運命とは時として理不尽なものである。
自分がやってないことの責任を押し付けられたり、何も悪いことをしていないのに不幸が立て続けに起こったり。
神様に思わず恨み言を言いたくなってしまうような、道理を弁えていない事態というものは度々起こりうる。
美しき緋の衣を纏った竜宮の使い、永江衣玖が現在進行形で遭遇しているのは、まさにそういった類の状況であった。
「さいきょうのあたいに倒される覚悟はできた? ひらひらしたねーちゃん!」
いつもと変わらぬ穏やかな玄雲海。そこに現れた、招かれざる来訪者。
目の前で威勢良く啖呵をきるのは、小さな氷の妖精。青いワンピースと水色の髪、それに加えて氷細工のような羽が『氷の妖精』らしさを演出している。
戸惑う衣玖にびしっと指まで突きつけて、いかにもなポーズを決めている様は何とも滑稽で。本人はどうやら格好いいと思ってやっているようだ。
――――――ひらひらしたねーちゃんて、その呼称は流石にどうかと思うのですが。さっき名乗りませんでしたか、私。
衣玖は困惑していた。気分は不良っぽい外見のちょっと勘違いした男子学生にからまれた女子学生といったところか。なんでこんなことになったんだろう。
衣玖とて、理不尽なことに対する耐性はそれなりに持っているはずだった。
わりと傍若無人な天人くずれが昔から傍にいたため、愚にもつかぬわがままをそれこそ何度も何度も聞かされてきたのだから。
そんな苦労性の衣玖でも、今回の理不尽さは経験したことがないものだった。
なぜなら、今目の前にいる相手には理屈が通用しないのである。というか、ぶっちゃけてしまえば何を考えているのか想像すらできない。
今まで衣玖に言いたい放題わがままを押し通してきた不良天人は、一応それなりの知性をもっており、最低限の常識は弁えていた。
そのため次の行動をある程度予測することも可能であり、場の空気を読んで被害を抑えることもできた。
しかし、である。この小さな氷の妖精は、どう贔屓目に見ても理性的とは言えない。
本能の赴くままに行動し、頭に浮かんだことをそのまま口に出している感じがする。
いや、空々しい言葉で取り繕うのはやめよう。
一言でいってしまえば、この妖精に対する衣玖の印象は『馬鹿』。それに尽きる。
「ええと、あの………チルノさん、でしたよね。どうして初対面の、しかも偶然お会いしたあなたと私が弾幕勝負をしなければならないのでしょう?」
「はあ? そんなこともわかんないの? ダメね、ダメダメだね」
やれやれと言わんばかりの仕草で溜め息を吐くチルノ。
――――――駄目です衣玖。落ち着いて。何だか無性に頭にきますけど、怒っちゃ駄目。相手は小さな妖精なんですから。悪気はないんです。きっと。
衣玖の内心の葛藤など露知らず、当の本人は背後に稲妻でも走らせそうな勢いで宣言した。
「そんなの、あたいがさいきょうだからに決まってるじゃん!」
ああ、と衣玖は悟った。第一印象が確信に変わった瞬間であった。
この子は、正真正銘のアホの子なんですね。
「………ごめんなさい。よくわかりません」
「だからー、さいきょうのあたいは誰にも負けないから、出会った奴はみんな倒さなきゃならないの!」
「………つまり、あなたはいつもこうして出会い頭に喧嘩を吹っかけている、と?」
「うん!」
そんな無邪気な笑顔で頷かれても。
心なしか頭痛がし始めた衣玖は眉間を押さえ、やる気満々の様子のチルノに駄目もとで訊いてみた。
「ええと、戦闘を回避するという選択肢は?」
「ないよ!」
ですよねー。
仕方なく臨戦態勢に移行しつつ、衣玖は今朝の新聞に載っていた『今日一日の運勢占いコーナー byプリンセス・テンコー』を思い出していた。
『今日一番運勢が悪い妖怪は、竜宮の使いのあなた! 全体的に運勢が下降気味で、天界から身投げしたくなるような理不尽な目に遭うかも?
身に覚えがないからといって油断は禁物。無理が通れば道理は引っ込みます。何が起きてもいいように予め心構えをしておきましょう。
そんなあなたのラッキーアイテムは、緑系の色の服です。下着でもいいですよ!』
読んだ時は「あら、残念ですね」程度にしか思っていなかったのだが。もともと衣玖は占いの類はあまり信じない性質だった。
当然、ラッキーアイテムとやらも適当に読み流した。そもそも緑色の服なんて持ってないし、あったとしてもこの緋の羽衣に似合いそうにない。
ちなみに今日の下着の色は(ピー)である。
だが仮に占いを信じていたとしても。
いつも通り玄雲海を泳いでいて、こんな珍妙な客人に出くわすなどと、誰が予想できただろう。
――――――うん。今度から、下着の色のバリエーションをもうちょっと増やすことにしましょう。
胸に密かな決意を抱いた衣玖だった。
「そんじゃ、そろそろいくよ! ひらひらしたねーちゃん!」
「………できれば名前で呼んでいただけませんか。私、永江衣玖と申しますので」
高らかに声を上げ、控えめな衣玖の抗議は無視したまま先手必勝とばかりにチルノがスペルカードを発動させる。
相手は馬鹿とはいえ、スペルカードには一応用心しなくては。衣玖は隙を見せることなく身構えた。
氷符『アイシクルフォール』。
チルノの周囲に展開される氷柱状の弾。上下左右に規則正しく並んでおり、そこそこの密度はあるようだ。
が、弾幕の速度はかなり遅い。俊敏な動きは苦手な衣玖でさえ、余裕を持って見切れる程である。
その上、氷柱状の弾は大きさこそあるものの、弾道は至ってシンプル。ほぼ直進するだけで、しかも決まったコースにしか飛んでこない。
いくら初見といえど、この程度の弾幕なら衣玖にかわせない道理はない。
あっさりと氷柱弾幕を見切り、緋色に輝く羽衣を靡かせて一瞬で相手の懐に飛び込む。
いきなり間合いを詰められたことが予想外だったのか、チルノの表情が驚愕に染まる。
衣玖はにっこりと微笑んだ。
「あ………」
「すみません、私の勝ちですね」
チルノの眼前で優雅に笑みを浮かべる。
周囲には相変わらず氷柱状の弾幕が張られているが、それらは衣玖にかすることすらなく、ただただ前方へと飛んでいくばかり。
弾幕をもってチルノを撃墜しないのは、強者としてのせめてもの優しさか。
だが、相手の妖精は黙って敗北するのを良しとするほど物分りがよくなかった。
「ま、まだまだっ! 雹符―――――」
むきになって次のスペルを発動させようとするチルノ。
左手に集められた魔力はすでに淡く光を帯びていて、秒と待たずにその効果を発揮するだろう。
チルノはそのままスペル名を宣言しようとして――――――できなかった。黙らざるを得なかった、と言ったほうが正しい。
口を開きかけたチルノの鼻先に、衣玖の右腕が突きつけられていた。
羽衣を螺旋状に巻きつけた腕はわずかに青白く発光しており、電撃を帯びているのがわかる。
その先端、羽衣が集束した指先は鋭く尖り、たとえ岩でも容易く貫けそうな凶器に見えた。
「今度こそ勝負あり、です」
腕は突きつけたまま、再びにっこりと微笑む。
チルノは顔に穴が開く寸前で止められている凶悪な殺傷兵器を前にしてしばらく呆然としていたが、やがて自分が完膚なきまでに敗北したことに気付いたらしい。
微笑を浮かべる衣玖をキッと見据えると、目に涙を浮かべた。
「う。ううう。ううううぅぅぅ~!」
「あ、あれ? どこか怪我しちゃいましたか? 寸止めしたはずなんですが………」
慌てて右手に巻かれたドリル状の羽衣を解除し、うろたえた様子で身をかがめてチルノの顔を覗きこむ衣玖。
相手は妖精とはいえ、外見は年端もゆかぬ少女そのもの。泣かれるとどうにも罪悪感が湧いてきてしまう。
喧嘩を売ってきたのはチルノなので、実際は自業自得なのだが。
涙を見られたくないのか、チルノは顔をうつむけ、体の脇に垂らした両の拳を震えるほどに握り締めた。
「………………こ、」
「こ?」
聞き返した衣玖は完全に油断していた。
唐突に顔を上げたチルノが親の仇でも見るような凄まじい形相をしており、直感的に「あ、これはやばい」と思った時は既に手遅れだった。
「これで勝ったと思わないでよっ! あたいの力はこんなもんじゃないんだからねっ! 今日はちょっと調子が悪かっただけなんだから!」
「ッ!………………ああああああああ………み、耳が………」
超至近距離での、鼓膜を破らんばかりの大音声。
不意打ちの弾幕は避けられても、音波は避けられない。今度は衣玖が涙目になり、痛む耳を押さえてうずくまった。
衣玖を怯ませるために大声を出したわけではないのだろうが、チルノはその隙をついて大きく距離を取った。
安全な距離まで離れたところで、何を思ったのか突然振り返り、身を反らして大きく息を吸い込む。
そして。
「次はぜっっっっったいに負けないんだから! 覚えてなさいよ、ひらひらしたねーちゃん!」
先程の大音声に劣らない大声で捨て台詞をかまし、チルノは雲の中へと消えていった。
衣玖はいまだに痛む鼓膜のためにうずくまりながら、涙に霞む視界で小さな氷の妖精の背中を見送った。
――――――なんだったんでしょう、結局………あと、ひらひらしたねーちゃんはやめて下さい………
最後まで名前で呼んでくれなかった妖精を恨みがましく思いつつ、最後の捨て台詞を反芻する。
次は、とか。覚えてろ、とか。確かそんなような言葉を叫んでいた気がする。
つまり、また来るということか。アレが。
衣玖はげんなりした。性質の悪い冗談にも程がある。
とりあえず明日はちゃんとラッキーアイテムを身につけよう。衣玖は固く心に誓った。
翌日。
玄雲海を気の向くままに泳ぐ、普段通りの日常。何事もなく終わる平和な一日。
そのはずだった。現についさっきまで衣玖はいつもの日常を謳歌していた。
だが、運命は今日もやはり理不尽だった。
「人の夢と書いて『儚い』って書くんですよね………」
「どしたの? 会うなりぼーっとしちゃって。お腹空いてるの? あ、この凍った蛙食べる? 美味しいかは知らないけど」
「ちょっと人生(?)の無常さについて思いを馳せてるだけです………放っておいて下さい」
「ふーん。よくわからないけど、頑張ってね」
何故。何故なんですか。
今日はちゃんとラッキーアイテムをチェックして、ブルーのストライプの下着を身につけてきたのに。
運勢の順位だって、下から三番目で一番悪くはなかったのに。どうしてこの妖精がここにいるんですか。
昨日、緑色の服か下着をつけてなかったからですか。昨日の運の悪さが今日まで尾を引くんですか。
それはいくらなんでも不条理すぎるのではないでしょうか、神様。一度つまずいたら何処までも転げ落ちていけと仰るのですか。
だって仕方がないじゃないですか。昨日の朝、唯一のパステルグリーンのショーツは洗濯しちゃったんです。穿きたくても穿けなかったんです。
濡れた下着を穿くなんて気持ち悪いですし、そこはかとなく卑猥な感じがします。エッチなのはいけないと思います。ダメ、絶対。
涙で頬を濡らし、軽く錯乱しながら世の無常を儚む衣玖。
また来るかもしれない、という覚悟はしていたが、よもや二日連続で来訪するとは予想だにしていなかった。迂闊である。
「おーい? ひらひらしたねーちゃん、大丈夫ー?」
「チ、チルノちゃん、やっぱり帰ろう? あの人にも色々と都合があるだろうし」
「何言ってんのさ。あたいはさいきょうなんだから、負けっぱなしでいいわけないじゃん!」
「でも、勝負するにしてもまた今度でも………」
「バカだね大ちゃん、ここまで来といて何もしないで戻ったら、二度『土間』になっちゃうでしょーが!」
「う、うん、そうだね、二度『手間』だよね………」
おまけに今日は、昨日の妖精とは別の妖精の姿もあった。二人の会話を聞く限りだと、どうやら友達のようだ。
やや薄めのブルーのワンピースと、若草色の髪。チルノに比べるとかなり大人しそうな雰囲気の娘だった。
馬鹿にバカ呼ばわりされたショックからか、笑顔がひきつっているのが痛ましい。
(ああ、やっぱり友達にもそういう風に思われているんですね………ちょっと不憫です)
と、その時、緑髪の妖精と目が合った。
衣玖と妖精。二人は何やら通じ合うものを感じ、どちらからともなく苦笑を浮かべる。
(すみません。チルノちゃんがご迷惑をお掛けして)
(いいのですよ。あなたに罪はありません)
(多分、そのうち飽きると思いますので、適当に相手をしてあげて下さい。帰ったら私からよく言い聞かせておきますので………)
(わかりました。私としても、なるべく穏便な手段でお帰り願いたいところですので、安心して下さい)
アイコンタクトで意思疎通を図る、初対面の苦労性の妖怪と妖精。
この子とはいいお友達になれそうだと衣玖は思った。主に愚痴をこぼし合う友達として。
「さあ、覚悟はいい? ひらひらしたねーちゃん! 今日こそあたいの本気を見せてあげる!」
「………永江衣玖です。お願いですから、そろそろ名前で呼んで下さい」
そして今日も衣玖とチルノの弾幕勝負の幕が開けた。
結果は容易に想像がつくと思うので、勝負の経過の描写は割愛させて頂く。
「あ、あたいはさいきょうなんだから! 今日は手加減してあげたのよ! わざと負けてあげたんだからね! そこんところ勘違いしないでよねっ!」
「チルノちゃん、もういい、もういいから………」
友達の妖精に腕を引かれながら、それでも顔を真っ赤にして捨て台詞を残していったチルノ。両目にはやっぱり涙が浮かんでいた。
チルノを引っ張る傍ら、緑髪の妖精が一生懸命何度も何度も頭を下げていたのが妙に印象に残っている。健気だな、と衣玖は思った。
――――――いいお友達を持ちましたね、チルノさん。お友達は大事にしないといけませんよ。
頭を下げる妖精とチルノの姿が見えなくなるまで手を振りつつ、衣玖は苦笑を浮かべた。
昨日に比べるといくらか微笑ましい気持ちで見送ることができたのは、僥倖というべきか。
残された衣玖にできることは、あの緑髪の妖精がチルノを上手く言いくるめてくれることを祈るぐらいしかない。
それにいくらあの氷精がちょっとおつむが足りない子でも、同じ相手に二度負ければ己の身の程を知るはず。
衣玖とてああ何度も泣かしては、弱いものいじめをしているようで居た堪れない気分になるというものだ。
――――――明日は久しぶりに平和な一日を過ごせそうですね。
夕日に照らされ赤く染まった玄雲海で。
衣玖は眩しそうに目を細めて微笑んだ。
で、その翌日。
「今度こそ本気だよ! ぜったい勝つからね! 泣いても知らないからね!」
「昨日の私の微笑みの意味はなんだったんですか」
さらに翌日。
「今日は負けないよ! こてんぱんにしてやるんだから! 覚悟して、衣玖!」
「ようやく名前を覚えてくれて嬉しいです。ついでにそろそろ諦めてくれると幸せなんですが」
そのまた翌日。チルノと衣玖が出会ってから丁度五日目のこと。
玄雲海は今日も穏やかである。風はゆるく、天候が悪くなる気配もない。
そして、もはやお馴染みとなった青いワンピース姿の妖精。
対峙する竜宮の使いは、この数日間で少々やつれたように見えるのは目の錯覚ではないだろう。
「笑ってられるのも今のうちだよ、衣玖! あたいが本気になったら、誰も敵わないんだから!」
「あなたには私の顔が笑顔に見えるのですね。一般的には泣き笑いと呼ばれる表情だと思いますが」
衣玖は憔悴した顔で言った。さすがに連日押しかけられて半ば強引に弾幕勝負を挑まれては、疲弊するなと言うほうが無理である。
実力で圧倒しているとはいえ、チルノは負けると必ず泣く。地団太を踏まんばかりに悔しがって、泣きながら帰っていく。
傍若無人な人妖が多いこの幻想郷において、ごく普通の良識という類稀なステータスを持っている衣玖は、見た目は子ども頭脳は子ども以下なチルノの涙に胸を痛めていた。
体力はまだ持つとしても、精神的には既に限界に達し始めている。
――――――これじゃあ私、ただのいじめっ子ですよね………ぐすん。
初めて会ったあの日以来、ラッキーアイテムは毎日身に着けているのだが、効果は一向に表れない。
無論今日も身に着けている。黒の、ちょっとアダルトな雰囲気のショーツ。
というかあの占い、ラッキーアイテムに毎回下着が入ってるのは何故なんだろう。
「ふふふふふ、あたいをここまで手こずらせたのは、衣玖が初めてだよ! 褒めてあげる!」
チルノさん、それはいくらなんでもどうかと思います。吐いてもすぐばれる嘘は吐かないほうがいいです。
声には出さず、胸の内で突っ込みを入れる。
紅白の巫女や白黒の魔法使いが同じ場面に遭遇したら、即答で容赦ない言葉のナイフが飛ぶのだが、そこは空気の読める妖怪、永江衣玖である。
無闇に相手を傷つける言葉は口に出さないのが、彼女なりの思いやりだった。
「今日はあたいのとっておきのスペルカードを見せてあげる! いくら衣玖でもこれはぜったいに避けられないわ! ぜったいに避けられないんだからね!」
大事なことなので二回言いました、ってわけじゃなさそうですね。
単に一瞬前に自分で言った言葉を忘れてもう一度言っちゃった、ってとこですか。さすがチルノさんです。
チルノが両手を前に突き出す。両の手の平に魔力が集まっていくのがわかる。
とっておき、と前置きしただけあって、今日のチルノから放たれるプレッシャーは今までよりも数段上に感じられた。気のせいかも知れないが。
ともあれ、衣玖も臨戦態勢に入った。どんな相手だろうと油断は禁物。たとえ既に何度も勝利を重ねている相手だとしても、だ。
「いくわよ! 凍符『パーフェクトフリーズ』!」
臨界に達した魔力を開放し、チルノが高らかにスペルを宣言した。
放たれるであろう弾幕に備え、いつでも動けるように衣玖はわずかに身を屈める。
チルノと衣玖、偶然出会った二人の、都合五回目の弾幕勝負の開始である。
(妙ですね………)
顔に直撃するコースの弾を首をわずかに動かしてやり過ごし、次いで丹田狙いの弾をかわすために羽衣を優雅に靡かせて身を翻す。
飛来する弾幕を余裕をもってかわしながらも、衣玖は戸惑いの色を隠せなかった。
チルノが自信満々で発動したスペルカード。
確かに弾幕の量は、この五日間でかつてないほどに多い。先程感じたプレッシャーもこの弾幕ならば頷ける。
が、弾道が滅茶苦茶なのだ。完全なランダム弾といっていい。ただひたすら魔力の続く限り弾をぶっ放しているようにしか思えない。
ランダム弾は確かに気が抜けない。いつ自分のところに弾が飛んでくるかわからないからだ。
だが自分のところに来た弾、ようするに当たる弾だけを避ける覚悟なら、自機狙いの弾幕とそう変わらない。
ランダムな弾幕とは、固定弾幕と組み合わせることによって初めてその真価が発揮されるもの。
チルノがランダム弾のみで衣玖を捉えようとしているのならば、この弾幕はいささか厚みに欠けていると言わざるを得なかった。
(チルノさんはまだまだ未熟ではありますが、妖精にしてはかなりの実力の持ち主です。弾幕のセンスも悪くありません。
その彼女が「とっておき」と言ったスペルがこの程度とは、どうにも腑に落ちないものがあるのですが………)
はったりの可能性も否定できない。なんと言っても相手はあのチルノなのだから。
このまま避け続けることも可能だが、いっそ早々と勝負を決してしまおうか。
そう思った刹那。
衣玖は自分の勘の正しさを知ることになる。
「――――――弾よ、止まれッ!」
チルノが叫んだ瞬間、それは起こった。
四方八方にばら撒かれていた弾が、全て停止したのだ。
「なっ!? これは………」
ぴたりと。寸分の狂いもなく、全ての弾が虚空で静止している。
いや、よく見るとただ止まっているだけではない。全ての弾は綺麗に『凍って』いた。
それはさながら時が止まったように。
ついさっきまで目まぐるしく動いていた弾幕が止まっている光景は、衣玖に場違いな感想をもたらした。
――――――なんだか、綺麗です………止まった弾幕がキラキラ光ってて、凄く幻想的な………
「これで衣玖も終わりだよっ! 弾よ、解けろッ!」
衣玖の心を再び弾幕勝負へと引き戻したのは、チルノの勝利を確信した叫び。
時を同じくして、静止していた弾幕がゆっくりと動き始めた。
静止する前の弾道は全く無視して、一つ一つの弾がばらばらな方向に漂っていく。
もちろん、動き出した弾全部が衣玖を狙って漂ってくるわけではないが、弾は上下左右前後あらゆる方向にばら撒かれている。
限りなく全方位に近い方向からやって来るランダム弾の弾道は非常に読みづらく、避けるには存外気力を消耗する。
その上、衣玖を狙う弾はそれだけではなかった。本体であるチルノも例の機関銃のようなランダム弾の連射を再開している。
ここに来て、衣玖はようやくこのスペルカードの全容を掴んだ。
(なるほど。やはり「とっておき」というだけのスペルカードではあったのですね)
間断なく全方向に気を配り、最初に比べて確実に難易度が上がっているはずの弾幕を、衣玖はそれでも被弾することなくかわしていく。
避けられないと思った弾は、あるいは羽衣で打ち払い、またあるいは羽衣で受け流す。
美しき緋の衣を纏った竜宮の使いは、舞うように緋の羽衣を靡かせ、氷の妖精の弾幕を確実に捌いていく。
「な、なんで当たらないのさ! さっさと落ちなさいよ衣玖! 悪あがきはみっともないよっ!」
焦れた様子でチルノが叫ぶ。
しかし、現実は残酷だった。
衣玖とチルノ。二人の間にある、絶対的な実力の差は埋まらない。いくらチルノが頑張っても、いくら「とっておき」のスペルカードを持ち出してこようと。
頭脳、体力、経験。いずれの点においても、チルノは衣玖の足元にも及ばなかった。
チルノにとっては必殺のスペルカードでも、衣玖にとってはごくありふれたトリッキーな弾幕の一種でしかない。
(惜しかったですね、チルノさん。なかなかいい線いってましたが、この程度ではまだ撃墜されてあげませんよ)
弾幕が止まり、再び動き出した瞬間は少し焦ったが、慣れてしまえばどうということはない。
今ではチルノの表情をじっくり観察する程度の余裕まであった。
依然として弾幕を張り続けるチルノは、いつも通り顔を真っ赤にして必死の形相で――――――いや、既に泣いていた。
「ううぅ、ぐすっ。なんでよ………なんで当たらないのよ………あたいはさいきょうなのに………!」
ぽろぽろと涙を零し、歯を食いしばりながら。
頬を伝う涙を拭おうともせず、時折鼻をすすり上げ。
いまだ闘志を失わない両の瞳には、尽きることなく雫が湧き続ける。
劣勢になろうとも顔をうつむけることなく真っ直ぐに前を見据える姿は、見る者にチルノという妖精の持つ底抜けの純粋さを感じさせて。
そ、そういう顔は反則だと思いますチルノさん。泣き落としは卑怯です。ずるいです。人道に反した悪逆非道な行いです。
そうまでして私をいじめっ子にしたいんですか。私はただ、あなたが挑んでくる弾幕勝負を仕方なく受けているだけなのに。むしろ被害者なのに。
知らない人が見たら、これじゃ完全に私が悪役っぽい流れじゃないですかああああああ。
内心の動揺を隠しつつ、衣玖は弾を避け続ける。半泣きである。訂正しよう、動揺は隠せていない。
その時だった。幸か不幸か、衣玖のもつ『空気を読む程度の能力』が発動したのは。
電流のように脳裏に閃いた考えに、ハッと我に返る。
そうです、別にチルノさんを負かす必要はないんです。
この子は私に勝つためにここに来てるんですから、私が勝ち続ければ、この子もずっとここへ来続けるでしょう。それは私としても望むところではありません。
それにこのままチルノさんを負かし続けたのでは、私は完全ないじめっ子です。言い逃れもできません。
いたいけな妖精を虐めて愉しむ鬼畜妖怪というレッテルを貼られて、アルティメットサディスティッククリーチャーみたいな渾名をつけられてしまいます。
そんなポジションに自ら進んで立つのは何処かの向日葵畑にいる花の妖怪だけで充分です。
私は空気を読める妖怪です。今、チルノさんは全身全霊で私に向かってきて、勝とうとしています。
己のプライドをかけて。きっと『プライド』なんて言葉はチルノさんは知らないと思いますが。
チルノさんがこの一戦にかけている想いの強さは、敵である私にも痛いほどに伝わっています。それはもう、胸がずきずきと痛んでいます。色々な意味で。
ならば、この場で私が取るべき行動は一つしかありません。
ふっ、と。
飛び交う弾幕の中で、衣玖は静かに微笑みを浮かべた。
決意を胸に秘め、ゆっくりと瞼を閉じる。
そして――――――
何の変哲もない、普通の弾。
その弾に対し、衣玖は避ける動作をするどころか、その弾道へと身をずらした。
「きゃー。やーらーれーたー」
「あっ!? 当たった………!?」
果てしなく棒読みな、大根役者全開の演技で、衣玖は被弾を装って倒れこんだ。ほぼ同時に、展開されていた弾幕が掻き消える。
実際は着弾する寸前に羽衣で受け止めてあるのだが、チルノからは普通に被弾したようにしか見えないはずだ。
現に弾幕が消えているため、チルノが衣玖を落としたと思っているのは間違いない。
ばったりと倒れこんだまま、ぴくりとも動かない衣玖。
そのまま耳を澄まし、チルノの様子を窺うことにする。
あまりにも唐突な衣玖の被弾に、チルノもしばらく呆けていたようだが、倒れている衣玖の姿を見てようやく勝利を実感し始めたようだ。
泣き顔が徐々に笑顔へと変わっていく。
「や………」
喜びに打ち震えていたチルノは、元気よく飛び跳ねて嬉しさを全身で表現してみせた。
「やったー! 衣玖に勝った! やっぱりあたいってさいきょうね! 誰にも負ける気がしないわ!」
――――――ふふふ、喜んでますね、チルノさん。やっぱり、あなたには泣き顔より笑顔のほうが似合います。私も一芝居打った甲斐があるというものです………
無邪気に喜ぶチルノを見つめながら、衣玖は胸が温かくなるのを感じた。
倒れたままの姿勢で聖母のような微笑を浮かべている様は、下手をするとちょっと変な人に見えてしまうが。
ともあれ、これにて一件落着。チルノと衣玖の五日間にわたる弾幕勝負は、チルノの勝利(?)という形で一応の決着を迎えた。
チルノも満足し、衣玖は明日からの安息の日々を約束されるはずだった。
しかし。
この期に及んでもまだ、運命は衣玖に微笑むことを拒んだ。
「あたいは衣玖に勝ったんだから、衣玖はあたいの『げぼく』になったってことよね! 明日から大ちゃんと三人で何して遊ぼうかなー」
「………………………はい?」
ちょっと。ちょっと待って下さい。今なんて言いましたこの子は。
いたいけな妖精には似合わない、えげつない単語が聞こえたような気がしたんですが。幻聴でしょうか。
「あ、あの………チルノさん?」
「あ、起きたんだ衣玖。いい、衣玖。あんたは今からあたいの『げぼく』だからね! あたいの言うことは聞かなきゃダメだよ。わかった?」
素敵な笑顔で鬼畜極まりないことを仰るチルノさん。
わかりたくありません。全力で。
「ええと、なぜ私がチルノさんの下僕にならなければならないのでしょう?」
「あたいが勝ったから。勝った奴の言うことは聞くもんだ、って魔理沙が言ってた」
「そ、そういうことはできれば勝負を始める前に言っておいて欲しいのですが………」
なんなんでしょう。後出しジャンケンで負けた時の気持ちって、こんな感じなんでしょうか。
あと、昨日までに私は四回もチルノさんに勝っているはずなんですが、きっと全てノーカンなんですね。チルノさんですし。
「それと………あったあった!」
チルノさんは何やら唐突にごそごそと服の中をまさぐり始めました。スカートの中に手を突っ込むのは、仮にも女の子としてビジュアル的にどうかと思います。
そして、満面の笑みを浮かべたチルノさんが高々と掲げた右手に持っているのは………………犬の首輪。鎖つきの。
ええと。この状況でそのアイテムが出てくると、激しく嫌な想像しか浮かばないんですけど。冗談ですよね。後生ですから、そんな無邪気な笑顔をするのはやめて下さい。
「はい、衣玖コレつけて!」
「嫌です」
即答させて頂きました。ええ、それはもう。
私とて、妖怪としての尊厳を捨てたくありませんので。
「えー、なんでよ。『げぼく』はこういうのをつけるんでしょ?」
「知りません。というか、その下僕という単語をあなたに教えたのは何処の誰ですか」
「んーとね、昨日の夜、衣玖と弾幕勝負した後に霧の湖の近くで遊んでたら、レミリアとメイドが来たの。
そん時にメイドがこれと同じような首輪つけてて、レミリアが鎖持ってて。
あたいが『何してんの』って訊いたら、レミリアが『下僕を連れて散歩中だ』って。『げぼく』っていうのは家来のことなんだってさ」
なるほど。犯人はあの吸血鬼ですか。
他人の趣味嗜好をどうこう言うつもりはないですが、そういうプレイは子どもの目につかないところでやるのが最低限のマナーだと思うのです。
メイドもメイドです。主の躾はちゃんとしておいて貰わないと困ります。
「で、あたいも『げぼく』が欲しいって言ったら、レミリアがこの首輪くれたんだ! 『げぼく』ができたら付けてあげなさい、って!」
そうですか。あなたの事情はよくわかりました、チルノさん。
ですが、お願いですから、さわやかな笑顔で下僕下僕と連呼しないで下さい。聞いているこっちが恥ずかしくなってしまいます。
とりあえず、あの吸血鬼は今度会ったらきついお灸を据えてあげることにしましょう。泣いても許しません。絶対に。
「衣玖はあたいの『げぼく』第一号だから、この首輪あげる! うれしいでしょ!」
「そうですね。嬉しすぎて涙が出てきます」
「じゃ、さっそくコレつけて散歩にいこう! ほら、はやくはやく!」
そう言って笑顔で私の手を引っ張るチルノさん。
ふと、考えました。ここで彼女の手を振り切って自らの妖怪としての尊厳を守りぬくのと、あるがままに身を任せるのと。
どちらが空気を読んでいることになるのでしょうか。
………考えるまでもありませんでしたね。忘れて下さい。
でも、せめてこれだけは言わせて欲しいのです。
神様。私、何か悪いことしましたか。
ちなみに。
翌日の文々。新聞には世にも珍しい写真が掲載されていたという。
人前には滅多に姿を現さない竜宮の使いが、あろうことか氷の妖精と一緒に写っていたのだ。
なによりも読者の目を引いたのは、写真の内容である。
四つんばいになった竜宮の使いに氷の妖精が跨っているという、言ってみれば「お馬さんごっこ」をしている最中のようなワンシーンで。
よく見ると何故か竜宮の使いの首には犬の首輪らしきものまで付けられており、これは一体どういう状況なのか、読者の想像力を無駄に掻きたてたそうな。
自分がやってないことの責任を押し付けられたり、何も悪いことをしていないのに不幸が立て続けに起こったり。
神様に思わず恨み言を言いたくなってしまうような、道理を弁えていない事態というものは度々起こりうる。
美しき緋の衣を纏った竜宮の使い、永江衣玖が現在進行形で遭遇しているのは、まさにそういった類の状況であった。
「さいきょうのあたいに倒される覚悟はできた? ひらひらしたねーちゃん!」
いつもと変わらぬ穏やかな玄雲海。そこに現れた、招かれざる来訪者。
目の前で威勢良く啖呵をきるのは、小さな氷の妖精。青いワンピースと水色の髪、それに加えて氷細工のような羽が『氷の妖精』らしさを演出している。
戸惑う衣玖にびしっと指まで突きつけて、いかにもなポーズを決めている様は何とも滑稽で。本人はどうやら格好いいと思ってやっているようだ。
――――――ひらひらしたねーちゃんて、その呼称は流石にどうかと思うのですが。さっき名乗りませんでしたか、私。
衣玖は困惑していた。気分は不良っぽい外見のちょっと勘違いした男子学生にからまれた女子学生といったところか。なんでこんなことになったんだろう。
衣玖とて、理不尽なことに対する耐性はそれなりに持っているはずだった。
わりと傍若無人な天人くずれが昔から傍にいたため、愚にもつかぬわがままをそれこそ何度も何度も聞かされてきたのだから。
そんな苦労性の衣玖でも、今回の理不尽さは経験したことがないものだった。
なぜなら、今目の前にいる相手には理屈が通用しないのである。というか、ぶっちゃけてしまえば何を考えているのか想像すらできない。
今まで衣玖に言いたい放題わがままを押し通してきた不良天人は、一応それなりの知性をもっており、最低限の常識は弁えていた。
そのため次の行動をある程度予測することも可能であり、場の空気を読んで被害を抑えることもできた。
しかし、である。この小さな氷の妖精は、どう贔屓目に見ても理性的とは言えない。
本能の赴くままに行動し、頭に浮かんだことをそのまま口に出している感じがする。
いや、空々しい言葉で取り繕うのはやめよう。
一言でいってしまえば、この妖精に対する衣玖の印象は『馬鹿』。それに尽きる。
「ええと、あの………チルノさん、でしたよね。どうして初対面の、しかも偶然お会いしたあなたと私が弾幕勝負をしなければならないのでしょう?」
「はあ? そんなこともわかんないの? ダメね、ダメダメだね」
やれやれと言わんばかりの仕草で溜め息を吐くチルノ。
――――――駄目です衣玖。落ち着いて。何だか無性に頭にきますけど、怒っちゃ駄目。相手は小さな妖精なんですから。悪気はないんです。きっと。
衣玖の内心の葛藤など露知らず、当の本人は背後に稲妻でも走らせそうな勢いで宣言した。
「そんなの、あたいがさいきょうだからに決まってるじゃん!」
ああ、と衣玖は悟った。第一印象が確信に変わった瞬間であった。
この子は、正真正銘のアホの子なんですね。
「………ごめんなさい。よくわかりません」
「だからー、さいきょうのあたいは誰にも負けないから、出会った奴はみんな倒さなきゃならないの!」
「………つまり、あなたはいつもこうして出会い頭に喧嘩を吹っかけている、と?」
「うん!」
そんな無邪気な笑顔で頷かれても。
心なしか頭痛がし始めた衣玖は眉間を押さえ、やる気満々の様子のチルノに駄目もとで訊いてみた。
「ええと、戦闘を回避するという選択肢は?」
「ないよ!」
ですよねー。
仕方なく臨戦態勢に移行しつつ、衣玖は今朝の新聞に載っていた『今日一日の運勢占いコーナー byプリンセス・テンコー』を思い出していた。
『今日一番運勢が悪い妖怪は、竜宮の使いのあなた! 全体的に運勢が下降気味で、天界から身投げしたくなるような理不尽な目に遭うかも?
身に覚えがないからといって油断は禁物。無理が通れば道理は引っ込みます。何が起きてもいいように予め心構えをしておきましょう。
そんなあなたのラッキーアイテムは、緑系の色の服です。下着でもいいですよ!』
読んだ時は「あら、残念ですね」程度にしか思っていなかったのだが。もともと衣玖は占いの類はあまり信じない性質だった。
当然、ラッキーアイテムとやらも適当に読み流した。そもそも緑色の服なんて持ってないし、あったとしてもこの緋の羽衣に似合いそうにない。
ちなみに今日の下着の色は(ピー)である。
だが仮に占いを信じていたとしても。
いつも通り玄雲海を泳いでいて、こんな珍妙な客人に出くわすなどと、誰が予想できただろう。
――――――うん。今度から、下着の色のバリエーションをもうちょっと増やすことにしましょう。
胸に密かな決意を抱いた衣玖だった。
「そんじゃ、そろそろいくよ! ひらひらしたねーちゃん!」
「………できれば名前で呼んでいただけませんか。私、永江衣玖と申しますので」
高らかに声を上げ、控えめな衣玖の抗議は無視したまま先手必勝とばかりにチルノがスペルカードを発動させる。
相手は馬鹿とはいえ、スペルカードには一応用心しなくては。衣玖は隙を見せることなく身構えた。
氷符『アイシクルフォール』。
チルノの周囲に展開される氷柱状の弾。上下左右に規則正しく並んでおり、そこそこの密度はあるようだ。
が、弾幕の速度はかなり遅い。俊敏な動きは苦手な衣玖でさえ、余裕を持って見切れる程である。
その上、氷柱状の弾は大きさこそあるものの、弾道は至ってシンプル。ほぼ直進するだけで、しかも決まったコースにしか飛んでこない。
いくら初見といえど、この程度の弾幕なら衣玖にかわせない道理はない。
あっさりと氷柱弾幕を見切り、緋色に輝く羽衣を靡かせて一瞬で相手の懐に飛び込む。
いきなり間合いを詰められたことが予想外だったのか、チルノの表情が驚愕に染まる。
衣玖はにっこりと微笑んだ。
「あ………」
「すみません、私の勝ちですね」
チルノの眼前で優雅に笑みを浮かべる。
周囲には相変わらず氷柱状の弾幕が張られているが、それらは衣玖にかすることすらなく、ただただ前方へと飛んでいくばかり。
弾幕をもってチルノを撃墜しないのは、強者としてのせめてもの優しさか。
だが、相手の妖精は黙って敗北するのを良しとするほど物分りがよくなかった。
「ま、まだまだっ! 雹符―――――」
むきになって次のスペルを発動させようとするチルノ。
左手に集められた魔力はすでに淡く光を帯びていて、秒と待たずにその効果を発揮するだろう。
チルノはそのままスペル名を宣言しようとして――――――できなかった。黙らざるを得なかった、と言ったほうが正しい。
口を開きかけたチルノの鼻先に、衣玖の右腕が突きつけられていた。
羽衣を螺旋状に巻きつけた腕はわずかに青白く発光しており、電撃を帯びているのがわかる。
その先端、羽衣が集束した指先は鋭く尖り、たとえ岩でも容易く貫けそうな凶器に見えた。
「今度こそ勝負あり、です」
腕は突きつけたまま、再びにっこりと微笑む。
チルノは顔に穴が開く寸前で止められている凶悪な殺傷兵器を前にしてしばらく呆然としていたが、やがて自分が完膚なきまでに敗北したことに気付いたらしい。
微笑を浮かべる衣玖をキッと見据えると、目に涙を浮かべた。
「う。ううう。ううううぅぅぅ~!」
「あ、あれ? どこか怪我しちゃいましたか? 寸止めしたはずなんですが………」
慌てて右手に巻かれたドリル状の羽衣を解除し、うろたえた様子で身をかがめてチルノの顔を覗きこむ衣玖。
相手は妖精とはいえ、外見は年端もゆかぬ少女そのもの。泣かれるとどうにも罪悪感が湧いてきてしまう。
喧嘩を売ってきたのはチルノなので、実際は自業自得なのだが。
涙を見られたくないのか、チルノは顔をうつむけ、体の脇に垂らした両の拳を震えるほどに握り締めた。
「………………こ、」
「こ?」
聞き返した衣玖は完全に油断していた。
唐突に顔を上げたチルノが親の仇でも見るような凄まじい形相をしており、直感的に「あ、これはやばい」と思った時は既に手遅れだった。
「これで勝ったと思わないでよっ! あたいの力はこんなもんじゃないんだからねっ! 今日はちょっと調子が悪かっただけなんだから!」
「ッ!………………ああああああああ………み、耳が………」
超至近距離での、鼓膜を破らんばかりの大音声。
不意打ちの弾幕は避けられても、音波は避けられない。今度は衣玖が涙目になり、痛む耳を押さえてうずくまった。
衣玖を怯ませるために大声を出したわけではないのだろうが、チルノはその隙をついて大きく距離を取った。
安全な距離まで離れたところで、何を思ったのか突然振り返り、身を反らして大きく息を吸い込む。
そして。
「次はぜっっっっったいに負けないんだから! 覚えてなさいよ、ひらひらしたねーちゃん!」
先程の大音声に劣らない大声で捨て台詞をかまし、チルノは雲の中へと消えていった。
衣玖はいまだに痛む鼓膜のためにうずくまりながら、涙に霞む視界で小さな氷の妖精の背中を見送った。
――――――なんだったんでしょう、結局………あと、ひらひらしたねーちゃんはやめて下さい………
最後まで名前で呼んでくれなかった妖精を恨みがましく思いつつ、最後の捨て台詞を反芻する。
次は、とか。覚えてろ、とか。確かそんなような言葉を叫んでいた気がする。
つまり、また来るということか。アレが。
衣玖はげんなりした。性質の悪い冗談にも程がある。
とりあえず明日はちゃんとラッキーアイテムを身につけよう。衣玖は固く心に誓った。
翌日。
玄雲海を気の向くままに泳ぐ、普段通りの日常。何事もなく終わる平和な一日。
そのはずだった。現についさっきまで衣玖はいつもの日常を謳歌していた。
だが、運命は今日もやはり理不尽だった。
「人の夢と書いて『儚い』って書くんですよね………」
「どしたの? 会うなりぼーっとしちゃって。お腹空いてるの? あ、この凍った蛙食べる? 美味しいかは知らないけど」
「ちょっと人生(?)の無常さについて思いを馳せてるだけです………放っておいて下さい」
「ふーん。よくわからないけど、頑張ってね」
何故。何故なんですか。
今日はちゃんとラッキーアイテムをチェックして、ブルーのストライプの下着を身につけてきたのに。
運勢の順位だって、下から三番目で一番悪くはなかったのに。どうしてこの妖精がここにいるんですか。
昨日、緑色の服か下着をつけてなかったからですか。昨日の運の悪さが今日まで尾を引くんですか。
それはいくらなんでも不条理すぎるのではないでしょうか、神様。一度つまずいたら何処までも転げ落ちていけと仰るのですか。
だって仕方がないじゃないですか。昨日の朝、唯一のパステルグリーンのショーツは洗濯しちゃったんです。穿きたくても穿けなかったんです。
濡れた下着を穿くなんて気持ち悪いですし、そこはかとなく卑猥な感じがします。エッチなのはいけないと思います。ダメ、絶対。
涙で頬を濡らし、軽く錯乱しながら世の無常を儚む衣玖。
また来るかもしれない、という覚悟はしていたが、よもや二日連続で来訪するとは予想だにしていなかった。迂闊である。
「おーい? ひらひらしたねーちゃん、大丈夫ー?」
「チ、チルノちゃん、やっぱり帰ろう? あの人にも色々と都合があるだろうし」
「何言ってんのさ。あたいはさいきょうなんだから、負けっぱなしでいいわけないじゃん!」
「でも、勝負するにしてもまた今度でも………」
「バカだね大ちゃん、ここまで来といて何もしないで戻ったら、二度『土間』になっちゃうでしょーが!」
「う、うん、そうだね、二度『手間』だよね………」
おまけに今日は、昨日の妖精とは別の妖精の姿もあった。二人の会話を聞く限りだと、どうやら友達のようだ。
やや薄めのブルーのワンピースと、若草色の髪。チルノに比べるとかなり大人しそうな雰囲気の娘だった。
馬鹿にバカ呼ばわりされたショックからか、笑顔がひきつっているのが痛ましい。
(ああ、やっぱり友達にもそういう風に思われているんですね………ちょっと不憫です)
と、その時、緑髪の妖精と目が合った。
衣玖と妖精。二人は何やら通じ合うものを感じ、どちらからともなく苦笑を浮かべる。
(すみません。チルノちゃんがご迷惑をお掛けして)
(いいのですよ。あなたに罪はありません)
(多分、そのうち飽きると思いますので、適当に相手をしてあげて下さい。帰ったら私からよく言い聞かせておきますので………)
(わかりました。私としても、なるべく穏便な手段でお帰り願いたいところですので、安心して下さい)
アイコンタクトで意思疎通を図る、初対面の苦労性の妖怪と妖精。
この子とはいいお友達になれそうだと衣玖は思った。主に愚痴をこぼし合う友達として。
「さあ、覚悟はいい? ひらひらしたねーちゃん! 今日こそあたいの本気を見せてあげる!」
「………永江衣玖です。お願いですから、そろそろ名前で呼んで下さい」
そして今日も衣玖とチルノの弾幕勝負の幕が開けた。
結果は容易に想像がつくと思うので、勝負の経過の描写は割愛させて頂く。
「あ、あたいはさいきょうなんだから! 今日は手加減してあげたのよ! わざと負けてあげたんだからね! そこんところ勘違いしないでよねっ!」
「チルノちゃん、もういい、もういいから………」
友達の妖精に腕を引かれながら、それでも顔を真っ赤にして捨て台詞を残していったチルノ。両目にはやっぱり涙が浮かんでいた。
チルノを引っ張る傍ら、緑髪の妖精が一生懸命何度も何度も頭を下げていたのが妙に印象に残っている。健気だな、と衣玖は思った。
――――――いいお友達を持ちましたね、チルノさん。お友達は大事にしないといけませんよ。
頭を下げる妖精とチルノの姿が見えなくなるまで手を振りつつ、衣玖は苦笑を浮かべた。
昨日に比べるといくらか微笑ましい気持ちで見送ることができたのは、僥倖というべきか。
残された衣玖にできることは、あの緑髪の妖精がチルノを上手く言いくるめてくれることを祈るぐらいしかない。
それにいくらあの氷精がちょっとおつむが足りない子でも、同じ相手に二度負ければ己の身の程を知るはず。
衣玖とてああ何度も泣かしては、弱いものいじめをしているようで居た堪れない気分になるというものだ。
――――――明日は久しぶりに平和な一日を過ごせそうですね。
夕日に照らされ赤く染まった玄雲海で。
衣玖は眩しそうに目を細めて微笑んだ。
で、その翌日。
「今度こそ本気だよ! ぜったい勝つからね! 泣いても知らないからね!」
「昨日の私の微笑みの意味はなんだったんですか」
さらに翌日。
「今日は負けないよ! こてんぱんにしてやるんだから! 覚悟して、衣玖!」
「ようやく名前を覚えてくれて嬉しいです。ついでにそろそろ諦めてくれると幸せなんですが」
そのまた翌日。チルノと衣玖が出会ってから丁度五日目のこと。
玄雲海は今日も穏やかである。風はゆるく、天候が悪くなる気配もない。
そして、もはやお馴染みとなった青いワンピース姿の妖精。
対峙する竜宮の使いは、この数日間で少々やつれたように見えるのは目の錯覚ではないだろう。
「笑ってられるのも今のうちだよ、衣玖! あたいが本気になったら、誰も敵わないんだから!」
「あなたには私の顔が笑顔に見えるのですね。一般的には泣き笑いと呼ばれる表情だと思いますが」
衣玖は憔悴した顔で言った。さすがに連日押しかけられて半ば強引に弾幕勝負を挑まれては、疲弊するなと言うほうが無理である。
実力で圧倒しているとはいえ、チルノは負けると必ず泣く。地団太を踏まんばかりに悔しがって、泣きながら帰っていく。
傍若無人な人妖が多いこの幻想郷において、ごく普通の良識という類稀なステータスを持っている衣玖は、見た目は子ども頭脳は子ども以下なチルノの涙に胸を痛めていた。
体力はまだ持つとしても、精神的には既に限界に達し始めている。
――――――これじゃあ私、ただのいじめっ子ですよね………ぐすん。
初めて会ったあの日以来、ラッキーアイテムは毎日身に着けているのだが、効果は一向に表れない。
無論今日も身に着けている。黒の、ちょっとアダルトな雰囲気のショーツ。
というかあの占い、ラッキーアイテムに毎回下着が入ってるのは何故なんだろう。
「ふふふふふ、あたいをここまで手こずらせたのは、衣玖が初めてだよ! 褒めてあげる!」
チルノさん、それはいくらなんでもどうかと思います。吐いてもすぐばれる嘘は吐かないほうがいいです。
声には出さず、胸の内で突っ込みを入れる。
紅白の巫女や白黒の魔法使いが同じ場面に遭遇したら、即答で容赦ない言葉のナイフが飛ぶのだが、そこは空気の読める妖怪、永江衣玖である。
無闇に相手を傷つける言葉は口に出さないのが、彼女なりの思いやりだった。
「今日はあたいのとっておきのスペルカードを見せてあげる! いくら衣玖でもこれはぜったいに避けられないわ! ぜったいに避けられないんだからね!」
大事なことなので二回言いました、ってわけじゃなさそうですね。
単に一瞬前に自分で言った言葉を忘れてもう一度言っちゃった、ってとこですか。さすがチルノさんです。
チルノが両手を前に突き出す。両の手の平に魔力が集まっていくのがわかる。
とっておき、と前置きしただけあって、今日のチルノから放たれるプレッシャーは今までよりも数段上に感じられた。気のせいかも知れないが。
ともあれ、衣玖も臨戦態勢に入った。どんな相手だろうと油断は禁物。たとえ既に何度も勝利を重ねている相手だとしても、だ。
「いくわよ! 凍符『パーフェクトフリーズ』!」
臨界に達した魔力を開放し、チルノが高らかにスペルを宣言した。
放たれるであろう弾幕に備え、いつでも動けるように衣玖はわずかに身を屈める。
チルノと衣玖、偶然出会った二人の、都合五回目の弾幕勝負の開始である。
(妙ですね………)
顔に直撃するコースの弾を首をわずかに動かしてやり過ごし、次いで丹田狙いの弾をかわすために羽衣を優雅に靡かせて身を翻す。
飛来する弾幕を余裕をもってかわしながらも、衣玖は戸惑いの色を隠せなかった。
チルノが自信満々で発動したスペルカード。
確かに弾幕の量は、この五日間でかつてないほどに多い。先程感じたプレッシャーもこの弾幕ならば頷ける。
が、弾道が滅茶苦茶なのだ。完全なランダム弾といっていい。ただひたすら魔力の続く限り弾をぶっ放しているようにしか思えない。
ランダム弾は確かに気が抜けない。いつ自分のところに弾が飛んでくるかわからないからだ。
だが自分のところに来た弾、ようするに当たる弾だけを避ける覚悟なら、自機狙いの弾幕とそう変わらない。
ランダムな弾幕とは、固定弾幕と組み合わせることによって初めてその真価が発揮されるもの。
チルノがランダム弾のみで衣玖を捉えようとしているのならば、この弾幕はいささか厚みに欠けていると言わざるを得なかった。
(チルノさんはまだまだ未熟ではありますが、妖精にしてはかなりの実力の持ち主です。弾幕のセンスも悪くありません。
その彼女が「とっておき」と言ったスペルがこの程度とは、どうにも腑に落ちないものがあるのですが………)
はったりの可能性も否定できない。なんと言っても相手はあのチルノなのだから。
このまま避け続けることも可能だが、いっそ早々と勝負を決してしまおうか。
そう思った刹那。
衣玖は自分の勘の正しさを知ることになる。
「――――――弾よ、止まれッ!」
チルノが叫んだ瞬間、それは起こった。
四方八方にばら撒かれていた弾が、全て停止したのだ。
「なっ!? これは………」
ぴたりと。寸分の狂いもなく、全ての弾が虚空で静止している。
いや、よく見るとただ止まっているだけではない。全ての弾は綺麗に『凍って』いた。
それはさながら時が止まったように。
ついさっきまで目まぐるしく動いていた弾幕が止まっている光景は、衣玖に場違いな感想をもたらした。
――――――なんだか、綺麗です………止まった弾幕がキラキラ光ってて、凄く幻想的な………
「これで衣玖も終わりだよっ! 弾よ、解けろッ!」
衣玖の心を再び弾幕勝負へと引き戻したのは、チルノの勝利を確信した叫び。
時を同じくして、静止していた弾幕がゆっくりと動き始めた。
静止する前の弾道は全く無視して、一つ一つの弾がばらばらな方向に漂っていく。
もちろん、動き出した弾全部が衣玖を狙って漂ってくるわけではないが、弾は上下左右前後あらゆる方向にばら撒かれている。
限りなく全方位に近い方向からやって来るランダム弾の弾道は非常に読みづらく、避けるには存外気力を消耗する。
その上、衣玖を狙う弾はそれだけではなかった。本体であるチルノも例の機関銃のようなランダム弾の連射を再開している。
ここに来て、衣玖はようやくこのスペルカードの全容を掴んだ。
(なるほど。やはり「とっておき」というだけのスペルカードではあったのですね)
間断なく全方向に気を配り、最初に比べて確実に難易度が上がっているはずの弾幕を、衣玖はそれでも被弾することなくかわしていく。
避けられないと思った弾は、あるいは羽衣で打ち払い、またあるいは羽衣で受け流す。
美しき緋の衣を纏った竜宮の使いは、舞うように緋の羽衣を靡かせ、氷の妖精の弾幕を確実に捌いていく。
「な、なんで当たらないのさ! さっさと落ちなさいよ衣玖! 悪あがきはみっともないよっ!」
焦れた様子でチルノが叫ぶ。
しかし、現実は残酷だった。
衣玖とチルノ。二人の間にある、絶対的な実力の差は埋まらない。いくらチルノが頑張っても、いくら「とっておき」のスペルカードを持ち出してこようと。
頭脳、体力、経験。いずれの点においても、チルノは衣玖の足元にも及ばなかった。
チルノにとっては必殺のスペルカードでも、衣玖にとってはごくありふれたトリッキーな弾幕の一種でしかない。
(惜しかったですね、チルノさん。なかなかいい線いってましたが、この程度ではまだ撃墜されてあげませんよ)
弾幕が止まり、再び動き出した瞬間は少し焦ったが、慣れてしまえばどうということはない。
今ではチルノの表情をじっくり観察する程度の余裕まであった。
依然として弾幕を張り続けるチルノは、いつも通り顔を真っ赤にして必死の形相で――――――いや、既に泣いていた。
「ううぅ、ぐすっ。なんでよ………なんで当たらないのよ………あたいはさいきょうなのに………!」
ぽろぽろと涙を零し、歯を食いしばりながら。
頬を伝う涙を拭おうともせず、時折鼻をすすり上げ。
いまだ闘志を失わない両の瞳には、尽きることなく雫が湧き続ける。
劣勢になろうとも顔をうつむけることなく真っ直ぐに前を見据える姿は、見る者にチルノという妖精の持つ底抜けの純粋さを感じさせて。
そ、そういう顔は反則だと思いますチルノさん。泣き落としは卑怯です。ずるいです。人道に反した悪逆非道な行いです。
そうまでして私をいじめっ子にしたいんですか。私はただ、あなたが挑んでくる弾幕勝負を仕方なく受けているだけなのに。むしろ被害者なのに。
知らない人が見たら、これじゃ完全に私が悪役っぽい流れじゃないですかああああああ。
内心の動揺を隠しつつ、衣玖は弾を避け続ける。半泣きである。訂正しよう、動揺は隠せていない。
その時だった。幸か不幸か、衣玖のもつ『空気を読む程度の能力』が発動したのは。
電流のように脳裏に閃いた考えに、ハッと我に返る。
そうです、別にチルノさんを負かす必要はないんです。
この子は私に勝つためにここに来てるんですから、私が勝ち続ければ、この子もずっとここへ来続けるでしょう。それは私としても望むところではありません。
それにこのままチルノさんを負かし続けたのでは、私は完全ないじめっ子です。言い逃れもできません。
いたいけな妖精を虐めて愉しむ鬼畜妖怪というレッテルを貼られて、アルティメットサディスティッククリーチャーみたいな渾名をつけられてしまいます。
そんなポジションに自ら進んで立つのは何処かの向日葵畑にいる花の妖怪だけで充分です。
私は空気を読める妖怪です。今、チルノさんは全身全霊で私に向かってきて、勝とうとしています。
己のプライドをかけて。きっと『プライド』なんて言葉はチルノさんは知らないと思いますが。
チルノさんがこの一戦にかけている想いの強さは、敵である私にも痛いほどに伝わっています。それはもう、胸がずきずきと痛んでいます。色々な意味で。
ならば、この場で私が取るべき行動は一つしかありません。
ふっ、と。
飛び交う弾幕の中で、衣玖は静かに微笑みを浮かべた。
決意を胸に秘め、ゆっくりと瞼を閉じる。
そして――――――
何の変哲もない、普通の弾。
その弾に対し、衣玖は避ける動作をするどころか、その弾道へと身をずらした。
「きゃー。やーらーれーたー」
「あっ!? 当たった………!?」
果てしなく棒読みな、大根役者全開の演技で、衣玖は被弾を装って倒れこんだ。ほぼ同時に、展開されていた弾幕が掻き消える。
実際は着弾する寸前に羽衣で受け止めてあるのだが、チルノからは普通に被弾したようにしか見えないはずだ。
現に弾幕が消えているため、チルノが衣玖を落としたと思っているのは間違いない。
ばったりと倒れこんだまま、ぴくりとも動かない衣玖。
そのまま耳を澄まし、チルノの様子を窺うことにする。
あまりにも唐突な衣玖の被弾に、チルノもしばらく呆けていたようだが、倒れている衣玖の姿を見てようやく勝利を実感し始めたようだ。
泣き顔が徐々に笑顔へと変わっていく。
「や………」
喜びに打ち震えていたチルノは、元気よく飛び跳ねて嬉しさを全身で表現してみせた。
「やったー! 衣玖に勝った! やっぱりあたいってさいきょうね! 誰にも負ける気がしないわ!」
――――――ふふふ、喜んでますね、チルノさん。やっぱり、あなたには泣き顔より笑顔のほうが似合います。私も一芝居打った甲斐があるというものです………
無邪気に喜ぶチルノを見つめながら、衣玖は胸が温かくなるのを感じた。
倒れたままの姿勢で聖母のような微笑を浮かべている様は、下手をするとちょっと変な人に見えてしまうが。
ともあれ、これにて一件落着。チルノと衣玖の五日間にわたる弾幕勝負は、チルノの勝利(?)という形で一応の決着を迎えた。
チルノも満足し、衣玖は明日からの安息の日々を約束されるはずだった。
しかし。
この期に及んでもまだ、運命は衣玖に微笑むことを拒んだ。
「あたいは衣玖に勝ったんだから、衣玖はあたいの『げぼく』になったってことよね! 明日から大ちゃんと三人で何して遊ぼうかなー」
「………………………はい?」
ちょっと。ちょっと待って下さい。今なんて言いましたこの子は。
いたいけな妖精には似合わない、えげつない単語が聞こえたような気がしたんですが。幻聴でしょうか。
「あ、あの………チルノさん?」
「あ、起きたんだ衣玖。いい、衣玖。あんたは今からあたいの『げぼく』だからね! あたいの言うことは聞かなきゃダメだよ。わかった?」
素敵な笑顔で鬼畜極まりないことを仰るチルノさん。
わかりたくありません。全力で。
「ええと、なぜ私がチルノさんの下僕にならなければならないのでしょう?」
「あたいが勝ったから。勝った奴の言うことは聞くもんだ、って魔理沙が言ってた」
「そ、そういうことはできれば勝負を始める前に言っておいて欲しいのですが………」
なんなんでしょう。後出しジャンケンで負けた時の気持ちって、こんな感じなんでしょうか。
あと、昨日までに私は四回もチルノさんに勝っているはずなんですが、きっと全てノーカンなんですね。チルノさんですし。
「それと………あったあった!」
チルノさんは何やら唐突にごそごそと服の中をまさぐり始めました。スカートの中に手を突っ込むのは、仮にも女の子としてビジュアル的にどうかと思います。
そして、満面の笑みを浮かべたチルノさんが高々と掲げた右手に持っているのは………………犬の首輪。鎖つきの。
ええと。この状況でそのアイテムが出てくると、激しく嫌な想像しか浮かばないんですけど。冗談ですよね。後生ですから、そんな無邪気な笑顔をするのはやめて下さい。
「はい、衣玖コレつけて!」
「嫌です」
即答させて頂きました。ええ、それはもう。
私とて、妖怪としての尊厳を捨てたくありませんので。
「えー、なんでよ。『げぼく』はこういうのをつけるんでしょ?」
「知りません。というか、その下僕という単語をあなたに教えたのは何処の誰ですか」
「んーとね、昨日の夜、衣玖と弾幕勝負した後に霧の湖の近くで遊んでたら、レミリアとメイドが来たの。
そん時にメイドがこれと同じような首輪つけてて、レミリアが鎖持ってて。
あたいが『何してんの』って訊いたら、レミリアが『下僕を連れて散歩中だ』って。『げぼく』っていうのは家来のことなんだってさ」
なるほど。犯人はあの吸血鬼ですか。
他人の趣味嗜好をどうこう言うつもりはないですが、そういうプレイは子どもの目につかないところでやるのが最低限のマナーだと思うのです。
メイドもメイドです。主の躾はちゃんとしておいて貰わないと困ります。
「で、あたいも『げぼく』が欲しいって言ったら、レミリアがこの首輪くれたんだ! 『げぼく』ができたら付けてあげなさい、って!」
そうですか。あなたの事情はよくわかりました、チルノさん。
ですが、お願いですから、さわやかな笑顔で下僕下僕と連呼しないで下さい。聞いているこっちが恥ずかしくなってしまいます。
とりあえず、あの吸血鬼は今度会ったらきついお灸を据えてあげることにしましょう。泣いても許しません。絶対に。
「衣玖はあたいの『げぼく』第一号だから、この首輪あげる! うれしいでしょ!」
「そうですね。嬉しすぎて涙が出てきます」
「じゃ、さっそくコレつけて散歩にいこう! ほら、はやくはやく!」
そう言って笑顔で私の手を引っ張るチルノさん。
ふと、考えました。ここで彼女の手を振り切って自らの妖怪としての尊厳を守りぬくのと、あるがままに身を任せるのと。
どちらが空気を読んでいることになるのでしょうか。
………考えるまでもありませんでしたね。忘れて下さい。
でも、せめてこれだけは言わせて欲しいのです。
神様。私、何か悪いことしましたか。
ちなみに。
翌日の文々。新聞には世にも珍しい写真が掲載されていたという。
人前には滅多に姿を現さない竜宮の使いが、あろうことか氷の妖精と一緒に写っていたのだ。
なによりも読者の目を引いたのは、写真の内容である。
四つんばいになった竜宮の使いに氷の妖精が跨っているという、言ってみれば「お馬さんごっこ」をしている最中のようなワンシーンで。
よく見ると何故か竜宮の使いの首には犬の首輪らしきものまで付けられており、これは一体どういう状況なのか、読者の想像力を無駄に掻きたてたそうな。
まるきゅーぶりが存分に発揮されていてほのぼのできました。
>>呑眠さん
かわいいと思っていただけたのなら、私としても本望でございます。
>>5さん
大ちゃんにとってチルノは「手のかかる妹」的な存在だと思います。
どんなことがあっても、大ちゃんはチルノの味方でいて欲しいものですね。
>>13さん
きっと咲夜さんも色々と溜まっていたのでしょう。ストレスとか。
>>19さん
率直に申し上げます。
そこまで頭が回っておりませんでした。ごめんなさい。
で、慌てて緋想天を再プレイしたところ、ほとんどのキャラは妖怪の山経由で玄雲海にいきますが、
妖怪の山を経由せずに玄雲海ステージへ行くキャラも数人いるのを確認いたしました。
公式の設定がどうかはわかりませんが、このお話ではとりあえず上へ向かって飛ぶと玄雲海みたいな解釈をしていただけると、
私としてもありがたいです。いい加減で申し訳ありません。