、また咲いたのよ。はい証明終了」
「って、ええ!? それで済ませてしまうのですか!?
全然証明できてないと思うのですが!」
「取り敢えず、それで済ませましょう。面倒だし、二度桜が咲いて困ることもあんまりない」
「はぁ・・・何かとても普通じゃないような気がするのですが・・・」
「たまには普通じゃない春も良いと思うわ」
「ううん、あんまりたまに、じゃないような気もしますけど・・・。
それにほら、原因とか元凶とか、気になったりしないのですか?」
「そういうのは、あなたに任せる。面倒だし、この程度のことならあなたに任せれば、ね」
私には既に元凶が何であるかがわかっていたのだけど、
妖夢が真剣に悩んでいるのを見ると簡単に答えを教えてしまうのが勿体無く感じられた。
謎解きは悩んでいる時間が一番楽しいものだし、
何といってもうーんうーんと考えを巡らせている妖夢を見るのが私にとって楽しい事だからだ。
もっとも、妖夢だってお馬鹿な子じゃない。
きっともう原因には勘付いていて、さっき私が話している時からずっと、
歩調が一定せずにやや駆けたりしずしず歩いたりしているのは、
その考えを私に言うべきか否かということで悩んでいるせいだろう。
そんな様子もまた良し。
などと思っていると、妖夢の足音がざく、という土を強めに踏む音を最後にぴたりと止まった。
「あの、幽々子様」
振り向いて見ると、妖夢は先ほどまでの思い悩む少女の表情とは打って変わって、
きりりとした仕事人の顔になっていた。
この顔になると、妖夢は信念を通す人になる。
可愛さより格好良さが際立つのである。うむ、凛々しい妖夢も良い。
しかし・・・思ったより決断が早くて、ちょっと驚く。
私としては、もう少しばかり、ほんのちょっとでも悩ましい顔を見ていたかったのだけど。
その怜悧な瞳からは、お嬢様が何を知っているのか聞き出してやるぞー(意訳)、という意思が窺える。
私はその様子に気付かない振りで、そらっ惚けて答えた。
「どうしたの?」
「思い付いたのですが、この桜の異変」
淀みない口調。武士に二言は無く、雑言もまた無い。
きっ、と見つめる妖夢の姿は、時代草紙の挿絵に宛がわれるような雅だった。
そしてこの表情。間違ってるといいな、と思ったのは秘密だが、
ああ、折角のお散歩なのに。やっぱり妖夢も元凶に気付いてしまっている。
こうなるとすぐに解決してしまうだろう。なんたって、この子は魂魄妖夢なのだから。
「原因になっているのは、先ほどの酒ぶ」
「あっ! あそこに酒蓋が飛んでる!」
でも、ちょっと悔しいので意地悪をしてあげた。
まだ口を動かしている妖夢を遮って、その死角を指差し大声を張り上げる。
小物とはいえ、久しぶりの異変。妖夢に任せてなるものか。
幽霊だって、動かなければ体がなまるのだから。
と、妖夢は私の指した方へ、バッ、と目を向け、
「ッ!! 追います、ここでお待ちください!」
口早に告げた声を残してあっという間に身を翻し駆けていってしまった。
引き止める言葉も間に合わずに取り残された私は、
言いつけを律儀に守る事にし、近くにあった桜の一つを背にして座り込む。
この庭の端から端を一太刀で薙ぐうちに跳ぶ事ができる妖夢であれば、
首尾を問わぬなら数分と待つことなく戻ってくるだろう。
そのまま、私は近くにあった一本の桜にもたれかかって、
「はあ。にしたって、あの子、少しくらい疑ってもよさそうなものなのに。
あの子に背後の死角は無いんだから、後ろに何もいないことはわかってたはず」
と誰に言うでもなく独りごちて木を背に座り込み、
「でも、私が言ったから“念のため”調べに行ってくれた。ホントにいい子だわ。
―――ね、そう思わないかしら?」
と誰にともなく問い掛けた。
「ああ、まったく、今時珍しい娘さんじゃな」
すると、まるでそれが当然のことのように、
深い加齢を感じさせる低い声が、腰掛けた私のすぐ隣から聞こえてきた。
軽く目をやると、強く張った木の根にちょこんと置かれた酒蓋がある。
だが、私は『それが置かれている』のではなく、
『彼が座っている』のだということにすぐ気付いた。
―――酒蓋の、妖怪。何物かはわからないが、私の目的は取り敢えず達することが出来た。
その蓋の模様は、一本の枝一杯に花が咲いた、今にもさらさらと風になびきそうな桜の絵。
「探し物、見つかったわよ。妖夢」
そっと、誰にも聴こえない声で言った。