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作品集14→16→17→20→30→41→52
と辿っていくと通しで読めるようです。
「誰だ」
敷居を跨いだ所で再度、慧音が問う。
客間を流用した寝室だがそれでもそこそこの広さがある。敷居を跨いだ程度で慧音の目に見えるものが大きく変わるわけではないし、ましてや彼女は夜目が利く類の存在ではない。だから慧音は薄闇の向こうに小声で問うた。静かに、短く、しかし内に力を秘めて。相手に敵性がある事を前提とした物の言い方だ。
「何者だ、どこから入った」
「……」
「物盗りか、それとも物の怪か」
「……」
「ここを白沢の庵と知っての事か」
「……」
「……私の声が聞こえるか、私の言葉が理解できるか」
「……」
「……むぅ」
糠に釘――そんな言葉が慧音の脳裏をよぎる。
あるいは本当に幻覚の類なのかも知れない…何を言っても何の返事も来ないものだからそんな憶測さえ浮かんでくるが、だからといって我が家にいながら妹紅を残して退くわけにもいかない。仕方なく、本当に仕方なく、相手の沈黙の意図さえ分からぬまま慧音は自らの想いの断片を分かりやすい形で具現する。
「荒事はあまり好きではないんだが、もはや是非もない」
「……」
「痛い目を見たくなければ今すぐ消えろ、見逃してやる」
「……」
「これでも退かないのなら……!」
闇の中で慧音の右手が淡く輝き始めた。
勿論ただの威嚇である。この状況で無闇に暴れ回るわけにはいかないのだが、もし逆に相手の方から手を出してきたらその時はその時だ。妹紅を護りつつ巧く立ち回り追い払う他ない。我が身と我が家の事を案じている余裕などはないだろう。
一方、そこにいるはずの影は未だ布団の傍らで佇んでいる。気配の変化は感じられず、目に見えて分かる程度の身じろぎもしない。その静けさが慧音にとってはかえって不気味だったが、何にせよそこにいる妹紅を護るのが第一である事に変わりはなく、このまま互いに部屋の双極を陣取り姿の見えない睨めっこを続けるつもりも余裕も慧音にはない。
息苦しささえ感じるその均衡を破るべく、警戒を維持しつつ慧音は物音を立てず少しずつにじり寄って行った。
「何を……」
「――ッ!?」
「何を……言ってんのさ……」
足半分ほど擦り寄ったかどうかという所である。まるで慧音の接近に合わせたかのように、闇の向こうから呟きが聞こえてきた。消え入りそうなほどか細い声での短い短い一言は紛れもなく少女のもの、そして幻覚という仮説が一蹴された事を知り慧音は安堵と驚きを同時に覚え(奇妙な話ではあるが)、張りつめていた緊張の糸と敵愾心が若干ほぐれる。
「わ、私の言葉が理解できるんだな? ……ならば今すぐ……」
「ここは私に許された大切な場所……私なんかがいてもいい場所……私の人生の一部と言ってもいい……あんたがそれを認めてくれた。でも、ついに私を追い出す時が来たって事?」
「……え?」
「ここを追い出されたら……ははっ、その時は里にでも降りたらいいのかな」
「…………」
「どうせ里の人たちと同じ時を歩む事はできないけどさ……でも、慧音が決めた事なら、ね」
そんな筈はない。
何者だ。
やはり夢なのか。
本当に現実なのか。
分からない。
慧音の中に疑念が渦巻く。
声の主は自分の事を知っているような口ぶりで、しかもその声はどうにも聞き覚えがあって仕方がなかったのだ。かといって『精妙な声真似すら出来る物の怪の類』などという陳腐な考えは最早浮かばず、しかし疑念を解消してくれる妥当な仮説も見つからず、助け舟を出してくれるような誰かも現れず。
考えのまとまらない頭で慧音はただただ呆然と立ち尽くしていた。
「……あんたは私の返事次第じゃ実力行使も考えてるみたいだけど」
「え……あっ」
慌てて手を引っ込める。
「無理だよ。あんたじゃ私を殺せない……あ、いや、実力的には殺せるとは思うけどさ」
「……!」
「優しいあんたの事だ、逆立ちしてもそんな事しようとは絶対思わないだろうね」
風通しの為に開けておいた窓から風が入り、闇の中で髪が靡く。
その髪の靡き方、靡いた髪の向こう側に微かに見える顔の輪郭、そして聞き覚えのある声、どこか斜に構えた喋り方。それらを見て全てが慧音の中で結実し、疑念はその渦の中から楽観的予測にも似た極々わずかな希望を生むが、しかしそれを素直に認める事ができずにいた。目の前の人物は、最早現世に存在し得ない筈なのだ。少なくとも慧音はそう考えているし、そうでなければならないとまで強く思っている……心のどこかでは否定したいのだが。
(まさか、そんな筈……『彼女』は……!)
「……それに、私を本当に殺そうと思ったとしても」
慧音の掌に載る弾は、いつの間にか玉となり灯りとなっていた。
それは声の主の正体を確める為、自らの迷いに決着をつける為。青白い光は月明かりの代わりとなって寝室を眩しくない程度にくまなく照らし、やがて慧音の掌を離れゆっくりと天井に向けて上昇していく。
「今まで数え切れないほど死んできた私だよ? 今更そう簡単には……ねぇ」
「まさか……まさか……」
「でも今度こそ『完全に』死ねると思ってたのに……結局駄目だった」
「あり得ない……そんな事、絶対に、絶対に!」
「なんでかな……ふふっ、もしかしたら彼岸が満員で入れてくれないのかもね」
噛み合わない会話。
あり得ない筈の現実と、それを甘受したい本心。
相反する二つの想いは膨れ上がり、相手の姿が徐々に明らかになるにつれて尚現実が信じられなくなり、慧音の顔は引きつり呼吸も速く浅くなっていく。その感情は、もはや驚きというよりある種の恐怖に近い。放心状態のケすらあり、悪霊でも見ているような感じであろう。
「まあいいや……ただいま、慧音」
だが、目の前の影の一言で慧音の揺らぐ心は急激に現実に引き戻された。
* * * * *
脚を越えて足まで届きそうなほど長い白髪。
髪に何本も結えられた紅白のリボン。
慧音が着換えさせた真っ白な寝間着。
灯りのある今なら全てはっきり見える。
そして慧音に嫌でも知覚させてくれる。
目の前にいるのは慧音もよく知る相手、藤原妹紅の姿をしているのだと。
「…………」
「? ……どうしたの慧音?」
「……そんな筈が」
「あー……大丈夫よ。ちゃんと脚は生えてるし、それに」
落ち着いた調子で話しながら髪の一房を慧音に見せる。そこには紅白のリボンが一本二本……三本目がない。
これは長年妹紅と共に過ごしてきた慧音でなくても一目で違和感を覚えるだろう。房の先を纏めるはずのリボンが一本欠けており、毛先が乱暴に乱れているばかりかリボンが一本ないというだけで妹紅の姿は左右非対称に見えて不自然さを感じさせるのだ。彼女の姿を見慣れている慧音にとっては居心地の悪さにさえ置き換えられてしまう。
「ほら、ここのリボンをあんたに預けたじゃない……憶えてるでしょ?」
「あ、ああ、あぁ……」
「もしかして慧音、寝ぼけてたりする? ……まあこんな時間だから仕方ないけど」
「い、いや……そうじゃなくて」
お前は本当に妹紅殿なのか。
狐か狸が化けているという事はないのか。
妹紅が目の前に佇んでいる事が慧音には信じられないのに、動転して簡単な質問がなかなか切り出せない。やっている事と言えば、ただ立ち尽くして妹紅の様子を怪しまれない程度に注意深く観察したり、彼女の声を耳に留め自らの記憶と照らし合わせる程度。目の前の『妹紅』の正体を探るには程遠い。
そして戸惑っている間に妹紅の顔には慧音への疑問の色が浮かび、逆に妹紅の方から心配そうに慧音の顔を覗きこんでくる始末。一抹の気まずさを覚えて俯き視線を逸らすと、妹紅の顔にはますます疑問の色が濃くなってくる。疑問は不安に変わりつつあり、こうなってしまうとお互いさらに気まずくなってしまう。
「さっきからどうしたの、慧音……歯切れが悪いよ?」
「そ、それは――」
「……幽霊なんかじゃないよ、私。あんたが知ってる妹紅だよ」
「……それをどう説明できる」
「分からない……うまい事言えないけど……でも信じて」
「そうは言っても、だ……!」
知らぬ間に握りしめていた拳が痛い。
虫の鳴き声、己の呼吸、妹紅の息遣いさえ感じ取れてしまう。
一分経ったのか、それとも一刻なのか、時間の流れが掴めない。
夢か、現か、幻か。
もう何が何だか分からない。
自分一人、妹紅と二人ではもうどうにもならない。
何も成す術はなく、慧音の中で交錯する想いは混ざって弾け――
「来てくれ」
「え? どこへ?」
「いいから。今すぐ」
「わ……ちょ、ちょっと!?」
気がつけば慧音は白魚のような手を引っ張って寝室を飛び出していた。そして靴もそこそこに突っかけ、庵から夜空へ駆け上がる。妹紅の体は空中で抱き寄せ、両の腕で受け止めてほんの少し欠け落ちた満月の下へ躍り出る……今まで何度も抱き上げてきた妹紅の体の軽さが腕から感じられて心地よい。
先ほどから妹紅が文句だか質問だかを矢継ぎ早に浴びせているようだが、その殆どは慧音の耳には届いていなかった。
「け、慧音ってば! 一体どうしたってのよ!」
「決着をつける」
「……え?」
「決着を――つけに」
助け舟を出してくれそうな心当たりが慧音には一つだけあった。そこで満足な回答が得られなければもうどうにも……否、慧音はそんな事は微塵も考えていない。今や彼女の中には己が抱く謎に対する答えを得る事しか存在せず、その為に我武者羅に夜を駆けているのだ。ネガティブな事などは何一つ考えてはいけない。
だから、今自分が抱いている妹紅の姿の真偽も、今や瑣末な事に思えていた。
全ての答えは目指す先で見つければいい、それだけだ。
「……見えてきた」
「え、ここ……!?」
「そう。ここで――全ての決着をつけてやる」
輝夜と妹紅の死闘が繰り広げられたにもかかわらず『いつものように』ほぼ完全な姿で修復されており、海原のように広がり凪立つ竹林。その先に、突如巨大な黒い塊――夜の闇に慣れつつあった妹紅の目に映る姿としては大きな屋敷が姿を見せた。人里から逃れるようにひっそりと佇むこの屋敷だが、まるで月だけは独り占めしたいと言わんばかりに竹林の中で自らの存在を主張しているかのように竹林の中で異様な存在感を放っている。
永遠亭――
慧音が求める答えは、まさにここにある筈であった。
* * * * *
永遠亭の庭に、まるで矢のように飛んできた慧音をまず出迎えたのは永遠亭の兎たちであった……とはいってもどの顔を見ても敵意や警戒、驚きすらなく、柔和な笑みを浮かべて自分たちの仕事をこなしている。慧音は事前に連絡も入れず、しかも妹紅を抱えて一発の巨大な弾丸となって飛んで来たのに、だ。
案内されるがままに客間に通されると既に二人前の座布団とお茶の用意がなされており、慧音たちと相対する位置に永琳が佇んでいた。相変わらず底の知れない笑顔を浮かべており、二人が客間に入るのを見計らってアイコンタクトで案内の兎を下げる。
「いらっしゃい。まずはあなたの悩みを言い当ててみせましょうか?」
そして開口一番にこれだ。用件も聞かずに本題を答えようとする。
天才とナントカは紙一重とは言うが、相容れぬ陣営に分かれながらも永琳と千年来の付き合いのある慧音でさえ未だに永琳の腹の底を見抜いた事は一度もなかった。
「そちらの様子だとお待ちかね……だったようだな」
「ええ。予想よりだいぶ早かったですけど」
「私たちが来る時刻まで予測しようとしていたのか……」
「いえいえ、私が予測していたのはそちらの……」
目を細めて妹紅を見やる。
いきなり話を振られた妹紅は永琳と目を鉢合せ、しかし心当たりなさげに視線を泳がせる。
「あなたが目覚める刻よ。あと数日は目覚めないかと……いやまあその方が色々楽しかった筈なんだけど」
「な……妹紅殿の目覚めも予測していたというのか」
「ああ、そういえばあなたとの話が先だったわねえ」
引き絞った視線と得体の知れない微笑みを今度は慧音に向け、思わず慧音の顔が強張る。
慧音にとっては、否、永琳と対峙した誰もが同じ事を思うだろうが、彼女のこの微笑みが恐ろしくて恐ろしくて仕方ないのだ。ともすれば真実を全て隠したまま話を進めてくるかも知れないし、微笑みのまま全力で殺しに来るかも知れない。とにかく永琳がこの微笑みを浮かべた時は、慧音はこれから起こりうる悪い事のみを想定し心の中で身構えるようにしていた。
「先日の風邪が契機となって、あなたはその子の不死が失われたのではないかと感じた。そんな折、ウチの姫と殺し合い、その果てに『本当に死んでしまった』ように見えた。だのにその子は目覚め、死ねなかっただとか自分は生きているだとか言っている……こんな所かしら」
恐ろしく正確な予想であった。予想と言うよりは何らかの未来視をした上での断言に近く、その発言のあまりの隙のなさに慧音はぐうの音も出ない。
その沈黙を全面的な肯定と捉え、永琳はさらに言葉を続ける。
「あなたなら風邪を引いた事くらい何度もあるでしょう? 人間が病に臥せているのを見た事があるでしょう?そしてその時にはたいてい薬を飲んで治そうとするでしょう? ……今回のもそれと同じ」
「?」
「例えば同じ症状の時、同じ薬を同じように飲んだとしても効き目にムラがあった事はない? それはその時々による体調に微妙なバラつきによって薬の効能にさえ微妙な差異が生じるから。そして蓬莱の薬……これによって老いも死も捨て去る事が出来るけど、常に絶好調でいられるわけではない……お分かり?」
「…………」
言われてしばし、考える。
永琳の言葉から単語の一つ一つを抽出し、これまで見知った物を踏まえ、点と点を線で結ぶ。
「……あっ」
そして思わず感嘆の声が漏れた……
が、それだけではない。顔はみるみるうちに赤く染まり、目は皿のように丸く見開かれる。
なぜそんな簡単な事に気付かなかったのか、そもそもそんな簡単な事でよかったのか、と。
そんな慧音の姿を待っていたかのように永琳の目はさらに細く絞られ、こらえきれない思いは言葉となって口をつく。
「簡単な事だったでしょう? ……とはいっても、蓬莱の薬の効果が完全に失われたと思わせるほどの変調は私も初めてお目にかかるわ」
「くッ……だ、騙していたのか……!?」
「騙してなんかいないわ。あなたが勝手に踊り回り、勝手に振り回されていただけ……ともあれ、その子は正真正銘の藤原妹紅。ちゃんと脚は生えてるし変な耳や尻尾はないでしょう?」
「ッ……た、確かに」
恥ずかしさと永琳への呆れに似た感情と芽生えつつあった確かな喜びを押し留め、改めて妹紅の顔をまじまじと見つめる。ここまでずっと無言を貫いてきた妹紅は慧音と目が合うや『だから言ったのに』とでも言わんばかりに頬を膨らませてささやかな反抗を試みるが、それも数瞬と続かずすぐに微笑みを返してやった。つられて慧音の強張った顔もいくらか和らぎ、ふぅと胸を撫で下ろす。
「まあ、蓬莱の薬の効果が本当に失われるなんて事はないでしょうから安心なさいな」
「安心していいものなのかな、それは」
「無理にでも安心してもらわないと。そうでないと困る方がいるのよ、ほら」
永琳が横に視線を促すと横の襖が開き、しずしずと輝夜が入って来た。彼女もまた妹紅と同じように、殺し合いをしていた筈なのにその身には傷一つ見えず、きっと秘かな誇りにしているのであろう黒髪も艶やかなものである。だが慧音にも妹紅にも驚きはない。輝夜はこの手の話をしている時ならば現れて当然、むしろ最初からこの場にいて然るべき人物なのだ。
「お久しぶりね妹紅。ふふっ、ちゃんと生きてるじゃない」
そして畏まって座しもせず、傲慢に妹紅に歩み寄りその顎をしゃくり上げる。妹紅はその手を咄嗟に弾き視線を逸らす。輝夜の行動に慧音が驚く間もなく、妹紅の行動を永琳は止めるまでもなく。主賓に対してさえこんな態度を取るあたり、この輝夜もまた正真正銘なのである。
「別に。生きたくてこんな長生きしてるわけじゃない」
「つれないわねえ。あんなに楽しい夜を分かち合った仲だというのに」
「楽しい? ……何考えてたんだか知らないけど、振り回されてた方の身にもなってみろって話よ」
「でも楽しかったんでしょう? あの時のあなたの顔……自分じゃ分からないでしょうけどとても生き生きとしていたわ」
「……アンタを完全に殺せるってほんのちょっぴりでも信じていられれば……それで嬉しくない筈がないのよ」
射るような鋭い視線が輝夜に刺さり、次いで一瞬の間も置かず小さな手が輝夜の胸倉を掴む。
またしても慧音が驚く間もなく、永琳は止めるまでもなく。しかし輝夜は妹紅の暴挙を甘んじて受け、永琳と同じ底の知れない微笑みで切り返す。
「あら、昨晩の続きでも?」
「こんな所じゃやらないわよ、慧音がいる……けど!」
掴んだ胸倉を一気に引き寄せ、勢い余り鼻の頭で軽いキス。
それでもお互い一歩も退かず、鋭い殺意と柔和な狂気が絡み合う。
もはや慧音にどうにかできる空気ではなく、せめて最悪の事態に至らぬよう内心祈りながら慌て竦み、逆に永琳は呑気にお茶を啜っていたりする。輝夜が現れてからこの状況に至るまでに慧音から永琳へのアイコンタクトが数度あったのだが、永琳はその尽くを無視。今この時も困り果てた視線を永琳に向けてはみたのだが、『やはり』というか『予想通り』というか永琳は完全無視。子供の喧嘩は放っておきなさいとでも言いたげで、永琳の助力が得られないのならと慧音もそれ以上は諦めてしまう。
「アンタは殺す。いつかきっと殺す。例えその日が不可説の彼方にあったとしても、その望みが涅槃寂静の深みにあるとしても……きっと……!」
「じゃあ手っ取り早く、今この場でやってみる?」
「ッ……今はやらないって言ってるでしょ! 帰る!」
輝夜を突き放してさっさと背を向ける。二、三歩たたらを踏んだ輝夜だったがそれ以上体勢を崩す事はなく、襟元を正し妹紅の背中に尚も微笑みを浴びせ続ける。その、ある意味気味の悪い視線を背中で感じたのか、客間の敷居を跨いだ所で立ち止まった。
「輝夜」
「なぁに?」
「……いずれ、また」
「ええ、また満月の夜にでも」
背中越しに掛け合う短い言葉。最早これだけで十分だった。
逢引の合図にしか聞こえない短い会話が彼女たちにとっては千年繰り返されてきた宣戦布告となり、実際彼女たちは時が来れば導かれたように広大な竹林のいずこかで出逢い、殺し合い、仮初の死を与え合うのである。もはや竹林の名物と言ってもいい。互いに憎み合っている割には何故か二人とも日時を律儀に守るものなのだが、ともあれ再会の約束は交わされた。それ以上は何も言わず、妹紅は静かに部屋を後にした。
「あ、ちょ、妹紅殿……!」
妹紅より数歩遅れて慧音も動く。
長い事正座を続けて痺れる脚に喝を入れ、妹と同じく敷居を跨いだ所で立ち止まり、永遠亭の主従に向き直る。
「その……せ、世話になった」
「こちらこそ。それより早く追いかけてあげなさい、女の子一人で夜道を歩かせるのは危ないわ」
「ん」
軽い会釈を返し、急ぎ妹紅を追う。珍しく永遠亭の主従に謝意を表したい気持ちに駆られたが、永琳が言うように今は妹紅を追う事の方が重要だし慧音自身もそうするべきだと十分に自覚している。ましてや今の妹紅は慧音に無理矢理永遠亭に連れて来られたので当然今は何も履いていない。今の慧音に求められるのは一秒でも早く妹紅に追い付き彼女の体を抱き上げる事に他ならない。
終始心配そうな顔をしていて、帰る間際まで妹紅を気遣う顔を見せていた慧音を永琳は今までとは微妙に違う優しげな笑みを浮かべて見送っていた。
* * * * *
「だーかーらー言ったでしょ? 私を信じて、って」
「いやもう本当にごめん私が悪かった」
「ま、誤解は解けたみたいだしもういいけど」
「しかし、無事……でもなかったけど還ってきてくれて本当に良かった」
「本当、良かったよ……これでまた輝夜を殺しに行ける」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないんだけどな?」
「いやまあ」
永遠亭を飛び出して間もない所、竹林を切り拓いた道中に妹紅は佇んでいた。
裸足を汚さないようにほんの少しだけ宙に浮き、それで慧音と肩を並べる程度になっている。息つきながら頭を下げっぱなしの慧音を一瞬ジト目で睨みはしたが、すぐに穏やかな顔に戻る。
「……とはいえ私の方こそごめんね慧音、心配かけちゃって」
「ああもう心配したさ、気が気じゃあなかったよ」
「本当にごめん……これからは今回みたいな無茶はしない。ほどほどにアイツと殺し合って、ほどほどに死んで、それでいつか突破口が見えればいいかな……あ、私がどこかで死んでたらその時はよろしくね慧音」
「はいはい。だけどその時はこの竹林の中で頼むよ」
「うん、任せといて」
「そうやって自信を持って言われてもなんだかなあ」
言葉を交わしながら二人は永遠亭から背を向け、ゆっくりと帰路を辿り始めた。
妹紅にとっては輝夜との殺し合いが何にも増して優先される。それを誰よりもよく知っている慧音だから、普通の者なら絶句してしまいそうな妹紅の言葉も落ち着いて受け止められる。どこまで反省をしているのかよく分からない妹紅ではあるが、真摯な謝罪の言葉を聞けただけでも慧音にとっては十分だった。ならば、最早この件をこれ以上追及する手はない。
「あ、そういえば一つ忘れていた……妹紅殿、目を瞑って」
「んー?」
「痛い事はしないよ、すぐ終わる」
言われるがままに目を瞑る。
髪が妙にくすぐったい。慧音の手が触れている?
慧音の優しくて温かい匂いが風に乗って来る。ああ、ずっとこの匂いを嗅いでいたい。
でも、鼻を鳴らしている私の事を変だと思っていたりするのかな?きっとそうかも。
何をしているのかも気になるけど、今目を開けたら慧音怒るんだろうなあ……
「よし。もう目を開けてもいいよ」
「すん、すん、すん」
「……何やってるんだ妹紅殿?」
「うぇ!? あ、い、いやぁ、ちょ~っと鼻がむずむずしてたから……ん、あれ?」
自分の世界から呼び戻され、慌てて目を開ける妹紅にささやかな違和感が訪れた。
それは髪を通じて感じるとてもとても小さな重量感。普段はまず気付く事のないであろう変化だが、今の彼女にはそれがよく分かる。そしてその違和感の正体が何であるか、慧音が何をしていたのかもすぐに気づいた。
妹紅の髪の一房に、紅白のリボンが結ばれていたのである。
「妹紅殿、殺し合いに出向く前に言っていただろう? 帰ってきたらリボンを返してもらうと」
「あー、そういえばそんな事言ってたっけ……ていうかあの時聞こえてたんだね」
「形見としていつまでも大事に持っておくつもりなど私にはなかったんだ……確かに返したぞ」
「……うん、確かに私のだ」
装飾品として使うにはいささか癖のある紋様つきのデザイン、そして使用済みである事を端的に物語っている皺の入った布地。
結びつけられたリボンを目にした瞬間、妹紅はそれが自分の物である事を確信した。己の役目を再び果たし始めたリボンに柔らかな視線を落とし、忘れられない一夜に想いを馳せる。
「妹紅殿」
「ん?」
「……お帰り」
「ぁ……うん、ただいま」
「……!」
「……け、慧音?」
唐突に、本当に唐突に。慧音の両腕が妹紅の体を抱き包んだ。
二人はまだ永遠亭からそれほど遠くない所にいる。夜中とはいえそこの住人か兎に見つかってもおかしくはないし、天狗にでも見つかれば面白おかしく書き立てられてしまうかも知れないのだが、だからといって慧音を無情に突き放すような事は妹紅にはできなかった。戸惑う妹紅を抱き寄せ、また自分から体を押し付けるように慧音は強く抱きしめる。しかし妹紅が痛みや苦しさを覚えるほどではなく、むしろ妹紅には慧音の気持ちが、強く抱きしめる意味がよく分かる。自分が蒔いた種なのだから当然の事だ。
肩越しに慧音の顔を窺い知る事はできないが、竹の葉擦れの中に微かに交じる細かな吐息が彼女の心情を代弁しているようにさえ感じられた。
「しばらく……このままでいさせて」
「……うん」
彼女たちの間にも必要以上の言葉は要らない。
お返しとばかりに妹紅も慧音の背に腕を回す。
肩と肩の向こう側で、慧音は泣いているようだった―――
* * * * *
「初めてあの子と出会ってから千年余、殺し合いの数は星の数、か……久しぶりにムキになっちゃったかもだけど、たまにはああいう楽しい事もあっていいでしょう」
「しかし竹林の復元が大変でしたよ。ハクタクに夜を食べてもらった方が楽だったかも」
「まあまあ。でもこれで妹紅は当分無茶してこないでしょうし」
「すると思いますけど……あの鉄砲玉の事だし」
「ま、その時はまたよろしく」
「焼き払うのは竹だけにして下さいね」
「運と風の向きに祈って頂戴」
縁側で涼風に当たりながら、輝夜と永琳が酒を酌み交わしている。永琳は酌に徹するつもりでいたのだが、記念すべき夜だからと輝夜が永琳にも杯を持たせたのだ。誰にとっての何の記念なのかは永琳の頭脳をもってしてもついに分からなかったが、少なくとも輝夜の機嫌は頗るいい。ならば誘いに素直に乗っておくのが正道というものだ。
輝夜と並んで腰を下ろし、なんと輝夜が酒を注いでくれた。永く輝夜に仕えてきた永琳にとっても初めての事であり、勿体なさげにちびちび酒を啜る。
「ところで、二人はまだその辺に?」
「みたいですよ。何か語らっているんでしょう」
「今邪魔に入ったらさぞかし驚くでしょうね」
「きっとハクタクが黙っていませんよ。アレもアレで結構な鉄砲玉ですから」
「ふふっ、打てば堕ちる鉄砲玉など……ッ」
ざわり。
昏い昏い狂いの紅。輝夜の瞳に狂気が宿り、まるであの夜の再現だ。
杯を持つ手には筋が走り、酒を一気に飲み干した口は三日月に引き絞られ、真っ赤な視線が虚空を彷徨う。
「……なーんてね」
しかし狂気の笑みが一転、一瞬にして力の抜けた微笑に戻った。
紅い瞳も物の怪のような口もすっかりどこかへ行ってしまい、普段の美しい少女の姿となる。
「次に妹紅と逢うのは満月の夜と決めているわ。約束は守らないとね」
「アポ無しだとあの子も戸惑いますしね」
「……あ、あれ? 永琳驚いてない? 驚かすつもりだった……んだけど」
「いやまあ、あの程度では流石に」
輝夜が狂気を演じている間中、永琳はまるで動じる事無く酒を啜っていた。
涼やかな視線すら向け、まるで何かの芝居でも見ているかのように、だ。
そんな彼女を見て、逆に輝夜の方が顔を赤らめ慌てて畏まる。輝夜らしからぬ滑稽な姿だ。
「それに、姫はあの子との約束を違えた事は一度もありませんよ。少なくとも私の知る限りでは」
「ま、まあねえ」
「次の満月までの間、お楽しみは寝かせて待つのがよろしいかと」
「そうね……ふぅ、そろそろ寝るわ」
酒が入っている割にはしっかりした足取りでゆっくり歩を進める輝夜。
月はすっかり竹藪の中に潜ってしまい、一瞬息を止めて周囲を窺っても話し声の一つも聞こえてこない。夜にこそ華咲くイナバたちも流石に睡魔には勝てなかったのであろう。かくいう輝夜自身も睡魔と闘っている真っ最中なのだが、意識のあるうちに寝室を目指す。
「……永琳」
数歩も歩かぬうち、思い出したように輝夜が立ち止まった。
お誂え向きに竹林を抜ける涼風は止み、呟き程度の声でもよく聞こえる。
「蓬莱の薬の効用は……永遠に続くのよね」
「恐らく」
「それは私にも、妹紅にも、平等に」
「はい」
「それは不可説不可説転の彼方までも」
「……はい」
「そう……ならばこそ」
再び、輝夜の口が歪につり上がる。演技などではない、心の底から湧き上がる狂気と凶喜。
永琳がどのような顔で自分を見つめていようが全く気にはならず、凶喜は歪んだ衝動と期待に置き換わり輝夜の華奢な肩を揺らす。さぞかし美しくも恐ろしい顔で笑っているのだろうと永琳は想像しかけたが、その貌があまりにも容易く想像できてしまうので彼女は呆気なく考えるのをやめた。
「輪廻の輪から外れた者同士、どれほど離れていようとも必ず惹かれ合うという事、私とあの子の間には驚くほど生と死が満ち充ち溢れているという事、そしていつかこの世の一切合切が真っ平らになっても私たちはいつまでもどこまでも歩き続けられるという事……うふふふふ、何もかもが素敵じゃない。ああもう一分一秒さえも待ち遠しいわ」
永遠とは百年だとか千年だとか、自分が死ぬまでの年月ではない。文字どおり永く遠くまで続く年月の事を指す。
そして輝夜と妹紅は永遠永劫生きる力を授かった、授かってしまった。彼女たちはきっと、独りでは生きていけなかったであろう。それぞれに伴侶が付いていても、互いが顔を合わせ殺し合わない事には肉体が滅ばずとも精神が朽ち果ててしまうのであろう。
彼女たちは、生きながら死ぬ道よりも死にながら生きる道を選んだ。そしてそれが半永久的に続くというお墨付きを月の天才から頂いた。これで輝夜が喜ばずにいられようか。同じ話をすれば、きっと妹紅も輝夜と同じく目を爛々と輝かせて喜ぶであろう。月に一度の逢瀬の度に、二人は身も心も焦がし尽くすのであろう。想像するだけで身体の震えが止まらない。愛憎とはよく言ったものである。全く相反する二つの感情は今や溶け合い、生きる力となって背中を力強く押してくれているのだ。
次の満月の夜に出逢う約束を心の糧とし、輝夜は今一歩を踏み出し――
「っくちゅん!」
「あら」
(還)
作品集14→16→17→20→30→41→52
と辿っていくと通しで読めるようです。
「誰だ」
敷居を跨いだ所で再度、慧音が問う。
客間を流用した寝室だがそれでもそこそこの広さがある。敷居を跨いだ程度で慧音の目に見えるものが大きく変わるわけではないし、ましてや彼女は夜目が利く類の存在ではない。だから慧音は薄闇の向こうに小声で問うた。静かに、短く、しかし内に力を秘めて。相手に敵性がある事を前提とした物の言い方だ。
「何者だ、どこから入った」
「……」
「物盗りか、それとも物の怪か」
「……」
「ここを白沢の庵と知っての事か」
「……」
「……私の声が聞こえるか、私の言葉が理解できるか」
「……」
「……むぅ」
糠に釘――そんな言葉が慧音の脳裏をよぎる。
あるいは本当に幻覚の類なのかも知れない…何を言っても何の返事も来ないものだからそんな憶測さえ浮かんでくるが、だからといって我が家にいながら妹紅を残して退くわけにもいかない。仕方なく、本当に仕方なく、相手の沈黙の意図さえ分からぬまま慧音は自らの想いの断片を分かりやすい形で具現する。
「荒事はあまり好きではないんだが、もはや是非もない」
「……」
「痛い目を見たくなければ今すぐ消えろ、見逃してやる」
「……」
「これでも退かないのなら……!」
闇の中で慧音の右手が淡く輝き始めた。
勿論ただの威嚇である。この状況で無闇に暴れ回るわけにはいかないのだが、もし逆に相手の方から手を出してきたらその時はその時だ。妹紅を護りつつ巧く立ち回り追い払う他ない。我が身と我が家の事を案じている余裕などはないだろう。
一方、そこにいるはずの影は未だ布団の傍らで佇んでいる。気配の変化は感じられず、目に見えて分かる程度の身じろぎもしない。その静けさが慧音にとってはかえって不気味だったが、何にせよそこにいる妹紅を護るのが第一である事に変わりはなく、このまま互いに部屋の双極を陣取り姿の見えない睨めっこを続けるつもりも余裕も慧音にはない。
息苦しささえ感じるその均衡を破るべく、警戒を維持しつつ慧音は物音を立てず少しずつにじり寄って行った。
「何を……」
「――ッ!?」
「何を……言ってんのさ……」
足半分ほど擦り寄ったかどうかという所である。まるで慧音の接近に合わせたかのように、闇の向こうから呟きが聞こえてきた。消え入りそうなほどか細い声での短い短い一言は紛れもなく少女のもの、そして幻覚という仮説が一蹴された事を知り慧音は安堵と驚きを同時に覚え(奇妙な話ではあるが)、張りつめていた緊張の糸と敵愾心が若干ほぐれる。
「わ、私の言葉が理解できるんだな? ……ならば今すぐ……」
「ここは私に許された大切な場所……私なんかがいてもいい場所……私の人生の一部と言ってもいい……あんたがそれを認めてくれた。でも、ついに私を追い出す時が来たって事?」
「……え?」
「ここを追い出されたら……ははっ、その時は里にでも降りたらいいのかな」
「…………」
「どうせ里の人たちと同じ時を歩む事はできないけどさ……でも、慧音が決めた事なら、ね」
そんな筈はない。
何者だ。
やはり夢なのか。
本当に現実なのか。
分からない。
慧音の中に疑念が渦巻く。
声の主は自分の事を知っているような口ぶりで、しかもその声はどうにも聞き覚えがあって仕方がなかったのだ。かといって『精妙な声真似すら出来る物の怪の類』などという陳腐な考えは最早浮かばず、しかし疑念を解消してくれる妥当な仮説も見つからず、助け舟を出してくれるような誰かも現れず。
考えのまとまらない頭で慧音はただただ呆然と立ち尽くしていた。
「……あんたは私の返事次第じゃ実力行使も考えてるみたいだけど」
「え……あっ」
慌てて手を引っ込める。
「無理だよ。あんたじゃ私を殺せない……あ、いや、実力的には殺せるとは思うけどさ」
「……!」
「優しいあんたの事だ、逆立ちしてもそんな事しようとは絶対思わないだろうね」
風通しの為に開けておいた窓から風が入り、闇の中で髪が靡く。
その髪の靡き方、靡いた髪の向こう側に微かに見える顔の輪郭、そして聞き覚えのある声、どこか斜に構えた喋り方。それらを見て全てが慧音の中で結実し、疑念はその渦の中から楽観的予測にも似た極々わずかな希望を生むが、しかしそれを素直に認める事ができずにいた。目の前の人物は、最早現世に存在し得ない筈なのだ。少なくとも慧音はそう考えているし、そうでなければならないとまで強く思っている……心のどこかでは否定したいのだが。
(まさか、そんな筈……『彼女』は……!)
「……それに、私を本当に殺そうと思ったとしても」
慧音の掌に載る弾は、いつの間にか玉となり灯りとなっていた。
それは声の主の正体を確める為、自らの迷いに決着をつける為。青白い光は月明かりの代わりとなって寝室を眩しくない程度にくまなく照らし、やがて慧音の掌を離れゆっくりと天井に向けて上昇していく。
「今まで数え切れないほど死んできた私だよ? 今更そう簡単には……ねぇ」
「まさか……まさか……」
「でも今度こそ『完全に』死ねると思ってたのに……結局駄目だった」
「あり得ない……そんな事、絶対に、絶対に!」
「なんでかな……ふふっ、もしかしたら彼岸が満員で入れてくれないのかもね」
噛み合わない会話。
あり得ない筈の現実と、それを甘受したい本心。
相反する二つの想いは膨れ上がり、相手の姿が徐々に明らかになるにつれて尚現実が信じられなくなり、慧音の顔は引きつり呼吸も速く浅くなっていく。その感情は、もはや驚きというよりある種の恐怖に近い。放心状態のケすらあり、悪霊でも見ているような感じであろう。
「まあいいや……ただいま、慧音」
だが、目の前の影の一言で慧音の揺らぐ心は急激に現実に引き戻された。
* * * * *
脚を越えて足まで届きそうなほど長い白髪。
髪に何本も結えられた紅白のリボン。
慧音が着換えさせた真っ白な寝間着。
灯りのある今なら全てはっきり見える。
そして慧音に嫌でも知覚させてくれる。
目の前にいるのは慧音もよく知る相手、藤原妹紅の姿をしているのだと。
「…………」
「? ……どうしたの慧音?」
「……そんな筈が」
「あー……大丈夫よ。ちゃんと脚は生えてるし、それに」
落ち着いた調子で話しながら髪の一房を慧音に見せる。そこには紅白のリボンが一本二本……三本目がない。
これは長年妹紅と共に過ごしてきた慧音でなくても一目で違和感を覚えるだろう。房の先を纏めるはずのリボンが一本欠けており、毛先が乱暴に乱れているばかりかリボンが一本ないというだけで妹紅の姿は左右非対称に見えて不自然さを感じさせるのだ。彼女の姿を見慣れている慧音にとっては居心地の悪さにさえ置き換えられてしまう。
「ほら、ここのリボンをあんたに預けたじゃない……憶えてるでしょ?」
「あ、ああ、あぁ……」
「もしかして慧音、寝ぼけてたりする? ……まあこんな時間だから仕方ないけど」
「い、いや……そうじゃなくて」
お前は本当に妹紅殿なのか。
狐か狸が化けているという事はないのか。
妹紅が目の前に佇んでいる事が慧音には信じられないのに、動転して簡単な質問がなかなか切り出せない。やっている事と言えば、ただ立ち尽くして妹紅の様子を怪しまれない程度に注意深く観察したり、彼女の声を耳に留め自らの記憶と照らし合わせる程度。目の前の『妹紅』の正体を探るには程遠い。
そして戸惑っている間に妹紅の顔には慧音への疑問の色が浮かび、逆に妹紅の方から心配そうに慧音の顔を覗きこんでくる始末。一抹の気まずさを覚えて俯き視線を逸らすと、妹紅の顔にはますます疑問の色が濃くなってくる。疑問は不安に変わりつつあり、こうなってしまうとお互いさらに気まずくなってしまう。
「さっきからどうしたの、慧音……歯切れが悪いよ?」
「そ、それは――」
「……幽霊なんかじゃないよ、私。あんたが知ってる妹紅だよ」
「……それをどう説明できる」
「分からない……うまい事言えないけど……でも信じて」
「そうは言っても、だ……!」
知らぬ間に握りしめていた拳が痛い。
虫の鳴き声、己の呼吸、妹紅の息遣いさえ感じ取れてしまう。
一分経ったのか、それとも一刻なのか、時間の流れが掴めない。
夢か、現か、幻か。
もう何が何だか分からない。
自分一人、妹紅と二人ではもうどうにもならない。
何も成す術はなく、慧音の中で交錯する想いは混ざって弾け――
「来てくれ」
「え? どこへ?」
「いいから。今すぐ」
「わ……ちょ、ちょっと!?」
気がつけば慧音は白魚のような手を引っ張って寝室を飛び出していた。そして靴もそこそこに突っかけ、庵から夜空へ駆け上がる。妹紅の体は空中で抱き寄せ、両の腕で受け止めてほんの少し欠け落ちた満月の下へ躍り出る……今まで何度も抱き上げてきた妹紅の体の軽さが腕から感じられて心地よい。
先ほどから妹紅が文句だか質問だかを矢継ぎ早に浴びせているようだが、その殆どは慧音の耳には届いていなかった。
「け、慧音ってば! 一体どうしたってのよ!」
「決着をつける」
「……え?」
「決着を――つけに」
助け舟を出してくれそうな心当たりが慧音には一つだけあった。そこで満足な回答が得られなければもうどうにも……否、慧音はそんな事は微塵も考えていない。今や彼女の中には己が抱く謎に対する答えを得る事しか存在せず、その為に我武者羅に夜を駆けているのだ。ネガティブな事などは何一つ考えてはいけない。
だから、今自分が抱いている妹紅の姿の真偽も、今や瑣末な事に思えていた。
全ての答えは目指す先で見つければいい、それだけだ。
「……見えてきた」
「え、ここ……!?」
「そう。ここで――全ての決着をつけてやる」
輝夜と妹紅の死闘が繰り広げられたにもかかわらず『いつものように』ほぼ完全な姿で修復されており、海原のように広がり凪立つ竹林。その先に、突如巨大な黒い塊――夜の闇に慣れつつあった妹紅の目に映る姿としては大きな屋敷が姿を見せた。人里から逃れるようにひっそりと佇むこの屋敷だが、まるで月だけは独り占めしたいと言わんばかりに竹林の中で自らの存在を主張しているかのように竹林の中で異様な存在感を放っている。
永遠亭――
慧音が求める答えは、まさにここにある筈であった。
* * * * *
永遠亭の庭に、まるで矢のように飛んできた慧音をまず出迎えたのは永遠亭の兎たちであった……とはいってもどの顔を見ても敵意や警戒、驚きすらなく、柔和な笑みを浮かべて自分たちの仕事をこなしている。慧音は事前に連絡も入れず、しかも妹紅を抱えて一発の巨大な弾丸となって飛んで来たのに、だ。
案内されるがままに客間に通されると既に二人前の座布団とお茶の用意がなされており、慧音たちと相対する位置に永琳が佇んでいた。相変わらず底の知れない笑顔を浮かべており、二人が客間に入るのを見計らってアイコンタクトで案内の兎を下げる。
「いらっしゃい。まずはあなたの悩みを言い当ててみせましょうか?」
そして開口一番にこれだ。用件も聞かずに本題を答えようとする。
天才とナントカは紙一重とは言うが、相容れぬ陣営に分かれながらも永琳と千年来の付き合いのある慧音でさえ未だに永琳の腹の底を見抜いた事は一度もなかった。
「そちらの様子だとお待ちかね……だったようだな」
「ええ。予想よりだいぶ早かったですけど」
「私たちが来る時刻まで予測しようとしていたのか……」
「いえいえ、私が予測していたのはそちらの……」
目を細めて妹紅を見やる。
いきなり話を振られた妹紅は永琳と目を鉢合せ、しかし心当たりなさげに視線を泳がせる。
「あなたが目覚める刻よ。あと数日は目覚めないかと……いやまあその方が色々楽しかった筈なんだけど」
「な……妹紅殿の目覚めも予測していたというのか」
「ああ、そういえばあなたとの話が先だったわねえ」
引き絞った視線と得体の知れない微笑みを今度は慧音に向け、思わず慧音の顔が強張る。
慧音にとっては、否、永琳と対峙した誰もが同じ事を思うだろうが、彼女のこの微笑みが恐ろしくて恐ろしくて仕方ないのだ。ともすれば真実を全て隠したまま話を進めてくるかも知れないし、微笑みのまま全力で殺しに来るかも知れない。とにかく永琳がこの微笑みを浮かべた時は、慧音はこれから起こりうる悪い事のみを想定し心の中で身構えるようにしていた。
「先日の風邪が契機となって、あなたはその子の不死が失われたのではないかと感じた。そんな折、ウチの姫と殺し合い、その果てに『本当に死んでしまった』ように見えた。だのにその子は目覚め、死ねなかっただとか自分は生きているだとか言っている……こんな所かしら」
恐ろしく正確な予想であった。予想と言うよりは何らかの未来視をした上での断言に近く、その発言のあまりの隙のなさに慧音はぐうの音も出ない。
その沈黙を全面的な肯定と捉え、永琳はさらに言葉を続ける。
「あなたなら風邪を引いた事くらい何度もあるでしょう? 人間が病に臥せているのを見た事があるでしょう?そしてその時にはたいてい薬を飲んで治そうとするでしょう? ……今回のもそれと同じ」
「?」
「例えば同じ症状の時、同じ薬を同じように飲んだとしても効き目にムラがあった事はない? それはその時々による体調に微妙なバラつきによって薬の効能にさえ微妙な差異が生じるから。そして蓬莱の薬……これによって老いも死も捨て去る事が出来るけど、常に絶好調でいられるわけではない……お分かり?」
「…………」
言われてしばし、考える。
永琳の言葉から単語の一つ一つを抽出し、これまで見知った物を踏まえ、点と点を線で結ぶ。
「……あっ」
そして思わず感嘆の声が漏れた……
が、それだけではない。顔はみるみるうちに赤く染まり、目は皿のように丸く見開かれる。
なぜそんな簡単な事に気付かなかったのか、そもそもそんな簡単な事でよかったのか、と。
そんな慧音の姿を待っていたかのように永琳の目はさらに細く絞られ、こらえきれない思いは言葉となって口をつく。
「簡単な事だったでしょう? ……とはいっても、蓬莱の薬の効果が完全に失われたと思わせるほどの変調は私も初めてお目にかかるわ」
「くッ……だ、騙していたのか……!?」
「騙してなんかいないわ。あなたが勝手に踊り回り、勝手に振り回されていただけ……ともあれ、その子は正真正銘の藤原妹紅。ちゃんと脚は生えてるし変な耳や尻尾はないでしょう?」
「ッ……た、確かに」
恥ずかしさと永琳への呆れに似た感情と芽生えつつあった確かな喜びを押し留め、改めて妹紅の顔をまじまじと見つめる。ここまでずっと無言を貫いてきた妹紅は慧音と目が合うや『だから言ったのに』とでも言わんばかりに頬を膨らませてささやかな反抗を試みるが、それも数瞬と続かずすぐに微笑みを返してやった。つられて慧音の強張った顔もいくらか和らぎ、ふぅと胸を撫で下ろす。
「まあ、蓬莱の薬の効果が本当に失われるなんて事はないでしょうから安心なさいな」
「安心していいものなのかな、それは」
「無理にでも安心してもらわないと。そうでないと困る方がいるのよ、ほら」
永琳が横に視線を促すと横の襖が開き、しずしずと輝夜が入って来た。彼女もまた妹紅と同じように、殺し合いをしていた筈なのにその身には傷一つ見えず、きっと秘かな誇りにしているのであろう黒髪も艶やかなものである。だが慧音にも妹紅にも驚きはない。輝夜はこの手の話をしている時ならば現れて当然、むしろ最初からこの場にいて然るべき人物なのだ。
「お久しぶりね妹紅。ふふっ、ちゃんと生きてるじゃない」
そして畏まって座しもせず、傲慢に妹紅に歩み寄りその顎をしゃくり上げる。妹紅はその手を咄嗟に弾き視線を逸らす。輝夜の行動に慧音が驚く間もなく、妹紅の行動を永琳は止めるまでもなく。主賓に対してさえこんな態度を取るあたり、この輝夜もまた正真正銘なのである。
「別に。生きたくてこんな長生きしてるわけじゃない」
「つれないわねえ。あんなに楽しい夜を分かち合った仲だというのに」
「楽しい? ……何考えてたんだか知らないけど、振り回されてた方の身にもなってみろって話よ」
「でも楽しかったんでしょう? あの時のあなたの顔……自分じゃ分からないでしょうけどとても生き生きとしていたわ」
「……アンタを完全に殺せるってほんのちょっぴりでも信じていられれば……それで嬉しくない筈がないのよ」
射るような鋭い視線が輝夜に刺さり、次いで一瞬の間も置かず小さな手が輝夜の胸倉を掴む。
またしても慧音が驚く間もなく、永琳は止めるまでもなく。しかし輝夜は妹紅の暴挙を甘んじて受け、永琳と同じ底の知れない微笑みで切り返す。
「あら、昨晩の続きでも?」
「こんな所じゃやらないわよ、慧音がいる……けど!」
掴んだ胸倉を一気に引き寄せ、勢い余り鼻の頭で軽いキス。
それでもお互い一歩も退かず、鋭い殺意と柔和な狂気が絡み合う。
もはや慧音にどうにかできる空気ではなく、せめて最悪の事態に至らぬよう内心祈りながら慌て竦み、逆に永琳は呑気にお茶を啜っていたりする。輝夜が現れてからこの状況に至るまでに慧音から永琳へのアイコンタクトが数度あったのだが、永琳はその尽くを無視。今この時も困り果てた視線を永琳に向けてはみたのだが、『やはり』というか『予想通り』というか永琳は完全無視。子供の喧嘩は放っておきなさいとでも言いたげで、永琳の助力が得られないのならと慧音もそれ以上は諦めてしまう。
「アンタは殺す。いつかきっと殺す。例えその日が不可説の彼方にあったとしても、その望みが涅槃寂静の深みにあるとしても……きっと……!」
「じゃあ手っ取り早く、今この場でやってみる?」
「ッ……今はやらないって言ってるでしょ! 帰る!」
輝夜を突き放してさっさと背を向ける。二、三歩たたらを踏んだ輝夜だったがそれ以上体勢を崩す事はなく、襟元を正し妹紅の背中に尚も微笑みを浴びせ続ける。その、ある意味気味の悪い視線を背中で感じたのか、客間の敷居を跨いだ所で立ち止まった。
「輝夜」
「なぁに?」
「……いずれ、また」
「ええ、また満月の夜にでも」
背中越しに掛け合う短い言葉。最早これだけで十分だった。
逢引の合図にしか聞こえない短い会話が彼女たちにとっては千年繰り返されてきた宣戦布告となり、実際彼女たちは時が来れば導かれたように広大な竹林のいずこかで出逢い、殺し合い、仮初の死を与え合うのである。もはや竹林の名物と言ってもいい。互いに憎み合っている割には何故か二人とも日時を律儀に守るものなのだが、ともあれ再会の約束は交わされた。それ以上は何も言わず、妹紅は静かに部屋を後にした。
「あ、ちょ、妹紅殿……!」
妹紅より数歩遅れて慧音も動く。
長い事正座を続けて痺れる脚に喝を入れ、妹と同じく敷居を跨いだ所で立ち止まり、永遠亭の主従に向き直る。
「その……せ、世話になった」
「こちらこそ。それより早く追いかけてあげなさい、女の子一人で夜道を歩かせるのは危ないわ」
「ん」
軽い会釈を返し、急ぎ妹紅を追う。珍しく永遠亭の主従に謝意を表したい気持ちに駆られたが、永琳が言うように今は妹紅を追う事の方が重要だし慧音自身もそうするべきだと十分に自覚している。ましてや今の妹紅は慧音に無理矢理永遠亭に連れて来られたので当然今は何も履いていない。今の慧音に求められるのは一秒でも早く妹紅に追い付き彼女の体を抱き上げる事に他ならない。
終始心配そうな顔をしていて、帰る間際まで妹紅を気遣う顔を見せていた慧音を永琳は今までとは微妙に違う優しげな笑みを浮かべて見送っていた。
* * * * *
「だーかーらー言ったでしょ? 私を信じて、って」
「いやもう本当にごめん私が悪かった」
「ま、誤解は解けたみたいだしもういいけど」
「しかし、無事……でもなかったけど還ってきてくれて本当に良かった」
「本当、良かったよ……これでまた輝夜を殺しに行ける」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないんだけどな?」
「いやまあ」
永遠亭を飛び出して間もない所、竹林を切り拓いた道中に妹紅は佇んでいた。
裸足を汚さないようにほんの少しだけ宙に浮き、それで慧音と肩を並べる程度になっている。息つきながら頭を下げっぱなしの慧音を一瞬ジト目で睨みはしたが、すぐに穏やかな顔に戻る。
「……とはいえ私の方こそごめんね慧音、心配かけちゃって」
「ああもう心配したさ、気が気じゃあなかったよ」
「本当にごめん……これからは今回みたいな無茶はしない。ほどほどにアイツと殺し合って、ほどほどに死んで、それでいつか突破口が見えればいいかな……あ、私がどこかで死んでたらその時はよろしくね慧音」
「はいはい。だけどその時はこの竹林の中で頼むよ」
「うん、任せといて」
「そうやって自信を持って言われてもなんだかなあ」
言葉を交わしながら二人は永遠亭から背を向け、ゆっくりと帰路を辿り始めた。
妹紅にとっては輝夜との殺し合いが何にも増して優先される。それを誰よりもよく知っている慧音だから、普通の者なら絶句してしまいそうな妹紅の言葉も落ち着いて受け止められる。どこまで反省をしているのかよく分からない妹紅ではあるが、真摯な謝罪の言葉を聞けただけでも慧音にとっては十分だった。ならば、最早この件をこれ以上追及する手はない。
「あ、そういえば一つ忘れていた……妹紅殿、目を瞑って」
「んー?」
「痛い事はしないよ、すぐ終わる」
言われるがままに目を瞑る。
髪が妙にくすぐったい。慧音の手が触れている?
慧音の優しくて温かい匂いが風に乗って来る。ああ、ずっとこの匂いを嗅いでいたい。
でも、鼻を鳴らしている私の事を変だと思っていたりするのかな?きっとそうかも。
何をしているのかも気になるけど、今目を開けたら慧音怒るんだろうなあ……
「よし。もう目を開けてもいいよ」
「すん、すん、すん」
「……何やってるんだ妹紅殿?」
「うぇ!? あ、い、いやぁ、ちょ~っと鼻がむずむずしてたから……ん、あれ?」
自分の世界から呼び戻され、慌てて目を開ける妹紅にささやかな違和感が訪れた。
それは髪を通じて感じるとてもとても小さな重量感。普段はまず気付く事のないであろう変化だが、今の彼女にはそれがよく分かる。そしてその違和感の正体が何であるか、慧音が何をしていたのかもすぐに気づいた。
妹紅の髪の一房に、紅白のリボンが結ばれていたのである。
「妹紅殿、殺し合いに出向く前に言っていただろう? 帰ってきたらリボンを返してもらうと」
「あー、そういえばそんな事言ってたっけ……ていうかあの時聞こえてたんだね」
「形見としていつまでも大事に持っておくつもりなど私にはなかったんだ……確かに返したぞ」
「……うん、確かに私のだ」
装飾品として使うにはいささか癖のある紋様つきのデザイン、そして使用済みである事を端的に物語っている皺の入った布地。
結びつけられたリボンを目にした瞬間、妹紅はそれが自分の物である事を確信した。己の役目を再び果たし始めたリボンに柔らかな視線を落とし、忘れられない一夜に想いを馳せる。
「妹紅殿」
「ん?」
「……お帰り」
「ぁ……うん、ただいま」
「……!」
「……け、慧音?」
唐突に、本当に唐突に。慧音の両腕が妹紅の体を抱き包んだ。
二人はまだ永遠亭からそれほど遠くない所にいる。夜中とはいえそこの住人か兎に見つかってもおかしくはないし、天狗にでも見つかれば面白おかしく書き立てられてしまうかも知れないのだが、だからといって慧音を無情に突き放すような事は妹紅にはできなかった。戸惑う妹紅を抱き寄せ、また自分から体を押し付けるように慧音は強く抱きしめる。しかし妹紅が痛みや苦しさを覚えるほどではなく、むしろ妹紅には慧音の気持ちが、強く抱きしめる意味がよく分かる。自分が蒔いた種なのだから当然の事だ。
肩越しに慧音の顔を窺い知る事はできないが、竹の葉擦れの中に微かに交じる細かな吐息が彼女の心情を代弁しているようにさえ感じられた。
「しばらく……このままでいさせて」
「……うん」
彼女たちの間にも必要以上の言葉は要らない。
お返しとばかりに妹紅も慧音の背に腕を回す。
肩と肩の向こう側で、慧音は泣いているようだった―――
* * * * *
「初めてあの子と出会ってから千年余、殺し合いの数は星の数、か……久しぶりにムキになっちゃったかもだけど、たまにはああいう楽しい事もあっていいでしょう」
「しかし竹林の復元が大変でしたよ。ハクタクに夜を食べてもらった方が楽だったかも」
「まあまあ。でもこれで妹紅は当分無茶してこないでしょうし」
「すると思いますけど……あの鉄砲玉の事だし」
「ま、その時はまたよろしく」
「焼き払うのは竹だけにして下さいね」
「運と風の向きに祈って頂戴」
縁側で涼風に当たりながら、輝夜と永琳が酒を酌み交わしている。永琳は酌に徹するつもりでいたのだが、記念すべき夜だからと輝夜が永琳にも杯を持たせたのだ。誰にとっての何の記念なのかは永琳の頭脳をもってしてもついに分からなかったが、少なくとも輝夜の機嫌は頗るいい。ならば誘いに素直に乗っておくのが正道というものだ。
輝夜と並んで腰を下ろし、なんと輝夜が酒を注いでくれた。永く輝夜に仕えてきた永琳にとっても初めての事であり、勿体なさげにちびちび酒を啜る。
「ところで、二人はまだその辺に?」
「みたいですよ。何か語らっているんでしょう」
「今邪魔に入ったらさぞかし驚くでしょうね」
「きっとハクタクが黙っていませんよ。アレもアレで結構な鉄砲玉ですから」
「ふふっ、打てば堕ちる鉄砲玉など……ッ」
ざわり。
昏い昏い狂いの紅。輝夜の瞳に狂気が宿り、まるであの夜の再現だ。
杯を持つ手には筋が走り、酒を一気に飲み干した口は三日月に引き絞られ、真っ赤な視線が虚空を彷徨う。
「……なーんてね」
しかし狂気の笑みが一転、一瞬にして力の抜けた微笑に戻った。
紅い瞳も物の怪のような口もすっかりどこかへ行ってしまい、普段の美しい少女の姿となる。
「次に妹紅と逢うのは満月の夜と決めているわ。約束は守らないとね」
「アポ無しだとあの子も戸惑いますしね」
「……あ、あれ? 永琳驚いてない? 驚かすつもりだった……んだけど」
「いやまあ、あの程度では流石に」
輝夜が狂気を演じている間中、永琳はまるで動じる事無く酒を啜っていた。
涼やかな視線すら向け、まるで何かの芝居でも見ているかのように、だ。
そんな彼女を見て、逆に輝夜の方が顔を赤らめ慌てて畏まる。輝夜らしからぬ滑稽な姿だ。
「それに、姫はあの子との約束を違えた事は一度もありませんよ。少なくとも私の知る限りでは」
「ま、まあねえ」
「次の満月までの間、お楽しみは寝かせて待つのがよろしいかと」
「そうね……ふぅ、そろそろ寝るわ」
酒が入っている割にはしっかりした足取りでゆっくり歩を進める輝夜。
月はすっかり竹藪の中に潜ってしまい、一瞬息を止めて周囲を窺っても話し声の一つも聞こえてこない。夜にこそ華咲くイナバたちも流石に睡魔には勝てなかったのであろう。かくいう輝夜自身も睡魔と闘っている真っ最中なのだが、意識のあるうちに寝室を目指す。
「……永琳」
数歩も歩かぬうち、思い出したように輝夜が立ち止まった。
お誂え向きに竹林を抜ける涼風は止み、呟き程度の声でもよく聞こえる。
「蓬莱の薬の効用は……永遠に続くのよね」
「恐らく」
「それは私にも、妹紅にも、平等に」
「はい」
「それは不可説不可説転の彼方までも」
「……はい」
「そう……ならばこそ」
再び、輝夜の口が歪につり上がる。演技などではない、心の底から湧き上がる狂気と凶喜。
永琳がどのような顔で自分を見つめていようが全く気にはならず、凶喜は歪んだ衝動と期待に置き換わり輝夜の華奢な肩を揺らす。さぞかし美しくも恐ろしい顔で笑っているのだろうと永琳は想像しかけたが、その貌があまりにも容易く想像できてしまうので彼女は呆気なく考えるのをやめた。
「輪廻の輪から外れた者同士、どれほど離れていようとも必ず惹かれ合うという事、私とあの子の間には驚くほど生と死が満ち充ち溢れているという事、そしていつかこの世の一切合切が真っ平らになっても私たちはいつまでもどこまでも歩き続けられるという事……うふふふふ、何もかもが素敵じゃない。ああもう一分一秒さえも待ち遠しいわ」
永遠とは百年だとか千年だとか、自分が死ぬまでの年月ではない。文字どおり永く遠くまで続く年月の事を指す。
そして輝夜と妹紅は永遠永劫生きる力を授かった、授かってしまった。彼女たちはきっと、独りでは生きていけなかったであろう。それぞれに伴侶が付いていても、互いが顔を合わせ殺し合わない事には肉体が滅ばずとも精神が朽ち果ててしまうのであろう。
彼女たちは、生きながら死ぬ道よりも死にながら生きる道を選んだ。そしてそれが半永久的に続くというお墨付きを月の天才から頂いた。これで輝夜が喜ばずにいられようか。同じ話をすれば、きっと妹紅も輝夜と同じく目を爛々と輝かせて喜ぶであろう。月に一度の逢瀬の度に、二人は身も心も焦がし尽くすのであろう。想像するだけで身体の震えが止まらない。愛憎とはよく言ったものである。全く相反する二つの感情は今や溶け合い、生きる力となって背中を力強く押してくれているのだ。
次の満月の夜に出逢う約束を心の糧とし、輝夜は今一歩を踏み出し――
「っくちゅん!」
「あら」
(還)
考えただけでイヤになりますね。
そうして妹紅は考えるのをやめた・・・