「……はぁ」
買い物籠を両手にぶら提げて、魂魄妖夢はひっそりと溜息をついた。
陽は青天に高く燃え、往来は人の生気で満ちているというのに、
妖夢はもはや数える事も馬鹿らしくなる程に嘆息を繰り返していた。
――数日前。
宴会の戯れに刃を交えてからこちら、妖夢はどうにも「彼女」の事が頭から離れなくなっていた。
どうして――彼女ばかりが気に懸かるのだろう。
この感情は、一体何なのだろうか。
肉弾戦に秀でた者同士の仲間意識。対抗心。或いは尊崇の念。
そういったものは確かにある。
しかし。
僅かな隙を突かれて敗れた自分を助け起こしてくれた時のあの笑顔が、あの手の温もりが、
心から離れないのは――そんな感情からでは無いように思えた。
だとすれば、この気持ちは。
残る可能性を直視出来ずに、妖夢は一つ溜息を追加して市場の人ごみを俯き加減に潜り抜けた。
両手に提がる籠が重い。
さっぱり自分を気遣う素振りを見せない主人を思って、妖夢は更に嘆息した。
――あの人なら、どうするだろうか。
お使いの言いつけなんてのらりくらりとかわして、悠々と遊びに出掛けてしまうのだろうか。
「……駄目だ駄目だ」
ふとした事で、直ぐに彼女を思い出してしまう。
頭から雑念を追い払おうと、妖夢はぶんぶんと頭を振った。
その拍子に、擦れ違おうとしていた大工風の男と身体がぶつかった。
「おっとごめんよ」
「あ……すいません」
慌てて頭を下げる妖夢に「いいって事よ」と笑いかけると、
片手に建材を担いだ男はひょいひょいと器用に人波を泳ぎ去っていった。
――そういえば、今日はやけに里が活気づいている気がする。
妖夢は周囲を眺めて「ふむ」と呟いた。
人間の里が活気に満ちているのはいつもの事ではあるのだが、今日は普段の喧騒とは少し違う、
どこか人をそわそわとさせるような空気が満ちているように思えた。
行き交う人の言葉の波から「お祭り」という単語が耳に流れ込み、妖夢はそこで得心した。
きっと今は何かの祭りの準備期間なのだろう。
祭りというものを知識でしか知らない妖夢がそんな空気に気付けたのは、
宴会の開始前に流れるあのどこかはやるような気持ちに似ていたからかも知れない。
お祭りか、と妖夢は呟いた。
興味が無い訳ではない。
妖夢にあるのは半端な知識だけだが――あの人と行けたならば、きっと楽しいだろうと思った。
「……ぅぅ」
また、あの人だ。
参ったな――妖夢は諦めと共に独白した。
油断をすると、すぐに彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
そして、その度に頬が緩んでしまう自分に気付く。
これはやっぱり――、
「……恋、なんだろうか」
「……あ」
思わず声に出してしまった事に気付いて、妖夢の見事な白磁の頬はあっという間に紅潮した。
周囲に聞かれたか確認する勇気も無く、妖夢は俯いたままその場から足早に逃げ去った。
* * * * *
大音量で鳴り響いていた心音が徐々に収まってゆくにつれて、妖夢の歩調も落ち着きを
取り戻しつつあった。
漸く理性がまともに機能し始めた妖夢の心に真っ先に浮かんだものは――矢張り彼女で。
「重症だなぁ……」
今度は周りを確認して、妖夢はぼそりと呟いた。
彼女の隣に座りたい。
二人きりで他愛も無い話をしたい。
あの美しい真紅の髪にそっと触れてみたい。
一度彼女の事を考え出せば、加速度的に胸が苦しくなってゆく。
これが恋で無いのなら、全く悪質で、大層強力な呪いだろう。
あれはいつの話だったか、同じく宴会の席での事。
酔いが回った魔理沙が、恋の素晴らしさを酒瓶片手に滔々と語り始めた事があった。
それを聞いた自分は、そんなものは心の弱い者が見る幻覚だと一笑に付した。
結局それが元で魔理沙と口論になり、最終的には弾幕勝負へと発展したのだが、
思えばギャラリーは皆一様にニヤニヤとした顔で自分を見ていた気がする。
思い出すだけで顔から火が出そうだった。
何一つ解っていなかった数週間前の自分を直視出来なくなって、
妖夢は恥ずかしさに染まった顔をぶんぶんと振った。
「はぁ……」
今となっては、魔理沙に土下座の一つもしたい気分だった。
妖夢にはもはや、彼女への恋情を否定する事など到底出来はしなかった。
今はただ、彼女に逢いたかった。
誰かと逢えない事が、こんなにも心を締め付けるものだとは知らなかった。
いくら己を誤魔化そうとしても――否、すればするほど、彼女への恋慕は大きくなって
ゆくばかりだ。
「……うう」
弱り果てた声が出る。
西行寺幽々子の剣であり盾である自分がこんな事ではお話にもならないと妖夢は思った。
己を堅固不壊の武具とする為には、身も心も鋼の如く在らねばならない。
今の自分は、まるで風に揺れる木の葉のようだった。
「私は一体どうすれば……」
「とりあえず、ここから引き返すべきだと思いますが」
「ひゃあっ!?」
突如聞こえた声に、妖夢は思わず荷物を取り落とした。
反射的に刀を抜いて振り返ると、四季映姫・ヤマザナドゥの呆れた眼差しが妖夢を刺していた。
「貴方は相変わらず物騒ですね」
「え……閻魔様でしたか」
お化けでは無かった事に安堵すると同時に、自分の情けなさに妖夢は顔を赤くした。
一つ咳をして諸々を誤魔化すと、先手を打って口を開く。
「え、閻魔様が何故こんな所に?」
「何故こんな所に? それは私の台詞です。貴方はここを何処だと思っているの?」
「へ」
「中有の道です。まさか自覚も無いままこんな所まで来たのですか?」
地面に落ちたままの買い物籠に眼を遣って、映姫は怪訝な顔をした。
「い、いやその」
きょろきょろと辺りを見回しながら、妖夢は慌てて籠を拾う。
「考え事をしていたもので、つい」
「ふむ」
里からは「つい」で行けるような距離では無いのだが、妖夢の健脚振りを知らぬでも無い映姫は
さして疑問には感じなかったらしい。
悔悟の棒を形のいい顎に当ててしばし考え込む仕草を見せたが、やがて妖夢に向き直った。
「何か悩みがあるのであれば、相談に乗る事にやぶさかではありませんが」
「へ? ……あの、失礼ですけど仕事は」
「二刻程前に全て終わらせましたよ。小町が相変わらず働かないもので。……どうしました?」
映姫の口から漏れた名前に、妖夢の肩は思わずびくりと動いた。
「……まさか、小町が何か」
「いっ、いえ! 違います、小町さんは何も悪くないんです!
私が勝手に思い悩んで――」
苦虫を噛み潰したような表情で尋ねる映姫に、妖夢は手をぶんぶんと振りながら
必死に小町の無実を伝えた。
喋り過ぎたと気付いたのは、映姫の顔が驚きへと変じてからであった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。それはつまり、何ですか。貴方の悩みは、まさかよりにもよって」
映姫は驚いていいのか嘆いていいのか解らないといった素振りで問うた。
妖夢は微動だにせず、しかし限界まで紅潮したその顔からは彼女の動揺が容易く窺い知れた。
「あっ、い、いや、あの、ちが――」
続く誤魔化しの言葉を、妖夢は何とか飲み込んだ。
閻魔の前で堂々と嘘をつける程の度胸も覚悟も、妖夢は持ち合わせてはいなかった。
消え入りそうな声量で、ぼそぼそと映姫に答える。
「……は、はい……そ、そそ、その……た、多分、そういう、事なんじゃないかと……」
「い――いや、解りません。さっぱり解りません。ちゃんと口で言いなさい、口で」
「ええええ!?」
何という拷問か。閻魔から逃げるわけにもいかず、妖夢は一人己の不運を呪った。
「で、ですからっ! その……あの……何と言いますか……私は、こ、こ……」
「……こ?」
映姫は未だかつてない真剣さで妖夢の瞳を覗き込む。
己の心音で耳がおかしくなりそうだった。
「こ、こま、小町さんの事が――す……す、すす……」
消え入りそうな声で、妖夢は秘めた想いを吐き出した。
「……好き……なんです……」
スカートの端を握り締め、限界を超えた恥ずかしさで涙目になった顔を俯かせる。
斬れば解るとのたまいながら幻想郷中を暴れまわった剣士の姿は今はいずこ、
もしも天狗がこの場に居合わせたならば、彼女の顔写真は間違い無く明日の一面を飾った事だろう。
映姫はどういう態度を取れば良いものか決めかねているようだった。
たっぷり三秒は黙り込んだ後、おもむろに心臓へと手を遣って、数度深呼吸を繰り返した。
「……ま、まぁ……貴方のような生真面目な半人があの怠け者のどこに惹かれたのかは
理解に苦しむ所ではありますが――兎も角、一度口にしたからには相談に乗りましょう」
正直全てを聞かなかった事にしてこの場を去ってくれたほうが嬉しかったのだが、
ここまで喋らされた上に一人にされてしまうのもそれはそれで辛い。
毒を食らわば何とやらと諦めて、妖夢は消極的な動作で首を頷かせた。
* * * * *
ざり、と小石の擦れ合う音が聴こえる。
三途の川のほとりは、ドキドキと全速力で鼓動する妖夢の心音すら響いてしまいそうな静けさであった。
ざり。踏み出す足に応じて小石が鳴る。
次の一歩を踏み出す間隔が、徐々に長くなってゆく。
遅々たる歩みに反して、胸の拍動は苦しい程に速くなっていた。
小野塚小町は、ここからいくらもしない距離にいるはずだった。
他ならぬ閻魔からの情報である。
しかし今、妖夢の心はアンビバレンツに軋んでいた。
今すぐ小町に逢いたいという想いと同時に、今すぐここから逃げ出したいという衝動が妖夢を絶えず苛む。
それもこれも、全ては先刻の映姫のアドバイスが原因であった。
「こっ、こここここ告白っ!!?」
湯気を立てんばかりに紅潮した顔を映姫に向けて、
妖夢は思わず彼女の言葉を繰り返した。
「そうです。告白です」
少し気恥ずかしげに頷いて、映姫は悔悟の棒をびし、と妖夢に向けた。
「ななな何を言ってるんですかいきなりっ! こ、告白だなんてそんな……」
妖夢はそこでふと言葉を止めると、十数パターンの展開を想像しては
顔を赤くしたり青くしたりしたが、やがて結論が出ると再び映姫に向き直って断じた。
「絶っ対無理ですっ!」
「どうしてです」
「ど、どうしてって……!」
小町は妖夢の主、西行寺幽々子とは世間話をする程度の間柄であるが、
妖夢自身とは花の異変の折に出逢ってから、宴会を含めてもまだ四、五回程の面識しか無い。
小町の印象は精々が所、「西行寺の庭師」程度のものだろう。
「いえ、それぐらいならまだいいです。も、もし小町さんに
『手当たり次第に斬り歩く妖童』だとか『何も知らずに霊魂を叩き斬ったうつけ者』だなんて
思われていたら……!」
「まあ、事実である分タチが悪いですね」
「え、閻魔様まで……」
「待ちなさい」
泣きそうな顔を見せる妖夢の前に片手を突き出して、映姫は諭すように言った。
「小町は人を印象だけで判断するような者ではありません。
少なくともその点に関しては安心する事です」
淀みの無い声からは、映姫がその一点に於いては小町に信頼を寄せている事が伺えた。
「う……そ、それはそうかも知れませんが、だからと言って成功するという事にはならないでしょう」
「まぁ、成否に関しては解りませんが――振られたなら振られたで諦めもつくでしょう?」
「え」
「私が見た所、貴方は西行寺幽々子に仕える者としての責任と、小町への思慕との間で悩んでいる。
だったら、さっさと告白して白黒つけてしまえばいいのです」
「そ、そんな乱暴な……」
「乱暴なものですか。最も合理的な解決法でしょう。
貴方の事です、このままずるずると悩んでいてもどっちつかずになるだけ。
役目の事を考えずとも、これは実に不安定な状態です。
私は無数の死者を裁いてきました。その中には痴情の縺れから他者を殺し、
或いは殺されてしまった者も少なくない。
そんな事にならない為にも、早急に決着を着けるべきなのです」
随分と偏った映姫の恋愛観だったが、どっちつかずになるだけだという指摘は尤もだった。
結局、妖夢は映姫の説得に圧され、告白をすると口にしてしまったのである。
そんな次第で、妖夢は現在三途の川辺を足取り重く進んでいるのだった。
「うぅ……」
火照った頬に片手を当てて呻く。
流石説教のプロだと妖夢は今更ながらに実感した。
あれよという間にペースに乗せられて、気付けばとんでもないことを言わされていた。
まさかこんな約束を反故にした程度で地獄逝きを決定する程の堅物でも無いだろうが、
それ程の堅物である妖夢は逃げ出す事も出来ないまま、遂にこんな所まで来てしまった訳である。
――そもそも。
そもそも、何故自分は小町などに惚れてしまったのだろうか。
奔放不羈に放埓三昧を繰り返し、挙句の果てにはサボタージュの泰斗やサボマイスタ等と
いった不名誉極まりない渾名をつけられるような人物である。
真面目一辺倒な――周囲の評価である――自分とは最も対極に位置するであろう彼女の
一体どこに惹かれたものか、これだけ恋焦がれておきながら妖夢自身にもさっぱり理解が出来ていなかった。
よもや本当に何者かの呪いではあるまいかと妖夢が割と本気で悩み始めたその時、
「あれ、妖夢?」
他ならぬ小町の声が、三途の静寂を打ち破った。
「……こ、小町……さん……」
繋留してある舟から飛び降りて、小町は足取りも軽く妖夢の元へやってきた。
職務の一部なのかは定かでは無いが、どうやら舟の点検をしていたようであった。
小町が一歩近づく毎に心臓の鼓動が早まる。
妖夢の心音は、今にも外に漏れ出しそうな大音量で鳴り響いていた。
とにかく、と妖夢は茹る頭で考える。どうにか平常心を保たなければ――、
「久しぶり、でも無いか。この前の宴会以来だねぇ」
「はっ、はい。せせ、先日はどうもっ……」
いきなりどもってしまった。
気付いているのかいないのか、小町は何事も無い素振りで妖夢の隣に並ぶと、
「よいせ」とそこに腰を下ろした。
「まぁまぁ、とにかく座りなよ。あたいも丁度今休憩に入った所でね」
小町はちょいちょいと手を振る。
言われて妖夢はまるで糸の切れた人形のようにその場に腰を落とした。
「……あ」
距離が近い。
肩が触れ合いそうな程近くに、小町が座っている。
ただそれだけの事で、妖夢の頭からは平常心などという言葉はあっさり消えてしまった。
小町の柔らかな香りが鼻をくすぐる。
妖夢には、それはまるで媚薬のように甘く感ぜられた。
思わずこてんと小町に身を預けそうになって、妖夢は慌てて俯いた。
「で、何だってこんな所に。四季様に見つかれば唯じゃすまんよ」
「あ、ああ、いえ。え、閻魔様なら……その。今しがた、お会いしまして」
「おや。追い返されなかったのかい?」
「は、はい。ちょっと、あの――色々ありまして。
小町さんの居場所も、閻魔様に教えて貰ったんです」
「あたいの居場所を?何でまた」
無邪気に尋ねられて、妖夢は思わず絶句した。
突付かなくとも良い藪を突付いてしまった迂闊さを呪う余裕も無く、
妖夢は混乱した頭で箱の中身をぶち撒けるように思案を巡らせた。
(ど、どどどうしよう……! 一体どうやって誤魔化せば――い、いや!
こ、これはきっとチャンスだ! この勢いでこ……ここ告白してしまえば!)
「あ、あのっ!!」
半ば叫ぶような音量になってしまった妖夢の声に、小町は懐から小さな酒瓶を
取り出しかけていた手を止めて少女を見た。
「わっ、私は、その……こ、こ、こ……」
「こ?」
「こ、こっ……! 小町さんに逢いに来たんですっ!!」
好きだという一言がどうしても言えなかった妖夢の、それが精一杯の言葉だった。
言った。言ってしまった。
一度口から出た言葉は、もう回収する事は出来ない。
恥ずかしさと恐怖と期待の緊張で、心臓が張り裂けてしまいそうだった。
真っ赤な顔を俯けて、伏し目がちに小町の様子を伺う。
面食らったような顔で妖夢を見ていた小町は、ややあって口を開いた。
「おお、そうかいそうかい。そいつは嬉しいねぇ。
いや何、こんな所にゃ余程の事でも無い限りだぁれも来やしないのさ。
時折変な奴らがふらりと現れたりするぐらいでねぇ」
妖夢の想いに微塵も気付いた風も無く、小町はそう言って本当に嬉しそうに笑った。
妖夢は暫し、まばたきをする事も忘れて動きを止めた。
一世一代の告白に気付かれなかったショックからでは無い。
そんなものは、とうに妖夢の思考から吹き飛んでいた。
妖夢の眼には、小町の笑顔の他は何も映っていなかった。
ああ、と妖夢は独白した。
自分はきっと、この笑顔に惚れたのだろう。
妖夢の心に浮かぶ小町は、いつも底抜けの笑顔だった。
明るさと美しさを自然の内に備えた、まるで芸術の如き笑顔。
それが今、妖夢一人に向けられている。
妖夢の来訪を、心から喜んでくれている。
その事実だけで、妖夢にはもはや他には何も要らないとすら思えた。
「そうだ」
「は、はいっ!」
小町が取り出した酒瓶を脇に置いて思い出したように声を上げ、妖夢は漸く我に返った。
「この前の傷は大丈夫かい」
「へ?」
何の事か理解出来ずに、妖夢は間の抜けた声を出した。
「ほら、あの時お前さんの刀を叩き落したろ」
あたいのなまくらでさ、と言いながら、小町は壊れ物を扱うように妖夢の手に触れた。
「ちょっ、こここここ小町さんっ!?」
突然の展開に、一応の落ち着きを見せていた妖夢の心拍数が一気に跳ね上がった。
日常的に長物を扱っている者のそれとは思えぬ程すべやかな指先が、
妖夢の手を優しく持ち上げる。
手のひらから小町の指のひんやりとした体温を感じて、
妖夢の身体は反比例するように熱くなった。
「あああああのっ!! い、いい一体何を――」
「何をって――うわっ! 傷と豆だらけじゃないか。
お前さん、まさかあれからずっと鍛錬してたのかい?尋常な稽古でつく傷じゃなかろうに」
「あ――」
「負けて悔しいのはあたいだってよく解るが、そんなに急く事は無かろうさ。
お互い百年二百年の寿命じゃあるまいし」
「……は、はい……」
妖夢は顔から火が出そうだった。
傷だらけになるまで鍛錬を重ねていたのは本当だ。
しかしそれはリベンジの為では無い。
再戦という理由が出来れば、小町に逢いに行ける。
ただそれだけの為に無茶を通したなどと言えるはずもなく、妖夢は恥ずかしさに縮こまった。
それから暫く、妖夢と小町は雑談を交わした。
取りとめも無い日常の話から、数日前の戦いの話、互いの上司と主人の話、
天狗の新聞の信用出来そうにも無い三面記事の話まで。
小町の話術もあって話は弾み、彼女達が地面に落とした影が
その身長を細く長く変じた頃には、妖夢の緊張は殆ど消えていた。
「おわっと、もうこんな時間か」
西天を振り仰いで、小町は物憂げに呟いた。
釣られて空を見上げた妖夢の横で、「よっ」という気合と共に立ち上がる。
「悪いね妖夢。そろそろ仕事に戻らにゃ四季様に雷を喰らっちまう」
「……それっていつもの事じゃないんですか?」
苦笑交じりに言う妖夢に、小町はあっはっはと快活な笑いを返した。
「それじゃあ妖夢、お前さんも早く帰ってやんなよ。あの方もそろそろ腹をすかせてる頃合だろうさ」
「はい。それじゃ……あの、小町さん」
「うん?」
「えっと……その。ま、また今度――」
おずおずと言うと、小町は嬉しそうに頷いた。
「ああ。今度は茶菓子でも用意しとくよ」
楽しげに笑う小町を見て、妖夢も思わず破顔した。
* * * * *
冥界は白玉楼へ帰還した頃には、太陽は既にその務めを終えんとしていた。
幽々子は平素の通り茶の間に居て、はしたなく駆け込んで来た妖夢を一瞥すると
卓上の饅頭に手を伸ばした。
「おかえり」
「す、すみません幽々子様、遅くなりました。今すぐ夕飯の支度をしますので」
「んー」
「それでは……」
「妖夢」
きびすを返した所を呼び止められて、妖夢は独楽のように一回転する羽目になった。
「何でしょう」
「三途の方へ行くなんて珍しいわね」
「へっ……」
予想もしなかった言葉に、妖夢は一瞬時を止めた。
「み、見てらしたんですか!?」
「まさか。そんなにうちとは質の違う陰気を纏っていれば
どんな所へ行ったのかの検討ぐらいはつくわよ」
三途というのは当て推量だけど、と饅頭を頬張りながら幽々子は事も無げに言った。
「は、はぁ……流石は幽々子様……」
「そんな事よりお腹がすいたわ。妖夢、急いでお願いね」
「はっ、はい! 只今!」
何をしていたのかを問われないかと内心ビクビクしていた妖夢は、
これ幸いとばかりに厨へ駆け出した。
襖を閉める事も忘れて飛んで行く妖夢の背中を眺めながら饅頭をもう一つつまむと、
幽々子は相も変わらず読めない顔で呟いた。
「やれやれねぇ」
* * * * *
食卓でも、幽々子は何も訊こうとしなかった。
取るに足らない事とあっさり忘れてしまったのかとも思ったが、
(或いは――……)
妖夢は布団の中でもぞもぞと身体を動かした。
或いは、何もかもを理解しているのかも知れない。
のんびりぼんやりとしているかのように見えるその裏側で、
妖夢などには計り知れない深慮遠謀を巡らせているのが西行寺幽々子という人物である。
もし今日の事を知られていたらと思うと、妖夢は恥ずかしさで死んでしまいそうだった。
(いくらなんでもそれは無いか)
少々自嘲気味に独白して、妖夢はころんと寝返りを打った。
(結局、告白出来なかったな……)
眼を閉じれば昼間の出来事が浮かんでくる。
妖夢的には全身全霊の頑張りだったのだが、相手に届かなければ意味は無い。
いや、焦る事は無いと妖夢は自分に言い聞かせた。
小町も言っていたでは無いか。自分も彼女も、百年二百年の寿命では無いのだ。
今はこんな調子でも、いつか――と考えかけた所で、妖夢の思考は急に途切れた。
唐突に妖夢を強い不安が襲った。
本当に、これでいいのだろうか。
私は何だ、と妖夢は自身に問いかける。
答えを探すまでも無い。魂魄妖夢は白玉楼の庭師であり剣の指南役であり、
そして未来永劫幽々子の身を護る者だ。
確かに今は智恵も力も師や主には遠く及ばぬ半人前だが、そんな事は言い訳にもならない。
自分には預かった仕事の、使命の責任がある。
こんな事で、本当にそれを全う出来るのだろうか。
現に今日は、幽々子を待たせてしまったではないか。
しっかりしなければと思う傍から、昼間の出来事が脳裏をよぎる。
本当に、今日は楽しかった。幸せだったと言い換えても良いかも知れない。
そして皮肉にも――それがより一層妖夢を苦しめる事となってしまった。
己の存在意義と小町への想いが無限に脳裏を飛び交い続ける。
妖夢が漸く眠りに就いたのは、陽光が淡く室内に侵入し始めてからであった。
* * * * *
「……妖夢」
静かな声が降って来る。
それを躱すように、妖夢は億劫に寝返りを打った。
「むー」
返事の代わりに唸る。
誰かは知らないが、漸く寝付けた所なのだ。
とっとと出て行って欲しいと夢うつつに思う妖夢だったが、
「よーうーむー」
声の主はそんな妖夢の心中など全く忖度せずに、ぐらぐらと肩を掴んで揺さぶり始めた。
「うー……」
抗議の唸りを上げて、妖夢は布団を抱きしめる。
尚も揺さぶりは続いたが、妖夢が不退転の構えであると理解したか、
敵はやがて攻撃を停止した。
やれ漸く諦めたかと妖夢が再び意識を水面下へ沈めようとしたその時、
氷のように冷たい声が妖夢の耳朶を突き刺した。
「今すぐ起きないと……ここで百物語を始めるわよ」
「すすすすみませんでした幽々子様ァァ!!」
喰らいボム顔負けの超反応で跳ね起きた妖夢である。
「じゅ、十二時……!?」
現在時刻を聞いた妖夢の全身から、眠気と血の気が同時に引いた。
「紫に貰ったお煎餅、妖夢の分まで食べちゃったわよ」
「も、もも申し訳ありません! 今すぐ作りますっ!!」
言いながら茶の間へと足を向けた幽々子の背中にがばっと頭を下げて、
妖夢は寝巻きも着替えず厨へと走り出した。
「……ねえ、妖夢」
「は、はい」
ちゃぶ台を挟んで正座する妖夢を見て、幽々子は溜息をついた。
「人の胃袋には許容量というものがあるのだけど」
人ではなく亡霊だが。
今二人の前に並んでいるのは、軽く三食分はあるかという料理の山だった。
「朝食を食べなかったからといって、昼に二人分食べられる訳じゃないのよ……?」
「す、すみません……」
妖夢は肩を落として項垂れた。
そんな事は考えれば、否、考えるまでも無い話である。
寝坊の上にこの大失態。妖夢は今すぐ白楼剣で腹を切ってしまいたい気分だった。
「まぁ、作ってしまったものは仕様が無いわ。残った分は夜にでも食べましょう」
大して気にはしていないらしく、あっさり話を切り上げると幽々子は料理に手をつけた。
「うん、味はいつもと変わらないわね」
その言葉は、ひょっとすると幽々子なりの気遣いだったのかも知れない。
そう思うと、妖夢の心はますます重く落ち込んでいった。
* * * * *
その後も、妖夢は失敗続きだった。
箒を持っては逆に辺りを掃き散らかし、庭園の手入れをしては景観を破壊してしまう。
雑念を断とうと瞑想をすれば、食事の支度を忘れてしまう始末であった。
小町の存在が、妖夢の心を千々に乱す。
真面目すぎる妖夢は、悩みを打ち払う術など知りはしなかった。
「はぁ……」
度重なる寝不足と失敗で、妖夢は疲弊し切っていた。
これ以上失態を重ねる訳にはいかないと、妖夢は野菜を切る手に力を込める。
しかし、失敗とは誰もしたくてするものでは無い。
如何に高尚な人間にも、如何に高尚な目的にも、失敗は常について回る。
失敗を消し去る事は、土台不可能な事なのだ。
失敗への過度な恐れは、往々にしてまた新たな失敗を呼び起こす。
真面目な性格であればあるほど、一度の失敗は更なる失敗を生み易い。
「ッ……!!」
意味を成さない妖夢の声と同時に、ガランと包丁が落ちる音が響いた。
妖夢は反射的に右手を押さえた。
左手から伝い落ちる程の出血では無かったが、
他ならぬ自分が包丁捌きを誤ったという事実は少女の心を抉るには十分に過ぎた。
「……わ、私は何をして……っ!」
わなわなと身体が震える。
あまりの事態の連続に愕然とする妖夢は、背後に近付く足音にすら気付かなかった。
「妖夢」
厨の入り口から聞こえた声は、言うまでも無く幽々子のものであった。
「す、すみません幽々子様、直ぐに作りますから――」
「……妖夢」
青い顔で言う妖夢を、幽々子は首を振って遮った。
「もういいわ」
「え――」
幽々子の宣告に、妖夢は二の句も継げず固まった。
包丁を拾い上げて妖夢の横に立つと、幽々子はいつもの口調のまま言う。
「幽霊に作らせるから、貴方は部屋で休んでなさい」
「…………は……い……」
妖夢はもはやそれ以上何も言えず、ふらつく足取りでその場を後にした。
――とうとう、幽々子様に見放されてしまった。
自室の隅で、妖夢は膝に頭をうずめた。
白玉楼にいるのは、妖夢と幽々子だけでは無い。
家事を担当する幽霊達が食事を作る事もある。
しかしそれはあくまで幽々子の気まぐれであり、料理は基本的に妖夢の役目だった。
何故なら、それが妖夢に割り振られている仕事だからである。
だからこそ――幽々子の言葉は、妖夢の胸に深く突き刺さった。
自分は役には立たないと判断されたのだと、妖夢は思った。
これから一体どうすればいいのか、妖夢には解らなかった。
幽々子から見放された己は、どうすればいいのか。
主への責任すら果たせない自分に、生きる意味はあるのだろうか。
小町に出逢ってしまったから。
小町を好きになってしまったから。
こうなったのは、全て自分が――小町に恋をしてしまったからだ。
「……ふ、ぐっ……」
涙が溢れてくる。
自分は、人を好きになってはいけなかったのだろうか。
小野塚小町と――出逢わなければ良かったのだろうか。
妖夢には、何一つ解らなかった。
「っく……う、ぅう……っ」
解らぬままに、ただ声を殺し、嗚咽すらも押し殺して泣いた。
襖の向こうから、幽々子は静かに立ち去った。
* * * * *
――もし。
もし、どちらかを選ばなければならないならば。
幽々子を裏切るなどという選択肢は、妖夢には存在しようはずも無い。
西行寺幽々子に仕える者こそが魂魄妖夢であり、それ以外の生き方など妖夢は知らない。
ならば、残る道は一つしか無かった。
初めから、選択肢など存在しなかったのだ。
一晩中泣き明かして、妖夢は決意した。
彼女の事は――忘れよう。
私は結局、小説を読んでは作中人物に己を重ねてしまうように、
己が恋愛劇の中にいるのだと錯覚してしまっただけで。
私にとっては矢張り、恋などというものは幻で。
重なり続けた偶然が、ほんの一瞬私の視界に別の道を視せただけなのだと。
幽々子の部屋の襖障子の前に立って、妖夢はきつく拳を握り締めた。
きっと。
きっと忘れられる。
胸の奥が、悲鳴のようにずきりと痛んだ。
妖夢は気付かぬ振りをして――襖に手を掛けた。
「おはようございます、幽々子様――」
* * * * *
「ふわ……ぁ」
あくびと共に、小町は三途の川を舟から河岸へ飛び降りた。
「お仕事お仕事っと」
ひねくれた形状の鎌をブンブンと振り回しながら、朝霧にけぶる此岸を歩く。
尤も、三途にかかる霧に朝も夜も無いのだが。
その霧の河岸のあちらこちらに、時折ぽつぽつと白い光の球のようなものが浮かんでいる。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……ふむ」
ざっとその総数を数えて、小町は形のいい顎に手を遣った。
「今日で半数、明日で半数片付けようかね」
小町は一人呟きながら歩く。
いくらサボマイスタと言えど、朝から晩までサボり倒している訳では無い。
どんなに実力があろうとも、そんな事をしていれば忽ち首を刎ねられるだろう。
「仕事も休憩もバランス良くってね」
上司に愛想をつかされない程度にサボる。
怒られはしても、見放されない程度にサボる、絶妙なバランス。
その辺りの機微を弁えている自分は成る程確かにマイスタかも知れんなどと、
小町は上司が聞けば激怒しそうな事を考えて笑った。
「さてさて」
だらしなく下がっていた柳眉を軽く引き締めて、小町は点在する幽霊を再び見回した。
或いは戸惑うように、或いは諦めたように、或いは物珍しげにふよふよと動く白球達。
彼ら彼女らが善人であったのか、悪人であったのか――具体的な所は解らなくとも、
霊魂を薄っすらと纏う気質からその程度は判断出来る。
門外漢には全く判らないであろうそれをあっさりと看破して、小町は鎌を担ぎ直すと、
躊躇う事無く最も劣悪な気質を放つ魂の元へ歩き出した。
* * * * *
「……幽々子様……?」
常ならばまだ主が眠っているはずの幽々子の部屋は、
今、誰がどう見てももぬけの殻であった。
一瞬、妖夢に愛想が尽きて出て行ったのではないかと怖くなったが、
普通に考えれば追い出されるのは妖夢のほうである。
どの道嫌な想像だったが、とにかく妖夢はほっと息を吐いた。
「ん……?」
とりあえず布団だけでも片付けておこうかと部屋に入った妖夢の目に、
幽々子お気に入りの文机の上に置かれた紙が飛び込んだ。
「『ちょっと顕界へ行って来ます』……こんな朝から?」
妖夢は首を捻ったが、幽々子のやる事をいちいち考えていたら日が暮れると思い直して作業を再開した。
仕事は順調に進んだ。
今もまだ、何かの拍子に小町の事が思い浮かんでしまうが、
一度小町の事を忘れると決めてしまえば、彼女の笑みが妖夢の動きを乱す事は無くなった。
唯一つ問題があるとすれば――その度にどうしようもなく胸が苦しくなる事だった。
しかし、それもいずれ消えてゆくはずだ。
所詮、これは幻なのだから。
涙はもう、流し尽くしたのだから。
* * * * *
いよいよもって濃霧が覆う三途の川を、年季の入った小舟が滑るように走る。
その船上で、櫂を操りながら小町はいつもの如く幽霊と会話を交わしていた。
「…………」
「はぁ、結婚詐欺師ねぇ。珍しい客が来たもんだ」
目的地に眼を向けながら、小町は幽霊に答えた。
詐欺師の霊は大げさに身体を動かしながら、常人には聞こえない声で己の人生を語る。
「…………」
「ほう、成る程成る程。世の中にゃ面白い事を考え付く奴がいるもんだね。
あんたに騙されるような奴はあたいにゃ理解出来んが」
今日のお客は大当たりだと小町は思った。
こういった自分とは縁の無い世界の話が聞ける事が、小町が船頭を続ける理由の一つだった。
まるで地獄の観光案内でもしているような気安さで、小町は会話を続ける。
「…………。…………?」
「あん? 恋人? 残念だけど、この仕事でお近づきになれるのは死んだ殿方ばっかりでねぇ」
幽霊の問いかけに、小町はさして残念な素振りも見せずに笑う。
「……。…………!」
「おやおや、嬉しい事言ってくれるねぇ。
霊に口説かれるなんて、あたいの船頭人生の中でも初めてだよ。でもね――」
櫂を手繰りながら、小町は眼だけで霊魂を覗き込んだ。
「その口八丁で閻魔様を丸め込もうってんならやめておくんだな。
あの方には嘘なんか通用しやしない。
沈黙は金なり、大人しく判決を受け入れればまだしも罪は軽くなるだろうよ」
ま、地獄行きにゃ変わり無かろうが、そう言って小町は些か意地の悪い笑みを浮かべた。
「あらあら」
――唐突に、背後から声が聞こえた。
「貴方も仕事をする事があるのねぇ」
「何言ってんだい、あたいは幼少のみぎりからやれば出来る子と隣近所で太鼓判……ってうぉあっ!?」
「ごきげんよう」
一体いつからいたものか、船尾の縁に腰掛けて、着物姿の亡霊がひらひらと手を振っていた。
「やれやれ……西行寺のお嬢様かい。気配が無さすぎですよ」
「まあ、死んでますから」
「相も変わらず変わったお人だ。それで、こんな所まで何の御用で?」
小町は僅か苦笑すると、単刀直入に問い掛けた。
数日前に妖夢にしたような忠告を、幽々子に繰り返す気にはならなかった。
言って聞く程の可愛げなど持ち合わせていない事は明らかであるし、
そもそも幽々子は常に物事の全体を鳥瞰しているような所がある。
許可も得ずにこんな所まで来た事がバレればどうなるかなど、言うまでも無く理解している事だろう。
それは裏を返せば、そんな危険を冒してもここまで来る理由があったという事になる。
多少の真剣さを瞳に乗せて幽々子を見遣るが、幽々子はそ知らぬ顔で小町に返答した。
「いえいえ、世間話などを少々」
「世間話ねぇ」
まァ良いですがと言いながら、まだ霧に霞む彼岸を見据えて小町は再び櫂を操り始めた。
ここまで来た事に理由があるのなら、黙っていても話は進むだろう。
「実はね」
小町の推測に応えるように、幽々子はぽつりと呟くように語り始めた。
「私はちょっと前から花を育てているのだけど」
「花」
鸚鵡返しに応答する。
「そう、花。真っ直ぐに伸びる事しか知らない小さな花」
「ほう」
「気が向いたら水をやって、手入れして育てて来たのだけど」
「ふむ」
「最近他所の水を飲んじゃって。そしたら、無性にその水が恋しくなっちゃったみたいでね」
「そりゃまた――」
何とも難儀だねぇ――幽々子の話に、小町は前方に眼を向けたままあくまで漕ぎ手を休めず応答する。
人によっては無礼ともとられかねない態度だが、幽々子がこういった話を始める時には、
己は潤滑剤に終始するのが一番である事を小町はよく理解していた。
幽々子もまた、気にした風も無く話を続ける。
「うちの水を飲みながらも、あっちの水が忘れられない。
ここ数日、そんな事が続いてねぇ。いい加減衰弱してるんだけど、何とも融通が利かなくて」
「ま、花ですからねぇ」
「そう、花なのよ」
詐欺師の幽霊を弄りながら、幽々子はどこか儚げに笑った。
「或いは――何という事も無いのかも知れない。
このまま眺めていれば、その内向こうの水なんて忘れて、
また今までのように水を飲み始めるかも知れない。
けれど、それじゃあちょっと面白くないわよねぇ」
幽々子はそこで唐突に話を終え、葬頭河には時を止めたような静寂が立ち込めた。
「――ところで、こいつは全然関係無いんですが」
向かう彼岸が漸くその輪郭を川霧の中に浮かばせ始めた頃、小町は前触れも無く口を開いた。
「あたいが最後に白玉楼にお邪魔させて貰ったのは、何ですか、
ありゃあもう数十年前になりますかねぇ」
「まだ妖夢が居なかった頃ね」
突然の話題転換に、幽々子は些かも疑念の顔を見せず答えた。
「ああ、代わりに何やらえらく威圧感のある半人半霊の親爺さんが」
「よく覚えてるわねぇ」
私はそろそろ忘れてしまいそうですわ、と幽々子は口元を隠して笑う。
「……ふむ」
数秒考えて、小町は幽々子に向き直った。
「久々に、白玉楼の枯山水でも見物させて貰いましょうかね」
「あらあら、堂々と職務放棄宣言?」
「まぁまぁ。お土産は和菓子でよろしいですかね」
「私は和菓子にはちょっとうるさいわよ?」
「白吹屋の葛饅頭では」
「是非お待ち申し上げておりますわ」
幽々子は眼を輝かせてそう言った。
「うーん、流石は小町ちゃん。打てば響くようだわぁ」
ふよふよと浮かび上がりながら、幽々子は袖口で笑みを隠した。
「ま、三日そこらの付き合いじゃあありませんわな。
それより小町ちゃんってな何ですか」
「気分ですわ」
それでは、と最後に言うと、幽々子は優雅に身を翻した。
「ええ、また明日に」
小町の言葉を最後に、二人の距離は見る間に遠ざかっていった。
「さぁて……」
小町はちらりと乗客に眼を遣って呟いた。
「予定変更、今日中に片付けちまうかね」
* * * * *
「ただいまー」
飛び込んで来た幽々子の声に、妖夢は洗濯物を放り出してそちらへ駆け出した。
「ゆ、幽々子様お帰りなさいませ! あ、あの、私――」
「妖夢」
「は、はいっ……」
昨日と同じ声色で名前を呼ぶ幽々子に、妖夢は一瞬硬直した。
真正面から妖夢に向き直って、幽々子は厳かに口を開いた。
「明日はお饅頭が来るから、丁重にお持て成しなさい」
「……は?」
全く意味が解らない。
一人ぽかんとしている妖夢の横を通り抜けて、「お饅頭、お饅頭」などと妙な抑揚をつけて歌いながら
幽々子はさっさと茶の間へ行ってしまった。
「饅頭って……饅頭……?」
……その夜、妖夢は白玉楼へ大挙して攻め込んで来る饅頭の夢にうなされた。
* * * * *
翌朝の空は快晴だった。
燦々たる陽光が川霧に射し込み、三途の川の陰鬱さを一時和らげていた。
その河岸に接舷して、愛車ならぬ愛舟から小町はひらりと飛び降りた。
大鎌の柄で肩を軽く叩きながら、視線を河原から中有の道まで滑らせる。
そのどこにも、客の姿は見えなかった。
「うむ」
これだけやれば、言い訳としては十分のはずだ。
一人頷いて、小町は今日の予定を頭の中で確認する。
時刻はそろそろ正午になる。
先ずは人里で食事を済ませ、そのまま土産を買ってその足で冥界へ向かう。
映姫にさえ見つからなければ、何の問題も無いスケジュールだった。
「そうと決まれば、善は急げだ」
「あら。貴方の口からそんな言葉が出るなんてね」
「きゃん!」
今まさに飛び立とうとしていた小町は、後ろからかかった声に思わずつんのめった。
機械のような動きで背後を振り返れば、そこには唯一にして最大の問題が立っていた。
「どうして皆、私の声が聞こえるとそんな反応をするのかしら。不思議だわ」
「……閻魔様がそんな嘘を吐いてよろしいんで」
「私の部下は嘘とユーモアの違いも解らないのかしら。
これは白黒つくまで説教する必要があるわね」
「すいませんでした」
がくりと頭を垂れる小町を見て、映姫は楽しげに笑った。
「……それで、こんな朝から何かありましたかね。仕事ならこれこの通り――」
「ちょっと所用があってね。是非曲直庁を留守にするものだから」
「は?」
小町は間の抜けた声を上げた。
映姫がデスクを離れるのは、取り立てて珍しい事では無い。
何故今日に限ってそんな事をわざわざ伝えに来たのか――小町が疑問を口にする前に、
映姫は続けて言葉を紡いだ。
「良いわね、小町。貴方はちゃんと、『いつものように』真面目に仕事に励む事」
「あー……」
その一言で、小町は映姫の言わんとする所を察した。
「そりゃもう、お任せあれ。『いつものように』、馬車馬の如く働きますとも」
「……いやはや」
上司が飛び立った先を見つめながら、小町は頭を掻いて苦笑した。
「全く、お優しい方だよ」
小町に対していつも通りにやれと言うことは、取りも直さずサボりを容認するという事である。
つまり映姫は全てを理解していて、その上で小町に白玉楼へ向かう許可を出した事になる。
「……ま、あれだけ一気に客を渡せば、そりゃ何かあると気付くわなぁ」
自分とした事が迂闊だったか、と小町はため息をつく。
その迂闊さを見逃さずにおきながら、その上で状況を理解し黙認してくれた映姫に、
小町は胸中深く感謝した。
「……というか、四季様は全部知ってらっしゃったんかねぇ。聞いときゃよかったか」
掌でぺしんと頭を叩いて、小町は僅かに顔を歪めた。
幽々子の言葉遊びを理解するのは難しい。
何らかの事件が――恐らくは数日前の自分と妖夢の出会いが――元で、妖夢が今苦しんでいる。
そこで幽々子は、原因である小町に世間話の体でその結末を委ねたのだろう。
それは解るが、肝心の原因があの日のどこにあったのかが判然としない。
少なくとも、妖夢を怒らせたり悲しませたりはしていないと思うのだが――、
「……ま、いいか」
小町に何とかしろと言うのならば、うだうだ考え続けるのはそれこそ小町の領分では無い。
解らないと言えば、何故あの時妖夢がわざわざ自分を訪ねて来たのか、そこからして解らないのだ。
わざわざあんな回りにくい伝え方をされたという事は、
小町にはぼかさなければならない何らかの事情があるのだろう。
ならば尚更、考える事に意味など無い。
頭の回転が悪い方だとは思わないが、
推測に推測を重ねるよりはまず当たって砕けてみるのが自分らしい。
何より、彼女が苦しんでいるのならば――助けてやりたいと思う。
それは小町の偽らざる心情だった。
案ずるより産むが易し。
あっさりと方針を決めて、小町はとりあえず腹の悲鳴を抑えるべく人里へと足を向けた。
* * * * *
「ふぅ……」
広大無辺の白玉楼。
庭木の剪定を終えて、妖夢は一休みと息を吐いた。
(大体の仕事は終わった。後は夕飯の支度までのんびりして――……)
のんびりという単語が脳裏に浮かんだ途端、小町の事が連想される。
妖夢は激しく首を振ると、些か乱暴に二振りの刀を抜き放った。
「剣の鍛錬でもしよう……」
その時である。
白玉楼の入り口、冥界の門に当たる方角が俄かに騒がしくなった。
――幽霊達が騒いでいる。
すわ侵入者か、と思うより迅く、妖夢は反射的に駆け出していた。
「そこで止まれ! この先は冥界、生きた者が容易く足を踏み入れる場所では無い!」
警告を発しながら、馬鹿馬鹿しい程に広い庭を駆け抜けて侵入者の前に飛び出した。
二刀を構えて、眼前の敵を睨めつける。
「今すぐ立ち去るならば良し、さもなく……ば……」
続く言葉は、行き場を失い幽霊のように溶け消えた。
いつもの得物の代わりに、和菓子屋の屋号が記された風呂敷をぶら下げて現れたのは、
誰あろう小野塚小町その人であり。
「や」
「……こ、まち……さん……」
何よりも愛おしく、何よりも忘れたかったあの笑顔が目の前にある現実に、
妖夢は刀を仕舞う事も忘れて呆然と立ち尽くした。
「ほーほー」
「あ、あの……」
客間のあちこちを見回しては「ほお」だの「はあ」だのと声を上げる小町に、
妖夢はかける言葉を見つけられずにいた。
「いやー、ここは全然変わらんねぇ」
ずぞぞ、と緑茶を啜って一言、小町は溜息と共に言葉を吐いた。
「……おっと。悪いね、お邪魔するなり一人で喋っちまって」
「い、いえ」
妖夢は慌ててかぶりを振る。
実際、それどころでは無かった。
目の前に小町が居ると思うだけで、頬は火照り、心臓はばくばくと騒ぎ出す。
それを押し隠すのに必死で、妖夢はまともに小町の顔も見る事が出来なかった。
(だ、駄目だ……)
妖夢は無邪気な運命を呪った。
忘れようと決めたのに。もう逢わないと決めたのに。
妖夢にとって、これ程辛い事は無かった。
「……あの、い、一体何のご用件でしょうか」
一秒でも早く、ここから帰ってもらわなければならない。
これ以上小町といると、二度と忘れられなくなりそうで――痛む心をひた隠して、
妖夢は努めて冷たく問い掛けた。
「おや、やっぱり聞いてないか」
「え?」
予想に無い小町の返答に、妖夢は思わず間の抜けた声を発した。
妖夢が尋ね返す前に、小町は座布団の傍に置いてあった風呂敷を持ち上げると、
二人の間に横たわる座机にどっかりと乗せて答えた。
「用件はこいつ」
「……これは」
紺の風呂敷に白く染め抜かれた屋号には、妖夢も眼に覚えがあった。
「お饅頭……?」
「そ、葛饅頭」
昨日幽々子が言っていたのはこの事だったのかと、妖夢は漸く合点した。
しかしそうすると、幽々子は一人で小町に会いに行っていたのだろうか。
そしてその結果、小町がここに来る事になった。
一体、幽々子は小町にどんな用事があったのだろうか。
(あ……)
胸の奥に微かに生じたものが妬心であった事に気付いて、妖夢は慌てて思考をシャットアウトした。
「あ、あのっ!い、今幽々子様を呼んで来ますから――」
言いながら、妖夢は勢いよく立ち上がった。
これ以上ここに居てはいけない。
逃げるように廊下へ出ようとする妖夢を、小町は片手を上げて呼び止めた。
「いやー、いいよいいよ」
「え、でも……」
「んー……多分、幽々子さんの所には既に客が居ると思うんだよねぇ」
多分だけど、と言いながら小町は再び茶を啜った。
「それはどういう――」
言いかけて、妖夢は先刻の会話を思い出した。
『私は離れに居るけれど、妖夢はいつも通りに仕事をしなさいね』
昼食を終えた後、幽々子はそう言い付けると、餅を食べながらふよふよと離れに向かって行った。
いつもの気紛れだと思って気にしなかったが、あれは離れに客が来るという事だったのだろうか。
「……お客さんって、ひょっとして」
「まぁまぁ、座って座って」
小町はちょいちょいと手を振った。
そう言われては逃げる訳にもいかず、妖夢は再び小町の対面に腰を下ろした。
妖夢が座り直したのを見て、小町はしゅるしゅると風呂敷を解く。
饅頭の詰まった箱が三つ、座机の上に姿を現した。
「あの、小町さん……いくら幽々子様でも三箱は多いですよ」
「いやいや妖夢」
小町は幽々子のような口調で答えると、二箱を机の端へ押しやった。
「あの人の分は二箱」
「へ」
「こいつは妖夢と食べようかと思ってね」
残った一箱の蓋を開けながら、小町はいつもの笑顔でそう言った。
――反則だ、と妖夢は思った。
そんな顔で言われたら、断れる訳が無いではないか。
「う……す、すみません」
「いやいや。悪いね、あたいの我侭に付き合ってもらっちゃって」
「い、いえ……それじゃお皿を持って来ますね」
暴れる心臓を押さえながら、妖夢はそそくさと退出した。
少し寄り道をして庭に出ると、妖夢は大きく深呼吸をした。
「はぁ……」
顔が熱い。
当然だ。他でもない小町が、自分と一緒に食べたいと言ってくれたのだから。
「……っ」
駄目だ駄目だ。
妖夢はぶんぶんと首を振る。
これを食べたら、直ぐに帰ってもらわなければ。
そう自分に言い聞かせながら、誰もいない庭で妖夢はしばし緩む頬と格闘した。
* * * * *
「す、すすすみません!お待たせしましたっ!」
すぱんと障子を押し開けて、妖夢は肩で息をしながら開口一番小町に詫びた。
どこから見つけてきたのか、古びた将棋盤に駒を並べて難しい顔をしていた小町は、
妖夢を見上げて苦笑した。
「んにゃ。何かあったのかい」
「……え、ええっと……うぅ」
十分近くも小町の事を考えていたなどと言えるはずも無く、
妖夢はしどろもどろになりながら桃色に染まった顔を俯かせた。
饅頭を取り分けながら、横目で小町の手元を覗く。
「……将棋、ですか」
「ありがとさん。うん、あたいは結構好きでね。ま、相手は大体四季様だが」
あの人がまた強いんだ、と言って小町は頭を掻いた。
「流石白黒つけるのが趣味なだけある」
「……趣味」
「趣味の域だね、ありゃ。妖夢はやるのかい?」
「ええ、幽々子様や紫様達のお相手をたまに……勝てたためしがありませんけど」
今の所、妖夢が上げた白星は、全てすきま妖怪の式の式からのものであった。
「……同情するよ」
小町の眼には、遊び半分で負かされる妖夢の姿がありありと浮かんでいる事だろう。
勿論それは、訂正の余地も無い事実なのだが。
「そうかいそうかい、それじゃ今度一局やろうよ。四季様以外の相手に飢えててねぇ」
「は、はい! 是非――……」
そこまで言って、妖夢は己の立場を思い出す。
小町との勝負が実現する事は無いだろう。いや、あってはならないのだ。
一瞬悲しげに顔を歪めた妖夢に、小町は気付いたのだろうか。
視線を交わす事を恐れて下を向いた妖夢に、それを確かめる術は無かった。
饅頭が皿の上から消えるまで、会話は絶えず続いた。
と言っても、その功績はともすれば途切れがちだった二人の会話に常に新しい話題を
投下し続けた小町一人に帰せられるだろう。
「これを食べ終わったら帰ってもらう」という妖夢の決心は、
取りも直さず「せめて食べ終わるまでは小町と居たい」という無意識の発露に他ならない。
にも拘らず、妖夢は心から笑う事が出来なかった。
智恵の木の実を食べた男女のように、己がどうしなければならないかを知ってしまった妖夢は、
もう数日前のようには笑えなかった。
元々弁の立つ方では無いが、妖夢に突き付けられた現実は彼女を輪をかけて寡黙にした。
出来れば小町には何も悟られたくは無いと思いながらも、気にした素振りも見せない小町に、
妖夢はどこか寂しさを覚える自分を否定出来なかった。
「おや、もう無くなっちまったか」
早いもんだねぇ、妖夢にとっての別れの言葉を小町はいつもの口調で呟いた。
心を鷲掴みにされたような痛みに襲われながらも、妖夢はこれでいいのだと思った。
小町には、最後まで何も知らぬままでいて欲しかった。
しかし。
「さて、と」
空になった湯飲みを机に置くと、小町は真面目な顔になって妖夢を見た。
それだけで、矢張り小町は気付いていたのだと妖夢は直感的に理解した。
「妖夢、この後だけどちょいと話が――」
「あ、あのっ!!」
ガタンと机を揺らしながら立ち上がり、妖夢は反射的に小町の言葉を遮った。
「わ、私、そのっ、これから仕事がありますのでっ!」
これ以上、小町に心を乱される前に――妖夢は捲くし立てるようにそう言った。
「……ん、そうかい」
「そ、それでは……」
「それじゃ、終わるまで待たせて貰っていいかね」
「え」
とにかくこの場から去る事で頭が一杯になっていた妖夢は、
そんな返答すら予想出来ていなかった。
軽いパニックに陥りながら、しどろもどろに言葉を返す。
「え、えと、小町さん、お、お仕事があるのでは」
「無いよ。ぜーんぶ片付けて来た。今日は一日自由の身」
「う……そ、そうですか。でもあの、私の仕事はその、か、簡単には終わりそうにないので」
「ふむ。どんな仕事が残ってるんだい?」
「え!? え、えっと、その……え、縁側の拭き掃除と」
「ふむ」
「お、お風呂場の掃除と」
「ふむ」
「階段の掃除と、服の洗濯と、え、えーと、布団の取り込みですっ!」
妖夢は思いついた仕事を手当たり次第に並べ立てた。
その殆どは、妖夢ではない専属の幽霊の仕事である。
「……成る程、それじゃあ仕方が無いな」
燃えるように紅い髪を掻き上げて、小町は観念したようにそう言った。
その意外に洒脱な仕草に妖夢は思わず見惚れたが、次の瞬間少女は時が停止したように固まった。
「あたいも手伝うから、さっさと終わらせちまおう」
「………………へ」
長い沈黙の後に、妖夢は漸くそれだけを発した。
「あたいも手伝うよ。二人でやればいくらかは早く片付くだろ?」
聞き返されたと思ったか、小町はもう一度繰り返した。
「い、いやいや駄目ですよ! これは私の仕事、で――……」
妖夢の言葉はそこで止まった。
そう、これは自分の仕事でも何でも無い。
妖夢の心に生まれた罪悪感が、その先を口にする事を拒んでいた。
「庭木の剪定だとか特殊な清掃だとか、そんな事までやらせろたぁ言わんよ。
あくまであたいは臨時の簡単なお手伝い。それじゃ駄目かい?」
「う、うぅ……」
とんでもない事を言い出したように見えて、その実妖夢の職分にしっかり配慮している小町に、
妖夢はもはやこれ以上嘘は吐けなかった。
「……それじゃあ、お願いします……」
汚い嘘に逃げてしまった自分への罰なのだろうかと、妖夢は心中密かに自己嫌悪に陥った。
「……え、えーっと……」
縁側へ出るなり、妖夢は言葉を失った。
自分が掃除をするのだと思うと、白玉楼の縁側が途轍も無い長さに見えたのである。
白玉楼の屋敷は、その広大な敷地の中のほんの一部に過ぎない。
しかし、その一部自体が既に非常識なまでの広さを誇っているのだという事に、
妖夢は今更気がついた。
「……こりゃあ確かに、普通にやれば数時間じゃあ足りんなぁ」
妖夢の後ろで、小町がどこか感心したような声を上げる。
それもそのはず、本来は数週間に一度専属の幽霊達が総出でやる仕事である。
勢いに任せて何という事を言ってしまったのか、妖夢は迂闊に過ぎた己を悔やんだ。
自分一人ならばともかく、小町にこのような苦行をさせる訳にはいかない。
「……あ、あの、やっぱり――」
「妖夢、階段の掃除もこのくらいかかるのかい」
「へ?い、いえ、階段は顕界から通じる場所にある一つだけですから、一時間もあれば」
妖夢が手で示した方角を見遣って、小町は「ふむ」と一声唸った。
「だったらそっちを掃除してきな。こっちはあたいがやっとくよ」
「い、いや、そんな! いくらなんでもお客さんにこんな仕事はさせられませんよ!」
妖夢は慌ててそう言うが、小町は何でも無いように笑ったまま、
さあさあと妖夢の背中を階段のほうへ押し出した。
「こ、小町さん!」
「いいからいいから。どうせ手伝うんだから、掃きも拭きも変わらんさ。
それに言うだろ、適材適所、量才録用」
「はぁ……」
何が適材適所なのか解らないまま、小町に押されて妖夢は結局首を縦に振ってしまった。
まあ、確かに掃き掃除ならやり慣れている。
天狗も瞠目した瞬発力で一飛びに白玉楼の長い階段へと辿り着くと、
手にした箒を意味も無く一回転させてから掃除に取り掛かった。
小町に言われた事は何でもしてやりたくなってしまう自分が恨めしい。
あの死神らしからぬ笑顔はまるで魅了の魔法のようで――妖夢はチャームに掛けられたように、
いつも心を乱されるのだ。
(いや……)
確かに私は魔法に掛かっているのだろうな、と妖夢は独白した。
それが証拠に、自分は今もこうして小町の事を考えているではないか。
僅かに積もる埃を下へ下へと掃き落としながら、
妖夢は階段の両端にさながらアーチのように植わっている老樹に眼を向ける。
幹に背を預けて、木漏れ日を浴びながら眠る小町の姿が容易に連想された。
それはさぞかし絵になる光景だろうと考えた所で首を振り、妖夢は溜息と共に想像を打ち消した。
樹を見ただけでこんな事を考えるなんて、本当に今の自分はどうかしている。
全く、この上なく厄介で、苦しくて、辛い魔法に掛かってしまった。
人は皆、それぞれの方法でこの魔法を克服してゆくのだろう。
そして、と妖夢は呟いた。
そして私に出来る解呪法はただ一つ――忘れてしまう事だけだ。
然るに現状は、どんどん悪い方へと傾いている。
このまま行けば、少なくとも掃除が終わるまでは小町と居る事になってしまう。
それが素直に喜べる身であればどんなに良かった事だろう。
しかし、だからと言って小町を一人で掃除させておく訳にもいかない。
気持ち足元を掃く手を速めながら、妖夢は思考の続きを展開する。
小町は仕事は全て終えて来たと言った。
という事は、何かハプニングでも起こらぬ限りは小町が顕界へ戻る可能性は薄いだろう。
いつぞやの花の異変のような大事件が都合良く起こってくれる訳も無し、
現状最も期待出来る可能性は閻魔の乱入なのだろうが、
「……どうも幽々子様と居るみたいだし……」
離れを振り返ってこっそり溜息をつく。
小町がはっきりそう言った訳では無いが、恐らくは間違い無いだろうと妖夢は思う。
幽霊達を騒がせずにここに入って来られる人物は限られている。
長い付き合いで幽霊達も慣れっこになっている八雲紫やその式、
或いは同様によく宴会に招いているプリズムリバー三姉妹。
彼女達を除けば、幽霊が大人しく道を空けるような存在は泣く子も黙る閻魔様以外に考えられない。
何か知っていると言わんばかりの小町の口ぶりからしても、
離れの客は四季映姫・ヤマザナドゥに間違い無いと思われた。
そしてそれは取りも直さず小町が帰る可能性は潰えたという事であり、
妖夢の悩みが目出度くふりだしへ戻ったという事だった。
だがその悩みも、結局は一時的なものに過ぎない。
小町は一体、自分に何の話があるのか――それすらも解ってはいないが、
結末だけは最初から決定されている。
小町を帰す。そしてそれを最後に、全てを忘れてしまう。
その為に苦しむ期間が、当初の予定よりも少々延びるだけだ。
長い人生の中の、ほんの数日。ほんの数時間。
妖夢は底無しに沈んでゆく気持ちを隠して、悩むに足らぬと笑い捨てた。
その表情すら、泣き笑いに歪んだ。
* * * * *
世にも見事な枯山水を逃さんとするかのように、コの字型に囲い建つ白玉楼の本殿。
きっちり一時間で掃除を終えた妖夢は行きと同じくあっと言う間に小町が待つそこへ駆け戻り、
そして絶句した。
「おう、お帰り妖夢」
縁側に腰掛けて幽霊と雑談に興じていた様子の小町は、妖夢を見てひらひらと手を振った。
その背後には、うずたかく積まれた雑巾の山。
それが使われたであろう縁側は、右も左も東も西も、余す所無く磨き上げられていた。
「嘘……」
妖夢は呆然と呟く。
小町は妖夢のリアクションに満足したらしく、まるで悪戯が成功した子供のような笑顔を見せた。
「だから言ったろ?」
「わっ!?」
五間は離れた所に座っていたはずの小町は、次の瞬間妖夢の眼の前に立っていた。
「適材適所ってね」
「あ……!」
妖夢は漸く合点がいった。
小町は縁側の距離を縮め――より正確に言うならば「圧縮」し、纏めて拭き終えた所で戻したのだろう。
距離を操る程度の能力。
一見地味に思えるが、その実恐ろしく強力な異能だと妖夢は理解した。
小町が本気を出せば、何者も彼女を害する事は出来ず、何者も彼女から逃れる事は出来ない。
陽気な性格とは裏腹な、正に死神と呼ぶに相応しい能力である。
「どうよ。見直したかい」
「は、はい……」
無邪気に笑う小町に頷きつつ、これだけの能力を持ちながら無闇にそれをひけらかさない所が
彼女の魅力の一つなのだろうと妖夢は密かに思った。
「……あ、あの……い、今話をしてた幽霊ですが」
「うん」
「……その、何か言っていませんでしたか?」
会話が途切れた瞬間を見計らって、妖夢は質問を滑り込ませた。
掃除は妖夢の仕事では無いと知れば、小町は妖夢を嘘吐きだと軽蔑するだろうか。
今日で終わりになる関係だと解っていても、妖夢はそれが怖かった。
「んん? 特別な事は何も聞かんかったが。
ああ、でもあたいが掃除をしたって知って何やらえらく喜んではいたな。
雑巾の片付けはやっといてくれるってさ」
お茶まで頂いちゃったよ、と小町は苦笑した。
その辺りは小町の人好きのする性格が一役買ったのだろうが、
幽霊総出の大仕事が知らない間に片付いているという嬉しいハプニングである。
後片付けの一つや二つは喜んで代わってやりたくもなるだろう。
とにかく、あの幽霊は目の前の幸運に多少の疑問は吹っ飛んでしまったらしい。
こっそり安堵の息を吐いて、不思議な顔をする小町を誤魔化しながら妖夢は次の掃除場へと足を向けた。
* * * * *
蒼穹がその色を朱く塗り替える頃、二人は無言の内に洗濯と掃除を終えた。
特に何かがあった訳では無い。
ただ、掃除の進行に反比例して妖夢の口数が次第に減ってゆき、
遂には小町も声を掛けられなくなってしまったという、それだけの事だった。
「…………」
最後の仕事を終わらせるべく、布団が干された東の庭へと廊下を歩きながら、
小町は少し前を俯き加減に進む妖夢に眼を向けた。
明らかに、無理をしている。
今更考えるまでも無く判る事だった。
妖夢は何か深い悲しみを堪えるような表情で、無理に笑顔を作ってばかりいる。
そんな妖夢を見ていたくは無かった。
妖夢にこんな顔をさせているのは恐らく自分なのだと思うと、原因が解らなくとも辛い。
しかし妖夢を苦しめているのが自分ならば、幽々子が救い手に指名したのも自分のはずだ。
ならば小町のすべき事は一つしか存在しない。
己の心を押し隠す妖夢の小さな背中を見つめて――小町もまた、密かな決意を胸に宿した。
* * * * *
まだ陽も落ち切らない夕暮れだというのに、人影の無い廊下を小町と二人、
まるで声を出してはいけない制約でもあるかのように口を閉ざして歩きながら、
妖夢は昔に読んだ小説の事を思い出していた。
紫に貰ったその本は外の世界の代物で、少年と少女の出逢いと別れを描いた作品だった。
離れ離れになる彼らが過ごした最後の時間、二人が何も言えずにただ並んで座っている情景。
もう逢えなくなるというのに、どうして黙っているのか、どうして喋ろうとしないのか、
当時の妖夢には理解が出来なかった。
――今ならそれが、痛い程に解る。
「…………」
小町の視線から逃げるようにひたすら前を歩きながら、妖夢は足音だけで小町の存在を確かめる。
彼女は怒っているだろうか。それとも悲しんでいるだろうか。
ごめんなさいと、妖夢は心の中で呟いた。
もうすぐ逢えなくなってしまうというのに、平静で居られる訳など無かった。
小町への恋慕も後ろめたさも、最後の瞬間が近付くにつれて妖夢の中で無限に膨らんでゆく。
それを隠し通すには、妖夢は幼く純粋に過ぎた。
「……あ――」
廊下から座敷を通り、縁側へ出た妖夢の視界に、陰鬱な雰囲気を笑い飛ばすかのように竿に下がる
白い布団の群れが漸く姿を現した。
これを取り込んでしまえば、それで最後だ。
そんな考えが、妖夢を知らずその場に立ち尽くさせた。
「うお、あれを運んで往復するのかい」
立ち止まった妖夢に並んで、小町が久々に声を上げた。
二人から布団まではおよそ二十間、そこに下がっている十数枚を回収し、
それをまた別の場所にある押入れへと運び込む。
先刻の拭き掃除程では無いが、矢張り二人だけでは骨の折れる作業である。
「……え、っと……」
「ふーむ……よしよしよし、OKOK」
ぱしん、と包拳礼よろしく掌に拳を打ち付けて、小町はどこか自分に言い聞かせるように声を上げた。
「まぁ見てなよ妖夢。小町お姉さんに任せたまえ」
「え」
言うが早いか、一歩前に進み出ると小町は片手を布団に向かって突き出した。
その瞬間、布団の群れは見えない何かに引っ張られるかのように宙に浮き上がった。
「あ――」
まるで白い鳥の隊列のようだと妖夢は思った。
への字に身体を折り曲げて、白い布団達は夕日を跳ね返しながら一糸乱れぬ優美な軌道で空を舞い、
「ふっふっふ、あたいに掛かればこれしきのおわぁぁあっ!?」
「こ、小町さーん!!」
イルスタードダイブも真っ青な弾速で小町を直撃した。
「だ、だだ大丈夫ですか小町さんっ!」
布団の弾幕に飲み込まれて、まるで雪に埋もれたような格好の小町に妖夢は慌てて駆け寄った。
「っぶぁ!」
何とか頭に被さる布団をどけて、小町は止まっていた呼吸を再開した。
「ぜッはぁ……、な、何とか大丈――ぶッ!?」
正にその刹那。
すこぉんと景気のいい音を立てて、物干し竿が小町の頭に見事に着地した。
「……ぷっ」
「……くっ」
しんと静まり返った空間に、どちらともなく笑いが漏れた。
「ふふっ……あははははっ」
小町に失礼だと思いながらも一度弾けた笑いは中々収まってくれず、
妖夢はいっそ開き直って笑い転げた。
そんな妖夢を見て、小町もまた楽しげに笑う。
「あははっ……小町さん……ふふっ、綺麗に直撃しすぎ……」
「くっくっく……いやいや、竿まで落ちてくるとはねぇ、あたた……」
赤くなった額をさすりながら、小町は上体を起こして妖夢を見た。
「……よしよし」
「?」
「やっと笑った」
「あ……」
その言葉で、妖夢は悩みも忘れて笑っていた自分に気がついた。
もしかすると小町はわざと失敗したのだろうか、妖夢の脳裏をそんな推測がよぎった。
微笑む小町に視線を合わせると、彼女は何かを納得したように頷いた。
「……うん。やっぱり、あたいは妖夢の笑顔が好きなんだよねぇ」
「え、ええっ!?」
前触れ無く好きだと告げられて、妖夢の顔は瞬く間に紅潮した。
途端に小町の顔を直視出来なくなり、焦って面を俯かせるとしどろもどろに口を開いた。
「え、えと、あのっ……」
「妖夢の笑顔って、なんてーか、こう、見てて嬉しくなるんだよねぇ。
こんな事を言うと、変に思われるかも知れないけどさ」
「……そ、そんな事……っ!」
妖夢の声は、透明な壁に遮られて霧散した。
そんな事は無いと言いたかった。
私はそんな貴方の笑顔が好きなのだと言いたかった。
言葉の代わりに喘ぐような息を吐いて、妖夢は上げかけた顔を再び俯かせた。
「……今日のお前さんは、らしく無かった」
小町は言いにくそうに――少し途切れがちな、しかし言わなければならないという
強い意志を感じさせる声で語り始めた。
「最初に会った時から――そして今も。お前さんはずっと、何かを堪えるような顔をしている」
「……」
「らしくも無く、悲しげな顔で。らしくも無く、作り笑いを浮かべて。
……そんな妖夢を見ているのは――辛い」
「……小町、さん……」
妖夢はそっと顔を上げた。
少し苦しげな表情で乱れた髪を掻き揚げる小町と、視線がぶつかった。
「……理由は、解らんが。
今日の妖夢は、ずっとあたいを避けていたように感じた」
「……っ」
「……妖夢。あたいの事は――嫌いかい?」
その言葉を聞いた瞬間、妖夢は口よりも先に、身体が反応していた。
言葉を発する事ももどかしく、ただひたすらそうでは無いと、首を大きく横に振る。
必死の否定が通じたか、小町はふっと口元を緩めた。
「……そ、か。……良かった」
小町は怒りも呆れもせず、ただ笑ってそう言った。
その笑顔が、妖夢の心を締め付ける。
私は最低だと妖夢は思った。
本当にこれで良かったのだろうか。
独り悩んで、色んな人を巻き込み、迷惑を掛けて、挙句の果てに惚れた相手を心配させ。
そしてその上、今正に彼女に一方的な別れを押し付けようとしている。
こんな事が、本当に最良の手段なのだろうか。
――いや、と妖夢の心は自答する。
これ以外に、事態を解決する手段など存在しない。
お前は何だ? 妖夢の心は問い掛ける。
私は。
私は、魂魄――
「妖夢」
小町の声が、妖夢の思考に重なった。
いつの間にか布団を抜け出して、妖夢の正面に座り直すと、
小町は初めて見せる真摯な顔で妖夢の瞳を覗き込んだ。
「……何があったのかとか、何に苦しんでるのかとか。無理に訊こうとは思わんよ」
「……」
「だけど――お前さんを助けたい。
あたいに出来る事があるなら、させて欲しい。……妖夢が――」
妖夢が苦しむ顔を見るのは、嫌なんだ。
小町は終始妖夢から眼を逸らさぬまま、きっぱりとそう言った。
「…………わ、私は……」
三尺二寸の向こう側に、妖夢は知らず手を伸ばした。
両の掌を膝の上で握り締めたまま、眼の前で唯答えを待っている小町に、
心のかいなを差し伸ばした。
しかし彼女のその手は、指先は、かすりもせずに虚空を裂く。
二人を隔てる透明な壁は、まるで彼岸と此岸を分かつ河のように、
四尺にすら満たぬ距離を無限の長さへ変じせしめた。
遠い。
こんなに近くにいるのに、触れる事すら叶わない。
いや。
触れられるのだと思った事が――間違いだったのか。
幽々子に生涯仕える事に、何らの疑念も無い。
魂魄とは幽々子を、白玉楼を護る庭師であり、畢竟、己にそれ以外の生き方など存在しないのだと、
妖夢は今も確信している。
そしてそれが、他者の拒絶を必要とするのなら。
納得も理解も必要は無い。
ただ、魂魄妖夢としてそれを受け入れるだけだ。
そんな事は――解っていた。
届かぬと知って太陽に手を伸ばす童のように、徒に諸手を彷徨わせてみただけだ。
だというのに。
――涙が、止まらなかった。
「……ぅ、あ……」
「よ、妖夢!?」
突然の事に、小町が慌てた声を上げた。
妖夢は焦って目元を拭うが、そうする間にも決壊した堰からは絶える事無く涙がこぼれ続ける。
ぽろぽろ、ぼろぼろと、それはまるで心の深奥が救いを求めて叫んでいるかのようだった。
最低だ。
小町にだけは心配も迷惑も掛けたくなかったというのに、一体私は何をやっているのか。
悲しさ、悔しさ、情けなさ――種々の感情が入り混じる。
内も外も滅茶苦茶で、妖夢はもはや何が何だか解らなくなり、
それでも、この惨めな姿をこれ以上小町に見られる事だけは厭で。
「……ごめ……なさ……ッ!」
嗚咽に霞む言葉を吐き、妖夢は殆ど無意識に立ち上がると、何処へとも無く走り出した――その手を。
小町が、がっしりと掴まえた。
掌から伝わる小町の体温に、一瞬びくりと身を震わせる。
もはや小町の指を振りほどく力も無く、妖夢は消え入りそうな声で呟いた。
「……離して……下さい……」
「嫌だ」
小町の指が、僅か力を増した。
「……見ないで、下さい……!」
「嫌だね」
「小町、さん……っ!」
精一杯顔を俯けて、妖夢はつかえながら叫ぶ。
その耳に、妖夢、と呼びかける小町の声が届いた。
「……妖夢。あたいは知っての通りの不良死神だ。
自慢にゃならんが仕事は最低限しかしないし、無駄話なんかしょッちゅうだよ」
でもね――小町は少し声に力を込めて続けた。
「本当に大事な事から逃げる事だけは、絶対にしない」
「…………っ」
「――この手は離さない。
例え死んだって離してやるもんか。
妖夢が笑ってくれるまで――何があろうが、この手を離しゃあしない」
小さく暗い箱に、妖夢は独り居た。
喜びも哀しみも、辛さも悔しさも、恋心さえも狭い暗がりに押し込んで、それで良いのだと思った。
魂魄として生きるに、下らない感情は必要無い。
ならば余計な事を考える己は、箱に篭っていれば良い。
なのに。
指先から伝わる冷たい熱が、閉ざした箱の内側を満たしてゆく。
箱の温度を上げてゆく。
ここは寒かったのだと、妖夢は漸く気がついた。
止まりかけていた涙が、再び流れ始めた。
妖夢の小さく狭い箱は、許容量を突破して、とうとうその中身をぶちまけた。
「……ど……すれば……」
ぺたんと崩れ落ちるように座り込んで、朱く染まる縁側に伸びる小さな影がしゃくり上げた。
「……っく……どう、すれば、いいの……!」
流れ続ける涙が、妖夢の心を浚い出す。
慰めも励ましも無く、ただ静かに手を握る小町の前で、妖夢は嗚咽を噛み殺しながら言葉を吐いた。
「う、く……わた、しは……ゆ、幽々子様の、庭師で」
「うん」
「生涯……うっく、幽々子様をお護りするのが、や、役目で……!」
「……うん」
磨かれたばかりの縁側に、妖夢の涙がぽたぽたと落ちる。
声を震わせ、肩を震わせながら、妖夢はだけど、と続けた。
「だけど……こ、小町さんと、出逢って……小町さんといるのが、楽しくて」
「妖夢――」
「で、でも、っく、それじゃ、駄目で……小町さんの事は、忘れなきゃ、いけなくて……!」
妖夢の手を握る小町の指に、少し力が増したように感じた。
「だけど、やっぱり、そんな事出来ない……!」
出来ない。
出来る訳が無い。
最初から、出来る訳が無かった。
――好きなのだ。
散々己を偽って、周りを引っ掻き回して。
それでも如何しようも無い程に――小町の事が、好きなのだ。
なのに、それでも。
忘れなければならない。
「ひっく……も、もう、どうすれば、っく、いいのか……解らないよぉ……」
妖夢はもはや、一体何が正しいのかも解らなかった。
ただ涙だけが勢いを増して赤い頬を流れ落ち、小町に呆れられたくないというただその一心で、
妖夢は今更意味が無い事も忘れてそれを拭い続けた。
俯いた肩を震わせて必死に嗚咽を押し隠す妖夢の背中に小町はそっと触れ、
まるで硝子細工を扱うように――己の胸に抱き寄せた。
「あ――」
突然の事に、妖夢は間抜けな声しか出せなかった。
まるで糸の切れた人形のように、小町の力に引かれるまま、彼女の懐にぽすんと倒れ込む。
うん、と誰に言うでも無く呟くと、小町はあくまでいつもの軽い調子で口を開いた。
「拭かんでいいよ。堪えなくていい。いくらだって、泣いていいんだ」
妖夢の背中を優しく叩いて、小町は安心しな、と笑いかけた。
「恥ずかしい事じゃない。まして情けない事なんかじゃあ断じてないよ。
それが――お前さんの本当の気持ちなんだから。
作り物の気持ちで、涙なんか出やしない。
本当の気持ちってのは、抑え切れるもんなんかじゃないんだ」
「……こ、まち、さん……っ」
いくらでも泣いていいのだと。
もう、抑えなくていいのだと。
何気無い風に放たれたその言葉が――幾重にも絡みつく心の縛鎖を、いとも容易く断ち切った。
「わた……わたしっ……! っく、う、うぁあぁぁ……っ!」
今度こそ――妖夢は自分の意志で泣いた。
泣いて泣いて、涙を流し、流しに流して、一体どうして泣いているのか、それすらも忘れて泣いた。
何も言わぬまま、慈しむように静かに髪を撫でる小町の指が尚更涙を溢れさせ、
妖夢はただ小町の胸に顔をうずめて、涙が枯れるまで泣きじゃくった。
* * * * *
「落ち着いたかい?」
どれ程経っただろうか。
漸く涙の乾いた時分に、小町の声が耳朶をくすぐり、妖夢はゆっくりと顔を上げた。
辺りは相も変らぬ暮れ方、どこか優しさを感じさせる朱が、白玉楼を静かに染め上げていた。
「……ん、大丈夫そうだね」
頷く小町と真正面から視線がぶつかり、妖夢はそこで初めて状況を自覚した。
「うぁ……っ! す、すすすすいませんっ!」
かあ、と頬を赤くして飛び退いた妖夢を見て、小町はからからと笑う。
「謝る事なんぞありゃしないよ」
そんな事よりさ、と言いながら小町は懐を探った。
「は、はい」
「実は渡しそびれてたものがあってね。
っと、こいつだ」
独り言のように呟きながら何かを取り出すと、小町は妖夢に向けて手招きした。
「……?」
首を傾げながら足を踏み出すと同時、小町も妖夢に応じて立ち上がり、二人の距離は瞬く間に近付いた。
再び近くなった距離に、妖夢の胸は密かに鼓動を早める。
恥ずかしさに耐え切れず視線を下げた妖夢の髪に、小町の指が触れる感触がした。
「……こ、小町さん?」
「うん、これでよし」
その言葉と共に小町の指がするりと離れ、妖夢の髪には僅かばかりの重みが残った。
「な、何を……?」
妖夢が反射的に頭に手を遣るより早く、
「ほい」
小町が小さな手鏡を差し出した。
「わ……」
見事な螺鈿が散りばめられた、光沢を放つ漆塗りの手鏡。
妖夢は思わず本来の目的も忘れてそれに見入った。
幽明の境を分かつ結界が破れてからこちら、妖夢はしばしば人間の里へ足を運んでいる。
目的は食材の調達であったり、幽々子のお使いであったりするのだが、
妖夢も矢張り一人の少女であるから、髪留めだの手箱だのの綺麗な細工に目を奪われる事もあった。
しかし、滅私奉公を地で行く妖夢は、それらは己には関係の無いものと切り捨てた。
食材を調達に行けば必要なものだけを買い、お使いに行けと言われれば命じられたものだけを買う。
余った金は好きに使って良いと言われた事もあったが、妖夢は頑なに良しとしなかった。
自分などには似合わないという思いと、軟弱なるを好まぬ師の影響もそれを助けた。
そういう有様であったから、羨ましく見こそすれ、妖夢にそんなものを買う機会は存在しなかったのである。
だから。
手鏡の中、細工に見入る己の姿――その髪に光るものを認めた時、妖夢は思わず絶句した。
「……これ……」
鏡に映る自分から、眼が離せなかった。
――蝶が。
妖夢の持つ殆ど唯一の装飾品である黒いリボン、そのその対角線上、見慣れた銀糸の上に。
美しい光沢を放つ蝶が留まっていた。
「うんうん、やっぱりあたいの眼に狂いは無かったな」
花には蝶がよく似合う。
呟くようにそう言うと、訳も解らず眼を白黒させる妖夢に小町は悪戯っぽい笑みを向けた。
「わ、渡すものって」
「うん。里で見かけた露店が、何処で手に入れたやら鼈甲の髪飾りなんて置いてたもんでねぇ。
きっと妖夢に似合うと思って買って来たんだけど、どうにも渡すタイミングを掴み損なって」
「……そ、そんな、頂けませんよ!」
妖夢はぶんぶんと横にかぶりを振った。
装飾品の値段など妖夢は知らないが、この蝶細工が二束三文の安物でない事ぐらいは理解出来る。
そんな大層なものを貰う理由も権利も、自分などにはあるはずも無い。
そう告げる妖夢に、小町は宵越しの銭は持たぬ主義だと嘯いた。
「昨日今日は働いたもんでねぇ。
日々のたつきにゃちと多い、ならばちょいとばかり気紛れを起こしてみたとて罰は当たるまいってね。
それに――繰り返しになるけども、こいつは妖夢に似合うと思ったから買ったのさ。
それじゃ理由にゃならないかい?」
「――そ、それは」
小町の日輪の如き笑顔を前に、妖夢はそれ以上何を言う事も出来なかった。
己の銀髪に留まる蝶々に触れる。
小町さんが私の為に買ってくれたのだと、そう思うと胸の奥が熱くなった。
「ああ、そうだ。気に入ったならその鏡もあげるよ。あたいのお下がりでよけりゃだけど」
「へっ!? い、いえそんな!」
この上何を仰るかと、妖夢は慌てて言葉を返した。
「気にするこた無いさ。何だか鏡に眼を奪われてたように見えたからね。
使いたい人に使われるなら、鏡だってそいつが一番だろうさ。
あたいもそろそろ新しいのを買おうかと思ってたところだしねぇ」
そんな訳だから受け取りたまえ、とおどけてみせて、小町は用は済んだとばかりに距離を開けた。
そこまで言われては突き返す訳にもいかない。
「……あ、ありがとうございます」深く頭を下げると、頭を上げ切る前に言葉を継いだ。「あ、あの」
「うん」
「い、一生大切にしますから!」
小町には笑われるだろうと思ったが、これだけは言わずに置けなかった。
そんな大したもんじゃないよと言いながらも、小町は嬉しそうな笑顔を見せた。
貰ったばかりの手鏡で、もう一度己の姿を写し見る。
唯の一箇所、ほんの一箇所の変化だというのに、妖夢は何だか自分では無いように感じた。
そう言うと、小町は少し微笑んで言葉を返した。
「そう――思うかい」
「は、はい」
蝶々の飾りを銀糸に一つ。
唯それだけで、魂魄妖夢に絡まる重責は、どこかへ消えてしまったようだった。
鏡の中の妖夢は、自信なさげな表情で己を見つめている。
それでも、今の今まで彼女を苦しめていたものは、どこにも見あたらなかった。
「あ、あの。本当に……に、似合ってますか……?」
上目に小町を捉えて、おずおずと問い掛けた。
リボン以外の装飾品を身につけた覚えの無い妖夢である。
鏡の中の己はまるで別人のようだが、別人であるが故に妖夢にはその良し悪しを判ぜられなかった。
刀一つに生きてきた身に、飾りなどは滑稽なだけではあるまいか――そんな不安を言葉に乗せる。
「ああ、凄く可愛いよ。あたいが保障する」
「かっ……!?」
可愛い――妖夢は鸚鵡返しに呟いた。
自分にそんな事を言われる日が来ようとは、夢にも思わなかった。
その上、小町が言うと何だか口説き文句のように聞こえて、妖夢は解っていても赤面を抑えられなかった。
「……あ、ありがとう、ございます……」
ここ数日で癖のようになってしまった動作で顔を俯けて、妖夢はしどろもどろにそう言った。
* * * * *
日没が近い。
夕日は天から降りながら夕闇に変化して、徐々に辺りの輪郭を溶かしてゆく。
それでも何故か暖かいと、そう思ったのは。
小町が――傍にいるからなのだろう。
ちょいと座ろうかと言いながら、小町は手本を見せるように縁に腰掛けた。
言われるままに隣に立って、妖夢は少し迷ってから、結局三尺程距離を開けて座った。
それきり小町は何も言わずに黙り込み、一時は霧消していた静寂が、これ幸いと辺りを包み始めた。
小町が黙っているので、妖夢もまた何も言えずに沈黙する。
時折起こる衣擦れの音の他は何も聞こえぬ薄暮である。
全てを沈黙の内に引き込まんとする静寂を掻き消して――突如小町の声が鳴弦のように響いた。
「心ってのは――難儀なもんだよねぇ」
人も妖怪もおんなじだと言って、小町はどこか遠くを視るような眼差しをする。
なんと返していいか判らずに、妖夢はとりあえず小町に身体を向けた。
「誰も彼もおんなじだ。あたい達の心は何をするにも兎角思い込んでは決め付けて、
自分の世界を規定しちゃあそこに色んなものを放り込む。
そっから溢れたものは、どこか見えない所に転がり落ちるんだ」
解る――ような気がした。
何をどうした所で、心はとどのつまり己一人のものに過ぎない。
無意識の内に、或いは意識的に、人はあらゆる情報を己というフィルターを通して取り込む。
それを建材として、人の心は造られるのだ。
だから――心には歪みも綻びも、穴も死角も存在する。
ならば。
「……わ、私は」
私は。
その先を、妖夢は続けられなかった。
己の立ち位置は、間違っているのだろうか。
魂魄妖夢という台座から、妖夢は世界を俯瞰する。
幽々子がいて、師がいて、白玉楼がある。
妖夢の世界はそれだけで、そしてそれで十分だった。
その影にあるものにも、そこから零れ落ちた数多の事象にも、興味など無かった。
いや。
それ以外のものを――受け入れられないのだ。
外の世界と混ざってしまえば、この小さな妖夢の箱庭はいとも容易く崩れてしまうから。
存在価値が、存在理由が、薄れてしまう。
この自分が一体何なのか――解らなくなってしまう。
だから――。
「妖夢」
小町の声で、妖夢は我に返った。
彼女はこちらを覗き込んで静かに笑う。
辺りを染める朱はいつの間にか薄昏く変じていた。
「妖夢はさ、ちょいと真面目すぎるんだな」
「真面目――ですか」
そうなのだろうとは思う。
幽々子から、或いは紫から、それは何度も言われて来た事だ。
そして、その度に妖夢は考える。
真面目というのは――いけない事なのだろうか。
「いやいや、真面目が駄目って訳じゃあないよ」
まるで心を読んだようなタイミングで小町は言った。
「ただ……真面目さ、誠実さは、行き過ぎれば毒へと変わる事もある」
「毒――」
「白玉楼の庭師、魂魄妖夢。
お前さん自身の真面目さが、お前さんをそこに縛り付けている」
「そ、それは」
そうかも知れない――いや、恐らくはその通りなのだろう。
だが、それでもそれが自分なのだ。
今更変わる事など出来はしない。
「それは違うよ」
「え」
「意識も立場も、心一つで変えられる。
妖夢、お前さんはさっき、鏡を見てまるで自分が別人のようだと言ったじゃないか。
それでいいんだ。たったそれだけの事なんだよ。
今のお前さんは、今までの妖夢とは違うんだ。そうだろう?」
「あ……」
妖夢は言葉を失った。
そうだ。
その通りだ。
ぎゅっと鏡を握り締めた。
小町に心を奪われたあの日から――自分は既に、それまでの魂魄妖夢では無くなっていたではないか。
――それでも。
「……そ、それでも――他の何を忘れても、他の何が変わっても、
幽々子様を永遠にお護りする事、これだけは変わらないんです。
わ、私は、だから」
だから――何だと言うのだろう。
今更小町に忘れてくれなどと言える訳がない。
而して、この信念を曲げる事もまた有り得ない。
――結局。
結局、何も出来ないから。
妖夢は、馬鹿のように待ち望んでいるのだ。
小町が――壁を壊してくれる事を。
「初めて会った時、四季様に喰らった説教を覚えてるかい?」
僅かばかりの沈黙の後、赤髪の死神はぽつりと口を開いた。
「は――はい。勿論」
『――そう。貴方は少し、この世に来すぎている』
妖夢の脳裏に、映姫の言葉が蘇る。
貴方は半霊である事を自覚せよと、そう言われた。
このままこの世に来すぎると、いずれ妖夢を裁かねばならなくなる。
無自覚に生者と戯れるなと、冥界の者として行動せよと、そういう事だった。
「それで、お前さんはその教えを守っているかい?」
「う……そ、それは……」
妖夢は言い淀んだ。
顕界に生きる者達とは違うのだという自覚は生まれたが、
妖夢は今も変わらず里へ買い物に行けば宴会に参加もしている。
妖夢が心掛けている事と言えば、精々自他の線引きを忘れぬようにするという程度の事だった。
しどろもどろにそう言うと、小町は意外にも微笑んだ。
「……そうか。じゃあ妖夢、この前四季様に会って、お前さんは何か説教されたかい?」
「え、ええと、それは……あ、あれ?」
――されて、いない。
慌てて数日前の記憶を掘り返す。
矢張りそうだ。
告白騒動から始まる一連の激流に映姫との記憶はすっかり押し流されてしまっていたが、
矢張り妖夢は何も言われてはいない。
思い起こせば、映姫に遭った瞬間から妖夢は説教を覚悟していた。
だというのに、先日の映姫はその片鱗すら見せる事は無かった。
色々あったからだと言ってしまえばそれまでだが、
それしきの事で己の本分を忘れるような人物でもないように思う。
「あ、あの……」
説明を求めて小町を見た。
小町は軽く頷き、一呼吸置いて口を開いた。
「妖夢。四季様は『野生の狼も飼えばペット。幽霊もこの世で生活すれば生き物』だなんて仰ってたが、
野生とペットの違いを分けるものは何だと思う?
……あたいはね、そりゃ意識だと思う」
「意識――」
「いくら鎖で繋ごうと、隙あらばそれを引き千切って逃げようと暴れる獣をペットと呼ぶかい?
どんな境遇に在ろうと、己の獣性を忘れない限り狼は野生であり続けるんだ」
そいつと同じ事さ――小町は意味有り気に妖夢を見て続ける。
「四季様の言葉は一見解り易いようで捉え難いけど、要するにそれだけの事さ。
難しく考えなくたっていい」
だから妖夢はそれでいいんだ、と小町は言った。
映姫が何も言わなかったのは――必要が無かったからなのか。
半人半霊たる自覚。
妖夢は心の中で繰り返す。
意識も立場も心一つで変えられるのだと小町は言った。
その意味が――おぼろげに理解出来た気がした。
くしゃりと柔らかな音が聞こえる。
小町が髪を掻き揚げたのだろう。
知らず俯いていた妖夢は、その音に上げた顔を小町に向ける。
彼は誰時という言葉の通り、辺りを覆う薄闇はノイズのように小町の輪郭を溶かしていた。
いつの間にか、一つ、二つと屋内の燭台に火が灯り始めている。
妖夢を待つように暫く間を置いてから、小町は再度口を開いた。
「何処で何が起きただの、何処の誰がどうしただの、あれが楽しいこれが辛い、何が好きだの嫌いだの。
あたい達は――そういう無数の情報の流れの中を泳ぎ流されて生きている」
ならば。
己の己たる自覚を持つ事――それはつまり、混ざり流れる情報の群れの中に不動の杭を立てる事。
「だから、あたいはどこで団子を食おうが茶をしばこうが死神だし、
巫女は誰に喧嘩を売ろうが巫女だし、四季様は誰にだって説教する訳さ」
最後のは勘弁して欲しいけどねぇ、そう言って小町は呵々と笑った。
茶化す素振りで言う小町だが――その瞳からは真剣さが失われては居ない事を、
妖夢は漆黒の中でもはっきりと感じる事が出来た。
きっとその通りなのだろうと妖夢は独白した。
どんな時でも、小町の言葉はその端々に死神としての意識が滲んでいる。
決して褒められた勤務態度では無いが、小町は小町なりに己の仕事に誇りを持っているのだろう。
「妖夢」
思考の海に落ちかけた意識が浮上する。
はい、と応える前に。
小町は静かに言った。
「そいつはお前さんも――」
同じ事なんじゃないのかい。
「あ――……」
頭の中で、火花が弾けたようだった。
語る言葉を失って、妖夢は呆然と動きを止めた。
そんな。
そんな単純な事――だったのか。
映姫の説教は、話の契機に過ぎなかった。
小町が言いたかった事は、その先にあったのだ。
白玉楼の庭師として在る事。
小町に――外の世界に、足を踏み出す事。
それらを二者択一の、相容れぬ選択肢だと信じて疑わなかった事。
それが――己の心の瑕だったのか。
役目をこなし続ければこそ、妖夢は妖夢で在れるのか。
白玉楼に閉じ篭っている事が、魂魄妖夢で在る条件なのか。
そうではない。
我の我たるを決めるものは、常に己の心の内にあるのだと。
私は白玉楼の庭師だと、そう思う限り――魂魄妖夢は何時何処に在っても魂魄妖夢なのだ。
「――幽々子さんも、そう教えたかったんじゃないかねぇ」
「幽々子様、が……?」
どうして、と言いかけて、小町がここへ来たのは幽々子との邂逅に端を発しているのだと思い当たる。
「あの方は、ほら、中々自分の本心を見せようとしないだろ」
小町は思い出すような口調で言った。
それは全くその通りだと、妖夢は大いに首肯した。
物心ついた頃には既に幽々子に仕えていたというのに、妖夢には未だに幽々子の言動が掴みきれない。
まるで風に遊ぶ羽毛のように、幽々子はいつも幽雅に身を躱す。
冗談かと思えば大真面目に、本気かと思えばすっとぼけ――怒っているのか楽しんでいるのか、
自分の事をどう思っているのかすら解らない。
――ああ、そうか。
だから私は――こんなにも恐れていたのか。
妖夢は漸く気がついた。
幽々子に嫌われたくないから。
幽々子に見放されたくないから。
幽々子の心が解らない事への不安が――自分をここまで臆病にさせていたのか。
でもさ、と小町は言葉を続けた。
「きっと妖夢を娘みたいに思ってるんだって事だけは――良く解るからさ」
「え――……」
夢想だにしなかった言葉だった。
「妖夢を教育した事は無い」などと言って憚らない幽々子が――そんな風に思ってくれているのだろうか。
小町の言葉は、結局は外から見た印象に過ぎない。
それでも、彼女の言葉なら信じられる。
もし、ひとかけらでもそう思ってくれているのなら――それはこの上なく嬉しい事だった。
「よっと」
軽く声を上げて小町が立ち上がる。
動きを追って視線を上げれば、まるでずっと前からそこにあったように丸い月が幽玄と天地を照らしていた。
その幽かな光を身体に受けながら、小町は妖夢の前に立ち。
静かに片手を差し出した。
「いいんだよ、適当でさ」
自分が言っても説得力は無いだろうが。
そう言って少し笑うと、小町は一語一語確かめるように言葉を続けた。
「本気を出すのは――本当に大事な時だけでいいんだ」
「……大事な、時」
「そうさ。
幽々子さんはきっと言わないだろうから、あたいが代わって言うよ。
お前さんは――もっと自由に生きていいんだ」
たった二文字の言葉が、紙に落とされた墨液のように瞬く間に妖夢の心に拡がった。
自由。
自分には無縁の言葉だと、妖夢はそう思っていた。
役目を果たす事に、自由も不自由も無い。
役目とはそういうものであり、私とはそういうものであると信じていた。
それもまた――瑕だった。
妖夢にも、もはや理解出来ていた。
小町が言った事は、役目からの、立場からの逃避ではない。
それが役目と、それが立場と己を縛り付けていた、他でもない自分自身からの脱却。
それこそが。
あの方はきっとあたいにそれを言わせたかったんだろう、と小町は独り言のように呟いて苦笑した。
「全く、難儀な方だよ」
言いながらも、小町は差し伸べる手を動かさない。
月下に佇み、妖夢を優しく見つめている。
「妖夢。
踏み出すか、留まるか、決めるのはお前さんだ。
言いたい事はもう言った。
お前さんがどちらを取ろうと――あたいはそれを祝福するよ」
その言葉を最後に小町は口を閉ざした。
堰を切って満ちた無音の中、強要もせず、急かしもせず、ただ静かに妖夢の意志を待っている。
「……っ」
差し出された自由という名の掌を、妖夢はどきどきと暴れ始めた心臓を押さえて見つめた。
きっと誰であれ、己を変える事に恐さを感じない者はいないだろう。
足を踏み出す事に、躊躇を覚えぬ者はいないだろう。
それでも――私には。
妖夢はゆっくりと小町を見上げた。
息を呑むような笑顔が、妖夢の視線を出迎えた。
小町の笑顔がある限り――恐れる事など何もない。
妖夢はゆっくりと、しかし迷いなく。
小町の掌に――静かに己の指先を重ね合わせた。
「……うん」
小町は一際明るい笑顔を見せると、妖夢の掌をそっと握り返した。
はにかんだ笑みを浮かべて立ち上がる。
妖夢は語る言葉を持たなかった。きっと――小町も同じなのだろう。
結んだ手から、お互いの体温が伝わる。
それだけで十分だった。
「……さーて、それじゃあ行こうか」
「へ? ど、どこに……って、わわっ!」
おもむろに妖夢の手を引いて歩き出した小町に、妖夢は軽くつんのめりながら小走りに隣へ並んだ。
「うん? 人里だよ」
「人里……?」
「おや、知らないか。今日から三日間、祭りが始まるのさ」
「お、お祭りって――あ」
数日前の人里を思い出す。
「祭りは嫌いかい?」
問い掛ける小町に、妖夢は慌てて首を横に振った。
「あの……わ、私で――」
私でいいのでしょうか、と言いかけて止めた。
今更そんな事を言うのは、小町に対して失礼でしかないだろう。
「……一緒に、行ってくれますか?」
少し上気した顔を小町に向けると、陽気な死神はおどけた仕草で返答した。
「喜んで」
妖夢は思わず相好を崩し、急に恥ずかしくなって慌てて視線を下げた。
本当に、と妖夢は独白する。
本当に――この人を好きになって、良かった。
これが夢でも、きっと私は驚かないだろうと妖夢は思った。
自分が数日前まで夢想し、そして今の今まで諦め切っていた光景が、眼の前にある。
これが現実であるなどとは――未だに信じられなかった。
それ程までに深い失意の淵に居た自分を、小町が救ってくれた。
逃げてばかりいた己を見捨てず、諦めず、光の下へと連れ出してくれた。
そんな――彼女だからこそ。
さり気無く歩調を合わせてくれる小町に並んで歩きながら、
妖夢はそっと眼を閉じて、掌に感じるひんやりとした温かさを確かめた。
今はまだ――言える勇気が持てないけれど。
いつか必ず、この想いを伝えよう。
小町の手を繋ぐ右手を、少しだけ強く握った。
いつか言葉に出来るように、今はせめて、心の中で。
小町さん。
貴方の事が――大好きです。
* * * * *
やれやれ、と大げさに肩をすくめて、四季映姫・ヤマザナドゥは座卓の向こう側に視線を遣った。
「いいのですか。
貴方の可愛い庭師がとうとうあの怠惰の化身に篭絡されてしまいましたが」
「あらあら、自分の部下に随分と酷い言い様です事」
彼女の視線と言葉を受けて、西行寺幽々子は口元を隠して笑った。
「あの子にはもう少し不真面目になって貰わないと困りますもの」
「……ならば貴方が教育してあげれば良いでしょうに」
呆れた口調で言う映姫に、幽々子は「これが私の教育ですわ」と嘯いた。
映姫は溜息を一つついて、視線を座卓の上の手鏡に戻す。
そこには連れ立って月夜を歩く二つの影法師が映っていた。
対象の過去の行いを映し出す、浄玻璃の鏡。
二人はそれを使って、小町と妖夢の数秒前の過去を離れに居ながら見物していた。
「――まあいいでしょう。今日は説教をする気分でも無いですし。
あの怠け者も、今回ばかりは働いたようですしね」
「もう少し素直に評価してあげても良いと思うのですけれど」
「それは貴方も同じ事でしょう」
というか、と言葉を継いで映姫は再び幽々子を見た。
「今日は何やら随分と優しいですね。不気味なくらい。
貴方が他人を庇う所など初めて見ましたよ」
「だって、ねぇ」
幽々子は逆に浄玻璃の鏡に眼を向ける。
「こんな所でこそこそ覗き見してる上司と比較してしまえば、流石の私も評価せざるを得ませんわ」
「そそのかしたのは貴方でしょうが」
柳眉をピクリと動かすと、映姫はそう言って一口緑茶を啜った。
「――貴方は」
軽く居住まいを正してから、映姫はおもむろに口を開いた。
「何だかんだで、ちゃんとあの娘の事を考えているのね」
「私が考えているのは次の食事の事だけですわ」
映姫は幽々子の軽口を無視して言葉を継ぐ。
「……私が今日ここに来たのは、彼女が気がかりだった事も勿論ありますが――
一番の目的は西行寺幽々子、貴方でした」
「……」
「私が何を言おうとしているか、貴方ならば言わずとも理解しているでしょう。
そう、貴方は少し本心を隠しすぎる。
貴方の魂魄妖夢に対する言動は、心が篭っているようにも、まるで無関心なようにも見える。
教育などしていないと公言したかと思えば、わざわざ三途の川まで足を運ぶ。
貴方の真意が何処にあるのか――それが知りたかった」
そこで言葉を切ると、映姫は湯呑みに残った茶を飲み干した。
「……ですが、どうやら杞憂だったようですね。
貴方に愛情が無かったならば、あの娘がここまで貴方を慕う事もまた無かったはず。
全く、考えるまでも無い事でした」
はあ、と溜息を吐いて、幽々子はだらりと肩の力を抜いた。
「……相変わらず、お節介のお好きな方ですわ」
「当然でしょう。そうでなければ閻魔などやっていません」
威張るように答える映姫に、幽々子は諸手を上げて降参の意を示した。
「それにしても――」
思い出したように映姫が口を開いた横で、幽々子が漆に塗られた杯に酒を注いでゆく。
「ああ、ありがとうございます。それにしても、私達は何をしているのやらね」
これではまるでただの過保護な母親だと、映姫は杯の水面に苦笑いを浮かべた。
「まあ――小町の数少ない長所を思い出す機会にはなりましたが」
「素直に安心したと言えばよろしいですのに」
「……これは閻魔としての仕事です。安心など」
「まあ、そういう事にしておきましょうか」
幽々子の言葉に映姫はムッと眉根を寄せた。
口を開きかけた彼女の機先を制するように幽々子は素早く、しかしあくまで優雅に己の杯を持ち上げ、
その姿勢のまま、一瞬動きを止めた映姫の吐いた息に被せて言葉を投げかけた。
「そんな事より、折角のお酒がぬるくなってしまいますわ。
さ、乾杯しましょう」
「……何に対して?」
気勢を削がれたらしく、映姫は一つ嘆息して問い掛けた。
幽々子はわざとらしく考え込む素振りを見せてから口を開く。
「閻魔様の職権濫用記念に――……というのは勿論冗談ですわ」
映姫の身体から殺気が発されるや否や、即座に言葉を翻した。
映姫は先程よりも更に大きく溜息を吐いたが、何を言っても無駄だと悟ったか無言で杯を手に取った。
「……まあ、いいでしょう。それでは――」
幽々子のそれと同じ位置まで杯を持ち上げ、それから言葉を考えるように視線を彷徨わせた。
その眼が――浄玻璃の鏡に止まる。
数瞬鏡を見つめて、映姫は僅かに微笑んだ。
「……それでは」
仕切り直すように再び口にして、杯を一段持ち上げた。
「貴方の庭の、一途な花に――乾杯」
* * * * *
白玉楼が誇る枯山水を美しく切り取る離れの丸窓。
そこからさながら一枚の絵画のように淡く射し込む月の光が、浄玻璃の鏡に反射して輝いた。
鏡の中に映るのは、赤髪の女性と手を繋いで歩く銀髪の少女。
満天を振り仰いで、少女は何らの屈託も見せず笑う。
――花のような笑顔だった。
了
多少長くてもスラスラ読めました。
この二人の続きが短編であっても面白いかもしれませんね~。
最初、「肉弾戦に秀でた」「紅い髪」「手合わせ」で、めーりんかと思ったのは此処だけの話w
どのキャラもよく立っていて良かったです。
次回作も期待。
妖夢と小町の組み合わせも珍しいし、小町の相手が映姫さま以外というのも意外でした。
これもいい組み合わせでした。
こまようとは珍しいと思ったんですが、これはいけるぜ
生真面目な妖夢とどこか達観している小町は良く合うと思うんだ。
美鈴かと。
これだけの文章量になると得てして描写先や内容にぶれが生じるものですが、それを感じる事もなく。
初投稿にしてこの量と質。感服です。
テーマを絞って余計な部分をそぎ落とした方がいいです
小町×妖夢部分はおもしろい
マジでもっとやってくれ
こういう風に複数の題材をきちんと消化できる文章が書けるのはうらやましいです。
妖夢の恋が自覚するに留まっているのは、続きに期待してもよろしいのですよね?
途中からずっと二人の応援モードに入ってました。ハッピーエンドになって良かった。
展開は読めますがこの作品ではそれが全くマイナスになりませんね。
むしろ「そう、そっちに行って欲しいんだよ!」という方向にどんどん進んで行ってくれて嬉しい限りというか。
だけどこれだけは言わせて貰いますよ。
続きを読んでみたい!
こんな我侭言っちゃ……ダメですか?
これは惚れる!!